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銅鑼

 庭の芝生には陽が隈なく照つて、鳩がおりてゐる。秋の日射は日中(ひなか)は未だ暑い。

 食堂では三時の喫茶が始まつた。子供の声と茶器の音――それは庭の端からでも聴える。廿歳(はたち)の長男を(かしら)に八人の子供は少し多過ぎる。此家の主人――吉田は時折さう思ふ。然し有難い事には、皆んな健康である。元気で(まる)でホックス、テリアの様に跳廻る。男の子も女の子も――。今も三時の銅鑼(どら)がなるまで、子供全体、いや父親までが庭にゐた。銅鑼が一つ二つとなつたと同時に、潮が()くやうに、子供達は食堂へと()けた。投げ出された蹴球だけが、日射で熱くふくれてゐる。(せき)とした。鳩が降りたのも、勿論それからであつた。

 突然玄関の呼鈴(よびりん)が長くなつた。ガヤガヤ喋り乍ら、手と口を動かしてゐた子供達が一斉に口をつぐみ、手を置いて父達の顔をみた。

「謙吉様がお見えになりました」

 小間使(こまづかひ)が訪問者の名を伝へた。主人と夫人は顔を見合せて、眉と眉を寄せた。「困つたわね」と云つたのである。然し子供達は椅子から腰を浮かせて、父達の言葉を待つた。珍らしい訪問者を迎へたいのであつた。

「ここへお通しおし。それから珈琲茶碗を一つ」

 夫人の言葉をきくと、長男と長女とだけは有繋(さすが)に残つたが、他の子供達は玄関へ我先に行つた。間もなく人気のある謙吉が両側に子供達を引寄せて、彼の長身を現はした。顔一杯に笑ひを浮べながら――

 

 ここで謙吉――野々山謙吉をひと言説明しておく必要がある。謙吉は此家の主人にとつては、たつた一人の甥である。(はや)く両親を()くした彼は、殆ど此叔父の手に育てられた。生来病身の彼は、なす儘に成人した。自分の好きな道といふのが、図らずも劇の方へ向いて行つた。まさか自身舞台に立つ事はあるまいと、叔父達は思つてゐた。それが此春、突如、H小劇場に俳優として出る事を、叔父達の知つた時、彼等は文句なしに(おどろ)き反対した。困ると云つた。然し謙吉の決心は堅かつた。弊履(へいり)の如くに此家を捨てて去つた。だが自分達の子供の為めにもと云つて、吉田は却つて喜こんだ。廿四歳まで面倒をみてやつたからといふ(はら)もないではなかつた。

 野々山といふ名が新聞の演藝欄などに見え出したのは、それから(しば)らくたつてからであつた。「謙吉さんだ。謙吉さんだ」と子供達がみつけて、大事件の様に報告した。吉田夫婦は苦笑をした。新聞に名の出る人は偉い人と子供達が考へてゐるだらうと思つたからである。

 謙吉は、春がすぎ夏が去つても姿を彼等の家に見せなかつた。何の音沙汰もなかつた。吉田夫婦はその事をむしろ有難いと思つてゐた。子供達が晩餐の時に噂しても、又雑誌に載つた写真を、わざわざ切抜いて持つて来たりしても、唯、フンフンと云つて取合はなかつた。

 処が、意外にも彼が姿をみせたのである。

 

「大変御無沙汰いたしました」

 吉田は、如何にも丈夫さうな彼の顔をみて一寸不思議な気がした。彼のどの点にも所謂俳優らしい処はみられなかつた。家にゐた頃と服装にも変りがなかつた。考へてゐた程の事もないと、吉田は思つた。

「丈夫かね」

「風邪一つ引きません」

「それは結構だ」

 吉田は子供達が謙吉のどんな些細な点にも好奇心を傾けてゐる事に気づいたので、芝居に関する事は何もきくまいと決心した。

「実は今日不意にお伺ひしたのは一寸お願ひがあつて――」といつて謙吉は一口珈琲を啜りながら夫婦の顔を真面(まとも)から等分にみて「叔父さんところの、あの銅鑼――食事時に使ふ銅鑼を暫時(しばらく)の間、拝借させて頂きたいと思ひまして――。いけませんかしら」 

