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オシラ祭文

 ようやく林が切れた。高いところから見下ろすと、村は、折り重なった山々の間に、繭のように静かに、ころりと丸くなっている。すては大きく頭を振って、肩で息を吐いた。走ってきたせいで、まだ息が荒い。

 最初は、苗菰(なえごも)を背負った小さな猿のような年寄りだった。狭い杣道を、下ばかり向いてふらふらたどっていたときだ。何かの苗らしいものを背からはみ出るほど背負って、その年寄りが村のほうから登ってきたのだ。人がすれ違えるほどの道ではなかった。先にやり過ごすために、すては林の中へ少し踏み込んだ。

「おとねさァ。おめえ、おとねさァじゃないのかい」

 すては驚いて顔を上げた。年寄りは一歩にじり寄り、皺だらけの目をこすって下から睨んだ。

「ひとりかい? どんな面下げて戻ってきたんだ」

「え?」

「変わったなあ。しかし無理ねえわさ、十五年もたっただもの。最後に戻ってくるのは、やっぱりここしかねえちゅうわけか」

 何を言われているのかわからなかった。古猿のような赤い目で、年寄りはじろじろすてを見ていた。なぜ帰ってきたのだ、となじられているようでもあり、よく帰ってきたなと懐かしがられているようでもある。

「いい奥様にならさったんだって? あんまりそうも見えねえけどもよ。苦労だったんだべな」

 誰かと勘違いされているらしかった。すぐに打ち消さなかったのは、腹が痛んだのと、ちょっとの間でも歩くのをやめていたかったからだ。

 お庄屋の旦那は相変わらずだ、とか、話には聞いたがおめえも大変だったらしいな、とか、年寄りはぼそぼそ話しかけてきた。ぼつり、と言葉を出してしばらく黙り、思い出したようにまたぼつりとひとこと言う。

 だんだんイライラしてきたすてが、「違うよ、あたしはそういう女じゃない」とどなると、年寄りは、赤い目をニッと細めて小狡そうに笑った。

「ここまで戻ったんなら、さっさと行かっしゃい。それともひとりで行かれねえなら、いっしょに行ってやるべいか」

 すてはびっくりして、年寄りを押しのけて杣道を走りおりた。

 そのときは、それで終わった。誰かと間違われるというのは、ありえないことではない。どうせ目も薄くなった年寄りの言うことだった。

 二度めは小さな川のそばで、荷を降ろして休んでいたときだ。能代(のしろ)で買ってきた塩を取り出し、少し舐めてみた。胸のあたりが苦しかった。腹にややこを持っているせいだ。背中の袋は肩に食い込むし、腹は痛いし道は険しいし、どうしたらいいかわからなくなっていた。

「おとねさァ、おとねさァでないのかね」

 雑木の群の陰から、馬を引いた若者がぬっと現れた。すては驚いたが、相手だって驚いたらしい。ウドの芽を噛みながら馬を引いていた若者は、ウドが手から落ちたのも気付かずに、食らいつくような目ですてを見ていた。

 すては面食らってそばの荷に手を伸ばした。荷を抱えて逃げようとしたのだが、腹のややこが重くて素早く動けない。すてとその若者の間にあるのは、細い流れ水のような小川だけだった。

「やっぱり来らしゃったのか。来るかもしれねえって、みんな言ってたんですと。旦那さんは怒ってるけど、何ちゅうても孫だ。いくら怒ったって、たぶん最後には悪いようにはしねえですよ」

 口の中のウドを大急ぎで呑み込んで、若者は二、三歩近寄った。そのまぶしげな様子は、慣れない杣道を何日も歩いてきて、汚れてくたびれきった余所者(よそもの)の女を見る目ではなかった。長い間、人からそんな目で見られたことがなかった。そんなことはありっこないのに、すては、自分は本当はここの生まれで、しばらく余所へ行っていただけのような気がした。

 途中までいっしょに行くべえと、若者は手招きした。すては後ずさった。警戒されているとでも思ったのか、若者は赤くなりながら、自分は決しておかしな者ではなくお庄屋のところの若勢(わかぜ)なのだと、しどろもどろに言った。馬の手綱を放しもせずに、浅い小川をひょいひょい渡ってくる。すては走って逃げた。

 このときも、これで終わった。若者は「お庄屋の若勢だ」と名乗ったのだし、若勢なら、年季か節季のどちらかだけだった。十五年も前に村を出たらしいおとねとかいう女について、その若勢が、話には聞いていても実際は知らないということは、十分にあり得る。だから間違えた。

 雑木につかまって荒い息を整えながら、すては山ふもとの村を見ていた。すぐ足の下に、繭のように小さな、縮こまった村があった。空まで重なった山々と、その間を縫って走る蛇行した急流。どこからか風で飛ばされてきた村が、両脇から山に押されてくしゃくしゃに丸まり、谷あいに貼り付いてしまったような小さな村だ。こんな村を、ずっと昔に見たことがあった気がした。

 能代を出るなら船に乗るのが一番の早道なのに、険しい峠がいくつもある山あいの道を選んだのは、もしかしたらこんな村を見たかったからかもしれなかった。

 おかみさんに腹のややこのことをなじられたので、なじられついでに、銭を返してくれと言ったら急にどなり出したのだ。客から銭をもらうたびに、おかみさんが、預かってやると言って取り上げた。決まりの花代は、もちろん先に客から取っている。花代のほかのわずかな心付けまで、何かと理由をこしらえて全部取り上げた。海を渡って京・大阪の回船がたくさん入る能代は、港はずれの小さな茶屋へも、他国の男たちが始終やってきた。

「毎日食わしてもらっておいて、何を言い出すんだい。ひとりじゃろくに客も取れないくせに。おまえみたいな年増じゃ、食いしろだけで、あたしのほうが損なぐらいだよ。おまけにいい年して、ややこまで(はら)んじまって。いつからそんな間抜けになったんだろう」

 いまさら孕むとは、すてだって思っていなかった。だが孕んだとたん、年だからこそ産んでみようと決めた。いま産まなければ、これから先ややこなど持てそうにない。おかみさんに預けていた銭を返してもらえば、半年や一年働かなくたって食ってゆけそうだった。

 すてが言い返すと、おかみさんは久しぶりで葬式にありついたカラスみたいにわめき、そばにあった火箸を取ってぶった。いつももっともらしい顔で、長火鉢の向こうでキセルなどくわえている女だった。ゆくゆくは小金をためて小さな飯屋でもやれたらいいと思っていたのが、口から泡をとばして悪態をつくおかみさんを見ているうちに気が変わった。能代も、いい加減飽きていた。

「じゃあ、いいですよ。あたしの思い違いだったんでしょう」

 すてはあっさり言った。おかみさんが露骨にほっとした顔をしたので、もっとしらけた。

 何日かあと、誰もいないときを見はからって、ありったけの引き出しを探した。仏壇の奥に、すてが預けたよりずっとたくさん銭が入っていた。遠慮せずに全部取った。おかみさんが気付いたら、がっかりして首でもくくりかねない額だった。

 米代川(よねしろがわ)の本流を離れて、支流をさかのぼった。西の海側の秋田藩と東の海側の南部藩は山の半ばで境を接しており、秋田の樵夫(きこり)と南部の樵夫が境を巡ってときどきいさかいを起こすというから、南部へ越える道はたしかにあるはずだった。

 川は上るに従って河原が狭くなり、多くの急流や蛇行を繰り返して、次第に険しく、荒々しくなる。下流では川に沿って開けていた村も、上るにつれてめったに見かけなくなった。はじめは人の住む村を避けていたのが、まわりの景色があんまり険しいので、人の匂いがするものを見ると心なしほっとする。

 雪をかぶったすぐそこの山々を見上げながら、すては口をあけて肩で息をした。おびただしい雑木がいっせいに芽を吹いて、木の匂いがむんむんする。山じゅうの木という木が吐き出す生気で、新芽に酔ったように頭の芯がしびれた。

 あのふたりは間違えたのだ。それ以外、思いようがない。それなのに「おとねさァ」と呼ばれたときは嬉しかった。もうしばらく、ほんのちょっとでいいから、そのおとねさァのつもりになっていたかった。

 

 無数の蚕がざわざわ動いている。そのおびただしいお()さんの上に、シゲはもくもくと桑の葉をかける。厚いところや薄いところが出ないように、刻んだ葉を平らに振りかけてやりながら、ときどき頭がふらっとして、おコさんの上にのめりそうになる。気付かないうちに眠りかけ、あわてて目を開いた。

 眠かった。この前存分に寝たのはいつだったろう。日溜まりの雪が消えたとたん、山も畑も一年で一番忙しくなる。そのうえにおコさんが加わると、寝たいという以外、何もなくなった。

