函館
1
西暦二〇〇〇年の大晦日を、柊真一郎は写真スタジオの中ですごした。どこにも出かけなかったし、誰も訪ねてはこなかった。
写真スタジオの一角が応接コーナーになっていて、テーブルや椅子、ソファー、オーディオ・ビデオのセット、観葉植物といったものが置かれている。その日の午後、柊はソファーに座り珈琲を飲みながら一ヵ月分の新聞に眼を通し、たまっていた雑誌や郵便物の整理をした。
分厚いコンクリート壁に囲まれた写真スタジオの中は、しんと静まりかえっていてもの音ひとつしない。南洋の海底に沈んだ潜水夫みたいな気分だった。ジュール・ヴェルヌの『海底二万哩』に出てきそうな、古いタイプの潜水服を着た年寄りの潜水夫だ。彼は今、改訂の岩に腰かけて、じっと助けを待っている。命綱が切れてしまい、身動きがとれないのだ。しかし、誰も助けにきてはくれなかった。耳をすましても、聞こえてくるのは自分が呼吸する音だけだった。その上、だんだん眠くなってきた。酸素がなくなりかけているのだろう。このまま眠ってしまうと、永遠に眠りつづけてしまいそうな気がした。それは、まずい。しかし襲いかかってくる睡魔だけは、どうすることもできなかった。柊は、整理していた郵便物をテーブルの上に放り投げると、身体をソファーに横たえた。それからゆっくり目蓋をとじた。
目蓋の裏のスクリーンを、熱帯の魚たちが通りすぎていった。子供の外套ほどの大きさの真赤な魚が近づいてきた。長く伸びた背ビレや尾ヒレをひらひらさせながら、優雅なダンスを踊った。水中で燃えあがるたいまつの炎みたいにきれいだった。電話のベルが鳴ったのは、その時だった。
柊の眼前にあるテーブルの上には、電話機が二台、置いてある。黒いやつと灰色のやつ。黒い方は以前からつかっているもので、写真スタジオの専用電話だった。仕事上のうちあわせは、全てこの電話で行う。灰色の方は、プライベート用につかうために、つい三日前にとりつけたものだ。
柊は、夏の終わりに妻との離婚調停が成立して家を出た。住むところがなくなったので、ホテルを転々としながら写真スタジオに通った。暗室のとなりにあった倉庫を改造したら、キッチンとベッドルームができた。これでどうやら住宅らしくなった。この間の私用電話はケイタイをつかっていたのだが、ビルの地下あるトーチカのようなこの写真スタジオでつかおうとすると、急に声が小さくなったり途切れたりする。やむをえず、もう一本別の電話機をとりつけることにした。だが、この三日間、かけることはあっても、かかってきたことは一度もない。まだ誰にも電話番号をおしえていないからである。
柊は当然のように黒い方の電話機に手を伸ばした。しかし違っていた。意外なことに、ベルが鳴っていたのは灰色の方の電話機だった。
〈いったい誰だろう……〉
かかってくるはずのない電話機のベルが鳴っているのだ。不審に思いながら受話器をとると、年とった女の声がした。
「もしもし……」
周囲をはばかっているのか、無理に押し殺したような低い声である。
「はい」
柊はこたえた。
ややあってから、老女が言った。
「わたなべさん……、わたなべさん……、ですよね」
「いえ、ちがいますが、……」
「えっ」
老女はおどろいたような声をたてた。
「わたなべさん……、じゃないんですか」
「ええ、ちがいます。何番におかけになりましたか」
老女は、心細そうな声で電話番号を告げた。
「番号はあっています。しかし、あいにくですが、ぼくは、そのわたなべさんという方ではありません」
「でも、変ですね……」
と老女はつづけて言った。
「ついこのあいだまでは、この番号、たしかにわたなべさんだったんですけど」
「このあいだって、いつ頃のことですか」
「一ヵ月、いえ、一ヵ月半くらいになるかしら……」
「きっと売り払ったんでしょう。そのわたなべさんという方は、電話の加入権を……。それをたまたま、ぼくが買いとったというわけです。こういうことはよくあることで、別に珍しいことではありません」
「あのう……」
さぐるような声で老女は言った。
「もしもあなたが、わたなべさんでないというなら、あなたは、どこのどなたなんでしょう」
柊は少しむっとした。
「誰だっていいじゃありませんか」
「よくないんです。誰ですか、あなた!」
「しつこい人だなあ。まちがい電話をかけてきた相手に、ぼくはいちいち自分の名前をおしえたりしませんよ」
「やっぱり、わたなべさんなんだ」
「ちがいますよ」
「ねえ、わたなべさん。今は冗談を言ってる場合ではないんです。こちらでは、たいへんなことになっているんです。ねえ、聞いてます? わたなべさん……」
「ちがうんですよ」
柊は語気を強めて言った。
「何度言ったらわかるんですか。ぼくは、断じて、わたなべさんではありません」
「それじゃあ、いったい誰なんですか」
「あのね……」
柊は、高ぶる感情をおさえながら、
「そんなに相手の名前が知りたいなら、まず、自分の方から名乗るのが礼儀というものでしょう。あなたこそ、どこの、どなたなんですか」
「函館の、くぼやまですよ、知ってるくせに」
不愉快そうな声で老女が言った。
「知りませんよ、そんな人」
柊は吐きすてるように言った。
「いいですか、ぼくは函館に親戚もいなければ知人もいない。もちろん、あなたとは一面識もない。これはね、ただのまちがい電話なんです。残念ながら、ぼくはあなたが話したがっているわたなべさんでは百パーセント、ありません。柊というものです」
「ひいらぎ……?」
「そう、柊。木へんに冬と書いて"ひいらぎ"と読みます。どうしてこんなことを見ず知らずのあなたにおしえなくちゃならないんだろう。わかりましたか? とにかくぼくは、わたなべさんではありません。でもね、ぼくがわたなべさんでなくて、柊だからといってぼくを責めないでいただきたい。責められても困るんですよ。わたなべさんじゃないんだから。わかりましたね、仕事がありますから、このへんで切りますよ」
「ちょっと、ちょっと待ってください、わたなべさん! ねえ、わたなべさん!」
老女の、すがるような声がひびいた。
「それでは、さようなら」
柊はかまわず電話を切った。
五分ほどが過ぎた。
また、電話のベルが鳴った。今度も灰色の方の電話機である。
「はい」
柊が受話器をとって耳にあてると、いきなり老女の甲高い声がひびいた。
「わたなべさん! わたなべさんなんでしょ。あなたがわたなべさんだってことは、ちゃんとわかっているんですよ。わたなべさんのくせして、自分はわたなべさんじゃないなんて、どうしてそんな嘘をつくんですか。すぐにバレるような見えすいた嘘を、どうしてついたりするんですか。ごまかされませんよ。ごまかされたりするもんですか。ねえ、わたなべさん。あんまりじゃありませんか。ひどいじゃありませんか。無責任じゃありませんか。あゆみが死にかけているっていうのに。どうして逃げたりするんですか。ひきょうじゃありませんか。あなた、それでも、人間ですか!」
老女は一方的にまくしたてると、言葉につまり、今度はたまりかねたように、わっと泣き出した。
「ちょっと待ってくださいよ」
あわてて柊は言った。
「あなたの言ってることは、ぼくにはさっぱりわからない。ちんぷんかんぷんなんですよ。そんなに興奮しないで、もっと冷静になって、順序だてて話してくれないと困ります。ええと、たしか函館のくぼやまさんとおっしゃいましたね、くりかえすけれど、ぼくは誓って、そのわたなべさんではありませんし、あなたの言うあゆみさんとかいう人のことも、全く、心当たりはないんですよ」
「また、そんな嘘をつく。あゆみのことを知らないだなんて、冗談もいい加減にしてください。わたしの娘のあゆみのことですよ。あなたの奥さんのあゆみのことですよ。子宮癌で入院しているあゆみのことですよ。市民病院の先生はね、今日か明日あたりが山だって……。だから今日もこれから市民病院に行くんじゃありませんか。孫たちをつれて」
「孫?」
思わず柊はくりかえしていた。
「わたしの孫、つまりあなたの子供ですよ。カリンとサトルのことですよ。まさか、あなた。自分の子供のことまで忘れたなんて言うんじゃないでしょうね。それでも父親ですか。あんまりじゃありませんか。幼ない子供たちをほったらかしにして、電話ひとつよこさないで。子供たちは毎日のように泣いてますよ。お父さんは、いつ帰ってくるの。明日は帰ってくるの。それともあさってなの。ねえ、わたなべさん。あなた、あゆみに約束したそうですねえ」
