行火
奥州は津軽の城下に、名高い七夕の
竹螺を吹くのは此の畠主の
いつも佐吾十は
機嫌の好い時には、此処に若い者を集めて爺さんは余り
「あんと巧えもんでごすな」と賞め捨てゝ
「
「今年で六十五だもんで、二十三年の間でこれ丈の仕上を為るにや骨よ粉にしたゞ、其粉がはあ骨になつたゞ」
といふを冒頭に長々しい自慢話に取掛るので、若者の中には爺さんの話の前提から
「其りやもう此間も聞いて知つてるだよ」
と言ふものがあると、爺さん急に不興顔になつて、
「其んねえに知つて居だあら、あんで怠けくさるだ、はあ今の若え者あ年寄べいだ思つてどん底に聞かねえだから竈の殖えべい理窟あ無えだ」と再び本題に
此の大林檎といふのは爺さん半生の記念樹で、爺が人の馬を曳いて歩いて居た時、弘前の町で西洋人が食ひ捨てゝ行た林檎を拾つて其種子を植ゑて見たのが抑々の
実際佐吾十が地福の下に腰を下し時は、老勇士が其の
「おう
と佐吾十が声をかけると、牛小屋の前で
「あんだか知んねえだが、がら吼えけづかつて物う食はねえでがすよ、あのう眼う見て呉れつへいや」
「陽気の
「切なかんべいや、頤たあ泥に浸けてるだあもの」
「おいよ、切なかんべいなあ黒」
と佐吾十は奥の方を向いて、
「おうい、鶴公は居ねえかな、おうい鶴公やあい」と叫ぶ、遥かの木の茂みから、
「おうい」と応へる。軈て出て来たのは年頃
「
「おう蘆よ、大義だつたべえや、おう青よ、赤よ、耳長よ、瘤よ、皆んな御苦労だのう」
といふて畠の中に入ると、其処に秋桃や梨や、榲_{まろめろ}が、静かに風の
「皆な早く大きくなれやのう、実い生るやうになつたら好い
と一々に言ふのが此爺の癖なので。
今までの騒々しさが、ひたと止んで、
「床あ洗つただかな」と佐吾十の方から声をかけると、一寸腰を屈めて、
「洗つたゞ、洗つたゞがな、黒の野郎あんともはあ、癒らねえだ」
「其んねえに早癒るもんでねえだよ」
「其うだんべいかな」と横の方を向いて、
「其んで旦那、ちよつこら相談のうあるだで」
と佐吾十の歩き出す背後に従いて行く。
「はあ何{あ}んだ」
「
「はあ誰だ」と佐吾十も笑ふ。
「新太の奴だがの、何でも今の若い者あ
「彼奴あ仕事う働くでの、兎だら様に跳廻るだから、俺あ
「俺あ死んだら出雲の神様に褒められるだんべい」と何かにつけて言ふたもので、
与茂作が去て了ふと爺は続けざまに煙草を吹いて居たが、急に思ひ出した様に、
「お福よ、お福やあい」と呼んだ。
爺は朝から晩まで寸時も落着いて居ない、眼の覚めて居る間は用事の有る無しに拘はらず、人を呼んで居るので、其れが十五六年前に、女房に死なれてから一層烈しくなつて、其中に最も多く呼ばれるのはお福である。
お福の素性は誰も知つているものがない。死んだ女房が何処からか貰つて来たといふが、拾つたのだらうと言ふものもある。丁度お福が二歳の時で、其れから間もなく婆さんが死んだので、子もなく孫もない佐吾十は男手一つに育て上げた、這へば立て立てば歩めと段々
「旦那、お福さあも
「こりや俺がの行火だでのう、えらあ足が暖まるだ」といふ、是れが
「お福やのう」
と爺は林檎の木の間から此方へ来る姿を見付けて呼んだ。
