千鳥の話は馬喰の娘のお長で始まる。小春の日の夕方、蒼ざめたお長は軒下へ蓆を敷いてしよんぼりと坐つてゐる。干し列べた平茎には、最早絲筋ほどの日影もさゝぬ。洋服で丘を上つて来たのは自分である。お長は例の泣き出しさうな目もとで自分を仰ぐ。親指と小指と、そして襷がけの真似は初やがこと。その三人ともみんな留守だと手を振る。頤で奥を指して手枕をするのは何のことか解らない。藁でたばねた髪の解れは、掻き上げても直ぐまた顔に垂れ下る。
座敷へ上つても、誰も出て来るものがないから勢がない。廊下へ出て、のこのこ離れの方へ行つて見る。麓の家で方々に白木綿を織るのが轡虫が鳴くやうに聞える。廊下には草花の床が女帯ほどの幅で長く続いてゐる。二三種の花が咲いてゐる。水仙の一と株に花床が尽きて、低い階段を拾ふと、そこが六畳の中二階である。自分が紀念に置いて往つた摺絵が、その儘に仄暗く壁に懸つてゐる。これが目につくと、久し振りで自分の家に帰つて来でもしたやうに懐しくなる。床の上に、小さな花瓶に竜胆の花が四五本挿してある。夏二た月の逗留の間、自分はこの花瓶に入り替りしをらしい花を絶やした事がなかつた。床の横の押入から、赤い縮緬の帯上げのやうなものが少しばかり食み出してゐる。一寸引つ張つて見るとすうと出る。どこまで出るかと続けて引つ張るとすらすらとすつかり出る。
自分はそれを幾つにも畳んで見たり、手の甲へ巻き附けたりしていぢくる。後には頭から頤へ掛けて、冠の紐のやうに結んで、垂れ下つたところを握つたまゝ、立膝になつて、壁の摺絵を見つめる。「ネイションス・ピクチュア」から抜いた絵である。女が白衣の胸にはさんだ一輪の花が、血のやうに滲んでゐる。目を細くして見てゐると、女はだんだん絵から抜け出て、自分の方へ近寄つて来るやうに思はれる。
すると、いつの間にか、年若い一人の婦人が自分の後に坐つてゐる。きちんとした嬢さんである。しとやかに挨拶をする。自分はまごついて冠を解き捨てる。
婦人は微笑みながら、
「まあ、この間から毎日毎日お待ち申してゐたんですよ。」といふ。
「こんな不自由な島ですから、あゝは仰つてもたうとお出で下さらないのかも知れないと申しまして、しまひにはみんなで気を落してゐましたのでございますよ。」と、懐かしさうに言ふのである。自分は狐にでもつまゝれたやうであつた。丘の上の一つ家の黄昏に、こんな思ひも設けぬ女の人がのこりと現れて、さも親しい仲のやうに対して来る。かつて見も知らねば、どこの誰といふ見当も附かぬ。自分は只もじもじと帯上を畳んでゐたが、やつと、
「をばさんもみんな留守なんださうですね。」とはじめて口を聞く。
「あの、今日は午過ぎから、みんなで大根を引きに行つたんですの。」
「どの畠へ出てるんですか。――私一寸行つて見ませう。」
「いゝえ、もう只今お長をやりましたから大騒ぎをして帰つて入らつしやいますわ。」
「先刻私は誰もゐないのだと思つて、一人でずんずんこゝへ上つて来たんでした。」と言つて、お長が手枕の真似をしたことを胸に浮べる。女の人は少し頭痛がしたので奥で寝んでゐたところ、お長が裏口へ廻つて、障子を叩いて起してくれたのだと言ふ。
「もう何ともございません。」と伏し目になる。起きて着物をちやんとして出て来たものらしい。稍あつて、
「あなたはこの節は少しはおよろしい方でございますか。」と聞く。自分の事は何でもすつかり知つてゐるやうな口振りである。
「どうも矢つ張り頭がはきはきしません。実は一年休学する事にしたんです。」
「さうでございますつてね。小母さんは毎日あなたの事ばかり案じて入らつしやるんですよ。今度またこちらへお出でになる事になりましてから、どんなにお喜びでしたか知れません。……考へると不思議な御縁ですわね。」
「妙なものですね。この夏はどうした事からでしたか、ふとこちらへ避暑に来る気になつたんですが、――私は余り人のざわつくところは厭だもんですから。――その代り宿屋なんぞの無いといふ事ははじめから承知の上なんでしたけれど、さあ、船から上つてそこらの家へ頼んで見ると、果してみんな断つてしまふでせう。困つたんですよ。」
婦人は微笑む。
「それで仕方がないもんだから、たうとのこのこ役場へやつて行つたんでした。くるくる坊主ですねこゝの村長は。」
「えゝ、ほゝゝ。」
「そしたらあの人が親切に心配してくれたんです。」
「そしてこゝの小母さんに、私は母といふものがないんだから、こんな家へ置いてもらつたらいゝのですがつて、さう仰つたのですつてね。」
「さうでしたかなあ。とにかく小母さんを一と目見るとから、何かしら懐しくなつたんです。」
「そんなに仰つたものですから、小母さんもしをらしい方だと思つて、お世話をする気になつたんですつて。」
「私は今では小母さんが生みの親のやうに思はれるんですよ。私の家にゐたつて何だか旅の下宿にでもゐるやうな気がするんですもの。」
「小母さんも青木さんはあたしの内證の子なんだかも知れないなんて冗談を仰るんですよ。」
「あ、いつか小母さんが指へ傷をしたと云ふのはもう直つたのですか。」
「えゝ只ナイフで一寸切つたばかりなんですから。」
二人はこのやうな話をしながら待つてゐる。築地の根を馬の鈴が下りてゆく。馬を引く女が唄を歌ふ。
障子を開けて見ると、麓の蜜柑畑が更紗の模様のやうである。白手拭いを被つた女たちがちらちらとその中を動く。蜜柑を積んだ馬が四五匹続いて出る。やはり女が引いてゐる。向ひの、縞のやうになつた山畠に烟が一筋揚つてゐる。焔がぽろぽろと光る。烟は斜に広がつて、末は夕方の色と溶けてゆく。
