邦子
結局、私が邦子を殺した事になるが、さう思ふ事は実際堪へられない。邦子が死んで私はその事ばかり考へて来た。私は私の愚かさを非難しても非難しきれないやうな気になつてゐる。然し只さう悔むばかりが能ではない。一体どう云ふ心持で邦子が自殺したか、私はそれを考へた。それは到底的確には掴めない。「誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない」ある自殺者の手記にもかうあるが、まして当事者ならぬ私にそれが掴めないのは当然だ。然し私とて文筆を業とする戯曲家である以上、只自分の愚かさをのみ非難し、悔恨の情に包まれてゐても仕方がない。私は私の不幸事(「邦子の」と云はず、
邦子は最初から気の毒な女だつた。幼時は乞食こそしなかつたが、殆ど乞食に等しい貧しさの中に育つたのである。私の長男が一昨年の春肺炎で死にかけた。その時、看護婦が非常によく子供の為めに尽して呉れた。邦子はその事に対する自身の感謝をどう現していいか分らずにゐた。そしてその全快祝ひの日に邦子は自身の一番大事にしてゐた真珠の指環を看護婦へ贈り、
「ねえ、いいでせう?
「お前の気の済むやうにするがいい」
「ありがたう。北村さんに、それを云ふわ。これはかう云ふ訳の指環だつてことを」
「そんな事は云はなくてもいい」
「いいえ、云ふの。それでなくちや私の心持が通じないから」
此時だつた。邦子は次のやうなことを話し出した。
毎夏大掃除の日には邦子は必ず母親と町へ出、家々の前にうづ高く積まれた
「こんな事を云つちや済まないんですけれど本統の事を云つてゐるのよ」邦子は云訳をしながら続けた。そして、彼女はそれを此上ない宝として大切にしてゐたが、僅か二三日して赤硝子を噛んでゐた洋銀の爪がゆるみ、玉を落して了つた。此時は泣いても泣いても泣き足りない
「こんな話は人には云へない事ですけど、私としては一生忘れられない事ですわ」
邦子が一人の肉親であるその母親に別れたのは十三の時だつた。その頃は手で廻す小さな機械でスコッチの靴下をあみ、生活も幾らかよくなりかけてゐたが、直腸癌で非常な苦しみをした挙句到頭母親は死んで了つた。邦子は子供ながらにいよいよ自分で生きて行かねばならぬ事を痛感した。十人並
私が邦子を知つたのは、夏だけ営業してゐる或山のホテルに邦子が働いてゐた時だつた。私は顔の美しい割に手のきたない女だと思つた。皿を出すその手が毎日気になつた。その手の指には
兎に角不即不離の気持で私は此女を見てゐたが、勿論いたづらな気持が全くなかつたとは云へない。私は.既に三十六で未だ独身だつた。さういふ男──女に対して不真面目に習慣づけられた男が恋愛なしに美しい女──殊に可能性のある女を見る心持はろくなものではなかつた。その御多分に洩れなかつたが、
或晩、私は仕事に疲れ、もう続けられさうもない所からそれを切り上げ──然し寝るにしては少し頭が
ホールから二三段登つて細い廊下になり、又降つて球場へ行くのだが、その廊下の左側に客がたて込んだ時でないと使はない客室が二間ある。その一間で低くはあつたが、男と女と何か云ひ争つてゐるやうな声がしてゐた。此所は球場へ行く以外人の通る所ではなし、その時間ではあるし、二人の男女は勿論無邪気な関係ではないらしく思はれたが、私も此所まで来ては急に引きかへす事も出来なかつた、それに云ひ争つてゐる調子が、拒む女を男が強ひてゐる感じなので、私は故意に普通の足音をたててその前を通り過ぎようとした。と同時に半開きになつてゐた戸を突き開け、
食堂へ出て見ると、どうしたわけかその朝は二人共ゐなかつた。そして他の女給の一人が、私の所へ皿を運びながら、私の顔を見て
若いボーイは、その朝、解雇され、山を下つたのだ。
昼の食事には邦子も姿を見せたが、私の所とは遠いテーブルを受け持ち、出来るだけ顔を合さぬ算段をしてゐた。食後茶をヴェランダへ運ばせ、其所で遠い山を眺めながら巻煙草を喫つてゐると、邦子は赤い顔をしながら近づいて来て、小声で、
