怪談牡丹燈籠第壱編 三遊亭圓朝演述
若林カン藏筆記
第壱回
兇漢泥酔挑争闘 けうかんでいすゐしてそうたうをいどむ
壮士憤怒醸禍本 そうしふんどしてくわほんをかもす
寛保三年の四月十一日、まだ東京を江戸と申しました頃、湯島天神の社にて聖徳太子の御祭礼を執行まして、その時大層参詣の人が出て群衆雑踏を極めました。茲に本郷三丁目に藤村屋新兵衛といふ刀剣商が御座いまして、その店頭には善美商品が陳列てある所を、通行かゝりました一人のお侍は、年齢二十一二とも覚しく、膚色饗までも白く、眉毛秀で、目元キリヽツとして少し癇癖もちと見え、鬢の毛をグーツと釣揚げて結はせ、立派なお羽織に、結構なお袴を着け、雪駄を穿いて前に立ち、背後に浅黄の法被に梵天帯を結め、真鍮巻の木刀を佩したる仲間が従ひ、此藤新の店頭へ立寄りて腰を掛け、陳列てある刀類を通覧て、
侍「亭主や、其処の黒糸だか紺糸だか識別んが、彼の黒い色の刀柄に南蛮鉄の鍔が附いた刀は誠に善さゝうな品だナ。鳥渡御見せ。
亭主「ヘイヘイ、コリヤお茶を差上げな。今日は天神の御祭礼で大層に人が出ましたから、必然街道は塵埃で嘸お困り遊ばしましたろう。と刀の塵を払ひつゝ、亭主「此品は少々装飾が破損て居りまする。
侍「成程すこし破損て居るナ。
亭主「ヘイ中身は随分御用ひに成りまする。ヘイ、御自佩料に成されても御用に適ひまする。お鉄信もお刀質も慥にお堅牢お品で御座いまして。 と言ひながら、 亭主「ヘイ御覧遊ばしませ。と差出すを、侍は手に取て見ましたが、旧時には通例御侍様が刀剣を買収時は、刀剣商の店頭で抜刀て見て入ツしやいましたが、あれは危険ことで、もしお侍が気でも狂ひまして抜き刀を振り舞はされたら、真個に剣呑ではありませんか。今此お侍も真正に刀剣を鑒定お方ですから、先づ中身の反張工合から焼曇の有無より、差表差裏、ぼうし尖何や彼や吟味いたしまするは、流石に御旗下の殿様の事ゆへ、通常の者とは違ひます。
侍「頓だ良応な物、拙者の鑒定する所では備前物の様に思はれるが如何ぢやナ。
亭主「ヘイ至適お鑒定で入ツしやいまするナ。恐入ました。仰の通り私共同業の者も天正助定であらうとの評判で御座いますが、惜哉には何分無銘にて残念で御座います。
侍「御亭主や、此品は幾許価するナ。
亭主「ヘイ、ありがたう存じます。お二価は申上ませんが、只今も申します通り銘さへ御座いますれば多分の価直も御座いますが、無銘の所で金拾枚で御座い升。
待「なに拾両とか、些と不廉様だナ。七枚半には減価らんかへ。
亭主「どう致しまして何分夫では損が参りましてヘイ、倒々もちましてヘイ。 と頻に侍と亭主と刀の価直の掛引きを致して居りますと、背後の方で通り掛りの酔漢が、此侍の仲間を捕へて、「ヤイ何を為やァがる。と云ひながら蹌踉々々とよろけて撲地と臀餅を搗き、漸く起身て額で睚み、突然鉄拳を振ひ丁々と打たれて、仲間は酒の科と堪忍して逆はず、大地に手を突き首を下げて、頻りに詫びても酔漢は耳にも聴けず猛り狂ふて、尚も仲間を連繋居るを、侍は且見れば我僕の藤助だから驚きまして、酔漢に対ひ揖をなし、
侍「何を家来めが無調法を致しましたか存じませんが、当人に成り代り私がお謝罪申上ます。何卒御勘辮を。
酔夫「ナニ此奴は其方の家来だと、怪しからん無礼な奴、武士の供をするなら主人の傍に小さく成て居るが当然、然るに何だ天水桶から三尺も往来へ出這ばり、通行の妨げをして拙者を衝突らせたから、止を得ず打擲致した。
侍「何も弁へぬもので御座いますれば偏に御勘弁を、拙者成り代りてお詫を申上ます。
