最初へ

文藝上の自然主義

 一

 「日の出前」とはハウプトマンがドイツに自然主義を広めた新社会劇の名であるが、此の名には(たし)かに一種のシムボリズムが含まれてゐる。一評家が言つた如く、作者はあれ程暗澹悲痛の人生を描きながら、「日の入り前」と呼ばずして「日の出前」と呼んだ。前途に大光明の希望をかけてゐたのであらう。其の希望は社会の改造であつたか、()た個人の解放であつたか、何れにしても当時の人は目を見張つて「第二のイプセン!」と叫んだ。

 輓近(ばんきん)我が文壇に自然主義の這入つて来た光景も亦た「日の出前」と呼びたい。(ここ)では文壇の夜あけがたに、何時となく東山の第一峰から鮮やかな一道の光を射上げて来た。万物は一斉に頭を回らして之れを見つめてゐる。中には早く既に若い日の息に感じて歓呼の声を揚げるものもある。自然主義といふ一語の被らされる限り、小説も何となく清新なもののやうに思はれ、議論も何等かの新暗示が其処に期待せられるやうになつた。作に於いても論に於いても、自然主義といふ一語が不思議に今の文壇を刺戟する。殊に新代の人に対しては、此の刺戟力が鋭い。此の事実だけでも十分の考察に値する現象である。さて続いて昇る日影、我が文壇の前途は何であらうか。

 自然主義といふ語の初めて我が小説界に掲げられたのは、多分小杉天外氏からであらう。氏は六七年前しきりにゾラを読んでゐたやうである。其の標榜するところの由来もおのづから察せられる。併し天外氏はまた後年同じ脈、同じ態度の作を実写と呼んでゐる。自然主義と写実主義と共に、氏の語を借りて言へば、鼻が高過ぎるからといつて(かんな)をかけては偽りになる、唯在りのまゝに写したのが真の人間であるといふ立場にゐる。而して天外時代の自然主義は、或時は写実主義の蔭に蔽はれ、或時はロマンチシズムの反期に座せられて、未だ一世の風潮となるに及ばなかつた。思ふに天外氏の自然主義は、其理論に於いても、はた其の作に見{あら}はれた所に徴しても、今のいはゆる自然主義中の要素を、少なくとも其の傾向とし目的として含蓄してゐたことは争ひ難き事実である。描写方法の純客観的ならんとすること、題材の肉に及び醜に及ぶを避けざらんとすること等、いづれか自然主義の主要元素でなからう。唯それらの外に、尚一呼吸の合致せざるものあるため、我が自然主義にも前期後期の区画を生ずるに至つた。天外氏の自然主義は其の前期を代表するものである。自然主義論に此の作者の名を逸してはならぬ。

 後期の自然主義は昨年来現に吾人の眼に新たな現象である。仮りに時を限れば島崎藤村氏の「破戒」国木田独歩氏の諸短篇等が世の批評に上つた頃を其の端緒と見てよい。前期にあつては、天外氏みづから其主義を意識してゐたが、後期にあつては、独歩氏は以前から同一若しくは近似した作風を続けながら、世間がその傾向を自然主義と認めるに至らず、現在にあつても、作者みづからは何主義でもないと新聞紙などに公言してゐる。また藤村氏も嘗てみづから自然主義だと宣言したとは聞かぬ。此等を自然主義と呼び()すに至つたのは世間若しくは評壇からの事である。しかも吾人の見るところを以てすれば、是れに聊かの不思議も無く、また不適当な嫌ひも無い。文壇上の名目は其の作家から出ると評家から出るとを問はず一代の風潮を自覚せしめ、改新せしめ、繁栄せしむる上に尠なからぬ便益を与へる。主義とは畢竟或る種の傾向風格を統括した総名ではないか。之れを未来に押し拡げんとするの努力が主義の努力である。自己の為さんとする所に信念と自意識との伴ふ限り、如何なる形に於いてか、如何なる名目に於いてか、はた如何なる明確の度に於いてか、主義標榜の生じ来たるは誠に止み難き近代思想の特徴である。

 斯くの如くして藤村、独歩の諸氏はむしろ世間から其の傾向によつて自然主義と総称せらるゝに至つたが、作者みづからも目下の自家の作風態度が最も此の称呼中の意味に近いものであることを承認してゐるであらうと信ずる。更に其後では、近時の諸短篇に見える小栗風葉氏、徳田秋声氏、「蒲団」に見える田山花袋氏、「其面影」に見える長谷川二葉亭氏、「紅塵」に見える正宗白鳥氏、乃至其の他の新作家、すべて益々自己の傾向主義に対する自覚を明にして行くのでは無いかと察せられる。而して此等諸家の主義傾向を一括して、最も便宜な名を与へれば、自然主義であらう。勿論一旦名を与へれば、其名に(えき)せられるといふ弊もある。けれどもそれは何の場合にも存する利害対立の一面に過ぎぬ。

 二

 過去に於ける小杉天外氏の自然主義、乃至後藤宙外氏の心理的、硯友社風の写実的等と、現在の所謂自然主義との間には短少ながらも我国相応のスツールム、ウント、ドラング、若しくはロマンチシズムが介在して居る。明治三十四五年頃のいはゆるニイチェ熱、美的生活熱の勃興から、同じく三十七八年までが即ちそれでは無いか。今の自然主義は実に此の小ロマンチシズムの後に起つた特殊の現象である。前期の自然主義写実主義には此の経歴が具備して居なかつた。吾人は茲に重要の意味があると思ふ。切言すれば自然主義は必らずロマンチシズムを通過したものでなくてはならぬ。泰西の事例は勿論のこと、近世自然主義の本土フランスでは、ユーゴー以下のロマンチシズムがあつて後バルザック、フローベールからゾラ、モーパッサンに極まる自然主義が出た。ドイツの自然主義も所謂第二のスツールム、ウント、ドラングの風に煽られて出た者と見られる。而してドイツ文学史上のスツールム、ウント、ドラング即ち大あらし時代は常に精神に於いてロマンチシズムである。

