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怒れる高村軍曹

     

 

 消灯喇叭(らつぱ)が鳴つて、電灯が消えて了つてからも暫くは、高村軍曹は眼先きをチラチラする新入兵たちの顔や姿に悩まされてゐた。悩まされてゐた――と云ふのは、この場合適当でないかもしれない。いざ、と云ふ時には自分の身代りにもなつて呉れる者、骨を拾つても呉れる者、その愛すべきものを自分は今、これから二ケ年と云ふもの手塩にかけて教育しようとするのであるから。

 一個の軍人として見るにはまだ西も東も知らない新兵である彼等は、自分の仕向けやうに依つては必ず、昔の武士に見るやうに恩義の前には生命をも捨てて呉れるであらう。その彼等を教育する大任を――僅か一内務班に於ける僅か(ばか)りの兵員ではあるが――自分は命じられたのだ。かう思ふ事に依つて高村軍曹は自分が彼等に接する態度に就ては始終頭を悩まされてゐた。で、眠つてる間にもよく彼等新兵を夢に見ることがあつた。彼はどんな場合にも、自分の部下が最も勇敢であり、最も従順であり、更に最も軍人としての技能――射撃だとか、銃剣術だとか、学術に長じることを要求し希望してゐた。

 彼は自分のその要求や期待を充足させることが、自分を満足させると同時に至尊に対して最も忠勤を励む所以(ゆゑん)だと思つてゐた。それに又競争心もあつた。中隊内の他のどの班の新兵にも負けない模範的の兵士に仕立てようと云ふ希望をもつてゐた。が、その希望はやがて大隊一の模範兵を作らうと云ふ希望になり、それがやがて聯隊一番の模範兵にしようといふ希望に変つて行つた。この時彼の心にはまた昔から不文律となつて軍隊内に伝はつてゐるところの、いや現在に於て自分たちを支配してゐるところの聯隊内のしきたり——部下に対する残虐なる制裁に対して、不思議な感情の生れて来るのを感じた。また自分よりかずつと若い伍長や軍曹、上等兵なぞがまるで牛か馬を殴るやうに面白半分に兵卒たち、殊に新兵を殴るのを見ると、彼は妙に苛立たしい憤慨をさへ感じた。殊に自分までが一緒になつて昨日までそれをやつてたのかと思ふと、不思議なやうな気さへした。新兵の時に(いぢ)められたから古兵(こへい)になつてからその復讐を新兵に対してする――そんな不合理なことが第一この世の中にあるだらうか。自分たちを苛めてゐた古兵とは何んの関係もない新入兵を苛める――その不合理を何十年といふ長い間、軍隊は繰り返してゐるのだ。そして百人が百人、千人が千人といふもの、少しもそれを怪しまずにゐたのだ。俺はなぜ、そんな分り切つた事を今まで気がつかずにゐたらう? ――さう思ふと彼は只不思議でならなかつた。

 彼は聯隊では一番古参の軍曹であつた。もう間もなく満期となつて、現役を退かなければならなかつた。が彼は予備に編入される前には必ず曹長に進級されるであらうと云ふことを、殆ど確定的に信じてゐた。また古参順序から行けば当然、今年度の曹長進級には彼が推されなければならぬのであつた。それは(あなが)ち彼れ自身がさう思つてる(ばか)りでなく、他の同僚たちもさう信じ、よく口に出しても云つてる事であつた。だが、彼に取つて最も気懸(きがか)りなことが一つあつた。それは自分の隣村から出身してゐる聯隊副官のS大尉が、その地方的の反感から自分を単に毛嫌ひしてゐると云ふこと、(らち)を越えて、憎悪してゐると云ふことを知つてゐたから。

 S大尉さへ自分に好意を持つてて呉れるなら、いや好意は持たずとも無関心でゐて呉れたなら、自分はどんなに有難いだらう。だがあのS大尉はいつも自分を(へん)しよう貶しようとしてゐる人だ。現に、自分が新入兵の入営する間際になつて、第八中隊から此の第十二中隊に編入を命じられたと云ふのも、つまりはあのS大尉の差しがねに違ひない。それはもう明白な事実だ。――

