中央公論社 回顧五十年
緒 言
雑誌の寿命は短いものである。人間の働き盛りを十年か十五年と観て、その十年か十五年が雑誌の生命である。人間の活動力が衰うれば雑誌も衰える。だから、『中央公論』が五十年も続いたということは実に珍らしいことである。また、五十年という歳月は天地の悠久に比して必ずしも永しとはしない。けれどもまさに半世紀である。半世紀の間には、歴史上重大な事件の二つや三つない時代はない。世界歴史中どの世紀を取って見てもそうだが、殊に近代は事件が
憲法発布、国会開設、日清戦争、日露戦争、そしてまた世界大戦、満州事変と、指を屈するだに血の湧くような大事件が、この五十年の間に次ぎから次ぎへと
私は、今、筆を執って、わが『中央公論』を通して観たる五十年の文化発達史を綴ろうとして、忽忙の余りにその余暇の無いのに苦しんでいる。五十年記念の祝典を前にして、これを完成しようとして心は喘いでいるが、恐らく完全を望むことは出来まいと思う。だが、将来、この光栄ある近世日本発達史を編む人のために、少なくとも一個の重要な参考資料たることを信じ、かつそれを望むこと切である。
(一)『中央公論』前期
(イ)反省会の誕生
歴史は繰り返す。数年前のわが国の思想的傾向が余りに左翼的に奔り過ぎたことは誰しも認めるところであるが、その結果は、一の満州事変を契機として、今日見るような反動的な時代が招来された。これと同じようなことは、ギリシヤ・ローマの昔より、時計のべンジュラムが右から左ヘ、左から右へと動いて止まないように常に繰り返されている。本誌創刊当時がちょうどそれである。当時はいわゆる旧幕の
当時、京都に私学の二大勢力があった。一はいうまでもなくキリスト教を奉じた新島襄氏の率ゆる同志社であり、他は西本願寺立の里見了念氏を主盟とした普通教校である。いずれも地方学究青年の憧れの的となって幾百の若き学徒を擁していた。この普通教校は、時の
由来、仏教は明治維新の廃仏毀釈運動によって徹底的に打ちのめされていたのであったが、この前後から教界内に反省自覚の
かくして「反省」とは、実に当時日本の社会的全面に向かって加えられた要求であった。たまたま普通教校の反省会のごときは、その遍照の月光を宿した清純な露の一滴にほかならなかったのである。
この反省会で牛耳を執っていた学生の一人、古河勇 ( 老川と号す ) 氏は、当時を回顧して語っている。
「普通教校の価値は慶応義塾の価値なり、同志社の価値なり、……
とはいうものの、直接の刺激は慶応義塾よりも、より多く同志社から受けたことは疑うの余地がない。当時の同志社はいわゆるリバイバルの前後で、信仰大いに奮い、狂信的な信者の続出した時であった。心ある仏教徒がこれを目前にして冷然視することの出来なかったのは当然であって、かくして平安の故都 ! そこには新来のキリスト教が新宗法の鐘を響かすと共に、また伝統の古い仏教が鮮やかな法燈を掲げて、新旧二様の生命がめざましく織り成されたのであった。
『反省会雑誌』第一号の発刊趣旨をひもといて見よう。
「嗚呼久旱雨ナク万川水涸レ法田
なお表紙に“The Temperance”と大きく英語で書いてあるのも、この雑誌の傾向を語るものである。この雑誌は明治二十年(1889)八月第一号を出したが、三ヵ月休刊してその十二月に再び第一号を刊行している。
わが『中央公論』は以上のごとき時代の、以上のごとき環境のもとに、以上のごとき内容外形をもって創刊されたのである。そしてこれが編集の先頭に立った者は、さきに名を挙げた
かれは実に反省会運動の中心に坐する有力な一人であり、雑誌が生まれると菅実丸、小原松千代と共に編集係に選ばれ、第一号の巻頭論文「朝鮮の文明を誘導するは日本仏教者の責任なり」はかれの筆に成ったものである。時に年少十七歳。
反省会の成るや「老川、率先之に加わり、力を創立に尽ししこと少なからず、後、反省雑誌の出づるに当り、彼れ主として其任に当れり。反省雑誌の一時大に
( ロ )東 転
かくて明治二十五年五月、『反省会雑誌』は、誌名からその「会」の一字を削って『反省雑誌』とし、発行所も「反省会」でなくて「反省雑誌社」と
