最初へ

河内山宗俊

     一

 

 晩秋の午さがり、ここ伝馬町の牢屋敷は、ねむったような静けさだった。たち並んだいくつかの土蔵のような棟が、ひっそりと、あかるい影を白砂の上へ這わせているきり、樹木一本もないだだ広い庭は人影もない。

 と――。

 ある棟と棟との露路に、跫音(あしおと)がした。

 一人の同心に縄をとられて、ゆったりとした足どりであらわれたのは、長躯肥大のお坊主――御数寄屋(おすきや)坊主河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)であった。

 みじかい仕立の黒八丈の羽織、すがぬいの定紋、縞縮緬(しまちりめん)の着物に茶献上の博多帯――どう見ても、今、吉原からの戻りがけ、という遊士の姿であった。それがまた、この堂々たる恰幅のお坊主にとっては、すこしもキザでなく、袖口からちらりとのぞく紅裏(もみうら)もすっきりと風流めいた。でっぷりとふとった肩幅胸幅、眉太く鼻翼張り、唇は彫られたようにかたちがいい。すべての造作が大きかったし、双瞳(そうどう)は、英傑などに多い褐色で、まばたきもせずにぐっと人を直視する力をたくわえていた。

 歩一歩、その足のはこびぶりも、自らの貫禄を知るものであった。

 だが――宗俊のこの自信にみちた姿勢は、なにげなく晴れあがった青空を仰いだ瞬間、心なしか、ふと崩れた。肩が落ち、細めた眸子(ひとみ)に、いちまつの淡い(かげ)()かれた。

 捕えられて、青空を仰ぐのは、今日がはじめて――三月ぶりであった。

 澄みきったその深みどりが、この図太い反逆児の胸裡にふと、自然の美しさを感じさせたのである。そして、その美しさがそぞろな感傷を呼んだ。

 ――あいつらみんな、ちりぢりになってしまった。同じ悪党仲間の行方を、宗俊は、青空の中に追った。

 義弟の直侍(なおざむらい)――片岡直次郎は、十里四方江戸を構われた。卑屈でなまけ者の暗闇の丑松(くらやみのうしまつ)は、殺された。底知れぬ無気味な腕前をもっていた金子市之丞(いちのじょう)は、妻子と心中して果てた。唐人船の抜荷(ぬけに)買いの森田屋清蔵は、高飛びして行方不明になった。そして、自分は、今、歩一歩、どうやら、官許のいちばん手取早い処罰法――一服盛られるために足をはこんでいる……。

「ふん――」

 宗俊は、この明るい陽ざしをまぶしいものに感じた自分を(わら)うと縄尻つかんだ年老いた同心をふと、ふりかえった。

 白髪まじりの本多髷(ほんだまげ)に粗末な小倉木綿、京桟留(きようざんどめ)の袴着――いずれも一時代前のくたびれた風体を、下から上へじろりと見あげて、

「おい、とっつあん、大坂じゃ、天満(てんま)与力の大塩平八郎が、三郷の窮民救済のために兵を挙げたというじゃねえか」

「おれは知らん」

「ふん、徳川三百年の秕政(ひせい)もどうやらどんづまりに来たようだぜ。大名どもは金米を取立てることに血眼になり、役人どもは賄賂とりで日をくらしているひまに、目はしのきいた町人どもが、諸大名に貸しつけて、たんまり金

銀扶持米(ふちまい)をかすめとって未曾有(みぞう)の裕福さ。こいつらの絹服酒宴のありさまを、とっつあん、いっぺんおがんでみねえ。その豪勢さにびっくり仰天、腰をぬかすぜ。……一方じゃ、何十万の貧民が乞食になったり餓死したり――え、おい、お膝元にも、二人や三人の大塩平八郎が、そろそろあらわれてもいい頃だろうじゃねえか」

「河内山! お主、かりにも直参(じきさん)だぞ。口をつつしめ。さ、あるいてもらおう」

「この世のなごりにお天道(てんとう)さまを仰いでいるんだ。あんまりせかしなさんな。……おれは小悪党だが、そこいらの木ッ葉大名よりは、ちいっと見通しがきくんだ。天下の権勢が、こんな乱れた政道のまま、あと五十年もつづ

く筈がねえ。と、おれはにらんだから、三十俵二人扶持の直参面がちゃんちゃら可笑(おか)しくなって、短く太く、博奕(ばくち)、女郎買い、押借ゆすり、とどのつまりはこうなんだが……思いねえ、どうあがいたって、このおれ程の器量者でも、せいぜい浅草田原町の川越屋で、金銀細工の懐中物をつくらせる贅沢が関の山、蔵前の札差の足もとにもおよばねえ、バカバカしいやな。御三家の水戸が、財政疲弊で、公儀に内密で富札を売るご時世だ。……とっつあん、お前さんの内職は、楊枝(ようじ)けずりか丸薬つくりか。……まったく、さむらいなんて味けねえと思わねえか」

「うるさい。あるけ!」

 と、同心は、するどくどなったものの、宗俊の言葉は、矢になってわが胸を射ぬいていた。それが証拠に、宗俊があるき出すや、かえって、俯向いた同心の出足の方がにぶっていた。

 ――この坊主のいうことにまちがいはない。米が一升二百文、麦百五十二文、酒二百八十文……こう諸式高直(こうじき)で、われわれ下役人がくらされるかどうか……。

 しかし、うそぶきすてた河内山の方は、もう、茫洋としたおちつきはらった表情にかえって、口辺にはかすかな微笑さえ含みつつ、ゆったりと歩をすすめていたのである。

 

     二

 

 河内山宗俊は、時代の反逆児であった。まさしく、宗俊が生れ、育った文化文政の時代は、江戸の華であり、同時に、百年馴致(じゅんち)の慣習によって大名も武士も百姓も身うごきのとれぬ手かせ足かせをはめられていた。ひとり町人だけが、のびのびと翼をひろげはじめていた。

 元禄時代が京坂文化の精粋ならば、文化文政は江戸町人趣味の極致である。

 府内方四里、八百八町の街衢(がいく)は、江戸ッ児の気焔に満ち、野暮を追いはらい、吝嗇(りんしょく)をさげすみ、意気・通・粋をこらしていた。掛声いさましい山谷通いの駕籠の中や、長裾下駄穿(げたば)き酔歩まんさんたる茶屋の帰るさ、

  ふけてくるわのよそおい見れば宵のともし火うちそむき寝間の……

 などと鼻唄三味線を流してゆく風俗が時代を代表し、武家もまたこれにならって、横町新道の女師匠の下にかよって浮身をやつした。

 これらのすべては、礼儀三千威儀三百、社会百般のものが皆形式にしばられ一寸の活用の余地を(あま)さず、いわば政治が化石した時、その下から燃えあがった雑草の花々であった。

 怜悧俊敏に生れた貧乏直参の息子が、この雑草の花々をかいで、さて、それを手折る方法を考えぬ筈はない。所詮は、儀礼のいましめからのがれ、形式規例の間隙をぬい、法令の網をくぐらねばならない。河内山宗俊こそ、この好見本であった。

 宗俊の祖父宗久、父宗築ともに、代々大奥紅葉山お時計の間の坊主をつとめていた。それをうけついで、一生を終らねばならない運命にあることは、天性俊敏に生れ、(きも)が太く、考えることなすことが巧智をきわめる宗俊にとっては、たまらないことであった。

 将軍家斉(いえなり)は、二十一妾をたくわえ、子供を五十余人もつくったほどの内寵多い人物であったが、そうした慕府の栄華の頂点に立った大奥の裏表をつぶさに見聞して育った宗俊は、おのれの知恵才覚が、三十俵二人扶持の禄高を汲々としてまもるにはあまりにも器が大きすぎることをいつか自覚していた。扶持が(すくな)ければその直参の身分を利用して、貧乏神と袖をわかつよりほかに手はないのである。

