今昔物語ふぁんたじあ(抄)
怪 力
1
「あぶないッ、逃げろッ」
「突かれるぞッ」
とつぜん、わきおこった大声に、『腹くじり』の春王は、おどろいてうしろをふりかえった。
暴れ牛だ。
荷はこび用の、真っ黒な大牛が、なにを怒ったか、背に青竹の束を山なりに積んだまま、ひきちぎった手綱をひきずりひきずり、街道をまっしぐらに狂奔してくる。
「とめてくれえ、……だれか、おさえてくれえ」
牛飼いであろう、わめきながら追ってくるが、手を出す者など一人もいない。
(とっつかまえてやろうかな)
日ごろの腕じまん、力じまんが、とっさに頭をもたげた。春王はでも、
(ばかばかしい。だいじな勝負を目の前にひかえた身体じゃないか。万一、角にかけられて怪我したからって、だれがほめてくれるもんか)
思いつくとすぐ、身をかわして、彼もまた他の旅びと同様、かたわらの路地へとびこんだ。
せつな、ダダッと土煙をあげて、猛牛は路地口をよこぎっていった。
(通りすぎたぞ)
往来へ出て、行く手を見ると、しかし牛は、道のまん中に立ちどまっている。
そのうしろに、女が一人いた。
「とまったぞう、牛がとまったぞう」
ともあれ牛飼いはじめ、通行人がよろこんで、かけつけてみると、とまったのも道理であった。
「いやあ、あねさま、おかげで助かりました。この通りじゃ」
ぺこぺこおじぎしぬく牛飼いへ、
「なんの、礼などおっしゃるにはおよびません」
女はニコッと笑顔を返して、なにごともなかったように歩きだした。
牛は? と見ると、これも
春王が目をむいたのは、土に残った草履の跡だった。ぐいッと深く、石ころ道にくいこんで、女の力の、尋常でない強さを、それははっきり証拠だてていた。
(へええ、世の中はひろいや。とんでもない女もいるもんだ)
舌を巻いたが、このくらいの力なら、おれにだって朝めし前に出せると、たかをくくった。力よりも、女の顔だちの美しさに、春王は興味をそそられたのである。
大力なだけに、なみ
よりやや、背丈は大きい。むっちりと肉もついている。髪が黒く、たっぷりして、肌はぬけるほど白い。
魅力的なのはその眼の表情だ。なんともいえず
「ねえさん、おまちよ」
女を、彼は追いかけた。
「たいした力持ちだねえ。このあたりの人かい?」
「もっと北よ。私の村は……」
「ご亭主や子は、むろんあるんだろう?」
「いいえ、独り身」
女は首をふった。微笑している。どこやら淋しげな笑顔だが、独りときくととたんに、春王の心中には
「そいつはもったいないや。こんなべっぴんさんをさ」
女の左の二の腕へ、するッと手をさしこんだ。ふりはらうと思いのほか、
「ホホホホ、いやらしい。なにをするのよ」
脇の下を、女はじんわりしめつけてきた。
(気があるな。こいつはまんざらじゃないぞ )
春王は舌なめずりした。
うららかな小春つづき――。道中、思いのほかはかどって、もうここは琵琶湖の南岸、大津の宿駅である。十日以上のゆとりを
(三日四日、道草くったってじゅうぶんまに合う。ひとつこの女、ものにしてゆくとするか)
ならんで歩きながらも、うきうきと、春王の胸は
「名はなんというのかね?」
「高島の、
「おれは人呼んで『腹くじり』の春王というんだ。『腹くじり』は
「まあ、あなた、力士なの?」
「そうとも。晴れの勝負に打ち勝って、日本一の
それはいいが、はさまれた手がぬけない。大井子は、ずんずん歩く。
はじめてゾッと、春王は
「はなしてくれ」
口もとまで出かかった哀願を、それも
2
さほど広くはないけれども、豊かそうに住みなした百姓家だ。
「
召し使いにちがいない。大井子の声に、
「お帰りなさいまし」
十三、四の少女が、洗足の水を
「とりたてのボラを見かけたので買ってきた。塩をふっておいておくれ」
魚籠を少女に渡して、やっと大井子は脇をゆるめた。
「さあ、足をゆすいであがりなさい。えんりょはいらないのよ。 家族はこの森女と私の、二人きりですから……」
女の力に圧倒された春王は、日ごろの
大井子も、その向かい側に
「春王さんとやら、あなた越後では、どれほどの力士かしらないけれど、あれくらいの力で都へのぼったからって、とうてい日本一の呼称など得られやしないわよ」
さとすように言い出した。
「だめだろうか」
さしもの天狗の鼻も、折れまがった。
(女でさえ都ちかくなると、これくらいの化け物があらわれる。まして国々から選ばれて、われと思わん剛の者がきそいあつまる宮中角力…… 。日本一の
こころぼそげなその顔へ、
「あきらめるのは早いわ。およばずながら私が加勢して、あなたに力をつけてあげます」
たのもしげに、大井子は約束してくれた。
「まだ、日にちはあるわね」
「ある。十日の余もあるよ」
「しばらくこの家に
森女をよんで、飯びつと塩の
「さ、食べるのよ」
と彼女はすすめる。
なんの気もなくパクリとやりかけて、
「うッ」
春王はうなった。歯が立たないのだ。
たかがにぎり飯、米の飯ではないか。そんなバカな……と
「その
翌日も一つ、大井子はおにぎりを作った。やはり歯が立たない。
五日目になって、ようよう噛み割れた。
「わあ、割れたぞ割れたぞ」
「あとひといきよ」
八日目――。どうやらふつうに、食べられるようになり、九日目にはもう、まったく、ただのにぎり飯同様、むしゃむしゃ味わえるまでになった。
「これで百人力だわ。あなたはかならず勝ちぬくわよ」
「ありがたい。恩にきるよ」
「ただしその力、けっして悪用しないでね」
「わかっているさ 。――それより、ものは相談だがね」
春王は、思いきってきり出した。
「あんた、おれと夫婦になってくれないか」
大井子の力に恐れをなして、はじめて出会った当座の、みだらな欲望から遠ざかっていた春王も、にぎり飯の威力で自信をとりもどすと、やはりこのままその身体に、指ひとつ触れずに別れるのが、惜しくてたまらなくなったのである。
「あなた、年はいくつ?」
問い返してきた女の、ながし目の
「二十四さ」
にじりよった。
「あんたは? 大井子さん。おれとおっつかっつだろう?」
「三十二よ。八ッも年上だわ」
「ふーん、とてもそうは見えないけどなあ。なぜあんたほどの女が、独り身でいるのさ」
「力がありすぎるのもよしあしね。気味わるがって、なみの男はよりつかないのよ」
「おれならちょうどいい。つりあうよ」
「私もねえ……」
しみじみ、大井子は言った。
「力のある男があらわれるのを、じつはながいこと、待ちのぞんでいたんだわ」
「じゃ、承知してくれるね?」
「帰ってきてくださいよ。晴れの勝負が終わったら、かならずここへ……ね?」
「帰らずにいるものか。力のつよい子供を生もうよ。おれたちの子なら、きっと鬼ガ島を征伐するほどの力持ちになるぜ」
「親ゆずりの田畑、宅地を、私すこしは持っているのよ。くらしにこまることはないはずだわ」
――その夜、二人は結ばれた。
そしてあくる朝、
3
宮中の角力は、馬場殿の広庭でおこなわれた。
全国から選抜されてあつまった力士たちは、くじ引きで左右にわかれ、控え所には幕が張られる。
力士は、はだかになどならない。
衣服をつけたまま土俵にあがり、力と
勝ち力士には念人たちから、あらそって
