伸び支度
十四五になる大概の家の娘がさうであるやうに、袖子もその年頃になつて見たら、人形のことなどは次第に忘れたやうになつた。
人形に着せる着物だ襦袢だと言つて大騒ぎした頃の袖子は、いくつそのために小さな着物を造り、いくつ小さな
『袖子さん、お遊びなさいな。』
と言つて、一頃はよく彼女のところへ遊びに通つて来た近所の小娘もある。光子さんと言つて、幼稚園へでもあがらうといふ年頃の小娘のやうに、額のところへ髪を切りさげて居る児だ。袖子の方でもよくその光子さんを見に行つて、暇さへあれば一緒に折紙を畳んだり、お手玉をついたりして遊んだものだ。さういふ時の二人の相手は、いつでもあの人形だつた。そんなに抱愛の的であつたものが、次第に袖子から忘れられたやうになつて行つた。そればかりでなく、袖子が人形のことなぞを以前のやうに大騒ぎしなくなつた頃には、光子さんともさう遊ばなくなつた。
しかし、袖子はまだ漸く高等小学の一学年を終るか終らないぐらゐの年頃であつた。彼女とても何かなしには居られなかつた。子供の好きな袖子は、いつの間にか近所の家から別の子供を抱いて来て、自分の部屋で遊ばせるやうになつた。数へ歳の二つにしかならない男の児であるが、あのきかない気の光子さんに比べたら、これはまた何といふおとなしいものだらう。金之助さんといふ名前からして男の子らしく、下ぶくれのしたその顔に笑みの浮ぶ時は、小さな
『ちやあちやん。』
それが茶の間へ袖子を探しに行く時の子供の声だ。
『ちやあちやん。』
それがまた台所で働いて居るお初を探す時の子供の声でもあるのだ。金之助さんは、まだよちよちしたおぼつかない足許で、茶の間と台所の間を往つたり来たりして、袖子やお初の肩につかまつたり、二人の裾にまとひついたりして戯れた。
三月の雪が綿のやうに町へ来て、一晩のうちに見事に溶けて行く頃には、袖子の家ではもう光子さんを呼ぶ声が起らなかつた。それが『金之助さん、金之助さん』に変つた。
『袖子さん、どうしてお遊びにならないんですか。わたしをお忘れになつたんですか。』
近所の家の二階の窓から、光子さんの声が聞えて居た。そのませた、小娘らしい声は、春先の町の空気に高く響けて聞えて居た。丁度袖子はある高等女学校への受験の準備にいそがしい頃で、遅くなつて今迄の学校から帰つて来た時に、その光子さんの声を聞いた。彼女は別に悪い顔もせず、たゞそれを聞き流したまゝで家へ戻つて見ると、茶の間の障子のわきにはお初が針仕事しながら金之助さんを遊ばせて居た。
どうしたはづみからか、その日、袖子は金之助さんを怒らしてしまつた。子供は袖子の方へ来ないで、お初の方へばかり行つた。
『ちやあちやん。』
『はあい――金之助さん。』
お初と子供は、袖子の前で、こんな言葉をかはして居た。子供から呼びかけられるたびに、お初は『まあ、可愛い』といふ様子をして、同じことを何度も何度も繰返した。
『ちやあちやん。』
『はあい――金之助さん。』
『ちやあちやん。』
『はあい――金之助さん。』
あまりお初の声が高かつたので、そこへ袖子の父さんが笑顔を見せた。
『えらい騒ぎだなあ。俺は自分の部屋で聞いて居たが、まるで、お前のは掛け合ひぢやないか。』
『旦那さん。』とお初は自分でもをかしいやうに笑つて、やがて袖子と金之助さんの顔を見くらべながら、『こんなに金之助さんは私にばかりついてしまつて……袖子さんと金之助さんとは、今日は喧嘩です。』
この『喧嘩』が父さんを笑はせた。
袖子は手持無沙汰で、お初の側を離れないで居る子供の顔を見まもつた。女にもして見たいほど色の白い児で、優しい眉、すこし開いた唇、短いうぶ毛のまゝの髪、子供らしいおでこ――すべて愛らしかつた。何となく袖子にむかつてすねて居るやうな無邪気さは、一層その子供らしい様子を愛らしく見せた。こんないぢらしさは、あの生命のない人形にはなかつたものだ。
『何と言つても、金之助さんは袖ちやんのお人形さんだね。』と言つて父さんは笑つた。
さういふ袖子の父さんは
『袖子さんは
こんなことを言つて袖子を
ある朝、お初は台所の流しもとに働いて居た。そこへ袖子が来て立つた。袖子は敷布をかゝへたまゝ物も言はないで、蒼ざめた顔をして居た。
『袖子さん、どうしたの。』
最初のうちこそお初も不思議さうにして居たが、袖子から敷布を受取つて見て、すぐにその意味を読んだ。お初は体格も大きく、力もある女であつたから、袖子の震へるからだへうしろから手をかけて、半分抱きかゝへるやうに茶の間の方へ連れて行つた。その部屋の片隅に袖子を寝かした。
『そんなに心配しないでもいゝんですよ。私が好いやうにしてあげるから――誰でもあることなんだから――今日は学校をお休みなさいね。』
とお初は袖子の枕もとで言つた。
祖母さんもなく、母さんもなく、誰も言つて聞かせるものゝないやうな家庭で、生れて初めて袖子の経験するやうなことが、思ひがけない時にやつて来た。めつたに学校を休んだことのない娘が、しかも受験前でいそがしがつて居る時であつた。三月らしい春の朝日が茶の間の障子に射して来る頃には、父さんは袖子を見に来た。その様子をお初に問ひたづねた。