 如上の事実からして、吾人は先づ自然主義とロマンチシズムとの干繋(かんけい)を研究する必要がある。蓋し近時の文藝史家が欧州の近世文藝を論ずるに於いて(ほぼ)一致する分類法は、クラシシズム、ロマンチシズム、ネチュラリズム、シムポリズムといふが如き名目である。即ち自然主義は之れを文藝的に見るときは、首をロマンチシズムに接し、尾をシムボリズムに接する。此の両者との干繋は本論の重要問題の一つである。

 シムボリズム、クラシシズム、ロマンチシズムの三名目が哲学者ヘーゲルの美術論に於いて、始めて最も明瞭に文藝彙類の対照語として用ひられたことは人の知る所である。然るに近世の評論家が之を近世の文藝に応用するに及んで、其の意義と場合とに変化を来たした。近時の用語例による時は、十七八世紀に亘つた欧州の文藝は、大勢に於いてフランスを中心とし、ギリシャ、ラテン古風格に基づいて一種の体を形づくつた。之れを総称してクラシシズムと呼ぶ。彼等はあらゆる作品に均整、統一、規律、明晰等の知巧的条件を要する。知巧的といつてよからう。また此等の条件は事物の形式に宿るものであるから、彼等が形式に特殊の執着心を有して居たことも察せられる。形式的といつてよからう。また彼等は抽象的概念としての外、多くは現実平明の事実に其の形似の美を求める(かたむき)を持した。現実的といつてよからう。知巧的、形式的、現実的、此等の特色を総括してクラシシズムと呼んだ十七八世紀の文藝は、十八世紀の末、十九世紀の始にかけて、()のフランス革命を中心として大廻転を逐げた。十九世紀初頭の新文藝は、あらゆる意味に於てクラシシズムの反動であつた。此の傾向が即ちロマンチシズムに外ならぬ。

 ロマンチシズムといふ語の内容は今以て不確定である。十九世紀当初の精神界に見えた新機運は凡て之れをロマンチシズムと呼ぶ。或る者は之れをメデーワ゛リズム(Medievalism)即ち中古主義と解して、スコット等が歴史小説の如きを其の例とする。また或る者は之れを神秘的なるコールリッヂの長詩の如きものに代表せしむる。また或は之れを理想的なるシラー等が作の如きに求め、或は之れをワーヅワース等が自然を宗とする傾向に求める。何れも其の一端に触れて全斑を逸した見解である。今試みに西人が漫然数へ上げたロマンチシズムの諸解釈中最も一見に便宜な例として「十九世紀英国ロマンチシズム史」の著者ビーアス氏(Beers)の説を引くと、其の意に曰はく、フランスの批評家ブリュンチエールは其の文学史で女文豪マダム、ド、シュテールの説、異教主義に対する基督主義、上古主義に対する中世主義すなはちクラシックに対するロマンチックといふ解釈を是認してロマンチシズムは抒情主義なり、自我の発射なりとしてゐるが、要するに欧州の諸国民が過去すななち中世に回顧するの思想、すなはち中古主義がロマンチシズムの本義であると。而してビーアス氏は此の主義が包括する諸概念を数へて、情緒の強烈、絵様なるものに感じ易き事、自然の景を愛する事、隔たりたる時代場処に対する興味、不思議神秘に対する好奇心、主観的なる事、抒情的なる事、自我の挿入、熱心なる新藝術の実験等とした。以て其の内容の雑多なことが推せられる。今若し此等を前段クラシシズムの根本要件と相干繋せしめて、幾何かの重要元素に統括する時は、クラシシズムの知巧的といふことから、直ちに一飜して知識に対する情緒の反動、巧偽に対する自然の反動が生ずる。冷かな知量に反撥して熱烈なる情緒の反動を欲し、煩瑣なる人巧に反撥して醇樸(じゆんぼく)自然の源に還らうとする。情緒的、自然的、是れが先づ認められたるロマンチシズムの的確なる特性である。続いてはクラシシズムの形式的といふことから直ちに内容的といふことに反り来たつて、之れを客観の対境に求めれば理想的となり、之れを主観の我れに求めれば自我的となる。外形の空虚なるを去つて一指直ちに充実した中心の骨髄に触れんとする。其の骨髄を向ふに求めれば理想に行かざるを得ず、我れに求めれば自己の個性に行かざるを得ぬ。ロマンチシズムに事物の中身を取出さんとする二傾向、すなはち理想的と自我的との特性あるは此の理に外ならぬ。最後にクラシシズムの特質現実的といふことの反動は空想的または超現実的といふことになる。現実平明の境の無味なるに飽いて、大に空想の欲を逞しうせんとする。必然の結果は時代に於いても場処に於いても現実を超越するに如くは無いこととなる。時代に於いて現実を超越すれば、過去、就中暗澹として人の想像をそゝのかす中古こそ其の恰好時代となる。また場所に於いて現実を超越すれば、人間以上の神秘界こそ其の恰好舞台となる。斯くしてロマンチシズムには更に中古的、神秘的といふが如き特性を生ずる。情緒的、自然的、理想的、自我的、中古的、神秘的、吾人は此の六項目の何れかが併存し若しくは独存して其の中心動力となり居るものをロマンチシズムと定義せんとするのである。其の他の諸細目に至つてはすべて以上の大綱に接せらるべきものと信ずる。

        知巧的× / 情緒的

      /      \ 自然的

クラシシズム  形式的× 内容的 /  理想的\

      \          \  自我的 

        現実的× 空想的又 / 中古的  ロマンチシズム

             超現実的 \ 神秘的/

 併しながら此等の諸特質は究竟何を生命として発動してゐるか、此等の背後には、さらにさらに奥深く或る一物の熱い息が力となつて之れを活かしてゐるのでは無いか。何等かの一物が、ギリシャの昔から廿世紀の今日に至るまで、子となり孫となるものの努力向上の底に伝はり横はつて、己れを大白昼の下に露呈し来たらんともがく。之れを対境にしては何物かの形に於いて之を探し出さんとする気持、之れを我れにしてはただ突出し展開せんとする無方の焦燥心。ロマンチシズムも畢竟は此の一物がクラシシズムの乾枯した殻を蝉脱せんとする息吹に外ならぬ。さて此の一物を何と名づくるか。

