第一回
本郷西片町の何番地とやらむ。同じやうなる生垣建続きたる中に、別ても眼立つ一構え。深井澄と掲げたる表札の文字こそ、さして世に公ならね。庭の木石、書斎の好み、借家でない事は一眼で分る、立派なお住居。旦那様は、稚きより、御養子の、お里方は疾くに没落。何角につけて、奥様の親御には、一方ならぬ、御恩受けさせ玉ひしとて。お家では一目も二目も置き玉へど。敷居一ツ外では、裸体にしても、百円がものはある学士様。さる御役所へお勤めも、夫れはほんのお気晴らしとやら。否と仰せられても、這入つて来る、公債の利子、株券の配当。先代よりお譲受けの、夫れだけにても、此せち辛き世を、寝て暮さるゝといふ、結構な御身分、あるにしてからが、噸と邪魔にならぬものながら、何と遊ばす事であろと。隣家の財宝羨むものゝ、余計な苦労も、成程と合点のゆく、奥様の御贅沢。そんな事は、さらさら此お邸のお障りとはなるまじきも。先づ盆正月のお晴れ衣裳。夫れはいふも愚かな事や。一寸したお外出にも、同じもの、二度と召されたる例はなし。そんなのを、何処やらで、見たといふものあるにも。お肝の虫きりゝと騒ぎて、截立のお衣裳を、お倉庫の隅へ、押遣らるゝといふお心意気。流行の先を制せむとては、新柳二橋と、三井呉服店へ、特派通信員を、お差立にも、なり兼まじき、惨憺の御工夫。代り目毎のお演劇行も、舞台よりは、見物の衣裳に、お眼を注がせらるゝ為とやら。そんな事、こんな事に、日を暮らし玉ふには似ぬ、お顔色の黒さ。お鼻はあるか、ないがしろに、し玉ふ旦那に対しては、お隆いといふ事も出来れど。大丸髷の甲斐もなき、お髪の癖のあれだけでも、直して進ぜましたやと。いつもお外出の其都度都度、四辺も輝くお衣装の立派さを、誉るにつけての譏り草。根生ひ葉生ひて、むつかしや。朝は年中旦那様、御出勤の其跡にて、きよろりとお眼醒め遊ばせど。宵は師走霜月の、いかに日短かな此頃とても。点灯頃まで、旦那様、お帰宅なからふものならば、三方四方へお使者の、立ても居ても居られぬは、傍で見る眼の侍女まで。はあはあはあと気を焦れど。うつかりお傍へ寄付かば、どんなお叱り受けるも知れぬに。御寵愛の玉なんにも知らず。のそのそお膝へ這い上り、とつて投げられしといふ事まで、誰がいひ触れての噂ばなし。御近所には、誰知らぬものもない是沙汰に、此身の事も入れられやう。はあ悲しやとばかりにて、お台所の片隅に、裁縫の手を止め、恍惚と考へ込むは、お園といふ標致よし。年齢は廿歳を二ツ三ツ、超した、超さぬが、出入衆の、気を揉む種子といふほどありて。人好きのする好い女子。顰める顔の是程ならば、笑ふて家をも傾くるは、何でもない事、お園さん。ちつとしつかりしないかと、水口より、のつしり、のしり、這入て来るは、吉蔵といふお抱え車夫。酒と女と博奕との、三ツを入れて、三十には、まだも間のある身体。七八置てもくにせぬといふを、自慢の男なり。無遠慮に、傍近く、安座かくを、お園は眼立ぬやうに避けて『おや吉蔵さん、お前さんもう、気分は好いの 『気分が好くてお気の毒。のそのそ出掛て来た訳なれど。今に旦那がお退庁になりやあ、部屋へ下つて、小さうなり、決してお邪魔はしないから、さあ安心してるが好い。今日は奥様も、折角のお外出なりや、随分共に、お留守事。大事がつたりがられたり、旦那へ忠義頼んだぜ。えお園さん、お園の方と、妙に顔を眺められ。お園は少し憤然として『お前までが、そんな事。大概知れて居る事に、朋輩甲斐のない人や。此中からの、奥様の御不機嫌。微塵覚えのない事に、あんなお詞戴いても、奥様なりやこそ沈黙つて居れ。よしんば古参の、お前でも、朋輩衆に嬲られて、泣く程までの涙はない。退屈ざましの慰みなら、外を尋ねて下さんせと。つんと背くる其顔を、吉蔵は見て冷笑ひ『是は是は厳しいお詞恐入る。流石は旦那の乳兄妹、お部屋様の御威光は、格別なものと見え升る。其格別のお前の口から、朋輩といふて貰へば、夫れで千倍。此吉蔵、腹は立たぬ礼いはふ。礼の序でに、も一ツ、いはふが。まことお前が朋輩なら、なぜ何日か中、奥様が、吉蔵をといつた時、お前は、かぶりを振たんだよ。夫から聞かして貰ひたい『ほゝ、改めて、何ぞいの。そんな事も、あつたか知らぬが。私の身上も知つての筈。もう嫁入りは懲たゆゑ、一生何処へも行ぬ積り。お前に限つた事ではない『其所でお妾と、河岸を替えたであるまいか、『大方さうでござんせう。さういふ腹でいはれる事に、いひ訳をする私じやない。窘めて腹が癒る事なら、なんぼなりとも、窘めなさんせ。どふせ濡衣着た身体。乾そうと思へば、気も揉める。湯なと水なと掛けたがよいと。思の外の手強さに、吉蔵忽ち気を替えて『ハヽヽ、さう怒られては、談話が出来ぬ。今のは、ほんの戯談さ。邸に居てさへ眼に立つ標致を、人力車夫の嬶あになんて、誰が勿体ない、思ふもんかといつたらば、又御機嫌に障るか知らぬ。夫は夫れとした所で。お前の旧の亭主といふ、助三さんといふ人にも。此春以来、さる所で、ちよくちよく顔を合す己れ。未練たらたら聞いて居る。まさかに、そんな、寝醒の悪い事は出来ぬ。あれは、ほんの、奥様の、一了簡でいつたといふ、證拠は是迄、いくらもあらあな。六十になる、八百屋の、よたよた爺から、廿歳にしきやならない、髪結の息子まで、凡そ出入と名の付く者で、独身者とある限りは。奥様の悋気から出る、世話焼きの、網に罹つて、誰一人。先方じや知らない縁談を、お前の方へ、どしどしと、持込まれない者はないので、知れても居やう。己れも矢張其数に、漏れなかつたは、有難迷惑。飛んだ道具に遣はれて、気耻しいとこそ思へ、夫れを根に持つ、男じやない。其證拠には、お園さん、今日はお前の力にならふ、すつかり、苦労を打明けな。隠すたあ、怨みだぜと、手の裏返す口上に、気は許さねど、張詰めし、胸には、胼の入り易く。じつと俯首く思案顔。沈黙つて居るは、〆たものと、吉蔵膝を前ませて『夫りやあ、己れも知つてるよ。いくら奥様が、どんな真似して騒がうとも。真実お前が旦那を寝取る。そんな女子でない事は、夫れは、己れが知つて居る。だが此邸の奥様の嫉妬と来ては、夫れは夫れは、激しい例もあるんだから、今日は、余程大事な場合。又此所で失策ては、どんな騒ぎが、出やうとも知れぬ。其代りには又此瀬戸を、甘く平らに超えさへすれば、此間からの波風も、ちつと静にならふといふもの。悪い事はいはないから、今日は余程気を注けなと。善か悪か、底意は知らず。兎も角同情ありげなる、詞にお園も釣出され『夫れはさうでござんする 『が詮方がないから、沈黙つて居るといふんかい。夫れでは己れが、註を入れて見やうかと。愈前へ乗出して『一体全体奥様の、今日の外出が、奇体じやないか。いつもは旦那と御一所か、さなくば朝を早く出て、退庁前には帰るのが、尻に敷くには似合ない、お定りの寸法だに。今日に限つて、出時も昼后、供は一婢を、二婢にして、此間の今日の日に、お前ばかしを残すのは、余程凄い思わくが、なくては、出来ぬ仕事じやないか。是は、てつきり、お前と旦那を、さし向ひにした処へ、ぬつと帰つて、ものいひを付る積りと睨んだから、此所は一番男になつてと。頼まれもせぬ、心中立。無理さへすりやあ、行かれる身体を。まだ歩行かれぬと断つて、今日一日を、当病の、数に入れたは、誰の為め。見す見す災難着せられる、お前の為を思へばこそ。然し大きに、大世話か知らぬ。さういふ事なら、頼んで迄も、証拠に立せて、呉れとはいはぬ。お前の心任せさと。妙にもたせ掛られては、お園も流石沈黙つて居られず。気味悪けれど、当座の凌ぎ、頼んで見むと、心を定め『さういふ事でござんしたか。さうとは知らず、ついうつかり前刻のやうなこと言たは、みんな私が悪かつた。堪忍して下さんせ。知つての通の私の身体、身寄りといふては、外になし。漸く此邸の旦那様が、乳兄妹といふ御縁にて。此春母さんが亡くなる時、願ふて置て下さんした。夫ればつかりで、此様に、御厄介になつて居舛るなれば。さうでなうても術ない訳を、此中からの私が術なさ。一季半季の奉公なら、お暇を願ふ法もあれ。そんな事から、お邸を出されうものなら、夫れこそは、草葉の影の母さんに、何といひ訳立つものぞ、死んでも済まぬ、此身体と思案に、あぐんだ、其果は、つい気が立つて、あんな言。憎い女子と怒りもせず、よういふて下さんした。そんなら吉さん、今日の所は、證拠に立つて、お呉れかえと。頼むは、素より思ふ坪と、吉蔵、ほくほく点首きて『夫れはいふだけ野暮の事。お前がさういふ了簡なら、己れもしつかり腰を据え、一番肩を入れても見やう。夫れには、何の造作もない事、己れが腹にある事なれど。愈さうと極めるには、ちつと掛合ふ事があると。態々立つて、水口の、障子をぴつしやり、〆め来り、極めての小声にて『実お前だから、いふんだが。己れは是迄、奥様の、探偵といふ訳で、三年以来、別段の、手当を貰ふて居るのだから、今日迚も其通り。己れから證拠を、名乗つて出ず共、直ぐ、どうだつたと、聞かれるに違ひはない。其所で以て、ある事にせよ、ないにせよ。あの奥様の、探ぐつて居る腹へ、はまるやうにいひさへすれば。夫れはよく知らしたと、まあ、どつさり、御褒美に、有付けやうといふもんだ。夫れにどうだ。いや、さういふ容子は少しもござり升ぬ。夫れは全くあなた様の、思召違ひでと、いつた日には、どうだらふ。安心しさうなものだが、さうは行かぬ。直ぐ己れが、抱き込れたであるまいかと、気が廻るのはお定り。何処のだつても嫉妬家といふものは、大概さうしたものだわな。焚付けて、焼かせる奴を、兎角有難がるものよ。お前とても其通り、今に好いた亭主を持ちやあ、矢張其組になりさうだ。あハヽヽと高笑ひ、気軽く笑へど、軽からず、持込む調子は、重々しく『さういふ都合もある訳なれば、是は余程、余徳がなくては、埋まらない役廻り。其所は万々承知だらふか。えお園さん、お園坊。礼はどうする積りだいと。味に搦んだ詞のはしばし、いはぬ心を眼にいはす、黄色い声の柄になき、素振りはさうと勘付けど。容易く解きて、兎も角も、此場を事なく済さむと、お園は一向気の注かぬ振り『ほゝゝゝ、お前さんにも似合ない。野暮に御念が入り升る。多寡が私の事なれば、碌な事も出来まいなれど。少し許は、奥様に、お預け申したものもあり。其内どうとも都合して、出来るだけのお礼はと。ぬからぬ答に、吉蔵も、此奴中々喰らえぬと。忽ち地鉄を出して見せ『とぼけちやいけない、お園さん。己れも男だ、銭金づくで、お前の、おさきにや遣はれない。注込めといふ事なら、金銭は追々注ぎ込むが。先ず今日の所では、働らきだけを持参にして、礼はかうして貰ひたいと。無体の所為に、憤然とはせしが。此所ぞ大事と、笑ひで受け、振離す手も軽やかに『ほんにお前も人の悪い。私の馬鹿をよい慰み。散々人を上げ下げした、上句の果の、悪ふざけ。此上私を、かついで置て、笑ふ積りと見ました。もし是からはお前のいふ事、私しや真面目に聞かぬぞえ 『真面目でも、戯談でも、己ればかりは、真剣と、取る手を、つゝと引込めて『夫れ見た事か、私が勝つた。もう瞞されはせぬほどに、止しにして下さんせ。人が見たら笑ふにと。態と空々しく外す、重ね重ねの拍子抜けに、吉蔵愈急き込みて『是お園さん、どうしたものだ。此所まで人を乗込せて、今更笑ふて済さうとは、太いにも程がある。其了簡なら、此己れも、逆に出る分の事と、さあ野暮はいはないから、まあ温和しくしてるが好い。随分共に此后は、力になつて遣らふぜと。あはや手込に、なし兼まじき血相に。お園も今は絶体絶命。怒らば怒れと突離し、あれと一声逃げ惑ふを。玄関口まで追詰めて、遣らじと、前に立塞がる。隙を見付けて、突退くる、女の念力、吉蔵は、たぢたぢたぢと、式台に、尻餅搗いて、づでんどう。是はと驚くお園を眼掛けて、己れ男を仆したなと、飛びかゝらむづ其刹那。がらがらがらと挽き込だる、人力車は旦那か、南無三と、恠我の振して畏る。吉蔵よりもお園が当惑。恰どよい処、悪い処、奥様ならば、よいものを、旦那様とは、情けなや。悲しや是がどうなると。胸は前后の板挟み。破れて死んだら助かろにと、只束の間の寿命を怨みぬ。
