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出版おもいで話

 私は前から、長い出版生活のおもい出を書いて見たいと思っていた。今回、社(新潮社)の祝賀会に際し、急にこういう本をこしらえることになり、あわてて少しばかり書いて見た。しかしこれは思い出のほんの断片にすぎないし、匆卒(そうそつ)の際で年代や何かを十分調べる余裕もなかった。他日、まとまったものを、ゆっくり書くことの機会を得たら、この補いをさせてもらおうと思っている。    佐藤 義亮

 

  『新聲』の創刊

 

 『新声』の第一号の出たのは、明治二十九年(1896)七月十日。私の十九歳の夏だ。数えて見ると実に四十年の昔になる。

 当時、私は秀英舎(今の大日本印刷)の校正係りだった。その前年の春、同舎に入り、最下級の職工としてひどい仕事をやっていたが、『青年文』という文学雑誌に投じた一文から同舎の重役に認められ、校正課に抜擢(ばってき)されて日給二十銭を給与されていた。日清戦後、急激な文化進展の波に乗って、新文学勃興(ぼっこう)の機運大いに起こった時なので、何かしら文学的に動いて見たくてたまらずにいた私は、校正係りをやったおかげで、出版、印刷のことがわかって来ると、この機会に一つ雑誌を出して見ようと、決心したのである。

 そんな大それたことを考えだしてどうするのか、と友だちから再三忠告を受けたが、そこは少年の一本気なり、田舎ものの向う見ずの勇気なりで、思いかえす気持はみじんもなく、薄給の中からなにがしずつを貯金したりして、いろいろ準備を進めていると、宿の主婦の萩原お雪さんというが、若いに似あわず侠気のある人で、私の苦心が見ておれないと言って、幾分の援助をしてくれることになった。それでとうとう『新声』第一号は産まれ出たのである。

 発行所は、牛込区左内坂町二十八番地。「新声社」と名乗りあげたが、実は間借りの六畳一と間、宿のおかみさんの箪笥(たんす)や何かがごたごたしているその室の片隅で、編集、発行のすべてを一人で、しかも活版所づとめの暇にやるのである。三日や五日徹夜を続けるようなことも珍らしくなかったが、何の屈托もなく元気にやってのけることが出来た。

 第一号はたしか八百部刷ったが、広告一行も出さずに全部売り切った。知人からひどく感心されたが、これは、発行の半歳あまり前からいろいろ準備していたおかげだった。

 第三号から「文界小観」という題で文壇の時評をやった。それが大家たちの間に問題になっていることを聞き、反響の大きいのに驚きもしたが、少年の自負心をそそられるものが大きかった。その無遠慮な批評が祟って尾崎紅葉などは、後々まで新声社員にはどうしても会ってくれなかった。

 

  やっと独立する

 

 雑誌は少しずつではあるが、月々発展してゆく。活版所勤めの片手間ではやり切れなくなり、二十歳の二月、秀英舎をやめて、何処か少しでも余裕のあるところを探しているうち、その前年から知りあいになった金子薫園氏の紹介で、新興の書肆(しょし)である明治書院の編集員となった。

 この間に今の東洋大学の前身の哲学館(夜学部)に通った。それは、大町桂月氏や白河鯉洋氏などから熱心に勧められ、帝大漢文科(選科)に入ろうとしての準備勉強だったが、そんなことをしては、せっかくやりかけた雑誌が台無しになってしまうと気がついて、相当未練もあったが、とうとう思い切ってしまった。

 それで六月に明治書院をやめ、神田の一橋通町に一戸を構えることとなった。家賃四円という、路地の奥の陋屋(ろうおく)だったが、それでも三年ごしの間借り生活から飛躍し、堂々(?)と社の看板をかけ、背水の陣も大げさだが、出版専門でやって行くことに腹をきめた。

 その第一着手として大阪から高須梅渓君(芳次郎氏)に来てもらうことにした。氏は長い間『新声』の投稿家として健筆を(ふる)っていた。私よりは二つ下の当時十九歳の年少だったが、文をよくしたばかりでなく、信頼のできる誠実の人で、社に起臥することとなってからは、実によく働いてくれた。小遣いをいくらか渡そうとしたが、こんなに困っていられるのに、金をもらう気になれないと言って、どうしてもとってくれなかった。これは今に忘れられない私の記憶である。

 今の中根支配人は、その翌年十八歳の四月から来て働くことになった。数えて見れば三十七春秋を私のもとで送り迎えたのである。

 

  『文章講義録』の創刊

 

 雑誌はだんだんよくなるのだが、それで生活のできる見込みはもちろんつかない。二十一年も暮れ近くなると、寒さと共に貧乏が骨に徹してくる。何とか打開の途を講じなくてはと首をひねって考えついたのは、『文章講義録』の発行だった。誰もまだ手を染めてはいないし、これならば大丈夫と見込みはついたが、内容見本をこしらえる金もない。仕方がないから、一枚の紙に規定や何かを刷り込んだ簡単至極のものをつくり、新聞に小さな広告をだしたところ、これが当った(当時として……)。成績は上々で、ほっと息をつくことができた。

 執筆者は、大町桂月、杉烏山(敏介。当時の新体詩人、後の一高校長)、内海月杖(弘蔵。後の明大野球部長) 、田岡嶺雲等々、大学を出たばかりの花形揃い、それに私と梅渓君とは、変名でさまざまの題目のもとに書いた。二人が机をならベ、夜遅くまで競争的に書きまくったさまは、今も髣髴として眼に浮かんでくる。

 講義録は、表面、新声社と切り離して発行所を大日本文章学会とし、通信教授と銘をうって読者を生徒と呼び、文章の添削や質問応答をやった。この講義録の生徒の中には、今の帝大教授の某文学博士や、某婦人雑誌の社長や、新派劇の某頭目や、自然派花やかなりし頃の某作家や、その他知名の士が少なくない。

 大日本文章学会というを明治三十五年(1902)になって「日本文章学院」と改め、すっかり講義録の内容をとりかえて継続発行して来たが、大正八年(1919)になって廃刊した。

 

  出版界に乗りだす

 

 『文章講義録』で金の余裕が、というと大きいが、実は百四十五円ばかりできたので、出版の宿望が頭をもたげて来た。『新声』創刊後、五、六種出版をしたが、それは主として青年の投書を集めた片々たる冊子だった。そんなものではなく、確かに読書界の視聴を聳やかすに足るものを書ける腕を持ちながら、世間的流行文士でないため片隅の存在をかこっているような人の著作を(ひっさ)げて、出版界に乗り出そうという希望だった。

 田岡嶺雲氏の『嶺雲揺曳』はこの希望によって生まれた第一のものだった。明治三十二年(1899)三月の発行、私の二十二歳の時。正確にいえば、私はこの時をもって出版界に一歩足を踏み入れたのである。

 嶺雲氏は雑誌『青年文』の主幹で、犀利直截の批評は文壇の恐怖だった。『嶺雲揺曳』は、その批評を集めたものだが、当時の出版界からは見向かれそうもなかったのを、同氏に傾倒すること深い私は、特に乞うて自分で編集して出版したのである。そして、これは実によく売れた。前後二冊で一万部を超え、著者も発行者も望外の喜びを味わわせられた。私の出版の初陣は、こんな風に幸先(さいさ)きがよかった。

 次いで、小島烏水氏の『扇頭小景』である。久しく『文庫』によって、一部青年の渇仰(かつごう)を受けていた同氏の処女文集というので非常な好評を受け、矢つぎばやに五、六回増刷した。表紙は中村不折画伯の筆で十遍ぐらいの石版印刷の綺麗な本だった。今では古書の市などでは、定価二十銭のこの本が、二円以上するそうである。

 それから河東碧梧桐氏の『俳句評釈』が出た。これもまたよく売れた。俳壇の新機運がこれによってさらに(かも)された事実を否むことはできない。

 この『俳句評釈』の原稿料について、興味ふかい挿話がある。

 当時、市内の交通機関といえば、鉄道馬車が新橋から浅草までの一本道を走っているだけで、料金は一区たしか一銭五厘だった。一厘銭、二厘銭、五厘銭などが、まだ盛んに使われていた時なので、馬車会社に毎日集まる小銭(こぜに)は大したものだった。書籍大取次のUという書店の主人は、長髯(ちょうぜん)を胸まで垂らし、風采の堂々とした人だったが、草鞋(わらじ)ばきで荷車を引いては、小銭をもてあましている会社ヘ出かけ、持参の一円札や、五円札を右の小銭にとり替え、若干の両替賃を受けてくるのが日課だった。したがって店の支払いは、全部みなこの小銭だったのである。

 私ははじめてこの店から売上金を受け取った時、その小銭を出されて面喰らってしまった。で、そのうち三十円(と覚えている)だけを人力車に積み込み、そこからあまり遠くない下宿屋にいる碧梧桐氏のところヘ行ったのである。

「原稿料をもって来ましたが、一人では持ち切れないから、手を貸して下さい」

 というと、同氏は二階から下りて来て、私と二人で、小銭を、ぎっしり入れた箱をもって階段を上って行った。室に落ちつくと、

「君、金というものは重いもんじゃね」

 と言った。

 はじめて原稿を頼まれ、はじめて原稿料を現実に手にした喜びは、この一言のなかに躍動している。今おもいだしても、快い微笑が浮かんでくる。

 

  田山花袋氏の『ふるさと』

 

 そのつぎは田山花袋氏の『ふるさと』だ。これにも思い出がふかい。

 田山さんは、当時紀行文家として知られていたが、私は、前から短篇小説の方も愛読していた。で、氏に最もふさわしい故郷を題材にした長篇を書いてもらおうと、牛込の喜久井町のお宅を訪ねたのは、明治三十二年の春だったと憶えている。

 頬のげっそり落ちた青い顔に、長い髪の毛が被いかぶさって見るから憂うつそうなのに、たえず頭を抑えて、(うつむ)きがちにポツリポツリものをいうので余計神経質に見える。なるほど派手な紅葉一派に迎えられないで不遇をかこつはずだと思った。来意を語ると、まとまった原稿の注文を受けたのは、これがはじめてだと言って大へんに喜ばれたが、それでも「君、大丈夫ですか、僕のものを出して損をしたら困りはしませんか」

 と、繰りかえして言われた。一目私の姿恰好(なりかっこう)を見たら、資本などはありそうもないから、この書生ッぽに損をかけたらと、真面目で一本気な田山さんだけにそんな心配をされたことだったろう。

 三十二年の九月に出版したが、新聞雑誌の批評もよく、追っかけ追っかけ増版するほどよく売れた。それから間もなく田山さんのお宅でご馳走になったが、

「僕はこれですっかり自信がついた」

 と言って、グングン飲まれた。私も嬉しく、盛んにお相手をしたことを憶えている。

 次に田山さんが、『ふるさと』について、大正六年九月号の『新潮』に書かれたものの中から一節を掲げる。

 

 佐藤君が『ふるさと』の原稿を書かせて呉れた時のことなどが今でもをりをりと思ひ出される。丁度私が結婚した年の夏か何かで、其時分はあの牛込喜久井町の松原を(うしろ)にした小さな家に住んでゐたが、その頃の貧しさと言ってはお話にも何もならなかった。

 其時分は、()アに、原稿を持って行きさへすれば金になるといふ風に考へることは出来なかった。原稿を体よく返される苦痛、恥辱、更に一層わるいことは、博文館あたりで折角訪ねて行っても逢ってさヘ呉れない雑誌の主筆から受ける侮蔑、――私はそこに行く長い路を恐れ、書肆の忙しい細い入口を恐れ、取次を恐れ、二階から下りて来るその編輯の小僧を恐れた。

 佐藤君が私に『ふるさと』を書けと言って来たのは、何でも七月のやゝ暑くなりかけた頃であった。佐藤君も其時分はまだ書生だった。何でも錦町あたりで、漸く取附いた小さな書店を開業してゐた。私は仕事が出来たのでほっと呼吸(いき)()いた。喜んで書いて見ることにした。

 私は一生懸命で書かうと思った。兎に角一冊の本になる。それが嬉しいと共に、単に『紀行文』の作家として鼻であしらっていられる汚名をすゝぎたいと思った。私は今でもありありその夏を思ひ出すことが出来る。前の畑には母親の()えた玉蜀黍の畠がガサガサと風に靡いてゐる。母親は不治の病の床に臥してゐる。で妻は下の家に看護に行ってゐる午前を、私はせっせと筆を執った。 (後略)

 

  新聲社の躍進

 

 新声社は、出版の方ヘ頭をもたげだしてから仕事がにわかに多くなり、社員も少数だが殖えても来た。家賃四円の家ではどうにもならないので、三十二年の九月(私の二十二の時)に神田錦町一丁目十番地(神田警察署長の官舎のあった所)に進出することになった。表の大通り、土蔵つきの二階家で、家賃は十八円だから当時としては相当なものである。私たちは、鴬が幽谷を出でて喬木に移ったような感じだったし、世間も急速の発展ぶりに目をみはったものだ。

 神田のある活版所の外交が、新声社の雷名(?)を聞いて、恐る恐る注文をとりに来た。会って見ると、私が秀英舎の校正係り時代に、そこの課長をしていた男だった。田舎から出たばかりで課長に敬意を表する道を知らない私を嫌って、ひどくいじめ抜いたことがあるだけに、意外の邂逅に驚いて、ひたすら恐縮した。私もそうして会って見ると、却って昔なつかしく大いに歓待して何がしかの仕事をやったように憶えている。

