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叛臣伝

      一

 

 登世(とよ)が二度目に倒れたのは、夷舞(えびすまい)が笑いをふりまいて去った後だった。

 七草明けまで降った雪が、根雪となって塀裾や庭樹の陰にしがみついていた。晴れた日だったが、妙に底冷えのする朝で、登世は頭痛を腰元に洩らしている。普段だったら医者を呼んだかもしれない。三隈城山下の稲田屋敷から五丁ほどの距離で傍町に広沢久庵がいる。御典医五人の中でも名御(さじ)の聞えが高く、登世には外組父になる。

 その日は正月の十日で、朝から何かと登世は忙しかった。

 西国筋では一般的に夷信仰が厚い。商売繁昌と家内安全の願いをこめた十日夷の殷賑(いんしん)ぶりは今日に及んでいるが、淡路のお夷さまには独特の風習がある。阿波といえば藍玉(あいだま)と人形浄瑠璃。その人形操りがいつのころからか、生き夷に仕立てられて、福笑いを施してまわる。正月十日から梅花の香りに包まれて、家々をめぐる夷舞の洒脱な姿は、浅春の淡路の風物詩でもある。

 須本の稲田九郎兵衛の屋敷からはじまって、屋敷町の上下をめぐり、細工町、紺屋町、船場から川向うの塩屋町、宇山、物部の村々へまわるころには一月も末になる。

 その舞い初めでもあり、引手物もしたがって尠くないので、稲田屋敷では熱がこもった。

 順序は寿の三番叟から祝いぜりふの独り掛け合いなどきまりものだが、祝い納めが等身大の夷舞で、陽気な鼓に促されて、夷一代記を語る。弾んだ調子には三河万歳などに共通の滑稽味がある。

 ――えびす三郎左衛門之丞、生れ月日をいつぞと問えばァ……

 朱塗りの大杯を傾け、うしろ襟にさした扇子で酒の味をたしかめて舌つづみを打ったり、飲むほどに酔うほどにしだいにヘベれけになってくるさまは、人形とは思えない巧みな操りで、登世は目に涙をため笑いをこらえるのに苦しがった。主の九郎兵衛邦稙(くにたね)も膝を打って笑いくずれた。

 この屋敷から笑い声が洩れたのは何年ぶりだろう。縁端で御相伴の家来たちも、ほのぼのとした気持になって、笑い興じた。

 夷木偶(えびすでこ)が、ほたほた笑いで引出物を捧げて退出したあと廊下に出た登世は、ふいに顔を掩ってよろめいた。

 泉水の照りかえしが陽春のようにきつく光っている。腰元の眼には立ちくらみしたように見えた。腰元が小さく悲鳴をあげて手を差しのべなかったら、登世は縁下へ転げ落ちたかもしれない。

「だいじない……」

 立ち直ろうとする足もとがもつれ、登世はずるずるとくずれた。

 床をとる一方、若党の利助が傍町へ走った。あいにくと出先だったが、すぐに久庵は来た。診察にはかなり時間がかかった。その間に薬籠持ちが薬をとりに一旦戻っている。日頃、携帯の薬では不足したのであろう。細心に調合した煎薬が利いたとみえ、暫くすると登世の頬に赤味がさした。家人たちは漸く愁眉をひらいた。

「どうしたのかしら、わたくし」身を起した登世がまず言ったのは、九郎兵衛邦稙のことであった。「気分はなおりました。わたくしはよいから、殿様を診ておくれ、今朝がた風邪気味だと仰有っていましたし」

 登世の眼と久庵の眼が一瞬、からみあった。家人たちにはわからない。別の意味で、かれらは顔を見合わせた。登世の口から、そんな言葉が出ようとは思いがけないことだった。

 

 登世が輿入れしてきたのは、六年前――慶応元年の夏。稲田辰次郎邦稙が兄の急死によって「九郎兵衛」の世職を継いだ直後である。阿・淡二十五万七千石蜂須賀家の筆頭家老をつとめる稲田家は世々須本城を預り、淡路七万石を差配しているが、家禄は一万四千五百石。徳島藩表高から見れば僅かだが、肥沃な土地と温暖の気候にめぐまれて、実収はかなり上廻っている。四百人の家士を擁し、小大名としての格式もあり、江戸城でも粗略に扱われない。

 辰次郎邦稙は異母兄甲太郎稙誠(たねのぶ)と同年。奇しくも同月で二日遅れて生れている。母は大坂の紺屋の娘できち、といった。辰次郎の記憶にある母は、吸いこまれそうな深い眸の、優しい笑顔と、乳房に浮いた静脈の青さ。乳ばなれするようになってから、その母は、かれの傍にはもういなかった。

 そのことに格別の不審もおぼえなかったようである。大名の生活には比較のよすががなかった。兄の甲太郎は父親似で、まるまる肥り、陽気な悪戯好きの若様で誰にでも好かれた。辰次郎はあまりに対照的だった、幼時からひよわな子で、生れおちたときの皺だらけの猿の子のような(しぼ)みを、そのまま持っていた。病気がちで、始終熱を出したり、大人のような咳をした、普通の子のように、赤児泣きすることが殆どなかったという。

 常に蒼い顔で、おそろしく無口だった。別々に育ったから下々のように兄弟の情がわきようもなかったが、それにしても辰次郎の場合は異常といえた。兄に、たまさか会うことがあってもなつかしむ様子もなく、茶っぽい眸が、脅えたように、きょときょとして落着かない。甲太郎が遊びにひきこもうとしても乗ってこない。子供は感情の振幅が極端だからなかまにならないと今度は虐めだす。同い歳なのに、甲太郎がからだもひとまわり大きい。物をぶつけたり髪を引っ張ったり、突き転ばしたりする。児童心理学によると二歳くらいから人間は嗜虐の快感を識るというが、境遇によっては被虐の快味に浸ることもあるのだろうか。辰五郎は抵抗もしないが、泣きもしなかった。凝っと耐えている。

「いじけた奴だ」

 稙乗はそんな次男をうとんじた。抱きあげ頬ずりしたくなる赤児の愛らしさに、全く欠けていた。それは長じて尚、変らなかった。

 稙乗の気持を反映してか、家中の扱いも極端だった。次代の主にへつらうのは人情だし、長ずるにしたがい英才の誉れを高めてきた甲太郎は家中の敬愛を一身に集めた。邦稙の養育を仰せつかった者こそ不運というしかない。

 傅役(もりやく)は七条弥三右衛門。藩儒の父を持ち、幼にして頴脱(えいだつ)、六歳にして伯父の誘掖(ゆうえき)を享け八歳にして、加藤礼文の門に入る。稙乗の近習として将来を嘱望されていた若者だ。

 かれを傅役として任命したのは、稙乗としては不肖の子をうとんじながらも、蒲柳の体質を慮って学問を身につけさせようと計ったのではないだろうか。多端な時勢であり、京に近く、親幕的大藩をして激浪に処するには相当以上の手腕才覚を要する。筆頭家老の家柄としてはいやでも苦難に直面しなければならない。甲太郎が家督したらその学問的補佐役として役立てばと希んだのではないだろうか。

 辰次郎はしかし学問の面でも特に優れた点は見られなかった。誰の目にも普通以下でしかない。笑いを知らない子は、また怒りも無い。激することのない少年ほど、可愛気のないものはない。何に対しても情熱を感じない辰次郎の身辺は、いつも冷え冷えとしていた。

 傅役の弥三右衛門は藩中でも肩身のせまい思いをした、武辺にあらざれば学問に優秀でなければならぬ。武士の文武両輪いずれも満足に身につかないとすると、人の上には立てぬ。誠忠の志よりも学問への情熱のほうが勝ったことも一がいに責められない。弥三右衛門はまだ若かった。傅役は責任の範囲にとどめて、おのれの勉強に没頭した。辰次郎はむしろ放任を喜んだようである。