にぎり飯を仲だちにして、天賦の力の上に、さらに大井子の怪力をあわせ持つことのできた春王は、まさに向かうところ敵なし……。出る相手、出る相手を片はしから倒して勝ちすすみ、とうとう女の予言にたがわず、優勝の栄冠を勝ちとってしまった。
「どんなもんだい」
彼の得意や思うべしだ。
みかどから天盃と、日本一の折り紙が下賜される。そのほかの
「屋敷へまいれ。馳走してとらせよう」
招宴も、連日連夜 …… 。あかぬけた
「へん、あんなトウのたった姉さん女房に、一生、飼いごろしにされてたまるもんか」
帰るといった約束を、勝手にやぶり、洛中に家を借りて、気ままざんまいな日を送りはじめた。
もともと春王は、男ぶりのよい若者である。勝負に勝ったおかげでひと財産でき、おまけに力はありあまる。三拍子そろっているから、こわいものなしだ。
酔っぱらって、人にけんかを吹っかける。けがをさせる。器物をこわす……。
しまいには色町の女を、むりやり手ごめにしようとして、窒息死させるという大それた事件までひきおこしたが、召し捕る側の役人たちにひいきが多く、顔もきくため、事はうやむやに葬られて、被害者は泣きねいりとなった。
ますます、春王は
「それ、『腹くじり』だぞ。言いがかりつけられて痛い目をみるな」
逃げまどうばかりで、こらしめようとかかる者など一人もいない。
たった一度、あまりに腹をすえかねて、蹴りグセのある荒馬を、春王の通る道すじにつないでおいた者があった。うしろを通過しかけたせつな、あんのじょう馬はしたたかに春王を蹴った。しかし足を折ったのは馬の側……。蹴られた人間はアザ一つ、負わなかったのである。
「不死身じゃ」
ひとびとは、ふるえあがった。魔神のように、春王を恐れ合った。それをよいことに、ほんのすこしでも気にくわぬことがあると、彼はたちのよくない腹いせをして、
大石をはこんできて用水をふさぎ、あたりを水びたしにしたり往来を止めたり、力をたのんでの悪行をほしいままにするばかりか、とりのけ作業にひとびとが大さわぎをするのを、
「ざまァみろ。人夫や馬力を百人前使おうと、おれ一人の力におよびはしまい」
そらうそぶいてながめているといったありさまなのだ。
――月のうつくしいある晩。
そんな春王が、例によって大酔して、都大路をわがもの顔に、あちらへよろよろ、こちらへよろよろ、
「おまちッ」
大手をひろげた人かげがあった。
「やッ、そなたは大井子!」
ゾッと、春王の背すじに寒けが走った。
「あなたを見そこなったわ。うわさは村まで聞こえています」
大井子は、じりじり寄ってきた。
「力を善用できないバカ者に、力をあたえたのは私の落ち度……。責めは私にあるし、いまや天下に、あなたのその力を封じられる者も、私ひとりしかないと知って、迎えにきたのよ。――さあ、帰りましょう」
「どこへ?」
「私の家へ……」
「しゃらくさい。おれはもはや、あのときのおれじゃないぞ」
肩ひじを、まんざら虚勢でもなく春王は怒らせた。彼自身の力に、大井子の力が
(くらべるまでもない。おれのほうがずんと優秀なはずではないか)
大井子は、だが春王の言葉になど、耳をかさなかった。いきなり近づきざま、その二の腕をむんずとつかんだ。
「おのれ、なにをするッ」
満身の力をふりしぼって、春王はあばれた。地ひびきが立つ。かたわらの小家が震動する……。大井子はしかし、ビクともしない。春王をとってひきよせ、身をひるがえすと、あっというまもなくその背へおぶさってしまった。
「さ、歩きだしなさい」
「ちきしょう、おりろッ」
ふりもぎろうといくら
「あッ、痛ッ、いたたたッ」
思わず悲鳴をあげた。腰骨がくだけるかと思う
「前非を悔いた? けがさせた人、殺した人、迷惑のありったけをかけた世間さまに、心からわびる気持ちになった?」
「なったよ大井子、だからかんべんしてくれ、ゆるめてくれこの股を……」
大井子は力をぬいた。観音さまの
「やろうッ」
すきをねらってまた、春王はふり落とそうとし、大井子の股はその腰を、ふたたび猛然としめつけてきた。
「ひゃァ、助けてくれッ、肉がちぎれる、腰骨が折れるッ、おれがわるかった、ゆるしてくれえ」
「本心ね?」
「しんそこ悔いた。誓うよ、誓うよッ」
力はゆるんだ。春王はもう、抵抗しなかった。底しれない相手の力に、いまこそ一言もなく、屈服しきったのであった。
「では、もどりましょう、わが家へ……」
「このままそなたを、おぶってか?」
「お月さまがきれいねえ。琵琶湖のほとりは、なお、すてきでしょうよ。あなたの背中でお月見してゆくことにするわ」
春王はうなだれた。
(女じゃない。おれの背中にのりかかり、首すじをしっかりおさえつけているのは、たぶん……たぶん、“運命”とかいうえたいの知れない怪物なんだろうな)
青い月光の下を、彼はとぼとぼ歩きはじめた。
猫をこわがる男
1
勝尾
「
でも、だれもがはじめのうちは、
「まさか」
本気にしなかった。
「可愛らしい生きものじゃないか。猫の、どこがこわいのだろう」
「わからんさ。おれにも……。しかし中には、変わった人間もいるぜ。蛇、
「猫が、助友をひっかきでもしたのかな」
「なあに、ただニャゴウと鳴き鳴き、身体をすりつけていっただけさ。それなのに助友め、まっ青になってとびあがった」
「ほんとうか?」
「ほんとうとも。なんなら、ためしてみろよ」
「ぎゃッ」
彼の口から悲鳴がほとばしった。
顔色をかえ、ぶるぶる
「助けてくれえ」
こけつまろびつ逃げ出してしまった。
「これは面白い。あんなやつにも、泣きどころがあったんだなあ」
手をたたいて、人々はよろこんだ。
神職にたずさわる者にあるまじき、助友は
ながいあいだに、そんなあこぎなやり方で
「よし、
というわけで、それからは
評判は、巫女たちのあいだにもすぐ、ひろまった。
「人は見かけによらないって、ほんとうね」
「こんどから『万石の助友』じゃなくて『猫
「それがいいわ」
染め
うつむいて、巫女の
彼女は助友を憎悪していた。恋人との仲を裂き、助友は強引に、左由良の姉を宿の妻にしながら、その妻が病死すると、まちかまえていたようにこんどは義妹の左由良に
気性の勝った左由良は、しかしそれ以後は、二度と助友を許さなかった。おなじ
さすがに神のみそなわす浄地では、助友もはばかって、無謀なふるまいには出なかったけれども、
「男に汚されながら口をぬぐって、神前に奉仕しつづけるとはずぶとい女だ。大
と、
「おお、どうとも言うがよい。
左由良は応酬し、けっして
左由良の父は、
「
と、助友はいう。
「それがだめなら左由良を後添えに……」
とも、あからさまに申し入れている。
両親にすれば、亡くなった姉のあと釜に、妹むすめが坐るのを、あながち不都合とは思っていない。
「なぜ
もどかしげにたずねるが、じつは彼女には、ひそかに想っている相手があった。小宮司をつとめる
位階を持ち、昇殿さえゆるされている貴族の子弟だから、彼女とは、身分がちがいすぎる。とげるあてのない片想いだとは、じゅうぶん承知していた。おくびにも、だから左由良は、想いを外にあらわさなかった。巫女仲間は知らない。当人の師純も、むろん気づいてはいない。鼻のきく助友すら、左由良の胸の内を
神事の夜、
なにもかもを、
左由良が悲しんだのは、小宮司の明澄な
(おのれ、助友……)
