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富岡鉄斎と宜興紫砂器

  初めに

 

 『銕荘茶譜 瓷壷之部』と題され袖珍版(15cm×9.4cm)、四十六頁、四つ目綴の一書、内扉に「周高起伯起原本 銕斎居士訳 宣興瓷壷譜 蕉陰艸堂蔵」とある。

 富岡鉄斎が慶応三年(1867)十一月十三日の日付で、明、周高起による宜興紫砂壷(紫泥、朱泥の急須)の創始とその作家列伝を記した「陽羨茗壷系」を抄訳したものである。ただし表題に「宣興(センコウ)」とあるは「宜興」の間違い。

 「宣(宜)興瓷壷譜」「文房清約図」「桑苧遺韻」を合わせ『銕荘茶譜』と題して出版された。「文房清約図」は明代の文震亨が元末の画家倪雲林(げいうんりん)(名はサンであるが難漢字)の書斎、清*閣(*=秘、の意・音の難漢字)の文房飾りを紹介した「清斎位置」に注釈したもの。「桑苧遺韻」は、桑苧は陸羽の号だが、タイトルは古人の遺風とも言うべき意で、唐人(明代)の茶会についての田能村竹田(たのむらちくでん)の説や、田能村直入の「枕山楼茶略」に掲載される図をさらに模写して茶会時の棚飾りを紹介し、それに「陽羨茗壷系」以降の、清代の茶壷の名手、恵孟臣、留佩や陳曼生などを紹介する。

 京都の書肆佐々木竹苞楼が出版を許され昭和初年頃まで引き続き出版していたらしいので、初刷り原装は確定するにまだ至っていない。

 小高根太郎『富岡鉄斎の研究』(藝文書院1944年)の資料篇に本書『宣(宜)興瓷壷譜』は収録紹介されているので、活字で読むことはできる。ただ鉄斎が描いた挿絵は『宣(宜)興瓷壷譜』には宜興紫砂壷の創始といわれる金沙寺僧像はじめ茶壷(急須)図をページごとに二十九図掲載されているが、『富岡鉄斎の研究 資料篇』では割愛され、二点しか紹介されていない。

 本稿は鉄斎『宣(宜)興瓷壷譜』を使って原典「陽羨茗壷系」を読み、日本の煎茶に影響を与えた宜興の紫砂器(急須)とそれを支え発展させた文人たちを管見するものである。また本稿では書名以外は「鉄斎」で統一した。茶壷(急須)の用語については、日本煎茶の世界では、茶注、茶瓶、茗壷、茶罐、砂罐、急焼(きびしょう)、茶銚など使用しているが、引用以外は宜興関係では紫砂(器)茶壷、日本の用語として急須とした。

 

  陶都宜興

 

 鉄斎が宣興と間違えた宜興(イーシン)(日本語読みで、ぎこう)市を簡単にスケッチしておくと、中国江蘇省の太湖に面した南端部に位置し、古来より陶窯業の盛んな地である。江西省景徳鎮の「磁都」に対し、「陶都」と対比、称されている。その陶器の色から紫泥、朱泥とよばれ、わが国では煎茶の急須、盆栽の鉢として珍重され、中国では紫砂(器)とよばれる。

 宜興は周代に荊邑といわれ、秦代に陽羨県が設置され、会稽郡に属した。隋代になり義興県と改称され常州の管轄下となる。宋代に義興を宜興に改め、一時義興と荊渓に分割されたが、民国時代再び合併され今日の宜興となっている。

 宜興における陶器生産は新石器時代に始まり、宜興は太湖、銭塘江流域の「馬浜文化」に属していた。古窯址発掘調査で印紋硬陶の生産基地であっただけでなく、初期青磁の原郷でもあった形跡があるという。製陶業地として整ってくるのは南宋以降。宋王朝が南に遷都し臨安府、現在の杭州が国都になったことにより、この地は軍事生産に組み込まれていく。需要からいわゆる水筒としての水罐が大量生産された。その後はたいした発展もなく推移したが、明代になって新たな発展の兆しが見られるようになった。

 この地は原材料となる良質の陶土の資源が豊富であり、燃料となる松、雑木、茅があり、水陸交通の便の良さ、また社会が安定していたことにより、次第に大発展を遂げた。

 明代中後期になると、散らばっていた製陶業が融合し、宜興地区丁蜀鎮を中心に大規模な「陶都」を誕生させた。この地は日常雑器生産の主流であったため、時代社会の変化にも途絶えることなく生産が続けられ、宜興の紫砂器は旺盛な生命力を維持して今日に至っている。

 日本では煎茶器の急須、植木鉢などの産地として江戸期より馴染みが深く、唐物煎茶器の産地、憧れの地であった。

 

 宜興における陶業の発展は、中国茶文化と密接な関係がある。宜興は窯業が盛んで陶都として有名になったため、銘茶の産地としての評判がそれに隠れてしまった観がある。茶の生産においても旧地名を冠した「陽羨茶」は唐代においては全国一のトップブランドであった。

 宜興地区は後漢(東漢)代から茶の栽培が始まったらしい。茶聖とうたわれる唐代陸羽の茶の専門書「茶経」(青木正児篇『中華茶書』柴田書店1976年所載)に銘茶の産地としてとりあげられている。陸羽は銘茶の産地として評価しただけでなく、宜興の山中に晩年の一時期を過ごしていた。常州太守・李栖(いん)は、陸羽が献上するに足ると吟味し評価した陽羨茶を皇帝に献上。やがて陽羨茶は「貢茶」(皇帝への献上茶、貢ぎ茶)としてもてはやされた。

 唐代の詩には陽羨茶を歌った詩が幾つも散見できるが、中でも陸羽と並び、中国茶文化においてはずすことの出来ない一人である玉川子盧仝(同)は新茶を貰ったことに対する謝礼の詩「走筆謝孟諫議寄新茶」の中で、陽羨茶のすばらしさを称えた。この詩は日本において、煎茶の世界では中興の祖といわれる売茶翁が、盧仝(同)の生き方を理想とし、これを受け売茶翁に続く人たちが盧仝(同)の世界を一つの憧れとしたので、「茶歌」として親しまれている。(煎茶書『煎茶要覧』山城屋 嘉永四年<1851年>に収載されるのが代表例の一つである。)なかでもその中の二句、

 

 「天子須嘗陽羨茶  天子須く陽羨の茶を嘗むべし 

 百草不敢先開花  百草敢えて先んじて花を開かず」

 

は日本のみならず、中国の人たちにとっては宜興の歴史と共に陽羨茶を称揚する際には必ず披露されるものとなっている。(「天子未嘗陽羨茶」とつくるものもある。)