女の人も自分の側へ寄つて等しく外を見る。山畠のあちらこちらを馬が下りる。馬は犬よりも小さい。首を出して見ると、庭の松の木のはづれから、海が黒く湛へてゐる。影の如き漁船が後先になつて続々帰る。近い干潟の仄白い砂の上に、黒豆を零したやうなのは、烏の群が下りてゐるのであらうか。女の人の教へる方を見れば、青松葉をしたゝか背負つた頬冠りの男が、とことこと畦道を通る。間もなくこちらを背にして、道に附いて斜に折れると思ふと、その男は最早、只大きな松葉の塊へ股引の足が二本下つたばかりのものとなつて動いてゐる。松葉の色が見る見る黒くなる。それが蜜柑畑の向うへ這入つてしまふと、しばらく近くには行くものの影が絶える。谷間谷間の黒みから、だんだんとこちらへ迫つて来る黄昏の色を、急がしい機の音が招き寄せる。
「小母さんは何でこんなに遅いのでせうね。」と女の人は慰めるやうにいふ。あたりは見る内に薄暗くなる。女の人が一寸出て行つて、今度帰つて坐つた時には、向き合ひになつても最う面輪が定かに見えない。
女の人は、立つて押入から竹洋燈を取り出して、油を振つて見て、袂から紙を出して心を摘む。下へ置いた笠に何か書いた紙切れが喰つ附いてゐる。読んで見ると章坊の手らしい幼い片仮名で、フヂサンガマタナクと書いてある。
「あら。」と女の人は恥かしさうに笑つてその紙を剥がす。
「章ちやんがこんな悪戯をするんですわ。嘘ですのよ、みんな。」と打消すやうにいふ。
「何の事なんです、これは。」
「ほゝゝ。」
「フヂサンといふのは。」
「あたしでございます。」
「あゝ、お藤さんと仰るんですか。」
「はい。」と藤さんは微笑みながら、立つて押入れを探す。
藤さんといふ名はかうして知つたのである。
「そしてあなたが何でお泣きになつたんです?」
「いゝえ、嘘ですの、そんな事は。」
「燐寸を探して入らつしやるんですか。私が持つてゐます。」
「あら、冗談なのでございますわ。あれは章ちやんが……。」と勘違へをしてゐる。ポケットから燐寸を出して洋燈を点すと、
「まあ、恐れ入ります。」と藤さんは坐る。燈火に見れば、油絵のやうな艶かな人である。顔を少し赤らめてゐる。
「あしが一番あん。」と章坊が着物を引つ抱へて飛び出すと、入れ違ひに小母さんが這入つて来て、シャツの上から着物を着せかけてくれる。
「さ、これを上げませう。」と下締を解く。それを結んで小暗い風呂場から出て来ると、藤さんが赤い裏の羽織を披げて後へ廻る。
「そんなものを私に着せるのですか。」
「でも他にはないんですもの。」と肩へかける。
「それでも洋服とは楽でがんせうがの。」と、初やが焜爐を煽ぎながらいふ。羽織は黄八丈である。藤さんのだといふ事は問はずとも別つてゐる。
「着物が少し長いや。ほら、踵がすつかり隠れる。」と言ふと、
「母さんのだもの。」と炬燵から章坊が言ふ。
「小母さんはこんなに背が高いのかなあ。」
「なんの、あなたが少し低うなりなんしたのいの。病気をしなんすもんぢやけに。」と初やが冗談をいふ。
「女は腰のところを下帯で紮げて着るんですから。」と言つて、藤さんは側から羽織の襟を直してくれる。
「何故さうするんでせう。」
「みんなさうするんですわ。おや、羽織に紐がございませんわね。」
「いゝえ結構。」といふと、初やが、
「まあ、お二人で仲のいゝこと。」と言ひさま、急にばたばたとはげしく煽ぎ出す。
「まあ。」と藤さんは赤い顔をしてゐる。
蜜柑箱を墨で塗つて、底へ丸い穴を開けたのへ、筒抜けの缶詰の殻を嵌めて、それを踏台の上に乗せて、上から風呂敷をかけると、それが章坊の写真機である。
「またみんなを玩具にするのかい。」と小母さんが笑ふ。この細工は床屋の寅吉に泣き附いてさせたのだといふ。章坊は、
「兄さんを写して上げるんだから、よう、炬燵から出て下さいよ。」と甘えるやうに言ふかと思ふと、
「ぢきです。直き写ります。」と、真面目に写真やの積りでゐる。
「兄さんは炬燵へ当つてる方が甘く写るよ。」
「だつて姉さんが邪魔をしてるんだもの。」と風呂敷の中へ頭を入れる。
「姉さんぐづぐづしてると背中が写つて終ひますよ。」
「はいはい。」と、藤さんは笑ひながら自分の隣へ移る。
「兄さん、もつと真つ直ぐ。」
「私の顔が見えるの?」
「見えるとも、そら笑つてらあ。やあい。」
がたがたと箱を揺ぶる。やがて勿体らしく身構へをして、
「はい、写しますよ。」とこちらを見詰める。
「あら、目を閉つてるものがあるものか。……さ、写りますよ。……只今。はい有難う。」と手に持つた厚紙の蓋を缶詰へ被せると、箱の中から板切れを出して、それを提げて、得意になつて押入の前へ行く。
「章ちやん、もう夜はそんな押入なぞへ這入るもんぢやないよ。」と小母さんが止めると、
「だつてお母さん。写真を藥でよくするんぢやありませんか。」と泣きさうな顔をする。
「それよりか写真屋さん。一昨日かしら写したあたしの写真はいつ出来るんですか。」と藤さんが問ふ。小母さんも、「私ももう五六度写つた筈だがねえ。いつ出来るんだらう。まだ一枚もくれないのね。」と突つ込む。それから小母さんは、向ひの地方へ渡つて章坊と写真を撮つた話をする。章坊は、
「今度は電話だ。」と言つて、二つの板紙の筒を持つて出て来る。筒の底には紙が張つてあつて、長い青絲が真ん中を繋いでゐる。勧工場で買つたのださうである。章坊は片方の筒を自分に持たせて、しばらく何かしら言つて、
「ね、解つたでせう?」といふ。
「あゝ、解つたよ。」といゝ加減に間を合はして置くと、
「万歳。」と言つてにこにこして飛んで来て、藤さんを除けて自分の隣りへあたる。
「よ。姉さんもだよ。」といふ。
「よしよし。」
「何の事なんです。」と藤さんは微笑む。
「今電話がかゝりましてね、……」
「あゝ今言つちやいけないんだよ兄さん。あれは姉さんには言はれないんだから。」
「何でせう。人が悪いのね。」
このやうな事を言つてゐるところへ、初やが狐饅頭を買つて帰つて来る。小提灯を消すと、蝋燭から白い煙がふはふはと揚る。
「奥さま、今度の狐もやつぱり似とりますわいの。」と言つてげらげらと初やが笑ふ。
饅頭を食べながら話を聞くと、この饅頭屋の店先には、娘に化けて手拭を被つた張子の狐が立たせてあつた。その狐の顔がそこの家の若い女房に可笑しい程そつくりなので、この近在で評判になつた。女房の方では少しもそんな事は知らないでゐたが、先達ある馬方が、饅頭の借りを払つたとか払はないとかでその女房に口論を仕かけて、