 そんな辰次郎が、母のことを聞いたことがある。

「わたしの母上はどこにお出でなのか」

 七歳の春であった。

 薩摩琵琶の名手が四国を経めぐってきた。徳島の蜂須賀侯御前で弾奏したのに、いたく感動した稙乗が、須本に立寄った際、ふたたび乞うて弾ぜしめた。演目は「(かや)道心」であったが、世の無常を感じて出奔した父を捜しに母子で旅に出た石童丸が、高野の麓にたどりつく。女人禁制の山だから母を置いて登らねばならない。その情愛のやりとりが、荘重な弾き語りだけに、一層、幼な心に訴えるものがあったらしい。あるいは艱難辛苦の旅路でも母と二人での道中ということに淡いロマンスを感じたのであろうか。

 弥三右衛門は、嘗て辰次郎の口から生みの母のこととなど聞かれたことがなかったので間誤(まご)ついた。

「――お亡くなりになりました」

 お墓は何処と聞かれたら何と答えるべきか、弥三右衛門は腋ノ下にねっとりと汗をおぼえた。幸い辰次郎は大きく眼を(みひら)いて見返しただけである。そのときもそのあとも、それっきり母のことをたずねようとはしなかった。

 傅役にだけではない。辰次郎は誰にでもなつかなかった。乳母にも、女中にも親しむことがなかった。独りで遊んでいることが多かった。大坂の江戸堀にのぞんだ蔵屋敷は土地が低い上に隣りの内藤屋敷との塀際は窪地でじとじとと湿気て昼間でも蛇が青黒いからだをくねらせていた。その蛇や蜥蜴(とかげ)がいい遊び相手であった。三尺もある青大将を寝床の中に忍ばせていたこともある。人間疎外から爬虫類へ愛情が傾いたのかというと、そうでもない。蛙をつかまえて蛇に呑ませたたりした。程よく呑んだころで、蛇体を、逆にしごいて吐きださせようとした。蛇の歯は内側へ向いている。一たん呑んだものは容易に出ない。業をにやして蛇の腹を裂くところを乳母が目撃して気を失いかけている。唾液に溶かされかけて、ぬるりとした皮膚の中で蛙の眼玉だけが動いていた。その眼玉が動きをやめるまで、辰次郎は油照りの炎暑のもとで熱心に見まもっていたという。

 

 そうした偏執的な行為は、長じてから止んだが、狷介(けんかい)で陰湿な性格は治らなかった。父の命じるままに藩黌(はんこう)に通い、和漢の勉強から洋学もかじったが、没入するということはなかった。父の言葉に反抗することさえ面倒くさかったのだろう。その稙乗(こう)じると辰次郎は待っていたように、屋敷を出た。

 大坂に母の生家があるからではない。肩肘張った格式や身分差のない商人の町が気楽だったからである。市井(しせい)に悠々と遊び、自らをあわただしい時勢の外に置いた。

 一方、嗣子としての定め通り、九郎兵衛を継いだ甲太郎稙誠は若輩にして阿波藩筆頭家老の地位に着くや、果敢にも藩論の前進統一をはかり、挙藩勤皇を志向した、稙誠がどこまで尊攘思想を抱いていたか明らかではない。滔々(とうとう)として西国譜藩を席捲した尊皇攘夷の流れに乗ることが阿波藩の存続に必須だと感じたのか。

 だが、藩主に将軍家斉の子斉裕(なりひろ)を迎えている阿波藩の親幕的姿勢は容易に(くつが)えせるものではなかった。攘夷の詔を受けるや、由良と岩屋に砲台を築いて外警の衝に当り、さらに勅使東下(とうげ)の時尾行江戸に至り時勢を説くなど意欲的な稙誠の行動が保守佐幕派の憎しみを買ったのも否めない。

 慶応元年という年は、諸藩の佐幕派が最後のあがきを見せた年で、幕府は長州再征によって勢威を誇示しようとしていた。その意を厳達したのであろう。諸藩でこぞって巻き返しに出た。水戸で筑波天狗党の投降者八百余人を斬あるいは流罪追放に処し、苛酷に過ぎると非難を受けたのも、目的が他にあってのことだ。筑前福岡でも女性の野村望東尼(ぼうとうに)を含め、家老加藤司書ら三十数人を切腹斬罪配流にくだし、隣国でも山内容堂が武市(たけち)半平太ら十数人に大鉄槌を下し、土佐勤皇党の壊滅を策したのも、この年、閏五月のことである。阿波藩佐幕派が影響を受けたことは推測に難くない。

 だが、稲田家はただの家老ではない。藩祖蜂須賀小六正勝が乱世の群雄の一人にすぎなかったころからの片腕であり、代々筆頭家老として主家を支えてきている。文字通り柱石だ。将軍の血すじの藩公と雖も直接には手を下せない。

 この年の梅雨はから梅雨で、六月に入ってからその埋め合わせのように豪雨が三日三晩降り続いた。須本川の河口附近の小屋が数十戸倒壊流失するという騒ぎだったが、この嵐のなかで、稙誠は変死している、

 夜半、突然、腹痛を訴え七転八倒の苦悶を起した。典医が呼ばれたが、あちこちで負傷者が続出しているときだ。暗黒のなかの風雨と洪水が往来を阻んだ。常備薬の天蓼(てんりょう)酒を流しこむように呑ませたが、効果はなかった。医者が来たのは、稙誠が悶絶して二刻も経てからである。夜半の嵐が悪夢だったように、やけに明るい強烈な夏日のもとでは、ふた目と見られない凄まじい死相だった。

 

      二

 

 変死の噂が立った。時が時だけに、また微妙な立場だっただけに、たとえ自然死でも、おかしな噂は流れたろう。それが須本よりは本城の徳島城下にひろがったのが真実感がある。

「稲田様は毒を盛られたのだ」

 そんな囁きが交された。むろんこうした流言はきびしく取締られる。間もなく噂は立ち消えになったが、必ずしも取締りのせいではない。囁きの底には、いい気味だという気持がひそんでいる。親幕的気風は藩士ばかりでなく、領民にも浸透している。時勢に浮かされた勤皇派の稲田九郎兵衛稙誠の変死に同情を寄せる者は少ない。藩士の中には公言する者さえあった。

「裏切り者が天誅を蒙ったのだ」と。

 稲田家は辰次郎が継いだ。

 世襲である。筆頭家老の地位は動かない。兄と同年だっただけに、当職屋敷で違和感はない。ただ、肥満していないこと。邦稙のほうが気侭に暮らしていたせいか、どことなく垢ぬけて多少若く見える。かれはこの思いがけなく転りこんだ地位に、いささか戸惑いしているようであった。異母兄弟とはいえ、市井の放蕩者が一夜にして一万四千五百石の身分になったのである、家老の風格が身につくまでは時間がかかるだろう。そのことが本藩の佐幕派たちを安心させたらしい。ある目的を持った派閥にしてみれば、世襲で据えねばならぬ椅子には、凡庸の人物が望ましい。

「たとえてみれば、木偶(でこ)だ」

 賀島出雲が言った。その席には同じ家老職の池田登、年寄の西尾理右衛門などのほか、邦稙には血縁の叔父稲田筑後もいた。

「さきの九郎兵衛殿はいささか過激すぎた。当藩の危機を招きかねなかった。藩政はわれらでもってとりしきるのが間違いがなくてよい」

 みんな五十の坂を越していた。年輪と狡智が、濁った眼にも深い皺にもきざまれている。かれらの風貌は政治家の絶対的な自信に満ちて、その行為が誤まったものであるかどうか。反省する勇気さえ捨てきった人達であった。