 時代がさがってくると茶の栽培地も広がり、各地で銘茶作りに励んだことから、陽羨茶の天下第一の地位が脅かされるようになってきた。

 明代、許次(しょ)の「茶疏」には「江南の茶は、唐代の人は陽羨を第一とし、宋代の人は建州である。現今も貢ぐ茶は両地が特に多いが、陽羨は有名なばかりで、建州の茶も最上ではない、唯だ武夷の雨前(福建の茶の名産地で、穀雨の前に摘んだ茶)が最も勝れてゐる」(青木正児篇『中華茶書』柴田書店 1976年所載)とある。陽羨茶が唐代ほどもてはやされなくなってしまった事がわかる。なお建州は現在の福建省建甌県あたりの旧名である。

 唐のお茶は茶葉を蒸してそれを撞き固め、それを日干しにし、さらに加熱して固めた固形茶(餅茶)で、飲む時は釜に湯を沸かし、それを削って、一沸かしした後、一つまみ塩を入れて碗に汲んで飲んだらしい。

 宋代は基本的には唐代の喫茶の風を受け継いでいる。しかし固形茶であるが、製法はより緊密となる。そのため粉末にするための専用の器具が開発され、飲用も茶碗に先に粉末にした茶を入れ、その後に湯を注ぎ点てるようになった。(日本に移入された抹茶の形である。)又宋代の一方の茶は土瓶に茶葉を入れ、火にかけて煮るやり方である「点茶法」であった。このため「注子」と呼ばれる土瓶が広く使われた。土瓶から茶碗に茶を注ぐため、土瓶の口が工夫されるようになり、今日のような細く長い注ぎ口の形状が定まるようになった。

 元代、釜煎り製茶法が始まり、散茶(葉茶)が普及するようになる。さらに明代洪武年間(1368~1398)、「龍団鳳餅」のような固形茶での貢茶の製造が禁止され、散茶(葉茶)のまま献納されるようになると、急須に葉茶を直接入れ、湯を注いで浸出させる、撤泡茶の方法が案出された。土瓶で直接葉茶を煮出す、煮茶法で茶を入れる方法も引き続きなされたが、緑茶の製造技術が進歩改善することにより、ますます急須で茶を淹れて飲むようになった。釜煎りの散茶を急須で飲む喫茶法(いわゆる煎茶)が確立した。

 この喫茶法が確立すると茶器に対する嗜好も変化してきた。陶器が好まれる一方、磁器が軽んじられるようになったのである。

これにより宜興紫砂器の隆盛を見ることになった。ここに周高起「陽羨茗壷系」の生まれた所以がある。

 

 現代においても宜興の「陽羨雪芽」(1985年江蘇省の認定)あるいは「荊渓雲片」(1989年創制)は浙江省杭州の「龍井茶」、また同じ江蘇省無錫近郊の「碧螺春」にブランドの格としては少々劣るが、改めて緑茶の品質改良と生産に力を入れ、中国緑茶の銘茶として認定されている。(『中国名茶図譜 緑茶編』上海文化出版社1995年)

 陶業と製茶業は宜興における二大産業として重きをなしている。

 

  原本 周高起「陽羨茗壷系」と鉄斎抄訳『宣(宜)興瓷壷譜』

 

 明の周高起「陽羨茗壷系」は宜興紫砂器を知る基本典籍の第一であり、この「陽羨茗壷系」には多数の翻刻刊本が知られている。

 清康熙三十四年(1695年)、王(たく)・張潮篇『檀几叢書』本。

 乾隆三十九年(1774年)、廬文(しょう)手校精抄『盧抱経精抄本陽羨茗壷系』本。

 光緒十四年(1888年)、金武祥篇『粟香室叢書』本。

 光緒十六年(1890年)、馮兆年篇『翠瑯(かん)館叢書』本。

 光緒二十三年(1897年)、盛宣懐篇『常州先哲遺書』本。

 民国二十四年(1935年)、黄肇沂編『芋園叢書』本。

 近年、高英姿選注『紫砂名陶典籍』(浙江撮影出版社2000年)で翻刻された。なお同書には「陽羨茗壷系」のほか、紫砂陶専門書「陽羨名陶録」(清(けん)呉)、「茗壷図録」(日本 明治 奥玄宝)、「陽羨砂壷図孝」(民国 李景康、虹合編)が収録されている。中でも「茗壷図録」は中国においても日本刊行から間もなく(清 光緒年代)石印本で刊行され、民国代に入っても『美術叢書』に収載、宜興紫砂器を紹介する基本典籍として評価が高い。「茗壷図録」に収載された奥玄宝旧蔵紫砂急須の多くは現在静嘉堂文庫美術館に所蔵されている。

 日本においては中国茶書を収録した布目潮(ふう)編影印本『中国茶書全集上・下』(汲古書院1987年)の上巻中に、内閣文庫所蔵本の『檀几叢書』から影印された「陽羨茗壷系」が収録されている。本稿は東洋文庫所蔵本『檀几叢書』を参考使用した。

 

 作者の周高起は号を伯高といい、曁陽、現在の江蘇省江陰市の出身。明末の人である。『粟香室叢書』本他による作者紹介によると、著者周高起は博聞強識で、古文辞に巧みであった。崇禎十一年(1638年)江陰県知事となり、「江陰県志」を同じ学窓の徐遵湯と編纂した。茶を嗜み、壷芸(紫砂器)を愛好し、宜興紫砂を研究した。そして宜興紫砂の最初の専門書「陽羨茗壷系」を著した。明滅亡後隠居していたが、とつぜん兵が来て財産などの探索を受けた。それに屈することはなかったがその混乱時絶命した。ほかに茶書「洞山かい(=山カンムリに、介)茶系」また亡失して名のみ残る「読書志」がある。

 周高起「洞山かい(=山カンムリに、介)茶系」は以下に紹介する『檀几叢書』『粟香室叢書』らの叢書に「陽羨茗壷系」とともに採録されている。いわゆる陽羨茶を紹介したもので、前項「陶都宜興」でも紹介した、常州太守李李栖(いん)が献上茶としたこと、そして山の名は茶山とも貢山とも呼ばれ、山中には金沙泉が湧き出している。杜牧の詩に「山実東呉秀、茶称瑞草魁」とあるはこのことである、と『檀几叢書』本は前書きしている。洞山茶については、先に紹介した「茶疏」の数行後に「山の中に(はさ)まれてゐる所をかい(=山カンムリに、介)と謂ひ、(中略)然しかいは元来数箇所有り、今は唯洞山が最も佳い。」(青木青児編『中華茶書』)と、洞山かい(=山カンムリに、介)をあげている。

