名君修業
一
――
「なるほどそれはいかにも奇代の美談ぢやが、さうとは知らずつい空耳できいてゐたはわしの
「はツ。近頃にない殿御感興の様を拝見仕りまして八郎右衛門面目にこざります。実は今朝ほど伝へる者があつてやつがれ
「ほゝう一計をなう。誰ぞ盲人剣客にでもついて盲人の剣法でも修業いたしたと申すか。」
「いえいえどう仕りまして左様な尋常ありきたりの
「なるほどなう。いかにも変つた修業ぢやな。それで按摩となつて忍びこみ、見事讐を討つたと申すか。」
「ま、ひと口に申せば左様にござりまするが、相手とても
「なに女色?……突然異なことを申すがその者は十六歳の少年だつたと申したではないか。」
「左様にござります。縦から見ても横から見ても立派な男めにござりましたが、実はその少年め憎い程にもあでやかな美童にござりましたゆゑ、ふと思ひついて美しいかほばせを幸ひに女装し
「分つた分つたもう相分つた。ついその美しさに心惹かれて自分を狙ふ忘れ形見とは知らずに招き入れたと言ふんぢやな。その結果油断につけいられてさしもの手だれ者も他愛なく一突にやられたと申すんぢやな。」
「はツ。ところがその一突が只の一突ではなうて習ひ覚えた
「いかにもなう……」
感に堪へたものゝごとく聞き惚れてゐたが、ふとその時本荘宗資は目を輝かさすと、それがきゝどころと言ふやに突然言つた。
「その藩は、その仇討美談のあつたと言ふ藩はいづこの藩ぢや。さだめし西国筋であらうなう。」
「ところが近国も近国、つい目と鼻の土浦藩ださうにござりますゆゑ、近頃一段と美談ではござりませぬか。」
「なに! 土浦藩とな?」
意外にもそれが隣藩の土屋相模守が封領土浦藩であると聞いたので、宗資はおどろきそのものゝごとくに目を_{みは}つてゐたが、まもなく長太息すると悲げに呟いた。
「相模どのはよい名臣もつて羨ましいことぢやなう。それなる盲目の美童にはおそらく二百石位の加増遣はしたであらうが、定めし相模どのゝお名声も今に名君として高まるであらうなう。」
羨ましげに呟くと、宗資はむしろ淋しさに堪へられないと言つたやうな面持ちで、急に暗い表情をつくつた。――また宗資ならずともさういふ風な美談をきいて急にさびしくなるのはあながち無理ではなかつた。なにを言ふにも幕政は今が爛熟の絶頂の元禄十二年である。藩の綱紀はいづれの藩も極度に
「なう八郎右衛門。予の家中にせめて今の孝子の半分に及ぶ武辺者がゐたならば相模どの同様に予の鼻もずんと高まるに
呟いたとき! ――突如として幸運が降つて湧いた。宗資にとつてまことにお誂へ向きの思ひがけない幸運が突如降つて湧いたのである。
「申上ます! 申上ます!」
お
「血相変へて何ごとぢや!」
「只今密訴する者あつてその者より承りましたところに依りますると、今朝ほど御家中に
「なに刃傷!」
さては当然仇討問題が起きて来るな、と言ふことがすぐに想像されたので、仇討美談と名君熱に
「何者達ぢや。」
「
「無論死傷致せし者があつたらうな。」
「はつ。権十郎殿非業の
「では伝之丞が刃傷しかけたと言ふのぢやな。」
「はつ。伝之丞どのはこの太平にも珍しい
「仔細はどのやうなことからぢや。」
「さ、それが一向に不明でござりまするが、聞くところによりますると、伝之丞どのは長いこと考へぬいた揚句のはてに左様な非常事仕つたとかで、それかあらぬか御城下も退転せずに自宅へ
事実ならば少しその点に不審があつたが、しかし宗資は只ひたすらに仇討と仇討美談をおのが家中に持つことを願つてゐたのであとをみなまで言はさなかつた。
「いづれにしてもそのやうな歴然たる刃傷事件があつたからには、
「二の丸御勤番の権三郎殿にござります。」
「なに権三郎? 権三郎と言へば身が小姓、松山平馬の兄ぢやな。」
「はつ、御意にござりまする……」
「さうと聞いては平馬のためにも討たさずにはおけぬ。
今聞いた土蒲藩の盲人仇討美談には及びもつかなかつたが、名目なりとも仇討と名のついた事を行はしめたならば、相当自慢のたねになるなと思はれたので、これも一つの名君修業と考へた宗資はせき込んで命令を与へた。