『えゝ、すこし……。』
とお初は曖昧な返事ばかりした。
袖子は物も言はずに寝苦しがつて居た。そこへ父さんが心配して覗きに来る度に、しまひにはお初の方でも隠しきれなかつた。
『旦那さん、袖子さんのは病気ではありません。』
それを聞くと、父さんは半信半疑のまゝで、娘の側を離れた。日頃母さんの役まで兼ねて着物の世話から何から一切を引受けて居る父さんでも、その日ばかりは全く父さんの畠にないことであつた。男親の悲しさには、父さんはそれ以上のことをお初に尋ねることも出来なかつた。
『もう何時だらう。』
と言つて父さんが茶の間に掛つて居る柱時計を見に来た頃は、その時計の針が十時を指して居た。
『お昼には兄さん達も帰つて来るな。』と父さんは茶の間のなかを見廻して言つた。『お初、お前に頼んで置くがね、みんな学校から帰つて来て聞いたら、さう言つてお呉れ――けふは父さんが袖ちやんを休ませたからツて――もしかしたら、気分が悪いからツて――すこし頭が痛いからツて。』
父さんは袖子の兄さん達が学校から帰つて来る場合を予想して、娘のためにいろいろ口実を考へた。
昼すこし前にはもう二人の兄さんが前後して威勢よく帰つて来た。一人の兄さんの方は袖子の寝て居るのを見ると黙つて居なかつた。
『オイ、どうしたんだい。』
その権幕に恐れて、袖子は泣き出したいばかりになつた。そこへお初が飛んで来て、いろいろ言訳をしたが、何も知らない兄さんは訳の分らないといふ顔付で、しきりに袖子を責めた。
『頭が痛いぐらゐで学校を休むなんて、そんな奴があるかい。弱虫め。』
『まあ、そんなひどいことを言つて、』とお初は兄さんをなだめるやうにした。『袖子さんは私が休ませたんですよ――けふは私が休ませたんですよ。』
不思議な沈黙が続いた。父さんでさへそれを説き明すことが出来なかつた。たゞたゞ父さんは黙つて、袖子の寝て居る部屋の外の廊下を往つたり来たりした。あだかも袖子の子供の日が
『お初、袖ちやんのことはお前によく頼んだぜ。』
父さんはそれだけのことを言ひにくさうに言つて、また自分の部屋の方へ戻つて行つた。こんな悩ましい、言ふに言はれぬ一日を袖子は床の上に送つた。夕方には多勢のちひさな子供の声にまじつて例の光子さんの
翌日から袖子はお初に教へられた通りにして、例のやうに学校へ出掛けようとした。その年の三月に受け損なつたらまた一年待たねばならないやうな、大事な受験の準備が彼女を待つて居た。その時、お初は自分が女になつた時のことを言出して、
『私は十七でしたよ。そんなに自分が遅かつたものですからね。もつと早くあなたに話してあげると好かつた。そのくせ私は話さう話さうと思ひながら、まだ袖子さんには早からうと思つて、今まで言はずにあつたんですよ……つい、自分が遅かつたものですからね……学校の体操やなんかを、その間、休んだ方がいゝんですよ。』
こんな話を袖子にして聞かせた。
不安やら、心配やら、思出したばかりでもきまりのわるく、顔の紅くなるやうな思ひで、袖子は学校への道を辿つた。この急激な変化――それを知つてしまへば、心配もなにもなく、ありふれたことだといふこの変化を、何の故であるのか、何の為であるのか、それを袖子は知りたかつた。事実上の
それから一週間ばかり後になつて、漸く袖子はあたりまへのからだに帰ることが出来た。溢れて来るものは、すべて清い。あだかも春の雪に濡れて反つて伸びる力を増す若草のやうに、
『まあ、よかつた。』
と言つて、あたりを見廻した時の袖子は何がなしに悲しい思ひに打たれた。その悲しみは幼い日に別れを告げて行く悲しみであつた。彼女は最早今迄のやうな眼でもつて、近所の子供達を見ることも出来なかつた。あの光子さんなぞが黒いふさふさした髪の毛を振つて、さも無邪気に、家のまはりを駆け廻つて居るのを見ると、袖子は自分でも、もう一度何も知らずに眠つて見たいと思つた。
男と女の相違が、今は明らかに袖子に見えて来た。彼女はさものんきそうな兄さん達とちがつて、自分を護らねばならなかつた。大人の世界のことをすつかり分つてしまつたとは言へないまでも、すくなくもそれを覗いて見た。その心から、袖子は言ひあらはしがたい驚きをも誘はれた。
子供の好きなお初は相変らず近所の家から金之助さんを抱いて来た。頑是ない子供は、以前にもまさる可愛いげな表情を見せて、袖子の肩にすがつたり、その後を追つたりした。
『ちやあちやん。』
親しげに呼ぶ金之助さんの声に変りはなかつた。しかし袖子はもう以前と同じやうにはこの子供を抱けなかつた。
袖子の母さんは、彼女が生れると間もなく激しい産後の出血で亡くなつた人だ。その母さんが亡くなる時には、人のからだに差したり引いたりする潮が三枚も四枚もの母さんの単衣を雫のやうにした。それほど恐ろしい勢で母さんから引いて行つた潮が――十五年の後になつて――あの母さんと生命の取りかへつこをしたやうな人形娘に差して来た。空にある月が満ちたり欠けたりする度に、それと
(了)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/07/12