 家が大きくなると、それに比例して、信用が大きくなって行くことをはじめて体験させられた。立派な印刷所や製本所がさかんに来て仕事を漁るのだから、出版の諸機関は至極滑らかに動いて行って、その年から刊行種目も多くなった。

 翌くる三十三年から仕事をすることになった大出製本所というは、今なお続いているが、三十七年という長い出入りである。

 私の長男は、その年に生まれた。

 『新声』は三十三年の一月から、四六(しろく)二倍の大判に改めて内容を豊かにし、新味ある挿絵を入れだした。この飛躍を契機に、どんどん発展の道を進み、堂々たる青年文学雑誌として文壇に濶歩するようになった。三十五年頃は発行部数一万に達したが、純文学雑誌で一万という数は恐らく空前絶後であろうと思う。

 

  美文ばやり

 

 「美文」という言葉は、今の人たちは文学辞典でも引かなければわかるまいが、『帝国文学』によって大町桂月、武島羽衣、塩井雨江の三青年詩人が、在来の雅語古文にならいながらも、一種清新の内容と声調とをもって、散文詩的の観あるものを盛んに書いた。それが美文と呼ばれて、若い人の間に非常に喜ばれたのである。三氏の詩も加えて美文集『花紅葉』は、二十九年十二月の刊行だが、明治の文芸書のうちで、最も売れたものの一つと言われている。

 この書の及ぼした影響は大きく、文学雑誌は、みな美文欄を置いて青年の習作を掲げたし、美文書の刊行も(おびただ)しく、あの頃の書籍組合の目録を見ると、まさに美文書氾濫の観がある。新声社から出した『春風秋声』、『翆嶺白雲』、『紅葉舟』等々の集も、その内容はほとんど美文集であって、いずれも相当に読まれたものだが、しかし、新声社の本格的美文書の出版は、三十二年の秋に出た『白露集』である。これは『花紅葉』の後を継ぐものとして頗る好評だったのである。著者は久保天随、戸沢姑射、浅野馮虚の三人で、『花紅葉』と同じく大学を出たばかりの新人である。

 美文は『帝国文学』から発生した関係か、どうしても大学派専売の観があって、新声社で出した、泉鏡花、小栗風葉、田山花袋三氏の『花吹雪』などは評判にならなかった。尤も著者はいずれも小説家で、いわゆる美文家ではないし、小説の一節に紀行文を交えた程度の内容だったから、問題にはならなかったのかも知れないが、その後に新声社から出た高須梅渓氏の『暮雲』( 三十四年十月 ) はよく読まれた。詩のようにきれいな文章で自然を叙しているなかに、青春の情熱が沸きたぎっているところが、若い読者の大きな魅力であったろう。

 『白露集』の出版によって、私は著者たちと親しくなったが、天随氏はつづいて『山水美論』、『柳宗元』、『漢詩評釈』をはじめ、新声社からの著書十種を超え、数年前、台北大学教授としてあちらで仆れた時まで何かと交渉があった。浅野氏は、『英文評釈』のほか、著書は少ないが、三十三年の上半期に『新声』の巻頭時評を書いてもらったりした。本名は和三郎、かつては大本教の幹部として評判になった人で、今は心霊研究家として活動している。姑射氏は、その後新声社とはほとんど関係というほどのことがなかった。今は外国語学校長の職に在る。三十年の星霜は、恋を謳い花に泣いた当年多感の美文家たちを、さまざまの境遇に変らしめている。

 

  詩歌壇の曙

 

 明治三十年から四、五年あたりまでの詩歌壇に、若い人が続々輩出して新運動を起した花々しさは、藤村氏が、その詩集の序に言ったように、「遂に新しき詩歌の時代は来りぬ、そはうつくしき曙の如くなりき」の観があった。新声社も『青年新体詩集』を出して、新機運に遅れまいとし、さらに金子薫園氏の歌集『片われ月』を公にした(三十四年一月)。その清新なる歌風は歌壇に大なる反響を与え、特に青年の間に多く迎えられ、数回増版を重ねた。

 薫園氏はよく言われる。「あれを出す時は何となく怖いような気がしたが、思い切って出してよかった。それで私は歌壇に一つの立場をもつことが出来たから…… 」と。

 一冊の本が、その人の一生の運命を左右することが少なくない。長い出版生活のうちには、よい意味でも悪い意味でも、随分それを見せられて来た。

 少しおくれて、尾上柴舟氏の『ハイネの詩』が出た(三十四年十一月)。ハイネの訳はかなり多いが、これはハイネ訳の元祖として記録さるべきものである。訳もよかったが、本がきれいなのも評判だった。柴舟氏はまだ大学生時代で、角帽を冠ってやって来ては、早口でよくしゃべる人だった。

 薫園、柴舟共選の『叙景詩』が出たのも同じ年である。この二人は、恋愛至上主義の明星派に対抗せる自然讃美派ともいうべく、『新声』によってその叫びをあげていた。同書は、二氏の歌風に憧れ寄れる多くの青年歌人の作を集めたものとして、注目された。

 蒲原有明氏の処女詩集『草わかば』が、三十五年一月に出て詩壇を賑わした。氏は三十一年の春あたりから『新声』に詩を投稿された人で、後には詩欄の選評を引き受けてもらった。

 詩の盛んな『文庫』に比して『新声』は常に一籌(いっちゅう)を輸していたが、蒲原氏を出したことは大きな自慢だった。氏が泣菫と並んで、藤村、晩翠の後を継ぐ新詩星として謳われたのは、この集が出てからである。

 

  新聲社の同人とその著書

 

 新声社の出版は、はじめから商売としてやるのでなく、文壇的運動としての仕事だった。そしていわゆる既成文壇の領域外、別に新進の士の天地をつくろうというのが建前だったから、投書家中の俊髦(しゅんぽう)を招いては、これを編集局裡の同人とした。

 高須梅渓氏――については、前に記したが、『新声』の発展と共に、同氏は編集局の中心として活躍され、青年の間に熱心なファンが多かった。梅渓氏の次に来られたのは、

 西村酔夢氏――で (文学博士、真次氏) 、明治三十二年の入社、二十一歳だった。頭がよく、文章が達者で、いろいろな本をつくられた。中にも『日本情史』は、花井卓蔵博士をして学位論文の価値ありと激賞せしめた。

 奥村梅皐氏――三十二年の入社、二十二歳。むつかしい漢字を並べて一種の名文を書いた。後年大阪毎日に入ったが、天長節の賀詞のようなやかましい文章を書くのが仕事だったと聞いた。以上はみな大阪系の人だが、私の郷里秋田から

 田口掬汀氏――が三十三年の冬入社、二十六歳。氏は『新声』がでてからはじめて文章を書きだしたのだが、往くとして可ならざるなき才人で、間もなく、小説の力量を認められるようになった。

 登阪(ママ)北嶺氏――これは越後の人、三十四年頃の入社。文章がうまく、評論をよくしたが、温厚にすぎて、元気な他の同人と伍して行かれず、長く社にいなかった。

 正岡芸陽氏――入社当時は二十一か二だったが、忽ちにして文名あがり、本も沢山書いた。きわめて物騒な男で、よく駿河台の西園寺邸に出かけて行って話を聞いてくるが、それは雑誌のためというよりは、応接間にある上等の葉巻を失敬するのが目的だった。後にいろいろの方面に活躍したが、まとまった何事も残さないで、肺で仆れた。

 中村春雨氏――今の吉蔵氏。入社したのではないが、同人として、『新声』に毎号論文を書き、座談会にもよく出られた。温厚寡黙、当時からすでに長者の風があった。

 金子薫園氏――入社はずっと後になるが、その当時から同人として社員同様に社と接触を保って来た。私とは一番ふるい馴染みで、しかも終始一貫、今日に及んでいるのである。

 新声社は、同人本位だったので、これらの人たちの本をさかんに出した。単なる原稿料稼ぎではなく、文壇的進出の道を切り拓こうとする、その希望にそうためであった。

 高須梅渓著――青年観、暮雲、遊子

 田口掬汀著――片男波、宗教文学、別れ路、魔詩人、少年探偵

 奥村梅皐著――一噴一醒

 西村酔夢著――日本情史、墳墓、自然美観、恋愛と文学 (以上三種、匿名出版)

 登坂(ママ)北嶺著――名文評釈 (変名出版)

 正岡芸陽著――新聞社の裏面、婦人の側面、鳴呼売淫国、時代思想の権化、英雄主義、その他

 金子薫園著――片われ月、叙景詩 (柴舟共選)

 橘香梅渓共著――三十棒、文壇楽屋観

 新声同人共著――弱者の声、亡国の縮図、青葉蔭、明治文学評論 (その他略す)

 

  投書家と誌友会

 

 その時分の記者と投書家の親しみは、今からとうてい想像のできないほどだった。いろいろの人が入りかわり立ちかわり社にやってくる。懇意になると記者の自宅ヘ行く。そして議論をしたり漫談したりして喜んで帰って行ったものだ。

 時々誌友会という名で大勢の投書家と記者との集まりが、上野の三宜亭あたりに催された。日曜または土曜の昼頃からはじまって夕方には終る。会費はたいてい十銭、茶に菓子だけで、酒を出したことは一度もない、きわめて淡泊な会合だった。

 前橋とか、京都とか、読者の多いところで誌友会が開かれると、記者が出かけて行ったものだ。私が一度秋田に帰省すると(三十二年) 、主な投書家の肝煎りで早速誌友会開催。大勢集まったが、その中に、五里先きの鉱山から大雨の中をやって来た滝田樗陰君がいた。当時十八か十九だったと思う。私は東京の文壇の情勢や作家たちの話をすると、眼を輝かして真剣に聞き入る樗陰君の面影は今に忘れられない。「僕は『新声』によってはじめて文学的感激を味わうことができた」と、同君は後年よく口にされた。

 『新声』の投書家の中からめぼしい人を挙げると、

 生田長江、片上天弦 (伸氏)、相馬御風、白柳秀湖、内藤夕波(濯氏。商大教授)、河野省三(文学博士、国学院大学学長)、吉植愛剣(庄亮氏。代議士)、昇曙夢、美土路昌一(朝日新聞社重役)、土岐湖友(善麿氏)、平井晩村、有本芳水(前、実業之日本編集長 )、沖野岩三郎、川合長流(玉堂氏) 、梶田半古、川路柳虹、蘆谷蘆村、前田夕暮、若山牧水

 以上で尽きているわけではないが、雅号ばやりの時代なので、今からははっきりしない人が多い。

 右のうちすでに故人になられた人のなかで、特に平井晩村君のことがよく思いだされる。同君は、『新声』の熱心な読者で、私たちとは最も親しかった。民謡をよくしたほか、物語ものにも傑れていた。今少し長く生きていられたら、民謡の方の権威だったばかりでなく、大衆文学でもきっと堂々たる立場に立たれたことだろうに、何という運のなさか、大正八年の九月、奥さんとほとんど時を同じうして仆れた。著書に『曽我兄弟』、『義賊団』、『白虎隊』の大衆物のほか、詩集『野葡萄』がある。みな私が世話して、ほかの書肆から出版してもらったものである。「新潮社からは、もっと偉くなってから出さしてもらう」と、口癖のように言っていて遂に一冊も出さずに逝かれた。同君にとっても私にとっても心残りのすることである。

 

  百穂、成美、清方の三氏

 

 新声社編集局の人として、以上のほかさらに平福百穂氏がある。

 百穂氏は私と同じ秋田の生まれだが、一つ年上なので小学校時代は大して親しくなかった。それがお互に上京してからはよく往復した。氏が結城素明氏と向島に籠居していた頃、私は田口君などと一緒に、日和下駄をならして、神田から遠い道を歩いて行ったものだ。

 どういう都合でか、自活しなければならないから、というので、新声社員として働いてもらうことになった。三十五年の春頃だったと思う。仕事というのは、雑誌や出版物の表紙挿絵を書くだけで、そう大した時間は要らないので、ひまがあるとノートをもって颯然と出かけて行く。神田橋の付近にいる乞食と仲がよくなり、 ノートはその乞食の写生で一杯だった。

 若い時はなかなかの茶目で、いろんな悪戯をやったものだ。元来細字が得意で、女らしく匂わせても書けるというところから、五、六の文士に宛てて頗る艶っぽい手紙を女名前で送ったことがあった。文句は編集の連中との合作だと憶えている。釣りだされてお茶の水や赤坂見附あたりで、美しい待ち人の来るのを、今か今かと首を伸ばした人があったかどうか、それは知らないが、泰平無事で、余裕綽々たる三十年前の編集局風景を想望する資料にはなり得るとおもう。

 百穂氏は編集局を去ってからも、依然同人として『新声』から『新潮』まで、いろいろなものを書かれ、『新潮』も『日の出』も、創刊号の表紙は恒例のようにみな同氏を煩わした。社の宴会などにはよく来られて、愉快そうに民謡などをうたわれたものだった。

 百穂氏と共に逸してならぬのは、一条成美という名である。成美氏は三十二、三年ころ、ふいと信州から飛び出して来て、丁度その時分出はじめた『明星』の挿画をかいた。

 それが洋式の手法で(ほそ)い線を巧みに使ったところが目新しく、版画界に一時期を画したと言われた。何かの事情で『明星』を出ることになったのを、新声社で同人として迎えた。はじめて『新声』に書いたのが、三十四年一月号の「乳搾りの少女」というのだったが、大へんな評判で、たしかにその号の売行きがよかった。たった一枚の挿絵で、雑誌の売行きが違ったなどは、そう聞ける話でない。