一旦命令が発せられたとならばまことに鶴のひと声――
「両人、火急のお召しに依りまして控へてござります……」
神妙にうつぶしてゐる二人を見る、宗資は八万石のおもみを見せて先ず伝之丞へ先に声をかけた。
「伝之丞面をあげい。」
「はつ……」
「今朝ほどそちは松山権十郎を
「えつ。ではもう……」
「上{かみ}をないがしろに致すな。宗資その位のこと知らいでは八万石お預り致すことは相成らんぞ。定めし刃傷致すからには
「はつ……。お
「なに手討に致せ?」
少し不審はあつたが、仇討病と名君熱にうかされてゐた宗資は深くそれを問ひ正さうともしなかつた。手討にされることを待つ位ならば仇討されることは無論もう覚悟の前だつたらうと思はれたので、言葉をかへると
「権三も面をあげい。」
「はつ……」
「父を害められたとあらば早速にも仇討願ひを
「はつ……面目次第もござりませぬ。手前とて武人ならば武人の定法として、お言葉どほりすぐにも届け出づべきはよく心得てござりましたが、なに分にもこの刃傷には少しく深い仔細がござりましたのでついその……」
「言ふなツ。武人の定法心得乍ら逡巡致しをるところを見ると、察するにそち伝之丞の腕前に恐れをなしたからに相違あるまい。」
「め、めつ相もござりませぬ、手前とても一個の武人、討つとならば伝之丞ごとき決してひけはとりませぬが――」
言ひ渋つたのを宗資はぴたりおさへつけ乍ら峻厳に言つた。
「ならばもう言葉は無用ぢや。必ずともに仇討致さねばならんぞ。期日は明日
厳命を与へる宗資は両人の答へも待たずに幾分の満足を覚え乍ら、すうと涼しげな面持で座を立つた。
二
しかし、その翌朝――。
常州笠間八万石の封主本荘宗資は、老職中島八郎右衛門から意外な報告を耳に入れなければならなかつた。もう宵のうちから明けるのを待ちかねた程に楽みにしてゐた仇討が、一夜あけると同時にものゝ見事裏切られて、伝之丞権三郎の両名が昨夜のうちにいづ地かへ脱藩逐電して了つたと言ふ報告に接したからである。
だから当然のごとくに宗資の言葉は荒かつた。
「かへすがへすも憎い奴達、いづ地へ参つたか相分らぬかツ。」
「はつ……。残念乍ら皆目不明ぢやさうにござります……」
「不明ぢやさうとは何ごとぢや。老職と言へば細大もらさず家中の取締り致すが職責ぢや。然るに大切な両人取逃がして何と致すかツ。世上の物笑ひともならば罪は八郎右衛門そちにあるぞツ。」
「はつ……。何とも恐れ入つたお言葉にござります――」
「――しかし奇怪な噂が両名の逐電について御家中に伝はつてゞござりまするがな。」
「いづれろくでもない噂に相違あるまいが、慈悲をもつて聞いて遣はさう。どのやうなことぢや、言うてみい!」
「確かな筋の者から出た噂にござりますゆゑ万間違ひはあるまいと存じまするが、久留島伝之丞に
「なに! すりやまことならば容易ならんが、確かに左様申しをつたかツ。」
「はつ。さるに依つてこつそりそれを見破つた伝之丞が前申したやうに熟慮の揚句、事の大事に至らない前に討果したげにござります。一は当笠間藩の名を傷つけないために、二には松山一家を救ひ出さうために、めをつむつて恨みも憎しみもない権十郎殿を討果したのぢやさうにござります。なれども御存じのやうに伝之丞と権三郎
「ふうむなう。それで両人に仔細を申せと言うたらあのやうに昨日、申し合せて口を
流石の宗資も案外な事の仔細に
「それにしても讐は讐、仇討は仇討ぢや。たとへどのやうな仔細から討つたにしても討たれた者の遺族にとつては立派な讐でないか。讐ならばそれを討つが武道の定法ぢや。ぜが否でも仇討させい!」
「はつ。まことに
「おろかなことを申すなツ。下手人は逐電致したにしてもその血につながる者があらば一族みな同じく
「はつござります――たしかにひとりござりまするが……」
「ござりまするがいかゞ致した。」
「ちと申し憎いので――」
「八万石の
「では申しまするが、お杉の方様お気に入りの梅代どのが伝之丞めの実妹にござります。血につながると言ふ者はそれ一人で――」