第二回
旦那といふは、三十一二の男盛り。洋行もせしといふだけありて、しつくりと洋服の似合ふ風采。身材高く、肩幅広く、見栄えある身体に、薄鼠色の、モーニングコート。逼らず、開かぬ、胸饒かに、雪を欺く、白下衣、同じ色地模様の襟飾り。何処に一点汚れのないが、つんと隆い鼻の下の、八字の瑠璃と、照り合ひての美麗しさ。是だけにても一廉の殿振りを、眉と眼と、吟味せむは。年若き女子に出来まじき事ながら。お園は、此春以来、幾度かに偸み見て。女子の我の左迄にはあるまじきが、卑き身ながら晴がましく。憶へば十年の其昔、旦那様まだ角帽召しませし頃。御養家のお気詰りなればとて、をりふし我方へ入らせらるゝを。母様の有難がり玉ひ。おすしよ、団子と、坊ちやま待遇。我は其お給仕に立ちて、お土産の人形様戴くが、嬉しかりし外、お耻しとは知らざりし身の、今更ながら浅間しく。今はさながら御別人の旦那様なれや。お立派なと思ふにつけ、お優しやと思ふにつけ、是では奥様のお嫉妬遊ばすものもと、此春以来、他所事の御縺れでは、まんざら奥様にお道理つけぬではなかりし身も。我事となつては、さう悠長な量見も出ず。覚えなき身を疑ひ玉ふ奥様は、真に真にお怨めしけれど。旦那様は、お気の毒とも、勿体なしとも。仮令ば、にはたづみ(=難漢字+水)に影やどす、お月様踏だればとて、こんな心地はせまいものと、歎く我身の不運さは、是に限りて、あやかりものとも思はれる、妙な心地も夫れは昨日までの事。今は證拠と頼む可き吉蔵を、思ひの外に怒らせたれば、どんな告げ口しやうも知れず。さらでも、我を試さんとての、奥様のお外出、夫れといひ、是といひ、心にかゝる事のみなるに。生憎なる旦那のお帰宅。一時の難は遁れても、遁れ難きは此難儀。あゝ何となる事やらと。思案に余る仲の間を、幾度かさし覗き。おゝ夫れ夫れお召し替えは揃えてあれど、まだお帰宅はと油断して、お煙草の火は入れてない。是はどうしたものやらと。仕慣れた御用も、今日こそは、迂濶にお居間へ、伺ひ難き身の遠慮。苦しい時の神頼み、悪魔でも大事ない。吉蔵さん吉蔵さんと呼んでは見たれど。お長屋へ引下り、返事もせぬ意地悪さ。夫れも其筈、あゝもどかしや、早う奥様帰らせ玉へ、お客様でも来てほしや。南無天満宮、天神様も、俄なる信心の、胆に銘ずる拍手は、此処ならぬ、奥の方。ぱちぱちぱちと、鳴るはお召しか、はあ悲しや、救はせ玉へを口の裡。おづおづと伺へば。茶を一杯と仰せらるゝに、お煙草盆も取添えて、成るたけ手早くさし上つ、もう御用はと下り際。一寸待てとのお詞に、又もや胸はどきりとして、敷居際に畏りぬ。澄は悠然として、紫檀の机に憑りかゝり、片手に紙巻を吹かしながら『奥は何処か行つたのか 『はい瀧の川へと仰いまして 『吉蔵は居たやうだの 『はい、只今まで起きて居り升たが、矢張気分が、勝れ升ぬと見えまして、部屋へ下つて居り升る 『さうか、夫れは恰どよい処、汝に話す事があると。仰面て、例の美麗しき髭を撫で上げ、撫で下ろし、幾度か沈吟の末『誠にどうも、気の毒な訳ではあれど、近い内、邸を出ては呉まいかと。いひ放ちたる澄の顔には、見る見る憐れみの色動けど。頭を下げたるお園には、声なき声の聞取れず。はつと思ふか、思はぬに、はや先立ちし、涙の幾行。是では済まぬも、飲込んで、はいとばかりは、潔く、いひし積りも、唇の、顫かるゝに咬〆て、じつと俯首く、いぢらしさ。澄は見るに堪え兼て、態と瞳光を庭の面に、移せば折しも散る紅葉、吹くとしもなき夕風に、ものゝ憐れを告げ顔なり。
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表門の方には、奥方鹿子、忍びやかなる御帰宅。三十二相は年齢の数、栄耀の数の品々を、身にはつけても、埒もない、眼鼻は隠れぬ、辛気さに、心の僻みも亦一層。色ある花の一もとを、籬に置くのは気がゝりな。床のながめとならぬ間に、何処ぞへ移し植たしの、心配りや、気配りも、空に過るも小半歳。思へば長い秋の夜の、苦労といふは是一ツと。添寝の夢も、団には、結び兼たる此頃に、深い工みの紅葉狩。かりに行て来て、帰るさの、道はさながら鬼女の相。心の角を押隠す、繻珍の傘や、塗下駄に、しやなりしやなりとしなつくる。途中からのお歩行は、何日にない図と、二人の女中。訝りながら御門を這入る、まだ四五間の植込みを、二足三足と思ふ間に。さしかゝつたる仰せ言。あれも是も、急ぎの買もの、忘れて来たに、気の毒ながら、一走り、つい其儘で行て来てとは。ほんにほんにお人遣ひ、あられもないとお互に、顔見合しても、逆らえぬ、お主の威光に、余儀なくも、西と東へ出て行く。様子を覗ふ吉蔵は、兼て其意や得たりけむ。御門脇なる長屋を出て、木立の影に蹲居るを。鹿子は認めて機嫌よく『おゝ其所に居やつたか。定めて旦那はもうお帰宅、どんな様子ぞ、見て来てたも。機会が好ければ、直ぐにも行くと、いふも四辺を憚る声。吉蔵は頭を掻き『夫れは万々、心得て居り升る。が奥様、今の先まで、夫れは夫れは舌たるい。私でさへ業が沸えて、じだんだ踏んだお迎ひが、是で恰ど三度目でござり升る。同じ事なら、あんな処、お眼に懸たふ御座り升たに。今はどうやらお幕切れ。惜い事をと残念顔。鹿子はきよろりと眼を光らせ『夫れを今更いふ事か、其為の汝なれば、私が見たも同じ事。夫れは跡でも聞かふから、夫よりは、今の手筈を、早う早うと急立る『へいへい宜しう御坐り升る。夫れでは奥様暫く此所に。私はお先へ参つて御様子を『あゝさうしてと。主從が、点首き囁き、こつそりと、猶も木立の奥深く、奥庭までも忍び行く。
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かゝる工みのありぞとも、知らぬ澄は、己が名の、澄も、すまぬ心から、自づと詞も優しげに『なあに、邸を出すといへばとて、夫れで以て何処へでも行けといふ意味ではない。其処は少しも案じぬがよい。媼にはいろいろ世話になつた訳でもあり、又頼まれても居る事なれば、どんな事があらふとも、汝の保護を忘れはせぬ。だが此頃のやうな都合では、此儘永く邸に居るは、汝の身の為にもならず、亦乃公も、妙でないやうに、考へる処もあるなれば、寧そ外家へ行て呉れた方が、却て世話がしよからふと、思ひ付たからの事。尤其外家といふ事もだ。下女に行くといふやうな事では、前途の見込の立たない訳。さうかといつて、何処へでも縁付く。其危険は既に知れても、居る事なれば。追て相応な処のある迄、何か後来の為になる手藝でも、覚えて見る事にしては、どんなものか。実は乃公も最初から、さういふ考案もあつたのなれど。忙しい身体ゆゑ、つい打遣つて置く内に、かういふ仕儀になつて、誠にどうも気の毒であつた。然し是が恰どよい機会であるから、此処で一ツ其辺の事も、考へて置くが好からふ。とはいふものゝさし当つて、何を習はふといふ、考も付くまいし、乃公も亦さういふ事には、至て疎い方であるから、其相談は後日の事として、兎も角さしづめ、行く可き処を頼んで遣らふ。夫れには恰ど、よい処、汝の顔は知らぬから、邸に居たといふには及ばぬ。縁家の者として置くから、乃公が手紙を持つて行て、万事を頼むといへばよい。乃公も其内尋ねて行て、此後の事は一切万事、其者の手を以て世話をさす事にするから、少しも其辺は心配をせぬがよい。夫れでよいといふ事なら、明日にも何とか都合よくいつて、汝の方から、邸を出る事にして呉れ。是は、ほんの当分の手当だと。幾片の紙幣、紙に包んで、投げ与へ、序に手紙も渡して置くぞと。残る方なきお心添。何暗からぬ御身をば、はや、いつしかにほの暗き、障子の方に押向けて、墨磨り玉ふ勿体なさ。硯の海より、山よりも、深いお情け、おし戴く、富士の額は火に燃えて。有難しとも、冥加とも、いふ可きお礼の数々は、口まで出ても、ついさうと、いひ尽されぬ、主従の、隔ては、たつた、一ツの敷居が、千言万語の心の関。恐れ多やの一言の、跡は涙に暮れて行く、畳の上に平伏して、此処のみ残す、夕陽影。顔の茜も、まばゆげなる、背後の方に、さらさらと、思ひ掛なき衣の音『大層御しんみりで御坐い升ねえと、鹿子のつゝと入来るに。はつと狼狽え立上り『あ奥様でござり升るか。と悸々として出迎ふる。お園をきつと睨み付け『園何も私が帰つたとて、さう周章て、逃げるにも及ぶまい。まあ其処に居るがよいと。澄とは、膝突合さぬ計りに、坐り『園お前は真実に忠義ものよ。私の留守には、何も角も、私の役まで勤めて呉れる。お前の居るのに安心して、今頃までも、うかうかと、久し振で遊んで来ました。たんとお前に礼いはふ。迚もの事に明日からは、私に隠居をさせて呉れて、家の事は一切万端、お前が指揮するやうに、旦那様へお前から、お願ひ申てお呉れでないか。ね旦那様さう致した方が、あなた様も、お宜しいでは御坐り升ぬかと。はや其手しほでも押えしかの権幕なり。例の事とて、澄は物慣れたる調子『ハヽヽヽつまらない。何が夫れ程腹が立つか。馬鹿々々しい 『はい、どうせ私は、馬鹿に相違は御坐り升ぬ。奉公人にまで、踏付られるのでござり升もの 『はあて困つた。さうものが間違ては 『大きに左様でござり升る。