「約束なんかしてませんよ」
「羽田で、飛行機に乗る前に。今は一緒に行けないけど、大晦日までには必ず迎えに行くって、あゆみとカリンとサトルの前で、はっきりと約束したそうじゃありませんか。今日が何日だと思っているんですか。三十一日ですよ。大晦日ですよ。どうして帰ってこないんですか。どうして大事な約束を破って平気なんですか。ねえ、わたなべさん、あなた、それでも夫ですか。それでも父親ですか。あゆみが、あなたの奥さんが、今にも死にそうだっていうのに、そんなところで、何をぐずぐずしているんですか!」
電話の向こうで、
「おばあちゃん」
と呼びかける声がした。五歳か六歳くらいの少女の声だった。
「それ、お父さんなの?」
と少女はたずねている。
「お父さんだよ」
と老女がこたえた。
「かして!」
少女が電話口に出て叫んだ。
「お父さん! お父さんなの?」
「もしもし」
と柊は言った。残念ながらぼくは君のお父さんではない、と言おうとしたが、少女は聞く耳をもたなかった。かえって「もしもし」という大人の男の声を聞いて、お父さんにちがいないと確信したようであった。
「あ、お父さんだ! お父さんだ! お父さんだ! ねえ、お父さん、いつ帰ってきてくれるの。お父さん! 早く帰ってきて、ねえ、お父さん!」
受話器をめぐってもみ合う音がした。誰かが少女の傍に来て、受話器をとろうとしたらしい。少女が「ちょっと、待ちなさい! サトルったら」と叱るのだが、うまくいかなかったのだろう。突然三歳くらいの幼児が電話口に出て大声を張りあげた。
「おとうさあん! おとうさあん! おとうさあん! 聞こえる?」
「聞こえてるよ」
柊は仕方なくこたえた。
「あのね、おとうさん! いっしょに、病院、行こっ! おかあさんのところに、行こっ! あのね、あのね……」
再び受話器をとり合う音がした。それから唐突に電話が切れた。
柊は
写真スタジオの隅に小型犬用のハウスが置いてある。ハウスの奥でうずくまり眠っていた黒い影が、むっくり起きあがった。そうしてハウスの外に出て大きな
「柊さん……」
ミニチュア・ダックスフントのハナコは眼で語りかけてくる。
「やあ、ハナコ。起きたのか」
ハナコは、朝も昼も夜も、ひまさえあれば眠っている。眠っていない時は、食べている。
「なんだか、うかぬ顔してますね」
「ああ」
「どうしたんですか」
「妙な電話があって」
「どこから」
「函館」
「ハコダテ……?」
「北海道の函館という町に住んでいる久保山さんという女性でね。齢の頃は、六十代中頃ってところかな。そのおばあさんが、ぼくのことをわたなべさんという人だと思い込んで、電話をかけてくる。いくらまちがい電話だと言っても、言うことを聞いてくれない。どうにも手におえない」
「用件は、何なのですか」
「これが、どうもこみいっていて。そのおばあさんにはあゆみという名前の娘がいて、ぼくの、いや、そのわたなべさんという人の奥さんなんだそうだ。で、あゆみさんは今、函館市民病院に入院していて、しかも重態らしいんだよ」
「それはいけませんね」
「あゆみさんには、小さな子供が二人いて、それはつまり、あゆみさんとぼくの間にできた……」
「えっ?」
「ちがった。ぼくじゃなくて、そのわたなべさんという人との間にできた子供なんだが、その二人がぼくに向かって電話口で叫ぶんだよ。お父さん! 早く帰ってきて! お父さん! 早く帰ってきて!」
「たまりませんね」
「たまらない」
「どうするつもりですか」
「どうすることもできない」
「きっと、また、かかってきますよ」
「きっと、また、かかってくるだろうな」
「めいわくな話ですね」
「めいわくな話さ」
「今日はわたし、柊さんと二人っきりの水いらずで、とてもいい気分になりかけていたのに、愉快じゃありませんね」
「まったく」
「いっそ、おまわりさんにしらせますか」
「さあ、どうかな」
「おまわりさんに叱ってもらったら、もう、かけてきたりしないでしょう」
「そうとは限らないさ。彼らは何しろ信じこんでいるんだ。ぼくが、まぎれもなくわたなべさんだってね。しかも、悪気があってやっているわけではない。これはたんなる誤解なんだ。早く、まちがいに気がついてくれればいいんだが……」
そう言うと柊は、頭のうしろで両手を組み、長いため息をひとつもらした。
「まちがい電話のおばあさんは……」
しばらくたってからハナコが言った。
「たしか、ハコダテの人でしたね」
「うん」
「ハコダテって、どんな町ですか」
「さあてね」
柊はこれまで、ファッション雑誌から依頼されたグラビア撮影の仕事で、何度か函館に足を運んだことがある。
「山があって、海があって、坂がある」
「それから……?」
「山の中腹には異国の教会があって、たしか海辺には外人墓地があったな。ロープウエイで山頂に登ると夜景がきれいだった。そうだ、町の通りを電車が走っていたな。チンチンと鐘を鳴らしながら小さな電車が走っていた」
「楽しそうな町じゃありませんか」
「むしろひっそりした町さ。道行く人々は無口で、まるで影のようだった」
「かげ……?」
「夕陽に照らされた時、うしろをふりかえると地面の上に自分の影が長く、どこまでも長く伸びているだろう?」
「ええ」
「どうしてだろう。あの町に行くと不思議なことに、自分の影がふだんより長くなったような気がする」
「まさか」
「だから、あの町の子供たちは夕方になるとみな、"影踏み"をして遊ぶ」
「かげふみ……?」
「夕陽が沈むと、影も消えてしまう。子供たちはみな、それぞれの家に帰ってゆく。ばんごはんを食べる。寝る。そういう町さ」
「素敵。そういう町で、わたしも誰かと影踏みをして遊びたいな」
ハナコは目蓋をとじて、うっとりしたような表情でそんなことを言う。
「ねえ、柊さん」
急に目蓋をあけ、目を輝かせながら、
「ほんとうに、そのハコダテという町に行ってみませんか」
「何をしに」
「函館市民病院に入院しているあゆみさんのお見舞いに行くんですよ。ついでにロープウエイで山登りをして、異国の教会と海辺の外人墓地を見学して、チンチン電車に乗って帰ってくる」
「ばからしい」
「やっぱり、だめですか」
「お話にならない。だいいち、あゆみさんは赤の他人だよ。一度も会ったことがない、よその家のお奥さんだよ。そんな人のところにぼくらがお見舞いに行ったとしたら、よけいややこしくなるじゃないか。ただのまちがい電話が、ただのまちがい電話でなくなってしまうじゃないか」
「そうでしょうか」
「そればかりではない」
「というと?」
「あの町は、うんと遠い」
「どのくらい」
「飛行機でも一時間半はかかる」
「なんだ、すぐそこなんだ。どちらの方角ですか。北の方ですか、南の方ですか」
「北の方さ」
「寒そうですね」
「今頃は、まっ白な雪にすっぽりうずもれているだろう」
「まっ白な雪にすっぽりうずもれた北の町ですか。いいな。行ってみたいな。わたし、ほんとうに、そのハコダテという町に行ってみたくなりました。ねえ、柊さん、一緒に行きましょうよ、そのハコダテって町へ」
「どうぞ、ご勝手に」
「そうして二人きりで日が沈むまで、影踏みをして遊びましょうよ、まっ白な雪の上で」
ハナコは、恍惚とした表情で遠くを見る。
夕食の時間になった。
柊は、デリバリーのピザを注文して食べた。缶ビールをあけ、腹の中に流しこむようにして食べた。まずかった。食べながら、ふと、一年前のことを思い出した。一年前の大晦日の夜を、自分はどんなふうにしてすごしたのか。妻のキヌエと息子の洋介と三人で、あたたかな料理が並ぶ食卓を囲んですごしたのだった。
〈そうだ、シャンペンをあけたな〉
柊があけたシャンペンの栓は、ものすごい勢いで天井板を直撃したのだった。それから床の上を飛びはね、ころころと転がってゆき、寝そべっていたハナコの鼻の頭にこつんと当たったのだった。
「ビンゴ!」
洋介が大声で叫んだ。
びっくり仰天したハナコ。そのしぐさがいかにもおかしくて、三人とも腹をかかえてどっと笑ったのだった。家族三人が声をそろえて、あんなに笑ったのは久しぶりのことだった。そしてそれが最後の笑い声になった。