 思ひも掛けぬ事を云ひ出されたものだと、夫婦は顔を見合せた。子供達は、ニヤニヤしながら、両腕を食卓の上に置いて、其上に顎をのせたりして、父達三人の顔を見守つた。此興味ある問題の結果は? 何しろ嬉しくつて堪らないといつたやうに。

「何にお使ひになるの?」

 夫人が思はずきいた。

「芝居の開幕の報せに使ひたいんです。鉄鈴でやつてゐるのですけれど、どうも在来(ありきた)りで面白くありませんので、色々考へた上句、叔父さんところの銅鑼が貸して頂ければ、斯んな素敵なことはないと思つたんです。勝手なお願ひですが、他に見付かる迄(しば)らく貸して下さい」

 少しも堅くならず気軽に謙吉は喋つた。主人は、此の今の自分の生活に就いて一言も語らず何もかも説明せずとも先様では御承知だといふやうに、自分の要件だけを素直にスラスラ喋つた、たつた一人の甥を呆れて見てゐた。然し子供の前で役者になつた径路なんかをズバズバ話されるより、此方が良いと思つた。早く帰つて貰ふにしかず、姑らくだ、銅鑼も貸してやれと(はら)に決めて、夫人の眼に視線を合せた。

「御用にたつんでしたら、お持ちなさい」

 夫人が主人の意を受けて云つた。()して早速、銅鑼を外させて包ませた。なる程、謙吉は直ぐ帰り支度をした。礼を云つて立ち上ると、急に思ひ出したやうに、懐中(ポケット)に手を入れて紙片を出し、食卓の上に置いた。

「明日が初日ですが、招待券をおいてゆきますから、是非来て下さい。さうだ。みんなで来て下さい」

 と子供達の方を一巡した。而して子供達がガヤガヤ一枚の招待券に集つてゐる間に、大きな銅鑼の包を抱へて、玄関へ姿を消した。

 

 置いてゆかれた招待券が、吉田夫婦を悩ました事は事実である。子供達の主張は斯うである。――芝居を観に行くのではない、うちの銅鑼を聴きに行くのだと、いふのである。是には夫婦も鳥渡(ちよつと)弱つた。馬鹿ナと叱るのも可笑しい。それに、此親達の心にも、家宝といはないまでも、家代々伝はつて来た銅鑼を、ああした公開の場所で聴いてみたい。大人気ない事だが、あの音を胸の底に沁々と沈めてみたい。

 到頭、子供達の(のぞ)みは入れられた。下の二人の子を除いた一家の総勢十人が翌日の夕方、開幕時間より一時間も前にH小劇場に自動車を横づけたのである。

 一列にズラリと腰を下した。すると小さい子供達は直ぐ退屈しだした。

「パパ、まだですか」

 かうした質問をたえまなく繰返す。吉田は後悔した。といつて他に方怯もなかつた。「もう(しば)らくだ」と、これも繰返しながら、筋書を読み出した。読んでゆく内に、ハタと当惑して、其処のところに爪で標を付けて、傍らの夫人に見せた。一目みると、

「どうしませう!」と夫人が少し慌てた調子で云つた。

(うま)譎詐(ごまか)して一幕だけで出よう」

「さうするより他に仕様ありませんね」

 夫婦の会話は秘かに取換(とりかは)された。夫婦が当惑した点は、謙吉の役に就いてであつた。第二幕目に学生の謙吉が若い娘に接吻をする場面がある。対手(あひて)が謙吉であれば尚更、子供達には見せたくない。第一幕だけで帰るのが一番無事だと、夫婦は決めた。