 『檀几叢書』『粟香室叢書』『翠琅(かん)館叢書』『常州先哲遺書』は日本に相当数輸入されている。鉄斎が使用したのはまだ確証はないが、叢書の評判や、年代的に見ても『檀几叢書』本だったと思われる。鉄斎没後の昭和十三年、十四年と二回、鉄斎蔵書の売り立てがあり、その入札の折の目録が『富岡文庫御蔵書入札目録』と題された二冊の目録となっている。その第二回目の目録、No.934に<『常州先哲遺書』六四冊>とある。確かに『常州先哲遺書』に「陽羨茗壷系」は収載されているが、これは光緒二十三年(1897)に刊行されたもの、明治になってのものだから鉄斎が刊行した慶応年間に参考にしたのではちょっと時代は合わない。『常州先哲遺書』は鉄斎というより、息子の謙蔵の収集書籍だったのかもしれない。蔵書中に『檀几叢書』があったかどうかは調査中である。

 

 『檀几叢書』の篇者王(たく)は清代、銭塘(浙江省)の人、少年の頃、喉の疾患にかかり、科挙を受験し進士(士大夫)になることをあきらめ、自宅で読書三昧の生活を送る。康熙十七年、詔が発せられ全国の博学隠士を求めたとき、都の貴人たちはこの王(たく)を推薦した。それだけ彼の名は知れ渡っていた。しかし彼に意志が全くない事を知り沙汰やみになった。王(たく)は叢書を収集していたが、公刊されずにいたので、散逸してしまうのを惜しんだ張潮が、さらに加え網羅して刊行したものである。張潮は新安(安徽省徽州)の人で、彼も雑書の収集家であった。張潮には他に王(たく)の「更命文章九命」「松渓子」などの著作の入った『昭代叢書』の編がある。なおこの『昭代叢書』には先に紹介した高英姿選注『紫砂名陶典籍』にも収載されている清、呉(けん)の「陽羨名陶録」が収録されている。

また『檀几叢書』には黄宗義「歴代甲子考」など、馴染みのものも収録され初集、二集、余集の三集に分かれていて、計五十六の著作が収録されている。(「陽羨茗壷系」は第二集に所載)

 

  「陽羨茗壷系」の内容

 

 目次風に記せば、1 序、2 創始、3 正始、4 大家、5 名家、6 雅流、7 神品、8 別派、9 後記、となる。

 まず冒頭「」は先の「洞山かい(=山カンムリに、介)茶系」で紹介した杜牧の「茶山に題す 宜興にあり」の詩「山実東呉秀、茶称瑞草魁」を踏まえて、「壷于茶具、用処一耳、而瑞草名泉」とあり、鉄斎が割愛した箇所に「この百年、茶壷(急須)は銀錫製、福建河南の磁器が退けられた。しかし宜興の陶器のみたっとばれる。(中略)宜興で採れた粘土で造られたものだけが、よく真の茶の色と香り、味を発揮できる。杜甫詩、「少年行二首」の一節に<傾金(銀)注玉驚人眼>すなわち銀の酒樽を傾け、玉杯に注いで飲めば、その器の麗しさに人は驚く、と言った詩にあるごとく低俗さを脱し高雅で素晴らしいものになった。人々は競って金を出して宜興紫砂茶壷を買う。名手の作った茶壷は、重さ一つは数両にも満たないものが、一つ二十金もし、土と黄金が価値を競うまでになった。世間の風は華やかなものへと走るようになった。よって陶工陶土の道筋をつけてみた。」(周高起は「金」と作るも「銀」が正しい、また「驚」は「惊」と作るものもある。「少年行二首」は「共酔終同臥竹根」と続く。 筆者)

 引き続き創始者の供春(供春壷として形は残るが伝世品はほとんど伝わらない)に始まり、歐正春、時鵬、時大彬など名手が現れ、大変な人気を呼んだ。特に時大彬は名人としてもてはやされたことが記され、明代以降喫茶法が変わったことによる、宜興紫砂の愛好が述べられる。以下項目を追って同書を読んでいこう。

 

  「創始」

 

 先ず創始者といわれる、名は伝わらない金沙寺僧が閑静風雅の中で陶工と一緒になって土いじりを習ったことから始まる。土を捏ね基形を作り、円形のものを作っていく。それから刳り貫き、柄、蓋、的(摘み)をつける。これによると創始の時代から宜興の伝統的成形技法の一つ、拍打成型法(通称パンパン製法)だったことがわかる。

 

 「明末嘉靖の比、金砂(ママ)寺の僧其名ハ逸したり。閑静にして風致あり。陶家に聞て始而土を和し工夫なし、今の陽羨瓷壷を、造ると云。其後供春等乃、名手おひおひ世に出しより倍さかんになりて、竟ニ海内に偏くなれるも、此僧を開祖大師となすべし。」(『宣(宜)興瓷壷譜』、濁点句点を整理し、漢字は新漢字に改めた、以下同じ。『宣(宜)興瓷壷譜』には佚名金沙寺僧が泥壷を造る姿が挿画されている。)

 

  「正始」

 

 次に宜興最初の名手供春を説明する。もともと学者だった呉仕(頤山)の従僕だったが、先生が金沙寺で読書をしている間に先の佚名僧から作り方を習得した。世に「供春壷」といわれる壷を作り出した。

 

 「この人金沙寺の僧にはじめて茗壷(ちゃだし)を造ることを習ひしが朱泥の始り也。供春聡明の生質(うまれつき)なり。よりていろいろ工夫をこらし、朱泥の開山となる也。供春の泥壷は鉄色栗色の類多し。供春又(きょう)春とよぶよし。」(『宣(宜)興瓷壷譜』)

 

 つぎに董翰、菱花式壷の創始者。趙梁、提梁式の壷を多く作った。玄錫。そして時鵬(朋)、すなわち時大彬の父である。以上が四名家で、萬暦年間の人。董翰は巧みで、他の三家は古拙である。それまでは焼成する時、他の雑器と共に裸で焼いていたものを、のう(=袋の意の難漢字)閉(匣)にいれるようになり、茗壷と呼ぶにふさわしい物ができるようになった。

 

  「大家」

 

 時大彬、号は少山。初めは供春に学んだ。当初は大きな茶壷を作っていたが、陳眉公や琅()、太原の多くの文人名家に接し品茶や茶論を学び、小茶壷を作るようになった。以降名人の名をほしいままにした。

 

 「時大彬、明の天啓の年間之ひと。別号少山と呼ぶ。宣(宜)興泥壷第一之名家也。この右に出るものなし。其造る所の泥壷古雅にして甚風韻高く用ふるに便利あり。始めは大の茗壷を造しが後ニ婁東ニ遊しに時の文人名家、陳眉公等も茶を愛し、茶事ニもくわしきを聞、親しく交りしニ、眉公の、茶壷ハ少の法妙とすすめししより、小の泥壷を多く造る。其泥壷いづれも逸品なり。泥壷ハ当時ニありて、其名高く門人も多し。(中略)清の王漁洋も宣(宜)興の泥壷ハ時大彬第一の名手と称せり。池北偶談とにみゆ」(『宣(宜)興瓷壷譜』)