柊もハナコも夕食は終わったが、ベッドに入るにはまだ早い。時間つぶしに、借りてきたビデオを見ることにした。
一本目は香港製のギャング映画だった。ハナコは、ギャング映画が大好きだという。
「どうしてそんなに好きなんだい」
「だって、ダイナマイトが破裂すると、きれいじゃないですか」
二本目は時代劇だった。見始めてから十五分後にハナコが叫んだ。
「退屈です。これ以上、見ても無駄です」
だから途中でやめることにした。
三本目はフランス映画だった。冒頭、若い娘が橋の上から身投げするのである。溺れかけていた彼女を助けてやった中年男は、ナイフ投げの名人という珍しい設定だった。やがて二人はサーカスの舞台に出演して、拍手喝采を浴びるようになる。娘は板壁の前に立ち、ナイフの的になるのだ。男が投げるナイフは、ものすごいスピードで空中を飛んでゆく。そうして娘の首や頬や腕のすぐ傍に音立てて突きささる。
「スリルねえ!」
ナイフが飛ぶたびに、ハナコは歓声をあげるのだった。
夜もふけてきた。
三本目のビデオが終わったところで、柊が手元のリモコンでモニターテレビのモードをビデオから放送に切り替えると、いきなり画面いっぱいに花火が炸裂した。スターマインである。実況中継のアナウンサーらしき声がさかんに「あけましておめでとうございます」や「新世紀」あるいは「二十一世紀」という言葉を連発している。写真スタジオの壁にとりつけてある時計を見上げると、針はちょうど零時をさしていた。
ハナコがテレビを見ながら言った。
「また、ギャング映画ですか」
「どうして」
「だって、さかんにダイナマイトが破裂してるじゃありませんか」
「これはダイナマイトじゃない。花火っていうやつでね」
「へえ」
「しかもこれは映画ではない、現実さ。どこかの港で、お祝いの花火をあげているんだ」
「何のお祝いですか」
「二十一世紀」
「にじゅういっせいき?」
「西暦二〇〇〇年が、たった今、西暦二〇〇一年になった。つまり、二十世紀が終わって、二十一世紀が始まったわけだ。ハナコ、あけましておめでとう!」
「ねえ、柊さん……」
ハナコは急に真面目な顔になって、
「二十世紀が、二十一世紀に変わると、世の中はどうなりますか。やっぱり、いろんなことが、変わるものでしょうか」
「そりゃ、変わるさ。いろんなところでいろんなものが、大きく変わるだろうさ」
「やっぱりね……」
ハナコは眼を伏せてうなだれる。しかし、すぐに気をとりなおしたように、
「でも、柊さん、変わらないものだってありますよね」
「もちろん。すぐに変わるものもあれば、いつまでたっても変わらないものもあるだろうさ」
「ああよかった」
「何がよかった」
「決まってるじゃありませんか。わたしと柊さんのことですよ。二十世紀が二十一世紀になっても、わたしたちの関係だけは変わりませんよね。これまで通り、いつも一緒ですよね」
「なんだ、そんなことを心配していたのか、つまらない」
「なんだ、そんなことじゃありませんよ。これはとても大事なことなんだから。ねえ、柊さん、二十一世紀になっても柊さんは、わたしのことを捨てたりしませんよね。わたしのことをおきざりにして一人で遠いところに行ってしまったりしませんよね。もしも柊さんが、そんなひどいことしたら、わたし、泣きますよ。いえ、いっそのこと死んでしまいますよ」
「おいおい」
「どうやって死のうかしら、わたし……。そうだ。さっき見た映画みたいに、橋の上から身を投げて溺れてしまおうかしら」
「おいおい、待てよ」
「それでも死ねなかったらわたし、どうしよう。そうだ、いいこと思いついた。サーカスに入って、投げナイフの的になろうかしら。板壁の前に立って、ナイフが飛んでくるのをじっと待つんだわ。そうしてわざと身をよじって、ナイフにあたって、死んでやるんだわ」
「大げさな犬だなあ、君は……」
「冗談ですよ、冗談。まさかわたしが橋の上から身投げしたりするもんですか。投げナイフの的になったりするもんですか。だって柊さんが、わたしを捨てるわけがないもの。わたしを裏切ったりするわけがないもの。ねえ、そうでしょう?」
「ああ、その通り」
「安心してもいいかしら」
「いいとも」
「ほんとうに?」
「もちろんさ」
「ほんとうにほんとう?」
「もちろんだって」
ハナコの性格には、かなりくどいところがある。
「うれしい」
激しく尻尾を振りながら、ハナコがしがみついてきた。そうしてうしろ脚で棒立ちになると、そのざらついた長い舌で、柊の顔面をべろりべろりと舐めまわすのである。
その時、電話のベルが鳴った。
二十一世紀になって最初の電話は、やっぱり灰色の方の電話機だった。柊が受話器をとると、老女のくぐもった声がした。
「わたなべさん、わたなべさんですよね……」
柊は黙ったままで、何もしゃべらない。
「今、わたし、市民病院におります……」
沈黙。
しばらくたってから、老女のしぼり出すような声がひびいた。
「たった今、娘が、娘のあゆみが……、息を引きとりました……」
それきり、電話は切れた。
2
西暦二〇〇一年の元旦。
おだやかな正月である。だが、もし電話のベルが鳴らなかったならば、もっとおだやかな正月になっていたろう。プライベート用にとりつけた灰色の電話機は、たえまなくベルを鳴らしつづけた。
柊は、十二月の中旬に年賀状を出しておいた。そこには、自宅の住所が変わったこと。したがって自宅の電話番号も、新年を期して新しくなったことが印刷されていた。新年早々、電話をかけてくる相手は、友人や知人である可能性は十分あった。しかし、灰色電話機の液晶画面は、つねに"0138"で始まる電話番号を表示していた。それが函館の久保山さんであることはたしかだった。
考えた末に柊は、できるかぎり受話器をとらないことにした。留守番電話モードにセットしたのだ。
誰かが、柊の新しい自宅(それは、以前から主宰している写真スタジオのことなのだが)に電話をかけたとする。
電話のベルは、四回鳴る。
その後、柊のかわりに見知らぬ若い女が出てきて、感情のこもらない声でこんなことを言う。
「ただ今、留守にしています。ピーッと鳴りましたら、おそれいりますが、お名前とご用件をおはなしください」
すぐに、ピーッと金属音が鳴る。
柊はこの日、二度外に出た。
ハナコをつれて、近所の公園まで散歩に出かけたのだ。一度目の散歩は三十分ほどで戻った。二度目の散歩は寄り道をしたので少し長くなった。公園からの帰途、レンタルビデオショップに回って新着ビデオを四本借りた。それからコンビニエンスストアに立ち寄り、自分とハナコの食料を買い求めた。自分のためには、おせちセット。ハナコのためには"グレイハウンド印のハーブ入りナチュラル元気ゴールド小型犬用小粒タイプ"。このドッグフードさえあれば、ハナコはいつだって機嫌が良い。
朝の散歩から戻ると、柊はまっさきに灰色電話機の留守ボタンを確認した。やっぱり気になるのである。案の定、留守ボタンはライトを点滅させていて、留守番電話の着信があることをしらせていた。それも一度や二度ではない。おびただしい回数の留守番電話が記録されていた。
柊はボタンを押して、録音されたメッセージを再生してみた。最初の録音は、ごく短いものだった。
「わたなべさん……」
不安げな老女の声である。
「こちら、函館のくぼやまですが……」
しばらく沈黙したあと、
「こんな時に留守だなんて……。またあとでかけ直します……」
と言って電話は切れていた。
二度目以降の録音は、声の調子が変わっていた。くぼやまさんは自分の感情の高ぶりを、どうにもおさえられない感じだった。
「わたなべさん! わたなべさん! 本当はそこにいるんでしょう! そこにいるのよね。ちゃんと、わかっているんだから。あなたが電話のすぐ傍にいて、わたしの声を聞いてるってことが。どうして出ないんですか。どうして電話に出てくれないんですか。どうしてそんなに逃げたり隠れたりするんですか。それでも男ですか。情けない。本当に情けない。すぐに電話に出なさい! 早く受話器をとりなさい! 全く、あなたって人は……」
「全く、あなたって人は……、か」
