自 序
「夢の如し」は三年ばかり前からボツボツ雑誌に掲載したのを、今度思立つて一纏めにしたものである。余は之を纏めて出版するに就いて一考した。斯様な片々たる文章を集めて、再び世の人に示す必要があるかどうかと考へた。全体余の今の文藝観では、心に深い感動が無ければ文章を書くな、といふのが根柢になつて居る。然るに「夢の如し」はどうかといふと、勿論そんな考で書始めたものでは無い。して見れば今之を出版する必要は無いのかも知れぬ。さうかといつて断然打捨てゝ了ふ気にもならぬ。何故であらうかと考直して見るに、深い感動とまでは行かぬにしても、或る幽かな細い濃かい感情に動かされて書いた事だけは確である。決して文章の技巧を矜らんが為に書いたのでは無い。著者自身は之を綴り之を読む間は、現在の煩雑なる精神状態から逃れて、少年時代の醇良なる感情に立返り得た。勿論平凡極まる記事であるから一般読者の感情までも支配する事は覚束ないが少くとも読者自身の少年時代を聯想させる便りにはなるであらうと信ずる。斯う考へて見れば満更出版の必要が無い訳でも無い。且又明治の思想史は年一年と変遷して、瞬時も一処に停滞する事を許さぬ。若しも余と同じ時代の同じ境遇の人の少年思想は如何にあつたかを考へ、又余と異なる境遇にある人の少年思想との相違を研究する一助ともなるならば、是れ余が希望以上の幸福である。尚ほ附加へて言ふ。「夢の如し」は余の正確なる自叙伝でも無く、又全くの小説でも無い。只だ断片的の事実と多少の想像とを取合せて、それに依て我が少年時代の感想を再現させようと試みた文章である事を告白して置く。
明治四十二年五月七日 著者識す
一
自分も一つ子供の時の事を書いて見る。極幼少な時の事である。
自分は元来田舎者で、日本海の海岸なる一漁村に生れた。併し漁師の子でも無く百姓の子でもない。昔なら矢張侍の子である。吾が家族は御維新の後、城下に住まふ必要も無いといふので、此漁村に移住した。自分の産土神は村の八幡様である。三四歳の頃まで此村に生長したのだが、取留めた事は何一つ覚えて居らぬ。只だ今日までの三十何年といふ、長い月日の流れを源まで遡つて行くと、そこに何やら夢のやうな、而も或点は極めて明瞭な記憶が残つて居る。
今この記憶を其儘書いて見ようと思ふ、併し夢よりも纏まらぬ、謂はゞ幻影の如き或る感じだけが残つて居るのだから、事件といふものは少しも無い。
家の裏が薮で縁先は畠になつて居る。海は砂山を越えて後ろにある。絶えずどうどうと浪の音が聞える。道といはず畠といはず砂ばかりで、駒下駄で歩いても音がせぬ。何年たつても下駄の歯が減らぬ。家を建てる時は、砂の上に水を五六荷もぶちまけると、砂はガツシリ締つて巌よりも硬くなる。其上に土台石を据ゑて置けば善いのだといふ。是は無論大きくなつてから聞いた話だが、吾家が砂畠の中の一軒家であつた事は今でも善く覚えて居る。家は藁葺であつた。
畠には梅の木が二三本もあつた。薮には蟹が居る。沢蟹が小石を撒いた程居る。人が行くと驚いてがさがさと竹の枯葉に隠れる音が薮の嵐よりも烈しい位である。薮許りでは無い、台所の板の間を這ひ廻る。天井の上を走る。夜分寝静まつた後、唐紙の外に曲者の跫音かと驚かれた事も一度や二度では無かつたと、是は後に母から聞いた話である。
或時ふと眼が覚めた。炬燵に只独り寝かされて居つた。見ると母も居らぬ、父も居らぬ。何時も此室に居らぬ事の無い祖父さへも居らぬ。恰も空室であるかの如く森閑として居るので急に悲しくなつた。悲しくなつたから、声の有りたけを出して泣いた。誰れも出て来ぬ。此室は今考へて見ると丁度四畳半位で、寝て居る右側の障子が薄暗くて、赤くなるまで煤けて居つた。
頭のところに黒光りのするけんどんの箪笥があつて、箪笥の上に大きな仏壇が載せてあつた。
吊した真鍮の燈明皿の尻がきらきら光つて居る。声が出なくなる程泣いて居ると、奥の室の椽の方に音がして、誰か遣つて来る気はいである。一寸泣声を止めて耳を澄した。あたふたと唐紙を開けて入つて来たのは母と思ひの外祖父であつた。大方畠に出て居つたのであらう。片手に小さな鉈を持つて居る。お母さんは今お手水だから少しお待ちよとか何とか賺されたが、母でなかつたのが不平で再び泣き声を張上げた。
祖父の顔は今でも善く覚えて居る。鼻の高い面長な顔で、左の頬に指で突いた程凹んだ処がある。いつか大層歯が痛んで、こんな窪みが出来たとの事。祖父は自分の頭の処に立つて、仏壇の抽斗を開けて何やら捜して居る。泣き乍ら上眼で見ると、祖父の尻に狐の尾がぶら下つて居る。
祖父は毎年冬から春ヘかけて狐の毛皮のちやんちやんを着て居るのである。炬燵にあたつて居る時などは、いつでも此の尻尾が畳の上に横たはつて居るので、後ろからそつと行つて引張る。すると祖父はアヽ痛い痛い祖父ちやんの尻尾が抜けるといふ。さう言はれるのが面白さに、尻尾が見えさへすれば直ぐ引張りに行くのだが、今日は母が居らぬので大不平の際だから無論引張りに立つ気は無い。仰向けに寝たまゝ愈よ大声を揚げて泣いた。
祖父が抽斗から取出してくれたのは煎餅であつた。馬の耳と称へる大きな煎餅であつた。端をひねつて漏斗のやうな形にしたので、背中に渦が三つ巻いて居る。この煎餅は法事のある時に饅頭と一所に配る煎餅だが、なぜ此時この煎餅が仏壇の抽斗に入れてあつたかは今に解らぬ。
兎に角、自分は之を貰つて大に嬉しかつた。併し煎餅のうまい事が母の顔を見る代りにはならなかつた。是に由て煎餅を食ひ且つ大に泣いた。若し母が或る事情の下に、晩になつても朝になつても、一年たつても二年たつても、此まゝ内に還らぬのであつたらどうだらう。さうして祖父が馬の耳を仏壇から取出して、やけに泣く自分を慰めるのであつたらどうだらう。こんな例は世間に幾らもある。祖父たるものゝ身になつては、こんな遣る瀬の無い難義は又と有るまい。幸にして今はさうでは無かつたが、自分の悲しさは、此の場合と少しも異ならぬ。異ならぬから馬の耳を食べながら泣いた。果ては馬の耳を抛り出して泣いた。
祖父も今はせう事なしに、狐の毛皮の上から自分を負うて、お母さんに連れて行くからチャンとお止めといつて外に出た。母が手水場に居らぬは勿論、今日は家族の総べてが外出して、祖父と自分だけが留守番に残されたのと見える。負はれて泣き止みはしたが、灸を据ゑられた後のやうに泣きしやくりが止まぬ。外に出ると気分がせいせいした。母に抱かれる望みが出来たばかりでなく、磯辺のうらうらとした春色が吾が小さい胸の不平を和らげたのである。やがてしやくりも止んだ。畠の向ふは小高くなつて居つて、こゝから砂山の松林になる。松の下の道を負はれて行くのが躍り上る程嬉しい。祖父は嬉しくも無いかして、無言の儘すたすたと松の間を縫うて行く。或日裏隣のおさきに連られて此松林に松露を掘りに来た事がある。松露を掘るのは訳は無いもので、有りさうな場所を見て熊手で掻くと、手に応じて玉麩のやうな丸いのがころころと現はれる。
松林を離れると直ぐ砂浜である。果ても無い砂浜である。防風が紅い茎を僅ばかり現はして砂に萌え出でゝ居る。碧い海が見える。後ろを捩向くと松林は遙に遠くなつて、丁度屏風の絵のやうに見える。祖父の足跡は松林から斜に一直線に続いて居る。誰のやら分らぬ足跡も三筋許りうねうね続いて居る。浜の砂は樺色である。海辺なら屹度砂浜があるもの、砂浜なら屹度樺色をしたものとばかり思つて居つたが、他国に来て見ると丸で砂浜が無かつたり、仮令ひ有つても砂の色は薄黒いのが多いと云ふ事は長じて後に始めて知つた。海はだんだん広く見える。
それに此の海岸のやうに、家のある処から汀まで二町も三町も、時としては七八町も砂浜になつて居る処は余り無い。ところどころ小山になつて浅茅の生えて居る処もある。或は風のために擂鉢のやうな形に大きな窪になつて居る処もある。祖父は依然として無言のまゝ、砂の小山を越え砂の谷を渡つて、だんだん浪打際の方に降りて行く。海は眼が届かぬ程広くなる。生暖かい風が松林の方から吹いて来る。頬に雨があたるやうに冷たく感じたのは、溜つた涙に風があたるのである。
日本海は波が荒い。海は絶えず大波が打つものといふ事も、こんな子供の時から深く頭に染込んで居る。須磨の浦や品川の海を見て、こんな海がと大に軽侮の念を生じたのも、全く海の観念が違つて居るからである。緑色の水のうねりがだんだん膨らんで来るかと思ふと、波の腹が薄暗くなつて前に崩れつゝどさどさどさどさと打つて来る。どさツと打揚げた波は、むら消えの雪の如く斑らに泡立つて一時平かに漂ふ。暫く漂ふた後、急に思出したやうに寄せ来る波の底に引返す。引返した水は待構へて居る波と合して前よりも一倍激しく打揚げる。水烟が霧の如くに立つ。時としては返す勢の烈しさに、威丈高に寄せる波の勢を挫いて、水面は却て意外に平を保つ事もある。今日のやうな麗かな軟風の日といへども此活動は瞬時も止まぬ。
祖父はすたすたと浪打際を西に向つて行く。何処まで行くのか分らぬ。時としては浪の泡が祖父の草履の際まで這ひ進む事もある。恰も虎か何かゞ腹這ひになつて祖父の足を噛みに来るやうに見える。祖父は頓着なく西へ西へ行く。人には誰にも出遇はぬ。只軟風が祖父の鬢の毛を軽く動かし、自分の頬を撫でゝ行くのみである。涙はもう疾くに乾いた。背中は蒸すやうに暖かい。善い気持になつて、毛皮に靠れてうとうととなつた時、何やら人声が耳に入つた。眼を開けて見ると嬉しや紛れも無き吾が母であつた。何が嬉しいつたつて、こんな嬉しかつた事は滅多に無い。祖父が卸してくれる間も待たずに、両手を出して飛付いて抱かれた。祖父は泣いて泣いて困つたと零し乍ら、自分を母に渡して額の汗を拭つた。母は裳裾を掲げて水の中に立つて居る。寛やかに冠つた白手拭がつやつやとした頬に映えて、微笑を湛へつゝ何やら言ふたびに、鉄漿をつけた歯が漆よりも黒く鮮かにきらめく。今から考へると母も此時は若盛りであつた。今の様な皺くちやのお婆さんでは無かつた。母の顔は今に至るまで眼に染む程見て居るのだけれど、此時程なつかしく美しかつた顔は余り覚えが無い。母は隣のおさき等を連れて島に和布刈りに来て居るのである。かどかどしい親島は一段ばかり前に屹と峙立つて居るが、親島に至るまでには数十の子島が散在して浅瀬を成して居る。こゝは波も余り立たず、女子供の遊場には此上も無く善い処である。
自分は実は此日の事に就いては母の顔を見て飛上る程嬉しかつた外は何も覚えて居らぬ。母に抱かれて乳房を含んだか、賺されて母の膝に眠つたか、或はおさきに負はれて遊んだか少しも覚えぬ。祖父が狐の毛皮を着て浪打際を帰る後姿の小さくなるまで見送つたかも知れんが、無論それも覚えぬ。覚えぬ事は書きやうが無い。只だ斯かる覚束なき記憶の中で、春の磯に和布を刈りつゝ自分を迎へてくれた母の顔が、今に至るまで眼にありありと見える事を不思議に思ふのである。
二
此村住居の時、近所の子供と遊んだ事などは少しも覚えぬ。恐らく遊びもしなかつたらう。
只時々隣のおさきに連れられて浜に遊びに行く事はあつた。或日地曳網で鰯の大漁があつた時にもおさきに連れられて行つた。地曳の時は大変な騒ぎである。やアい地曳だ地曳だアい、やアいみんな出て来ウいと触れて廻ると、其響の未だ絶えぬ内に、眠つたやうな一村は俄に活気を帯びて来る。それ地曳だといふので、男は鉢巻、女は髪の乱れも構はず飛で出る。上の家から駆出す。下の家から走り出る。表から出る。裏から出る。子供も走る。犬も走る。家に残つて居るものは足腰の立たぬ老人か、但しは小屋に寝て居る牛位なものである。四方八方から海べを指して吾一に馳せ集る様は、丁度火事場に駆け付ける時のやうな勢である。斯ういふ時にはおさきも随分手荒い事をする。自分は自分が這入れる位大きな玉網の柄を握つて居るのに、いきなり自分の手と玉網の柄と、二本一所に引掴んで走る。痛いといつても容赦は無い。無理無体に引張つて走る。走るといふよりも飛ぶといつた方が善いかも知れぬ。自分の足は地に付かぬ位、まるで宙を引ずられて行くやうな気がする。浜に出て見ると、もう網は曳揚げられて居る。真ツ黒に集まつた村人は之を取巻いてわいわい喚く。漁師どもが口々に喚く声の騒々しさは、一度聞いた人でなければ到底解らぬ。格子のやうに並んだ脛の間から覗いて見ると、網の袋から鰯が真ツ青になるほど砂の上に吐き出されて居る。ぴちぴち跳出る鰯は見る間に砂まぶれになつて了ふ。笊に掻込む。玉網にしやくひ込む。自分の玉網にも誰か知らぬ間に八分目ばかり入れてくれた。おさきは自分と鰯とを急いで吾が家へ届けて置いて、更に二はい目を拾ひに駆出した。吾が地方では鰯は砂まぶれの儘で売る習慣である。砂にまぶれて居らねば新鮮で無いとしてある。だから仮令ひ少々古くても砂をまぶして置く。自分も国を出るまでは砂にまぶれて居らぬ鰯は鰯で無いやうに思つて居つた。