 

 鉄斎は清代の別書からの評を付け加え、博覧強記ぶりを示している。

 わが国には隠元禅師将来、愛用という伝時大彬作の大茶罐(高さ19.3cm)が宇治黄檗山万福寺に伝世されている。2001年11月、入間市立博物館で開かれた「“煎茶”伝来」展に出品された実物を見る機会があったが、大ぶりでまさに名品としてふさわしい品格を持った茶罐であった。ケース越しでは判然としなかったが、火にかけた跡が残るというから、宋代の名残り、点茶法で飲まれていたものか、あるいはただ湯を沸かす為に火にかけたか不明である。担当者によると中に茶そのものが底に残るということだから、点茶法で使用されていたに違いない。胴の側面に「茶熟清香間/客来一可喜/時大彬做古」と彫られているが、時大彬作かどうかは確定していない。万福寺伝世品は時大彬作ならば彼の大茶壷製作時代のものであり、後にその作風が変わったことの証しの一つとなる。

 

  「名家」

 

 李仲芳、李茂林の子。時大彬の弟子の第一。

 

 「其造くる大彬(はなはだ)たくみにして、骨折りたり。其父敦古(ふるきかたち)の風に改めしむ。やはり尚文巧に造れり。今世伝はる大彬の茗壷ハ多仲芳の作也。始大彬仲芳の作をみて大ニ賞せり。故に、時の人、李大瓶、時大の名と呼べり。」(『宣(宜)瓷壷譜』)

 

 徐友泉、名は士衡。元は非陶人であった。父が大彬の茶壷を愛好し、家塾で技術を習はせた。

 

 「時大彬、友泉の泥壷をみて大ニ感心せり。友泉、大彬の風を恋せり。其形多くハ、大古の尊罍の類をその土色ニ合せて造れり。極而巧をついやし人の眼を驚かす也。凡茗壷の土色は、海棠紅、(しゅ)、砂紫、冷金黄、淡墨、(ちん)香、水碧、榴皮、梨皮、葵黄、と色々変色あり。誠ニ辛苦して、造る故に甚妙あり。亦其款にいろいろかはりありと。名家とゆふべし。友泉つねに吾精妙、時の粗に及ばずと歎せり。実に達意の人ならず哉。」(『宣(宜)興瓷壷譜』)

 

  「雅流」

 

 歐正春、邵文金、邵文銀、蒋伯()、陳用卿、陳信卿、閔魯生などの名があげられている。歐正春は花卉果物の形で造る名手で、鉄斎は其の挿絵を『宣(宜)興瓷壷譜』に載せる。

 

  「神品」

 

 陳仲美、初めは景徳鎮で作陶していた。陶土の配合など研究熱心で、また創作にも種々工夫をこらし壷ばかりでなく、香盒、花瓶、大きな力士像などの制作をした。

 沈君用、若くして名手であり、歐正春等の写しを造った。

 

  「別派」

 

 邵盖、周後渓、邵二孫、陳俊卿、周季山、陳和之、陳挺生、承雲従、沈君盛、沈子徹、陳辰、などが上げられている。

 

以上が明代宜興紫砂工芸上に名が残る人たちである。引き続き「後記」に当る個所、まず泥壷側面に彫られた詞句、款記について述べられ、次に用材粘土の色別の特徴、最後に茶を入れるに宜興泥壷の優位性につき記される。

鉄斎はその纏めのところをかれ流に簡訳している。

 

 「凡明名家の茗壷の、題語或詩詞甚款式巧類。初時大彬書の名手を(やと)ひて書しめ後ニ竹刀にて彫鐫せるゆえニ書ハ極てみごと也。多くハ古の能書家の筆意あり。みる人、大ニ賞歎せり。初三大家と称して、時大彬、李大仲芳、徐大友泉三人なり。其名家の子孫、茗壷を造るにやはり先人の名を其まましるせりとみゆ。亦茗壷ハ其土色にて名かはれり。梨皮、石黄泥、淡紅泥、松花色、白泥等いろいろある也。供春より時大彬の初年まで泥壷のうす墨いろに銀砂まぜりありて、観者の眼にひらめくと、ゆ茶色をみるにハ、白泥よしといえり。蓋し泥壷に茶を淹に、余の器物ハ及ざることはなはだとをし。」(『宣(宜)興瓷壷譜』)

 

 宜興紫砂器(茶壷、泥壷、急須)の創始から作家列伝が述べられてきて、最後に「後記」にあたる個所のはじめのところに、ここが肝要なのだが、宜興紫砂器ならではの特色がこの纏めのところで述べられている。

 すなわち器の側面や底部などに彫られた詞句、款識(かんし)作者名のことである。他の産地でも年紀や注文主など入った例も多くあるが、宜興窯は供春の創始の時代から、年紀と作者名を入れ、後には壷体側面にふさわしい詩句や画が入ってくるのである。時大彬は「初倩能書者落墨」、すなわち鉄斎が「初時大彬書の名手を書しめ」と訳し、紹介したように、能書家に東晋王義之書の「黄庭経」や「樂毅論」の一節を書写させ、人はこれを茶壷とともに鑑賞した。

 南画、文人画に当代一流の僧、詩人、文人が賛を入れるがごとく、紫砂壷上において、書、絵画、詩文と各芸術分野を有機的に結合する文化の融合がなされたのである。このことは他に例を見ない宜興紫砂茶壷ならではの特長である。

 

  文人が作った紫砂壷

 

 先に述べた紫砂壷ならではの特長は中国喫茶文化、その中心的担い手、元代後期から明代そして清代の士大夫、文人といわれる人の処世、文化が大きくかかわっている。

 

 「明中期以降、紫砂陶の生産は最高潮となり、あわせ独特の工芸的風格を持つようになった。この種の独特の工芸風格は優秀な詩書画と彫刻芸術の融合を得たことである。この融合と影響は以下のような経緯からである。一は文化環境、二は文人雅士が詩文の指導をし、品評し、収蔵したことである。三は文人芸術家がデザイン、制作に直接参与したことである。」((王国安、要英『茶と中国文化』漢語大詞典出版社2001年)

 