柊はソファーに座り、灰色電話機の液晶画面をぼんやり眺めながら、くぼやまさんが吐き捨てるように言った言葉について考えてみた。くぼやまさんの立場に立って想像するならば、これにつづく形容詞や名詞は、決して誉め言葉でないことだけはたしかだった。
「なんて、無責任なやつ!」
あるいは、
「なんて、卑怯なやつ!」
といったところだろうか。
いや、このていどではとてもおさまりがつかないくらい、くぼやまさんは腹の底から怒っているのだろう。何しろわたなべさんという人は、病身の妻とまだ幼ない子供二人を函館の実家に帰したまま、行方をくらまし音信不通になったのだ。きっと帰ると約束した大晦日にも帰ってこない。とうとう妻の臨終にも立ちあってくれなかった。その上、電話を入れても、いつも留守。いや居留守をきめこんでいるらしい。だからくぼやまさんは自分の怒りを自分の悲しみをわたなべさんに伝えることができない。わたなべさんへの怒りは、ますますつのるばかりということになる。
〈まいったな……〉
と柊は呟き、深いため息をついた。人ちがいもここまでこじれると事態は深刻だった。こんなことになるなら、新しい電話なんか引くんじゃなかった……。そう思ったが、もちろんあとのまつりである。
〈それにしても……〉
と柊は考えた。自分がまちがえられたわたなべさんとは、いったいどんな人物なのだろう。
〈わたなべさんは、かなり困った人ではあるな……〉
それはたしかだった。
わたなべさんは、理由はともかく病身の妻と小さな子供たちをほったらかしにして、行方をくらましてしまうような亭主としては失格で、およそ父親のかざかみにもおけない、どうしようもなく駄目な人らしい。
〈けれどなあ……〉
柊は思う。
そういう駄目なわたなべさんが、仮にこれを"わたなべさん的なるもの"と呼ぶならば、そういう傾向や要素が、自分自身の身体の内側に全く存在しないのかと、胸に手を当ててつらつら考えてみると、決してそんなことはないような気がする。
〈わたなべさんは、どこにでもいる〉
わたなべさん的な傾向や要素は、実は誰の身体の中にもあるのであって、人間はみな多かれ少なかれ、わたなべさん的なるものを内側に秘めながら、日々を生きているのではなかろうか。
〈ところがだ……〉
人々は、そのことを思い出したくない。他人はともかく、自分だけは、わたなべさん的なるものとは全く無関係で、そんなものは見たことも聞いたこともないみたいな顔をして、日々を生きたいと思っているふしがある。
〈自分も、その例外ではないな〉
と柊は思うのだ。
それにしても、まちがい電話とはいえ、函館のくぼやまさんからあまりに確信をもって、
「ねえ、わたなべさん……」
と、言われつづけると、柊は少し妙な気分になってくる。すっかり忘れていたわたなべさん的傾向のことを、ふと、思い出してしまうではないか。寝た子を起こすように、自分の心の暗闇の奥で、何十年もの間、気持良く眠っていた"わたなべさん的なるもの"に、いきなり懐中電灯の光を浴びせたりしたら、彼はすっかり怒ってしまって暴れ出すかもしれないではないか。それはかなり恐い話だと、柊は思う。
くぼやまさんの留守番電話には、こんな録音も残されていた。
「さっき、あゆみが戻ってきました。今は、八畳の間に安置しています。市民病院に入院するためにこの家を出ていった時は、まだあんなに元気でぼっちゃりしていたのに、こんなに痩せ細って、まるで鉛筆みたいに……。こんな変わり果てた姿で戻ってくるなんて……」
くぼやまさんの泣き声は、いつまでもやまなかった。
一月二日の留守番電話。
「あゆみの、臨終の時のようすを、お話しします」
くぼやまさんはしんみりした声で言った。
「わたなべさん、あゆみはね、さいごのさいごまであなたのことを信じていました。
『きよしさんは、きっと来る。きっと来てくれる。だってあんなに約束したんだもの。大晦日までにはどんなことがあってもきっと迎えに行くって……』
あゆみは、そう言いつづけました。
でも、大晦日が近づくと、さすがに不安そうな顔で、
『お母さん、きよしさんはまだかしら。変ねえ、どうしたのかしら。この大雪で、飛行機が飛ばなくなったのかしら。それともタクシーが動かなくなったのかしら。でも、大丈夫よね。きよしさんはきっと来てくれるわよね。だって約束したんだもの』
あゆみは自分に言いきかせるように、そう言いつづけました。でも、あなたは来てくれませんでした。
いよいよ臨終の時、あゆみはようやくあきらめたのでしょう。
『きよしさん、とうとう迎えに来てくれなかったみたいねえ……』
ぽつりと呟くように言うと、あゆみの目から涙がこぼれおちてきました。それからあゆみは、子供たちをベッド脇に呼びました。自分の右手をゆっくりゆっくり伸ばして、カリンの手をとり、小さな声で、
『カリン……』
と呼びかけました。
それから今度は自分の左手を伸ばして、サトルの手をとると、やっぱり小さな声で、
『サトル……』
と呼びかけました。
子供たちの手を両手で固く握りしめながら、あゆみはわたしの方に向かって、
『お母さん……』
と言いました。
『お母さん、ごめんね』
と言うんです。
『あゆみ!』
わたしは思わずあゆみの身体を抱きしめました。あゆみはけんめいに唇を開いたり閉じたりして、何か言おうとしています。でも声がかすれていて、よく聞きとれません。
『何だって?』
わたしは自分の耳を、あゆみの唇のすぐ傍まで近づけました。あゆみはいっしょうけんめいにこう言おうとしていたのです。
『カリンと、サトルのこと、おねがい……』
わかった、わかった、そんなこと心配しなくてもいいんだと、わたしは何度も何度も首を振ってうなずきました。あゆみの目に、よく見えるようにうなずきました。
その時です。
あゆみの視線が急にはずれていったんです。わたしでもなく、子供たちでもない、全くちがう方に向かってはずれていったんです。ちょうど、病室の窓の方でした。雪が吹きつけて、窓ガラスの桟のまわりは真白になっていました。その間から外の暗闇が見えました。あゆみは、外に広がる暗闇の方を、じいっと見つめながら、一言だけ呟いたんです。
『あ、きよしさん……』
おおかた、あなたが駈けつけてくれた、そんな幻でも見たんでしょう。
でも、それが最後でした。目をあけたまま、あゆみはこと切れていました。不憫じゃありませんか。頬のあたりにうっすらと、微笑まで浮かべながら死んでいたんです。
カリンが抱きついて、
『お母さん!』
と叫びました。
サトルは、自分が今おかれている状況がよくわからない様子でしたが、母親が急に動かなくなったので、おどろいた声で、
『お母さん!』
と叫びました。
それから二人とも、わっと泣き出しました。
わたしはあゆみの身体にしがみついて、両手であゆみの胸をゆらしました。
『あゆみ、起きなさい!』
『あゆみ、起きなさい!』
でも、あゆみは二度と起きてはくれませんでした」
柊はこの録音を、ソファーに座って聞いた。だが、再生が終わっても、くぼやまさんの声は消えてくれなかった。今度は、柊の頭の中で再生されるのである。何度もくりかえして再生されるくぼやまさんの声は、耳にはりついてどうしても消えてくれないのである。
鈴の音が近づいてきた。
「どうしたんですか、柊さん」
ソファーの傍に座ったハナコが、目で問いかけてきた。
「どうもしないさ」
と、柊。
「でも、どこか変です」
「どこが」
「泣いているみたいに見えます」
「まさか」
「でも、涙が出てます」
柊が頬に手をあてると、指の先がぬれている。
「なるほど」
「ほらね」
くぼやまさんの録音を聞いているうちに、いつのまにか泣けてきたらしい。
「柊さんにしては、珍しいことですね」
たしかにハナコの言う通りだった。柊は、人前で喜怒哀楽の感情をほとんどあらわさない。
「あゆみさんという女性が、あんまりかわいそうでね……」
「ところで……」
とハナコは言った。
「わたなべさんて人は、見つかったんですか」
「見つからない。函館のくぼやまさんは、あいかわらずぼくのことをわたなべさんだと勘ちがいしている。だから、さかんに電話をかけてくる」
「わたなべさんは、どこにいるんでしょう」
「さあてね」
生きているのか、死んでいるのか、それさえわからない。もし生きているなら、日本のどこかにきっといるにちがいない。
