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艦底

   

 

 春頃、進水式を挙げた二等巡洋艦××号の艤装(ぎさう)工事が、夏に入ると急に忙がしくなつた。職工等は寄ると障ると、近い(うち)にいよいよ戦争が始まると、物の()でも近づくやうに噂し合つた。黒い羅紗服(らしやふく)を着た組長や、黒服青ズボンの伍長等は、前の戦争時分、乗込んだ工作船のことを思ひ出して、食後の休憩時間には必ず上甲板(じやうかんぱん)に集つて工作船の利益と興味とを語り合つた。

 昼飯後、上甲板に費やす十五分か二十分は、艦底の格納庫の艤装工事に廻された安田には、何ものにも替へ難い楽しい時間だつた。上甲板には、マストと煙筒の立つべき大きな穴が、幾つか開いて居る()りで、まだ砲塔も、艦橋も、欄干もなく、敷き詰めた木材は泥に(まみ)れて、黒いチャンは汚ならしく流れて固まつて居た。

 安田は、烈しい日光を(さへ)ぎる物蔭さへも無い、その上甲板に横たはつで、脚気(かつけ)(しび)れる足をさすりながら、艦長室や士官室の艤装に廻つて居る連中の話に聞き入つて居た。

「工作船へ乗つて、金が残らねえなんていふ奴ア、(かかあ)がダラシが()えか、手前(てめへ)賭博(ばくち)が何より好きか、どつちかだ。」

賭博(ばくち)流行(はや)るネ。何しろ工賃は二倍でよ、(あご)は向ふ任せでよ、小遣ひだけ残して置いて、後はみんな家へ送つてやれアいいんだからナ。」

「処で、(あて)がひ扶持(ぶち)(ほか)にや、食ふ物も飲む物も無し、それに一番毒な女つ気は更に無しと来てるんだから小遣ひを使ひたいにも使ふ途が(ちつ)ともありやしない。」

「でもよくしたもんだ。大抵は(かかあ)がダラシが無くつて、手前が賭博(ばくち)好きと来てるから、幾ら取つたつて残りつこ()えや。」

 全くだ! と云はぬばかりに、彼等は声を立てて笑つた。

 工作船の話の出る度に、安田は皆な工作船に乗組んで(しま)つて、自分のやうな子供達ばかり工場に残つたら、後は一体どうなるだらうと、何時(いつ)も不安の念に駆られるのであつた。

「お前だつて工作船に乗れるとも、木工部は一人残らず乗組むんだから。お前なんざ何処へ送るつて処もなしよ、一年も乗つて見な、金が残つて仕様が無えから。」

 一度、不安の余りソット尋ねた安田の顔を眺めて、笑ひながらかう云つた伍長の(ことば)さへも、彼には冷かしのやうに聞えて、心細くて堪らなかつた。

 幾棟となく打ち続いた、造船廠の黒い亜鉛(トタン)屋根の工場と、構内の赭(あか)く焼けた地面と、製鑵部の煙突から湧き出る黒煙と、それ等をとり巻いて深く|湛(たた)へて居る紺碧の海水とは、正午頃の直射する烈しい日光に包まれて、乾燥した大気の底に銀のやうに輝やき、そしてピリピリ顫動(せんどう)して居る。安田は始業の鐘の鳴るまで、吃水線(きつすゐせん)を高く海面から現はして、膏薬(かうやく)でも張つたやうに、処斑(ところまだ)らに醜く塗られた艦体を、船渠(ドック)部に近い海上に浮べて居る××号の上甲板から、夢みる如く此の景色を俯瞰(ふかん)して居た。

 

   

 