 宗俊は、悪事を働き乍らも、町方役人の手を出させないようにするために、自分を守護してくれる人物が必要だった。しかし、物色するまでもなかった。格好の大物が――大奥において最も権勢をふるっていた中野五左衛門碩翁(せきおう)がいた。播磨守(はりまのかみ)。名は清茂。代々三百石の直参であったが、十年たたないうちに、新御番頭取格、二干石の大身になっていた。下総中山(しもうさなかやま)法華寺(ほっけじ)日啓の隠し子およねという美貌の娘が、自分の屋敷へ奉公へ来るや、すぐに手をつけ、愛妾にするつもりで遊芸を仕込んでいるうちに、ふと思いついて、おみよと改名させて、将軍家斉の御前へ差出した。すると、おみよは、たちまち、その二十一妾中でも、最も家斉の寵愛をうける中*(ちゅうろう)となったのである。やがて、溶姫が生れ、ついで仲姫が生れると、おみよの方の威勢は、まさにとぶ鳥を落すほどになり、したがって、中野碩翁の権力は、老中をしのぎはじめたのであった。この閨縁(けいえん)の威こそ、河内山宗俊にとって、笠にきるにはもってこいである。

 中野碩翁は、(すこぶ)る下情に通じ、人情の機微を心得た曲者(くせもの)であったから、とり入ってきた河内山宗俊の俊敏が大いに気に入り、いつか二人の間には目で物言う黙契ができあがったのである。

 こうして、河内山宗俊は、やがて、上は大名から、下は市井の無頼の徒にいたるまで、「御数寄屋坊主の河内山はおそるべきやつ」とひそかにおそれられるようになっていた。

 しかし、宗俊は、決して弱い者虐(いじ)めをしなかった。捕えられてからも、悔悟の色を(いささ)かもあらわさなかったのは、この任侠の自負によって、挙げられた罪状二十八箇状、ことごとく申開きたてることができたし、悪事に対する見識は心の苛責(かしゃく)をおこさせなかったからである。

 宗俊の悪事は、例えば――。

 父祖の役をついで、お時計の間に勤めはじめた頃、宗俊は意地悪いので有名な御年寄が芝増上寺へ代参をした時、深川の料亭で、かねて愛しあっていた御広敷番々頭(おひろしきばんばんがしら)二百石どりの用人と逢引するのを目撃するや、その夜、達人の巾着切(きんちゃくきり)をそそのかしてその帰途を襲わせ、彼女の包切手(帯出許可証)をすりとらせた。

 翌日、宗俊は、下御広敷口で、御年寄のもどりを待ちうけていた。

 やがて、紅網代(べにあじろ)鋲打(びょううち)乗物が、(つぼね)、伊賀者にまもられて、しずしずともどりついた。

 宗俊は、その前を、悠々と横切ろうとした。

「お待ち、お坊主、御代参のおん前を横切るは無礼であろうぞ」

 と、局の一人がとがめた。

 すると、宗俊は、にやりとして、乗物わきへ大股に近づくと、ぴたりと膝をついた。

 これを見た御年寄の情人である用人がとんできた。

「河内山、気が狂ったか」

「あわてるな。河内山宗俊、正気の正兵衛だわな……。え、もし、御年寄さま――」

 下げ髪に鬱金(うこん)間着(あいぎ)をつけて、数珠をにぎった御年寄は、眉を逆立てて宗俊を睨んだ。

「下りゃ、無礼者」

「いいや、下りませんや。御年寄さま、こんな話をご存じですかね。近頃稀有(けう)の大善知識と名高けえ比叡山の道善和尚がまだ若い所化(しょけ)の時、何かの使いで京都の往来をあるいている時、むこうから下に下にと制止声をかけて女乗物がやって来た。そこで雛僧(すうそう)も、路傍ヘヘいつくばらされた。乗物が目の前を通る時、ひょいと頭をあげてみると、なんと中にすましてのっているのは、御殿女中になっている自分の姉じゃねえか。和尚、かんかんに憤慨して、姉のくせに土下座をさせやがった、こん畜生今にこっちも緋の法衣を着る身になってやるぞ、と決心するや、いきなり立って、その乗物の前を横切ったてえ話を、ご存じですかい。……へっへっへっ、ところで、この御数寄屋坊主は、御代参の乗物を横切ってさて、どんな肚をきめたとお思いですかい」

「竹原、この無礼者をとらえよ」

 御年寄は、悲鳴にちかい叫び声をあげた。用人は、宗俊にとびかかってねじ伏せようとした。

「止しやがれ、ひじき野郎」

 宗俊は、いきなり、どっかとあぐらをかくと、走りよってきた局やタモン(下女)やゴサイ(下男)をぐるりと見わたして、にったり笑うと、懐中から包切手をとり

「さあ、皆さん、よくごらんなすって下せえ。これは、御代参さまの包切手じゃござんせんかね。あっしは、この包切手を深川のある料理屋でひろったんでござんす。お返し申そうとつい心がせいて、乗物を横切りやした。包切手をお返しして打首になったんじゃ、この坊主首が浮ばれねえというものさ」

 包切手を眺めて、御年寄と用人の顔が一変したことは、いうまでもない。

 宗俊は、包切手と引かえに、二百両せしめた。

 宗俊の強権に対する反逆は、つねに、こういうかたちであらわれたのであった。

 

     三

 

 河内山宗俊の家は、下谷練塀小路にあり、宏壮であった。宗俊は、酒と女には比較的淡泊であり、美衣美食に飽きるや普請道楽をおこし、大名もおよばぬ贅をつくした。

 その居間は、床柱に皮つきの如輪木をつかい、天井は糸柾(いとまさ)とアララギを縞目にはり、床脇縁側寄りの窓には、埋れ木のように黒光りする薩摩竹で枠をとった。庭には、三代将軍家光遺愛の石燈籠を据え、築山の腰をあらう泉水には、琉球金魚を放してあった。

 しかし、この邸宅の、江戸中さがしてもないといわれる程の目の細かい薩摩の杉柾門をくぐるのは――いずれおとらぬ悪党たち、片岡直次郎、森田屋清蔵、金子市之丞、暗闇の丑松……一人として、三尺高い木の上へのぼる恐怖を抱く無頼漢でない者はなかった。

 この日も――。

 ちょうど季節は、花の江戸――上野、隅田堤、御殿山、飛鳥山の桜花もどうやら散りはてて、そろそろ、品川の海で潮干狩がさかんになる頃であった。

 粋をこらした座敷の広縁寄りに、ごろりと寝そべって、陶枕(とうまくら)に総髪銀杏(いちょう)の頭をのせた微塵縞(みじんじま)の武士は、金子市之丞であった。蒼白な皮膚、()げた頬、血の気のない唇――肺を病んでいる者の特有の鋭い神経があらわになった容貌である。

 その頭上にさがった籠の中では数十金の高価(たかね)のついた鶯がしきりにすり餌をつついていた。縁側には、鳥頭(とりかぶと)の葉をひろげた山橘(やまたちばな)や、()のぎんみのゆきとどいた万年青(おもと)の盆栽がならんでいた。

 塀外の往来では、天神さまの細道の遊戯をしている子供たちのよく透った唄声が、のびやかにきこえてくる。

 その唄声をきくともなくきいている金子市の心中は、泥のように重かった。

 もう二十日も家をすてているのである。女にも博奕にも酒にも()み果てた空虚なけだるさが、頭の中に(かす)になってのこっているこのひととき――金子市は、ふと、妻と娘を思い(うか)べる。同じ貧乏旗本から嫁いできて八年、妻は、放埓(ほうらつ)むざんな良人(おっと)に仕えて、忍従の二字につきる日々をおくってきた。子もまた母に似て、影のようにおとなしい娘である。