 彼はS大尉のその軍人らしくない、百姓根性の染み込んだ卑劣な態度をどんなに憎んだことだらう。彼は兵卒から現在の古参下士官になる八年と云ふ長い間、自分の家庭のやうに暮して来た第八中隊を離れて此の中隊へ来た時、自分の部下たるべき第×内務班の兵卒の(すべ)て、それから同僚の下士たちの凡てが、如何に冷たい眼をして、まるで異邦人の闖入(ちんにふ)をでも受けたやうな眼をして迎へた印象を、いつまでも忘れることが出来ない。今居る班の兵卒たちは皆んな、自分の教育したのではない、苦楽を(とも)にしたのではない、ままつこだ――とも思つた。しかし、こん度入営して来る新兵こそは、自分に取つて実子である。自分は温かい心をもつて、理解ある広い同情をもつて、彼等を迎へ、彼等を教育してやらう。――彼は実にかう思つて、今の此の十五人の新兵を自分の班に迎へたのであつた。だから自分に取つてままつこである二年兵たちが新兵を苛めるのを見ると、彼は頭がカッとした。彼は理由も(ただ)さずに二年兵たちを叱つた。

 高村軍曹は実にかうしたいろいろの理由からして、兵卒たちを自分の恩義に()れさせ、信服させようと努めたのであつた。また自分の受持である新兵教育を完全に果して、聯隊随一の模範兵を作ると云ふことは、取りも直さず自分の成績を上げることであり、それは又曹長進級の難関を通過する唯一の通行券となるものであつた。如何に()け者のS大尉が聯隊本部に頑張つてゐたからとて、自分の成績が抜群であり、自分の教育する部下が優良兵であり、模範兵となつたならばどうにもなりはしないだらう。高村軍曹は眼をつぶると浮んで来る部下の顔に、愛撫の瞳を向けながら、そんなことを思つてゐた。

 これから第一期の検閲までにはざつと四ケ月ある。それまでは……と、彼は自分に与へられた四ケ月と云ふその「時」を楽しむやうに、いろいろ教育に関して計画を(めぐ)らした。

 その日の演習が終つて入浴や夕食をすますと、他の各班の班長たちはあとの事を上等兵たちに任せて外出して了ふのであつた。が、その上等兵は上等兵で()だ役目に二十分か三十分、()や厭や新兵を集めて読法とか陸軍々制についての学課をして、帰営後の班長に報告するに止まつてゐた。だから少し記憶の悪い兵や、ふだん憎まれてゐる兵は、さらでも自分の「時」を新兵たちの為めに犠牲にされてると考へてゐる上等兵の疳癪(かんしやく)を募らしては、可なり痛々しく苛めつけられてゐた。時には「パシーッ」「パシーッ」と横頬を喰らはされるらしい痛々しい不気味な音が、下士室まで響いて来たりした。高村軍曹は何んとも云へない複雑な表情を浮かべてそれを聞き、やがて自分の部下のゐる第×内務班にスリッパを引き摺りながら入つてゆく。

「敬礼!」と云ふ叫び声が一かたまりの部下の中から起つて、彼等は一斉に起立して高村軍曹に対し敬礼した。彼は笑顔をもつてそれに答へた。

「古兵はよろしい、初年兵だけこつちへ集まれ、学課をする!」

 高村軍曹は矢張り微笑を浮べながら云つた。初年兵たちは三脚並んでる大机を挟んで、両側に(むか)ひ合つて腰をおろした。

「宮崎!」

 高村軍曹はさう叫んで一人の初年兵を立たせた。宮崎はのつそりと立ち上つて、(あなぐら)の奥の方からでも明るい外光を見るやうに、(まぶ)しさうな眼をして高村軍曹の顔を(みつ)めた。宮崎は高村軍曹の一番手古摺(てこず)つてる兵であつた。彼の眼はいつも蝙蝠(かうもり)を明るいところへ引き出したやうにおどおどしてゐた。

「おい、返事はどうした!」高村軍曹はぽかんと突つ立つてる宮崎を見ながら子供を教へるやうに穏やかに云つた。「呼ばれて立つ時には必ず『はいツ』と返事をしなければいけない」

