最初へ

 子供等は古い時計のかかつた茶の間に集まつて、そこにある柱の側へ各自の背丈(せたけ)を比べに行つた。次郎の(せい)の高くなつたのにも驚く。家中で、いちばん高い、あの兒の頭はもう一寸四()ぐらゐで鴨居(かもゐ)にまで屆きさうに見える。毎年の暮れに、郷里の方から年取りに上京して、その時だけ私逹と一緒になる太郎よりも、次郎の方が背はずつと高くなつた。

 茶の間の柱の側は狹い廊下づたいに、玄關や臺所への通ひ口になつてゐて、そこへ身長を計りに行くものは一人(ひとり)づつその柱を背にして立たせられた。そんなに背延びしては狡いと言ひ出すものがありもつと頭を平らにしてなどと言ふものがあつて、家中のものがみんなで大騷ぎしながら、誰が何分(なんぶ)延びたといふしるしを鉛筆で柱の上に(しる)しつけて置いた。誰の戲れから始まつたともなく、もう幾つとなく細い線が引かれて、その一つひとつには頭文字(かしらもじ)だけをローマ字であらはして置くやうな、そんないたづらもしてある。

 「誰だい、この線は。」

 と聞いてみると、末子(すゑこ)のがあり、下女(げじよ)のお(とく)のがある。いつぞや遠く滿州の果 てから家をあげて歸國した親戚(しんせき)の女の兒の背丈(せたけ)までもそこに殘つてゐる。私の娘も大きくなつた。末子の背は太郎と二寸ほどしか違はない。その末子が最早九(もん)足袋(たび)をはいた。

 四人ある私の子供の中で、身長の發育にかけては三郎がいちばんおくれた。一頃の三郎は妹の末子よりも低かつた。日頃、次郎贔屓の下女は、何かにつけて「次郎ちやん、次郎ちやん」で、そんな背の低いことでも三郎をからかふと、その度に三郎はくやしがつて、

 「悲觀しちまうなあ――背はもうあきらめた。」

 と、よく嘆息した。その三郎がめきめきと延びて來た時は、いつのまにか妹を追ひ越してしまつたばかりでなく、兄の太郎よりも高くなつた。三郎はうれしさのあまり、手を振つて茶の間の柱の側を歩き囘つたくらゐだ。さういふ私が同じ場所に行つて立つて見ると、ほとんど太郎と同じほどの高さだ。私は春先の(たけのこ)のやうな勢ひでずんずん成長して來た次郎や、三郎や、それから末子をよく見て、時にはこれが自分の子供かと心に驚くことさへもある。

 私逹親子のものは、遠からず今の住居(すまひ)を見捨てようとしてゐる時であつた。こんなにみんな大きくなつて、めいめい一部屋(ひとへや)づつを要求するほど一人前(いちにんまへ)に近い心持ちを(いだ)くやうになつてみると、何かにつけて今の住居(すまひ)狹苦(せまぐる)しかつた。私は二階の二部屋を次郎と三郎にあてがひ(この兄弟(けふだい)二人(ふたり)ともある洋畫研究所の研究生であつたから、)子は階下にある茶の間の片隅で我慢させ、自分は玄關(わき)の四疊半にこもつて、そこを書齋とも應接間とも寢部屋(ねべや)ともしてきた。今一部屋もあつたらと、私逹は言ひ暮らしてきた。それに、二階は明るいやうでも西日が強くく照りつけて、夏なぞは耐へがたい。南と北とを小高い石垣(いしがき)にふさがれた位 置にある今の住居(すまひ)では濕氣の多い窪地(くぼち)にでも住んでゐるやうで、雨でも來る日には茶の間の障子(せうじ)はことに暗かつた。

 「ここの家には飽きちやつた。」

 と言ひ出すのは三郎だ。

 「とうさん、僕と三ちやんと二人で行つて探して來るよ。好い家があつたら、とうさんは見にほひで。」

 次郎は次郎でこんな風に引き受け顏に言つて、画作の暇さへあれば一人(ひとり)でも借家をさがしに出掛けた。

 今更のやうに、私は住み慣れた家の周圍を見囘した。ここはいちばん近いポストへちよつとはがきを入れに行くにも二町(ちよう)はある。煙草屋(たばこや)へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋(とこや)へも五六町はあつて、どこへ用逹(やうたし)に出かけるにも坂を(のぼ)つたり(くだ)つたりしなければならない。慣れて見れば、よくそれでも不便とも思はずに暮らして來たやうなものだ。離れて行かうとするに惜しいほどの周圍でもなかつた。

 實に些細(ささい)なことから、私は今の家を住み()く思ふやうになつたのであるが、その底には、何かしら自分でも動かずにいられない心の要求に迫られてゐた。七年住んで見れば澤山だ。そんな氣持ちから、兎角心も落ちつかなかつた。

 ある日も私は次郎と連れだつて、麻布(あざぶ)笄町(かうがいちよう)から高樹町(たかぎちよう)あたりをさんざんさがし囘つたあげく、住み心地(ごこち)のよささうな借家も見當たらずじまいに、むなしく植木坂(うえきざか)のはうへ歸つて行つた。いつでもあの坂の上に近いところへ出ると、そこに自分らの家路が見えて來る。誰かしら見知つた顏にもあふ。暮れから道路工事の始まつてゐた電車通りも石やアスファルトにすつかり敷きかへられて、(とち)の並み木のすがたもなんとなく見直す時だ。私は次郎と二人(ふたり)でその新しい歩道を踏んで、鮨屋(すしや)の店の前あたりからある病院のトタン(べい)に添ふて歩いて行つた。植木坂は勾配(かうばい)の急な、狹い坂だ。その坂の降り口に見える古い病院の窓、そこにある煉瓦塀(れんがべい)、そこにある(つた)(つる)、すべて身にしみるやうに思はれてきた。

 下女のお徳は家のはうに私逹を待つてゐた。私逹が坂の下の石段を降りるのを足音できき知るほど、最早三年近くもお徳は私の家に奉公してゐた。主婦といふもののない私の家では、子供等の着物の世話まで下女に任せてある。このお徳は臺所のはうから(ふと)つた笑顏(えがお)を見せて、半分子供等の友だちのやうな、慣れ慣れしい口をきいた。

 「次郎ちやん、好い家があつて?」

 「だめ。」

 次郎はがつかりしたやうに答へて、玄關の壁の上へ鳥打帽(とりうちぼう)をかけた。私も冬の外套(がいとう)を脱いで置いて、借家さがしにくたぶれた目を自分の部屋(へや)の障子の外に移した。わづかばかりの庭も霜枯れて見えるほど、まだ春も淺かつた。

 私が早く自分の配偶者(つれあひ)を失ひ、六歳を(かしら)に四人の幼いものをひかへるやうになつた時から、すでにこんな生活は始まつたのである。私はいろいろな人の手に子供等を託してみ、いろいろな場所にも置いてみたが、結局父としての自分が進んでめんどうをみるよりほかに、母親のない子供等をどうすることもできないのを見いだした。不自由な男の手一つでも、どうにかわが子の養へないことはあるまい、その決心にゐたつたのは私が遠い外國の旅から自分の子供のそばに歸つて來た時であつた。そのころの太郎はやうやく小學の課程を終はりかけるほどで、次郎はまだ腕白盛(わんぱくざか)りの少年であつた。私は愛宕下(あたごした)のある宿屋にゐた。二部屋(ふたへや)あるその宿屋の離れ座敷を借り切つて、太郎と次郎の二人(ふたり)だけをそこから學校へ通はせた。食事のたびには宿の女中がチャブ臺などを()げながら、母屋(おもや)の臺所のはうから長い廊下づたいに、私逹の部屋までしたくをしに來てくれた。そこは地方から上京するなじみの客をおもに相手としてゐるやうな家で、入れかはり立ちかはり滯在する客も多い中に、子供を連れながら宿屋ずまいする私のやうなものもめづらしいと言はれた。

 外國の旅の經驗から、私も簡單な下宿生活に慣れて來た。それを私は愛宕下(あたごした)の宿屋に應用したのだ。自分の身のまはりのことはなるべく人手を借りずに。そればかりでなく、子供にあてがふ菓子も自分で町へ買ひに出たし、子供の着物も自分で(たた)んだ。

 この私逹には、いつのまにか、いろいろ

な隱し言葉もできた。

 「あゝ、また太郎さんが泣いちやつた。」

 私はよくそれを言つた。少年の時分にはありがちなことながら、兎角兄のはうは「泣き」やすかつたから、夜中に一度づつは自分で目をさまして、そこに眠つてゐる太郎を呼び起こした。子供の「泣いたもの」の始末にも人知れず心を苦しめた。そんなことで顏を(あか)めさせるでもあるまいと思つたから。

 次第に、私は子供の世界に親しむやうになつた。よく見ればそこにも流行といふものがあつて、石蹴(いしけ)り、めんこ、劍玉 (けんだま)、べい獨樂(ごま)といふふうに、あるものは流行(はや)りあるものはすたれ、子供の喜ぶおもちやの類までが時につれて移り變はりつつある。私はまた、二人(ふたり)の子供の性質の相違をも考へるやうになつた。正直で、根氣(こんき)よくて、目をパチクリさせるやうな癖のあるところまで、なんとなく太郎は義理ある祖父(をぢい)さんに似てきた。それに比べると次郎は、私の(おい)を思ひ出させるやうな人なつこいところと氣象の鋭さとがあつた。この弟のはうの子供は、宿屋の亭主(ていしゅ)でも誰でもやりこめるほどの理窟屋だつた。

 盆が來て、みそ(はぎ)酸漿(ほおづき)清涼靈棚(せうりようだな)を飾るころには、私は子供等の母親の位 (いはい)を旅の(かばん)の中から取り出した。宿屋ずまいする私逹も門口(かどぐち)に出て、宿の人たちと一緒に麻幹(おがら)()ゐた。私逹は順に迎へ火の消えた跡をまたいだ。すると、次郎はみんなの見てゐる前で、

 「どれ三ちやんや末ちやんの分をもまたいで――」

 と言つて、二度も三度も燒け殘つた麻幹(おがら)の上を飛んだ。

 「ああいふところは、どうしても次郎ちやんだ。」

 と、宿屋の亭主(ていしゅ)は快濶に笑つた。

 ややもすれば兄をしのがうとするこの弟の子供を(おさ)えて、何を言はれても默つて(したが)つてゐるやうな太郎の性質を延ばして行くといふことに、絶えず私は心を勞しつづけた。その心づかひは、子供から目を離させなかつた。町の空で、子供の泣き聲やけんかする聲でも聞きつけると、私はすぐに座をたつた。離れ座敷の廊下に出てみた。それが自分の子供の聲でないことを知るまでは安心しなかつた。

 私のところへは來客も多かつた。ある酒好きな友だちが、この私を見に來たあとで、「久しぶりでどこかへ誘はうと思つたが、ああして子供をひかへてゐるところを見ると、どうしてもそれが言ひ出せなかつた、」と、人に語つたといふ。その話を私は他の友だちの口から聞いた。でも、私も、引つ込んでばかりはいられなかつた。世間に出て友だち仲間に交はりたいやうな夕方でも來ると、私は太郎と次郎の二人を引き連れて、いつでも腰巾着(こしぎんちやく)づきで出掛けた。

 そのうちに、私は末子をもその宿屋に迎へるやうになつた。私は(ひたひ)に汗する思ひで、末子を迎へた。

 「二人育てるも、三人育てるも、世話する身には同じことだ。」

 と、私も考へ直した。長いこと親戚(しんせき)のはうに預けてあつた娘が學齡に逹するほど成人して、また親のふところに歸つて來たといふことは、私に取つての新しいよろこびでもあつた。そのころの末子はまだ人に髮を結つてもらつて、お手玉 や千代紙に餘念もないほどの小娘であつた。宿屋の庭のままごとに、松葉を(さかな)の形につなぐことなぞは、ことにその幼い心を樂しませた。兄たちの學校も近かつたから、海老茶色(えびちやいろ)の小娘らしい(はかま)に學校用の(かばん)で、末子をもその宿屋から通はせた。にはかに夕立でも來さうな空の日には、私は娘の雨傘(あまがさ)を小わきにかかへて、それを學校まで屆けに行くことを忘れなかつた。

 私逹親子のものは、足掛け二年ばかりの宿屋ずまいのあとで、そこを引き揚げることにした。愛宕下(あたごした)から今の住居(すまひ)のあるところまでは、歩いてもさう遠くない。電車の線路に添ふて長い榎坂(えのきざか)を越せば、やがて植木坂の上に出られる。私逹は宿屋の離れ座敷にあつた古い本箱や机や箪笥(たんす)なぞを荷車に載せ、相前後して今の住居(すまひ)に引き移つて來たのである。

 今の住所へは私も多くの望みをかけて移つて來た。(ばあ)やを一人(ひとり)雇ひ入れることにしたのもその時だ。太郎はすでに中學の制服を着る年ごろであつたから、すこし遠くても電車で私の母校のはうへ通はせ、次郎と末子の二人(ふたり)を愛宕下の學校まで毎日歩いて通はせた。そのころの私は二階の部屋(へや)に陣取つて、階下を子供等と婆やにあてがつた。