 一条氏が独自の画境をつくって、ジャーナリズムの波に乗った点で後の竹久夢二氏を想わしめるものがあるが、惜しいことに、名声が高まるとだらしのない遊びをはじめ、家に居っても朝から一日酒を呑み通して、容易に筆をとらない。遂にひどく窮してあっけなく死んでしまった。『新粧』という画集はこの人の寂しいかたみである。

 鏑木清方氏についても一言しなければならぬ。

 明治三十四年の一月だったと思うが、突然、鏑木清方という名前で画稿を郵送して来た。見るととてもうまい。社中一同すっかり感心して、早速『新声』に載せた。それから毎月、送って来られるうちに、この人は同志と共に烏合会という画会をつくり、その会の中心人物だということを聞いてなるほどと(うなづ)き、編集から出かけて行ってお願いすることにしたように記憶している。いずれにせよ、日本画界の最高権威たる清方画伯は、その無名作家時代に、『新声』をもって習作発表の機関とされた、いわば一種の投稿家であったということは、『新声』の歴史を書くものにとってかなり愉快な話である。

 

  眉山の『ふところ日記』

 

 私が秀英舎の印刷職工時代、印刷部次長というのが、獰猛な大男で、職工たちから恐れられていた。私は昼の休みには、いつも工場の隅で本を読んでいたが、ある時その次長さんがツカツカと傍に来て、

「君は本が好きなようだが、何か目的をもっているのか」

 と聞くので、文学をやりたいと思っています、と答えると、

「文学というのは、小説を書くことだろう。それなら止めた方がいいね。私の甥がその方をやっているが、五円貸せ、十円貸せと、俺をせがんで困る。遊ぶせいもあろうが、まア文学なんてやるもんじゃないね」

 と親切に言ってくれた。で、その方はなんという人ですかと聞くと、川上眉山というんだよと至極無造作に答えた。私はびっくりしてしまった。かねがね尊敬していた硯友社の中堅作家である川上眉山は、この人の甥であるのかと、対照のあまりに奇なるにちょっと言葉が出ないほどだったが、それからは、獰猛な次長さんに一種の親しみをおぼえ、まだ見ぬ眉山氏もまんざら他人でないような気さえした。

 そのうちに、読売新聞に、眉山氏の湘南に放浪した時の紀行である『ふところ日記』というのが連載された。新俳文とも新雅文ともいうべき名文で、私は愛誦措く能わず、例の印刷次長のおじさんにも、その有難味を聞かせたことがあった。

 私が本格的出版をやりだした三十四年になって、これがまだ本になっていないことがわかり、早速、眉山氏に申し込んで快諾を得たので、思いきりきれいな本にしようと、装幀は特に一条成美氏に腕をふるってもらい、三五判の新型、表紙は一面の銀刷り、本文も色刷りという凝ったものにした。小さな本ではあるが、私の出版生活のうちで最も気に入ったものの一つである。

 明治四十一年の六月、眉山氏は自殺した。原因について諸説区々だったが、私は澎湃たる自然派の怒涛に押し流されて行った人だと思って暗然とした。例のおじさんがなお健在で、どこかでこの訃音に接したら、さぞたまらないことだろうと思って、いっそう心をくらくした。

 

  『アカツキ叢書』の刊行

 

 新声社の刊行物中、当時の文壇にいささか気を吐き得たものは『アカツキ叢書』だった。

 文壇に新空気をそそぎ込む上に、意義あるものを出したい。――これが新声社の一貫した出版方針で、『新声』同人はこれに基いて活動して来ているが、今度は同人ばかりでなく、文壇の中堅どころの名声ある作家を包容して、一つ立派なものを出そう、ということになった。その相談を第一番に小栗風葉氏のところに持ち込んだ。

 それは明治三十四年の九月、風葉氏が二十七の時である。この人は、鏡花氏と並んで紅葉門の双璧というばかりでなく、文壇の花形中の花形で、常に新しいものを求めて時代と歩みを共にしようという覚悟をもっていた。そんな点で師匠の紅葉の不機嫌な顔を気にしながらも、早くから『新声』同人と親しんだのであろう。

 私の相談を聞いた風葉氏は、そういう新味のあるものを自分も書いて見たいと思っていた、文壇の新運動に参加するつもりで大いにやろうと、ひどい意気込みで、執筆者の顔ぶれについてもいろいろ相談し、「僕の方からは徳田(秋声氏)を入れてもらいたい。ものがよかったら柳川(春葉氏)も……」という注文だった。これは風葉氏の言葉を待つばかりでなく、秋声氏の実力はすでに具眼者の認むるところであった。

 用談がすむと例の通り酒が出る。聞こゆる強酒でビールの三、四本はすぐ仆してしまう。酒が廻ってくると、大へんな元気でしゃべりだす、そして何度も何度も縁側ヘ行って立小便するのが癖だった。その当時の住いは、牛込納戸町の崖のような高台に建ってある家で、下は遥かに低い。そういう高いところから下界を瞰おろすように颯爽として立小便をする、あのポーズが、今おもいだしても一番風葉氏らしい溌刺さがあったと思う。

 かなり、遅筆の方で、新聞の続き物など休載の日が多かった人としては、思いのほか早く書かれ、『梢の花』と題して、翌年一月に出版となった。

 総括した叢書名は『アカツキ』と、わざと片仮名で書いた。黎明の気漂う日の出前の感じを寓したのである。刊行の趣旨は、左の如く述べた。

 

 我が『アカツキ』は新思想の発展を職能として世に出でたり。されば此新壇場は知名先達の傑作を掲げて新思想の発現に努むるとともに、隠れたる雛鳳(すうほう)の声を世に介せんことを以て本領とするもの也。彼の閥閲(ばつえつ)と門地とのみを見て玉石混同の書を造らんとするものゝ如きは我徒(わがともがら)の唾棄せんとする所也。我が『アカツキ』は此弊風を洗滌(せんてき)し、無名作家の扶掖(ふえき)に努め、新時代文芸の名華を咲かしめんことを企図す。かゝる宣言を以て世に出でたる『アカツキ』が壬寅文壇に如何なる光彩を放たんとするか。請ふ(すべか)らく我が進路に徴して之を見よ。

 

 続いて中村春雨(吉蔵)氏の『黒塗馬車』、徳田秋声氏の『驕慢児』、田口掬汀氏の『別れ路』、高須梅渓氏の『遊子』、田山花袋氏の『重右衛門の最後』等が刊行された。いずれもこの叢書の意義にかなった苦心の作のみだが、中にも『重右衛門の最後』は、野獣のような自然のままの少女と、生理的に不具な重右衛門という男を中心にして、そこから展開する悲劇を描いたもので、当時としてはかなり大胆な行き方であり、後の自然主義の先駆をなしたという点で、文学史上、重要な位置におかれているものである。

 

  新聲社の幕を閉じる

 

 明治三十六年九月、私が出版者としての立場に重大な転換が来た。結果からいえば、翌三十七年の初夏、新潮社を創める前提として「新声社」と訣別することになった――といえるのである。

 文芸出版者としての私は、一生懸命に働いて来たつもりである。が、私は商売人的手腕がはなはだ乏しく、経済の運用はなっていなかった。烈しい出版欲の動くまま猪のように突進するだけで、前を望み後を顧み、経済的の破綻などもなく調子よく社業を進めるというようなことは、私にはとても出来る芸でなかった。

 世間では一切が順調に、発展しつつあるのだと信じている時に、私は毎晩、恐ろしい恰好をした約束手形の夢にうなされていたのである。やっと一枚落せば、二、三日たつとさらに大きいのが控えている。それをひどい工面(くめん)して片づけると、また別のがやってくる。この約手支払いに追われて、少しばかりの集金に、私自身、関西に飛んだり、東北に奔ったり、飛脚のような真似をしていなければならなかった。

 こんなことが一年近くつづいた。とうとう私は腹をきめてしまった。このままで行っては、自滅するばかりだ。よし、ここで一番身をかわして立ちなおろう。蛇が時節が来れば皮を脱いですっと行くように、私もここらで、旧い皮を棄ててしまわなければならぬ。体裁が悪いの、人のおもわくがどうのと、そんなことを考えていては、果てがない。思い切りよく一切の旧いものに別れて、新規まき直しをしようと、こう固く腹にきめて、ひそかに時機をうかがっていると、天なるかなである。退社後しばらく姿を見せなった正岡芸陽氏が、ひょっくりやって来て、「あなたも近ごろ経済上お困りのようですが、新声社を手離す気持はありませんか」というのである。私は驚いた。これは、私を簡単に都合よく転身させるために、神業としてこの人が出て来たのではないか――とさえ思ったのである。

 話はその場ですんだ。

 誰一人相談もせず、譲渡の条件も一切先方まかせ。ただ「結構です、結構です」と、猫の子一匹の受けわたしよりも手軽に終った。

 明治二十九年以来の、私の新声社は、こうして幕が閉ざされたのである。

 

  新潮社の創立費百五十円

 

 これからは、いよいよ新潮社の巻となるのだが、新声社から新潮社への間のつなぎは、かなり暗い一幕である。

 身は軽くなったし、年は若い。思い切った働きはこれからだ。正岡氏から受け取った金は、主な払いをすましても相当に残るのだから、これからの活動に、事を欠くはずはない。よし、大いにやるぞ! 何度、心の中でこう叫んだことだろう。

 しかるに、この希望は、一時、びしゃんと潰されてしまった。それは、今後の活動の軍用金として大事に蔵い込んで置いたものが、いつの間にか盗まれてしまったのである。気のついた時は空っぽの袋だけが残っていた。

 単なる盗難ならば諦らめようもあったろう。そうでなかったから私の受けた打撃は、物質的にも精神的にも大きかった。しかしこれ以上書くことを控える。これは決して愉快な話ではないから――。

 私もすっかり気力を(くじ)かれて、二日ばかりは寝たっきりだった。床の中でずいぶん恐ろしいことを考えたりしたが、家内はいろいろ心配するし、隣りに住んでいた掬汀君が来ては慰めてくれるし、気持をすっかりかえて、三日目あたりから起きあがることが出来た。十九で『新声』をやった時のことを考えたら、無一文だって何も悲観することがないではないか。元来、新声社の譲渡金で、更生の仕事をしようとしたのは間違いであったかも知れない。裸一貫でおどり出してこそ文字どおりの更生の意義にも叶うというものだ。こんな風に考えると、元気を取り戻すことが出来た。

 が、いよいよ仕事にかかるまで生活を支えて行くことは容易でなかった。債鬼――金を催促されたからとて鬼というは失礼千万だが、当時の私には、債鬼というよりほかなかった。それらの人たちの交渉は一切、家内が引き受けて、いわゆる後顧の憂いなからしめてくれた。それで、私は新しい仕事の準備に没頭することが出来たのであるが、この歳も暮れて、三十七年になると、日露の風雲いよいよ急となり、遂に二月上旬、宣戦の布告となった。

 国を挙げて戦争のほか何物もないという時になって、文学物の出版でもあるまいという忠告を受けたが、戦時には戦時にふさわしい文学があってもよいはずだ。余計な気兼ねをして小さく縮こまってしまうのは馬鹿げている、頑張れ頑張れと自ら励まして、いよいよ雑誌を出すことに決めた。

 が、金が一文もない。質草も大抵尽きてしまった。実際当惑したが、思いついたのは、その時の借家は、飯田町赤十字の下のかなり大きな庭のある家で、敷金が二百五十円入れてある。敷金の少ない家ヘ引越して、敷金の差を利用するということだった。牛込区新小川町一丁目のすこぶる家賃のやすい家に大急ぎで越したのはそのためであって、敷金の差約百五十円――、これが私の更生の仕事の全資金だった。

 かくして明治三十七年(1904)五月十日、『新潮』第一号は、発行所を新潮社と名づけて世に出たのである。真先きに喜びの言葉を寄せられたのは、中村吉蔵氏だった。

 『新潮』の出る二た月ばかり前に、伊藤銀月氏から「非戦論で社長と議が合わないで万朝報を出た幸徳秋水、堺枯川の二氏が、文学を主とする雑誌を出す意志がある。それを引き受けてやる気持はないか。いずれにせよ、一度両氏と会って見たらどうか」という好意ある相談があった。文学を主とするというので若干気持が動かないでもなかったが、人のやるものを出したところで面白くはない、と思いかえしてお断りした。その雑誌というのが、形を変えて『平民新聞』となって出たのであるが、過激の文字で一杯になっているその紙面を見て、私は別の意味からも驚いたのである。

 

  新潮社の社則三カ条――国民中学会

 

 『新潮』創刊当時は、文字どおりの無人だった。社員みな四散、残った中根氏も郷里に社のための金融に出かけ、それがうまく行かないで、出て来ないし、家内のほか、小さな小僧たった一人いるだけだった。

 雑誌一つ、といってもなかなか面倒なもので、原稿の収集から編集、紙の買入れ、印刷製本の掛け合い、書店への交渉、それをみな一人でやらねばならぬ上に、広告をとるため方々廻るという、私には少しも経験のない仕事があった。しかし印刷費の一部を補うためには是非広告がいるので、創刊号が出来ると、それを某氏の紹介状に添えて神田今川小路の某書店に行き、熱心に頼んだ。

 相談して置くから明日来いという。翌日行くと、また明日来いだ。正直に三、四遍行って、いよいよ第二号の広告の締切りという日に、駄目だとにべもなく断わられてしまった。どうしたらよいか、ちょっと工夫もつかず、俯向いて歩いて行くと、細い路地がある。フラフラとそこを入って、突きぬけると大通りで、真向いの家に「大日本国民中学会」という看板が出ている。