「なにあの梅代一人?……」
それには少し宗資もぎくりとならいではゐられなかつた。梅代が只一人の、伝之丞に肉親の者であつたことはよいとして、彼女が御愛妾のお杉の方にお気に入りの腰元であつたことが少しばかりこだはりとなつたからである。
けれどもそのこだはりも
「誰であらうと憎い伝之丞の血につながる仇敵{かたき}だつたら差支へない。早う梅代を引き出してたつた今から勝負させい!」
「はつ。御諚とあらばいかにも梅代どのを早速に引出すでござりませうが、しかし仇討致すべき権三郎も共に逐電致した今日、何者によつて梅代どのを討たするのでござりまするか。」
「かさねがさねおろかな事を申すたわけ者よなう。権三郎なき今日とならば、弟平馬が兄に代つて父の仇報ゆるが事の順序ぢや。」
「えつ? では、あの平馬どのに討たせようとの御諚でござりまするか。」
「討たせたら悪いか。」
「いえどう仕りまして討てるものならいかにも討たするが定でござりまするが、なに分にもその何でござりますので――」
「ふゝん左様か。平馬は予が小姓ぢやによつて、まだ十七にも充たぬ少年ぢやによつて、それにあのやうな柔弱者ぢやによつて、軽々しうは討てぬと申すんぢやな。しかし平馬とても武士の血を引いた予が家中の者ぢやぞ。それに相手はたかゞ女づれ討てないでどうするかツ。」
「でも、その女づれとおさげすみの梅代どのが只のお腰元ではござりませぬので――」
「
「はつ。薙刀は無論のことに名うての達人ぢやさうにござりまするが、兄伝之丞より直伝うけた小太刀がそれにもまさるほどの手だれ者ぢやさうで、さればこそお杉の方様が殊のほかのお気に入りぢやさうにござります。」
「構はぬ引つ立てい! 予が平馬に助太刀致してやるわ!」
それ迄言ふに至つてはもはや君命もだしがたしと思つたものか、もう八郎右衛門も言葉をかへさなかつた。
三
だが、梅代は間違ひもなく八郎右衛門の手によつて引立てられて来るには来たが、しかしそのうしろには意外な人の姿があつたのである。ほかでもなくそのうしろの人は宗資の愛妾お杉の方だつた。――お杉の方はやうやく水の出ばなの二九を出たばかり。花ならば
「御酔狂にも程がござります。御狂気でも遊ばされましたか。」
いつになく荒々しい言葉だつたので、
「家中の誉ぢや。誰がとめ立て致しても討たすと言つたら討たしてみせるぞ。」
「でもあまりにそれでは筋違ひの仇討ではござりませぬか。」
「
「でも、あの方に――いえいえわたくし手がけの梅代めにもしものことがござりましたならばいかゞなさりまするか。」
「
凛然として言ふと宗資はもう一ときも待たれないと言ふやうに自ら御縁先までからだを進めて、白扇片手に両人の支度をまつた。
事ののがれぬ運命を知つたとみえて、梅代は全身に
「さ! 平馬父の讐ぢや。何を尻ごみ致すか! 予がついてゐるぞ! 早う支度せい!」
姿かたちはやゝりゝしさを欠いてゐたが、まだふつさりと前髪のぬれ羽色には今が美童ざかりのあでやかなる風情をみせて、平馬もお杉の方に負けず劣らずな傾国の容色――だが、その美しい容貌は梅代の腕に恐れをなしたものか、この上もなく今青かつた。宗資に叱咤されてやうやく庭先に降りるは降りたが、その両足は力なくこきざみにふるへつゞけてゐるのが見えた。
と見てどうしたことか愛妾のお杉の方の美しいかんばせが、青ざめてゐる平馬の美しいその顔のやうに、さつとにはかに青まつた。そしてそのなよやかな色香のさかりの美しい五体が、平馬の
けれども宗資の目はその時反対にお庭先へ――事起るときいてどやどやと駈け集まつて来たお庭先の家臣たちへそゝがれてゐたので、これぞ屈強の人だかり、士気を奮ひ起さすは今とばかりに、何の懸念もなく凛然と言つた。
「さ、尋常に勝負せい!」
「応!」
と言つて声の下に手にせる小刀を鞘走らさした者は、老職中島八郎右衛門が折紙つけた小太刀の上手梅代だつた。
その声をうけて美童平馬も細身をぬいたが、その
「そちも武士の血をうけた者ではないかツ。それしきの相手に恐れなして何のざまぢや!」