桃色の襟を取つた白い袖無しから、肉付の宜いむづむづとした白い腕を出して、脇口からふつくりと膨らんだ乳が仄かに見える、腰から下は赤い腰巻一つで紙緒の草履を埃の中に曳きながら出て来たのはお福である。
「何んだし」と爺の前に立つ、同時に口の
「何んで草履
と爺は笑ひたさうに目と口元の皺を寄せて、
「若え女娘だらいふもの、其んだ埃だらけになるで無えよ」
と顔を見詰める。
「其んでも、下駄穿いたら悪くなりしによ」
と夕焼けの雲に其の
「悪くなつたら買つてやるべいに、足よ怪我したら奈何しる積だ」
「下駄あたら欲しく無えによ」
「何が欲しいだ」
「
「何だよ」
「笑ふだもの」
「笑はねえによ」
「そんだら」
「そんだら
「あのう
「あのう
「はゝゝゝ」とお福は大きく口を開いて転げる様に笑ひ出した。
「同じ事言ふだによ爺さん」
爺も同じく笑ひ出して、
「はあれ、
と爺が先になつて家近く来たが、又考へ出して、
「福よう」
「あんだし」
「あのう、黒が
「牛小屋しけえ」とお福は言捨てゝ其方へ足を向けた。
「お福よう」
と何か又思ひ出して言た時、お福の影が、向ふの百合畠の中に隠れて了つた。
「早え足だのう」
と爺はにやにや笑て家の方を向いた。
日は全く沈んだけれども、西の空の夕焼けは凡ての林檎の上を彩つて、御光の様に薄雲を
「
と言つて見たが、家の中は何の音もなく、
で、爺は椽側から腰を放すと、手籠を持て木の間を歩きがてら、薄明りに見える目の力を便りに、落ちた林檎を拾ひ溜めた。
籠が張りきれる程に積込んだ頃、爺は何時の間にか畠の
行火のお福と乳搾リの鶴公が、秣の中に半分づゝ身体を埋めて互に抱合つて小声に話して居たので。
一旦足を戻して、再び覗いた時には佐吾十は猟犬が手強き獲物を嗅ぎ当てた様に、総身の慄ひを強て抑えて立て居たが軈て急ぎ足ですたすたと引返した。
佐吾十は
いつもならば、黒光りの広い板椽に、舶来の灯籠と名を付けた岐阜提灯を吊して、行火の御酌で五勺ばかりの酒に胸まで赤くし、骨が粉になるを二三度唄ふと、直ぐ横になる、同時に
早過る程早く寝たので、佐吾十は中々眠られない、台所の炉辺ではお福始め奴共年期抱の奉公人五六人が、笑ひまじりに話してる其声が耳を唆かす様に聞えるので、聞くまいとすればする程、自分を嘲るかの如く耳に
「お福よう」と呼掛けた、此れが聞えたかして話声が急にひたと止むと、奥歯で殺してる様な笑声が、いかにも
「お福よう」と再び呼んでみた。
「あい」と言て次の間に来た足音の方を向て、
「あんではあ騒がしいだ、皆なに寝てしまへと言へよ、
「そんでも爺さん未だ八時だあよ」と襖越に言ふ。
「
「そんだら寝りいすよ」
と何かぶつぶつ言て行た様子、爺も同じく何やら呟いて、枕を引返して又頭を着けた。台所では、
「あゝ寝べいかよ」
「二日分寝て置くだ」
「殿様御機嫌が悪いでの」
「寝る程の程が無えだ」
などゝ手ん手に当付けがましく言つて、気の抜けた欠伸が
不図眼が覚めて四辺を見廻した。いつもならば自分の左にお福がぐつたりと柔かい胸を出して真白い腕を自分の胸の辺りにかけて
「うるせえ奴だ」と呟いて
何を考へるともなく爺は半時余り、天井に瞳を据ゑて居たが、隣の
「お福よう」と声掛けると、
「あいよ」と直ぐに返事をする、
「
「眠よう思つても眠れねいだもの」