「反省雑誌は旧反省会雑誌を改題し、本年四月より実施せられたる逓信省令に拠り、新たに反省雑誌社より発刊したるものに有之候へば左様御諒承被下度候也」と、社告に出ている。
それ以外、京都にある間は、反省会員の数が二万に上る盛況を示した( 明治二十九年の文献による ) という以外、雑誌として特別に記することはない。
ここに本社を京都から東京に移すべき時が来た。このいわゆる東転についは、公私二様の理由がうかがわれる。
まず公的な理由から語れば、日清戦争を契機とする異常な国家的飛躍が、この雑誌にも京都を活動舞台としたのでは不便だと痛感させはじめたことである。古河老川の「東京仏教の将来」なる論文に、
「……東京は帝国の中心である。皇城が
「……東京の仏教活動が遅緩なのは、人物と金が乏しいからで、学校はあつてもその整備が遥かに京都に及ばず、仏教雑誌は十一もあるが、その議論の主旨、編集の体裁、共に京都に於ける一反省会雑誌に及ぶもの甚だ稀なりしに非ずや」と論じ、さらに続けて「今や青年団隊として大いに観るべきもの二あり、一は京都の反省会、一は東京の日本仏教青年会」といっている。
すなわち反省会及び『反省雑誌』を自ら重んずることかくのごとく切に、より以上の発展を期して東京を望むことまたかくのごとくであったのである。
次ぎに私的な理由を語るためには、この間に是非とも大谷光瑞師を入れて考えなければならぬ。
光瑞師がつとに法門の常鱗凡介でなかったことは、言うもさらである。あの
師はまた、日清戦後海外に鵬翼を伸べ、教線を拡張せんことを企図した。ウラジオに太田覚眠氏を、シンガポールに佐々木千重氏を、木曜島に龍江義信、阿部一毛氏を、露都に足利瑞義、渡辺哲信氏を派し、あるいは布教に、あるいは文化の研究に、あるいは産業の調査にその大経綸、大抱負を実現せんとした。師の志は常に世界にあった。蝸牛角上の京都をや。雑誌社を東京に移したのもそのためであった。いわば青年蟠居の梁山泊であった。したがって『反省雑誌』のためには、海外の権威ある雑誌や新聞を取り寄せ、その当時、海外知識に乏しきわが国読書界のために翻訳掲載せしめ、「海外新潮」と名付け、当時の雑誌界にあっては断然たる異彩を放ったものである。
東転当時の本社の組織は、編集主任桜井義肇、編集麻田駒之助、庶務主任麻田駒之助、庶務桜井義肇となっていた。といえば、非常に整備しているように見えるが、実は桜井、麻田の両氏が、兼用の書記篠原温亭を使用して上下三名、編集でもあり、会計でもあり、事務員でもあり、小使でもあったわけである。
その頃、桜井氏は文学寮 (さきの普通教校の後身) の教授兼舎監として令名高く、
さて当時の状況を聞くに、民友社の『国民の友』、博文館の『太陽』、政教社の『日本人』、内村鑑三氏の『聖書の研究』、竹越三叉氏の『世界之日本』等が『反省雑誌』と同一傾向のものとして数えられた。『反省雑誌』に最も近い部数を印刷したのが『聖書の研究』であって、三千五百部を上下したといわれている。『反省雑誌』それにつぎ、『聖書の研究』の強敵とされていたが、部数はようやくその半であったろうか。仏教雑誌がキリスト教雑誌に負けてなるものかという競争意識もあったようである。
東転後、いちじるしく目立って来たことは、何といってもそれまでの『反省雑誌』は仏教雑誌の範疇を出ることが出来なかったが、東転後とみに抱擁の範囲を拡げ、社会雑誌に転移する傾向を示して来たことである。殊に従来閑却されていた文藝の領野に眼を注いで来たのもその頃からであった。
幸田露伴氏の「雲のいろいろ」、広津柳浪氏の「青大将」、大町桂月氏の「かた袖」、高山樗牛氏の「わが袖の記」が載ったのもその頃で、独歩、鉄幹、子規、虚子の顔がボツボツ雑誌に現われるようになったのである。
なお、東転後の歴史に最も特筆大書すべきことは、『英文反省雑誌』約十号を発刊したことである。
日清戦争で、新興日本の印象を世界に鮮かなものにしてからのわがジャーナリズムの衝動の一つは、確かに、世界に向かって日本を認識させるということにあった。だから当時の多くの雑誌が競って英文欄を、また中には独仏文欄を設けたものもある。
「そのくらいなら独立した雑誌として刊行しよう」との案が、これもやはり大谷光瑞師から出た。そこで四六倍判の、表紙は唐草模様、藤紫の