「えゝ、この狐め。」
「何でわしが狐かい。」
「狐ぢやい。知らんのか。鏡を出してこの招牌と較べて見い。間抜けめ。」
かう言つたやうなことから、後で女房が亭主に話すと、亭主はこの辺では珍らしい捌けた男なんださうで、それは今頃始つた話ぢやないんだ。己の家の饅頭がなぜこんなに名高いのだと思ふ、などと茶らかすので、そんならお前さんはもう早くから人の悪口も聞いてゐたのかと問へば、うん、と言つて澄ましてゐる。女房はわつと泣き出して、それを今日まで平気でゐたお前が恨めしい。畢竟わしを馬鹿にしてゐるからだ。もうこれぎり実家へ帰つて死んでしまふと言つて、箪笥から着物などを引つ張り出す。やがて二人で大立廻りをやつて、女房は髪を乱して向ひの船頭の家へ逃げ込むやら、たうと面倒な事になつたが、とにかく船頭が仲裁して、お前たちも、元を尋ねると踊りの晩に袖を引き合ひからの夫妻ぢやないか。さあ、仲直りに二人で踊れよおい、と五合ばかり取つて来た。その時の女房との条約に基いて、店の狐は翌日から姿を隠して了つた。ほかの狐が箱に這入つて城下の人形屋から来て、再び店に立つたのはついこの間の事である。今度のは大きさも鼬位しかないし、顔も少し趣を変へるやうに注文したのであらうけれど、
「なんぼどのやうな狐を拵へて来たところで、お孝ちやんの顔が元のまゝぢやどうしても駄目でがんすわいの。ヘゝゝゝゝ。」と、初やは、やつと廻りくどい話を切つてあちらへ立つ。藤さんはもう先達も聞いたから、今夜はそんなに可笑しくはないと言つたけれど、それでも矢張りはじめてのやうに笑つてゐた。
話が途絶える。藤さんは章坊が蒲団へ落した餡を手の平へ拾ふ。影法師が壁に写つてゐる。頭が動く。やがてそれがきちんと横向きに落ち附くと、自分は目口眉毛を心で附ける。小母さんの臂がちよいちよい写る。簪で髪の中を掻いてゐるのである。
裏では初やが米を搗く。
自分は小母さんたちと床を列べて座敷へ寝る。
枕が大きくて柔かいから嬉しいと言ふと、この夏には浮つかりしてゐたが、あんな枕では頭に悪いからと小母さんがいふ。藤さんはこの枕を急いで拵へてから、仇に十日あまりを待ち暮したと話す。
藤さんは小母さんの蒲団の裾を叩いて、それから自分のを叩く。肩のところへ坐つて夜着の袖をも押へてくれる。自分は何だか胸苦しいやうな気がする。やがてあちらで藤さんが帯を解く気色がする。章坊は早く小さな鼾になる。自分は何とはなしに寝入つて了ふのが惜しい。
「ね、小母さん。」と再び話しかける。
「え?」と、小母さんは閉ぢてゐた目を開ける。
「あの、一たい藤さんはどうした人なんです?」と聞くと、
「なぜ?」と言ふ。
聞いて見ると、この家が江田島の官舎にゐた時に、藤さんの家と隣り合せだつたのださうである。まだ章坊も貰はない、ずつと先の事であつたし、小母さんは大変に藤さんを可愛がつて、後には夜も家へ帰すよりか自分の側へ泊らせる方が多いくらゐにしてゐた。はじめそこへ移つて来た翌る日であつたか、藤さんがふと境の扇骨木垣の上から顔を出して、
「小母さま。今日は。」と物を言ひかけたのが元であつた。藤さんが七つ八つに過ぎぬ頃であつたらう。それから四五年してこゝの主人が亡くなつて、小母さんはこちらへ住居をきめる事になつた。別れの時には藤さんも小母さんも泣いた。藤さんはその後いつまでも小母さん小母さんと恋しがつて、今日まで月に一二度、手紙を欠かした事はない。藤さんの家は今佐世保にあるのださうで、お父さんは大佐ださうである。
「それでは佐世保から遥々来たんですか。」
「いゝえ、あの娘だけは二た月ばかり前から、この対岸にゐるんです。あなたでも同じですけれど、こんなになると、情合は全く本当の親子と変りませんわ。」
「それだのにこの夏には、あの人の話は一寸も出ませんでしたね。」
「さうでしたかね。おや、さうだつたか知ら。」
「そして私の事はもうすつかりあの人に話してあるやうですね。」
「ふゝゝそれはあなた、家では何とかいふと直ぐあなたの話が出るんですから、あの人だつて、まだ見もしない内からもう青木さん青木さんと言つて、お出でになつてもまるで兄妹かなぞのやうに思つてゐるんですもの。」と章坊の枕を直してやる。
「さつきもね、初やから、お嬢さんは存外人に恥かしがらない方だとかなんとか言つてからかはれたんでせう。さうするとね、だつてあの方はもうよくお知り申してる方なんだものつてさう言ふんですよ。それでゐてまだずゐぶん子供のやうなところがあるんですからね。」
「私だつて何だか、はじめて会つた人のやうには思へませんよ。――まだ永く逗留するんですか。」
「あの娘ですか。さうですね……一体今度こちらへまゐつたといふのが……」
仕舞を欠と一緒に言つて、枕へ手を添へたと見ると、小母さんはその後を言はないで、それなりふいと眉毛のあたりまで埋まり込んでしまふ。しばらく待つて見ても容易に再び顔を出さない。蒲団の更紗へ有明行燈の灯が朧にさして赤い花の模様がどんよりとしてゐる。
何だか煮え切らない。藤さんが今度来たのはどうしたのだといふのか。何か面白くない事情があるのであらうか。小母さんは何とか言ひかけてひよつくり黙つてしまつた。藤さんはどうして九月から家を出てゐるのか。この対岸のどんな人のところにゐるのであらう。
池へ山水の落ちるのが幽かに聞える。小母さんはいつしか顔を出してすやすやと眠つてゐる。大根を引くので疲れたのかも知れない。小母さんの静かな寝顔をぢつと見てゐると、自分もだんだんに瞼が重くなる。
千鳥の話は一と夜明ける。
自分は中二階で長い手紙を書いてゐる。藤さんが、
「兄さん。」と言つて這入つて来る。
「あの只今船頭が行李を持つてまゐりましたよ。」といふ。
「あれは私のです。」と言つたまゝ、やつぱりずんずんと書いて行く。
「それはさうですけれど、どうせこちらへ運ばなければならないのでせう?」
