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からす組(抄)

 目次

 衝撃隊誕生

 女郎屋本陣

 血風化地蔵

 細谷烏

   衝撃隊誕生

"薩長を斬れ!!"

 世良修蔵誅戮(ちゅうりく)にはじまるこの仙台藩士正義派の行動は、以前から隠忍していた人々の溜飲を下げた。

「よくやってくれた、それでこそ仙台武士じゃ」

「藩祖政宗公も地下でお喜びであろうぞ」

「薩長などの奴輩に仙台武士が舐められてたまるか」

 この誅戮の血風の外に細谷十太夫はいた。

「どうやら、おれの出番はなくなったようだ」

 と、言って、浅草屋宇一郎の家で悠々と過ごしている。

 あの(からす)がすっかり十太夫になついて、離れようとしないのが、退屈をまぎらしてくれる。

「宇一、こいつは、どうやら、おれの身内になった気らしいぜ」

「へえ、烏にも、旦那のお人柄がわかるんでしょう」

「人懐っこいやつだ。だが、カラスと呼ぶのは可哀想だ。名前をつけてやらねばなるまい」

「そうでござんすね。カラスと呼んだだけじゃ、ほかの烏がやってきますからねえ」

「それで考えたのだが、烏は(おん)読みにすれば"う"だ」

「へえ」

「おれの一番目の家来だから、烏の一と書いて、ういち」

「とっとっと、旦那、ひでえ冗談だあね。この宇一と烏一とどうやって区別するんですかえ」

「ういち、と呼んで、人間の言葉で返事がありゃ、宇一だ」

「てへっ、勘弁しておくんなさい、そればっかりは願い下げだ。この黒いのが、あっしと同じ名前だとなると、子分どもが間違ってしまいますからねえ」

「仲良く出来ないか」

「出来ませんね。しめ殺したくなりまさ」

「宇一親分に締め殺されては可哀想だ、ほかに考えねばならんな」

 十太夫の言っていることは、どこまで本気かわからない。

「ねえ、旦那、おりんのやつが、このカラスのことを、クロって呼んでましたぜ。黒いからクロだ。クロにしたらどうですかねえ」

「黒いからクロというのは、あまりにも単純だな。だが、おりんがつけたのなら、それでもよいな。クロか、黒助がよい。クロスケと呼ぼう」

「ああ、そいつァいい。やれやれ宇一は、あっしだけで助かった。おい、クロスケ。おめえには似合いだ」

 まるで、言葉がわかるかのように、烏は、カアと()いた。

「はははは、喜んでやがる。旦那返事をしましたぜ」

「クロスケ、今日から、お前の名前だ」

 と、十太夫は、肩に乗せてやった。

 奥羽越同盟が成って大小各三十一藩が会津と庄内の窮状打開のために動くことになっている。会津探索を命じられていた十太夫だが、当の会津藩が盟邦になったのだ。もう探りに潜入することはない。

 だが、時勢は、この男をいつまでも遊ばせなかった。

「会津と同盟したからといって、おぬしの役目がなくなったと思ったら大間違いだぞ」と、但木土佐は、言った。

 細谷十太夫を白石の本営に呼んでのことである。

「しかし、拙者は何をすればよいのか。会津には潜入せずとも、喜んで迎え入れてくれるでしょうな」

「だから、おぬしは、江戸へゆけ」

「江戸へ?」

「そうじゃ。かような立場になった以上江戸の動向を知るのが肝要じゃ。江戸からは、どれほどの人数を送りこんでくるか、機械の数なども探れるだけ探れ」

 機械とは鉄砲のことである。

(江戸へ……)

 先ごろまで、十太夫はその江戸詰めでいた。

 言葉にも(なま)りがないし、十太夫の洗練された様子には、いわゆるお国侍の野暮ったさがない。

 江戸の街を歩いていると、旗本とよく間違われたという。

「承知(つかまつ)った。江戸には何かと伝手(つて)がありますから」

「おぬししか、適任者はいない。頼むぞ」

「やつらの眼を(くら)ますために、身を(やつ)さねばなりません。その費用や探りのために何かと入用がかかると思いますが」

「こやつ、申すであろうと思ったわ。用意してある」

 土佐は笑いながら、違い棚に置いてあった紫の袱紗(ふくさ)包みをとりおろして膝前に押しやった。

「頂戴します」

 と、十太夫は、両手で受けとって、重さを計った。

 小判と小粒らしい。二百両はありそうだった。

「不足かもしれませぬが、そのときはあらためて、早飛脚を以て申し入れます」

「こりゃ、無駄使いをするな。戦さには、金銀がいくらあっても足りぬ。伊達六十二万石の危急存亡の(とき)だぞ、心して使え」

「もとより。しかし、情報を得るには、袖の下もかかります」

「わかっておる。じゃから心して使えというておる」

 十太夫は白石から福島に帰ってくると、早速、変装にとりかかった。

 江戸へゆく道は、西軍の制圧下にある。

 武士の姿では、まず通るのは難しい。仙台藩は奥羽越同盟の盟主だけに、西軍側では目の仇にする。

 「変装というのも難しいものだ」と、十太夫は首をひねった。

 「商人体になるのはいいが、訊かれたときに誤魔化せないと」

 いつぞやの飴屋のことが思いだされた。今度は、こちらが、あの立場になるのである。

 十太夫は、生糸商人に化けて江戸へ上ることにした。

 月が替わって五月一日だ。

 この日、白河城を攻めた東軍は大敗している。白河城には西軍が入っていた。奥州の関門はすでに破られていた。

 烏を置いてゆくのは、しのびなかった。

「道中、気がまぎれていい」

と、十太夫はクロスケを連れてゆくことにした。

「まさか武士が烏を連れているなどとは誰も思うまい」

 かえって、西軍の眼をそらすことができるのではないかと思った。生糸商人に化けた十太夫である。

 物騒な時勢だから、道中差を一本差していても、疑われない。

「クロスケ、お前、江戸ははじめてだったな」

 カア……。

「江戸にゆくと用心しろよ。何しろ生き馬の眼玉を抜くやつがいる。お前もとっ捕まって吸い物にでもされたら大変だ」

 もっとも、この黒いやつを吸い物にして食うような酔狂もいないだろうと思うと、十太夫はひとりでおかしくなった。

「よかったな、クロスケ。鶴や鳩でなくて幸いだ。鷲や鷹は、また矢羽にするために、撃ち落とされるし……黒いのもかえって幸いだ」

 相手が烏でも、人間に話しかけるようなつもりで話しているから退屈しない。往来の者がふりかえる。肩に烏をとまらせて歩いている生糸商人が珍しいのだろう。

「その烏は何か芸をするのかね」

 と、松川の立場(たてば)では(たず)ねられた。

「さあ、どうかな」十太夫は返答に困って、

「何も出来まい。私と同じ、無芸大食でございます」

 と、言ってやると、相手は妙な顔をした。

「その上、イカモノ食いで、蛇でもトカゲでも、何でも食べますよ。柿など、殊のほか好物で」

「芸もしない烏を連れていても役に立つまいが」

「へえ、そうですねえ」十太夫はへらへら笑って見せた。

 不思議なものだ。クロスケなどと名前をつけてやって、こうしてお供にしていると、ますます愛着が湧いてくる。

 二本松で昼飯を食べた。

 その茶店に東軍の者たちが十数人休んでいた。大半が負傷している。包帯を巻き直している者もいた。

 鮮血があふれていた。戦場の空気をそのまま、持って来ている感じだった。かれらは一様に無念さをあらわにして、西軍を(ののし)っていた。

「惜しいことをした。盛り返せる機会はあったのじゃ。あのとき援軍が来ていたらな」

「左様、もはや、白河城は、われらのほうに奪い返せまいな」

「白河は古来、奥羽の関門じゃ。白河城よりも、国境の峠を死守すべきだったのだ」

「いうな、われらは、ただ、軍監の指揮通りに戦った。敗れたのは時の運だ」

「おい、諦めがよすぎるのは、臆病ということだぞ」

「こやつ、口に気をつけろ。臆病とは何だ」

「そうではないか、白河城を奪い返すまでは、死んでも……」

 十太夫は小銭を置いて立ち上がった。生糸商人が武士の顔に戻っていた。

 白河城落城!

 この知らせは、奥羽越同盟の人々ばかりでなく、大きくいえば奥羽全体を、愕然とさせた。

 白河城は、奥羽の関門である。

 古くから、白河の関は、奥羽のあらえびす対策のための関であり、白河城も、その意味を持っていた。

 東軍が白河城に入っていたのは西軍の進攻を防ぐためであり、先日までの敵であった会津藩と仙台藩が仲良く共同で守っていた。

 これに二本松、棚倉の各藩も若干名加わっていた。

 白河城の守将には、会津藩の総督西郷頼母(たのも)が任ずることになったが、かれは、少ない兵の配置に心を砕いて、(ほとん)ど城外の要衝に配軍して戦うことに決めた。

 結果的にいえば、これが落城を招いたようである。

 仙台兵や二本松兵の連携もまた速やかにいかなかったことも要因の一つだ。

 仙台藩としては、会津と共同歩調をとるにしても、助けてやる、という気持は免れなかったし、会津の硬骨さもまた、独自の布陣で貫こうとした。

 そうした拙劣な防衛が、西軍の突出を許すことになった。

 西軍は、薩摩と長州を主力として、大垣、(おし)の兵による連合軍である。

 すでに五日前に、白坂、米村辺で東西の軍は激突している。このときは、薩摩軍は破れ、参謀伊知地正治は、退却して、下野へ逃げ戻った。

 下野と岩代の国ざかいに、境明神がある。

 そこまで会津兵は追撃したのだが薩摩兵は、芦野の方へ逃げたと見て白河に凱陣してきた。

 このとき、兵を(かえ)さずに境明神を固めていたら、戦局はどう展開したかわからない。

 また、西郷頼母が、そのことを命じなかったのは、敗軍の責めを問われてもしかたのないことであった。

 西軍は、この陸羽街道と、北方の原方街道から攻めてきたのだ。

 五月一日の払暁――午前四時、西軍は、この二カ所から進攻するや一部が疎林の中を横に走って、北・西・南の三方からの策戦をとった。

 これも予想外のことだった。

 仙台兵は歩兵大隊長の佐藤宮内と瀬上主膳が率いてこれに向かった。

 ところが、緒戦だっただけに、参謀の坂本大炊(おおい)までが、乗り出して先頭に立った。

 阿武隈川を渡河して進んだとき、坂本大炊の頭を、銃弾が貫いた。

 仙台藩参謀ともあろう者が、あっけない死にざまだった。

 参謀の死は、全軍に影響を与えた。

 指揮が(ゆる)み、浮足立った。

 瀬上主膳が切歯して督励したが無駄だった。

 仙台軍は敗走した。

 会津藩の中には、新選組の生き残りもまじっていた。

 やはり新選組を名乗っていて、組頭(隊長)は山口次郎と称していた。

 数十人の隊士がいたが、その大半は、近藤勇が、流山で西軍に捕われて解散した以後の加入であったらしい。

 土方歳三も、関東で大鳥圭介などと共に戦ったのち、会津に来ていた。が、白河の前線には出ていない。

 山口次郎という名は、在京時代の新選組隊士にはいない。江戸へ来てのちの甲陽鎮撫隊にもいない。これは、新選組大幹部で、草創以来の斎藤一だったのである。

 天神町白坂口で、山口の率いる新選組は、会津藩兵とともに戦った。が、西軍の大砲と鉄砲は、東軍の旧式に比べて、ずば抜けていた。

 同じ鉄砲といっても、ヤーゲル銃とスナイドル銃とでは格段の違いがある。スペンサー銃もそうだ。

 銃器は、この数年の間に平時の数百年にも及ぶ驚異的な発達をとげていた。

 アメリカの南北戦争が、その発明を急がしたのは歴史的事実である。

 先込めと元込めの違いだけでも、優に五、六倍の開きがあるし、ライフル施条銃の発明が、着弾距離を延ばした。

 その上、ウインチェスター七連発などという、最新式の銃まで、西軍は多量に持っていた。

 当時としては、さながら三八式と自動小銃の違いほどの差が感じられたことだろう。

 会津藩の前衛には、副総督の横山主税自らが采配をふるって、兵を励ました。

 が、それがまた悪い結果を生んだ。

 攻防の焦点となった白河城下の郊外、稲荷山(いなりやま)に登って、指揮をしようとしたとき、一弾が腹に命中して、かれを倒した。

「あ、副総督が」

 仰天した従者の板倉和泉というのが、わずかに流弾の中で、主税の首級を掻き切って、陣羽織にくるみ、退いた。

 あまりに凄まじい激戦のさなかで、遺骸を収めることが出来なかったのだ。

 むろん、兵の死傷は(すくな)くなかった。

 会津軍では、寄合組中隊頭の一柳四郎左衛門、軍事奉行の海老名衛門、軍事方小松十太夫、士中組半隊頭鈴木覚弥、足軽組小隊頭上田源之丞らの将校たちが、前後して死んでいった。

 すでに敗色は判然として、すべての責任を感じた総督の西郷頼母は、

(わしも生きてはおれぬ)

 と、思った。

 頼母はかつて和平論者として、一人異を立て、藩公肥後守から、左遷されていた男である。

 西軍の進攻に際して、決然と総督の任を受けて出陣してきたのだ。その立場上からも、生還は出来ない。

(わしは生きてはおれぬ)

 と、会津軍白河口総督の西郷頼母は思った。

(死なねばならぬ、この場で……)

 副総督の横山主税はすでに死に、戦は敗れた。

 白河城は薩長に奪われる。

(何の面さげて、会津へ帰れようぞ)

 西郷頼母は、馬腹を蹴って、敵陣へ飛びこまんとした。その馬が走りだしたとき、一人の将校がとびついてきた。

 馬の(くつわ)をつかんで、ずるずると曳きずられながら叫んだ。「お待ち下さいまし」

 馬が(いなな)いた。が、かれは轡を放さなかった。

「総督! お待ちを」

 と、いって、とうとう、馬の首を抱えて、進むのを遮った。

「いまは死ぬときではありませぬ。無謀なことはお止め下され」

「放せ、放せ、飯沼、手を放せ」

 かれは朱雀一番士中隊小隊頭の飯沼時衛であった。

「放しませぬ。おとどまりを」

「ええい、邪魔するか」

「はい。なりませぬぞ、総督、大切なお身体でござる。総督にもしものことがあって、会津軍は何となります。戦さの勝敗は時の運、いまはよろしく退いて、後図を計るときでござる!」

 血を吐かんばかりの諫言(かんげん)だった。

 だが、死を決した西郷頼母は耳をかそうとはしなかった。

「放せ、放さぬと斬るぞ」

 と、叫んだ。飯沼時衛は、

「御免!」

 と断るや、馬の轡をつかんで馬首を北に向けるや、刀を鞘ごと抜いて、馬腹を殴りつけた。

「何をする」

 仰天した頼母は、あやうく、馬上から転落しそうになった。

 馬が狂ったように走り出したので、必死にしがみつく。

 馬は、頼母の馭す声も聞かず狂い走りに北へ走って、阿武隈川を越え向寺の近くまでいって、漸く止まった。

 このために、西郷頼母は、討死の機会を逸して、地団駄踏んだのだった。

「もはや、かくとなっては、作戦を立て直すに如かず」

 として、頼母は滑川に至り、敗兵の三々伍々と集まるのを令して、勢至堂に退いた。

 あとからわかったことだが、二本松兵七百人と、会津藩坂十郎は一柳四郎左衛門の隊兵半小隊を率いて、須賀川から白河に向かっているときだった。

 砲声を聞いて駆けつけたときはすでに遅く、敗兵を見るばかりで、もはや、手のつけようはなかった。こうして、白河城は西軍の入城するところとなったのである。

 これらのことを、細谷十太夫は、郡山に駈けつけて、瀬上主膳から聞いたのだった。

「無念だ……われらは大炊どのを失い、会津は副総督まで(たお)れてしまった」

 がっくりとして、その気力は恢復するとも見えなかった。

 細谷十太夫は、二本松から郡山まで、馬を飛ばしたのだった。

 生糸商人の姿のままである。

 かれは、白河城落城を聞いて、いたたまれなかった。

(もはや江戸探索などにいってはいられない)