 だが、この木偶は、かれらが予期したものとは、かなり違った出来を示したのである。蕩児という世間一般の印象から受ける快活で洒脱で女にだらしない面がない。しいて捜せば、整った目鼻立ちと、挙措動作がどことなく垢ぬけしている点であろうか。眉もふといし、眼も切長だがはっきりしている。鼻梁も高く坐りのよい鼻は、どちらかといえば精悍な感じが強いのだが、粗暴さを感じさせないのは、ふたつの眸がどこを見ているのか、虚ろな暗さをもっていたからだ。

 その眸は、笑うことを知らないようだった。武門の体制のひずみをうけて、迷い小犬のようにキョトキョト落着きなく不安におののいていた幼な児の眸は、猥雑で非情で活気にあふれた町人社会を知って、虚脱してしまったかのようであった。茫漠とした眸は、何を見ているのか。何を望んでいるのか。その奥にあるものを誰も知らない。

 

 斉裕の娘、登世を娶ったのも、半ば強制的な周囲の奨めによるものである。自由で奔放で懶惰(らんだ)な生沽が、責任のある地位に急変したとき、邦稙は"妻"というものを迎えねばならなかった。その人選は納得というかたちの環境が定める強制の感は免れない。稙乗の弟で稙誠のときから後見職になっている稲田筑後は重役の賀集百助らと相談して邦稙の女を調べさせた。

 大坂は金と色の街だ。邦稙と関りのある女も二三にとどまらない。意外だったのは、蕩児にしては、深間の女を持たなかったことである。辰次郎の孤独な翳に母性愛をかきたてられた女も、尠なからずいたが、かれの暗い冷たさがそれを寄せつけず、その場かぎりの情事にあとくされがなかった。その相手はいずれも、色を売る者たちにかぎったことである。

「ほっとしました。お遊びにはなっても心得ておられる」

「左様、御落胤がぼろぼろ出て来ては困ると思うたがな」

 その事実を裏書きするように、邦稙は主家との縁組みを否定しなかった。宿老たちにしても醜女を押しつけて邦稙の気持を離反させたくないから、斉裕の血をひく美女をまず基準に置いた。登世は条件に合致していた。

 母まつ女は広沢久庵の娘で、まだ少女のうちからそのきわだった容色が海を越えて大坂でも評判になり、豪商芝川又平から口がかかっていた。堂島の芝又といえば鴻池(こうのいけ)や三井と並ぶ男で芝又が空を仰いで難かしい顔をしたというだけで米相場が急変するといわれたほどだ。いくらなんでも十四歳では可哀相だからと、一二年のうちにと引き延しているうちに阿波守斉裕が見初めて、強引に側室にしてしまった。天保十四年に家督した斉裕が二年目の春のことである。

 斉裕は好色将軍たる父の血を受けていたせいか、側室は常に十二三人いたほどだが、まつを寵愛すること甚しく、鷹司関白の娘である内室の嫉妬が尠くなかったという。登世は弘化三年に生れている。丙午(ひのえうま)だった。おまつノ方は大層気に病んでいたが、その気病みが命とりになったらしい。翌春早々に、登世の初顔祝いも待たずに他界した。頓死である。病名はよくわからない。父の久庵にもわからない。産後の肥立ちは順調だったが、頭痛を訴えることが多く、時々、不明の高熱をだしていたのだが。

 このときも、内室の毒殺だといまわしい噂が立っている。芝居や浄瑠璃でも大奥の陰湿な争いを写しだすから、すぐ悪いほうに噂をしたがる。

 まるで、おまつノ方の生れ変りのように、登世の美貌は、乳母日傘(おんばひがらがさ)の育ちで磨きぬかれ、母をしのぐ冴えたものになって人目を惹いた。アラを捜せば、ある。冷たい、冷たすぎる。

 権高く情愛のうすい性格は、その辛夷(こぶし)の花を思わせる顔にも物腰にも隠しようはなかった。そうした性格を形成したものも、弘化丙午の生れと無関係ではない。これだけの美貌でれっきとした大名の姫君なのに独り身だった。

 二十歳といえば、当時としては随分遅い。

 

 地位と身分のための婚姻であった。封建時代にはこうした夫婦は格別のことではない。恋愛感情も夫婦の濃やかな愛情も、湧きようがなかった。はじめから割りきっているだけに、お互いが期待もしなければ、失望も、また無い。

 登世は女大学の教訓を無視して、ただ、筆頭家老の妻の座をかたちだけ守るにすぎなかった。彼女の権高さは、美貌を鼻にかけてというよりも、丙午に反発する女の哀しさの裏返しなのだ。

「どうせわらわは夫を食い殺す女、それが運命なら、一生、輿入れいたしませぬ。そのほうが当家のため、世のためでございましょう」

 父や宿老たちに言い言いしてきた登世である。徳島二十五万石のため、といいう"()っての"願いを容れて輿入れしてきた。十六か七が普通。売れ残りの年月が登世には長すぎる。

 三四年ではない。いまわしい丙午の蔭口は、物心つくころから、耳に入ってきた。腰元たちの優越感をもった憐みぶかい奇妙なひびきがこびりついている。お可哀想にねえ、丙午でなかったらねえ。これだけの御縹緻(きりょう)だもの将軍様の御台所にだってなれようものを。ほんとうに前世の因縁だろうねえ。その大仰な言葉のなかにある(さげす)みがたまらなかった。腰元たちばかりではない。手鞠で遊んでいると樹木の手入れに来た庭師などが、煙草をごつい掌に転しながら、こちらを見い見い、訛りの強い言葉で嗤うのも同じだった。

(おふ)かすねや、丙午たらげっそりしたのう、急須(きびしょ)がし萎{な}えるわ」

「ほんま、丙午の娘よか、痘痕娘(みっちゃ)のほうがなんぼか好えぞな」

 その言葉の一つ一つが、登世の心をねじまげ、ねじまげていった。針金でいためつけられた盆栽は、曲ったなりに成長し、もとへはもどらない。幼な心にも自分がその"丙午"という忌みきらわれる、何か、であり、一生が不幸だときめつけられて、反抗的な姿勢が出来ていった。彼女のまわりは、みんな"敵"だった。"丙午"をいまわしいとする習俗を守る人々の眼は、同情や憐愍という偽善をかぶった敵でしかない。そのくせ、その敵は彼女の"奴隷"でもあった。奴隷たちは彼女の命令に唯々として従った。この矛盾した環境が、長じるほど矯慢で、潤いのない性格をつくりあげていった。

 

 ねじり竹のからみあいにも似た夫婦の仲は、それなりに奇妙な調和を保って見えた。若くても筆頭家老であり淡路の城代である。夫婦の生活は他の窺い知ることはできないが、何か揉めごとがあると世間へ知れるものだ。出入りの者の耳にも、下々の者が喜ぶような話のカケラも入らない。しいて聞きだしても、「お静かなものでございますよ」。むしろ残念そうな女たちの顔に嘘がなかった。

 惚れあっているのならわかる。そうではない。傷つきあった同士の、いたわり合いが濃やかな情愛で包んでいるわけでもない。口争いすらないという。争いも、ある意昧で関心のバロメーターだ。無関心がこの静寂を保ったといってよい。お互いが関心を持たない生活であった。

 めったに他出することはなかったが、たまに墓参や西宮神社へ詣でるとき、城下の者も村人もぬすみ見る眼を瞠{みは}った。人妻となってからも登世の美しさは変らなかった。むすめのときの容色をそのまま持ちつづけている。鉄漿(かね)に黒い口もと、髪のかたちに衣裳が変っただけで、とりつき難い権柄さも、辛夷の花のような頬のしっとりと柔らかいまるみも、何かを咎めているような、やや険のある眼も以前のままだった。彼女自身が阿波の姫君の自分を(こわ)すまいとしているかのようであった。