煮えたぎる思いに、歯をくいしばっていた昨日今日なのである。
猫をこわがる男――。
猫怖じの助友と、人々は笑うけれども、亡くなった左由良の姉は、生前、猫を飼っていた。助友もそのころは、平気で頭などなでてやっていたのを、左由良はおぼえている。
{なぜ急に、猫ぎらいになったのだろう}その疑問を、彼女は口にしてみた。
「そういえばずっと前、助友どのは昼
と、巫女の一人が言い出した。
抱いた、じゃらしたなどと、つぎつぎに思い出して言う者があらわれ、こんどはだれもが、左由良と同じいぶかりを、やかましく話題にするようになった。
2
噂はすぐ、助友の耳にはいった。
「もっともな疑いだ。私自身、いままで何とも思わなかった猫が、なぜこの年になっていきなり、恐ろしくなったのか、ふしぎで仕方がないのだから……」
そう前置きして、彼は禰宜仲間を相手に、つぎのような打ちあけ話をはじめた。それは、なんとも
「半年ほど前だ。みなも知っての通り、私はすこし身体をこわし、大宮司に申し出て十日の休暇をもらった。紀州の
その、途中のことである。
ある村里を通りぬけ、山路にかかってまもなく、助友は農民とみえる五、六人が、一枚の平板の上に何やら乗せて、こちらへ近づいてくるのに出遇った。
道幅はせまい。やりすごすつもりでかたわらによけながら、見るとはなしに板の上に目をやって、彼は思わずあとずさった。まだ八ツか、九ツぐらいにしかならない切りさげ髪の少女と、その少女の身長とおなじくらいにみえる黒毛の大犬とが、組みちがうかたちで板に乗せられていたのだ。
少女の口は犬の片耳を噛みきり、両手は犬ののど首をかたく緊めつけている。そして犬の口は、少女ののどを深く咬み裂いて、双方ともが血まみれのまま、すでに息絶えている様子だった。
あまりのふしぎさ、少女と犬の
村道には、いつのまにか里人たちが大ぜい立ち群れてい、あきれ顔に、
「やはりやられた!」
「けっく、こうなる宿業だったのか」
二つの死骸をとりかこんだ。うちの、一人の袖を引いて、
「どうしたわけです?」
助友はたずねた。相手は首をふり、嘆息まじりに言った。
「前世は、
そのうちに少女が疫病にかかった。医者も匙をなげる重症だった。こんな場合、どこの主人もがするように、村長の家では少女に少量の食物を持たせて山の中に捨てた。他の召し使いへの感染をおそれたのである。
「おねがいです。どうぞ聞いてください」
立ち去ろうとする主家の人々の
「捨てられるのは恨みません。ただ、私が息をひきとるまで、犬を放さないでくれるように、隣の人にたのんでください。こうして身うごきもできずに草の上に打ち臥しているのを知れば、あいつはきっとやってきて私を咬み殺すでしょう。病死するのはいといませんが、あの犬にやられて死ぬのだけは、がまんできないのです」
日ごろの仲の悪さを、主家の人々も知っているから、少女のたのみ通り隣家に申し入れて、犬を厳重につないでもらった。
ところがその翌日、綱を咬み切って犬は姿をくらました。
「すわこそ!」
と、村びとたちが棒ちぎれをつかんで、山へかけつけたときは遅かった。両者は死闘のあげく、血海の中にこと切れていたのである。
「なんという憎しみの深さだろう、犬と娘のあいだには、目に見えないどんな悪因縁が結ばれていたのだろうと、気味わるくなったけれども、なに、これだけならば旅の土産話にすぎなかったのさ」
助友は語りついだ。
「紀州の温泉に着いて
聞き手の禰宜たちは、ここで、いっせいに吹き出した。
「いや、笑いごとじゃないぜ」
助友の表情は、しかし、深刻だった。
「お前はねずみだと言われてみると、どうも真実のように考えられてくる。小娘と犬の、あの容易ならない関係を思い出してみても、人間には、生まれながら相
「はははは」
「笑いごとじゃないってば……。おぬしらにはわからないのだ。自分をどう、はげましてみても、猫への恐怖がとりのぞけない苦しさ……。つくづくあの乞食坊主がうらめしいよ」
ばかげた妄想だ、湯治に行って、かえって脳をこわして来おったと、
「毛虫がこわいところをみると、おれは前の世で、桜の葉っぱだったのかな」
などと、しばらくは神社じゅうが、この話で持ちきったが、やがて申し合わせでもしたようにぴたッと、だれもが猫とも、助友とも言わなくなった。それどころではない災難が、とつぜん、神官たちの身の上に、ふりかかってきたのだ。
いきなり、ある日、
3
勝尾明神社は京都の西郊に位置し、
その奥宮に
身におぼえのない濡れぎぬだ。
老大宮司は、必死になって
「うごかぬ証拠がある」
と、あとにひかなかった。
「庁に投げこまれた落とし
胸に釘を打たれた
別当は業を煮やして、
「
と息まいた。
さすがに身分をはばかって、大宮司、小宮司には手を出さないが、下っぱの禰宜、
「猫怖じの助友と仇名されている男が、禰宜の中にいるそうです。猫を使って、まず、この男の口から割らせてみてはいかがでしょうか」
「よし、ためしてみろ」
さっそくあちこちから、猫が集められたが、効果は、なるほどてきめんだった。
素裸にされ、全身にまたたびの粉をなすりつけられて、大猫が十匹も待機する小部屋に閉じこめられるといなや、助友は殺されそうな声をあげ、
「申します申します。なにもかも逐一、申しあげますから、どうぞ外へ出してくださいッ」
板戸を叩いて号泣したあげく、
「某公に依頼され、神宮一同、関白家呪誼の秘法をおこなったに相違ありません」
すらすら白状してしまった。
抗弁は、もはやきかない。
罪が決定し、大宮司は
禁獄、追放など、以下の神官もそれぞれ処罰されたなかで、大中臣助友ひとりは、
「猫におどされて口を割るとは
関白家の鶴の一声で赦免となった。
いそいそ、助友は自宅へもどってきたが、思いがけず待っていたのは、巫女の左由良であった。
「ごめんなさいね」
恥ずかしそうに、彼女は言った。
「いままで、私はかたくなでしたわ。どうか亡き姉と同じように、これからはいとしんでくださいましね」
「ほうほうほう。この固い木の実は、やっと熟したな」
風向きの、とんとん拍子の変わりように、助友はすっかりやにさがった。そしていつとはなしに気をゆるして、左由良がおずおず飼いはじめた猫にも、さほど注意をはらわなくなった。
彼の役割は終わったのだ。面倒な『猫怖じ』の仮面など、いつまでもかぶっている必要はなかったのである。
助友のこの、態度の変化を、左由良はじっと、観察しつづけた。
共棲みの二年間――。
もういくら、猫が近づいても、いっこうに助友が、こわがらなくなるまで見とどけたあげく、忠実な召し使いを幾人も証人に立てて、
「いま一度、勝尾明神社の呪詛事件、調べ直しをねがいます」
と、要路に訴えて出たのであった。
政局は、二年前とはちがってきていた。
天皇が交代し、官界の情勢は、そのころ、大きく逆転しつつあった。関白家の一族は、先帝時代の権勢をうしない、かわって、敵対関係にあった某公卿とその一派が、ぐんぐん
検非違使別当も
「く、くるしい。
苦痛にたえかねて、助友はついに、
「片手落ちをするなよ。黒幕はこいつらなんだ。おれはほんの手先にすぎない。罰するなら忘れずに、大物のほうこそ罰してくれよ」
わめきたてた。
それにしても、利にさとい『万石の助友』を、