 「ははあ、最近講義録をはじめたのはこれだな」と思いながら、中に入ってみる気になって、会主の河野正義氏に会いたいからと名刺を出すと、直ぐに、背の低い、でっぷり太った三十前後に見える人が出てきて、

 「私が河野です。あなたのことは一条成美氏からかねがね聞いて、会いたいと思っていました。よく来てくれました」と案外の歓待で、広告のことなどわけもなく承知してくれた。私はこの思いがけない好意に感激して、やはり無人で何かと困っている同会のために、新聞の批評の方を世話したり、編集を手伝って急場の間に合わせてやったりしたので、今度は河野氏の方で喜んで、私を顧問といった格に待遇された。講義録の編集をはじめ、さまざまの仕事を引き受けたが、その第一は『日露大戦史』二千枚で、戦いのまだ終らぬうちから書くので、材料の収集には相当骨を折ったが、しかし国民的情熱が湧いて来てどんどん筆が走った。そのほか、千枚以上のものも六冊まで書かしてもらった。

 私は、新潮社を創める時、こういう三カ条の規則を定めた。いわゆる法三章である。

 一、良心に背く出版は、殺されてもせぬ事。

 一、どんな場合でも借金をしない事。

 一、決して約束手形を書かぬ事。

 前の失敗に懲りて、今度こそは堅実一方でやって行こうと固い決心をしたが、さてその実行は容易でない。拳骨一つで仕事をはじめて、流通資金といったものは一文もないのに、借金をするな、約束手形を書くな、と言ったところで、そう簡単に出来るものでない。しかるにそれが完全に出来たというのは、ほとんど中学会の河野氏のおかげだと言ってよい。講義録の編集のほか、大部の本をつぎつぎに書かせてもらう。容易ならぬ骨折りだったが、しかし、その報酬は生活費を払ってなお余りあるものがあった。そこで私の出版は生活の掣肘(せいちゅう)を受けることなく、自由に思う通りにやって行けたし、また、借金もせず、約手も書かずにすむことが出来たのだ。

 河野氏の有り難いことはもちろんだが、広告を最後にすっぽかして私を一時困惑させた某書店も皮肉でなく有り難いと思う。当時、もし某書店で広告をくれたら、恐らく河野氏と会う機会がなかったろう。その反対だったために、河野氏と知りあって仕事をもらうことになったのだ。出版四十年、好意を寄せられた人も、悪意を持たれた人も、ふりかえって見ると、みんな私をかくあらしめるための神業だったと思えて、有り難い気持になってくる。

 

  高麗蔵上演用脚本募集

 

 『新潮』は、戦争で文学ものは屏息してしまった時に出たためか、思いのほかの歓迎で、創刊号は忽ち売切れとなった。これで大いに元気がつき、何か文学的に動いて見たい気持になった。そこで、いろいろ考えた末に思いついたのは、脚本募集をやろう、上演されれば、雑誌の名も出る、というところから、前からの知人である花房柳外氏に相談をもちかけた。この人は演劇に、宗教的情熱といったようなものをもっている人だった。

 花房氏は大賛成で、この話を市川高麗蔵(松本幸四郎)にもって行ってその上演用ということにし、懸賞金も出してもらおうと、窮迫している私の懐具合まで考えて、さまざまに工夫してくれた。そこで二人は神田三崎町の東京座 (当時の大劇場、今は氷蔵になっている)の楽屋に高麗蔵氏を訪ねて来意を語ると、早速の快諾で、話はすぐまとまった。当時の劇壇でこの人は花形であったばかりでなく、芸術のことがよくわかるインテリ俳優という評判で、上田敏氏をはじめ学者文士の間に多くの支持者があった。そこでこの計画を同氏の許へもち込んだのである。

 翌月の『新潮』に募集広告を堂々と発表した。懸賞金一等三十円、一幕物、市川高麗蔵の上演し得るもの――という条件だった。さて締切りまでに集まったもの僅かに数篇。それも目ぼしい物が一つもなく、せっかくの名計画、水泡に終って、柳外氏と顔を見合わして苦笑するよりほかなかった。もちろん、雑誌に勢力のないためだったろうが、三十幾年前のことで、劇に功名心をもっている人の少ない所にも原因があったと思う。

 この柳外氏は、劇のために実によく働かれた人で、脚本も書けば評論も書いたし、理想を実現するのだといって、神田の錦輝館で自分で芝居をやったこともあった。しかも、明治の末期に、何の酬いられるところなく、空しく死んで行った。『日本文学大辞典』に幾行かを割いて、せめてその名前だけでも伝えたいと思ったが、事蹟全く不明で、どうすることも出来なかった。

 

  新潮社に来た人々

 

 『新潮』には記者というものは一人もなく、また当分置こうとする考えもなく、私一人でやれるまでやる決心をし、匿名、変名でさまざまのものを書いた。

 旧同人である高須、田口、金子、奥村等の諸氏は原稿を寄せて孤軍奮闘の私を援けてくれたし、伊藤銀月、松居松葉(後、松翁)などの諸氏からもいろいろ好意を受けた。

 投書家の来ることは『新声』ほどでなかったが、それでもやはり相当に見えた。その中で、今なお記憶に刻まれているのは、中里介山氏である。

 三十七年の六月に、介山氏が「所謂雄辯家」というものを投稿して来たが、堂々たる論文で早速翌月の『新潮』に載せた。それからほとんど毎月のように送って来た。ある時、突然来訪されたので、会って見ると、小柄の、がっちりした体つきで、あまり物を言われないが、精悍の気眉宇に溢れるといったところがあった。年はやっと二十歳だった。どうしてそれを知っているかというに、その翌年の年賀状に「介山は今年検査の二十一」という俳句らしいもの書いて来たからである。

 芝居の話をすると、まだ一度も見たことがないという。そこで本郷座ヘ一緒に行った。新派の全盛時代で、名優高田実が河合武雄を女房役として、たしか「高野の義人」をやっていた。介山氏の性格では、きっと高田の芸風を好くだろうと思って行ったのだったが、果たして、始めから終りまでほとんど物も言わず、眼を輝かして見つめていた。あとで、高田の芸から非常な感銘を受けたと言っていた。

 それから今の山嶽文学の権威者で、法政大学に教鞭を執っている田部重治氏、――当時は南日姓だった。この人は実によく来た。蒼い顔をした、いかにも弱そうな青年で、私の机の傍に坐り込んで話しだしては、半日も動こうとしなかった。先年久しぶりで逢って見ると、光頭燦として輝き、いかにも堂々たるプロフェッサーで、昔の面影などどこにもなかった。

 平井晩村氏も引きつづいてよく来た。その友人の松山白洋氏、これは新体詩人だが、晩村氏に連れられて来て、後、『新体詩入門』というを書き(四十年出版) 、長連恆氏の著『源氏物語梗概』の下書きをしたりした。

 

  佐藤紅緑氏と真山青果氏

 

 このよく来られた人の中に、佐藤紅緑氏とその一党がある。

 今の大衆文学の大元老紅緑氏も、三十年前はまことにみじめなもので、長い新聞記者生活から離れてきまった職業もなく、小石川の久世山下に長屋住まいをしていた。そういう生活の中でも、居候の二人や三人はいないことがなかった。一面、俳人的の洒脱さをもっていた人だけに、かなり窮迫した境遇にありながらも、実に呑気なもので、ほとんど毎日といってもいいくらいに、その居候たちを連れて私の所ヘ遊びに来た。来れば、紅緑氏を始め居候連はすぐゴロリと横になる。私も寝て、頭と頭を接近させて話をしたものだ。

 この居候連のメンバーは、とても奇抜な男で(かつて紅緑氏が『文芸春秋』にその奇行の一端を書いたことがある)、後に新聞記者となって怪腕をふるった高須賀淳平氏。それから名前は忘れたが、なんでも同志社時代に徳冨蘆花と同窓だったということだけを自慢している人などのほかに、真山青果氏もその一人だったのである。

 青果氏は、『新声』の末期に投稿されたことがあるそうだ。『新潮』の第三号あたりから短篇小説を寄せて来たが、ほかの人のものとくらべると水際立っていた。紅緑氏に連れられて来るようになってから、私とは特に親しくなり、何かの仕事を頼んだこともあったように思う。小栗風葉氏に会いたいというので、わざわざ行って氏のことを話して来たことがあったが、それが後に、風葉、青果のコンビで文壇をあばれ廻るほどの関係となったのである。

 『新潮』が明治四十年の五月に、創刊記念号を出し、三嶋霜川、岡本霊華ら四人の小説を載せたが、その中に青果氏の『南小泉村』というのがあって、これが 非常な評判になり、真山青果の存在を始めて文壇に知らしめた。『新潮』に連載すること三、四回、後に他の短篇と合わせて一巻とし、『青果集』と題して出版した(明治四十年十二月)。これは青果氏の出世作であって、同時に新潮社になってからの始めてといってもよい本格的文芸出版だった。

 

  自然派運動と『二十八人集』

 

 明治四十年前後の自然派運動のすさまじさは、大変なものだった。津浪のようにおしよせて来て、従来の文芸的存在の一切をさらって行ってしまった。私の出版的活動は、この自然派の波に乗ったことから始まったと言っていい。新声社時代も文学的に動いて来たものだったが、いつも文壇の主流とは遠ざかっていた。それは、文壇の外郭にあって、主流とは対抗的立場に置かれていたからである。それが自然派の波に乗ってからは端的に文壇の主流と接触することとなったので、文壇的に最も勢力のある作品なり評論なりの出版が出来ることとなった。この運動の頭目は田山花袋氏であり、最も勢力ある一人として小栗風葉氏あり、みな私と関係の深い人であったために、私の出版的進出が滑かになり得たのである。

 そういった出版の具体化したのは『二十八人集』である (四十一年四月発行)。当時、自然派の戦土として第一線に活動していた国木田独歩氏は、肺を病んで湘南の南湖院に入院したが、経済的に非常に困っているから、これが療養費の幾分でも助けようというところから、文壇の目ぼしい二十八人の人たちの作品を集めて一冊にすることにした。それがほとんど自然派の評論家、作家ばかりだったので、『二十八人集』は、当時の新しい文壇の傾向を明らかにした一個の指標として、非常に重きを置かれた。当時、国民新聞に「出版界の動勢」という大きな記事が掲げられた中に、

 

 新声社から新潮社に転身した佐藤氏が、始めて意義ある出版としての二十八人集を提供された。これによって新潮社が文学的出版に重きを為すに至り得ると云ふことが予言できる。

 

 という風に書いであった。

 この書は、文壇的意義ばかりでなく、友人を援助するということが出版の動機であり、独歩氏と関係のある西園寺公の題辞や、蘇峰氏の序文があって、社会的にも同情の引かれるなどの関係やいろいろで、一円三十銭という当時としては思い切った定価だったが、よく売れて、実際増版に忙殺された。その印税はみな独歩氏のところへ行くので、あのきかん気の独歩氏も心から感謝していた。

 

  独歩の死とその書簡集

 

 『二十八人集』を出した関係で、独歩氏を南湖院に訪問したのは、四十一年の一月か二月。たしか『報知新聞』の鹿島桜巷氏と同伴だったと思う。

 独歩氏は、明治二十五年頃浪人して鎌倉にいた時分に「小説を書くから金を貸してくれ」と言って人をよこしたことがある。私は一遍も会ったことがなく、またその頃の同氏は流行作家でもなかったが、早くから同氏の作品に傾倒していたため、異議なくそれに応じた。その後、こちらから原稿の催促に行った者に対して、思いもよらぬ態度をとられたので、私はあまりいい感じはもっていなかった。そうして、数年ぶりに同氏を南湖院に訪問したのだったが、同氏は病床で、そのことについて思いちがいのあったことを弁明されたので、私も渙然氷釈することができた。

 そして真山青果氏と、その当時から社に関係の深かった中村武羅夫氏の二人を、交替に病院の近くの旅館に泊まってもらうことにした。それは独歩氏の話を聞いて本にして、その印税を病院の費用の中に入れ、また二人が話相手になれば、寂しい病床生活も慰めることが出来る。これは一挙両得だというので、早速実行した。独歩氏没後に出版した『病牀録』(四十一年七月)はそれである。

 独歩氏の死んだのは六月の二十三日、それから約二十日を隔てた七月十五日に、『新潮』の特別号として『国木田独歩』というのを出した。独歩氏を知る約四十余氏の話をまとめたもので、それは実に疾風迅雷という早業の出版であった。これは主として中村武羅夫氏が異常の努力に成り、その抜群の精力には全く舌を捲いたものだった。

 大正元年の春『独歩書簡』を出版した。それは独歩氏が前の夫人信子女史に対しておくったもので、主に独歩氏を捨ててその生家に帰ってからの信子さんに対して、失恋の煩悶懊悩を愬えた情熱あふれるような手紙ばかりであった。信子さんが独歩氏と別れてから後、その手紙を一束にして送って来たのを、しまってあったそうで、独歩氏死後、治子夫人に書簡集の出版を慫慂すると、きわめて淡泊な人だったので、「それもいいわね」と言っただけで、何のこだわることもなく承諾し、束になった書簡をそのまま渡された。