 九郎兵衛邦稙がその若さで、ほかに側室を持とうとせず、腰元に手をつけることもない様子から御内室がむすめのままのからだであるはずはないのだが、結婚によるいささかの変化も、その容姿からはみとめられないのだった。妻のからだに没頭しないらしいことは誰の目にもあきらかだった。飽きるほど女を知った蕩児は、冷たい陶器のような妻に反応を要求しようとしない。よくある例だが、しかし、だからといってこの権力と支配欲を満足させる地位に喜び、うつつになっているためでもない。

 何事にも情熟を感じない反面、職責ははたした。

 その点では政治が肉体の一部になってしまったような宿老たちが呆れるくらい、てきぱきととりしきってソツがなかった。藩論は佐幕であっても、西国の一藩である以上、朝廷とのかけ引きも必要だった。公武合体を推進したのも、後には幸いした。時勢はそこまできていた。佐幕一辺倒がどんなに危険なことか、町人社会経済の動きを肌に感じて知っていたのである。長州再征に出動を要請されて、一たんは出陣した阿波守を病いをかまえ、徳島へ帰し、嗣子茂韶(もちあき)を代りに立てたのも、邦稙の献策だった。そうやって愚図々々と時を稼いでいるうちに将軍家茂が薨じ総督小笠原長行(ながみち)が小倉から逃走したりして終戦を迎えてしまった。幕府はこの失敗から急転直下滅亡の坂を転り落ちるわけだが、このとき出兵しなかったのが、勤皇へと藩の方針の切換えに大いに幸いしたのである。

 後に、人はこの激流を乗りきった政治力をほめそやしたが、邦稙には別段のことではなかった。もとより徳島藩の特殊な立場を固執する頑迷な老人も尠くなかった。青二才が何をいう、とばかり面てを紅潮させて反論してきたときでも、邦稙は動じない。権威や門閥の(しゃが)れ声は、かれにとって無力であった。

「こうしなければ、御家の存続は望めませぬな」

 肩肘張るわけではない、むしろ他人事のような、呟やくような言葉が、かえって老人たちの口を(つぐ)ませた。邦稙がそう言うとき、れいの茫漠とした眼は、ひとごとのように虚ろになり、翳をおとした。もう一言誰かが反対すれば、そのまま引退る。投げ出してしまう。それがかえって、かれらを途惑いさせ、意見を通すことになった。

 

      三

 

 夫の地位が定着し、信望が高まっても、登世の態度は変らなかった。

 淡路島では現代でも年令階梯(かいてい)制の厳しいところだが、身分の上下を絶対とする思想は、藩主の姫の御降嫁という優位性を固執して省みない。それは彼女にとっては、血の濃い祖父に対しても同じだった。

 広沢久庵の出入りには、露骨に嫌な顔をした。乳母の藤尾に命じてきびしく釘を差した。

「たとえ血のつながりはございましょうとも、御身分のほどを(わきま)えなさるよう。お許しを得ずに、こなたから伺候してはなりませぬぞ」

 そのくせ、少し気分が悪いと、すぐに使いをよこした。母の急死が病気に対して小心にしていたのは否めない。登世はよく偏頭痛を訴えた。久庵もすっかり白くなった慈姑(くわい)頭をふりたてて飛んでくる。

 節度は保っているが、薬籠(やくろう)持ちはお次に控えさせて、二人きりになると、久庵は顔がとろとろと溶けてしまいそうに相好が崩れるのをどうしようもなかった。子も内孫もなく、矜寡(かんか)の淋しさを(かこ)つ久庵には、眼に入れても痛くない外孫なのだ。

「恐れ入りますが、お脈を」

 糸脈というほどのことはないが、手頸に触れるにさえ、一々畏まる。脈を計ったり胸を診たりするうちに、肉親のきずなが、久庵をほぐしてくるのだった。

 久庵がこの孫娘の健康で案じているのは労咳(ろうがい)である。美人薄命の見本のような登世にはその危倶がつきまとっている。お傍の者に聞いても食の進み方が悪く、量も少ない。好き嫌いが多すぎる。菜根類はたいてい嫌いだし、海藻類も臭いといい、金米糖が好物ときては、医者ならずとも心配になる。

 胸をひらいて横たわると、奈良(さらし)の肌着の上から濡れ手拭を乳の下にあてて、久庵は耳をつける。肺臓の吐息があるという。浸潤の濁音があれば聞きとれる。

「変りはございませぬが、蒲柳(ほりゅう)のお生れゆえ、この上とも御自愛遊ばされますよう」

「どうせ丙午じゃ、いつ死んでもよいのだから」

「左様なことをお口になさいますな。くだらぬ迷信でござります。第一、もそっと食をすごされねばいけませぬな、まず食餌(しょくじ)に好き嫌いを申すなどとは」

「もうよい。だから、いやじゃ。もうお退(さが)り」

「はい、退ります。医者の言いつけを守らぬと、毎日でも爺の顔を見ねばならぬことになりまするがな」

「威すのかえ、許しませぬぞ」

 そんなときの登世は、文字通り柳眉を逆立てる。久庵はしかし怒られても嬉しい。孫娘のやんちゃなむずかりとしか聞えない。

 この夫婦の仲に情愛がかよわぬことを、最も案じているのは久庵だった。

 登世が輿入れして、ひと月あまり後に呼ばれたことがある。軽い暑気アタリにすぎず、ほっとしたが、久庵は浮かぬ顔だった。

 腰元や乳母の手で衣紋を直し、帯を締め直して着付けが終ったあと茶菓がでる。人妻の姿となった孫娘をつくづく見て、本音が出た。

「いささか、がっかりでございます。おめでたかと思うたので」

 登世は黙っていた。黙って庭を眺めていた。雀が三羽、何かついばんで遊んでいる。季節はもう秋に入っていたが、陽ざしはきつく、常緑樹の照り返しが登世の顔を蒼く染めていた。また一羽、飛んできた。何を食べているのか一羽が()れ狎れしく沓脱石(くつぬぎいし)に上ってきた。

 登世の口から烈しい言葉が出た。

「やや子なぞ産みませぬ」

 ぞっとするほど冷ややかな声音だった、ぱっと雀が舞いたった。嫁してひと月余、羞恥が言わせたものでないことは明らかだった。

「ひい孫のことは、お諦め」

 きびしい表情には、継穂がなかった。

 何が登世の心を閉しているのか。環境の変化が幾分でもねじけた心を和ませるのではないかという期待も無惨に砕かれた。三隈山麓のお屋敷からの帰途、柴垣にからまった残りの夕顔の青さが胸にしみた。

 血のつながる外祖父でも医者でも房事には立ち入れない。久庵は登世が不具かと思い、また御降嫁をかさに、邦稙を寄せつけないのかとも思った。だが、そのはずはない。登世の肌には明らかに男を知った(よど)みが見えた。

 乳母の口から、こんなことを聞いたのは数日後である。

「閨のことが、子を成すというのは嘘です、九郎兵衛どのが何をなさろうと、わらわは心を許しませぬ。女ごがその気にならねば、子なぞ(みご)もるはずがない」

 登世はそう言い、鼻で嗤ったという。

 弘化三年の生れでさえなければ、数十万石の正室にもなれた身である。登世が妻らしい気持ちを持とうとつとめなかったのも理解できないではないが、邦稙のほうが、彼女に普通以上の興味を示さなかったこともある。主家の重みに屈する男ではない。遊蕩の果てに女に()いたのだろうか。房事の経験のない娘のからだを柔らかくこなしてゆくのは、お手のもののはずであった。楽しみでもあろう、登世のうちに眠っている女の情火をかきたてようとしないのはなぜなのか。