 しばらくするうちに、私は二階の障子のそばで自分の机の前にすわりながらでも、階下に起こるいろいろな物音や、話し聲や、客のおとづれや、子供等の笑ふ聲までを手に取るやうに知るやうになつた。それもそのはずだ。(ゑさ)を拾ふ雄鷄(おんどり)の役目と、羽翅(はね)をひろげて(ひな)を隱す母鷄(ははどり)の役目とを兼ねなければならなかつたやうな私であつたから。

 どうかすると、末子のすすり泣く聲が階下から傳はつて來る。それを聞きつけるたびに、私はしかけた仕事を捨てて、梯子段(はしごだん)を驅け降りるやうに二階から降りて行つた。

 私はすぐ茶の間の光景を讀んだ。いきなり箪笥(たんす)の前へ行つて、次郎と末子の間にはいつた。太郎は、と見ると、そこに爭つてゐる弟や妹をなだめやうでもなく、ただ途方に暮れてゐる。婆やまでそこいらにまごまごしてゐる。

 私は何も知らなかつた。末子が何をしたのか、どうして次郎がそんなにまで平素のきげんをそこねてゐるのか、さつぱりわからなかつた。ただただ私は、まだ兄たち二人とのなじみも薄く、こころぼそく、兎角里心(さとごころ)を起こしやすくしてゐる新參者(しんざんもの)の末子がそこに泣いてゐるのを見た。

 次郎は妹のはうを鋭く見た。そして言つた。

 「女のくせに、ゐばつていやがらあ。」

 この次郎の怒氣を帶びた調子が、はげしく私の胸を打つた。

 兄とは言つても、そのころの次郎はやうやく十三歳ぐらゐの子供だつた。日頃感じやすく、涙もろく、それだけ激しやすい次郎は、私の陰に隱れて泣いてゐる妹を見ると、さもいまゐましさうに、

 「とうさんが來たと思つて、いい氣になつて泣くない。」

 「けんかはよせ。末ちやんを打つなら、さあとうさんを打て。」

 と、私は箪笥(たんす)の前に立つて、ややもすれば妹をめがけて打ちかからうとする次郎をさへぎつた。私は身をもつて末子をかばふやうにした。

 「とうさんが見てゐないとすぐこれだ。」と、また私は次郎に言つた。「どうしてさうわからないんだらうなあ。末ちやんはお前たちとは違ふぢやないか。(よそ)からとうさんの家へ歸つて來た人ぢやないか。」

 「末ちやんのおかげで、僕がとうさんにしかられる。」

 その時、次郎は子供等しい大聲を揚げて泣き出してしまつた。

 私は家の内を見囘した。ちやうど町では米騷動以來の不思議な沈默がしばらくあたりを支配したあとであつた。市内電車從業員の罷業(ひぎやう)のうはさも傳はつて來るころだ。植木坂の上を通る電車もまれだつた。たまに通る電車は町の空に悲壯な音を立てて、(くぼ)い谷の下にあるやうな私の家の四疊半の窓まで物すごく響けて來てゐた。

 「家の内も、外も、(あらし)だ。」

 と、私は自分に言つた。

 私が二階の部屋(へや)を太郎や次郎にあてがひ、自分は階下へ降りて來て、玄關(わき)の四疊半にすわるやうになつたのも、その時からであつた。そのうちに、私は三郎をも今の住居(すまひ)のはうに迎へるやうになつた。私はひとりで手をもみながら、三郎をも迎へた。

 「三人育てるも、四人育てるも、世話する身には同じことだ。」

 と、末子を迎へた時と同じやうなことを言つた。それからの私は、茶の間にゐる末子のよく見えるやうなところで、二階の梯子段(はしごだん)をのぼつたり降りたりする太郎や次郎や三郎の足音もよく聞こえるやうなところで、ずつとすわり續けてしまつた。

 こんな世話も子供だからできた。私は足掛け五年近くも奉公してゐた婆やにも、それから今のお徳にも、串談(じようだん)半分によくさう言つて聞かせた。もしこれが年寄りの世話であつたら、いつまでも一つ事を氣に掛けるやうな年老いた人たちをどうしてこんなに養へるものではないと。

 私逹がしきりにさがした借家も容易に見當たらなかつた。好ましい住居(すまひ)もすくないものだつた。三月の節句も近づいたころに、また私は次郎を連れて一軒別 の借家を見に行つて來た。そこは次郎と三郎とでくはしい見取り圖まで取つて來た家で、二人(ふたり)ともひどく氣に入つたと言つてゐた。青山(あおやま)五丁目まで電車で、それから數町ばかり歩いて行つたところを左へ折れ曲がつたやうな位 置にあつた。部屋の數が九つもあつて、七十五圓なら貸す。それでも家賃が高過ぎると思ふなら、今少しは引いてもいいと言はれるほど長く空屋(あきや)になつてゐた古い家で、造作もよく、古風な中二階などことにおもしろくできてゐたが、部屋が多過ぎてゐまだに借り手がないとのこと。よつぽど私も心が動いて歸つて來たが、一晩寢て考へた上に、自分の住居(すまひ)には過ぎたものとあきらめた。

 適當な借家の見當たり次第に移つて行かうとしてゐた私の家では、障子も破れたまま、かまはずに置いてあつた。それが氣になるほど目について來た。せめて私は毎日ながめ暮らす身のまはりだけでも繕ひたいと思つて、障子の切り張りなどをしてゐると、そこへ次郎が來て立つた。

 「とうさん、障子なんか張るのかい。」

 次郎はしばらくそこに立つて、私のすることを見てゐた。

 「引つ越して行く家の障子なんか、どうでもいいのに。」

 「だつて、七年も雨露(あめつゆ)をしのいで來た屋根の下ぢやないか。」

 と私は言つてみせた。

 (すす)けた障子の膏藥(かうやく)張りを續けながら、私はさらに言葉をつづけて、

 「ホラ、この前に見て來た家サ。あそこはまるで主人公本位 にできた家だね。主人公さへよければ、ほかのものなぞはどうでもいいといふ家だ。ただ、主人公の部屋(へや)だけが立派だ。ああいふ家を借りて住む人もあるかなあ。そこへ行くと、二度目に見て來た借家のはうがどのくらゐいいかしれないよ。いかに言つても、とうさんの家には大き過ぎるね。」

 「僕も最初見つけた時に、大き過ぎるとは思つたが――」

 この次郎は私の話を聞いてゐるのかと思つたら、何かもぢもぢしてゐたあとで、私の前に手をひろげて見せた。

 「とうさん、月給は?」

 この「月給」が私を笑はせた。毎月、私は三人の子供に「月給」を拂ふことにしてゐた。月の初めと半ばとの二度に分けて、半月に一圓づつの小(づかひ)を渡すのを私の家ではさう呼んでゐた。

 「今月はまだ出さなかつたかねえ。」

 「とうさん、けふは二日(ふつか)だよ。三月の二日だよ。」

 それを聞いて、私は黒いメリンスを卷きつけた兵兒帶(へこおび)の間から蝦蟇口(がまぐち)を取り出した。その中にあつた金を次郎に分け、ちやうどそこへ屋外(そと)からテニスの運動具をさげて歸つて來た三郎にも分けた。

 「へえ、末ちやんにも月給。」

 と、私は言つて、茶の間の廊下の外で古い風琴(オルガン)を靜かに鳴らしてゐる娘のところへも分けに行つた。その時、銀貨二つを風琴(オルガン)の上に載せた(もど)りがけに、私は次郎や三郎のはうを見て、半分串談(じようだん)の調子で、

 「天麩羅(てんぷら)立食(たちぐい)なんか、ごめんだぜ。」

 「とうさん、そんな立食なんかするものか。そこは心得てゐるから安心しておいでよ。」と次郎は言つた。

 樂しい桃の節句の季節は來る、月給にはありつく、やがて新しい住居(すまひ)での新しい生活も始められる、その一日は子供等の心を浮き立たせた。末子も大きくなつて、もう(ひな)いぢりでもあるまいといふところから、茶の間の床には古い小さな雛と五人囃子(ばやし)なぞをしるしばかりに飾つてあつた。それも子供等の母親がまだ逹者(たつしや)な時代からの形見(かたみ)として殘つたものばかりだつた。私が自分の部屋に(もど)つて障子の切り張りを濟ますころには、茶の間のはうで子供等のさかんな笑ひ聲が起こつた。お徳のにぎやかな笑ひ聲もその中にまじつて聞こえた。

 見ると、次郎は雛壇(ひなだん)の前あたりで、大騷ぎを始めた。暮れの築地(つきぢ)小劇場で「子供の日」のあつたをりに、たしか「そら豆の煮えるまで」に出て來る役者から見て來たらしい身ぶり、手まねが始まつた。次郎はしきりに調子に乘つて、手を左右に振りながら茶の間を踊つて歩いた。

 「オイ、とうさんが見てるよ。」

 と言つて、三郎はそこへ笑ひころげた。

 私逹の心はすでに半分今の住居(すまひ)を去つてゐた。

 私は茶の間に集まる子供等から離れて、ひとりで自分の部屋(へや)を歩いてみた。わづかばかりの庭を前にした南向きの障子からは、家中でいちばん靜かな光線がさして來てゐる。東は窓だ。二枚のガラス戸越しに、隣の大屋(おほや)さんの高い(へい)(かし)()とがこちらを見おろすやうに立つてゐる。その窓の下には、地下室にでもゐるやうな靜かさがある。

 ちやうど三年ばかり前に、五十日あまりも私の寢床が敷きづめに敷いてあつたのも、この四疊半の窓の下だ。思ひがけない病が五十の坂を越したころの身に起こつて來た。私はどつと床についた。その時の私は再び()つこともできまいかと人に心配されたほどで、茶の間に集まる子供等まで一時沈まり返つてしまつた。

 どうかすると、子供等のすることは、病んでゐる私をいらいらさせた。

 「とうさんをおこらせることが、とうさんのからだにはいちばん惡いんだぜ。それくらゐのことがお前たちにわからないのか。」

 それを私が寢ながら言つてみせると、次郎や三郎は頭をかいて、すごすごと障子のかげのはうへ隱れて行つたこともある。

 それからの私はこの部屋に()たり起きたりして暮らした。めづらしく氣分のよい日が來たあとには、また疲れやすく、眩暈心地(めまいごこち)のするやうな日が續いた。毎朝の氣分がその日その日の健康を豫報する晴雨計だつた。私の健康も確實に恢復するはうに向かつて行つたが、いかに言つてもそれが遲緩で、もどかしい思ひをさせた。どれほどの用心深さで私はをりをりの暗礁 {あんせう}を乘り越えやうと努めて來たかしれない。この病弱な私が、ともかくも住居(すまひ)を移さうと思ひ立つまでにこぎつけた。私は何かかう目に見えないものが群がり起こつて來るやうな心持ちで、本棚(ほんだな)がわりに自分の藏書のしまつてある四疊半の押入れをもあけて見た。いよいよこの家を去らうと心をきめてからは、押入れの中なぞも、まるで物置きのやうになつてゐた。世界を家とする巡禮者のやうな心であちこちと()げ囘つた古い(かばん)――その外國の旅の形見が、まだそこに殘つてゐた。

 「子供でも大きくなつたら。」

 私はそればかりを願つて來たやうなものだ。あの愛宕下(あたごした)の宿屋のはうで、太郎と次郎の二人(ふたり)だけをそばに置いたころは、まだそれでも自由がきいた。腰巾着(こしぎんちやく)づきでもなんでも自分の行きたいところへ出かけられた。末子を引き取り、三郎を引き取りするうちに、目には見えなくても降り積もる雪のやうな重いものが、次第に深くこの私を(うず)めた。

 しかし私はひとりで子供を養つてみてゐるうちに、だんだん小さなものの方へ心をひかれるやうになつて行つた。年若い時分には私も子供なぞはどうでもいいと考へた。かへつて手足まとひだぐらゐに考へたこともあつた。知る人もすくない遠い異郷の旅なぞをしてみ、歸國後は子供のそばに暮らしてみ、次第に子供の世界に親しむやうになつてみると、以前に足手まとひのやうに思つたその自分の考へ方を改めるやうになつた。世はさびしく、時は難い。明日(あす)は、明日はと待ち暮らしてみても、いつまで待つてもそんな明日がやつて來さうもない、眼前に見る事柄から起こつて來る多くの失望と幻滅の感じとは、いつでも私の心を子供に向けさせた。