「眠よう思つたら眠れない事あねいだ、何にをうぢやうぢやと身体べい悶えてるだ」
「爺さんもあんで眠ねえだし」
「
「腹あ減らしめが」と独りで言つて眠らう眠らうと努めて見たが、たゞ不思議に胸が
すると、
「お福よう」と再び声を懸けたが返事がない。
「お福よ、汝あ淋しく無えかよ」といつても答がない。
「此処さ来ねえかの、爺さんとこさ寝ねえかの」
「眠つたゞかな」と手燭を点けて立つて障子を明けた、と、お福は小つくりと二重にくびれた頤を仰向けて枕からせり出した顔は一体に円みを帯びて、小さな鼻、濃い眉毛、ふさふさと柔かい産毛のやうな毛の生際に残つて居る額、其れが何となくあどけない趣を持て
牛小屋の前に来ると
眼の覚めたのは彼是十一時近くであつた、日がぢりぢりと顔を照らし頭の上では蝉が油を煮る様に啼き出して居る。
「ほろほろ」と気短に二三度続けて怒鳴つても逃げない、起き上つて石を拾ふと蝉は賢くも飛んで行つたので其の寝覚めの不機嫌な顔を一層
「旦那眼え覚ましたけえの、あの黒牛が大変でごすよ」
「如何したゞ」
「
「牛が舌出す? 其れが不思議けえ」
「はあ
「汝あ牛の係りだんべいに、舌出すも尻尾だすも俺が知つた事けえ」と遠くの蝉に、
「何んて
「旦那さあ」
「
「いんにや其話ぢやごつせんて、あの……」
「何んだか知んねえが、今時分其んだ話し面倒臭えだよ」
「ちよつくらで宜いだが」
「早く言へよ」
「新太とおかよの事だあに、家建てべいに木柄見て呉れせいよ」
「新太とおかよ?」と佐吾十は何か考へて、
「其んだ事聞きたく無えだ」とぶつと唾吐いて、鶏の羽を繋いだ烏除けの縄をぐつと引張ると、鳴板ががらがらと奥の方で響く。傍を見ると与茂作がもう居なくなつて居るので、何だか張合が無くなり向ふを見ると、与茂作が大きな土瓶を提げてほくほく行く姿が見える。霎時其の後影を見詰めて居たが、
「与茂作やあい」と呼んだ、呼ばれた与茂作は土瓶を木の根に置いて、神妙に再び其の頭と腰と足との調子を取つて前屈みにやつて来る。
「旦那呼ばれだけえの」と頭を突出して主人の顔色を窺ふと、佐吾十は俄かに慌てゝ、
「うむ、呼んだがな、用いつても別に用でも無えだが、
「今の
「汝あお福知んねえかな」
「いんにや、今朝つから、から見ねえやうだ尋ねて来べいか」と与茂作が言つても答がない、どんよりとした眼で地面の或
日が眩い程に照つて来る、
「
「親父あ横座で縄
と一人が和する。白い手拭で頬冠りした後姿が、ぱくりぱくりと林檎を捫ぐ毎に揺れる木葉の隙から見ゆる。
「
と舌打して爺は、其方を尻目に懸けて、反対の方を向くと、追駈ける様に続いて唄ひ始める。
「色の黒い
「鴉見るたび思ひ出すよう」といふ、彼是三十分許も此那唄を聞くともなしに爺は何か
「お福様居ねえだよ」
と与茂作が顔を出した。
「あんだ?」と向直ると
「お福様目つからねえだ、不乱に尋ねだが」
と与茂作は小さくなつて居る。
「誰れが
「お福様知んねえがつて聞かしやつたけえに」
「聞いだは聞いだ、尋ねろと言つたで無えだ」
「はあれ、わりい事したゞかな」と与茂作は
「用の無えもの何んで尋ねるだ」
「はあ、思え違えしたゞ、はあ善く無え事したゞ」と頻りに繰返してる中に佐吾十は何時の間にか黙つて別な思に走つたので、双方顔ばかり見合つて居たが、
