怒れる高村軍曹
一
消灯
一個の軍人として見るにはまだ西も東も知らない新兵である彼等は、自分の仕向けやうに依つては必ず、昔の武士に見るやうに恩義の前には生命をも捨てて呉れるであらう。その彼等を教育する大任を――僅か一内務班に於ける僅か
彼は自分のその要求や期待を充足させることが、自分を満足させると同時に至尊に対して最も忠勤を励む
彼は聯隊では一番古参の軍曹であつた。もう間もなく満期となつて、現役を退かなければならなかつた。が彼は予備に編入される前には必ず曹長に進級されるであらうと云ふことを、殆ど確定的に信じてゐた。また古参順序から行けば当然、今年度の曹長進級には彼が推されなければならぬのであつた。それは
S大尉さへ自分に好意を持つてて呉れるなら、いや好意は持たずとも無関心でゐて呉れたなら、自分はどんなに有難いだらう。だがあのS大尉はいつも自分を
彼はS大尉のその軍人らしくない、百姓根性の染み込んだ卑劣な態度をどんなに憎んだことだらう。彼は兵卒から現在の古参下士官になる八年と云ふ長い間、自分の家庭のやうに暮して来た第八中隊を離れて此の中隊へ来た時、自分の部下たるべき第×内務班の兵卒の
高村軍曹は実にかうしたいろいろの理由からして、兵卒たちを自分の恩義に
これから第一期の検閲までにはざつと四ケ月ある。それまでは……と、彼は自分に与へられた四ケ月と云ふその「時」を楽しむやうに、いろいろ教育に関して計画を
その日の演習が終つて入浴や夕食をすますと、他の各班の班長たちはあとの事を上等兵たちに任せて外出して了ふのであつた。が、その上等兵は上等兵で
「敬礼!」と云ふ叫び声が一かたまりの部下の中から起つて、彼等は一斉に起立して高村軍曹に対し敬礼した。彼は笑顔をもつてそれに答へた。
「古兵はよろしい、初年兵だけこつちへ集まれ、学課をする!」
高村軍曹は矢張り微笑を浮べながら云つた。初年兵たちは三脚並んでる大机を挟んで、両側に
「宮崎!」
高村軍曹はさう叫んで一人の初年兵を立たせた。宮崎はのつそりと立ち上つて、
「おい、返事はどうした!」高村軍曹はぽかんと突つ立つてる宮崎を見ながら子供を教へるやうに穏やかに云つた。「呼ばれて立つ時には必ず『はいツ』と返事をしなければいけない」
「へーツ」
宮崎はからだをくねくねと曲げて揺さぶりながら長く語尾をひつぱつて云つた。腰掛の両側からくすくすと笑ひ声が起つた。
「笑つてはいけない。軍隊は笑ふところではない!」と、高村軍曹は一寸顔をしかめて見せて云つた。
「宮崎! 昨日教へた勅諭の五ケ条を云つて見い!」
「へーツ」と、宮崎は再び云つて顎をだんだん下へ垂れて、時々蝙蝠のやうな眼で高村軍曹の顔を見る。そして「忘れました」と云つた。
「忘れたら思ひ出すまでそこに立つて居れ!」と云つて、高村軍曹は眼をきよろきよろさせて其処にかしこまつて腰掛けてゐる初年兵たちを物色する。「では田中!」
「はい!」と、田中は威勢よく立ち上つて「一つ、軍人は忠節をつくすを本分とすべし」「一つ、軍人は……」と云つてすらすらと片づけて了つた。
高村軍曹の顔には嬉しげな微笑が浮かんで、「さア、宮崎云つて見い!」と、また宮崎の顔を見つめた。
「一つ、軍人は……」と云ひかけて、彼はまたつかへて了ふ。
高村軍曹の顔は一寸曇つたが、今度は自分で一句一句切りながら自分の云ふあとをつかせて、宮崎に読ませた。そして云つた。「暇があつたらよく暗記して置かなくてはいけないぞ!」
かうして一時間ばかりの学課がすんで、高村軍曹が下士室へ引き上げると間もなく点呼の
高村軍曹はまた夜中にふと眼が覚めたりすると、必ずシャツのままで下士室を出て自分の班に行つて見た。彼には一つ気になつてたまらない事があつたのである。それは毎夜のやうに自分が班内を見て廻るのに、皆んなぐうぐう