遊びに出る時は何時でもおさきに連れられて出るか、さも無ければ祖父に負はれて出たやうに覚えて居るが、裏の瓦屋に行く時だけは何時でも歩いて行つた。それも連れなしに独りで行つた。瓦屋の母屋の方は覚えぬ。只だ職場の方の事ばかり少し記憶に残つて居る。大抵毎日一度づゝ職場に遊びに行つた。誰れか遊び連れでもあつたかと言ふに、さうでは無い。瓦屋の老爺は年が年中、只独り薮陰の陰気な職場にあつて瓦を敲きつゝある。他には誰も居らぬ。何時行つて見ても土間の真中に尻を据ゑて、見台の上の生まの瓦を敲きつゝある。自分の顔を見ると、にこにこしながら、今日はどうでがアすといふ。何か菓子でも呉れたかといふに、さうでも無い。自分は只だ何となく此の老爺が好きであつた。何も呉れなくても好きであつた。然るに時々或物を呉れた。菓子は呉れなかつたが、お猴さんを呉れた。見台の前につくばつて催足顔に待つて居ると、老爺は軈て一枚の瓦を敲き了つて、どれ又お猴さんを造つて上げようかな、と鏝の尖きに瓦土を少し取つて掌で揉み始める。嬉しいなと思つて見て居る。土が揉まれて子芋のやうな形になると、老爺は後ろの棚から箸見たやうな竹串を一本抜き取つて其尖きで目鼻を附ける。出来上ると其儘竹串の尖きに刺して、ヘーお猴さんアハヽヽヽヽと渡して呉れる。お猴さんを貰へば他に用事は無い。急いで母に見すべく走つて帰る。老爺は自分の帰るを見送りつゝ、二枚目の瓦に取り掛かる。老爺はいつも浅黄色の浅綿を頭に冠つて、丸くなる程厚いどてらを着て居つたやうに思ふ。夏向きはどうであつたか覚えぬ。日和の時はいつでも職場の前の干し場に、生まの瓦が二列にも三列にも並べて干してある。老爺が居るか居らぬかは裏の縁から善く見える。見えると直ぐ裏口から出て、干し場に廻つて職場を襲ふのである。自分はお猴さんが好きである。お猴さんを呉れる老爺は尚ほ好きである。
内に遊んで居る時は祖父に本を教はつた事を覚えて居る。三歳や四歳で本を習ふといふのは嘘らしいと思ふ人もあるか知らんが、全く教はつたに相違ないのだから仕方が無い。朧気ながら本の形も覚えて居る。何でも教訓の絵本であつたと思ふ。大形の厚ぼつたい、表紙は茶色の、大分ぐたぐたに古びた本であつた。十年ばかり前に帰省した時、ふと此本の事を思出して、今一度見たくて堪らず、本箱を始め這入ツて居りさうな処は隈なく捜して見たが、残念ながらどうしても見付からなかつた。祖父が炬燵にあたつて居る前に跨ぎ込んで何かいたづらでも始めると祖父は直ぐに此の本を炬燵の上に載せて開けて見せてくれる。一枚づゝに絵がある。絵といつても美しい彩色などは無く、麁略な墨絵ばかりで、一番善く覚えて居るのが韓信股潜りの図と、それから妙な猫の絵である。猫が尻ツ尾を一文字に伸ばして脊伸びして居るやうな絵である。猫がおならをして居るやうに見えるので、そこが出ると何時でも可笑しかつた。祖父はザラザラした髯の頤を余の頭に擦り乍ら、咬へ煙管の雁首で紙を撥ねる。今度がおならだよと祖父は猫を目当てにして行く。此猫の絵がどんな意味を現はして居るのか、猫が脊伸をすれば何故教訓になるのか、今は本が無いから薩張り解らぬ。兎に角この猫の絵の処に来るのが一番楽みであつた。絵の上には、どれにも歌が一首づゝ記してある。其歌が皆教訓の歌であつたらしい。
併し自分が教はつたのは歌では無い。別の紙に大きな字で、天地、山川、父母、兄弟といふやうな単語を二字づゝ書いて、巻頭に綴ぢ込んである。教はつたのは此単語である。一通り絵を見て猫のおならでお仕舞になると、再び巻頭の天地山川に戻る。祖父が雁首で一字づゝ突く。自分はちゝィと読みはゝァと読む。一日の中には遊び半分に幾遍でも読む。人が来れば自慢に読ませられる。詰り家の内で遊んで居る時、此本の出て居らぬ事は無いので、自分は何時の間にかスッカリ暗記して了つた。本は見なくても、ちゝといひはゝといへば、直ぐ字の形が思出せる位であつた。
或時例の通り祖父に負はれて八幡様の石燈籠へ遊びに往つた。八幡様の石燈籠といふのは村の本通りの道端にあるので、汚い百姓家の間に十坪ばかりの空地を控へて、大きな御影石の常夜燈が一対据ゑてある。宮はずつと離れて七八町も奥の方、即ち松の砂山を越えて彼方にある。
自分はいつもの如く石燈籠の台石に立たされた。祖父は其儘腰かけて道行く村の誰彼と言葉を換はして居る。自分よりは年嵩の子供が五六人、其処に遊んで居つたが、自分が石燈籠に降立つたのを見て一斉に注目した。軈て彼等の中の頭立つた一人が、みんな来い来いと家の裏の方へ走り去つた。跡に麦藁が沢山散らばつて居る。台石の下にも散らばつて居る。自分は是が欲しくなつたので一心に見詰めて居ると、其中でX形に交叉して居るのが、予て習覚えた父といふ字に見える。さう気がつくと、祖父が之を知らずに居るのが何か物足らぬ様に思はれて、慌たゞしく指さしてちゝちゝと注意した。祖父は解らぬと見えて、アゝ善し善し、又家へ帰つて本を読むかなといふ。もどかしくてならぬ。別に説明の仕様も無いので、尚も根気善くちゝちゝと指さして居ると、祖父は漸く悟つたと見えて、歯の無い口をアーンと開いて、解つた解つた成程父だと快げに笑つた。此後祖父の教授法に一新機軸を生じた。本を出さぬ時は火箸を両手に持つて、之を交叉して是は何かといふ。父と答へる。並行に立てゝ是は何かといふ。川と答へる。此答を得て、祖父はさも嬉しげに破顔一笑するのである。
自分は此村住居の時の祖父の顔を覚えて居る。又母の顔を覚えて居る。然るに不思議な事には父の顔を覚えぬ。特に覚えにくい顔であつたのでなく、自分が覚える様になつてからは父は余り家に居なかつたのである。といふのは雨読晴耕も理想ほど面白くなかつたと見えて、或時は神主の真似をしたり、或時は寺小屋を始めたりなんかしたが、終に孰れも成功しなかつた。依て再び城下に職業を求める事になつて、兎角村の家には帰らぬ勝ちであつたのである。父が愈よ口に有付いた時、吾が家族は吾が真の故郷なる此村を見捨てゝ城下に帰つた。涼しい夏の朝であつたやうに思ふ。母は早く起出でてむすびを拵へたり脚絆を穿いたりなどして、仮初め乍ら旅の用意にいそがしい。おさきや瓦屋の老爺も来て何呉れと手伝つて居る。城下に通ひ慣れたろくといふ男が荷持ちに雇れて来る。ろくは一荷の笊の片荷に風呂敷包やら信玄袋やら一切の荷物を詰込んで、残る片荷にはさア行きませうと自分を抱下して載せてくれる。さうして天秤棒の真ん中を両腕に乗せて釣合を考へて居る。祖父は跡始末にでも残るのであらう、眼鏡をかけたまゝ戸口に見送つて出て、ろくさん御苦労、どうぞ気を付けて行つてくれといふ。畏りました、左様なら行つて参りますとろくは天秤棒を担上げる。自分は笊の綱につかまつた儘、いつの間にか一尺ばかり地を離れて宙に浮かんで居つた。今や故郷の家を見捨てつゝ別に悲しいとも嬉しいとも思はぬ。只だ笊の中の座蒲団に埋まつて吊されて行くのが面白い。母は何時も遠出の時にする通り白手拭を冠つて居る。日傘をかたげて小足に後ろから跟いて来る。村を出外づれる処までおさきは見送つて来た。母に別れるのが悲しいと言つて眼を泣腫らして居つたさうだが、そんな事は一切覚えぬ。おさきに別れて麦田の道を真直ぐに行く。善い心持に揺られて行く。軈て坂道になる。勾配は緩いが幅の広い長い坂である。両側には疎らに大松が生えて居つて、道には沢庵石が隙間なく敷いてある。これは昔、或奇特な六部が山を越す人の難義を救ふために自ら石を運んで敷いたとの事、今も山の上には六部塚といふ石碑があるさうな。涼しい朝風がさアと松の枝を鳴らして坂の上から吹下す。後ろを向いて見ると母は自分を見て微笑みつゝ跟いて来る。安心して前に向き直る、又た暫くして振り向いて見ると、母は依然として跟いて来る。又安心して向き直る。何処まで行つても敷石は尽きぬ。六部の坂は眠くなる程長い。
城下までは三里の道である。山路ばかりの三里の道である。六部坂の先きは眠つて了つたのか、起きて居つても覚えぬのか、どう考へ直して見ても思出せぬ。只一つ覚えて居る事がある。峠の道が極めて淋しくなつた時、ふと脚下の方に真ツ青な池が見えた。青いといつたら真に青い。気味が悪い程青い。ろくは無言でよちよち進む。母も無言ですたすた跟いて来る。此時雉子か何か恐ろしい声で、けエんと池の上を鳴いて渡つた。自分は非常に怖くなつて笊の綱にしがみ付いた事を覚えて居る。此池は昔お玉といふ美しい女が池の主に見込まれて引込まれたとかで玉が池と称へる。池の主は蛇ださうな。玉が池に引込まれたものは昔から沢山ある。男が通るとお玉が出て引張るともいふ。昔或る若侍が遠乗の帰りに、此池の縁でお玉に引張込まれて死んだ事は、今も尚此地方の唄に残つて居る。
三
城下の仮住居は侍町の奥の草深い屋敷であつた。茂るが儘に生伸びた木槿垣に沿うて古い瓦葺きの門がある。門を這入ると直ぐに荒山氏の家で、斜に行くと吾家である。むかし何とかいふ立派な人の屋敷跡ださうで、しよんぼりと残つた二軒家の周囲は残らず蠶豆畑になつて居る。
家の西北に当つて大きな楠の老木がある。凌霄花が梢まで絡み付いて居つて、花が夕日に照映えて非常に美しい。豆畑の中には桑の樹や林檎の樹が枝をさし交はして、殆ど地境が見えぬまで生茂つて居る。どつと風が吹くと蠶豆の葉が白い裏葉を返して波を打つ。豆の花の香が漂ふ如く襲うて来る。自分はいつでも畑の中で絹ちやんと遊ぶ。絹ちやんといふのは隣の荒山の女の児である。自分が鬼になつて絹ちやんを追蒐ける。さらさらと豆の葉の擦れる音がして絹ちやんの姿は見えぬ。こゝよと不意に花の中から絹ちやんが顔を出す。さうしてせゝゝと笑ふ。
鬼ごつこに飽くと絹ちやんは袂から萎へた豆の葉を出して、小さな指で揉んでは膨らます。青蛙のやうに膨らむと直ぐ己が額にパチツと打つのが絹ちやんの癖であつた。都会の人は豆の花なんか何とも思ふまいが、この田舎臭い畑の中に生長した自分には蠶豆の花ほどなつかしく感ずる花は無い。今も何処かで蠶豆畑を見ると直ぐ此屋敷の事を思出す。自分は此屋敷に何年居つたか覚えぬが、絹ちやんが大きくなつてからの姿は全で知らぬ。恐く一年か二年が間の友達であつたに相違ない。
絹ちやんの内の叔母さんは絹ちやんよりも美しかつたが、若死して気の毒であつたと今も母は言ふ。小造りな叔母さんで丸顔の物を優しく言ふ人であつた。叔父さんの方は一寸風変りな人で、これは能く覚えて居る。或時絹ちやんの留守に行つて独りで遊んで居ると、叔父さんはにやにや笑ひながら、善い事を教へてやろ、一寸歯屎を取つて嗅いで御覧といつた。後ろを向て少し取つて嗅いで見る。どうだ臭いかと叔父さんは尚もにやにや笑つて居る。自分が少年の時から歯屎の匂を知つて居るのは全く此叔父さんのお蔭である。玉蜀黍の毛を前に植ゑてくれたのも此叔父さんである。叔父さんは総髪の丁髷を結つて居る。内に居る時こそ大膚脱で内職の細工物に夢中になつて居るが、表に出る時は重くれた深笠を冠つて木刀をさして出る。併し荒山の叔父さんばかりで無く、其頃の士族は皆こんな風俗であつたから少しも珍らしくはない。却て自分の父のやうに散髪で帽子なんぞ冠るものゝ方が余ツ程変に見えた。それが何時頃の時代かといふと、丁度此の時が西南戦争の真ッ最中であつたさうで、散髪の父も総髪の叔父さんも毎日東京の新聞の来るのを待佗びて居つたといふ。併しそんな気ぶりは卯の毛程も覚えぬ。自分は只豆の花の香に酔ふまで遊暮らして居つたのである。
其後祖父は在所の家を畳んで今の仮住居に一所になつた。此時は、もう狐のちやんちやんは着て居らぬ。寒くなると黒い綿入れの羽織を着て、変な編物の襟巻を頚に巻いて居つた。今も其襟巻したまゝの写真が残つて居る。自分は祖父と二度ばかり写真を写しに行つた事がある。祖父は写真といはずにホドガラピーといつた。大方江戸通ひの頃に覚えた単語であらう。城下に只だ一軒の写真屋は吾家から僅か二三町隔つたところにある。今のやうに化粧室だのガラス天井だのと、そんな開化した写真屋では無い。広い根深畑の中におこし絵の舞台のやうな形した奥行の無い板屋がある。これが写し場である。今の写真屋に行くと病院にでも這入つたやうな鬱陶しい心持がするが、これは青天井同様で而も畑の中だから気がせいせいする。薄黒い書割などは無論無い。只だ後ろに白木綿の幕を垂れて、其前に籐張りの椅子が二三脚置いてあるばかりである。