 と、其時突然、銅鑼がなり出した。

 「パパ、なつてよ、なつてよ」

 「うちの銅鑼だ、銅鑼だ」

 男の子は手を拍つた。

 ガ――ン、ガンガンガン………………。

 なんといふ壮大な立派な音だ。なるのにつれて観客がゾロゾロ席に着く――といふより銅鑼の音に席につかせられるのも愉快だが、それよりも一家の者には始めて聴くといふやうな響きを胸に落込ませた。

 鳴り終ると、一様に太い息をついた。なんといふ事なく、みんな満足した気持になつた。芝居なんぞどうでもいい気特になつた。で、第一幕が済むと、比較的らくに劇場を出る事が出来た。子供達も大した不平もいはず、自動車の人になつた。

「銅鑼の出世」

 といつた長男の言葉が、夫婦にもただ出鱈目と思はれない気がした。

 

 銅鑼が劇場に移つてから、一週間程たつた。吉田一家には、色々な事が起きて来た。   

 先づ第一に総ての事に不規則になつた事である。といふのは食事の時間が正確に厳守されないのが因をなした。

 物を食ふ事が、銅鑼に始まり、銅鑼に終る家であつた。銅鑼がなくなつてから、それが駄目になつた。ピタッと正確にゆかなくなつた。何しろ大勢の子供達である。仲々うまく集まらない。先に食卓についた者達が、待ち切れずにお先に始めて仕舞ふ。しかも、

「ガ――ンガン」のない食事は間が抜けてゐる。何か物足らない。主人は飯がまづい気持までする。自然不機嫌になる。夫人は夫人で、子供が集まりきれないので、それを待つてる間に、時折、食ひはぐれたりして、飛んでもない時に、箸を取る。そんな事が、腹によくない事は当然である。

 子供達に至つたら大変である。三時のお茶時が、全然出鱈目になつた。晩餐近かくにとつたり、中には()るく構へて、二度取るのがあったりする。

 かうした結果はすぐ悪い姿を見せた。

 子供達はバタバタと腹を下したりした。床に就く者や、医者の手を煩はす者が出た。みんなが元気を失くした。

 吉田は癇癪を起した。夫人は憂鬱になり、果てはヒステリ−を起して、女中達に当り散らした。子供同志の喧嘩は絶え間なしである。学校の遅刻は揃つてやつた。

 あの平穏な家庭が、かうも惨めに不安な家庭に変らうとは誰も考へつかぬ事であつた。

 処が或る朝、湯殿で呼ぶ主人の声に、夫人は飛んで行つた。彼は顔中を石鹸で泡だらけにしながら、夫人の顔をみると、泡の顔で笑つた。

「オイ。何もかも分つたよ」

「何がですの」夫人は呆れて夫の顔をみた。

「銅鑼だよ。銅鑼を取返へすんだよ」

 ドラといふのがボラと聴えた。夫人も笑ひ出した。然し、チラッと何か心を(かす)めた。何もかも総てが分つた。何んで其処に今迄気がつかなかつたのだらうと、不思議に思つた。

「すぐ手紙書きませう」さう云ひ残して、元気な足どりで二階に行つて、机に向つた。()して手紙を書き出した。たとへ(しば)らくの間とはいへ一家に不幸を(もた)らした野々山謙吉に宛てて。

 

     (大正十三年十月「文藝時代」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/03/16

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菅 忠雄

スガ タダオ
すが ただお 作家・編集者 1899・2・5~1942・7・9 東京小石川に生まれる。喘息の宿痾に悩みながら、後の大佛次郎らと3号雑誌を出すなどしていたが、漱石の友であった父虎雄の縁で芥川龍之介、久米正雄、菊池寛らに親しみ、同人制を廃した「文藝春秋」の編集者となるなど、同社に長く貢献した。

掲載作は、1924(大正13)年10月「文藝時代」初出、身辺瑣事に取材し小味に雰囲気をつかんだ作風をよく表した1編である。

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