困つた奴を背負ひこんだもんだなア――高村軍曹の頭はいつもこの事の為めに悩まされてゐた。
日曜が来た。各班では初年兵を一纏めにして、一人の上等兵がそれぞれ引率して外出するのであつた。が、高村軍曹は上等兵には
「皆んなどういふ所へ行つて遊びたい?」
先頭に立つてゐた高村軍曹は歩きながら後ろを振り返つて云つた。が、誰れも、どこそこへ行きたい――と自分の希望を述べる者はなかつた。
「では観音山へ登つて見よう」暫く皆んなの返事を待つて得られなかつたので、彼はかう云つてまた先頭に立つた。
観音山はK川を隔てて高台にある聯隊と相対してゐる山であった。山の頂上には京都の
K川にかかつてるH橋を渡ると、麦畑と水田が広々と拡がつてゐた。高村軍曹はそこの道を歩きながら云つた。
「かういふ広いところを、
高村軍曹はかう教へてから「馳け足ツ」と号令をかけた。足を揃へることも、ろくに知らない十五人の初年兵は、バタバタ高村軍曹のあとについて走り出した。学課の時、寝てゐる時、いつも高村軍曹の注意を惹く宮崎は、この駆け足の時にも彼の眼を惹いた。宮崎はまるで
「宮崎! お前どうかしたか?」高村軍曹は走りながら訊いた。「足でも痛めたんぢやないか」
宮崎は最初は顔をしかめて
隊はやがて観音山の麓について、百姓家のボツボツ並んでる村に入つた。
「早足ーツ、オーイ」と言ふ号令が高村軍曹の口から出た。皆んな息をハアハアはずませながら、普通の歩き方に
「かういふ狭い処を
高村軍曹はかう云つてまた直ぐ宮崎に呼びかけた。「宮崎ツ、かういふ狭い処を何んと云ふ?」
「アイロと云つて剣を着けて通ります」宮崎は得意然として蝙蝠のやうな眼を光らせながら、今度は言下に答へた。
「ふむ、今度は
高村軍曹は驚異の眼をもつて彼を見た。
「宮崎! お前は隊へ入るまで何をしてゐたんだ、商売は」彼は静にかう訊いた。
「班長殿、
「木挽は儲かるか?」彼はまた訊いた。
「別に儲かりもしねえだが呑気でええがな、誰れに気兼ねするでもねえ、猿や兎を相手に山ん中でべえ暮してるだからねえ」
「毎日毎日山ん中に
「そりや班長殿、いくら山ん中つちうたつていろいろ遊びがあるだからね、
「宮崎! お前は丁半なんかやるのか」高村軍曹は愕いたやうに云つた。「だが木挽と兵隊とどつちが好い?」
宮崎はそれは何とも答へなかつた。黙つて何か思ひ出してはにやにやと笑つてゐた。
二
或る朝、日朝
「Y上等兵! 宮崎は便所へでも行つてるんぢやないか、一寸行つて来て見い!」
週番士官は鋭い
「おい、SもTも直ぐY上等兵と一緒にそこらを探して見い!」高村軍曹は二年兵にかう云ひつけて直ぐY上等兵の後を追はせた。異常なく点呼のすんだ他の班では直ぐに班内の掃除にかかつたり、炊事場へ食事を取りに行つたり、手分けでもつていつもの通りの行事に取りかかつた。が、高村軍曹の班だけはキチント並んだまま調べに出て行つた三人の報告を待つてゐた。この瞬間、高村軍曹の頭にはこれまでの軍隊生活に於ても度々あつた脱営兵や、汽車に
宮崎はたしかに脱営したのだ。あいつは自殺するやうな男ぢやない。また自殺するやうな理由もありはしなかつた。ただ、山ん中の自由の生活が恋しくなつたのだ――かう思つてる時高村軍曹はふと、此の間外出した日曜の翌る朝早く、宮崎がK川に臨んだ崖の方からたつたひとり、しよんぼりと何か考へ考へ中隊に帰つて来るのを見たことがあつた。その時自分が、「どこへ行つた?」と訊いたに対して「今日は暖炉の当番で焚きつけの杉の葉を拾ひに行きました」と、返事したことを思ひ出した。今になつて疑ひの眼をもつて見ると、それすら逃げる準備の為め、地理の視察に行つたのだとしか思はれなかつた。そこは逃げるには