 三

 ロマンチシズムの文藝が斯くの如き途を辿り尽くさんとしてゐる時、忽ち行く手に一路を展開し来たつたものが自然主義である。文藝史上に自然主義の名を最も明白に掲げたものは所謂フランス自然主義であるが、主義と名のつかぬ自然主義は早くイギリスのワーヅワースに端を発し、更に溯つてはフランスのルソーに芽組んでゐた。此の場合に於ける自然主義の意味は単に人間の対照として自然に還り、自然を師とするといふに帰する。ルソーは其の第一論に於いて筆も言葉も及ばぬ自然の偉大を嘆美し、第二論に於いて言語なく習慣なく道徳なく戦闘なき原始社会を想像し、教育小説「エミール」に於いて「造化の手に成るものは凡て善、人間の手に成るものは凡て堕落」の意を述べた。一切人間の技巧を去り文明を忘れて自然の本に還れ。十八世紀の半ばに出たルソーの自然主義は此の意に外ならなかつた。続いて十八世紀の末に出たワーヅワースは、其の「抒情歌集」第二版の序に於いて、詩はただ平凡境に於ける強い感情の自然の流溢を平凡の言葉に調べ出だすに止まる、詩に特殊の辞法無く、特殊の人生無しと喝破し、且つ最も自然の景に愛着して、自己と自然物との区別をすら忘れんとするに至つた。自然を愛し自然の状態に近づく。是れがワーヅワースの自然主義である。更に此の意を押し及ぼすときは、所謂イギリス自然主義の種々なる名目となる。ブランデス氏が言ふところ、「イギリスに於ける思想の傾向としての自然主義は、ワーヅワースに発現した、其の状態は凡て外に(あら)はれたる自然を愛し、自然より得たる印象を蓄へ、動物、小児、田舎人、精神上の貧者に対して誠愛なる事等であつた。」而してコールリッヂ、サウシーに及んではドイツ、ロマンチシズムの中身を自然主義で取り扱つた趣がある。之を自然主義的ロマンチシズムと名づけた。またスコットは歴史的自然主義、シェレーは根本的自然主義、バイロンは其の「ドン、ジュアン」に於いて自然主義の頂点を示したといふのがブランデス氏の論の大綱である。吾人は之れを以てただ如何に種々なる自然主義があり、また如何に多くの詩人、否殆んど凡ての詩人が自然主義であり得るかの例としたに過ぎぬ。ブランデス氏の此の論は必ずしも凡て首肯すべきものでは無い。同じやうな混雑はブリュンチエールのフランス文学史にも見える。彼れはフランスの自然主義者を数へのぼつて、ヰ゛ーニー、ゴーチャー等にまで及んでゐる。併しながら若し之れを明瞭に区別せんとするときは、バルザック、フローベールすら既に自然主義と写実主義との中間にさまようて、「批評史」の著者セーンツベリー氏をしてゾラの自然主義に於けるフローベールの写実主義に於けるが如しと言はしめてゐる。要するに自然主義といふ語の範囲は今日尚極めて茫漠たるを免れぬ。

 さて以上の如きルソー、ワーヅワース等が自然主義は、同時にまたロマンチシズムである。ルソーがフランス革命乃至ユーゴー等のロマンチシズムに根本の刺戟を与へたことは言ふまでも無く、今日フランスのロマンチシズムを説くものは必ず其の淵源を此の人に置く。ワーヅワースの場合また之れと同じく、イギリスの十九世紀文学はロマンチシズムで幕を開く。而して其の第一登場者はワーヅワースに外ならぬ。ルソー、ワーヅワースの自然主義はロマンチシズムの根本である。ロマンチシズムの中には初めから自然主義を含蓄してゐた。但し之れはロマンチシズムの主要なる一面に過ぎずして、ロマンチシズムそのものには他の要素も結合してゐる。前に掲げた六要素中の自然的といふこと、すななち人間の巧偽に反して自然の醇樸に還るといふ傾向がやがて此の自然主義であると共に、情緒的といひ、理想的といひ、中古的といふが如き諸要素も同時に存在してゐるのがロマンチシズムの特色である。斯くの如くにして吾人は実に明白なる自然主義の端緒をロマンチシズムの中に見出だす。ルソー、ワーヅワースは自然主義の先達であると同時にロマンチシズムの先達である。

 然るに降つて十九世紀後半の自然主義に及べば、或は之れを以てロマンチシズムの反動と見るもの或は之れを以てロマンチシズムの連続と見るもの、全く矛盾した見解をすら生ずるに至つた。是れは何故であらう。十九世紀初頭の自然主義と十九世紀後半の自然主義との間には、如何なる曲折を蔵するか。吾人の見るところを以てすれば、此の曲折はやがて自然主義がロマンチシズムの中から分家して本家を領するに至る経過である。ロマンチシズムを一家に(たと)ふれば、「自然的」、「情緒的」以下五六の兄弟が同じ屋の下に同居してゐた。然るに此等の兄弟中「自然的」と名のつくものと他の兄弟等とは性来が違ふ。彼等は不和であつた。而して「自然的」は自ら分家して、他からの来援を得て遂に自然主義といふいかめしい看板を上げ、本家を横領するに至つた。是れが此の主義の生じた次第である。