あなたは少しも、間違つた事を遊ばさぬゆえ 『ハヽヽヽまあ落付て考へるがよい。園用事はない。あちらへ行け 『いゑまだまだ私が申す事が御坐り升ると。いひ出しては何れ小半晌と、澄も今はお園の手前『おゝ忘れて居た、夕刻までに、行かねばならぬ処があつたと。早々の出支度を。いつもは容易に許さぬ鹿子も。今日の敵は本能寺、園さへ擒にしたならばと。良人の方には眼も掛けず、落付煙草二三服、何をか屹と思案の末。燈火を点けてと、お園を立せ。つと我部屋へ駈入りて、取出したる懐刀。につと笑ふて、右手に持ち、此方へ此方へとお園を呼びて、尋常ならぬ涙声『私は折入て、お前に頼みたい事がある。何と聞てお呉れかえ。知つての通の私の身体、此邸で生れた身のふしよう。旦那に愛想尽されては、行く可き処のない身の上。生きてお邪魔をしやうより、我から死んで見せましたらば。責て一度や、半分の、回向位はして貰はふと、果敢ない事を、空頼み。明日ともいはず、たつた今、私は死んで見せるぞや。私が死んだ其跡では、誰に遠慮が何要らふ。今宵からでも改めて、私の跡へ直つてたも。さすれば先祖もお喜び、世間もお前を誉るであろ。もしも情けの道知らずが、お前と旦那を譏つたならば、私の頼みといへばよい。其代りには夢にでも、思ひ出した時あらば、無縁の仏と思ふてなり、香華だけは手向けてや。さらばとばかり立上る。余りの事に、威しぞと、知ても、流石転動して。まあ何事と縋り付き『夫れは何を仰しやり升る。夫ほど迄のお腹立ち、此期に及んで私も、未熟な言訳致し升ぬ。さあさあ私を、どうなりと、御存分に遊ばしませ『ほゝゝ、今更夫れは遅いぞえ。何のお前は大事な身体。私こそは要らぬもの。旦那のお心変つたからは、生存らえて、何楽しみ。一時も早う、死んで苦患が助かりたい。其所離しや、ゑゝ離さぬかと、半狂乱の、力任せに振切りて。部屋に続きし、奥倉庫の、戸を引開けて、中から、ぴつしやり。押せども突けども、開かばこそ。泣くも詫ぶるも、一人藝。ひそみ返りて音もせぬ、余りの事の気遣はしさ。お園も思案の帯引締め『夫れでは奥様私は、是でお暇致升る。私さへに居り升せずば、御自害沙汰には及ばぬ事。必ず必ず御短気な事、遊ばして下さり升るな。お詫はあの世で致し升る。御機嫌さまでといひ捨てゝ、裾もほらほら、気もはらはら、身を翻して走り行く。様子を見済し、倉庫の戸を、そつと引開け、立出る、鹿子の前へ吉蔵が、急ぎ足に入来り『存分廿く行きまして、お目出度う存じ升る 『夫れは能けれど、若し死だら、それこそ思はぬ一大事 『其所に、ぬかりは御座り升ぬ。確に左へまだ半町、跡を蹤けて見届け升う 『必ず共に死なさぬやう 『其御念には及び升ぬ。拝領ものを亡くしては、第一私損分と。鼻蠢かせて、裾端折り、してこいまかせと追ふてゆく。したり顔には引替えて。鹿子は流石女気の、空恐ろしき成行に、なりもやせむかと気遣しさ。重ねて追手出したいにも、広い邸に我一人、払ふた邪魔が、今更に、待遠しくも思はれぬ。
第三回
昼はさしもの人通り、本郷神田小石川、三区の塵に埋まる橋も。今は霜夜の月冴えて、河音寒き初更過。水道橋の欄干に、身を寄せ掛たる一人の婦人。冷やかなる、月の光りを脊に受けて、飽く迄白い頚もとの、是にも霜の置くかと見えて、ぞつとするほど美麗しきを、後れ毛に撫させて、もの思はしげに河面を覗き込様子に『若しお前さん、まさか身投じやあり升まいね 『知れた事さ。今時分、こんな所で、死ぬ奴があるものか 『でもお茶の水の一件から、何だか此辺は不気味でね 『さうさ、女もお前のやうなのだと、何処で逢ても大丈夫だが。美い女は凄いものさ 『人をツ、覚えてるから好いと、戯れながら行く男女のあるに。じつと跡を見送りて。ほんに思へば、世はさまざまや。我は生きるか、死ぬる瀬に、立往生の此橋を、面白可笑ふ渡つて行く、人を羨む訳でなけれど。私も一旦夫と定めた助三さんが、真人間であるならば。仮令始めは従妹の義理で、夫婦にされた中にもせよ。一度縁を結んだからは、見ん事末まで添遂げて、女子の道を立ふもの。あれほどまでの放埒を、私は因果とあきらめても。可愛や親の鑒識違ひで、いかい苦労をさす事よと。父様なければ、母さんが、お一人してのお気苦労、責て私が息ある内にと、取て渡して下されし、三行半も、親の慈悲。まだ夫だけでは安心がと、世に頼母しい旦那様に、お願ひ申て下さんしたに。やれ嬉しやと其後は、一生お仕え申す気で、お主大事と勤める内にも。余んまりな、奥様のお我儘。上を見習ふ下にまで、旦那様の御用といへば、跡へ廻してよいものと、疎畧にするのが面憎さ。要らざる所へ張持つて、旦那の御用に気を注けたが、思へば此身の誤りにて、思はぬ外のお疑ひ、忠義が不義の名に墜ちたも。奥様ばかりが悪うはない。どの道悲しい目に逢ふが、どふやら此身の運さうな。夫れを思へば此後とも、よしんば、生きて見た処で、苦は色かゆる、いろいろの、涙を泣いて見るばかり。泣きに生まれた身体と思へば、死ぬるに何の造作はない。矢張死んで退けやうか。いやいやいや、死ぬるといへば、奥様も、私がお邸出たからは、よも御自害はなさるまい。夫れに私が死んだらば、今宵の仕儀を御存なき、旦那様のお思召。あれ程までにいひ置たに、分らぬ女子とおさげすみ。不義よ、罰よと、奥様の、お笑ひよりは、まだつらい。とはいふものゝ、若しひよつと奥様の身に凶事があらば、さしづめ私は主殺し。手は下さねど、片時も、生きて居られる身体でないに。どの顔下げて、おめおめと、旦那にお目に掛れやう。夫れを思へば、此期に及んで、迷ふは矢張此身の愚痴。どの道死ぬるが勝であろと。覚悟は極めても、何処やらに、此世の名残、西へ行く。月を眺めて、しよんぼりと。何処で死なふの心の迷ひは、夫れも余まり短気かの、心の乱れと縺れ合ひ。縺れ縺るゝ生死の、途は二ツを、一筋に、定め兼たる、足もとの、運びに眼を注け、気を配り、様子を覗ふ一人の男子。もうよい時分と物影を、歩み出むとする所へ。飯田河岸の方より、威勢よく、駈来りたる車上の紳士。何心なく女の顔、見るより車夫に声かけて、小戻さするに、はあはツと、女は驚き透し見て『あツ旦那様といふまゝに。はつと思ひし気のはづみ。我を忘れて、河中へ、ざんぶとばかり飛込たり。
第四回
宮柱、太しく立てゝ、東洋を、鎮護の神と仰がるゝ、招魂社の片辺りに。小綺麗な黒板塀。主翁は太田彦平とて、程遠からぬ役所の勤め。腰弁当の境涯ながら。其実借家の四五軒ありて、夫婦が老を養ふに、事欠く可くはあらねども。実子なき身は、なまじひの、養子に苦労買はむより。金銭を孫とも子とも視て、気楽に暮そじやあるまいか、喃婆さんとの相談も、物和らかなる気象とて。家賃の収入は、月々に、銀行預けと、定めても。何処やら饒かな、生活向。一人二人の客人は、夜毎に絶えぬ、囲碁の友。夜の更けるのも珍らしからねば。慣れたものは是でもよけれど。お園様は嘸や嘸、御迷惑であらうもの。恰ど幸ひ、隣の貸家。あれを当分、御用に立て、お食は此方から運ばせて、夜分は、三を泊りに上れば、万事お気楽お気儘で、御保養にならふにと。主翁が注意、行届いたる待遇振り。此日曜を幸ひに、拭き掃きもまあ一順、すむには是が第一肝要のお道具、三よお火鉢持つて行け、婆さまは茶道具揃へて上ましや、菓子器に、羊羹忘れまいと、己れは手づから花瓶を据て。秋の名残の、菊一りん。ひちりんも御入用なら、何時なりと持たせましよ。其外何なり、かなりなものは、沢山に御座り舛る。御遠慮なふ仰せられい。お淋しければ、此切戸が、是此通り開き舛る。其処が直ぐに手前の前栽、縁側へは、一跨ぎで御座り舛る。此処から自由にお出這入、どちらなり共、お好きな方にお住居なされ。やれやれ是でお座敷も、一寸出来たと申すもの。是からは、決して決して、お気遣ひなされ舛な。此処が即ち、あなたのお家、他人の家では御座り舛ぬ。家一ぱいに、おみ足も、お気もお延ばし下されいと。己れも延びた髯撫でゝ、帰る主翁と入れ違え。婆さまといふは気の毒な、五十二三の若年寄。良人ある身は此年でも、等閑にせぬ、身嗜み。形ばかりの丸髷も、御祝儀までの心かや。おめで鯛の焼きもの膳『外には何も御座り升ねど。皆々あちらでお相伴、まづ召上れとさし出す『あれまあ、夫れでは恐れ入升る。何日迄も其様に、お客待遇して戴いては、気が痛んでなり升ぬ。夫れよりは御勝手で、お手伝なと致したがと。お園の辞退を引取りて『又してもそんな事、お六かしい御挨拶は、もうもう止しになされませ。先夜の今日日、お身体も、まだすつきりとはなさるまい。お気扱ひは何よりお毒、当分お任せなされませ。深井様には、いろいろと、御恩に預る私夫婦。役に立ずの老人が、未だに御用勤まり升るも、矢張お庇陰と申もの。何御遠慮に及びましよ。かうしてお世話致すからは、失礼ながら、私共は、他人様とは思ひ升ぬ。娘を一人設けたやうで、どんなに嬉しふ御座り升う。夫れにあなたの母御様は、継しい中のあなた様を、此上もないお憎しみ。死なふとまでの御覚悟も、どふやらそんな御事からと、あの晩深井様からあらましは、承つて居り升る。及ばずながら此後は、私夫婦と、申すほどのお役には立ませねど。歴然としたお従妹の、深井様も入らせられ升る。必ず必ず御苦労は遊ばし升な。ほゝ私とした事が、ついお話に身が入りて、御飯のお邪魔いたし升た。さあさあ早う召上れ。そして御飯が済ましたらば、お髪をお上なされ升ぬか。お湯も沸して御座り升る。あなたのお年齢で、お装飾を、大義とばかり仰るは、よくよく御苦労ありやこそと、お心汲んで居り升れど。さうばかりでは、猶の事、お気が塞いでいけませぬ。少しなり共、御気分の引立つよう、無理にもお身体借まして、お装飾申て見ましたいと。何角につけて、世話好きな、老人気質、あれ是と、進まぬお園を勧め立て、装飾り上たる、髪容『嬉しや是でお美しい、玉の光が見えました。娘があらば、あゝかうと、物珍しい心から、余計な世話まで焼たがる、うるさい婆とお怒りなく。私が申升る事も、一ツ聞いて下され升かと。持運んだる紙包み、二ツか、三ツか、三ツ襲ね『是此お召のお襲ねは、一寸したお着替えに、此銘仙が御平常着。お帯も上下、二通り、お長襦袢や、何や角と、さしづめ遁れぬ御用のものは、揃えて上升るやうと。あの翌日深井様御越しの節のおつしやり付け。夫れではお柄を伺ひましてと。申上ては見升たなれど。お耳へ入れては、要る、要らぬと、御遠慮がめんどうな、夫よりは、万事能きに計らふて、お着せ申て呉れとのお詞。夫故の押付けわざ。御寸法は、あの濡れた、お召しに合わせて御座り升る。大急ぎの仕立てと申し、老人の見立てゆゑ、柄が不粋か存ませねど。是でも吟味致した積もりと。ほゝ自慢ではござり升ぬ。