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『木を植えた男』と出会って

 ある日のこと、妻が一冊の絵本を持って書斎に入ってくると、こんなことを言った。

「これ面白いわよ、お読みになったら…」

 そのとき私は講演の準備をしていたので、今はそれどころじゃないんだと、断ろうとしたのだが、

「感動的なお話なのよ。もう涙なしには読めないのよ。おねがいだから、今すぐ読んでちょうだい。一生のおねがい」

 妻はなおもたたみかけてくるのだ。もっとも彼女が言う「一生のおねがい」は、一週間に一度くらいのぺースで耳にするので、あまり説得力はない。しかし、文学にはうるさい方の妻をそこまで感動させた絵本とは、いったいどんな話なのだろう、そういう興味はわいてきた。

「しかたない。そこまで言うなら…」

 私は講演の準備を中断して、しぶしぶ絵本の表紙を開けた。十五分もあれば、読み終わりそうなうすい絵本である。

  『木を植えた男』

  ジヤン・ジオノ(原作)

  フレデリック・バック(絵)

  寺岡 (たかし)(訳)

  あすなろ書房

 その絵本には、こんな物語が書かれていた。昔々、南仏プロヴァンス地方の山の中を若者が旅をしていた。道に迷い、水も食糧もつきた頃、羊飼いをしている一人の老人に出会い、助けられた。若者は老人の山小屋に泊めてもらうことになった。さて夕食がすむと、老人は奇妙なことを始めた。たくさんのどんぐりをテーブルの上に広げると、真剣な表情で選び始めたのだ。

 丈夫で大きなどんぐりを百粒。

 翌朝、羊の放牧のあいまをぬって、老人はそのどんぐりを荒れ地に植えるのだった。

 聞けばこの老人、昔は山のふもとで農場をいとなんでいたのだが、妻と子供に先だたれてからは気ままな一人暮らし。このまま愛犬とのんびり老いてゆくつもりだったのだが、ある日ふと考えた。待てよ、人生の後半を、ただまんぜんとすごして死ぬよりも、何か一つくらい世の中のためになることをやって、それから死んだらいいじゃないか…。よし、そうしよう。では何をすべきだろう? 考えた末に思いついたのは、こういうことだった。

〈そうだ、木を植えよう〉

 誰の土地か、そんなことはどうでもよろしい。木のない土地は、死んだ土地も同然。荒れ地に植えたどんぐりが、やがて芽を出し枝を伸ばし、どんどん成長して一本の木になり、林になり、森になったとしたら、どんなにすてきだろう…。

 老人の名前はエルゼアール・ブフィエ、歳は五十五歳だという。

 若者が老人と別れてから歳月が流れた。その間に第一次世界大戦が始まって終わり、第二次世界大戦も始まって終わった。どんな時も老人は、ただ黙々と木を植えつづけた。たった一人で木を植えつづけた。老人が木を植えつづけたブロヴァンス地方の荒れ地はどうなったかというと、いつのまにか緑したたる美しい森に生まれ変わっていたのである。

 戦争をおこして全てを破壊しつくそうとする愚かな人間がいる。その一方で何の見返りも期待せず、ただひたすら木を植えつづけ森を作った、ブフィエのような人間もいたのである。物語の最後を、作者は次のように結んでいる。

「神の行いにもひとしい創造をなしとげた名もない老いた農夫に、わたしは、かぎりない敬意を抱かずにはいられない。一九四七年、エルゼアール・ブフィェは、バノンの養老院において、やすらかにその生涯を閉じた」

 

     ☆

 

 妻にすすめられてしぶしぶ読み始めた絵本ではあったが、読み終えて私がどう感じたか正直に申し上げると、次のようになる。

〈おそれいりました。私も心底から、感動いたしました〉

 もしかするとブフィエ老人のような人こそ、本当の英雄とかヒーローと呼ぶべきなのではなかろうか。ブフィエ老人は、誰に頼まれたわけでもないのに何十年間も木を植えつづけ、森を作った。だからといって大金持になったり、名誉の勲章をもらったわけではない。

〈でも、さぞかし満足だったろうなあ〉

 と私は思うのだ。ブフィエ老人は臨終のとき、きっと満足の微笑をうかべて死んだんだろうなあ。あらゆる人間は、自分独自の役割を背負ってこの世に生まれてくるのだという。その役割をちゃんと果たして死んでゆく、これほど幸福な人生が外にあるだろうか。

 まだまだ若い気分でいたこの私も、気がつけばもうすぐ定年の歳頃である。人生の第四コーナーをいかに生きるべきか? そういうことを考える上で、この物語は大きなヒントになったのだった。