 板台に盛り上げた桑の葉は村を取り巻く山々のようで、刻んでも刻んでも終わりがない。桑の葉のびっしり入った籠が、メロウの数だけ土間に並んでいた。

 桑の籠をおろすや、みんなは朝飯を食いに行ってしまった。このあとすぐにソバ蒔きがある。みんなしておコさんにかかりきりというわけにはゆかないのだ。

 おコさんは手がかかる。新しい葉でないと食わないから、雨だろうが時期はずれの雪だろうが、毎朝必ず桑摘みに行かねばならない。摘んできた葉を細かく刻んで、口のところまで持っていってやらないことには、食ってくれなかった。蛾なのに飛べず、餌の桑の葉がほんの少し遠くにあっても取りにゆくことができず、与えられるのをただ待っている。暑くても寒くても病気になるし、色が変われば死んでしまうし、糸が取れるまでに大きくするのは、馬の子を育てるより難しかった。

 虫のくせに一度も外へ出ずに死ぬのはかわいそうな気もして、こっそり桑畑で逃がしてみたことがある。あとで見たら、ひからびて死んでいた。あたりには桑がいくらでもはえているのに、一番近くの木までも行くことができず、飢えて死んだのだった。

 はるかな昔から人に飼われてきたおコさんは、自分が蛾で、本当は飛べるのだということを忘れてしまったのかもしれない。自分はなぜ生きているのだろうと、おコさんは考えたりしないのだろうか。

 毎日毎日おコさんの世話ばかりしていると、自分とおコさんがどう違うのか、よくわからなくなってくる。飛べず、動けず、自分では餌を探しにゆくこともできないメロウは、飛べないおコさんそっくりだった。

 昨日までは田植えをしていた。山かげの湿地を利用して作った田は、ホトトギスが鳴くようになっても少しもぬくくならない。以前は沼だったと年寄りが言う田の水は、春は遅くまで冷たいし夏は夏で熱湯のように茹だる。だが山の隙間に田を作ろうとすれば、湿地を耕すしかないのだった。

 今日からは、芋を植えてソバを蒔かねばならない。豆も菜っぱも今の時期だった。蒔き終われば終わったで、今度は虫と雑草と肥えに泣かされる。そのうちじきに麦刈りが来る。

 疲れが抜けてゆく暇がなかった。桑畑の真ん中につんのめって、そのまま起きあがれなくなったらどんなに楽かと思う。シゲはときどき、口や鼻や目や体じゅうの毛穴を桑でふさがれて、息が詰まって死んでいる夢を見る。もう働かなくてもいいんだなと、死んだままぼうっと思っている。それはとてもいい気持ちだ。夢が覚めて、まだ生きているのに気付くとがっかりした。

 籠ひとつ分の桑をやっと片付け、次の籠のをまた板台にぶちまけた。おびただしい虫が葉を食っているのを耳の遠くでぼんやり聞きながら、手だけはしっかりと桑の葉を刻んでいた。

「おとねさァだぞう。おとねさァが帰ってきた」

 ふいに外のほうでどなり声がした。シゲははっとして自分に返った。手がすべって、桑といっしょに指まで刻みそうになった。外のざわめきが大きくなった。

 シゲはおそるおそる覗いてみた。とうに朝飯を終え、一足早く畑へソバ蒔きに行っていた若勢(わかぜ)が、息を切らせて走ってきたところだった。そのずっと後ろを、別な若勢が、振り返り振り返りイライラ歩いてくる。若勢は走りたがっているのだが、後ろに引っ張っている女がのろくさくて、急ぐことができないのだった。

 少し小太りの、見たことのない女だ。女は小さな荷を負い、杖がわりの小枝の先を若勢に握られて、仕方なさそうに引かれている。

 ひとりで歩くのが難儀なほど疲れているようにも見えるし、誰かに引かれていないとどこかへ行ってしまいそうにも見える。腹のあたりがふくらんでいるので、身ごもっているのだとはっきりわかった。木のウロで夜明かししているところを、見つかったらしい。

 庭で道具をそろえていた若勢やメロウが、いっせいに顔を上げた。みんなの目がギラッと光った。ただ忙しいだけの、単調な毎日だから、ふだんと変わったことがあるとみんなそれだけでほっとする。

 若勢のどなり声につられて、裏の(まぐさ)小屋からも二、三人の男が(すき)を放り出して走ってきた。おとねさァだ、やっぱり来たんだ、みんなは小声で口々に言いあった。

 突然やってきた女は、突然行ってしまいそうだった。その女がすぐに消えてしまわないように、みんなは誰からともなく逃げ口をふさいで取り囲んだ。

 親方を呼んでこいと、ジサマがどなった。男のひとりがすぐに駆け出した。女は一瞬おびえた目を伏せ、それから顔を高く上げて笑った。顔も髪も汚れていたが、きれいな歯だった。

 これがおとねさァか、とシゲは唾を呑んで見つめた。知らないうちに、そろりそろり蚕部屋の外へ出ていた。おとねさァについては何度も聞いた。はじめて見たにもかかわらず、その女をよく知っていた。

 仕事が辛くてたまらないとき、まだ見たことのないおとねさァのことを考えた。おとねさァのことを考えると、ほんの少しだけ仕事や親や銭のことを忘れていられた。

 おとねさァだって、シゲ同様、お庄屋の旦那のただのメロウだった。メロウというメロウが小さな繭の中で一生を終えるのに、おとねさァは旦那の若さんといっしょに谷川を下って米代川の本流へ出、米代川が海へそそぎ込む能代へ行き、能代から海に沿って秋田のご城下へ行き、さらに船に乗って江戸までも行った。

 おとねさァのことを聞かされるたびに、シゲは、おコさんの厚い繭がいきなり割れて、蛾のかわりに大きな美しいチョウが羽を広げて飛び出した気がした。羽の麟粉がきらきらこぼれて、見ているシゲの手も金色になる。 あらかたのおコさんは繭になると煮られて死ぬが、万に一つは蛾ではなくチョウになって飛び立つものもある。それがおとねさァだった。

 江戸で若さんが役人に追われるようになったと聞いたが、それがどうだというのだろう。そんなことになったおかげで身分相応の嫁様の話が立ち消えになり、そのまま奥様におさまっていられるなら、こんな結構なことはないのではないか。もしも若さんが二度と戻ってこなかったにしても、若さんのややこを宿したおとねさァの勝ちだ。おとねさァには、若さんだって遠くへ行くための船にすぎなかった。

 顔は汚れ、髪はいつ結ったのかわからないほどバサバサだったが、おとねさァはまぶしかった。おとねさァの後ろで山が光った。きれいな人だ、とシゲは思った。みんなはおとねさァを遠巻きにして、息を殺してただ見つめていた。気軽に声をかけるのがためらわれた。

 誰かが知らせて、親方衆が三、四人走ってきた。メロウたちは後ずさった。畑へ行かねばならないのを思い出したのだ。だがおとねさァのことが気になって、動く者は誰もいない。親方衆はおとねさァの前に立ちはだかり、威嚇するように黙って見下ろした。長い間にらんだあと、親方のひとりが咳払いして言った。

「たずねるが、バンシャというのは何だ」

 そのバンシャのせいで、若さんはおかみに追われるようになったのだ。おとねさァはひとことで言い捨てた。

「あんたらが知ったって、しようのないものだよ」

 親方は厭な顔をして黙り、別な親方が改めて聞いた。

「若さんはどこへ行った。なぜ止めなかった」

「これからの自分の行き先だってわからないのに、人の行き先まで知りようがない。行きたいところへ行く者を、止めたって仕方ないだろうが」

「江戸はどうだった。十五年も帰ってきたくないほど、いいところか」

「なあに、ただの田舎者の集まりさ」

 シゲは肝をつぶした。シゲが聞いたことのある唯一の町といえば能代で、その能代へだって実際に行く者はほとんどない。能代は大変な都会だという。江戸ならその何百倍だ。

 だがそういう言い方は、おとねさァによく似合った。バンシャが何なのかちっともわからなかったが、さすがに身近で、そういうものに接してきた女だった。

 

 どうせすぐに叩き出されるだろうと思っていた。おとねを知っている古い使用人のひとりにでも出会えば、化けの皮などたちまちはがされる。

 だが、まず最初にお庄屋の旦那のところへ引き立てられて行ったとき、旦那は不機嫌にどなったものだ。

「よくも図々しく戻ってこられたものだ。おめえの顔なんぞ、見たくもない」

 相当に腹を立てていたらしくて、庭先にかしこまったすての顔など、ろくすっぽ見なかった。だがそう言ったからには、すてをおとねだと認めたことになる。

 四方を山に囲まれた小さな山里で、旦那といえるのはここのお庄屋がひとりきりだった。偉いものといえばお庄屋の分家筋かお庄屋に使われる親方衆ぐらいだから、お庄屋がおとねと呼んだからには、「人違いではないか」などと口に出す者はいない。屋敷の使用人の序列が、そのまま村の秩序だった。

 一応の街道とはいえ出羽山脈を縦断する険しい山道、腹にややこを入れて歩いているような女は、めったにない。江戸で十五年も暮らせば誰だって変わるものだ。顔立ちや様子が少しばかり違っていたところで、それほど不思議だと思われないのかもしれなかった。