 金子市は、妻子をあわれと思わぬわけではない。いや、こうして、ふと妻子の姿を脳裡にえがく折は、いたたまれない程の愛情をおぼえるのだ。にも拘らず、金子市は、帰って、笑顔をみせてやることができないのである。

 金子市もまた、時代の反逆児であった。

 彼は十六歳の日から、当時、江戸随一と称せられた神道無念流の伝統をくむ戸ケ崎某という剣客の道場へかよって、二十三歳まで一心不乱に剣技をみがいた。そして、その天稟は師以上に練達し、おそらく旗本の子弟のうち彼の右に出ずる者はないであろうと噂されるようになった頃、酒と女と博奕にその身をもち崩しはじめたのであった。いかに非凡な頭脳腕前をもっていても、家柄の前には手も足も出ない武士階級の仕組に対する反逆、そしてはてしない窮乏生活が生む自棄であった。泰平に慣れ、無事に安んじ、腰の剣は装飾品になったこの時代――大名は次季の領米を抵当にして御用達商人から借金して奢侈(しゃし)に耽るていたらくであってみれば、金子市のまわりには、治にいて乱を忘れぬ志の士など一人も見あたらなかったのである。

 道場あらし、無頼の博徒の喧嘩の助っ人、ゆすりかたり、はては辻斬さえも二度三度……。

 金子市は、妻子の姿を追いはらうと、じっと瞑目したなり再び落莫とした虚無にひきもどされていた。何もかも面倒くさく、世の中がどうであろうが、自分がどうなろうが――ただ、すさんだ心を刺戟するものが、眼前にころがっていればいいのだ。

 

 「へへん……。

  男がようて、ときたね、

  男がようて、ほどようて、

  はたらきぶりもよいけれど、

  浮気しやんすが、玉にきず」

 ひどく陽気な唄声とともに、庭をまわって、暗闇の丑松があらわれた。

「いよう、金子市の旦那、こいつは珍しいや。……ここで会ったが百年目、ね、旦那、ひとつお供をいたしやしょう。……おっと、ご懸念あるな、勘定は、丑がひきうけた。……そう不景気な面をしてねえで、ひとつ吉原へぞめきに行こうじゃげせんか。

  ぞめきにごんせ、吉原へ、

  小野道風じゃあるまいし、

  かわずに柳を見てかえる、ってね」

 金子市は、じろりと、卑屈でおっちょこちょいのやくざへ嫌悪の眼眸(まなざし)をくれた。

「どこの賭場でイカサマをつかった?」

「ちょっ、人ぎきのわりいことを仰言いますな。……へっへっと。暗闇の丑松、一世一代のはなれわざ、まアひとつきいておくんねえ。……昨日、神田の道具屋で糶市(せりいち)が立ったところへ行合せた、と思いねえ。本郷元町の金太という野郎がね――この頃は(ろく)なものが出ねえじゃねえか、誰か広徳寺の瓦でも剥がさねぇかな、一枚剥がしたら、十両やってもいい、とほざきやがったんでさ。こいつをきいて、丑松、ポンと片膝うって、しめた! 親分河内山の知恵にあやかって、ピンときたから、――やい金太、そのせりふ忘れるな、といいのこしておいて、くるり尻をまくって韋駄天(いだてん)走り、八丁堀葭屋(よしや)の手代吉兵衛に化けて、広徳寺へ、のんのんずいずいのりこんだと思いねえ。――門の瓦を寄進いたしとうございます、と何食わぬ顔で申込みやした。坊主の二つ返事はいわでものこと。細工はりゅうりゅう、あっしゃ、今日、金太をひっぱって、広徳寺へ行きやしてね、――瓦の寸法をとらして下せえ、とたのんで、おおぴらに瓦を剥がして、――さあ金太どうだ。……へっへっへ、まんまと十両せしめたというわけでさあ」

 丑松は、小鼻をうごめかし乍ら、ちゃりんと十両、縁側へなげ出した。

 

     四

 

 金子市と丑松が出て行ってしばらくしてから、河内山は、どこからか、ぶらりと戻ってきて、女中に茶漬を命じた。三年前に、玉川の上流に早飛脚を走らして香の物と煎茶一椀の茶漬飯に一両余の金子(きんす)をおしまなかった河内山であったが、今は、そんな通人ぶりに興味はうすれていた。

 河内山の最近の心境は、もっと不逞な荒々しいものであった。

 げんに、茶漬をかきこんだのち、袋戸棚から精巧な雛をとり出して、じっと見入る彼の片頬には、一種異様な――なんといおう、復讐の快感とでもいったふてぶてしい北叟笑(ほくそえ)みが刷かれていた。

 この雛は、御台所島津氏が輿入れの時もってきたもので、三月にかざられると、大奥の女中たちは、御庭よりはるかに拝見をゆるされる世にたぐい稀な名品であった。

 河内山は、この雛を、大奥の対面所からみごとにぬすみ出したのである。もちろん、彼自身がぬすんだのではない。御錠口番の女をわが者にして、それにやらせたのである。女は恋に狂うと、この必死の冒険も敢えて辞さなかった。

 来年三月、対面所にこの雛を飾ろうという時になって、上を下への騒動がもちあがるであろう。

 ――ざまを見やがれ。

 河内山は、その日を想像して、なんともいえぬ快感をおぼえるのだった。

 ――どうせ獄門晒首(さらしくび)のほぞをきめたからにゃ大きな博奕をうってやるんだ。

 かえり見て、かさねた悪事のどれもこれも、河内山は、ケチくさく思えてならないのだ。

 いずれゆすりかたりである。

 二十歳の時、ある冬の日、老中脇坂淡路守が乗物で登城のみぎり、供侍の一人が、河内山の肩にイヤというほど突当ったまま挨拶しないで行過ぎた。もっけの幸いと河内山は、脇坂邸へ供頭増田市之丞をたずね、平あやまりにあやまらせた上で五十両取ってきた。これが強請(ゆすり)の手はじめであった。ある時は、神田橋外の阿州侯の大部屋で大賭場が開帳されていることをききこんで、すぐのりこんで二百両にした。またある時、箱根の福住楼に逗留中、隣座敷の若夫婦が同宿の篠崎竹庵という町医者と賭碁をして五十両あまり負けてしまい、竹庵がその女房を抵当に連れて行こうとするところへ、ぬっとあらわれて、その借金をはらってやり、あらためて自分が竹庵と手合せして、今はらった五十両のほかにまた五十両まきあげてひきあげたこともある。それからまた、品川の遊里で、清元の師匠の延清(のぶきよ)という美人をくどいてみると、この女が品川大蓮寺の外妾と知れた。そこで早速、寺社奉行の隠密に化けて、大蓮寺にふみこみ、内済金をとり、延清と縁をきらせて、自分のものにしてしまった。

 つい去年には、浅草雷門の前で、(かね)をたたいてお念仏をとなえている乞食(ばばあ)を見つけて、そばへより、

「おい、ばあさん、おれもおめえぐらいのお袋があったが、十年前になくなった。孝行をしたい時には親がねえ。おまえをかわりのお袋にして、せめて半年、孝行の真似事がしてみてえ」