二ヵ月のあいだ、助友は北堀川の
配所へは、赦免の使がさしたてられた。
老大宮司は、しかし隠岐で病没し、天下晴れて都へ帰ってきたのは、小宮司の佐伯師純ひとりであった。
「あなたの
と、赦免使に、師純は告げられた。
「ひとこと、礼を言いたい……」
つれそう夫を罪に落としてまで、なぜ、自分たちを救ってくれたのか、その理由を聞きたかった。
左由良はだが、師純の帰洛と入れちがいに、都から姿を消していた。さがしても、さがしても、それっきり、とうとう行くえはわからなかった。
「なぜだ、なぜ、いなくなったのだ左由良」
師純はつぶやいた。
おぼろげな記憶の底から、彼はかろうじて、愛らしく
蘆刈りの唄
1
まじめで、気だてはおとなしく、口べた、社交べたなため、楽所でも目だつ存在とはいえない。上司にも同僚にも、かくべつ憎まれもしないかわりに、目をかけられ、可愛がられて、出世してゆく型からは遠い。
よく見れば、顔だちはわるくない。
――そんな直方が恋をした。
しかも相手は、
そのころ直方は、軽い
秋の気配が濃くなりだした七月末だが、日中まだ日ざしがつよく、だいぶ軽快したとはいっても、病みあがりの直方には、道中がつらかった。
「だいじょうぶかね? すこしそこの木かげで休んでいこうか」
虫麿はいたわってくれた。
大きな
「なんだろう直方さん、へんな声が聞こえるじゃないか」
「女の、うめき声のようですね」
二人は異常に気づいた。
かたわらの、桑畑の中だった。踏みこんでみるとあんのじょう、桑つみ娘であろう、
「腹痛かね?」
虫麿が声をかけた。
「はい……」
ふり仰いだ顔には、いちめん油汗がにじんで、死人さながら、血の色がまったくない。
「こりゃひどそうだ。直方さんなんぞ薬の持ち合わせはないか」
「あります」
肩荷をほどいて丸薬をとり出し、竹筒といっしょに娘に渡した。
「申しわけございません」
おしいただいて口へ入れる手が、痛々しいほどふるえている。直方はにじり寄って娘の背中を押してやった。胃が痛むときそうすると、ふしぎなほどらくになるのを、直方は知っていたのである。
「
畦道をこのとき、わめき声が近づいてきた。粗末な麻の労働着を通して、直方の手に、ぶるッと娘の
「ここだよ、娘さんならここにいるよ」
虫麿が応じた。
「なんだお前ら、どこの者だ」
畑の持ち主にちがいない。
「どこの者でもない。通りがかった旅びとさ。この娘さんが腹痛を起こしていたので、いま、薬を飲ませたところだよ」
礼をいうと思いのほか、男はにがりきった仏頂づらで、
「ちッ、またぞろ病気か」
舌を鳴らした。
「役立たずめ、
娘を追いたてたあと、聞こえよがしに、
「金で買った
うそぶき散らして去ってしまった。
「無慈悲なやつだなあ。田舎地主には、えてあんなのが多いんだ。あの娘もかわいそうに、病身そうだが、ろくに食い物ももらってはいまい」
虫麿の同情も、しかしそこまでで終わりらしい。けろッと気をかえて、
「とんだひまをつぶした。――行こうぜ直方さん」
先を急ぎはじめ、やがてそのままつれだって、京都四条の自宅へ帰ってきてしまったけれども、直方の、比左女に対する感情は、もうとても、そんな通り一辺の、行きずりなものではなくなっていた。
彼は娘が、
母や
「恋と、これをいうのだろうか」
直方には判断がつかない。ただ、比左女を、むざんな境遇から救い出したい、そばに置いて、いとしんでくらしたいと、
さいわい彼には、故障を言い立てる親兄弟、親戚など一人もなかった。日ごろ、したしくしている虫麿にさえだまって、直方はいま一度、摂津にくだり、
「比左女をゆずってください」
交渉した。
足もとにつけこんで、髭男は法外な値を吹きかけた 。それはとうてい、直方の手に負える値段ではなかった。
2
彼はしかし、くじけなかった。
親からゆずられたたった一つの財産である住居を、人に売り、たりないぶんは楽所の同僚三人にたのんで借金してまで、砂金十両という傭い主の要求を通した。
虚弱な比左女の体質に、業を煮やしつづけていた髭男は、買い値より高く彼女を売り渡せたことに、内心ほくほくしていながら、いざ、つれて出るときには渋面つくって、いかにも惜しそうに比左女と直方を送り出した。
「ありがとうございます。おかげで地獄から救われました」
泣いてよろこぶ娘を見ると、
(十両ぐらい何だ。借金がなんだ)
苦にならないどころか、むしろ砂金ひと袋が、生き身の女に変わったふしぎさに、直方は呆然とするのである。
(買える相手だからこそ、とげられた恋なのだ)
ありがたかった。運がよかったとさえ、彼は思った。
虫麿は眼をむいた。宮中での、伶人の身分は低い。俸給は多くはない。しかし天皇、皇族はじめ、公卿、殿上人の面前に出て仕事をする特殊な技能の持ち主である。市井の職人、労働者などとは、世間も、同列には見ていない。
「それに直方さんの男ぶりなら、もうちっとましなところから縁の話もあろうじゃないか。なにも好きこのんで、
こっそり、妻にだけは
――比左女をつれて帰洛したものの、住む場所に、直方はさっそく困った。
「わしの家でよかったら、きていいよ」
虫麿が助け舟を出してくれた。一介の扇折りだが、虫麿は職人を四人も使い、大きな仕事場、間かずの多い家、妻子
「私にも、こんな日がめぐってきたのか」
信じがたい思いでつぶやくほどに、毎日が直方は幸福だった。ぜいたくはできない。でも、人なみに食べさせ、着せているうちに、土中に埋もれていた白珠が、研磨師の手に渡って
なによりは性質が温順なのだ。じつは没落した、ある富農の娘だったのである。父母の死後、田畑を親類の者に横領されたあげく、人買いの手に渡って
「一生の恩人……」
口にこそ出さないけれど、感謝を身体中にあらわして、慕い、
「いやあ見そこなった。顔だちといい気だてといい、比左女さんは掘り出し物だよ。砂金十両でも安かった。どうしてどうして直方さん、あれであんがい目がたかいや。すみにおけない眼力だぜ」
自分の妻に、やがては虫麿も訂正して言うようになった。
この夜、
どう、
紛失した高麗笛は
調べてゆくうちに、同僚三人に、直方が少なからぬ借金をしていることもわかって、立場はますます不利になった。
帥の宮の意見もあり、事件はだが、外部には伏せられて、楽所の中だけで処理された。
直方の
「ぞんじません、
彼は白状しなかった。
「強情なやつ……」
うしろ手にしばった両腕のあいだへ、棒をさし込んで、骨にひび
がはいるまでねじあげた。背中が血みどろになっても、打ちすえる皮鞭の手を休めなかった。苦痛に耐えかねて幾度も気を失いながら、しかし直方は、犯行を否認しつづけた。
上司は、あぐねた。はっきりした証拠もないまま、結局、宿直としての責任だけを負わせて、彼を楽所から追放したのであった。
3
「ざんねんだ。賊はかならず仲間のなかにいるはずなのに、その
男泣きする直方の背を、やはり涙で頬をぬらしながら、桑畑で、あの日、自分がされたように、比左女はただ、せいいっぱいの愛情をこめて撫でさするほかなかった。
同僚三人からの多額の借りが、疑惑の根になってい、その借りは、彼女自身を買い取るために、直方がつくったものなのだと思うと、比左女はすまなさに胸が凍った。
……生活は、みるみる窮迫した。