「昨夜はありがたう
此事以来、私と邦子との間は
暫くして私達は同棲する事になつた。邦子は顔馴染の多い東京に住むよりは郊外に住みたがつたので、
それまで私は青山
二年程前、邦子は人の妾になつてゐたことがある。株屋の番頭で、最初
邦子の部屋の道具は大概揃つた。それらを見廻しながら、囲はれた家では、
「気を悪くしないでね。いいこと? 私はどんなに今、幸福に感じてゐるか、それが申し上げたいのよ。私、こんな幸福な心持つて今まで想像も出来なかつた」
私達は
婆やが不意に唐紙を開け、両方で困る事などあつた。
「いちやつきが烈しいから、うつかり開けられやしない」婆やは聞えよがしに云つたりした。
婆やと邦子との間はどうもうまく行かなかつた。婆やの家はもと
私と二人だけの時はそれ程の婆やではなかつたが、邦子が来て、それが急に変つたのは不思議だつた。女給上りを家へ入れたといふのを私の弱点かなぞのやうに考へ、私に対する態度まで何となく横柄になつた。それからそれは私の留守によくある事だが、「旦那様お一人の頃はかうだつた」と私の為に折角邦子が
私はこれまで世話になつた事は認める一方、かうなれば出て貰ふより仕方ない事をよく云ひ含め、遂に婆やを解雇した。
邦子は私達の生活に此上ない満足をしきりに現した。自分の生涯にかう云ふ幸福が来る事は全く予想しなかつた事を繰返して云つた。私も幸福だつたが邦子をそれ程幸福にしたと思ふ事が又幸福感となつて私に還つて来るのだ。私達の生活は甘い感じのものではあつたが、その甘さに私は皮肉な眼を向けようとは思はなかつた。
間もなく邦子は妊娠した。無事な日が過ぎ、男の児が生れた。産も至極無事だつたが、一ト月程すると邦子は身体の工合が少し本統でないと云ひ出し、医者に見て貰つたが、完全に下りたと思つた胎盤が、未だ幾らか残つてゐるとの事だつた。邦子はその為め一ト月
第二の児が生れ、平穏無事過ぎる幾年かが過ぎて行つた。邦子はそれを喜び
そのうち、邦子の幸福に一寸した
私に十程年の違ふ一人の兄がある。関西の或学校に教師をしてゐたが、或日私は兄嫁から直ぐ来て呉れと云ふ電報を貰つた。何事かと思つた。かういふ場合大概兄自身の名でいつも来るのが兄嫁になつてゐる点で不思議だつた。私は漠然とした不祥感を持ちながら、その晩の急行でたつた。
それは兄が
「私はね、何も嫉妬でいふんぢやないんですよ。お兄さんはそんなつまらん事をやくなと
「弱つたな。兄貴に怒られるなら分るが、
「だから、尚、角が立たなくていいと思つたのよ」
「それもさうだけど""然したしかにさういふ事実はあるんですね」
「そりやあ、何も現場を見たといふわけぢやないけど、それに決つてゐるのよ。兎に角、私は藤が大きな顔をして私達と一緒に暮してゐるのが腹が立つて仕方がないの。私がお兄さんに申し上げるのは藤との関係がどうのかうのいふんぢやないの。藤を直ぐ出して下さいと云ふのよ」
「兄貴がそれを承知しないんですか」
「ええ」
「多喜子は知つてるんですか?」
「どうですか。あの人は
多喜子といふのは兄の一人娘で今女学校の三年に通つてゐる。兄はそれを非常に可愛がつてゐた。
午後兄は学校を済まし、帰つて来た。そして私の来てゐる事を意外に思つたらしく「何時?」とか「何か用で来たのか?」とか云つてゐたが、間もなく兄嫁が私を呼んだといふ事に気がついたらしかつた。
私は兄嫁の依頼ではあるが、そんな事を直接兄に向つて云ふ気にはなれなかつた。
その晩私は多喜子を応接間に呼んでかう云つた。
「お前は今度叔父さんが来たわけを知つてるかい?」
「""""」返事に困つた多喜子は顔を赤らめ、横を向いてしまつた。
「知つてるらしいね。そんなら丁度いいが、お父さんに何にも云はず、只簡単に、(藤を出して下さい)と云つて御覧。お父さんは、(何故)とは