 と、口車にのせ、坂本町の乾児(こぶん)の家へつれこんで、翌日は大家の御隠居さまにしたてて、松坂屋へ買物に出かけたのである。

 緞子(どんす)羽二重など三十反およそ百両あまりの品をえらび出し婆さんを人質にのこして、ちょっと家へもって行って女房に見せてくる、と姿をくらましてしまった。

 去りがけに、河内山は、

「おっ母さん、これは金の包みだから――」

 と袱紗(ふくさ)包みをあずけて行ったのであった。

 あまりもどって来ないので、婆さんが、包みをひらいてみると、昨日まで自分が叩いていたうすぎたない鉦と撞木(しゅもく)があらわれた。

 ――ケチだぜ、河内山。大悪党のする仕事じゃねえ。

 それらの悪事をかえりみて、河内山が、首をふった時、

「旦那さま、片岡さんがお見えでございます」

 と、女中が取次いだ。

 河内山は、雛をしまった。

 上田の小袖に竜文の合着、花色唐こはくの帯を猫じゃらしに結んだ片岡直次郎の容子は、浪人というより深川通いの大家の商人息子のようにぞろりとしていた。それでも、あまりイヤらしくないのは、無類の美貌のせいであったろう。

「とんと、ごぶさたいたしやして――」

「なんだか生気のねえ面しているじゃねえか」

「へえ」

 直侍は、肩を落して坐ると、

「じつは、ちょっとおねがいの筋がござんして――」

「なんだえ?」

「じつは、三千歳(みちとせ)のことでござんすが――」

 直侍と吉原の江戸町二丁目大口屋の花魁(おいらん)三千歳の浮名は、やくざや通客のあいだでかなりの噂にのぼっていた。

 情夫(まぶ)客になると、無理な金を算段しなければならない。直侍の遊興費は、主として賭博で儲けた金であったが、それにつまると、ゆすりかたりをやった。しかし、河内山宗俊の悪事は、弱い者虐めをさけ、多分の茶目気をもっていたが、直侍の方は、どんな下等な悪事でもやった。時には、強盗もやってのけた。下谷から本郷にかけて、直侍は鼻つまみであった。

 しかし、直侍と三千歳が真剣に惚れあっていることは、誰しもみとめざるを得なかった。

「三千歳に身請(みうけ)の客でもついたというのか」

「あたった。その通りでござんす。その相手がいけねえんだ。日本橋の小田原町回船問屋の森田屋清蔵なんで、—一千両二千両にビクともしねえ野郎なんでげす。そこで、おいらは――」

「待て、直侍、おめえは、その森田屋清蔵にこのあいだひどい悪さをしたそうだの?」

「へ、ごぞんじで――」

「直侍、おめえ、根性がきたねえぜ。……御家人崩れの山田なんとかてえやつの死骸を、森田屋清蔵の軒下へつりさげて、店の者をたたきおこして、死骸をすててやるから十両出せ、とかたりとったそうだが、そこまでは見のがせる。次の日には、死骸取捨ては天下の御法度、おそれ乍らと出た日にゃ森田屋の大黒柱もぐらつくぜ、といやがらせて百両あまりゆすりとったそうだが――おい、直侍、うすぎたねえ、あこぎなまねはいけねえよ、おれは、その死骸はたぶん、おめえが喧嘩で殺したやつにちげえねえ、とにらんだが、どうだ」

「へえ」

 直侍は、首を垂れた。

 山田某とは、一緒に強盗を働いた仲であったが、山田が酔うとそのことを口走るので、本郷湯島新花町霊雲寺横、俗に大根畑という売笑婦のいた付近の空地へ、山田を呼びよせて、酒で盛りつぶして、しめ殺したのであった。

 森田屋清蔵が三千歳の身請客ときいていた直侍は、その死骸を、荷車につんで、日本橋まではこび、あくどい芝居をうったのであった。

 森田屋清蔵は、そのゆすりには、だまって金を出し乍らも、三千歳身請の件はこの直侍という悪ひもつきを承知の上でどうしても、あとへひこうとしないのだ、という。

「ふん、森田屋め、ちょいと面白えやつじゃねえか」

「おいらにとってなにが面白えものか。……この直次郎に金がないので、三千歳をほかにとられたとあっちゃ、男がすたりまさア。といって、逆立ちしても、十日そこいらで千両はつくれねえ。やむなく……」

「どうした?」

「ゆうべ、三千歳をつれ出しました」

「なに――」

 河内山は、思わず、川越屋つくりの金銀細工のキセルを口からはなした。

「袴をはかせて、宗十郎頭巾で顔をつつみ、大身のかくれあそびとみせかけて大門(おおもん)をごまかしました」

「どこにかくまった?」

「じつは、今、駕籠で、ここへつれこんで、次の間に待たせてありやすんで――」

 河内山は、一瞬、唖然としたが、

「しかたがねえ」

 と、呟いた。

 かりにも義弟にした直侍である。そして、その惚れかたがこればかりは嘘ではなさそうなので河内山も度胸をきめた。

「よし、たすけてやろう」

 

     五

 

 江戸町の格子女郎相手に三日の流連(いつづけ)をおえた金子市之丞と暗闇の丑松は、浅草奥山の盛場を、ぶらぶらあるいていた。

 金子市は、一昨日も昨日もそして今日も、あいかわらずの陰鬱な表情で、まわりに目もくれない。そのうしろから近頃流行(はやり)の吉原冠り、やぞうをきめこんだ丑松が、鼻唄まじりですれちがう若い女に好色の視線をなげて行く。

 おででこ芝居、鶴娘、丹波の怪獣、オランダ眼鏡、松井源水、三足一手の侏儒(しゅじゅ)、講釈場、蛇つかい、楊弓などの小屋掛から、耳を聾する鳴物囃し呼び声がわきたつ。それにならんで、饅頭、浅草餅、おかめ団子、甘酒、おでん、蕎麦の屋台店が、ひしめきあう。そのむこうに、本堂の方二十間の金朱が、煙のような白雲の中にまぶしく照り映えていた。

「へっ、美しい年増だぜ、あの横櫛(よこぐし)がこてえられねえ。――かねてより、とくらっ、くどき上手と知り乍ら、この手がしめた唐繻子(とうじゅす)の、いつしか解けてにくらしい、かりてたぼかく黄楊(つげ)の櫛――おっと、気をつけろい、唐変木(とうへんぼく)――」

 つきあたったお店者(たなもの)を、したたかつきかえしておいて、丑松は、なおも女たちを物色して行く。

 丑松の生甲斐は、こういう盛場で見出されるのである。江戸のまん中で「男」になる。これが彼の目的である。切見世(きりみせ)端女郎(はしたじょろう)がたて引いてくれる。茶店の赤い前掛の女たちが、「ちょいと丑さん」と手まねきしてくれる。中村座といわぬまでも、湯島天神の落語、娘浄瑠璃(むすめじょうるり)、八人芸の寄席ぐらいは木戸御免になる。こんなところで、丑松の人生は満足するのである。

 丑松は、もと小田原のういろう屋の職人であったが、そこは二年もつづかずに、とび出して、同じ小田原の香具師(やし)の取締である虎屋に入ったが、いつしかスメクラというイカサマサイコロをつかうことをおぼえ賭場あらしをやりはじめた。そのうち、ある賭場で、これがばれて、やくざの一人を殺すはめになり、そのまま高飛びして江戸へ出たが、香具師仲間の掟として行方出所不定の者は仲間に取らないので、しかたなく中野碩翁邸のうまや中間(ちゅうげん)になったのである。このうまやもんのうちに巾着切がいて、手さきの器用な丑松は、これをこっそりならって一人前になった。