 艙口(ハッチ)を降りて中甲板に行くと、明り取りの小窓から、かすかに日光がさし入つて、丸いガラスの窓蓋には、日光に照された波がギラギラと反射して居る。そこの暗い蔭には、脚気で仕事の出来ない職工達が、幽鬼のやうな蒼い顔をして、(ふくら)んだ脚を投げ出しながら、組長に乞うて座り仕事をさして貰つて居る。更に艙口(ハッチ)を下甲板に降りると、狭い艦底は、幾室にも防水区劃が分れて居て、(おほむ)ね格納庫に()てられてある。艦底の艤装工事に当つたものは、皆そこを「穴蔵」と呼んで居る程で、真夏の日光は艦側の厚い銅鉄板を火のやうに灼き、艦底はまるで蒸し殺されるやうな暑さである。そしてゴミ屑と一緒に、凹処(くぼみ)に溜つた水は、腐敗して悪臭を発して居る。それに蝋燭(らふそく)の光りを便りに仕事をして居るので、毒ガスのやうに立ち上る油煙(ゆえん)は、身を(かが)めねば歩けぬ程狭い艙内(さうない)の職工等に、窒息するやうな苦痛を与へた。下甲板には、艙内に空気を送る為に、二三台の電気扇が取付けてはあるが、僅かに生温い、熱臭い、重く澱んだ微風を、無理に四方に押し流すに過ぎなかつた。

 安田は、棚の鉄板をとり付ける為に、毎日ハンドボールで艦壁に穴を穿(うが)つて居るのであるが、此の「穴蔵」に於ける唯一の快楽といふのは、(きり)が折れるとそれを一纏めにして、一番近い船渠(ドック)部へ取替に行く事であつた。彼はすこし仕事に()んで来ると引つかかるのも構はず、水を付けずに錐をまはして、ワザと早く折れるやうにした。そして日に幾度となく、波に全身を(ひた)されて、孤島に打ち上げられた難船者のやうに、汗でビショ濡れになりながら、這ふやうにして上甲板に上つて来た。其処でしばらく舌を刺すやうな、潮の香の強い、冷めたい空気を心の儘に吸つては吐くのが、彼にはどんなに楽しみだか解らなかつた。それから船渠部の工場に行つて、新しい錐を揃へて貰ふ間、親しい橋場と、大人の眼を(ぬす)んでは話し合つた。

「見や、あの野郎また来て橋場とコソコソ話して居やがらア。」

 離れて働いて居る職工達が、冗談半分によくかう罵つた程、彼等は人眼を忍ぶ若い恋人同志のやうに話し合つた。

「工作船なんかへ乗るもんぢやないヨ。皆な賭博(ばくち)をしたり、喧嘩をしたり、恐ろしい事ばかりして居るんだぜ。」

 橋場は潤んだ、考へ深さうな眼をして、安田を見詰めながら云つた。そして(やすり)で錐の頭を尖らしながら、絶えず咳をして居る。安田はこんな透き徹るやうな顔色をした、弱々しい少年が、如何(どう)してそんな事を知つてるんだらうと怪しんだ。

「それア、工賃だつて倍も取れるさ。だけど工作船は戦地へ行くんだぜ、もし敵弾が当つたら如何する?……。そんな時ア君、如何する?……。僕アいつでもさう思ふんだ、戦争だの、喧嘩だの、怪我だので死ぬなんて、ホントに厭だ。僕は静かアに、誰も居ない処で、自分独りで色んな事を思ひながら死にたいんだ……。」

 安田は橋場の話を聞いて居る(うち)に、苦しいほど胸が迫つて来た。橋場の蒼白いやせた顔を見たり、絶えずする咳を聞いて居て、そしてかういふ話を聞くと、明日にも橋場が静かに、誰も居ない処で、独り色んな事を考へながら死にでもするやうに想はれて、堪らなく悲しくなるのだつた。

「だつて君、工作船へ乗る者が、さう恐ろしい事ばかりするなんて、如何して知つてるんだ。」

 橋場は安田のこの問には答へないで、(かへ)つて安田に問ひかけるやうな事を云つた。

「だつて厭ぢやないか。あの××艦にしたつて、やつと立派に出来上つて、すぐ戦争に出たとするだらう。それが大砲だの、水雷だので、大きな穴が開いたり、マストが折れたり、煙筒が裂けたりして、引き返して来たとして見給へ。君、平気でそんな(むご)たらしい傷が癒せるか?……」

 二人は眼を上げて、丘陵の(よこた)はつたやうな××艦の姿を眺めた。大きなクレーンを掘ゑ付けた船は、赤く塗つた長いマストを艦上に曳き上げようとして、ズック製の油じみた、ダブダブした上衣を着た数十名の職工等は、艦上から太い綱を曳いたり、叫んだり、()せ廻つたりして居た。舷側に吊り下げた板の上に腰をかけて、艦側を塗つて居るものもあつた。赤や白のペンキの色が、四角だの、六角だの、いろいろな形に、汚なく、大きく、艦体を(いろど)つて居た。