 よくあるように、男の生理に無知な深窓の新妻が、初夜の行為に驚愕し、不潔感と嫌悪から不感症になる。そんなケースでもない。徳島から従ってきた乳母の藤尾が翌朝、床入が無事に終ったことを汚れものから確認している。

 邦稙の政治手腕は未知数だが、その点だけは周囲でも安心していた。登世もお気に入りのお作という腰元に洩らしている。

「夫婦の睦みとは、あれをいうのか」

 十五のお作は頬を染めながら、

「お殿さまの裃姿には、女どもがためいきをついておりまする。ほんにお羨しゅう存じまする」

「ええ、御立派じゃ、それにお優しい……」

 邦稙が新妻に接する態度に変化が見えたのは婚礼の騒ぎが一段落ついた十日ほど後。その契機となったらしい事件がある。邦稙の母、きち

の出奔である。

 

 傳役から一足飛びに用人に出世した七条弥三右衛門は邦稙の家督がきまった直後、母上の墓参りしたい、といわれて困惑した。

「どこだ、墓所は?」

「──存じませぬ」

「昔のことになるが、わたしが七歳であったな、いやもっと前か。憶えておる。あれは薩摩琵琶を聞いているとき、そちが」

「はあ、そのようなことがございましたな、何しろ、ずっと以前のことゆえ」

「他家へ嫁いでいなければ、実家の墓であろうが」

「はあ、多分……よくは存じませぬが」

 弥三右衛門はしどろもどろだった。

「誰が知っている、筑後どのか」

 叔父とは呼ばぬ。後見職とのあいだに馴染めない年月が横たわっていた。弥三右衛門は早速調べて言上しますと、退出した。顔をあげられないほど、額にねっとりと汗が光っていた。その足で弥三右衛門は筑後に相談しに行っている。墓地の所在を聞きに行ったのではないことは、三日後に、きちを伴って須本へもどってきたことでも知れた。

 瞞されていた、と怒る前に邦稙を喜びがとらえた。はじめてといってよい笑顔を見せていた。

「――よかった、そんな気がしていたのだ」

 下々とは違う。複雑な大名の家内のことだ。女の身分が表むきのものでないだけに、父の不興を蒙ればそれまでである。辰次郎のかたくなな態度が、母の立場を苦しくしたのは否めない。実家へ戻っても使用人も多勢いることだし肩身のせまい思いをしたのでないか。幼いころの瞼に残った母のおもかげは、まぼろしのように淡い。その記憶の映像は、ほっそりしたからだつきの瓜実顔で睫毛の濃い、淋しい顔立ちだったが、中年の肉がまろやかにのって明るいものになっている。

「──母上」と、邦稙と手をとった。「不孝を重ねた詫びだ、孝養の真似事でもしたい。これからは随分と気侭になさるがよろしかろう」

「勿体ない……勿体のうございます」

 きちは身をふるわせて、手をひっこめる。四十の声を聞いて、なお容色に衰えを見せず充分に色香を湛えているのが、邦稙には救われたような気持だった。稲田屋敷には、稙誠の母がまだ存命だった。近江水口(みなくち)藩の加藤氏から来ている。邦稙の家督によって隠居の身を須本川対岸の宇山屋敷に移っていった。

「女中どもに申しつけよう、部屋は静かなところがよい。(たつみ)の客殿をお使いなされ、鳳凰(ほうおう)の池が目の下にある。渡り廊下が太鼓作りになっているので、御不便なら直させてもよい」

「いいえ、滅相もないことを」

 きちはまだじぶんの置かれた立場が、よく呑みこめないようであった。夢のような倖せに尻ごみをしている。

 須本城は三隈城ともいい、三隈山上にある。山といっても低い。百二十米ばかりの丘。北東は海辺から突兀(とっこつ)と盛り上って自然の要害をなし、北方を()って南方へ流れる須本川は城下を囲繞(いにょう)して外濠となり、山上からは東方海上も一望に見はるかして泉州、紀州を望むことができる。

 戦国時代からの構えはかなりの規模だが、一国一城制で廃城とされてから、石垣と僅かに三層の櫓をのせたのみの、名前ばかりの城だ。城代屋敷は山麓、いわゆる山下にある。およそ五千坪。建坪だけでも八百坪ほどある。奥づとめの女たちから台所役人、膳部方、作事、仲間(ちゅうげん)小者まで含めて、常時この屋敷内には三四十人の男女が居る。

 数人のお付き女中をあてがわれて、城代の母として尊敬のもとにかしずかれる暮しは女の身に願ってもないことだ。しかし、きちがこの屋敷にとどまったのは三日にすぎなかった。

 家臣の前ではつとめておさえていたが、邦稙は二日目の夜、

「今宵は母上の寝所でやすむ」

 と言って登世を驚かした。

「御随意に遊ばしませ」

 母の愛を知らない登世には、奇矯なことに聞えた。とがった鼻先に侮蔑のいろが浮んだ。

 これからずっと一つ屋根の下で起き伏しできるというのに邦稙を平静でおかなかった。陪臣ながら大名格である。日常坐臥、作法がある。同じ寝所に床をとるというのは非常識すぎる。それも妻を娶って十日というのに、邦稙の過去と、二十年ぶりの再会という同情がそれを押し切らせたのだが、町人の娘のきちは、困惑しておろおろするだけだったろう。

 巽の客殿には深更まで灯火がともり、時々、忍びやかに母子の笑声が洩れた。母子の懐しみといっても、邦稙には物心つかぬまえの乳呑子のころであり、きちにしても乳首にすがりついた子と、この目の前の男臭い偉丈夫に成人した邦稙とは映像が重ならないのではなかったろうか。共通した思い出がどれくらいあったろう。

 途中で茶を持っていった腰元が洩れ聞いた言葉がある。

「──和子は頸すじに紐痣(ひもあざ)がありましたが、いまも残ってかえ」

 きちがそういい、のぞきこむと邦稙は頭をまげて「ござるとも、それ、ここに」と見せていた。母子の睦じさを見せつけられたと腰元部屋ではきゃあきゃあ騒いだのだが、そのきちが、翌日、姿を消してしまったのは彼女たちにも意外すぎた。

 大名や旗本の家では、おおむね朝風呂に入る。深夜まで寝物語りしたきちが、翌朝、お湯殿の係りのうるさいほどの世話を受けて入浴していると、そこへ邦稙が入ってきたのだ。

 女中たちは驚いたが邦稙は平気で、

「母上、辰次郎が背中を流して進ぜまする。さ、糸瓜(へちま)を」

 きちは、ゆたかなからだを前かがみにちぢめて、ものも言えなかった。肌理(きめ)のこまかな白い肌は、まだ娘のような艶と張りをもっていた。邦稙が立ち去るまで、湯槽に入りもならず、簀ノ子の上で身をかたくしているだけだった。邦稙は糸瓜をつかい、糠袋で母の肌をなめらかに磨いた。その糠袋も大名や旗本の奥では顔と頸すじ、両手と胸背、そして腰から下肢のと三つに使いわけるのも、ますますきちを惑わせる。