「あんた、あたしを知っているのかい?」

 よく帰ってきたねと声をかけた女に、すては思い切ってたずねてみた。おかしなことを聞く、というふうに、女はきょとんとすてを見上げた。

「おまえが出てったときは、あたしはまだほんの十二だったけど。いくらガキだって、おとねさァのことは忘れねえわさ」

 十五年前ならすてはすでに能代の茶屋にいた。その前は鷹巣(たかのす)。能代が、米代川が海へそそぎ込む出口ならば、鷹巣は中流の小さな盆地である。すてを最初に拾ったのが鷹巣の樵夫で、その後すぐに同じ村の駄賃引きにくれてやられた。もらわれたり売られたりしながらいくつかの場所を動いたが、どこへ行っても働かされるばかりで、子どもの時分にも遊んだという記憶がない。

 すては生まれるはずではなかった。生まれるはずでなかった女には名前もなくて、まわりの者は、みんな「すて、すて」と呼び捨てた。捨てられたから「すて」だという、一番簡単な呼び名だった。名前を考える程度の手間さえ、誰もかけてくれなかった。

 あたりを取り巻いて口々に責め立てる男たちの言葉を聞いていると、おとねという女の立場が少しずつわかってくる。食うものもろくに食えない極貧のメロウのくせに、大事な若さんをたぶらかした。子は欲しいが、おとねさァはいらないのだ。生まれるまではここに置いて、そのあとは小金でもくれてやって追い出してしまえという腹らしい。

 お庄屋の旦那のふたりの若さんのうち、下の若さんはやたら利口で頭がよかったという。大きな町へ行って医者様になる勉強をしたいという若さんのために、旦那は鼻の下を長くして言われるままに大金を出してやった。おコさんを倍にふやして身代を太らせたものの、学問のないことだけはどうしようもなかった旦那である。能代でもすぐに頭角を現したという秀才の若さんが、得意で仕方がなかったのだ。

 この若さんが村を出るとき連れていったのがおとねさァで、旦那は飯炊きの下女をつけてやったつもりでいたのに、いつのまにか奥様におさまっていた。

 旦那は呆れたけれど、遠いご城下のことではどうしようもない。頭から湯気を立てて怒り、若さんが学問を終えて戻るまでにはちゃんとした別な嫁様をあてがってやるのだと、まわりの者に当たり散らすぐらいだった。そのうち若さんは、江戸まで行ってしまった。

 ひとり身の若い男が、手近な飯炊き女につい手を出してしまうのは、よくある話だった。だがその飯炊き女をきちんとした奥様に迎えるなどというのは、あまりある話ではない。だがここの若さんは、よくある話だろうがなかろうが全く気にしなかったらしいのだ。

 役人に睨まれることを平気で考える若さんなら、何を考えたっておかしくなかった。役人に睨まれることに比べたら、とんでもない女を嫁様にするなど、ものの数にも入らないようなものだ。そうして嫁様に納まってしまえば、もとがどうだろうと、それなりの権利は出てくる。 

 早い話、若さんの兄にあたる家督の長男は、四十近いのにいまだに子がない。この先ずっと生まれなければ、若さんの子が跡継ぎになるかもしれなかった。これだけの身代が、すてのややこの上に黙って降ってくる。万一家督に子が生まれたにしても、分家ぐらいなら立ててもらえるだろう。

 おまけに旦那は、本心では、よけいなことは知りたくないと思っている。知らなければ、役人に責められても答えようがないのだった。以前、能代の代官所から役人が来たという。若さんの嫁様が身ごもっているというのも、役人が言ったのだ。

 一度来た役人ならまた来るかもしれず、知っていて隠すより知らないで黙っているほうが無難だと、旦那は感じている。バンシャというのは、それほど大変な罪らしいのだ。何度尋ねても肝心なことを話さないすてに腹を立てながら、一方では、無理に言わせなくともいいと思っているようなのが、見て取れた。

 行くべきところなど、どうせなかった。親もない、名前もない、故郷もない。恥ずかしい話だが、いま腹に入っているややこの父だってわからないのだ。せっかくみんながおとねさァだと思ってくれているのだから、ここは頑張って、おとねさァでいたほうがよかった。

 

「バンシャって何だべね」

「バンシャ?」

「若さん、そのせいで隠れたんだべ?」

 何度もシゲに聞かれて、すては困った。シゲが一番聞きたがるのが能代のことで、次がそのバンシャだ。能代についてならいくらでも喋れる。江戸とか秋田とかでも答えようはあるが、バンシャには参った。

 能代の港へ入るのはたいてい京・大阪の船だったから、船乗りの男たちは江戸をぼろくそに言った。この国の中心は京・大阪で、江戸などは急ごしらえで寄せ集めの、屁でも飛ばされそうなチャチな町だという。膚の上を過ぎてゆく一夜の男たちがみんなそう言うので、いつのまにかすてもそんなものかと思うようになっていた。

 しかしバンシャというのは答えようがない。そんな話をしていた者がなかったろうかと、一所懸命思い出そうとした。お庄屋の旦那や、若勢の監督をしている親方衆から若さんの行方を詰問されるよりも、小便くさい小娘から答えようのないことを真顔で聞かれるほうが、はるかに難儀だった。

 とりあえずメロウたちの大部屋に寝起きさせられたから、メロウとはすぐに親しくなった。みんな集まっていたとき、飯炊きのバサマが冗談のように言ったのだ。

「おとねさァはわざわざ江戸まで行ってきて、土産もなしかよ」

 すては即座に袋を引き寄せ、穴のあいた銭を取り出してバサマにやった。みんなは息を呑んだ。若勢もメロウも、銭を近くで見るのは、盆暮れの勘定時期だけだった。行くところがなくて旦那に拾われた飯炊きのバサマだって、同じである。

 バサマは真っ赤になり、今のは本気ではなく、ただ言ってみただけだとあわてて言い訳した。

「いいから取っておおき。これから世話になるんだしさ」

 バサマは恐縮してなお赤くなり、すてはあっけらかんと笑った。銭を渡そうとして手がふれたとき、バサマの指が震えているのがわかった。それからすては、唾を呑んでふたりを見つめていたメロウたち全部に、同じ銭を一枚ずつやった。みんなは固くなりすぎて、ろくに礼も言えないぐらいだった。

 たまたまやってきた若勢のひとりに、土産をやるから男たちを呼んでこいと言いつけ、来た者全部にまたくれてやった。どうせ能代でおかみさんから盗んだ銭だった。

 メロウも若勢も、とんでもなく偉い者でも見るような目ですてを見た。山奥の小さな村では、銭は、銭というだけで何より貴重なのだ。前日に出会った馬を引いた若勢は、人より前にすてに会ったというだけで得意がったし、メロウたちだって気を遣ってくれる。中でもシゲは、何かと口実を作っては話しかけたがった。

「江戸からご城下へ早馬が行って、秋田のご城下から能代へ知らせて、能代のお役人がここまで来たんだ。バンシャって、よっぽどのものなんだべなあ」

 日の出前から働きづめに働いて、野良着を脱ぐ気力も残っていないほど疲れているはずなのに、目を輝かせてそんなふうにいう。答えないと、ばれる。ばれるのは困るが、そのきらきらした目を裏切るのは、もっと悪いことのような気がする。

「・・・・異国の学問をするんだよ」

 ずうっと以前、京の小間物屋だという男がそんな話をしていたっけと、ようやく思い出した。たしか「蛮社の獄」とかいう言葉を聞いた気もする。

「異国?」

 ともすれば上と下がくっついてしまいそうになる瞼をこすりながら、シゲはさらに聞く。すては仕方がないから、いろんな泊まり客のいろんな話を、あちこち思い出してはつなぎ合わせ、とりあえず並べてみる。

「・・・・オロシャとか亜米利加とかエゲレスとかさ」

「オロシャって?」

「蝦夷地の、ずうっと北のほうだよ。オロシャの黒船が、海を越えて蝦夷地へ来たことがあるんだ。知らないだろうね」

 ニシン漁で蝦夷地へ出稼ぎに行った男が、そんなうわさをしていた。

「おとねさァはその黒船を見たことがあるものかね」

「まさか。黒船を見たいなんて言ったら、たちまちおかみにとっつかまるよ」

「江戸は田舎かい」

「ああ、風情も何もないド田舎だよ」

「だってこの国の都だろ」

「都だって何だって、田舎は田舎さ。能代とたいして変わりゃしないよ」

「異国って、江戸より大きいんだろうね」

「ああ」

「若さんは、ひょっとして異国ってとこへ行きたかったんじゃないだろうか」

 このあたりまでくるとぶっそうだから、すては笑うだけでごまかす。シゲは遠いところを見るようなとろんとした目で、屋根から漏れる月明かりを見つめる。何を見ているのだろうとすてが思っていると、そのうちくうくうと軽いいびきが聞こえてくる。着たきりのシゲの野良着から、汗と泥の匂いがむっと上ってくる。