酔夫「今此処で拙者がよろけた処をトーンと突衝たから、犬でもあるかと思へば此下郎めが居て、地べたへ膝を突かせ、見なさる通り是れ此様に衣類を泥塗に致した。無礼な奴だから打擲致したが如何致した。拙者の存分に致すから此処へお出しなさい。
侍「如斯り何も訳の解らんもの。犬同様のもので御座いますから、何卒御勘弁下されませ。
酔「コリヤ面白い。初て承はツた。侍が犬の供を召連れて歩行といふ法はあるまい。犬同様のものなら拙者申受けて帰り、万木鼈でも食はして遣らう。何程詫びても了簡は成りません。コレ家来の無調法を主人が詫ぶるならば、大地へ両手を突き、重々恐入たと首を地上に叩き着けて謝罪をするこそ然るべきに、何だ片手に刀剣の琫を切て居ながら謝罪をする抔とは侍の法にあるまひ。何だ汝は拙者を斬る気か。
侍「イヤ是は拙者が此刀屋で買収と存じまして只今鉄信を鑒て居ました処へ此騒擾ぎに取敢へず罷出ましたので。
酔「エーイ其は買とも買はんとも貴殿の御勝手ぢや。と罵るを侍は頻にその酔狂を勧解て居ると、往来の人々は
「ソリヤ喧嘩だ危険ぞ。
「ナニ喧嘩だとエ。
「応サ対手は侍だ。
「夫れは剣呑だナ。と云ふを又一人が
「なんでゲスネー。
「左様サ、刀剣を買ふとか買はないとかの間違ださうです。彼の泥酔て居る侍が初め刀剣に価を附けたが、高価て買はれないで居る処へ、此方の若い侍が又其刀剣に価を附けた処から酔漢は怒り出し、自己の買はうとしたものを自己に無沙汰で価を附けたとか何んとかの間違ひらしい。と云へば又一人が
「なにさ左様ぢやアありませんヨ。あれは犬の間違ひだアネ。自己の家の犬に万木鼈を喰はせたから、その代りの犬を与せ。又た万木鼈を喰せて殺そうとかいふのですが、犬の間違ひは往時から能くありますヨ。白井権八抔も矢張犬の喧嘩から彼な騒動に成たのですからネー。と云へば又傍に居る人が
「ナニサ其様訳ぢやアない。彼の二人は叔父甥の間柄で、彼の眞赤に泥酔て居るのは叔父さんで、若い奇麗な人が甥だそうだ。姪が叔父に小遣銭を呉れないと云ふ処からの喧嘩だ。と云へば、又側に居る人は
「ナーニ彼れは金着切だ。抔と往来の人々は口に任せて種々の評判を致して居る中に、一人の男が申ますは
「彼の酔漢は、丸山本妙寺中屋敷に住む人で元は小出様の御家臣であつたが、身持が悪く、酒色に耽けり、折々は抜刀抔して人を恐嚇し乱暴を働いて市中を横行し、或時は料理屋へ揚り込み、充分酒肉に腹を肥らし、勘定は本妙寺仲屋敷へ取りに来いと、横柄に喰倒し飲倒してあるく黒川孝藏と言ふ悪侍ですから、年の若い方の人は見込れて結局酒でも買はせられるのでせうヨ。
「左様ですか。並大体のものなら斬て仕舞ますが、彼若い方はどうも病身の容体だから斬れまいネー。
「何あれは剣術を知らないのだらう。侍が剣術を知なければ腰抜けだ。抔と私語言葉がチラチラ若き侍の耳底に達るから、グツと発怒癇癖に障り、満面朱を注いだる如くになり、額に青筋を顕し、奮然詰め寄り、
侍「是程までにお詫びを申しても御勘弁なさりませぬか。
酔漢「クドイ、見れば立派な御侍、御直参か何れの御藩中かは知らないがお葉打枯らした浪人と侮り失礼至極、愈勘弁がならなければどふする。と云ひさま、かアツトと痰を彼の若侍の面上に唾き付けましたゆゑ、流石に勘弁強き若侍も、今は早や怒気一度に面に顯はれ、