 探索とは、様子を探ることだ。

 この緊急な場合に、のんびりと江戸の情勢を探ってなぞいられない。

 足元に火がついたのだ。十太夫の気持は、文字通り、(乃公(だいこう)出でずんば!}である。

 それは、かれの武士の血が叫ばせたものだった。

 問屋場(といやば)は混雑していた。かれは過分の金を払って一頭の馬を借り受けた。

「仙台の細谷十太夫だ」

 幸いなことに、問屋場の者でかれを見知っている者がいた。

 そうでなかったら、とても信用して貰えなかったろう。戦時だし、誰もが、浮足立っている。混乱は平常心を喪わせるのである。

 町人姿で、栗毛の馬を飛ばす十太夫の頭上を、烏のクロスケが飛んでゆく。

 これは飛んでいるというより、虚空をすべっているという感じだった。

「待て」本営のはずれで止められた。

 関門が出来ていた。

「どこへゆく」数本の槍と鉄砲がかれをとり巻いた。

「郡山だ」と、横柄に馬上から答えた。

「なに、降りろ、きさま、町人の分際で」

 と、隊長らしい男が喚いた。

 これは二本松藩の者だった。

「町人ではない。仙台藩士細谷十太夫」

「なんと、まことか」疑わしそうな眼だった。

 詳しく話している閑はなかった。

「この危急の際に嘘を吐いている閑があるか」

 十太夫は怒鳴った。

 その権幕に驚いて、馬の口輪をつかんでいた男が、あわてて放した。

「郡山の本陣へ参る。疑いがあるなら、軍監の瀬上主膳に問いあわせろ」十太夫は言下に馬腹を蹴った。

 馬が(いなな)いた。前をふさいでいた数人が、はっと離れた。

 その間を、騎馬は凄まじい勢いで走り抜けている。

 背後から撃ってくるか? と思ったが、その様子はなかった。疑ったら撃ってくる。

 こうした際は、人権などはない。身分のある者でもそうだ。疑われる方が悪いのである。

 撃って来なかったのは、十太夫の権幕に驚いただけでなく、その叫びに真実を感じさせるものがあったからだろう。

 郡山の本陣に瀬上主膳を訪ねると、

「負けた」と、のっけから言った。

「武器が違いすぎるのだ。この戦さは勝ち目がない」

「なにを弱気なことを」

 十太夫は、思わず怒鳴りつけている。

「軍監ともあろう者が、そんなことでは、士気があがろうはずはないわッ」

 いきまく十太夫から眼をそらして主膳は、げっそりと(やつ)れの目立つ顔を歪めた。

「いたずらに士気を鼓舞しても、問題は機械にある。大砲と鉄砲を比べてみろ、問題にならぬ」

「それを弱気というのだ」

「おぬしは知らぬ。こちらが一発撃つ間に、七発撃たれてみろ、どうにもならぬではないか」

「七発の無駄(だま)より、一発の正確な丸{たま}のほうがよい」

「…………」

「それくらいの気持で戦わねばなるまいぞ。はじめから、勝負を投げてしまっていては、小児にでも負ける」

「――それは、屁理屈だ」

「屁理屈でも何でもよい。勝たねばならんのだ。戦さをする以上、勝たねば」

「口でいうことは容易だがな」

 と主膳は、皮肉な口調になった。

「口だけではない、腕を見せてやる」

「ふむ。そうすると、おぬし」

「前線へ出る。江戸探索など、しておれぬ、なあ、クロスケ」

 肩にとまった烏の羽を撫でながら、

「こいつは、おれの守り神だ」

「烏がか」

 と、主膳は眉をひそめた。

「烏は不吉だぞ」

「何を馬鹿な、八咫(やた)の烏は吉兆ではないか」

「なるほど。おぬしにはかなわぬわい」

「何人か兵隊をまわしてくれぬか。一小隊でいい」

「それは、何とかなる。どうせ編成替えをしなければならぬのだ。随分痛手を(こうむ)ったからな。みんな、気落ちしている」

「弱虫では意味がない。弱虫百匹よりも、おれのような向こッ気の強いやつが、二、三人いた方がどれだけ役に立つかわからぬ」

「ではどうする。(つら)を見て選ぶか」

「出来ればな。ともかく考えていてくれ。あ、それから、この姿ではどうにもならぬ。おぬしの着替えはないか」

「呉呂服なら、新しいのがある」いわゆる筒袖だんぶくろの軍服である。

「いや、おれは、どうも、そういうのは着たくない」

「袖がないから戦闘には便利だぞ。それに袴と違って、足もとも、草や何かにひっかかることもないし」

「そういうのを着ると、おれは、毛唐になった気がする。御免蒙るよ」

「しかたがない」

 瀬上主膳が従士に命じて行李を開かせた。紋服もある。仙台平の袴もある。戦争に出陣して来ているのだが、軍監とか大隊長とかの肩書では、平服を着る必要があることを(おもんぱか)ってのことであろう。

 細谷十太夫は、帷幕(いばく)から出て、兵士たちの群れを見た。

 敗残兵、そういう表現がぴたりとするような人々だった。

 仙台を出陣するときは、威風堂々、六十二万石の軍勢の威容は、瞠目させられるばかりのみごとさであったが、まるで、よその軍勢のように、目もあてられない有様だった。

 誰もが疲れていた。疲れきった姿であり、表情だった。

 怪我人も多かった。血のにじんだ包帯が痛々しい。

 傷ついていない者も、ぐったりとして、放心したように虚ろな眼をあらぬ方に投げかけているだけだった。

 戦争は勝利者に人一倍の活力を与えるが、敗残者からは精気を抜いてしまう。

 人々は、ろくに話もしていなかった。

 話をするだけの気力もないようだった。

 中に十太夫を見知っている者がいて、声をかけてきた。

「あ、細谷さん」

 微笑をつくろうとしながら疲労が、それを歪んだものにした。

「おお、おぬしか、怪我をしているのか」

「いいえ、どこも、傷はありませんが、まるで、重病にかかったようです。白河ではひどい目にあいました」

「しっかりしろよ。まだ戦さはこれからだ」

「ええ、それはそうですが……」

 十太夫は、その無気力な顔を見ると、懐かしさよりも怒鳴りつけたい思いだった。

(それでも武士か!)

 情けない。仙台武士が、なんというざまだろう。

(まるで……)

 野良犬だ。いや、飢えた子犬のように、びくびくしていて、眼玉に生気がない。

(死んでいるのと同じだ)

 仙台六十二万石の数万の軍勢がこれでは西軍の思いのままに踏み潰されるだけのことではないか。

(こんな連中を何百人つけられても、ろくな働きは出来ぬなあ)

 十太夫は歩きながら思った。

 路傍の枯草か。いや、まるで死人だ。

 死人の山を見ているようなものだった。

 いくら、十太夫一人が張り切っていても、兵が手足のように動いてくれなければ、勝利はおぼつかないのである。

(――駄目だ)

 十太夫は失望した。

 かれは、そこを抜けて、歩いた。宿場の中は混雑していた。

 酔って喚いている声がある。居酒屋をのぞいてみると、これも東軍の兵士だった。

 敗残の身を、酒にまぎらせることしか出来ないのか。

 十太夫は、一軒の蕎麦屋に入った。空腹も忘れていたのである。

「天ぷらと酒をくれ。急いでな」

 小女に注文したとき、ふりかえった男がいる。

「急ぎだって?」と、その男は言った。

「こっちが先だぜ、忘れちゃいけねえぜ、姐ちゃん」

 一目でやくざらしいとわかる三人連れだった。

「ものには順序ってことがあるんだ、え、前に来た者が先だァな、なあ、松」

「そうとも、吉のいう通りだ、あとから来やがってなんでい」

「前と後との区別のつかないやつは、尻をひん剥いて、ぶっ喰わしてやりゃあいいんだ」

「そうともそうとも両刀差しているってなんだい、もう、天下はひっくりかえったんだぜ、両刀が恐くって、箸が使えるかよ」

 聞いていると、なかなか面白い。

 十太夫は他人事のように聞いていて、にやりとした。

 その寛大な態度が、さらに、この酔いどれたちには、気に食わなかったらしい。

「やい、何がおかしいんだ、やい」一人が立ち上がった。

 松と呼ばれた男である。立ち上がりはしたが、かなり酔っていて、足もとがふらついている。

「おかしい」

 と十太夫は、そいつを真っ直ぐに見て言った。

「おかしなことを言うから、おかしい。おかしければ笑う、腹が立てば、怒る。これが人間だ」

「なんだ、なんだ、やい、ここは蕎麦屋だぞ、寺子屋たァ違うんだ、見当違えの説教はよっしゃがれ」

「ははは、お前らを説教するほど、わしは、閑人ではない」

「なんだと、閑人じゃねえって、閑人でねえやつが、蕎麦屋で酒を飲むか」

「そうともよ、けちをつけやがって」

 どうせ酔っぱらいの三人組だ。

 まともにとりあっていてもはじまらない。

 十太夫は、無視しようとしたが三人は、いい相手を見つけたつもりで、からんでくる。

「やい、駄三ピン、文句があるなら、外へ出ろい」

「おれさまを誰だと思ってやがる。痛い目を見せてやるから、外へ出ろい」

 どうやら、このままではおさまりはつかない。

「やむを得んな」十太夫は酒樽から腰をあげた。

「おやじ、蕎麦を頼むぞ、こいつらを片付けると、なお腹がへるからな」

「野郎!」

 外へ出るのも待てずに、一人が徳利をつかんで、殴りかかって来た。

 十太夫はひょいと身を(かわ)すと、さっと縄のれんをくぐって、戸外に出た。

 それがまるで、逃げたように見えた。

「逃がすな、ぶっ殺せ」と、三人は喚いた。

 細谷十太夫が蕎麦屋から飛び出したのは、店内で暴れては迷惑をかけるという懸念(けねん)からであった。無頼者たちは、それを単純に恐怖からととった。酔眼では、人を観察することも出来ない。