少し卑怯なやうに思つたが、その辺より仕方がなかつた。
そしてそれは私の予期通り成功した。私は兄の素直さに大変いい感じを持つた。兄は矢張り馬鹿ではないと思つた。
私は帰りの汽車で、此話を邦子にどう話さうか、
邦子が最初の産をして、入院してゐる間に私は其頃ゐた美しい女中と二三度さういふ
打ち明けるとも打ち明けぬとも決めずに帰つて来たが、結局私はそれを打ち明けて了つた。兄と自分と同じ血が流れてゐる、一方だけを云ひ、他方を隠してゐる事が如何にも感じが悪く、我慢出来なかつたのだ。
邦子は非常に驚いた。私等の一族を
「過ぎた事だからいいやうなものですけど、本統に私、がつかりして了ひましたわ。.貴方を信じ切つてゐたんですもの。男の方つて、どうしてさう云ふものかしら。お兄様でも貴方でもいい方なのにねえ。どうしてさう云ふ事をなさるんでせう。何だか世の中が白つちやけて見えるわ。そりやあねえカッフェーにゐた時には随分いろんな人達を見て来ましたけれど、さういふ人達はけだものと私思つてゐたのよ。そして貴方とお眼にかかつた時、さういふ人達とは
「もうよして呉れ」私は堪らなくなつて云つた。「それはお前の
「ああもう厭々。今までそんなひどい事を貴方からうかがつた事はない。それぢやあ、家庭の幸福なんて目茶々々ぢやあありませんか」邦子は身震ひして叫んだ。
「そのけだものが男は少し云ひ過ぎかも知れない。然し男にとつては第一に
「今まで貴方はそんな事
「云ふ必要がなかつたからだ。又余り自慢にもならない考だからだ」
「つまり悪い事だと、御自分でも思つていらつしやるんだわね」
「そりやあ、さうかも知れない」
「悪いとお思ひになるなら、これからは決してさういふことは遊ばさないでせう?」
「さう云ひたい」
「それをはつきり云つて下さらなければ、私安心出来ない」
「恐らくそんな事はないだらう。さういふ機会に対しては出来るだけ用心する」
「何だか
私は此場合、邦子のためにも「決して」と断言したいのだ。然し私の中の正直者に見張られてゐる感じで、どうも、それが口へ出て来なかつた。
「まあ、この位で我慢して呉れ。余り追ひつめると、又何を云ひ出すか分らないよ。
「大変な鼠があつたものね」
「かう云ふ問題では大概亭主は鼠だよ」
私は自分がこの事をもう少し早く気づいてゐたら或ひは邦子を殺さずに済んだかも知れないのだ。私のかういふ考は不真面目極まるものだが、一人の女をそれに依つて殺さずに済んだなら、それも悪いとは云へないだらう。
然し私は考ではルーズである割には堅かつた。邦子も私の現在にさういふ事のない事は信じてゐた。
そして無事な三四年が過ぎ、私は
私は前にも或時期少しも書けない事があつて、その時にはそれを
或批評家が、私のさういふ状態を作品の上から洞察して「好人物の平和」で終つては困るといふやうな事を書いた。私も同感だつた。私はそれを邦子に見せると、邦子は、
「好人物の平和だらうが、何の平和だらうが、余計なお世話ぢやありませんか。家庭の平和が困るといふ理窟は私には分らない」と云つた。
「好人物の平和」といふのは私の家庭の小事件をスケッチ風にまとめた一ト幕物で或劇団で上演した時、一部の者に評判のよかつたものだ。邦子は此批評家が、家庭的には何時も無事でなく、細君の他に愛人があり、この愛人の他に又別の愛人があるといふやうな話を噂で知つてゐたのだ。
「何も家庭の平和を破れといふのぢやない。俺が余り引込思案で独善主義に納まつて居る点を忠告してゐるんだ。俺に浮気をしろと勧めてゐると
「いいえ、それが
「馬鹿な事を云へ。他人に勧められてそんな事を同感する奴があるものか。兎に角お前にとつては、亭主が浮気をせず、子供達が丈夫で、家庭が無事なら、申分ない生活だらうが、男から云へばそれだけぢやあ困ると云ふ意味で俺は同感したのだ。実際近頃、俺の気持には変に弾力がなくなつた。何か、かうだらけ切つた空気に被ひかぶさられ、手も足も出ない感じだ。自然、味も