「へーツ」

 宮崎はからだをくねくねと曲げて揺さぶりながら長く語尾をひつぱつて云つた。腰掛の両側からくすくすと笑ひ声が起つた。

「笑つてはいけない。軍隊は笑ふところではない!」と、高村軍曹は一寸顔をしかめて見せて云つた。

「宮崎! 昨日教へた勅諭の五ケ条を云つて見い!」

「へーツ」と、宮崎は再び云つて顎をだんだん下へ垂れて、時々蝙蝠のやうな眼で高村軍曹の顔を見る。そして「忘れました」と云つた。

「忘れたら思ひ出すまでそこに立つて居れ!」と云つて、高村軍曹は眼をきよろきよろさせて其処にかしこまつて腰掛けてゐる初年兵たちを物色する。「では田中!」

「はい!」と、田中は威勢よく立ち上つて「一つ、軍人は忠節をつくすを本分とすべし」「一つ、軍人は……」と云つてすらすらと片づけて了つた。

 高村軍曹の顔には嬉しげな微笑が浮かんで、「さア、宮崎云つて見い!」と、また宮崎の顔を見つめた。

「一つ、軍人は……」と云ひかけて、彼はまたつかへて了ふ。

 高村軍曹の顔は一寸曇つたが、今度は自分で一句一句切りながら自分の云ふあとをつかせて、宮崎に読ませた。そして云つた。「暇があつたらよく暗記して置かなくてはいけないぞ!」

 かうして一時間ばかりの学課がすんで、高村軍曹が下士室へ引き上げると間もなく点呼の喇叭(ラツパ)が鳴つた。外出してゐた各班の下士たちもぞろぞろ時間を(たが)へずに帰つて来て、班毎にならぶ。点呼がすんでやがて消灯喇叭が鳴り、皆んな寝台について了ふと高村軍曹は必ず、自分が寝る前に一度自分の班に来て見て皆んなの寝顔を見てから、自分の寝床へ入るのであつた。が、彼は班内を巡視する時に、若し寝てゐる筈の初年兵が寝室に居ずに(から)になつてゐる時には、いつまでもそこに待つてゐた。兵卒たちは大概点呼がすんでから便所に行つて寝るので彼等は便所から戻るのが遅くなつた場合にはいつも、高村軍曹の心配げな顔に見迎へられるのであつた。

 高村軍曹はまた夜中にふと眼が覚めたりすると、必ずシャツのままで下士室を出て自分の班に行つて見た。彼には一つ気になつてたまらない事があつたのである。それは毎夜のやうに自分が班内を見て廻るのに、皆んなぐうぐう(いびき)をかいて寝てゐる中に宮崎だけがいつも溜息をしながらゴソゴソ寝返りを打つてゐるのを見かけるからであつた。彼の今までの長い軍隊生活の経験に依つて、逃亡するやうな兵は兵営生活に慣れない一期の検閲前に一番多く、そして最も注意すべき事は宮崎のやうな無智な人間が、殊に何か屈托があるらしい溜息をついたり眠れなかつたりする時であつた。

 困つた奴を背負ひこんだもんだなア――高村軍曹の頭はいつもこの事の為めに悩まされてゐた。

 日曜が来た。各班では初年兵を一纏めにして、一人の上等兵がそれぞれ引率して外出するのであつた。が、高村軍曹は上等兵には(かま)はないで自分が引率して外出した。彼は時間を惜しむ余り、かうした休暇をも何かしら他の班の兵たちの及ばない智識を得させたいと思つたのであつた。

「皆んなどういふ所へ行つて遊びたい?」

 先頭に立つてゐた高村軍曹は歩きながら後ろを振り返つて云つた。が、誰れも、どこそこへ行きたい――と自分の希望を述べる者はなかつた。

「では観音山へ登つて見よう」暫く皆んなの返事を待つて得られなかつたので、彼はかう云つてまた先頭に立つた。

 観音山はK川を隔てて高台にある聯隊と相対してゐる山であった。山の頂上には京都の清水(きよみづ)の観音堂になぞらへて建てられたといふ観音堂が、高い石の階段を挟んでにゆツと立つてゐた。

 K川にかかつてるH橋を渡ると、麦畑と水田が広々と拡がつてゐた。高村軍曹はそこの道を歩きながら云つた。

「かういふ広いところを、開豁地(かいくわつち)と云つて、演習や実戦の場合、軍隊が行進する時には最大急行軍をもつて通過して了はなければならない。さうしないと直ぐ敵から発見されて了ふ……いいか、かういふ広い場所を開豁地と云ふのだ」