始めに写した時は祖父が着物を左前に着せてくれたので、内に帰つてからみんなに笑はれた。それに着物の色合が悪かつたかしてうつりも悪かつた。今度はと母がとつときの黒ずんだ縞縮緬の綿いれを出して着せてくれる。着せて貰ひ乍ら袖に吹いて居る真綿を引張ると、細い光つた絲がツーと限りも無く出る。引出してはいけませんと叱られる。叱られても写真を写しに行くのは嬉しい。着物の紐を結んだ上に萌黄色の緞子の帯を締めてくれる。ズルズル滑るので自分の体を丸太か何かのやうにキウキウ締める。両手で袂を持上げて一重づゝにくるりと廻る。母がお前の毛には癖があるからつて頭の皿を櫛でこき卸す。縺れた所に櫛の歯が引掛つて涙が出る程痛い。頭を曲げて櫛について行くと、そんなに附いて来てはいけませんと又叱られる。漸くすり抜ける様にして祖父に連れられて行く。
祖父は籐張りの椅子に腰をかける。自分は祖父の右脇に立つ。右の手の置き場に一寸困つたので詮方なく後ろに廻した。写真屋がおつむりをもう少しと己が頭を曲げて直しに来る。自分は後ろに廻した手が気になつて居つたが、写真屋は頭丈け直して手の方は何とも言はなかつた。右の手は後ろに隠れた儘写つて了つた。右の手を隠した事が何も面白くは無いが、何故か其事を今に至るまで覚えて居るから特に記すのである。座敷に帰つて出来るのを待つて居ると、軈て写真屋は雪隠のやうな処からガラス板を持つて出て、一寸日に透して見て手水鉢の水を注ぐ。善く取れましたとにこにこして言ふ。其から何やら又瓶の薬をたらして火鉢の火で焙ぶる。これでいよいよ出来上るので、薬が乾くと新しい桐の箱にピシヤツと篏めてくれる。今此写真を取出して見ると、蓋の裏に祖父は六十九歳、自分は五歳と記してある。何時出して見ても右の手は袖の後ろに隠れて居る。さうして祖父は例の変な編物の襟巻を巻いて居る。
写真屋の筋向うに荒物屋がある。そこの老爺は何故か屡々吾家に出入したので、自分もたびたび其家に遊びに行くほど親密になつた。丁度舌切雀の絵にあるやうな老爺である。頭巾は冠つて居らぬが、赤く光つた頭に慈姑の芽のやうな丁髷を結つて居る。婆さんもあつたが、よく顔を覚えて居らぬ。此老夫婦の間に多代といふ娘があつた。色が白くて眉が濃くて、頤の少ししやくれた所に愛嬌があつたやうに思ふ。多代は自分を非常に可愛がつてくれた。遊びに行くと、いつでも店の奥の薄暗い居室に連れて行つて、菓子をくれたり炬燵にあたらしたりして呉れた。炬燵の向うの壁に神棚があつて、神棚の下に三味線が懸けてある。多代は居室の真中に坐つて、見台に向つて三味線を弾いて居る事もある。炬燵にあたつて店の方を見ると、吊した草履や草鞋の間から向うの学校の門が見える。今なら何でも無いが、此学校は異人造りといふので、白いペンキ塗りの門が無暗に珍しかつた。多代には婿がある。婿は役者であつた。藝名は何といつたか知らぬが、内では蝶といつた。蝶吉とか何とかいふのだらう。二十四五の若い男で、髪をつむじに巻込んだやうに結つて、さうして眉を剃落して居る。顔が長くて青白くて、眉の跡がげじげじに嘗められたやうで余り好かぬ顔であつた。昼間は芝居の方へ行つて居る事が多かつたから、自然自分は此男には親まなかつた。それに多代のやうに子供好きで無かつたと見えて、多代ほどは自分をもてなして呉れぬ。併し別に嫌ふといふでも無い。蝶は家に居る時は多代とお取膳で炬燵にあたつて飯を食ふ。自分も其の隣に坐つて相伴する事がある。炬燵で飯を食ふのは暖かで善い事だと思つたので、自分は家に帰ると直ぐに其事を母に話した。すると母は軽侮の色を眉に動かして、そんな事は自堕落者のする事だ、そんなお行儀の悪い事を真似してはいけませんと厳格に諭した。
蝶と多代とは相惚れ夫婦である。其頃吾が地方では天長節には非常な景気で祝意を表した。商家では造り物をする。活花連中は活花を出す。女子供は今日を晴れと着飾つて是等の催しを見物してあるく。それから夜になると踊屋台が練つてあるくといふやうな騒ぎで、今は左程でもあるまいが、自分が可なり大きくなるまで此風習は保たれて居つた。或年の天長節に荒物屋の多代も某町の若連中として密かに踊屋台の囃子に加はつた。チャンチキチヤンチキと市中の大通りを練つて行く内、向うから遣つて来たのが新地連中の踊屋台であつた。踊子は一粒選りの水の垂る様な若手役者ばかりで、絞りの肉襦袢に腰蓑を着けた漁師扮装である。群集は役者の踊を見たさに前後左右からどつと押寄せて来た。二つの屋台はあとへも先きへも動かれなくなつた。
二組の屋台の踊子と囃子とは拠なく屋台を置去りにして、暫し横町の料理屋に休息した。多代が蝶のいなせな姿に打込んだのは此時であるさうな。
或夜自分は多代に連れられて芝居に行つた。前後は何も覚えぬが只一幕だけ記憶に残つて居る。蝶の部屋を出て暗い段階子を降りる。下手の暖簾の下がつて居る所に出て、多代に靠れて立つて舞台を見て居る。時々上を向いて多代の顔を見ると、多代は暖簾の外に首を出して、一心に花道の方を見詰めて居る。土間の見物人も桟敷の見物人も皆な一斉に其の方に眼を注いで居る。何か出て来る所らしいが、自分は訳が解らぬので只仰向いて天井を見る。縄のたくしたのや幕の畳んだのや張抜きの屋根のやうなものやら、いろんな汚い物がドツサリぶら下がつて居る。其中で桜の吊枝は美しいと思つた。やがて役者が出て来たと見えて、見物の席が一時にわやわやと動揺し始める。多代も手に力を入れて自分の肩を押へるやうにして熱心に見て居る。先きに立つた大将が金紙の采配を振つて大勢の人を連れて出て来た。今考へて見れば忠臣蔵の討入りの幕であつたらしい。其頃の芝居には電気燈などは無くて大抵は蝋燭の灯である。重な役者は面明りとかいふ凡そ一間もある長い手燭で照される。由良の助には前後から二つも差付けて居る。暫くすると花道から出て来た義士で舞台が一ぱいになる。軈て斬合が始まる、組打が始まる。此の時どうした機みであつたか義士の一人は舞台の前の灯の処に組伏せられて鬘の毛がぼつと燃出した。一同総立ちになつて寄つて来た。誰れだ誰れだ、蝶さんだ蝶さんだと口々にいふ。
成程よく見ると灯の上に押付られて居るのが紛れも無き蝶である。青い顔に怒りを含んで起上らうともがいて居る。故意か偶然か分らぬが何にしても尋常事でない。後に居る義士等は蝶の相手の肩に手を懸けて、もう善い加減にしろと忠告して居る者もある。之を見た多代は自分をばはふつて置いて、走つて楽屋の方へ救を求めに行つた。彼是れするうち幕になつて、蝶は大勢の人に助けられて鬢を撫でつゝ起上がつた。さうして憤然として部屋に引揚げて来た。多代は側に寄つて心配げに怪我は無かつたかと労はる。蝶は鬘を脱いで、ひどい奴だとブリブリ怒つて居る。見舞人が続々来る。詑びる者やら慰める者やらで狭い部屋は大混雑である。自分は居所が無いので部屋の隅つこに立つて皆の顔を見て居つた。何でも其時の様子で考へると、只だ立廻りに身が入つて斯うなつたのでなく、何かの意趣返しに蝶を舞台で辱しめたものらしかつた。
其夜更けてから自分は多代に負はれて、蝶は提灯と風呂敷包みとを持つて帰つて来た。町並みの家はもう何処も締切つて了つてシーンとして居る。天には星が一ぱい出て居つて、負はれて居りながらも背中がうすら寒い。二人は草履を穿いてすたすたあるく。肩が擦れ合ふばかりに寄添うてあるく。蝶は絶えず喧嘩の相手に対する恨みを多代に訴へ、多代はどうぞ喧嘩はせずにおいてお呉れと頼むやうに宥める。話が途切れると二人は只だ黙つてすたすたあるく。夜は益々更けてくる。自分は子供心にも何となく秋の夜の哀れをしみじみと感じた。
四
次に越したところは惣門内の大道に沿うた家で、家の高窓から向うの白壁の御米蔵が見える。蔵の長さが半町ばかりもあらう。北の端の方は窓の横穴を覗かなければ見えぬ。或時は此横穴から竹を出して下を通る金太飴を買つて貰ふ。四五本も買ふ中には引上げる時折れるのもあつて、金太の顔が横平たく流れて居る事がある。開達丸売も通る。芝居の太鼓も通る。巡査も通る。其頃の巡査は剣を佩びずに、四尺ばかりの樫の棒を脇挟んで居つた。巡査の事を捕亡さんといつた。其外色々の者が通る。豆畑の家よりも此家の方が陽気で善いと思ふ。
門の内に大きな栗の木がある。柿の木がある。屋根にも庭にも柿の花が霰のやうにこぼれる。庭の真中に牡丹がある。薄紅の大輪が咲く。雨の降る日は大家さんの指図で傘を立てゝ遣る事であつた。大家さんは壁隣で西村といふ。西村には眼のしよぼしよぼした茶筌頭のお婆さんがある。お婆さんの娘さんをお三輪様といつた。白粉を真ツ白に塗つた、それはそれは華美な姉様で、母などはお三輪さんはお器量よしだと口癖のやうにいふ。鼻筋に際立つて白粉を厚く著けて居る。こんな風に化粧して居る女を見ると、母は狐のやうだともいふし、又は西村のお三輪様のやうだと今でもいふ。脊は少し低くかつたが、でつくり肥つて居つた。姉様と呼んで善いか叔母様といつて善いか、一寸困る柄の人であつた。西村にはお婆さんと姉様の外に叔父さんも何も無い。たつた二人きりで公債がどつさりあるのだといふ。お婆さんは女主人だけあつて公債や株券の話は随分詳しいと、父が小声で母に話して居つた事がある。自分は株券といふのは太神宮様の剣のやうな物かと想つて居つた。
庚申様の宵であつた。お三輪さんが裏口に見えて、今夜は便利燈をともしますから坊様も遊びにお出なさい。清ちやん達も来ますからといふ。有難う御坐んす、毎度御邪魔を致しましてと母が拶挨する。姉様は直ぐお出でなさいなと言ひ捨てゝ、尻を振るやうにしてばたばた帰つて行つた。便利燈ツて何? と聞いて見る。大方美しい洋燈だらうといふ。母はまだ実際見た事が無いらしい。美しい洋燈ツて金のぴかぴか光つて居るのか知らんと、見れば直ぐ解る事を先づ色々に気が揉める。何にせよ姉様が態々呼びに来てくれる位だから、吃度綺麗なものに違ひ無いと、勇み立つて走つて行く。清ちやんや太田の嬢ちやんや三四人の近所の遊び仲間が早や茶の間に集まつて姉様と黒光りのする手習机を隔てゝ並んで居る。清ちやん等は灯の蔭で顔が見えぬが、姉様は灯に向いて正面だから色の白い肥つた姉様が胸の辺から浮出したやうに見える。便利燈はまだともさぬのかしらと不審に思ひながら嬢ちやんの次ぎに坐る。姉様が少し身じろいて、そこは狭いからこゝにお出でなさいなといふ。又立つて姉様の側に坐る。
ふと気が附いて見ると、今夜はいつもの行燈で無くて、机の上に小さなカンテラがともしてある。さうして清ちやん等は珍らしさうに此のカンテラを眺めて居る。自分は早くもこれだなと気が附いた。気が附くと同時に折角楽んで見に来たのが何だか馬鹿らしくなつた。家にもカンテラは手燭代りに用ひて居るから一向珍らしくないのである。清ちやん等は頭を寄せて面白さうにしやべつて居る。やがて謎の掛合ひが始まる。お前そつち行きやれ、わしやこつち行く。お原の前で出遇ふものナアニ。帯。白鷺が黒田に降りて我が思ふ事人に知らせるナアニ。筆。といふ様な事。次に清ちやんが姉様の所望によつてかちかち山の話をする。舌足らずのやうな変な訛で話す。清ちやんといふのは神戸から来て居る左官屋の息子とかで、まだ何処やら神戸訛が失せぬ。その訛が可笑しいといつて皆が笑ふ。姉様は皆が笑ふのを制しながら矢張自分でも口を曲げて笑つて居る。便利燈の不平は何時の間にか忘れて了ふ。太田の嬢ちやんは飽きたのか眠くなつたのか、小さい口を両手で掩うて欠伸をした。涙が大きな黒眼勝ちの眼の縁に潤ふ。姉様は眼早く見付けて、雪ちやん眠いの、お月さん何ぼをお歌ひなさいな、今お菓子を上げますわといふ。嬢ちやんは眼がさめたらしくキチンと坐り直して臆せず歌ひ出す。お月さん何ぼ、十三七つ、なゝ織着せて、京の町に出したらば、笄落す、簪落す、紺屋の娘がちよいと出て拾うて、泣いても呉れず、笑うても呉れず、たうとう呉れなんだ。嬢ちやんの歌が終ると、姉様は庚申様の菓子を下げて来て、嬢ちやん始め一座のものにそれぞれ分かつた。自分は紅葉の煎餅と指環のやうな菓子とを貰ふ。嬢ちやんは紅絹裏の袂を膝の上に翻して其の中に入れて了ふ。便利燈はいつか吹消されて行燈が出た。今の子供には美しい洋燈よりは古風な行燈をともして見せる方が善いかも知れぬが、此頃は行燈の方が普通で、洋燈は固よりカンテラさへ此様に珍重されたのである。