 年代を分けたり、年代のわからないものを調査したり、相当の苦心をして出版したのだが、果たして大評判でよく売れた。出版後、その手紙を奥さんにかえしたが、しばらく経って増版の時に、わからないところを発見したので、一応現物について調査しようとして手紙を借りにやったところ、もう無いと言われる。「あれだけの手紙がないはずはないでしょう」というと、「もう、一度、本になったものだから用はないと思って、葛蘢(つづら)の下張りに張ってしまったわ」と言われて、全くあいた口が塞がらなかった。明治、大正にわたって最も華々しい文豪と言われた国木田独歩の恋の手紙が、こんな簡単に片づけられてしまったのだ。手紙の半ぺラでも、独歩崇拝者にとっては非常な宝なのに、それを事もあろうに、葛蘢の下張りとは、あまりに情けないと言って地団駄を踏んだ者もあったが、後の祭りでどうにもならなかった。

 

  翻訳出版−『父と子』と『死の勝利』

 

 四十年頃から、私は外国文学の出版について考えだした。日本の文壇の革新運動といったところが、畢竟するに、外国文学の影響によるのが大きいから、今後必ず外国文学翻訳の要求がさかんに起こるに相違ない。それを見越して翻訳出版をやろうと決心し、第一番にツルゲーネフから始め、だんだん他に及ぼそうと思った。なぜそんな考えを起こしたかというに、長谷川二葉亭が『猟人日記』の一節を訳した『あひゞき』(二十一年の『国民之友』発表)を読んでひどく感心したのに第一の原因がある。当時の文学青年で、あの訳になにがしかの感銘を受けなかった者は恐らく絶無であったろう。その次は田山花袋氏だ。当時の田山さんは酒を飲むと、きっと、といってもよいくらいにツルゲーネフの話をされた。ツルゲーネフの書く恋はいいねといって、その一節の梗概を、いかにも感傷的の調子で語られたりした。私もひどくそれに動かされて、翻訳出版はツルゲーネフから始めようと決めたのである。

 ある時、相馬御風氏にその話をすると、自分もかねがねツルゲーネフを訳したいと思っていたというので、話は簡単にきまり、第一着手として代表作の『父と子』をやってもらうことにした。明治四十二年に出版したが、増版約五回。翻訳物は売れない、という出版界共通の迷信を打破するだけの売行きだった。

 その次は『貴族の家』、同じくツルゲーネフ作だ。

 つづいて、昇曙夢氏が近代ロシアの作家数十人の短篇を集めた『毒の園』を出した。ロシア物が日本に迎えられる理由は十分あるのだから、この方面に進んで行く方針はとったが、しかし新潮社が翻訳出版として認められるに至ったのは、『近代名著文庫』を企て、その第一編として『死の勝利』を出してからである。

 『死の勝利』は元来、生田長江氏が『趣味』発行所の易風社から出すはずになっていたものだが、長江氏はまだ無名であり、訳文も生硬だから小栗風葉氏に文章を直してもらって共訳にしようという発行所の希望から手間どっていたのである。長江氏は金が急ぐので、自分一人の名で出してくれないかと言って原稿をもって来られた。私は大して生硬とは思わないし、翻訳に外国語のできない人の名を冠するなどは、却っておかしいから、訳者は一人で結構だと言ったので、話は即座に決まり、すぐ印刷にかかった。出版したのは、大正二年の一月である。

 当時、森田草平氏が平塚雷鳥女史と死地を求めて塩原の奥、雪の尾花峠に分け入ったという新聞の特大記事が出たが、それは『死の勝利』の影響から、原作そのままを実演したのだというので、この作の名は世間的にひろく知られていた。そんなことも手伝って、翻訳物としては全く記録やぶりの売れ行きを示した。

 『近代名著文庫』は、『死の勝利』につづいて、ドオデエの『サフオ』(武林無想庵氏訳)、ドストエーフスキイの『虐げられし人々』(昇曙夢氏訳)、アルツィバアセフの『サアニン』(中嶋清氏訳)等続々刊行した。翻訳書としては空前の美本である点でも評判になった。これは、出入りをはじめたばかりの植木製本所で骨を折ってくれたもので、その後の特製本はたいてい植木でやった。あれから二十四年、今年の夏、植木君は死んだ。同君にとっても『死の勝利』は好個の記念であろう。

 

  帰朝直後の荷風氏の作品

 

 明治四十一年の九月のことだ。外国から帰って来たばかりの永井荷風氏が、久しぶりにやって来て、原稿を買ってくれという。「ADIEU」と題するものだった。それからまた間もなく向島かどこからか、使いに原稿を持たして寄越した。それは後で有名になった「祭の夜がたり」だった。

 いずれも、外遊中の題材が当時としては清新な上に、若々しい詩情に満ちた文章に魅力があった。つぎつぎに『新潮』に掲げた。

 あとで氏の話によると、はじめこれを『文藝倶楽部』に持って行ったそうだ。しかるに、かつては日本の新文芸の最高権威だったこの雑誌の主幹は、一読して、これは小説雑誌に載せられるものではないからと言って断わったという。そこでほかに知ったところがないので、昔馴染みの新潮社ヘ持って来た――ということだった。花袋氏の『蒲団』が出てからすでに二年、国木田独歩が死んでから一年、新文学の潮流は澎湃として逆巻いているのに、清新かくの如き好作品を小説雑誌に載せられないと言って、つっ返すとは恐ろしいことだ。旧きに安住していると、簡単に時代から置き去りを食わねばならぬ現実を、はっきり見せられた私たちは、深く戒むべきことだと言いあった。

 荷風氏が私を昔馴染みというのは、『夢の女』の時のことをいったので、あれは、三十六年(明治)の出版だった。荷風氏が二十五歳の時の作。たしか、押川春浪氏が代って交渉に来られたと思う。原稿を読んで見ると、当時懸賞入選で評判になった『地獄の花』に劣らぬ作品なので、打ち合わせかたがた返事をもって荷風氏を訪ねた。牛込大久保余丁町の、永井と聞いてすぐわかった。堂々たる邸の玄関の前に立つと、取次は、若旦那様の方ではないか、それならばここから一町ばかり向うだと教えられて、そこへ行った。本宅とは似つかぬ貧弱の家で、恐らく風流、禍をなして、勘当の身の上だろうと察せられた。

 本の口絵に美人展覧会というので求めた写真を載せたが、それが遊女の写真だというので、『帝国文学』から、文学の神聖を汚すこと何ぞそれ甚だしきやとひどく叱られた。

 

  『終篇金色夜叉』の世に出るまで

 

 初期の新潮社が出した小説中、その暴風的な売行きで世間を驚かしたものは、小栗風葉氏の『終篇金色夜叉』であった。

 私はかねがね紅葉の『金色夜叉』に結末の無いのを惜しみ、これを風葉氏あたりに書いてもらったら面白かろうと思っていた。

 明治四十年の暮れ近い頃だった。私のこの考えを知っている真山青果氏がやって来て、

 「先生(風葉氏) は今ひどく金に窮していて、この暮れは越せそうもないから、金を出して否応なしに承諾させたら……」と勧めてくれた。

 私は渡りに舟の名案と喜んで、早速五百円だったか八百円だったかの前金を渡して、とにかく執筆することに約束したのである。

 ところが風葉氏にしてみると、書く気なんか少しもなかった。暮れの苦しい一時を凌ぎたいばかりに金を受け取ったのだから、いくら経っても書きはじめるようすはない。それに風葉という人は、借金の証文を書く名人だった。たいていの文士は金を借りたからと言って、何一つ覚え書きを書いたりしなかったが、氏は、一つ金何円也、右借用候事実證也、返済の儀は云々、利息はかくかくと型の如く書きならベ、最後にちゃんと証券印紙をはって実印らしい四角な立派なハンコをおす。借用証書として間然するところなき本格の証書をわたされて、ずいぶん堅い人だなと感服したら大間違い、証文をわたしてしまえば、借金を返した気持になってサバサバするのだと、後で聞いて驚いたが、そんなことに感心してはいられず、前金を渡してある以上、どうでもこうでも書いてもらわなければならぬ。

 この話を聴き込んだのが、晩年の紅葉の門下生だった某で、

 「それならば、自分のところに紅葉先生の腹案書がある」

 と言って、それをいくらかで風葉氏に売り込んだ。

 某というのは紅葉の偽筆の実に巧い男で、鏡花氏あたりでなければ、真偽は見分けがたいほどだった。風葉氏に売り込んだ腹案書というのも、もちろんこの男の偽作である。

 ところが筆蹟が紅葉そっくりなので、風葉氏の方では絶対に信じ切ってしまった。

 「腹案書があるからには、それによって自分が書きつづけても、師の名を辱めることはあるまい」

 というので、それから書斎に籠って終篇に専心しはじめたのは、四十一年の初秋頃だった。が、始めたというものの、名うての遅筆の人、殊に師紅葉の文章に擬するのだから非常の苦しみでなかなか(はか)どらない。ややもすれば、投げだしそうになるという情報がはいってくる。それは大変だというので、一時は私が毎日催促に出かけた。秋雨のひどくふるなかを、戸山ケ原を抜けて戸塚まで行くのだが、途中は、まるで沼地のようなところなので、途中、下駄をぬいで跣足になるといった日も多かった。そして毎日、二枚かせいぜい三枚もらってくる。私の行かれない時は、代わって誰かが行く。まるで戦争だったが、こちらの根気が、とうとう勝って書き通させてしまった。

 それはその年の暮れ近い頃だった。出来たものは紅葉山人そっくりの絢爛たる名文、苦心の甲斐あったと社中みな大喜びだった。

 校正にも相当手間どって、世に出たのは、四十二年の四月。果たして大評判、むしろ予期以上の歓迎で、つづけざまに増版したが、三百部や五百部は一日で無くなって、品切れの日が多かった。供給不足のため、本屋の使いが毎日社の玄関に頑張って、ある雨の降る日、使い同士が本の奪い合いから、表の泥濘(かるみ)の中で組み打ちを始めたことなどもあった。

 風葉氏は、終篇を書いて後間もなく、郷里の豊橋ヘ引込むことになったので、一夕送別の宴が開かれた。その席上で、

 「とんだ偽物をつかまされたものだ」

 と、初めて風葉氏の口から右の紅葉の腹案書についての話を聞き、

 「嘘から出た(まこと)も、ここまで来れば大したものだ」

 と、お互に、大笑いしたことであった。

 

  龍子画伯の漫画豆本

 

 青龍社の総帥、川端龍子画伯が、かつて漫画家だった経歴をもっているといったら、何人(なんぴと)も驚くに相違ない。氏は明治四十年代に、国民新聞記者として毎日克明に漫画を書きつづけたものだ。が、平福百穂氏も同紙の漫画記者だったのである。漫画記者から画壇の最高権威――、これは山の芋変じて鰻となるどころの話でない。

 が、百穂氏は漫画家とはいい条、新聞に大きくスペースをとって堂々と書いていたが、龍子氏に至っては、一寸くらいのほんの豆漫画、新聞の三面記事が材料なので、たいていの場合、警官が出て来て、自然の滑稽を演じて行く。その中に小さな諷刺と小さな皮肉を包んで、新聞の片隅に気を吐いていた。それをまとめて『漫画東京日記』と題し、新潮社から出した。著者の凝った装幀で、三寸に四寸の豆本だった(四十四年七月)

 私はこの出版のことで、よく龍子氏に会った。温厚の君子人らしい風貌で、大きな声でものも言わない人だった。今日の大をなす気魄は、どこに潜んでいたかと不思議に思われるくらいだ。何にせよ、画壇の最高権威が三十年前に公にした、マッチ箱のような漫画の豆本は稀有の珍品で、好事家のうっちゃって置くものではなかろう。

 

  牛込矢来に移る

 

 牛込新小川町で『新潮』を創刊した新潮社は、

  明治四十年(1907)六月に牛込区土手三番町二十七番地に、

  明治四十一年(1908)十二月に麹町区飯田町三丁目二五番地に

移転した。いずれも借家住まいだったが、

  大正二年(1913)七月に、はじめて現在の牛込区矢来町に

家屋を買い求めて移った。地所は百八十坪、これは借りた。とにかく東京に出て来てから約二十年で、やっと自分の家に住まったのである。

 この前後の社業について少し書いて見れば、まず社内の人たちである。中村武羅夫氏は土手三番町時代すでに編集にたずさわっていたが、入社したのは四十年だったと思う。その時分から天馬空を行くといった調子で、痛快淋漓たるところがあった。時々天馬があばれ出して手に負えないこともあったが、私はその痛快味が好きだったし、また温情に富んだ誠実なところを信頼して来た。

 当時、氏は主として『新潮』の訪問をやり、私はそれを編集するのだったが、ある時、その訪問原稿の中に見慣れない文字がある。読むとその文章に新味があって、しかもよく整うている。これは誰が書いたのかと聞くと、今度相模から来た加藤という青年で、私のところにころがっている、という。その人に是非会いたいと言って来てもらったのは、加藤武雄氏だった。氏は間もなく入社したが、第一番に書いた藤村氏の『緑蔭叢書』の広告文は実に上出来で、私はひどく感心させられたことを、今もはっきり憶えている。

 それから文章の方面は、無条件で信頼して来たが、文芸出版について、加藤氏が陰から尽された功労は実に大きい。中村氏が雑誌に終始一貫して、三十年の努力を捧げられたことは、日本の雑誌界でただ一人であろうと思う。

 営業部に遠山諦観氏がいた。当時せっせと帳面づけをしていたが、今は西本願寺の碩学として聞こえている。その友人の松原至文氏 (致遠。西本願寺の高名な布教師) も社友として巻頭の評論を書いた。荘重雄健の文章は、雑誌の重きをなしていた。