「えゝ。」
「ではこの押入には、下の方はあたしのものが少しばかり這入つて居りますから、あなたは当分上の段だけで我慢して下さいましな。」
「……」
「ねえ。」
「えゝ。」
「まあ一心になつていらつしやるんだわ。」といふ。
丁度一と区切り附いたから向き直る。藤さんは少し離れて膝を突いてゐる。
「お召し物も来たんでせう? ――では早くお着換へなさいましな。女の着物なんか召して可笑しいわ。」と微笑む。自分は笑つて、袖を翳して見る。
「先刻ね。」と、藤さんは袂へ手を入れて火鉢の方へ来る。
「これ御覧なさい。」と、袂の紅絹裏の間から取り出したのは、茎の長い一輪の白い花である。
「この頃こんな花が。」
「蒲公英ですか。」と手に取る。
「どこで目つけたんです? たつた一本咲いてたんですか。」
「どうですか。さつき玉子を持つて来た女の子がくれてつたんですの。どこかの石垣に咲いてゐたんださうです。初やがね、これはこの頃あんまり暖かいものだから、つい欺されて出て来たんですつて。」
返した花を藤さんは指先でくるくる廻してゐる。
「本当にもう春のやうですね、こちらの気候は。」
「暖いところですのね。」
自分はもくもくと日のさした障子を見つめて、陽炎のやうな心持になる。
「私只今お邪魔ぢやございませんか。」
「何がです?」
「お手紙はお急ぎぢやないのですか」
「さうですね。――郵便の船は午に出るんでしたね。」
「えゝ。ではあとで直ぐ行李をこちらへ運ばせますから。」と、藤さんは張合が無ささうに立つて行く。
「あ、この花は?」
「え?」と出口で振り向いて、
「それはあなたにおあげ申したのですわ。」
藤さんが行つてしまつたあとは何やら物足りないやうである。たんぽゝを机の上に置く。手紙はもう書きたくない。藤さんがもう一度やつて来ないかと思ふ。ちぎつた書き崩しを拾つて、くちやくちやに揉んだのを披げて、皺を延ばして畳んで、また披げて、今度は片端から噛み切つては口の中で丸める。いつしか色々の夢を見はじめる。――自分は覚めてゐて夢を見る。夢と自分で名づけてゐる。
馬の鈴が聞えて来る。女が謡ふのが聞える。
不図立つて廊下へ出る。藤さんが池の側に踞んでゐて、
「もうおすみになつて?」と声をかける。自分は半煮えのやうな返事をする。母屋の縁先で何匹かのカナリヤが焦気に囀り合つてゐる。庭一杯の黄色い日向は彼等が吐き出してゐるのかと思はれる。
「一寸入らつして御覧なさいな。小さな鮒かしら沢山ゐますわ。」と、藤さんは眩しさうにこちらを見る。
「だつて下駄がないぢやありませんか。」
「あたしだつて足袋の儘ですわ。」
自分もそれなり降りて花床を跨ぐ。はかなげに咲き残つた、何とかいふ花に裾が触れて、花弁の白いのがはらはらと散る。庭は一面に裏枯れた芝生である。離れの中二階の横に松が一叢生えてゐる。女松の大きいのが二本ある。その中に小さな水の溜りがある。すべてこの宅地を開く時に自然の儘を残したのである。
藤さんは、水の側の、苔の被つた石の上に踞んでゐる。水際にちらほらと三葉四葉附いた櫨の実生えが、真赤な色に染つてゐる。自分が近づけば、水の面が小砂を投げたやうに痺れを打つ。
「おや、みんな沈みました。」と藤さんがいふ。自分は、水を隔てて斜に向き合つて芝生に踞む。手を延ばすなら、藤さんの膝に辛うじて届くのである。水は薄黒く濁つてゐれど、藤さんの翳す袂の色を宿してゐる。自分の姿は黒く写つて、松の幹の影に切られる。
「また浮きますよ。」と藤さんがいふ。指すところをぢつと見守つてゐると、底の水苔を味噌汁のやうに煽てて、幽かな色の、小さな鮒子がむらむらと浮き上る。上へ出て来るにつれて、幻から現へ覚めるやうに、順々に小黒い色になる。しばらく一しよに集つてぢつとしてゐる。やがて片端から二三匹づつ繰り出して、列を作つて、小早に日の当る方へと泳いで行く。ちらちらと腹を返すのがある。水の底には、泥を被つた水草の葉が、泥へ彫刻したやうになつてゐる。稍あつて、ふと、鮒子の一隊が水の色と紛れたと思ふと、底の方を大きな黒いのがうじやうじやと通る。
「大きなのもゐるんですね。あ、あそこに。」と指すと、
「どこに。」と藤さんが聞く。併しそれは写つてゐる影であつた。鮒子は矢つぱり小さく上の方を行く。自分は足元の松葉を掻き寄せて投げ附ける。鮒子は響の如くに沈んで、争ひ乱れて味噌汁へ逃げ込んで了ふ。
藤さんが笑ふ。
手飼の白鳩が五六羽、離れの屋根のあたりから羽音を立てて芝生へ下りる。
「あの鴎は綺麗な鳥ですね。」と藤さんがいふ。
「あれは鳩ぢやありませんか。」
「ほゝゝゝ、あれぢやないんですの。あたしね、ほゝゝゝ、」
「どうしたんです?」
「いゝえ、あたし飛んでもない事を思ひ出したんですわ。」と一人で微笑む。
「何を?」
「何でもないことです。――先達あたしがこちらへ渡つて来る途中でね、鴎が一匹、小さな枝切れへ棲つて、波の上をふわりふわりしてゐたんですの。丁度学校なぞにある標本を流したやうでしたわ。」
自分は気が附いたやうに、海の方を見渡す。遥かの果てに地方の山が薄つすら見える。小島の蔭に鳥貝を取る船が一と群帆を聯ねてゐる。
「ね、鳩が餌を拾ふでせう。」と藤さんがいふ。
「芝生に何か落ちてるんでせうか。」
「あたしがさつき撒いて置いたんです。いつでもあそこへ餌を撒くんです。」
「あ、あれは足をどうかしてるやうですね。」
初やがすたすたとやつて来る。紺の絆天の上に前垂をしめて、丸く脹れてゐる。
「お嬢さん。」
「何?」
「いゝや、男のお嬢さんぢやわいの。」
「まあ。今お着換へなさるんだわ。」
「私がどうした。」
「冗談は置いて、あなたは蟹を食べなんしたか。」
「いつ?」
「ほゝゝ、鴎のやうな話ね。――蟹を召し上れば買つて来る積りなの?」
「えゝ、はあ買うたるのよの。午に煮ようかと思ふんでがんさ。はあ直にお午ぢやけに。――食べなんした事ががんすのかいの。」
「食べるけど、あれは厄介なばかりで仕方がないや。」
「おいしいものですけれどね。」