それに気勢をあふられたものか、きつとなると平馬はぴたり二尺三寸を中青眼に位取つた。えたりと言ふやうにうけて立つた梅代の一尺八寸は、小太刀取る者のゝ定法として鵜の毛のすきもみせぬ
自然剣気はそこに合し、同時に呼吸もまたはずまねばならなかつが、しかし平馬の太刀先は、誰が見ても到底これが人を斬りうるものゝ剣相とは見えなかつた。呼吸も次第に乱れ出して、足は歩一歩とぢりぢりうしろへ、青ざめた面にはすでに油汗さへも見え出したので、いらち上つた宗資は、素早く白扇を小柄にとつてにぎりかへると、いざと言はゞ助太刀の手裏剣代りにしようとの考へで、またはげしく平馬に叱咤を加へた。
「予が助太刀致すと言つたではないかツ。見苦しいそのおくれ方は何のざまぢや!」
けれども言つたとき平馬とは反対に討たるべき梅代の口からひときは強く応! と言ふ雄叫びが丁度上げられてゐたときだつた。同時に
と同時だつた。この世の悲しみを一身に集めたかのごとく青まつたかほばせで、矢庭にお杉の方が宗資の右手からにぎりしめてゐた小柄を奪ひとつたとみえたが、まことに意外!――ぐさりとおのが美しい乳房の上につきさすと、悲痛な声をふりしぼり乍ら突然言つた。
「平馬さま平馬さま! 決して決してあなた様おひとりでは
「なに! さ、さてはうぬめらツ……」
意外な方向に事件が急転したので
「もうかうなれば何の隠し立てを致しませう。あの平馬さまこそは、御最期をおとげ遊されましたあの平馬さまこそは、わたくしがお上{かみ}のお目をかすめて命にかけてもと契りましたいとしいお方でござります……お上様の御寵愛をうける身で不義とも
「よくも申しをつたなツ。身の面前も憚らずよくも申しをつたなツ。催促せいでも成敗してやるわツ。」
まことにその言葉のごとく二重の怒りは心頭に発してゐたので、宗資は
だが――一旦佩用の太刀柄に手をかけるにはかけたが、宗資はまもなくがつくりとそこへ崩れ坐ると、お杉の方のさしのべられてゐる容色無双の美しい襟筋をうらめしげにぢつと見守つた。そして暫く言葉もなしに見守つてゐたが、やゝあると
「八郎右衛門!」
「なう八郎右衛門! 名君修業と言ふものは
――まことにそれは宗資として尤もな述懐でなければならなかつた。愛妾と愛童を同時に失ひ、あまつさへ伝之丞のごとくそれからまた松山権三郎のごとき元禄武士には稀な逸材を失ひ去らしたに至つては、まさしく毛を吹いて傷を求めたのに等しかつたからである。――宗資は今更のやうにしみじみとこみあげて来た苦痛にたへかねて、もう一度呻くやうに言つた。
「なう八郎右衛門! 名君修業と言ふものは凡そせつないものぢや喃――」
「はつ……何ともはや申しあげやうがござりませぬ。」
八郎右衛門はひだのやうに波うち重なつてゐる皺の中へ、ぽろぽろと涙を流しにじませてゐたが、宗資はそれでもなほ満足しきれないやうに思はれたので、そして言ひ足りないやうにも思はれたので、いきを呑み乍ら庭先に
「なうみなの者! 名君にならうとすることは凡そせつないものぢや喃――」
だが、みなの者と呼びかけられた家臣の中からは、御意にござりますと答へた者はひとりもなかつた。彼等のまなこは死にのぞみ乍らもなほ無双の容色をたゞへたゞよはせてゐる愛妾お杉の方の上へ、等しくそゝがれたまゝだつた。それから同じやうに死をとげてゐ乍らもやはりなほ負けじ劣らじな無双の容色をたゞよはせてゐる愛童平馬の上へ、等しくそゝがれたまゝだつた。
そして彼等のまなこは、君侯の時代はづれな名君修業の苦しみなぞはまるでよそに、この、世にも恵まれた似つかはしくも美しい二人の恋が――文字通り命をかけて契つたお杉の方と平馬との二人の恋が、どんなに強くうれしく深い恋であつたか、等しくそれを羨み妬んでゐるかのやうに見うけられた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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