 さうは言つても、私が自分のすぐそばにゐるものの友だちになれたはけではない。私は今の住居(すまひ)に移つてから、三年も子供の大きくなるのを待つた。そのころは太郎もまだ中學へ通ひ、婆やも家に奉公してゐた。()りだ遠足だと言つて日曜ごとに次郎もぢつとしてゐなかつた時代だ。いつたい、次郎はおもしろい子供で、一人(ひとり)で家の内をにぎやかしてゐた。夕飯後の茶の間に家のものが集まつて、電燈の下で話し込む時が來ると、弟や妹の聞きたがる怪談なぞを始めて、夜のふけるのも知らずに、皆をこわがらせたり樂しませたりするのも次郎だ。そのかはり、いたづらもはげしい。私がよく次郎をしかつたのは、この子をたしなめやうと思つたばかりでなく、一つには婆やと子供等の間を調節したいと思つたからで。太郎贔屓の婆やは、何かにつけて「太郎さん、太郎さん」で、それが次郎をいらいらさせた。

 この次郎がいつになく顏色を變へて、私のところへやつて來たことがある。

 「わがままだ、わがままだつて、どこが、わがままだ。」

 見ると次郎は顏色も青ざめ、少年らしい怒りに震へてゐる。何がそんなにこの子を憤らせたのか、よく思ひ出せない。しかし、私も默つてはいられなかつたから、

 「お前のあばれ者は研究所でも評判だといふぢやないか。」

 「誰が言つた――」

 「彌生町(やよいちよう)の奥さんがいらしつた時に、なんでもそんな話だつたぜ。」

 「知りもしないくせに――」

 次郎が私に向かつて、こんな風に強く出たことは、あとにも先にもない。急に私は自分を反省する氣にもなつたし、言葉の上の爭ひになつてもつまらないと思つて、それぎり口をつぐんでしまつた。

 次郎がぷいと表へ出て行つたあとで、太郎は二階の梯子段(はしごだん)を降りて來た。その時、私は太郎をつかまへて、

 「お前はあんまりおとなし過ぎるんだ。お前が一番のにいさんぢやないか。次郎ちやんに言つて聞かせるのも、お前の役ぢやないか。」

 太郎はこの側杖(そばづえ)をくうと、持ち前のやうに口をとがらしたぎり、物も言はないで引き下がつてしまつた。さういふ場合に、私のところへ來て太郎を辯護するのは、いつでも婆やだつた。

 しかし、私は子供をしかつて置いては、いつでもあとで悔ゐた。自分ながら、自分の聲とも思へないやうな聲の出るにあきれた。私はひとりでくちびるをかんで、仕事もろくろく手につかない。片親の悲しさには、私は子供をしかる父であるばかりでなく、そこへ()げに出る母をも兼ねなければならなかつた。ちやうど三時の菓子でも出す時が來ると、一人(ひとり)で二役を兼ねる俳優のやうに、私は母のはうに早がわりして、茶の間の火鉢(ひばち)のそばへ盆を並べた。次郎の好きな水菓子なぞを載せて出した。

 「さあ、次郎ちやんもおあがり。」

 すると、次郎はしぶしぶそれを食つて、やがてきげんを直すのであつた。

 私の四人の子供の中で、三郎は太郎と三つちがひ、次郎とは一つちがひの兄弟(けふだい)にあたる。三郎は次郎のあばれ屋ともちがひ、また別 の意味で、よく私のはうへ突きかかつて來た。何をこしらへて食はせ、何を買つて來てあてがつても、この子はまだ物足りないやうな顏ばかりを見せた。私の姉の家のはうから歸つて來たこの子は、容易に胸を開かうとしなかつたのである。上に二人(ふたり)も兄があつて絶えず頭を押えられることも、三郎を不平にしたらしい。それに、次郎贔屓のお徳が婆やにかはつて私の家へ奉公に來るやうになつてからは、今度は三郎が納まらない。ちやうど婆やの太郎贔屓で、兎角次郎が納まらなかつたやうに。

 「三ちやん、人をつねつちやいやですよ。ひどいことをするのねえ、この人は。」

 「なんだ。なんにもしやしなひぢやないか。ちよつとさはつたばかりぢやないか――」

 お徳と三郎の間には、こんな小ぜり合ひが絶えなかちつた。

 「とうさんはお前たちを惡くするつもりでゐるんぢやないよ。お前たちをよくするつもりで育ててゐるんだよ。かあさんでも生きててごらん、どうして言ふことをきかないやうな子供は、よつぽどひどい目にあふんだぜ――あのかあさんは氣が短かかつたからね。」

 それを私は子供等に言ひ聞かせた。あまり三郎が他人行儀なのを見ると、時には私は思ひ切り打ち懲らさうと考へたこともあつた。ところが、ちひさな時分から自分のそばに置いた太郎や次郎を打ち懲らすことはできても、十年(よそ)に預けて置いた三郎に手を下すことは、どうしてもできなかつた。ある日、私は自分の忿(いか)りを(おさ)えきれないことがあつて、今の住居(すまひ)の玄關のところで、思はずそこへやつて來た三郎を打つた。不思議にも、その日からの三郎はかへつて私になじむやうになつて來た。その時も私は自分の手荒な仕打ちをあとで侮いはしたが。

 「十年(よそ)へ行つてゐたものは、とうさんの家へ歸つて來るまでに、どうしたつてまた十年はかかる。」

 私はそれを家のものに言つてみせて、よく嘆息した。

 私逹が住み慣れた家の二階は東北が廊下になつてゐる。窓が二つある。その一つからは、小高い石垣(いしがき)板塀(ゐたべい)とを境に、北隣の家の茶の間の白い小障子まで見える。三郎はよくその窓へ行つた。遠い郷里の方の木曾川(きそがわ)の音や少年時代の友だちのことなぞを思ひ出し顏に、その窓のところでしきりに(うぐひす)のなき聲のまねを試みた。

 「うまいもんだなあ。とても(うぐひす)の名人だ。」

 三郎は階下の臺所に來て、そこに働いてゐるお徳にまで自慢して聞かせた。

 ある日、この三郎が私のところへ來て言つた。

 「とうさん、僕の(うぐひす)をきいた? 僕がホウヽホケキョとやると、隣の家のはうでもホウヽホケキョとやる。僕は隣の家に鶯が飼つてあるのかと思つた。それほど僕もうまくなつたかなあと思つた。ところがねえ、本物の鶯が僕に調子を合はせてゐると思つたのは、大間違ひサ。それが隣の家に泊まつてゐる大學生サ。」

 何かしら常に不滿で、常にひとりぼつちで、自分のことしか考へないやうな顏つきをしてゐる三郎が、そんな(うぐひす)のまねなぞを思ひついて、寂しい少年の日をわづかに慰めてゐるのか。さう思ふと、私はこの子供を笑へなかつた。

 「かあさんさへ逹者(たつしや)でゐたら、こんな思ひを子供にさせなくとも濟んだのだ。もつと子供も自然に育つのだ。」

 と、私も考へずにはいられなかつた。

 私が地下室にたとへてみた自分の部屋(へや)の障子へは、町の響きが遠く傳はつて來た。私はそれを植木坂の上のはうにも、淺い谷一つ隔てた狸穴(まみあな)の坂のはうにも聞きつけた。私逹の住む家は西側の塀{へい}を境に、ある(やしき)つづきの拔け道に接してゐて、小高い石垣(いしがき)の上を通る人の足音や、いろいろな物賣りの聲がそこにも起こつた。どこの石垣のすみで鳴くとも知れないやうな、ほそぼそとした地蟲(ぢむし)の聲も耳にはゐる。私は庭に向いた四疊半の縁先へ(はさみ)を持ち出して、よく延びやすい自分の(つめ)を切つた。

 どうかすると、私は子供と一緒になつて遊ぶやうな心も失つてしまひ、自分の狹い四疊半に隱れ、庭の草木を友として、わづかにひとりを慰めやうとした。子供は到底母親だけのものか、父としての自分は偶然に子供の内を通り過ぎる旅人に過ぎないのか――そんな嘆息が、時には自分を憂鬱(ゆふうつ)にした。その度に氣を取り直して、また私は子供を(まも)らうとする心に歸つて行つた。

 安い思ひもなしに、移り行く世相をながめながら、ひとりでじつと子供を養つて來た心地(ここち)はなかつた。しかし子供はそんな私に頓着(とんぢやく)してゐなかつたやうに見える。

 七年も見てゐるうちには、みんなの變はつて行くにも驚く。震災の來る前の年あたりには太郎はすでに私のそばにゐなかつた。この子は十八の(とし)に中學を辭して、私の郷里の山地のはうで農業の見習ひを始めてゐた。これは私の勸めによることだが、太郎もすつかりその氣になつて、長いしたくに取りかかつた。ラケットを(くわ)に代へてからの太郎は、學校時代よりもずつと元氣づいて來て、翌年あたりにはもう七貫目ほどの桑を背負ひうるやうな若者であつた。

 次郎と三郎も變はつて來た。私が五十日あまりの病床から身を起こして、發病以來初めての風呂(ふろ)を浴びに、鼠坂(ねずみざか)から森元町(もりもとちよう)の湯屋まで靜かに歩いた時、兄弟(けふだい)二人(ふたり)とも心配して私のからだを洗ひについて來たくらゐだ。私の顏色はまだ惡かつた。私は小田原(おだわら)の海岸まで保養を思ひ立つたこともある。その時も次郎は先に立つて、弟と一緒に、小田原の停車場まで私を送りに來た。

 やがて大地震だ。私逹は引き續く大きな異變の(うず)の中にゐた。私が自分のそばにゐる兄妹(けふだい)三人の子供の性質をしみじみ考へるやうになつたのも、早川(はやかわ)(けん)といふやうな思ひがけない人の名を三郎の口から聞きつけるやうになつたのも、そのころからだ。

 毎日のやうな三郎の「早川賢、早川賢」は家のものを惱ました。きのふは何十人の負傷者がこの坂の上をかつがれて通つたとか、けふは燒け跡へ燒け跡へと歩いて行く人たちが舞ひ上がる土ぼこりの中に續いたとか、さういふ混雜がやや沈まつて行つたころに、幾萬もの男や女の墓地のやうな燒け跡から、三つの疑問の死骸(しがい)が暗い井戸の中に見いだされたといふ驚くべきうはさが傳はつた。

 「あゝ――早川賢もつひに死んでしまつたか。」

 この三郎の感傷的な調子には受け賣りらしいところもないではなかつたが、まだ子供だ子供だとばかり思つてゐたものが最早こんなことを言ふやうになつたかと考へて、むしろ私にはこの子の早熟が氣にかかつた。

 震災以來、しばらく休みの姿であつた洋畫の研究所へも、またポツポツ研究生の集まつて行くころであつた。そこから三郎が目を光らせて歸つて來るたびにいつでも同じ人のうはさをした。

 「僕らの研究所にはおもしろい人がゐるよ。『早川賢だけは、生かして置きたかつたねえ』――だとサ。」

 無邪氣な三郎の顏をながめてゐると、私はさう思つた。どれほどの冷たい風が毎日この子の通ふ研究所あたりまでも吹き囘してゐる事かと。私はまた、さう思つた。あの米騷動以來、誰しもの心を搖り動かさずには置かないやうな時代の焦躁(せうさう)が、右も左もまだほんたうにはよくわからない三郎のやうな少年のところまでもやつて來たかと。私は屋外(そと)からいろいろなことを聞いて來る三郎を見るたびに、ちやうど強い雨にでもぬ れながら歸つて來る自分の子供を見る氣がした。

 私逹の家では、坂の下の往來への登り口にあたる石段のそばの塀{へい}のところに、大きな郵便箱を出してある。毎朝の新聞はそれで配逹を受けることにしてある。取り出して來て見ると、一日として何か起こつてゐない日はなかつた。あの早川賢が横死(おうし)を遂げた際に、同じ運命を共にさせられたといふ不幸な少年一太のことなぞも、さかんに書き立ててあつた。またかと思ふやうな號外賣りがこの町の界隈(かいわい)へも鈴を振り立てながら走つてやつて來て、大げさな聲で、そこいらに不安をまきちらして行くだけでも、私逹の神經がとがらずにはいられなかつた。私は、年もまだ若く心も柔らかい子供等の目から、殺人、強盜、放火、男女の情死、官公吏の腐敗、その他胸もふさがるやうな記事で滿たされた毎日の新聞を隱したかつた。あいにくと、世にもまれに見る可憐(かれん)な少年の寫眞が、ある日の紙面 の一隅(いちぐう)に大きく掲げてあつた。評判の一太だ。美しい少年の生前の面 (おもかげ)はまた、いつさうその死をあはれに見せてゐた。

 末子やお徳は茶の間に集まつて、その日の新聞をひろげてゐた。そこへ三郎が研究所から歸つて來た。

 「あ――一太。」

 三郎はすぐにそれへ目をつけた。讀みさしの新聞を妹やお徳の前に投げ出すやうにして言つた。

 「こんな、罪もない子供までも殺す必要がどこにあるだらう――」

 その時の三郎の調子には、子供とも思へないやうな力があつた。

 しかし、これほどの熱狂もいつのまにか三郎の内を通り過ぎて行つた。伸び行くさかりの子供は、一つところにとどまらうとしてゐなかつた。どんどんきのふのことを捨てて行つた。