 さて、書物を読んで感動すると、これはいつものことなのだが、私はすぐさま作者の所に飛んでいって「感動した!」と正直な感想を告げることにしている。しかし私が感動するような作品を書いた作者はたいていの場合、既にこの世の人ではないことが多い。そういうときはどうするかというと、仕方がないからお墓参りに行くのである。

『木を植えた男』の作者ジャン・ジオノは、生きているのか死んでいるのか。さっそく調べてみたら、残念、やっぱり既に死んでいた。それではお墓参りに行こうというわけで、私は妻と共に南仏プロヴァンスに飛んだのであった。七年前の春のことである。

 ジヤン・ジオノ(一八九五~一九七〇)

 この名前を知る日本人は、きわめて少ないだろう。私もその例外ではなかった。しかし渡仏してよくわかったのは、本国フランスではその名前を知らぬ者とていない高名な大作家であったのだ。

 ジオノはプロヴァンス地方のマノスクという小さな町に生まれ、そこで生涯のほとんどをすごし、三十三年前に死んだ。七十五歳だった。私と妻が訪れたマノスクは、"ジオノの町" と呼んでもよかった。町の中心にはジオノ記念館という立派な建物があったし、町一番の目抜き通りはジオノ通りと呼ばれていた。映画館に入れば、ジオノ原作の映画『屋根の上の軽騎兵』(邦題は『プロヴァンスの恋』ジュリエット・ヴィノシュ主演)を上映しているし、レストランに入れば、グルメだったジオノが残したレシピによる "ジオノ風鱒料理・喜びと共に" を出してくれるのだ。

 書店にはジオノ本があふれていたし、どうやら彼はアンドレ・マルローなどと並び称される "二十世紀フランス文学の代表作家" の一人であるらしい。一時は「ジオノにノーベル文学賞を!」という声も上がったという。

 そうだ、渡仏してわかったことがもう一つあった。マノスクの町のすぐ傍を、デュランス河が流れていたのである。映画好きの読者なら、よくご存知であろう。昭和三十年代に公開されてヒットした『河は呼んでいる』というフランス映画のことを。「デュランス河の、流れのように…」で始まるテーマソングも大ヒットしたが、実はあの映画の原作者こそジオノその人であったのだ。

 マノスクを中心にしてプロヴァンス地方一帯を歩きまわった。マノスク中央墓地に眠っているジオノのお墓参りもしてきた。晩年の住居を訪れ、ジオノ未亡人(当時一〇一歳)や次女のシルヴィーさん(当時六十四歳)にお会いし、興味深い話を聞くこともできた。約三週間の旅であった。

 帰国後、私と妻は夫婦共著で『木を植えた男を訪ねて──ふたりで行く南仏プロヴァンスの旅』(白泉社)という写真紀行文集を出版した。そもそものきっかけは、妻に無理矢理すすめられてしぶしぶ読んだ一冊の絵本であった。それがとうとう、作者ジオノをオマージュする写真紀行文集まで出してしまったというわけである。なぜ、そこまでしたのか。理由はかんたんである。ジオノが書いた作品に心底から感動したからだ。

 

      ☆

 

 夫婦共著の『木を植えた男を訪ねて』を出版してから、何が起こったか、ということを次に申し上げたい。

 何が起こったか?

 奇蹟が起こった。

 そう言っても言い過ぎではないと思う。

 私のふるさとは新潟である。共著本を出版してから二年後、新潟県知事の平山征夫(いくお)さんと地元の新聞紙上で対談する機会があった。

「もうすぐ二十一世紀がやってきますが…」

 司会者にうながされて、新世紀の幕開けにふさわしいどんな記念事業をやるべきか、という話になった。私は口を開いて、

「どうせなら、二十一世紀ではなく、二十二世紀を目ざしてやってほしいものですね」

 おそらく全国の自治体は、目前にせまった二十一世紀にのみとらわれて、一過性の記念事業を計画しているであろう。だが、ひとり新潟県だけは、少なくとも二十二世紀までつづく百年間を視野に入れた壮大な記念事業をやっていただきたい。

「いったい、どんなことを?」

 首をかしげている平山さんに、私は『木を植えた男』という物語に感動して、とうとう『木を植えた男を訪ねて』という夫婦共著本まで出版してしまった、というお話をした。すると平山さんは、即座に、

「それだ!」

 と言って膝を叩いたのだった。

 そのときの対談が、きっかけの一つになったのかもしれない。新潟県は二○○一年の元旦を期して "新潟・緑の百年物語" という県民運動をスタートさせたのである。これは二百五十万人の県民が、二十一世紀中の百年間をかけて木を植えつづけるという、日本中、いや世界中をさがしてもちょっと見当たらない壮大なプロジェクトなのである。

