好人物の夫婦
一
深い秋の静かな晩だつた。沼の上を
「もう何時?」と細君が下を向いたまゝ云つた。時計は細君の頭の上の柱に懸かつてゐる。
「十二時十五分前だ」
「お
「も少しして」と良人は答へた。
二人は又
細君は良人が余りに静かなので漸く顔を挙げた。
「一体何して居らつしやるの? そんな大きな眼をして……」と云つた。
「考へて居るんだ」
「お考へ事なの?」
又二人は黙つた。細君は仕事が或る切りまで来ると、糸を
「オイ俺は旅行するよ」
「何いつて居らつしやるの? 考へ事だなんて今迄そんな事を考へて居らしたの」
「
「幾日位行つて居らつしやるの?」
「半月と一ト月の間だ」
「そんなに永く?」
「うん。
「そんなに永いのいや」
「いやだつて仕方がない」
「旅行おしんなつてもいゝんだけど、…………いやな事をおしんなつちやあいやよ」
「そりやあ
「そんならいや。旅行だけならいゝんですけど、
「馬鹿」良人は意地悪な眼つきをして細君を見た。細君も少しうらめしさうな眼でそれを見返した。
「貴方がそんな事をしないとハツキリ云つて下されば少し位淋しくても
「
「そら御覧なさい。何云つてらつしやるの。いやな
「馬鹿」
「仕ないとハツキリ
「どうだか自分でもわからない」
「わからなければいけません」
「いけなくても出掛ける」
細君はもうそれには応じなかつた。
「男が皆左うぢやないさ」
「皆左うよ。左うにきまつてるわ。貴方でも左うなんですもの」
「そんな事はないさ。俺でも八年前までは左うぢやなかつたもの」
「ぢやあ、何故今は左うぢやなくおなれになれないの?」
「今か。今は前と
「非常に悪いわ」細君は或る興奮からさへぎるやうに云つた。「私にとつては非常に悪いわ」
その調子には良人の怠けた気持を細君の其気持ヘグイと引き寄せるだけの力がこもつて居た。
「うん。そりや左うだ」良人は其時腹からそれに賛成しないわけに行かなかつた。
「そりや左うだつて、そんならハツキリそんな事仕ないつて云つて下さるの?」
「うゝ? 断言するのか? そりや
「そんな事を
「よし。もう旅行はやめた」
「まあ!」
「まあでも何んでも旅行はもうよす」
「そんなに仰有らなくていゝのよ。御旅行遊ばせよ。いゝわ多分仕ないつて云つて下すつたんですもの。私が何か云つておやめさせしちやあ悪いわ。おいで遊ばせよ。
「旅行はよすよ。お前のお祖母さんの所へ泊つて居てもつまらないし、第一行くとすると上方だけぢやないもの」
「悪るかつたわ。折角思ひ立ちになつたんだからおいで遊ばせ。左うして頂戴」
「うるさい奴だな、もうやめると決めたんだ」
「…………赤城にいらつしやらない? 赤城なら私本統に何んとも思ひませんわ。紅葉はもう過ぎたでせうか」
「うるさい。もうよせ」
「お
「怒つたんぢやない」
細君は
「それは
「今朝も出しました。又
「八十お幾つだ?」
「八十四」
細君は針箱やたゝむだ仕立てかけなどを持つて隣室へ起つて行つた。而して今度は良人の
「何んだか段々
「あれは安心して出掛けて行つたお前の方が余程
「ですけど、今は到底そんな事は出来ませんわ」
「俺がそんな不安心な人間に見えるかね」
「いゝえ、貴方が左うだと云ふんでもないのよ」
「そんなら向ふが危いと云ふのか」
「それもありますわ」
「
「でも御旅行だと
良人は一寸
「それとは又
「何故?」
「もうよさう。其話はやめだ」
二
それを書いたのは他へ縁付いて居る細君の一番上の姉で、祖母の病気が今度はどうも面白くないと書いてあつた。祖母は貴方にお気の毒だから妹は呼ばなくていゝと申しますが、会ひたい事の山々なのは