何の是が私共から、差上げるものではなし。深井様の思召し、お心置きなふお召替え。さうでなうては、私が、深井様へのお約束が立升ぬ。さあさあ早うと、しつけ糸、とくとく着せて見ましたい。お帯をお解き申舛う。あちらへお向きなされませ。私がお着せ申舛ると。勤め上手が勤めては、否といはれぬ、今の身は。着て居るものも、借りものを、是れでよいとはいはれぬ義理。迚も御恩に着るからは、他人のものより、御主のものと、思ひ定めておし戴き。着替えし処へ、計らずも、切戸口より主翁の案内『かやうな処でござり舛る。兎も角一応御覧をと。小腰を屈め、先に立ち、澄を伴ひ入来るに。今更何と障子の影、消え入たい心をも、夫婦の手前、着飾つた、身の術なさを、会釈に紛らし出迎ふるに。扨も美麗し、見違えたと見とれて、不図心付き、たしか従兄の格なりしと、思ひ出しての答礼を。どふやら可恠な御容子と、夫婦が粋な勘違ひ。四方山話も其処々々に。妻は母屋へ酒肴の準備、主翁も続いて中座せし、跡は主従さし向ひ。此間とお園は両手を支へ『何からお礼を申さうやら。取詰ました心から、跡先見ずの先夜のしだら。お叱りもない其上に、冥加に余る御恩の数々。夫婦の衆まで私を、お従妹と、思ひましての手厚い待遇。どうも是では済升ぬ。矢張下女とお明し下され、召使ひ同様に、致して呉られ升るやうと。いひかゝるをば打消して『済むも済まぬもありはせぬ。從妹でも、何でもよい。邸に居るものといへば、却て不審を受けるゆゑ、継母の為め家出とすれば、穏でよからうと、思ひ付たからの事。其処等は乃公に任して置け。済む済まぬといひ出せば、家内の気質を知りつゝも、邸に置たが、そもそも誤り。夫故互に済む済まぬ、夫れは一切いはぬがよし。此后共に、汝に対してする事は、媼に対してする事なれば、乃公に礼をいふには及ばぬ。今日は幸ひの日曜なれば、此の家の夫婦に、ゆつくりと、相談もして置く積り。手藝を習ふか、縁付くか、何方にしても、確とした談話の纏る夫迄は、かうして気楽に暮すがよい。假令ば二年三年でも、汝一人をかうして置くが、乃公の痛痒になりはせぬ。つまらぬ事に、気遣ひすなと。今に始めぬ優しさに。はや涙ぐむお園の顔。何日の憐れに替らねど。名もなき花の濡れ色と、さして心に止めざりし、其昨日には引替えて。余処の軒端に見やればか。瞼に宿す露さへに、光り異なる心地して。今日より後は憐さの、種を替しも理りや。富貴に誇る我宿の、心も黒い、墨牡丹。此幾日は取別て、悋気の色も深みてし、其花の香に飽きし身は。ほのぼの見えし夕顔の、宿こそ月を待つらめと、又何日の夜を来ても見む、心も茲に兆せしなるべし。
第五回
今日は赤坂八百勘にて、其昔の仝窓生が、忘年会の催しありとて、澄が方へも、兼て其案内あり。午后五時よりとの触れ込みなれど。お園が家出の其后は、鹿子の、僻み一層強く、夜歩行などは思ひも寄らねど。是は毎年の例会にて、遁れ難き集会なればと。三日前より、ちくちくと、噛んで含めた言の葉に。ふしようぶしようの投げ詞。夫れ程御出なされたいか、御勝手になさるがよい。したが五時といふのが、六時にも、七時にもなり易いは、大勢様のお集会に、珍らしからぬ事なれば。人の揃はぬ其内から、お義理立には及ぶまい。此処といふのは、一時か、二時の間でござんせう。夫れを機会に、横道へ、外れぬお心極まつたなら、六時過から、御越と。時計の針も、何ん分の右と左を争ふて。もう行かねばと立上る、澄を止めて。若しあなた。此所が五分でござんすか。今からお眼が狂ふもの、乃公が時計は違ふたと、跡のお詞聞かぬ為め、私が合わして置き升ると。只一分の其隙も、空に過ごさぬ、竜頭巻。竜頭といふも恐ろしや、日高の川に其昔、蛇となつたる清姫の、心もかうと。金色の、鱗に紛ふ、金鎖。くるくる帯に巻付けて。私の念力是此通り、屹度覚えて、ござりませと。牙に包みし紅の唇噛んで、見送りし、其顔色の気味悪さ。ぞつと身にしむ夜嵐に。おゝ寒いぞと門を出し、其心地には引替えて。飲めよ、歌への大陽気。紳士揃ひも、学生の、昔に返る楽しさを。飽く迄遣つて退けやうと。星が丘とは洒落込みぬ、幹事の心、大盃で、汲めや人々、舞へ紅裙。紳士だなどゝ気取つた奴は、誰彼なしに肴にすると。洒落自慢の某が、浮れ立たる其所へ。思の外に遅なはりし、失敬したと入来る、澄を見るより、よい茶番と。思ひ付きの大音声。遅し遅し判官殿。何と心得て御座る。今日は正五時と、先達からの案内でないか。夫れに今頃ぬけぬけと、どんな顔してござつたぞ。成程貴殿の奥方は、金満家の娘御といひ、少しも貴殿を、お踏付けになさらぬといふ貞女。あ其許はあやかりもの、御来会も、遅なはる筈の事。奥方に計りお義理立をなされるによつて。朋友の方は、お搆ひないじや。まだも、此中へ鼻垂らしう、是は奥が財産目録でござると、持てござらぬだけが取り得か。総体貴殿の様な、内に計居る者を、蝸牛といふは、どうでござらふ。彼蝸牛といふ虫は、何処へ行くにも、首だけ一寸出す計り、家を背負て歩行まするが、彼奴中々、気の利た奴ではござらぬか。貴殿も是からは、家の代りに奥方をおぶつて、お歩行なされたら。天晴れ朋友への交誼も立ち、奥方へ報恩の道も、欠けぬと申もの。一挙両全何とよい思案ではござらぬか。うわはゝゝゝゝ、此師直は、鮒侍などゝ、旧い模型は行き申さぬ。当意即妙新案の、蝸牛紳士は、どでござる。いざ改めて、今宵の肴に、紹介申すと。戯れて、笑はす積りも、御念が入ては。苦笑さへ出来兼ぬる、此場の始末に、一座の面々、顔見合せて、笑止がる。中にも上座の某が。是々君はどうしたものだ。又々例の悪酔か。夫れも好けれど、其様に、人身攻撃に渉つては、一座の治安、捨ては置けぬ。衆議に問ふて、豫戒令。退去さするといふ筈ながら。酔ふた酒なら、醒めもせう。醒めての上の宣告と、此所は我等が預るから。まあ深井君坐し玉へ。僕が代つて謝罪いふ。先づ罰杯を呉れ玉へ、是女共酌せぬか。何をきよろきよろ馬鹿吉めが、山の手藝者と笑はれな。腕の限りを見て遣らふ。小蝶は踊れ、駒はひけ。追付け春の柳屋糸めも、年末の吉例に、五色の息を吐して遣らふと。流石は老功老武者の、持直したる一座の興。此図を外さず、全隊が總進撃と出掛やう。部署を極めるは、野暮の極。思ひ思ひの方面へ、突貫せよと、異口同音。散会ぞとは、いはれぬ処へ、虚勢を張つて、途から、そつと、逃げて帰ぬ、粋の上ゆく粋あれど。澄は日頃金満の、細君故の、逃げ足を、知つたか、知つた、遁がすまい、よし来た合点、妙々と。いひ合さねど、四五人が、ぐるりと四方を、取巻いて。一所に行かふと眼を離さず。前から引くもの、背後から、押ては危険い。帽子が脱げた、下駄が見えぬの、大悶着。おほゝまあ、お危険い、そんなにあなたなさらず共、出口は一ツで御座り升る。と女中の挨拶口々に、へい有難う、お静かにと、見送る前へ、挽き出した、四ツ目の紋の提燈は、確に深井が抱えの腕車と。気早き一人が声掛けて。おい君是は帰すがよい。我等は、未だに揃ひも揃ふて、辻車に飛乗りの、見すぼらしい境涯を、君だけ夫れでは義が立まい。是非其処迄は、交際玉へ。然り然り大賛成。おい車夫、奥様にさういふて呉れ。今夜は旦那を一晩借りる、屹度迷子にさゝぬやう、明朝は、みんなで送つて行くと。忘れずにいふんだよ。ハヽヽヽヽ、さあ君是で、君が身体は此方のもの。謝罪は我等が引受けた。よしか車夫、さういへと。右左より引張るに、引かれて行くのも本意ならねど。強て否まば、前刻の、恥辱を、実にする道理と。酔ふた、頭脳に、ふらふらと、足は何方へ向きしやら。銀燭眩き小座敷へ、押据えられしと思ふ間に。奇麗な首が五ツ六ツ。しやんしやんしやんの三味の音も、いつしか遠くなる耳の、熱さに堪えず。ばつたりと、身体を畳に横霞。春の山辺の遊びかや、ほの暖かき無何有の郷。囀る小鳥、咲く花の、床しき薫り身にしめて。ふわりふわりと、風船に、乗つたは、何時ぞ。あれ山が、海も見えるは舞子に似た。此松原の真中へ、降りたら水があるかしら。咽喉が乾くと、眼を醒せば。身はいつしかに夜着の中、緑の絹に包まれたり。南無三、是は吾家じやない。たしか此宵、おゝ夫れよ。衆人はどうした、あちらにか。恰ど此間と立つ袖を。もう遅いと引留むる、女子は誰じや、汝に頼む。跡はよいやう、乃公だけは、是非に帰せと、振り切りて。門を出れば、軒毎の、行燈は、ちらり、ほらり降る、雪か霰か、あら笑止。何は何処と、方角が分らぬながら行き行けば、赤坂見附け、おゝ此処か。つまらぬ処で夜を更した。車夫頼むと。寒さうに、かぢけた親爺が只一人。やつこらまかせの梶棒を、何方へ向けます。さうだなあ、兎も角九段へ遣つて呉れ。迚も遠くは走れまい。其処らから乗替えやう、はて困つたと腕車の上。薄汚れし毛布に、寒さは寒し、降る雪に、積つて見ても知れて居る。是から帰宅れば三時過、寒い思ひをした処で、ようこそお帰りなされしと、喜ぶ顔を見るではなし。冷たい蒲団は、あなたの御勝手。巨燵を入れて待つほどの、お心善しにはなれ舛ぬ。お茶なら勝手に召上れ、下女は疾くに寝せました、今を何時と思召すと。夫からちくちく時計の詮索、尖つた針で突かれても、一言いへば、二言目に。お腹が立たば、お殺しなされ、私は家の娘でござんす。去られる代りに、死に舛う。さあどうなりとして下されと、手が付けられぬに、寝た振すれば。引起されて、窘められるは知れた事。是程寒い思ひをして、怒られに帰ぬ馬鹿もない。同じ苦情を聞かふなら、是から何処ぞで一寝入。明日の事にしやうかしら。いや夫れも悪るからふ。薪に油を濺ぐは罪、鹿子は鹿子でも、其親に、受けた恩義は捨られぬ。はて困つた、三合の、小糠はなぜに持なんだと、思はず漏らす溜め息に。へヽヽヽヽ旦那御退屈でござり升う。若い時分は、随分と、力のあつた男でも、年には頓と叶ひ升ぬ。然しもう其所に招魂社が見え升ると。車夫の詞に、おゝ夫れよ。お園は何と、身の上を思ひ続けて、泣ても居やう。乃公を力と頼んでも、滅多に訪ふて遣られぬ身体。かういふ時に廻つて行かば、宅へも知れず、都合であれど。深夜に行かば、太田の手前。夫れは脇から這入るとしても、お園のおもわく何とであろ。いやいや彼に限つては、乃公を真底主人ぞと、崇むればこそ、勝気の彼が、もの数さへにいひ兼ねて、扣え目勝の、涙多。あゝいふ女子でない筈が、あゝなるほどの憐れさを、知りつゝ捨ては置かれまい。矢張一寸尋ねて遣ろか。たしか此辻、此曲り、此用水が目標と。幌の中よりさし覗く、気勢に車夫が早合点。こちら様でござり升るか、夫れではお灯を見せ升うと、頼みもせぬに、提燈持ち。案内顔の殊勝さを。無益にさすのも不憫とは、何処から出し算用ぞや。不図決断の蟇口開けて、そをら遣らふと、大まかに、掴み出したる銀は、なんぼ雪でも多過升る。お狐様じやござり升ぬか。人間様では合点がゆかぬ、夥しい此おたから。責て孫めに見せるまで、消えて呉れなと、水洟を、垂らして見ては、押し戴き、戴いて居る其隙に。澄が影は、横町へ、折れて、隠れて、ほとほとと、板戸を叩く音のみ聞えぬ。