 四年前の初夏、山王(さんのう)祭の人ごみの中で、河内山の印伝(いんでん)の紙入を()ろうとして、つかまり、乾児になったのである。

「おい、丑」

 金子市が、ふりかえって、声をかけた。

「おめえ、ゆうべ、おれは江戸で指折りの巾着切の名人だとたいそう女郎に自慢をしていたの」

「旦那、声が高けえ」

「おい、名人かどうか、ためしに、……ほれ、あのごたいそうに肩をいからした小倉木綿の田舎侍の印籠を掏ってみろ」

「へ――、あいつ……ようし」

 丑松は、金壼眼(かなつぼまなこ)を光らせると、つと姿勢をかえた。

 腕ぐみして、俯向いて、何やら思案にあまったていを装い乍ら、いそぎ足になる丑松の後姿を、金子市は、冷やかなうすら笑いを浮べて見おくった。

 人ごみの中に、田舎侍と丑松の姿が、ちらちらしていたかと思うと、突然、そこから、

「すりだッ!」

 と、叫び声があがった。

 ――ふん、どじをふみやがったか、おっちょこちょいめ。

 胸の中でののしりすてると、くるりと(きびす)をかえし、反対の方角へ、ゆっくりと去って行く金子市のあくまで蒼白な顔は、ただ一色の虚無に沈んでいた。

 丑松を捕えたのは、末永三十郎という八丁堀定廻り同心であった。

 あらんかぎりの抵抗をしたので、丑松は、ざんばら髪になり、額や頬に血をにじませ、着物もひき裂けた。

 物見高い群衆にとりまかれて、仁王門横の会所へひきたてられた丑松は、板の間へ、しょんぼり坐ってうなだれた。

 もしこの時、おもてをうずめた見物人の中から、河内山宗俊の顔があらわれなかったならば、丑松はたぶん伝馬町送りになっていたであろう。

 河内山は、三千歳の一件で、江戸町の大口屋へ行ってきた戻りであった。大口屋での交渉は失敗であった。

 ――しかたがねえ、こうなりゃ、森田屋清蔵にかけ合うよりほかはなかろう。

 と考え乍ら、雷門までやってきて、ちょっと拝んで行こうと仁王門にさしかかり、「巾着切がつかまった」という声になに気なく会所をのぞいてみたのである。

 ――丑か、莫迦(ばか)野郎。

 河内山は、舌うちした。が、人々をかきわけると、ぬっと出た。

「おい、丑松」

 入口から声をかけられて、ひょいと顔をあげた丑松は、とたんに、喜色をみなぎらせると、今までの神妙さはどこへやら、太股(ふともも)はだけて大あぐらをかいた。

 群衆は、ざわめいた。

「おう、見ねえ、あの巾着切、居直ったぜ」

「あのお坊主が今、なんとか松と呼んだろう。松に坊主じゃ居直らア」

「おや、そういやア、お前にこのあいだの花札で二分の貸しがあるぞ。そらとぼけやがって、こん畜生――」

 河内山は、会所に入ると、

「丑松、お前のような正直者が、なんで、また、こんなところへしょっぴかれたんだ」

「へい、旦那、きいておくんねえ。おいらくやしくて、くやしくて」

 丑松は、自分に都合がいいようにべらべら喋りはじめた。

「黙れ、下郎」

 田舎侍は、あまりの出鱈目(でたらめ)に、かっとなって丑松を足蹴にしようとした。

「おっと、待った。この男は、その腰の印籠が落ちたのを、親切に、ひろってやろう、としたんだといっているじゃござんせんか。ひろって、蹴られて(なぐ)られて、こんな不浄場所でさらし者にされたんじゃ、間尺にあわねえ。この男は、神田駿河台、中野播磨守のお厩者(うまやもの)で、正直一途の丑松という男でね」

「お坊主、拙者がこの男が掏ったところをとらえたのだ。よけいなお節介は止してもらおう」

 同心末永三十郎は、一歩前へ出た。

 河内山は、じろりと一瞥(いちべつ)くれて、

「ふん、この男が正直者で、巾着切とは縁のねえお厩者だ、と証人に立つのが、下谷練塀小路に住む直参河内山宗俊でもお前さんは、あくまで、掏ったといいはりなさるかね」

「えっ」

 末永の顔色がさっと変った。

 いっときのち、河内山は、末永や田舎侍や岡っ引どもを尻目にかけて、丑松をつれると、悠々と会所を出た。しかも、そのたもとには、会所頭取、浅草金竜山餅の竹村の亭主が、丑松の傷の治療代にとさし出した切餅ひとつを入れていた。

 ――うぬっ、河内山め。よくも恥辱をかかせたな。八丁堀の同心にも骨のあるやつがいることを今に思い知らせてやるぞ。

 末永三十郎は、会所頭取になだめられてこの場は忍耐したものの、肚の(なか)で、いつか必ず、河内山の尻尾をおさえる決意に燃えたのであった。

 

     六

 

 河内山が、日本橋室町の森田屋清蔵をたずねて行ったのはそれから四五日後であった。

 その店は、大通りの目貫きの場所に構えられ、土蔵造りの宏壮な建物であった。

 会ってみると、森田屋清蔵は、意外に地味な、唐桟留に花色繻子の帯を貝の口に結び、前垂かけたいでたちで、一見吉原などとは縁のない物腰であった。しかし、河内山は、かねて想像した通り、対坐してほんのしばらくすると、じんわりと威圧してくる相手の貫禄を見てとって、終日薄暗い暖簾がけの店の中で客を相手の世辞追従に満足しているただの町人でないとにらんだ。

「ところで、森田屋さん、おねがいというのはほかでもねえ三千歳の一件でござるが、河内山はごらんのとおり大奥づとめも病気と称してめったに上らねえ不作法者、ざっくばらんに申上げるが、じつは三千歳はあっしの家にかくまってある」

「ほう」

 森田屋は、一向におどろいた様子もなくうなずいた。

「ところが、この河内山、目下のところ手元不如意で、身請の金など五十両も出来ねえときている。ただ情夫(まぶ)の片岡直次郎と生命がけで惚れあっているいじらしさに、ひと肌ぬごうという気になったんだが、思案の果てが、これアひとつどうでも、森田屋さん、お前さんに、懸引なしで膝を割っておねがいするよりほかはねえ、と結着がでた。……森田屋さん、河内山が、坊主頭をさげてのたのみだが、三千歳を、一年、かこっちゃくれまいか」

 森田屋は、河内山の視線をさけるようにして、膝のわが手を見ていたが、

「私に、大口屋の身請金を払え、と仰言いますので――」

「そうだ」

「しかし、三千歳をかこっても、手生けの花にしちゃならない、と仰言いますので――」

「その通り、さすがは森田屋さんだ、話は通るね。……ひどく虫のいいおねがいだが、この河内山の顔をたててもらいてえのだ」

 森田屋は、しばらく沈黙していたが、

「よろしゅうございます」

「承知してくれるか」

「たしかに――しかし、私も三千歳に手を出さないかわりに片岡さんも、むこう一年の間は、絶対にお会いなさらぬこと。これをお約束して頂きとう存じます。一年たったら、この森田屋が仲人になって、二人を晴れて夫婦にしてさしあげましょう」

「ありがてえ。片岡の方は、おれがきっと我慢をさせよう。森田屋さん、礼をいうぜ」

「なんの――、河内山さま、片岡さんには一年間の我慢料として、三百両さしあげましょう」

 ――見上げたものだ。これだけの器量をもった人物が、旗本の中に一人でもいるか。松平定信以後、藩屏(はんぺい)に人なく、大名どもが町人に首根っこをおさえられるのはむりもねえ。あと五十年もたたねえうちに、世の中は町人どもの手でひっくりけえされるぜ。そうなりゃ、公方(くぼう)の一身だってあぶねえものさ。

 河内山は、しみじみと、心で独語をもらしたことだった。

 ――しかし、これ程の人物が、吹けばとぶような直侍のゆすりに、なぜだまって百両も出したか、そいつがあやしい。

 その点を、くさいとにらんで、実は、こんな虫のいい相談をもちかけてみた河内山であった。

 悪党は悪党を知ることに素早い。河内山は、自分の直感に自信があったのである。

 ともあれ――、三百両をふところにして、練塀小路へもどってきた河内山は、直侍と三千歳を前にならべて因果をふくませた。

 

     七

 