「待て、野郎」追いすがって来た松が、肘を伸ばした。

 十太夫の刀の(こじり)を掴もうとした。

「たわけ」十太夫は立ちどまるや、くるっとふりかえって、その腕をつかんだ。

 ぐっと引き寄せる。とたんに身を沈めた。

 松のからだが、宙に躍った。凄まじい音をたてて、地上に叩きつけられていた。

 つづいて来た吉という男は、なかまが投げられたことも、一瞬のことで、様子が判然としなかったらしい。

「くたばれ」長脇差を抜き打った。

 十太夫の体の崩れに斬りかけたのだ。十太夫は身をひねって、刀の鯉口を握るや、つと、鍔元で受けた。

 そのまま、片足を上げて、股間を蹴り上げている。

 したたかな一撃である。

 瞬時に二人を倒した技を見れば容易な相手ではないことに気がつくべきだったが、三人目の男にも、それだけの理性がなかったのだろう。

 無謀に抜刀した。これは、一応腕におぼえがあったらしい、掬い斬りの一刀をおくってきた。

 十太夫は飛び退(すさ)っている。

 こんな酔いどれを斬ってもはじまらない。

 刀から手を放して、

「おい、いい加減によせ」と言った。

「なにを!」

「よしたらどうだ。こいつらと同じ目にあいたいか」

 十太夫は、地上でのたうっている二人を目で指して、

「抜けば、こいつらくらいでは済まぬぞ」

「う、うぬ……」男は、刀をふりかぶろうとしたが、その闘志も日中の氷のように、みるみる溶けていって、表情が崩れると、ふいに身を翻した。

 薄情にも、なかまを見捨てて逃げだしたのである。

「おいおい、こいつらをどうする気だ……」

 十太夫は笑いながら、後ろから声をかけたが、耳をふさぐようにして、逃げてしまった。

 地上の二人は、まだ(うめ)いている。

「馬鹿なやつらだ」十太夫は蕎麦星に戻ろうとした。

 そのとき、いつの間にか、遠巻きになっていた弥次馬をかきわけて、男が二人出てきた。

「なんだ、喧嘩か」

「侍が斬ったのか」その二人とも、侠客らしい。

 十太夫は、気にもかけずに、蕎麦星に戻った。

 二人は、十太夫のあとから入ってきた。

「もしお武家さんえ」

 二人の侠客は、十太夫のうしろ姿しか見なかったのだ。

「もし、お武家」

 と、声をかけたときは、かなり怒気を含んでいた。

 十太夫は、これに応えずに、蕎麦屋に戻っている。

「おやじ、蕎麦は出来たか」

「へえ、かけでございますか」

「天ぷらを入れてくれ」

 二人の侠客は縄のれんから首を突っこんだ。

 十太夫は平気で背を見せている。

「もし……」

 と、また声をかけて二人の男は入って来た。

 文句をつけようとして、両方から挟むように立った。

 そこで、はじめて、十太夫の顔を見たのだ。

「あっ」と、年嵩(としかさ)のほうが声をあげた。

「なんでえ、旦那でしたかい」

「細谷の旦那だったのか」

 二人は吃驚して、あわてて言った。

「どこの両刀(りゃんこ)が、松と吉を叩きつけたのかと思いやしてね。なんでえ、細谷の旦那に喧嘩を売ったたあ、あいつらァ馬鹿だ」

「全くだ、どこに眼をつけていやがるんだ」

 十太夫は微笑した。

「酔っていたからな。()めたら恥ずかしく思うだろう」

「へえ、穴があったら、入りたくなりまさあ」

 二人は、かねてから、十太夫の顔見知りだった。

 年嵩のほうが掛田の善兵衛、もう一人が桑折(こおり)の和三郎である。

「久しぶりだな」

「へえ、全くで。旦那もお元気そうで」

「どうした、こんなところで逢おうとは思わなかったぞ」

「へえ、なにね。この戦さでござんしょう。人足どもを弾丸運びに集めて、お世話したついでに、様子を見に来たんでさ」

 十太夫は、この男たちと酒を飲んでいるうちに、さっきの滅入るような気持が、晴れてくるのを感じた。

 あの敗亡の兵たちの意気消沈した姿を見てきた十太夫には、この男たちの威勢のよさが好ましく思われた。

 浅草屋宇一郎といい、侠客の持つ向こッ気が男の意気なのだ。

「だらしのないやつばかりだ」と、十太夫は言った。

「白河城を奪われるなど、やつらは何をしていたのか。薩長などにやられて、仙台武士の名折れだ」

「へえ、へえ、その通りで」

「おれは、隊を作ることにした。薩長などに負けぬ、強い隊だ。おれが隊長になって、一泡吹かしてやる」

「そりゃア、いい。わっちらでも入りてえや、なあ桑折の」

「へえ、掛田の兄貴がいう通りで。わっちらを入れておくんなさいませんかい。そう言っちゃなんだが、お武家と違って、白刃の下は何度もくぐっていますからね」

 掛田の善兵衛と桑折(こおり)の和三郎がそこへ来合わせたのは偶然である。

 二人の気っぷのよさと、度胸のあるところが、仙台藩士に絶望していた十太夫を力づけた。

「そいつァいい」

 十太夫は二人の顔を等分に眺めて力強く言った。

「いっそ、おぬしたちだけでやるか」

「へ? わっちらだけ、と仰有いますと」

「侍を入れぬ」

「…………」

「おぬしら渡世人だけで、一隊を作る」

「そ、そいつァ……」

 二人は、顔を見合わせた。まるきり、そんな言葉を聞くとは考えもしなかったことだ。

「どうだ、それでは心細いか」

「いいえね、こっちにしてみりゃ、大賛成でさあ、お侍と一緒じゃ何かと肩が凝っていけねえ、どっから見ても、話が合わねえからね」

「そうでさ、旦那のような話のわかるお人は、千人に一人もいねえ、肩肘張って、さようしからばで、一緒に戦さをするのも気詰まりでさあ」

「そうだ。なまじ混じらない方が気がねもいらぬし、思い切った行動が出来るな」

 十太夫は、この思いつきに、胸がわくわくしてきた。

 仁侠の徒は、無頼の強みがある。

 まず、死を恐れぬことだ。侍たちは、上級下級の別はあれ家族や先祖の伝統と名誉に縛られている。

 その名誉のためには、恥を重んじるのは事実だが、しかし、戦争の恐怖は、時に名誉も誇りも失わせる。

 それに比べて、失うもののない無頼の徒は、恐怖を恐怖と感じない。その強みがあった。

「面白いぞ、参謀が反対するかもしれぬが、おれが押し通してやる」

「へえ、そうときまりゃア、命がけで戦いますぜ」

「決して隊長に御迷惑はおかけしませんや、なァ桑折の」

 いつの間にか、十太夫は隊長になっている。

「はははは、隊長か。そうすると侠客ばかりが隊士では、隊長も侍の足を洗うか」

 どうせこういう時勢である。この先、仙台藩がどうなるかわからない。みんな伊達家とその家臣という意識が、かえって足を引っ張って敗戦に導いてしまうのでないか。

「なァ、クロスケ、お前もそう思うな」

 十太夫は、烏に話しかけた。

「ねえ、隊長、そのカア公も隊士ですかい」

「おれの一番子分だ。頭がいいぞ」

「旦那に可愛がって頂けりゃ、きっとそうでしょう。わっちらにしてみりや羨ましいやら憎いやらで」

 クロスケがカア、と囁いた。

「こいつァ、驚きだ。烏の野郎、言葉がわかりやがら。ねえ、隊長、烏のカラス隊というのはどうでしょう」

「カラス隊か、ははは、そいつも悪くないな」

 十太夫は、クロスケを愛撫しながら頷いた。

「だが、軍監が許すかな。おぬしたち侠客ばかりを集めて一隊を作るにしても、やはり仙台藩の一隊になるわけだから、あんまり妙な名称はつけられぬ」

「妙なことはございませんぜ」

 と、桑折(こおり)の和三郎は強調した。

「へえ、へえ、わっちもいい名前だと思いますがねえ」

 掛田の善兵衛も大賛成という顔で、

「誰にでもわかりやすいし、似たものがねえ。隊の名前なんてえのは、やっぱり、わかり易いほうがいいんじゃねえんですかい」

「それはそうだ。だがな、まず組織の費用だ」

 と、十太夫が言うと、二人とも黙りこんだ。

 一隊を作り、武器を揃え、衣食を整えるのに、どれくらいかかるか、かれらにはわからない。

「その費用は、すべて藩から出させる」

「少しなら、わっちらが……」

「その必要はない。必要になったらそのときに言う。やはり藩の軍用金から出すのが、筋だ。そのためには、隊名などで、もたもたしていては損だ」

「それもそうでござんすね」と、和三郎が折れて、

「そのクロスケには悪いが、カラス隊はひっこめましょう。お偉いさん方は、うるさいからね。あんまり驚かさないほうがいいやな」

「少しは驚かした方がいい」

 と、十太夫は反対に、乱暴な調子で言った。

「衝撃を与えることも必要だ。そうだ!」

「え?」

「衝撃だ」

「…………」

「敵はむろん、味方にも衝撃を与えて、元気づける。それが何より必要だ」

「へえ」

「衝撃隊だ。衝撃隊でいこう」と十太夫は決めた。

「しょうげき隊、ねえ……」和三郎と善兵衛は口にしてみて、「ちいっと難かしいが、悪かアねえ」

「決めたぞ。これなら、白石の本営でも軍監も何も言えぬ」

 三人と烏一羽は、間もなく、蕎麦屋を出た。

「まずどうやって、隊士を集めるか、だ」

 十太夫は考えながら歩いた。

「無頼者でいいのなら、わっちら集めますぜ。そんなことなら、お安い御用だ、なァ和三郎」

「そうでんね。幾らでもいますぜ、命知らずが」

「そうか、では、手わけして、やってくれ」

「じゃア、一っ走り、連れて来まさあ」

 和三郎がどこかへ走り去った。

「おい、桑折はどこへいったんだ」

「なあに、近くでさ。桜井ノ千吉という威勢のいいのがいましてね」と、善兵衛は、腕を叩いてみせた。

 侠客――仁侠の徒、というのは市井(しせい)にあって正義を貫く。強きをくじき弱きを助けるというのだが実際には、なかなか少ない。多くは、口に仁義を叫びながら、怠け者で文字通りの無頼者だ。

 その無頼者を集めて軍隊を作ろうというのだから前代未聞である。

 それも戦さの最中で、ゆっくり検討している閑はない。

「すべて、おれが責任を持つ」と、細谷十太夫は言い放った。実際、これは平和時には考えられないことで、切羽詰まった情勢だから許容されるだろう。むろん、十太夫は、かれらを全面的に信頼したわけではない。

 人間には、どんな者でも、どこか一つくらいは取り柄がある。衆に(すぐ)れたところが、何かある。

 たとえば、字が読めなくても、足が早いとか、頭が悪くても、力持ちとか、ものが言えなくても、鉄砲がうまいとか、何かあるものだ。

 その、それぞれの価値を上手に引き出せばいい。

 それに何よりも、命知らず、という点では、保身を考える弱腰の武士よりも、戦闘要員として優れている。

 それだけでも充分、前線に出る値打ちがある。

 和三郎はどこかへ行ったかと思うと、ほどなく、三人の男を連れて来た。

 「隊長さま、戻って参りました」

 「その、さまは止せ。隊長だけでいい」十太夫は苦笑した。

(こいつらは、もの言いから直してゆかねばならんな)

 それにしても、連れの者たちの面がまえを一見すると、十太夫は膝を打ちたいほどだった。

 三人とも、負けず劣らず、逞しい面構えだ。

 腕も太く、人の二人や三人斬ったことのある眼つきだ。

「こっちから、桜井ノ千吉、佐藤ノ喜平、それから、おい、おめえ、何てったっけ」

「へえ、沼吉で」

「どこの沼吉だ」

「へえ、沼吉で」

「生国はどこだ」

「知れましねえ」

「生まれ在所だぞ、知らんのか」

「へえ、たしか……奥州だね」

 これには、十太夫も呆れたが、どこで生まれようと育とうと、そんな出自には関係ない。

「薩長のやつらと闘うことが出来るか、それだけは念を押しておきたい」

「へえ、あの黒や白や赤のしゃぐまでござんしょう」

と、千吉が大きく頷いて、「あいつらとやるのなら、いやだなんていう奴は一人もいませんや」

「よかろう。では隊士にする」

 簡単である。十太夫は、この五人を引き連れて、須賀川に向かった。須賀川の宿場に入ると、最初に眼についた妓楼の前に立った。「柏木星」と、読める。

   女郎屋本陣

 妓楼「柏木屋」の前に立った十太夫は、じろりと、中をのぞいた。

「うむ、ここがよい」と、独り頷き、

「入るぞ」と、言った。

 これは背後に従って来た和三郎らに言ったのだ。土間には男衆と遣り手の女がいたが、あわてて腰をあげた。

「これは、お出でなさいまし。ただいま、女どもを。おい、何をしとるんじゃ、化粧の済んだ者から出てこんかい、お直、お由、お北、それから、お勘……」

 ムク鳥が迷いこんだと思って、あたふたと、女郎たちを呼ぶ鼻先を、カア……。と、烏が掠めた。

「わあっ、こいつ縁起でもねや、不吉なやつじゃあ、叩きだせえ」

 男衆が、狂ったように、両手を振って、クロスケを追い出そうとするのを、十太夫は哄笑して、

「これこれ、不埒なことをするなクロスケはおれの弟分だ」

「へ?」

「弟分だ、丁重に扱え」

「か、烏を……」

「左様とも、おれが客であるように、クロスケも客だ。みみずでも鼠でもとって来い、あいつの夕食だ」

「そ、そんな……」

「ほかに客はいないか」と、十太夫は、中を見まわした。

「へえ、へえ、一人も居らんわい。客が居らんで幸いでしたわい」

「ははは、心配するな、これから客がくる。この宿は当分、おれが借り切るぞ、女郎どもは総揚げだ」

「へっ、お客さん……」

 この客は正気かと男衆は、まじまじと、見つめた。

 クロスケは、ばたばたと飛びまわっていたが、すーっと、滑るように降りてくると、十太夫の肩に止まって、羽を納めた。男衆は首をすくめ、亭主を呼びに奥へ走っていった。

 十太夫は、一向に気にもかけず上がり框に腰をおろすと、

「女!」と、張見世をふりかえって、

「誰か、障子紙を持って来い。墨と筆もだ」

「へえ、何をお書きになるので」

「おれが借り切った」

 わけがわからぬまま、筆墨を揃えてくると、十太夫は紙をするすると延べさせて、

「墨をすれ、どんどんすれ」

 (すずり)の池にたっぷり墨汁を溜めさせてから、十太夫は太筆をどっぷり浸した。そして、タテにした障子紙に、さらさらと筆を走らせた。

 まず、仙台藩と書いた。一寸(ちょっと)、空けて、細谷十太夫本陣 一気に書きあげた。

「これでよし、表に貼りつけろ」

「へえ、合点で」

 掛田の善兵衛と和三郎がまだ墨の香の匂うやつを、表に持っていった。

 細谷十太夫自筆のこの貼紙は、昭和のはじめまで、柏木屋に家宝として保存されていたという。

 その字は、雄渾なうちにも、何ともいえない気品のあるものだったという。

「仙台番 細谷十太夫本陣」と、大書した貼紙である。

 当時須賀川は現在のように発展していない。小さな宿場だ。その妓楼の前に貼り出したのだから、道中往来の者は、眼を丸くして、足早に通り過ぎる。

「さあ、これでよい。あとは隊士が集まるのを待つだけだ」

 十太夫は部屋にあがると、ごろりと横になった。

 烏のクロスケは心得て床の間の縁起物の招き猫の上に止まった。「旦那、じゃねえ、隊長、これからどうします」

 和三郎たちが下座に膝を揃えてかしこまるのをじろりと見て、

「どうしますって、隊士が集まらなきゃ、戦は出来ねえぜ」

「へえ、いまのところ五人で」

「これしきじゃ、しゃっちょこ立ちしても薩摩をやっつけることはできねえよ。十倍は欲しいな」

「へえ、五十人ですかい」

「お前らに頼んだぞ、一人で十人ずつ集めて来い、そうすりゃ、訳はねえ」

「へえ、そういう勘定になりますがねえ」

「骨のあるやつがいるだろう。薩長の芋とやりあうのだ、半ちく野郎じゃどうにもならねえぜ」

「へえ、そいで、隊長の名前を出してもええので」

「当たり前だ。はっきりといえ、軍用金は藩から出るのだ、心配はないぞ。仙台藩細谷十太夫の家来になって功名手柄をたてんとする者は来たれとな」

「へえ」

「来たりて、面白からずは去れ、とな」

「合点です」

 和三郎らは、それぞれ、なかまを思い浮かべて出ていった。十太夫は、そのあと、女郎を皆一部屋に集めた。

「おい、これで全部か、何人だ」

「はい、七人ですよ」

「少ねえな」

「少ないことありませんよ。隊長さん一人で、七人も相手になさるおつもり」

「冗談いうな。いやさ、七人くらい一と晩でやれねえこともねえが、いまは戦争だ。お前たちを抱いているひまはねえ」

「あら、戦争だって、息抜きがいりますよ」

「だが、腰抜けになっちゃァ、戦さは出来ねえ」

「あら、つまらない」

「なあに、ほどほどにやればいい。いまに沢山集まってくるからな、適当に割当してやる」

「あら嬉しい。でも、あたしゃ隊長さんがいいよ」

「あら、隊長さんは、あたしだよう」

 女郎たちは争って、十太夫に抱きつく。

「おい、よせよせ、それより飯でも炊け、食べ物と酒の用意だ」

 桜井千吉や佐藤喜平も、それぞれなかまを連れて来た。

 参謀には、善兵衛と和三郎がなって、集まった者を調べた。

 薩長の廻し者がまぎれこんでいるかもしれないのだ。

 もともと素姓などを問わないで、勇気のある連中を集めるのである。もしも、この企てを薩長の間牒(かんちょう)が嗅ぎつければ、早速、スパイをまぎれこませるに違いない。

 色んなやつが来た。(すき)(かつ)いで来たのもいるし、何に使うのか、(わら)を担いで来たのもいる。

 拾った鉄砲を持っている者もいた。が、こちらは調べてみると、撃鉄が(こわ)れていて、使いものにならない。

 そうかと思うと、下帯一つの素っ裸なのに、刀を三本も背負って来た者もいた。

 三日のうちに集まったのが二十三人。

 これでは少ないので、伝手(つて)を頼って、磐城西倉、飯野その他へ飛脚を差し立てて、名のある侠客を招き寄せた。

「仙台の細谷の旦那が、薩長のやつらに一泡吹かせようって仰有るんだ。度胸があったら、やって来ねえ」

 この(げき)で、喜び勇んで飛んでくる者で連日、柏木屋は賑わった。半月たつうちに五十七人になった。

「これくらいでよかろう」

 後で加入する者は、別働隊とすることにして、この五十七人で、中隊を編成した。

 隊名は、最初に決めた衝撃隊である。十太夫は、瀬上主膳の方から運ばれた軍用金で、早速、制服を作った。

 制服といっても、呉呂地の筒袖だんぶくろではない。

 ラシャ地は小雨や風雪に強いが、どっぷりと濡れてしまうと、今度は、なかなか乾かなくて、重くなるし、かえって始末に悪い。それに、気楽さが身上の渡世人たちだから、詰襟の洋服は、胸苦しくてしかたがない。

「あんなものは駄目だ」

 と、十太夫は、一蹴して、    

「戦に(たもと)は無用だから、筒袖。七分袖だ。だが、着物だぞ、小袴にして、股引脚半(ももひききゃはん)

「へえ、そいつア面白え」

「これを全部、黒ずくめにする」

「そいつアますます、面白え、忍びノ者でございますね」     

「それが狙いだ。足袋(たび)は紺足袋で間に合わせればいい。そうだ鉢巻も紺だ」

「これで夜討ちすりゃ、(ふくろう)だって見えねえぜ」

 十太夫の計算もそこにあった。数百数千の敵と戦うのに、五十七人では、白昼堂々の決戦などできない。

 夜襲を(もっぱ)らにするしかない。そのために、夜の闇にまぎれる黒ずくめの服装が必要だったのだ。

 槍や刀も本陣の方から調達して持たせたが、主膳は、

「鉄砲はないぞ、こちらでも不足しているのだ」

 と、言った。

 その言い方には、どうせ気まぐれな連中をかき集めたのだから、{まあ、お手並拝見だ}といわんばかりの多寡(たか)をくくったところがある。

 主膳は仙台藩でもエリートだから、仁侠の徒が持つ単純な良さがわからない。

 むろん十太夫は、ここで鉄砲の調達を()いるようなことはしなかった。

(かれらがその気なら……)と、肚裡(はら)の中で思った。

(敵から奪うだけだ)どうせ正規の軍隊ではない。奇兵なのだ。

 行動でその存在価値を示す以外になかった。

「よかろう、鉄砲も大砲も支給して貰わないでよろしい。だが、飯代と酒代だけは不自由ないように頼む。戦さをする力のもとだ」十太夫はこう言い捨てて、柏木屋に戻ると直ちに編成に当たった。

 五十七人を三小隊に分けた。

 十七日、十太夫は一隊を引連れて、柏木屋を出立した。

 まず矢吹沢に進んだ。

 すると、あらかじめ、桜井千吉が意を通じていたので、十数人の男たちが待っていた。

「渡辺武兵衛でございます」五十がらみの額に刀傷のある男は、ふかぶかとお辞儀した。

「野郎ども十二人。どいつも命知らずの暴れ者ですが、気のいい野郎ばかりで、必ずお役に立つと思いますが」

「話は聞いた。武器は持っているか」

「長脇差と匕首(あいくち)だけでございますが」

「当分、我慢しろ、鉄砲と刀は手に入れる。おれの家来になったら非道は許さぬぞ」

 その点だけは、一人一人に念を押してあった。

「いいか、盗みと強姦は許さぬ。これを犯した者は斬る」

 十太夫ははっきり言った。

「容赦はせぬぞ。だが、戦さに勝ったら、おれが責任を持って武士にしてやる」

「へえ、そいつが楽しみでございます」

 みんなを代表して和三郎が答えた。

「そのためにも、手柄を立てろ。手柄の有無で、禄高が違ってくるのが、武家の習しだ」

「へえ、へえ、やりますぜ」いかにも腕が鳴るというように和三郎は、二ノ腕を撫でた。

 十太夫はここで編成替えをしている。     .