みんなが菓子を喰べて了つて手持無沙汰になると、姉様はお話の代りに廻ひ廻ひをして見せるといつて、行燈の抽斗から燈心と附木とを取出した。燈心を短く切つて行燈の内側から紙に植ゑて行く。馬鹿に大きな手の影が動く。燈心の影が一本づゝ殖えて行く。手の影が拡がつて傘のやうになる。シュツとつぼんで斜に逃げる。燈心の影は殖え殖えて十本ばかりになつた。真ン中の一本は少し傾いて落ちかゝつて居る。あツ真ン中のが落ちると注意する。すると大きな手がさつと燈心の影を蔽うて了ふ。今度明るくなつた時はもうチャンと真直ぐに直されて居る。やがて附木に火がともされる。行燈の中はボヤボヤと燃えて十の燈心は戦くやうに陽炎ふ。十の視線は十の燈心の上に入乱れて落ちる。附木の火は徐々に廻転を始めた。最早手の影は見えぬ。燈心は各々其根を軸として廻り出す。廻る廻る。或時は大きく或時は小さく、附木の火の燃ゆる限りは廻る。面白くて堪らぬ。清ちやんなどは燈心と一所に顔を廻して見入つて居る。みんなが夢中になつて嬉しがつて居る間に、嬢ちやんはそつと袂を顔に当てゝ菓子を口に入れた。これは自分が見たばかりであつた。見られた事は嬢ちやんも知らぬ。姉様は燃えしざつた附木の火を受皿に落して、今夜はこれでお仕舞にしましよといふ。今まで盛に活動した燈心は急に元の固定した影となつて了つた。何だか名残惜しいやうな、淋しいやうな、内に帰つて最一度遣つて見たいやうな気がした。自分はカンテラを見ると今でも便利燈といふ事を思出す。便利燈を思出すと色の白い肥つた姉様のお三輪さんの顔も思出されるのである。
太田の嬢ちやんはお三輪さんの姪で、太田といふのは隣屋敷の大家様である。昔は三百石取の家格であつたといふ。長男の当主人公は人柄が善過ぎてまだ嫁様も貰はずに部屋住み同様の境涯である。併し当人はそれを苦しいとも何とも思はぬ。馬鹿の一藝は当り前だが、御主人には二藝も三藝もある。第一鮒釣りが上手、自分の父などは迚も太田さんには敵はぬといつて居る。第二が鵯狩り、第三が凧絵である。部屋中に書拡げた絵は鬼に頼光、熊に金時、蝉、奴など様々で、殊に大きな絵具皿に溶かした蘇枋の色は眼が覚めるやうに美しい。太田様の家は非常に広くて、薄暗い間が多い。画室の後ろには入らずの間といふのがある。話の筋は善く覚えぬが、自分は母に其由来を聞くたびに恐ろしくて堪らなかつた。何でもずつと昔、此間で殺された御妾が今でも崇つて居るとかで、当主の薄馬鹿なのも其為めだといふ。屋敷の隅に昼間も暗い程茂つた青木の森がある。其奥の祠には殺された御妾が祀込めてあるので、今でも夜十一時過ぎになると、ぴちやぴちや、ぴちやぴちや女のあるく足音が聞えるさうな。これは森の横の長屋に住まつて居る米屋のかみさんが真面目に語るところで、越して来た当座は不気味で寝られなかつたが、今では慣れて何ともありませんといふ。女の足音に慣れて平気で居るのが却て恐ろしい。
西村並びに太田の長屋は総じて十軒ばかり、随分色んな種類の人が集まつて居る。中で、最も善く自分の覚えて居るのが漬物屋の古屋さんと甘酒屋の佐野さんである。両方とも所謂士族の商法で、まだちよん髷の人が多い世の中に随分思切つた商買替をしたものである。或日佐野さんが甘酒の行燈を張り替へたから一筆揮つて下されと、別の紙を持つて祖父と父とに頼みに見えた事がある。父と祖父とは顔見合はせて、看板は御家流でもいけず、唐様もいけず至つて六かしいもので、迚も私等には書けませんと辞退する。叔父さんは如何様でもかまひません、是非御願ひ申します、それに此儘張るんで無く、籠字にして地を染めるので、御名前に関はるやうな事は決して致さぬ、どうぞ御書き下されと、真面目に挨拶されて両人は恐縮し、暫時譲り合つた末、終に祖父が持前の御家流で「あまがゆ」と書いた。父は我々風情に看板は無理だといふ事を繰返し言訳けする。どう致して、誠に美事な御手で、有難う御坐ると、叔父さんは礼を述べられる。祖父が「あまがゆ」と書く理由を尋ねると、酒と書いては税が出まするでな、それで粥と申すんで御坐るとの事、其日の夕方門に出て遊んで居ると、叔父さんはいつもの通り甘酒の荷を担いで出て来た。行燈は赤と青とに彩色されて、今夜は眼立つて美しい。真中に「あまがゆ」と籠字が見える。余り行燈が美しいので、あれが本当に祖父の書いた字か知らと疑ふ程であつた。
古屋さんの方は元来剣客で、頬鬚の生えた怖い顔の叔父さんだが、何と思付いたか新規に漬物屋を始めた。別に店は出さずに毎日主人公自身が売つてあるく。開業の当日は長屋中が総出で見囃した。ガリガリガリガリ漬物屋で御坐アいといふ珍らしい声がするので走つて出て見ると、叔父さんが兵隊の服を著て七味唐辛子の箱のやうな抽斗のある箱を担いで、ガリガリを振つては漬物屋で御坐アいといふ。今なら一向珍らしくも有るまいが、此時は服装から何から余程異様に感じたのである。太田様を始めとして金山寺が大分売れた。今考へて見れば箱の型といひ、有難う御坐いと礼をいふ口調まで総べて東京式であつた。此以後降つても照つても、日に一度づゝガリガリの声を聞かぬ事は無い。それからガリガリが近所の子供仲間の大流行となつた。叔父さんは商買から帰つて来ると土間の中で門弟を相手に撃剣をする。門弟が居らぬ時は娘さんを稽古して遣る。時々窓から覗いて見ると、娘さんがシツシツシツと突いて縣かる。叔父さんがさア来いさア来いと取立てる。娘さんといふのは十八位、男のやうな顔の、色の黒い、夥しくそばかすのある、お三輪さんとは丸で較べものにもならぬ。
五
城下の町の外廓は緩やかに流れる運河を以て帯の如くに取巻かれて居る。終日荷舟が上る、筏が下る。末は大川に合して港まで出るのである。秋の末になると大根舟が橋の上手下手に一杯に繋合ふ。此の時が一年中で最も河の景気の立つ時で、市中の人々は沢庵漬の仕込みの為めに皆此処に集つて大根を買入れるのである。舟のあるじは近在の百姓ばかりだが、買手は士族も町人も無差別に出て来る。只だざわざわと無暗に賑やかである。大根を舟から揚げるもの、担つて町の方へ運ぶもの、彳んで値を争ふものなど、河岸の両側は人と大根で以て全く通が塞がつて了ふ。
大根の季節になると、橋向ふの饅頭屋が忙がしくなる。蒸し立ての湯気立つ饅頭は店に並べる間もなく端から売れて了ふ。あとからあとからと詰掛けて来る。幾ら拵へても間に合はぬ。店番は泣顔になつて腹立つ客に詫びをいつて居る。饅頭の名を入舟饅頭といふ。白いのと黄色いのとあつて、形は入舟とも出舟とも見られる。自分は祖父と一所にたびたび此饅頭屋に遊びに来た。饅頭を買ひに来るのでは無い、自分の真実の叔母の家だからである。矢張士族の商法で、叔母は後家の身でありながら、五六人の家族の中心となつて饅頭屋を始めた。家は元と定府の侍でお爺さんは江戸ツ子である。頭をまろめた十徳を著た柔和なお爺さんである。いつも店に出て手伝つて居られるが、言葉が解りにくゝて、自分は余り親まなかつた。祖父はお爺さんとは歌詠み友達で、来ると直ぐ打連れて離座敷の方へ這入つて了ふ。自分は店に残つて遊ぶのである。
入舟饅頭の名は風雅な江戸ツ子のお爺さんが所柄に因んで附けたのであらう。或は入舟饅頭といふものが昔江戸の何処かにあつたので思付いたのかも知れぬ。叔父さんは叔母が嫁入つて来て間も無く、西南戦争が始まつたので、官軍の小隊長として出陣したが、敢なく田原坂で名誉の戦死を遂げた。叔母は悲歎の中に一人の形身の八重さんを責めてもの慰めにして、舅の江戸ツ子のお爺さんに孝養を尽くした。饅頭屋を始めたのは余程冒険的であつたさうだが、幸にも市中の人気に投じて大当り、叔母はこれに力を得て一生懸命になつて居る。団子を捏ねる、餡を煮る。蒸籠を天井につかへる程積重ねて蒸し立てる。殆ど叔母一人で切廻して居る。忙がしい時は家内総出で、板の間の大丼を取巻いて手伝ふ。或時はお爺さんまでも大丼の廻りにしやがんで団子を掌で押延べて居られる。押延べられた饅頭の皮が丼の縁に幾枚となく並ぶ。叔母が端から取つて餡を入れる。餡を入れて二つに畳めば入舟が出来る。それを蒸籠に移して釜の上に積上げるのである。蒸せた蒸籠は下から引きはづして、もやもやと立つ湯気と共に店台の上に運ばれる。こゝに始めて白い入舟と黄色い入舟が美しく並べられる。
どさくさして居ると八重さんが学校から帰つて来る。言ふまでもなく八重さんは自分の従姉で、年は自分よりも二つばかり上である。店の方から上がつて来て、ぐちやぐちやと体を畳むやうに坐つてお辞儀をする。眉を隠すばかりに生え下がつた切前髪をうるさゝうに払つて、叔母に何かをねだる。叔母は店の饅頭を取つて自分と八重さんとに二つ宛呉れるのである。善い遊び連れが出来たと思つて居ると、八重さんは自分にお構ひなく離座敷の方へ行つて琴を浚へる。お師匠さんが来て居る事もある。お師匠さんは鼻の尖に痘痕のある、声のしやがれた盲人である。光つた頭を振立てゝイヤ、トツテン、ソレ、ツンテンと勢込んで教へる。八重さんは懶げに師匠の不透明な白い眼を見上げつゝポツンポツンと弾いて、時々体を斜に左の手を伸ばして窮屈さうに琴柱の向うを押へる。師匠は独り悦に入つた面持で白眼を吊し上げて弾立てる。一段済むと師匠は額の汗を拭きながら、坊様今日はお祖父様はと意外な事をいふ。自分は抜足で来て黙つて見て居るのに、彼は自分の居る事をチヤンと知つて居る。而かも八重さんが右にあつた煙管をそつと左に置換へて、ほくそ笑んで居る事はまだ知らずに居るのである。やがて元と煙管の置いてあつたところを探つて、無いのに始めて気が附いたらしく、馬が小便を嗅いで、笑ふ時のやうな顔して、又お嬢様が悪るさをなさるといふ。叔母が茶を入れて来て、此体を見て八重さんをたしなめる。八重さんは逃げるやうに廊下を走つて店の方へ行く。富さん御苦労様、お茶を一つ、こゝに置きます、あの通り八重はいたづらで困る、この児は静かで大人しいから丁度取替へると善いと思ひますといふ。師匠は挨拶に困つたかアハヽヽヽと笑ひにごまかしてお茶を戴いて飲む。何やらてれるやうな気がするので八重さんの方へ行つて見る。八重さんが饅頭を食つて居るから、自分も亦た貰つて食ふ。
離座敷の奥の一室にお冬さんといふ女が居る。年は三十四五でもあらうか、顔色の青ざめた、髪を櫛巻に結つた、いつ来て見ても長火鉢の脇に坐つて縫物をして居る叔母さんである。店が極く忙がしい時は家の人と同じやうに店頭に出張つて団子を揉んだりなんかして居るが、大抵は裏座敷に引込んで縫物をして居る。客人といふでも無く、無論叔母の家の人でも無い。只だ何となくお冬さんで済んで居つた。後に聞いたところでは何とかいふ金持の隠居の囲ひものであつたさうな。明けて置くのも無駄だといふので、勘定高い叔母が間貸しをしたのであらう。お冬さんは頭痛持ちと見えて蟀谷に四角な紙を貼つて居る事が多い。顔は青いけれども自分は好きな叔母さんであつた。本当の叔母さんよりも好きであつた。お冬さんは年中長火鉢の抽斗の中に焙り昆布を貯へて居る。遊びに行くたびに二三枚づゝ出してくれる。さうして長煙管で煙草を飲む。口を結んで煙を横の方にフーと一筋吹出す癖がある。西側の壁にたつた一つ円窓があるばかりで陰気な部屋だが、茶棚や箪笥が小ざつぱりして居つて気持が善い。此部屋から見ると自分の家などは乱雑で不意気で百姓家のやうなものである。自分は斯ういふ静かな小ぢんまりした部屋にいつまでも居りたい様な気がする。何故其様に好きかと問はれても一寸困るが、一口にいへば此部屋の匂が好きである。お冬さんは針仕事の手元を見つめて居つて話をする。自分は焙り昆布を噛つて話をする。「坊様何が好き」「お菓子」「お菓子は何が好き」「……金米糖」といふやうな、他愛も無い話ばかりだが、いつまで経つても飽きる事を知らぬ。
只だ一つ厭な事は八重さんに関する話の始まる事である。内の嬢様は坊様のお嫁さんにして上げるとか、あしたから坊様の家に連れて行くとか、言葉は少しづゝ違ふが意味はいつも同じ事をいふ。自分はこれが厭で厭で堪らぬ。何も八重さんを嫌ふのでは無いが、嫁になるといふ事婿になるといふ事が訳もなく厭であつた。戯言な事は半分以上理解して居つても矢張さう謂はれると気になつてならぬ。八重さんが嫁に来たら鉄槌でぶつて遣るといふのが自分のいつもの遁辞で、お冬さんは口に含んだ煙草の煙を一時に吐出して、そんなひどい事をするとお嫁さんがお泣きなさるわと笑ふ。自分はそろそろ迯げ出す準備をする。お冬さんは畳みかけて虐めにかゝる。終に堪へなくなつて駆出して来ると、生憎廊下でバツタリ八重さんに出くはして、自分独りで顔を赤くする事などもある。