第六回
まあ旦那様、どう遊ばしたので御座り升ると。訝るお園の不審顔。さこそと澄は莞爾として『よいから跡を閉めて置け。太田へ知れては妙でない。静にせよと、手を振りて、勝手は見知つた庭口より、お園の居間と定めたる、一間へ通るに、お園の当惑『まあどう致さう、こんな処を御覧に入れては、誠に恐れ入升ると。外には座敷といふものなき、空家の悲しさ、責てもと、急いで夜具を片付かゝるを『なに構わぬ、夫れはさうして置くがよい。今時分来るからは、失礼も何もない。夫よりは、其巨燵には火があらふ。寒い時には何より馳走。まづ這入て温らふと。平素は四角な其人が、丸う砕けた炭団の火『掻き分けるには及ばぬ及ばぬ、是で充分暖い。あゝ寒かつたと足延ばす『夫れでは責て此火鉢に、お火を起して上ましたいにも、火種子は、毎朝太田から、持つて参るを心当。焚付けもござり升ぬ、不都合だらけをどうしたものと。ひいやり、冷たい、鉄瓶の、肌を撫でゝの嘆息顔『茶などは要らぬ、止しにせい。たしか太田の婢とやらが、毎晩泊りに来るとか聞たが、夫れは今夜も来て居るか『はい夫れは台所の方に伏つて居り升れど。眠い盛りの年頃とて、ついした事では眼が醒め升ぬ。一寸頼んで参り升うと。立つを止めて『いや待て待て。知らずば恰ど夫れでよい。李下の冠、瓜田の沓。這入て見るも可恠なものと、思はぬではなかつたが。つい此外を通つたゆゑ。尋ねて見たい気になつたも、一ツは家へ帰るがいや。汝は何角を知つても居れば、少しも隠さぬ、察して呉れ。遅刻い序に、今夜は此所で、一寝入して行かふ。思ひ出してもうるさいと。天晴れ男一人前、二人とはない立派なお方が。是ほど御苦労遊ばすが、おいとをしいとは兼てより、思ふた事も、いはれて見れば。ほんに左様でござり升ると、いふてよいやら、悪いやら。兎も角勧めてお帰し申すが、お身の為ぞと、怜悧しき思案『此身風情が兎や角と、申上るも恐れ升れど。夫れでは奥様、猶の事、お案じでもござりましよ。少しおあたり遊ばしましたら、お帰りがお宜しかろ。奥様とても、さうさうは、おむつかりも遊ばすまい。お寒うないやう遊ばしてと。いふ顔、つくづく美麗しい、此心ゆゑ忘られぬ。どふやら乃公は迷ふたさうなと。巨燵の矢倉に額を当て『あゝ扨困つた、乃公が身は、家で叱られ、外では酔され。たまたま此所で寝やうと思へば、ならぬと直ぐに突出される。夫ならばよい、今から行く。但家へは帰るまい、泊る処で、泊る分と。すつくり立を真に受けて『何のまあ勿体ない。外へお泊り遊ばすに、此家を否とは申升ぬ。御恩を受けた此身体、何の此家が私の住居と申でござりましよ。只何事もあなた様の、お心任せを、兎や角と、お詞返し上升も、お家のお首尾がお大事さ『ふゝむ、夫れでは此乃公を、迚も家内に勝れぬものと、見込を付けての意見かい。汝の目にも、夫れほどの、意気地なしと見えるのも、思ふて見れば無理はない。かうして苦労をさせるのも、矢張乃公が届ぬゆゑ。さあ改めて謝罪らふ、許して呉れとの、むつかりは、胸に一物、半点も、足らぬものない此生活。結構過ぎた、身の上に、させて貰ふた方様に、さういふお詞戴いては。どうでも済まぬ此胸を、割つてはお眼に掛られず。はつあ詮方がない、どうなとなろ。一夜をお泊め申すのが、さうした罪にもなるまいと。顔を見上げて、涙ぐむ、気色を夫れと見て取つて『ほう、又泣くか、はて困つた。泣くほど嫌なら達ても行くと、いふて見たいの気もすれど。正直な汝を対手に、此上拗るも罪であろ。乃公から折れて頼むとしやう。さあさあ頼んだ、何処でもよい。其所が否なら、此隅へ、ころりと丸寝をするとしやう。蒲団を一枚貸して呉れ、栄耀な事はいふまいと。はやとろとろと夢心地『夫れではお風邪召まする。私はたつた一夜の事、寝ませいでも大事ない『失礼ながらと小夜蒲団『さうさう掛けては、汝がなからふ。なに外にまだあるといふか。夫れならばよし、よい心地。明朝は未明に起して呉れ。人眼に掛らば、つまらぬ事、疑はれまいものでもない。是で兎や角思はれては、鴉に阿房と笑はれる。鴉が笑はぬ其隙に、責て、夢なと見やうかと。何やら足らぬ薄蒲団、身に引纏ひ、すやすやと、寝入らせ玉ふかおいとしや。責て来世は、主従の、隔てを取つて、一日でも、かうしてお傍に居て見たい。どふやら、ひよんな胸騒ぎ。又奥様のお肝癪。変つた事がなければよい。明日の事が気にかゝる。どうなる事ぞと、吐く息も、身体も氷る此夜半が、悲しい中にも嬉しいに。どふぞ明けずに居て欲しい。迚もよい事、ない筈の、此一生を、一夜さに、縮めてなり共、継ぎ足して、明けさゝぬやうして見たい。是が責ての思ひ出とは、よくよく因果な生れ定。父様母様許して下され。わしや身分が欲かつたと。蒲団の裾にしがみ付き、はつと飛退く耳もとに。はや何処やらの汽笛の音。ゑゝ忙しない、何ぞいの。横に仆けても居る事か。余所の共寝を起すがよい。こちや先刻にから坐つた儘と。起しともない、明け鴉。かあいかあいの方様を、かうして去なすが後朝か。あの汽笛めも、奥様に、似たらば、たんと鳴りおれい。ゑゝ腹が立つ、気が狂ふ。耳まで真似して鳴るからは、此身体にも愛想が尽きた。どうなるものぞと、むしやくしや腹も。流石いとしい顔見ては、恥しさのみ先立ちて、今まで何も思はぬ振り。そつと起して見送りし、門辺で澄が捨詞。又嫌はれに来やうぞと、顔を見られて、魂は、ふわり、もぬけの唐衣。きつゝ空しく行く人の、さこそは我をつれなしと、思ひ玉はむ、お後影。お寒さうなが勿体ない。責て私も此寒風にと、恍惚其所に佇みぬ。
第七回
年の内に、春は来にける、御大家の、御台所の賑はしさ。我等は、いつも来る年を、晦日の関に隔てられ。五日十日と、延び延びの、払ひに年は越させても。身の春知らぬが極りじやに。あの深井様のお邸は、二度正月が来るさうな。二十日といふに、餅搗きも、やあぽんぽんの煤払ひ。払ひ玉への神棚から、払ひを玉ふ門口まで、飾り立たる、注連飾り。〆て何百何十の、到来の数御用の品。お台所まで、ぎつしりと、詰つた年の暮の内、眼の正月が出来るといふ。宝の山を見がてらに、行くにもこちとは出入方、空手で帰らぬ、其代り。高い処へ土持ちの、歳暮の品は持つて行く。どうでも我等は貧乏性、土方にならぬが、まだしも、ましかと。出入の左官、大工まで、来る年々の羨み種が。今年ばかりは御様子が、がらりと違ふた淋しさは、恐ろしいもの、諸式の高直。此お邸にも響いたさうなと。外から見えぬ内幕を。幕の内では婢共、二人三人が、こそこそ話。棚から卸す、針箱や、櫛の道具に鏡立。かうして纏める雑物の、風呂敷包見るやうに、包んで置ては、行た跡で、隔てがあると怒らんしよ。親の病気といふたは嘘。勤まり悪いお邸で、年を越すでもなからふと、内證極めた前刻の使ひ。忙しい時に暇取つて、お前方へは気の毒ながら、無理のない訳聞しやんせ。此四五日の奥様の、あの肝癪は正気の沙汰か。お肝高いは、日頃から、知れても居れど。なんぼうでも、堪らえられぬは、此間、旦那が泊つて御坐つた朝。いつもの時刻と、御寝所の、雨戸を私が明け掛たら。お前も旦那に一味して、寝さすまいの算段か。昨宵一夜は、まんじりと、寝ぬのは知れたに、がたびしと、其開け方の訳聞かふ。やつとの事で、とろとろと、今がた寝かけた眼が醒めた。是では今日も、一日頭痛。まどしやまどしやの、難題も、夫だけならば済しもせう。まだ其跡で、手水の湯が、温いの熱いの、大小言。かなぎり声で、金盥。替えて来やれと、突出したが、私の着ものに、ざんぶりと。濡れは、濡れでも、あんな濡れ。こちや、神様に頼みはせぬ。吉蔵さんとは、正直が、濡れて見たいの願立に。お薩芋を一生断ますると、頼んで置たが。なんぼうでも、験が見えぬに、ほつとして。あの前の晩、ほこほこを、喰べて退けたが、出雲へ知れた、罰かと思ふて、堪らえて居たりや。よい事にして大眼玉。着物が大事か、主人が大事か、何まごまごと叱られては、もう神様が対手じやない。堪忍ならぬも私が無理か。まだ其上に此頃は、吉蔵さんが、こそこそと、お部屋へ忍んで行く様子。どうでも是は、奥様と、事情が出来たであるまいの。標致は、どうでも、金づくなら、私が負けるに、極まつた。迚も叶はぬ恋故に、辛棒するでもあるまいと、思ひ切つての拵らえ事。親を遣ふて、あれほどの、奥様、うむと、いはれた今日。始めて親の有難さが、身にしみじみと分つて来た。お前方も親御があらば、たんと遣ふて暇とりやと。年甲斐もない、頬赤の詞に。白い反歯がさし出口。ほゝゝゝ何の事かと思ふたら、又あの時の復習かえ。お前のやうに、足引のと、長たらしういひ出しては、私等もいふ事、山ほどあれど。いはぬに極めて、近々に、暇を取らふと思ふたに、魁られた上からは、親の病気の古手も出せまい。いつその腐れ、逃げやうか。夫れもなるまい、荷物がある。あのお園さん見るやうに、抑えられては、こちや困る。なふお松さん、そでないか。さうともさうとも三人が、三人までも出て行けまい。替りを拵らえ、公然、暇とる迄は、奥様の肝癪玉を、正月の、餅花位に思ふて居よう。夫れにしても、吉蔵だけは、よい事をしやるじやないか。此四五日は、あの人の、工面も、ずんと、よい様子。財布も、ちやらちやらいふて居る。何でもあの晩、奥様の、癪は、男に限つたさうな。女子は、叱られ、遠ざけられ、吉蔵ばかりがお傍に居たが、可恠なものじやないかいな。按摩ばかりの駄賃じやあるまい。お梅の怒つて、暇とりやるも、是には無理のないだけが、笑止でならぬと。思はずも、笑ひさゞめく女部屋。ゑゝ、又しても騒々しい。何がをかしふて笑やるぞ。お梅は親の病気といふたに、まだぐずぐずとして居やるか。松はいつもの仕立屋へ、仕立を急きにといふたのを、もう忘れての冗談か。竹は私の頭痛の薬今も頭が破れさうなに、お医師者様で貰ふて来や。どれも是も、一人として、私の身になるものはない。旦那のお留守は、女子の主と、侮る顔が見えて居る、忙しい時には、忙しいやうに、ちつとは、いふ事聞たがよいと、何やら分らぬ腹立声を、銘々の頭に冠せて、出したる、跡は巨燵にあたるより、あたりやうなき、部屋の内。じたいあの、時計めが気に入らぬ。旦那の留守には、夫れ見た事かと、いはぬ計りに、きちきちと、私の胸を刻みおる。誰が買ふたと思ふて居る。旦那の力で買ふたにしても、みんな私が親のもの。恩知らずの時計めが、六時を廻つて平気な顔。