 腹をいためた子でも、妻を娶る年齢に成長した姿には、異性を感じるのか? 耳たぼから髪の中まで(あか)くなって、きちは邦稙の手がふれるとひくっと(ふる)えた。

 その日、きちは出奔した。

 須本から大坂への船便は毎日三度出ている。邦稙が徳島へ行った留守のことであった。帰宅してそのことを知った邦稙は、はじめ姿を消したとは思わなかった。「何も聞かなかったのか?」。無断で大坂へ帰ったのを町者の単純さとしか感じなかったのである。だが、太物屋(ふとものや)や諸式屋を呼んで御後室風にととのえさせたのだが、その衣類や髪のもの、調度の一切が置き(のこ)してあったし、その飾り棚のヒラキから書き遺したものが発見されて、出奔とわかってから、邦稙は黙りこんだ。

 書置きには流麗ともいえぬ字で、お屋敷の暮しは身にあまる栄華に候えども不調法の身には何かと難儀に候えばお許し給わりますよう、とあった。

 徳島城下には控え屋敷がある。登城したときは一泊するのが普通である。遅くなってもその日のうちに帰る気になったのは、母への想いだ。あるいはこの事件がなければ、邦稙も人間的な情けを知ることができたのではなかろうか。

(わしの孝養を受けるのが心苦しいというのか、二十年の歳月が、子への情愛を失ったのか)

 登世の眼を水のように冷たく感じたのはこのときである。

「町者なればこの屋敷が気詰りなのでございましょう。しかたがないではありませぬか」憎いほど感情のない声であった、「()ってお呼びかえしになることも如何かと存じまする」

「わかっておる」

 邦稙にもそんな気はなくなっていた。

{おれの母だ……}と叫びたい気持は決定的な行動で裏切られて力なく(しぼ)み、灰色の澱{お}りが胸のそこに重くひろがってゆくのをおぼえていた。 {おれに母はない……}

「母上などなくともよろしいではありませぬか。御安心なされませ、わたくしは当家を去るようなことはない。ひとたび嫁いだ以上は九郎兵衛邦稙の妻。いかなることがあろうとも生涯に二人の夫を持つなどとは地獄の沙汰」

 まるできちが男をもとめて屋敷を出たといわんばかりに聞えるが、登世の気持はそこにない。自分の貞節と淑徳を誇示したいだけらしく、

「謡曲の弱法師(よろほうし)にもござりまする。"ソレ鴛鴦(えんおう)(ふすま)の下には、立ち去る思いを悲しみ、比目(ひもく)の枕の上には波を隔つる愁あり"ほほほほ」

 鉄漿(かね)の口だけがうつろに笑った。

 鴛鴦の契りの真のふかさをしかし登世は識ることはできない。邦稙が愛の計画を放棄したからである。その夜、同衾はしたが、邦稙はひとり満足して妻の官能を忖度(そんたく)しようとしなかった。

 その夜が、冷えた(しとね)の皮切りであった。

 気侭な青年期を過した邦稙には阿波一の美女でも磨きぬかれた肌でも、格別の魅力を感じることもない。心が通じ合わぬ抱擁がどれほど味けないものか。添寝の日数も減っていった。その距離だけ、確実に夫婦の心は遠ざかっている。

 

      四

 

 九郎兵衛邦稙がその後、きちの消息を聞いたのは、一年余り後、慶応二年の冬であった。

 かれは早朝、馬を走らせるのを日課にしている。暗いうちに起きて馬場を十回、その勢いで三隈山へ駈けのぼる。三ノ丸から二ノ丸と飛ばして搦手(からめて)の小路谷へ出、明田から上物部へとひとめぐりしてくると、ほどよく筋肉がほぐれる。馬と樹々の呼吸だけの暁闇は、人嫌いのかれに安らぎを与えてくれる。小雨の朝も、かなりの風のときでも、むしろ爽快感は強まる。

 その朝も、寒気がきびしく、霜がびっしり張りつめていた。

 (ひづめ)がサクサクと霜柱を砕いてゆくのがこころよかった。千草川沿いに下って庚申(こうしん)橋のところから津田の坂を越えて白滝権現前へおりる。このいつものコースを戻ってきたとき、傾いた鳥居の前に一人の男が(ぬかず)いていた。権現にぬかずいているのでない。道へ向いている。縞羽織に角帯の中年者である。

 危険は感じなかった。他人に怨まれるおぼえはないし苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)はしていない。また万一のことがあっても、充分、対応できる自信がある。速度をゆるめたのは、直訴(じきそ)の様子に見えたからだ。霜の朝にこうして待っていたのは尋常のことではない。

 騎馬が近づくと、町人は平伏した。

「相合橋の角惣どす、お願いのすじがおまして」

 角屋惣七はきちの実家である。邦稙は馬をとめ、男を見た。月代(さかやき)がすがすがしく蒼い。

 与助、と名乗った。主の惣七がお目通り願い出るのが本筋だが、中気で動けないので、番頭ながら代りに来たという。

 実直な害意のない顔つきだし、腰は低いが商人の抵抗が生白い皮膚の下に隠されている。

 角屋は大坂でも五本の指に入る紺屋で、一方藍(あい)の専売権を持っていた。阿波の藍は良質の上に生産高は全国需要の大半を占めている。藍玉は上下の質が甚しいので一々吟味して入札するが、藩財政の安定のために特定の商人に権利を与えて、生産量の半ばを捌いていた。これは一つには小物成り高の実収を幕府の目から糊塗するためでもあった。阿波二十五万七千石という実は四十万石を越していたのも、この藍や塩の収入に負うところが多い。

 角屋惣七が御用達(ごようたし)になったのは先代からだが、二十数年前突然、この権利を得てのし上った。与助の訴えは、この権利を去秋、なぜか剥奪されて御用差禁(さしと)めを申し渡されたという。理由はない。

 惣七は暮に倒れて半身不随になってしまった。心身ともに疲れてのことだ。このままでは角屋はジリ貧の一途を辿るしかないので、何とかもう一度、御用達をつとめたい。恐れながら右の御出入禁止は、お殿様のお差図とは思えないので、非礼をかえりみず参上しましたという。

 邦稙には初耳だった。

 終始無言で馬上にあったが、その話には言及せず、ただ、

きちは変りはないか」

 一言、聞いただけである。お蔭様で安息に過しておりまする、という答えだった。

 

 去秋、といえばあのことのあとだ。

 誰が、何のために? きちの問題は邦稙個人に関るものだ。他の手が及ぶ理由は考えられなかった。藍のことは、邦稙も家老になってから識ったのだが、収益が大きいだけに、いろいろと黒い噂がある。他の家老や年寄や直接の奉行など権力と地位を利用しての暗躍は、帳簿面を見てもおよその見当がつくが、邦稙はそれらの一切を黙過した。仔細はない。ただ興味がなかっただけだ。地位にも金にも執着はなかった。

 角屋の与助に対しても確約していない。こうした直訴には返事を与えぬのは当然である。ただ"聞きおく"だけでも恩情とされていた。邦稙が調べてみる気になったのは、角屋の権利を剥奪、他に移行した書類の中に、稲田筑後の名が見えたからである。

 筑後は名を太郎左衛門。稙乗の弟で九郎兵衛稙誠のときから後見職であり、本藩の役職は"年寄"をつとめている。年齢はまだ五十前だが、すでに額がぬけあがって半白の髪が辛じて髷らしきものを後頭部にのせているのがかなりの老齢に見せている。邦稙は物心つくころからこの叔父が嫌いだった。どういうものか笑顔一つ見せたことがない。稲田の家系には少ない角顔で頬骨と顎骨がいやに張っていた。そのせいか眼窩がふかく凹み、金壼眼が粘った光りかたで少年の辰次郎にはうす気味悪かった。兄の甲太郎もこの叔父には親しめなかったようだ。"奥眼"とか"寒鮒"とか、悪口を言い、うしろから土くれを投げつけたりしたのをおぼえている。