 文人芸術家と紫砂壷の結びつきが宜興紫砂器特有の工芸的風格をもたらしたのであり、紫砂壷は「文人芸術家の参与制作による産物」(『茶と中国文化』)なのである。

 宜興で作られた紫砂の皿はすでに北宋の文人に認められているらしい(梅尭臣の詩句中に登場するという)が、本格的に紫砂器が発展するのは明代中期以降である。

 許次(しょ)「茶疏」(明)中の<茶碗と茶だし(甌注)>の項に、

 

 「近日の饒州の製品(景徳鎮窯のことか 筆者)は、とても使はれたものではない。

 往時の(きょう)春(供春 筆者)の茶壷、近日は時彬(時大彬 筆者)の製品が大いに時人に珍重せられる。そのわけは皆粗砂を以て之を製して、正に砂を取って土の(にほひ)が無いからである。手に任せて造作してあるが、頗る精工を極めている。(中略)他の職人の造ったものは、質は悪く製は劣り、ひどく土の気が有って、甚だしく味を損ふ。ゆめゆめ用ゐてはならぬ。」(青木正児『中華茶書』)

 

 とあるのが紫砂茶壷の認められた早い例であろう。

 紫砂壷はこの創草の時代から文人と深くかかわっているのである。紫砂壷工芸史上先ず最初に名を残す供春は、先述したごとく、呉仕(頤山)という士大夫の従僕であり、その壷芸術と供春の文化素養は関連がある。彼は決して文人とか知識人といわれる階層には属していたわけではないけれど、長年、呉仕に仕えた生活の間に、自然文化書芸の薫陶を受けたに違いない。正に門前の小僧であったわけである。彼は呉仕の近くに居ることにより書や絵画の教養を身につけていき壷芸に結実していった。彼は壷底に銘を刻するに名手であった。

 供春は草創期の人物として名は高いが、その作品の伝世は殆ど無い。香港茶具文物館に収蔵されるのが少ないの例一つであろう。その供春作「六弁円嚢壷」の底部には「大明正徳八年供春」と八文字の刻字がある。「この字体は歐陽詢の筆意が感じられ、深く晋、唐の書法を学んでいることがわかる」(『茶と中国文化』)としている。

 その供春が学んだという伝承をもつ金沙寺佚名僧も、僧侶という知識階級であり、宜興紫砂茶壷そのもののスタートがインテリの手遊びからであり、正に「文人芸術家の参与制作による産物」だったのである。

 供春に続く大家の第一時大彬、万暦年間彼の名声は最大であった。傑出した製壷の名手になったが、彼は父時鵬(朋)から伝授された技術はあったけれど、名手、大家として大成した重要な要因は、やはり当時の文人、書画家との親交であろう。

 「時の文人名家、陳眉公等も茶を愛し茶事ニもくわしきを聞、親しく交りしに眉公の茶壷は小の方妙とすすめしより小の泥壷を多く造り、其泥壷いづれも逸品(すぐれもの)なり」(『宣(宜)興瓷壷譜』)と周高起の記述を鉄斎は抄訳した。

 陳眉公、すなわち陳継儒は松江(現在は上海市)の人、官吏であったが二十九歳の時辞し、儒衣を焼いて崑山(蘇州市外)に隠居した。著作をして生涯を終りたいとの志を持ち、詩文にも巧みで書をよくし、董其昌と並び称される大文人画家でもあった。かれには「茶話」という茶書があり、時大彬はかれに親炙した。他に大彬が親しく交わったのは王時敏、王かん(鑑と同じ)たち、共に明末清初の山水の大画家である。

 余談だが、その陳継儒の不用意な一言が明を滅ぼす一因となったということが次代の清代に言われたということだ。

これら文人たちは日常的に茶を賞味し、見識ある茶論を発表し合った。かれらの喫茶趣味では新鮮な水を使い、香りや味がまずくならないためには小さな茶壷を必要とした。そのため茶壷の製作に対し、かれらは茶壷作家にそれにふさわしい情趣を茶壷に表現することを要求した。時大彬は彼らと交流することにより、薫陶を受け、茶文化の詳細を理解していった。それによって文人たちの製壷に対する要求に対し、かれの工芸の中に融入させていった。もともとは供春を真似て作っていたので、形は大きかった。後に改め小壷を作り、あわせ高雅な境地を追求し、最終的に時大彬は自己独特の芸術風格を作り上げた。文人、芸術家との交流が時大彬を作り上げたといってもいい。ということは、時大彬の初期は宇治万福寺に伝世されたごとくの大きな茶罐であったが、文人の間での喫茶法の変化、趣向の変化があり、周高起が指摘するように、文人たちの傾向、趣味に合致した小茶壷を作るようになったのである。

 名家に挙げられた徐友泉、かれは知識階級の出身であった。聡明な人物であったが、官吏になる道を放棄し、壷芸術に打ち込み、ついに名人といわれるまでになった。鉄斎も抄訳したように、かれは尊罍などの形を写すことに長けていて、長年の修養により、様式は典雅で、さまざまな色合を工夫し、一般の職人のようなデザインでなく生涯を茶壷製作の探求に過ごし、独自のスタイルを生み出し、三大名家のひとりとなったのである。

 

 さて、「陽羨茗壷系」以降の宜興紫砂器の作家たちだが、清初の陳鳴遠は時大彬後の大名題作家である。オリジナリティに富み、技術的に制壷が巧みなことこの上も無いが、学術界、文化人士との交流で得た自身の修養があってのことであった。交流があり関係が密接であった人達の代表が、同郷で進士の汪河庭、書家の楊中訥である。汪河庭は詩画に巧みで、鑑賞家でコレクターで茶の愛好家であった。陳鳴遠はこれら文化人との交流で茶と壷芸に切磋琢磨され、よく吸収しそれを自分の中で咀嚼融和させ、それを自身の工芸に浸透させることが出来た。だから陳鳴遠の作品は当時の文人趣味を結集したものであろう。

 

 陳鳴遠を継いだのが乾隆嘉慶年間の、文人書家としても名高い陳曼生である。溧陽県(江蘇省)の県知事であったが、茶壷愛好の性癖があり、その上彼は紫砂質を分類整理し、そして茶壷の形式をデザインして名人(コンビを組んだのは楊彭年)に作らせ、「曼生壷」という十八種の壷形を作らせた人物である。文人と工芸家の合作による最高レベルの茶器(急須)工芸が生まれた。

 茶壷制作家は単なる職人でなく、かれら自身も喫茶趣味に打ち込み、また文人たちはよきアドバイザーとして新趣向を考案しては指導、制作させたのであった。

 

  文人、読書人、士大夫とはどんな人たちか

 

 これまで宜興紫砂器は「文人芸術家の参与制作による産物」、かれらの指導で育まれてきたことを述べてきた。その中で文人、士大夫、文化人、読書人など言葉を使ってきたが、文化、文化人などは近代の概念であるわけで、一般的に士大夫は地主階級あるいは科挙に合格した官吏官僚階層の人たちと理解されている。現象としては、士大夫と地主はほぼ同じであるが、この両者の区別をはっきりさせて説明したのは島田虔次である。