侍「汝下手に出れば附上り、益々募る罵詈暴行、武士たるものゝ面上に痰を唾き附るとは不届な奴、勘弁が出来なければ如斯する。といひながら今刀屋で見て居た備前物の刀柄に手が掛るが速いか、スラリと引抜き、酔漢の鼻の先へ閃と出したから、傍観者は驚き慌て、弱さうな男だからまだ抜刀は仕ひと思たに、閃々といツたから、ホラ抜たと木の葉の風に遇たる如く四方八方にばらばらと散乱し、町々の木戸を閉ぢ、路次を締め切り、商店は皆戸を締る騒ぎにて街頭は寂寥となりましたが、藤新の亭主一人は逃路を失ひ、木兎然として店頭に端坐て居りました。
却説黒川孝藏は泥酔ては居りますれども、酔者本性違はずにて、彼の若侍の憤怒に恐怖をなし、よろめきながら二十歩許逃逸すを、侍はおのれ卑怯なり。言行表裏奴、武士が敵手に背後を見せるとは天下の耻辱になる奴、旋せ旋せと、雪駄穿にて跡を追ひ蒐ければ、孝藏は最早かなはじと思ひまして躚く足を踏み固めて、一刀の破損柄に手を掛けて此方を振り向く処を、若侍は得たりと突進みさま、エイと一声肩先き深くプッツリと切込む。斬られて孝藏はアツト叫び片膝を突く処を進一進、エイト左の肩より胸元へ切付けましたから、斜に三箇に切れて何だか亀井戸の葛餅の様に成て仕舞ました。若侍は直と立派に止息を刺して、血刀を振ひながら藤新の店頭へ立帰りましたが、素より斬殺す了簡で御坐いましたから、些とも動ずる気色もなく、我下郎に対ひ、
侍「コレ藤助、其天水桶の水を此刀に注けろ。と命ければ、最前より戦慄へて居りました藤助は、
藤「ヘイとんでもない事になりました。若し此事から大殿様の御名前でも出ます様の事が御坐いましては相済ません。元は皆私から始た事、如何致して宜敷御坐いませう。と半分は死人の顔。
侍「イヤ左様に心配するには及ばぬ。市中を騒がす乱暴人、斬捨ても苦くない奴だ。憂慮するな。と下郎を慰めながら泰然として、呆氣に取られたる藤新の亭主を呼び、
侍「コリヤ、御亭主や、此刀はこれ程切れやうとも思ひませんだつたが、中々斬れますナ。余程能く斬れる。といへば亭主は慄へながら、
亭「否貴君様の御手が冴て居るからで御坐います。
侍「否々、全く刃がよい。どうぢやナ、七両貳分に負ても宜からうナ。と言へば藤新は連累を恐れ、「宜しう御坐います。
侍「イやお前の店には決して迷惑は掛けません。兎に角此事を直ぐに自身番に届けなければならん。名刺を書くから一寸硯箱を貸して呉れろ。と云はれても、亭主は己の傍に硯箱のあるのも眼に入らず、慄へ声にて、「小僧や硯箱を持て来い。と呼べど、家内の者は先きの騒ぎに何処へか逃げて仕まひ、一人も居りませんから、寂然として応がなければ、
侍「御亭主、汝は流石に御渡世柄だけあつて此店を一寸も動かず、自若として御座るは感心な者だナ。
亭「否ナニ御誉めで恐入ります。先程から早腰が抜けて立てないので。
侍「硯箱はお前の側にあるぢやアないか。と云はれて漸々心付き、硯箱を彼侍の前に差出すと、侍は硯箱の蓋を推開きて筆を取り、スラスラと名前を飯島平太郎と書きをはり、自身番に届け置き、牛込の御邸へ御帰りに成りまして、此始末を、御親父飯島平左衛門様に御話を申上げましたれば、平左衛門様は能く切たと仰せありて、夫から直に御頭たる小林権太夫殿へ御届けに及びましたが、させる御咎めもなく、切り徳、切られ損となりました。
第貳回
閨門淫婦擅家政 けいもんにいんぷかせいをほしひまゝにす
別荘佳人恋才子 べつさうにかじんさいしをしたふ