 年が明け、伊勢屋稲荷に犬の糞、と江戸三名物の初午(はつうま)稲荷の祭もおわった頃――。

 根岸のある小粋な寮へ、一夜、賊が押込んだ。

 ……朱塗りの絹行燈に仄暗(ほのぐら)く照らし出された部屋は、金と粋にあかしてつくられていた。黒檀の床の間、唐わたりの墨絵の掛物、銀縁の火桶、春信、豊春、春章、歌麿らの浮世絵を散らした金屏風、銀の鶴をあしらった欄間、高いあじろ天井……。箪笥、櫛笥(くしげ)、鏡台、いずれも金銀づくしの蒔絵がほどこしてある。

 枕屏風をかこって敷かれた藤の花模様の京羽二重の蒲団がなまめかしくはねられ、一枚絵からぬけ出したような美女が恐怖におののき乍ら坐っていた。

 投げ島田のびんのみだれ、婀娜(あだ)な薄化粧の襟すじ、加茂川染の緋縮緬にいずれ名高い絵師の手になる墨絵を浮せた長襦袢(ながじゅばん)の膝が崩れて――。

 ぐっと生唾のんで、廊下との境に立って、この美女を見下しているふところ手の賊は旗本崩れ金子市之丞にまぎれもなかった。紬頭巾(つむぎずきん)もしていない無造作さである。

 無言で、一歩、ずいと入った。雪駄(せった)のままである。女は眼も唇も肩も膝もふるわせた。

 憮然として、あたりの華美豪奢な調度を見まわした金子は、

「女、ごうぎな妾宅だな。おめえの旦那は札差か」

 頬の殺げた凄愴な風ぼう(=難漢字)がにやりと崩れた。その眼光の鋭さに、女は、うなだれた。

「女のいのちの髪を切って、わが子の正月の晴着を買う旗本の女房もあれば、十数両の縮緬を寝まきにする町人の妾もある。おめえのあたまの、その黒鼈甲(くろべっこう)(かんざし)一本で、おれたち貧乏旗本の世帯は一月もつというものだ」

 女は、ふたたび顔をあげて、男を、じっと(みつ)めた。

 なぜか、こんどは、金子市が視線をそらす番だった。そして、枕元になげ出された、みだらな絵草子へ眼を落した。

「お金は、あの鏡台の抽斗(ひきだし)に入っています。とったら、さっさと帰ってくんなまし――」

 これをきくや、金子市の表情に、さっと狂暴な殺気が走った。

「なんだと――。五百や千の端金は、奪られたってかゆくもねえ、といった面しやがったぜ。それが気に入らねえ」

 金子市は、寝具の端を、ぐいっと雪駄でふみつけた。

 女は、極度の恐怖に、ひいっとかすかな悲鳴をあげた。

「やい、おめえは花魁あがりだな。身を売った野郎の中にゃ盗ッ人もいたろうじゃねえか。びくびくしやがるな」

 金子市は、いきなり雪駄を、女の膝のあいだへ割りこませるや、ぱっとはねた。

 女は、あっとのけぞり……紅裾が空に散り、純白の下肢は左右におしげもなくひらいた。

 金子市のギラギラとかがやく双眸は、もうけだものの焔に燃えていた。

 その翌日、めったに姿を見せぬこの寮の持主が、ぶらりとおとずれた。それは、森田屋清蔵であった。

 清蔵は、女――三千歳の部屋に入った時、ふと、足もとに落ちている一文も入っていない男持ちの財布を発見した。

「三千歳、お前さん、約束をやぶったね」

 穏やかな、それだけにうす気味わるい口調だった。

 気分がわるいと臥っていた三千歳は反射的にはね起きた。

 財布をつきつけられた三千歳は、弁解もなく蒼ざめた。

 森田屋が、黙って立って廊下へ出たとたん、はっとわれにかえって、

「待ってくんなまし」

 と、声をかけたが、もうおそかった。

 森田屋は、寮を出ると、まっすぐに練塀小路へ駕籠を走らせた。

 

     八

 

「河内山さま、片岡さんは、約束をやぶって昨夜、三千歳のところへしのび入りました」

 森田屋は、河内山をまっすぐに見据えて、口をきった。

「え――」

 河内山は、大きく瞳をひらいたが、すぐ膝に両手を揃えて、

「面目ねえ、森田屋さん。……河内山、はじめて人に詫びをいう」

 と、頭を下げた。

「河内山さま、お約束が反古(ほご)になったからにゃ、森田屋は、あの三千歳を、もう一度吉原へたたき売りますよ」

「うむ」

「では、これで――ご免下さいまし」

「ちょっと待った、森田屋さん。ききてえことがある。この河内山宗俊を、ぐっとおさえてぐうの音を出させねえ、その貫禄は――どうやら、おめえさん、ただの前掛あがりじゃねえとにらんだぜ」

 森田屋は、こたえなかった。

 一瞬、四つの瞳が、すさまじい火花を散らした。

「おめえさん、これか?」

 河内山は、いきなり人差指をまげてみせた。

「ははははは、まアそんなところ――実は、私は、唐人船の盗品抜荷買です。と、こう打明けましたからにゃ、以後、御泥懇(じっこん)にねがいたいもので――。と申しますのも。かねてからあなたさまの小気味のいい悪党ぶりにすっかり惚れこんで居りましてね、できることなら、お近づきになって、いずれ、中野碩翁さまにもお目通りできるようおとりなしをしていただきたいものだ、と考えて居りました」

「よかろう、森田屋、よろこんで兄弟分のつきあいをしようじゃねえか」

「有難うぞんじます」

 河内山は、森田屋を送り出すと、すぐ、直侍を呼びに下男を走らせた。

 直侍が何事だろうといそいで入ってくるや、河内山は、物も言わずに、その頬げたを擲りつけた。

 直侍は、ぶざまにのけぞった。

「な、なにをしやがるんでえ――」

「わけはてめえの胸にきけ。うぬのような下司(げす)たア、今日かぎり、兄弟の縁をきるぞ。この後、そのなまず面をおれの前へ出しやがってまごまごしやがると承知しねえぞ」

「ま、待ってくれ。お、おれがいったい、な、なにを――」

「おう、直! てめえ、この河内山がだませるとでも思っているのか。白ばくれるのもいい加減にしろ。いいか、何も言わずきかずに縁をきってやるのが、せめてもの慈悲だ。ひと言でも泣言ほざくと蹴殺すぞ! さ、とっとと消えうせろ」

 と、はきすてておいて、河内山は、袋戸棚から、例の雛をとり出すと、さっさとおもてへ出て行った。

 直侍は、狐につままれたような腑ぬけた顔で、しょんぼりもどって行くよりほかはなかった。

 しとしと降りはじめた雨の中を、蛇の目の傘をさして河内山の出かけた先は、すぐ近くの御成道の質渡世(とせい)池田屋であった。

 雨のためにあたりはほの暗かったが、軒さきに灯を入れるたそがれにはまだ早いのに、池田屋は大戸をおろして、暖簾をひっこめていた。

「おや、今日は彼岸にゃちげえねえが、一家そろって仏事供養でもあるめえ。それとも、亭主、番頭づれで六阿弥陀詣(ろくあみだまいり)にでも出かけたか」

 と、いぶかり乍ら、戸をたたくと、しばらくして内から、

「ええ、まことに申しかねますが、少々取込みがございまして、今日は休ませて頂きました。明日におねがい致しとう存じます」

「おう、おれは、河内山だ。すこし急ぎのおねがいがあってやってきたんだが、それよりも、その取込みごとは、いってえ、なんでえ?」

「ああ、河内山さまでございますか。ただ今、開けましてございます」

 河内山は、ひらかれた大戸のくぐりから中へ入った。

「河内山さまなら、ご用命をうけたまわりましょう」

 日頃親しい番頭が、上へ招じた。

「それより取込みごとたアどんなことだ。大戸をおろす程なら――誰か、頓死でもしたのか?」

「いえ、まだ死んだのじゃございませんが、明晩までには、一人死ぬことになりまして――」

「妙なことをいうじゃねえか」

「へえ、実は、さっき、てまえどものお嬢さんが腰元にあがって居ります雲州さまの上屋敷から、おつかいがまいりまして、お嬢さんをお手討ちにするから、明日の夕方、不浄門から、死骸を受取にまいれ、というご通知なんで……大さわぎを致して居る次第でございます」