あのぴかぴかと白いのが、お園の顔に似て居るやうな。お園も今は、お妾と、誰憚らず、装飾して居やろ。今夜も旦那は、又其処にか。愈お帰宅ないならば、私も腹を極めて居る。男が能うても、器量があつても、深切のない人が、どうなるものぞと思ふても、又気にかゝる門の戸が、開たは確に腕車の音。今夜はさうでもなかつたか。夫れは夫れでも、よい顔を、見せては、たんと、つけ込れる。知らぬ顔して寝て居たら、先方から何とかいはんしよと。少しは横に仆けかけた、腹の中での算段も。がらりと違ふた、吉蔵が、へい只今と畏る、顔つくづくと、突上げる、痞を抑えて起直り『旦那はお帰宅ないのかえ 『へい今日も私に、前へ帰れと仰つたは、確にさうと勘付まして。腕車をそつと預けて置き、お跡を追蹤て見ましたら。矢張例の富士見町、恠しい家でござり舛る。何でも近処の噂では、婢も二人居りまして、贅沢な生活向。今日は帯の祝とやらで、隣り近処へ、麗々と、赤飯配つて廻したとは、何と奥様、驚き舛では御座り升ぬか。先月彼女が出ました晩、旦那が途中でお待受、私が口を開かされ舛たが、恠しい処じやござり舛ぬ。お腹に赤児が居ますもの。疾からちやんとお支度が、出来て居たのも御尤。是から何と遊ばすお心。うかうかなさる処じやないと、底に一物、吉蔵が、敷居を超えて、じりじりと、焚き付けかけた胸の火に。くわつと逆上せて、顫ひ声『うかうかとは、誰の事。お前こそは、二度までも、旦那を途中で遁したは、恠しい了簡、夫れ聞かふ。大方此間赤坂の、お帰り道が、かうかうと、忠義顔して、いやつたも、何が何やら分りはせぬ。お前一人は、味方ぞと、頼んで居たが私の誤り。もうもう誰も頼みはせぬ。寄て掛つて、此私を、飽く迄、馬鹿にするがよい。私は、私の了簡がと。すつくと立つて、何処へやら、駈出す積りが、ぐらぐらと、持病の頭痛に悩められ、ばつたり、其処に仆れたる、跡はすやすや鼾の声。まさか寝たのじやあるまいな。是が気絶か、馬鹿々々しい、脆いものだが、捨ても置けまい。どうして遣らふと、水さしの、水を汲んで、奥様と、二声三声じや埒明かぬ。歯を喰しばつて居るからは、詮方がないと、口うつし。序に足も温めて遣らふと。己れの肌に暖めて、そろそろ撫でし、鳩尾へ、水が通ふて、うつとりと、眼を開いたる鹿子が驚き。是はどうぞと、吉蔵を、振除けたいにも、力なき、片手を、やうやう挙げかけし、処へお松がうつかりと。はい只今と顔出して、喫驚仰天逃げて行く『あの顔付ではいひ訳しても、迚もさうとは思ふまい。困つた事をして呉りやつた。真実過ぎた介抱が、わしや怨めしいの当惑顔を。心ありげに吉蔵が、『奥様夫れでは、私も、お怨み申さにやなり升ぬ。口から、口へ、口うつし。演劇で見ました、其模型を、一生懸命、やつとの事で、繋ぎ止めたるお生命を。心の駒が狂ふての、所為と御覧なされたか。下司の悲しさ、吉蔵が、是迄尽した、御奉公。お気に済まぬと仰れば、どうも詮方はござり升ぬ。直にもお暇戴いて、お身の明りを立させ升うと。すごすご立つを、まあ待ちやと、鹿子は留めて。両頬に、ふりかゝりたる後れ毛を、じつと噛〆め口惜泣き『かうなるからは詮方がない。お前に暇を出したとて、お松の口を塞がぬ上は、矢張嘘が真実になる。さうでなうても、此間から、衆婢が可恠う思ふて居る、素振りが見えるに、猶の事、腹が立てたまらなんだも。かうした訳に落ちてゆく、因果の前兆であつたやら。是も矢張旦那のお蔭。お前は怨まぬ、了簡据えた。いふものならば、いはせて置き、行く処までは、行て見る積り。お前も是から其気になつて。まさかの時の力になりやと。思ひの外の道行が、お園の方へ是程に、はかどつた事ならば、疾うに成仏しやうもの。矢張是では、何処迄も、慾を道連れ、赤鬼の、役目を勤めざなるまいと。肚に思案の吉蔵が表面ばかりの喜び顔『夫程までに吉蔵を、思召して下さるからは、滅多に置かぬ、狂言ながら、かうも致して見升うかと。鹿子の耳へ吹込みし、工みは何より夫れがよい。夫れでは、お園の旧夫とやらを、お前が巧手に取込んで。お園を殺すと威赫させたら、お園が退かふといふのかえ 『若し奥様、お声が高うござり升る。お竹もどふやら帰つた様子。此所四五日に埒明けずば、此方が先に破れ升うと。悪の上塗、塗骨の、障子を開けて、こつそりと。庭から、長屋へ、下つて行く。悪事は千里、似た事は、まこと、ありしの噂となりて。明日は婢が口の端を。御門の外へ走りしなる可し。
第八回
はいお頼み申やす。此家に、お園さんと仰るがお出の筈。私は深井の旦那から頼まれて、内證の御用に参つたもの。御取次下されませと。心得顔に音信ふを。太田の下女が、うつかりと。はいはいさうでござんすか。彼処にお出なされ升ると。お園が住居の裏口を、教ゆるまゝに、〆たりと、跡を、ぴつしやり、さし覗く。障子の影に、お園が一人、もの思ひやら、俯首た、外には誰も居ぬ様子。恰どよかつた、はい是は、お久し振でと入来る。顔を見るより、ぎよつとして、逃げむとするを、どつこいと、走り上つて、袂を捉らえ『是お園さん、どうしたもの。此吉蔵を、何日迄も、悪玉とのみ思ふて居るのか。先づ落付て聞くがよい。生命に拘はる一条でも、此己れからは、聞かぬ気かと。嘘と思へぬ血色に。お園も、もしや、奥様の、お身の上ではあるまいかと。心ならずも坐に就くに。左こそと吉蔵微笑みて『甘く遣つたぜ、お園さん。とうとう正真正銘の、お妾さんと成済した、お前に位が付たやら。何だか遠慮な気がすると。其所等一順見廻はして『かう見た処が、見越の松に、黒板塀は、外構え。中はがらりと、明き屋の隅に、小さうなつて、屈んで居るは、旦那に合せて、お麁末千万。お前も余り気が利かぬ。是で生命を亡くしたら、冥途でたんと、釣銭が取れ、鬼めに、纏頭が、はづまれよと。空嘯いて、冷笑ふ。顔を憎しと腹立声『何の御用か知り升ぬが、用だけいふて貰ひましよ。お妾なぞと聞えては、私の迷惑、旦那の外聞。ちとたしなんで下さんせと。いふに、ふゝつと吹出して『其外聞なら、疾から、たんと、汚れて居るのでお生憎。此近所での噂は知らぬが、お邸の界隈では、専らの大評判。旦那の顔が汚れた代り、お前は器量を上げて居る。お園さんは腕者だと、行く先々の評判が、廻り廻つて、奥様の、耳へは、大きく聞えて居る。やれ孕んだの、辷つたと、何処から、噂が這入るやら。何でも其処等で、見たものが、あるとの手蔓を、手繰り寄せ。己れさへ知らぬ事までも、何時か知つての大腹立ち。己れは一度も供せぬと、いふても聞かぬ気の奥様。今日此頃では、全くの、気狂ひを見るやうに、其方も、ぐるじやと、大不興。知らぬが定なら、是から行て、何処なりと探し当て、お園を是で殺してと。まあさ、そんなに、真青な顔をせぬがよい。何の己れが其様な、無暗な事をするものか。生命が二ツあつたら格別、一ツしかない身体では、其所迄は乗込まぬ。小使銭に困つた時、ちよつくら、御機嫌とつたのが、今で思へば此身の仇。飛んだ事まで頼まれて、迷惑は己れ一人。否といふたら、自分の手で、探し出しても、殺して見せると、いはぬ計りの見幕を、知つてはお前が気遣はしさ。まづはいはいと請合たも、お前の了簡聞た上、二度と邸へ帰らぬ積り。まづ其事は擱て、奥様が頼んだ證拠是れ見やと。懐探つて取出すは、兼て見知りし、鹿子が懐刀。お園を威赫かす材料にと、鹿子を欺き、助三に、与へるものと偽つて、取出したるものぞとは、神ならぬ身の、お園は知らず。よもやと思へど、其事の、ないには限らぬ奥様の、気質は兼て知る上に。動かぬ證拠、若しひよつと。ても恐ろしの奥様と、身顫ひする顔。よいつけ目ぞと吉蔵が『何と違ひはなからふが。処でお前はどうするつもり。さつぱり旦那と手を切らずば、此所で己れが見遁しても。何処ぞで探し当られて、執念深い奥様に、殺されるのは知れた事。夫よりは、今の間に、逃げて助かる分別なら、及ばずながら、此己れが、引請けて世話しやう。憚ながら、かう見えても、仲間で兄いと立られる、男一匹、何人前。梶棒とつては、気が利ねど、偶と半との、賽の目の、運が向たら、一夜の隙に、お絹布着せて、奥様に、劣らぬ生活させて見る。えお園さん、どうしたもの。沈黙つて居るは死たいか。夫れ共己れに依頼つて見るか。了簡聞かふと詰掛くるに。扨はさうした下心。弱味を見せる処でないと。早速の思案、さりげなく『夫れは夫れは、いつもながら、御深切は嬉しう受けて置升る。したが吉蔵さん、私がかうして、旦那のお世話になり升も、事情があつてといふではない。誓文奇麗な中なれど。かうして此所に居る限りは、疑はれても、詮方がない。此身に覚えのない事で、殺されるのは私の不運。覚悟は極めて居升るほどに、何時なと殺して下さんせ。少しもお前は怨み升ぬ。忠義を立たが、よござんせう。よしない私をかばいだて、お前の身体を失策らせ、私は不義の名に墜ちる。夫れが何の互の利得。世には神様、仏様、夫れこそは、よう御存じ。何処ぞで見ても下されやう。無理に死にともない代り、生きたふも思ひ升ぬ。生命は、お前と奥様に、確に預けて置くほどに、御入用なら、何時なりと、受取に来て下さんせと。動かぬ魂、坐つた儘、びくともせぬに、口あんぐり。何処迄しぶとい女子か知れぬ。さうと知りつゝ、出て来たは、此方の未練、馬鹿を見た。よし此上は、其積りと、いふ顔色を顕はさず。態と心を許さする、追従笑ひ、にやにやと『成程夫れはよい覚悟、男の己れも恥入た。がお園さん、短気は損気といふ事を、お前も知つて居やうから、ゆつくり思案するがよい。此処暫くは、奥様に、在所が知れぬといふて置く。確に己れが預つて、滅多な事はさゝぬから、思案を仕替えて見るがよい。惚れた弱味は、何日の日に、頼み升るといはれても、其事ならば否とはいはぬ。殺す役目は真平御免。いつかのお前の台辞じやないが、外を尋ねて下さんせか。あい……、いや是はお邪魔をした。何れ其内聞きに来る。色よい返事を頼んだと。始めの威勢に引替えて、手持不沙汰に帰りゆく。跡見送つて、張詰めし、心のゆるみ、当惑を、誰に語らむよしもない、疑受けるも無理ならねど。夫れにしても、余んまりな。此間から旦那のお越を、心で拝んで居ながらも、此処が大事な人の道。踏違えてはなるまいと、態とつれなう待遇して、お帰し申すは誰の為め。旦那のお為めは、奥様の、為ともなつて居るものを。夫れ御存はないにせよ。殺せとは何の事。無慈悲にも程がある。夫れを、おとりに、吉蔵が、又しても、いやらしい。憎いは憎いが、奥様が、猶の事で怨めしい。迚もの事なら、此後は、嘘を真実にした上で、飽く迄ものを思はせて、死んだら私も本望か。いや夫れが、何の本望、本望が、外にあるので邪魔になる。