 またたきする間に熟睡してしまった隣の小娘を見つめながら、すては舌を巻く。広い大部屋はメロウたちの苦しげないびきでいっぱいだ。起きている者はもう誰もいない。

 今の時期のメロウは、日の出というより、夜のうちから働く。大部屋の両端に、部屋の一方から他の一方に届く長くて太い丸太がある。メロウたちの枕である。一本の丸太を枕に、いるだけのメロウが山鳥の死骸のように熟睡しているのを、時間になると親方が丸太の端を(つち)でぶっ叩く。振動がガーンと丸太を伝わって、メロウたちの頭の芯へ届く。桑摘みの時間だった。

 おとねさァは寝ていていいと言われたって、寝てなどいられたものではない。メロウたちが桑の葉を馬の背いっぱいに乗せて戻っても、まだ朝飯にはならない。葉を刻み、前日の古い葉を捨てて無数のおコさんをきれいにしてやり、変わりがないかどうか調べる。おコさんの色が変わっていたりすると、もう大ごとである。

 いくらでも取り替えのきくメロウよりも、おコさん一頭のほうが大事にされる。指でつまめるほど小さいくせに、おコさんは一匹二匹ではなく、馬なみに一頭二頭と数える。おコさんは食いたいだけたっぷり食えるが、メロウはいつも腹を空かしている。夜になると、起きて動いていられるのが不思議なぐらいだ。話などしている暇があるなら、少しでも多く寝たいとみんな思っている。それなのにシゲは、わざわざすてのそばへ寄ってきて、蛮社とはどんなものだ、などと、目を輝かせて聞くのである。

「いっぺんでいい、おコさんが飛ぶところが見てえなあ。それが見られたら、何もいらねえ」

 真顔で、そんなふうに言うこともあった。すては呆れて、返事のしようもない。

「羽があるんだよ。あんまり長い間、繭から先に進めなかったから、きっと飛べるってことを忘れちまったんだ。ここにいる全部のおコさんが繭から孵って、チョウチョみたいにひらひら飛んでったら、どんなにきれいだろう」

 おかしな子だった。おコさんが飛ぶところを想像したって仕方がないし、メロウが異国のことを考えたって仕方がない。

 あと数カ月。すては胸の中でそっと数えてみる。月が満ちてややこが生まれるまで、あと四、五カ月ぐらいなものだろうか。早ければ九月には生まれるだろう。遅れてもせいぜい十月なかば。それからたっぷり金をもらって、身ひとつで南部へ越える。すぐに雪の季節である。十一月になれば山越えは無理だ。十月に産んですぐ出発すれば、かろうじて間に合う。

 能代で西回りで海を渡ってくる男たちの相手をしたから、今度は南部で、東回りでやってくる男たちを客にしてみるのも悪くなかった。南部で海が見えなかったら、仙台へだって相馬へだって行ってもいい。そのための店を持つのに、いくらあれば足りるだろうか。

 ばれそうな不安はいくらでもあった。だがそんなことを今考えたって仕方がない。生まれるはずでなかった女には、怖いものなどひとつもなかった。偉い親方衆に取り巻かれて罵られると、かえって度胸が座るぐらいなものだ。

 

 ざあざあざあざあと雨の音がする。ひどい雨だった。屋根を打つ雨の音がだんだん強くなる。雨だなあとシゲはぼんやり思い、すぐに、麦束を入れなければならないと思い出した。おととい刈り入れの終わった麦の束が、まだ畑に干したままになっている。重くて、べとべとして、雨を吸った麦は始末に負えない。中まで濡れてしまえば、黴がはえたり腐ったりした。濡らしでもしたら親方が真っ赤になって怒る。

 なかば眠ったまま、シゲはがばりと立ち上がった。立ち上がった勢いで足がふらつき、倒れそうになる。

「いいんだよ、ちょっとぐらいなら寝ていたって」

 笑いながら誰かが言った。シゲはびっくりして目を開いた。すぐには自分のいる場所がわからなかった。部屋の向こう隅で、おとねさァがおコさんの(ざる)を棚に戻していた。外は晴れ渡って陽射しがまぶしい。寝ていたのだとようやく気が付いた。

 何千何万のおコさんたちが、ざあざあと桑の葉を食っている。雨の降る音にそっくりだった。今の時期のおコさんはまったくよく食う。生まれたときは胡麻粒ほどもなかったのに、(みん)と脱皮を繰り返して、もう人の親指より太くなった。体が大きくなった分だけ、食う量もふえる。

 くたびれて立っているのが辛く、餌をやりながらちょっとしゃがんだら、寝てしまったのだった。夕べもろくすっぽ寝なかった。おコさんの食う量があんまり多いから、日の出前に起きて桑の葉を摘んでこなければならない。周囲は真っ暗、道もろくに見えないので、人よりは方向のわかる馬を先にして、しっぽにつかまりながら半分眠ったまま山の桑畑まで歩いてゆく。畑に着いて桑の葉を摘み終わるころ、ようやくあたりが薄明るくなる。

 おコさんは最後の(みん)から覚め、四度目の脱皮を終えたところだ。この数日で、生まれてから今までの全部を合わせたよりはるかにたくさん食う。あんまり忙しいので、身重のおとねさァまでかり出される。

 春蚕(はるご)の終わりから夏蚕(なつご)のはじまりまで、ほとんど間がなかった。おコさんは昔は夏蚕がなくて春だけだった。それまでは春だけだったおコさんを、旦那は突然夏もやると決めた。おコさんの時期は桑の葉が萌えるころと同じだから、旦那は山で一番日当たりのいい南斜面と一番寒い北斜面にそれぞれ桑畑を作り、桑の葉の伸びる時期をずらした。ただでも忙しかったのが、寝る間もなくなったのはそのときからだ。

「臭いねえ。毎日これだもの。図体は小さいくせに、馬並みに食うんだから参っちまうよ。毎日こんなことやらされて、馬そっくりのややこでも生まれたらどうするんだろ」

 おとねさァは顔をしかめて雨の前のカエルみたいに笑う。仕事の途中で寝てしまったシゲに、よけいな気遣いをさせまいとして、わざと嫌そうにして見せているのだ。おとねさァは何かにつけてやさしい。この間若勢の新治といっしょにいるところを見られたけれど、片目をつぶって笑いかけただけで何も言わなかった。昔メロウだったから、メロウの辛さがよくわかっているのだとシゲは思う。

 ここの嫁様だって意地悪というわけではないが、他人に余分な言葉をかけるゆとりもないほど働いている。笑うのも無駄、馬鹿話も無駄、(あぜ)の花に見とれるのも無駄、役に立たないことは指一本動かすのも無駄と割り切って、喋らず、わき見せず、やるべきことをもくもくとやる。家督の嫁様にしたところで、一生飛べない蚕である。

 何不自由なく育ち、これから先だって食うに困るとも思えないお庄屋の若さんが、なぜ蛮社などというものに近付いたりしたのか、シゲにはわからない。金持ちのやることはわからないし、頭のいい者のやることはわからない。金持ちで頭のいい者のやることは、もっとわからない。

 だがおとねさァのやることなら、少しはわかる気もする。おとねさァは遠いところが大好きなのだ。そのうえ若さんに惚れられて連れてゆかれた。その大それた企てについてだって、聞かされていたに違いない。そうでなかったとしたら、こんなにケロリと、あっさりした顔でひとりで戻って来られるはずがなかった。これは、若さんをよっぽど信用している証拠である。

 雨の前のカエルみたいなケロリとしたおとねさァを見ていると、シゲも何となくいい気持ちになれる。おとねさァといっしょだと、何でもないことで笑いたくなるから不思議だった。

「馬みたいなややこなら、きっといい男だべさ」

 シゲは笑いながら言った。首をもたげて一心に食っているおコさんは、本当に馬に似ていた。昔、おコさんは馬だったのだ。

「いい男だって馬じゃ厭だよ」

「馬に惚れた姫さんもいたよ」

「へええ、それは知らなかったね」

祭文(さいもん)語りがそう言ったもん」

 まだ夏蚕がなかったころ、田植えも麦刈りもおコさんも終わってしまうと、祭文(さいもん)語りがやってきた。春の仕事が一段落したマンガアライ(馬鍬洗い)の席に呼ばれて、祭文を語って聞かせるのだ。マンガアライの餅と祭文を唯一の楽しみに、仕事に耐えたようなものだ。食べたり飲んだりするのも楽しみだったが、祭文語りが来るのが何よりも待たれた。

 南部から来たという盲目の祭文語りは、三味線を弾きながらいい声で歌った。

「雨風きゅうに乱れて五色の雲わき上がり、つむじ風ぴゅうと吹けば、首落とされた栴檀栗毛(せんだんくりげ)、風をはらんで揺らめきもうす。揺らめき揺らめき木を離れ、姫ンコをさぁっと包んでお空へ昇る。さてもオシラの左右衛門殿は、並み居る家来呼び集め、竿じゃ弓じゃとお叫びなさる。栴檀栗毛と姫ンコは五色の雲に包まれて、なおも高くお昇りもうす・・・」