「為事の事をよく仰有るけど、これだけ条件がよくて、どうしてそれがお出来にならないんでせう。それが分りませんわ。子供達は丈夫だし、家の中はうまく行つてゐるし、後顧の憂なしで、為事を遊ばすには一番いい状態だと思ふわ。貴方は子供が一寸風邪をひいてもすぐ為事に身が入らないおたちぢやありませんか。家の中の平和が破れたりしたら、それこそ、為事どころか何だつてお出来になる筈ないと思ふ」
「それはさうだ。さういふ後顧の憂があれば俺は直ぐ為事が出来なくなる。
「別かどうか知りませんが、一度、
「幸、不幸を総てその問題だけにお前はかけてゐる。女として
「何が危つかしいのかしら。貴方さへ堅くして居て下されば何にも心配ない事ぢやあありませんか。危つかしいといふのは私が貴方に云ふ事ですよ。御自分が危つかしい気持でいらして、いつ
邦子は亢奮し
「少し落ちつきなさい。お前の云ふ事は仮想敵に対して実弾を発射してるやうなものだ。実に下らない事だ。俺が釣り込まれないからいいやうなものの、俺の気持が少しも分らず何時までもそんな事を云つてゐると仕舞には俺も怒るよ」
怒るつもりはなかつたが、私の語気も自然荒くなつてゐた。邦子は静かになり、急にぼんやりした顔つきをして黙つて了つた。
翌朝、邦子は私の寝てゐる所へ来て
「分つたよ。俺は何とも思つてやしない」
「全く私は邪推深いのよ。それといふのが、前の境遇が悪かつたからで、昨晩寝てから考へて本統に済まなかつたと、実はそつと来て見たら、よくお
「馬鹿な奴だな。お前も総てにもう少し
「暢気な時は暢気なんだけど、あの事だけはどうしても暢気になれない。私の悪い癖よ。それはね、随分悪い境遇に慣れて来たんですから、悪ければ悪いでそれに堪へる力はあると思ふの。だけど今の自分が此上ない幸福な自分だと思ひ込むと、それに一寸でもいやな事が入ると、
「本統はそれはいい性質だが、お前のは部分的な事を直ぐ全体へ
「よく分つてよ。それが私の一番いけない所でせう? 私、何も
「それでいいんだ」
「安心してるわ。私、これから決して変な邪推なんかしないわ。世界中で自分が一番幸福な人間だと思つてゐるわ。貴方も決して私に心配さすやうな事、なさらないわね。──さう決めて置くの」
話は結局もとの
第三の児が生れ、
「お前は俺を家畜だと思つてゐるだらう」
「まあ、どうして?」
「少くとも家畜にしたいと思つてるだらう」
「そんな変な事、どうしてお考へになるの?」
「吉沢の
私は自分のかういふ云ひがかりが
「それぢやあ、貴方は御自分が私の為めに骨抜きにされさうな気がしていらつしやるの?」
「ああ。背中の真中辺が少し腐つて来たやうな気がする」
「それは
「だから早く手あてをしないと
「さうなると、つまり私が病菌みたやうなものね」
「それに違ひないんだ。次の間で毒が薬を煎じてゐると云ふ川柳がある」
「それはどう云ふ意味?」
「分らなければ丁度いい」
私の云ひがかりも、うまく行くとこんな風に笑談に終る事もあるが、一寸こじれると自分でも時々法がつかなくなる事がよくあつた。
更に無事平穏な月日が過ぎた。然し此無事平穏は私の気持から云へば決して無事平穏ではなかつた。私は泥沼に落ち込んだやうな気持で、いくら
私は
私は子供から字を書く事が好きだつたから頼まれれば気楽に
邦子は娘は決して文学者にはやらないとよく云つた。私もそれには同感だつた。文学者といふものが皆私のやうな人間だとは思はないが、文学者で私のやうな心の状態になつたら、たしかにそれは家庭としては危険人物である。「それが自分を成長さすものならば」といふ気持で、私は自然、何か異常の事柄を望むやうになつてゐた。私は前に立派な口を利いてゐたに
私は女を書く場合、常に唯一人の女しか浮んで来ない。一つの戯曲に三人四人の女性を出す事はあるが、結局生々と現せるのは一人しかないのだ。然も此女性は私の如何なる戯曲にも現れて来る人間で、作の上での話ではあるが、私は此女性には、もう