 四十二、三年の飯田町時代に文士たちがよく来られた。庭はすてきで、春や秋の眺めがとてもよく、縁台など出して樹下に飲んだことも少なくない。今から二十七年前、徳田さんはまだ三十九。私も三十二。みんな若かった。

 それから、『新釈源氏物語』という大著の出版準備にかかったり、藤村氏の『緑蔭叢書』を譲り受けたり、『死の勝利』以下の翻訳の大きな叢書を始めたり、社業次第に進展する。新潮社を創めて七年、どうやらこうやら文芸出版で重きを置かれるようになったので、庭ばかりひろくって室の少ないその時の社屋ではどうにもならないので、牛込矢来の現在の地に移ったのである。現在の地といっても大通りでなく、細い路地をはいったところで、前の空地ヘ事務所を建てた。木造ペンキ塗りの小さなもので、二階は編集と応接の二間、下は営業部一間だけのものだった。それでも若い中村、加藤氏などは「こんな立派なところで仕事をするのかな」と、ひどく喜ばれた。

 家を買ったり事務所を造ったりして、もう財政に余裕なく、懐具合いはかなり寂しかったが、誰一人にも話さず、また悟られもせず、どうやらこうやらやり繰って、新声社の轍を履まずに過ぎた。人の一生は何度あぶない橋を渡らされるものかわからない。

 

  島村抱月氏の「芸術座」旗挙げ

 

 島村抱月氏が帰朝後、松井須磨子との恋愛事件から早大を去り、「藝術座」を作って帝国劇場で旗挙げ興行をやったのは、大正三年であった。

 出し物としてトルストイの『復活』が選ばれ、四月一日の蓋あけを目指して舞台稽古が始められたが、抱月氏は醇乎として醇なる学者肌の人で、金の才覚はきわめて下手。三月の月末に座員に払うべき給金がないという。

 一日、相馬御風氏が私を訪ねて来て、「あれでは折角の芸術座も、旗挙げ前に解散するより途がない。何とかして、救ってやってほしい」という話なので、

 「よろしい。とにかく何とかするから島村さんにお目にかかりたいものです」と答えた。

 間もなく抱月氏が来られての話に依ると、千円もあれば急場が凌げるというのである。もちろん氏の成功を心から祈っている私は、快くその金を出すと同時に脚本の出版も引き受けた。

 帝劇の「復活」は、われるような喝采であった。抱月氏も嬉しかったろうが、私としてもこの上ない喜びであった。

 やがて「藝術座」は、「復活」を持って上野の万国博覧会にも出演したり、浅草で特別興行したりして、須磨子の歌った「カチューシャの唄」――カチューシャ可愛や別れのつらさ――は一世を風靡して、わが国流行歌史上に一大エポックを画するに至った。

 脚本の方は、六、七千部くらい出たかと思う。出版的には何ら語るに足るものではないが、千円の金でトルストイの『復活』が日本の舞台で脚光を浴びることが出来たという一事は、今もって私の楽しい想い出の一つである。

 つづいて同じ芸術座脚本の『その前夜』(ツルゲーネフ、楠山正雄氏訳) 、『クレオパトラ』(シェークスピア作、島村抱月訳) 等が新潮社から出た。それから、大正八年には、松井須磨子氏の『牡丹刷毛』という芝居の随筆集が、抱月氏の序文を載せて出版された。はじめは何も書けなかった須磨子氏も、ねばりの強い人なので、とうとうああいうものが書けるまでになったと聞いた。相当凝った本で、新劇唯一の女優だったこの人の舞台写真帖でもあった。

 

  長篇書き下しの流行

 

 大正五年からしばらく書き下し長篇の流行時代がつづいた。その先駆をなしたものは、江馬修氏の『受難者』であった。

 江馬氏は、たしか中村武羅夫氏の紹介で社に来られたと思う。毎月何ほどかずつの生活費を渡して長篇を書くことに私との間で話が決まった時、中村氏にも慇懃な態度で感謝していたことを憶えている。

 それから一年ばかり過ぎたある早朝のことだが、私はいつもの通り朝の散歩のため、社の門をあけて一歩出ると、江馬氏が立っている。今頃どうしたのですと聞くと、

 「長篇がやっと出来上がりました。今朝の四時に完了したのですが、早くあなたに見てもらいたいと思って飛んで来ました。門のあくのを待って二時間あまり立ち通しました」

 見れば、千枚近いというその原稿を入れた風呂敷包みを持っている。

 私も非常に喜び、応接間に請じて、長い間の努力を慰めた。本になったのは大正五年の九月だった。無名作家の長篇は、かなりの冒険だが、それが実によく売れた。文壇ではほとんど沈黙を守って批評らしい批評を聞くことは出来なかったが、読者からは感激の言葉を書きつらねた手紙が、盛んに江馬氏のところヘ舞い込んだそうだ。

 それが天下の青年に異常の刺激を与え、長篇一つ当たれば、「文学的成功」、もっと下品な言葉で言えば「文学的成金」になれる、といった気持を一部青年に起こさしたことは否めない。それからしばらくたつと、無名の青年から、三百枚、五百枚といった作品が続々――、文字どおり続々送って来られるには驚いた。ある時などは、ひどい粗服の青年が、社の玄関ヘ来て、

 「僕は越後から今来たのですが、苦心の長篇は出来ました。すぐ出版して下さい。大丈夫売れますから」

 と大きな声で怒鳴り、バスケットをつき出した。あけて見ると半ぺらで二千枚くらいはありそうだ。今すぐ約束をしてくれというのを、そんな簡単に決めるわけにゆかないからと、長い間説き聞かせてやっと帰ってもらったことさえあった。

 島田清次郎氏が、長篇を提げて上京したのも、やはり『受難者』の刺激だった。その証拠には、『地上』刊行前、江馬氏を訪ねて、いともねんごろに長篇についての教えを請うたということでもわかる。なにしろ江馬氏の人気は大したものだった。そこは人間の弱点というのか、評判があまり高くなると、俺はそんなにえらかったのかと、自分の再認識をはじめるものだ。この人でも、島田清次郎氏でも、急にえらくなって、世界は自分のために動いているもののように思い込み、いつ会っても、また、酒の席でも、自分の作品のほかには一口もものを言わない。昔、世話になった人さえ冷然見おろすような態度をとる。これではやり切れなくなって、みな次第に離れて行ってしまったのに不思議はない。

 

  島田清次郎氏の『地上』

 

 「多少ながらいいものをもっているようです。会ってやって下さい」

 という意味の生田長江氏の紹介状を持って、きわめて謙譲で、無口な青年が、私を訪ねて来た。それが島田清次郎氏であった。大正八年の春のことである。

 持って来た原稿を、社の二、三の人たちに読んでもらった。相当見られるというのと、いや、大したもんじゃないという、二様の意見だった。結局冒険して出すこともなかろうとの説に帰したが、私が読んでみると、なるほど稚拙な点は否めないが、しかもどこか不思議な迫力があり、いい意味の大衆性をもっているので、未練があって棄てかねる。で、初めの方を二、三度読みかえして見てから、とうとう出すことに決め、郵便で出版承諾の旨を言ってやると、彼は飛んで来た。非常な喜び方だったことはいうまでもない。

 この時の素朴な感謝に溢れた彼と、後の傲岸(ごうがん)無比な彼とが同一人であったということは、今考えても不思議なくらいである。

 かくして、『地上』第一巻が生まれた(大正八年六月)

 初版は三千部刷ったが、初めの売行きは普通だった。それが二十日ばかり経ってから俄然売れ出し、徳富蘇峰翁や堺枯川氏などの激賞をきっかけに、各新聞雑誌における評判は、文字どおり嘖々(さくさく)たるものであった。十版、二十版と増刷して、発売高は三万部に達した。

 つづいて『地上』第二巻を出したが、これも初版一万部が、たった二日間で売れ尽す盛況であった。

 この奇蹟以上の売行きに、あの謙虚寡黙だった青年が私に向かって、

 「自分の小説が、これほど世に迎えられようとは実際思っていなかった。それにしても、第二巻などはあまり売れ過ぎるように思う。これは恐らく、政友会で買い占めをやっているのであろう。現代日本の人気者は、政友会出身の内相原敬であるが、今や新しく一世の人気を贏ち得ようとする者に小説家島田清次郎がある。これは政友会の堪え得るところでない。で、政友会はこの上、島田清次郎を民衆に知らしめないために、ひそかに『地上』の買い占めをやっているに相違ない……。」

 と語った。これには私も、すこしヘンだぞと思わざるを得なかった。

 第三巻は、本が出来てから初めて読んで、その支離滅裂さに驚き、すこしへんだぞと思った予感が、まさに的中して来たことを情けなく思った。それでも初版の三万部は事なく消化されてしまった。

 第四巻の出版にはかなり躊躇されたが、騎虎の勢どうにもならないで出した。やはり相当に売れた。

 「日本の若き文豪が、民意を代表して欧米各国を訪れるのである」と豪語して、海外漫遊に出かけたのはその頃であるが、あちらで奇矯な振舞いをして、在留の同胞に殴られたという噂をしばしば耳にした。

 帰ってからは、あの「島清事件」だ。一遍にぴしゃんと凹まされてしまって、彼は再び起つことが出来なかった。

 盛名を馳せた人で悲惨な末路を見せるものは珍しくないが、彗星のように突如現われて四辺を眩惑し、わずか両三年にして、また、たちまち彗星のように消え去った、島田清次郎の如きは、恐らく空前にして、絶後というべきであろう。

 

  『有島武郎著作集』のいきさつ

 

 大正の文壇において、有島武郎氏の出現ほど、花々しかったものは絶無といってよい。早くから『白樺』に作品を発表していたが、大正五年八月夫人を失い、十二月厳父を失ったのを転機として作家生活にはいり、矢つぎばやに作品を発表された。高い教養と、門地との背景がまずその人を重からしめ、大きなスケールと新鮮で豪華な技巧は、非常な魅力だった。で、私は大正六年の八月頃、作品集の出版を申し込んだところ、有島氏は、たいへん感激して快諾された。それには、こういうわけがある。

 有島氏は著作集を出そうと思って、まず、白樺派のものをよく出している麹町の×××に交渉したところ、直ぐ断わられてしまった。さらに日本橋の×××に申し込み、かなり待ったが何の返事がない。そこで自分のものは出版的価値がないのかと考えていた時、新潮社が進んで交渉に来て、しかも一切の条件を容れたのだから、感激性の強い人だけに大いに喜ばれたのである。そして、

 有島氏が書いた物は必ず新潮社から出す。新潮社が出版業をやっているうちは、売れても 売れなくとも必ず出版する――

 こういう堅い約束をしたのである。

 『有島武郎著作集』と名づけ、第一編『死』(大正六年十月)をはじめ、第二編『宣言』、第三編『カインの末裔』以下、隔月一冊ぐらいに出して行った。非常の好評、みな、たちまち何十版というありさまだった。しかるに七年の六月に、有島氏の友人某氏が出版を始めることになったから著作集を譲ってくれという申し出でに接した。そこで私が有島氏に会って、新潮社に何か不満な点があるかと聞くと、何にもない。ただ友人のために()げて承諾を願うばかりだと言われる。いろいろ話して、最後に断わって帰ったが、追っかけ同氏から、郵便で手紙が来た。

 

 顔と顔とを向ひ合はすと心が弱くなってしまひますから、失礼ながら手紙で私の意志を云はしていただきます。

 先日お出下さった時、あなたが私及び私の作物に就いて仰有った好意に満ちたるお言葉は、十分理解しました。而してそれに対しては深い喜びと感謝の情とを感ずる計りです。将来とも私は私のなし得る範囲に於てこの知己の情に酬ゆる事は忘れますまい。

 

 こう書き起こし、綿々としてその衷情を述べてある。友人に強要されて非常に困っている事情がわかったので、私は思いかえして要求を容れ、きれいきっぱりと第五編『迷路』限り出版権を譲ってしまった。

 途中で他から出版されるのは社の体面にもかかわるし、きっとへんなデマも飛ぶことだからどこまでも突っ張ってもらいたいと若い社員たちのいうのを宥めて、自分の主張にこだわり過ぎるな、これが私の建前だ、他の書肆が尻込みをして出せなかったのを、こちらから進んで申し出てあれだけ盛んな出版をしたのだから、大きな成功として喜べばよいではないか、何事もこちらの思うとおりには行かないものだと、さまざまに話してやっと納得させることができた。が、大正十四年になって、その後に外から出た十一巻が、みな戻って来て新潮社の出版となった。面白いものだと思っている。

 

  フランス大使の詩集出版

 

 大正十一年の春、私は郷里ヘ行こうとして、支度最中のところへ、外国語学校の山内義雄氏から電話だという。まだ会ったことのない人だが、とにかく出て見ると、

 「今度、駐日フランス大使のポール・クローデル氏が、東京の風景を歌った仏文の詩集を出したいというので、外務省ヘ相談したところが、それは新潮社が一番よいというのです。私は大使の代理として、二、三日うちにお伺いしますからよろしく …… 」

 というのである。

 仏文の詩集では大して読書界の要求のあるものではないが、しかし日本の文化に深い理解と愛着をもっているクローデル大使の申し出であり、外務省の推薦とあっては、これは辞退すべきものでない、たいていの条件ならそのまま容れて出版することに決めよう――私はこう中根支配人に申しつけて、一切の交渉を任せ、その日、郷里に向って発った。