 第一番小隊長、武藤鬼一。

 第二番小隊長、渡辺武兵衛。

 第三番小隊長、新妻新兵衛。

 第四番小隊長、蓬田仁蔵。

 第五番小隊長、笠原安治。

「さあ、これでよい。隊士は小隊長の命令に従うのだぞ」

「隊長、いつ戦さをおっ始めるんで?」

「明日、白河に出動だ」

 そこに報告が入った。

 白河近辺に西軍の兵隊十数人が村を荒しているというのだった。

「ひでえ野郎たちで、鶏を片っ端からとっ捕えてひき裂いたり、金銭を奪ったり、中には、若い女房を強姦したりしています」

「薩摩か長州か」

「長州らしゅうございます」

 一刻の猶予もできなかった。

「わっちらが参りましょう」

 和三郎が申し出た。

「十数人というのなら、何も、隊長が出るこたァねえ、わっちら五人もいたら充分でさあ」

「よし、すぐにゆけ」

「合点だ」

 和三郎は、善兵衛とともに、桜井千吉、佐藤喜平、それから沼吉の最初の五人である。

 かれらが、その村に急いでゆくと、ばーん、ばーんと、銃声が聞こえてきた。

「やっているぞ」

 林の中を進んで、はずれのところから村を窺うと、なるほど、西兵が、家から家へ、我が物顔に出入りして、鉄砲を戯れ撃ちしている。

 酔っているらしい。

 面白がって、めったやたらに、発砲している。

「危ねえな、流れ弾にあたっちゃ元も子もねえ」

「どうする桑折(こおり)の」

 善兵衛は刀を抜きかけては、鞘に戻してわなわなしている。

「ここから斬りこむか」

「あわてちゃいけねえ。こっちには飛び道具はねえんだ」

「だからさ、どうするんだえ」

「さっきから数えてみたが、七、八人しかいねえぜ、やつら」

「家ン中にいるんだろう。女を抱いてるんじゃねえか」

「かもしれねえ、どっちにしたって、十数人だ。取り囲んで、やっちまおう」

「こっちは五人だ」

「五人でも、十人にも三十人にも見えるさ。手分けして、一ぺんに斬りこむんだ」

 相談しているうちに、西兵たちは、わあわあ言いながら、一軒の家に集まるのが見えた。

 食事でも始めるらしい。

「しめた、一つ所に集まりさえすりゃ、一網打尽に出来るぜ」

 幸先がいい、と和三郎はおもった。

 五人は抜刀して、その家に近づくと、表と裏から、同時に鬨の声をあげて、おどりこんだ。

 相手は鉄砲を持っている。

「鉄砲をかまえているやつから斬れ」

 と、和三郎は命令した。

 喧嘩には馴れた連中である。

 ただ一つ鉄砲だけが面倒だった。

 だが、西兵は酔い痴れていた。たった五人で東軍が奇襲して来ようとは思いがけないことだったらしい。

 五人が同時に飛びこむと、一発も放たずに、仰天して手をあげた。

 呆ッ気ないほどの、降参だった。

「ちぇっ、だらしのねえやつばかりだ。みんな、表へ出ろ!」

 和三郎は鉄砲をとりあげて、顎をしゃくった。

 全部がその家に集まっていると思っていたが、二、三人は外にいて、衝撃隊が足音をころして近寄るのに気がついたらしい。

 なかまに知らせるには、遅すぎたのであろうか、何よりも、まず自分の身が大事で、逸早く姿を(くら)ました。

 そのため、逮捕されたのは十一人だった。

「やい、うぬら、何てえことをしやがる、それで官軍だの、天皇の軍隊だのと、笑わせやがる。何が勤皇だ、何が王政復古だ、笑わせちゃいけねえ、さあ、立っちゃがれ」

 和三郎らは、西兵をひき立てた。ぐるぐる巻きにしてうしろ手で縛り珠数つなぎにした。その十一人の先頭と殿(しんが)りには、持っていた旗を背中に差し立てた。

 うしろ手で縛っているから、そこに突っ立てたのだ。

 長州藩の三ツ星に一つ引の紋を染め抜いてある。

 樽崎小隊とか、菊花隊とか書いてある。

 誰が見ても長州兵だから、一行が(しお)たれて、ぞろぞろ歩いてゆくと、

「何じゃア、長州兵でねか」

「捕虜だべ、首斬ったらよかべ」

「悪党どもじゃぶっ喰わしたれ」

「村では盗ッ人したり、強姦したりしたそうじゃ」

「殺したれ、見せしめにすべ」

「そうじゃ、薩長の野良犬どもじゃ、生かしとくことはなかべ」

 沿道の村人たちは、憎悪を剥きだしにして、石を投げたり、草鞋(わらじ)を投げたりした。十一人はすっかり酔いもさめ、屠所に曳かれる羊だが、中でも数人は、傲然と胸をそらして、ぎょろぎょろ眼を光らして、

「わしらは天朝の兵じゃぞ、あとで後悔するぞ」

 と、()めつけた。

「天朝もくそもあるかい、悪人は悪人じゃ」

「そうとも、天朝のさしずで、女を犯すのけ」

 馬糞が長州兵の顔に飛んだ。十一人が矢吹沢の本陣に引き据えられると、十太夫は一人一人を見渡した。

「ろくでもない面つきだな」

「…………」

「うぬらは、村で乱暴をしたそうだな。村人が手向かいしないのをよいことに、暴虐の限りを尽くしたそうだな、みんな銃殺に価する」

「ま、待ってくれ、ちょっと、だ。酔っぱらって、ちょいと……何も、死罪になるようなことは」

 あの馬糞を投げられた男が、叫びながら、立ち上がろうとした。

「控えろ!」うしろに縄尻をとってしゃがんでいた千吉がぐいと引いた。どすん、と尻を落とした。

「つべこべ吐{ぬ}かすな。うぬらのしたことは、村人たちが証言してくれるだろう」

 十太夫はにやりとして、

「銃殺がいいか、斬首がいいか」

「助けてくれ」

「わしゃ、鶏をしめ殺しただけじゃ」

「おら、女の尻をさわっただけじゃ」

「わしも、女の股倉に手ェ突っこんだだけじゃ」

「わしは財布を奪ったが、十文きり入っとらんじゃっただ、十文で首が飛ぶのか」口々に抗議する。

「十文でも十両でも同じだ。馬鹿めが、娘の大事なところを、うぬらの汚い手でさわられたら、嫁に行けなくなるわい」と、十太夫は怒鳴りつけた。

「さあ、本当にやったことを白状しろ、善兵衛、お前は字が書けるな。ここに帳面がある。一々、罪状を書きとめろ」口供書である。

 善兵衛が墨を摺りはじめた。

 十太夫は用意が出来る間、念を押した。

「いいか、嘘を吐()くなよ。少しでも嘘を吐くと、助かるものも助からなくなる。人を殺したのでなければ銃殺にはせぬ。だから正直に白状しろ」

 この一喝が効いた。

 長州兵たちは、告白しはじめた。

 鶏を殺しただけだと言ったやつは村の若女房を土間で強姦していたし、女の尻をさわっただけだと逃げようとしたやつは、納屋に火をつけていた。

 直接、斬らなくても、老婆が死んでいる。あまりに暴れまわるので、恐怖のあまり、心臓が止まった。

 この連中を裁く権利を与えられているわけではない。

 だが、戦さは、勝敗だ。勝った者の行動が正義になる。

 十太夫は、十一人の口供書をとると、爪印を()させたあと、「よし、放してやれ」

 え?! と驚いたのは、当の十一人だ。

 そんなに簡単に許して貰えるとは、思っていなかっただけに、耳を疑った。

「いいか、うぬらは、戦さをするために来たのであろう。されば、堂々と戦え。われわれと戦いもせずに、弱い農民たちを苦しめるとは言語道断だ。今度は放してやるが、二度と、かようなことをすると、その首は胴についておらぬぞ肝に銘じておけ」

 十一人は、ぺこぺこして、誓った。

 どうせ、詫びるだけ詫びても、釈放になったら、こっちのものだという気持だった。

 連中の武器は一切、取り上げている。

「武器は返さぬぞ」

「へい、結構でございます」

 十一人は地獄で仏にあったように、にたにたしている。

「よし、和三郎、手間なことだが連れてゆけ」

「どこへ連れて参ります」「その村へだ」「え?!」「村へ行ってから、縄を切ってやれ。あとは村人たちが始末するだろう」

 十太夫が、頬を弛めていたのはそういう意図だったのかと、漸く和三郎たちにもわかった。

「放してやれ」

 と、言われたときに、むっとしたのである。

(この悪党どもを釈放するこたァねえや)と、思った。

 和三郎だけではない、善兵衛も千吉も、みんなが思ったのだ。

 村で悪事をしなくても、戦争ははじまっているのだ。

 敵兵というだけで、ぶち殺してもかまわないのである。

 すでに、奥州へ乗りこんで来ただけでも、侵入者なのだ。

 もっとも、十太夫には、それほどの気持はなかったようだ。白河が落城したと聞いて、乃公(だいこう)出でずんば、と勇み立ったのだが、まだ気持にゆとりがある。

 それに、この地が、もともと仙台領ではないからであろう。このあたりは白河領になる。

 放してやる、が、あとは村人にまかせる。

 それが十太夫の裁きだった。

 実際にひどい目にあったのは村人たちだ。

 西兵の悪事を糾弾できるのは村人たちだけなのだ。被害者に、加害者を裁く機会を与えてやる。

 長州兵どもが、暴虐のかぎりを尽くしたのも、刀槍や鉄砲を持っていたからだ。

 その武器を取り上げてしまえば、五分五分である。

「いいか、和三郎」と、十太夫は念を押した。

「村へ着くまでに、縄をほどくな」「へい、合点です」

「逃げられぬように、くれぐれも注意しろ。もしも、途中で西軍に襲われたら、そのときは、かまわぬ。十一人、一人も余さず、斬れ」

 断乎たる十太夫の言葉に、十一人は、また顔色を失った。

「そら、あんまりじゃ」

「何も、そんな……」

 自分たちの犯罪は棚に上げて、口々に非難をはじめる。

 十太夫は、じろりと見やって、「斬られたくなかったら、友軍を追っ払うのだな、それが出来なけれは諦めろ」

「ちぇっ、うめえこと考えやがった」

 と、一人がいまいましそうに、ぼやいた。

「どっちみち、助からねえ」

「そう諦めたものでもあるまい。村へ着いて、いましめを解かれたら、村人たちに、両手をついて詫びるのだ」

「…………」

「犯した罪のつぐないはせねはなるまい。人を殺したやつは、切腹するがいい」

「…………」

「それくらいの性根もなくて、このくにに攻めこんで来たのか、馬鹿め、長州や薩摩のやつらは愚鈍者が多いが、やはりうぬらは、馬鹿の骨頂だ」

 十太夫は和三郎に、行け、と顎をしゃくった。

「へえ、さあ、歩め。面倒くせえが、村まで送り届けてやる。せいぜい、道中、詫び言の文句でも考えておくがよかろうぜ」

 細谷十太夫の率いる衝撃隊の最初の戦いは、三日後の五月二十一日、小田川で大垣藩の斥候(せっこう)と遭遇したときだった。

 十太夫は、和三郎らの伝手(つて)で附近の山の木樵(きこり)や猟師らを招いて、

「おぬしらを雇いたい」と、切りだした。

「おぬしらの一日の稼ぎの三倍を払う。なに、難しいことではない。見張りをやってくれればいいのだ」

「へえ、そら、やりますだ。御時勢で仕事があがったりだでの」

「見張りちゅて、何を見張るだね、博奕(ばくち)をするのかね」

 博奕打ちの兵隊が多いからそう思ったのであろう。

「ははは、博奕はよかったな。博奕場の見張りではない、狐と狸の見張りだ」

「へえ、狐と狸? ……」猟師たちは顔を見合わせた。

「そうだ、薩摩の狸に、長州の狐だ」

 やっと意味がわかって、みんなげらげら笑いだした。

「あんだ、そだらことか。狸じゃねえ、芋でねか」

「ははは、芋でも狸でもよい。とにかく、西軍どもだ。やつらは、奥羽を焼野にして、みな殺しにすると豪語している。そんなやつらに荒されて、我慢が出来るか」

「へえ、そんなことなら、日当はいらねえ、お手伝いしますだ」「いやいや、危険な仕事だからな。おぬしらは兵隊ではない。だから日当を払う」

「ほんだら、一日分でええ、一日で三日分も貰っては、今日様(こんにちさま)に悪いだで」

 素朴で正直な連中なのだ。

「ではこうせい、間をとって、二日分払う、いいな」

 十太夫の申し出に、木樵たちは感激した。

 それぞれ、おのれの縄張りならいたちよりも知悉している。不馴れな西軍の進撃を発見して、通報するなど、容易なことだった。

 十太夫は、白河の敵勢が進んでくる可能性のある道すじ、七カ所に張りこませた。間道や分かれ道をも見通せる個所に、かれらを置くことにした。従来、仙台藩も会津藩も、こうしたこころみはまるきりしていない。

 すべて、それぞれ士卒だけで、防衛しようとしていた。

 土地のことは土地の者が、知悉しているのだ。かれらの眼は、夜陰でも侵入者を見逃すことはない。

 それこそ、兎を追い、鹿を射って走りまわった山谷だから、自分の庭のようなものだ。

 その効果は、翌日にはあった。前記の二十一日である。

「西軍が白河城より小田川の方にやって来る」

 という通報だった。

「よし、出撃だ。最初の戦いだぞしっかりやれ」

 十太夫は鼓舞して、中隊を率いて出発した。

 小田川の七曲りまで来たとき、第二の通報があった。

 西軍は山谷の間道をやってくるというのである。大垣藩の斥候隊らしい。

   血風化地蔵

「大垣か」十太夫は、ぺっと唾を吐いた。

「裏切りの腰抜けどもだ。大垣は鳥羽伏見の戦いの際には、会津とともに戦っている。それが今度は薩長の手先になりおった」

「ふてえ野郎たちだ」と、和三郎もいきまいた。

「みな殺しにして、思い知らせてやりましょうや」

「そうだ、そうだ、卑怯者は許せねえ」衝撃隊士たちは湧き立った。

 小田川に進むかれらのあとから片倉小十郎の家来の一小隊が、応援として追っていった。斎藤利右衛門が小隊長である。細谷十太夫と衝撃隊は、まだ信用されていなかったのであろう。

 藩士たちにしてみれば、

(無頼者などを集めて、どうしようというのだ)

(いかに命知らずどもだといっても、たかが、やくざ者ではないか)

(仁侠か侠客か知らんが、そんな連中に何が出来る)

(喧嘩はうまいかも知れぬが、戦さは喧嘩ではないぞ)

 そういう非難が、東軍の間に流れていたのは事実である。十太夫の耳にも入っていた。

 千吉たちが、冷笑されたといって来たのだ。

 十太夫は、聞き流せ、と言った。

「そういう声が出ることは、わかっていた。家柄と伝統を後生大事にする奴らだ」

「へえ、そりゃわかって居りますが」

「実力で示すしかない。戦さに勝ちさえすれば、見方もあらたまる。実力のほどを見せればいいのだ。機会はすぐくる」

 そう言って、慰めていたのである。

 だが、戦さとなると、個々の戦いというわけにはいかない。

 前衛が弱体だと、全軍の士気に及ぼす。戦の波というものは、小波の重なりが、突然、大津波になるのだ。

 本陣としても、十太夫にまかせきりというのは、心もとなかったのであろう。

「隊長、片倉の小隊が応援に追って来ます」

「ちぇっ、面倒だな。足手まといだ。敵はどこだ」

「あの峠のあたりです」

「よし、鉄砲隊、前へ出ろ。近づいたら、命令する、それまでは撃つな」鉄砲は、先日の分捕り品だけだ。

 僅かに六挺。

 これだけではしかたがないが、もっとあるように見せなければならない。

「上手に狙えよ。やつらの鉄砲も頂くのだ」

 道を二つにとった。案内は木樵の弥七である。

 疎林の中を進んで、大垣兵が休息している側面に出た。

「まだだ。やつらが、本隊に気がつくまで、撃つな」

 それまで出来るだけ近づく。

 本隊の姿が見つかった。大垣兵は、ぱっと散開して、鉄砲をかまえた。

「いまだ、撃て!」十太夫の命令を銃声がかき消した。

 大垣兵にはまさか横手の林の中から東軍があらわれるなど、夢にも考えられなかったのだろう。

 突然の襲撃で、狼狽した。            

 数人が見る間に撃ち(たお)されて、

「退け、退け」と、逃げだした。

 退却するにも数人が殿(しんが)りを引き受けて、発砲しながら、ゆくのだ。

 勢いこんで追おうとするのを十太夫は制した。

「追うな、()に乗せられてはならぬ」

「ちぇっ、みな殺しに出来ますぜ勿体ねえ」

 千吉が口惜しそうに地団駄踏んだ。

「あせることはない。それより、鉄砲と弾丸を拾え」

 遺棄された鉄砲は七挺だった。それもエンピールが三挺とスナイドルが四挺である。

 これで衝撃隊の鉄砲は十三挺になった。

「ひとまず太田川に戻ろう」

 十太夫は隊伍を整えて、太田川の村に戻りかけたとき、突然、左右の家から狙撃された。

「伏勢だ」

 衝撃隊はぱっと散った。

 幸いだったのは、敵の狙いが不確かだったことだ。

「和三郎、やられたのは何人だ」「へえ、孝助が脚をやられたくらいでさ」

「よし、ひるむな。あせらずに狙え」

 十太夫は輩下を励ました。

「おれが第一分隊を連れて向こうの路地を走る。やつらは、そっちへ撃ってくるから、そこを狙い撃ちにしろ」

「隊長が……(おとり)になるんですかい、そいつァ危ねえ」

「なあに、奴らの弾丸なぞ当たるものか」

「ですが、用心して下せえよ」

「用心していて戦さが出来るか」

「隊長に死なれちゃ、わっちらがお手上げだ」

 和三郎は必死に止めた。

「じゃ、こうしましょう、向こうの角で、わっちが一発、撃ちまさ、そうすりゃ、やつらが、こっちを向く。そのとき、隊長は、あっちの路地を走りなさるがいい。あわてて、そっちをむく、そのあわてたところを、撃たせましょう」