「おまわりさんにたのんで、さがしてもらいますか」
「君は、おまわりさんが好きだね」
「そういうわけでもないけど」
ハナコが言うように、案外、それが一番てっとりばやい方法かもしれない。くぼやまさんが警察に、わたなべさんの捜索願を出して捜してもらうのだ。しかし警察は、わたなべさんを見つけ出すことができるだろうか。
「いずれにしても……」
と柊は言った。
「今の留守番電話の録音を聞いて、一つ、わかったことがある」
「へえ、何ですか」
「わたなべさんの名前さ」
「なまえ?」
「わたなべさんはね、"わたなべきよし"という人らしいんだ」
一月三日の午後である。
「もしもし……」
今日もくぼやまさんは電話をかけてきた。少し考えてから、柊は受話器をとって、
「はい、柊です」
とこたえた。
「あら、わたなべさん。今日は留守番電話じゃないんですか。ようやく改心して、電話に出ることにしたんですか」
「ちがいますよ。何度も言いますが、ぼくはわたなべさんではなくて、柊なんですから。つまり、あなたとは赤の他人なんですから。でもね、赤の他人でも、知ってしまったんですよ、留守番電話で、あなたの置かれている苦しい立場を……。知ってしまった以上は、どうしてもほうっておけなくなりまして。これがぼくの性分なんです。で、気持だけお伝えします。このたびのお嬢さんのこと、あゆみさんのことですが、心からおくやみ申し上げます」
「何を今さら、他人事みたいに」
「もう少し聞いてください」
柊はつづけて言った。
「わたなべさんのことですが、そろそろ警察に届けた方がいいと思う。もしかするとわたなべさんは、あなたが思っているほど悪い人ではないかもしれない」
「自分の肩もってどうする気ですか」
「ちがいます。もしかするとわたなべさんは、大晦日にそちらへ行こうとしてがんばっていたかもしれない。しかし、どうしても行くことができない状況におちいっていたかもしれない。何か、抜きさしのならない理由があって、行けなかったことも考えられる」
「何ですか、理由って」
「たとえば急病になったり、行き倒れたりして、意識不明でどこかの病院にかつぎこまれているのかもしれない」
「まさか」
「あるいは、頭を強く打って記憶喪失症になって、自分が"わたなべきよし"であるってこともわからなくなっているかもしれない。とにかく、一刻も早く本人を捜し出した方がいい」
「あなたが本人じゃありませんか。どうしてそんなシラを切るんですか」
くぼやまさんは、やっぱりとりあってくれない。
くぼやまさんの留守番電話によると、三日がお通夜で、四日が葬式だった。録音の中に、
「ハリストス正教会」
という言葉があったので、柊は〈おや〉と思った。どうやらくぼやまさんとあゆみさん一家は、ロシア正教徒ということらしい。
一月四日の午前十一時。
「今日は、あゆみさんの葬式の日ですね」
とハナコが言う。
柊は、壁の時計を見上げながら、
「ああ、ちょうど今頃だな。場所は、ハリストス正教会だそうだ」
「なんだか、ほんとうに身近な人が亡くなったみたいな妙な気分ですね」
「まったく」
「弔電でも打ちますか」
「何といって」
「つまり……」
ハナコは天井を仰いで考えるふりをした。しばらく考えたが、何も思いつかなかったようである。
「やっぱり、やめましょう」
ハナコはつづけて、
「その代り、あゆみさんを偲んで、おいしいごはんを食べましょう」
ハナコはどんな時でも食べ物のことを忘れない。
一月五日の留守番電話の録音。
くぼやまさんの声は疲れきっていた。
「わたなべさん……。あなたはとうとう、お通夜にも葬式にも来てはくれませんでしたね。わたしは心から、あなたのことを憎みます。あなたは、きっといい死に方をしない人だと思います。いいえ、あなたは人なんかじゃない、けだものです。いいえ、あなたはけだもの以下です。そうだ、あくまです。わたしは娘の不運と不幸を、天に向かってのろいます。どうしてあゆみは、あなたみたいなあくまと出会ったんだろう。どうしてあゆみは、あくまの子供を二人も産んでしまったんだろう……」
留守番電話の録音を聞きながら、
「やりきれませんね」
ハナコはため息をついた。
「まったく、やりきれんな」
柊もため息をついた。
「このまちがい電話、いつまでつづきますかね」
「さあてね」
「永遠につづいたらどうしよう」とハナコ。
「まさか」と柊。
一時は永遠につづくかもしれないと心配したのだが、函館のくぼやまさんのまちがい電話は、突然、解決した。くぼやまさんは自分で自分のまちがいに気がついたのだ。そのきっかけは、ごくささいなことだった。ハナコのおかげだった。
一月六日の午後である。
「もしもし、わたなべさん……」
いつものようにくぼやまさんは電話をかけてきた。柊は受話器をとって、
「はい、柊です。何度も言いますが……」
くぼやまさんはかまわずにつづけた。
「わたなべさん、あなたには心底から愛想がつきました。もう何も期待しません。もうこちらに来てくれなくてけっこうです。今日はおしらせだけします。お
「お骨……?」
「そうです。あゆみのお骨のことです。あゆみのお骨は、しばらくこの家においておきます。納骨してしまうと、あゆみは急に一人ぼっちになって、きっと淋しがるでしょう。それよりも、もうしばらくこの家にいた方が、子供たちもいるし、いくらか気もまぎれるでしょう」
「なるほど」
「それにね……」
とくぼやまさんは言った。
「今の季節、納骨は、したくてもできないんです」
「どうしてですか」
思わず柊はたずねていた。
「雪です」
くぼやま家のお墓は、外人墓地に隣接するハリストス正教会墓地にあるという。
今年の函館は久しぶりの大雪で、外人墓地のあたりは一メートルほどもつもっていて、納骨するどころか、お墓に近づくことさえできない……。
「ですから納骨は、春になってからします」
春になって雪が消えて桜の咲く頃、孫たちをつれて納骨しに行きます。
「どうせその時も、わたなべさん、あなたは来るつもりはないんでしょう」
くぼやまさんはそんなことを言う。
その時である。玄関のチャイムが鳴った。
〈誰だろう〉
新年になって初めての訪問者である。
次の瞬間、フロアーの隅に置かれたハウスの中から、猛烈ないきおいでハナコが飛び出てきた。「うわんうわん!」と小型犬には不釣合な大声をあげて吠えながら、玄関扉の方に突進してゆく。一応ハナコは、自分が番犬のつもりでいるらしいのである。
「少々、お待ちください」
柊はテーブルの上に受話器を置くと、フロアーを横切り、玄関扉を開けた。扉の陰に宅配便の若者が立っていた。ハナコは若者に向かってなおも激しく吠え立てた。柊はサインをし荷物を受けとると、ソファーに戻った。受話器をとりあげ、
「お待たせしました」
と言った。すると、すぐに、
「あのう……」
というくぼやまさんの声がした。その声の調子が、これまでと全くちがっていることに柊は気がついた。
「あのう、あなたは、もしかすると、わたなべさんではありませんね」
柊は思わず吹き出しそうになった。
「だから最初から言ってるじゃありませんか。ぼくは、わたなべさんではありません。柊というものですって」
「すみません。たった今わかりました」
「わかればいいんです。でも、どうして突然、気がついたんですか」
「犬です」
「え」
「さっき、犬が吠えましたね」
「ええ」
「おたく、犬を飼っていらっしゃるんですよね」
「飼ってますよ、たしかに」
「それでわかりました。あなたが、わたなべさんではないってことが」
くぼやまさんの話は、こういうことである。
わたなべさんは小さい頃、犬に咬まれたりしてひどくこわい目にあったらしい。それ以来、犬が大嫌いになった。犬の匂いがしただけで鳥肌が立つ。犬の声を聞いただけで脂汗が吹き出てくる。犬に抱きつかれでもしたら口から泡を吹いて卒倒しかねない。それくらい重症の犬恐怖症になってしまった。
あゆみさんと一緒に町を歩いていた時、わたなべさんが突然、立ち止まり、あわてて反対の方角に向かって走り出すことがあったという。どうしたのかとたずねると、路地の向こうに犬がいるから、とこたえる。五十メートルも先にある路地のことだ。犬の姿が全く見えなくても、本能的直感的にわかるらしいのだ。犬好きの人間にとっては、およそ信じられない笑い話のようなことではあるが、わたなべさん本人にとっては、生き死ににかかわる深刻な問題なのである。