最も愉快なのはお冬さんに新地に連れて行つて貰ふ事である。叔母の家から新地は極近い。橋涼みに出た人がぞろぞろ、ぞろぞろと其方へ足を向ける。新地は維新後に開けたものださうで、茶屋は勿論、芝居、見せ物、楊弓屋、借馬など有らゆる種類の興行物が集まつて居る。見上げるやうな冠木門を這入ると、急に世界が変つて、格子作りの家が両側に並んで居る。どの家もどの家も内に洋燈をともして昼のやうに明るい。華美な浴衣を着た女がちらちら見える。これが大方藝子だらうと思ふ。格子に近く鏡を立てゝ双肌をぬいで化粧して居るのもある。二階に三味線の音のして居る家もある。一軒づゝ順に見て行く。指を拡げてばらばらばらと格子を弾きながら歩くと、お冬さんは引いて居る手をグイと引張つて道の真中を行くやうにする。狭い道は右に折れて左に曲る。曲るところに鮓屋の露店がある。美しい切酢や握鮓が朱塗の板の上に並べてあるのが眼に付く。ジイと其方に寄る。お冬さんは又手を引張る。其隣には饂飩屋が居る。酢の香も佳いが、饂飩の薫も好い。お冬さんは愈よ強く引張つて真中をあるく。自分は只だ別世界の香に酔つた心持であるいて居る。奥に入る程群集が夥しくなるが、芝居小屋の少し手前に空地があつて、涼みがてら遊びに来た人が彼処に三人此処に五人と集まつて涼んで居るのが闇にも白くそれと判る。小さな稲荷様の社があつて、此処まで来ると今までの蒸せつぽい人いきれが無くなつて急に涼しくなる。此時代にはまだ氷屋などは無論無い。只だ汲みたての清水を手桶に入れて来て一文づゝで鬻いで居るものがある。西瓜を割つて売る店もある。それから佐野の叔父さんのやうな赤行燈の甘酒屋も居る。お冬さんは此処に来るといつでも甘酒を飲ませて呉れた。下卑た咄だが此甘酒の味は今以て忘れられぬ。今飲んで見ても此時の味は無い。少し疲れを覚えてうとうととなると、坊様眠つてはいけません、私は負うては得帰らんとグイグイ引立てゝ元来た道を帰るのである。
いつか新地に生人形の見せ物が来た時の事である。珍らしく父に連れられて見物に行つた。狭い木戸口を人に押されて這入つて行くと、すぐ両側に色々の人形が並んで居る様子だが、何分にも大人の見物人の中に落込んで居るやうなもので人形はちつとも見えぬ。丁度井の底に居るやうな心持がする。まごつくと足を踏まれさうになつて来たので漸く父が抱上げて呉れた。見ると直ぐ眼の前に人間の生首が転がつて居る。さうして血走つた眼をむいて口をバクバクさせる。
イヤ怖かつたの何のつて、自分は覚えず父の頭にむさぶりついて悲鳴を揚げた。廻りの見物人は事の意外なのに驚いて自分共を注視する。父は狼狽して群集を押分けて出口の方へ急いだ。父の羽織の紐を踏張つて帽子に取付いたので、帽子と羽織が滅茶滅茶になつて了つた。その生首といふのは生人形の一つであつた。此外にも色々怖い人形があつたのだが今はどうも思ひ出せぬ。兎に角急いで出口の処へ行くと、気味の悪い人形は残らず無くなつて了つて、そこには大きな白い象が突立つて静かに鼻を上下して居る。囃の太鼓や三味線が陽気に響く。こゝまで来て自分は漸く胸の動悸が収まつた。象は怖くないから長く停まつて見る。大きな耳と長い鼻を絶えず動かして居る。囃の音が耳近く響くのに、囃方の姿の見えぬのが不思議であつたが、よく見ると象の尻の方に大きな窓があつて、そこに梯子をかけて人が出入して居る。囃方は象の腹の中で三味線や太鼓を鳴らして居るのである。始めは造り物か本当に生て居るのかと半信半疑で見て居つたが、尻の窓が見えてから金巾張りの造り物である事を合点した。併し先きの生首だけはどうしても造り物とは受取れぬ。その血走つた眼の色は今考へて見ても直ぐ眼の前に現はれるやうな厭な心持がする。
六
うかうかと遊び暮らして居るうち早や七歳となつた。もうそろそろ学校に入る準備をするが善からうといふので、手習と読書を始める事になつた。いよいよ始めるとなると、遽に重荷を負はせられたやうな、又何となく極りが悪いやうな気がした。母は手習の趣味ある事に就いて色々に前触れをする。手習をするやうになつたら巻筆といふものを買つて上げるとか、お清書の時はお父う様が梅や牡丹の印を附けて下さるとか言ふ。斯う言はれて見ると一日も早く手習といふ事をして見たくなる。牡丹といへば西村の庭に咲くやうな美しい花であらうか、それが又どうして父に描けるだらうか、などゝ余計な心配までして只管準備の調ふのを待つて居る。
草紙が出来る。巻筆が出来る。巻筆といふのは軸が細くて毛の太い、軸と毛の間をば紺紙でくるんで、それを赤い絹絲で巻いたものである。他国にもあるものだか、どうだか知らぬ。吾が郷里でも今の子供は用ひて居らぬかも知れぬ。巻筆は善かつたが、墨が気に入らぬ。煤けた用箪笥の抽斗の底に何十年かの昔から蔵められてある、堅炭のやうな白い粉の吹いた墨である。父や母は善い墨だ善い墨だと口を揃へて賞めた。薄暗い格子の間の真中に机を据ゑていろはを習ひ始めた。手本は祖父が書いたのであつたか、父が書いたのであつたか全く覚えぬ。墨は案に違はずいやな墨で、磨つても磨つても濃くならぬ。それでも尚ほ母は善い墨だと誉めつゝ、肩越しに手を持ち添へて字を書かして呉れた。これは少し意外であつた。大方父か祖父が教へて呉れるのだらうと思つて居つたのに、母が教へて呉れようとは思掛け無かつた。さうして母の字がしつかり力の這入つた旨い字であるので一層驚いた。母は字の角々に力を入れて我手を引張つて行く。自分は只だ母が引張り廻す儘に手を伸ばして居る。面白い程善い字が書ける。独で書いて見よと手を放される。初めのうちは母のに似た字が出来るが、段々にいぢけた小さい字になる。仕舞には絲のやうな字が出来たり、風に吹かれたやうに曲つたりする。それではいけぬ、斯う真ツ直ぐにと、今度は母が独りで書いて見せる。母のは非常に旨い。迚も敵はぬと思ふ。四五枚習つたあとで、今日はこれでお仕舞にせよと言はれる。ガツカリしたやうな、多少の疲れを覚える。草紙を持つて行つて祖父に見て貰ふと、祖父は初めてにしては善い出来だと賞めて呉れたが、大部分は母の書いた字であるので、内心には少し恥かしく感じた。
翌日も其翌日も同じところを手習して居ると、四五日目に母が一枚の白紙を呉れた。これにお清書をするのだといふ。爪で大体の字配りを定めて筋をつけて呉れる。もう大分書慣れて居るので、訳無く爪跡を辿つて書いた。母の字に似た大きな字が出来た。父が勤めから帰れば牡丹や梅の花を附けて貰へるのだとの事、どんなに綺麗だらうと思ふと待遠くてならぬ。父の帰りを待兼ねて清書を見せる。父は袴を脱ぎながら、畳の上の清書を見て、善く出来たといふ。早く牡丹を描いて頂戴と逼る。一服する間もあらせずせき立てる。父はやをら机の抽斗を開けた。何が出るかと凝視して居ると、朱硯が出た。朱筆を執つて、「い」の字の肩に簪のやうな二本棒を引く。「ろ」と「は」に梅の花の形した輪を描いて真ン中に短い十文字を置く。枝もなんにも無い。これが梅の花かと稍や失望する。盥のうらにはもつと大きなのが墨で描いてあるが、あれも父が描いたのだなと合点する。「い」の字の簪見たやうなものは松葉ださうな。梅が四つも這入つて、「い」が松葉で「へ」が笹ツ葉であつた。善く書けたから梅が多いのだと母が言ふ。さう聞けば嬉しいやうでもあるが、牡丹はどうしたのか描いて貰へなかつた。牡丹は描かないのと聞いて見ると、梅の花でも同じ事だといふ。牡丹は母の思違ひであつたらしい。昔母の習つた寺小屋のお師匠様か何かに牡丹を附けたのがあつたので、大方父も其通りだと思つたのであらう。父のは其後何時も松竹梅であつた。初めは一寸失望したけれど、斯ういふものだと決まつてからは、字をはみ出す程大きな梅印の這入るのが馬鹿に嬉しくなつた。
それから今度は読書で、父は四書五経の素読の代りに小学入門を選んだ。これは当時の小学校の初級生の教科書で、父が之を選んだのは専ら小学校へ入る準備の為であつたのと、又一つには父の開化主義から割出した方針であつたらうと思はれる。自分が素読を習つたのはずつと大きくなつてからの事である。小学入門の絲、犬、錨などは絵を見て読むのだから、何の苦労も無かつた。一月も経つか経たぬに、鯛、鯉、鮒、金魚、鰻まで暗誦して了つた。小学入門の次ぎが小学読本と地理初歩とであつた。読本は初めに人間の顔が五つ描いてあつて、凡地球上の人種は五に分れたり、亜細亜人種、欧羅巴人種……日本人は亜細亜人種の中なり、とある。地理初歩の方には「ナチューラル、ゼオガラヒー」「ポリチカル、ゼオガラヒー」「マテマチカル、ゼオガラヒー」などいふ珍らしい言葉があつて、一二枚めくつた所に東半球と西半球の彩つた図が描いてある。父は毎日両方とも一枚づゝ程教へて呉れた。入門よりもむづかしくはあつたが、併し自分は左程苦しいとも思はず習得た。左官屋の清ちやんが学校で教はるのにどうしても覚えぬといふのが不思議であつた。併し自分は毎夜復習せねばならぬ。昼間遊び過ぐして綿のやうに草臥れた時でも復習せねばならぬ。これ丈は非常につらかつた。或夜駄々を捏ねて、復習せずに了はうとすると、父が非常に怒つて、言ふ事を聴かぬものは内には置かぬ、これを持つて何処へなり行けと、手提げの畚に椀を入れて出した。乞食になつて了へといふのである。
自分は初め大分剛情を張つて居つたが、これを見て急に恐ろしくなつた。母に泣縋つて救を求めた。父は尚ほ出て行け、内には置かぬと呶鳴る。母もお前が剛情だから悪いのだと父の味方をして居る。自分は全く孤立の姿となつて非常に心細く、今夜から本当に乞食になつたらどうせうかと、息が詰まるやうに悲しくなつた。只だ無暗にわあわあと泣いた。やうやう祖父の詫言で、今夜だけは許して貰ふ事になる。許しては貰つたが復習は許されぬ。しぶしぶ行燈の前に机を持出して地理初歩を読始める。啜泣しながら読むのだから丸で声が調はぬ。「ポリチカル、ゼオガラヒー」はアと読上げるうちにも涙が湧いて来てぽたぽたと本の上に落ちる。やうやう読本の方だけ許して貰つて、此夜は乞食にもならず安らかに寝た。
地理初歩と読本の一の巻とを修了した後、いよいよ入校の準備に取かゝつた。入校の手続などに就いて万事世話になつたのは内野の叔母さんであつた。内野の叔母さんといふのは自分の入るべき小学校の教師であつた。五十ばかりでもあらうか、我母の遠い縁続きとかで、予て懇意にして居つた。我家から五六軒先きの門構の家で、これも自分の遊び場所の一つであつた。叔母さんの家の庭には大きな梨の木がある。蜜柑の樹が二三本ある。桜桃が十四五本ある。其中には自分の桜桃と極められて居るのが二本もある。実の熟する時は毎日のやうに遊びに行く。桜桃の実は灯でも点したやうに美しい。叔父さんは謙斎といふ漢学者で、綺麗に頭の禿げた老人であつた。叔父さんの部屋には本箱が幾つも行儀よく並べてあつた。時々叔母さんが此部屋で本を教はつて居られるのを見た事がある。叔父さんも叔母さんも二人ながら眼鏡を掛けて、机の上の一つの本を見るのである。自分の家では斯様な事を見た事が無いので余程不思議に感じた。飯時に行くと叔父さんと叔母さんと向ひ合つて、二人で酒を飲んで居られる事もあつた。銘々前に猪口を置いて、叔父さんが飲むと叔母さんが酌をする、叔母さんが飲むと叔父さんが注いで遣る。時には二人が真ツ赤になつて議論をして居る事などもあつた。
子は三人ある。上二人が女で、三番目が英夫兄さんである。兄さんは自分よりも大分年長で中学生であつた。紙鳶を揚げる事が上手であつた。自分の国では東京のやうに寒い時に紙鳶を揚げるのでは無い。春先きになると空が好く晴れて暖い風が吹き始める。毎日々々同じ強さで吹く。家蔭の雪も残りなく消えて了ふ。すると惣門の内外を問はず、彼方からも此方からも競つて紙鳶を揚げる。うなりの附くのを障子紙鳶といふ。普通のを赤えひ紙鳶と稱へて真四角な紙鳶の一角に尾を一本つける。頼光だの金時だのと色取つたのが多い中に、英夫兄さんのは何時でも真ツ黒である。さうして髭題目のやうな横文字をなぐり書きにしてある。こんなのは他に類が無い。空を見れば兄さんが揚げて居るか居らぬかゞ直ぐ分かる。兄さんは紙鳶揚げに飽きると、木部屋の二階に上つて英語を読む。坐敷の方で読んで居つた事は無い。何時でも木部屋の中で大声を出して読む。近所で英語を読むものは兄さんが唯だ一人である。或時は同じ木部屋の中でどかんどかんと唐臼を踏んで居る事もある。雪が降ると、飢ゑた雀が恐る恐る唐臼の周りに集まつて来る。二階に潜んで居る兄さんは急に戸を引閉てゝ、小窓にぶつゝかる雀を難なく捕へたりする。体格が善いから片時も活動を止めぬ。木部屋は兄さんの書斎でもあり、又運動場でもある。