「そいつァいい。和三郎、おめえ軍師になれるぜ」

「ひやかしちゃいけません、じゃ、よろしゅござんすね」

 和三郎はスナイドル銃をひっつかむと走っていった。

「みんな、撃つな。合図を待て」

 十太夫は一同を制して様子を見ていると、和三郎が家のかげから、ぱっと出た。

 ばーんと、一発放って、さっと隠れた。

 敵兵がそっちに気を引かれたとたん「いまだ!」と十太夫は分隊を率いて、路地を走った。

 敵兵はあわてて、こちらに銃口を向ける。狼狽した発砲である。待ちかまえていた衝撃隊の鉄砲が一せいに轟いた。

 十太夫の作戦は成功した。西軍に悲鳴と号泣が起こった。それが聞こえるほどの近さだったのである。

 傷ついた大垣兵の一人が、苦痛のあまり、民家の戸口から、よろめき出て来て、道でばったり倒れた。

「ざまあ見ろい!」

 喜平が嘲りの声をあげた。十太夫の観察では、確実に六、七名は倒したようであった。

 浮足立った大垣兵は、夕闇が迫ったのを幸い、攻勢に転じると見せて、逃げだしている。

 小田川の聚落(しゆうらく)に火があがった。西軍が放火したのだ。白河城に逃げ込むために追撃を(くら)ます手段だった。

「追うことはない。負傷者を調べろ」

 幸い軽傷者が一人だけだった。十太夫は衝撃隊をまとめて、太田川に屯営することになった。

 

 翌日、大松沢掃部之輔、軍監東儀兵衛、星列之輔組頭小栗兵三郎、平田小四郎、粟野郁之助、富塚熊之助、白津七郎兵衛、飯淵三郎右衛門、砲長大松沢多利之進、銃士五小隊が応援として須賀川にやってきた。

 十太夫が呼ばれて須賀川にゆくと、柏木屋には十数人の男たちがごろごろしていた。

「ああ、隊長さんだ」

 柏木屋の女将が、十太夫を見かけて飛びだして来た。

「大変ですよ、皆さんがお待ちになっているんですよ」

「何を待っているんだ」

「隊長さんをですよ。兵隊になりたいそうで」

 一応、募集は締め切ったつもりだったが、話を伝え聞いて、遠くからやって来た者もいるらしい。その群れの中に、いつかの三人もまじっていた。

 蕎麦屋で叩きつけた連中だ。

「おう、お前ら」

「へえ」と三人は小鬢(こびん)を掻きながら、バツが悪そうに、

「あんときゃ、どうも、知らねえことで、御無礼を」

「松と吉といったな」

「へえ、わっちは六で」と、逃げだした男が名乗った、「六蔵でございます」

「六か、ろくでもねえことばかりしていたか」

「へえ、こいつァ痛えや、その通りで。今日から心を入れ替えて隊長さんの下で、薩長のやつらをやっつけてえ、兵隊にしておくんなさい」

「よし、命令を守るならば、家来にしてやる。その代わり、非道なことすれば叩っ斬るぞ」

 十太夫は、みんなを見まわして強い調子で言った。

「女将、クロスケはどこだ」

「はいはい、ちゃんと餌をやってありますよ」

 出動するとき預けていったのだ。

 女将はこわごわ紐の端を握って来た。

「みんな、よく見ておけ、おれの目の届かぬところでも、このクロスケが見ているからな」

 連日、志願者が来た。

 薩長の暴虐は、磐城・岩代一帯の住民たちに被害を及ぼしている。

 戦さは武士だけでするものと思い、ただ逃げるか、泣き寝入りするしかなかった農民や町民たちも、細谷十太夫が衝撃隊を組織したと聞いて、集まってきたのだ。

「わっちらでも兵隊になれるんですかい」

「度胸があって、おれの命令に従うなら、家来にしてやる」

「へえへえ、度胸なら、あり余っていまさあ。ですが読み書きが出来ねえので」

「兵隊には、そんなものはいらぬ。薩長の西軍をやっつける気持さえあればいいのだ」

「やりますって、やらいでか」

 命知らずの男たちであった。衝撃隊は百人を越えた。

 いずれも黒ずくめの筒袖、小袴に股引脚半の制服を支給した。太田川で五隊のいずれかに編入して、鉄砲の訓練をする。

 数が少ないので、交替で練習させた。

 

 二十五日。十太夫は、矢吹の本陣から呼ばれて馬を走らせていった。

 これから評定が始まろうとしたとき、早馬が飛んできた。

「白河の西軍が大挙押し出して来ました」というのだ。

「くそ! まるで、おれの留守を狙って来たようなものだ」

 ともかく、十太夫は引き返してみた。

 大軍といっても、どれくらいの人数かわからない。そのとき、すぐに銃隊の応援を連れてゆけばよかったのだが、帰りを急いだために、十太夫はひとりで戻ったのだ。

「みんな配置につけ。命令するまで撃つな」

 太田川の村外れの家や、林や、窪地を利用して胸壁とした。

 押し寄せて来たのは、薩摩兵や長州兵を本隊とした大垣兵の先鋒だった。先日の復讐戦を目論(もくろ)んでのことだ。

 その斥候隊は小田川の近くまで来て、喊声をあげた。

 東軍の気配を(うかが)って、反応をさぐっているのだ。

「敵は七、八百もいます」

 千吉が報告してきた。

「こっちは百だ。いくらなんでも勝ち目はありませんぜ」

「応援を呼びにゆけ」

 十太夫は矢吹に使番を走らせた。

 だが、応援の隊がやってこないうちに、敵の本隊は、太田川に突入して来た。

「みんな、走れ、山だ。第一番隊しんがりしろ」

 武藤鬼一の隊が、応戦している間に、他の兵たちは、一散に山上に駈け上がって、散開した。

 山上に化地蔵(ばけじぞう)がある。首なし地蔵である。村人たちの願いごとがかなえられると、首があらわれるという。

 衝撃隊は草むらや疎林に散った。

 数少ない鉄砲で防いでいる間に応援の隊がやって来なければ、斬り込むしかないのだ。

「鉄砲隊は道の両側に伏せろ。半数は樹にのぼれ」

 巧妙な作戦で敵を眩惑するしかない。

「第二小隊は、道わきの窪地に、穴を掘って入るのだ」

 穴の中に入って草で蓋をする。伏勢が敵の先鋒を撃ち倒したあと、残りが退却したときに飛び出して、鉄砲を分捕り、そのまま前衛となる。

 危険な綱渡りだったが、敵は寡勢(かせい)とあなどっていたので、易々とこちらの罠にはまった。

 この戦いで大垣兵は死傷者を多くだして、退却した。

 代わりに薩摩兵が出て来た。長州兵も優秀な武器と豊富な弾丸を持っていた。

「くそっ、十挺や二十挺、鉄砲を奪っても間に合わぬわい」

 十太夫は切歯した。

 早く夜が来るのを祈りたい気持だった。

 夜になれば、敏捷な連中の活躍の機会がある。だが、その夜の(とば)りがおりる前に打撃を受けそうだった。

「これじゃア、敗けちまいます」

 小鼠と呼ばれている男が十太夫のところにやって来た。

「隊長、たしか七挺がらみの鉄砲がありやしたね」

「うむ、さっき分捕ったやつだ、ウインチェスターとかいうやつだ」

 大垣兵の分隊長が持っていたものだ。

"七挺がらみ"とは、七連発ということだ。

 最新式の騎兵連発銃である。

「あいつを、あっしに貸しておくんなさい」

「どうする気だ」

「やつらのうしろに回って、ぶちかましてやりまさ」

「出来るか」

「へえ、そこが小鼠の松蔵でさあ」

 青木松蔵というのが本名だった。

 松蔵は七連発を掴むと、草むらを這いおりた。

 薩長兵は太田川の前面に出ている。かれは迂回すると、村の東端の民家の(うまや)にもぐりこんだ。

 そこなら、敵の背後になる。

 だが、いかに不意撃ちでも、たった一人と見破られたら、せっかくの策略も水泡に帰すのだ。少なくとも、十数人、分隊か小隊に思わせねばならなかった。

 十太夫は、時間を見計らって応戦を止めさせた。

 それが合図だった。

 松蔵は、厩の陰から、狙い撃ちに西兵を倒していった。

 それに呼応して、山上の衝撃隊がまた一せいに撃ちこむ。

「挟み撃ちだ」

 西兵は狼狽し、恐怖の叫びをあげて、陣が乱れた。

 狂ったように走りだす者がいる。制止する者、飛びだす者。その西兵を七連発が撃ちまくった。

 七連発ウインチェスター騎兵銃の威力は大きかった。一人で七人の働き、いや、狼狽した目や耳には十人二十人にも思えたことだろう。

 挟撃の効果は大きく、さすがの薩摩兵も()み声をあげて、逃げだし、これが敗走の引き金となった。

 恐怖は伝播(でんぱ)するものだ。

 勝ちに乗じているときはいいが敗色になると、急激に、それは全軍の士気に影響する。

 西軍が総崩れとなったところに十太夫は、追撃を命じて、どっと、化地蔵から駈けおりた。

 西軍は逃げるついでに、民家に放火した。これは殿(しんが)りが応戦の難しさと危険を免れる卑劣な方法だったのである。

 その後に村人たちから聞いたことだが、西軍は、村人の家財の貴重品を強奪して、

「分捕りだ」

「戦利品でごわす」

 と、興じていたという。

 十太夫も家来たちも、一様に憤激した。

「薩摩の芋はどこまで(くせ)えのだ、まるで盗人じゃねえか」

「長州の狐も、人を瞞しては、ちょろまかす、盗ッ人どもが官軍と聞いて呆れら」

「何が官軍なものか、やつらは本当の賊だ、盗ッ人兵だ」

「一人残らず、ぶち殺してやる」

 ますます、意気軒昂たるものがあった。

 十太夫は後事を鬼一と武兵衛に托して、また矢吹の本陣にひきかえした。

 本陣では、白河攻めの軍議がまとまりかけていた。

 十太夫の勝利の報告は、軍監や参謀らを大いに喜ばせた。

「幸先がよいぞ」

 大松沢掃部之輔(かもんのすけ)が大声で言った。

「祝杯じゃ」

「細谷、おぬしには、明日も働いて貰わねばならぬ」

 と、軍監の東儀兵衛が墨の色のまだ濡れているような配軍表を指した。

「おぬしには、白河本道攻めに加わって貰う。仙台藩から中島兵衛之介三小隊と片倉隊の斎藤利右衛門の二小隊と行動してくれ」

 衝撃隊百人、と、すでに書き入れてあった。

「承知仕った」

「ほかに本道には、会津藩も加わる。大竹喜内の隊、辰野源左衛門の二中隊、井津守之進の隊、諏訪豊四郎の百人だ」

 その他、本沼口には二本松藩の隊が出張る。

 家老の丹羽丹波をはじめ、会津弥一、黒小路友次郎、荻権蔵の四小隊。

 白河城の西、金勝寺山口には、仙台藩の泉田志摩、中島の分隊、芝多贇三郎。会津藩望月新平、国分辰次郎がそれぞれの隊を率いて布陣し、七曲りには、応援として、大松沢掃部之輔が後備えに控えているという強力な配置で、これでもって、白河城を奪還しようというのである。

 その夜のうちに十太夫はまた引き返して、準備に入った。

 会津・仙台・二本松の各藩の部隊は夜のうちに、持ち場に向かって進んだ。

 白河城の三方から、払暁に一斉に攻撃しようという約束だった。

 細谷十太夫は衝撃隊を率いて小田川駅入口の八幡神社前に布陣して夜を明かした。

 かれらが仮眠したのは、一刻足らずだった。

「あと小半刻で夜明けです」

 見張りの針生平三郎が起こしてまわった。

 誰もが昨日の疲れで、ぐっすりと(ねむ)っていた。

「時刻だ。本隊がやって来ようぞ、みんな起きろ」

 十太夫自身も、睡気ざましに冷水で顔を洗って、隊士を叩き起こした。

「用意はいいか」

 鉄砲隊は弾丸入れを確かめ、隊形を整えた。

 みんな眼をこすり、立ち上がってからもまだ睡っている者もいた。

「おい、眼をあけろ、もうすぐ総攻撃だ」

 なまじ一刻ほどの仮眠では、かえって、睡いさかりだった。

 カア……。

 と、烏のクロスケが、そんな隊士たちに呼びかけるように、頭上を飛び舞っている。

「それ見ろ、早く起きろと言っているんだ」

 と、善兵衛が笑った。

 その顔の刀傷が見えるほど、あたりは明るくなっていた。

「――本隊は見えないか」

 十太夫はさっきから、焦々(いらいら)しながら、振りかえった。

 もうとっくに到着していなければならないのに、まるっきり見えないという返事だった。

 金勝寺山口に布陣した会津藩の望月新平のところから、問い合わせて来た。

「本隊来らず、貴隊、進撃や如何」

 すぐに十太夫も返事をだした。

 払暁には本隊も到着して、一斉に三方から攻める。この連携による強力さが、西軍の防衛力を撃ち破ることになる、というのが、矢吹本陣での評定だったのである。

「どうしたのだ、かれらは」

 じりじりしながら待った。

 払暁を期すというのは、奇襲を意味している。

 時機を逸してしまっては、大軍が到着しても何にもならない。

「くそっ、朝陽が……」

 かっと、旭光が、雲を破った。

 そのころになって、やっと、本隊のやってくるのが見えた。

 本隊の多くは須賀川にあった。それぞれの持ち口に、夜のうちに到着しなけれはならないはずが、指揮者の指令のまずさや、夜陰の行軍が、時間を超過させたのだ。

「いまごろになって来ても、もう遅いわ」

 十太夫は地団駄踏む思いで、

 「総攻撃を何だと思っているのだ。こんなことなら、おれの隊だけで突っこむしかない」

 と、叫んだ。そこへ、また会津藩の使者が馬を飛ばして来た。

 金勝寺山口に、夜のうちに布陣していた会津藩一中隊も、細谷十太夫と同じ気持だったのである。

 約束の時刻に総攻撃の先鋒たるべく、睡魔と闘って待機していたのに、本隊の到着が遅れたのだ。

「金勝寺山には薩摩兵一小隊あるとおぼゆ、我が隊、これを攻撃せんとす」

 十太夫も、これに応じた。

 ただちに、七曲りの大松沢掃部之輔に後備えを申し送って、進発した。

 会津藩の高橋権大輔、本木内蔵之丞がしびれを切らしたのである。

 望月新平は激昂するかれらを制して、本隊へ攻撃時刻の変更を申し入れにいっていた。

 総攻撃の約束を守ったためにいたずらに機会を逸したという思いが強く、高橋らは、これ以上、待つことが出来なかったのだ。

 高橋らが突然、金勝寺山へ向かって鉄砲を撃ちかけたのが、この日の戦の火蓋を切ったことになった。

 細谷十太夫の衝撃隊も、側面の松林の中を突進した。

 すでに日は上り、林の中の闇を払っていて、西軍の防塁からは、両方とも見通しがきいている。

 薩摩兵はこの果敢な兵を、一人一人、狙い撃ちにすベく、充分の余裕をもっていた。

 豊富な新式銃が、引きつけるほど的確に倒してゆく。

 高橋隊は、ばたばたと撃ち倒され、本木隊も、たちまち死傷者が出た。

 十太夫は先頭に立って、突進したが、すぐうしろにつづいていた小松宣蔵が、声もなくもんどり打って転がり、つづいて針生平三郎が、

「やられた」

 と、叫んで突んのめった。

「いかん、やつらの狙いは正確だぞ。止まれ、退却だ」

 十太夫は、陣鉦を打たせた。

 間断ない銃声に妨げられて、命令の声も聞こえないのである。けたたましい(かね)の音が、隊長の意志を伝えた。

「残念だ」

 和三郎が呻いた。

「芋め、もう少しでぶった斬れるのに」

「あそこまで近づく前に、ホトケになっちまうぜ、和三郎、退却だ」

「へえ、しかたがねい、やい、退却だ退却だ」

 衝撃隊が、身を転じて退きはじめたのを見るや、

「やつらは逃げもすぞ、追撃するがよか」

「みな殺しにしもそ」

 薩摩兵らは、喚声をあげて、追撃にうつった。

 十太夫の左右に、ばらばらと弾丸が飛んできて、目の前を走ってきた男が、蔓草(つるくさ)に足をとられたように、ばったり倒れた。

「おい、しっかりしろ」

 十太夫は抱き起こして、その男が小泉軍治という若者であることを知った。

「隊長、もういけねえ」

「何をいう、浅傷(あさで)だ、肩につかまれ」

 十太夫は片手抱きにして走りだした。

 十太夫の隊は根田へ敗走した。これを見た大松沢掃部之輔の隊が横合いから撃って出たが、西軍の兵は一小隊どころか、薩・長・忍・大垣の諸隊で、二千余である上に大砲や鉄砲が揃っている。弾丸も豊富だった。