 四

 ロマンチシズム内の不和合から生ずる自然主義の変遷を説くに先だつて、広く文藝全般の自然主義について一瞥するに、吾人は絵画の上に其の最も早い発生を認める。こゝでも文学の場合と同じく自然を好んで題材とするといふだけの意味のものが十六世紀の前半、かの色彩即生命とまで驚嘆せられたヴヱニス派の泰斗チヽアノに於いて早く(きざ)したと称せられる。其の「殉教者ピーター」の画で暴風にどよめく樹木の背景が、背景の地位から進んで本景に入つてゐる例など絵画界の趣味の漸く人事から自然物に広まる端を示したもの、従つて欧州に於ける自然画若しくは景色画の鼻祖は此の辺にあると評せられる(此の画惜しいかな今は亡びたり)。其れより後十七世紀のオランダ派となり、十八世紀のイギリス派となつて、自然画は益々発展した。中にも十八世紀の後半、イギリスのゲーンスボローに至つて、近世景色画の基礎が確立した。而して後コンステープルとなり、ターナーとなり、またフランスに其の刺戟を及ぼしては、テオドール、ルソー、乃至コロー、ミレー等、近世景色画の大家が鬱然として一時に競ひ起つた。されば今若し自然を重なる題材にするものを自然主義と呼ぶ意味からすれば、絵画上の自然主義は実に十六世紀のチヽアノ等から形を成して、前掲の近世諸家に及んだものと言はねばならぬ。けれども吾人がこゝで論究せんとする輓近の自然主義は、此の上に尚幾層の曲折を加へたものである。例ヘば()のアムプレッショニズム即ち印象派と呼ばれる一派の画風の如きが、此の曲折ある自然主義を代表する。恰も文学でワーヅワース等の自然主義とゾラ等の自然主義とに単複の差あるが如く、絵画でもテオドール、ルソー、コロー等の自然主義とマネー、モネー等印象派の自然主義とに単複の差がある。

 複雑なる近代自然主義の説に入るに先だつて、今一つの絵画史上に見落とすべからざる夫のジャンル即ち世相画の自然主義である。絵画に於ける初期の自然主義は、むしろ此の方を重要と見るべきかも知れぬ。是れ亦た端を十六世紀後半のイタリーに発して、画家カラワ゛ッジオ等の一群をナチュラリスチ(Naturalisti)すなはち自然派と呼んだ。其の主義とする所は専ら自然のまゝの事物を手本として人物を画くにも常に活きた人間を見るまゝに写すといふにあつた。今日から見れば歴とした自然主義であると同時に、所謂ジャンル画の風も是れから興つて、其の余勢は遠く北方オランダに及び茲に十七世紀の前半を輝かす大絵画を生んだ。それは即ちレムブラントの世相画がカラワ゛ッジオ等の自然派に脈をつないでゐることは、絵画史の証する所であるが、レムブラントを自然主義と断定する説の一例は、ドイツのフォン、シュタイン(VonStein)氏の「新美学階梯」にある。氏は先づ自然主義を以て、外形を細かに写すよりも自然の全体を我が情趣の助けで描くにあるとし、レムブラントが「ラザルスの覚醒に於ける基督」の如きは、救世主の顔すら明瞭には見えず、其の姿勢また他のイタリー画に多くある如く仰々しい興奮的動揺をば示さず、救世主を包む光線も殊さらに神秘の光燿を用ふるが如きことをせず、凡て自然にある光景を借りて、而も其の感じを十分に表現し得た所が自然派たる所以であると論じた。此に至れば絵画上の自然主義は十七世紀に於いて早く十九世紀前半の文学が有する自然主義よりも一歩を進めてゐた趣がある。併しながら是れを後の印象派の自然主義に比べれば、尚そこに単純と複雑との距離を存すること勿論である。吾人の論は後の自然主義に入らねばならぬ。

 五

 ロマンチシズム内の自然主義が他の同居者と分離せざるを得ざる事実は、絵画及び文学にわたつたイギリスの一主義、ラファエル前派の始終によつて最も明に証拠だてられる。此の派の首領とも見るべきロゼチが言ふ所によれば、ラファエル前派はラファエル以前のイタリー絵画の、全く伝習遺型に縛られることなく、自由に自然と相接して之れを師表とする風を慕ひ、彼等も一切の成型を棄てて直接に自然を師とし、微細に自然の形似を写さんとすると同時に、一方には熱烈の情緒を此等の文藝に寓せしめんとする目的であつた。然るに此の情緒的と自然的といふ二面の目的の調和は不可能であつた。団結後僅かに両三年ならずしてラファエル前派は早くも瓦解した。同志は各々其の傾くところに従つて自個本来の方向に特色を発揮して来た。中について最も著しいのはロゼチである。彼は単独となつて自家一個の傾向を追ひ始めるや否や、一歩々々其のいはゆる自然的方角から遠ざかつて、情緒的の方に(はし)つた。彼の詩にも画にも、殊さらに煩瑣な写実的自然的描写が挿入して無いではないが、それはむしろ邪魔になつても妙所とはならぬ。全体の特色は矢張り極めて濃厚な情緒的傾向にあつた。要するにラファエル前派は始めから分離すべき二面を強ひて括り合せた主張であつた為、末に及んで相背き、ロゼチによつて其の一方たる情緒的が勝ち自然派が遺棄せられた。蓋し主観的となり誇張的となるべき情緒的と、客観的となり写実的となるべき自然派とが相容れ難いのは自明の事である。

 そこで自然主義は文学のゾラ、絵画のモネー等によつて、実験小説といひ印象派といふ旗印の下に擁立せられた。同時に今までの同伴者は凡て敵として(しりぞ)けられた。情緒派は狂熱にまかせて事実を誇張するが故に自然を(そこな)ひ、理想派は事実に選択作為を加へて原形を変ずるが故に自然を傷ふ。自我派は己れの欲念を先にすることによつて、中古派神秘派は時を隔て境を隔て、事実の的確を失ふことによつて凡て自然を傷ふ。自然主義は一切是等の繁累を振りすてて新しい所から出発せんとする文藝の様式である。