自分は叔母さんに伴はれて始めて学校に出た。キューキュー鳴る仙台平の袴を穿いて出た。何だか改まつたやうな胸騒ぎのするやうな変な心持であつた。学校に到著した時に丁度授業時間で表は静であつた。幅の広い梯子段を昇つて、直ちに校長室に通される。校長室には畳が敷いてあつて、校長さんが箱火鉢に手を翳して前屈みに坐つて居られた。色の白い、鼻の下に黒い髭のある、お殿様のやうな人であつた。叔母さんが紹介やら何やら色々と挨拶して居られるので、自分は只だ黙つて一度お辞儀をした。大人がするやうに袴の下に手を入れてキチンと坐つて話の済むのを待つて居る。あしたからお出でなさいと校長さんが言ふ。これを汐に立つて各教場を一巡する。廊下も何も無いので教場は丸見えである。畳敷の教場もあれは、テーブルに腰掛のもある。生徒が一斉に顔を向けて自分に注目するので大に極りが悪いけれど、何しろ叔母さんといふ付添があるから心丈夫であつた。成るたけ済ました顔をしてシユツシユツと通つて行く。叔母さんがお辞儀をせよといふ時には其通りにする。大抵こんな処だらうと想像して居つたが、余り生徒が沢山居るので、内々は少し怖ぢ気が附いた。時間の鐘が鳴ると、生徒がばらばらと門内の運動場の方へ出る。自分を見て、上り子だ上り子だと言つて居る。上り子とは新入生といふ意味ださうな。誰やら眼の前に来てにやにや笑つて居る者があると思つたら左官屋の清ちやんであつた。清ちやんにまでも済ましては居られず、それに何やらなつかしいやうな気もするので、自分も思ひ出したやうに笑つて見せた。
叔母さんは其儘に学校に残る。自分は古屋の姉さんに連れて帰つて貰つた。姉さんは内では剣術をする、学校では裁縫を稽古して居る。当分の内は此姉さんの世話になる事になつた。帰つて来ては流石にガツカリした。毎日あんな処に行かねばならんかと思ふと、何となく苦痛である。併し清ちやん達は毎日行くのだから面白いだらうといふ気にもなる。母は何くれと準備をしてくれた。文庫といふ大きな木の箱に、硯や草紙や石板や算盤を取揃へて入れてくれた。弁当箱も出来た。上草履も買つて来た。もうこれで揃つたと言つて居るところへ、古屋の姉さんが遣て来て、も一つ草履札といふものが入りますといふ。棚の上に草履を置く時附けて置く札である。父は早速板切れを将棊の駒形に削つて紐を附けて呉れた。清ちやんも明日の朝誘ひに来ると言つて来た。自分は此姉さんについて出るのだと答へて置いた。
七
下等八級の教場は二階の大広間である。先生は高木とかいふ白髪のお爺さんで、薮睨みの怖い顔の人であつた。窓際に高机を据ゑて、茶の羽織を著て、腰掛けて居る。生徒は幾通りにも竝んで坐つて手習をして居る。男生も女生もまぜまぜである。自分も古屋の姉さんと一所に其中に割込んだ。銘々の文庫と文庫との上に、橋を架けたやうな塩梅に、板台といふものを渡して、其上で手習をするのである。板台は墨で汚れて黒光りに光つて居る。自分は手習道具を出して見て、他の生徒のとひどく違つて居るのに驚いた。自分の草紙は役所反古で作つた白ツぽいもであるのに、他のは墨でぴかぴか光つて、爪で剥がせば剥げさうな位黒く染まつて居る。何だか其方が本当に善い草紙であるやうな気がする。硯も自分のは黒い石のツルツル滑つて磨りにくいのであるに、彼等のは大概虎石とかいふ赤土色の磨りよさゝうな硯である。これも自分のが古風で、彼等のが新式のやうに見える。文庫も自分のは古くてどす黒いが、彼等のは皆飴色に塗つた新しいのである。其他墨が違ふ、算盤が違ふ、風呂敷が違ふ、同じものはたつた巻筆と石板位なもの、自分は大に恥かしく感じたので、家に帰ると直ぐ其不平を訴へた。母は却て他の生徒のが下等なのだと弁解した。春慶塗の文庫が何が善いものか、お前のは古くてもそう総桐だ、どつちが善いか内野の叔母さんに聞いて御覧といふ。草紙はといへば、馬鹿な事を、それは墨で汚れて了つたのだ、お前のも今に其通りになるといふ。何を聞いても一々反駁されるので、成程さうかと半分程得心したが、併し学校に出て較べて見ると、どうしても他のが善く見えて自分のは悪いやうに思はれる。少くとも墨丈けは始めから悪いと思つた通り、どう考へても悪いので、やつと是だけ母にねだつて買つて貰つた。
高木先生は怖い先生である。生徒がペチヤペチヤ饒舌り出すと、習字課無言ツと、破鐘のやうな声で叱られる。すると教場は水を打つたやうに静かになつて、草紙をはねる音ばかりさらさらと聞える。一人がスルツと鼻汁を吸込むと、あつちでもスルツと吸込む。こつちでもスルツと吸込む。暫くすると又隅の方から話が始まつて再び全体にざわめき出す。先生は再び牛のやうな眼をむいて此方を睨む。時にはわんぱく者が引張り出されて罰を与へられる。両手を挙げて塗板の下に直立するのである。もつとヒドイのは縄で縛つて梁木に吊るし上げられる。始めて此教場に坐つた時、屋根裏に太い縄をたくしてぶら下げてあるので、何にする物かと思つて居つたが、或日西野といふ生徒が女生徒にいたづらをしたとかで吊し上げられた。西野が宙にぶら下がつたのを見た時、自分は胴振ひが出るほど恐ろしくなつた。自分の事で無くてもおどおどした。明日は自分の番に当つて居るやうな気もする。始めの内こそ古屋の姉さんが附添うて居てくれたが、一人ツぽちになつては大きに心細い。朋輩の生徒が何のかのと調戯つたり苛めたりするので悲しくなる。泣く。泣くと生徒が慰め顔に寄つてたかつてペチヤクチヤ饒舌る。
又それが悲しくなるので泣く。終日物も言はずに泣く。家に帰ると、又今日も泣いたなと母が言ふ。何故分るのかと思つたら、眼の縁に黒い輪が出来て居るので分るさうな。墨の手で涙を拭くからである。斯くて自分は新入生の泣き虫といふ評判を取つた。
ところが幸にも八級の教場には長く止まらずに済んだ。それは既に自宅で一通り小学入門やいろはの習字等は修業して居つたからである。間も無く七級に編入された。七級の読本は自分の修了した一の巻であつたけれど、算術其他に未修の課目があつたので、七級より上には行かれぬのである。今度の先生は河合といふ若い先生で、生徒には受けの善い人であつた。学校に馴れたせゐでもあらうが、自分は七級になつて始めて学校は愉快な所だと感じた。朋輩にも口を利けば先生にも物を言ふ。始めて先生を呼ぶ時に、どう言つて善いか解らぬので、兄さんと呼んだ。生徒も笑ふし、先生も笑つた。家に帰つて今日笑はれた話をすると、家の者もみんな笑つた。河合先生は生徒を縄で縛るやうな事は無かつたが、其代りに長い矢竹の鞭を持つてわんぱくの頭をたゝく。話をしたといつては叩く。横を向いたといつては叩く。何でもかでも叩く。
竹が古くなつて役に立たなくなると、生徒に山から取つて来てくれと注文する。翌日は生徒が争つて竹を持つて来る。先生は之を束にして置いて、一本宛新しいのを出して、持寄つた生徒等の頭を打つ用に供するのである。幾ら頭を叩かれても生徒はよく河合先生になついて居つた。
自分も河合先生は大好きであつた。内野の叔母さんは隣の六級の先生である。眼鏡を掛けて椅子に腰をかけて小学読本の講釈をして居られる。その甲走つた声が叔父さんと議論する時と同じやうに大きい。自分は叔母さんが間近に居られるので、気強くもあり又幾らか窮屈にも感じた。
学校の清書には梅の花の代りに蛇の目の丸が附いた。初めは変に思つたが後には此方が新式で善いと思つた。評は佳々とか大佳とか絶佳とかいふのであつた。先生の算盤が馬鹿に大きくてをかしかつた。それから乗算九々を全級同音で、思切り大きな声を出して呼ぶのが面白かつた。
併し自分は総ての学課の中で、読本が一等好きであつた。講義を聞くと、家で教はつた時よりも善く訳が解るので、非常に愉快に感じた。此読本は大体ウヰルソンのリードルの翻訳で、今の読本に較べると余程西洋の趣味に富んで居つた。猿が手を有つ、蟻が足を有つといふ所が無い丈けで、あとはウヰルソンの通りであつた。洋服を著た子供が毯を投げて遊ぶ絵がある。自分も其通りにして遊んだら、どんなに面白いだらうと思ふ。氷の上を橇に乗つて遊ぶところがある。これも真似をして見たい。これは田舎の富家なりとあつて、西洋造りの家が描いてある。自分も此様な家に住まつて見たくなる。すべて西洋の家、西洋の景色、西洋の人物、何でも西洋の物が愉快さうに思はれる。木は嫩茅を生じ、草は新葉を発し、看るとして緑ならざるは無し、といふやうな文句がむやみに愉快に感じられる。だんだん級が進むに従つて、狼来れり狼来れりといふ話、怠惰者が酒に身を持崩して終に獄に繋がれるといふ話、子供が火なぶりをして火事を出したといふ話などの講義を聞くと、ぞくぞくする程嬉しかつたり悲しかつたりする。兎に角自分は読本を読むと半分西洋の子供になつて居るやうな気がする。内では母に昔話を聞く。母の昔話は怖い話が多くて読本の愉快な話とは反対である。酒巓童子の話、小栗判官の話、それから維新前後の実話で、母の実家の近所に居つた成瀬といふ老人が手癖の悪い息子を斬殺して湯を浴びて居つたところが、斬られた息子がだらりと右の肩をぶら下げて湯殿に出て来て、お父様水を一杯飲まして下さいと言つたといふ話、堀内といふ医者が代脈と密通した妻を斬つて、足の裏をグサリグサリと刀で突刺したといふ話などは聴くたびに縮み上がるほど恐ろしい。
学校に通つたのは長い間の事だから、面白い事も辛らい事も数々あつたらうが、纏まつた事は覚えて居らぬ。又自分は学友の中に特に親友といふものが無くて、何時も孤立して居つた。勉強は大嫌ひであつたが、成績は悪い事は無かつた。大抵二番か三番に居つた。試験の時には褒賞を貰ふに極つて居つた。褒賞といつても大したものでは無い。画仙紙を五枚とか、罫紙を五帖とか先づそんなもので、卒業の時に銅版の字引を貰つたのが一番上等であつた。何級の時であつたか覚えぬが暫くの間村上先生といふのが受持になつた事がある。此先生は前の不人望な何とか先生に比べると、優しくて親切で非常に受けが善かつた。何時でも頭を綺麗に分けて居る先生であつた。或時先生は據ない事情で他に転校せねばならぬとかで、皆さん今日限りで私の授業はお仕舞と致します、皆さんは私の受持の間は極くおとなしく善く勉強して呉れました、どうぞ先生が変つても是迄と同じやうにおとなしく勉強せねばなりません、決して村上先生は斯うであつたとか、あゝであつたとか言つてはなりません……と此日は格別顔を和らげて訓戒した。女生は皆袂を顔に当てゝ泣き出した。男生は泣き出すまでには至らなかつたが、みんな物も言はずに先生の顔を見詰めて居つた。丁度其頃校長が変つた時で開発的の何のといふ程度には無論進んでは居なかつたが、それでも授業の方法が著々改良せられる、体罰等も少なくなる、土曜日毎に修身講話が開かれる、校長が勧善訓蒙の講釈をする、といふやうな極めて校風の盛な時であつたやうに記憶して居る。
自分の家は又転宅した。今度は城山の裾で、市街からは元の家よりも一層途離れた、屋敷の広い一搆へであつた。屋敷の南は城山の続きの小山で限られて居る。全体が桑と麦の畑になつて居て、畑の中には大きな池が二つもある。此処に越して来てから自分は俄に友達が殖えた。それは自分共の遊場としては此上も無い小山があるからで、学校から帰れば殆んど毎日友達と裏の山で遊び暮らす事になつた。友達は来なくても自分は山で遊んだ。内に居つて本を読むよりも独りで山を歩行いた方が面白かつた。隣りの小原の幹さんも矢張学校友達で、これとは殊に親密になつた。小原には叔母さんがたつた一人あるきりである。幹さんは母の手助けに毎日山に登つて杉の枯葉を集めて来る。幹さんが登れば自分も直ぐ其あとについて登る。殆んど競争する様にして集める。熊笹を分けたり雑木の枝にすがつたりして拾ひ集める。秋になると色々の菌が生える。何時でも幹さんと採りに行く。自分独りでも採りに行く。朝採つて来て又晩にも採りに行く。さう無暗に菌が生えるでも無いから、時にはさらさらと夕風の渡る笹の中にボンヤリして立ちつくして居ると、急に淋しさを感じて一息に駆下つて了ふ事もある。猿茨の実、木苺の実、山葡萄の紫の実などは菌に次いでの嬉しいものである。茨ぐろをくゞつて鶯に似た虫喰鳥が飛ぶ。これも嬉しい。小山を登りつめると、赤禿げの平らに出る。松の間から市街を一目に見下ろして、遥かに国境の山々を望む。市外の野に一筋の布を曝らしたやうに見えるのは大川である。大川の末は流れて砂浜のかたへの港へ注ぐ。浜には音も無く白波が打寄せて居る。晴れた日には隠岐の島さへ見えるといふ。あると思へば見える。無いと思へば消えて了ふ。雲か島かの境が判らぬ。砂浜を三里東へ行けば自分の生れ故郷に帰れるのだと思ふ。白波は絶えず打寄せる。飛べば直ぐ飛んで行かれさうにも思はれて、身は小山の上に在る事を忘れて居る。ふと眼を右に転ずると、険阻な城山は我が面を圧して巨人の胸を張つたやうに逼る。頂上の松すらも見えぬのは偉大に過ぎて恐ろしさを感ずる位である。