 「オヤ――三ちやんの『早川賢』もどうしたらう。」

 と、ふと私が氣づいたころは、あれほど一時大騷ぎした人の名も忘れられて、それが「木下(きのした)(しげる)、木下繁」に變はつてゐた。木下繁も最早故人だが、一時は研究所あたりに集まる青年美術家の憧憬(どうけい)(まと)となつた画家で、みんなから早い病死を惜しまれた人だ。

 その時になつて見ると、新しいものを求めて熱狂するやうな三郎の氣質が、なんとなく私の胸にまとまつて浮かんで來た。どうしてこの子がこんなに大騷ぎをやるかといふに――早川賢にしても、木下繁にしても――彼らがみんな新しい人であるからであつた。

 「とうさんは知らないんだ――僕らの時代のことはとうさんにはわからないんだ。」

 訴へるやうなこの子の目は、何よりも雄辯にそれを語つた。私もまんざら、かうした子供の氣持ちがわからないでもない。よりすぐれたものとなるためには、自分らから子供を(そむ)かせたい――それくらゐのことは考へない私でもない。それにしても、少年らしい不滿でさんざん子供から苦しめられた私は、今度はまた新しいもので責められるやうになるのかと思つた。

 末子も目に見えてちがつて來た、堅肥(かたぶと)りのした體格から顏つきまで、この娘はだんだんみんなの母親に似て來た。(うえ)は男の子供ばかりの殺風景な私の家にあつては、この娘が茶の間の壁のところに小乾(さぼ)す着物の類も目につくやうになつた。それほど私の家には女らしいものも少なかつた。

 今の住居(すまひ)の庭は狹くて、私が(ねこ)(ひたひ)にたとへるほどしかないが、それでも薔薇(ばら)山茶花(さざんか)は毎年のやうに花が絶えない。花の好きな末子は茶の間から庭へ降りて、わづかばかりの植木を見に行くことにも學校通ひの餘暇を慰めた。今の住居(すまひ)の裏側にあたる二階の窓のところへは、巣をかけに來る(はち)があつて、それが一昨年(をととし)も來、去年も來、何か私の家にはよい事でもある前兆のやうに隣近所の人たちから騷がれたこともある。末子はその窓の見える拔け道を通つては毎日學校のはうから歸つて來た。そして、好きな裁縫や網み物のやうな、靜かな手藝に飽きることを知らないやうな娘であつた。そろそろ女の洋服が流行(はや)て來て、女學校通ひの娘たちが(くつ)だ帽子だと新規な風俗をめづらしがるころには、末子も紺地の上着(うわぎ)(えり)のところだけ紫の刺繍(ぬひ)のしてある質素な服をつくつた。その短い上着のまま、早い桃の實の色した素足(すあし)(すね)のあたりまであらはしながら、茶の間を歩き囘るなぞも、今までの私の家には見られなかつた圖だ。

 この娘がぱつたり洋服を着なくなつた。私も多少本場を見て來たその自分の經驗から、「洋服のことならとうさんに相談するがいいぜ」なぞと末子に話したり、帶で形をつけることは東西の風俗ともに變はりがないと言ひ聞かせたりして、初めて着せて見る娘の洋服には母親のやうな注意を拂つた。十番で用の足りないものは、銀座(ぎんざ)まで買ひにお徳を娘につけてやつた。それほどにして造りあげた帽子も、服も、付屬品いつさいも、わづか二月(ふたつき)ほどの役にしか立たないとを知つた時に私も驚いた。

 「串談(じようだん)ぢやないぜ。あの上着は十八圓もかかつてるよ。そんなら初めから洋服なぞを造らなければいいんだ。」

 日頃父一人(ひとり)をたよりにしてゐる娘も、その時ばかりは私の言ふことを聞き入れやうとしなかつた。お徳がそこへ來て、

 「どうしても末子さんは着たくないんださうですよ。洋服はもういらないから、ほしい人があつたら誰かにあげてくだすつてもいいなんて……」

 かういふ場合に、末子の代弁をつとめるのは、いつでもこの下女だつた。それにしても、どうかして私はせつかく新調したものを役に立てさせたいと思つて、

 「洋服を着るんなら、とうさんがまた築地(つきぢ)小劇場をおごる。」

 と言つてみせた。すると、お徳がまた娘の代はりに立つて來て、

 「築地へは行きたいし、どうしても洋服は着たくないし……」

 それが娘の心持ちだつた。その時、お徳はこんなこともつけたして言つた。

 「よくよく末子さんも、あの洋服がいやになつたと見えますよ。もしかしたら、屑屋(くづや)に賣つてくれてもいいなんて……」これほどの移りやすさが年若(としわか)な娘の内に潛んでいやうとは、私も思ひがけなかつた。でも、私も子に甘い證據には、何かの理由さへあれば、それで娘のわがままを許したいと思つたのである。お徳に言はせると、末子の同級生で新調の校服を着て學校通ひをするやうな娘は今は一人もないとのことだつた。

 「そんなに、みんな迷つてゐるのかなあ。」

 「なんでも『赤襟(あかへり)のねゑさん』なんて、次郎ちやんたちがからかつたものですから、あれから末子さんも着なくなつたやうですよ。」

 「まあ、あの洋服はしまつて置くサ。また役に立つ日も來るだらう。」

 とうたう私には娘のわがままを許せるほどのはつきりした理由も見當たらずじまいであつた。私は末子の「洋服」を三郎の「早川賢」や「木下繁」にまで持つて行つて、娘は娘なりの新しいものに迷ひ苦しんでゐるのかと(おも)つてみた。時には私は用逹(やうたし)のついでに、坂の上の電車路(みち)六本木(ろつぽんぎ)まで歩いてみた。婦人の斷髮はやや下火でも、洋裝はまだこれからといふころで、思ひ思ひに流行の風俗を競はうとするやうな女學校通ひの娘たちが右からも左からもあの電車の交叉點(かうさてん)に群がり集まつてゐた。

 私逹親子のものが今の住居(すまひ)を見捨てやうとしたころには、こんな新しいものも遠い「きのふ」のことのやうになつてゐた。三郎なぞは、「木下繁」ですら最早問題でないといふ顏つきで、フランス最近の画界を代表する人たち――ことに、ピカソオなぞを口にするやうな若者になつてゐた。

 「とうさん、今度來たビッシェールの()はずいぶん變はつてゐるよ。あの人は、どんどん變はつて行く――確かに、頭がいいんだらうね。」

 この子の「頭がいいんだらうね」には私も吹き出してしまつた。

 私の話相手――三人の子供はそれぞれに動き變はりつつあつた。三人の中でも(にい)さん顏の次郎なぞは、五分刈(ごぶが)りであつた髮を長めに延ばして、紺飛白(こんがすり)筒袖(つつそで)(たもと)に改めた――それもすこしきまりの惡さうに。顏だけはまだ子供のやうなあの末子までが、いつのまにか本裁(ほんだち)の着物を着て、女らしい長い(すそ)をはしよりながら、茶の間を歩き囘るほどに成人した。

 「子供でも大きくなつたら。」

 長いこと待ちに待つたその日が、やうやく私のところへやつて來るやうになつた。しかしその日が來るころには、私はもう動けないやうな人になつてしまふかと思ふほど、そんなに長くすわり續けた自分を子供等のそばに見いだした。

 「強い(あらし)が來たものだ。」

 と、私は考へた。

 「とうさん――家はありさうで、なかなかないよ。僕と三ちやんとで毎日のやうに歩いて見た。二人(ふたり)ですつかり探して見た。この麻布(あざぶ)から青山へんへかけて、もう僕らの歩かないところはない……」

 と、次郎が言ふころは、私逹の借家さがしもひと休みの時だつた。なるべく末子の學校へ遠くないところに、そんな注文があつた上に、よささうな貸し家も容易に見當たらなかつたのである。あれからまた一軒あるにはあつて、借り手のつかないうちにと大急ぎで見に行つて來た家は、すでに約束ができてゐた。今の住居(すまひ)の南隣に三年ばかりも住んだ家族が、私逹よりも先に郊外のはうへ引つ越して行つてしまつてからは、いつさう周圍もひつそりとして、私逹の庭へ來る春もおそかつた。

 めづらしく心持ちのよい日が私には續くやうになつた。私は庭に向いた部屋(へや)の障子をあけて、兎角氣になる自分の(つめ)を切つてゐた。そこへ次郎が來て、

 「とうさんはどこへも出かけないんだねえ。」

 と、さも心配するやうに、それを顏にあらはして言つた。

 「どうしてとうさんの爪はかう延びるんだらう。こないだ切つたばかりなのに、もうこんなに延びちやつた。」

 と、私は次郎に言つてみせた。貝爪(かいづめ)といふやつで、切つても、切つても、延びてしかたがない。こんなことはずつと以前には私も氣づかなかつたことだ。

 「とうさんも弱くなつたなあ。」

 と言はぬばかりに、次郎はややしばらくそこにしやがんで、私のすることを見てゐた。ちやうど三郎も作画に疲れたやうな顏をして、油繪の筆でも洗ひに二階の梯子段(はしごだん)を降りて來た。

 「御覽、お前たちがみんなでかじるもんだから、とうさんの(すね)はこんなに細くなつちやつた。」

 私は二人の子供の前へ自分の足を投げ出して見せた。病氣以來肉も落ち()せ、ずつと以前には信州の山の上から上州(じようしゅう)下仁田(しもにた)まで日に二十里の道を歩いたこともある(すね)とは自分ながら思はれなかつた。

 「(すね)かじりと來たよ。」

 次郎は弟のはうを見て笑つた。

 「太郎さんを入れると、四人もゐてかじるんだから、たまらないや。」

 と、三郎も半分他人の事のやうに言つて笑つた。そこへ茶の間の唐紙(からかみ)のあいたところから、ちよいと笑顏(えがお)を見せたのは末子だ。脛かじりは、ここにも一人(ひとり)ゐると言ふかのやうに。

 その時まで、三郎は何かもぢもぢして、言ひたいことも言はずにゐるといふふうであつたが、

 「とうさん――ホワイトを一本と、テラ・ロオザを一本買つてくれない? 繪の具が足りなくなつた。」

 かう切り出した。

 「こないだ買つたばかりぢやないか。」

 「だつて、足りないものは足りないんだもの。繪の具がなけりや、何も()けやしなひ。」

 と、三郎は不平顏である。すると、次郎はさつそく弟の言葉をつかまへて、

 「あ――またかじるよ。」

 この次郎の串談(じようだん)が、みんなを吹き出させた。

 私は子供等に出して見せた足をしまつて、何げなく自分の手のひらをながめた。いつでも自分の手のひらを見てゐると、自分の顏を見るやうな氣のするのが私の癖だ。いまゐましいことばかりが胸に浮かんで來た。私はこの四疊半の天井から澤山な(うぢ)の落ちたことを思ひ出した。それが私の机のそばへも落ち、疊の上へも落ち、掃いても掃いても落ちて來る音のしたことを思ひ出した。何が腐り(ただ)れたかと薄氣味惡くなつて、二階の部屋(へや)から床板(ゆかいた)を引きへがして見ると、(ねずみ)死骸(しがい)が二つまでそこから出て來て、その一つは小さな動物の骸骨でも見るやうに白く()れてゐたことを思ひ出した。私は恐ろしくなつた。何かかう自分のことを形にあらはして見せつけるやうなものが、しかもそれまで知らずにゐた自分のすぐ頭の上にあつたことを思ひ出した。

 その時になつて見ると、過ぐる七年を私は(あらし)の中にすわりつづけて來たやうな氣もする。私のからだにあるもので、何一つその痕跡(こんせき)をとどめないものはない。髮はめつきり白くなり、すわり胼胝(だこ)は豆のやうに堅く、腰は腐つてしまひさうに重かつた。朝寢の(まくら)もとに煙草盆(たばこぼん)を引きよせて、寢そべりながら一服やるやうな癖もついた。私の姉がそれをやつた時分に、私はまだ若くて、年取つた人たちの世界といふものをのぞいて見たやうに思つたことを覺えてゐるが、ちやうど今の私がそれと同じ姿勢で。

 私はもう一度、自分の手を裏返しにして、鏡でも見るやうにつくづくと見た。

 「自分の手のひらはまだ(あか)い。」

 と、ひとり思ひ直した。

 午後のいい時を見て、私逹は茶の間の外にある縁側に集まつた。そこには私の意匠した縁臺が、縁側と同じ高さに、三尺ばかりも庭のはうへ造り足してあつて、(らん)山査子(さんざし)などの植木(ばち)を片隅のはうに置けるだけのゆとりはある。石垣(いしがき)に近い縁側の突き當たりは、壁によせて末子の小さい風琴(オルガン)も置いてあるところで、その上には時々の用事なぞを書きつける黒板も掛けてある。そこは私逹が古い籐椅子(とういす)を置き、簡單な腰掛け椅子を置いて、互いに話を持ち寄つたり、庭をながめたりして來た場所だ。毎年夏の夕方には、私逹が茶の間のチャブ臺を持ち出して、よく簡單な食事に集まつたのもそこだ。