 九郎兵衛を継ぐことになって邦稙が筑後と口をきいたのは考えてみれば、元服の時以来だったようだ。筑後は甲太郎稙誠から父親のように慕われていたなどと話した。

「──左様、誰が教えたものやら、悪口たれの甲どのでのう、一番の秀逸はテラカンと申す。禿頭を薬罐というのはよく聞くが、テラ罐には恐れ入った。テラテラの薬罐じゃ。言われてみればまことにその通りで、怒るにも怒れん。子供のにくていと思うているうちに御家督なされてからもな、それ由良の砲台を巡視にお供した際も、砲台が錆びてはものの役に立たん、よく磨け、テラ罐と光りくらべして劣らぬほどに、などと、はははは、ははははは」

 ぺたぺたとその前額部を平手で打ちながら笑う。顔をくしゃくしゃにした笑いのうちにその奥眼だけは()っと邦稙の表情を窺っていた。

 筑後の名を見て邦稙の脳裡を掠めたのは、あの日のことである。

 きちが失踪した日、腰元の話では筑後が訪れている。どのような話が交されたかわからないが、筑後がこの問題にかなりの比重を占めているのは疑いなかった。たんに藍玉の利権だけのことではない。筑後に詰問すれば、きちとは無関係と言い張るだろう。藍玉の問題は公けにすれば、どこまでも波紋がひろがる可能性があった。それは阿波藩の命とりにもなりかねない。

{それもおもしろいな……}

 きち自身の気持はどうなのか。

 大名の御母公さまの暮しに耐えきれぬと見きわめをつけて、出奔したものと思っていた。だからこそ、角屋へも何も言わず、放擲したのだ。きちの意思ではなかったのか? 筑後が一枚噛んでいたのか。

 辰次郎が乳離れすると、すぐに引き剥がされ姿を消したのも、あるいは傳役の差し金だったのではないか。それにしても、稲田屋敷にたった三日間の姿は、その謙譲さ、嘗て父のお手つきとなりながら、お部屋様としての栄華をもとめようとしなかったのを裏書きしている。

 ことを荒立てて阿波二十五万七千石が存亡の危機に瀕すれば、当然、きちと角屋に類禍が及ぶ。ひっそりと日蔭に生きようとしているきちを面倒に巻きこむのは哀れだった。

 さらに筑後と邦稙の関係も微妙だった。これが家臣ならどうにでも処分できる。叔父であっても、本藩の"年寄"であり、他の家老中老たちと実利で結束しているとすれば反撃の強大さは目に見えている。

 だが、放置しておけない。ともかく弥三右衛門に藍玉の一件の調査を命じた。

「筑後どのには伏せてのことだぞ」

 それだけは念をおした。

 ところが、意外な結果が出た。弥三右衛門の調査が進まないうちに、その年も暮れ、正月早々に角屋に呼出しがあって藍玉の権利を与えるという。与助のほうが面喰った。

 九郎兵衛にとっても意外すぎた。裏をかかれた感じだった。筑後があわててこの処置をとったことは疑いない。なぜだ。ただ九郎兵衛の眼を恐れてのことではない。姑息(こそく)な手段を弄する裏に何かある。

 家督して二度目の正月が来たわけだが、なお九郎兵衛邦稙は筆頭家老の肩書とともに孤立していた。

 

 公務ばかりではない。屋敷にあっても登世との間は夫婦という名で(つなが)れているにすぎなかった。孤独はむしろ邦稙の望みでもあった。だが、激動の時勢はかれを孤独の愉しみに浸らせてはおかなかった。

 長州再征の失敗は必然的に親幕諸藩を公武合体に傾斜させていった。岩倉具視らとの折衝が多くなる一方、近代的装備による銃士隊の編成と強化などでも九郎兵衛邦稙の身辺は多忙になった。軍装や調練が当時もっともすぐれていたイギリス式ではなく、オランダ式であった点に、牢固としてぬき難い因循(いんじゅん)な保守派の勢力を見ることができる。

 ともあれ、十五代将軍慶喜とは叔父甥になる斉裕を藩主にいただいた阿波藩が土佐のような勤皇党大弾圧のドラマもなしにのらりくらりと巧みにきりぬけ、"朝敵"どころか"官軍"にスリ代ったのは多くの偶然と幸運と日和見主義の成功によるものだ。慶応四年正月、その斉裕が薨じたことも結果的には幸いだった。新藩主の茂韶(もちあき)は二十一歳。新体制順応の若さがある。長州再征の軍に(ほら)ケ峠をきめこんだことが東征軍の一翼を担うことに矛盾を感じさせなかった。老臣たちは沈黙し、九郎兵衛邦稙が押し出された。鳥羽伏見の戦に大津駅を守った阿淡兵らは、邦稙に率いられて江戸へ入ると、一ッ橋より水道橋にかけて守備に就いた。ほとんど江戸では戦っていない。が、ツイていた。彰義隊副長天野八郎を捕えたのだ。大総督有栖川宮の信頼を得た邦稙は新政府の軍務官糾問局の総長に任ぜられた。

 糾問局は弾正台の前駆的機構で臨時軍事裁判所である。邦稙は新政府でその存在を示し、確実に本藩からぬきんでることになった。邦稙だけではない。家来たちもそれぞれ重用されて活躍した。函館戦争が終り降伏人などの取調べが一段落ついたのは翌明治二年の六月。邦稙は官を辞して帰国している。

 

 邦稙がきちの死を知ったのは、一年半ぶりに淡路の土を踏んで二日目だった。

 軍務官内部では邦稙を属望して引き止める者が多かった。

「いま東京を離れたら損ですぞ、太政官の組織も固まってはいない。せっかく総長の地位にあるのだから、動かないほうが賞典の御沙汰にも有利だ。何といってもこれからは薩長の天下だから、せいぜい交際して顔を売ることです」

 またこう忠告する者もあった。

「稲田藩は一万何千石と聞くが、幕府の制度では陪臣でしょう。東京に居れば討幕の功臣で通るものを、阿波へ帰れば蜂須賀中納言の家臣にすぎない。せっかくの大功もかすんでしまいますな。手柄は九郎兵衛殿のものだ、まかり間違えば中納言殿は賊魁として会津侯と同じ運命にあったのだから、旧主に義理だてることはない。むしろ、ここで淡路一国の独立を宣言したらどうです」

 相手が真面目なだけ、邦稙は笑ってしまった。機を見るに敏い人々が猟官運動に躍起となっているさまは、かれには滑稽でしかなかった。いち早く新政府に乗り換えての出世の望みもなかったし、栄誉もほしくない。

 邦稙が帰国した理由はほかにもある。

 一つは彰義隊騒ぎのとき流れ弾で負傷したことだ。銃弾はこめかみから耳のうしろへ抜けた。英国公使館の医師W・ウイリスの治療で半歳後には完全に治癒したのだが、この春ごろから、頭痛に悩まされていた。

 ウイリスは函館戦争にも従軍して敵味方を問わず負傷兵を救ったが手術にはクロロホルムを用いて痛みをやわらげた。帰京すると直ちに神田の医学所に招聘されて治療と後進の指導に当っていた。医学所は軍務官の管轄でもあったから、ウイリスは邦稙の診察に時間をかけた。そのあげく首をかしげた。すっかり治癒しているはずだというのである。余病の併発は考えられないが、大事をとって静養したほうがいいかもしれない。