八重さんが遊びに来た時、自分は彼れを伴うて此平に登つた。僅かの山路にも歩き慣れぬ八重さんは、年少の自分に手を曳かれて薬研のやうな道を喘ぎ喘ぎ登つた。自分は八重さんを切株に腰掛けさせて、八重さんの家のあるところを教へる。八重さんは、何物をか恐るゝやうにあたりを見廻はして只だ軽くうなづく。自分はあつちに廻り、こつちに走りして、八重さんの気に入りさうな処を指ざし教へる。八重さんはもう帰らうと云ふ。碌に見もせずに、只管下山を急ぐ。何故八重さんは山が面白くないのだらうと訝りつゝ、強て留まる事も出来ずして再び山を下りる。下りるに従て八重さんはだんだんに口を利き始める。顔の色も何時もの紅い活発な色に返る。八重さんは山が嫌ひかと聞くと、内の方が善いわといふ。八重さんは山が怖かつたに相違ない。町に住む人は其様に山が怖いのかと、何だか自分丈け怖くない事が不思議にも思はれる。八重さんは内に帰ると直ぐにいたづらを始める。今度来たら今一度山に連れて登つていぢめて遣らうと思つて居るうち、八重さんの家は急に東京に引越す事になつた。其後八重さんには二十年も会はなかつた。
八
或日学校の帰りに、戸長役場の前の泥溝をつゝいて遊んで居ると、後から、声を掛けて、坊さん何をして居なさると呼んだものがある。誰れかと振向いて見ると長屋の婆さんであつた。婆さんは涙ぐんだやうな眼付をして、早くお帰りなされ、お祖父さんが死になさつたといふ。自分は直ちに竹を投棄てて立上がつた。別に悲しいとも思はなかつたが、何やら怖いやうな胸が震ふやうな変な心持で急いで帰つた。帰つて見ると、早や近所の人や、親戚の叔父さんなどが五六人も詰掛けて居る。父や母は自分が帰つて来たのも眼に入らぬのか、丸で構ひ付けもせずに取込んで居る。茶の間では酒を飲んで居る者もある。飯を食つて居るものもある。いつもの内の容子に較べると、何となく陽気で、怖気などは何処かへ消えて了つたが、只だ何だか他人の家へ呼ばれて行つた時のやうな窮屈さを感じた。で、人にお辞儀もせずにポツンと立つて居つた。
暫くしてから長屋の婆さんが自分を引張つて、祖父の寝所に連れて行つて、坊さんも末期の水をお上げなされといふ。祖父は何時もの通り蒲団を著て壁の方を向いて寝て居る。枕元に水を入れた湯呑が置いてある。祖父は死んで居るのだなと思つて覗いて見る。怖くも何とも無い。
何時も寝て居る通りである。父も出て来て、其水を紙につけてお祖父さんの口に入れて上げよといふ。自分は教はつた通りに紙を水に浸して二雫ばかり祖父の口にたらした。水をたらされても祖父は何とも言はむ。祖父はいよいよ死んだのだと合点する。
祖父が病の床に就いたのは昨日や今日の事では無い。此屋敷に引越して来ると間もなく膓胃を損じて、其後絶えず医薬に親しむ様になつた。春日の麗かに晴れた日には、今一度元気になつて見たいと、両手に杖を突いて勉めて庭を歩く事などもあつたが、自分は其老いさらばひた容子を見て、迚も恢復は覚束ないと思つた。元来祖父は若い時から至つて健康な体質で、旧藩時代には裏判方といふ今の会計官吏を勤めた。御用商人を相手の役人だから自然有福でも有り、其の頃の元気はなかなか大したもので有つたさうな。自分が覚えるやうになつてからも年を取つて微禄こそして居れ、体は大丈夫なものであつた。物見遊山の折は祖父が何時でも先導者であつた。春の野遊びに祖父が野風呂を立てる姿は今も眼の前に見る様な心地する。磧の花火見物にも度々行つた。我地方の花火は東京の玉屋鍵屋の様な花火屋の受負仕事で無く、士族の真面目な仕事である。梶川流は打揚げが高くて月を吊る時間に余裕がある。渡辺流は火が低くて色が美しい。従つて仕懸物が巧いといふやうに互に流派を争つて秘伝ものにして居る。水を隔てゝ向ふの堤に家の定紋打つた幔幕が張られる。六寸玉、八寸玉、時には一尺玉の筒さへ据ゑる。打揚げの合図に法螺の貝を吹く。ブウーウーワンブウーウーワンと三度鳴響く。磧に集ふ数万の見物人は胸を躍らせ、鳴りを鎮めて待つて居る。此時陣笠を冠ぶつて、袴の股立を取つた導火方が筒の前に現れる。竹の尖の火縄を大きく廻はして静に火を点ける。ドシーンと天地を撼かす響と共に玉は遙かに中天にある。開くかと見るに、玉は尚ほ一尺登り五寸登る。見物は息も詰まる思ひである。登り切つたところでパツと煙を吐く。紅龍白龍と相連なつて現るゝ時、磧の群集は一度にウワーと鬨の声を揚げる。陣笠の導火方は茲に面目を施して悠々と幕の内に退くのである。花火見物に限らず祖父は遊ぶ事は何でも好きであつた。祖父が遊びに行けば自分は何時でも連れて行つて貰つた。祖父は又至つて筆まめであつた。何処からか古新聞などを借りて来ては罫紙に細字で写して居つた。それが積り積つて用箪笥に一ぱいと本箱に一ぱいあつた。床に就くやうになつてから、自ら死期を知つたのであるか、或時母を枕辺に呼んで之を選分けさせた。それは紙屑にするの、それは棺に入れるのと一々指図して居つた。又死に先だつ一ケ月間程は全く耄碌して了つて、全で訳の分らぬ事を真面目に口走つて居つた。それが可笑しいと言つて母が笑ふと、祖父は血相変へて怒る事などもあつた。
野辺送りの用意は一両日続いて賑やかであつた。母が経帷子を縫ふ。長屋の婆が茶袋を詰める。
自分は三途の河の渡し銭だといふので、墨で半紙にべたべた銭形を捺した。甕に納めて白い布を掛けて、座敷の正面に直した時は、祖父も始めて仏様になつたやうな心持がした。葬礼の行列は割合に淋しかつた、親戚五六人の外に近所の人が少しばかり加はつた。其中に宮本老人といふのが、昔祖父の下役であつたとかで、平素は余り往来もせぬのに来て呉れた。此老人が悔みに来た時、若い者の死ぬるのは苦にもならぬが、年寄が死ぬる話を聞くと気味が悪うてならぬと言つたげな。祖父は生前から墓を造つて置いた。祖母のと並べて戒名も彫付けてあつた。先祖代々の墓が五六基並んで居る中に、祖父祖母のが一番大きくて立派であつた。祖父の柩は此墓石の下に永久に埋められた。
法事は其後たびたびあつた。自分は何時でも親戚の子供連れと一緒に、つるつる滑りさうな本堂の廊下を走り廻るのが面白かつた。読経は音頭取りの銅鑼の音を以て始まる。御経が始まると流石に気が改まつて騒いでも居られぬ。子供連は前の方に並んで各両手を膝に載せて菓子が出るのを待つて居る。菓子は例の馬の耳に大饅頭と茄子餅である。茄子で作つた餅では無い。茄子の形をした黒い餅で、食べると歯に喰付くやうなものである。御経の声は眠くなる程静かである。御経は曹洞宗に限ると父は言ふ。自分も子供の時から聞慣れて居るせゐか、家の寺のが一番善いやうに思ふ。法事の事を言へば母の里方もたびたび法事のある家で、自分は母と共に度々呼ばれて行つた。家の寺と違ふところは、本堂の隅に大きな太皷があつて、読経の始まる前に小僧がそれを叩く事と、町の唖娘が菓子を貰ひに来る事と、それから法事の済んだ後に方丈で御馳走が出る事等であつた。方丈は庭の池に突出て居て、手をたゝくと鯉がゴヨゴヨと集まつて来る。馬の耳を投げて遣る。饅頭の皮を投げて遣る。鯉は燃える躑躅の影を乱してカプリカプリと馬の耳と饅頭の皮を争ふのである。此処の和尚様は酒の席に出て来る事は滅多に無かつた。只だ席を貸して呉れるだけであつたと見える。
母の里は当時近在に住居して居つた。市街を一里ばかり隔たつた小村の、木の葉石の出る山の裾であつた。自分は時々母に連れられて泊りがけに遊びに行つた。お婆さんと従兄が三人あつた。下の従兄は自分と同い年であつたが、村の子供と同じやうに、井手川の目高をしやくつたり、鮒を捕つたりする事が上手であつた。上の二人は自分よりは年も大分上で兄株であつた。二人して縁側一ぱいに小鳥を飼つて居つた。自分も一度小鳥を捕りに二人について裏の山に登つた事がある。まだ眠いのに薄暗い山路をすたすた登つて行くのは厭であつた。二人は自分にも構はず松の上の囮籠を見詰めて一生懸命である。颯と音を立てゝ鳥が渡つて来ると、静に静にと叱り廻はす。何も騒ぎはせぬのに無暗に叱る。あとりがかゝる。鶸がかゝる。かゝるたびに囮を卸して唾を付けて黐を繕ふ。兄弟の眼は火のやうに光つて居る。自分は余り面白くないので弁当の握飯を貰つて食ふ。夜が明け放れると眼の下の田圃の黄ばんだ景色は眼も醒めるやうに美しい。城下にも斯んな広々した処があれば善いと思ふ。
或年、上の従兄に嫁さんが来た。無論自分も呼ばれて行つた。嫁さんは隣の国から来たので、著くと直ぐ北側の三畳の部屋に這入る事になつた。元来が狭い家だから、座敷にも台所にも客が一ぱい居るので、自分は始終嫁さんの部屋に居つた。嫁さんはお白粉をつけて、綺麗な着物をきて、行儀よく部屋の真中に坐つて居る。坊さんは大人しう御座んすなといふ。自分は只だ笑つて顔を見て居る。嫁さんは嫁に来ても、少しもてれて居る容子は無い。只だ行儀よく両手を膝の上に重ねて、おちよぼ口をして坐つて居る。朝から晩まで坐つて居る。手水に立つ時と御飯を食ふ時の外は一寸も動かぬ。式が済んだあとの御馳走には自分も席に列なつた。嫁さんは御飯を山盛りにされて、困つたやうな顔して箸を執つた。叔父さんや叔母さんが哄と笑つた。
これが儀式で目出たいのださうな。追々酒が廻るにつれて謡が出る。唄が出る。聟の従兄が真赤に酔つて踊り出すといふやうな騒ぎで、何時の間にか嫁さんは昼間の部屋に引込んで了つた。
聟が水の代りに白米を頭から祝はれた時は、もうスツカリ盛り潰されて了つて正体はなかつた。
御客も酔倒れて了つたり、帰つたりして、少し静かになつた時、村の若い衆が十人ばかり座頭の姿態をして御祝に来た。三味線を弾くやら唄ふやら踊るやらで、又大騒ぎになつた。此夜自分は泊つたのか、家に帰つたのかどうも思出せぬ。
或時自分は聟の従兄について温泉に一週間ばかり行つた事がある、温泉場は城下から三里ばかり離れた小村である。自分は生れて始めて宿屋といふものに泊つたので、此一週間は実に我慢が仕切れぬ程長い思をした。遊仲間は無し、一日の中に一二回入浴する外、何もする事が無いので、退屈で仕方が無かつた。半日は挽物細工の店頭に立つて、独楽や筆筒が出来るのを見暮らし、又半日は牛や馬が湯を使ふのを見暮らす。牛湯があり、馬湯がある。総湯には村の百姓も、通り懸りの旅の者も来る。湯に入るものは皆浅い柄杓を持つて、唄に合せて頭に湯をかぶる。始まる始まる、三つに四ツつはいつでも六ツつ、なンな八ツつはお豊がまゐる、と十づゝ数へて百かぶる。中には剽軽な入れ文句などがあつて、実際の数は二百にもなる。柄杓の湯を打つ音は鼓の音にも擬がうて賑やかである。これは内湯でもする事だが、総湯の音ほど盛んで無い。宿屋に泊つて居るものでも、此の騒ぎが面白くて、態々総湯に入りに行く人もある。自分は人と一所に湯に入る事はきらひだから、外で音を聞くばかりで一度も行つた事は無い。内湯でも成るたけ人の居らぬ時刻を見計らつて入るやうにした。湯は底の板がギラギラ光る程澄み切つて居る。手の色も足の色も、体の色が総体青くなつて見える。こんな綺麗な湯に入るのはこれも生れて始めてである。湯に入つて足の先きまで見えるのは不思議な事のやうに思はれた。
或日例の如く自分独り這入つて、湯桁につかまつて泳ぐ真似などして居ると、不意に戸を開けて段を下りて来たものがある。後ろを向いて見ると思掛けない若い女であつた。真白な体を少し屈めて、湯桁に坐つて肩の辺りから湯を流し始めた。自分の顔を見て、坊さんは六番かなと言つて莞爾と笑つた。何処やら荒物屋の多代に似て居ると思つた。自分は六番といふ意味が解らなかつたので、只だヱヽと曖昧に答へて置く。女は俯向いて頸筋を洗つたり、又仰向いて首を洗つたりした。暫くしてドボンと湯に入つた。女の脊中もやつぱり青く見える。片膝立てゝ坐つて居る姿勢までハツキリ見える。自分は女を残して先きに上がつた。従兄に女が六番かと聞いた事を話したら、あれは晩夜十番の室に来た新地の藝子だと言つた。
九
自分は夢の如き回想記を終るに臨んで、二三の年中行事を語らねばならぬ。