 庭にあるおそ咲きの乙女椿(をとめつばき)(つぼみ)もやうやくふくらんで來た。それが目につくやうになつて來た。三郎は縁臺のはなに立つて、庭の植木をながめながら、

 「次郎ちやん、ここの植木はどうなるんだい。」

 この弟の言葉を聞くと、それまで妹と一緒に黒板の前に立つて何かいたずら書きをしてゐた次郎が、白墨をそこに置いて三郎のゐるはうへ行つた。

 「そりや、引つこ拔いて持つて行つたつて、かまふもんか――もとからここの庭にあつた植木でさへなければ。」

 「八つ手も大きくなりやがつたなあ。」

 「あれだつて、とうさんが植ゑたんだよ。」

 「知つてるよ。山茶花(さざんか)だつて、薔薇(ばら)だつて、さうだらう。あの乙女椿(をとめつばき)だつて、さうだらう。」

 氣の早い子供等は、八つ手や山茶花を車に積んで今にも引つ越して行くやうな調子に話し合つた。

 「そんなにお前たちは無造作に考へてゐるのか。」と、私はそこにある籐椅子(とういす)を引きよせて、話の仲間にはいつた。「とうさんぐらゐの年齡(とし)になつてごらん、家といふものはさうむやみに動かせるものでもないに。」

 「どこかに好い家はないかなあ。」

 と言ひ出すのは三郎だ。すると次郎は私と三郎の間に腰掛けて、

 「さう、さう、あの青山の墓地の裏手のところが、まだすこし殘つてる。この次ぎにはあそこを歩いて見るんだナ。」

 「なにしろ、日あたりがよくて、部屋(へや)の都合がよくて、庭もあつて、それで安い家と來るんだから、むづかしいや。」と、三郎は混ぜ返すやうに笑ひ出した。

 「もつと大きい家ならある。」と次郎も私に言つてみせた。「五間か六間といふちやうどいいところがない。これはと思ふやうな家があつても、さういふところはみんな人が住んでゐてネ。」

 「とうさん、五間で四十圓なんて、こんな安い家をさがさうたつて無理だよ。」

 「そりや、ここの家は例外サ。」と、私は言つた。「まあ、ゆつくりさがすんだナ。」

 「なにも追ひ立てをくつてるわけぢやないんだから――ここにゐたつて、いられないことはないんだから。」

 かう次郎も(にい)さんらしいところを見せた。

 やがて自分らの移つて行く日が來るとしたら、どんな知らない人たちがこの家に移り住むことか。そんなことがしきりに思はれた。庭にある山茶花(さざんか)でも、つつじでも、なんど私が植ゑ替へて手入れをしたものかしれない。暇さへあれば(はうき)を手にして、自分の友だちのやうにそれらの木を見に行つたり、落ち葉を掃いたりした。過ぐる七年の間のことは、そこの土にもここの石にもいろいろな痕跡(こんせき)を殘してゐた。

 いつのまにか末子は黒板の前を離れて、霜どけのしてゐる庭へ降りて行つた。

 「次郎ちやん、芍藥(しやくやく)の芽が延びてよ。」

 末子は庭にいながら呼んだ。

 「(つた)の芽も出て來たわ。」

 と、また石垣(いしがき)の近くで末子の呼ぶ聲も起こつた。

 遠い山地のはうにできかけてゐる新しい家が、別にこの私逹に見えて來た。こんな落ちつかない氣持ちで今の住居(すまひ)に暮らしてゐるうちにも、そのうはさが私逹の間に出ない日はなかつた。私は郷里の方に賣り物に出た一軒の農家を太郎のために買ひ取つたからである。それを峠の上から村の中央にある私逹の舊家の跡に移し、前の年あたりから大工を入れ、新しい工事を始めさせてゐた。太郎もすでに四年の耕作の見習ひを終はり、雇ひ入れた一人(ひとり)(ばあ)やを相手にまだ工事中の新しい家のはうに移つたと知らせて來た。彼もどうやら若い農夫として立つて行けさうに見えて來た。

 いつたい、私が太郎を田舎(ゐなか)に送つたのは、もつとあの兒を強くしたいと考へたからで。土に親しむやうになつてからの太郎は、だんだん自分の思ふやうな人になつて行つた。それでも私は遠く離れてゐる子の上を案じ暮らして、自分が病氣してゐる間にも一日もあの山地のはうに働いてゐる太郎のことを忘れなかつた。郷里の方から來るたよりはどれほどこの私を勵ましたらう。私はまた次郎や三郎や末子と共に、どれほどそれを讀むのを樂しみにしたらう。さういふ私はいまだに都會の借家ずまいで、四疊半の書齋でも事は足りると思ひながら、自分の子のために永住の家を建てやうとすることは、われながら矛盾した行爲だと考へたこともある。けれども、これから新規に百姓生活にはいつて行かうとする子には、寢る場所、物食ふ爐ばた、土を耕す農具の類からして求めてあてがはねばならなかつた。

 私の四疊半に置く机の抽斗(ひきだし)の中には、太郎から來た手紙やはがきがしまつてある。その中には、もう麥を()ゐたとしたのもある。工事中の家に移つて障子を張り唐紙(からかみ)を入れしてみたら、まるで別 の家のやうに見えて來たとしたのもある。これが自分の家かと思ふと、なんだか恐ろしいやうなうれしいやうな氣がして來たとしたのもある。誰に氣兼ねもなく、新しい木の香のする爐ばたにあぐらをかいて、飯をやつてゐるところだとしたのもある。

 ふとしたことから、私は手にしたある雜誌の中に、この遠く離れてゐる子の心を見つけた。それには父を思ふ心が寄せてあつて、いろいろなことがこまごまと書きつけてあつた。四人の兄妹(けふだい)の中での長男として、自分はいちばん長く父のそばにゐて見たから、それだけ親しみを感ずる心も深いとしたところがあり、それからまた、父の勸農によつて自分もその氣になり、今では(くわ)を手にして田園の自然を樂しむ身であるが、四年の月日もむなしく過ぎて行つた、これからの自分は新しい家にゐて新しい生活を始めねばならない、時には自分は土を相手に戰ひながら父のことを思つて涙ぐむことがあるとしたところもあり、その中にはまた、父もこの家を見ることを樂しみにして郷里の土を踏むやうな日もやがて來るだらう、寺の鐘は父の健康を祈るかのやうに、山に沈む夕日は何かの深い暗示を自分に投げ與へるやうに消えて行くとしてあつたのを覺えてゐる。

 最近に、また私は太郎からのはがきを受け取つてゐた。それによつて私はあの山地のはうにできかけてゐる農家の工事が風呂場(ふろば)を造るほどはかどつたことを知つた。なんとなく(のみ)(つち)の音の聞こえて來るやうな氣もした。こんなに私にも氣分のいい日が續いて行くやうであつたら、をりを見て、あの新しい家を見に行きたいと思ふ心が動いた。

 長いこと私は友だちも(たず)ねない。日がな一日寂寞(せきばく)に閉ざされる思ひをして部屋(へや)の黄色い壁も慰みの一つにながめ暮らすやうなことは、私に取つてけふに始まつたことでもない。母親のない幼い子供等をひかへるやうになつてから、三年もたつうちに、私はすでに同じ思ひに行き詰まつてしまつた。しかし、そのころの私はまだ四十二の男の厄年(やくどし)を迎へたばかりだつた。重い病も、老年の孤獨といふものも知らなかつた。このまますはつてしまふのかと思ふやうな、そんな恐ろしさはもとより知らなかつた。「みんな、さうですよ。子供が大きくなる時分には、わがからだがきかなくなりますよ。」と、私に言つてみせたある(ばあ)さんもある。あんな言葉を思ひ出して見るのも()えがたかつた。

 「とうさん、どこへ行くの。」

 ちよつと私が屋外(そと)へ出るにも、さう言つて聲を掛けるのが次郎の癖だ。植木坂の下あたりには、きまりでそのへんの門のわきに立ち話する次郎の(ふる)い遊び友だちを見いだす。ある若者は青山師範へ。ある若者は海軍兵學校へ。七年の月日は私の子供を變へたばかりでなく、子供の友だちをも變へた。

 居住者として町をながめるのもその春かぎりだらうか、そんな心持ちで私は鼠坂(ねずみざか)のはうへと歩いた。毎年のやうに椿(つばき)の花をつける靜かな坂道がそこにある。そこにはもう春がやつて來てゐるやうにも見える。

 私の足はあまり遠くへ向かはなかつた。病氣以來、ことにさうなつた。何か特別の用事でもないかぎり、私は樹木の多いこの町の界隈(かいわい)を歩き囘るだけに滿足した。そして、散歩の途中でも家のことが氣にかかつて來るのが私の癖のやうになつてしまつた。「とうさん、僕たちが留守居するよ。」と、次郎なぞが言つてくれる日を迎へても、ただただ私の足は家の周圍を囘りに囘つた。あらゆる(あらし)から自分の子供を(まも)らうとした七年前と同じやうに。

 「旦那(だんな)さん。もうお歸りですか。」

 と言つて、下女のお徳がこの私を玄關のところに迎へた。お徳の白い割烹着(かつぽうぎ)も、見慣れるうちにさうをかしくなくなつた。

 「次郎ちやんは?」

 「お二階で御勉強でせう。」

 それを聞いてから、私は兩手に持てるだけ持つてゐた袋包みをどつかとお徳の前に置いた。

 「けふはみんなの三時にと思つて、林檎(りんご)を買つて來た。ついでに菓子も買つて來た。」

 「旦那さんのやうに、いろいろなものを買つて()げていらつしやるかたもない。」

 「さう言へば、鼠坂(ねずみざか)椿(つばき)が咲いてゐたよ。今にもうおれの家の庭へも春がやつて來るよ。」

 そんな話をして置いて、私は自分の部屋(へや)へ行つた。

 私の心はなんとなく靜かでなかつた。實は私は次郎の將來を考へたあげく、太郎に勸めたとは別 の意味で郷里に歸ることを次郎にも勸めたいと思ひついたからで。長いこと養つて來た小鳥の巣から順に一羽づつ放してやつてもいいやうな、さういふ日がすでに來てゐるやうにも思へた。しかし私も、それを言ひ出してみるまでは落ちつかなかつた。

 ちやうど、三郎は研究所へ、末子は學校へ、二人(ふたり)とも出かけて行つてまだ歸らなかつた時だつた。次郎は最早毎日の研究所通ひでもあるまいといふふうで、しばらく家にこもつてゐて()き上げた一枚の油繪を手にしながら、それを私に見せに二階から降りて來た。いつでも次郎が私のところへ習作を持つて來て見せるのは弟のゐない時で、三郎がまた見せに來るのは兄のゐない時だつた。

 「どうも光つていけない。」

 と言ひながら、その時次郎は私の四疊半の壁のそばにたてかけた()本棚(ほんだな)の前に置き替へて見せた。兄の()ゐた妹の半身像だ。

 「へえ、末ちやんだね。」

 と、私も言つて、しばらく次郎と二人してその習作に見入つてゐた。

 「あの三ちやんが見たら、なんと言ふだらう。」

 その考へが苦しく私の胸へ來た。二人の兄弟(けふだい)の子供が決して互いの()を見せ合はないことを私はもうちやんとよく知つてゐた。二人はこんな出發點のそもそもから全く別のものを持つて生まれて來た画家の卵のやうにも見えた。

 次郎は画作に苦しみ疲れたやうな顏つきで、癖のやうに(つめ)をかみながら、

 「どうも、(くそ)正直にばかりやつてもいけないと思つて來た。」

 「お前のはあんまり物を見つめ過ぎるんだらう。」

 「どうだらう、この手はすこし堅過ぎるかね。」

 「そんなことをとうさんに相談したつて困るよ。とうさんは、お前、素人(しらうと)ぢやないか。」

 その日は私はわざと素氣(すげ)ない返事をした。これが平素なら、私は子供と一緒になつて、なんとか言つてみるところだ。それほど實は私も画が好きだ。しかし私は自分の(はたけ)にもない素人評(しらうとひよう)が實際子供の勵ましになるのかどうか、それにすら迷つた。ともあれ、次郎の言ふことには、たよらうとするあはれさがあつた。

 次郎の作つた()を前に置いて、私は自分の内に深く突き入つた。そこにわが子を見た。なんとなく次郎の求めてゐるやうな素朴(そぼく)さは、私自身の求めてゐるものでもある。最後からでも歩いて行かうとしてゐるやうな、ゆつくりとおそひ次郎の歩みは、私自身の踏まうとしてゐる道でもある。三郎はまた三郎で、畫面 の上に物の奥行きなぞを無視し、明快に明快にと進んで行つてゐるはうで、きのふ自分の()ゐたものをけふは(ふる)いとするほどの變はり方だが、あの兒のやうに新しいものを求めて熱狂するやうな心もまた私自身の内に潛んでゐないでもない。父の矛盾は覿面(てきめん)に子に來た。兄弟であつて、同時に競爭者――それは二人(ふたり)の子供に取つて避けがたいことのやうに見えた。なるべく思ひ思ひの道を取らせたい。その意味から言つても、私は二人の子供を引き離したかつた。