「そういうことを、あゆみから、よく聞かされておりましたので……」
犬の大嫌いなわたなべさんが、よりによって犬と一緒にいるはずがない。だとすれば、今の今まで、あなたのことをわたなべさんだとばかり信じてきましたが、別人であることがよくわかりました。
「すみません、本当にすみません……」
くぼやまさんは消え入りそうな声であやまりつづける。
「わかればいいんです。あまり気にしないでください。まちがいは誰にでもあります」
「はい、わたなべさん……」
とくぼやまさんは言った。すぐに、
「あ、また、まちがえてしまいました」
「柊です」
「柊さん。本当に申しわけありません。どうあやまったらいいのか、言葉も見つかりません。ごめんなさい。本当にごめんなさい。どうか、悪く思わないでください。娘がこんなふうになってしまって、孫たちは泣きさわぎますし、でも相談する相手もいませんし、もう、どうしてよいのかわけがわからなくなってしまって、すみません、本当にすみません……」
そう言ってくぼやまさんは泣くのである。
「ハナコ、よろこべ」
柊はハウスに向かって言った。
「どうしたんですか、柊さん」
ハナコは目を輝かせながら飛びついてきた。
「まちがい電話事件が解決した」
「嘘」
「嘘じゃない、本当さ」
「どうやって解決したんですか」
「これが、君のおかげなんだよ」
「え」
「ぼくがくぼやまさんと電話している特、宅配便が来て、君、吠えたろ」
「よくわからないな」
「わたなべさんは、犬が大嫌いな人なんだそうだ。それでね……」
「犬が大嫌い……?」
ハナコは不思議そうな表情で言った。
「そんな人が、世の中にいるんですか」
「ああ、中には」
「信じられませんね……。でも、そのわたなべさんて人、かわいそうな人だな」
「どうして」
「だって、わたしのような可愛らしい犬にまだお目にかかったことがないから、そんなばかなことを言うんだわ」
ハナコは平然と言いはなった。
「もしわたなべさんが一目でもわたしを見たら、今度はきっと、犬が大好きな人になるでしょうね」
柊は唖然として、言葉を失った。
一月七日の夕方。
くぼやまさんから最後の電話が入った。くぼやまさんは昨日までの非礼を、もう一度ひらあやまりにあやまった。それから、わたなべさんの捜索願を警察署に出したことを告げた。
「少し聞いてもいいですか……」
柊は、ちょうどいい機会なので、まちがい電話を受けるたびに感じていた疑問を問いただすことにした。
「ぼくの声は、そのわたなべさんて人の声に、それほど似ているんですか」
「それが……、ちがうんです」
くぼやまさんは恐縮した声で言った。
「実はわたし、わたなべさんとじかに会って会話したことは、一度もないんです。ええ、電話でも……」
「しかし、わたなべさんは、あなたのお嬢さんのご亭主ですよね」
「それは、そうなんですが……」
くぼやまさんの話はこういうことだった。
「わたしは、ロシア人の父と日本人の母の間に生まれました」
日本人と結婚して、あゆみが生まれました。つまりあゆみの身体には、ロシア人の血が四分の一流れていることになります。
あゆみは高校を卒業すると、しばらく函館市内のロシアレストランで働き、その後、上京して都内のロシアレストランで働くようになりました。その店でコック見習いのような仕事をしていたわたなべさんと知り合って同棲し、子供を二人産みました。籍は入れたようですが、結婚式のたぐいは一切しませんでした。
「わたしは、がっかりしました」
娘の花嫁姿を夢見ない母親はいません。
「そして怒りました」
勝手にしなさい、と言ったら、彼らは、勝手にさせてもらう、と言って、わたしたち親子はお互い口もきかなくなりました。親の気持など、これっぽっちもくんでくれないのです。自分たちだけで世の中を渡っていけると、自信満々でした。でも、結局それは錯覚だったんです。
「わたなべさんの弱点は、飽きやすいことでした」
お金にルーズで、そのうえギャンブルが大好きでした。借金がもとでお店をやめさせられました。新しい店に移りましたが、そこも長つづきせず、家でごろごろするようになりました。あゆみは再び働きに出るようになりました。家事と育児と深夜労働です。無理をし過ぎて身体をこわしました。
「ある日、あゆみが泣きついてきました」
実家に帰ってもいいだろうか……。わたしは喜びました。これでようやく孫の顔がおがめる。亭主の顔もおがめる。昨年の八月、あゆみは子供たちの手を引いて帰ってきました。函館を出てから六年ぶりの帰郷です。
「でも、わたなべさんは来ませんでした」
東京に残って職さがしをしたい。まとまった金ができたら迎えに行く。遅くとも大晦日までにはきっと迎えに行くから辛抱してくれ、と羽田で別れぎわに言ったそうです。しかし……。
「別居は、やはりするもんじゃありませんね」
どんなに苦しくても、夫婦は一緒にいるべきですね。最初の頃、あゆみは毎日のように電話していました。それがだんだん三日おきになり、一週間おきになりました。でも、わたなべさんの再就職は、なかなかうまくいきませんでした。十月のはじめに電話したら、
「二、三日、旅に出てくる」
と、わたなべさんは言ったそうです。
四日後に電話したら「この電話は現在つかわれておりません」というメッセージが流れてきました。変に思って、東京の住所に電報を打ったり手紙を出したりしましたが、全部宛先人不明で戻ってきました。以前つとめていたお店にも問い合わせてみましたが、わかりませんでした。わたなべさんの故郷は熊本だそうです。あゆみが熊本の実家に電話を入れたら、「そんなやつは知らん」と怒鳴られたそうです。わたなべさんは若い頃、家出同然で郷里を離れて以来、絶縁状態だったんです。
「あゆみが、癌で入院しました」
十二月の三日のことです。発見された子宮癌は、すでに末期でした。それからはわたしがあゆみの代りになって、必死でわたなべさんを捜しました。心当たりは全てあたりました。でも、見つかりませんでした。
「あの電話だけが、頼りでした」
日に何十回となくかけました。でも、徒労でした。そして大晦日、これが最後だと祈るような気持でかけたら、柊さんが出たというわけです。
「なるほど」
と柊は言った。
わたなべさんはなぜ、忽然と姿を消したのか……。善意に解釈すれば、わたなべさんは今も旅に出ていて、いっしょうけんめい働いて、家族を迎えに行くためにがんばっているのかもしれない。
だが悪意に解釈するならば、わたなべさんは早い話、お荷物になった家族を捨てたのだ。いともあっさりと。はてどちらだろう? それはわからない。本人に聞いてみなければ、わからない。
「ごめんなさい。つまらない話をしてしまいました」
くぼやまさんは恐縮した声で言った。
「早く見つかるといいですね、わたなべさん……」
と柊はこたえた。
その時、電話の傍で少女の声がした。
「おばあちゃん! それ、お父さん?」
くぼやまさんはおろおろした様子で、そうだとも、そうでないともこたえない。
「お父さんなのね。お父さんが電話かけてきたのね。かして!」
くぼやまさんの手から無理矢理、受話器をとったらしい少女の声がひびいてきた。
「お父さん!」
柊はどうこたえたらよいのかわからない。もし「はい」と返辞をしたら、少女にも自分にも嘘をつくことになる。
「お父さん! お父さん!」
少女はなおも叫んでいる。
柊はあいかわらず黙ったままだ。
「おねがいだから、何かしゃべって!」
柊はこらえきれなくなって、ただ一言、
「もしもし」
と言った。
一瞬の沈黙のあと、少女が叫んだ。
「あ、お父さんだ!」
少女はつづけて、
「お父さんだ! お父さんだ! お父さんだ!」
と叫びつづけた。
柊は切なかった。少女はこんなにも父親に会いたがっている。しかし、実の父親はどこにいるのかわからないのだ。少女のために何かしてあげたいと思う。だが柊には、どうすることもできない。
「おねえちゃん! ぼくにもかして!」
その時、小さな男の子の声がした。少女から強引に受話器をとりあげたらしい男の子が電話口で叫んだ。
「あのね! ぼくね! 今日はね!」