 さてロマンチシズムの中から分立した自然派は、直に世間から新しい応援者を得て之れと結合せんとした、其の第一に来たのが文藝上の写実主義である。自然がロマンチシズムから分解することは写実主義と化合することであつた。(たゞ)に写実主義のみでない、之れを手始めに文藝以外の思想界から、およそ己れに便宜な要素をば幾ばくとなく吸引し来たつて自然主義の成分にした。実験科学然り、進化論然り、社会問題然り、新しい自我、新しい理想、凡て独立後の自然主義が周囲の大気中から吸収する化合元素である。近代自然主義の複雑な所以は実にこゝに存する。此等はみな吾人が本論に於いて分解し彙類せんとする材料に外ならぬ。

 六

 吾人は成分論に入るに先だつて、写実主義と自然主義との干繋を概説する必要を認める。蓋し写実主義のみは、他の科学問題、社会問題等と異なり在来文藝上の一傾向でまた範囲の広汎なもの、自然主義と近似したものと見えるからである。

 写実主義は元来理想主義と対応して、美学上に一群をなすべき文藝原理であつてロマンチシズム、ネチュラリズム等はおのづから是れと別の一群と見られる。而して両者は互に相交錯して存するを得べく、之れを文藝史上の傾向若しくは分類として見るときは、写実主義の包容する所は自然主義よりも更に広く、自然主義は写実主義の一部とも見られる。また之れを哲理の上から言へば、一面に於いて相違したものであると共に、一面たとへば外に現はれた所を写すといふが如き点に於いて一致する二原理である。

 自然主義と写実主義との哲理上の干繋は、一層精確に論ずれば、凡そ三様の見解に帰する。第一は両者を全然同一と見なすもの、第二は両者間に程度の差ありとするもの、第三は両者全く質を別にすると見るものである。蓋し美学上から此の問題を論ずるには文藝は何を如何にして具現すべきかといふ二重な根本論の結合したものとして取り扱はざるを得まい。而して是れまでの美学は専ら其の如何にしてといふ方法論の上から両者を区別せんとしてゐる。何をといふ主題論の一辺が不十分なやうに思はれる。今先づ写実といふ語について見んに、かの哲学者として最も詩味ある美学を立てたシェリングは、之れを中世以後の理想主義に対してギリシャ藝術の特色であるとした。而して哲学者ヘーゲルは同じギリシャの藝術をクラシシズムに分類した。されば此の両家を突き合はすれば、クラシシズムと写実主義とはギリシャ藝術に於いて合体する。クラシシズム即写実主義といふ奇異なる結論に帰する。けれども此の奇異なる結論に真理があるのであらう。すなはちギリシャ藝術の特色は通例其の外形即内容である所に存すると称せられる。外形に(あら)はれた所だけで満足する、十分である。外形を(こぼ)ちさへせねば、それで美の目的は達せられる。勿論ギリシャにも事実此の以外の傾向はあるが、吾人がクラシカルといふ時の中央概念は外形本位といふことである。クラシシズム即外形主義、而して外形を本位とする限りは、自然が現実に造りだしてゐる者以上の標準は無い訳であるから、茲に外形に(あら)はれた自然すなはち現実を最高模範として、藝術は之れを模写する外は無い。自然の模写、外形の模写、是れがギリシャ人につきまとふ美学思想である。一二の学者が外形の模写が内面の模写といふ思想に一歩を転じた事はあつても、大体に於いて外形的模写論がギリシャ思想の特色で、同時に古代の模写論と近代の模写論との区分も此の結にある。外形の模写、自然の模写、之れを中心とする点に於いて、写実主義はクラシシズムと通ずる。ヘーゲル、シェリングの一致は是れに外ならぬ。而して自然主義が写実主義と合致すると見るものもまた此の点に立脚する。美学者ハルトマンは、シャスレル、カリエール等を論ずる条に於いて、写実説の理想説に対立する意義の不明瞭なるを難じ、また其の本論に於いても、仮象説の立場から、文藝上の現実自然といふことを難じてゐるが、それらの場合、自然主義と写実主義の間に明確な区別を立てて居らぬ。またベルリン大学のデソア氏(M.Dessoir)は、其の近著「美学及一般藝術学」に於いて「自然主義は文藝即現実と見、諸種の理想主義は文藝を現実よりもより多くなりと見、形式主義、幻像主義、感覚主義は文藝を現実よりもより少なしと見る」と言つて、暗に自然主義と写実主義とを同義に解してゐる。其の他にも此の種の説は多い。

 七

 自然主義と写実主義とを程度の差とする第二の見解は、描写法を如何に多く客観化するかといふ論に帰する。此の説では写実主義はなほ全く自然のまゝを写す度が足らず、私意巧偽の跡が多い。自然主義は一層之れを客観化して、写真の種板が事象の影を其のまゝ印するやうにならなければ止まぬ。技巧細工の痕述を全然消し去らうといふに落ちつく。たとへば嘗ても吾人の彫刻論に引いたドイツの美術史家ローセンベルグ氏が、写実主義は描写の上になほ画家の図取、置布、彩色、明暗等の特権を棄てぬもの、自然主義は全く自然に無条件の降服をなして、偶然でも無形式でも無秩序でも構はず自然の来るがまゝを写すものとした説の如き、若しくはチュービンゲンの教授コンラッド、ランゲ氏(K.Lange)が其の「藝術の本体」に説くところ、理想主義は自然の理想を思索して文藝の中に据ゑつけんとし、自然主義は自然を模して真偽を分ち難きまでに至らんとし、而して此の両極端の間に立つ第三者は写実主義であるとした論の如き、皆自然主義を以て最も極端なる自然の模写と見なし、写実主義を以てなほ大に技巧の残留した穏和な様式と見る意である。つまり理想主義に最も多く人為があつて其の漸次逓減(ていげん)し行く度合に従つて写実主義となり自然主義となるといふのである。