正月元日の朝はまだ暗い内に眼がさめる。起きて見ると、もうちやんと神棚に灯がともつて居る。年中ともした事の無い神棚の灯は、煤けた壁や天井を隈なく照らして居るので先づ気が改まる、何となくそはそはと落付かぬやうな気がして嬉しくて堪らぬ。皆が起揃つたところで父が一番に三宝の前に坐つて大福茶を飲む。祖父が存命の時分は勿論祖父が一番であつた。次ぎに自分の番で、おめでたうと三宝に頭を下げて飲む。泡の下から酸つぱい汁が来る。お仕舞には梅干の皮が出る。
これで式が済むので、あとは暫く雑煮の出来るのを待つて居る。屠蘇が出る。膳が並ぶ。膳の上にはこれも一年に一度づゝ出る塗椀と太箸が配られる。自分の椀は笹の定紋がついて居るので、あゝこれだなと年毎なつかしく思ふ。お平の蓋には歯朶の葉にごまめが二つ宛つけてある。どの蓋を覗いて見ても神棚の灯が黒漆に映じてきらきらと小さく光つて居る。
三ケ日の間は毎日此通りである。雑煮を祝ひ了つた頃にはもう夜も明け放れて居る。押入れから新しい足袋や木履を出して畳の上で穿いて見る。急に丈けが高くなつて、家中の者を見下ろすやうな、危ぶないやうな気がする。着物を着代へさせて貰つて親戚に年頭に行く。三宝を戴いてお目出たうを言ふのは極りが悪いが、其代り年玉が出るから楽みである。石田ではいつでも鼻紙二帖に極まつて居る。一番善いのが母の里で、毎年祝儀袋に銀貨が一つ宛入れてある。自分には其頃銀貨程珍らしくて嬉しい物は他に類が無かつた。遊び連れが寄ると、貰ひ溜めた鼻紙を賭けて吉独楽といふ事をする。六角に削つた独楽の側面に、大吉とか半吉とか、一枚とか二枚とか記してある。一枚と出たら一枚張る。二枚が出たら二枚張る。大吉は皆取るので半吉は半分取る。何れも大吉が出よと念じて廻すのである。其から又針打といふ事をする。縫針に刺した黒豆を前歯に咬へて、針の糸を引く勢に、畳の上に重ねた鼻紙の上に打付ける。打込んだ針の糸を静に引上げると、幾枚かの紙がくつ付いて上がる。上がつた紙が銘々の所得になるのであるが、針打で取つた紙には針の孔がポツポツあいて居るので厭であつた。針打は石田の幸ちやんが一番の上手で、出した丈は何時でもみんな取つて了ふ。
三月の雛の節句、これも自分には思出多き日の一つである。旧暦の三月だから、桃や李が一時に咲く。女子供のある家では、どの家もどの家も大きな雛壇を作つて雛を飾る。我家には女の子は無くても母の古雛を飾つて貰ふ。大形な内裏さんの外に、武内宿禰などの武者人形もある。薄汚くなつた狆もある。流し雛の外には新しいのを買足す事が無いから、何時も馴染の雛ばかりである。近所の雛、親戚の雛と順に見せて貰ひに行く。行く先き先きで御馳走になり、菓子を貰つて帰る。
或年の雛の日であつた。自分は例の通り雛見に出て、石田の幸ちやんの内で、きらひな白酒を無理に猪口に一ぱい飲まされて、苦しい胸を押さへて帰つて来た其晩であつた。遽に腹が痛むやら吐くやらで、前後不覚に床に就いて了つた。翌日眼が覚めてもなかなか頭が上らぬ。白酒の事を思ふと胸先がむかついて来る。医者が朝と晩と二度づゝも来るといふやうな騒ぎで、二三日は粥さへ喉に通らぬ苦みであつた。然し其苦みにも増した苦みは、病後十二ケ月が間の食慾の制限であつた。父や母は好きなものを食ひ放題に食ひながら、自分には医者に叱られると言つて少しも分けて呉れぬ。残念やら羨ましいやらで其都度泣いてばかり居つた。
かねて泣虫であつたのが此頃は特に涙脆くなつた。食物で小言を言はれると直ぐ涙が出た。薄い粥が一ケ月ばかりも続いた後、漸く飯の許しが出た。其日の晩餐には始めて人間の仲間入りしたやうな気がして嬉しくて堪らなかつた。而かも飯は始めだから控へ目にせねばならぬといふので、たつた一椀しか貰へなかつた。こんな事ならまだ粥の方が好いと思つた。併し泣いても笑つても母は一椀ぎりしか呉れぬ。折角癒りかけたものを今、後戻りしたらどうするか、お医者様が飯はまだ早いと言つて居られる、と母は固く医者を信じて我が小さな願を容れなかつた。三日目に一口、五日目に又一口と極少量づゝ増しては呉れたが、もどかしくて堪らんので、窃に母の眼を偸んで、お櫃の飯を掴み出して食つたり、又は仏前に供へた飯を卸す役目を引受けて、巧みに一口二口盗み食ふのであつた。盗むのは悪いと知りつゝも、盗飯がギユウと喉を擦過する旨味は何とも彼とも言へぬものであつた。若しも永久に空腹が続くものなら、自分は生涯飯盗人で了つたかも知れぬ。幸にして漸次本復したので、何時の間にか其事は忘れて了つた。
病気でなくても、其頃自分の胸を痛める些細な苦痛は数々あつた。元来が貧乏士族の家庭だから、万事倹約々々で、薄弱な自分の性質をば一層けち臭い根性にして了つたやうに思ふ。酒を買ひに行かねばならぬ。酢も買ひに行かねばならぬ。雪の降る日は古い藁履を穿いて行く。藁履といふは藁で造つた長靴のやうなもので、新しいものは温かくて気持ちが善いが、水に滲みた古いやつは跣足で歩くよりも冷めたい。母はナカナカ新しいのを買つて呉れぬ。自分は此古履を穿くのが厭で堪らなかつた。それから五厘か一銭の酢を買ふのに徳利が馬鹿に大きい。フラスコと言つて、黒い大きな、底のグウツと持上がつた、葡萄酒か何かの空瓶である。医者に薬を貰ひに行くにも矢張りフラスコ瓶である。も少し軽い恰好な瓶を買つて呉れと言つても、どうしても買つてくれぬ。それから又時々牛肉を買ひに行く。牛肉を売る家は当時城下に只だ一軒しか無かつた。片山とかいふ士族の商法で、店の奥に人相の悪い××が眼を光らして居る事が多かつた。牛肉を買ひに行く時は母はいつでも二銭出して呉れた。自分は此二銭の使に行くのが非常に辛らかつた。当時は一斤僅か七銭か八銭であつたけれども、二銭が牛肉を買ひに行くものは恐らく自分一人であつたやうに思ふ。大きな店頭に立つて、たつた二銭出すのが恥かしくもあり、又僅か二銭のために態々遠方に使に行くのが馬鹿らしくもあつた。自分は屡々母にもう一銭増して呉れるやうにせがんだが、母は行くのが厭ならおやめよと言つて取合はなかつた。自分は仕方なしに何時も二銭銅貨を只一つ握りつめてイヤイヤ牛肉を買ひに行くのであつた。
蚕飼も我家の年中行事の一つに数へねばならぬ。軟かい桑の若芽が吹く頃になると、赤引だの小石丸だのといふ種紙から、塵五味のやうな蚕を菓子箱の蓋に掃き下ろす。それがだんだん大きくなると、大筵に三十枚位になる。斯うなると家中蚕棚で一ぱいになつて了て、残る所は台所の板の間と薄暗い茶の間ばかりである。大方は母の手一つでするので、盛りになると父も手助けをする。上簇る二三目前からは長屋の婆さんも来て手伝つて呉れる。桑は裏の畑に植付けた立木から扱くので、これは別に人を雇つてさせる。食ひ盛りになると、家中雨のふるやうな音を立てゝ食ふ。雨の日は桑を枝の儘伐つて来て軒に吊す。その欝陶しさは一通りで無い。夜中に眼を覚まして見ると、母は手燭をともして棚の間を見廻はつて居る事が多い。上簇前は徹夜する事もある。蚕飼時は遊ぶのも本を凌へるのも、自分の勝手放題であるので、大に都合が善かつたが、其代り飯を食ふにも、夜寝るにも、誰れも構付ける者が無い。お負けに家中蚕の糞だらけで汚ない事は此上も無い。蚕を飼はぬ家に遊びに行つて見ると、綺麗で広々として居つて坐り心が善い。内も早く蚕が済めば善いなと、蚕が上簇する日ばかり待焦れて居る。
愈よ繭の収穫も済んで、棚が取外づされて、蚕の糞が掃出されて了ふと、急に家が明るくなつて、野に出たやうな、無暗に飛廻はつて見たいやうな気がする。坐敷の真中に膳を据ゑて飯を食ふのも久々の事で、珍らしくも又嬉しくて堪らぬ。繭は直ちに繭買に売つて了ふ事もある。絲採女を雇つて絲にする事もある。二つの繭の絲は自分等の着料にもなり手もくりとかいふ屑糸は父の紬の羽織になつた事もある。
ところが或年蚕に病がついて上簇前になつたのを大部分捨てゝ了つた。其の翌年は繭の値が下落して引合はなかつた。母が癇癪を起して、蚕は来年からはもう飼はぬと言ひ出した。父はマアさう言つたもので無いと宥めたが、母はどうしても聴かなかつたので、其後永久お廃めになつた。自分は再び汚ない窮屈な蚕棚の中に起臥せずに済むやうになつた事を窃に喜んだ。
母が蚕飼に熱心したやうに、父は一時畑作に夢中であつた。大根も作れば南瓜も作る。普通の野菜類は何でも作る。池を真中に五反ばかりもある畑は只だ其丈けでは広過ぎるので、冬から春にかけては大部分は麦畑になつて了ふ。蚕が終る頃になると、丁度麦の秋である。体のだるい南風が幾日も吹続く。其間に刈入れが済んで、天気の善い時に麦の穂をはたき落とす時などは、全で百姓家のやうな騒ぎであつた。麦藁で馬や栄螺を作る事を覚えたのは此時であつた。
麦秋が済むと五月の節句になる。節句には幟を立てる。多くの家のは細長い織物の幟だが自分の内のは幅の広い紙幟である。鍾馗が鬼を引掴んで居る図で、城山颪にガワガワと鳴る。他所の幟よりも何となく勇ましい。鯉も二丈に余つて長く垂れると屋根の葡萄棚に引ずつて居る。父が鎧櫃から甲冑を取出して飾る。色は褪めて居ても緋縅である。半頬の白髭は針を植ゑたやうに光つて居る。母は台所で粽を作るに忙がしい。笹ツ葉は自分が裏の山から取つて来るのである。粽の団子は透けて見える程よく蒸せたのが旨い。
夏になると伊勢の太神楽が来る。自分等少年は頭が焼けるやうに暑くても構はず跟いて廻はる。太神楽は昔から夏来るに極まつて居るので、一行中の老太夫は母の子供の頃から見馴れて居るさうな。大きな士族の家では大抵打たせる。演技する事を打つといふのである。半日ついて廻れば屹度二つや三つは見られる。長いのになると半日も、稀には終日かゝる事さへある。士族の家では門の内又は庭先きで打つ。子供は悪戯さへしなければ自由に見物が出来る。重なる演技者をば先生と言ひ習はして居つた。おどけも白粉を塗つたり赤い着物を着たりせずに、紺の手拭で頬被りをして、これも同じく袴を穿いて居つた。自分の家では一度も太神楽を打たせた事が無い。太神楽について廻る時に、家の前を通ると何となく肩身が狭いやうな気がした。
太神楽は存分に見て廻つたが其他の興行物の類は滅多に見せて貰へなかつた。或時相撲が招魂社の境内で興行された事があつた。自分は見たくて堪らなかつたけれども、母はどうしても許さなかつた。学校の帰途には木戸口に行つて見たり、板囲の廻りをグルグル廻つたりした。すると自分と同じやうな木戸銭を持たぬ学校友達が居つて、後ろの板囲に攀登つて見やうと言つた。彼はあたりに人の居らぬのを見済まして板囲に飛付いた。自分も之に倣つて飛付いた。友達は早や頭を板囲の上に出して場内を見て居る。自分も腕を縮めて首を持上げて見る。中の見物は皆土俵場の方に向いて立つて居るので、誰も自分等を見て居る者は無い。友達は自分と顔を見合して板囲を跨いだ。自分が真似をして跨いだ時は、彼はもう囲の内に下り立つて、何処かに姿を隠して了つた。自分は止めやうかとは思つたが、友達が這入つたのに自分丈け這入らぬのは損のやうな気がして、ツイずるずると草の上に下りた。首尾よく這入りはしたものゝ扨て気持が悪い。盛に動悸が打つ。人の間から一寸土俵場の方を覗いて見たが、どうも見て居る気にならぬ。友達は何処へ行つたかサツパリ分らぬ。自分は巡査にでも咎められたらどうせうかと遽に怖気がついて、急いで木戸口を出て了つた。内に帰つてからも黙つて居つては気が済まぬので、半分は罪を友達に被せながら、右の次第を逐一母に語つた。母は竃の前に坐つて飯を焚いて居つた。母は非常に駭いたらしく、力の籠つた声で自分の罪を責めた。昔、木村といふ侍の息子が村芝居に忍んで這入つた事が発覚して切腹を仰付かつた話などをして、涙をこぼして叱り且つ諭した。飯の焦げ附くのも忘れて小言を言つた。自分は其時は左程にも思はなかつたが、二三日後に表で遊んで居ると、丁度通りかゝつた意地悪の豆腐屋の小僧が、お前は相撲場壕の板塀を越して這入つたな、わしはチヤンと見て居つたぞと言捨てゝ去つた。自分は水を浴せられたやうに驚いた。誰も知つては居るまいと思つたのに、あんな意地悪に見附かつてはどうなるか判らぬと、此時こそ身に染みて後悔した。当分は気持が悪くて友達と遊んでも遊ぶ気がしなかつた。其後悪戯をして父にひどく叱られた事もある。学校で罰を喰つた事もある。併し此時程自分で自分の非を悔いた事は無い。これは自分が小学校を卒業する前年の事であつた。
七夕、盆踊、ずつと飛んで餅搗など、後半年の行事には取立てゝ記す程の事も無い。