 大松沢の隊も攻め立てられて、死傷も多く、遂に退かざるを得なかった。十太夫の隊が退いたのが、午前十時頃で、大松沢が永坂へ退いたのが、十二時頃である。

 この敗戦の前、仙台の中島兵衛之介の隊は、会津の望月新平の隊と連携して白河城の西北にまわり払暁から無二無三に攻めていた。

 金勝寺山の薩摩軍が十太夫の隊を追撃しているとき、背後が手うすになり、望月隊を利することになったのだから、呼応しての作戦ではなかったが、結果としては、味方を利することになったのだ。

 望月と中島の隊は、激戦の揚げ句、金勝寺山を乗っ取った。だが、それは一時のことだった。

 結局、寡勢(かせい)であることが、ここでも(わざわ)いしたのである。

 せっかく金勝寺山を占領して西軍の追撃に移ったとき、二本松隊の持ち場が破られた。

 こうした連合隊の場合、一部に弱いところがあれば、千丈の堤も蟻の一穴から崩れるのに似て、他がいくら強固でも、激流は洪水を起こしてしまうのである。

「やむを得ん、引き揚げだ」

 望月新平は、切歯した。

 大松沢の隊も死傷が多く、伊藤庸之助、田中兵衛などが討死し、青木文弥、農兵の半右衛門などが重傷を負った。

 会津藩では隊長をはじめ死傷が(すくな)くなかった。

 翌日も、会津軍はさらに、六檀山に向かった。薩・土・大垣の兵と戦い、一方では、金勝寺山の薩軍を撃ったが、(いたず)らに死傷者が増えるばかりだった。

 西軍は大谷地に出て、放火した。

 このとき、棚倉口より、仙台藩の大立目武蔵と二本松の大谷鳴海の隊が進撃して、会津藩と力を合わせて、土佐軍を撃ったが、忽ち長州軍が大挙して来た上に、(おし)軍も側面から攻撃して来て、勝敗は容易につかなかった。

 黄昏(たそがれ)に至って、双方とも疲れたように、交々(こもごも)引き揚げている。十太夫は、このとき、

「これからだ、おれたちの腕の見せどころは」

 と、言って、隊士を点呼した。

「いいか、夜の闇が、衝撃隊を救けてくれる。黒装束はそのためだ」

「斬り込みですかい」

「そうだ。敵は疲れている。まさか今夜は来ないと思っている。そこがつけめだ」

「へえ、やりましょう」

 鉄砲を調べ、腹ごしらえをして用意しているところへ、矢吹の瀬上主膳から使いがやって来た。

「即刻、御出を乞うとのことです」

「なんだと! 誰かが邪魔をしようとして密告したのか」

 戦場での抜け駆けは軍律違反だ。

 だが、敗色を前にしては、そんなことは言っておれない。

 十太夫は衝撃隊を率いて、夜の斬り込みを敢行しようとしたのだ。

 ところが、そこへ矢吹の本陣から呼び出しが来たのである。

「やむを得ん、おまえらは用意をしておけ。おれは一寸(ちょっと)いってくる」

 十太夫は馬に飛び乗った。

 斬り込みの時刻がずれるかもしれない。呼び出したのが、軍監の瀬上主膳とあれば、聞かないふりも出来なかった。

 馬は宵闇の街道を砂塵を巻いて走った。

 途中、東軍の兵士たちがかたまって休息していたり、うどんを食べていたりした。

 店の淡い灯に照らし出された兵士たちの姿は、中には笑ったり騒いだりしたりしている者もいたが、総じて疲れきっているように見えた。

 矢吹の本陣に入ってゆくと、瀬上主膳が、従者らに何かを命じていた。

 従者らは、(こも)包みを作ったりして、引っ越しの支度でもしているように見えた。

「おお、来たか」

 と、主膳は懐かしそうに、片笑いをした。

 その頬に淋しそうな(かげ)りが動いた。

「白河攻めは失敗したそうだな」

「残念だ。本隊が約束の時刻に来ていれば、このようなことはなかった」

 と、十太夫は、思いだすのもいまいましげに言った。

「いまさら、言うのも愚痴になるが、軍議が守られねば何にもならん、いっそ、個々に戦うほうがいいようなものだ」

「そうかもしれぬ。そうでないかもしれぬ」

「…………」

「わしはもう軍監ではないから、何ともいえぬ」

「どうなされた」

「解任されたよ」

 五月一日の失策が仙台に聞こえて、瀬上主膳は呼び戻されたのである。

「指揮不行届の(かど)をもって譴責の上、役目を召し放す、というのだ」

「増田歴治の指し金だ。あいつ、昨日も、大松沢が白河に入らんとして応援をもとめたのに、動こうとしなかった。そのために勝機を失ってしまったのだ」

「細谷、おれはどうせ戻ってくる。今度は軍監としてでなく、一隊長としてだ。そのときまで死なないでくれ」

「わかった」

「それだけ言っておきたかったのだ。わざわざ呼び出して済まなかった」

「待っている。あんたとなら、呼応して奇襲をかけても、失敗するようなことはない」

「わしもそう思っている。ところで(からす)は元気か」

「ああ、あいつも、死ぬときは一緒だ」

 十太夫は元気づけるように笑った。

 かれがふたたび根田へ戻ってみると、大松沢掃部之輔のところから使者が来ていた。軍議が開かれるので知らせに来た、というのである。

 眠るひまもなかった。その足で十太夫は、軍議に出かけた。

 敗戦は人々を緊張させている。

{軍議ばかりしていてどうなるものか}

 と、十太夫は思ったが、仙台藩の家老伊達筑前の大隊も到着していたし、十太夫の身分では、意見をいう立場ではなかった。

 かれは軍議の席に入ってゆくと、末席に腰をおろした。

「あ、細谷さん、こっちに来るがよい」

 と、大松沢掃部之輔が招いた。十太夫は、そういう扱いをされることは望んでいない。大体、晴れがましいことの嫌いな男なのである。

 藩の重役たちが並んでいるというだけでも、避けたくなる。

 武士は武士としての役目を果たせばよい、というのが十太夫の気持だった。

 あくまでも、さむらいとしての本分を尽くしたい。

(お偉方と掛け引きするのは、おれの性に合わねえ)

 と、思っていた。

 だが、掃部之輔に招かれては逃げるわけにもいかない。

 十太夫が席を立って近よると、「細谷さんの衝撃隊は強い。衝撃隊を前面に配すべきだと思うのだが」

 と、皆に計った。

 十太夫としては、鉄砲も揃っていないし、あくまでも、陰の存在として、闘いたかった。

 もっと極端にいえば、かれらを戦線から外してくれた方がいい。独自の行動を認めて貰いたいのだ。

 だが、それを言えば、誰もが反対するにきまっていた。

 もっと勝利を得るか、逆に、もっと敗戦を重ねるかしない限り、細谷十太夫の思っているような、自主的判断による単独行動を、是認されることにはならないだろう。

 軍議は、夜を徹して行われた。もはやここまで来たら、拙速よりも、確実な勝利への方法を練るしかなかった。

 夜の白々明けまでに決まったのは、来る六月一日を期して、総攻撃を行うということであった。

 その準備のために、白河への各口を固めて置く。配軍の駒も、この席上で決められた。

 細谷十太夫の衝撃隊は、根田を引き払って、小田川駅を守ることになった。

 小田川のはずれに松雲寺という小さな寺がある。そこを屯営とすることに決まった。

 総軍の大隊長には、大松沢掃部之輔が就任した。

 小隊長には小栗兵三郎と平田小四郎。以下それぞれに配備した。

「さあ、今度は寺が屯所になるぞ」

 夜明けに隊は移動した。

「松雲寺という寺だそうな」

「尼寺じゃねえのかえ」

 誰かが頓狂な声で言った。

「尼寺かもしれねえ。だが、尼なんて間誤間誤してやしねえぜ、金無垢の御厨子を抱えて、尻に帆かけて遁ずらしているわい」

 松雲寺は尼寺ではなかったが、和尚も青僧もとっくに()げていた。

 

 

   細谷烏

 

 松雲寺に衝撃隊が屯集することになったが、とても百人の人数を収容は出来ない。

 屯営は松雲寺だが、近辺の家に分宿した。

 松雲寺には、五十人ばかりが宿泊することになったが、翌日になると、驚いたことに、十数人の女たちがやって来た。

「お手伝いさせて下され」

 女たちは口々に言った。

「せめてもの御恩返しでございます」

 と、年嵩(としかさ)の中年女が言った。

 彼女らは、あの西軍が荒した村の女たちだった。

「そいつは有難てえ、おかげで美味(うめ)え飯が食えらあ」

「そうだ、野郎ばかりで、兵粮(ひょうろう)の方はどうなることか、心配で心配で、胃の腑が痛かったで」

「はははは、そいつも、すぐに治るわえ」

「まんだ、治らねえ、姐さんや、腹を撫ででぐれねか」

「調子づくなで、この野郎。そだら冗談言うがら、嫌われるのだ」

「んだ、第一、阿弥陀様に叱られるだべ」

 寺だということが、がさつな連中も自粛させているようだった。

 十太夫のところに来たのは、一番年が若く、器量のいい娘だった。

「お万と申します」

 恥ずかしそうに挨拶した。

「まだねんねだがよ、隊長さんの身の回りをお世話させて貰いますだ」

 年嵩のお安という女が、紹介した。

 村の者の総意らしかった。

 十太夫の下着の洗濯から、ほころびの補修から、食事の給仕まで、すべてしてくれる。

 十太夫も悪い気持ではなかった。

 その上、夜になると、寝床の支度をしてくれただけでなく、次の間に自分も寝たのである。

 十太夫の部屋と決めたのは、寺の住職がいた方丈だった。

 鐘楼などは焼玉が当たったのか、半焼していたし、山門も半ば崩れていたが方丈は類焼を免れていたのが幸いだった。

「隊長はうめえことやっだな」

 と、隊士の中には羨ましそうに、

「あんな器量のいい女なら、嬶ァにしでえな」

「向こうさんで、遠慮すっだべ」

 そんな私語が聞こえてくるようだった。

 せっかく、隊がまとまっていて、これからというときに、そんなことで、団結をこわしたくなかった。

(おれは十太夫だ)

 十太夫は自戒した。

(手を出すものか。手を出さねば、みんなも、わかるだろう)

 と、思った。

 ところが、その夜、女の方から、忍んで来たのである。

 昨夜は寝ていなかったので、横になると、十太夫はすぐに眠りに落ちた。

 熟睡だった。もともと不眠など知らぬ男である。

 大きな(いびき)をかいている十太夫の枕許に、いつの間にか、お万が坐っていた。凝っと、十太夫の寝顔を見ている。

 夜である。枕許には、小皿に燈油を入れて、燈芯を浸してある。

 ちろちろと炎があがっている。淡い明かりである。

 行燈(あんどん)は盗まれたのか、寺内になかった。

 十太夫は鼾をかいてぐっすりと眠っている。昨夜はとうとう一睡もしなかったのだ。

 まるで眠りを(むさぼ)っているという感じだった。

 お万は、そっと夜具の下に手をさし入れた。

 十太夫の腕のあたりが触れたが、全然、気がつかない。

 その無邪気な寝顔が、女の気持をそそりたてたようである。

「頼母しいお方……」

 胸の思いが、そのまま、口に出たのである。

「――十太夫さま」

 そっと呼びかける。

 十太夫の鼾がやんだ。

 はっとした。眼をさまして貰いたい気持と、眼をさまされると恥ずかしい、その両方の気持が娘の(なか)で攻めあっているようだった。

 男の臭いが、夜気にこもっている。お万は胸の高鳴りが聞こえはしないかと心配になって、そっと、両手で胸を抱いた。

(――いけない、こんなことをしてはいけない。隊長さまはあたしのことなど、気になさらないのだ)

 女の方から押しかけてくるなど、はしたないことなのだ。

 お万は立ち去ろうとした。そっと膝を起こした。

 そのとき、十太夫が眼をさましている。

「――どうした?」

 お万を見上げた。

「何か用か」

「はい、あ、いいえ……」

「どうした、寝呆けたのか」

 隣りの部屋にいた娘が、寝呆けて自分の寝床と間違えたのかと思ったのだ。

 お万は(あか)くなった。

「ごめんなさいまし」

 急いで去ろうとした。が、あわてたので、よろめいた。

 十太夫が身を起こすのと、お万がよろけて崩れるのが同時だった。

 お万は十太夫の腕の中に崩れこんだ。

「あれっ、ごめんなさい」

「ははは、なに、大事ない」

 十太夫は、お万のからだを抱くと、男のいのちの炎が燃えてくるのを知った。

「このまま帰したくないな」

「いけませぬ、隊長さま」

 と、(あらが)いを見せながら、逆にお万は、十太夫の胸にしがみついているのだった。

 もがくほど、ぐいぐい顔をこすりつけていた。十太夫の幅広く厚い胸に頬をこすりつけて、女のからだも燃えていた。

「隊長さま、あたし、あたし」

 それ以上は言えない。娘のからだの火照りと、その手が唇が、すべてを物語っていた。

 もともと十太夫は磊落(らいらく)な性格だ。

 据え膳を食わないほど、気弱でも律義でもない。むしろ、世間の眼などにはこだわらぬ方である。お万のほうで、男の寝床に来たのなら、遠慮することはない。

 ひと眠りしたあとで、体力は充実していた。

「――はじめてなのか、お万」

 十太夫は女を抱きしめると、右手を腰に這わせた。

 女の扱いには馴れた男の手であったが、お万は身を固くしている。

 腰を這う男の手に、わなわなと(ふる)えているのだ。

 十太夫は指先に柔毛(にこげ)を感じた。

 「あ……」

 お万は、ひしとしがみついた。まるで、(おこり)(かか)ったかのように顫えている。

 だが、逃げようとしないのだ。真っ赫になっていながら、十太夫の指が、女にしてくれることを(ねが)っていた。

 十太夫は、静かに彼女のからだを横たえた。

 指は、春草をかきわけるようにして、谷間に泉をさぐりあててゆく。

 もう、そこは、しっとりと潤んでいた。指が入ってゆくと、お万の声は喜悦と不安の入り混った叫びになった。

 十太夫は焦らなかった。こういう娘には、ゆっくりと、不安を取り除いて愛撫してやらないと駄目なのだ。

 女の下肢は、柔らかく、まるで()きたての餅のようであった。それを開くことさえ、耐え難いらしい。

 十太夫は手を抜いた。かれは肌を合わせた。ぴったりと密着させることで、自然な姿勢になった。

 手で開くことなしに、十太夫のおとこ{3文字傍点}が、その熱い肉の魂で、娘をおんな{3文字傍点}にするのだ。

 十太夫は、ゆっくりと遊んだ。熱く硬直したものが、谷間の泉をもとめて動いている。女の頬は火のようだった。自分の乱れてゆく呼吸を知られることを怖れるように、息を詰め、平静を装おうとしていたが、その忍耐が、かえって、呼吸を乱し、限度が来ると、狂ったような叫びをあげて、十太夫の名を呼んだ。

 そして、かたく眼を閉じ、顔を振って、男の唇をもとめて来た。人が変わったような、女の動きだった。

 それが契機のように、下肢は大きくひらき、男の腰を抱きこんだ。

 教えられなくても、牝の本能は、そうした行為に導くのであろう。

 充分に吹き出した泉は、熱い(ほとばし)りで、かれをくるみこんだ。

 十太夫は、いつになく感激をおぼえた。

 処女を破瓜(はか)したことではない。あの固いからだが、季節が来て花の開くように、自然なかたちでかれを受け入れたことに、深い歓喜があった。

「――お万!」

 十太夫もうつろに呼んだ。

「うれしい! 十太夫さま、ああ、うれしい、うれしゅございます」

 女のきれぎれな歓喜の叫びは、火のような息吹きで、耳たぶを灼くかのようであった。

 歓びが大きかったことは、十太夫が一度、放ちながら、なお女の裡に在るまま、さらに、もとめたことである。

 だが、二度は成らなかった。突然、クロスケが、烈しく鳴いた。

「おい、邪魔するな」

 十太夫は、笑いながら、クロスケに言った。

 せっかく、お万のからだを抱いて、二度目に挑んでいるときに、クロスケが鳴いたのだ。

「隊長! 隊長!」

 と、声がした。和三郎だった。

「本営からの伝令ですぜ、隊長」

 十太夫は舌打ちした。

 伝令とあればしかたはなかった。

「このまま、待っていてくれ」

 と、お万に言って立ち上がった。

 お万は、身を横たえたまま、放心したような表情で頷いた。

 実際、(うつ)ろだった。

 快楽がきわまって、腰が抜けたようになっている。

 からだも、心も、まだ五彩の雲の上に浮いているようだった。そんな女の、虚脱の表情も、姿勢も艶めかしく、十太夫は、まだ放したくなかったのである。

 とりあえず、からだを蔽って、十太夫は出ていった。

「薩摩の一隊が、夜襲をかけてくるようです。衝撃隊の出動を要請したいとのことでした」

「わかった」

 十太夫は頷いた。

 これでは、お万の肌はあきらめるしかない。

(一度したのだから、いいさ)