が、その当時東京の
(二)『中央公論』時代
(イ)麻田氏の独裁経営
東転後の本誌が、次第に仏教的薫染を脱して、社会的綜合雑誌の相貌を帯びて来たことは、前に一言したが、こうなると問題は『反省雑誌』なる称号である。
これはいかにも堅苦しくて、気がきかぬとの意見が、社の内外から起こり、ここに再度の改題が行なわれて、明治三十二年(1899)一月『中央公論』となったのである。
さて、『中央公論』となってからも、最初の主幹は引きつづき桜井義肇氏であったが、当時編集技倆の水際立って鮮かだったことは、それを知るほどの人の衆評一致するところである。が、惜しいことには、桜井氏は就任間もなく外遊し、帰朝するとほどなく、本願寺の教営問題で時すでに法主となっておられた大谷光瑞師の内局の方針と意見の合わぬものあり、遂に分離して新たに『新公論』を起こした。実に明治三十七年(1904)一月である。
そこで『中央公論』は一切が麻田(駒之助)氏の手に帰し、その一月は休刊して、二月から再出発することになった。
当時の事情を
いよいよ『中央公論』が、麻田君の手に帰するようになった時、桜井君は別に『新公論』と題する月刊雑誌を発行して、大いに『中央公論』と競争することになり、僕は同志とともに新仏教運動を起こして『新仏教』の編集を引き受けていたのではあったが、しかも『新公論』の評論を担当して、桜井君を助けることとなったのである。正直に白状するが、その時の僕らの鼻息の荒かったことというものは大したもので、「麻田君は、雑誌の編集には経験が無いのだから、どうせ誰かにやらせるのだろうが、およそ雑誌の編集に巧なことと言っては桜井君の右に出るものはないのだから、半歳経つか経たないうちに、確かに『中央公論』を征服して見せる」と言ったような工合であった。
然るに中央公論は、麻田氏の手に移るや、容易ならざる苦楚を
麻田氏の独裁経営に移って、『中央公論』の正史はここに始まる。
麻田氏の長所は、万人の認むる如く、自ら編集の第一線に立つことなくして、帷幕に画策をめぐらすことにあった。雑誌は公器であるという信念のもとに、あくまでその公器の本領を発揮せしめたにある。編集の実務は当局者に万幅の信頼を傾けて自由にその才腕を
しばらく麻田氏の口吻のままを取次ごう。
「明治三十一年(1898)、『反省雑誌』が初めて文藝夏期附録号を刊行した時は、普通号千五百部に対し、二千部を刷った。しかもそれが直ぐ品切れになってさらに三百部を再版した。五割余の大増刷だが、この経験をもちながら、しかもなほこれがために文藝を尊重して雑誌を拡張しようとの考えの起こらなかったことは、その当時の文藝が夏季附録当時とは大いに趣を異にして来たことに躊躇したのだが、雑誌を発展させるには文藝欄を拡張しなければならぬと痛感して、大いに
高山氏は、日露戦争と共に雑誌が異常な伸長をする勢いに乗って、大刷新を加えようと決意した。明治三十七年(1904)十一月の本誌に、左のような社告を載せている。
編 輯 録
軽佻浅薄、
十九年来健全なる思想を供給して来た中央公論は、
取立てゝいふ程でもないが、先づ記者を増聘した。以前よりは一層多く名家の所説を掲載することにした。新たに文藝評論を加へた。戦時
如上の言は空想でない。読者は宜しく之を今後に徴し、編輯者の苦心のあるところを看取されたいのである。
右は高山覚威の編集抱負を語るものであって、普通、滝田樗陰氏の提案と考えられている文藝欄設置のごとき実は氏の発案であったのである。しかしながら惜しいかな、氏は在社一年余にして去り、国民、東京朝日、中外商業等の諸新聞を経て、最後は大阪時事の編集長として、昭和九年二月、胃潰瘍のために長逝した。
氏は美作の人。『雲峰遺文』一巻が令兄大山斐瑳麿氏に依って編まれ、この才人の面影の片鱗を留めているが、それに序した徳富蘇峰氏の文にいう。
「君ハ新聞記者トシテ非凡ノ才能ヲ有シテ居タ。自ラ筆ヲ執ルコトハ勿論、編輯者トシテ、他ノ原稿ヲ整理スルノ手際ハ、更ニ一段卓越シテ居タ。資性硬直、
と。
高山氏はかくのごとくにして去ったが、『中央公論』発展のために氏が画策した所は、充分に、否その数倍に、後継者樗陰によって継承実現せられたのである。実に不思議な因縁といわねばならぬ。
