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商品としての文学

 藝術品はその他の一般的生産物と等しく、自然的素材に人間労働力が加つて初めて出現する。従つてひとたび完成されて社会的関係にいるや否やその他の一般的生産物たる靴、傘、刀剣、自動車等々と何等の区別なく社会の経済関係の歴史的変化に従つて、その社会的性質を規定される。

 たとへば米や織物のやうな一般的生産物が、一団体内の分担的労働の産物として生産されるやうな原始社会では、詩人もまた自分自身あるひはごく親近な人々の衝動を代表して詩を製作したので、それも狩猟あるひは農耕の片手間の製作であり、その詩的生産に対して別に報酬も受けず、あるひはきはめて僅かにその他の労働分担を軽減してもらへたに過ぎなかつたであらう。

 ところが社会の経済的発展が一定段階に到達し、一般的生産物が一団体の自家需要のためにのみ生産されるより以上に生産力が伸展し、分業制度が確立され、過剰品を交換するために、即ち生産物が商品として生産されはじめるや、人間生産物の一種類に過ぎない藝術品もまたこの規定からもれず、詩人的性能は徐々に職業化せられ、その製作する詩は貨幣と交換されるために、即ち商品として、製作されることが一般の社会通念となるのである。

 但し人間の無数の生産物のうち、それぞれ固有の社会的役割と、所属社会の特殊な事情に従ひ、一社会内にあつて、ある生産物がすでに商品化されながら、他の生産物がいまだ商品化されてゐないといふ場合の如きは、きはめてあり得べき現象で、この意味において、藝術製作品などが商品化されることの遅れがちなことは考へ得られるが、しかも商品化の決定的方向からは一歩も逃れ得るものではない。

 これをやや具体的に見るに、わが国最古の小説たる「竹取物語」の中には、火鼠のかはごろも買受けの追加金として、金五十両請求の文句があり、すでに当時においての一般生産物の商品化の深度が想像されるが、しかし「竹取物語」そのものはいまだ商品として製作されたのではなかつた。即ち原稿料とは縁遠いものであつた。

「源氏物語」や下つて「方丈記」に至るもこれと同様で、もしたれかがかりに「方丈記」の作者に向ひ、あの原稿料はどうしたとか、版権を登録したらいいだらうなどとオセッカヒな注意を与へたとしても、恐らくどんなに説明されても長明先生は版権なる概念がのみ込めなかつたことであらう。

 しかも時代を飛躍して西鶴に至れば、すでに敢然としてその諸作を商品として意識してゐるのである。

 更に現代に至つては、一切の作家は滔々(たうたう)としてその製作品を原稿料と交換せんことを意図して、即ち商品として製作せざるものなきに至つたのを原則とする。

 もちろん、このこと自体は作品の質的優劣とは何等のかかはりもないことで、トルストイやフローベルの傑作も、その他いかなる高踏的詩人の作品といへど、稿料と交換される限りは、自ら意識するとせざるにかかはらず、それは商品として製作せられたものなのである。この経済学者にとつては常識にすぎない見解を文学者自身は容易に認めたがらない本来の傾向を持つ。

 生産物が商品化されるとともに、生産者と消費者との従来の緊密な直接的関係は遮断され、仲買人の出現が融合的に要請される。

 たとへば商品化前の時代には、刀剣なりあるひは織物なりを製作するものは、その刀剣あるひは織物がたれの必要によるものかを知つてゐてこれを製作し、完成された製作品は(ただち)にその相手に手交された。

 ところが、ひとたび商品時代に入るとともに、現在製作しつつある刀剣あるひは織物が、何人(なんぴと)によつて需要せられるかは明かでないが、とにかく製作すれば需要者が見出されるであらうといふ見込をもつて製作し、需要者発見の手数を、社会的要請によつて新たに出現した仲買人へ転嫁するのである。

 藝術品の商品化の場合もこれと等しい。

 (かつ)て詩人たちは、彼等がたれのために詩を製作するのであるかを知つてゐた。

 それが単に自分自身に聞かせる独白であらうと、帝王の御機嫌を伺ふための歌であらうと、あるひは職場の兄弟を鼓舞するための歌であらうと、とにかく詩製作者とその需要者との関係は直接的であつた。即ち当時の詩人はその支持者を常に身のまはりに持つてゐてパトロナイズされてゐたといふことが出来る。

 然るに藝術品の商品化時代に入るや、詩人と読者とのこの直接的関係は遮断される。

 もはや詩人は、何人(なんぴと)が自分の歌を需要するであらうか、知ることが出来ない。ただ漠然たる社会的要求を見越して、製作すればどこかに需要者があるだらうと考へ––この見込が如何にはづれがちであることよ! ––製作品は従来のごとく身のまはりの支持者の中に持ちこまれるかはりに、仲買人たる出版業者の(もと)へ持ちこんで、その手を通じて一般の読者、即ち間接の支持者を求むるに至る。

 ところで、この藝術品の仲買人、即ち書店あるひは雑誌社なるものは、これを経済的に見ると藝術品売買によつてその手数料を利潤とする一企業と見るべきであらうが、その発生形態においては批評的役割と結びついて出現したものの如くに想像される。