 と、十太夫はひとり微笑した。

 これが放たぬ前だったら、恨みが残ったかもしれない。

「お万、戦さに出る」

「え?」

 まだ、意味が呑みこめないようだった。

「戦さだ。悪いが、これまでだ」

「…………」

「支度をしてくれ。いのちがあったら、また抱いてやる」

 隊長、と、また戸の外で声がした。

「話はお済みですかい」

 盗み聞きしていたくせに、和三郎は、あらたまった口調で、

「叩き起こしますかい、全軍を」

「そうだ。叩き起こせ。起きないやつには水をぶっかけろ」

 お万も漸く起きあがった。

 襟をかきあわせ、乱れた髪に手をやる仕草が、妙に女っぽく感じられた。

 一度の交わりで、娘から、女になった感じだった。

 十太夫は、(いと)しい思いに駆られて、また抱きたくなったがそんな自分をふり捨てるように、

「やっつけてくる、薩摩の芋をな」

「御無事を、お祈りしています」

 と、お万は言った。その双眸(そうぼう)がうるんでいる。

「ああ、心配することはない。おれは運が強いのだ、百まで生きることになっている」

 寺内が騒がしくなっていた。隊員たちが、大声で怒鳴っている。隊士を叩き起こしているのだ。

 十太夫も支度をした。

 隊士と一様に、黒ずくめの制服である。

 筒袖小袴に股引脚半の軽装は同じ黒ずくめでも、厚ぼたいラシャ地のダンブクロと違って軽快である。

 黒ずくめの衝撃隊が、松雲寺を出たのは、深更、いわゆる丑三つ刻である。夜のうちで一番暗い時だ。

 黒ずくめの制服は、完全に夜のいろにまぎれた。

「いいか、おれが合図するまで、発砲してはならぬ」

 十太夫は念を押した。

 夜にまぎれた隠密行動では、敵に発見されたら、すべてがおしまいである。

「一人で抜け駈けの手柄をたてようなどと思うな。そいつは手柄ではなくて、隊を危険にする裏切りになることを覚えておけ」

「へえ、一番槍、一番頭はねえんですかい」

 千吉が不服そうに言った。

「そんなものは三百年も前の話だ。隊士と隊は一緒だぞ、一人の軽率な行動が他の者全部を破滅させることもある。そんなやつは裏切り者だ。おれが斬る」

 規律などという言葉も知らない連中である。

 それを三兵訓練を受けたのと同じように動かすのは難しい。

 暗夜に提灯も松明もなく、衝撃隊は進んだ。

 前線までの間、二、三丁ごとに、斥候に出した者が立っていた。様子を報告するのである。

「どうだ、敵は」

「一丁ばかり先の川っぷちを進んで来ます」

「よし、挟み撃ちだ。一番小隊はおれと一緒に来い。二番と三番が左翼だ、四番五番は右翼へ回れ。おれが合図を一発撃って斬りこむ。それに合わせて、一せいにかかるのだ」

 十太夫が走りだすと、肩に止まっていた烏もぱっと舞い上がった。

 武藤鬼一の一番小隊が、十太夫につづいて走る。

 二番小隊は渡辺武兵衛である。この草角力(くさずもう)で大関だったといわれる巨漢は、穂先が三尺もある握り太の大身の槍の折れたのを刀のように扱っていた。

 三間柄ともおぼしい螺鈿の槍の柄である。

 直刃だから、まるで、平安朝の剣のように見える。

これを振るだけで二番小隊は手足のように動いたという。

 もっとも、その小隊士の大半は従来のかれの子分なのだ。

 十太夫は川の上流の(くさむら)の中に身を伏せた。

 敵も無燈火である。陰暦五月晦日の夜だ。星明かりだけが頼りだった。

 敵勢の足音と、鉄砲や弾薬箱などの摺り合う音が雑然とした物音になって聞こえてくる。

「来ましたぜ」

 鬼一が(ささや)いた。

「やっつけましょう」

「まだだ、急ぐな」

 十太夫は、はやる小隊長を圧えた。

「先頭が通りすぎるのを待つのだ。それからだ」

 呼吸と足音が目前に来た。

 先頭の数人が通り過ぎた。

(いまだ!)

 と、鬼一が思ったとき、十太夫が鉄砲を横たえてすっと身を起こした。

 身を起こすのと、鉄砲をかまえるのと同時だった。

 次の瞬間、轟然(ごうぜん)たる発射音とともに絶叫が起こった。

 十太夫は、

「かかれ」

 と、叫ぶや、鉄砲を逆手に持って、手近な男を殴りつけた。

 その敵は、あわてて、鉄砲を構えようとしたのである。が、指が引き金にかからないうちに、脳天が割れて昏倒した。

 わーっ、と、叫びが四方に起こった。同士撃ちの危険を避けるために、鉄砲は使うなといってある。

 たちまち西兵は混乱した。陣形を作るゆとりはない。黒ずくめの衝撃隊が、あるいは鉄砲を逆手に持ち、あるいは槍、あるいは刀をふりかざして突進して来た。

 乱戦である。

 黒ずくめは、潜行にも、白兵戦にも、夜という背景の中では効果的であった。

 こちらからは、西兵の姿ははっきり見えるし、向こうからは、夜闇にまぎれるから、狙い難い。

 銃床に頭を割られて倒れる者、刀で斬られる者、槍で突かれる者――。

 悲鳴と怒号が闇の中で渦巻き、夜気をかき乱した。川へ転落する者もいた。凄まじい水飛沫が、さらに混乱に拍車をかけた。

 西兵はたちまち浮き足立ち、逃げだした者が多い。

 大軍でも、こういう恐怖は伝播する。

 どっと崩れ立った。

 退却々々という声が聞こえた。それは西兵の指揮者の声だったろう。

 十太夫が銃床で殴り倒したのは二人である。

 一人は頭上から打ち下ろし、次の奴は、横に払って、胴を輪斬りにするばかりに、したたかに打った。

 あばら骨が二本くらいは折れたにちがいない。

 それで鉄砲を捨てて、抜刀している。

 いつまでも、重い鉄砲を振りまわしていると、腕が()えてしまい敗を招く。

 十太夫が抜刀したので、逆に西兵は鉄砲を逆手に持って殴りかかった。

 一転して、身をななめにひねりながら、片手()ぎに胸を裂いている。

 四、五寸は入ったようである。

 その男が棒立ちになって、鉄砲をとりおとすのを見むきもせず、四人目の男の脇腹を一突きしてふりかえりざまに五人目を袈裟がけにしていた。

 早わざである。

 十太夫はかりではない。衝撃隊の隊士たちは、奇襲の勢いをかって、暴れまわった。

 もともと、喧嘩で覚えた刀使いなのだ。侠客という無職渡世の男たちにとっては、こうした混戦こそ、得意なのだ。

 西兵たちが恐怖の叫びを一様にあげて、雪崩れをうって敗走にうつると、追撃しようとする者たちを十太夫は制した。

「追うな、鉄砲を拾い集めろ、それから息のあるやつは捕虜にするのだ」

 奇襲は成功した。

 細谷十太夫の衝撃隊は数十挺の鉄砲や刀や槍を分捕って引き揚げた。

 敗走した西軍の受けた驚愕は大変なものだったらしい。

 かれらの大半が、この夜の敗戦の模様さえ、よくおぼえていなかったのだ。

 何か、一陣の魔風が、巻き起こって、西兵らを殺傷したかのように、実体が記憶になかった。

 黒い兵隊たち。

 闇が生んだ黒い生き物たちである。

 まさか、正規の東軍だったなどとは、どうしても思えなかった。

 驚愕と狼狽は、見ても見ないにひとしいものだが、殊に、その伏勢の働きが、かれらの常識外のことだった。

 それは、ただ狼狽のせいばかりではない。

 十太夫の手足となった人々が、侠客たちであり、正規の剣術を習った者など一人もいなかったからである。

 無頼者同士の喧嘩というのは、まるきり、武士と違う。

 上段だの青眼だの、阿吽(あうん)の呼吸などというようなものは考えない。

 刀を抜いたら、ぶった斬る。

 そのために抜くのだから、構えもくそもない。

 武士は、まず、技法にこだわるから、教えられた通りに、構える。

 刀を構えれば、相手も構えると思っている。

 したがって、無頼な連中が刀を抜きざまに近づいて、ぶすっと、腹に突き刺したら、それきりだという。

 そこに道場剣術の欠陥があった。

 無頼な連中は喧嘩馴れしているから、刀も庖丁も同じである。

 自分の身を(かば)うより先に、相手をやっつける。そこには逡巡がない。

 ある意味では、それが剣の極意なのだが、道場で目録をとることばかり考えている武士は、まるきり歯が立たないのだ。

 十太夫が、この連中を糾合したことは、まさに、敵も味方も唖然とさせられたのである。

「あの連中は何じゃろ、一体」

 と、退却して、白河城に逃げ戻った西兵たちは、漸く生命びろいしたことを喜びながらも、首をひねった。

「まるで、烏天狗どもが、わっと襲って来たような」

「そうじゃ、わしもそう思った、烏天狗……」

「そういえば」

 と、一人がいまいましげに言った。

「烏の声を聞いたぞ」

「カラス?」

「うむ、たしかに烏の声だった」

 おれも聞いた、わしも聞いた、という者が出て来た。

「ありゃ、からす組だわの」

 と、おどけて言う者があった。

「からす組か……へんなものが奥州には居るわい。あいつら相手では夜戦は出来ぬぞ」

「からす組……」

「からす組……」

 その奇妙な渾名(あだな)は、敵方から起こって、味方のほうにまで伝播して来た。

 会津藩の隊に捕われた者が、

「仙台のからす組ほど始末に負えぬものはない、という評判だ」

 と、口を滑らしたのである。

 会津藩の者も、はじめて聞く名称だった。

「からす組とは何じゃ、仙台には、からすを集めて、戦わせているのか?」

 誰もが、()れ事だと思った。

 だが西兵たちは、戯れに口にしたのではなかった。

 また、あらぬ噂に怯えての、流言でもなかった。

 夜襲されて、惨々な目にあったということが、広まっていった。

「仙台にからす組という隊があるそうだな、聞いたか」

「聞いた、烏が物見するそうだ。そして、敵の位置を知らせたりするというぞ」

「まさか」

「いや、本当だ。だから、西軍は、伏兵に要撃されて、散々だそうだぞ」

「聞いたことがないが……」

「隊長は細谷という男らしい」

「細谷? 仙台藩の細谷なら、聞いたことがあるぞ」

 味方の間にまで、その噂が広まって、やがて、からす組というのは細谷十太夫の衝撃隊のことだとわかった。

「あれか、あれならやるだろう」

 と、人々は肯定した。

 細谷十太夫の奔放で豪快な行動は、好き嫌いは別にして、誰もが認めていたのである。

「やり難くなったな」

 と、十太夫は、からす組の評判が高くなったので、苦笑して言った。

「夜に生き、影のように、働くつもりだったが……」

 むろん、だからといって、行動をやめるのではない。

 むしろ、積極的に出た。

 黒ずくめの服装は、その軽捷、俊敏さによって、大いに夜の闇を生かして、敵を悩ませた。

 もっとも、成功ばかりしてはいない。

 金勝寺山上の薩摩兵を襲ったとき、弥太という男が、鉄砲を暴発させた。

 木の根に躓いて、転んだとたんに暴発したのである。

「敵じゃ」

 薩摩兵たちは、胸壁に拠って闇の中に、滅茶苦茶に発砲した。

「失敗だ、退却!」

 十太夫は一同を遁走させようとした。

 こういうときは、思わぬ失策を演じるものだ。

 からす組は、ぱっと散って、坂道を転がるように走ったが、十太夫は部下を逃がそうと思って殿(しんが)りを引き受けた。

 先頭の敵兵を数人、狙い撃ちに倒して走りだしたが、方向を誤まって、崖っぷちへ出た。

 絶体絶命の場へ立たされた。下をのぞくと、真っ暗で、高さの見当もつかない。

(これで終わりか……)

 十太夫は、崖の鼻で、一時は観念した。

 薩摩兵の濁み声が疎林の中をざわざわと近づいてくる。

「くそ!」

 進むも死、退くも死、となれば、奈落の底まででもゆくしかない。

 十太夫は、暗い崖下をのぞきおろし、手さぐりで、すがるものを探した。

 その指が、太い(つる)に触れた。

(しめた!)

 握り太の蔓が絡んでいる。

 どこまで下があるかわからないが降りてみるしかない。

 十太夫は蔓にすがって、下りはじめた。

 崖は大きくえぐれている。雑草が軒しのぶのように下がっている。十太夫は足が空に泳いだので、はっとなった。

 そのとき、頭上で声がした。

「や、居らんど」

「どけ行きよったか」

「飛び降りたんじゃなかか」

「こけからか?」

 のぞいたらしい。

 土くれがぱらぱらと落ちて来た。

 十太夫は、思わず首を(すく)めた。

 崖鼻に立った男は、

「ふわっ、危なか! もうちィッとで落ちるところやったばい」

「落ちたら、あん妓が泣くばい」

「こやつが死んでも泣くごたる女がいるもんな」

「居るったい、あっちこっちに」

「どうせ鼻ッ欠け女郎じゃろたい」

(ぬか)したな」

「はははは、はははは」

 下卑た声が遠ざかっていった。

(助かった……)

 十太夫は蔓にぶら下がったまま、ほっとした。

 もしも、下におれが、ぶら下がっていると気がついたら、蔓を切られたろう。それで終わりだ。下がどれくらいあるか見当もつかないが、二間か三間でも、落ちかたしだいでは首の骨が折れてしまう。

 何しろ、夜半なのだ。この闇の中では如何ともし難い。

 それに下が、草地か沼などならばまだいいが、岩場かもしれない。

 高さのほかにそういう危険性がある。

 腕が痛くなってきた。

 十太夫は静かに下りはじめた。

 蔓は幸いつづいている。

(もう少し、もう少し……)

 そう思っているうちに、ついに尽きた。

(くそ! あとどれくらいあるのか? ……)

 こうなったら、飛び下りるしかない。

 じっとりと、油汗が、額に吹き出したのがわかる。

 下を見きわめようとしたが、真っ暗だ。見当もつかない。高さしだいでは、膝をまげて、足が折れぬように、加減する。だが、高さがわからないから、それも出来ないのだ。

(ええい、ままよ、八幡!)

 ぱっと手を放した。

 十太夫のからだはもんどり打って落ちた。

 ばしゃっと、水がはねた。

 幸いだったのは、どうやら、池か、川のようなところらしい。

 十太夫のからだは、ぶくぶくと沈んだ。

 が、すぐに浮かび上がった。

 深くはない。下はぬるぬるしているが、せいぜい背丈くらいである。

 蓮が顔に触れた。川ではないらしい。池か沼か。

 落ち着いてあたりを見まわしたが僅かに星かげをうつして、水面が、淡く見えるだけだ。

 十太夫がぞっとしたのは、沼から出ようとして、手をのばしてみると、大きな岩がさわったことである。

 岸辺には、巨大な岩が重なりあっている。

 この岩の上に落ちたら、間違いなく、即死か、重傷を負っている。

 十太夫は幸運だった。ついていた、と思った。

 岩に手をかけて上がろうとしたとき、また声が聞こえた。

(しまった、見つかったか?)