直方は衰弱して寝たきりになったが、回復してももとの身体にもどることは不可能だった。なさけ容赦のない拷問の結果、左腕が、常人の半分も曲がらなくなってしまったのである。
「あんたたちの口すぎぐらい、私がまかなってあげるとも。家族のつもりでいていいのだよ」
虫麿の善意によりかかって、しかし夫婦二人、いつまで居候しているのも心ぐるしい。
楽器を鳴らし、舞を舞い、唱歌するほかの能力を、直方は持たない男だし、不具になっては、まして肉体労働などむりだった。
比左女は女房づとめの口をさがしてきた。
「身体を使っての仕事には、私のほうが慣れています。なんの、お屋敷奉公など、むかしのくるしさにくらべれば、極楽でしょうよ」
大納言藤原行成の邸宅――。
その北ノ方のそば近くつかえる
「月に一度はおひまをいただいて、かならず帰ってまいります。あなたもどうぞ、訪ねてきてくださいね」
言い置いて、大納言邸へ移って行ったが、約束通りには、なかなかもどってこられなかったし、直方のほうも人目がはばかられて、妻の
『でも女房たちはだれでも、夫や愛人を
手紙のはしに、邸内の略図まで描いて比左女はうながしてくる。逢いたかった。
はなればなれにくらしはじめて、すでに二ヵ月ちかくになる。
とうとう、たまらなくなって、直方はある雨の夜、大納言の屋敷に出かけていった。
男たちが利用するという
男と女である。ふり切って逃げる女を、男が追っているらしい。
「いけませんッ、お離しあそばせ少将さま」
比左女の声だ。直方は息をのんだ。
「何度も申しあげたはずです。わたしには夫がございますッ」
「あってもよい。たとえそなたが
その声を、大納言家の次男、左近少将行径と知った瞬間、直方は気力のすべてを失って、ぬかるみの中へ膝をついた。
「いえ、いえ、いけません」
比左女は必死にあらがっていた。
「夫を持つ身にいどむなど、ご無体というものです」
「いいや、私は真剣だ。夫がのぞむなら、男らしく剣に訴えてもよい。頭をさげろというなら、地べたに額をこすりつけてもかまわない。そなたが欲しい。誇りに
「お離しなさらなければ人をよびます。声をたてますが、ようございますか?」
さすがに
「あんまりだ。あまりといえば冷たい。あけてくれ、せめて話だけでも聞いてくれ」
あたりの耳を気にしながらも、低く、さけびつづける行径の声に、うそでは出ない涙がまじっているのを、直方は聞き、自由のきく右腕を目にあてて、これも懸命にこみ上げてくる
『私のことは忘れて、自分自身の幸せをつかんでほしい。いまはもう、それだけが、ただ一つの願いだよ比左女』
妻にあてて一通――。虫麿へも、世話になった礼手紙を残して、直方はまもなく行くえ知れずになった。
八方、手をつくして探したけれども、消息は不明のまま年月がたってゆき、今は、
「死んだのだ。それにきまっている……」
あきらめて、虫麿も手を引いた。
親木をうしなった
二年後、辛抱づよく待っていた行径の腕に、比左女はついに抱かれた。
正妻に準じるあつかいを受け、少将どのの想い
(ほんとうに死んでおしまいになったのだろうか。……どこかで、生きておられるのではないか)
住吉
「ちと、景色でもごらんあそばしませ。
ふさぎがちなのを見かねたのか、同乗していた女房の一人が、物見窓の外をさしてうながした。
「あれあれ、
男ばかりであった。
車をとめさせて、比左女はしばらくその光景を見入っていたが、ふと、うちの一人に目を
「ああッ」
いきなり、顔色を変えた。
「どうなさいました?」
「あの人を…… あの蘆刈りをよんでください。ここへ……この、車のそばへ……」
侍がかけてゆき、岸に立って男を招いた。
左手をぎごちなく腰に回して鎌をはさみ、男はいぶかしげな顔で岸に上がると、侍の背について歩きかけた。
ほんの二、三歩で、しかしその足はとまった。こけた頬、おちくぼんだ眼……。やつれきってはいても、男は直方にまぎれもなかった。女車を見、前後にしたがう行列を目にして、彼の直感は、待つ相手を、とっさに
「こら、どこへゆくッ、なぜ逃げるッ」
追おうとする侍を、
「いいのです。もう…… いいのです」
比左女は制止し、
蘆刈りたちの唄は、重く、にぶく、つづいていたが、よく聞くとそれは、
月のおもてを、さ渡る雲の、
まさやけく見ゆる、秋なれば……
一節だけの、単調なくり返しにすぎなかった。
ただ一人、欠けている声を――直方の声を、比左女の耳は幻聴の中で
釜の湯地蔵譚
1
朝からうろうろ、湯にはいったり出てみたり、
(いよいよ今日、
そう思うと、ちょっと
大笠と小笠は、兄弟分のコソ泥である。
村から村へ、旅かせぎの泥棒
「名前はおっかねえけど、熱い、まっ白な
と、里の者は言うのであった。
なんでもむかしむかし、脚を折った鷺だの矢きずを負った鹿だのが、
「ひとかせぎ、やらかそうじゃねえか。え? 小笠。釜の湯とやらへ乗りこんでよう」
大笠は、弟分に相談を持ちかけた。
「なにか、もくろみがあるのかね?」
「あるから言うんだ。おめえ、お地蔵さまに化けてみろ」
「あの、くりくり頭で、
「そうだよ」
「よせやい。坊主になんぞされてたまるかい」
「なりはそのまんまでいいんだよ。まあ耳を貸せったら……」
大笠はひそひそ、小笠に一策をさずけた。
そして三日前、ひと足先に釜の湯へやってくると、
「あーあ、くたびれた。ちっとのあいだ横にでもなるかな」
ごろと、手枕でうたた寝したあげく、目をこすりこすりやがて起きて、
「いま、奇妙な夢を見ましたぜ」
そばにいる湯治客に、手あたりしだい話しかけたのだ。
「へええ、どんな夢かね?」
と、退屈しているさいちゅうだ。寝そべったり、雑談したりしていた連中が、みんな大笠のそばへ寄ってきた。
「とろとろッとしたと思ったらね、夢の中に、すてきもなくこうごうしい、頭から
「なんじゃあ? おぬしの夢に、お地蔵さまがあらわれたと?」
「ええ。『釜の湯に集まる病者どもに、
「ふんふん」
「そしたら『紺の綿入れの水干に、
「ひゃあ、そりゃおどろいたこんだのう」
とみんな顔を見合せた。
今は、冬の農閑期――。泊まりがけで入湯にきているのは、ほとんどが近くの淳朴なお百姓たちである。
「そういえばここは地獄谷の釜の湯……。地蔵さまちゅう仏さまは、地獄に
「わしらみな、けが人か
手もなくコロッと、だまされてしまった。
「まあ、お待ちなせえ。夢は五臓の疲れなどといいますからね。あんまりみなさん雲をつかむような夢物語など、本気にしねえでくだせえよ」
わざと大笠はそのとき気の無い顔をしてみせたのだが……。
今日が、いよいよ約束の三日目――。
あらかじめ打ち合わせてある
小笠を地蔵さまに仕立てて乗りこませ、口から出まかせをならべさせてお百姓連中をけむに巻いたあげく、
内心、そわそわしながら、しかし表づらはあくまで落ちつきはらって、湯治宿の炉ばたで大笠が、ひる飯をかきこんでいるところへ、
「たいへんじゃあ」
わめきたてる声がきこえた。
「みなの衆、来てみろよう。地蔵さまがほんとにござらっしゃったぞう」
大笠は、ほくそえんだ。
(やってきたな、小笠め)
彼は、だが、
「ほ、ほ、ほんとかあ」
びっくりして外へ飛び出した人々の、あとにつづいて、自分もいかにも肝をつぶしたといわんばかりな顔を作りながら、