 「次郎ちやん、おもしろい話があるんだが、お前はそれを聞いてくれるか。」

 そんなことから切り出して、私はそれまで言ひ出さずにゐた田舎(ゐなか)行きの話を次郎の前に持ち出してみた。

 「半農半画家の生活もおもしろいぢやないか。」と、私は言つた。「午前は自分の()をかいて、午後から太郎さんの仕事を助けたつてもいいぢやないか。田舎で教員しながら()をかくなんて人もあるが、ほんたうに百姓しながらやるといふ画家は少ない。そこまで腰を()えてかかつてごらん、一家を成せるかもしれない。まあ、二三年は旅だと思つて出かけて行つてみてはどうだね。」

 日頃田舎(ゐなか)の好きな次郎ででもなかつたら、私もこんなことを勸めはしなかつた。

 「できるだけとうさんも、お前を助けるよ。」と、また私は言つた。「そのかはり、太郎さんと二人で働くんだぜ。」

 「僕もよく考へてみやう。かうして東京にぐづぐづしてゐたつてもしかたがない。」

 と、次郎は沈思するやうに答へて、ややしばらく物も言はずに、私のそばを離れずにゐた。

 四月にはいつて、私は郷里の方に太郎の新しい家を見に行く心じたくを始めてゐた。いよいよ次郎も私の勸めをいれ、都會を去らうとする決心がついたので、この子を郷里へ送る前に、私は一足先に出かけて行つて來たいと思つた。留守中のことは次郎に預けて行きたいと思ふ心もあつた。日頃家にばかり引きこもりがちの私が、こんな氣分のいい日を迎へたことは、家のものをよろこばせた。

 「ちよつと三人で、ぢやんけんしてみておくれ。」

 と、私は自分の部屋(へや)から聲を掛けた。氣候はまだ春の寒さを繰り返してゐたころなので、子供等は茶の間の火鉢(ひばち)の周圍に集まつてゐた。

 「オイ、ぢやんけんだとよ。」

 何かよひ事でも期待するやうに、次郎は弟や妹を催促した。火鉢の周圍には三人の笑ひ聲が起こつた。

 「誰だい、負けた人は。」

 「僕だ。」と答へるのは三郎だ。「ぢやんけんといふと、いつでも僕が貧乏くじだ。」

 「さあ、負けた人は、郵便箱を見て來て。」と、私が言つた。「もう太郎さんからなんとか言つて來てもいいころだ。」

 「なあんだ、郵便か。」

 と、三郎は頭を掻き掻き、古い時計のかかつた柱から(かぎ)をはずして路地(ろぢ)の石段の上まで見に出掛けた。

 郷里の方からのたよりがそれほど待たれる時であつた。この旅には私は末子を連れて行かうとしてゐたばかりでなく、青山の親戚 (しんせき)(あによめ)(めい)に姪の子供に三人までも同行したいといふ相談を受けてゐたので、いろいろ打ち合はせをして置く必要もあつたからで。待ち受けた太郎からのはがきを受け取つて見ると、四月の十五日頃に來てくれるのがいちばん都合がいい、それより早過ぎてもおそ過ぎてもいけない、まだ壁の上塗(うわぬ )りもすつかりできてゐないし、月の末になるとまた農家はいそがしくなるからとしてあつた。

 「次郎ちやん、とうさんが行つて太郎さんともよく相談して來るよ。それまでお前は東京に待つておいで。」

 「太郎さんのところからも賛成だと言つて來てゐる。ほんとに僕がその氣なら、一緒にやりたいと言つて來てゐる。」

 「さうサ。お前が行けば太郎さんも心強からうからナ。」

 私は次郎とこんな言葉をかはした。

 久しぶりで郷里を見に行く私は、みやげ物をあつめに銀座へんを歩き囘つて來るだけでも、(ひたひ)から汗の出る思ひをした。暮れからずつと續けてゐる藥を旅の(かばん)に納めることも忘れてはならなかつた。私は同伴する人たちのことを思ひ、やうやく恢復したばかりのやうな自分の健康のことも氣づかはれて、途中下諏訪(しもすは)の宿屋あたりで疲れを休めて行かうと考へた。やがて、四月の十三日といふ日が來た。いざ旅となれば、私も遠い外國を遍歴して來たことのある氣輕な自分に歸つた。古い(かばん)も、古い洋服も、まだそのまま役に立つた。連れて行く娘のしたくもできた。そこで出掛けた。

 この旅には私はいろいろな望みを掛けて行つた。長いしたくと親子の協力とからできたやうな新しい農家を見る事もその一つであつた。七年の月日の間に數へるほどしか離れられてなかつた今の住居(すまひ)から離れ、あの惠那(えな)山の見えるやうな靜かな田舎(ゐなか)に身を置いて、深いため息でも()ゐて來たいと思ふ事もその一つであつた。私のそばには、三十年ぶりで郷里を見に行くといふ年老いた(あによめ)もゐた。(めい)が連れてゐたのはまだ乳離(ちばな)れもしないほどの男の子であつたが、すぐに末子に慣れて、汽車の中で抱かれたりその(ひざ)に乘つたりした。それほど私の娘も子供好きだ。その子は時々末子のそばを離れて、母のふところをさぐりに行つた。

 「叔父(をぢ)さん、ごめんなさいよ。」

 と言つて、(めい)は幾人もの子供を生んだことのある乳房(ちぶさ)を小さなものにふくませながら話した。そんなにこの人は氣の置けない道づれだ。

 「さう言へば、太郎さんの家でも、屋號をつけたよ。」と、私は姪に言つてみせた。「みんなで相談して田舎(ゐなか)風に『よもぎや』とつけた。それを『蓬屋』と書いたものか、『四方木屋』と書いたものかと言ふんで、いろいろな説が出たよ。」

 「そりや、『蓬屋』と書くよりも、『四方木屋』と書いたはうがおもしろいでせう。いかにも山家(やまが)らしくて。」

 こんな話も旅らしかつた。

 甲府(かうふ)まで乘り、富士見(ふじみ)まで乘つて行くうちに、私逹は山の上に殘つてゐる激しい冬を感じて來た。下諏訪(しもすは)の宿へ行つて日が暮れた時は、私は連れのために眞綿(まはた)を取り寄せて着せ、またあくる日の旅を續けやうと思ふほど寒かつた。――それを(あによめ)にも着せ、姪にも着せ、末子にも着せて。

 中央線の落合川(おちあひがわ)驛まで出迎へた太郎は、村の人たちと一緒に、この私逹を待つてゐた。木曾路(きそじ)に殘つた冬も三留野(みどの)あたりまでで、それから西はすでに花のさかりであつた。水力電氣の工事でせき留められた木曾川の水が大きな(たに)の間に見えるやうなところで、私はカルサン姿の太郎と一緒になることができた。そこまで行くと次郎たちの留守居する東京のはうの空も遠かつた。

 「やうやく來た。」

 と、私はそれを太郎にも末子にも言つてみせた。

 年とつた(あによめ)だけは山駕籠(やまかご)、その他のものは皆徒歩で、それから一里ばかりある靜かな山路(やまみち)を登つた。路傍に咲く山つつじでも、(すみれ)でも、都會育ちの末子を樂しませた。登れば登るほど青く澄んだ山の空氣が私逹の身に感じられて來た。(ふる)い街道の跡が一筋目につくところまで進んで行くと、そこはもう私の郷里の入り口だ。途中で私は(もり)さんといふ人の出迎へに來てくれるのにあつた。森さんは太郎より七八歳ほども年長な友だちで、太郎が四年の農事見習ひから新築の家の工事まで、ほとんどいつさいの世話をしてくれたのもこの人だ。

 郷里に歸るものの習ひで、私は村の人たちや子供たちの物見高い目を避けたかつた。今だに古い驛路(うまやじ)のなごりを見せてゐるやうな坂の上のはうからは、片側に續く家々の前に添ふて、細い水の流れが走つて來てゐる。勝手を知つた私はある拔け道を取つて、ちやうどその村の裏側へ出た。太郎は私のすぐあとから、すこしおくれて姪や末子もついて來た。私は太郎の耕しに行く(はたけ)がどつちの方角に當たるかを尋ねることすら樂しみに思ひながら歩いた。私の行く先にあるものは幼い日の記憶をよび起こすやうなものばかりだ。暗い竹藪(たけやぶ)のかげの細道について、左手に小高い石垣(いしがき)の下へ出ると、新しい二階建ての家のがつしりとした側面 が私の目に映つた。新しい壁も光つて見えた。思はず私は太郎を顧みて、

 「太郎さん、お前の家かい。」

 「これが僕の家サ。」

 やがて私はその石垣(いしがき)を曲がつて、太郎自身の筆で屋號を書いた農家風の入り口の押戸の前に行つて立つた。

  四方木屋(よもぎや)

 太郎には私は自身に作れるだけの田と、畑と、薪材(まきざい)を取りに行くために()るだけの林と、それに家とをあてがつた。自作農として出發させたい考へで、餘分なものはいつさいあてがはない方針を執つた。

 都會の借家ずまいに慣れた目で、この太郎の家を見ると、新規に造つた爐ばたからしてめづらしく、表から裏口へ通り拔けられる農家風の土間もめづらしかつた。奥もかなり廣くて、青山の親戚 (しんせき)を泊めるには充分であつたが、おとなから子供まで入れて五人もの客が一時にそこへ着いた時は、いかにもまだ新世帶(しんじよたい)らしい思ひをさせた。

 「きのふまで左官屋(さかんや)さんがはいつてゐた。庭なぞはまだちつとも手がつけてない。」

 と、太郎は私に言つてみせた。

 何もかも新規だ。まだ柱時計一つかかつてゐない爐ばたには、太郎の家で雇つてゐるお(しも)(ばあ)さんのほかに、近くに住むお(きく)婆さんも手傳いに來てくれ、森さんの(かあ)さんまで來てわが子の世話でもするやうに働いてゐてくれた。

 私は太郎と二人(ふたり)部屋部屋(へやべや)を見て囘るやうな時を見つけやうとした。それが容易に見當たらなかつた。

 「この家は氣に入つた。思つたより好い家だ。よつぽど森さんにはお禮を言つてもいいね。」

 わづかにこんな話をしたかと思ふと、また太郎はいそがしさうに私のそばから離れて行つた。そこいらには、まだかわき切らない壁へよせて、私逹の荷物が取り散らしてある。末子は(めい)の子供を連れながら部屋部屋をあちこちとめづらしさうに歩き囘つてゐる。(あによめ)も三十年ぶりでの歸省とあつて、(ふる)なじみの人たちが出たりはいつたりするだけでも、かなりごたごたした。

 人を避けて、私は眺望(ちようぼう)のいい二階へ上がつて見た。石を載せた板屋根、ところどころに咲きみ誰た花の(こずゑ)、その向かうには春深く(かす)んだ美濃(みの)の平野が遠く見渡される。天氣のいい日には近江(おうみ)伊吹山(いぶきやま)までかすかに見えるといふことを私は幼年のころに自分の父からよく聞かされたものだが、かつてその父の(ふる)い家から望んだ山々を今は自分の新しい家から望んだ。

 私はその二階へ上がつて來た森さんとも一緒に、しばらく窓のそばに立つて、久しぶりで自分を迎へてくれるやうな惠那(えな)山にもながめ入つた。あそこに深い谷がある、あそこに遠い高原がある、とその窓から()して言ふことができた。

 「おかげで、好い家ができました。太郎さんにくれるのは惜しいやうな氣がして來ました。これまでに世話してくださるのも、なかなか容易ぢやありません。私もまた、時々本でも讀みに歸ります。」

 と、私は森さんに話したが、禮の心は言葉にも盡くせなかつた。

 翌日になつても、私は太郎と二人(ふたり)ぎりでゆつくり話すやうな機會を見いださなかつた。(あによめ)の墓參に。そのお供に。入れかはり立ちかはり(たず)ねて來る村の人たちの應接に。午後に、また私は人を避けて、爐ばたつづきの六疊ばかりの部屋(へや)に太郎を見つけた。

 「とうさん、みやげはこれつきり?」

 「なんだい、これつきりとは。」

 私は約束の柱時計を太郎のところへ()げて來られなかつた。それを太郎が催促したのだ。

 「次郎ちやんが來る時に、時計は持たしてよこす。」と言つたあとで、やうやく私は次郎のことをそこへ持ち出した。「どうだらう、次郎ちやんは來たいと言つてるが、お前の迷惑になるやうなことはなからうか。」