 高村軍曹はかう教へてから「馳け足ツ」と号令をかけた。足を揃へることも、ろくに知らない十五人の初年兵は、バタバタ高村軍曹のあとについて走り出した。学課の時、寝てゐる時、いつも高村軍曹の注意を惹く宮崎は、この駆け足の時にも彼の眼を惹いた。宮崎はまるで(びつこ)を引いたやうに、右と左の肩をひどく揺さぶつて足を引き摺り、埃をポカポカと立てた。

「宮崎! お前どうかしたか?」高村軍曹は走りながら訊いた。「足でも痛めたんぢやないか」

 宮崎は最初は顔をしかめて(くび)を左右に振つて、どうもしたんぢやない――と云ふことを示してゐたが、やがて「班長殿! 靴がでつか過ぎてバタバタして駆けられません」と、云つた。

 隊はやがて観音山の麓について、百姓家のボツボツ並んでる村に入つた。

「早足ーツ、オーイ」と言ふ号令が高村軍曹の口から出た。皆んな息をハアハアはずませながら、普通の歩き方に(かへ)つた。道の両側が竹藪だの雑木林だので狭くなつてゐるところへ出た時、高村軍曹はまた後ろを振り返つて云つた。

「かういふ狭い処を隘路(あいろ)と云ふ。そしてかういふ処を斥候(せつこう)なんかになつて通る時は必ず、銃に剣を着けて、いつ敵の襲撃を受けてもそれに応じられるやうに用意して置く」

 高村軍曹はかう云つてまた直ぐ宮崎に呼びかけた。「宮崎ツ、かういふ狭い処を何んと云ふ?」

「アイロと云つて剣を着けて通ります」宮崎は得意然として蝙蝠のやうな眼を光らせながら、今度は言下に答へた。

「ふむ、今度は記憶(おぼ)えたな! 忘れないやうにしろ、いまに野外要務令でかういふ学課があるんだから」高村軍曹は微笑を含みながら云つた。そして観音堂の正面につけられた石階の道を取らないで、側道(そくだう)へ入つて行つた。そこは少しも人工の加はらない自然のままの山道であつた。(はうき)のやうに細かい枝の尖つた雑木林の間には松や杉の木が緑の葉をつけて立つてゐた。山へかかると同時に、陰鬱な(しな)びたやうな宮崎の顔がすつかり元気になつて、生々とした色が蘇つて来た。山道で皆んなの足が疲れて来ると反対に、宮崎の足はぐづぐづしてゐる仲間を追ひ越して先頭に立つて了つた。

 高村軍曹は驚異の眼をもつて彼を見た。

「宮崎! お前は隊へ入るまで何をしてゐたんだ、商売は」彼は静にかう訊いた。

「班長殿、木挽(こびき)をしてゐました。あつしらの仲間はもうはア山から山を歩いて一生涯山ん中で暮しますだよ」宮崎はいつか高村軍曹の穏やかな言葉にそそられて、軍隊語を放擲(はうてき)して自分の言葉で話し出した。が、彼も別に(とが)めもしないで微笑をもつて聞いてゐた。

「木挽は儲かるか?」彼はまた訊いた。

「別に儲かりもしねえだが呑気でええがな、誰れに気兼ねするでもねえ、猿や兎を相手に山ん中でべえ暮してるだからねえ」

「毎日毎日山ん中に(ばか)り居て飽きやしないのか」

「そりや班長殿、いくら山ん中つちうたつていろいろ遊びがあるだからね、丁半(ちやうはん)もあれば酒だつて皆んな内緒で(つく)るだからね」宮崎はかう云つて、今まで笑つたことのない顔をにやにや笑ひに(くづ)した。

「宮崎! お前は丁半なんかやるのか」高村軍曹は愕いたやうに云つた。「だが木挽と兵隊とどつちが好い?」

 宮崎はそれは何とも答へなかつた。黙つて何か思ひ出してはにやにやと笑つてゐた。

 

     

 

 或る朝、日朝点呼(てんこ)の時であつた。週番士官が人員点呼を取りに来た時、どこへ行つたのか、宮崎の姿が見えなかつた。高村軍曹の顔は或る不吉な予感の為めにハッと変つた。