耳元で鼓膜の破れそうな大声を立てる。
「雪ダルマ、つくったあ!」
柊が黙っていると、再び男の子が叫んだ。
「もしもし! きこえますかあ!」
柊は仕方なく、こたえた。
「はい、きこえます」
男の子はなおもつづけて、
「あのね、今日はね、雪ダルマつくったんだよ、雪ダルマ」
男の子は雪ダルマを、おそらく生まれて初めてつくることができて、よほど嬉しかったのだろう。それは大仕事なのだ。汗と努力の結晶で、もし一人でやりとげたとしたら歴史的な快挙なのだ。だから誰かに話したくてしかたがないのだ。そうして誰かに誉めてもらいたいのだ。
「へえ、どれくらいの大きさの?」
と柊はたずねた。
「あのねえ……」
男の子はすぐにこたえた。
「これくらい!」
男の子はおそらく、自分の腕を上下させているのだろう。そうして雪ダルマの大きさを示そうとしているのだろう。男の子のいかにも得意そうな顔が目に見えるようだ。
「そうか、それくらいか」
柊は大きな雪ダルマを思いうかべると、うなずいて言った。
「それからね、坂でね、すべって転んだ」
男の子は、今日おきたできごとを全て誰かに報告したいのだ。自分の素晴しい体験をどうしても誰かに聞いてほしいのだ。
「そうか。転んで痛かったか」
「うん」
男の子は素直にこたえた。
「でもね、ぼくね……」
男の子は一呼吸おくと言った。
「泣かなかったよ」
その時、くぼやまさんの声が割って入ってきた。
「サトル、もうそれくらいにしなさい」
それから改まった声で、
「すみません、本当にすみません。こんなことまでしていただいて、ありがとうございます。本当にありがとうございます」
と何度も何度も礼を言い、
「さようなら」
と言って電話を切った。
これが最後の電話になった。函館のくぼやまさんは、もう二度と電話をかけてこなかった。
3
時が流れた。
西暦二〇〇一年の一月は、いつのまにか過ぎていった。すぐに二月がやってきて、それはあっというまに終わった。そうして三月になった。
柊は、"わたなべ きよし"という人物に一度も会ったことはない。しかし、年末から年始にかけて、函館の久保山さんが執拗にかけてきたまちがい電話のおかげで、わたなべさんは柊にとってひどく気になる存在になってしまった。
〈わたなべさんとは、どんな人物なのか〉
どんな顔をして、どんな声でしゃべり、どんなふうに笑ったり悲しんだり怒ったりする人なのだろう……。くぼやまさんの話によると、わたなべさんはギャンブルが好きで、犬が嫌いな人だという。しかし、世の中にはギャンブルが好きな人はいくらでもいるし、犬の嫌いな人だっていくらでもいるだろう。そのていどの情報だけでわたなべさんを捜しあてるのは、とてもむずかしいことだと思う。
柊は時々、わたなべさんのことを想像してみた。頭の中のスクリーンに、わたなべさんのイメージを投写してみるのだ。想像上のわたなべさんは、なかなか格好よかった。わたなべさんはいつも黒いトレンチコートを着て、うしろ向きに立っていた。うしろ向きだから、顔は見えない。いつも背中だけを見せて立っていた。
〈わたなべさん……〉
柊はふと、小声で呼びかけることがあった。
〈ちょっと、こちらを向いてくれませんかね〉
その声が聞こえているのかいないのか、わたなべさんはいつも微動だにせず、あいかわらず黙って立っているだけだった。わたなべさんの身体には逆光が当たっていて、影が長く伸びていた。それは、柊が立っている地面のすぐ傍まで伸びていた。
〈ねえ、わたなべさん……。ほんのちょっと、ふり向くだけでいいんですがね……〉
はじめのうちわたなべさんの影は、とてもくっきりとして濃かった。真昼の地面に刻まれた、夜の闇のように濃かった。しかし、それはだんだんうすくなっていった。時の流れとともにうすくなっていった。
影がうすくなると、わたなべさん本人のうしろ姿もうすくなっていった。日ましにみるみるうすくなり、そうしてある日、ふっと消えてしまった。木枯しが吹いてきて、木の葉をさらってゆくように。あとには何も残らない。影も形も残らない。
想像しても頭のスクリーンには、何も映らなくなった。スクリーンは、いつも真白なままだった。
柊は、わたなべさんのことを忘れた。
三月が終わって、四月になった。
四月四日の午後である。柊が主宰する写真スタジオの中は、様々な職業の人間たちで騒然としている。青い目をしたマヌカンたち、衣裳係とヘア・メイク係。ダークスーツにネクタイ姿の三人はクライアントである。それによりそう一団は、広告代理店の営業担当者たちである。クリエイティブ・ディレクターとデザイナー、そしてスタイリスト。人ごみをかきわけて忙しげに歩き回るアシスタントの若者たち。神戸のファッションメーカーが売り出す、冬物用のカタログ撮影がもうすぐ始まろうとしているのだ。
「先生、準備ができました」
アシスタントの若者が近づいてきて言った。柊はソファーから立ち上がり、フロアーを横切ると、三脚にセットしたカメラのファインダーを覗きこんだ。白いホリゾントをバックにして、べージュのパンタロンスーツに身を包んだ若いマヌカンが、ポーズをとって微笑んでいる。柊はうなずいて、
「じゃあ、そろそろ始めるよ」
と言った。
その時、電話のベルが鳴った。灰色の方の電話である。近くに立っていたアシスタントの一人が受話器をとった。電話の会話は、二言三言ですぐに終わった。
「ええ、ちがいます。こちらは柊写真スタジオです」
アシスタントは受話器をおくと、
「まちがいでした」
としらせた。
まちがい電話がかかってきたのは久しぶりのことである。柊は少し気になって、アシスタントを呼び寄せるとたずねた。
「どんなまちがいだった」
「わたなべさんのお宅でしょうか、という電話でした」
「わたなべさん……?」
思わず柊はくりかえしていた。
「本当にわたなべさんと言ったのか」
「はい」
懐かしい名前だった。すっかり忘れていた古い友人の名前を聞いたような気分だった。
「誰から」
それが、よく聞きとれなくて……。"はせがわ"とか"はせじん"とか、たしかそんな名前のお店でした。たぶん飲食店だと思います」
「どこかの飲食店が、わたなべさんはいないかと電話をかけてきたのか」
「はい。そういうことです」
「わかった。もういい」
ホリゾントの前に立ってポーズをとっていたマヌカンが、「まだなの?」という顔でこちらを見ている。撮影開始をこれ以上のばすわけにはいかない。柊は三脚の前に立つと、もう一度カメラのファインダーを覗きこんだ。
二時間が過ぎた。
写真スタジオの中は、撮影の真最中である。再び電話のベルが鳴った。今度も灰色の電話である。電話に出たアシスタントの若者は、しばらく会話したあと、
「少々お待ちください」
と言って受話器をテーブルにおいた。それからフロアーを小走り横切ると、柊の耳元に顔を寄せ、小声で、
「渋谷警察署の方からです」
としらせた。
「はい、柊ですが……」
柊が返辞をすると、初老の男の声がして、自分の部署と名前を告げた。どうやら刑事らしい。男は、のんびりした口調で言った。
「お仕事中、すみません。少し確認させてください」
柊は「どうぞ」とこたえた。
「あなたは "わたなべ きよし" さんですか」
「ちがいます」
柊は即座に否定した。否定しながら、懐かしい旧友に再び出会ったような気がした。
「それでは、"わたなべ きよし" という人に、会ったことがありますか」
「ありません、一度も」
「では、無関係なんですね」
「ええ」
「わかりました」
「どうしたんですか」
柊は聞かずにはいられなかった。
「そのわたなべという人に、何かあったんですか」
「無銭飲食です」
「え」
刑事の話は、こういうことだった。
五日前の夜、渋谷警察署管内にある飲食店、"居酒屋・はせしげ"に一人の男があらわれ、飲食のあと、代金を支払うだんになって、「実は財布を忘れた。明日かならず持ってくるから」と、メモ用紙に名前と自宅の電話番号を書いて立ち去った。しかし翌日になっても男はあらわれない。三日たってもあらわれないので、やむなく警察署に届け出た……。
「男がのこしたのが、たまたま、この電話番号でしてね。迷惑な話ですな……」
「なるほど」
柊は一呼吸すると、もしさしつかえなければおしえてほしい……。そのわたなべという人は、どのていどの額の無銭飲食をしたのですか、とたずねた。