「それは甘うがんすえの。それにこの頃は月が無い頃ぢやけに尚更甘いんでがんすわいの。いゝえ、ほんとでがんすて。月夜にはの、あれが自分の影に怖れてびくびくするけに痩せるんでがんすといの。」
村の水天宮様の御威徳を説く時の顔付である。
「ほゝゝ、」
「面白いな、それは。」
「そんなら食べなんすか。」
「食べるよ。」
「ぢや、よかつた。」と、またあちらへすたすたと、草履の踵へ短い影法師を引いて行く。
鳩は少しも人に怖れぬ。
自分は外へ出て見たくなる。藤さんは一人で座敷で縫物をしてゐる。一しょに浜の方へでも出て見ぬかと誘ふと、
「さうですね。」と、につこりしたが、何だか躊躇の色が見える。二人で行つたとて誰が咎めるものかと思ふ。
「だつてあんまりですから。」と、稍あつて言ふ。
「何が。」
「でもたつた今これを始めたばかりですから。」
「ついでに仕上げて了ひたいのですか。」
「いゝえ、さうぢやないのですけど、何だか小母さんに済まないから。――あたし行きたいんですけれど。」
「では行けばいゝぢやありませんか。」
「そんな事は構はないんですけどね、あたしこちらへまゐつてから、いつも鬱いでばかりゐて、何一つ碌にお手伝ひした事もないんでせう。」
自分は立膝をして、物尺を持つて針山の針をこつこつ叩いて、順々に少しづつ引つ込ませてゐたが、ふと叩き過ぎて、一本の針を頭も見えないやうにして了ふ。幸にそれには一寸した絲が附いてゐたので、ぐいとその絲を引くと、針はすらりと抜ける。
「もう一と月からになるのですのに、ずつと私そんなでしたものですから、今日は気分はいゝし、私の方からさう言つて、これを言ひ附かつたのですのに。」「構はないや、そんな事は。」
「だつて女はさうも……」と、針に絲を通す。
自分は素直に立つて、独りで玄関へ下りたが、何だか張合が抜けたやうで暫くぼんやりと敷居に立つて居る。
と、
「兄さん。」と藤さんが出て来る。
「あそこに水天宮さまが見えてるでせう。あそこの浜辺に綺麗な貝殻が沢山ありますから、拾つていらつしやいな。」といふ。そんなに勢まないのだけれど、もうよさうとも言へないので、干し列べた平茎の中をぶらぶらと出て行く。
五六歩すると藤さんがまた呼びかける。
「あなたお背に綿屑か知ら喰つ附いてゐますよ。」
「どこに?」
「もつと下。」
「この辺ですか。」
「いゝえ。」
「大きいのですか。」
「あ、もう一寸上。」と言ひ言ひ出て来て取つてくれる。真綿の切れに赤い絹絲の絡んだのが喰つ附いてゐたのである。藤さんはそれを手で揉みながら、
「いゝお天気ですね。」といふ。一緒に行つて見たいといふ念が素振に表はれてゐる。門を出しなに振り返ると、藤さんはまだうろうろと立つてゐる。
「お早くお帰りなさいましな。」
「えゝ。」と自分は後の事は何んにも知らずに、ステッキを振り廻しながらとことこと出て行つたけれど、二人は遂にこれが永き別れとなつたのである。
勿論この時には、借りた着物はもう着換へてゐた。着換へるまで自分は何の気もなしにゐたけれど、かうして島の宿りに客となつて、女の人の着物を借りて着たのかと思ふと、脱ぐ段になつて一種の艶な感じが起つた。何だかもう少し着てゐたいやうにも思はれた。そして、しばらく羽織の赤い裏の裏返つたのを見守つた。自分の家なぞでは、こんな花やかな着物を脱ぎ捨ててあることは遂に見られない。姉は十一で死んだ。その後家中に赤い切れなぞは切れつ端もあつた事はない。自分の家は冬枯れの野のやうだとつくづくさう思ふ。その内に不図蛇の脱殻が念頭に浮んだ。蛇は自分の皮を脱いで、脱いだ皮を何と見るであらうかと、飛んでもない事を考へ出した時、初やがやつて来て、着換へた着物を持つて行つた。
今自分は、その蛇が皿を巻いたやうな丘の小道をぐるぐると下りて行く。一曲りづつ下りるにつれて、女の歌つてゐるのが追々に鮮かに聞き取れる。
「ねんねしなされ、おやすみなされ。鶏がないたら起きなされ。」と歌ふ。艶やかな声である。
「おきて往なんせ、東が白む。館々の鶏が啼く。」と丘を下りて了ふと、歌ふのは角の豆腐屋のお仙である。すべてこの島の女はよく唄を歌ふ。機を織るにも畠を打つにも、舟を漕ぐにも馬を曳くにも、働く時にはいつも歌ふ。朝から晩まで歌つてゐる。行くところに歌の揚らぬ事があれば、そこには若い女がゐないのである。若い女はみんな歌ふ。そしてお仙なぞは一番甘い組のやうである。
お仙は外に背中を向けて豆を挽いてゐる。野袴をつけた若者が二人、畠の道具を門口へ転がしたまゝ、黒燻りの竈の前に踞んで煙草を喫んでゐる。破れた唐紙の陰には、大黒頭巾を着た爺さんが、火鉢を抱へ込んで、人形のやうに坐つてゐる。真つ白い長い顎髯は、豆腐屋の爺さんには洒落過ぎたものである。
「をかしかしをかしかし樫の葉は白い。今の娘の歯は白い。」
お仙は若い者がゐるので得意になつて歌つてゐる。家に附いて曲ると、
「青木さんよう。」と、呼び止める。人並より余程広い額に頭痛膏をべたべたと貼り塞いでゐる。昨夕の干潟の烏のやうである。
「昨日来なんしたげなの。わしや丁度馬を換へに行つとりましての。」と、手を休めて、
「乗りなんせい。今度のも大人しうがんすわいの。」と言つたかと思ふと、また直ぐに歌になる。
「親が二十で子が二十一。どこで算用が違たやら。」
「ようい、よい。」と野袴の一人が囃す。
横の馬小屋を覗いて見たが、中に馬はゐなかつた。馬小屋のはづれから、道の片側を無花果の木が長く続いて居る。自分はその影を踏んで行く。両方は一段低くなつた麦畠である。お仙の歌は追々に聞えなくなる。ふと藤さんの事が胸に浮んで来る。藤さんはもう一と月も逗留してゐるのだと言つた。そして毎日鬱いでばかりゐたと言つた。何か訳があるのであらう。昨夜小母さんが俄かに黙つてしまつたのは、眠いからばかりではなかつたらしい。どういふ事なのであらうかと頻りに考へて見る。
後から鈴の音が来る。自分はわが考への中で鳴るのかと思ふ。前から藁を背負つた男が来る。後で、