「Y上等兵! 宮崎は便所へでも行つてるんぢやないか、一寸行つて来て見い!」

 週番士官は鋭い一瞥(いちべつ)を高村軍曹に投げつけて「直ぐに調べて報告をせい」と云つて、そのまま他の班ヘコツコツ行つて了つた。

「おい、SもTも直ぐY上等兵と一緒にそこらを探して見い!」高村軍曹は二年兵にかう云ひつけて直ぐY上等兵の後を追はせた。異常なく点呼のすんだ他の班では直ぐに班内の掃除にかかつたり、炊事場へ食事を取りに行つたり、手分けでもつていつもの通りの行事に取りかかつた。が、高村軍曹の班だけはキチント並んだまま調べに出て行つた三人の報告を待つてゐた。この瞬間、高村軍曹の頭にはこれまでの軍隊生活に於ても度々あつた脱営兵や、汽車に()かれて死んだ兵や、銃弾を盗んで自分で自分の喉を打ち抜いて死んだ兵や、さうしたさまざまの事件が洪水のやうに頭一面を蔽うて浮んで来た。が、脱営兵の殆ど凡てが、自訴して帰営した者を除いては一人も捉まつた者のない事実を思ひ浮べた。

 宮崎はたしかに脱営したのだ。あいつは自殺するやうな男ぢやない。また自殺するやうな理由もありはしなかつた。ただ、山ん中の自由の生活が恋しくなつたのだ――かう思つてる時高村軍曹はふと、此の間外出した日曜の翌る朝早く、宮崎がK川に臨んだ崖の方からたつたひとり、しよんぼりと何か考へ考へ中隊に帰つて来るのを見たことがあつた。その時自分が、「どこへ行つた?」と訊いたに対して「今日は暖炉の当番で焚きつけの杉の葉を拾ひに行きました」と、返事したことを思ひ出した。今になつて疑ひの眼をもつて見ると、それすら逃げる準備の為め、地理の視察に行つたのだとしか思はれなかつた。そこは逃げるには究竟(くつきやう)の場所だ。他の三方は濠があり、歩哨なぞも所々の門に立つて居るに反し、そこだけは高い崖で下がK川になつてると云ふだけで別に何の取り締りもなかつたから。川を徒渉する時、少し冷たい思ひをすれば誰れでも、又いくらでも逃げ出せる場所であつた。

 Y上等兵とSとTとの三人は間もなく帰つて来て夫々報告した。

「便所にはどこにも居りませんし、その他心当りを探しましたがどこにも見えません」

 高村軍曹は何とも云へない悲しみと、絶望と、憤怒(ふんぬ)とを突き()ぜた、今にも(なみだ)の落ちさうな顔をして聞いてゐた。

 朝飯がすんだ時には、宮崎の逃亡は中隊中の大問題となつて、各班から捜索隊が組織されて、夫々の方面へ向つて出発した。或る組は営内のありとあらゆる井戸を捜索し、曾つて縊死(いし)した事のある弾薬庫裏の雑木林に分け入つたりして探し廻つた。又或る組は停車場にかけつけたり、各街道筋に出向いたり、又彼の郷里に出張したりした。が、自分が中心になつて活動しなければならぬ筈の高村軍曹は、まるで喪心(さうしん)した人のやうにぼんやりして、週番士官や中隊長の云ふ事にさへ時々とんちんかんな返事をしてゐた。

 あいつのお陰で到頭「曹長」も棒に振つて了つた。――彼は情けなささうに独語(ひとりご)ちた。あれ程骨を折つて、細心の注意を払つて、愛をもつて、良い模範兵を作らうとしたのに、なんと云ふことだらう! 若しもあの野郎どこかでふん(づか)まりでもしやがつたら……ええツ何と云ふ忘恩者だ。S大尉の奴が(わら)つてゐる。(ざま)ア見やがれ! と云つて。どうだ、あの高慢ちきなカイゼル髭は――。

 まとまりのない刹那刹那の印象が頭の中に跳び出しては滅茶滅茶に掻き廻す。何が何んだか少しも分らなくなつて了つた。曹長に進級なんて昔の夢だ。まごまごすりや譴責(けんせき)処分ではないか――と思ふと、彼は自分を信ずる心を裏切られた(いきどほり)の為めに口を利くのすら物憂くなつて来た。彼は心に浮んで来る宮崎の蝙蝠(かうもり)のやうな眼を持つた影像をむしやくしやに()(むし)り掻き毟りした。