此母さんは、なぜ私に、仮令賎しう育つても、心は高う持てとの事、教へて置て下さんした。知らずば兎も角、知りつゝも、横道へは外れられまい。此一ツでは、私が負ける。あんな奥様勝して置くが、どうでも私の道かいなと、袂を噛んで泣沈む。背後の障子の、すらりと開くに。ゑゝ又しても物騒な。誰ぞと見れば、澄なり。嬉しや旦那の御越か。今日は万事を御意の儘、さうさへすれば敵が取れると。胸の痞えはおろしても、又さしかゝる思ひの種子。かうした様に、こんな身が。おゝ怖わや、恐ろしや、もうもう重ねては思ふまいと。我と我、心を叱つて俯首く顔『又何ぞ心配か。かうして乃公が出て来るが、気に障つての事なれば、詮方がないが、其外の、苦労は何なりいふがよい。一人で思ふは、身体の毒。乃公も大きに悟つたゆゑ、昨日からの飲み続け。今日は気分が好くなつた。そちにも、少し、裾分けの、品は、何であらふと思ふ。あてゝ見やれと。小やかなる、箱取出して手に渡すを。どふやら指輪と受け兼ぬるに。態と不興の舌打して『そちは夫れゆゑ、誠に困る。同じ媼が育てゝも、乃公は仕入に出来て居る。そちばかりが時代では、乃公に対して不義理であろ。四角張つた挨拶は、もう止せ止せと取合はず『何日来て見ても淋しいやうだが、是では猶更気が塞がふ。夫よりは此家を、改めて借受けて、話し対手の下女でも置たら、少しは気分が紛れて好からふ。然しさうして気楽になれば、乃公が度々出て来るゆゑ、夫れも否かと顔見られ『何のまあ勿体ない。否か応かは、よう御存じ、申訳は致し升ねど。はいとお請の申されぬ、此身の程を弁へましては、どうもかうして居られ升ぬ。御恩を仇に、こんな事、願ひ升るは、恐れ升れど。矢張似合た、水仕の奉公、夫れが望みで御坐り升る。死に升筈の私が、かうして御恩に預り升るを、嘸奥様のお腹立ちと。いひかゝるをば打消して『何其事なら気遣ひすな。乃公も是迄養父への、義理立ゆゑに、堪らえて居たれど。もう堪らえるには及ばぬ一条。乃公が身体は自由になつた。一日二日の其内には、屹と処置を付ける筈。さうした上では、無妻の乃公、誰が何と怒らふぞ。来る正月には、大磯か、熱海へ、そちを連れて行く。奥と見られてよいだけの、支度を直ぐにして置きやと。跡先ぽつと匂はする、微酔機嫌も、其実は、いふにいはれぬ、心外の、恥辱の耳に伝はりしに。心はかうと極めながら。恩ある人の娘とて、直ぐ其日には出し難き、心の当惑、此所のみを、責てもの気紛らし。紛らしていふ詞ぞと、知らぬお園は、はあはつと、其身が罪を冒せし心地。御離縁とまで仰るを、御酒機嫌とは聞かれまい。堪らえられぬと仰るも、奥様のお身に別事が何あらふ。大方いつものお悋気も、此身を殺せとまでの事。並大抵ではあるまいに、よくよくお怒り遊ばしてか。夫れに御無理はないにせよ、事の起りは此身ゆゑ。飽く迄お諫め申さではと。我腹立ちは何処へやら、鹿子の上をかばひたき、心は急きに急き立てど。思へば此身がいふほどの、事は疾くより、御存の方様に、申上るは仏に説法。夫よりは、此身に愛想を尽かせ升るが、何よりの上分別と、打て替つた蓮葉風。態と話を横道へ『それはまあお笑止や。今頃お気注き遊ばしてか。私は疾から心待、今日は明日はと、御離縁を、お待ち申て居り升た。今の奥様あゝしてお出遊す限りは、私はどうでも日蔭もの。お妾様といはれ升る、夫れが嫌さに今日迄も、謹み深い顔を致して居たを、ほゝお笑ひなされて下さり升な。夫れでは愈奥様を、御離縁の其日から、奥様にして下さり升か。其御覚悟が聞ましたい。其場になつて、身分が違ふた。乳母風情の子のそなたとは、祝言出来ぬと仰つても、聞く事では御坐り升ぬ。此間からのお詞を、私は覚えて居り升る。よもや当座の慰みにと、仰つたのではござんすまい。若しもならぬと仰るなら、世間へぱつとさせまして。外様からの奥様なら、仮令華族の姫様でも、屹度お邪魔をいたし升る。さうしたならば、あなた様の、お顔が大抵汚れ升う。夫れお覚悟なら何時なりと、奥様を離縁遊ばしませ。直にお跡へ直り升ると。何日に似合ぬ口振りは、どうでも離縁さすまいの、心尽しか、不憫やと、思ひながらも、いひ難き、事情の胸に蟠れば。知つても知らぬ高笑ひ『ハヽヽ大層六かしい事をいふではないか。よしよし夫れも聞て置く。夫れでは離縁の其日にも、五十荷百荷の荷を拵らえて、そちを迎える事にしよう。夫れなら異存のない事かと。真面目に受けぬもどかしさ。是では矢張正面からの、御異見が好からふと、開き直つて手を支え『夫れでは、どうでも奥様を、御離縁遊ばすお心か 『知れた事を聞くではないか。たつた今、そちは何といふたぞや。後妻にならふといふものが、其物忘れは、実がない。乃公は確と覚えて居るぞ。其場になつて、否といふは、どうでも其方の方らしいと。笑ひを含んで、取り合はぬを。お園は猶も押返して『夫れ程迄のお心には、何故におなり遊ばしました 『さあ何故なつたか、乃公にも分らぬ。何れ其内知れやうから、子細の知れた其上で、聞く可き異見は聞きもせう。夫迄は、何もいふな、正直者めが。そちの知つた事ではない。安心しやれと、笑ふて居れど。どうでも動かぬ決心は、眉の辺りにほの見ゆるに。もう此上は詮方がない、責て最后の御意見に、明日は御恩に背いてなり、此処を走らふ外はなし。さうした上は、此限り、お目に懸れぬ事もやと。虫が知らすか、其上の、名残さへに惜まれて、自づと浮かぬ其顔を。澄も憐れと見ながらに、夫程までの心とも、知らねば、何れ其内に、我々よりはいひ難き、噂の他処より伝はりて、思ひ合する時あらむと。其一ツをば、安心の、頼みにしての高笑ひ。笑ふてお園を慰むるも、半は自ら慰むる、心と知らで、白露の、情ありける言の葉を。無分別なる置所と、賎が垣根に生出し、其身をいとゞ怨みしなる可し。
第九回
もしお園様え、今日は淺草の年の市、まだ暮れたばかりで御座んすほどに。私共も是から下女を連れて参る筈、留守は主翁が致し舛る。あなた様も、是非にお出なされ舛ぬかと。澄が帰りし其跡へ、太田の妻の入来るに。今日は別てのもの思ひ、其所処ではないものをと、いひ度顔を、色にも見せず。愛想よく出迎えて『夫れは夫れは御深切さまに、有難うござり舛る。お供をいたしたいは山々なれど。今日はちと、気分が勝れ舛ぬゆゑ、折角ながら、参られさうにも御座り舛ぬ。夫よりは、お帰りの其上で、お話を承るが、何よりの楽。お留主は私が気を注け舛う。御ゆつくりとお越しなされて、といふを押えて『さあ夫ゆゑ、猶の事お誘ひ申すので御座り舛る。御気分が悪いと仰るも、御病気といふではなし。お気が塞舛るからの事なれば。賑やかな処を御覧なされたら、ずんとお気が紛れ舛う。只今も深井様、お帰りがけにお寄り遊ばしまして。どうもあなたが、お気重さうに見えるゆゑ。お紛れになるやうに、して上まして呉れとのお詞。恰ど幸ひの年の市、私共は格別の買ものもござりませねど。あなたさまのお供がいたしたさの思ひ立ち。責て半町でも、外へ出て御覧遊ばしませ。屹度お気が替り升う。其上でよくよくお否な事ならば、何処からなり共帰り升う。無理に淺草迄とは申升ぬ。さあさあちやつとお拵らえと。此細君が勧め出しては、いつでも否といはさぬ上手。引張るやうに連出して『何時お気が変り升うも知れ升ぬゆゑ。ちと廻りでも、小川町の方へ出まして、賑やかな方から参り升うと。先に立つての案内顔。三は跡からいそいそと。お蔭で私もよい藪入が出来升る。実は此間から、お正月に致升る帯の片側を、買たい買たいと思ふて居升たを、寝言にまで申て。奥様のお笑ひ受けた程の品。成らふ事なら失礼して、今晩買せて戴きましたい。お二方様のお見立を、願ひました事たならば、夫れで私も大安心。在処の母が参つても、是が東京での流行の品と、たんと自慢が出来升ると。いふに、おほゝゝゝと太田の妻が『まあ仰山な、お園様、あれをお聞遊ばしましたか。あの口振では、大方片側で、二三十円は、はづむ積りと見えました。夫れでは迚も外店の品では三が気に入升まい。なふ三、夫れでは越後屋へでも行かうかやと。何がなお園を笑はせたき、詞と機転の三が受け『はいはい越後屋でも、越前屋でも、其処等に構ひはござり升ぬ。私が持て居り升るは、大枚壱円と八拾銭。跡はすつかり奥様が、お引受下され升う。ねえ御新造様、あなた様も、お口添下されませ 『まあ呆れた、年の行かない其割には、鉄面しい女だよと。二人が笑ふに、お園まで、暫時は欝さを忘れて行くに。いつしか、九段の下へ出たり。あれ御新造様、あの提燈が、美しいではござり升ぬかと。三が詞に、義埋一辺。成程さうでござんすと、お園も重い頭を挙げて、勧工場の方を見遣りし顔を。横より、しつかと、照らし見て。まあ待ねえと。大股に、お園が前へ立はだかる、男のあるに、ぎよつとして。三人一所に立止り、見れば、何ぞや、此の寒空に、素袷の破落戸風。一歩なりとも動いて見よと、いはぬ計りの面構え。かゝり合てはなるまいと。年嵩だけに、太田の妻が、早速の目配ぜ、お園の手を取り、行かむとするを、どつこい、ならぬと、遮りて『お前は何所の、細君様か知らねえが、此女には用がある。行くなら一人で歩みねえ。此女だけ引止めたと、お園の肩を鷲握み。はや人立のしかゝるに。お園も今は二人の手前、耻を見せてはなるまいと。腹を据えての空笑ひ『ホヽヽヽヽ、どなたかと思ひましたら助三さんでござんしたか。全くお服装が替つて居るので、つい御見違申しての此失礼、お気に障えて下さり升な。御用があらば、何所でなり、承る事に致し升う。連のお方に断る間、一寸待つて下されませと。物和らかなる挨拶に、男はおもわく違ひし様子。少しは肩肱寛めても、心は許さぬ目配りを、知ても知らぬ落付顔。一寸太田の奥様えと、小暗き方に伴ふに。三は虎口を遁れし心地。あたふたと、追縋り『交番へ行ツて参り升うかと、顫えながらの、強がりを。お園は、ほゝと手を振りて『何の夫れに及びましよ。あれは私が、遁れぬ縁家の息子株。相応な身分の人でござんしたのなれど。放蕩が過ぎての勘当受けと、いふ声、耳に挟んでや『何放蕩だととひかゝるを『お前の事ではござんせぬ。此方の話でござんすと。猶も小声の談話を続け『何に致せ、あゝいふ風俗に、落ちて居る人ゆゑ。当然の挨拶が、一寸しても喧嘩腰。嘸お驚きなされたでござんしよが。私は知つた人ゆゑに、お気遣ひ下され升な。大方何れお金銭の無心か。左なくば親へ勘当の、詫でも頼むまでの事。大丈夫でござんすほどに、私にお構ひなさらずとも、お女中と御一所に、お先へお出下さりませと。いへどもどふやら不安心と、肯ひ兼ぬるを、又押して『何の其お案じに及びましよ。気遣ひな位なら、私からでも願ひ升れど。あの人の気は、よう分つて居り升る。途中で逢たが何より幸ひ、家で逢と申たら、度々来るかも知れ升ぬ。