「与茂作よ」といつた佐吾十の声は
「
「あるだ」と与茂は
「ありや何処かさ嫁にやつたかのう」といふ調子は平素と違はぬ。
「いんにや、やらねえ、が、其事だてのう旦那、あの通りのお多福だで、若え男あ構つて呉れせんし、本当によ旦那、嫁の口一つ懸つた事無えだ、あゝいふ面に生れたのあ、わが身も
「
「好きだ男つて、汝あ其んだに男持たせ
「考えて見さつせい、若い時にや、男の欲しいものたあ女娘で、女娘の欲しがるものあ若え衆だによ、男はそんでも辛抱するだがの、女子はそうは行かねえだ、婿う欲しい欲しい思つてゞも、そら、口にや言へ無えだし、嫁盛りが過ぎると気が重くなつて身体が
「其れも其んだが、汝あ只一人の女娘を外さ
「どうで淋しいだ、年老れば段々淋しくなるだ、揚句にや墓さ入るだからの、墓は一番淋しい処で無えかの、其んで物あ諦め様だで、淋しいものだと決めて了つて、其代りにや子供に
「其うだのう」と佐吾十は何か考へて居る。
「其れをお前様、
「発明な事云ふだなあ」と佐吾十は初めて笑つた、与茂は猶ほ饒舌り続ける。
「汝あもう忘れたんべいよ、が、俺あがでは女房があるでの、こんでも二人で昔の話などする時あるで、若え時の事忘れねえだ、あんでもはあ其時のこと考えると、今女娘の事を何んだ彼んだと叱言でも言はれねえ様だ気がするではゝゝゝ」と笑つたが、相手が再び曇つた顔になつたのを見て、
「どうら、黒牛もう一返見て来るべい」と逃げる様に小足に急いで去つた。残された佐吾十は再び口を尖らして伏目になつたが、不図眼を挙げると、丁度一間許前の木の下にお福が黙つて立つて居たのを見て、自分に薄暗い事でもあるかの如く非常な驚き様で、つと立上り、
「汝あ何んで人の話を立聞きしてるだ」と腹立たしく言つた。
四五日の間、佐吾十は此那風に日を暮らした。近頃は滅多に彼の傍に近寄るものもない、畠の者は皆黒牛が死んだから機嫌が悪いのだといふて居る。で、其の
「生物だあにや死ぬ時もあるべいや」と素気なく言ふ。
或日爺は気分が悪いといふて一日朝から室に引籠つて居た、此んな時には、いつもお福を呼び通しに呼ぶのだが、此日はお福をも室の中へ入れぬ事にして、食事の時だけ、茫然と出ては飯を
夕飯になると、爺は何となく気持よさゝうに庭を
其翌日此村中で肝を潰す様な話が与茂爺の口から他の口々へと伝へられた、其れは行火のお福と鶴吉の祝言の事で、与茂爺は飛んで廻つて村中の人を集め、早朝から家普請に取掛つた、一軒は新太とおかよの家で、一軒は鶴吉夫婦の家。
地
庭の柿の木の下に荷車が
「ほらほらで出たぞ出たぞ」
「あんてい重ていだ、どつさり
「どつさり這入つてるべい、そらどつこい、こゝらだ」
「うんにや、もう
「右さ引けやい」
「上が明いてるだ」
「行灯を乗つけるべいよ」と一人がいへば、
「針箱がある筈だ」と一人がうろうろして居る。
「もう些と乗つけでもいゝによ」と梶へ廻つた男が一寸上げて見て言ふ。
「もう
「行火あ乗つけるべいかよ」と誰やらがいふと、
「はゝゝゝ違ひねえだ」と一同が笑ひ出して柿の木の方を見ると、佐吾十が其処に
「旦那お目出度うごす」と大勢の中から与茂爺が鉢巻を
「皆なが御苦労だの」と佐吾十は人に顔を見られたのが