 「そんなことはない。あのとほり二階はあゐてゐるし、次郎ちやんの部屋はあるし、僕はもうそのつもりにして待つてゐるところだ。」

 「半日お前の手傳いをさせる、半日()をかかせる――そんなふうにしてやらしてみるか。何も試みだ。」

 「まあ、最初の一年ぐらゐは、僕から言へばかへつて邪魔になるくらゐなものだらうけれど――そのうちには次郎ちやんも慣れるだらう。なかなか百姓もむづかしいからね。」

 さういふ太郎の手は、指の骨のふしぶしが強くあらはれてゐて、どんな荒仕事にも耐へられさうに見えた。その手は最早いつぱしの若い百姓の手だつた。この子の机のそばには、本箱なぞも置いてあつて、農民と農村に關する書籍の入れてあるのも私の目についた。

 その日は私は新しい木の香のする風呂桶(ふろおけ)に身を浸して、わづかに旅の疲れを忘れた。私は山家(やまが)らしい爐ばたで(ばあ)さんたちの話も聞いてみたかつた。で、その晩はあかあかとした焚火(たきび)のほてりが自分の顏へ來るところへ行つて、くつろいだ。

 「ほんとに、おらのやうなものの造るものでも、太郎さんはうまいふまいと言つて食べさつせる。さう思ふと、おらはオヤゲナイやうな氣がする。」

 と、私に言つてみせるのは、(ふと)つて丈夫さうなお霜婆さんだ。私の郷里では、このお霜婆さんの話すやうに、女でも「おら」だ。

 「どうだなし、こんな好い家ができたら、お前さまもうれしからず。」

 と、今度はお菊婆さんが言ひ出した。無口なお霜婆さんに比べると、この人はよく話した。

 「今度歸つて見て、私も安心しました。」と、私は言つた。「私はあの太郎さんを旦那衆(だんなしゅう)にするつもりはありません。()るだけの道具はあてがふ、あとは自分で働け――そのつもりです。」

 「えゝ、太郎さんもその氣だで。」と、お菊婆さんは爐の火のはうに氣をくばりながら言つた。「この焚木(たきぎ)でもなんでも、みんな自分で山から背負(しよ)つておいでるぞなし。そりや、お前さま、ここの家を建てるだけでも、どのくらゐよく働いたかしれずか。」

 爐ばたでの話は盡きなかつた。

 三日(みつか)目には私は(あによめ)のために(ふる)いなじみの人を四方木屋(よもぎや)の二階に集めて、森さんのお(かあ)さんやお菊婆さんの手料理で、みんなと一緒に久しぶりの酒でもくみかはしたいと思つた。三年前に兄を見送つてからの(あによめ)は、にはかに()けて見える人であつた。おそらくこれが嫂に取つての郷里の見納めであらうとも思はれたからで。

 私逹は爐ばたにゐて順にそこへ集まつて來る客を待つた。嫂が(ふる)いなじみの人々で、三十年の昔を語り合はうとするやうな男の老人は最早この村にはゐなかつた。さういふ老人といふ老人はほとんど死に絶えた。招かれて來るお客はお婆さんばかりで、腰を(かが)めながらはいつて來る人のあとには、すこし耳も遠くなつたといふ人の顏も見えた。隣村からわざわざ嫂や(めい)や私の娘を見にやつて來てくれた人もあつたが、私と同年ですでに幾人かの孫のあるといふ未亡人(みぼうぢん)が、その日の客の中での年少者であつた。

 しかし、一同が二階に集まつて見ると、このお婆さんたちの元氣のいい話し聲がまた私をびつくりさせた。その中でも、一番の高齡者で、いちばん元氣よく見えるのは隣家のお婆さんであつた。この人は酒の(さかずき)を前に置いて、

 「どうか、まあ太郎さんにもよいおよめさんを見つけてあげたいもんだ。とうさんの御心配で、かうして家もできたし。この次ぎは、およめさんだ。そのをりには私もまたけふのやうに呼んでいただきたい――私は私だけのお祝ひを申し上げに來たい。」

 八十歳あまりになる人の顏にはまだみづみづしい光澤(つや)があつた。私はこの隣家のお婆さんの孫にあたる子息(むすこ)や、森さんなぞと一緒に同じ食卓についてゐて、日頃はめつたにやらない酒をすこしばかりやつた。太郎はまたこの新築した二階の部屋(へや)で初めての客をするといふ顏つきで、()めた徳利を集めたり、それを熱燗(あつかん)に取り替へて來たりして、二階と階下(した)の間を()つたり來たりした。

 「太郎さんも、そこへおすわり。」と、私は言つた。「森さんのおかあさんが丹精(たんせい)してくだすつたごちさうもある――下諏訪(しもすは)の宿屋からとうさんの()げて來た若鷺(わかさぎ)もある――」

 「かういふ田舎(ゐなか)にゐますと、酒をやるやうになります。」と、森さんが、私に言つてみせた。「どうしても、周圍がさうだもんですから。」

 「太郎さんもすこしは飮めるやうに、なりましたらうか。」と、私は半分串談(じようだん)のやうに。

 「えゝ、太郎さんは強い。」それが森さんの返事だつた。「いくら飮んでも太郎さんの醉つたところを見た事がない。」

 その時、私は森さんから返つた(さかずき)を太郎の前に置いて、

 「今から酒はすこし早過ぎるぜ。しかし、けふは特別 だ。まあ、一杯やれ。」

 わが子の勞苦をねぎらはうとする心から、思はず私は自分で徳利を持ち添へて勸めた。若者、萬歳――口にこそそれを出さなかつたが、青春を祝する私の心はその盃にあふれた。私は自分の年とつたことも忘れて、いろいろと皆を款待顏(もてなしがお)な太郎の酒をしばらくそこにながめてゐた。

 七日の後には私は青山の親戚 (しんせき)や末子と共にこの山を降りた。

 落合川の驛からもと來た道を汽車で歸ると、下諏訪(しもすは)へ行つて日が暮れた。私は太郎の作つてゐる桑畑や麥畑を見ることもかなはなかつたほど、いそがしい日を郷里の方で送り續けて來た。察しのすくない郷里の人たちは思ふやうに私を休ませてくれなかつた。この歸りには、いつたん下諏訪で下車して次の汽車の來るのを待ち、また夜行の旅を續けたが、(あによめ)でも(めい)でも言葉すくなに乘つて行つた。末子なぞは汽車の窓のところにハンケチを載せて、ただうたうとと眠りつづけて行つた。

 東京の朝も見直すやうな心持ちで、私は娘と一緒に家に歸りついた。私も激しい疲れの出るのを覺えて、部屋(へや)の疊の上にごろごろしながら寢てばかりゐるやうな自分を留守居するもののそばに見つけた。

 「旦那(だんな)さん、あちらはいかがでした。」

 と、お徳が熱い茶なぞを持つて來てくれると、私は太郎が山から背負(しよ)つて來たといふ木で()ゐた爐にもあたり、それで沸かした風呂(ふろ)にもはいつて來た話なぞをして、そこへ横になつた。

 「とうさん、どうだつた。」

 「思つたより太郎さんの家は好い家だつたよ。しつかりとできてゐたよ。でも、ぜいたくな感じはすこしもなかつた。森さんの寄付してくれた古い小屋なぞも裏のはうに造り足してあつたよ。」

 私は次郎や三郎にもこんな話を聞かせて置いて、またそこに横になつた。

 二日(ふつか)三日(みつか)も私は寢てばかりゐた。まだ半分あの山の上に身を置くやうな氣もしてゐた。旅の印象は疲れた頭に殘つて、容易に私から離れなかつた。私の目には明るい靜かな部屋がある。新しい障子のそばには火鉢(ひばち)が置いてある。客が來てそこで話し込んでゐる。村の校長さんといふ人も見えてゐて「太郎さんの百姓姿をまだ御覽になりませんか、なかなかよふござんすよ。」と、私に言つてみせたことを思ひ出した。「おもしろい話もあります。太郎さんがまだ笹刈(ささが)りにも慣れない時分のことです。笹刈りと言へばこの土地でも骨の折れる仕事ですからね。あの笹刈りがあるために、(よそ)からこの土地へおよめに來手(きて)がないと言はれるくらゐ骨の折れる仕事ですからね。太郎さんもみんなと一緒に、威勢よくその笹刈りに出かけて行つたはよかつたが、腰を探して見ると、(かま)を忘れた。大笑ひしましたよ。それでも村の若い者がみんなで寄つて、太郎さんに刈つてあげたさうですがね。どうして、この節の太郎さんはもうそんなことはありません。」と、その校長さんの言つたことを思ひ出した。さう言へば、あの村の二三の家の軒先に刈り()してあつた(ささ)の葉はまだ私の目にある。あれを刈りに行くものは、腰に火繩(ひなわ)()げ、それを蚊遣(かや)りの代はりとし、襲ひ來る無數の藪蚊(やぶか)と戰ひながら、高い(がけ)の上に()えてゐるのを下から刈り取つて來るといふ。あれは熊笹(くまざさ)といふやつか。見たばかりでも恐ろしげに、幅廣で鋭くとがつたあの笹の葉は忘れ(がた)い。私はまた、水に乏しいあの山の上で、遠いわが()の先祖ののこした古い井戸の水が太郎の家に()き返つてゐたことを思ひ出した。新しい木の香のする風呂桶(ふろおけ)に身を浸した時の樂しさを思ひ出した。ほんたうに自分の子の家に歸つたやうな氣のしたのも、さういふ時であつたことを思ひ出した。

 しかし、かういふ旅疲れも自然とぬけて行つた。そして、そこから私が身を起こしたころには、過ぐる七年の間續きに續いて來たやうな寂しい(あらし)の跡を見直さうとする心を起こした。こんな心持ちは、あの太郎の家を見るまでは私に起こらなかつたことだ。

 留守宅には種々な用事が私を待つてゐた。その中でも、さしあたり次郎たちと相談しなければならない事が二つあつた。一つは見つかつたといふ借家の事だ。さつそく私は次郎と三郎の二人(ふたり)を連れて青山方面 まで見に行つて來た。今少しで約束するところまで行つた。見合はせた。歸つて來て、そんな家を無理して借りるよりも、まだしも今の住居(すまひ)のはうがましだといふことにおもひ當たつた。いつたんは私の心も今の住居(すまひ)を捨てたものである。しかし、もう一度この屋根の下に辛抱(しんぼう)してみやうと思ふ心はすでにその時に私のうちにきざして來た。

 今一つは、次郎の事だ。私は太郎から聞いて來た返事を次郎に傳へて、いよいよ郷里の方へ出發するやうに、そのしたくに取り掛からせることにした。

 「次郎ちやん、番町(ばんちよう)の先生のところへも暇乞(いとまご)いに行つて來るがいいぜ。」

 「さうだよ。」

 私逹はこんな言葉をかはすやうになつた。「番町の先生」とは、私より年下の友だちで、日頃次郎のやうな未熟なものでも末たのもしく思つて見てゐてくれる美術家である。

 「今ある展覽會も、できるだけ見て行くがいいぜ。」

 「さうだよ。」

 と、また次郎が答へた。

 五月にはいつて、次郎は半分引つ越しのやうな騷ぎを始めた。何かごとごと言はせてとだなを片づける音、画架や額縁(がくぶち)を荷造りする音、二階の部屋を歩き囘る音なぞが、毎日のやうに私の頭の上でした。私も階下の四疊半にゐてその音を聞きながら、七年の古巣からこの子を送り出すまでは、心も落ちつかなかつた。仕事の上手(じようず)なお徳は次郎のために、郷里の方へ行つてから着るものなぞを縫つた。裁縫の材料、材料で次ぎから次ぎへと追はれてゐる末子が學校でのけいこに縫つた太郎の袷羽織(あはせばをり)もそこへでき上がつた。それを柳行李(やなぎがうり)につめさせてなどと家のものが語り合ふのも、なんとなく若者の旅立ちの前らしかつた。

 次郎の田舎(ゐなか)行きは、よく三郎の話にも(のぼ)つた。三郎は研究所から歸つて來るたびに、その話を私にして、

 「次郎ちやんのことは、研究所でもみんな知つてるよ。僕の友だちが聞いて『それだけの決心がついたのは、えらい』――とサ。しかし僕は田舎へ行く氣にならないなあ。」

 「お前はお前、次郎ちやんは次郎ちやんでいい。廣い藝術の世界だもの――みんながみんな、さう同じやうな道を踏まなくてもいい。」

 と、私は答へた。

 子供の變はつて行くにも驚く。三郎も私に向かつて、以前のやうには感情を隱さなくなつた。めまぐるしく動いてやまないやうな三郎にも、なんとなく落ちついたところが見えて來た。子供の變はるのはおとなの移り氣とは違ふ、子供は常に新しい――さう私に思はせるのもこの三郎だ。

 やがて次郎は番町の先生の家へも暇乞(いとまご)いに寄つたと言つて、改まつた顏つきで歸つて來た。餞別(せんべつ)のしるしに贈られたといふ二枚の書をも私の前に取り出して見せた。それはみごとな筆で大きく書いてあつて、あの四方木屋(よもぎや)の壁にでも掛けてながめ樂しむにふさはしいものだつた。