 そればかりではない。

 新潟県は、日韓ワールドカップ・サッカー大会のために約三百億円を投じて、巨大なスタジアム(愛称ビッグ・スワン)を建設した。そのこけらおとしと、二十一紀の幕開けを祝う式典とを兼ねた記念イベントの総合プロデューサーを、縁あって私が引き受けることになった。

 ビッグ・スワンには四万人以上の人々が集まってくる。これだけの大観衆が一同に会するのは新潟県の歴史始まって以来だという。失敗は許されない。しかも、どうせやるなら意義のあるイベントを楽しくやりたい。とりわけ "緑の百年物語" をもっともっと親しみ深い運動にもりあげるような……。考えた末に思いついた。

〈そうだ、『木を植えた男』をミュージカルにしたらどうだろう〉

 作詞作曲そして歌唱は、友人のさだまさしさんにおねがいすることにした。

 二〇○一年四月二十九日(日)夕方、新潟ビッグ・スワンには、さだまさしさんと四万人の新潟県民が大合唱する『木を植えた男』の歌がひびきわたった。感動的なその歌声を、天空にいるジオノはいったいどんな思いで聞いてくれたのだろう。

 

      ☆

 

『木を植えた男』という一つの物語。日本語に翻訳すれば原稿枚数にしてわずか三十枚ほどの短編小説が執筆されたのは、今から五十年前のことであった。それがはるばる海をこえ、極東の日本まで飛んでくると、二百五十万人もの人々を巻きこんだ植樹運動にまで発展したというわけである。

 ここで読者にはっきりと申し上げておかねばならないことがある。それはこの物語がノンフィクションではなく、フィクションであったということだ。

 つまり、真赤な嘘。

 一九五三年、米国のリーダーズ・ダイジェスト(RD)社は、ジオノに対して次のような原稿依頼をしてきた。月刊RDの人気コラム「私がこれまでに出会ったもっとも並外れた人物」の頁に、ぜひ執筆ねがいたい。

 ジオノは執筆を了承し、『木を植えた男』を書いて送ったのである。RD社は、原稿に書かれていた話が本当かどうかウラを取ろうとして、ヴァノンの養老院に間い合わせたところ、ブフィエなる老人が実在しないことが判明した。そうして原稿を送り返してきた。

 その原稿を、ジオノはどうしたか。著作権を放棄することにした。誰もが自由に雑誌掲載したり出版したりしてもよいことにしたのだ。翌年、米国のヴォーグ杜がこの作品を掲載した。するとたちまち評判になり、一挙に世界中に広まったというわけである。

 このてんまつは、なかなか興味深い問題を含んでいる。いや、もしかすると文学の根幹にかかわる問題かもしれない。私の考えを申し上げると、その文学作品がフィクションであるかノンフィクションであるか、そんなことはどうでもよろしい。大切なことは事実かどうかではなく、そこに真実があるかどうかだと思う。作品に描かれた真実にこそ、私たちは感動するのである。

 

      ☆

 

 マノスクの郊外にそびえるモン・ドール(黄金山)。その中腹に、ジオノ晩年の住居が建っている。私たち夫婦が訪ねたとき、ジオノ未亡人は懐かしそうに言ったものである。

「ブフィエという羊飼いの老人は、たしかにいませんでした。でもね、昔、このあたりには、ブフィエ老人のような人物はたくさんたくさんいたんです。例えば主人もそうでしたし、主人の父親もそうでした。彼は、まだ少年だったジオノを連れて、よく山に出かけたそうです。ポケットにいっぱいのどんぐりを入れて。そうして荒れ地にどんぐりを植えたんです。そのどんぐりが、やがて木になり林になり森になっていったんです…」

 当時を回想する未亡人のまなざし。その先には、緑したたる美しいプロヴァンスの森が広がっていた。そこは昔、一本の木さえない荒涼たる荒れ地だったのだという。

 ジオノが創作した、ブフィエ老人。

 その背後に、実はたくさんのブフィエ的人物がいたのである。名もない無数の木を植えた男や木を植えた女が実在したのである。その人々が、プロヴァンスの美しい森をつくったのである。その人々のことを一人のブフィエ老人に託して、ジオノは『木を植えた男』を書いたのだ。ジオノは、真実を描くことに成功したのか? 成功したのだ。実に見事に成功したのである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/06/30

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新井 満

アライ マン
あらい まん 小説家・写真家 1946年 新潟県に生まれる。1988(昭和63)年「尋ね人の時間」により芥川賞。

掲載作は、「ソフィア」2002(平成14)年秋季第203号のリレー・エッセイ「書物をめぐる旅」に執筆初出。

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