ここで私は、自分がどれだけの作家かといふ事を問題にする。
今から云へば二十何年か前、島崎藤村が「破戒」といふ小説を書きつつあつた時、どんな犠牲を払つても
然し今私自身に就て人は同じ事が考へられるに違ひない。お前のやうな戯曲家が一人の女性しか書けないとか書けるとかいふ事は吾々にとつて何事でもない。それよりその為め、その一人の女性を少しでも不幸にしないやうにして貰ひたい。錦魚の玉子をかへすのもいいだらう。障子のきりばりもよからう。ダリヤを綺麗に咲かして見るのもいい事だ。何も今更お前が
私が第三者だつたとしてもかう云ふかも知れない。所がそれが私自身の事であると、私は
近頃はかういふ芸術至上主義は流行しないやうだが、昔の文学者は大概こんなに考へた。藤村の「破戒」とても同じ事だ。男の為事に対する執着にはかういふ誇張された気持があるからこそ、それによつて人類は進歩するのだ。
私が戯曲家としてどれだけの作家かといふ事は結局分らなかつたが、私の気持は正にそれだつた。然しかういふ気持ももう四五年今の生活が続いたら、或ひはどうなつたか分らない。私はさういふ所まで来てゐた。然しこの生活が続き私が無為無能の一
久しぶりで私の
俳優の都合があつて、是非それにして呉れとの事で、
その稽古が始まつたからと当然のやうに度々勧誘が来たが、私はどうしても出掛ける気がせず、そのままほつて置いた。そし芝居が開くといふ二三日前の晩だつた。私は突然浅間雪子といふ女優の訪問を受けた。女優は自身の持役の腹、そんな事を云つてゐたが、私には何も云ふ事はなかつた。
「至極単純な女ぢやありませんか。日本には一番多い型ですよ。それとも貴女方の中にはああいふ型はもうないかな。前世紀の遺物と云ふ事になつて了つてるかな」
「""""」女優は肩をすぼめ、笑つてゐた。
「貴女達の眼から見れば、ああいふのは
「主人公は先生御自身なんでせう?」
「いや私はあんな人間ぢやあない」
つく
「嘘。笹山さんは先生をモデルにして
「悪いいたづらをするな。どうせ見には行かないが、つまらない事はよすといいがな」
「それはね、必ずしもいたづらぢゃ、ありませんわ。何か拠りどころがあるのとないのぢやあ、大変仕勝手がちがふんですもの。第一
「作者のカリカチュァを作り上げるのは悪趣味ですよ。今更差しとめるわけにも行くまいが、これからは承知する時、さういふ事をしない条件をつけるんだな」
「私困つてしまふな」
「どうして""」
「困つた事があるんですの」
「云つて御らんなさい」
「実はお宅の奥様にお眼にかかりに参りましたの」
「ああさうか」私は笑つた。「益々それは悪い道楽だ。今丁度子供を寝かしつけてるやうだが、さういふ事なら此所には出しませんよ」
「あら。困るわ、それぢやあ」
「そんな勝手な奴があるものか」
「本統に一寸でいいんです。大変お綺麗だといふ事はかねてお噂に承はつてゐるんですけど""」
「はははは」
「ねえ先生。お願ひですわ」甘えるやうな眼つきをして云ふのだ。
「それはさうと御両親はお達者なの?」
「いいえ」
「叔母さんは?」
「叔母? 叔母は皆で三人
「それぢやあ、その叔母さんをモデルにおしなさい。それで沢山です」
「まあ! ひどい」
「私の書く女なんか、それで沢山ですよ。──叔母さんには失礼な申分だが""」
「それぢやあ、どうしてもお眼にかかれませんのね」女優は
「貴女は馬鹿だ。家内だつて、女優さんは大いに興味があるんだから黙つてても出て来るのに、貴女がそんな事をいふからもう出て来やしませんよ」
「だつて奥様には未だ分つてないぢやありませんか」
「此廊下の
「いやだ。随分人が悪いわね」女優は大きな声で笑つた。私は邦子が
私が黙ってゐると、女優も邦子に会ふ事は断念したらしく、
「先生はどうして、稽古を一度も見にいらつしやらないんですの」こんな事を云ひ出した。