「どこだどこだ、地蔵さまはどこだ」
かけ出した。
釜の湯をぬけて、越後の国府へ達する一本道……。
なるほどその、谷底のうねうね道を、紺の
「やれ、ありがたや」
「お迎えにゆけ、それゆけッ」
とばかり、若者めがけて湯治客は殺到した。
釜の湯は、野天
いそいで大笠も近づいたが、
「あれれ?」
相手の顔をひと目見るなり、棒を呑んだように立ちどまってしまった。服装はまぎれもなく、しめし合わせた通りなのに、かんじんの若者が、仲間の小笠とは、似ても似つかぬ別人だったのだから、むりもない。
2
いきなりわッと、裸ン坊までまじえた湯治客にとりかこまれて、仰天したのはその、若者である。
「なむ、地蔵大菩薩さま」
ひざまずかれても、おがまれても、なにがなんだか、いっこうにわけがわからない。
「どうしたのですみなさん。私は国府までゆく旅人です。
「お地蔵さま、おとぼけなされてはいけませぬ。ま、ま、こちらにご鎮座あそばしてくださりませ」
「ちえッ」
舌打ちした。手ちがいが起こったにきまっている。
「小笠め、なにをしていやがるんだろう」
みんなとはあべこべに宿を出て、街道すじを見張っているうちに、
「きたッ」
やっとこさ、相棒の小笠があらわれたが、どうしたことか、荷運び馬の背に米俵といっしょにおぶさって、
「このばか野郎、なにをぐずついていやがったんだ」
鞍脇へ寄って行って、大笠は腹だちまぎれに、小笠を馬からひきずりおろした。
「いてててて」
と、小笠は悲鳴をあげた。
馬子はそのまま、
「はいよ。おさきに……」
馬を
「痛いとは、どこがいったい痛いんだよッ」
「足だよほら……。朝がた、ゆんべ泊まった辻堂を出ようとして、釘をふみ抜いちまったんだ」
右足だ。ぎりぎりしばったぼろ布に、なるほど血がにじんでいる。
「それで
「ごめんよ兄貴。なんしろ痛くて歩けやしねえ。馬に乗っけてもらってここまでくるあいだも、ウンウン唸り通していたんだぜ」
「まぬけめ。ドジをふみやがったおかげで、とんだ番狂わせが起こっちまったぞ」
偶然にしても、まったく呆れかえった一致だが、そっくりそのまま同じなり、同じ年ごろの若者が先にきたために、お百姓連中はてんからその男を、地蔵菩薩と信じこんで、
「いま、下にも置かねえちやほやの、まっさいちゅうなんだよう」
と、いまいましげにかたる大笠の言葉に、
「へーッ、おったまげたなあ」
小笠もあんぐり、口をあけた。
しかたがない。彼は肩荷の中から別の衣類を出して着かえ、びっこをひきひき大笠の背について、湯治宿へはいっていった。
中はえらいさわぎだった。
いっさい弁明に耳をかさなかったらしく、人々は田辺の
「お助けくだされ。脚気がひどうて、畑仕事も思うにまかせませぬのじゃ」
「わしゃ、
「この子の
あらそって願いごとを、訴えているのであった。
困りきりながらも、気だてのやさしい若者とみえて、真人は脚気の老人の足を、
「どれどれここですか?」
なでたり、さすったりしてやったが、なにしろしんそこ地蔵さまと信じこんでいる相手だから、指がふれただけで、
「うう、もったいない」
びりりと
「きのどくに……。なんとかすこしでも、よくなるといいのですがね」
自信なさそうに言いながら、それでも真人が一心こめて、その頭をもみほぐすうちに、
「おうおう、ありがたや。痛みがすっきり、とれましたぞ」
さけびだしたのだから、気というものは恐ろしい。
「せめてかゆみだけでも、うすくなってくれますように……」
念じながら懸命に、硫黄の湯をその肌にそそぎかけてやった結果、わずかながらかゆみが消えてきたのである。
「けッ、ばかばかしい」
人垣のうしろにたたずんで、大笠は小声で悪態をついた。
「あいつがなんで、地蔵さまなんぞであるものか。ちきしょう。こうなったら賽銭はあきらめて、湯治客の持ち物をかっぱらってずらかろうじゃねえか。なあ小笠」
だが、それにしろ、小笠の足のけがが、いますこし、よくならなければ動きがとれない。
「まったくしゃくにさわるなあ」
と、ぼやきながらも、大笠は弟分につき合って、しばらく釜の湯に泊まりつづけなければならなくなった。
3
人々の素朴な信仰に、熱くとり巻かれているうちに、田辺の真人は自分自身も、
「もしかしたら私には、ほんとうに地蔵菩薩がのりうつって、お手を貸してくださっているのではなかろうか」
なかば疑い、なかば信じるようになった。
そして、そうなると、ますます使命感のごときものにとりつかれたらしく、国府への用事を二の次にして、彼は専心、病人の看護に没頭しはじめた。
気でなおる
しかし、気だけではどうにもならない病気も多い。でも、そういう病人たちも、
「地蔵さまに
と、よろこんで、心に張りを持つのである。
――そんなさなか、旅の侍が一人、釜の湯へ湯治にやってきた。見るからに勇猛そうな
「なんだと? あの若造が地蔵の化身? わはははは、愚にもつかぬことをぬかしおる」
と一笑に付したばかりか、どうやら、
「世間を、
とさえ、彼はカンぐったようだった。
大笠は、この侍の太刀と持ち金に目をつけた。
「砂金だぜ。にぎりッこぶしぐれえの
と、小笠にささやき、
「それにしても、しようがねえなあおめえの足……。ちっともよくならねえじゃねえか」
じれったがる。
冷淡な仲間よりも、はるかに親身になって、小笠の足を心配してくれたのは、むしろ真人だ。
「痛そうだなあ。ずいぶん腫れましたね」
巻き布をほどいて、眉をひそめた。はじめの手当てが雑だったせいか、ふみ抜きした個所は
「でももう、見たところ膿みきっているようです。口があいて、
「およしなせえ、きたねえや」
あわてて足を引こうとしたが、真人のくちびるが、きず口に近づくほうが早かった。
「だいじょうぶ。膿汁ぐらい口にはいったって、きたないことはありません。みなさんに心から敬愛され、信じ、
腫れあがった足をかかえこんで、吸っては吐き吸っては吐き、とうとう一滴のこらず、膿汁を出してくれたのである。
「ありがとう真人さん」
小笠の目は、涙でいっぱいになった。
げんきんに熱はひき腫れはひき、痛みもとれて、歩きだせるまでに小笠が恢復したのを見ると、
「さあ、それじゃはやいとこ、ひとかせぎして、ずらかろうぜ」
さっそくある夜、大笠は盗みにかかった。
「仕事はおれがする。おめえはおれが合図したら、すぐ外へ逃げ出す用意をしとけ」
かねて目をつけていた泊まり客の持ち物……。中でも金目の品は、侍の巾着と太刀である。
浜にならんだ
「ううん」
と
「なにやつだッ」
おっとり刀で侍ははね起きた。大笠はうろたえ、布包みをかかえたまま奥へ走って、突き当たりのひと間にとびこんだ。
そこは、みんなが掃ききよめて、
「地蔵さまの
真人ひとりを寝泊まりさせている
「助けてくれッ、殺されるッ」
「ここにかくれなさいッ」
いそいで大笠を、
「ぬすびと、待てッ」
侍がおどりこんできた。さわぎに驚いた湯治客たちも、
「なんじゃ、なにごとじゃい?」
ねぼけまなこでかけつけた。
うなだれて、何もいわずに、その場に手をつかえた真人を見、布包みを見た侍は、
「さてはやはり、貴様は愚民をたぶらかすまやかし地蔵。しかも化けの皮の一枚下は、盗賊ですらあったのだなッ。ゆるさんッ、成敗してくれるぞッ」