Y上等兵とSとTとの三人は間もなく帰つて来て夫々報告した。
「便所にはどこにも居りませんし、その他心当りを探しましたがどこにも見えません」
高村軍曹は何とも云へない悲しみと、絶望と、
朝飯がすんだ時には、宮崎の逃亡は中隊中の大問題となつて、各班から捜索隊が組織されて、夫々の方面へ向つて出発した。或る組は営内のありとあらゆる井戸を捜索し、曾つて
あいつのお陰で到頭「曹長」も棒に振つて了つた。――彼は情けなささうに
まとまりのない刹那刹那の印象が頭の中に跳び出しては滅茶滅茶に掻き廻す。何が何んだか少しも分らなくなつて了つた。曹長に進級なんて昔の夢だ。まごまごすりや
夢のやうにぼんやりしてゐる内に半日はたつて了つた。停車場や、近くの街道筋まで行つた捜索隊は何の得物も持たずに帰つて来た。只、この上は彼の郷里へ出張した組の報告を待つ許りであつた。が、それも夜に入つておそく、高村軍曹の許へ
三
高村軍曹は毎朝初年兵の食事当番に依つて盛られて来る朝飯を、他の班長たちと一緒にその下士室で喰べかけてゐた。彼が一箸はさんで口に入れると、その後から水にふやけた白茶けた大きな鼠の糞が出て来た。彼はハッとして慌てて他の下士たちの顔を見廻し、それから急いでその鼠の糞を食器の底の方へ押しかくして、そのまま箸を置いて了つた。彼は初年兵たちがわざと鼠の糞の処を選んで持つて来たとは思はなかつたが、しかし自分に対して注意を払はない初年兵たちに対して、平気ではゐられなかつた。が、それよりも今は鼠の糞を他の同僚たちに見られるのをより以上怖れた。
高村軍曹の奴、甘いもんだから新兵にまでなめられてやがる――と思はれるのが辛かつた。しかし他の下士たちは夢中で自分達の飯をつついてゐたので、誰も高村軍曹の飯の中に鼠の糞のあるのを見たものはなかつた。彼は
「軍曹殿、どうかしたんですか?」
つい最近伍長になつた
「なに、少し頭痛がするもんだから……」
彼は努めて憤りをかくして余り気乗りのしない声で云つた。間もなく当番が食器を下げに来た。彼は
「演習整列!」
廊下で週番下士が呶鳴つた。同時に中隊内のあちこちから騒々しく、銃だの剣だのがガチャガチャ鳴り出した。
彼は物憂さうに立ち上つて自分も仕度をはじめた。で、直ぐに営庭に飛び出して中隊からぞろぞろ出て来る新兵たちの動作を
誰か殴つてもいいやうな
「何をぐづぐづしてゐる、早く出て来い!」
彼は中隊の出入口に立つて、ボツリボツリ出て来る者に向つて叫んだ。
彼はすつかり出揃つて、いつもの位置に隊形を作つてる初年兵の顔を見ながら云つた。
「いま一番あとから遅れて出て来た十人はここへ出ろ! 早駆けをさせてやる。からだが軽くなつてこれから何かするのに非常に敏捷になつて好い」
高村軍曹に睨まれた十人はおづおづと一歩前へ踏み出した。そしてその前に一列にならんだ。
「早駆け用意――ツ」と云ひながら高村軍曹は営庭の一番隅にある一本の松の木を示して「よーしツ」と振り上げてゐた右手を
十人は競馬の馬のやうに走り出した。「遅れたものはもう一遍やり直させるぞ!」と、高村軍曹の声が更に彼等のあとを追つかけた。
見る見る彼等の姿は小さくなつて目標の松の木に近づいた。彼等がそこでぐるツと方向を転廻してこつちに向つた時には、先頭の者と後尾の者とでは可なり距離が出来てゐた。彼等はどんどん走る。彼等の姿はまた見るうちに大きくなつてこつちへ近づいて来る。間もなく彼等は高村軍曹の前でぴたりと止まつた。遅れた者も先頭の者もなく、十人の者が殆どゴチャゴチャとかたまつて来たのであつた。