扨飯島平太郎様は、お年二十二の時きに兇漢を斬殺して毫も動ぜぬ剛氣の胆力で御座いましたれば、お加齢に随ひ、ますます智恵が進みましたが、その後御親父様には死去られ、平太郎様には御家督を御相続あそばし、御親父様の御名跡を御継ぎ遊ばし、平左衛門と改名され、水道端の三宅様と申し上げまする御旗下から令室をお迎かへになりまして、程どなく御分娩のお女子をお露様と申し上げ、頗ぶる御国色なれば、御両親は掌中の璧と愛で慈しみ、後とに御子供が出来ませず、一粒種ねの事なれば猶更に撫育される中、隙ゆく烏兎に関守なく、今年は早や嬢様は十六の春を迎へられ、お家も愈々御繁昌で御座いましたが、盈れば虧る世のならひ、令室には不圖した事が病根となり、遂に還らぬ旅路に赴かれました処、此令室のお属の人に、お国と申す碑女が御座いまして嫖致人並に勝れ、殊に挙動周旋しに如才なければ、殿様にも独寝の閨房淋しき処から早晩此お国にお手がつきお国は終御妾となり済しましたが、令室のない家のお妾なればお権勢も至極宜しい。然るにお嬢さまは此国を憎く思ひ、互に軋礫になり、国々と呼び附けますると、お国は又お嬢様に呼捨にさるるを厭に思ひ、お嬢様の事を悪きやう殿様に彼是と讒訴をするので、嬢様と国との間だ何んとなく和合かず、然れば飯島様もこれを面倒な事に思ひまして柳島辺に或荘を購ひ、嬢様にお米と申す女中を属けて、此荘に別居させて置きましたが、抑飯島様の失策にて、是より御家の覆没なる初めで御座います。
さて当年も暮れ、明れば嬢様は十七歳にお成あそばしました。茲に兼て飯島様へお出入のお医者に山本志丈と申す者が御座います。此人一体は古方家ではありますれど、実はお幇間医者のお饒舌で、諸人救助のために匙を手に取らないと云ふ人物で御座いますれば、通常の御医者なれば、一寸紙入の中にもお丸薬か散薬でも這入て居ますが、此志丈の紙入の中には手品の種や百眼抔が入れてある位なもので御座います。却説此医者の知己で、根津の清水谷に田畑や貸長屋を持ち、その収納で生計を営て居る浪人の、萩原新三郎と申します者が有りまして、天資美男で、年は二十一歳なれども未だ妻をも娶らず、独身で消光す鰥に似ず、極鬱氣で御座いますから、外出も致さず閉居り、鬱々と書見のみして居ります処へ、或日志丈が尋ねて参り、
志丈「今日は天気も宜しければ亀井戸の臥龍梅へ出掛け、その帰るさに僕の知己飯島平左衛門の別荘へ立寄ませう。イエサ君は一体鬱気で御座しやるから婦女子にお掛念なさいませんが、男子に取ては婦女子位楽な者はないので、今申した飯島の別荘には婦人計で、夫は夫は余程別嬪な嬢様に親切な忠義の女中と只二人ぎりですから、戯談でも申して来ませう。真個に嬢様の別嬪を見る丈でも結構な位で、梅もよろしいが動きもしない口もきゝません。然れども婦人は口もきくしサ動きもします。僕抔は多淫の性だから余程女の方は宜敷い。マア兎も角も来たまへ。と誘出しまして、二人打連れ臥龍梅へまゐり、帰路に飯島の別荘へ立寄り、
志丈「御免下さい。誠にお久濶。と言ふ声聞き付け、
お米「誰何さま、オヤ、よく入来いました。
志丈「是はお米さん、其後は遂にない存外の御無沙汰を致しました。嬢様にはお替りもなく、夫れは夫れは頂上々々、牛込から此処へ御引き移りになりましてからは、何分にも遠方故、存じながら御無沙汰に成りまして誠に相済みません。
米「マー貴君が久敷御見えなさいませんから如何成すツたかと思て、毎度お噂を申して居ました。今日は那辺へ。
志丈「今日は臥龍梅へ観梅に出掛ましたが、梅見れば方図がないといふ譬の通り、未だ厭たらず、御庭中の梅花を拝見いたしたく参りました。
米「夫れは能く入しやいました。マア何卒此方へお這入あそばせ。と庭の切戸を開き呉るれば、「然らば御免。と庭口へ通ると、お米は如才なく、