「又姉さんが余計な事まで書いて………」かう思ひながら
寝室の方で
「オイ。オイ」
と良人の呼ぶ声がした。細君は急いで湯殿へ行き、泣きはらした眼を一寸水で冷してから其手紙とそれから其日の新聞を持つて寝室へ入つて行つた。
「お祖母さんが少しお悪いらしいのよ」仰向きになつて夜着の上に両手を出して居る良人に新聞と一緒にそれを手渡しながら云つた。
良人は細君の赤い眼を見た。それから其手紙を読むだ。
「直ぐ行くといゝ」
「左う? 行くなら早い方がいゝかも知れませんわネ」
「左うだよ。東京を今夜の急行で出掛けられるやうに早速支度をするといゝ」「そんなら左うしませうか。早く行つて早く帰つて来る方がいゝわ。同じ事ですもの」
「早く帰る必要はないから、ゆつくり看護をして上げるといゝよ」
「そりやあ
「よくなられるやうなら、それでいゝが、万一左うでなかつたら、なるべく永く居て上げなくちやいけない。お前とお祖母さんとは特別な関係なんだから」
「左う? ありがたう」かう云つて居る内に又細君の眼からは涙が流れて来た。
「お前は余程気持をしつかり持つてないと駄目だよ。看護して上げる為めにも自分の感情に負けないやうに気を張つてないと駄目だよ」
「でも、なるべく早く帰りますわ。
良人は細君の云ふ意味がそんな事でないのを知りながら、つい口から出る
「俺も品行方正にして居るからネ」と
「そりやあ安心してますわ」と涙を拭きながら細君も笑顔をした。「けど、左う仰有つて下されば
細君はそこそこに支度をして
細君からは手紙が度々来た。祖母のは肺
細君は中々帰れなかつた。祖母の病気はよくも悪くもならなかつた。それは実際気で持つて居るらしかつた。
細君が行つて四週間程して良人も
祖母はそれからも二タ月余り床を離れる事は出来なかつた。然し三月初めの或日、夫婦は小包郵便で大阪からの床あげの
三
それは春らしい
彼はもみがらを入れた菓子折から丁寧に卵を一つ一つ巣函へ移してゐた。
彼はそれを
四
滝のが妊娠だとすると、これは先づ自分が疑はれる、と良人は考へた。何しろ過去が過去だし、それに独身時代ではあつたにしろ、女中との左う云ふ事も一度ならずあつたし、又現在にしろ、それを細君に疑はれた場合、「飛んでもない」と驚いたり、怒つたりするのは我ながら少し空々しい自分だと考へた。これは恥づべき事に違ひないと彼は思つた。
彼は結婚した時から左う云ふ事には自信がなかつた。彼はそれを細君に云つた。一人で外国へ行つた場合とか一ト月或は二タ月位の旅行をする場合とか、と云つた。其時は細君も或る程度に認めるやうな返事をして居た。
それからも良人は其危険性の自分にある事を半分
滝のが結果から、或は医者の診察から、
彼は滝を嫌ひではなかつた。それは細君の留守中の事ではあつたが、例へば狭い廊下で偶然
これはまだよかつた。然し左うでない場合、例へば夜座敷で本を見てゐるやうな場合、或は既に寝室に居るやうな場合、
細君が大阪へ出
滝は十八位だつた。色は少し黒い方だが、可愛い顔だと彼は思つて居た。それよりも彼は滝の
彼は然し滝に恋するやうな気持は持つて居なかつた。若し彼に細君がなかつたら、それは或はもつと進むだかも知れない。然し彼には家庭の調子を乱したくない気が知らず知らずの間に働いて居た。而してそれを越える迄の誘惑を彼は滝に感じなかつた。或は感じないやうに自身を
五
良人は細君が大概それを素直に受け入れるだらうと思つた。然し若し素直に受け入れなかつたら困ると思つた。其場合自分には到底ムキになつて弁解する事は出来まいと思つた。弁解する場合其誤解を不当だと云ふ気が
兎も
細君は座敷の次の間に坐つて滝が