高村軍曹は不快な表情をして顔を
その時新兵教育主任の大原中尉が出て来た。下士官たちは皆んな敬礼をしに中尉の
高村軍曹は端から順々に、いろんな各個教練をさせて行つた。次から次と列兵から十五歩位はなれた前方に立つて、「になへ――
彼はさうやつて一巡するとまた元の位置へ戻つて来て「立ち撃ちの構へ――銃ツ」と、右翼の一人に号令をかけた。その時突然
怒氣を
「馬鹿野郎!」高村軍曹はいきなり呶鳴りつけた。「貴様は俺を……高村軍曹をなめてやがるんだらう、新兵の癖にしやがつて一体生意気だ!」
彼は更に靴でもつて倒れたままの兵の腰の辺りを蹴りつけて、元の場所へ戻つて行つた。此の時彼は急にあたりが明るくなつたやうに、いつもの快闊な自分に
へえ、あいつを殴つたせゐだ――彼はさう思つた。起き上つて服の埃を払つてる兵を見た時には、更にそれに違ひないと思つた。気がついて見るとそれは一年志願兵のTであつた。彼はこの時何んといふ理由もなく、T志願兵に対してふだん快く思つてない自分を思ひ出した。しかし殴る瞬間には、別にT志願兵だからと云つて意識してやつたわけではなかつた。が、それがT志願兵であつたことを知ると一層胸の中が晴々して来た。矢つ張りやらうと思つたことは思ひ切つてやらなけれは駄目だ――と、かう彼の胸は何かしら異常な大発見でもしたやうに叫んだ。
彼は自分が今非常に空腹であることを感じて来た。と、同時に鼠の糞の事も思ひ出した。宮崎の逃亡の事まで頭に浮んで来た。あの時から溜りはじめた胸の悪い瓦斯が、T志願兵の為めに爆発して四散したのだと思ふと、今度はT志願兵に対して何んとも云へない感謝の念が湧いて来るのだつた。
彼はチラッとT志願兵にその眼を向けた。何か昂奮したらしい青醒めたT志願兵の顔が、ふと、得体の知れない或る不安の影を彼の心に投げた。最初ポチッとした只の点のやうであつたその不安は、忽ちの内にその大きな黒い翼を拡げて、折角晴々とした彼の胸の中をまた一杯にふさいで了つた。
午前の演習は終つた。高村軍曹はまるで砂を噛むやうにうまいのかまづいのかも知らずに昼飯を喰べて了つた。
午後の演習が始まつた。営庭に午前と同じやうな隊形で各班は陣取つた。番号をつけさすと一人足りなかつた。彼は頸をひねりながらもう一度番号のつけ直しを命じた。が、それでもやはり一人足りなかつた。折角癒着しかかつた傷口をむりに引き裂くやうな苦痛が、彼の不安に閉ざされた胸をチクンと刺し貫いた。彼の胸に巣喰つてる宮崎の蝙蝠のやうな影像が、その傷口を
教練半ばに中隊当番が駆け足で彼の処へ来て云つた。
「高村軍曹殿! 週番士官殿がお呼びでございます」
週番士官の室には青醒めたT志願兵が耳を繃帯して立つてゐた。彼が入つて行くと、志願兵の眼が冷たい皮肉な笑ひを湛へて彼を迎へた。それはすつかり銷沈し切つた彼の心をくわつとさせる程、
彼は
「高村軍曹!」
週番士官は静かに、そして|厳「おごそ」かに云つた。が、彼の耳には入らなかつた。彼の全神経はT志願兵に対する極度の憎悪の為めにぶるぶる顫へてゐた。自分の前半生を捧げて築きかけた幻影を宮崎に依つて滅茶苦茶に打ちこはされた憤りが、今またT志願兵に依つて倍加された怒りと悲しみの為めであらう。彼はもう自分で自分が分らなくなつて了つた。彼は頭がくらくらつとしたかと思ふと、「この野郎がツ!」と叫びながら猛然と、T志願兵に|跳「をど」りかかつた。
(大正十年八月「早稻田文學」)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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