「四千円でおつりがくる金額です」
さらにつづけて、
「最近、この手の事件がふえましてね、弱りますよ。いや、どうも失礼しました」
刑事はそう言うと電話を切った。
〈わたなべさんが、またあらわれた〉
行方不明のわたなべさんは、生きていたのだ。四千円でおつりのくる金額の無銭飲食とは、いかにも切ない。それに電話番号を書く時、でたらめな数字ではなく、自分が所有していた昔の電話番号をつい書いてしまった。これもまた切ない。しかし、おかげでわたなべさんが少なくともまだ死んではいないことがわかった。意識不明で入院しているわけでもない。わたなべさんはしっかりと生きていたのだ。それも、この東京のどこかで……。
柊は眼をとじた。そして想像してみた。たちまち頭のスクリーンに、わたなべさんのイメージが浮かびあがった。あいかわらず、うしろ姿で、顔は見えない。しかし、逆光に照らされたわたなべさんの影は、くっきりとしてとても濃かった。そうしてわたなべさんの影は地面の上をするすると伸びてきて、柊の足元を隠すのだった。
深夜である。
柊はベッドの上でバーボンを飲みながら、写真集を眺めている。スタジオの方から鈴の音が近づいてきた。ハナコである。寝室の扉はハナコのために、わざと開けてある。ハナコは扉の陰から首をさし入れると、
「柊さん……」
と呼びかけてきた。
「こんな遅くまで何をしていますか」
「何もしていない。ただぼんやりしているだけさ」
「嘘でしょう」
ハナコはベッドの下まで近寄ってきて、
「わたしに隠れて、一人で何かいいことしてたんでしょう」
ハナコは疑ぐり深い。
「人聞きのわるいことを言うなよ」
柊は写真集の表紙を閉じながら、
「君に隠れてなんかいない。ただ、昔の写真集を眺めていただけさ」
「ほらごらんなさい。やっぱり何かしてたんじゃありませんか。それ、何の写真集ですか。変ないやらしい写真集じゃないでしょうね」
ハナコは勢いをつけてベッドに飛び乗ると、写真集の上に自分の鼻を突き出した。
大判の白黒写真集である。十年ほど前、柊が撮影でニューヨークに行った折、ソーホーの小さな書店で買い求めたのだ。
『The Missing』
とタイトルされている。
「これ、どういう意味ですか」
「『行方不明者たち』とでも言うかな」
消しゴムから動物や人間、はては人工衛星にいたるまで、ありとあらゆる行方不明者たちに関する写真ばかりを寄せ集めて編集した、かなり珍しい写真集である。
ハナコが催促するので、柊は写真集の扉を開けて適当なページを開いてやった。町角の壁に、一枚のポスターが貼られている。ポスターは手書きで、小さな子供が書いたような下手くそな文字と、下手くそな絵が描かれている。ハナコがたずねた。
「この文字、何て書いてあるんですか」
柊は、英語を訳してやった。
「ぼくが飼っていた猫がいなくなりました。見かけた人はしらせてください。ちゃんと、お礼します。それから飼い主の名前と、猫の名前が書いてある」
「この絵、猫ですか。猫に見えませんね。ライオンみたいに見えるけど」
ハナコは少し文句をつけた。
「でも飼い主は、いっしょうけんめい描いたんだと思うよ」
「そうですね。いっしょうけんめい描いたんでしょうね」
再び適当なぺージを開いてみた。中年夫婦の肖像写真が出てきた。
「この二人、どうしたんですか」
ハナコはページに鼻をくっつけて言った。
写真のキャプションを読むと、こういうことだった。アメリカの東部、ボルチモアに住んでいたホフマンさん夫妻は、相当に変わった夫婦だったらしい。結婚して二年目のことだった。
「ある朝、突然、妻のマリアさんが行方不明になってしまった」
夫のジョン・ホフマンさんは、八方手をつくして捜し回ったが見つからない。そして歳月が流れた。
「二十二年後のある日の夕方……」
ジョンさんが帰宅すると、マリアさんがいるではないか。彼女はまるで何事もなかったような顔をして、キッチンで夕飯のしたくをしていたのだった。
「すごい」
とハナコはうなった。
「夫の方も、すごいぞ」
と言って柊はつづけた。
夫のジョンさんの偉大なところは、妻のマリアさんに家出の理由をただの一言もたずねなかったことだ。一方、マリアさんも大したもので、家出の理由を何一つしゃべろうとはしなかった。それから二人は、ひとつ屋根の下の同じベッドの上で、仲良く暮らした。
「そうして四年後のある朝……」
ジョンさんが目覚めると、隣りに寝ていたはずのマリアさんの姿がない。マリアさんは再び姿を消して、二度と戻ってはこなかったとさ。
「わかりませんね、夫婦ってやつは」
ハナコがため息まじりに言った。
「たしかにわからないよ、夫婦ってやつは」
柊も、全く同感である。
夜がふけてきた。
柊はベッドに横たわり、天井を眺めている。ハナコも同じように横たわり、天井を眺めている。
「桜が咲いていますね……」
ハナコが呟くように言った。
写真スタジオの近くに寺がある。寺の境内には、桜の古木が五本はえている。その桜が、今年も花を咲かせている。
「函館でも、咲きましたかね」
ハナコの目は遠くを見ている。
「まだだろう。函館の桜は、東京より一ヵ月は先だと思う」
「桜の花が咲くころ、あゆみさんの納骨があるんでしたね」
「ああ」
「納骨の時、わたなべさんはあらわれるでしょうか」
「さあてね」
「むずかしいかもしれませんね」
「むずかしいかもしれないな」
「でも、わかりませんよ」
ハナコはつづけて、
「写真集に出ていたマリアさんのような例もありますから」
ハナコの言う通りかもしれなかった。行方不明になってから二十二年後に、ひょっこり帰ってくる、そんな人間も世の中にはいるのである。
「あきらめてはいけないね」と柊。
「そう。あきらめてはいけませんよ」とハナコ。
「ねえ、柊さん……」
しばらく黙っていたハナコが口を開いて言った。
「わたし、想像してみました。いつか、それはわたしにもはっきりとはわかりませんが、近い将来のいつか、やっぱり桜の花の咲く頃がいいな。ある日ひょっこりと、行方不明になっていたわたなべさんが、函館に戻ってくるんです」
「ほう」
「そうしてみんなで、くぼやまさんとカリンちゃんとサトル君と四人で、海辺の外人墓地に行くんです。ねえ、柊さんも心の中で想像してみてください」
「ああ、想像してみよう」
「四人は、あゆみさんのお墓まいりをします」
「あゆみさんのお墓まいりをする」
「そのあと四人は、並んで真青な海を眺めます」
「真青な海を眺める」
「だんだん、日がかたむいてきます」
「だんだん、日がかたむいてくる」
「四人の影が、長く伸びてきます」
「四人の影が、長く伸びてくる」
「すると、わたなべさんとカリンちゃんとサトル君は、三人して遊ぶんです」
「何をして?」
「決まってるじゃありませんか。"影踏み"ですよ。夕陽を浴びながら三人は、影踏みをして遊ぶんです」
「三人は影踏みをして遊ぶ」
「久しぶりにお父さんと一緒に遊べる子供たちは、うれしくてうれしくてたまりません。キャッ! キャッ! と、笑い合ったり、わざとのように悲鳴をあげたりしながら、墓地の中を走り回って遊びます。それを久保山さんは、まぶしそうな目で眺めています」
「まぶしそうな目で眺める」
「あゆみさんも、眺めています」
「え」
柊はハナコに向かって言った。
「あゆみさんは、お墓の中だろ」
「ちがいます」
ハナコはきっぱりとした声で、
「あゆみさんはもう、お墓の中にはいません。あゆみさんは風になって、海辺の墓地の天上を吹きわたりながら、この光景を眺めているんです」
「なるほど」
「そうなるといいな、と思います」
そう言うと、ハナコは黙った。
柊は天井を眺めなながら、ハナコが発する次の言葉を待った。しかし、いくら待っても何も聞こえてはこなかった。
「ハナコ、どうした」、
柊が隣りを見ると、ハナコはいつのまにか蒲団の中にもぐりこみ、丸くなっている。かすかにいびきを立てながら、眠っているのである。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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