 最後に自然主義と写実主義とは性質の差であるといふ説によると、写実主義が自然の模写たるに反して、自然主義は単に自然といふ以上に或る条件を加へたものを、単に模写といふ以上の或る方法で写すものである。前に引いたシュタイン氏の説では現実から受けた印銘を増減する所なく再現せんとする試みは、写実主義の新たなる転化に外ならぬ、自然主義は其れと違ひ自然を一全円として描出する、其の方法は客観から刺戟せられた主観の傾向すなはち情趣によつて其の自然を全円の形に充実せしむるにある。部分の細写の如きは自然主義の本来でなくしてただ伴起現象たるに過ぎぬと。一全円体の自然を写す、主動の情趣で大体を写す、細写を要せぬ。是れが自然主義の写実主義に違ふ所である。全円といふことが加はり、情趣といふ事が加はつて、性質を変じたものになるではないか。

 自然主義と写実主義との相違は以上の如く種々に解するを得るとして、其の第一説両者を全然同一と見る論は少なくとも近代文藝の活きた事実を目睹(もくと)するものの首肯し得ざる所であらう。第二第三の程度説と性質説とは、事実双方とも真理である。其の理は後段自然主義の成分を研究する条に於いておのづから説明せられると信ず。

 

 八

 十九世紀後半の自然主義はフランスを中心とする。併しながら其の何年を始めとし何年を終りとするかは明かでない。殊に其の終結に関しては、或は已に反動期に入つて自然主義は過去のものと成り了つた如くいふものもあれば、事実に於いて今なほ欧州文藝の生命である如く見るものもある。之れが起原については、吾人はド、ミル氏(A.B.deMile)の「十九世紀文学史」が凡そ千六百六十年代を始めとする説を仮用する。ロマンチシズムの代表ユーゴーの勢力も此の頃を起点として反動の気勢を示したらしく、フローベールの出世作「マダム、ボワ゛リー」の出たのも矢張り此の前後である。続いて千八百七十年代に及べば、ゾラがフローベール、ドーデー、ゴンクール兄弟、ツールゲニフ等と謀つて暗に自然主義の会を興したのも其の前後であつたと伝へられ、また大作「ルーゴン、マカール」の連篇に書いたやうな観察に取りかゝつたのも其れより遠からず。一方絵画界では最近自然主義と見るべき印象派の始めも此の頃である。而して千八百八十年代には早くも隆盛の頂点に達して、反動を惹き起こしたと称せられる。自然主義、就中ゾライズムに対して逸早く反動の陣を張つたのはブリュンチエールで千八百七十五年頃からである。引きつづいてラメイトル(J.Lemaitre)フランス(A.France)等の主なる批評家も反対の側に立つた。作の上での対照は、ブールゼー(P.Bourget)氏の小説が恰も此の反動期以後すなはち千八百八十五年頃から出はじめてゾラ等の暗澹たる下層の悲惨を描くに対し、好んで上層豪奢の社会の歓楽を描いた。またユイスマン(J.K.Huysmans)も千八百九十五年の「アン、ルート」以後は自然主義中に漸次神秘主義、標象主義の味を加へて来たと見られる。されば要するに千八百八十年代から千九百年代迄を引きくるめて自然主義に対する反動時代と呼ぶものもある。併し自然主義の反動といふことに関しては、少なからぬ疑問のあることを忘れてはならぬ。先づ其の文藝上の自然主義者と見なされる文人についても確たることの言へぬ所以は前にも述べたが、詩人としてのボードレール(C.Baudelane)と小説家としてのゾラとは一般に其の最好代表者と見なされる。今ゾラの作品について其の年代を考へて見ると、所謂反動期以後が却つて「ルーゴン、マカール」の大作などの盛んに出た時で、言はば自然主義は未だ其の代表作を出さぬ内に反動の声を揚げられた気味である。此等は反動で無くしてむしろ反対者の多い中を十九世紀の末まで闊歩して来たといふ概ではないか。ただ古来ゾラ等の自然主義ほど八面攻撃の矢面にさらされた主義は少ない為め、利弊長短が明かに見えすくといふ事、及び欧州全般の思想界が科学主義の過重に対して反動の萌しを示し来たつた、其の余波が多少は自然主義の上にも影響してゐるといふ事だけは明白な事実であらう。其の以上には、自然主義は未だ必ずしも過去のものとなり切つて居らぬ。論より証拠は、欧州近時の小説壇に、全く自然主義の反対側に立ち得た大作が何程あるか。

 之れを劇の上に見ても、劇界の自然主義はドイツを最とすべきであらうが、其のドイツに自然主義の入つたのは実にフランスで反動期といはれる千八百八十年代ではないか。而して間もなく茲にも反動として標象主義、神秘主義がハウプトマンやズーダーマンの劇に入つて来たといふ。けれども千八百九十六年に神秘的な「沈鐘」を書いたハウプトマンは千八百九十九年に自然的な「馭者ヘンセル」を書いてゐる。自然派の本家たるイブセンにすら、晩年の作には神秘主義、標象主義があるといふ。併しイブセンが作中の標象神秘の味は必ずしも晩年に限らず「ロスマースホルム」の如き自然主義の作にすら神秘の味はある。「幽霊」なども同様である。是れは必ずしも自然主義に対する反動ではあるまい。要は、自然主義といへば直に之れを以てあらゆる趣味を除外するものと考へるの弊にだに陥らねばよい。自然主義の真の運命は、欧州に於いてすら寧ろ今後に決せらるべきものでは無いか。