 久しぶりに存分に食っていい気持ちになったメロウたちは、涙を流しながら一所懸命聞いた。

 付近に並ぶ者のない長者、オシラの左右衛門殿の屋敷に、みごとな若駒が買われてくるのだ。長者の姫ンコが十六になったとき、姫ンコと馬が恋しあった。いかに名馬だとて畜生の分際で姫ンコを恋するとはと、長者は怒って馬の首を落とし、桑の木に吊させて皮をはいだ。にわかに突風が吹いて馬の皮が姫ンコを包み、馬と姫ンコは騒ぎたてる人々の頭上高く舞い上がった。長者は地団駄踏んで騒いだけれど、ふたりはもっと高くもっと遠く飛び、やがて空のかなたへ消えてしまった。次の年の春、馬そっくりの黒い虫と白い虫が降ってきて、桑の葉を食って繭を作った。長者がこの繭を紡いだところ、たいそう美しい高価な糸が取れた。

「栴檀栗毛と姫ンコと、ふたりして親ばさんざん悲しませたが、最後は立派に親孝行して、いとどの長者はさらに大した長者になられた」ベベンベンベン、ベン。

 メロウたちはみんな泣いた。シゲも泣いた。姫ンコと馬は、ようやくかなえた恋をご破算にして、親を金持ちにするために飛べないおコさんになって戻ってきた。

 生きていたときは恋人の首を切り落とされ、生皮を剥いで木に吊された。死んで虫になったあとは、熱湯で煮られて殺される。殺されなければ糸が取れない。それでも、姫ンコも栴檀栗毛も戻ってこないわけにはゆかなかったのだ。

 オシラの姫ンコは哀しい。この姫ンコほど、割に合わないものはない。だがメロウたちは戻ってきた姫ンコの心がよくわかった。

 親も、兄弟も、ジサマもバサマもオジもオバも、まわりの者みんなが、女はおコさんみたいなものだと決めてかかっている。繭よりも狭い山里から一生出られず、我慢して我慢して親兄弟に尽くし、最後は熱湯の鍋で煮られて銭を運んでくる。そうして運ばれてくる銭を、親も幼い弟たちも口をあけてじっと待っている。運んでやらなければ他に食う方法がない。

 盲目の祭文語りの三味線に合わせて、メロウたちは心ゆくまで泣いた。自分の哀しみを泣くかわりに、オシラの姫ンコのために泣いたのだ。祭文語りの三味線に合わせてならば、誰にも遠慮せずに存分に泣けた。

「親って、そんなにしてまで尽くさなきゃならないもんかねえ」

 ふうっと長い溜息を吐いて、おとねさァがつぶやく。

「だって、親だもの」

 だがシゲだって、夢中で食っているおコさんに、ときどきふっと、そんなに食うなと言ってやりたくなる。たくさん食い、大きくなって繭になったら、それで終わりだ。おコさんのためには何の役にも立たない糸のために、何千何万の虫が死ぬ。 美しい高価な糸はおコさん自身の役に立たないし、メロウの役にだって立たない。煮られて糸を取られたあとの、茶色くちぢこまった死んだおコさんを、猟犬がガリガリむさぼり食う。

 だが親というのはそういうものだ。その親だって、親の親にそうやって尽くしてきた。メロウというのはそういうものだし、おコさんはそういうものだ。長者だってそういうものだ。

「おまえ、よっぽどおっかさんが好きなんだろうね」

 おとねさァは優しい目をして突然言う。シゲはまた困る。好きとか嫌いとかではない。親は、はじめから親なのだ。

 村へ来てずいぶんたつのに、いまだに旦那はおとねさァを親に会いに行かせない。山ひとつ越えたところにいるおとねさァの親は、おとねさァが戻っているのも知らないだろう。

若さんがお尋ね者なら、おとねさァだって似たようなものだ。誰に見られないものでもないから、おとねさァも我慢して行かずにいるが、あんなに銭を持ってきたのに、親に見せることもできないのだ。

 おとねさァは親についてほとんど言わない。でもたった一度、親に買ってきた土産のことを話したことがあった。

 日の出前から豆植えをして、シゲは口をきくのも嫌になるぐらい疲れていた。メロウの中でも一番年下だから、みんなが畑からあがったあと道具を片付けるのもシゲの仕事だ。

 道具をざっと洗って蔵にしまうと、もう月が出ていた。自分の脚絆と前掛けも月明かりで洗い、前掛けだけでも干しておこうと寝部屋へ寄ったときだった。誰もいないと思っていた大部屋の隅に、おとねさァがいた。

 おとねさァはこちらに背を向け、荷を解いていた。おとねさァ、と呼びかけようとしたが、あんまり疲れて、声まで喉の奥でしなびていた。

 後ろ向きのまま、おとねさァは一心に荷をいじっている。着替えの着物に混じって、塩の固まりのようなものが入っていた。何だろう、とシゲは何となく体を乗り出した。やっぱり塩にしか見えなかった。その塩の固まりをおとねさァは大きな紙でぐるぐる巻きにして、さらに袋の底に入れていた。

 背中越しに見ていると、おとねさァは大事そうに袋から取り出し、しばらく眺めて、端のほうをちょっと舐めてみた。シゲはびっくりして、ただ突っ立っていた。

 おとねさァが塩をもと通りにしまって振り返ったとき、目と目があった。おとねさァは仕方なさそうに笑った。いつもは雨上がりのカエルみたいに元気な顔が、泣いた猫みたいになっていた。

「それ、塩だべえ」

 シゲはそばへ寄って、ぺたっと座った。おとねさァは、困ったような照れたような中途半端な顔で、もう一度塩の固まりを出した。シゲは指を伸ばしてさわってみた。本当に塩だった。

「能代で買ってきた」

 しばらく黙っていたあと、おとねさァはぽつりと言った。

「親に、土産買ってきたいじゃないか。ガラッと戸を開けてさ、土産だよって言ってみたいじゃないか」

 その瞬間、シゲはおとねさァにすがりついて泣きたいような気持ちになった。心底おとねさァを好きになったのは、このときのことだ。 

 

 もしかしたら甘かったのかもしれない。旦那を見かけるたびに、すては生まれてくるややこの身分について話した。旦那は鼻で笑って、「悪いようにはしない」と答えるだけだった。分家を起こすか、それ相応の金が欲しいとほのめかしても、頷きはするが、どこまで本気で聞いているのかわからない。

 旦那も怖いし、姑様も気味悪かった。姑様に見つめられるたびに、体が縮む思いがする。いつもふんぞり返ってメロウの顔などろくに見ない旦那はともかく、姑様のほうは、かつて使っていたメロウとはやっぱり別人だと、いつ気が付くかしれないのだ。

 はじめは比較的自由だった。街道へ出ることこそ禁じられたものの、門の中ならどこを歩いてもかまわなかった。

 そのうちに、メロウの大部屋から、蚕部屋につづいた道具部屋へ移らせられた。おコさんの世話を手伝えということだが、本当のところは監視しにくいからだ。メロウの大部屋は庭の北隅で、昼間は人の出入りがない。仕事をしながら見張るのに、不便なのだった。道具部屋なら、何をしていても、常に誰かしらが見ている。

 しばらくして家督の嫁様がとうとう身ごもった。

 身ごもったと、みんなが口々に言いはじめた。旦那が真っ先にそう言ったのだから、姑様も当の嫁様も違うとは言えない。気のいいメロウたちは、気の毒そうな目ですてを見た。嫁様が身ごもったからには、すての子は跡継ぎになれないと決まったのだ。だが嫁様には、身ごもったらしい様子はほとんどなかった。

 孕んだ孕んだと言われながら、人手がなければ、重たい石の挽き臼ぐらいは平気で担ぐ。

「若勢でも呼んできますかね。そんなもの担いじゃあ、腹のややこに障るでしょうが」

 すてはカマをかけ、嫁様はのっぺりした顔であいまいに笑った。この嫁様は、何か言わなければならないときは、いつも返事をするかわりに少し笑う。すてはさらに注意して見たが、やっぱりよくわからなかった。

 旦那が真っ先に言い出したところをみると、嘘かもしれない。二番目の若さんの子を跡継ぎにするのは、旦那だって役人の目を考えると怖いのだ。家督の嫁様が産んだ子なら、そんな心配はない。

 すての子が生まれたら、嫁様もちょうど同じ日に子を産むことになるのだろうか。すてと嫁様と並んで寝て、生まれたとたんに、ややこが向こうへ移されている。すての子は死産で嫁様の子だけちゃんと生まれた。そんなふうに言われるのかもしれない。

 ややこはそれでいいとしても、そのあと自分はどうなるのか。本当に金がもらえるのか。用のすんだメロウひとり、どこで消えてしまったにしても、不思議に思う者はないだろう。