 夢のやうにぼんやりしてゐる内に半日はたつて了つた。停車場や、近くの街道筋まで行つた捜索隊は何の得物も持たずに帰つて来た。只、この上は彼の郷里へ出張した組の報告を待つ許りであつた。が、それも夜に入つておそく、高村軍曹の許へ(いたづ)らに失望を(もた)らしたに過ぎなかつた。

 

      

 

 高村軍曹は毎朝初年兵の食事当番に依つて盛られて来る朝飯を、他の班長たちと一緒にその下士室で喰べかけてゐた。彼が一箸はさんで口に入れると、その後から水にふやけた白茶けた大きな鼠の糞が出て来た。彼はハッとして慌てて他の下士たちの顔を見廻し、それから急いでその鼠の糞を食器の底の方へ押しかくして、そのまま箸を置いて了つた。彼は初年兵たちがわざと鼠の糞の処を選んで持つて来たとは思はなかつたが、しかし自分に対して注意を払はない初年兵たちに対して、平気ではゐられなかつた。が、それよりも今は鼠の糞を他の同僚たちに見られるのをより以上怖れた。

 高村軍曹の奴、甘いもんだから新兵にまでなめられてやがる――と思はれるのが辛かつた。しかし他の下士たちは夢中で自分達の飯をつついてゐたので、誰も高村軍曹の飯の中に鼠の糞のあるのを見たものはなかつた。彼は勃然(ぼつぜん)と心の底から湧き出て来る憤りを押さへて、卓子(つくえ)の上に(ひぢ)を突き両手で頭を抱へ込んでゐた。食器を下げに来るその食事当番に対してなんと云つて自分の怒りを浴びせかけてやらうか――と考へてゐたのであつた。

「軍曹殿、どうかしたんですか?」

 つい最近伍長になつた(ばか)りのIが、どこか人を小馬鹿にしたやうな色を、顔のどこかに潜ませながら心配げに訊いた。

「なに、少し頭痛がするもんだから……」

 彼は努めて憤りをかくして余り気乗りのしない声で云つた。間もなく当番が食器を下げに来た。彼は咄嗟(とつさ)に首を(もた)げて、顔中を(けは)しくしてみたが、予期してゐたやうな呶鳴り声がどうしても喉から出なかつた。同僚たちの大勢居る中で、現にたつた今、頭が痛くて……なぞ云つた手前「なぜ俺の飯の中へ鼠の糞を入れて来たのだ!」とも云へなかつた。彼は爆発する(ばか)りに充満した胸の中の憤怒(ふんぬ)をぢつとこらへた。まるで悪い瓦斯(ガス)でもたまつたやうに、胸の辺がグーグー云つてゐた。

「演習整列!」

 廊下で週番下士が呶鳴つた。同時に中隊内のあちこちから騒々しく、銃だの剣だのがガチャガチャ鳴り出した。

 彼は物憂さうに立ち上つて自分も仕度をはじめた。で、直ぐに営庭に飛び出して中隊からぞろぞろ出て来る新兵たちの動作を見戌(みまも)つた。今日に限つて自分の班の新兵たちの動作が殊に他の班と比較してのろのろしてる様に思はれた。顔つきまでがどれもこれも野呂間げて見えた。片つぱしから横つ面を張り倒してやつたら、奴らの野呂野呂した動作も、野呂間げた顔つきも直りはしないか――と思はれた。さう思ふと右の腕がむずむずし初めて来て、とても凝乎(ぢつ)としてゐられなくなつて来た。「ピシーッ」と云ふ音を二つ三つ聞いたら、この胸の中にたまつた悪い瓦斯の様なものが気持よく抜け出して了ふだらうと云ふやうな気がした。

 誰か殴つてもいいやうな頓間(とんま)な事をしてる奴はないだらうか――彼の眼は本能的にさうした者を探つてゐた。しかしのろのろはしてゐても、殴つてもいいといふ程の失策をやらかしてゐる者は見当らなかつた。