米「マア一服召あがりませ。今日は能く入しやつて下さいました。平日は妾と嬢様ばかりですから、淋しくツて困て居る所、誠に有難う御座います。
志丈「結搆な御住居でげすナ。さて萩原氏、今日君の御名吟は恐入ましたナ。何とか申ましたナ。エーと『烟草には燧火のむまし梅の中』とは感服々々。僕抔の様な横着ものは出る句も矢張横着で『梅ほめて紛らかしけり門違ひ』かネ。君の様に書見計して鬱々としてはいけませんヨ。先きの残酒が此処にあるから一杯あがれヨ。何んですネ。厭です。それでは独で頂戴致します。と瓢箪を取出す所へお米出て来り、
米「どうも誠に久濶く。
志丈「今日は嬢様に拝顔を得たく参りました。此処に居るは僕が極の親友です。今日はお土産も何にも持参致しません。エヘヘ難有う御座います。是は恐入ます。御菓子を、羊羹結搆、萩原君召上れヨ。とお米が茶へ湯をさしに往たあとを見おくり、「此処のうちは女ふたりぎりで、菓子抔は諸方から貰ても、喰ひ切れずに堆積げて置くものだから、皆黴を生かして捨る位のものですから喫てやるのが却て深切ですから召上れヨ。実に此家のお嬢様は天下にない美人です。今に出て入しやるから御覧なさい。とお饒舌をして居る処へ対ふの四畳半の小座敷から、飯島のお嬢さまお露様が人珍らしいから、障子の隙間より此方を覗て見ると、志丈の傍に端坐て居るのは例の美男萩原新三郎にて、男ぶりと云ひ人品といひ、花の顔月の眉、女子にして見ま欲しき優男だから、ゾツと身に染み如何した風の吹廻しで彼様奇麗な殿御が此処へ来たのかと思ふと、カツと逆上て耳朶が火の如くカツと紅潮になり、何となく間が悪くなりたれば、礑と障子を閉切り、裡へ這入たが、障子の内では男の顔が見られないから、又密と障子を明て庭の梅花を眺める態をしながら、チヨイチヨイと萩原の顔を見て又恥しくなり、障子の内へ這入るかと思へば又出て来る。出たり引込んだり引込んだり出たり、モヂモヂして居るのを志丈は発見け、
志丈「萩原君、君を嬢様が先刻から熟々と視て居りますヨ。梅の花を見る態をして居ても、眼の球は全で此方を見て居るヨ。今日は頓と君に蹴られたネ。と言ながらお嬢様の方を顧て「アレ又引込だ。アラ又出た。引込んだり出たり、出たり引込んだり、宛で鵜の水呑水呑。と噪ぎ動揺いて居る処へ下女のお米出来り「嬢様から一献申し上げますが何も御座いません。真の田舎料理で御座いますが、御緩りと召上り相替らず貴所のお諧謔を伺ひ度と被仰います。と酒肴を出だせば、
志丈「ドウモ恐入ましたナ。ヘイ是はお吸物誠に有難う御座います。先刻から冷酒は持参致して居りまするが、お燗酒は又格別、有難う御座います。何卒嬢様にも入ッしやる様に今日は梅ぢやアない。実はお嬢様を、イヤナニ。
米「ホゝゝゝ只今左様申し上げましたが、御同伴の御人は御存じがないものですから間が悪いと被仰いますから、夫ならお止遊ばせと申し上げた処ろが、夫でも往て見たいと被仰いますノ。
志丈「イヤ、此人は僕の真の知己にて、竹馬の友と申しても宜しい位なもので、御遠慮には及びませぬ。何卒一寸嬢様に御目に掛り度ツて参りました。と言ヘば、お米は頓て嬢様を伴ひ来る。嬢様のお露様は恥かし気にお米の背後に座ツて、口の中にて「志丈さん入ツしやいまし。と云たぎりで、お米が此方へ来れば此方へ来り、彼方へ行けば彼方へ行き、始終女中の背後に計り附着て居る。