 即ち、ある商品の仲買人たることは、その商品についてかなりにたしかな鑑定力の所有者たることを前提として初めて成立する。

 従つて藝術品の仲買人たることは、ある程度までの藝術鑑賞力を前提とするのであつて、その伝統を継承する以上、出版業者の文化的役割におけるプライドの強烈なるは、もとより当然のところなのである。

 今日俗に「文壇に出る」といふ言葉は、ある藝術職工の製作品が、仲買人によつてその商品的価値を認められるといふことを意味するに外ならぬ。即ち今日の仲買人は詩人と読者を結びつける出雲(いづも)の神みたいなものとなる。

 そこで、よき読者をめとらしめ給へとばかり仲買人への詩人の参詣がはじまるのであるが、この出雲の神はまた利潤を追求する慾深の神である。そこで出版社の応接室を背景とする不遇詩人の悲劇の幕があく。

 その「傑作」に肱鉄砲(ひぢでつぱう)を食はされたところの詩人は、出版社の応接室からアパートの一室に駈け戻つてくるや、憤然としてヂャアナリズム攻撃の論文をかきだすであらう!

 不遇詩人の憤怒に無理はない。そもそも藝術品の商品化といふことは、作者自身のあづかり知らざる彼の背後の社会的現象であるために、それがきはめて高度に進行するまでは彼自身によつても認識せられないものである。従つて、そのことが彼の創作態度に影響し得るといふが如き考へは、「純な藝術家」の断乎として承認するを欲せないところのものであるが、事実としては、すでに藝術に刻印せられた商品性は、時々刻々に作者の創作態度に反映して、つひには大勢的に(かへ)つて逆にこれを支配するに至るのである。

 今日叫ばれてゐるヂャアナリズムの弊害といふことは、一切がこの事実を根柢とするのであつて、これ等の非難は商品的価値は必ずしも藝術的価値と両立し得るものでないといふ原則の上に成立する。

 藝術品として優秀なものが、必ずしも売行きのいい商品たると限らないことはだれでもたいがい常識的に分つてをるつもりであらうが、しかしこれを原則的に證明することは、それほど容易ではないのである。

 何故なら、元来商品として売行きのいいことは、その使用価値の一般的妥当性を実證するもので、従つてまた質的優秀さの證明だといふ理窟が対立するからである。が、これは大衆の慾望とさへいへば、なにもかもが絶対に正しいとする時代的錯覚の一つなのだが、今ここにこの問題に深いりしてるいとまがないからしばらくおく。

 要するに藝術が商品化されて以来、その流通範囲が空前に拡大せられたことは、商品時代が後世に残すであらう大きな功績として認めるべきであらうが、そもそも藝術生産なるものは社会的要求に基いてのものたるにかかはらず、今日では却つて少数者の利潤を基礎とするかの如き社会的錯覚を発生せしめ、製作上の偏向を与へたごときは、そのもつとも後世から指弾せらるべきところであらう。

 人間社会においてもつとも基本的であり且つ久遠(くをん)なるは生産者と需要者だ。即ち文学の領域にあつては作者とその読者である。

 仲買人の如きは単に一時的な便宜として出で(きた)つた機関にもかかはらず、今日ではあたかもそれが第一義的要素の如き観を呈してゐること、たとへば或種の流行婦人がデパートがなくなれば、着物が着られなくなるかの如く思ひこんでゐるやうなもので、本屋や雑誌社がなくなれば、文学もともに滅び去るかの如き錯覚が人々を支配する。もちろん現在突然に出版社がなくなれば、作者と読者の受ける不便宜は異常絶大なものであるにせよ、文学に対する社会的要求が絶滅しない限り、そのことのために文学そのものが滅びるなどといふことは考へ得られない。出版機能が一時的に磨滅したソビエット革命時代の朗読会などがそのよい例の一つであらう。

 要するに、今日の社会にあつて、文学もまた商品たるを解せぬ詩人の認識不足はいふまでもないが、同時に商品としての外に文学は存在し得ないと思ひこむことも(また)時代的短見だ。文学は(かつ)てある時代に商品でなかつたやうに、将来もまた商品としてでなしに生産される時代が来るであらう。即ち文学生産者と文学需要者の関係が、利潤にケーアを持つ仲買人の手を通じてではなく、より合理的な新しい社会機関を通じて結びあはされる時代が迫りつつあり、また一刻も早く(きた)らさねばならないのである。

 

(昭和六年九月十九・二十日「朝日新聞」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/07/29

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杉山 平助

スギヤマ ヘイスケ
すぎやま へいすけ 作家 1895・6・1~1946・12・1 大阪市に生まれる。慶應理財科予科を胸を病んで中退、療養生活のなかで老子等を濫読、長編の自伝的小説『一日本人』を自費出版して生田長江に認められ以降自由主義的な各種文筆に活躍したが日支事変頃より右傾をみせつつ敗戦後の早々に歿した。

掲載作は、「朝日新聞」1931(昭和6)年9月19・20日に初出、めざましい先見の明を「文学」の「出版」に対して見せており、稀有の文章と言える。

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