 

 「経済的には地主であることを例としたが、しかし、それは必ずしも必須の条件ではない。士大夫の特徴はなによりもまず、知識階級である点に、いいかえれば、儒教経典の教養の保持者たる点に、すなわち『読書人』たる点に求められる。いま少し周到にいえば、その儒教的教養(それは同時に道徳能力をも意味する)のゆえに、その十全なあり方には科挙を通過して為政者(官僚)となるべき者と期待されるような、そのような人々の階級である」(島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書1967年)

 

 と、士大夫を定義説明する。

 また村上哲見は文人・士大夫・読書人を論じ、読書人と士大夫は中国特有の人間類型を表す言葉で、士大夫の要件は天下国家に対する使命感、経世済民の信念を持ち、その使命を果たす為に必要な知的訓練、人文的教養、即ち古典の教養と作詩文の能力を持った者である。これは読書人の要件でもあり、二つはほぼ同義語に近いが、読書人は前半の治国平天下のような使命感を意識しない。文人は読書人の要件を満たしていなければならないのは当然だが、それに加えるに、「風流韻事」、書画音楽芸術活動が加わったものとそれぞれの特徴を分けて説明する。(『未名』第7号1998年「文人・士大夫・読書人」)

 上記の条件をすべて備えていた官僚文人の典型が蘇軾(東坡)であった。

 このように定義された文人の生活は科挙を中心とし、科挙に及第し、以降官途つくまでは恒産あるものは「優游読書」、そうでないものは衣食を求め「客遊生活」「売文生活」をするとその一端を青木正児は「中華文人の生活」(『琴棊書画』春秋社1964年増補版)で誌している。

 

 科挙制度については宮崎市定の『科挙』(中公新書1999年版)に詳しい。先ず地方試験、童試に合格し、生員となる。ここで官吏に準ずる身分の取得をする。次にブロック試験、郷試にすすみ、挙人となる。いよいよ中央の試験、会試がある。唐代はここで進士になれたようだが、後代はさらに天子自ら行う最終試験、殿試の合格者が進士となる。気の遠くなるような段階を踏んでいくのである。本人の才能能力は勿論のことであるが、時間というような単位のものではなく、長い歳月がかかり、それを支える経済力が必要であった。ひとたび進士となるとそこから生まれる経済力は相当なものであったらしい。だから文化というようなものは、士の階層の側にしかなかったといってよい。しかし時代が下ってくると、

 

 「唐宋以来文学芸術にすぐれた業績を残したものの多くは、科挙の試験に合格した高級官僚たちであったが、明代になると文芸にすぐれたものかならずしも科挙の合格者とはかぎらない」(大木康『明末のはぐれ知識人 馮夢龍と蘇州文化』講談社選書メチエ1995年)

 

という現象を、大木康は清の歴史家趙翼「二十二史剳記」を引いて語っている。明代になると「官僚でなくとも、ということはそうした経済的基盤によらずとも、文人としての活動が可能になり、しかも一流の文人として認められることができるようになって、広い意味での知識人の存在形態が多様化」(『明末のはぐれ知識人』)してきて、明代から清代にかけて特有の文人たちが出現し始めた。これには江南特に蘇州を中心にした経済の発展、それを基盤にした文化の爛熟があってのことといえよう。

 南宋から明、文化芸術の面では北に対して南、江南の地区が圧倒的だあった。その中心がなんといっても絹綿織物の発展がもたらした、経済的繁栄を背景にした蘇州の存在である。

 

 「明代に限らず、宋代から清代にかけての近世においては、政治の舞台は主として北方であり、それは特に塞外民族との交渉を中心として進展するが、社会経済の変遷は江南において顕著に見られるという事実である。江南でも特に長江下流のデルタ地方が北方におかれた中央政府の財政を専ら賄っているのであって、(中略)長江デルタ地方でも、とりわけ重要なのは蘇州である。(中略)

 明清時代の蘇州府《呉・長洲・元和》は中国の経済、中国の文化を代表する都市であり、言わば日本なら、大坂と京都を一つにしたような所であった。(中略)明代蘇州一府の租税負担額は浙江一省に匹敵し、天下の十分の一に当っている。それと共に文化も栄えて、科挙に優秀な成績で及第する者の数も、他を圧して、断然蘇州出身者が多いのである。」(宮崎市定『宮崎市定全集』岩波書店1992年「明代蘇松地方の士大夫と民衆」)

 

 時代は少しさかのぼるが、十三世紀元朝時代ヴェニスから旅したマルコ・ポーロもその繁栄ぶりを瞠目して「スージュ—(蘇州)はとても立派な大都会である。(中略)彼らの生業はもっぱら商業・手工業である。生糸の産額が莫大なので、衣料用の絹布が大量に織造されている。富裕な大商人の数も少なくない。」(愛宕松男訳注『東方見聞録』平凡社東洋文庫1971年)と記し、マルコはちょっと意味を取り違えたが、「上有天堂、地有蘇杭」と形容されるに至った蘇州の繁栄ぶりを紹介した。

 こうして繁栄した都市の経済力は、士大夫の中で、官途につかず、あるいは早くに引退して郷里に住みつき、「生まれた土地を愛し、郷里の民衆と苦楽を共にしようとする。こういう言わば隠者的士大夫を市隠と称せられる」(『宮崎市定全集』「明代蘇松地方の士大夫と民衆」)人たち、蘇州における市隠士大夫の存在を可能にしてきた。さらに、「市隠は人を離れて、山に籠って孤立した仙人ではなく、彼等自身のささやかなグループをもった社交人であった。(中略)市隠に指導された蘇州の風気は一種独特のものがあった」(『宮崎市定全集』「明代蘇松地方の士大夫と民衆」)のである。

 そして十五世紀半ばから十六世紀はじめにかけて、蘇州に数多くの才能が生まれた。それら文化人の代表の先ず第一が沈周(石田)である。詩人で画家で、彼には「市隠」という詩まであり、自ら市隠をもって任じていたということである。続いて四才といわれる祝允明、文徴明、唐寅、徐禎卿が登場する。中国の知識人の理想は隠者になって暮すことにあるらしい。

 

 「かれらの名は、今日ではいずれも書画の道でもっとも名高いが、じつは彼らに共通るものはいずれも『市隠』としての性格である。

 『市隠』というのは、科挙に応ぜぬ、あるいは役人になったことはあっても、それをやめて仕官せず、郷里で生活するもののことである。彼らは、詩文書画を売ることによって生活する一種の芸術家でもあった。芸術家が宮仕えをすることもなく、芸術活動に専念して暮らせるということは、結局彼らの生活を支えるだけの経済力がなければかなわないことであろう。活況を迎えつつあった十五、六世紀の蘇州ではそれが可能だったのである。」(大木康『明末のはぐれ知識人 馮夢龍と蘇州文化』)