「ごめんなんせ。」といふ。振り向くと、馬の鼻が肩のところに覗いてゐる。小走りに百姓家の軒下へ避ける。そこには土間で機を織つてゐる。小声で歌を謡つてゐる。
「おゝい。」と言つて馬を曳いた男が立ちどまる。藁の男は足早に同じ軒下へ避ける。馬は通り抜ける。蜜柑を積んでゐる。
と、
「まあ誰ぞいの。」と機を織つてゐた女が甲走つた声を立てる。藁の男が入口に立ち塞つて、自分を見て笑ひながら、ぢりぢりとあとしざりをして、背中の藁を中へ押し込めてゐるのである。
「暗いわいの。」と女がいふと、
「ふゝゝ。」と男は笑つてゐる。打とけた仲かも知れない。
再び藤さんの事を考へつゝ行く。初やは事情を知つてゐるかも知れぬ。あれに喋らせて見ようか知らと思ふ。
このあたりはすべて漁師の住居である。赤ん坊を竹籠へ入れて、軒へぶらぶら釣り下げて、時々手を挙げて突きながら、網の破れをかゞつてゐる女房がある。縁先の蓆に広げた切芋へ、蝿が真つ黒に集つて、全で蝿を干したやうになつてゐるのがある。だけれど、初やに聞くといふのは、何だか、小母さんが言はないでゐる事を蔭へ廻つて探るやうで変である。聞くまい。知れる時には知れるのだ。自分はなぜこんなに藤さんの事を気にするのであらう。単に好奇心といふに過ぎないのであらうか。
この時自分は、浜の堤の両側に背丈よりも高い枯薄が透間もなく生え続いた中を行く。浪がひたひたと石崖に当る。程経て横手からお長が白馬を曳いて上つて来た。何やら丸い物を運ぶのだと手真似で言つて、一しよに行かぬかと言ふのである。自分は附いて行く気になる。馬の腹がざわざわと薄の葉を撫でる。
そこを出ると水天宮の社である。あとで考へると、この辺で引き返しさへしたらよかつたのに、自分はいつまでも馬の臀に附いて、山畠を五つも六つも越えて、たうとお長の行くところまで行つたのであつた。谷合ひの畠にお長の雙た親と兄の常吉がゐた。二三寸延びた麦の間の馬鈴薯を掘つてゐたのである。
「まあ、よう来てくれなんしたいの。」と言つてみんなで喜ぶ。爺さんは顔中を皺にして、
「わし等はあんたが往んなんしたあと、いつまでもあんたの事ばかり話してゐたんぞ。」とにこにこする。
「はあ死ぬまで会はれんのかいと思うたに。」と母親が言ふ。自分は小さい時の乳母にでも会つたやうな心持がする。しばらく色々の話をする。
やがて雙た親は掘りはじめる。枯れ萎れた茎の根へ、ぐいと一と鍬入れて引き起すと、その中にちらりと猿の臀のやうな色が覗く。茎を掴んで引き抜くと、下に芋が赤く重なつて附いて居る。常吉はうしろからぽきぽきとそれをもぎ 取つて畚へ入れる。一と畚溜ればうんと引つ抱へて、畦に放した馬の両腹の、網の袋へうつし込む。馬は畠へ影を投げて笹の葉を喰つてゐる。自分はお長と並んで、畠の隅の蓆の上で煙草を吹かす。雙た親は鍬を休める度毎には自分の方を向いて話しをする。お長も時々袖を引いて手真似で話す。沖の鳥貝を掻く船を指して、どの船も帆を三つづつ横向きにかけてゐる。両端から二本の碇綱を延してゐるゆゑ、帆に風を孕んでも船は動かない。帆が張つてゐるから碇綱は弛まぬ。鳥貝は日に干して俵に詰めるのだなどと言ふ。浪が畠の下の崖に砕ける。日向がもくもくと頭の髪に浸みる。
やがて常吉の若い嫁が、赤い馬を引いてやつて来る。その馬が豆腐屋のであつた。嫁も掘る。自分も掘つて見たいと言つたけれど、着物がよごれるから駄目だと言つて母親が聞かない。嫁は唄を謡ふ。母親も小声で謡ふ。謡へぬお長は俯つ伏して蓆の端を毟つてゐる。
常吉が手を叩くと、お長は立つて、白馬を引いて行く。網の袋には馬鈴薯が一ぱいになつてゐる。白馬が帰つて来ると、嫁の赤馬が出て行く。赤が帰ると白が出る。
「父やん、はあ止めにしなんせ。」と常吉が鉢巻を取つた時には、もう馬の影も地に写らなかつた。自分は何時間居つたか知らぬ。鳥貝の白帆も疾くにゐなくなつてゐる。
「旦那は先い往んなんせ。お初やんが尋ねに出ませうに。」と母親がいふ。自分は初めて貝殼の事を思ひ出して、そこそこに水天宮のところまで帰つて来る。
夕日が遥か向ひの島蔭に沈みかゝつてゐる。貝殻はもう止さうか知らと思つたが、何だか気が済まぬゆゑ、せめて三つ四つばかりでもと思つて干潟へ下りる。嫁の皿といふ貝殻が沢山ころがつてゐる。拾ひ出すと中々止められない。たうと片つ方の袂へ大方一つぱいになるまで拾ふ。
上へ上つて見ると、自分の歩いた下駄の跡が、居坐つた二つの漁船の間にうねうねと二筋に続いてゐる。帰つたら藤さんが一番に出て来て、まあ何をしておいでになつたんですと言ふであらう。そして貝殻を玄関へうつし出すと、おや沢山にまあと言つて嬉しさうにするであらう。自分はそれをもう有つた事のやうに考へ浮べながら、袂を抱へて小早に帰る。豆腐屋の前まで来ると、お仙が門口でカンテラへ油をさしてゐた。
丘を上る途中で、今朝買はせたばかりの下駄だのに、ぶすり前鼻緒が切れる。元が安物で脆弱いからであらうけれど、初やなぞに言はせると、何か厭な事がある前徴である。仕方がないから、片足袋ぬいで、半分跣足になる。
家へ帰ると、戸口から藤さんを呼びかけて、しばらく玄関にうろついてゐたが、何の返事もない。もう一度高く呼んで、今度は小母さんと言つて見たがやつぱり返事がない。家中がしんとしてゐて、自分の声の這入つて行く跡が見えるやうである。勝手へ廻つて初やを呼んでも初やもゐない。変だと思ひながら、有り合せの下駄を提げて井戸端へ出て足を洗はうとしてゐると、誰か知ら障子の内でしくしくと啜り泣をしてゐる。障子を開けて見ると章坊である。足を投げ出して悄ぼりしてゐる。
「どうしたんだ。」と問へど、返事もしないでたゞ涙を払ふ。
「お母さんはゐないの?」と言へば顔を横に振る。
「ゐるの?」と言へどやつぱり横に振る。
「どうしたんだ。姉さんはどこへ行つたんだい?」と聞くと、章坊は涙の目を見張つて、
「姉さんはもう帰つちやつたんだもの。」と泣き出すのである。
「おや、いつ?」