「見ると不愉快になるからです」
「""私達の
「それもあるが、それよりあの脚本が自分では興味がないからですよ」
「私、随分いいものだと思ひますわ」
「あんなものに感心してちやあ、仕方がないな」
「ええ、仕方がなくても私、いいものだと思つてますの」
女優は
「何時からですか」
「十時から」
「午前ですね」
「ええ」
「それぢやあ、その時間までに出掛けます」
「
「いいえ」
女優は急に小声になり「奥様も御一緒にね」といたづららしい眼つきをしながら舌の先を一寸出して見せた。
間もなく女優は待たせて置いた
私が若し小説家であつたら、此女優とのそれからの関係を細々と書くべきだらう。小説家でなくても書くべきものかも知れないが、私にはその興味もなくまた根気もない。兎に角私はそれから暫くしてその女優に夢中になつた。腹から夢中になつたかどうか、自分でもよく分らないが、兎に角夢中になつた。
浅間雪子は私を決して愛してはゐなかつた。それなのに何故彼女が積極的に私に近づいて来たかと云へば、私との関係で世間的に自分が有名になりたかつたのだ。もう一つはそれまで同棲してゐた彼女よりも若い男との関係をそれではつきり片をつけたかつたからだ。私は二人の作つた幾月分かの借金や家賃の借りを総て払はされた。二人はそれまで共同で作つた借金の為め、毎日喧嘩をしながら離れられずに居たのである。
私は若い男が立ち退いたと云ふので、或日その家へ行つて見たが、それはこれでも人間の住家かと思はれる程乱雑なものだつた。そのまま用をなす物は一つもなかつた。火鉢は
「よくこんな所にゐられたもんだな」
「さうよ。だからちつとも家に落ちついてゐられなかつたわ」
「当り前だ、これぢやあ鼠の住家と云ひたいが、
「
「で、此家はこれからどうしようといふんだ」
「火をつけて焼いちまひたいわね」
「笑談いふな」
私は暗い廊下から台所の方へ行かうとすると、何か軽い物を蹴飛ばしたが、それが、ころころと丁度戸が開放しになつてゐた便所の中へ転げて行つた。
「何か蹴飛ばしたぜ」
「何を?」
「何だか知らないが、小便所へ転げ込んだ」
雪子は立つて便所へ行つた。
「あら、私の帽子ぢやないの""?」
私は大きな声で笑つた。「然しどうせ、もう
「未だ買つたばかりよ。たまらないわね」
雪子はこんな事を云ひながら、朝顔の下のジメジメした所からそれを拾ひ上げると、一寸臭ひを嗅いでから「日光消毒だ」と云ひながら陽あたりの木の枝にそれを掛けた。
「
「いやよ。これ私に一番似合ふのよ」
半年程して私は此事を憶ひ出し、雪子の頭にはそれが一番似合つていいわけだとつくづく感じたが、実を云ふと、そんな事は当時から百も承知の上で、私は雪子の勝手になつてゐたのだ。
その属してゐる劇団が地方興行に出た場合、雪子はよく其所へ私を呼び出さうとしたが、私は一度も応じなかつた。私は邦子に此関係を知られる事を非常に恐れた。幸ひ私の周囲の人達はよくそれに気をつけてゐて呉れたし、私も新聞の演芸欄などに出るゴシップは神経質に注意してゐたから、三四ヶ月の間は邦子も私達の関係に就ては何も知らなかつた。
所が、或日それが突然三面記事として写真入りで新聞に出て了つた。雪子とすれば、これで二つの目的は完全に達したわけだが、私は一時少し当惑した。私は邦子が未だ見てゐないらしいのを幸ひ、直ぐ書斎へ持つて行つてそれを隠して了ひ、大概これでいいだらう、新聞でも一度出したら、こんな下らない事を再び出す筈もなく、又わざわざ細君の談話を聞きに来る程馬鹿な記者も居まいから、と一と先づ安心はしたが、其日一日は何かしら邦子の前に頭の上らぬ、いやな気持がしてゐた。
然しそれは翌日女中が近所の者に聴かされ、それを又邦子に話した事で総て水泡に帰して了つた。
私のやうな者が雪子のやうな女優に関係があるとかないとか、これ程の