 九

 自然主義そのものの研究は之れを構成上及び価値上の二面に分かち得る。吾人は先づ其の構成論を概説しよう。

 自然主義の構成は二点から見られる。第一は描写の方法態度第二は描写の目的題材である。

 第一、描写の方法態度から自然主義を分解する時は、純客観的と主観挿入的との二つになる。言ひかへれば、写実的と説明的、若しくは本来自然主義と印象派的自然主義に外ならぬ。自然を写すにあたつて、出来るだけ客観のまゝを真写し細写しよう、此の時の描写方法は明鏡の事象を射映するが如きものでなくてはならぬ、すなはち純客観的純写実的であるを要する。是れが本来の自然主義であるといふのが一方である。蓋し最も普通な解釈である。フローベールが「藝術と作者とは全く無共通なり」といつた事、批評家テーン(H.A.Taine)が自然の再現を極意として作者の個人性を一切其の蔭に潜ましめんといつた事、ブリュンチエールが自然主義の無感情性(アムパシビリテー)無人格性(アムパーソンネル)と評した事、ゾラが其の「実験小説」論で生理学が生物を試験するやうに小説も事実を実験し解剖し報告すると説いた事、等が皆同じ意を有する。他の一方、印象派的自然主義の主張は、結局一旦斥けた作家の主観を或る方式で再び挿入しようといふのである。作家が一旦自然の事象を感受して、自分の印象に纏めてそつくり再現しようといふに帰する。前に挙げたシュタイン氏の情趣説の如きが即ち此の論に該当する。また絵画上の印象派が自然に忠ならんとするの極、自家の印銘を主とし漠然たる大体の自然を描いて、写実的の細写を避けるの意も是れに外ならぬ。ドイツでは更に之れを徹底主義(Konsequente Naturalismus)と呼び千八百八十七年頃から抒情詩人ホルツ(Arno Holz)氏等が首唱してハウプトマン氏の劇「日の出前」に実行せられたと称する者である。同国の批評家パーテルス(A.Bartels)氏の言を仮りて言へば、此の主義はゾラ等の報告的自然主義(Reporter-Naturalismus)に対して、感覚界すなはち外物の印銘及びそれから生ずる情趣上の印銘を(ふた)つながら併せて蓄音機的に再現せんとする印象派的自然主義である。内外徹底せざれば休まざらんとする自然主義である。尚以上の二方法を対比して説いたものでは、イギリスの外交官文学者ベアリング氏(M.Baring)が第九版の「エンサイクロピデア、ブリタニカ」に述べた所などが最も参考になる。其の意、自然派には二派あつて、一は印象派(Impressionistis)といふ、自然を説明するを目的とし、自然から受けた印象を以て自家の人格を表はす手段とする。他は本来自然主義(NaturalismProper)といふ、絶対に客観的なる現実を得るを目的とする。ゴンクール兄弟等の作は前者に属しゾラ、モーパッサン等の作は後者に属すると。

 斯くの如き描写方法の区別は、事実に於いても存すること明かで、而も二つながら自然主義であるとすれば、理論上の解決は何うなるか。吾人の見る所を以てすれば此の両面は作者が筆を湿し、刷毛を染めて紙面にのぞむときの態度即ち覚悟、即ち気持によつて統一せられるものである。一は偏に外来の自然を歪まず曲らず映写し出さんとするが故に、その態度気持は消極的となる。出来ることなら無念無想全く謙虚な心で其の事物を迎へ且つ送り出したい。こゝから排技巧、排主観の傾向が生ずる。併し事実に於いて是れは或る度以上行はれるものでない。空虚な心には必ず何等かの思念が湧いて来る。そこで此の思念を邪道に入らしめぬため、知恵細巧に堕ちないで而も純粋無垢な或る者を拈出せんとするが如き態度で、客観の事象に差し向ける。又は謙虚にして鏡のやうな我が心の中に事象を映じて、映じたまゝじつと息を殺して其の事象の展開するのを待つが如き気持になる。積極的態度である。消極的態度が勝つときは純客観の自然主義を産し、積極的態度が勝つときは主観挿入の自然主義を産する。けれども極致は二者の調和にある。

 十

 既に自然主義に積極的態度を許せば、其の積極的思念の行止りは何であらうかといふ問題が、必ず起こらざるを得ない。即ち自然主義の目的論が生ずる。思ふに自然主義が写実主義乃至理想主義と違ふ根本は実にこゝに存する。写実主義は現実を写すを目的とするといひ理想主義は理想を写すを目的とするといふ。然るに自然主義はひとり真(Truth)を写すといふ。真といふ語は自然主義の生命でありモットーである。自然主義から言はすれば、理想といひ現実といふ語はまだ浅い、第二義の役にしか立たぬ。なまなか理想といふが為に、狭隘な個人の選択技巧を自然に加へて、厭悪軽蔑の念を生ぜしめる。なまなか現実といふが為に、外形に拘泥して深奥な自然の味に触れ得ない。此等の上に立つて、第一義の標的となるものは真に外ならぬ。文藝の目的は真を写すにある。吾人が積極的態度で何物をか惝怳(しやうくわう)する、其の惝怳(しやうくわう)の目的は真といふことにあつたのである。ゾラが世の攻撃に対して「ラッソモア」の序に弁じた所は、曰はく「我が作我れを弁護すべし。我が書は『真』の書也」と。ラスキンが其の「近代画家」中で盛に模写主義を詆譏(ていき)して、自然の真(Truth ofNature)を写すのが藝術の目的であるとしたのも、たとひ其の真といふ語の解釈は異なつても、立意に於いて自然主義の根本要件と相合する。

 然らば、斯やうな第一義の真は、ただ深い、高いといふだけで、明かに手に取ることは出来ぬであらうか。是れと第二義の理想、現実などいふものとの干繁は如何。此れに対する答がやがて自然主義の題材論である。ただ自然の真といふのみでは物足らぬ、不満足である。そこで之れを割り砕いて、現に手に触れ得る第二義のものに化し、以て製作上の費用に供せんとする。此に至つて自然主義は種種の変態を生じて来る。其の図は略々左の如きものであらう。

    描写の方/純客観的─写実的─本来自然主義  /消極的態度\統一目的─真

    法態度 \主観挿入的─説明的─印象派自然主義\積極的態度/

構成論/

    \描写の目─真/ 社会問題─個人解放─根本道徳問題等

       的題材  ¦

         ¦  科学/心理学

         ¦    ¦  生理学

         ¦     \進化論

         ¦

          \ 現実/赤裸々─獣性─醜

              ¦  肉感的

              ¦  卑近的

              ¦  凡的

              \ 自然物的

価値論─真といふ目的の美学的価値如何

 十一

 真といふ最後の目的が手の届く所に来れば、砕けてさまざまの形になる。作家は手に手に之れを捨ひ取つて作の題材とする。言はば是れによつて彼等の注視点を定めんとする。湧き来たる一切の思念の流を之れにはけさせんとするのである。目の据ゑどころ、気の集めどころを此所に求める。従つて斯かる目的は真面目でなくてはならぬ、飽くまで真実でなくてはならぬ、何時までも人の心を占有するの力あるものでなくてはならぬ。