「オイ」と良人は割りに気軽に声を掛けた。
「何?」と細君は艶のない声で
「そんな元気のない顔をして
「別に如何もしませんわ」
「如何もしなければいゝが…………お前は滝が時々吐くやうな変な声を出して居るのを気がついて居るか?」
「えゝ」左う云つた時の細君の物憂さうな眼が一寸光つたやうに良人は思つた。「どうしたんだ」
「お医者さんに診て貰つたらいゝだらうつて云ふんですけど、中々出掛けませんわ」
「全体何んの病気なんだ」
「解りませんわ」細君は一寸不愉快な顔をして眼を落として了つた。
「お前は知つてるネ」良人は追ひかけるやうに云つた。
細君は下を向いた儘返事をしなかつた。良人は続けた。
「知つてるなら尚いゝ。然しそれは俺ぢやないよ」
細君は驚いたやうに顔を挙げた。良人は今度は明らかに細君の眼の光つたのを見た。而して見てゐる内に細君の胸は浪打つて来た。
「俺は左う云ふ事は仕兼ねない人間だが、今度の場合それは俺ぢやあない」
細君は立つてゐる良人の眼を
「オイ」と良人は
細君は唇を震はして居たが、漸く
「ありがたう」と云ふと其大きく開いて居た眼からは涙が
「よしよし。もうそれでいゝ」良人は坐つて其膝に細君を抱くやうにした。彼は実際しなかつたにしろ、それに近かい気持を持つた事を今更に心に恥ぢた。然し今はそれを打明ける時ではないと思つた。
「それを伺へば
「お前は矢張り疑つて居たのかい」
「いゝえ、信じて居ましたわ。でも、
「それ見ろ。矢張り疑つて居たんだ」
「いゝえ、本統に信じて居たの」
「うそつけ。左う信じればそれが本統になつて呉れるやうな気がしたんだらう。兎も角もそれでいゝ。お前は中々利口だつた。お前は素直に受け入れて呉れるだらうとは思つてゐたが、若し素直に受け入れなければ俺は疑はれても仕方がないと思つて居たのだ。然し素直に信じてくれたので大変よかつた。若し疑ひ出せば疑ふ種は幾らでも出て来るだらうし、その為めに両方で不愉快な想ひをしなければならない所だつた。俺は明らかなうそは云はないつもりだ。笑談やイヤガラセを云ふ
「もう
良人は苦笑しながらちよつと黙つた。
「然しあとはどうする?」
「あとの事なんか、今云はないで…………。滝が好きなら其男と一緒にするやうにしてやればいゝぢやあありませんか」
「
「もういゝのよ。………貴方もこれからそんな事で
「よしよし。解つたらもうそれでいゝ。又
「
「全体お前は
「その位知つて居ますわ。
「知つてるのか」
「そりやあ、知つてますわ。それより貴方の知つて居らつしやる方が余程
「俺は知つてる訳があるんだ」
「又そんないやな事を仰有る」
「お前は滝のは
「もう四五日前からよ」
「俺は
「貴方こそ、よく三日も黙つて居らしたのね」
そんな事を云ひながら細君は
「どうしたんだ」良人は手を延ばして今は対坐してゐる細君の肩へ触つてみた。
「何んだか妙に震へて困るわ」かう云ひながら細君は
「興奮したんだ。馬鹿な奴だな」
「本統にどうしたんでせう。どうしても止まらないわ」
「寝るといゝ、
「お湯を飲むでみませう」左ういつて細君は起つて茶の間へ行つた。
「滝には出来るだけの事をしてやりませうネ」と云つた。
「うん、それがいゝ。それはお前に任かせるからネ。而して云ふなら早い方がいゝよ、そんな事もあるまいが不自然な事でもすると取り返しが付かないからネ」
「本統に左うネ。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/10/19
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