 今のうちに逃げたほうがよさそうだった。だがそう思いながら、やっぱりもったいない。

 一旗上げる金が欲しかった。いや、それよりも、郷里と呼べる場所にどうしようもなく引きつけられる。最初に「すて」と呼ばれたのがいつなのか、覚えていなかった。思い出そう思い出そうと努力しても記憶は遠くかすんで、クモみたいに痩せた、小さな女の子どもが、大河の川べりにぽつりと立っているのが浮かんでくるきりだ。四つか五つぐらいだろうか。子どもははだしだ。あたりは暗くて、厚い雲の下に月が出かかっている。

 子どもは熱心に川を覗いている。川は真っ暗で何も見えない。蛇の背中のようなさざなみでも、突き出した岩の角でも、何でもいいから見えないものかと、ありったけの注意を込めて流れに目を凝らす。目が充血して、喉の奥がからからになってくる。川はすぐそこで音をたてて流れているが、実際には何も見えない。

 知らないうちに子どもはガタガタ震えている。真っ暗な闇の底を、自分も闇そっくりになって漂ってきた不安と恐ろしさが、見えない川の、川音といっしょにごうごう体を昇ってくる。泣いても叫んでも、川はただ黒かった。あの暗さ、あの恐ろしさ、あの心細さの前には、体の一部になってしまった毎日のひもじさなど、何ほどのこともなかった。

 闇から生まれ、闇を漂い、闇の中に流れ着いた。生まれたばかりで何ひとつない、まっさらなややこの頭に、闇がどろどろの固まりになって流れ込む。思うまい思うまいとどんなに努めても、生まれたばかりの目もあかないややこが漂ってきた闇のことが浮かんで、子どもは不安でどうしたらいかわからないのだ。

 最初の記憶が四、五歳のころで、しかもそれが、川に流されたのを思い出しているところ、というのだから話にならない。

 生まれたとき流れ込んだどろどろの闇は、(にかわ)でくっつけたみたいにすてから離れなかった。年月がたつうちに少しずつ固くなって、いまも体の真ん中に貼り付いている。手も足も腹も胸も、体の全部が闇でできていて、闇が着物を着て、闇が草履を履いて歩いている。

 だから暗闇で着物を脱ぐと、そのまますうっと闇に溶けて、なくなってしまいそうだった。そうして自分がなくなっても、誰ひとり不思議に思いもせずに、いつものようにしんしん飯などかき込んでいる。

 身ごもったとき、その闇の固まりがふっと動いた。闇の底で闇が凝縮し、小さな繭になった気がした。

 すての子がこの村で生まれ、ここで大きくなれるのなら、この先どこへ行っても、この山奥の小さな村をどこよりも懐かしい郷里だと思っていられる。親はないが、子によって大地とひとつになれる。生まれてくる子がここで認められ、ここで育ててもらえるなら、ほんとうは金なんかどうでもいいのだ。

 生まれる前におとねさァか若さんが現れたらと思うと、怖かった。生まれたあとで現れられたら、もっと怖かった。だが賭けてみないわけにはゆかない。

 

 能代から飛脚がきた。日ごろ旦那が親しくしている商人から、飛脚が来るのは珍しくなかった。手紙を読むなり、旦那は絞められた雛鳥みたいな間の抜けた声を上げた。それから誰の顔も見ず、ひとことのものも言わず、脱皮したばかりのおコさんより蒼くなって奥へ閉じこもった。

 旦那はそのまま出てこなかった。姑様も親方衆も何が起きたのかわからず、旦那の部屋の前でおろおろと中をうかがった。旦那の機嫌を測るのに手一杯で、使用人の監督にまで手が回らない。旦那より怖い親方衆がそばにいないので、若勢もメロウも、寄るとさわると仕事の手を休めてうわさしあった。

 さらに姑様が旦那に呼ばれたと思ったら、今度は姑様まで出てこなくなった。病気みたいに熱を出して寝ている。

 何日かして、ようやく旦那が蒼い顔のまま廊下に現れた。

「あの女から目を離すでねえぞ」

 真っ先に言ったのが、それだ。旦那の言いつけを親方衆がさらに若勢に伝えたので、話は一気に屋敷じゅうに広まった。

 飛脚の手紙はいつもの商人からではなく、旦那の息のかかった使いからだったと誰かが言い出した。飛脚が持ってきた手紙には、若さんがとうとう捕まったと書いてあったそうだ。

 シゲはそれを若勢の新治から聞いた。若勢の何人かは、日ごろ親方からそれとなくおとねさァを見張るように言われているから、シゲなどよりはずっと知っている。

「いいか、いくら頼まれたって、外へなんか出すんじゃねえぞ。おめえ、この間も、おとねさァをいっしょに桑畑へ連れてっただろうが。もしも逃げられでもしたら、どうするんだよ」

 新治だっておとねさァに銭をもらい、さかんにありがたがった口である。それに、おとねさァが逃げたりする理由がなかった。シゲは笑いそうになり、新治があんまりまじめな顔をしているので途中で笑いやめた。

「若さんがどんな罪になるのか、わかんねえんだ。生まれてくるややこだって罪をかぶるかもしれねえし、悪くすると旦那にだってお咎めが来ねえともかぎらねえ」

 屋敷の取りつぶし、財産没収、入牢、遠島、袖の下、ウラ金。今まで聞いたことのない言葉が野良や大部屋の隅でひそひそささやかれた。旦那が寝込んだのは、若さんの罪のとばっちりを恐れているせいだとか。こういうときのために旦那は日頃から銭をためこんでいるのだと、したり顔で言う者もあった。

 さらに十日ほど後、能代からまた飛脚が来た。旦那はふたたび蒼くなって奥へ引っ込み、一度は起きられるようになった姑様は枕から頭が上がらなくなった。

 若勢もメロウも、誰にも遠慮せずにおおっぴらにうわさした。毎日おコさんは桑を食い、豆の芽はぐんぐん伸びる。うわさ話で気でもまぎらせないことには、忙しくてやっていられなかった。

「死んじまったらしいぜ」

 土間の隅で若勢のひとりが言った。

「え、誰が?」

 シゲは驚いて聞いた。

「決まってるべ」

 今度の飛脚は代官所からの正式のものだそうだ。若さんが見つかったのは、江戸からだいぶ離れた西の国だった。

 見つかったのはいいのだが、役人が捕らえようとしたら逃げたので肩を斬られ、牢屋へ入れられた。その傷がもとでとうとう亡くなったのだという。

 死んでしまえば調べようもない。先に捕らえられていた蛮社の仲間の口から、若さんの名前は一度も出なかった。名前は挙がらないし遺体の始末は終わったし、とりあえず獄死したことだけは知らせてやると、能代の代官所から言ってきたのだった。

「やっぱりなあ。あの若さんが、大それたこと、やるわけねえわさ。名前が出なかったんだ。そんなに深く関わっていたわけでもなかったんだべ」

 飯炊きのバサマが言った。

「わかんねえぞ。そんならなんで逃げたりしたんだ。おとなしく捕まっておけば、まさか死ぬことはなかったべに。逃げたってことからして、だいたいがおかしい」

 別な若勢が言った。

「役人に追っかけられたら、誰だって怖くなるべえよ。拷問なんかにかけられてみろ。なにせ蛮社だぜ。おかみばひっくり返そうとしたっていうんだから」

「あの若さんが、おかみなんかひっくり返すかね。炭積んだそりがひっくり返って、ちょっとばかり血が出たって、わあわあ泣きながら帰ってきたことがあったっけが」

「泣きめそだったのか?」

「ああ。泣きめそで臆病モンで、何でもないことですぐ泣きなさった」

「ほんとに臆病モンだったんだろうか。血を見てひっくり返る臆病モンが、医者様になりてえなんて思うかねえ」

 若さんが実際に何をやったのか、どれぐらいの罪にあたるものなのか、やっぱりよくわからなかった。ただ取り調べの前に若さんが死んだおかげで、たとえどんな形にしろ旦那の名前が直接に出ることはなくなった。旦那は悲しんでいるが内心ほっとしてもいるのだと、厩番(うまやばん)のジサマが訳知り顔で言った。

 

 おコさんは今日も雨が降るような音を立ててざあざあと桑を食う。戸も窓も開け放っても、おびただしい虫の臭いでむんむんした。その臭いで、ときどき吐きそうになる。

腹の中でややこが動いた。吐きたいのを我慢して、すてはそっと腹をなでてみる。ややこはずいぶん大きくなって、手や足の形が外からでもわかる。

 早朝、桑を持ってきたメロウたちが、若さんが死んだと話していた。涙がすうっとにじんで、すぐに止まった。涙はもう出なかったが、自分だけのかけがえのない男に死なれた気分だった。

 ばれる危険が半分になった。メロウたちが行ってしまうや、真っ先に浮かんだのがそれだ。すての身分をばらしそうな二人のうち、若さんが死んだ。警戒せねばならないのはおとねさァだけになった。すては半分だけ安心してよかった。