「もうぢき、砲が据ゑられるネ」

 安田はかう云つて橋場を顧みた。上甲板には、砲塔を据付ける職工に交つて、作業服を着て、巻尺を持つた海軍士官が、立ち働らいて居た。艦側に開いた砲門から半身をのり出して、ハンマアを(ふる)つて()けた(びやう)を打ち込んで居る、乱髪半裸の労働者もあつた。

「もう半月たつて見給へ、灰色に塗られた、立派な軍艦が出来上つて(しま)ふから。だけどたつた一発、彼処(あそこ)に水雷をくつて見給へ、あの大きな艦体も、大砲も、人間も、皆な海の底へ沈んで了ふんだからネ。それア、五分と経たない(うち)ださうだヨ。」

 橋場はかう云つて、赤く塗つた吃水線を指した。その大きな、深い海のやうな色をした眼には、深くものに驚いた少年の心が映つて居た。

 

   

 

 晴れ切つた、暑い日は幾日となく続いた。

 長く一列に並んだ職工の群は、重い鉄板を載せて行く荷車が通る度に、舞ひ上り立ち登る、黄色な、熱い埃に(むせ)んで居た。

 列の中ほどに安田も交つて、健康診断の順番の廻つて来るのを待つて居た。彼は脚気がまだ()くならない上、心臓も幾らか悪いと見えて、(すこ)し働らいてもすぐ息切れがしたり、動悸がしたり、時には呼吸が一時に止つて了つたかと思はれるやうな、烈しいショックを胸部に感じて、ハット立ちすくんで了ふ事さへあつた。単調な、そして苦しい「穴蔵」の仕事は相変らず続いては居たが、彼の唯一の楽しみであつたハンドボールの仕事は無くなつて了つたので、今はもう前のやうに、自由に日光を浴び、空気を呼吸することも出来なくなつた。それ(ばか)りでなく、毎日毎日ほとんど日課のやうにして居た橋場と会ふことさへも、今は全く絶えて了つて、電気扇の熱臭い微風と、暗黒の中に毒のやうに油煙を吐く蝋燭の(あか)りと、溜り水と塵芥との腐れ合つた悪臭と、間断なしの単調な労働とのみが、終日、彼に附き纏つて居る友となつた。      

 安田の後には足を水腫病者のやうに脹らして、黄色い、光沢(つや)の無い顔色をした一人の職工が、青竹に(すが)つて立つたり、シャガンだりして居た。脚気患者は大抵、青竹や杖に縋つて造船廠の門を潜つては、組長だの伍長だのに泣くやうにして頼んで、容易(やさし)い座り仕事をさせて貰つて居た。安田は(くび)を伸して列の後を見渡した。すると、自分から十人許り後の処に、橋場が立つて居るのを見出した。

 橋場は今日は、いつもより殊に蒼白い顔をして、やせた頬は消耗熱の為にうすく(べに)でも刷いたやうに紅潮して居た。青服の胸を開けて、ポケットに両手をつつ込んだ儘、考へ深さうな眼を何ものかに向けて立つて居たが、その頸に巻いた汚れた手巾(ハンカチ)が、いかにも暑苦しさうに見えた。

「ハ……シ……バ……」  

 安田は両手を口の辺にかざして、小さい声で呼んだ。すると、吃驚(びつくり)したやうに此方(こつち)を向いた橋場は、いつものやうにニッと笑つた()りで、今度はまたヂーッと安田の顔を見詰めて居る。安田がまた頸を伸して何か云はうとした時、列はゾロゾロ動き出したので、後をふり返りふり返り人に押されて歩いて行つた。

 診察室は、守衛の控所を仮りに用ひたので、二人の海軍々医が一人一人を診察する傍では、一人の看護手が姓名を記すやら、病症を記入するやら、汗を拭く間もない位ゐ多忙を極めて居た。職工の健康診断は、一年に三回乃至(ないし)四回は必ず行はれる例で、年を追うて労働者に肺結核が増えるため、その有無を検査するのであつた。そしてもし、(すこ)しでもその徴候のある者は、その日から直ちに解雇されるのである。