「何をぐづぐづしてゐる、早く出て来い!」

 彼は中隊の出入口に立つて、ボツリボツリ出て来る者に向つて叫んだ。

 彼はすつかり出揃つて、いつもの位置に隊形を作つてる初年兵の顔を見ながら云つた。

「いま一番あとから遅れて出て来た十人はここへ出ろ! 早駆けをさせてやる。からだが軽くなつてこれから何かするのに非常に敏捷になつて好い」

 高村軍曹に睨まれた十人はおづおづと一歩前へ踏み出した。そしてその前に一列にならんだ。

「早駆け用意――ツ」と云ひながら高村軍曹は営庭の一番隅にある一本の松の木を示して「よーしツ」と振り上げてゐた右手を()つと下におろした。

 十人は競馬の馬のやうに走り出した。「遅れたものはもう一遍やり直させるぞ!」と、高村軍曹の声が更に彼等のあとを追つかけた。

 見る見る彼等の姿は小さくなつて目標の松の木に近づいた。彼等がそこでぐるツと方向を転廻してこつちに向つた時には、先頭の者と後尾の者とでは可なり距離が出来てゐた。彼等はどんどん走る。彼等の姿はまた見るうちに大きくなつてこつちへ近づいて来る。間もなく彼等は高村軍曹の前でぴたりと止まつた。遅れた者も先頭の者もなく、十人の者が殆どゴチャゴチャとかたまつて来たのであつた。

 高村軍曹は不快な表情をして顔を(そむ)けた。何んといふ横着な奴共だらう。皆んな相談してかたまつて来たんだ――と思ふと、自分が如何にもばかにされたやうに思はれて大勢の手前気愧(きはづか)しくてならなかつた。で、二度と彼等を叱る気さへ出なかつた。

 その時新兵教育主任の大原中尉が出て来た。下士官たちは皆んな敬礼をしに中尉の(もと)へ飛んで行つた。彼等が帰つて来ると直ぐに教練が始められた。風のひどい日であつた。下士や上等兵の号令と一緒に、風が始終兵卒たちの耳もとで鳴つた。うつかりしてると号令の聞き分けられないやうな事があつた。

 高村軍曹は端から順々に、いろんな各個教練をさせて行つた。次から次と列兵から十五歩位はなれた前方に立つて、「になへ――(つつ)ツ」「捧げ銃ツ」と号令をかけてゐた。

 彼はさうやつて一巡するとまた元の位置へ戻つて来て「立ち撃ちの構へ――銃ツ」と、右翼の一人に号令をかけた。その時突然砂礫(されき)を飛ばしながら突風がやつて来て、高村軍曹の号令を掻き消して行つた。号令をかけられた兵はこの瞬間、もぢもぢと間誤(まご)ついてゐたが直ぐに膝を折り敷いて膝打ちの構への姿勢を取つた。

 怒氣を(みなぎ)らした高村軍曹の顔が(つぶて)のやうに飛んで行つた。かと思ふとその右手はいきなり膝打ちの(かまへ)をしてゐる兵の左の頬を力任せに殴りつけた。パシッと云ふ緊縮した響きと殆ど同時に「アッ」と云ふ叫びが、殴られた兵の口から洩れて銃を構へたまま横倒しにぶつ倒れて了つた。高村軍曹は更に殴りつける用意をして右手を(ふる)はしてゐたが、倒れた兵は却々(なかなか)起き上らない。倒れたままギラッと光る眼を高村軍曹に投げかけてぎゆつと左の耳の上を押へてゐる。

「馬鹿野郎!」高村軍曹はいきなり呶鳴りつけた。「貴様は俺を……高村軍曹をなめてやがるんだらう、新兵の癖にしやがつて一体生意気だ!」

 彼は更に靴でもつて倒れたままの兵の腰の辺りを蹴りつけて、元の場所へ戻つて行つた。此の時彼は急にあたりが明るくなつたやうに、いつもの快闊な自分に(かへ)つたやうな気がした。胸の中にたまつてゐた悪い瓦斯のやうなものが、いつなくなつたのかなくなつて、大声で何か唄ひ出したいやうな気さへしてゐた。