 だが本当にそうだろうか。若さんが生きていればこそ戻らずにいたおとねさァが、死なれたから戻らざるを得なくなる、ということだってありうる。

 危険が減ったのか増えたのか、考えずにいられなかった。何をしていても、頭の隅ではそのことばかり考えている。

 逃げたほうがよかった。だが逃げようとは思わなかった。これより下のない地べたをはってきた。ばれたところで、もう落ちるところがないのだった。

 ばれてもともと。おとねさァが必ず戻ると決まったわけではなし、賭けられるものがあるなら、賭ける。おとねさァがどうしても戻るというなら戻れないようにするまでだと、気が付くととんでもないことを考えている。

 誰かを巻き込まねばならなかった。自分がここにいるうちも、ここから出ていったあとも、街道を歩いてくる身重の女に気を配って、屋敷へ近づかせないよう工夫してくれる者。口が固くて、度胸があって、獣の腹ぐらい平気で裂ける者がいい。持っている銭を全部出したら、頼まれてくれる者がいないだろうか。一番怖いのは、ややこが生まれてすてが金で追い払われたあと、本物のおとねさァが現れることだった。他人の真ん中に残された非力なややこがどうなるのか、想像してみるのはたまらなかった。

 日の照らない日が続いた。雨はやんだがべたべたと湿っぽく、座っていても湿気が腕にまつわりついてくる。桑の葉も乾かなかった。

 メロウたちが摘んできた葉を庭に広げ、広げきれないものは綱を張って干した。おコさんの食う早さに、乾く早さが追いつかない。降らないだけでもいいよ、と、嫁様は何を考えているのかわからないのっぺりした声で、すてに濡れた葉の扱い方を教えた。

 この嫁様は何を考えて生きているのだろうと、ときどき思う。それぐらい表情というものがない。毎朝メロウより早く冷たい田に入り、それがもとで流産したことも、他人の子を自分の子として育てることになりそうなのも、使用人には家督の嫁様として威厳を保ちながら旦那には牛馬なみにしか思われていないことも、どんなことでも風の吹き溜まりのように黙って受け入れる。

 それとも吹き溜まりの底で古い落ち葉が腐って発酵するように、嫁様の体の底でもさまざまなゴミが腐って燃えているのだろうか。

 すては教えられた通りゴザを広げ、教えられた通り桑の葉を並べた。暑いのと臭いのとで、汗がだらだら流れてくる。腹のくびれ目のややこのあたりで止まって、ややこの上で汗の粒がたまっている。

 虫なんぞつかむのは嫌なことだが、嫁様にやれと言われたので仕方がない。庭いっぱいに桑の葉を広げてしまうと、かがむ場所もなくなる。蚕部屋の中も広げた桑の葉でいっぱいだ。桑を踏まないようにしながら、蚕部屋のゴザにかがんで病気のおコさんを拾った。繭になる直前、おコさんは一番病気にかかりやすい。色の変わったのや死んだのを早くみつけて捨てないことには、他のものにまで移るのだ。

 教えられたはじめは、気味悪くて仕方がなかった。嫌そうにしているとばれるので平気でさわってみせたけれど、人がいなくなると放り出したくなる

 そのとき戸があいて若勢の新治が入ってきた。金をほしがりそうな者を片端から思い浮かべていたときだったから、すては赤面して、あわてて下を向いた

「おとねさァ、まだ親の家へ行ってなかったべえ。今日あたり行ってこいってよ。その腹してひとりで山越えは大変だから、送っていけって旦那がおれに言いなさった」

 この男でいい、と、とっさに決めた。シゲの男だ、というのが気を軽くした。すぐに行くから支度しろと、新治は口の中でぽそぽそ言った。

「いいよ、上蔟(じょうぞく)前の忙しいときに行かなくたって。あんただって仕事があるんだろ」

 おコさんに目をこらしたきり、わざと顔も上げずに言ってみる。若勢はだれでも切実に銭をほしがっている。すてはもう一度、持っている全部の銭を思い浮かべた。

「行くべ」

「だって・・・・。忙しいのに抜けるのは悪いもの」

 相手をじらすように、すては熱心におコさんを拾った。あと数日でおコさんは終わるのだった。どうでもよさそうなふりをしながら、行くの行かないのと、ぐずぐずした問答を意識して引き延ばした。

 じれったがって、とうとう新治は中へ入ってきた。すては何となくおやっと思った。新治の足がいくらか震えている。すては顔を上げた。すての手元を覗き込んでいた新治が、視線から逃げるように顔をそらした。

「だめだぞ、おとねさァ、行くんじゃねえ」

 唐箕(とうみ)を抱えたまま、シゲが叫びながらバタバタ走ってきたのはそのときだった。あわてすぎて、置いてくるだけの気も回らなかったらしい。片足ははだしで、髪にも袖にも藁屑が引っかかっている。

 新治はあからさまに舌打ちした。さっきはほんの少し青ざめて見えた新治の顔は、血が上って赤くなっていた。

「行くんじゃねえ、おとねさァ。途中は深い谷がいくつもあるんだ」

「え?」

「なんだい、新治さァ、夕べはやめるって約束したでねえか。あんなに何べんも、きっとやめるって」

「やめたさ。里まで送っていくだけだ。旦那が顔見せに連れて行けって言いなさった」

「嘘だぞ。若さんの罪がわかんねえんだ。ややこが生まれて下手におかみに聞こえでもしたら、旦那だってどんなお咎めがあるか知れたもんでねえ。生まれる前に、ややこもおとねさァも、病気で死んだことにするんだって。新治さァ、夕べ言ったでねえか。旦那に信用されて、任されたって」

 すては最初何を言われたかわからず、それからすぐに声をあげそうになった。さすが親から受け継いだ身代を、ここまで伸ばしたお庄屋の旦那だった。何よりも身代がかわいいのだ。死んでしまった若さんを泣くよりも、これからのことを計算する。若さんが蛮社にかかわったと代官所から知らされたとき、もしかしたら即座に若さんを切り捨てていたのかもしれない。

「嘘だよ、シゲの言うことなぞ真に受けることはねえ。行くべ」

 いやな猫なで声でささやきながら、新治が寄ってくる。

 旦那に会いたい。切実に思った。会って、若さんのことを絶対に誰にも言わない約束で、逃がしてもらおう。二度とこの村へは近付かない。

 ややこがここで育つのが一番だが、若さんの子だと認められたのだから、それだっていい。知らない土地で子が生まれたら、自分はその子に、郷里であるこの村のことを話してやれる。

「旦那に会えないだろうか、会わせておくれ」

 すてはささやいた。新治は聞いていない。新治だって人の首を絞めるのは初めてらしい。それだけびくびくして、また必死でもある。

「おれがやめたってな、別の若勢がやらされるだけでよ。旦那はわざわざおれば選んでくれなさったんだぞ。旦那に信用されるのがどれほど大したことか、わかんねえのか」

 そうだ、この男は若勢なのだっけと、すては初めて気付いたように思った。

 毎年の正月、少し大きな町の辻には若勢市が立って、付近の村から貧しい二・三男が集まってくる。ケラを着て自分の荷物を持って、雪の中にずらりと並んでいるのを、大きな百姓家の旦那衆や旦那に雇われた親方衆が馬でも買うようにして買いに来る。腕の太さ、肩の強さ、足の裏の厚さ、牛馬を調べるようにていねいに調べ、米と銭で契約して一年年季で買う。すぐに買い手が見つかればまだよし、見つからなければ、買ってくれる者が現れるまで、正月の深い雪の中にいつまでも立っている。

 若勢たちの野心といったら、ささやかなものだ。若勢市に立たなくともいい身分になりたい、秋の取り入れがすんで一年の仕事が終わっても、次の年の雇われ先を心配せずにいられる身分になりたい。考える最大のことが、それだ。決まった旦那を持てるのは、よだれの出るような出世なのだ。その旦那に信用される機会を、みすみす逃す若勢はいないだろう。

「見逃しておくれ。お礼はするから」

 壁ぎわに背中を押しつけながら、すては手を合わせた。また一歩、するりと新治が前に出る。

 気が付くと、いつのまにか数人の若勢が戸口に立っていた。シゲが悲鳴をあげた。逃げ場をふさぐように戸口を背にして立った男たちが、無言でじりっとにじり寄った。

 ダメだ、もうごまかせない。すては瞬間的に悟った。

「違うんだよ。あたしはそういう女じゃない。おとねさァなんて、ほんとは知らないんだ。みんながそんなふうに呼ぶもので、出来心起こしちまって」

 すてはやけくそで叫んだ。男たちは薄く笑って首を振った。

「ほんとだよ。ほんとに違うんだ。悪かったよ、謝るからさ」

 動けないすてに向けて、新治を先頭に若勢たちがまた一歩近寄った。

 本当のことを言っているのになぜ、とすては新治の顔を見上げてぽかんと口を開けた。

 とうとう新治は首に巻いた手ぬぐいをはずした。後ろはもうなかった。

「だめだよ、新治さァ。その人、ほんとにおとねさァじゃない!」

 ぼんやり突っ立っていたシゲが、ふいに叫んだ。若勢たちはさすがに振り返った。

「そうだよ、おとねさァじゃないんだから。前から知ってたんだ」

「おとねさァじゃねえなら、じゃあ誰だ?」

「生まれてすぐに能代へ塩買いにやらされて、ようやく帰ってきた人さ」

「え?」

 そうだ知っていたのだ。シゲは突然思った。いつか、大事に紙に包んだ塩の固まりを見たときから、自分はこの女が誰なのかはっきり知っていた。自分のように、おとねさァも、妹か弟が能代へ塩買いにやらされたのだとばかり思っていた。だがそうではない、この女自身が行ってきたのだ。