 「とうさん、番町の先生はさう言つたよ。いろいろな人の例を僕に引いてみせてね、田舎(ゐなか)へ引つ込んでしまふと()がかけなくなるとサ。」

 と、次郎はやや不安らしく言つたあとで、さらに言葉を繼いで、

 「それから、かういふものをくれてよこした。田舎(ゐなか)へ行つたら讀んでごらんなさいと言つて僕にくれてよこした。何かと思つたら、『扶桑陰逸傳(ふさういんいつでん)』サ。()の本でもくれればいいのに、こんな仙人(せんにん)の本サ。」

 「仙人の本はよかつた。」と、私も吹き出した。

 「これはとうさんでも讀むにちやうどいい。」

 「とうさんだつて、まだ仙人には早いよ。」

 「しかしお餞別(せんべつ)と思へばありがたい。けふは番町でいろいろな話が出たよ。ヴィルドラックといふ人の持つて來たマチスの()の話も出たよ。けふの話はみんなよかつた。それから先生の奥さんも、御飯を一緒に食べて行けと言つてしきりに勸めてくだすつたが、僕は歸つて來た。」

 先輩の一言一行も忘れられないかのやうに、次郎はそれを私に語つてみせた。

 いよいよ次郎の家を離れて行く日も近づいた。次郎はその日を茶の間の縁先にある黒板の上に(しる)しつけて見て、なんとなくなごりが惜しまるるといふふうであつた。やがて、荷造りまでもできた。この都會から田舎へ歸つて行く子を送る前の一日だけが殘つた。

 「どつこいしよ。」

 私がそれをやるのに不思議はないが、まだ若いさかりのお徳がそれをやつた。お徳も私の家に長く奉公してゐるうちに、そんなことが自然と口に出るほど、いつのまにか私の癖に染まつたと見える。

 このお徳は茶の間と臺所の間を()つたり來たりして、次郎の「送別 會」のしたくを始めた。さういふお徳自身も遠からず暇を取つて、代はりの女中のあり次第に國もとのはうへ歸らうとしてゐた。

 「旦那(だんな)さん、お肴屋(さかなや)さんがまゐりました。旦那さんの分だけ何か取りませうか。次郎ちやんたちはライス・カレエがいいさうですよ。」

 「ライス・カレエの送別 會か。どうしてあんなものがさう好きなんだらうなあ。」

 「だつて、皆さんがさうおつしやるんですもの。――三ちやんでも、末子さんでも。」

 私はお徳の前に立つて、肴屋(さかなや)の持つて來た付木(つけぎ)にいそがしく目を通した。それには河岸(かし)から買つて來た(さかな)の名が並べ(しる)してある。長い月日の間、私はこんな主婦の役をも兼ねて來て、好ききらひの多い子供等のために毎日の惣菜(さうざい)を考へることも日課の一つのやうになつてゐた。

 「待てよ。おれはどうでもいいが、送別 會のおつきあひに(あゆ)一尾(いつぴき)ももらつて置くか。」

 と、私はお徳に話した。

 「末ちやん、おまいか。」

 と、私はまた小さな娘にでも注意するやうに末子に言つて、白の前掛けをかけさせ、その日の臺所を手傳はせることも忘れなかつた。

 「ほんとに、太郎さんのやうなおとなしい人のおよめさんになるものは仕合はせだ。わたしもこれでもつと年でも取つてると――もつとお(ばあ)さんだと――臺所の手傳いにでも行つてあげるんだけれど。」

 それが茶の間に來てのお徳の述懷だ。

 茶の間には古い柱時計のほかに、次郎が銀座まで行つて買つて來た新しいのも壁の上に掛けてあつた。太郎への約束の柱時計だ。今度次郎が()げて行かうとするものだ。それが古い時計と並んで一緒に動きはじめてゐた。

 「すごい時計だ。」

 と、見に來て言ふものがある。そろそろ夕飯のしたくができるころには、私逹は茶の間に集まつて新しい時計の形をいろいろに言つてみたり、それを古いはうに比べたりした。私の四人の子供がまだ生まれない前からあるのも、その古いはうの時計だ。

 やがて私逹は一緒に食卓についた。次郎は三郎とむかひ合ひ、私は末子とむかひ合つた。

 「送別 會」とは名ばかりのやうな粗末な食事でも、かうして三人の兄妹(けふだい)の顏がそろふのはまたいつのことかと思はせた。

 「いよいよ明日(あす)は次郎ちやんも出かけるかね。」と、私は古い柱時計を見ながら言つた。「かあさんが()くなつてから、ことしでもう十七年にもなるよ。あのおかあさんが生きてゐて、お前たちの話す言葉を聞いたら驚くだらうなあ。わざと亂暴な言葉を使ふ。『時計を買ひやがつた――動いていやがらあ』――お前たちのはその調子だもの。」

 「いけねえ、いけねえ。」と、次郎は頭をかきながら食つた。

 「とうさんがそんなことを言つたつて、みんながさうだからしかたがない。」と、三郎も笑ひながら食つた。

 「さう言へば、次郎ちやんも一年に二度ぐらゐづつは東京へ出ておいでよ。なにも田舎(ゐなか)に引つ込みきりと考へなくてもいいよ。二三年は旅だと思つてごらんな。とうさんなぞも旅をするたびに自分の道が開けて來た。田舎へ行くと、友だちはすくなからうなあ。ことに()のはうの友だちが――それだけがとうさんの氣がかりだ。」

 かう私が言ふと、今まで子供の友だちのやうにして暮らして來たお徳も長い奉公を思ひ出し顏に、

 「次郎ちやんが行つてしまふと、急にさびしくなりませうねえ。人を送るのもいいが、わたしはあとがいやです。」

 と、給仕(きゅうぢ)しながら言つた。

 「あゝ、食つた。食つた。」

 間もなくその聲が子供等の間に起こつた。三郎は口をふいて、そこにある箪笥(たんす)を背に足を投げ出した。次郎は床柱(とこばしら)のはうへ寄つて、自分で裝置したラジオの受話器を耳にあてがつた。細いアンテナの線を通して傳はつて來る都會の聲も、その音樂も、當分は耳にすることのできないかのやうに。

 その晩は、お徳もなごりを惜しむといふふうで、臺所を片づけてから子供等の相手になつた。お徳はにぎやかなことの好きな女で、戲れに子供等から腕押しでも所望されると、いやだとは言はなかつた。(ふと)つて丈夫さうなお徳と、やせぎすで力のある次郎とは、おもしろい取り組みを見せた。さかんな笑ひ聲が茶の間で起こるのを聞くと、私も自分の部屋(へや)にじつとしていられなかつた。

 「次郎ちやんと(ねい)やとは互角(ごかく)だ。」

 そんなことを言つて見てゐる三郎たちのそばで、また二人(ふたり)は勝負を爭つた。健康そのものとも言ひたいお徳が(ふと)つた(ひざ)を乘り出して、腕に力を入れた時は、次郎もそれをどうすることもできなかつた。若々しい血潮は見る見る次郎の顏に(のぼ)つた。堅く組んだ手も震へた。私はまたハラハラしながらそれを見てゐた。

 「オヽ、痛い。御覽なさいな、私の手はこんなに(あか)くなつちやつたこと。」

 と、お徳は血でもにじむかと見えるほど紅く熱した腕をさすつた。

 「三ちやんも(ねい)やとやつてごらんなさいな。」

 と、末子がそばから勸めたが、三郎は應じなかつた。

 「僕はよす。左ならやつてみてもいいけれど。」

 さういふ三郎は左を得意としてゐた。腕押しに、骨牌(かるた)に、その晩は笑ひ聲が盡きなかつた。

 翌日は最早新しい柱時計が私逹の家の茶の間にかかつてゐなかつた。次郎はそれを厚い紙箱に入れて、旅に()げて行かれるやうに荷造りした。

 その時になつてみると、太郎はあの山地のはうですでに田植ゑを始めてゐる。次郎はこれから出かけようとしてゐる。お徳もやがては國をさして歸らうとしてゐる。次郎のゐないあとは、にはかに家も寂しからうけれど、日頃せせこましく窮屈にのみ暮らして來た私逹の前途には、いくらかのゆとりのある日も來さうになつた。私は私で、もう一度自分の書齋を二階の四疊半に移し、この次ぎは客としての次郎をわが()に迎へやうと思ふなら、それもできない相談ではないやうに見えて來た。どうせ今の住居(すまひ)はあの愛宕下(あたごした)の宿屋からの延長である。殘る二人の子供に不自由さへなくば、さう(おも)つてみた。五十圓や六十圓の家賃で、さう思はしい借家のないこともわかつた。次郎の出發を機會に、やうやく私も今の住居(すまひ)居座(いすは)りと觀念するやうになつた。

 私はひとりで、例の地下室のやうな四疊半の窓へ近く行つた。そこいらはもうすつかり青葉の世界だつた。私は兩方の(こぶし)を堅く握りしめ、それをうんと高く延ばし、大きなあくびを一つした。

 「大都市は墓地です。人間はそこには生活してゐないのです。」

 これは日頃私の胸を()つたり來たりする、あるすぐれた藝術家の言葉だ。あの兒供らのよく遊びに行つた島津山(しまづやま)の上から、芝麻布(しばあざぶ)方面 に連なり續く人家の屋根を望んだ時のかつての自分の心持ちをも思ひ合はせ、私はさういふ自分自身の立つ位 置さへもが――あの藝術家の言ひ草ではないが、いつのまにか墓地のやうな氣のして來たことを胸に浮かべてみた。過ぐる七年のさびしい(あらし)は、それほど私の生活を行き詰まつたものとした。

 私が見直さうと思つて來たのも、その墓地だ。そして、その墓地から起き上がる時が、どうやら、自分のやうなものにもやつて來たかのやうに思はれた。その時になつて見ると、「父は父、子は子」でなく、「自分は自分、子供は子供等」でもなく、ほんたうに「私逹」への道が見えはじめた。

 夕日が二階の部屋(へや)に滿ちて來た。階下にある四疊半や茶の間はもう薄暗い。次郎の出發にはまだ間があつたが、まとめた荷物は二階から玄關のところへ運んであつた。

 「さあ、これだ、これが僕の持つて行く一番のおみやげだ。」

 と、次郎は言つて、すつかり荷ごしらえのできた時計をあちこちと持ち囘つた。

 「どれ、わたしにも持たせてみて。」

 と、末子は兄のそばへ寄つて言つた。

 遠い山地も、にはかに私逹には近くなつた。この新しい柱時計が四方木屋(よもぎや)の爐ばたにかかつて音のする日を(おも)いみるだけでも、樂しかつた。日頃私が矛盾のやうに自分の行爲を考へたことも、今はその矛盾が矛盾でないやうな時も來た。子のために建てたあの永住の家と、旅にも等しい自分の假の借家ずまいの間には、(にじ)のやうな橋がかかつたやうに思はれて來た。

 「次郎ちやん、停車場まで送りませう。末子さんもわたしと一緒にいらつしやいね。」

 と、お徳が言ひ出した。

 「僕も送つて行くよ。」

 と、三郎も言つた。すると、次郎は首を振つて、

 「誰も來ちやいけない。今度は誰にも送つてもらはない。」

 それが次郎の望みらしかつた。私は末子やお徳を思ひとまらせたが、せめ三郎だけをやつて、飯田橋(いいだばし)の停車場まで見送らせることにした。

 やがて、そこいらはすつかり暗くなつた。まだ(よい)の口から、家の周圍はひつそりとしてきて、坂の下を通る人の足音もすくない。都會に住むとも思へないほどの靜かさだ。氣の早い次郎は出發の時を待ちかねて、住み慣れた家の周圍を一囘りして歸つて來たくらゐだ。

 「行つてまゐります。」

 茶の間の古い時計が九時を打つころに、私逹はその聲を聞いた。植木坂の上には次郎の荷物を積んだ車が先に動いて行つた。いつのまにか次郎も家の外の路地(ろぢ)を踏む(くつ)の音をさせて、靜かに私逹から離れて行つた。

 

 

小諸市立藤村記念館

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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島崎 藤村

シマザキ トウソン
しまざき とうそん 詩人・小説家 1872・3・25~1943・8・22 (長野県)中仙道馬寵宿の本陣庄屋の四男に生まれる。日本ペンクラブ初代会長 帝国藝術院会員 「夜明け前」により朝日文化賞。幼くして生家没落、上京北村透谷と識り『若菜集』などにより抒情詩人として近代詩の曙光となったが、信州小諸の教師時代から散文に転じ、1906(明治39)年『破戒』で一世を画し、『春』『家』『新生』また『夜明け前』等々の名作により日本文学の巨大な存在となった。北村透谷らとの「文学界」を基点に近代詩歌の幕を若やかに押し上げた詩人から、一転『破戒』『家』『新生』『夜明け前』等に及ぶ蔚然たる小説家への高まりは、まこと近代文学に冠たる文豪の一人。電子文藝館には晩年にかかる頃の中編の名作『嵐』を第一番に収めている。

掲載作「嵐」は1926年「改造」9月号初出。1927年刊の『嵐』(新潮社)に収められた。

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