志丈「存じながら御無沙汰に相成まして、何時も御無事で、此人は僕の知己にて萩原新三郎と申します独身者で御座いますが、御近眤の為め一寸お盃を頂戴いたさせませう。オヤ何だかこれでは御婚礼の三々九度の様で御座います。と少しも間断なく幇助きますと、嬢様は恥かしいが又嬉しく、萩原新三郎を横目にヂロヂロ見ない態をしながら視て居りますと、気があれば目も口程に物をいふと云ふ譬の通り、新三郎もお嬢様の艶容に見惚れ、魂も天外に飛ぶ計りです。
さうかうする間に夕景になり、燈明がチラチラ点く時刻となりましたけれども、新三郎は一向に帰らうと云はないから、
志丈「大層に長座を致しました。サ御暇を致しませう。
米「なんですネー志丈さん、貴所は御同伴様もありますからマアよいぢやアありませんか、お泊なさいナ。
新三「僕は宜しう御座います。泊て参ても宜しう御座います。
志丈「夫ぢやア僕一人憎まれ者になるのだ。併し又斯様な時は憎まれるのが却て深切に成るかも知れない。今日は先づ是までとしておさらばおさらば。
新三「鳥渡便所を拝借致したう御座います。
米「サア此方へ入ツしやいませ。と先に立て案内を致し、廊下伝ひに参り「此処が嬢様のお室で御座いますから、マアお這入遊ばして一服召上ツて入ツしやいまし。新三郎は「難有う御座います。と云ひながら便場へ這入ました。
米「お嬢様へ、彼お方が、出て入ツしやツたらばお冷水を灌てお上げ遊ばせ。お手拭は此処に御座います。と新しい手拭を嬢様に渡し置き、お米は此方へ帰りながら、お嬢様が彼いふお方に水を灌て上げたならば嘸お嬉しからう。彼のお方は余程御意に適た容子。と独言をいひながら元の座敷へ帰りましたが、忠義も度を外すと却て不忠に陥て、お米は決して主人に猥褻な事をさせる積ではないが、何時も嬢様は別にお楽みもなく、鬱いで計り入ツしやるから、斯いふ串戯でもしたら少しはお気晴しになるだらうと思ひ、主人の為めを思つてしたので。
さて萩原は便所から出て参りますと、嬢様は恥かしいのが満胸で只茫然としてお冷水を灌けませうとも何とも云はず、湯桶を両手に支へて居るを、新三郎は見て取り、
新三「是は恐入ます。憚りさま。と両手を差伸べれば、お嬢様は恥かしいのが満胸なれば、目も暗み、見当違ひの所へ水を灌て居りますから、新三郎の手も彼方此方と追駆けて漸々手を洗ひ、嬢様が手拭をと差出してもモヂモヂして居る間、新三郎も此お嬢は真に美麗いものと思ひ詰めながら、ズツと手を出し手拭を取らうとすると、まだモヂモヂして居て放さないから、新三郎も手拭の上から恐怖ながらその手をジツと握りましたが、此手を握るのは誠に愛情の深いもので御座います。お嬢様は手を握られ赧顔に成て、又その手を握り返して居る。此方は山本志丈が新三郎が便所へ行き、余り手間取るを訝り
志丈「新三郎君は何処へ行かれました。サア帰ませう。と急き立てればお米は誤魔化し、
米「貴所なんですネー。オや貴所のお頭顱は閃々赫燿ツて参りましたヨ。
志丈「ナニサ夫は燈火で見るから輝るのですハネ、萩原氏萩原氏。と呼立れば、
米「なんですネー。宜御座いますヨー。貴所はお嬢様のお気質も御存じではありませんか。お貞操から仔細はありませんヨ。といふて居りまする処へ新三郎が漸々出来ましたから、
志丈「君那辺に居ました。誘帰りませう。左様なれば御暇申します。今日は種々御馳走に相成りました。難有う御座います。
米「左様なら、今日ハマア誠にお匆々さま。左様なら。と志丈新三郎の両人は打連れ立ちて還りましたが、還る時にお嬢様が新三郎に「貴君再た来て下さらなければ妾は死で仕舞ひますヨ。と無量の情を含んで言はれた言葉が、新三郎の耳に残り、造次も忘れる暇はありませなんだ。
──以下・続く──