 郷里で見た新聞に、仏国大使の詩集は、新潮社で引き受けたという記事があるので、話がまとまったことがわかった。その後、先方は山内教授、こちらは中根支配人、この二人の相談ですべてが進んで行った。私は細かいことは口出しをせず、自由にやるままに任した。

 出版になったのは大正十二年の二月、題して『聖ジュヌヴィエヴ』といった。日本趣味を全巻に漲らすために、用紙は別漉きの純日本紙、表紙は日本独特の南部桐柾板を用い、そして詩と共に本文に富田渓仙画伯の絵を刷り込んだ。詩と絵と相映発して、まさに東西芸術の壮観だったのである。定価は一冊十円とした。

 さらに特製本若干をつくった。蒔絵の板表紙という凝りに凝ったもので、渓仙画伯が本文の裏面一杯に極彩色の日本風景を、肉筆で一冊ごとに別のものを描かれた。まさに善つくし美つくしたもので、日本の出版芸術の最高峰、一冊百円。フランスをはじめ、諸外国の出版界を瞠目せしめた。この書を見ないで、現代の装幀界を語ることは出来ない。

 渓仙画伯がこの書に払った犠牲は大したものだった。山内氏も全く自分のことのように働いた。中根支配人も、始終フランス大使館ヘ行くうちに、単語を少しばかり覚えて来ては、社員を驚かすくらいの芸当が出来るようになった。

 特製本二冊をわが皇室に献じ、一冊をフランス大統領、一冊を同夫人に贈った。グローデル大使は、日本を発つとき、

 「拙著に払われた日本出版者の深甚の好意は、永久に忘れないであろう」

 という意味の謝辞を寄せられた。

 

  社屋新築――大震来る

 

 社業次第に進展して、従来の家ではどうにも始末がつかぬようになり、いよいよ社屋新築ということに決した。

 まず近隣の地所を買うための交渉をはじめた。通りに面している家(今の新潮社の玄関のある辺り)はかつて漱石氏の岳父中根貴族院書記官長の住まいだったもので、漱石氏もしばらくいたことがある。横は広津柳浪氏が住み、中村吉蔵氏が玄関にいたという、これまた文学的由緒ある家だ。それらの五、六軒を買い受け、相当地所が広くなったので、四階の鉄筋コンクリートを建てることとなり、東洋コンクリート株式会社が工事に着手したのは大正十一年(1922)の八月。翌年の八月になって全く竣工した。そこで、九月一日の午後一時をもって新館開きの記念会を開き、文芸映画をはじめ各種の余興を揃え、御馳走も然るべく用意して、今やただ時間の来るのを待っている時に、待ち設けぬ大地震がやって来たのである。

 出来たばかりの建物にひび一つ入らなかったし、小石川にある社の印刷部の富士印刷会社も無事だった。災後の流言は仕方のないことだろうが、出版の中心が東京を去って大阪に移るという浮説が盛んに起こった。東京は山の手を除けば一面の焼野原だし、今後どうなるかと心細くもなったことだろうが、私は、そんな馬鹿なことのあるべからざるを確信し、来訪の東京日日、読売、都等の記者にその旨を語り、やがてそれが新聞に特筆された。

 三木露風氏の手紙の中に、「新潮社は今やノアの方舟の如く」とあったが、目ぼしい雑誌社、出版社は、印刷所と共に全部焼けてしまい、書籍の飢餓が来たりつつある時、ただ一個新潮社のみは何の災厄を蒙らなかった天の思寵を感謝し、全社員結束して起ち、十日から営業事務を開始すると共に、印刷所を督励して印刷製本の方の仕事も始めさした。各地の書店の主人は、交通機関なおはなはだ不完全でかなり危険があったが、そんなことなど顧みないでやって来られ、中には、在庫品全部を買って行くなどという人さえあった。それほど地方は書籍に渇していたのである。

 品切れ品は昼夜兼行で印刷を進めて行ったが、なかなか要求を満たすことは出来なかった。この増版に用いる紙型は、つい四月ばかり前まで神田の某活版所に預けであった。ところがその活版所のやり方にはなはだ面白からぬことがあったので、断然関係を絶って紙型全部をとりあげてしまった。

 しかもその活版所は震災に一物も出さないで焼けてしまったのである。もしあのままにして置いたら――、これはまことに危いことであった。

 

  大杉栄氏ヘ絶交状――『社会問題講座』

 

 私は、大正七、八年頃から十年にかけて大杉栄氏とよく話をした。氏はかなりひどいどもりだったが、言葉に一種の調子をとりながら、唇辺に落ちつき見せて話す具合いに味があった。利口な男で、どんなに長くいても文学の話をするだけで、社会主義に触れようとしなかった。

 その時分の大杉氏は、内務省から仕事をもらっていた。社会主義の連中は、食うに困るから無茶をやる。仕事を与えて置きさえすれば安全だと思って、私に翻訳をやらしているが、それが社会主義を攻撃した評論だから皮肉だと言って笑っていた。

 その仕事は一時杜切(とぎ)れたから、何かやらしてくれというので、『種の起源』の訳をたのんだ。出来たのを見るとなかなか立派な訳である。翻訳については長い間苦しみ抜いて来た私は、いい訳を見ると有難くさえなる。そんなことから、雑誌の原稿も頼んだり、論文集を出したりしたので、自然、氏はちょいちょい来るようになった。

 ところがある日、突然郷里の甥が上京して来た。私の郷里の家は当時、男というのは、父と甥の二人だけだった。その甥が秘密の話だからと声をひそめて、大杉栄と絶交して下さいという。なぜ、そんなことを言うのかと聞くと、実は田舎の○○が家へやって来て新潮社と大杉の関係をいろいろ聞くので、祖父さんはすっかり気を腐らしてしまい、もしあんな人と交際(つきあ)って新潮社に迷惑がかかりでもしたら大変だから、今のうちに絶交するように言いつかって来たという。

 よしよし、なんとかするよと言っても承知しない。私の見る前で絶交状を書いて下さい、私はそれを書留で大杉に送るからと言って頑張る。なにぶん、父の命令でわざわざ来たのだから容易に妥協しそうもないので、甥の面前で絶交状を書いて渡した。

 ところがそればかりでなく、大杉の著書を今後増版しないために、紙型を持って帰って来いとの言いつけだという。仕方がないので、学術物以外の論文集の紙型を渡してしまった。いかな専制国でもこんな検閲制度はなかろうが、父とは喧嘩も出来ないから、言われる通りにしたのであった。

 大杉氏は薮から棒に絶交状を受け取ってどんな感じがしたことだろう。そのうち諒解のゆくような道もあるだろう、などと考えているうちに、あの大震災、そしてあの事件だ。私は、他の人とは別に、ある感じの起こるのを禁じ得なかった。

 震災は、高畠素之氏を私に近づかしめた。それは同氏の『社会問題辞典』や、『資本論』の訳などを発行するはずの書肆は焼けてしまい、当分、急にはかかれないというので、新潮社に話があったのだ。「精悍」という二字に眼鼻がついたような感じのする、秋田犬を思わせる人で、大勢の子分を率いてゆく度胸もあったのだろうが、それでいてひどく几帳面で、仕事に精の出ることは驚くばかりだった。私はあまり話しあったことがなく、おもに仕事の上の交渉だったが、安心してものを任せられる人だと思っていた。あんなに早く逝かれたのは、いろいろな方面から見て惜しいことだった。

 大正十五年の三月には『社会問題講座』を出した。予約物としては、円本の現われるまで、この講座は最大成功の記録保持者だった。

 私はこの計画をたてた時、第一番に木村毅氏に相談した。その木村氏は、私が時代の動きを認識して早くも思いついたのだと感心されたようだった。それは買いかぶりである。

 ある朝、いつもの通り四時前に起きて、しばらく静座をやっていると、眼の前を流れて行ったようなものがある。びっくりして眼をみはった刹那、私の頭に「社会問題講座」という六字がピンと来たのである。

 今はこういう時代だ。何人(なんぴと)も要求しているものとして出版的価値は十分である。これは急速に出すべきだ――こんなことは、後から頭をひねって考えだしたことで、その根本である「社会問題講座」そのものは、何かは知らず、閃めくように来たって、私の頭に強く植えつけられて行ったのである。

 私は芝居の便所で小便しながら、ふいと、出版のヒントを得たこともあるが、早朝に起きた時、前後に何のつながりもなく、思いがけない考えが出ることが多い。こういうと何か摩訶不思議な話でもするようだが、人間は、少なくとも私は何にももっていない。結局、何物からか教えられてやってゆくだけである。そしてそれは本当に緊張している時、水道の水が、栓がひねられたら、すぐ飛び出してやろうと緊張しているように、十分はり切っている時のみ思いもよらぬことが教えられるのである。

 熱心に仕事をやっている人と話して見たら、きっと同じような体験があることと思う。

 

  『演劇新潮』と梅蘭芳

 

 震災で、演劇雑誌は一ぺんになくなってしまった。劇界の復興はまず演劇雑誌からというので、菊池寛氏から、演劇雑誌の刊行をすすめられた。が、社業の忙しさと、演劇雑誌のとうてい経済的にやって行けない理由を挙げて断わったが、自分たちも犠牲的に書くから、損を覚悟で一年だけやってもらいたい。一年も経ったら演劇雑誌も大抵復活するだろうから、それまでの辛抱を頼む――といわれる。

 そうまで言われると、出版者冥利、首を横にふっているわけにいかない。一万円も損したらよかろうとたかをくくり、よし、やりましょうということになって引き受け、震災の翌年の大正十三年一月から刊行をはじめた。編集主幹は山本有三氏。能島武文、北尾亀男二氏が助手。委員は劇文壇の目ぼしい人をすぐって左の十五名といういかめしい編集陣だった。

 伊原青々園、池田大伍、小山内薫、岡本綺堂、谷崎潤一郎、中村吉蔵、長与善郎、長田秀雄、久保田万太郎、久米正雄、山崎紫紅、山本有三、里見弴、菊池寛。

 山本氏は編集締切りが迫ってくると、全く不眠不休で働かれる。その真面目さは、社内を感動させた。およそ劇文学雑誌としてこのくらい内容の充実した、あらゆる方面に力の行きわたったものは、空前であり、その後も見ることが出来ない。これは畢竟、山本氏の真面目さが、全委員を奮わしめずに措かなかったからだと思う。

 菊池寛氏や久米正雄氏をはじめ、委員たちもよく来られた。社がピンポンの盛んな時だったので、社の連中がよく委員たちの相手になってやった。

 大正十三年十月、支那第一流の名優梅蘭芳(メイ・ランファン)が来朝した。帝劇上演のためだったが、劇場の当事者たちが一夕旅情を慰めようとしても、震災後ろくな料理屋もないので、『演劇新潮』発起の下に、二十七日の夜新潮社に招いて、会議室で歓迎の小宴を開いた。山本有三氏は『演劇新潮』の同人を代表して挨拶をし、梅氏起って謝辞を述べ、それから劇についての心おきなき談話が交換された。

 『演劇新潮』は、一ヵ年という約束だったが、山本氏以下委員たちの熱心に引かされて、とうとう一ヵ年半継続し、もう演劇雑誌も全部復活して、『演劇新潮』の役目が果たされたというので、刊行をやめることとした。経済の方は、一万円以内の損というつもりだったが、中に一回発売禁止があって全部押収されたりして、かれこれ三万円近い犠牲だったろうと思う。

 

  『婦人の国』の失敗

 

 『婦人の国』を語る前に、婦人雑誌について一つ話がある。

 年はハッキリ覚えていないが、大正四年頃だとおもう。滝田樗陰君が来て、「一つお願いがある。私は中央公論社で婦人雑誌を出したいと思って、社長まで案を出しているが、なかなかウンと言ってくれない。で、今日最後の返事を迫り、もし駄目だったら、あなたのところでやってくれませんか。大丈夫見込みは立ちます」という。

 そこで、細かいプランを聞いて見たり、私も婦人雑誌には相当関心をもっていたから、懐抱している意見を述べたりして、半日近くも話し合ったあげく、場合によっては出すから、もっと研究しましょう、じゃよろしく頼みます――ということで別れた。

 ところが、その翌日だったか、もっと経ってからだったか、樗陰君がやって来て、「おかげさまであの話はまとまりましたよ。実は、新潮社でどこから聞いたか、私が婦人雑誌の案をもっていることを知って相談に来ましたと言って、体のいい威嚇をしたところが、すぐ相談一決です。有難うございます」と礼を言って、サッサと帰って行った。

 私は少々唖然とした。

 婦人雑誌についてこんないきさつをもっている私は、震災の年の翌年に、婦人雑誌発行の相談を受けた。それは『主婦の友』社を出た人たちの一団だった。当時、健康が非常に悪かったので、今しばらく待ってもらいたいと、その話は保留したまま年を送ったが、どうしても出したいというその人たちの熱心な申し出があり、私の病気も小康を得ていたので、いよいよやることに決し、十四年の五月に、創刊号を出した。

 雑誌は失敗だった。部数はどうしても伸びて行かない。編集も営業もずいぶん頑張ったがやり通せなかった。それは、みんな私の責任だといっていい。創刊号の出るまでは、編集の人たちと一緒に努力のできた私は、雑誌の三号あたりから健康がぐんぐん悪くなり、伊香保に転地したが、月わずかに一遍編集会議に帰って来ても、二時間と椅子に腰かけていられなかった。胃腸がひどく悪いので、消化に障ってはと、すり餌のようなものを食べさせられていたから体のもちようがない。文字どおりの疲労困憊だった。