 さて右に表示した諸目的中、或は其の一を()いて題材とし、或は其の二、三を兼有して題材とする。固より是等は、自然主義のみが題材とするものとは限らぬが、最も多く自然主義と聯結するものである。自然主義が近代的、伝習破壊的である結果は、個人主義と連なり社会問題と連なるに至るは当然の順序であらう。また自然主義が自然といふ事から現実に連なり科学に連なるも已むを得ぬ干繋である。ゾラが「ルーゴン、マカール」二十篇の小説は、相補うて一の系統遺伝論であることは言ふまでもない。此の意味で彼は進化論の真を目的とした。また彼の「ラッソモア」は男女が飲酒、色欲、貧困等に囲まれて如何に堕落し死亡し行くかを語るを目的としてゐる。社会問題である。又彼の作には病的生理現象を説明するを目的としてゐるやうに見えるものがある。又彼の作は人間を赤裸々にして全く文明の衣を剥ぎ去つた原始性、野獣性の者として取り扱つてゐる所が多い、其の結果道徳感上の醜を描いて怪まぬ、肉感的な所も日常卑近の境を材とする所も、景色動植物器具家屋等の自然物を細写するに筆を(をし)まぬ所も皆此の条件に合期する。此の意味からゾラは欧州の文学史中最好の自然主義代表者である。

 現実を現実として最も真に写さんとするには一切人工虚飾の分子を排脱するを要する、赤裸々の人間、野性、醜、描いてこゝに至れば、最も真に近づく、最も痛切である。ゾラの所謂人間の証券(Documenthumaine)は斯くして始めて的確に読まれる。内感はすなはち実際哲学が證して最も確実な知識とするもの、之に訴へる現実は最も真なるべき理である。肉感に近づくだけ、其の刺戟は真実になり、随つて痛切になる。卑近の境は最も多くの人が最も多く実験する現実であるし、自然物は最も明確で且つ虚偽なき樸直な現実である。自然主義は現実を斯やうに考へる。

 絵画の印象派は、アカデミー派が構図に重きを置くに反抗して、専ら色彩に工風を凝らす。色彩は図柄よりも概して肉感的である。色によつて直に感じを得へんとする。また彼等は好んで卑近な醜悪な画題を描く。また人事よりも自然物を多く描く。凡て彼等が自然派たる所以である。

 イブセンの劇は殆ど凡て社会問題を取扱つてゐる。社会劇又は問題劇といはるゝ所以である。深いものは直に個人性問題に入り、根本道徳問題に入る。また彼の作にも遺伝論の影が見える。「幽霊」のオスワルドはゾラの書きさうな病的遺伝をあらはし、「ロスマールホルム」のロスマーは深い性格上の遺伝をあらはしてゐる。

 ドイツの自然主義については、コーア氏(Coar)の名著「十九世紀ドイツ文学研究」が最も巧みに其の間の消息を説いてゐる。其の要に曰はく、千八百九十年頃の若い文学者等は相率て自然主義に赴き、人生の精確なる写像といふことを殊に精確といふことに力を入れて主張した。併し心あるものは、写真や機械のやうに直写することが文学だとは信じなかつた。又事実を見ても、直写を主張するものすら、我れの感動する部分の重要なことを忘れなかつた。彼等の説は根本に一つの希望を含んでゐた。それは事実を写した底から、其の事実の超越的意義即ち理想を開発せしめんとする望であつた。例へばズーダーマン、ハウプトマン、ハルベ等の思ひ切つて写実的な作「ゾドム」「日の出前」「自由の恋」などを見ても、之れはよく分かる。つまり背景に社会的個人性の全現といふ要求が隠れてゐる。自然主義の二努力は社会を定義し個人を解放するといふことであつた。理想とは之れを指す。自然主義の目的は理想にあつたのだ。此の社会的個人の顕現といふことがフルダをもヴヰルデンブルックをも兜を脱がせた。社会主義個人主義の極端なものが自然主義から出るのも此のゆゑであると。

 吾人の言を以てすれば、此の透徹した(けん)は、自然主義が理想主義に移ることを證するよりも、寧ろ以て自然主義そのものが如何に深いところに根底を有してゐるかを證するものである。自然主義は決して単純なものではない。

 *

 前来の叙述で吾人の自然主義構成論は大体を了へた。ただ自然主義が後の神秘主義標象主義理想主義等と交渉する次第を説くの余地が無かつた。また真といふ自然主義最後の目的が、美学上如何なる地位を占むべきか。自然主義の最後の価値を定むるには、此の上に更に何物かの違つた名が必要ではないか。それは現実でも理想でも真でも無いとすれば何か。之れを研究することによつて自然主義の価値論が定まる。是れも茲には省いて他日を期する。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/01/25

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

ePubダウンロード

島村 抱月

シマムラ ホウゲツ
しまむら ほうげつ 評論家 1871・1・10~1918・11・5 島根県生まれ。早稲田大学教授。1902(明治35)年から1905(明治38)年にかけて英独へ留学してネオ・ロマンチシズムに触れ、美学研究に打ち込む。その後、雑誌「早稲田文学」を主宰して自然主義文学運動に尽力し、1913(大正2)年には松井須磨子と芸術座を興して西洋演劇を紹介した。評論集に共著「風雲集」、「懐疑と沈黙の傍より」など。

掲載作は、日本自然主義を西洋の自然主義からの必然の歴史の過程であることを理論的に構築・展開した評論で、1908(明治41)年1月「早稲田文学」に初出。「日本現代文学全集27」(昭和43年、講談社)より。

著者のその他の作品