「あんでもはあ、急なこんだで、旦那、村の者もはあ吃驚しましたゞ、旦那淋しかんべいに、よくはあ大事の行火手放したつての、皆なで言つてますではあ」と佐吾十の傍に進み寄る。
「村の者あ
「へえ、皆んな喜んでな、
「鶴公何んと言つてだよ」と佐吾十は妙に言葉尻を力なく言ふと、与茂は足の先で石を掻き寄せながら、
「何んて言ふてるつてお
「さうか」と、ふいと畠の方へ行つて了ふ。
途端に鶴吉とお福の二人が高笑しながら来るのに
二人とも引越しの埃によごれて、鶴吉は
「汝あはあ行くだあかな」と自分の前にお辞儀をする二人を、
「はあいろいろお世話様になりましたで、あんともはあ」と鶴吉は眼をうるませながら畏こまると、
「爺さん、そんではお暇するだあ」とお福は未だ
「そんだら仲よく暮らせよう鶴公、お福可
「お福、汝あ嬉しかんべいのう」と言つて、俯向きながら互に顔を見合はせては恥かしさうに笑つて居る二人の上から直ぐ眼を反らし、
「うむ嬉しかんべい」と再び繰り返して、
「そんだらあ行けよ」と瞳も動かさず何かに見惚れてるやうな目をしながら
「そんだら旦那」
「爺さん……」と二人は辞儀をして庭の方へ廻つた、返事もせず爺は其の後影を
「お福よう」と呼び止めた。
「あいよ」と気軽に答へて振向くと、何やら口を動かし度さうにして、俄かに思ひ返したといふ風に、
「いゝよ、もう行けよう」と手で推しやる様にして直ぐと後ろ向いて了つた。
が、直ぐと又、足を返して二人の出た方へ来て見ると、既に影もない、無格好にによきによきと立て居る柿の大木二三本、其下の土は日当りが悪いので薄い苔を見るやうにじみじみと湿つて居る、其上に酒樽やら、石臼やら木屑藁きれ、菰きれ、其那ものが
と爺は茫然と薄闇の空を見詰めながら、がつかりと椽に腰を落し、今までお福の箪笥や小道具を置いてあつた畳の隅を見廻して又茫然と、
「嬉しかんべいの」といつて独り淋しさうに唇を結んだ。
其翌日から佐吾十の姿が畠に見えない、朝夕の竹螺も聞えない。牛や馬や、梨や葡萄や林檎にものいふ人もなく、地福の下でのべつに人を呼んでる其声もなくなつた。其代りに畠の隅々では無遠慮に唄つたり笑つたりする声が陽気に起つた、が、其れが底に力のないといつた様な賑やかさで、畠の中は丁度秋の空の晴れ晴れとした中に心細い気の冷えが含である様に、一体に張合の抜けたやうな淋しさが籠つて来た。
一日二日三日、四五日といふもの、佐吾十は寸時も居間の外へ出た事がない。すると七日目の夜の事である。
牛番の与茂作が一廻り畠を見廻つて家に入つたのは彼れ是れ十二時頃、空は一点の雲もなく胸の底に冷たく浸入るやうな星月夜で、其れがそよと木の葉を動かす風もなき恐ろしい沈黙の此の林檎園を謎のやうに湿つぽく照らしている。
「あんと云ふ静かな晩だべいよ」と与茂作は独りで言つて戸を閉めた。
不意の物音に眼をさました与茂作は、寝床を跳ね起ると、外は何時の間にか洪水の様な風の音、
「やあ大風が来たな」と窓から空を窺いて見ると只一面の灰色、朧の中に万樹の推し合ひ揉み合ふ影が、丁度七月の真昼に動く夕立の雲の如く真黒に上下に猛り狂ふ。
物に慣れた爺は直ぐと腰に鉈、六尺棒を取つて外に出た。
「火の用心火の用心、大風が出るだに用心さつしやい」と皺嗄れた声で村中を呼ばゝつて、真直に畠の方へ駈け出した。