さけびざま太刀をぬき、やにわにその肩さきを割りつけた。血しぶき、
「わッ」
「やや、地蔵さまを斬りおったッ!」
「この
と興奮し、息まいて、群衆は侍めがけて突進しかけた。
と、このとき、断末魔の息の下から、人々を制したのは真人だった。
「お侍さまの推量はただしい。私は地蔵尊なんかじゃなかった。もったいなくも地蔵のお名を
それだけで、気力が尽きたのか、血海の中にのめったきり、真人はうごかなくなった。
ぬすびとの濡れ
「どいてくれ、おがましてくれッ」
人立ちをかき分けかき分け、灯のそばへにじり出て、
「あんたは地蔵さまだ、地蔵さまだよう」
ただの人間にちがいないが、真人の行為は菩薩の慈悲に通じる。ほとけは遠くにいるものではない。人間めいめいの、愛の心に宿るのだと、さとりはしたが、口でうまく言える小笠ではなかった。彼は、ただ、
「地蔵だ地蔵だ。やっぱりあんたは、地蔵さまだったんだよう真人さん」
まだ、ぬくもりの残る若者の身体をゆすぶり立て、身を
かぶら太郎
1
京都への、出はいり口は七つある。
その一つ、
ひとりは若い。いまの一人は、年のころ七十に余る老尼である。そのくせ若い尼僧のほうがくたびれたのか、顔いろも青ざめ、うつむきがちに、足をひきずり老尼のあとにしたがってゆく……。
「どうしたのじゃ善信、いつものそなたらしくもないのう。どこぞ、かげんでもわるいのではないか?」
ふり返って、いたわる老尼へ、
「い、いえ、なんともありませぬ」
あわてて首をふってみせるが、そのまにも、善信とよばれた若い尼は、くるしげに肩で息をしているのだ。
愛くるしい、いかにも悧発そうな尼だった。年もまだ、十六か七らしい。花なら、ほころびかけた
「ひる日中を、歩きつめたので、暑さあたりをしたのであろ。寺はもうじきじゃ。しんぼうして歩きなされ」
「はい」
つらそうに伏し目になるのを、老尼は単純に、暑気にやられたと解釈し、また、先に立って足をはこびはじめたが、じつはそれどころではない悩みに、善信はひとり、胸を痛めていたのである。
月のものが止まって、もう、四ヵ月になるのだ。
(信じられない。…… 信じたくない)
身体に起こった変調を、はじめ、懸命に否定していた善信も、どうやら、
(みごもってしまったのだ )
みとめないわけにはいかなかった。
ゆだんと責められれば、たしかにゆだんではあったけれど、善信の妊娠は、堕落でも破戒でもなく、まったくの災難からひき出された二重の災厄であった。
石山の観世音に、お籠りに行った夜――。
うとうと、まどろんでいる身体の上に、重いものがのしかかってきた。はじめは、夢の中のことと思っていた。くり返し、知覚される異様な感覚に、はッとほんとうに目がさめたとき、
「さわぐんじゃねえよ尼さん、もう、こうなったら、されるままになっているほうが身のためだぜ」
聞いたこともない男の声が、耳もとでささやいていた。あたりはまっ暗だった。さけぶまもなく、口は、口でふさがれ、息がつまった。
恐怖になかば、気をうしなった善信を、飽きるまでむさぼると、
「あばよ」
闇のどこかへ、男はすばやく、消えてしまったのである。
たった一度きり……。それも善信にとって、苦痛しか覚えなかった交わりでも、子というものはできるものなのだろうか。
(どうしよう。こんなこと、長老尼さまには申しあげられない)
弟子仲間の尼たちにも、むろんうちあけられる話ではなかった。老尼に目をかけられている善信を、日ごろから
「どこかで、いたずら事をしてきて、うまうまウソをついているのでしょうよ」
としか、受けとられないのは、わかりきっていた。
善信は捨て子だった。小さいときから老尼の手もとにひきとられ、学問仏典、尼としての修業をきびしくしつけられた。生まれつき聡明だったためか、めきめき素質はのび、
「ゆくゆくは、寺の跡をつがせよう」
と、この若さで、老尼にも期待されているまじめな、勝気な尼僧なのである。
「なんじゃろう善信、あの人だかりは……」
ふいに、老尼は足をとめた。
(いっそ、死んでしまおうか)
考えあぐねながら、あとについて歩いていた善信は、あやうくその背につき当たりそうになった。
「ほんに、人がたくさん集まっております。なんぞ、あったのでございましょうか」
行く手の往来……。それも道のまん中に、通行人が垣をつくって、ガヤガヤさわいでいる。
「なにごとでございますかな」
近よってたずねる老尼へ、
「やあ、浄泉寺の
顔見知りの
「ごらんなせえ。まだ屈強の男ざかりだが、
なるほど
「つついてみろやい」
「さんざ、つついただ。でも、ピクリともしねえよ。卒中にやられたのじゃあんめえか」
「そんな年じゃなかろうが……」
「なんにしても、行き倒れにまちがいねえ。やれやれ気の毒に……。なんまみだぶ」
口々に勝手なことをいう見物のうしろから、
「どけどけ、ご通行のじゃまだぞ」
郎党らしい
2
狩りに出かける中途らしい。身分もなかな高そうな武者にみえる。
下民どもはおそれをなして、先を払う郎党の
「なに者じゃな、あれなる男は……」
馬をとめて遠くから、侍は死人を見やった。
「行き倒れらしゅうございます」
郎党の答えに、
「ううむ」
なお、目をこらして、じっと死人を凝視していたが、なに思ったか、いきなり馬からとびおりると、侍は弓に矢をつがえた。
射るのかというと、そうではない。狙いすましたまま用心ぶかく、死人からできるだけ遠ざかって、道のはじっこを抜き足さし足、通りぬけていくのである。
主人のこの、警戒ぶりに、供の郎党たちもおっかなびっくり、足音をしのばせて
だいぶ行ってから、やっともとどおり馬に乗り、あとも見ずに立ちさるのを、遠まきにながめて、
「なんだ、ありゃァ」
「臆病な侍もあったもんだな」
「いくら、こけおどしななりをしたからって、死人を見てふるえあがるようじゃァ肝ッ玉もしれてらァ」
「ばかばかしい」
ヤジ馬はわいわい笑い、もう、それで、ひまつぶしにも飽きたのだろう、三々五々どこかへ見えなくなった。
老尼はだが、一人、小首をかしげて、
「いまの、お侍さまのそぶり、なんとしても
弟子の善信尼をうながすと、道のほとりの木立ちのかげにかくれた。
――まもなく、また、おなじ、京の方角から、馬に乗った武者がやってきた。これは、こんどは旅すがただ。供は一人もつれていない。前の侍にくらべると、太刀も馬も、だいぶ劣るが、ひととおり武具を身につけ、路用とみえる砂金の皮袋まで、腰にぶらさげている。
「なんだ、こいつは……」
やはり死人に目をとめたものの、
「行き倒れだな」
この侍のほうは用心もなにもなく、うかうか馬からおりてそばへ寄り、
「やい、もう息はないのか」
持っていた弓の先で、チョイチョイ死体をこづき廻した。
その瞬間だ。やにわに死人の腕がのびた。弓をひっつかむと、
「やッ」
おどろいて引こうとする侍自身の力を利用して、ぱっととび起き、相手の腰から差し添えを抜くやいなや、横一文字に
「ぎゃァ ……」
悲鳴をあげて、侍はうしろへ尻もちをつく。
おどりかかって、その身体から
「にせ死人じゃった。あれは音にきこえた盗賊の、
老尼は身ぶるいして言った。
「先刻の武者は、さすがな者じゃ。ひと目でうろんな死人と見やぶったからこそ、あのような用心をしたものを、ひきかえてこのお侍の、考えなしなことはどうじゃ。おなじ、もののふとは言い条、こころがけは天地のちがいじゃの」