「よその伯父さんが連れに来たんだ。」
「どんな伯父さんが。」
「よその伯父さんだよ。」と涙を啜る。
自分は深い谷底へ一人取残されたやうな心持がする。藤さんは俄かに荷物を纏めて帰つて行つたといふのである。その伯父さんといふのは大分年の入つた、鼻の先に痘痕がちよぼちよぼある人だといふ。小母さんも初やも一しよに隣村の埠頭場まで附いて行つたのださうである。夕方の船はこの村からは出ないのである。初やは大きな風呂敷包みを背負つて行つた。も少し先のことだといふ。その伯父さんは章坊が学校から帰つたらもう来てゐたといふのである。自分は藤さんの身辺の事情が、色々に廻り燈籠の影のやうに想像の中を廻る。今埠頭場まで駈けつけたら、船はまだ出ない内かも知れない。隣村の真ん中までは二十町ぐらゐはあらうけれど、どこかの百姓馬を飛ばせば訳はない。何だか会つて一と言別れがしたいやうである。この儘では物足りない。欺されでもしたやうにあつけない。駈け附けて見ようか知らと思ふけれど、考へると、その伴れに来た人間に顔を見られるのが厭である。何だか無性に人相のよくない人間のやうな気がしてならない。それが怪しげな眼附きをしてじろじろと白眼みでもすると厭である。又船が出た後であつては間抜けてゐる。そして小母さんに自分などは来なくてもいゝのにと思はれると何だかきまりが悪い。かう思つて決心がつかない。しばらく茫んやりと立つて、その伯父さんの顔を考へて見る。これまで見た事のある厭な意地くねの悪い顔を色々取り出して、白髪の鬘の下へ嵌めて、鼻へ痘痕を振つて見る。
やがて自分はのこのこと物置の方へ行つて、そこから稲妻の形に山へ付いた切道を、すたすたと片跣足のまゝで駈け上る。高みに立てば沖がずつと見えるのである。そして、隣村の埠頭場から出る帆があれば、それが藤さんの船だと思つたからである。上れるだけ一足でも高く、境に繞らす竹垣の根まで、雑木の中を無理矢理に上つて、小松の幹を捉へて息を吐く。
白帆が見える。池の如くに澄み切つた黄昏の海に、白帆が一つ、動くともなく浮いてゐる。藤さんの船に違ひない。帆のない船はみんな漁船である。藤さんが何か考へ込んで斜に坐つてゐるところが想はれる。伴れに来た人は何にも言はないで、鼻の痘痕を小指の爪でせゝくつて坐つてゐるやうな気がする。藤さんはどんな心持がしてゐるであらう。どういふ事からこんなに不意に伴れて行かれたのであらうか。小母さんのところに一と月もゐたのはどうした故であらうかと、色んな事が一度に考へられて、物足りないやうな、苛立たしい心持がする。船から隣村の岸までは、目で見てもこゝからこの前の岸までよりか遥に遠いけれど、まだ一里と乗り出してはゐない。自分が畑に永くゐさへしなかつたら、少くとも藤さんが出かけるところへなりと帰つて来たであらうに。それともなぜはじめから出て行くのを止さなかつたらう。一しよにゐる間は別に何とも思はなかつたけれど、かうなつて見れば、自分は何かしらあなたをいぢらしく思ふとくらゐは言つて置きたかつたやうな気がする。この儘で永く別れてしまふのは何だか物足りない。自分がどんな気でゐるかは藤さんは知つてはゐまい。別れた後は元の知らぬ人と考へてゐるやうに思つてゐてくれては張合がない。自分は何だかお前さんの事が案じられてならないのである。
このあたりの見渡しは、この時のみは何やら意味があるやうであつた。暮れて行く空や水や、ありやなしやの小島の影や、山や蜜柑畑や、森や家々や、目に見るものが悉く、藤さんの白帆が私語く言葉を取り取りに自分に伝へてゐるやうな気がする。
と、ふと思はぬところにもう一つ白帆がある。かなたの山の曲り角に、靄に薄れて白帆が行く。目の迷ひかと眸を凝らしたが、やつぱり帆である。併し藤さんの船は是非とも前からの白帆と定めたい。遠い分はよく見えぬ。そして、間もなく靄の中に消えてしまふのである。よく見えて永く消えないのが藤さんの船でなければならぬ。
はらはらと風もないのに松葉が降る。方々の機の音が遠くの蟲を聞<やうである。自分は足もとのわが宿を見下す。宿は小鳥の逃げた空籠のやうである。離れの屋根には木の葉が一面に積つて朽ちてゐる。物置の屋根裏で鳩がぽうぽうと啼いてゐる。目の前の枯枝から女郎蜘蛛が下る。手を上げて祓ひ落さうとすると、蜘蛛はすらすらと枝へ帰る。この時袂の貝殻ががさと鳴る。今まで頓と忘れてゐたけれど、もうこの貝殻も持つてゐたつてつまらないと思つて、一つづつ出しては離れの屋根を目がけて投げ附ける。屋根へ届くのは一つもない。みんな途中へ落ちる。落ちて木の葉が幽かに鳴る。今のは何とも答が無かつたと思ふと、しばらくして思ひ出したやうにばさといふのがある。目を閉ぢて横の方へうんと投げて、どの見当で音がするか当てて見る。しなければするまで投げる。しまひには三つも四つも握つて無茶苦茶に投げる。たうとう袂の底には、からからの藻草の切れと小砂とが残つたばかりである。
再び白帆を見る。藤さんのはいつまでも一つところにゐる。遠くの分はもう亡くなつてゐる。そして、近く岸の薄のはづれにこちらへ帰る帆がまた一つある。どこから帰つたのかとはじめは訝しむ。その内に、これは一番はじめのがこちらへ近づいたのではあるまいかと疑ふ。見る見る岸に近くなる。それでは藤さんの船だと思つたのは、こちらへ帰る船ではなかつたらうか。今の藤さんの船は、靄の中のがこちらへ出て来たのではあるまいか。自分はわが説が嘲りの中に退けられたやうに不快を感ずる。もしかなたの帆も同じくこちらへ帰るのだとすると、実際の藤さんの船はどれであらう。あちらへ出るのには今の場合は帆が利かぬわけである。けれども帆のない船であちらへ行くのは一つもない。右から左へ、左から右へと隈なく探しても一つもない。自分は気が苛立つて来る。それでは先に靄の中へ隠れたのが藤さんのだ。そしてもう山を曲つて、今は地方の岬を望んで走つてゐるのである。それに極めねば収まりがつかない。無理でもそれに違ひない、と権柄づくで自説を貫いて、こそこそと山を下りはじめる。