「なんだと――あの可愛らしい菊野をお手討ちだと――いってえ、菊野が何をしでかしたというんだ。色男でもつくったのか」

「へえ――まア、そうなんでございます」

「ふふん、あれくれえのべっぴんじゃ、家中の若侍どもがすててはおくまい。果報者はなんて野郎だ」

「殿さまづきの、お小姓須崎(かなめ)とおっしゃる方でございます」

「不義は御家の御法度――というわけだろうが、ふん、あの雲州はきこえた助平じじいでな、そりゃ、きっと菊野に手を出してふられたぜ。そこで、痛い目にあわせて、色男の名をはかせて、腹癒せに、お手討ちということになったんだろう」

「その通りでございます。明日お手討ちにするとご通知を下さいましたのは、親の方から娘に、殿さまの意にしたがうように因果をふくめよ、というなぞではないか、と只今相談して居りました次第で――」

「べらぼうめ! そんな因果をふくめる必要はねえ。おい、この一件は、河内山が引きうけたぜ」

「え――それじゃ、あなたさまが――」

「おう、河内山が引きうけたからにゃ、安心しろ。そのかわりたのみがある」

 河内山は、風呂敷包の中から、雛をとり出して、

「これで三百両貸してもらいてえんだ」

「お安い御用でございます。……これはまた、見事なお雛さまで――」

「うむ、下手にとりあつかったら、首のとぶ険呑(けんのん)な雛だ。――で、三百両はすぐに、日本橋室町の森田屋へ、とどけてもらいたい。直侍がお約束をやぶりましたので、我慢料三百両を河内山からお返し申します、といってな。

……さ、いそがしくなってきやがった」

 ひさしぶりの、いやどうやら一世一代の大強請の一幕を演ずる計画を、またたくうちに脳裡にはりめぐらせた河内山は不敵な微笑を(たた)えて、すっくと立ちあがったのであった。

 

     九

 

 ちょうどその日――。

 金子市は、湯島の蔭間(かげま)茶屋の二階で寝ころんでいた。心中にどんよりよどんだ泥のような虚無感に堪えて、もう小半刻(こはんとき)も身じろぎもしない。時おり、化物屋敷のようなわが家の奥座敷で、女の児に何か喋ってきかせ乍ら繕い物をしているやつれた妻の姿が掠めて、ずきりと胸が痛む――。

 窓から通りがかりの女をひやかしているらしい酔っぱらった丑松のだみ声がどこかでしている。

「こう……姉ちゃん、そんなにいそいでどこへ行くんだ。ひとつ、そこらで、けっつまずいて、へそのあたりまで見せてくんねえ。……なにをッ、情夫(まぶ)にしか見せられねえと。きいた風な口をきくねえ。情夫のできる面かえ、面を見ろ、面を――鼻べちゃ……。

  向う通るは、馴染じゃないか

  尻がよう似た、でっ尻が

  よしてくんな、人ちがい

  へっへ……

  尻に帆かけて、ひゅら、ひゅっひゅ、だ。……」

 それっきり、丑松の声がやんだ。

 金子市は、ふっとまぶたをひらいた。

 今までの酔いをどこへけしとばしたのか、丑松がひどく狼狽(ろうばい)して白い眼つきで、そわそわと戻って来たのである。

 丑松が、冷水を一杯ぐうっとひと息に飲んでどうやら気を鎮めたのも、束の間、廊下に無言で立った男があった。一見して、やくざ者と知れるいでたち、眼つきであった。

「丑、さがしたぜ。小田原の(たつみ)一家の仙太郎だ」

 丑松は、仏頂面をそむけてこたえなかった。

「おめえに殺された佐吉の弟分のおれが、三年ぶりに挨拶に来たんだ。つきあってもらおうじゃねえか」

 丑松は、こまかくふるえる手で猪口をつまんだ。

 ――なアに、金子市の旦那がついている。

 金子市の起き上がる気配をうしろに感じ乍ら、丑松は、強いて自分を落着かせようとした。

 だが――。

「巽一家とやら、つきあいたいのなら、ここでもよかろう。それともわしが邪魔なら消えてもいいぞ」

 と、金子市は、にやりとした。

「へ、有難うござんす」

 やくざ者も、会釈して、にやりとした。

 丑松の両眼だけが、みるみる恐怖の色を散らした。

 刀をひろってのっそり立ちあがる金子市に、丑松は、哀訴を湛えた惨めな眼で(すが)った。

 金子市が廊下へ出てみると、仲間らしいやくざ者が三人、障子のかげで鋭い眼を光らせていた。

 けたたましい物音が、階段を下りて行く金子市の耳にひびいたが、彼の無表情になんの変化もなかった。

 それからいっときの後。

 金子市の姿は、下谷広徳寺前の片側町に見出された。

 人通りの稀な寂しい界隈だった。

 次第に強く降ってきた雨を、傘でななめに受けた金子市の顔は、蛇の目の青い色を映して一層暗く、とがっていた。

「金子市ではないか」

 すれちがおうとして、ふと立ちどまった若い武家の眼眸には、むかしとあまりに変った金子市の容貌に人違いではないかという疑いがただよっていた。

「む――」

 金子市は、横をむいた。

「やっぱり、そうか」

 身なりも恰幅も金子市と対蹠的(たいしょてき)に立派な相手は、無遠慮にまじまじと(みつ)めた。

「ずいぶん久しぶりだったな」

 それにも、金子市はこたえず、あるき出そうとした。

「金子――」

 こんな男ではなかった、と相手は、急に、金子市の風体へ無遠慮な侮蔑の視線を投げた。それが金子市の(かん)に、ぴりりっとさわった。

「どうしているのだ、近頃は――」

 金子市は相手にはっきりわかるように、ふふん、と冷やかに鼻をならした。

「貴公、市井無頼の博徒と交っているそうだが、まことか――いかんぞ、三河以来の由緒ある門閥に生れて、それでは父祖の墓碑に泥を塗るというものだ」

 ――この男は、むかしからすぐ昂奮して説教するくせがあったが、相変らずだな。

「博徒と交れば食えるのでな。この貧乏人の根性は、大身の貴公にはわかるまいて――」

「なに――」

「ふふふふ、貴公は、千五百石大事につとめをはげめばよかろう。おれがどう生きようと、いらぬお節介だ。もっとも、一()百牝(ひん)膃肭臍(おっとせい)のような公方の天下もあまり長くはなかろうが――」