「人を馬鹿にしてやがる。肺病だつて、心臓病だつて、好き好んでなつたんぢや()え。皆なここの仕事のお蔭だ。埃と(すす)を吸つて、十日もブッ続けて徹夜なんかさせられたお蔭だ。やめるんならやめるでいいから、此の病気を(なほ)して呉れ。女房や子の食へるやうにして呉れ。」

 さう云つて泣いて暴れる職工を、守衛等が笑ひながら引つ立てて行つたといふ一つ話を、安田はよく他の職工から聞いたことがあつた。

 やがて安田の番になつた。若い軍医は一と通り安田の体を診察終(みをは)つた後、指先で半裸の体を押しやりながら、

(すこ)し心臓が悪いやうです……、それに脚気も……。」

 と云つて軍医長を(かへり)みた。

「肺は無いかネ、肺は?……でなきやいい、心臓は伝染せんからネ。」

 軍医長はふり向きもせず、一人の職工のやせた胸を、念を入れて打診しながら云ひ放つた。

 安田は青服に手を通しながら外に出た。彼は心臓が悪いと云はれても、脚気が悪いと云はれても、悲しいと思ふ様な感は些しもなかつた。只だ、「肺でさへなきやいい、心臓は伝染しやしないから」と云つた軍医長の言葉が無暗(むやみ)に癪に(さは)つて、平素は気の弱い彼も、どうされても構はぬ、ウンと罵つてやらうかと思つた位ゐ亢奮して居た。彼は泣いて暴れたといふ職工の事を思ひ出した。そして嶮しい眼をして硝子窓(こし)に軍医長を睨みながら、吾れ知らず「人を馬鹿にしやがる」と叫んだ。地上に大きな陰影(かげ)を劃して居る製鑵工場の棟を離れると、彼はもう何時だらうと思つて、港務部の時計台を仰いだが、やや傾いた太陽の光は、烈しく大時計の硝子に反射して(まぶ)しいばかりで何も解らなかつた。

 安田が一日の労働を終つて、××艦の舷上から陸地に架け渡した仮橋を渡つて来ると、(ちやう)船渠(ドック)部の工場の前に、橋場が此方(こつち)を見て立つて居た。

如何(どう)だつたい、今日の診察は?……軍医の野郎、随分人を馬鹿にした奴だらう?……」

 安田が息(ぜは)しくかう問ひかけると、橋場はいつもの様にニッと笑つて、

「僕はもう明日から工場へ来ないヨ、君とももうお別れだ……。僕の肺はもうすつかり腐り切つちやつてるんだつて、『こんな体をしてよく生きて居るナ』つて、軍医が驚いて云つたヨ。生きてる処か、毎日働らいて居るんだもの、ねエ……。」

 と云つた。そして更に声を上げて笑つたが、急に烈しく咳き出して、暫らく安田の肩につかまつた儘、絶え入るやうに苦しんだ。

「で、君はこれから如何するんだイ。」

 安田は橋場の体を支へるやうに、背後に腕を廻しながら静かに門の方に歩んで行つた。

「国へ帰らうと思ふヨ。僕はここへ来て、三年の間にこんな体になつて了つた。」

 肺が皆悉(すつかり)腐つて居るといふ恐ろしい事をさへ、平気で話して居た橋場は、急に沈んだ調子になつて、嘆くやうにさう云つた。

 

(大正元年十二月)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/02/01

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荒畑 寒村

アラハタ カンソン
あらはた かんそん 社会主義思想作家 1887・8・14~1981・3・6 神奈川県横浜市に生まれる。愛国主義に挫折しクリスチャンとなり、横須賀海軍造船工廠の木工部見習工を体験した少年は、のち堺枯川のもとで社会主義者に育ち行き20歳頃より小説も書き始めている。1908(明治41)年赤旗事件で検挙されるなど、大杉栄等とともに社会主義運動の終始主役として前線で活躍した。

掲載作は、1912(大正元)年、大杉とともに創刊した「近代思想」11月号に初出、この著者26歳当時は小説評論文藝時評等に筆を揮っていた。

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