それにしても、けが人はうんうんうなっている。
「しかたがない。寺へつれていって、きずの手当てをしてやりましょう。仏者の勤めじゃ」
ちょうどさいわい、さっきの馬子が、
「やァ、尼公さま、まだこんなところにござらっしゃりましただかい」
「よいところにきてくれました。このお待、寺まで運んでくださらぬか」
「やァやァ、えらい血じゃ。目を廻してござらっしゃるの。こりゃまた、どうしたことじゃ」
かいつまんで事情をはなし、馬にかき乗せて寺へもどった。
「薬はないか」
「それより、医者どのをよびましょうか」
「なんの、それにはおよぶまい。思いのほか浅手じゃ。血止めを出しなされ」
「尼公さま、お召しものがよごれます。わたくしどもがいたしましょう」
と、寺では尼たちが総出で、一時、ごった返したが、善信尼ひとりは、さわぎもいっこうに身に添わなかった。
(お腹の子……このままずんずん、大きくなっていったら……)
その心配一つをめぐって、心はどうどうめぐりするばかりなのだ。
(死ぬほかない。とても生きてはいられない。尼の身で、だれともわからぬ男の種を
でも、いざとなると、実行はなかなかむずかしかった。
(首をくくろうか。それとも川へ……)
とつおいつ、考えあぐねているうちに日かずがたち、けが人のきずのほうは、めきめきよくなってきた。
3
侍は、名を
「なんともわれながら、不覚をとりました。あの死人が、盗賊の袴垂とは……」
「これからもあることじゃ。のほほんと、なんの用意もなく、
老尼に意見されて頭をかきかき、
「ご教訓、肝に銘じました。以後、くれぐれも気をつけます」
誓うけれども、どれほど肝に銘じたかは、予測のかぎりではない。まのびのした
「はやく出立してくれないかしらねえ」
床あげにこぎつけ、足ならしの散歩がてら、境内をあちこち、小太郎が歩き廻れるまでになったある宵、いよいよ善信は、死を決意した。
「仏さま、長老尼さま、おいつくしみは忘れません。どうぞわたくしをおゆるしください」
小さなふみ台を下に置き、しばらく
「南無!」
あわや、台を蹴ろうとした瞬間、
「なにをするッ」
大声といっしょに、抱きついてきた者があった。男の手だ。小太郎の声だ。
「はなしてくださいッ、死なしてッ」
もがいたが、
「だめだ、その若さで死ぬなんて、とんでもないはなしだ」
小太郎はしゃにむに、あらがう善信を地上へおろしてしまった。
「わけをきかせてくれないか尼さん。――あんたは善信とよばれている尼さんだね」
「なにも言いたくありません。長老さまにさえ、申しあげられないわけを、行きずりの、あなたなんぞに……」
「風来坊のおれにだからこそ、かえってこだわりなく話せるんじゃないのか? ここの尼公さまに、おれは命を助けられた。その恩返しに善信さん、ない智恵をしぼってでも、あんたを助けたいよ。相談にのろうじゃないか」
口ぶりはあたたかかった。兄が妹にいうような、親身の情があふれていた。四ヵ月ものあいだ秘密をかかえて、一人、なやみつづけていた善信の胸の氷が、ふっとと(=ニスイに、解}けた。
「きいてくれる?」
声がうるんだ。
「あたし……あたし……」
「それで……赤ちゃんができたらしいの」
「なんという畜生だ。こんな清純な尼さんを、汚すなんて……」
歯がみして、宙をにらんでいたが、
「そうだッ、名案を思いついたぞ」
小太郎はいきなり立ちあがると、松林を走り出てゆき、しばらくして、もどってきた。片手に、菜園から抜いてきたらしい大
借り着の袖で蕪の泥を落とし、まん中からすぱッと割って、中央をくりぬいた。
「さ、これを持って
とっぴな進言だ。善信は目をまるくした。
「食べて、どうするの?」
「どうもこうもない。それだけさ。あとはおれがよいように、かならず始末をつけてあげる。あんたは身体をいたわって、だれがなんと
「生むの? 赤ちゃんを!」
「生むのさ。だいじょうぶ。……いま四月とか言ったね善信さん」
「え、四月……」
「あと半年のうちにきっとまた、おれはこの寺にもどってきて、あんたの名誉を
善信は信じた。小太郎の救いを信じて、厨にもどり、言われたとおり、
「ほら、ごらんなさい。半分にたち割った上、穴まであけた大蕪が、畑の
仲間の尼たちの見る前で、蕪を煮つけて食べてしまった。
小太郎が全快し、駿河へ旅立っていったのは、それから五、六日あとだった。旅仕度の
さすがに心細かったが、善信は耐えて、なりゆきにまかせた。
腹部はしだいに目だちはじめ、
「善信さん、あんたまあ、そのお腹はどうしたの?」
あんのじょう、非難攻撃の
「相手はだれじゃ。かくさずに、わしにだけは話してみやれ」
根ほり葉ほりしたけれども、これも小太郎の言いつけを守って、
「知りません。なぜこのようなお腹になったのか、まったくわたしには、身におぼえのないことでございます」
善信は、かぶりをふりつづけた。
そのうちに産み月がき、男の子が生まれた。
(どうするの? 小太郎さん、約束をわすれたの? 助けにきてくれないの?)
気が気でなかったが、そんな善信の不安が通じでもしたように、赤子の誕生から十日ほどして、ひょっこり小太郎がたずねてきた。
「おかげさまで、駿河での用はのこりなく片づきました。これから都へもどります」
すっかり日やけして、歯ばかり白い。
「それはよかった」
「ですが長老さま、尼寺には似合わぬ泣き声がいたしますな、あれはどこの赤児です?」
いぶかしそうに、小太郎はきょろきょろ、あたりを見まわした。
「こまっているのじゃ」
老尼はそっと、ため息をもらした。
「じつはそなたの留守のまに、弟子尼の善信が、だれの種ともわからぬややを生み落としてなあ」
「ほう、あの道心堅固な尼さんが……」
しかつめらしく、腕を組んで考えこんだあげく、その腕をいきなりほどいて、
「こいつはしくじった。その子供の父親、かく申すわたしに、ちがいありませんよ」
小太郎は笑い出した。
「なんじゃ。ではそなたが、善信を……」
「いえいえ、長老さま、早合点なさってはこまります」
いそいで小太郎は手をふった。
「指一本、善信さんに、わたしは触れてはいません。――ただし、凡夫のあさましさ……。寺とはいえ若い尼僧がたにきずの看護をされているうちに、どうにも
「前へ、押しあてたと申すのか」
「ははは、お恥ずかしい。でも、それでさっぱり、身体が軽くなりましたが、もしや善信さん、その蕪をめしあがって、懐妊されたのではありますまいかな」
蕪を犯した男……。
その蕪を食べてみごもった尼……。
「なるほどのう」
感に耐えた顔で、長老尼は幾度もうなずいた。
「世の中には、そのようなふしぎも、あるものなのじゃのう」
謎はとけた。疑惑もはれた。
「と、わかれば、この子はまさしくわたしの子。かぶら太郎とでも名づけて育てましょうよ」
馬面をニコつかせ、大事そうに赤児をかかえて、小太郎は都へ帰って行った。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/08/25
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