 崖のどこかに降りる道があるのだろうか。

 闇の中に、ざわめきが近づいてくるのだ。少なくとも、七、八人はいるらしい。

 木の間に、何か光った。

 提灯らしい。蛍火のように見えたのだが、幾つもの提灯だとわかった。

「――あのあたりだ」

「水音が聞こえたばい」

「崖から飛びこんだとじゃろか。こげな暗かときに、胆ン太か奴たい」

「胆の太かも小さかもなかたい、追い詰められたら、蛙でも飛び込みよるたい」

「蛙と人間は一緒にするとな」

「奥州の奴らは、どぎゃんしてでん、みな殺しにすっとたい、人間とは思うちょらん」

 一対一なら、いや、一対三でも十太夫は飛び出していって、ぶった斬ったろう。

 だが、相手は多勢だ。飛び出すのを我慢した。

 悪いことにこちらに近づいてくる。

 十太夫は、傍の蓮の葉を頭に乗せるようにして、水面から顔を沈めた。

鼻の下まで水に浸して、蓮の下から眼を光らせている十太夫だ。

 提灯が水面に動く。

「用心しろ、隠れちょるかもしれんぞ」

「なあに、もう、こそこそ逃げちょったろう」

「鼠のごとか」

「もっとよく見ろ」

 (しらみ)つぶし、というような探し方だった。

 槍先で、草むらをがさがさとひっかきまわしながらやってくる。

 水の中で、十太夫は刀の柄を握りしめていた。

 その間は、さしたる時間ではない。

 が、十太夫にしてみれば、一時間にもなるほど、長いものに思われた。

 沼の中だから見つかったらそれまでなのだ。

 鉄砲をぶち込まれたら逃れようはない。

 提灯の明かりに鉄砲や槍が、これほど恐怖を伴って見えたことはなかった。

「――もう逃げたんじゃろ、このあたりには居らんばい」

「諦めるとが早すぎっぞ、もちっと、よう探さんか」

「こげん探したとに見つからんとな、居らん証拠ですばい、行きまっしょ」

「うむ。逃げちょったか」

「そげんですたい、これ以上、うろうろしても、骨折り損のくたびれ儲けばい。早よう()んで、酒でん飲みたか」

「こやつ、酒のことしか考えとらんと違うか」

「酒のほかに女が居りゃ文句のなかですばってん」

「ええい、しかたんなか奴ばっかりたい。よし、もう引き揚げじゃ」

 漸く諦めたらしい。

 十太夫はほっとした。

 引き揚げてゆく連中を見送って、ふーっと息を吐いた。

 そのとき、一人、遅れたやつが傍を足早に通りかかったのだ。

 はっとしたように立ち止まった。

(しまった!)

 蓮の葉が異様に揺れたのを見咎めたのか。

 十太夫は、あわてて、また鼻の下まで、水面に沈んだが、(くだん)の足は止まったままだった。

 怪しい、と睨んでいるのだ。

(彼奴……)

 なかまを呼ぶか?

 それが気になった。その男一人だったら、飛びだしてもいいのだ。

 凝っとしている。

 こちらの動きを確かめようとしているのだ。

 少しでも動いたら、危ない。

 十太夫は耐えた。だが、限度がある。

 少しずつ顔を上げていった。僅かに、それこそ、虫の呼吸ほどのつもりだったが、立ち止まった男には怪しく感じられたらしい。

 あとから考えれば、この男が、手柄を一人占めにしようと思ったことが幸いだった。

 あるいは、かれ自身も、半信半疑だったので、声をあげたり、皆を呼び戻すことをためらったのかもしれない。

 みんな捜索にうんざりした直後だったし、もしも皆を呼び戻してこれが何でもなかったら、恥をかく。

 それを恐れたのかもしれなかった。

 十太夫がぎょっとしたのは、その男が、長槍を突然、ぶすっと、突きこんだことである。

「あっ!」

 一瞬、十太夫は、身を転じた。槍は、かれの顔を(かす)めて、沼の中へ――。

 咄嗟(とっさ)に、十太夫の手は、その槍の千段巻を握っている。

 相手の驚きも(はなはだ)しかったようである。その驚きのあまり、声が出なかった。

 とたんに、ぐいと、槍を引かれて、はっとなって引き戻そうとした。

 その力を利用して、十太夫は、水中から、飛び出している。

 声をあげるまえに、鉄拳が、顔面に炸裂していた。

 のけぞり倒れるのと、脇差が、心臓を一突きにするのと同時だった。

 十太夫は、ぶるっと(ふる)えた。

 冷たい水の中に鼻の下まで浸っていたのだ。

 これが初夏だからいいようなものの、冬場だったら、手足が凍って、とても、俊敏の早わざは出来なかったところだ。

 かれは、倒れた男を見おろした。

「馬鹿なやつだ」

 と、呟いた。

雉子(きじ)も鳴かずば撃たれまい、か……」

 幸い、最後の呻きは一行に聞こえなかったようだ。

 十太夫が潜んでいる気配に気付かずに、一行に追いついていれば、この男は死なずに済んだのだ。

「馬鹿なやつ……」

 と、十太夫はもう一度呟いた。

 そのとき、

「う……」

 と、男は呻き声をあげた。

 まだ生きていた。

 十太夫は、はっとなって、雑木林の方を振りかえった。

 血のりを拭いたばかりの脇差にふたたびかれは手をかけた。

 男は手をあげた。

「…………」

 何か言おうとしている。

 もう身を起こす力はないようだった。

「なんだ、何が言いたいのだ」

 十太夫は立ち去りかねた。

 戦っている間は敵だが、相手が戦闘力を失ったとなると、十太夫には見捨てておけない温かさがある。

「――言ってみろ、何か言い遺したいのだろう?」

 十太夫はかがみこんで、男の顔をのぞいた。

「…………」

「おい、言ってみろ」

 耳もとで囁いた。

 十太夫の腹に固いものが当たった。

 男が腹帯に結びつけたものを外そうとしているのだった。

「何だ、これか?」

 手を添えてやった。

 皮革の巾着だった。重みを計った。

「どうしたのだ、これを、どうするのだ」

「――届けて、届けて……」

「なに!?」

 聞きかえそうとした。

 が、それが最後だった。男は、がっくりと、頭を落とした。

 十太夫は巾着を持ったまま立ち上がった。

(これを、誰に? なぜ?)

 男の身分や名前を知らねばわからない。

 巾着の紐を解いて、ひらいてみた。

 中に小判が二枚と分金朱銀が幾つか入っていた。

 そのほかに(へそ)の緒らしい包みとお守り札があった。

 お守り札の字も読めない暗さだ。

 しかたなく、十太夫は歩きだした。明るいところへ行って見るしかない。

 十太夫は歩きだして気がついたのだが、左腕に傷があった。

 槍で突かれたとき、掠めたのだ。

 潮どきと見えて、血が止まらない。

 沼の水は(よど)んでいた。傷口から黴菌(ばいきん)が入ったのだろうか。からだが熱っぽかった。

 十太夫は槍を杖ついて歩きだした。

 よろめきよろめき歩いた。

 夜が明けるころ、かれは山峡の沢に横たわっていた。

 眼がさめたのは、朝日がはざまからさして来て、(まぶた)を照らしたからだった。

(――どうしたのだ、おれは)

 と、十太夫は眼をあけた。

 昨夜のことが甦った。腕の傷は血が止まっていた。

 が、左腕に殆ど知覚がない。

(こうしてはおれぬ)

 傍の槍をとって、立ち上がろうとしたが、昨夜の巾着のことが思いだされた。

 かれは右手でとりだした。紐を解いてあの守り札を出してみた。

 それは白河稲荷(いなり)のもので、名が書いてある。

"菊屋小太郎"

 十太夫は、死んだ男の顔を思いだそうとした。

 暗くてよくは見えなかったせいもあるが、思い出せなかった。あまり特徴のある顔でもなかったせいもある。

「小粋な名前だな」

 西兵の中にも、こんな小粋な名前を持っている者がいるのか。

「どこの藩だったろう」

 薩摩か長州か。

 口をきかなかったので、(なま)りはわからなかった。

 最後の一言だけである。

 あれでは、わからない。断末魔の事だった。

(妙なことを頼まれたな)

 届けてくれ、と、あの男は言った。

 どこへ届けるのか。

 そこまで聞かなかったし、敵なのだ。十太夫が殺した相手である。

 戦争なのだ。一々頼みは聞いていられない。

 忘れてしまえばそれまでだった。こんな場合に、義理など何もない。

 だが、十太夫は、忘れることが出来なかった。

(ちぇっ、おれは何てえお人善しだろう……)

 あんな際ではあっても、約束することはなかったのである。

 そして臨終に約束したからといって、それを果たしてやる義務はなかった。

 だが、十太夫はその義務を感じているのだ。

 いや、義務というよりは、心の問題だろう。

(渡してやりたい……)

 と、思った。

 思った以上、それをやめる気にはならなかった。

 十太夫は、槍を杖突いて、草むらの中を歩きだした。

 まず、高みへ出て、方角を案じることだった。

(こんなときクロスケがいてくれるとな……)

 十太夫は空を仰いだ。

 どこに戦争が起こっているかと思われるほど澄んだ空だった。青い空に白い雲がゆったりと浮かんでいる。

 もしも和三郎や善兵衛がいたら十太夫の考えを止めたろう。

「白河に一人でゆくなんて、そいつァ無茶だ」

「全くだ、自殺しにゆくようなもんだ」

 と。

 十太夫は二人がそう言うであろうことを考えて、苦笑した。

 左腕は、まるきり知覚がないのだったが、片手で槍を杖にして、丘をのぼってみた。

 地形はすぐにわかった。

 意外だったのは、ほど遠からぬところに阿武隈川が光り、城下と白河城が見えた。

(夜にならねば、忍びこめぬ)

 丘の上から地形を眺めて、脳裡にきざみつけた。

 暗くなってから城下に潜入するのだ。

 十太夫は空腹を感じた。万一に備えて焼き飯を携帯していたが、あの沼に浸ったので、とても食べられるものではなかった。

(飯も夜までお預けか)

 日が暮れてから、十太夫は、村へ降りていった。

 村には人影がなかった。

 すっかり西軍に荒らされている。井戸に水だけはあった。焼討ちを免れていたのが幸いだった。

 水だけを飲んで耐えた。

 左腕はますます腫れていた。熱があるので、水が美味かった。

 その家は名主か村役の家らしかった。

 逃げるときに、ある程度は持っていったのだろうが、家の中には家財が散乱していた。

 西兵も分捕っていったのだろう。ろくなものは残っていなかった。

 が、家の中を見てまわると、隠し戸棚が見つかった。

 隣接の土蔵に通じる細い口で、奥に唐櫃が見えた。

 長持もある。その幅よりも、口は狭いのである。

 これは野盗などに盗み出せないように、塗籠(ぬりごめ)の口を故意に狭くしてあるのだ。

 十太夫は、その長持から着物と下着を取り出して着替えた。

 町人の縞の着物である。

 変装はお手のものだった。大小や槍は同じ長持に入れて隠した。

 その口は二尺ほどの幅でからだを横にすれば出入り出来るのだが、板戸がさながら壁のようになっていて、浮かれた西兵には発見出来なかったらしい。

 むろん、土蔵は荒らされているが、その隠し蔵は一部を堰切って、巧緻に造作されていたのである。

 万一の場合を考えて、匕首(あいくち)だけを呑んだ。

 何しろ片手でやることだから、時間がかかる。

 一番苦心したのは、角帯を締めることだった。左手は(しび)れていても、おさえるくらいは出来たので、苦心して、帯を結んだ。

 格好はよくなかったが、夜だからどうでもいい。

(さア、一か八か、運を天にまかせるしかねえ)

 むろん、十太夫のことだから、菊屋の関係者に巾着を届けるだけで帰るつもりはない。

 城下の西軍の配置を調べるつもりだ。

 探し人である。あまり遅くなっても訊ねられない。

 日が暮れたばかりで、まだ寝入っていない時刻を、十太夫は選んだ。

 白河の町は半ばが焼けていた。

 度重なる攻防戦に、町の人々は大半が逃げだしている。家財を残しても奪われるだけだが、持ち運び出来ないまま、大戸を釘付けにして、戦火の及ばない村に知己を頼って疎開している家が多かった。

 残っているのは、病人がいたり頼る先がなかったり、火事になったら消火に当たって、自分の家や町を守ろうとする人々だった。

 あるいは、こういう際には、また儲け仕事も多いということで、危険を覚悟の上で、踏みとどまっている連中だった。

 早い話が、こんな際なのに、女郎屋などは営業しているのである。

 むろん戦争が苛烈になれば、どうなるかわからない。明日がわからないだけに、刹那的で、快楽的だった。

 十太夫が町人になりを変えて、白河の町に潜入したのは、日が暮れて、間もなくである。

 まだ焼けているところもあった。

 焼けあとで、ぶすぶす(くすぶ)っているところもあった。

 要所の配置についた以外の西兵は酒と女をもとめて、放吟しながら歩いている。

「おい、きさま」

 十太夫は呼び止められた。

 ぎょっとしたが、これは酔い知れた西兵で、誰とも知らずに声をかけただけである。

「女がいるところを知らんか、女じゃ、女郎じゃない女だ」

「へえ、生憎(あいにく)と存じませんで」

 十太夫はせいぜい町人らしく、小腰をかがめて、こそこそと、路地へ逃げこんだ。

 手拭をかぶって、一寸見には、遊所へゆく若者のような姿に見えたのだろう。

 あの守り札にあった、

 ″菊屋小太郎″

 という名だけを頼りに捜してもまず難しい。

 十太夫が考えたのは、白河稲荷だった。

 まずお稲荷さまに行って、その名前をあたってみる。氏子の中にいるかもしれない。

 それで駄目だったら、あらためて考えればよい。

 白河稲荷はおよその見当はついていた。

 以前、この白河城に東軍が入っていたころ、十太夫は何度か来たことがある。

 夜の上に人目を避けての潜入だったが、どうやら辿りつくことが出来た。

 誰も居ないのではないかと思ったが、社務所に灯りが(とも)っている。訪うと返事があったが、突っけんどんなものだった。

「どなたじゃい、こっちは取り込み中だわえ」

「恐れ入りますが、お守り札のことで……」

 と、皆まで言わないうちに、

「お守りなら、百文と二百文があるがどっちにするかね」

 現金なものである。

 取り込み中といいながら、お守り札を売ることにかけては抜け目がない。

「いや、お守り札を買うのではないが」

 と、答えると、

「なんじゃ、そんなら、用はない。さっさと、帰って下され」

「いや、少し聞きたいことがあるのだ」

 腰を低くしていたら(らち)があかない。

 十太夫は、相手が出て来ないから、かまわずに踏みこんだ。

 すると、貧相な山羊鬚(やぎひげ)を生やした老人が、汗をかきながら、荷造りしているところだった。

 この男が禰宜(ねぎ)らしい。

「おや、どこかへ行くのか」

「当たり前じゃ、もうこんな城下にはいられぬわい、昨夜も長州と薩摩のやつらが来おって……」

 乏しい灯りの下で見ると、老人の顔のあちこちに、蒼痣(あおあざ)が出来ているし、赤黒く()れたところもある。

 がらがらに痩せているだけに、一層、その打撲のあとが目立つのだ。

 よほど殴られたらしい。歯の欠けた唇に唾を垂らしながら、いまいましそうに毒吐いている。

「賽銭をたんと蓄め込んどるじゃろなどと吐かして、畳まで剥ぎ居ったわい」

「それは(ひど)い目にあったな。悪いが一寸、教えて貰いたい、このお守り札にある者の名だが、菊屋小太郎、とある。存じ寄りの者だったら、住所を知りたいのだ、身寄りがいれば……」

「なんじゃ、菊屋のことかいの、菊屋なら錦小路じゃ」

 錦小路は色街である。

 そう言われて、はじめて気がついた。

 菊屋というのは苗字ではなく、屋号なのではないか。

 十太夫はおのれの迂闊さに、声をあげて笑いだしたくなった。

「そうだったのか……そうするとこの小太郎というのも」

「芸者じゃ」

 面倒くさそうに、山羊鬚の禰宜は言った。

 あの沼地で殺した西兵の名前ではなかったのだ。

 錦小路の芸者が、あの男に贈った守り札だったわけだ。

 十太夫は、なぜか、ふっと気が軽くなった。

 あの男が家族にでも、守り札を返してくれというのだったら、面倒なことになる。

 家族から見れば、十太夫は仇という立ち場なのだ。

 これが、芸者と客との仲なら、深い仲といっても、家族ほどのことはない。

 (いわん)や仇ということにはならない。

(かたじ)けない、それだけわかれば充分だ」

「なんじゃい、お守りは買わないのかえ」

「ああ、どうやら、このお稲荷さんの御利益はなさそうだ」

――以下、割愛――

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/12/28

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早乙女 貢

サオトメ ミツグ
さおとめ みつぐ 作家 1926・1・1~2008・12・23 中国東北部ハルビン市に生れる。1968年、「僑人の檻」で直木賞受賞。1989年、「会津士魂」で吉川英治文学賞受賞。

掲載作は1989年8月(初版)、講談社より刊行された長編小説「からす組」から要所を抄録。

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