 

 蘇州の強大な経済力が「市隠」知識人の存在を可能にし、これが他に波及していった。

 

 「これら四人に共通するのは在野の文化人だったことであり、ただ一人出仕した文徴明が五四歳の時上京したものの、三年で辞帰している。

 彼らの存在は、都会で隠者として生きる『市隠』の象徴として後世に語り継がれた。中国では世間の塵芥にまみれぬ生き方が賞賛され、隠者の類型分けまで行われている。政府の役職につかずに山中に庵を結ぶ偏屈男のみを隠者と呼ぶわけではない。中国の士大夫はそもそも経世済民をその任務としており、そのためには俗塵を被りつつ清廉寡欲に生きること《『朝市』に隠れるということで『朝隠』と呼ばれる》こそが最上の姿である、との見方もある。しかしながら、『朝隠』にしろ、世間に完全に背を向けた隠者にせよ、彼らには高度の倫理性が課せられ、そのハードルは高い。」(中砂明徳『江南 中国文雅の源流』講談社選書メチエ2002年)

 

 このように宮崎市定、そして宮崎をふまえて大木康と中砂明徳は、蘇州の経済都市を背景にした士大夫知識人を説明する。

 在野、市隠、倫理性がキーワードのようだ。明代都市文化が爛熟しきってくると、倫理性薄い市民隠者が登場してきたので、沈周や文徴明らは、そうした市隠の象徴的存在であったとしている。どうやら市隠もどきが多く出てきたらしい。

 なお大木康の『明末のはぐれ知識人』は副題に「馮夢龍と蘇州文化」とあるように、晩年わずかな期間、官吏になったが、「生涯の大半の時間を科挙の受験生、つまり落第生でおくっている、しかも飲む、打つ、買うの三拍子揃った遊び人であり、時には世間の謹厳な父兄たちからとがめを受けるほどの“はぐれもの”である」馮夢龍が、明末、江南地方で盛んになった出版業と深くかかわることによって、「才能を遺憾なく発揮することが可能」であった、明末江南地方の特有な経済社会を通してはぐれ知識人馮夢龍の生涯を描いたものである。

 明の「はぐれ知識人」の代表が馮夢龍なら、続く清代の「はぐれ知識人」の典型が『儒林外史』の作者呉敬梓であろう。もともとは高級官僚を何人も出している地主階級の家柄であったが、科挙の第一段階、童試に一位で合格したものの、父の死後財産を親戚に奪われ、自身も放蕩にふけったため、家は破産した。その後、科挙の試験も断念、もっぱら風雅な生活を楽しんだ。『儒林外史』は自身の挫折をそのままモデルとしたように、駄目な、学者ともいえないような者たちを描いた小説である。

 

  『儒林外史』に登場する喫茶風景と文房趣味

 

 『儒林外史』は時代を明代、成化(1465~1487年)から万暦二十三年(1595年)の間を借りて、駄目な学者群像を描いた物語だが、一面お茶の小説といえる。随処に喫茶の風景が登場する。客が来ると先ずお茶を出す所から始まるのである。全五十五回中十七回分に茶が重要な背景、道具として登場する。その中の代表的な幾つかを拾ってみよう。

 第十四回は龍井茶の杭州が舞台となり、この回の主人公馬二先生が茶店でお茶を飲んでいる。三十六家の花酒の店、七十二座の管絃の楼、いたるところに茶店がありと西湖のほとりの茶店の風俗を記している。

 第二十四回は南京、特に一番の歓楽街は古来より遊興の地として有名な秦淮河畔。谷崎潤一郎も芥川龍之介もはまったところである。ここは大通り小路には合わせると大小の酒楼が六、七百、茶館が一千余、どんな片隅の路地に入ろうと籠に入った茶を売っており、季節の花が飾られ、上質の雨水で茶をたてている。茶館には茶を嗜む人があふれている。夜ともなると両側の酒楼には提灯が灯り、その数数千、昼間に見紛う明るさである。

 又両河畔には河房と呼ばれる河屋敷が並んでいる。これは泊まりに便利、交際するに便利、秘め事をするに便利、そのかわり房の値段は高かった。明かりが灯る頃、簾を巻き上げ、欄干には、薄絹をまとい、髪に茉莉花を挿した乙女が寄りかかり、楽の音に耳を傾ける。

 第四十一回も四月に入って季節がよくなると、江南一の歓楽街秦淮に遊ぶ人たちの喫茶趣味を描いた秦淮河畔風景。秦淮河に船を浮かべて遊ぶのだが、そこには宜興の急須が活躍する。

 

 「さて、南京城では、毎年四月半ばをすぎると、秦淮のおもむきが次第によろしくなって来る。長江からはいって来る舟たちはみな屋形をおろして日除けのとまにかえ、さおさしつつはいって来る。船室には小さな金漆塗りの角卓子が置かれ、その上には、宜興(陶器の産地)焼きの壷(急須 筆者)、精緻極めた成・宣の磁器(清代の成化・宣徳時代の磁器はすぐれている)の碗、雨水でにられた極上のお茶。船遊びの人々は、酒肴や菓子を用意して秦淮河へ漕ぎいれて遊び、旅人たちも、小銭をはずんで極上のお茶を買い、舟でいれて、それをたのしみながら、ゆっくりと旅する。」(稲田孝訳『儒林外史』 平凡社1960年、以下『儒林外史』の引用は同書)

 

 第五十三回は南京の十二楼(公娼街)でのお話。十二楼にある来賓楼の半玉となじみの客の場面。寝間の壁には本稿でおなじみの陳眉公の絵が一幅かかっている。寝間の細かい描写はさておき、「部屋の中ほどには大きな銅製の火鉢が置かれ、真っ赤におこった炭がいけてあり、かけられた銅壺には天水がたぎっている。」娘は「ほっそりした指先で、錫の茶筒上等の茶をつまみ出して宜興焼きの壷(急須 筆者)の中に入れ湯をさして」なじみの客に差し出した。

 日本の煎茶の世界でも茶筒は錫が最高とされている。

第五十五回(最終章)、「ところが、市井には、なお幾人かの奇人が出た」と、四人の奇人が登場する。その一人は書道の名手、季遐年。一人は付け木売りの男王太、この男は碁の名手。一人は茶店の主人蓋寛で、詩、読書、画を描くのが大好き。そして四人目が仕立て屋荊元、仕事の残り時間は琴を弾いて過ごすという。知識人の代表趣味がこの琴、棊(碁)書、画、この四人はいずれも実社会においては脱落者で適応能力に欠けるが、趣味においては一流と、なんとも文人趣味を揶揄した一章である。