山が少なく高い処といつては遠くに起伏する一帯の丘陵ばかりで、西は日本海、東は八甲田の麓まで十何里といふ間は、見る限りなき平原を、死の色といつた様な灰色の雲が瞬く間に一切れの隙もなく頭を
「やあ風が変つたぞ、そうら変つたぞ」与茂作は狂気の如く叫んで、倒れまいと腰を屈めた。
「誰だあよ、与茂作爺けえ」と息を
「おう鶴公けえ、酷あ事になつたぞ」と立止る。鶴公は
夜明けには間がない。風は今出盛りである。ごうつといふ声と共に何処やらで木の裂ける音、柵の落ちる音がすると、ひた推しに一方に推し伏せられた見る限りの林檎樹が黄色い斑を帯びた百千の猛獣の如く其枝葉の
「爺さんは如何したゞかな」と鶴吉が思ひ出した様にいふと、
「今に来るべいか、はあ、あんて遅え事た」と与茂作は刻一刻に揉まれ行く畠物の
夜が明けた、天地は只明るい、物凄く明るい、絶望の色の下に戦つている、生物の奮闘の光景が眼前に見られる。其れは此土地で悪魔よりも恐ろしいといつて居る南の生暖かい風で、之に吹かれると口も喉も埃に乾くやう、顔が燃えるやうに逆上せる、畠物は堪つたものでない、其れが又、枝摺れ葉摺れの為めに熱気を起して葉と云ふ葉は焼かれた様に爛れて赤黒く錆びて了ふ。恁ういふ日に限つて一滴の雨も持たないので。
二人が家の裏口まで来た時に、お福も駈けつけた、家の奴共は無論起きて居た、村の者は手ん手に、棒、熊手、梯子、などを持て走せ集つた。
風は益々吹きつのる。木葉、木屑、板片、屋根の
「家根さ上れやい、家根さ」と与茂が叫ぶと、気の利いた若者四五人はたはたと家根に上つて吹き落されまいと
「梯子を立てろ」と再び与茂が叫んだ。
庭の大きな柿の木二本其れに二本の梯子を立てゝ、風の向きに枝を支へて犇々と縄で縛つた、其れが吹き寄する度毎に梯子の足がぢりつぢりつと土を噛んで竹の如く
と、中から、
「爺さま居ねえだ、爺さま」とお福が叫ぶ声がする。何といふ事なしに与茂作と鶴吉は納戸から駈け上つた。佐吾十の居間へ入つて見ると椽側の雨戸が一枚明けてあるので、其処から吹き入る風は蚊帳の裾を天井まで高く吹き上げて、主人のなき蒲団と枕とを冷やかに見せる。
「旦那やあい」
「爺さまやあい」と叫んだが其声が直ぐと風のために室の中へ吹き返へされて、其れが三人の胸に只事でないといつた様な或る
思ひついた事があるので、三人は地福林檎の下へ駈け付けた。二十余年の風雨と戦つて今にも其の若々しい色を誇つて居た大林檎は無残にも其の真中の幹の
「旦那様よ」と与茂作が言つても答がない。
「爺さま」とお福と鶴吉が代り代りに呼んでも身動きもせぬ。
二十日許前の佐吾十とは打て変つて、頬が
「爺さま」と再びお福は呼びかけて、其の膝の上に手を置き、覗くやうにして下から顔を見上げた、と、佐吾十は
「お福か」と夢の様に小さな声で言つたが、はつと気が付いた様に、
「お福か」と再び大きな声に呼び直し、ずつとお福の身体を膝の上に抱き寄せて、
「お福よう、汝あもう帰る事なら無えぞ、爺さまはな、爺さまはな」と言つて再び石の如く黙つて了つた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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