夫よりは、何所ぞ其所らで、捌くのが、何よりの上分別。一度限りで済升る。屹度お案じ下さり升な。早う済だらお跡から、若しも少し手間取りましたら、お先へ帰つて居り升ほどに、御ゆるりお越なされてと。心易げないひ立に。太田の妻も安心して。素と素と進まぬお外出ゆゑ、是を機会のお帰りか。夫れとも外に子細あらば、猶更、無理にといふでもなし。どの道、危険無い事ならと。念を押したる分れ道。見返り勝ちにゆく影を。ほつと見送る、安心の、刹那を破る大欠伸『何時迄己れを待すんだ。早く此方へ来ないかと。引張りかゝるに『何じやぞえ。私が逃げるものでなし。往来中での大声は、ちと嗜んで貰ひましよ。私に話はない筈ながら、あるといはんす事ならば、詮方がないゆゑ行き升る。人通りのない処で、尋常に話すが好ござんせうと。いふは素より望む所と『夫れは天晴れよい覚悟だ。夫れでは其所の公園の、中へ這入つて話すとしやう。さあ歩行たと、お園を先に、逃がすまいの顔付き鋭く。一寸背後を振向ても、ぐつと睨むに、怖気は立てど。心は冴えた、冬の夜の、月には障る隈もなき、木立の下を行き見れば。池の汀のむら蘆も、霜枯はてゝ、しよんぼりと。二人が立つた影ぼしの、外には風の音もなし『おい此処だと助三は、傍の床几に、腰かけて『こりやお園、手前は能く己れの顔へ、泥を塗つて呉たなあ。一体ならば、重ねて置て四つにすると、いふが天下の作法だが。其所は久しい馴染だけ、手前の方は許してやる。其代りにやあ是から直ぐに、男を殺す手引きをしろ。さうして首尾能く仕遂げたうへは、一緒に高飛して。何処の何処の果でゝも、素との夫婦にならなきやならんぞ。夫が否なら、否といへ。此処で立派に殺して遣る。手前を殺した其刃物で、直ぐに男を殺したら、重ねて置て殺すも同様。どの道今夜は埒明ける。さあ死たいか、生たいか、返答せいと、威しの出刃、右手にかざして、詰掛くるに。不審ながらも、愕として『男とは何の事。事情をいはんせ、分らぬ事に、返事のしやうもないではないか 『へん、盗人たけだけしい。分らぬとは能くいつた。手前の腹に聞て見ろ 『さあ夫れを知つて居る位なら、何のお前に聞升う。男呼はり合点が行かぬ。私はお前の女房じやないぞえと。いはれて、くわつと急き込みながら『成程今は女房じやない。離縁たのは覚えて居る。が己れが離縁らない其内から、密通いて居た男があらふ 『やあ何をいはんすやら。そんな事があるかないかは、お前も知つての筈ではないか。今になつてそんな事。誰ぞに何とかいはれたかえ 『知れた事だ。天にや眼もある、鼻もある。誰が何といはねえでも、曲つた事をして置て、知れずに済むと思ふが間違ひ。證拠はちやんと挙つて居らあ。何日迄己を欺せるもんけい。済まなかつたと、詫れば格別。まだ此上に、しらばつくれりやあ、どうでも生しちや置ねえぞ。と。無二無三に斬かくる、刃の下を潜りぬけ『まあ待て下さんせ。死ぬる生命は、どうでも一ツ、生やうとは思ひ升ねど。ない名を付られ、殺されては、私や成仏出来ぬぞえ。今は夫婦でないにせよ、従兄妹の縁は遁ぬ中。無理往生をさせるのが、お前の手柄じやござんすまい。事情を聞た其上で、死ぬるものなら、死に升う。尋常に手を合させて、殺すが責ての功徳じやないか。ゑゝ気の短い人ではあると。白刃持手に触られては、素々未練充ち充ちし、身体は、ぐんにやり電気にでも、打し心地。べつたりと、腰を卸て、太息吐き『夫程事情が聞たけりやあ、話まいものでもないが。一体手前は、あの深井と、何日から懇したんだい 『知た事を聞しやんす。あれは私が母さんの 『夫りやあいはずと知て居る。乳兄妹といふんだらふ。が其乳兄妹が、乳兄妹でなくなつたは、何日からだといふ事だいと。いはれて始めて心付き、稍安心の胸撫でゝ『夫ならたんといひ升う。夫ではお前も、深井様と、私が中を疑ふての、此腹立ちでござんすか 『ざんすかもあるめえや。腹が立つのは当然だ 『さあ夫れが。真実の事なら尤なれど。何の私が、あのお方と、どんな事を致し升う。成程お世話にやなつて居る。夫れはお前も知つての通、母さんの遺言ゆゑ 『ふむ是れは面白い。夫では叔母貴が、己れが女房の其内から姦通せいと教へたかい。成程是は、よいいひ抜け。死人に口なし、死人こそ、よい迷惑だと冷笑ふ 『又そんないひ掛り、仕舞まで聞たがよい。夫れでは何かえ、此私が、お前の家に居た時から。深井様と懇したといふのかえ 『知れた事だ。さうでなけりやあ、己だつて、離縁つた女房に、姦通呼はりするもんけい。己れから暇を取つたのも、其所等からの寸尺と、遅幕ながら気が注くからにやあ、どうでも捨ては置かれない。是だけいつたらもう好からふ。さあどうすると。再び素の、怖い顔して詰め寄るに。扨はあの吉蔵めが、恋の叶はぬ意趣晴し、ある事ない事告げ口して。怒らしたものならむと、瞬く隙に見て取つて。もう此上は詮方がない。弁解しても無益な事。夫れよりは、此所一寸を遁れての、分別が肝要と。思案を極めて、調子を替え『あい、夫れで合点が行ました。いひ度事は、たんとあれど。證拠のない事いふたとて、よもやうむとはいはんすまい。成程私が悪かつた。悪かつたとして置升る。其所でお前はどうあつても、深井の旦那を殺す気かえ 『殺さいでどうするものか。今夜は昼から、お前の家に、遊んで居るといふ事まで、己れはちやんと知つてるよ 『成程さうでござんせう。夫なら私もお前に相談。手引をさせてお呉れかえ 『へんそんなお安直い手引なら、此方からお断りだ。手引が何だか恠しいもんだと。いふ顔じつと、照る月に、雪より白い顔見せて。解けた眼もとに、男の膝。我から頓と身を寄せて『疑深いは女子の性男子がさうではなるまいぞえ。かうして二人が居る所を、人が見たらば、真実の恋か、虚偽の恋かゞ知れやうに。お前が夫では曲がない。元木に勝る、うら木なしと、世間でいふのは、ありや嘘かえ。お前は知つてゞござんすまい。夫りやもう私が別れてから、よい慰みが出来たであろ。たまたま逢ふた、此私を、斬るの、はつるといふてじやもの。夫れが分らふ筈がない。さあ斬らんせ、殺して下され。大方何所ぞの可愛い人に、去つた女房の私でも。生かして置たら、何ぞの拍子。邪魔になるまいものでもないと、いはれさんした、心中立に、私を斬るのでござんせう。さうならさうと有り体に、いふて呉たらよいものを。私にばかり難僻付けて。手引をしやうといふものを。まだ疑ふてならぬといふ、お前は鬼か蛇でござんしよ。さうと知つても、此私は、顔見りや、矢張憎うはない、こんな心になつたのも、思へば天の罰であろ。さあ斬つて下され、殺して下され。罰が当つて死ぬると思へば、是で成仏出来升る。南無阿弥陀仏と合わす掌の、嘘か真実を試さむと。やつと声掛け、斬る眞似しても。びくとも動かぬ其身体は。お門違ひの義理の枷、なつても、ならぬ恋ゆゑに、身を捨鉢の破れてゆく、覚悟としらぬ助三が『心底見えたと、手を取つて、頼む、喜ぶ顔見ては。流石欺すも気の毒ながら、何れ私も死升ると、心の詫がさす素振。虚偽では出来ぬ優しさと、心解けたる助三が『夫では屹度、今晩の、十二時を合図にして 『あいあい待て居り升る。寝間は、門から這入ての、右の八畳、雨戸を細目に中は燈を点けて置く。充分酔はせて、寝さしたら、ついした音では眼は醒まい。障子の紙を破つて置くゆゑ其所から覗いて下さんせ。私が手水に行く振りで、屹度手引を致し升う。其代りには、お前も此所で、二人までは殺さぬといふ、誓言立てゝ貰ひたい 『うふゝ、まア怖がつて居るのかい。かうして己れに依頼つたからは、二人死してよいものか。一人は大事な大事な身体。毛ほども恠我はさゝぬ気だが。若し間違つて、爪でも斬たら。おゝさうだ、博奕冥利に尽るとしよう 『ほゝ博奕冥利もをかしなものだが、お前は夫れが第一ゆゑ、そんならさうとして置かふ。屹度違えて下さんすな。若しも夫れが嘘ならば、生き代り死に代り、たんとお前を怨むぞえ 『七くどいから、もうおきねえ。己れが仲間は義が堅い。昔の侍其所退けだ。かういふ事に、二言がありやあ、誰も取合ふものはない。何なら誰か證拠に立よか 『何の夫れに及びましよ。夫れで私も安心しました。そんならもう行くぞえと。行きかけて立戻り、思ひ出したる懐中物 『此所に少しはお紙幣があるゆゑ、一杯飲んで下さんせ。まだ十二時には三時間もあらふ。元気を付けたがよいわいなと。渡すを、にいやり受取りて『流石は女房だ、有難てえ。其所迄お気が注かれふとは、思はなんだに忝ねえ。じやあ行て来るぞ。待つぞえと。離れ離れになる影を。其人ゆゑには惜まねど。あちらへ行くだけ羨しい。是が自由になるならば、私も彼処の方角へつい一走り。かういふ訳で死升る。夫れは嬉しい、忝い。確に生命は受取つたの、お詞聞て死なふもの。是程迄に思ふ気が、跡で知れるか、知れぬやら。一筆書いて置く積りも、片便りでは、たんのう出来ぬ。縁の糸も片結び、かたみに結ぶ心でも、一ツ合せて結ばれぬ、西片町の其名さへ、今はさながら恨めしやと。千々に砕くる、うき思ひ。身を八ツ裂の九段坂。百千段に刻んでも、足の運びは、はかどらぬ。もどかしさよと振り向けば。人の歎きを知らぬかの、町の賑ひ、電燈の、ほめきは神田ばかりかは。日本橋さへ、京橋さへ、其所と見えるに、片町は、なぜに見えぬぞ。お邸が、責て湯島の丘ならば、此所から名残惜めうもの。上野の森に、用のない、松は見えても、お邸の、お庭の松がなぜ見えぬと。なくなく行けば、畏かる、神の御前の大鳥居。此所は恐れの、横道へ、たどり入るこそ不便なる。
第十回
其翌朝未明、太田が家にては、下女の報告に、夫婦が驚き『何お園様が殺されて御坐るといふのか。馬鹿め、貴様はどうして居たと。叱りながらも半信半疑。見れば真実や、縁側の、雨戸も障子も開け放し。足の跡こそ、付て居れ。死骸は立派な覚悟の死。襟寛げて、喉笛に、柄までぐつと突込だ、剃刀はお園がもの。是が自殺でなからふかと。まだ此所のみは、明けやらぬ、昨宵の儘の燈火、掻き立て見れば、口の内、何やら含んだものがある。検死の邪魔にならふか知らぬが、自殺他殺も知らないでは、深井様へのいひわけが、済まぬ済まぬの一心に。口押破つて、引出せば、子細は何やら、白紙を、くるくる巻た其中から、からりと見慣れぬ、指輪が一ツ。是はどうぢやと呆れて立つ。夫婦の前へ。あたふたと、下女が持て来る、文二通。是が私の寝床の下に。今までちつとも知らなんだを、又も叱つて下さるなと。もじもじするを、引たくり。見れば、一ツは様参る。深井の旦那へ、園よりの、外には太田夫婦宛。当つて砕けた白玉が、何ぞと人の知らぬ間に。露と消えたる身の果を、金剛石の指輪と共に、とりどり人の噂しぬ。