 シゲの弟が生まれたのは、雪の降る寒い夜明けだった。母は生まれてきたばかりのややこを抱いて、最初で最後の乳を含ませながら、よくよく言って聞かせた。兄弟多くて食わせてやれねえ。おまえは能代さ塩買いに行って来るだぞ。

 ややこは生まれたてのミミズより細い声で泣いた。(こも)に包んで川へ流しに行く母のあとを、シゲはこっそりついていった。雪をかぶった葦の群れを分けて、母は体を川へ乗り出した。岸には薄く氷が張って、その上にも雪が積もっている。

「能代へ行くだぞ、塩買ってくるだぞ」

 菰を沖へ押し出しながら、母はお念仏のように何度もつぶやいた。能代はそれほど遠く、塩の匂う海は別世界だった。見たのを知られるのが怖くて、シゲは家まで走って帰った。そんなふうにして塩買いにやられるややこは、シゲの弟ばかりではなかった。

 シゲの弟は帰って来なかったが、この女は長い年月をかけて帰ってきた。

「だめだぞ、新治さァ。絶対にだめだ。その人に手を出したら、一生おまえを恨むから」

若勢たちは一瞬ひるんだ。生まれてすぐに塩買いにやられるややこのことを、若勢たちだって知っていた。すてを取り囲んで、男たちはしばらく無言だった。

「かえって好都合だわ。いなくなっても泣く者もねえ。孫でねえなら、旦那だって気が軽くなりなさる」

 長い間のあと、とうとうひとりが振り切るようにつぶやいた。

「おとねさァだから殺すのだべ。若さんのややこ孕んでるから、殺すのだべ」

 それでは理屈に合わなかった。シゲは必死に叫んだ。

「おかみに言い訳するために殺すのさ」

 太い縄の、なかばあたりを両手でしごいて、別なひとりがにじり寄った。すてはようやく気付いた。旦那は女なら誰でもよかったのだ。おかみに忠誠を示して見せるために、誰でもいいから女とややこが必要だったのだ。もしかしたら旦那は、はじめからすての正体を知っていたのかもしれない。

 こういうことに使うために、旦那はわざと騙されたふりをしていたのかもしれなかった。

 今しがた病気のおコさんを拾っていたゴザを、すては思い切り払った。若勢たちの足もとに、おコさんがばらばらと散った。若勢たちは顔色を変えた。すては死に物狂いで蚕棚に取り付き、雨のような音をたててざあざあと桑の葉を食っているおコさんを、ザルごと次々に若勢たちに投げつけた。

 数千のおコさんが固い床に叩きつけられ、その中のいくつかが青緑色の汁を流してつぶれた。若勢たちはあわてて床にはいつくばり、大急ぎでおコさんを集めた。手当たり次第おコさんを投げながらすては戸口に突進し、新治の脇の下あたりを狙って外へ飛び出した。

 濡れた桑の葉をいっぱいに広げた庭は、思うようには動きが取れない。すては桑の葉を蹴散らして逃げたが、若勢たちには桑もおコさんも踏めなかった。鹿でもイノシシでも平気で殺す若勢だが、おコさんは踏めない。

 卵から孵して大事に大事に育ててきたおコさんだった。ようやくここまで大きくなったおコさんを平気で踏みつぶせる者がいるなどと、若勢には信じられないのだった。

 すては夢中で逃げた。

母屋の台所は広い土間に嫁様がひとりきりだった。嫁様は竃で火を焚いている。走ってくる男たちが後ろに見えた。すては嫁様にしがみついた。

「助けておくれ。殺されるんだ」

 男たちはすぐそこまで迫っていた。いつもののっぺりした顔で、嫁様はふらりと立ち上がった。

「押さえてくだされ。旦那が、その女に用がある」

 若勢たちが叫んだ。嫁様は立ち上がったきり、すてを助けるようなことも、邪魔するようなことも、一切しなかった。ぼんやり立っているのは、何が起きたのかわからない、というふうにも取れるし、竃から離れたところを見ると、この火を使えとすすめているふうにも取れる。

 すては嫁様を押しのけて燃えている薪を取り上げ、土間の隅に積んだ藁の上へ力いっぱい放り投げた。雨でとりあえず取り込んだ麦の束が、納屋だけで納まりきれず、台所の土間にも高く積まれていた。

「何するだ」

 真っ先に駆け込んだ若勢が、うろたえて叫んだ。薪は藁の上で少しくすぶり、すぐにぼっと燃えた。一度燃え出すと、早かった。

「このアマァ」

 もう、すてどころではなかった。若勢たちは着ていたものを脱いで真っ青になって消しにかかった。すては竃の中からさらに薪を引き出して投げた。何日もかかってようやく乾いた麦の束が、蛇の舌のようにめらめら燃え上がった。

「逃げちまいな」

 飛び出しながら、すては大声でシゲに叫んだ。

「逃げちまいな。逃げて、遠い町でふたりして所帯持ちな」

 飛びたい、とシゲは思った。繭のような山里に一生閉じこめられて、出られない。ほんの時たま能代へ行く例外は、生まれたばかりで塩買いにやらされるややこぐらいなものだ。

「行くべ」

 シゲはぐいと男の手を取った。

「ばか」

 青ざめた顔で新治ははねのけ、水を汲むために井戸端へ飛びだした。

「行くべ」

 後ろから追いかけてシゲは叫ぶ。人気ないように思えた庭にも少しは人がいて、人々が口から泡を吹いて走ってきた。すては煙に巻かれそうになりながら道具部屋へ飛び込み、全財産の入った袋をつかんだ。故郷なんぞ、そうやすやすと手に入れられるはずがなかった。あたしとしたことが、つい夢を見た。すては自嘲のように嗤った。

 谷川の岸の少しばかりの平地を駆け抜け、人のいない草むらや雑木林を、ころびそうになりながら夢中で駈け抜けた。すての自嘲とも人のざわめきともかかわりなく、腹の子が繭の中のサナギのようにもっそり動いた。

 

 裏山の梢の間から、シゲは燃え上がる屋敷を見ていた。狭い山里いっぱいに半鐘が鳴っている。雲の低い、灰色の空の下に、広大な屋敷の藁屋根がごうごう燃えていた。

 燃える火が映って雲まで赤い。山と山の隙間に開けた小さな盆地に、常にあたりを圧してそびえていたお庄屋の屋敷が、火を吹いて燃えている。納屋も道具部屋も蔵も、ひとつの大きな炎の固まりになって区別が付かない。巨大な繭がおびただしく群れて、火のように輝く長い糸を吹きながら、屋根の上で押し合いへし合いしているようだった。無数の繭が吐く火の糸が、虚空でもつれ合い、絡まりあい、さらに大きな固まりになると、重さに耐えかねて落下する。固まりが落ちたところが、まばゆい光を放って燃え崩れる。

「・・・・もう、戻れねえ」

 かたわらで、ぽつりと新治がつぶやいた。シゲは聞いていなかった。

「・・・・終わりだぞ。いまさら戻りてえったって、許しちゃもらえねえ」

 シゲは新治が泣いていることにようやく気が付いた。だがそれがどうしたというのだろう。戻れないなら、戻らなければいい。

「おコさんだってな、人に飼われればこそ生きられるだぞ。若勢だって同じでよ。飼ってくれる旦那がいるから、生きていかれるんだわ・・・・」

 自分で自分の頭を抱いて、新治が絶句した。シゲは聞こえなかった。オシラの姫ンコは戻るべきではなかったのだ。馬の皮に包まれたまま、どこまでもどこまでも飛んでゆくべきだったのだ。

 目の下で屋敷が燃えていた。燃える勢いで風が起こり、母屋のあたりを軸にして竜巻になって回っている。火の粉は風に乗って四方へ散り、屋敷を囲む木や畑にも飛び移った。

 一番大きく輝いていたあたりが、火の固まりになって崩れ落ちた。おびだしい蚕蛾が火の中から生まれ、火の色に輝く羽を広げて、赤く染まった大空を飛翔している。

 数千数万のおコさんたちがいっせいに繭を破って、オロシャまでも亜米利加までも輝きながら飛んでゆくようだった。

                         ─了─

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/06/20

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佐佐木 邦子

ササキ クニコ
ささき くにこ 小説家 1949年 宮城県に生まれる。「卵」で中央公論新人賞。

掲載作は、1999(平成11)年1月刊の短編小説集『オシラ祭文』(北燈社)収録。

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