( ロ )滝田樗陰の登場
樗陰滝田哲太郎氏は秋田の人。まだ帝国大学の一法科学生であった時、海外新潮欄の翻訳をもって、社とのつながりを生じた。
この海外新潮欄は、外国の諸雑誌から目新しい記事を拾って紹介したもので、上田敏、畔柳芥舟、久保天髄の諸氏が担当していたが、最初滝田氏を抜いてこの任に加えたのは上田敏博士であった。
これよりさき、『中央公論』が麻田氏の単独経営に移ると共に、最初に入社して来た記者は近松 (当時徳田) 秋江氏であったが、氏はその性癖が社務に合わないと謙遜してわずか数ヵ月にして自ら退社し、高山雲峰氏これに代わったのであるが、樗陰氏は学業のかたわら雲峰氏を扶けて編集に従事していたのであった。ところが雲峰氏去ってここに樗陰氏の独り舞台が出現し、縦横無尽にその手腕を揮うて、『中央公論』則樗陰の黄金時代を築き上げたのである。
樗陰氏の志は、初めは文筆にあった。ひとり翻訳ばかりでなく、氏は評論随筆の筆をも執った。本社入社後も誘われて某新聞社その他ヘ転じたこと再度に及んだ。だが、所詮は、『中央公論』に運命づけられている樗陰氏であった。どこに転じて行くも旬日ならずして帰り来たり、麻田氏もまたその度にこれを容れて自由に働かせたのであった。
滝田氏によって俄然面目を改めたのは、本誌の文藝欄であった。二百号記念 (三十八年〈1905〉十一月)に露伴、鏡花、春雨、漱石と並べた創作欄は忽ち新進漱石の「
翌三十九年(1906)十月、漱石、藤村、独歩、梁川、愛山、筑水諸家を並べて附録号とし、
樗陰氏の編集者としての卓抜な才能を数うれば、一にして足らないが、まず氏は、公平にして鋭敏なる「時の人」に対する選択眼を具していた。学閥の弊なお盛んなる時、その本城赤門に学びながらも、氏には少しもその臭味がなかった。
ただ学閥のみでなく、文壇の諸流派に対してもかれは絶対に公平であった。むしろ氏は文壇的諸流派に超然としていた。最も勢力あるグループに阿附して、全誌をその機関誌化するがごとき
かれは天性の素質と燃ゆるがごとき熱とでもって、当る者を焼き尽さずんば止まなかった。かれはまた、熱とともに愛すべき稚気をも併せもっていた。蘇峰、三叉、漱石、臨川に愛せられたのもそのためである。
かれはまた異常なる精力家、非凡なる活動家であった。したがって欲望は無限であった。かれのジャーナリスチック・アペタイトを満足せしむために、実にかれは千里の途をも遠しとしなかった。その心魂を傾けつくした熱情に対して感激せざる者はなかった。
そこに多くの文人を輩出せしめ、傑作を産出せしめたのであった。『中央公論』が文壇の登龍門と呼ばれ、檜舞台となったのはこのためであった。誌運は隆々として日増しにその勢力を加えて来た。私の入社したのは実にこの時であったが、それを助成せしめた人に相馬由也氏のあるを忘れてはならない。
(ハ)デモクラシーの勃興
私の入社したのは明治四十五年(1912)の十月である。すなわちその年代は大正と変わった。
私は入社以来三年間、この名編集者滝田樗陰氏のもとに『中央公論』の仕事を手伝い、その走り使いをしていた。
この前後、本誌の
その談にいわく
「…… この五十年間において、幾多の変遷隆替があったにもかかわらず、最も誇るべきは、社の歴史が
私はこうした好運の中に生い立って、名誉ある『中央公論』を偉大ならしめる手伝いをしていたが、その頃
その臨時号が比較的に評判が好かったからというのでもないが、時代の動きや
これより先き大正三年(1914)八月、世界大戦が勃発し、同十月わが国もまた参戦することになった。これがため貿易は杜絶し、一般事業は不振に陥り、政変またこれに伴い、極端に憂鬱な一年であったが、それが過ぎると、今度はその反動で大正五年(1916)半ばから、諸工業は急激に勃興し、わが史上空前絶後の気狂い景気の時代が到来し、それと共にようやく世界を風靡した民主思想の襲来は、わが思想界をも旋風の混乱裡に叩きこんだのであった。
この時、デモクラシーの思想をもって一世を率い、
