銅鑼
庭の芝生には陽が隈なく照つて、鳩がおりてゐる。秋の日射は
食堂では三時の喫茶が始まつた。子供の声と茶器の音――それは庭の端からでも聴える。
突然玄関の
「謙吉様がお見えになりました」
「ここへお通しおし。それから珈琲茶碗を一つ」
夫人の言葉をきくと、長男と長女とだけは
ここで謙吉――野々山謙吉をひと言説明しておく必要がある。謙吉は此家の主人にとつては、たつた一人の甥である。
野々山といふ名が新聞の演藝欄などに見え出したのは、それから
謙吉は、春がすぎ夏が去つても姿を彼等の家に見せなかつた。何の音沙汰もなかつた。吉田夫婦はその事をむしろ有難いと思つてゐた。子供達が晩餐の時に噂しても、又雑誌に載つた写真を、わざわざ切抜いて持つて来たりしても、唯、フンフンと云つて取合はなかつた。
処が、意外にも彼が姿をみせたのである。
「大変御無沙汰いたしました」
吉田は、如何にも丈夫さうな彼の顔をみて一寸不思議な気がした。彼のどの点にも所謂俳優らしい処はみられなかつた。家にゐた頃と服装にも変りがなかつた。考へてゐた程の事もないと、吉田は思つた。
「丈夫かね」
「風邪一つ引きません」
「それは結構だ」
吉田は子供達が謙吉のどんな些細な点にも好奇心を傾けてゐる事に気づいたので、芝居に関する事は何もきくまいと決心した。
「実は今日不意にお伺ひしたのは一寸お願ひがあつて――」といつて謙吉は一口珈琲を啜りながら夫婦の顔を
思ひも掛けぬ事を云ひ出されたものだと、夫婦は顔を見合せた。子供達は、ニヤニヤしながら、両腕を食卓の上に置いて、其上に顎をのせたりして、父達三人の顔を見守つた。此興味ある問題の結果は? 何しろ嬉しくつて堪らないといつたやうに。
「何にお使ひになるの?」
夫人が思はずきいた。
「芝居の開幕の報せに使ひたいんです。鉄鈴でやつてゐるのですけれど、どうも
少しも堅くならず気軽に謙吉は喋つた。主人は、此の今の自分の生活に就いて一言も語らず何もかも説明せずとも先様では御承知だといふやうに、自分の要件だけを素直にスラスラ喋つた、たつた一人の甥を呆れて見てゐた。然し子供の前で役者になつた径路なんかをズバズバ話されるより、此方が良いと思つた。早く帰つて貰ふにしかず、姑らくだ、銅鑼も貸してやれと
「御用にたつんでしたら、お持ちなさい」
夫人が主人の意を受けて云つた。
「明日が初日ですが、招待券をおいてゆきますから、是非来て下さい。さうだ。みんなで来て下さい」
と子供達の方を一巡した。而して子供達がガヤガヤ一枚の招待券に集つてゐる間に、大きな銅鑼の包を抱へて、玄関へ姿を消した。
置いてゆかれた招待券が、吉田夫婦を悩ました事は事実である。子供達の主張は斯うである。――芝居を観に行くのではない、うちの銅鑼を聴きに行くのだと、いふのである。是には夫婦も
到頭、子供達の
一列にズラリと腰を下した。すると小さい子供達は直ぐ退屈しだした。
「パパ、まだですか」
かうした質問をたえまなく繰返す。吉田は後悔した。といつて他に方怯もなかつた。「もう
「どうしませう!」と夫人が少し慌てた調子で云つた。
「
「さうするより他に仕様ありませんね」
夫婦の会話は秘かに
と、其時突然、銅鑼がなり出した。
「パパ、なつてよ、なつてよ」
「うちの銅鑼だ、銅鑼だ」
男の子は手を拍つた。
ガ――ン、ガンガンガン………………。
なんといふ壮大な立派な音だ。なるのにつれて観客がゾロゾロ席に着く――といふより銅鑼の音に席につかせられるのも愉快だが、それよりも一家の者には始めて聴くといふやうな響きを胸に落込ませた。
鳴り終ると、一様に太い息をついた。なんといふ事なく、みんな満足した気持になつた。芝居なんぞどうでもいい気特になつた。で、第一幕が済むと、比較的らくに劇場を出る事が出来た。子供達も大した不平もいはず、自動車の人になつた。
「銅鑼の出世」
といつた長男の言葉が、夫婦にもただ出鱈目と思はれない気がした。
銅鑼が劇場に移つてから、一週間程たつた。吉田一家には、色々な事が起きて来た。
先づ第一に総ての事に不規則になつた事である。といふのは食事の時間が正確に厳守されないのが因をなした。
物を食ふ事が、銅鑼に始まり、銅鑼に終る家であつた。銅鑼がなくなつてから、それが駄目になつた。ピタッと正確にゆかなくなつた。何しろ大勢の子供達である。仲々うまく集まらない。先に食卓についた者達が、待ち切れずにお先に始めて仕舞ふ。しかも、
「ガ――ンガン」のない食事は間が抜けてゐる。何か物足らない。主人は飯がまづい気持までする。自然不機嫌になる。夫人は夫人で、子供が集まりきれないので、それを待つてる間に、時折、食ひはぐれたりして、飛んでもない時に、箸を取る。そんな事が、腹によくない事は当然である。
子供達に至つたら大変である。三時のお茶時が、全然出鱈目になつた。晩餐近かくにとつたり、中には
かうした結果はすぐ悪い姿を見せた。
子供達はバタバタと腹を下したりした。床に就く者や、医者の手を煩はす者が出た。みんなが元気を失くした。
吉田は癇癪を起した。夫人は憂鬱になり、果てはヒステリ−を起して、女中達に当り散らした。子供同志の喧嘩は絶え間なしである。学校の遅刻は揃つてやつた。
あの平穏な家庭が、かうも惨めに不安な家庭に変らうとは誰も考へつかぬ事であつた。
処が或る朝、湯殿で呼ぶ主人の声に、夫人は飛んで行つた。彼は顔中を石鹸で泡だらけにしながら、夫人の顔をみると、泡の顔で笑つた。
「オイ。何もかも分つたよ」
「何がですの」夫人は呆れて夫の顔をみた。
「銅鑼だよ。銅鑼を取返へすんだよ」
ドラといふのがボラと聴えた。夫人も笑ひ出した。然し、チラッと何か心を
「すぐ手紙書きませう」さう云ひ残して、元気な足どりで二階に行つて、机に向つた。
(大正十三年十月「文藝時代」)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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