 へえ、あいつを殴つたせゐだ――彼はさう思つた。起き上つて服の埃を払つてる兵を見た時には、更にそれに違ひないと思つた。気がついて見るとそれは一年志願兵のTであつた。彼はこの時何んといふ理由もなく、T志願兵に対してふだん快く思つてない自分を思ひ出した。しかし殴る瞬間には、別にT志願兵だからと云つて意識してやつたわけではなかつた。が、それがT志願兵であつたことを知ると一層胸の中が晴々して来た。矢つ張りやらうと思つたことは思ひ切つてやらなけれは駄目だ――と、かう彼の胸は何かしら異常な大発見でもしたやうに叫んだ。

 彼は自分が今非常に空腹であることを感じて来た。と、同時に鼠の糞の事も思ひ出した。宮崎の逃亡の事まで頭に浮んで来た。あの時から溜りはじめた胸の悪い瓦斯が、T志願兵の為めに爆発して四散したのだと思ふと、今度はT志願兵に対して何んとも云へない感謝の念が湧いて来るのだつた。

 彼はチラッとT志願兵にその眼を向けた。何か昂奮したらしい青醒めたT志願兵の顔が、ふと、得体の知れない或る不安の影を彼の心に投げた。最初ポチッとした只の点のやうであつたその不安は、忽ちの内にその大きな黒い翼を拡げて、折角晴々とした彼の胸の中をまた一杯にふさいで了つた。

 午前の演習は終つた。高村軍曹はまるで砂を噛むやうにうまいのかまづいのかも知らずに昼飯を喰べて了つた。

 午後の演習が始まつた。営庭に午前と同じやうな隊形で各班は陣取つた。番号をつけさすと一人足りなかつた。彼は頸をひねりながらもう一度番号のつけ直しを命じた。が、それでもやはり一人足りなかつた。折角癒着しかかつた傷口をむりに引き裂くやうな苦痛が、彼の不安に閉ざされた胸をチクンと刺し貫いた。彼の胸に巣喰つてる宮崎の蝙蝠のやうな影像が、その傷口を()み破つてるのだ。が、彼の眼は直ぐT志願兵が列中に居ないのに気がついた。得体の知れなかつただだつ(くろ)い今までの不安は、此の時パッと一塊りの爆弾となつて彼の心臓を打つた。

 教練半ばに中隊当番が駆け足で彼の処へ来て云つた。

「高村軍曹殿! 週番士官殿がお呼びでございます」

 週番士官の室には青醒めたT志願兵が耳を繃帯して立つてゐた。彼が入つて行くと、志願兵の眼が冷たい皮肉な笑ひを湛へて彼を迎へた。それはすつかり銷沈し切つた彼の心をくわつとさせる程、不遜(ふそん)な眼であつた。

 彼は(すべ)てを直覚した。屹度(きつと)鼓膜を破つたに違ひない。それを奴は週番士官に申告したのだ――と。もう結果は分り切つてゐた、自分がこれから(まさ)に踏まうとする運命の道が電光のやうに彼の頭に(ひらめ)いた。軍法会議――重営倉――官位褫奪(ちだつ)――除隊――。これが彼の行くべき道であつた。

「高村軍曹!」

 週番士官は静かに、そして|厳「おごそ」かに云つた。が、彼の耳には入らなかつた。彼の全神経はT志願兵に対する極度の憎悪の為めにぶるぶる顫へてゐた。自分の前半生を捧げて築きかけた幻影を宮崎に依つて滅茶苦茶に打ちこはされた憤りが、今またT志願兵に依つて倍加された怒りと悲しみの為めであらう。彼はもう自分で自分が分らなくなつて了つた。彼は頭がくらくらつとしたかと思ふと、「この野郎がツ!」と叫びながら猛然と、T志願兵に|跳「をど」りかかつた。

    (大正十年八月「早稻田文學」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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新井 紀一

アライ キイチ
あらい きいち 作家 1890・2・22~1966・3・13 群馬県多野郡に生まれる。小学校を出て東京砲兵工廠の見習い工となり15年を勤めたあと争議に連座して追われた。変転の暮らしの中で無産派文学の同人誌に作品「暗い顔」を発表して認められ、さらに兵隊作家の異名を得つつ多くの作を成した。

出世作である此の掲載作を、「早稻田文學」1921(大正10)年8月号に発表。時代を代表する反戦反軍文学の収穫と評価された。主に大正時代に文学的営為を成し遂げ、昭和期には伊豆大島に移住しフリージア栽培等に従事。

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