およそ雑誌にしてかくのごとき輝かしき指導的役割を務めたもの、明治の初期に開化鼓吹の『明六雑誌』あり、中期に平民主義唱道の『国民之友』あり、それに本誌を加えて、三大事例となすことが出来ようと思う。
これは一に時勢の然らしめたところであるのはいうまでもないが、時代は最も賢明にその代弁者を選ぶ。その人はまさに吉野作造博士であった。博士はこの時代の中心であり、焦点であり、
私は左に、博士の樗陰氏に対する追憶を援引するであろう。これ両者の交渉の正確なる記録たるのみでなく、いわゆる「デモクラシイ・吉野博士・中央公論」の、三位一体の本誌黄金時代を記念する最好の文献であると思うからである。
滝田君と始めて相識ったのは大正二年の晩秋であった。此夏私は欧洲の留学から帰って大学の教壇に立ったのであるが、新しい帰朝者の誰しも経験するやうに、
初対面の挨拶が終って滝田君は、自分も私と同じ東北の出身で
それから後は滝田君は随分まめにやって来た。私は一つには教師としての最初の年なのと又一つにはさう手慣れても居なかったので、一々其要求には応じ得なかった。それ程暇がないなら私が筆記しませうといふので、
欧洲戦争勃発後私は殆んど毎号中央公論に筆を執るやうになった。去年大学をやめて朝日新聞社に入るまで、一二度病気か何かで休んだ外は、我ながら能くも毎月まめに書いたと思ふ。併し之には滝田君の力が
思うに読者は、この引用の長きに過ぐるを咎めないであろう。樗陰氏は実にわが『中央公論』にとっての最大恩人であった。しかも大正十四年(1925)、不世出の大編集者樗陰氏はわずかに四十四にして逝き、
(三)麻田氏引退後
(イ)沈衰から更迭へ
何事にも一張一弛一喜一憂あるは免がれ難い。黄金時代の後の沈滞期がやって来た。滝田樗陰氏が病んでふるわなくなったためである。病んだためばかりではなかったかも知れない。余りに活動的であった氏は、ようやく全盛期を過ぎて幾分熱
加うるに財界の不況があった。円本の流行があった。思想の飛躍があった。デモクラシーは社会主義ヘ、社会主義は共産主義へまで進展せんとする傾向があった。滝田氏は精神的にも肉体的にもここに止まった。
樗陰氏の逝くや、何よりも大きな打撃をこうむったのはもとより麻田氏であった。まさに車の一輪を欠いた形で、樗陰氏の部下高野敬録君を起こして編集長に、木佐木勝、伊藤茂雄の両君と共に編集部員を督励して見たが
私はもとより赤手空拳の一書生で、社会的勢力も財的背景も共にもたない。それで果たしてこの栄誉ある歴史を汚さず、
昭和三年八月号の誌上に左のごとく発表されている。
○
麻田駒之助
溽暑の候に候処
尚社業に対しては今後一層の御同情及御指導を賜らんことを
○
嶋中雄作
私儀此度麻田前社長の後を承けて中央公論社長に就任いたしましたについては、菲才微力ながら奮励斯業の発展を期したいと存じます。私が今日あるを得ましたのは一に麻田前社長の恩顧に因るところ深きは申すまでもないことでありますが、又一方公私ともに皆様の御同情御後援に因るところ多いのであります。茲に深甚の感謝を表して今後一層の御援助を希望いたします。
幸に皆様の御同情によって私どもの事業を大成せしむるを得ばいかばかりか欣幸に存じます。
昭和三年八月一日
(ロ)出版部その他の増設
私は、これから先きのことを書くのはなお十年二十年の後に譲りたいと思う。なぜなれば、私に与えられた使命はなお今後に
ただ特に一言附け加えなければならぬことは、昭和四年(1929)十月、『中央公論』、『婦人公論』の発行以外、新たに出版部を増設したことである。麻田氏は氏の「雑誌単業主義」をあくまで操持して絶対に手を出さなかった。これもとより賢明なる経営法である。しかしながら漸次に発達して来た出版資本主義の波浪は必ずしもそれを許さなくなった。雑誌編集法とても、滝田樗陰時代のような独裁主義、英雄主義では行けなくなった。すなわちスターシステムから総合編集への時代的転換が、その
次ぎに昭和五年(1930)『婦人公論』の大衆化を実行した。値下げを断行して日本全国に
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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