 後で聞いた話だが、医者はもう駄目だと言ったそうだ。だから家の者はもちろん、社員の中にもこの雑誌で心配していては命をとられてしまう、何とか早く止めるようにと祈っていたという。大将は病弱かくの如く、家の子郎党はこんな考えをもっている。どうしたってうまく行くはずがない。十五年の五月号を限りに、莫大の赤い数字を帳簿に残して廃刊することになったのは、当然の運命であるというほかない。

 仕事は、健康でなければならぬ。そして人の和だ――とつくづくそう思う。

 

  『世界文学全集』の回想

 

 何といっても『世界文学全集』の出版は物すごかった。時々、社員たちが当時の宣伝戦などを語るところを見ると、今でも、みんな昂奮して眼を輝かしてくる。

 私にも思い出が深い。

 昭和二年(1927)一月三十日、この日は、東京朝日新聞に、全集発表の二ページ広告が出たのであるが、その前夜の朝日新聞の緊張ぶりは大したものだった。新聞としても初めての二ページ広告である。もし間違いがあったら大変だというので、営業局長はじめ幹部の人たちが、夜おそくまで監督され、私も五時間ばかり工場につき切りで残った。いよいよ版の組みが終り、校正がすみ、これでいいというので新聞社を出たのは、夜中の二時を過ぎていた。人力車に乗って帰ったが、一月の末の夜の寒さはひどかった。

 朝、暗いうちに起きて、新聞の来るのを待って、ひろげて見た。とてもいい。力が広告全面から(ほとばし)っている。これは大丈夫だという信念が湧いて来た。出勤時間が来て続々やって来る社員たちは「出ましたね、大いにやりましょう」と、新聞を見てみな勇みたっている。

 何よりも肝腎なのは人の和だ。一つのものに向って集中する全社員の意気込みが仕事にとって一番大事だ。二ページ広告は読者を動かす前、まず社員を奮い起たしめたのだ。社内のどの室を見ても、火のような活気が漲り溢れている。

 果然、午後からは、内容見本の申込みが、文字どおり殺到した。多いときは一日に二千、三千とくる。見本の印刷だけで活版所は徹夜をつづけた。後に東京朝日新聞が広告展覧会を開いた時、この見本申込みの葉書を三つの大きなズックの袋に入れて出陳し、観覧者を驚かした。

 それからの社内はまるで戦場だった。入りかわり立ちかわり、社員はみな各地に宣伝に出かける。寒風を凌ぎ、大雪を冒しての奮闘だ。

 太田という青年社員が、肋膜を患らって郷里の三河に長いこと寝ていた。それが是非宣伝に出たいと言って来た。馬鹿をいってはいけないと叱ってやったが、どうしても出してくれと言ってきかない。社内で相談したところ、あの体で、寒さのなかを駆けずり廻ったら死んでしまうだろうとみんなの考えは同じだった。が、当人は電報でせがんでくる。とうとう私は決心して承知してやった。東京へは来ないで、郷里からすぐ大阪方面に行かせた。踊躍(ようやく)してから出かけて二週間ばかり、さかんに働いて帰って来たが、病気はけろりと直って、とても元気だ。あの時の雰囲気では、たいていの病気などけし飛んでしまうにきまっていた。

 初めから終りまで、一切の広告は全部私一人でやり通した。広告の校正を見るために、何度新聞社ヘ足を運んだことだろう。よくも体がつづいたものだと人に言われたが、もの凄いほどの景気で、人気がああまで沸騰している時は、体のことなど考えられるものでなかった。

 全く怒涛のような申込みで、三月一日に締切ったが、正味五十八万という予約数だった。

 それからの私の仕事は大変だった。翻訳の内容の検討にかかったからである。由来、翻訳物は生硬で読みにくいというので、大衆は近づこうとしなかった。しかるにいま、翻訳文学は六十万の大衆を()ち得たのである。この際、依然として生硬の(そしり)あるものを提供するようなことがあってはならない。文学の名のもとに、読んで何のことかわらぬようなものを売るのは、明らかに出版罪悪だ。原作を正しく、歪めずに邦語に移すべきことはもちろんだが、それと共に「読んでわかる翻訳」でならなければならぬという建前から、わたしは全部の校正をやることを決心し、一字一句にわたって検討した。訳文が立派で、一気に読めるものも多かったが、難解なものも相当にある。そういうのは訳者にきてもらって、夜の一時二時まで研究しあい、せっかく出来た版を訂正また訂正で、十何回も組みかえたりした。盛名ある訳者としては、かなり自尊心を傷つけられることだったろうが、それでも厭な顔をせず改訳に努められたことは有難かった。中には、話がどうも折りあわないので、一万円を呈して原稿を返したのもあった。

 慶応義塾に出版展覧会というのが始まった時、全集の校正刷りを出品した。これを見た人は、翻訳出版が、どんなに難事業であるかを悟られたようだった。

 『世界文学全集』は、大方の読者が新潮社に深い信頼を寄せられればこそ、ああいう画期的の成功をおさめたのだ。力及ばないで十分この期待に酬いることは出来なかったが、しかし私は全力を挙げた良心的出版であることだけは言い得るのである。

 

  『蘆花全集』の出るまで

 

 徳冨蘆花をはじめて知ったのは今から三十五、六年前だから、ずいぶん古い話である。『不如帰』がでた時、例によって読書界にはなはだ不人気な人なので、一向評判にならなかった。それを初めて激賞礼讃したのは、新聞では『万朝報』の堺枯川氏、雑誌では『新声』の私だった。私は旧い『国民之友』時代からの蘆花生の愛読者だった。

 恐らく作品のほめられた味を知らずに来た蘆花氏にとって、これは嬉しかったに相違ない。私に葉書で是非遊びに来てくれといってよこした。そこで、 逗子ヘ行って見たが、たしか宿屋の間借りらしかった。『不如帰』で涙を流した若い私は、この作家から何かロマンチックな、胸をうたれるような話でも聞けるかと思ったのに、新声社は自分の家か、または借家か、あの辺は地所が一坪どのくらいするかとか、おもにそんな話だったので、私はかなり失望に近い感じで帰って来た。(私には、そんな話が一番向くと思ってわざわざ選ばれた話題だったかも知れないのに――)

 それから間もなく新声社へ突然来られた。木綿の筒袖の羽織に朴歯の下駄、ぼうぼうと髯だらけの顔、その粗樸な風采に、社の連中は魅せられたようだった。その時はせかせかした調子で、少しばかり文学の話をして帰って行かれた。

 明治三十三年十一月の『新声』の特別号「秋風琴」に小説一篇(十枚)を書いてもらった。やはり新鮮な点で群を抜いていた。この時は、社の経済が、何より先きに払わなければならぬ原稿料の払いさえ苦しい状態で、逗子にいて催促されない蘆花氏には、このつぎこのつぎと思ううち、遂に払わずじまいになってしまった。それを明治四十三年の新潮社時代、少しは楽になったので、粕谷のお宅に持って行って、十年前の借金を済ました。

 それから度々行っては、字を書いてもらったり、本の序文を頼んだりしたが、ある時は、某新進作家の急を救うために、まとまったこれこれの金を貸してくれといって向うから来られたこともあった。それでいて、私が話下手(べた)のためか、何度会っても、しっくり胸襟をひらいて語ってもらったことはほとんどなかった。

 ある時、お伺いすると、庭の隅の方で、大きな槌で、途方もなく広いテーブルを叩き壊そうとしている。ふり上げた槌をおろすごとに、××の馬鹿野郎!と怒鳴るのだ。あとでわかったことだが、そのだだっぴろいテーブルは、書肆の××が、これで長篇を書いて出版させて下さいと言って持ち込んだものだそうだ。しかるに、××は約束を果たさないので、××の頭をなぐる代りに、このテーブルを壊してしまうのだと、汗水たらして槌をふりあげていたのであった。

 蘆花氏は書肆に対してはひどい横暴だという評判があったが、こういう滋味津々たる逸話も決して少なくなかった。

 よくお訪ねしながら、一遍も出版の話を持ちださなかったが、しかし著作は終始一貫愛読して来た。中には今でも文句を覚えているものもある。その私が、氏の没後、全集を出版することになったのは偶然でないようにおもう。

 出版については賀川豊彦氏を煩わしたこともあるし、沖野岩三郎氏には、編集主任として、ほかの全集に見られないさまざまの面倒を見てもらった。蘆花氏との旧い関係上、福永書店と表面、共同出版のようになっていたが、事実は新潮社が全責任を負うてやった仕事である。予約ものとして出版的に成功したが、ある事情で経済的には相当大きな損失だった(これは徳冨家の関知しないことだが)

 昭和三年十月の発表で五年の六月に終った。それから間もなく完了の記念会が、蘆花邸で催された。蘇峰先生御夫妻がお出でになった。社の幹部のほか、活版所、印刷所で全集に骨を折ってくれた人たちも招かれた。庭の真中で大きな樹の下に食卓が並べられ、その席上で蘇峰先生から、感謝の言葉をいただいた。蘆花夫人からも挨拶があったが、長い間の重荷をおろしたといった気持が見えて、いつになく晴れ晴れとしていられた。

 蘇峰先生がこうして蘆花邸に来られて、令弟の全集を祝するということは、特別の喜びだったに相違ない。七つか八つのお孫さんが、じっと先生の頭を見ていたが、

 「おじいさんの頭は真白だわ、まるで羊のようね」

 と言う。すると、先生はにこにこしながら、

 「そりゃそうさ、おじいさんは、長い間、紙ばかり食べて来たからな」

 こんな好諧謔を言われた。先生はとても上機嫌だった。

 

  『日本文学大辞典』の完了

 

 私の「おもい出話」は三日の間に書きあげてしまえという編集部の注文である。雑誌の新年号で忙しいさかりを悠々と多くを語っていられない。まだ言わなければならぬさまざまのものを残して、ここに筆を擱くこととするが、たった一つ『日本文学大辞典』だけは、どうしても一言せずにはいられない。

 『日本文学大辞典』は、全く私が国家に御奉公のつもりで引き受けたものである。出版四十年、幾多の錯節を経て、どうやらこうやら今日あることを得たのは、一に国家の御恩である。いかにしてその万一に酬いることができるか。それには、

 どうしても国家に無ければならぬもので、しかも人の容易に

 やろうとしない、全くの犠牲的出版

をすることだ――常にこれを念頭に置いていた。

 藤村博士から相談を受けるや、これこそ年来の宿望を果たし得るものだとして、きわめて簡単に引き受けた次第である。社内で一応相談会を開いたとき、特殊な辞典だから五万円はきっと損をするという者と、理想的に造りあげるには、十万円の損は覚悟しなければならぬという両説があった。現在のところでは、どうやら後説の方が勝利のようだ。

 原稿も集まり、いよいよ第一巻に収めるものがほぼきまると、私も編集の末席を汚しているつもりで、原稿を見せてもらい、殊に明治、大正の方面には特別の注意を払った。忙しい体だから全部にわたってはやれまいが、せめて第一巻だけは、心血をそそいで校正をすることに決心した。辞典の校正は真面目にやれば全く寿命問題だ。世の中にこれほど根と頭のいる仕事はそう沢山あるまいと思う。

 第一巻の校正は、昭和六年(1931)の四月から始まって、七年の五月一杯まで、まさに一年と二ヵ月かかった。私は毎朝四時前に起きて、そして午前一杯をこれに没頭した。大晦日も元日もなかった。明治時代の目ぼしい作家については、そんなに骨が折れなかったが、早く死んでしまって、大して世間の問題にならなかったような人の調査には全く弱らされた。どこで誰に聞けばいいか見当がつかない。そんな人は省いたところで大局に影響はしないという説もあったが、この辞典でそういう人を書いて置かなかったら、未来永劫、埋もれてしまう。そんな人でもわかるところに辞典の有難味はあるのだという主張のもとに、出来るだけのことをした。その他ずいぶん縁の下の力を持ちつづけたつもりである。その方面で木村毅氏、柳田泉氏に特別の好意にあずかったし、故人の千葉亀雄氏は、忙しい勤務時間のすきに、社ヘ来て私の相談相手になってくれた。社員石原源三君は、終始一貫して辞典の仕事にまことを尽したが、全部完了、ほっと息をつく間もなく、病に(たお)れたことは哀悼に堪えない。

 昭和七年(1932)六月、第一巻が着手以来五年ぶりでやっと出来あがった時の嬉しさは、今に忘れられない。細活字(これは私が工夫して新鋳したものである)のぎっしり詰まった版のどこを開いても、自分が二度や三度読まなかったところがない。こんなに苦心したものは、出版四十年、はじめてといってよいのである。それが出来あがった時の感じは、この仕事で苦しんだ人でなければわかってもらえないであろう。

 出版は楽でない。が、その中に、こんな喜びがあればこそ、いろいろの難関を突き破って進んで行ける――、私はそう思っている。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/02/16

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佐藤 義亮

サトウ ギリョウ
さとう ぎりょう 新潮社創業者 1878・2・18~1951・8・18 秋田県に生まれる。1895(明治28)年1月東京に出て秀英舎の職工となり、翌年には新声社を起こして「新声」を創刊、1904(明治37)年5月新潮社を創業、雑誌「新潮」を創刊して一途に文藝図書出版の大を成し遂げた功績はめざましい。

掲載作は、1936(昭和11)年11月の新潮社創立40周年祝賀会を控えて3日間で書き上げたという回顧録であり、率直な筆致、小説より奇と感嘆を誘う興味津々のサクセスストーリイである。

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