出発の日、見送りに行つた人の話に詩人は眼を泣きはらしてゐたといふ事を私は聴いたが一体普段から泣きはらしたやうな眼をしてゐる男だつたから、それはあてにはしなかつたが、兎に角その災難に同情した。所が此詩人が間もなくその新聞にロシヤからの通信のやうなものを出してゐるのを見て、私は又不思議に思つたものだ。
それは
「もう私、何にも云ひませんわ。只私には今までの事が何も彼も夢のやうな気がするの。自分で考へてゐた事は皆本統ではなかつたと思ふと、自分だけ異つた人間のやうに思はれて、淋しくつて仕方がないの。──一口に云へば私が馬鹿だつたのね。勝手に物事を綺麗に考へて、それが本統だと思つてゐたのはね。私は自分がつくづく馬鹿な人間だつたと思ふばかりよ」
「お前は何でもその問題だけで考へるから困る。お前の口うらだと、此世の中にはもう真実なものは何もないと決めて了つたやうだが""」
「一寸待つて頂戴、貴方の仰有る事大概分つてます。それはそれでいいの。私のやうに何事もその事だけから割り出して考へるのは危つかしいし、
「さう云はれると、一言もないよ」
「今度の事もどうなるんだか分らないけど、これから先、一生さういふ事が絶えないのかと思ふと、何だか先が真暗になつたやうな気がするわ」
「俺には云訳もあるが、お前をさういふ気持にさすといふだけでも、
「それで、其女優との事はどうするお
「別れる。新聞にでも出れば、女優からいへば目的を達したわけだ」
「貴方のお気持はどうなの?」
「うむ」
「どうなの?」
「正直にいへば少し未練があるかも知れない。然し別れると云ふ事は大した苦痛にはならない」
「少しはおつらいんでせう?」
「分らない。その時になつて見なければ分らない」
「それぢやあ別れられないかも知れないの?」
「いや、別れる事は
「貴方が何時までもさういふお気でいらしたら、どうなるの?」
「そんな事は絶対にない。その当時だけ幾らか未練が残るかも知れないと考へたまでなんだ」
私は私一人で考へてゐる時と、邦子とその事を話し合ふ時と、不思議な程事の内容が変るのを不思議に感じた。雪子のやうな女との関係は自分だけで考へれば如何にも気軽な何でもない事なのを、邦子と一緒に話し合ふ場合、甚く六ヶしい、重苦しい問題になつて了ふ。考へれば実に当り前な事ながら、事の内容が変つたやうに感ぜられるのが不思議だつた。私は間もなく雪子と別れる事にした。一年間生活出来る金を与へ、話は簡単に済んだ。
所で、かういふ事を書くのは
それは「
私は今の自分として「兎に角
私は雪子を案外早く忘れる事が出来た。僅一ト月前までは一日も忘れられない雪子だつたが、今はそれが純然たる過去の女としか思へなくなつた。雪子ばかりではない。邦子にも、又子供達にも私は同じやうに冷淡になれた。これはいい事だと思つた。それと一緒にしては気の毒だが、錦魚にも、小鳥にも、ダリヤにも、私の心は非常に遠くなつて了つた。私は朝から書斎に入り午後一寸散歩すると、又書斎で夜寝るまで其処に籠つた。家族とは食事で一緒になる位のものだつたが、さういふ時の私は決して機嫌がよくなかつた。子供達が騒ぐと私はよく怒鳴りつけたし、邦子が家事の相談を持ち込むと私は腹を立てて返事もしなかつた。
私は絶えず気が立つてゐた。殊に信康を書いてゐる時は変に
邦子は雪子の事件だけでも参つてゐる所に引続いて私のさういふ状態が堪へられないらしかつた。毎日淋しさうな顔をして、それでも、子供達が私の為事の邪魔をしないやう
「もう少しハキハキしたらどうなんだ。
「私、すつかり自信がなくなつて了つた。こんな事をいふと又叱られるかも知れないが、家の中をどういふ風にしていいのか全く見当がつかなくなつたの。今まで、家中が何か一つのもので結び合つてゐたやうな気がしてゐたのが、近頃は貴方は貴方、私は私、子供達は子供達、といふ風に妙に離れ離れになつて何だか淋しくつて仕方がない。どうしたんでせう? 若しかしたら神経衰弱になつたのかしら」