 青木正児には先にも引用した『琴棊書画』と、文人趣味をそのものをタイトルにした一書がある。琴棊、書画と併記されるようになった由来や、この四者が知識階級の間で文雅な趣味の代表として意識されるようになった歴史が語られている。

 

 「士人にとって四芸はあくまで遊戯である。其の技は如何にすぐれたりとも、また其の芸に如何に熱心に憂き身をやつすとも、あくまで余技であって、竟に職業的芸人と同じでない。其処に士人の矜持が有る。」(青木正児『琴棊書画』「琴棊書画」)

 

 続いて青木正児は宋代以降著しくなってきた、この四芸を嗜む雅士の欠かせないもう一つの楽しみ、文房趣味について語る。

 

 「南宋末期の趙希鵠の『洞天清録集』に、其の代表的なものを十門に分けてこれを論じてゐる。古琴弁・古硯弁・古鐘鼎彝器弁・怪石弁・研屏弁・筆格弁・水滴弁・古翰墨真蹟弁・古今石刻弁・古画弁が是である。此の中で文房具は古硯・研屏・筆格・水滴のみで、他は室内装飾や消閑の玩弄物であるが、皆文房趣味生活の必需品である。」(青木正児『琴棊書画』「文房趣味」)

 

 先述の「倫理性薄い市民隠者」にとっては「洞天清録集」はじめ同様の類書はそれらの人のための指南書として需要があったと、中砂明徳は『江南 中国文雅の源流』で指摘している。

 

  おわりに

 

 紫砂陶の地宜興はまさにこの江南、蘇州の文化圏にあったのである。宜興の紫砂を愛好し指導したのはこのような文人知識人階層であった。宜興窯の紫砂器の陶工は先述した特定名人は別にしても、他の地区の陶工と違って、これら知識階級の受け手(批評家、鑑賞家、コレクター)と交流することによって啓発され、そして他に類例を見ない書画一体となった陶工芸を生み出した。単なる陶工職人ではなく、自らも文人の教養文化レベルに近付こうとする自覚が生まれ、受け手も鑑賞愛用するに、其の作り手の技術は勿論のことだが、その文化レベルが大きく作用していたのである。

 

 また現在の中国では宜興紫砂茶壷(急須)は烏龍茶(青茶)を工夫茶方式で、葉茶を高温の湯で十分蒸しながら淹れるのに適し、緑茶には向かない、美味しく出ないというのが一般の考えである。

 緑茶は茶壷(チャフー)を使わず、蓋杯(ガペイ)とよばれるマグカップ様の器か蓋碗という蓋付の湯のみ茶碗、あるいはガラスコップに葉茶を入れ、湯を注いで、葉茶が沈むのを待つか、浮いている葉茶を、息を吹きかけ向こうにやってから飲むのが一般である。ガラスコップで飲むのは、葉茶が種類によっては浮き沈みするものや、花をそのまま乾燥させて茶にした「花茶」や茶の葉を束ねた「牡丹茶」の茶葉がゆっくり開いていく様子や、茶の水色を見て楽しみながら飲むためだという。蓋碗は急須として使用することもあるが、多くは蓋を少しずらし、葉茶を押さえ口の中に入らないようにして飲むのみ方である。花茶(ジャスミン茶)を飲むために使い始めたものだという。先にも紹介した『儒林外史』四十六回、四十七回に「蓋をとってみると」とか「蓋つきの茶碗」と登場するのがこれにあたるだろう。

 清代の上流一族の風俗を描いた『紅楼夢』第四十回においても、孫娘が祖母(後室と呼ばれ、当主も一目おく存在)に、自ら(通常茶は係りの部屋付きの侍女が出す)蓋つきの茶碗を茶托に載せてすすめている。上流で、客あるいは目上に改まって出すのに使われたようだ。

 日本ではこの影響を受けたのであろう、「すすり茶」といって、蓋碗を使用した飲み方がある。

 しかし、宜興紫砂茶壷は日本にあっては江戸期の唐物珍重以来、別格のようである。『宜興紫砂珍賞』(香港三聯書店1992年)の日本語版、『宜興紫砂茶器名品集成』刊行のための「はしがき」の文なので、相当割り引いて見なければならないと思うが、煎茶道・小川流家元、小川後楽は次のように書く。小川は煎茶家らしく茶瓶と呼ぶ。

 

 「宜興窯のものが煎茶家に珍重されたのは、工芸品としての出来映えの素晴らしさや、骨董的価値だけでなく、それ以上に茶味を引き立てるという実利性に於いて、宜興の茶瓶の右に出るものがなかったことも大きな要因であった。半陶半磁の性質を持つ朱泥・紫泥の茶瓶は、茶渋や茶のあくを吸収することにすぐれ、甘露な茶味を引き出す為には欠かせないものだったのである。

 こうして、まずは茶器としての実際の用途に於いてすぐれていたこと、さらに多くの文人に愛され、詩文書画などのその文雅な内容が茶器に独特の雰囲気をもたらし、文人煎茶の主役を占めるに至ったことなどもあって、煎茶の世界で宜興の茶瓶は、江戸時代以来今日に至るまで、其の不動の位置を保っているのである。」(『宜興紫砂茶器名品集成』平凡社1995年「古くて新しい宜興の茶器」)

 

 日本の煎茶(道)の世界においては未だにこの宜興の紫砂茶壷(茶瓶、急須)は第一の地位にあるようだ。

 

 引用書目は都度記したが全般の参考書は以下のとおり。

 顧景舟編『宜興紫砂珍賞』(香港三聯書店1992年)中の顧景舟「紫砂陶史概論」、徐秀棠「陽羨茶事」。

 徐秀棠『中国紫砂』(上海古籍出版社1998年)中の「第一章 紫砂陶起源と発展の文化背景」。

 高英姿選注『紫砂名陶典籍』(浙江撮影出版社2000年)。

 王国安、要英『茶と中国文化』(漢詞大詞典出版社2000年)。

 青木正児編著『中華茶書』は春秋社版を柴田書店が復刻(1976年)したものを使用した。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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城塚 朋和

シロツカ トモカズ
しろつか ともかず 吉川英治記念館元事務長 1942年 日本統治時代の平壌府に生まれる。

掲載作は、2003(平成15)年3月、明星大学造形芸術学科研究紀要11号に「富岡鉄斎『宣(宜)興瓷壷譜』と宜興紫砂器」として初出、電子文藝館出稿に際してタイトルを一部変更、加筆訂正を経た。

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