「金子! 拙者と勝負する気か!」

 道場で、一頭地を抜いて並び称された二人であった。

「神道、貴公は真剣を交えた経験があるか」

 金子市は、傘をふかめにさしたまま、静かに訊ねた。

「言うな、無頼の徒隷(とれい)相手の刃物三昧を誇示しようとする心根が哀れだぞ」

 金子市は、相手の背後の、雨に煙った寺院の黒い屋根までも視野にとどめて、無気味な凄い瞳を据えて立っていた。

 神道は、傘をぱっと脇へなげすてると、腰を落して身構えた。

 「行くぞ!」

 全身の筋肉が一点に凝集した。

 雨の色よりも薄く刀身が(ひらめ)き――つき出された傘がさっと裂かれた。とすでに、一歩退いた金子市の手には、ぴたりと正眼に抜きはなたれていた。

 二人あまりの通行人が仰天して、泥道に釘づけになった。

 やがて、大江戸は、夜に入った。

 わが家への道を辿り乍ら、金子市の脳裡には、首を曲げ、膝を折って、どさっと泥土へ崩れる瞬間の神道の姿が、こびりついてはなれなかった。さしてる傘は神道のものである。

 ――斬るのではなかった。

 斬ってよい愚劣な旗本は山ほどいる。神道のような生一本な武士は数えてもすくないのだ。

 己よりたしかに四つ年下であった。

 偶然、三年ぶりに自分に出会しただけで、洋々たる将来を一瞬にしてうしなってしまったのだ。いつどこで死んでもいい屑の人間である自分に出会したおかげで……。

 金子市は、神仏をあざ嗤いたくなった。

 二十日も戻らなかった屋敷へ入ると、雨にうたれた荒れ放題の庭や古ぼけた玄関のたたずまいを、妙になつかしくおぼえたのも常にないことだった。

 玄関には鍵がかかっていた。台所へまわると、水口の戸は開いていた、屋内は、暗闇だった。

 ――彼岸の墓詣りに行ったか。

 手さぐりで、奥座敷へ――襖をすっとひいたとたん、金子市は、(ぎょ)っと立ち辣んだ。

 闇の中からいなずまのように頭へきた戦慄があった。

 夢中で灯をさがした。燧石(ひうちいし)を幾度も切り直しつつ、金子市は、はじめて部屋に()めた死臭をかいだのである。

 女の児は夜具にくるまって寝顔そのままだった。その枕元に、膝をしばって妻は伏していた。

 二十日前に、自分が出掛けようとした時、子供が、しきりに頭痛を母親に訴えていたが……それを記憶に(よみがえ)らせたのはよほど時刻を経てからだった。この世でたったひとつの希望であった子をうばわれて、母は生きて行く気力をうしなったのだ。長い長いあいだ、黙然とうなだれていた金子市は、やがておもむろに腹をくつろげ、抜きはなった脇差を手ぬぐいで巻いて右手に掴んだ。

 

     十

 

 あれから一年半たった今日――。

 伝馬町の牢屋敷の、とある古びた座敷に、ただ一人坐って、来るべき時を待っている河内山は、

 ――思えば、あの雲州邸の玄関先での大見得が、おのれの生涯の華であったな。

 と、いっそなつかしく思い出す……。

 あの日、河内山は白綾の小袖、三十四(ひだ)の緋の法衣の金襴の袈裟をかけ、水晶の数珠を(つま)ぐりながら、飴色網代(あめいろあじろ)の切棒駕籠におさまり、先供、籠脇の青侍がそれぞれ二人、それに長柄の傘、挟箱(はさみばこ)、草履取、杖持、合羽籠など総勢十三人――いずれもたくみに化けた鶏鳴狗盗(けいめいくとう)をひきつれて、まことしやかに雲州邸へのりこんだのであった。

 ふれこみは、

「上野一(ぽん)親王宮の御使い凌雲院(りょううんいん)大僧正」

 である。

 河内山は、松平侯に対面するや、眉毛一本動かさず、いきなりずばりと、

「法親王の思召(おぼしめし)なれば、下谷御成道池田屋の娘菊野を、すぐ親許へお帰し下さるよう――」

 といいはなったのであった。

 松平侯は、宗俊の高圧的な気勢に圧されて、思わず、

「はっ」と、頭を下げたのであった。

 やがて、斎料(とき)五百両をせしめて、しずしずと玄関さきへ出た時、かねて見知りごしの供頭遠藤佐十郎が見つけて、重役の三浦和泉に耳打ちした。

 三浦は、前後の思慮なく、

「河内山宗俊、待てッ!」

 とあびせかけた。

 ――きやがったな。ぐっと丹田に力をこめた河内山は、一度はとぼけてみせ、(とぼ)(おお)せないと知るや、ぱっと法衣をまくって、どっかと大あぐらをかいた。

「こう――おいらが、御数寄屋坊主の河内山宗俊なら、いってえ、どうしようというんでえ。かねて馴染の池田屋が、娘を手討ちにされるとおろおろしているのを見うけて、黙ってすっこんじゃいられねえ性分から、頭の丸いのを幸いに、東叡山寛永寺の御使い僧に化けて乗り込む肚をきめた時から、生命はすてる覚悟はできているんだ。だが、かりにもあいつが河内山かと人に指さしされるように名を売ったこの悪党が、ただで命をすてるものか。これでも天下の直参だぜ。白洲で申しひらきをたてる時にゃ、松平出雲守の城を抱きこんで心中してやる方寸だぐれえ、おい、てめえたちにゃ見ぬけねえのか。三十俵二人扶持が、二十万石と心中するんだ。こいつをそっくり芝居にくんで、団十郎に()らしてみねえ、中村座の鼠木戸まで客があふれて、やんやの大喝采だろうぜ。……おう、がん首ならべやがって、どいつもこいつも、両国の花火を見るんじゃあるめえし、なにをポカンと口をあけて待っていやがるんだ。百足(むかで)が毘沙門の御使い、鼠が大黒天の御使いになれるくれえなら、坊主の河内山が、寺の御使いになってなんのふしぎはねえ筈だ。それを、四の五のぬかしゃがって、奉行所へつき出そうというなら、それもこっちののぞむところだ、さアつき出してもらおうじゃねえか」

 と、きりまくった自分の啖呵(たんか)が、今でも、河内山はわが耳に小気味よくひびくのだった。

 とどのつまり、凌雲院の大僧正とみとめさせて悠然とひきあげたあの日を絶頂に、河内山の運命も、目に見えて下り坂になったのである。というのも、老中水野越前守が、次第に為政の実権を手中にたぐりこみ、中野碩翁の影がうすくなったからであった。そして――どこから露見したか、突如、捕吏が池田屋を家宅捜索して、例の雛を発見した時、河内山はわが身の悪事がことごとく調査されたのを直感した。

 捕えられたのは、それから一月もたっていなかった。

 だが今、こうして、断罪を待つ河内山は、微塵の悔もなかった.

 襖が、しずかにあけられた。菓子器をたずさえて入ってきた同心を見やった河内山は、どこかで見うけた男だが、ときらりと眼を光らせたが、思い出せなかった。それは、浅草の会所で丑松をつかまえた末永三十郎であった。あの時のうらみをはらさんものと、あらゆる苦心をはらって、河内山の悪事の詮議、証拠がためをしてついに、大奥から雛をぬすみ出した件までつきとめたのはこ

の同心である。

「これは、中野播磨守さまが、内々に貴公におくられた塩瀬の饅頭でござる。召上られるよう――」

 これをきくや、河内山は、あやうく、

「なにをほざきやがる。うぬは、この河内山の目玉を節穴だと思ってやがるのか、見そこなうねえ」

 と、どなりかけたが、――待て、と(こら)えた。

 ――知っていて知らぬ顔で食うのが、江戸ッ子の心意気というものじゃねえか。

「有難く頂戴いたしやしょう」

 河内山は、にんまり笑って、その毒饅頭へ手をのばしたのであった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/10/26

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

柴田 錬三郎

シバタ レンザブロウ
しばた れんざぶろう 小説家 1917・3・26~1978・6・30 岡山県生まれ。戦後「日本読書新聞」再刊に奔走し、間もなく文筆生活に入る。カストリ雑誌に読物、また少女小説など書きまくった後、「デス・マスク」で芥川賞候補、「イエスの裔」で第26回直木賞を受賞。昭和31年より「週刊新潮」に「眠狂四郎無頼控」を連載し剣豪作家としての地位を確立した。

掲載作は「オール読物」昭和27年7月号初出、原題「真説河内山宗俊」、『柴田錬三郎選集』(集英社 平成2年5月)より。

著者のその他の作品