「俺が折角元気が出たと思ふと、お前がそんな事を云ふのは困るな。俺はそんな事には
「貴方がお為事に夢中におなりになるのは私も嬉しいんですけど、これが何にもなしにさうだつたんだといいんだけど、いやな事があつて引きつづきなんで少し弱つて了つたのよ。一遍二人の気持がすつかりよくなつてからだといいんだけど、何だかそれが済んでないやうな気がするんで""」
「二人がお前の望むやうな気持になつて了ふのはお前としたらいいかも知れないが、俺は今はそれは困るんだ。そんな事には遠い気持なんだ。何故お前は俺だけを独りにさしてくれないんだ。お前は気持で何所までも俺の気持を追ひかけて来る。今の俺の気持をお前が追ひかけて来た所で何にもならない事なんだ、幾ら夫婦でも、さういふ事まで常に一緒でなければいけないといふ話はないよ。勝海舟は、昔日本人だけで
「つまり貴方のお為事には私は邪魔なのね」
「さうだ。お前が邪魔といふより、わけも分らずに無闇と追ひかけて来るお前の気持が邪魔なのだ。何の為めに俺の為事をする気持にお前はくつついて来るのか、分らないよ」
「お為事に私、少しも交渉はしてないつもりよ」
「つもりでも、交渉してる事になるんだ。もつと無関心になれよ、無関心に。そして自分だけ晴れ晴れした気持でゐてくれればそれで此方も暢び暢びと為事に没頭出来るんだ。それを
「私、どうしても仰有る事よく分らない。私、少しもくつついて行く気ではないんですけど、貴方が今さう仰有るとそんな気もして来るし、それに近頃はどうしても晴れ晴れした気になれない所を見ると、貴方の仰有るのが本当かも知れない。でも、それならどうすればいいか。又それが仮りに分つても、さう自分がなれるかどうか私少しも自信が持てないの」
「もううるさい。お前はお前でどうとでもするがいい。俺は俺で、お前とそんな気持の上の交渉をしてゐるのはいやだ。もう少ししたら何所かへ行つて独りになつて為事をする。海舟ぢやないが、散歩するといつて、そのまま半年でも一年でも帰つて来ないかも知れない。それがいいんだ」
私は
「""""」邦子は少し青い顔をして
「私、どうしてもよく分らない。分つてゐるやうで分らない」
「分らなければ、分らないでいいぢやないか」
私達がこんな事を云ひ合つて四五日してからの夜だつた。それまで邦子は別に変つた様子もなく、淋しい風をしてゐる事は同じだつたが、前よりは幾らか落着いたやうに思へたので、私もなるべく気持の上の交渉は避けて来た。その晩も私は二階の書斎で仕事をしてゐると、下の座敷で
「誰だ」と声をかけて見た。返事がなく、そのままミシリミシリ登つて来る。私は黙つて書きつづけた。襖が開いても私は振り向かなかつた。
「今、何か話は困る」云ひながら、初めて私は邦子の方を見た。邦子は一尺程開けた唐紙に両手をかけて立つてゐたが、その顔を見て私はぎょつとした。死相──邦子の顔は正しく此世のものではなかつた。口はへの字なりに、眼は細めに凝つと私を見てゐるが、視線の焦点が如何にも
「お前は馬鹿な真似をしたらう!」私は亢奮と腹立ちから震へた。
邦子は眼をつぶつたまま全身で私にからまりついた。私は立つてゐられず、邦子を抱いたまま坐つた。邦子は二三度何か吐きさうな様子をした。
「何を呑んだ。何を呑んだ」
邦子は私の胸へ顔を埋めたまま何か吐いた。私は力で邦子を自分から引き離した。
私が再び二階へ来た時には邦子は真青になつて、身体を右に左にうねらしながら唸つてゐた。
「邦子。邦子」もう邦子が助かるとは思へなかつた。私は女中を呼び、水を飲まさうとしたが、駄目だつた。
邦子は非常な苦しみをした。医者が来て、胃洗滌の用意をしてゐる間に、邦子はたうとう息をしなくなつた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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