下りる途中に、先に投げた貝殻が道へぽつぽつ落ちてゐる。綺麗な貝殻だから、未練にもまた拾つて行きたくなる。あるだけは残らず拾つたけれどやつと、片手に充ちる程しかない。
下りて見ると章坊が淋しさうに山羊の檻を覗いて立つてゐる。
「兄さんどこへ行つたの。」と聞く。
「おい、貝殻をやらうか章坊。」といふと、素気なくいらないと言ふ。
私は不意に帰らねばならぬ事と相なり候。わけは後でお聞きなさることと存候。容易にはまたとお目もじも叶ふまじと存ぜられ候。あなたさまはいつまでも私のお兄さまにておはし候。静かに御養生なされ候やうお祈り申上候。おものも申さで立ち候こと本意なき限りに存じまゐらせ候。何卒お許し下され度候。
これは足を洗ひながら自分が胸の中で書いた手紙である。そして実際にこんな手紙が残してあるかも知れないと思ふ。出ようとする間際に、藤さんはとんとんと離れへ這入つて行つて、急いで一と筆さらさらと書く。母家で藤さんと呼ぶ。はいと言ひ言ひ、あらあらかしくと書きをさめて、硯の蓋を重しに置いて出て行く。――自分が藤さんなら、こんな時には是非とも何とか書き残して置く。行つて見れば実際何か机の上に残してあるかも知れないといふ気がする。
併しやつぱりそんな手紙はなかつた。
けれども、ふと机の抽斗を開けて見ると、中から思はぬ物が出て来た。緋の紋羽二重に絳絹裏の附いた、一尺八寸の襦袢の片袖が、八つに畳んで抽斗の奥に突つ込んであつた。もとより始めは奇怪な事だと合点が行かなかつた。別に証拠と言つては無いのだから、それが、藤さんが窃かに自分に残した形見であるとは容易に信じられる訳もない。併し抽斗は今朝初やに掃除をさせて、行李から出した物を自分で納めたのである。袖はそれより後に誰かが入れたものだ。そしてこの袖は藤さんのに相違はない。小母さんや初やや、そんな二三十年前の若い女に今頃こんな花やかな物がある筈がない。果して藤さんが入れたのだとは断言出来ぬけれど、併しほかのものがどう間違つたつてこんな物を自分の抽斗へ入れ込む訳がない。藤さんのした事に極つてゐる。さうすれば只うつかり無意味で入れたのではない。心あつて自分にくれたのである。さう推定したつて無理とは言へまい。自分は袖を翳して何だかほろりとなつた。
併し自分は藤さんについては遂にこれだけしか知らないのである。あゝして不意に帰つたのはどういふ訳であつたのか、それさへたうと聞かないづくであつた。その後どこにどうしてゐるのか、それも知らない。何にも知らない。
といふと一寸合点が行かぬかも知れぬけれど、それは自分がわざわざ心配してこんな風にして了つたのである。千鳥の話が大切なからである。千鳥の話とは、唖のお長の手枕にはじまつて、絵に描いた女が自分に近よつて、狐が鼬ほどになつて、更紗の蒲団の花が淀んで、鮒が沈んで針が埋まつて、下駄の緒が切れて女郎蜘蛛が下つて、それから机の抽斗から片袖が出た、その二日の記憶である。自分は袖を膝の上に載せたまゝ、暗くなるまでぢつと坐つて色々な思ひにくれた末、一番しまひにかう考へた。話は只この二日で終らなければ面白くない。跡へ尾を曳いてはもう拙らないと考へた。或西の国の小島の宿りにて、名を藤さんといふ若い女に会つた。女は水よりも淡き二日の語らひに、片袖を形見に残して知らぬ間にゐなくなつて了つた。去つてどうしたのか分らぬ。それで沢山である。何事も二日に現れた以外に聞かぬ方がいゝ。もしや余計な事を聞いたりして、千鳥の話の中の彼女に少しでも傷が附いては惜しい訳である。かう思つたから自分はその夕方、小母さんや初やなどに会ふのが気になつた。二人が何とか藤さんの身の上を語つて、千鳥の話を壊しはしまいかと気がもめた。
小母さんは帰つて来るや否や、
「あなたお腹がすいたでせう。私気になつて急いで帰つたのでしたけど」と、初やにお菜の指図をして、
「これから当分は何だかさびしいでせうね。全く不意にこんな事になつたのですよ。」と、そろそろ何か言ひ出しさうであつたから、自分はすぐ、
「あの豆腐屋の親爺さんは、どういふ気であんなに髯を生やしてゐるんでせう。長い髯ですね。」と言つて、話の芽を枯らしてしまつた。
それ以来小母さんたちが一寸でも藤さんの事を言ひ出すと、自分は忽ち二日の記憶を抱いて遁げて行くのであつた。どんな場合でもすぐ遁げる。どうしても遁げられない時には、一生懸命に他のことを心の中で考へ続けて、話は少しも耳へ入れぬやうにしてゐた。後には、小母さんも藤さんの事は先方から避けて一切自分の前では言はなくなつた。初やも言ひ含められでもしたのか、妙に藤さんの名さへも口に出さなかつた。二人で何とか考へての事かも知れないと思つたが、そんな事はどうでもよかつた。聞かされさへしなければいゝのである。その後小母さんからよこす手紙にも、いつでも自分がゐた頃の事をあれこれ回想してゐながら、今に藤さんの話は垢程も書いては来ない。
以来永く藤さんの事は少しも思はない。よく思ふのは思ふけれど、それは藤さんを思ふのではない。千鳥の話の中の藤さんを思ふのである。今でも時々あの袖を出して見る事がある。寝附かれぬ宵なぞには必ず出して見る。この袖を見るには夜も更けぬと面白くない。更けて自分は袖の両方の角を摘んで、腕を斜に挙げて燈し火の前に釣るす。赤い袖の色に灯影が浸み渡つて、真中に焔が曇るとき、自分はそゞろに千鳥の話の中へ這入つて、藤さんと一しよに活動写真のやうに動く。自分の芝居を自分で見るのである。始めから終りまで千鳥の話を詳しく見てしまふまでは、翳す両手のくたぶれるのも知らぬ。袖を畳むとかう思ふ。この袂の中に、十七八の藤さんと二十ばかりの自分とが、いつまでも老いずに封じてあるのだと思ふ。藤さんは現在どこでどうしてゐても構はぬ。自分の藤さんは袂の中の藤さんである。藤さんはいつでもありありとこの中に見ることが出来る。
千鳥千鳥とよくいふのは、その紋羽二重の紋柄である。
(明治三十九年五月「ホトトギス」)