 そう奨められたのだ。めまぐるしい変革期の渦中にあつた一年余日は、たしかに健康を損っていよう。邦稙の帰心を促したもう一つは、異母兄稙誠の大法要のことだった。

 今年は五回忌に当る。去年も一昨年も煩忙のため不在で形式だけの法事しかしていない。

 立木徹之丞や小室伝八郎など目先の利いた連中に後事を托した。

 一足先に帰った七条弥三右衛門によって大法要の支度がすっかり出来ていた。

 須本に着いて意外だったのは、知人のたわむれの言葉が、たんなる思いつきではなかったことだ。淡路兵の気持を率直に感じていたらしい。邦稙が好むと好まざるとに関らず、淡路島は独立した淡路藩の観を呈してきていたのである。稲田の家臣には意気軒昂たるものがあったし、本藩のほうで負目を感じている。島の人々にもこの空気は浸透していた。邦稙と三百余の兵隊を出迎えの熱狂ぶりはすさまじいものだった。

 菩提所江国寺に於ける大法要はその翌日だったが前日の昂奮を残したように、しめっぽさはなく、華やかで、まるでお祭りの雰囲気だった。

 まだ五回忌というのに誰も稙誠の変死や生前の話をする者はない。その遺徳をしのぶにはあまりに今度の戦さは大きく、話題も豊富だった。勝者の眼からは、どんな些細なことでも楽しく、懐しい。いわゆる御一新の一翼を担った光栄と主君九郎兵衛邦稙への信頼が四年前の奇怪な事件も、ひと昔もふた昔も前のことのように、雲煙はるかな彼方に追いやってしまったのであろう。

 御後室も思ったより、元気に見えた。

 傷心の身には、かえってそうした雰囲気が力づけになったのかもしれない。

「そなたの回向こそは何よりの功徳に思われまする。これで仏も浮ばれましょう。忝けないことです」

 語尾は涙にむせんだ。数珠をからめた指がほそい。

「痛みいります。むしろ四年間も放置していて相済まぬと思うておる。それがしには血のつながった兄上なのだから」

「そうです、そなたには正真の兄……」

 言いさして口ごもった。狼狽が眼をたじろがせた。あわてて気を変えるように、ややかん高い声になって、

「ええ、稲田家のお血すじだから。そうそうそれにしても早うお世嗣をもうけねばなりませぬな」

 ちらりと、登世のおもわが掠めた。子供など死んでも産むものか、というかたくなな白磁の冷たさと硬さを持った表情だった。一瞬にこわばった頬をむりに弛めて、邦稙は笑顔になった。

「せいぜい心懸けましょう。兄上に代って親孝行をせねばなりませぬから」

「冗談ではありませぬえ、もしも御内室にできぬとあれば、しかるべき女をお傍に」

「そこまで御心配頂かずとも」

「いいえ、そうではない」実の母のように真剣な眼差しだし口調になっていた、「この仏もそのようなことを申していたゆえに、世嗣をつくり損ねてしまったのです。何とぞ、そのようなことが……」

 あとは口の中でかみころした。邦稙にもし万一のことがあったら稲田の家系はどうなるのだと言いたかったのだろう。かれは鉄砲傷を思った。ずずず、と痛みが頭の鉢をめぐった。

{──名医でもわからぬ。この傷が命とりになるかもしれぬ。鉛玉は貫通しても、鉛毒が骨に残るというからな}

 そんな思いも、しかし悲壮ではない。いま邦稙が感じたは、母に叱られているような実の母以上の肉親の温かみだった。寺の客殿だったが、こうして話していると自分の屋敷に在るような不思議に安らぎをおぼえる。きちの前に出たときとは違った、もっとおおらかに(なご)やかな安息だった。身分も地位も、責任も、すべてを放擲して懐ろに甘えられるような。邦稙は微かに頬を赧らめた。

「宇山の屋敷では何かと御不自由であろう、山下へ来られぬか」

 母上として仕えたい、とは口に出せなかった。あとは笑いにまぎらした。

「登世は和子をもうけるすべを知らぬらしい。御指導願えれば一石二鳥になる」

「まあ、何を、おたわむれを」

 たしなめるような眼もとから包み隠せぬ喜悦がひろがった。

「忝けないけれど、それはなりますまい。お屋敷に起伏(おきふし)しますれば、いやでも顔を合わせることがありましょう、登世姫さまのお気(ざわ)りとなっては、お(たね)もつきますまい」

 お志し忘れませぬ、と気品のある顔だちがゆがみ、抑えようなく瞼をふるわし涙が盛り上ってきた。

 義母に育てられる例は世間に尠くない。妾腹に生れた場合も継母を迎える場合もある。

 生みの母との情愛の違いに苦慮するのは庶民の特権であろう。大名の暮しには、はじめから情愛の交流は望めない。その意味では生さぬ仲が生じるヒズミは家督争いくらいのものだ。

 読経の声が聞えてくる客殿で、生さぬ仲の母子が、心の触れあいを感じているのはなぜだろう。そのひとの実の子が亡くなって、ふたりの間に障子がとり除かれたせいか。それならば四年前にすでにあるはずだ。いつか遠いむかし、何か形のない魂のつながりのようものがふたりを結びつけていたような。

{兄が身代りに引き合わせてくれたのか}

 時間も忘れていた。そこに稲田筑後が来なければ、いつまで話していたかわからない。一年半ぶりの故国の山河が、かれを感傷的にしていたのだろうか。郷土意識などないはずの身にとって、不可解な心の動きに、

{鉄砲玉のせいで頭が変になったのか?}

 苦笑するのだった。

 

      五

 

 その夜、生新な気持で邦稙は妻を抱いた。

 夫の凱陣にも人並の喜びを見せようとしない登世であったが、いつものかわいた肌がしっとりとしめり気を帯びて、微妙な反応をしめした。

 冷えた心にも一年半の孤閨(こけい)(つま)恋う心をわずかでも芽ばえさせたのであろうか。その行為のなかで邦稙は、在京中に時折かよった神明(しんめい)前の女を思いだしている。

 かん高い声でよく笑い、わずかの時間に何度も激しい反応を見せる女だった。下品で軽薄でよく饒舌(しゃべ)りよく食べた。食べたものが半刻の後には血となり肉となって燃えあがり、快楽をもとめ、恍惚に溺れた。溺れるという形容はこの女にかぎって、誇張ではない。手が触れただけで、びりりッとその部分が緊張で硬直し情感の波がうねってくる。鼻息があらくなる。気が狂うかと思われるばかり、喜びの声をあげ、じぶんから口を吸い、舌で舌をまさぐってくる。情感の波がくりかえしおそってくるとぎりぎり奥歯を(きし)らせて、快楽の波のなかに邦稙をひきずりこむのだった。

 いつでも一度きりということはなかった。時間を急ぐとき、邦稙がからだを離したあとでもひとりで蒲団をかきむしってのたうち、帯をしめなおしている男に、止めて、止めて! と叫ぶのだった。

 ようやく鎮まったあとでも、濡れたようた眼で凝っと見あげて、これで懲りずに又来て下さいましね、と羞しそうにほつれ毛をかきあげる仕草にも女が匂った。

 大坂での放埒な歳月にもこんな女はいなかった。江戸女だからでもない。この女のからだの構造が特殊なのだろうか。いつも濡れ濡れとした眼には、好色の輝きがある。期待の輝きといったほうがいいかもしれない。その期待は男に反応させずにはいないのだ。

 女はほんとうの性の喜びに身を浸すことを知っていた。こうした女にとっては、世界が徳川から薩長の天下へ代ろうとも動じることはない。男が存在すればよいのだ。情感の中に生きる。夜のために、昼を生き、夜があればこそ昼があった。そこに間然するところがない。充実していた。確実に生きている。この女に比べれば、登世は死んでいるとしか言いようがない。

 江戸を離れると、しかし、その女の名前も忘れた。感覚が残っているだけである。邦稙にとってそれ以上の意味を持たない。あんな女もいた、というだけのことだ。冷えた魚を抱いているような登世との行為が思いださせたにすぎなかった

 一年半ぶりの妻の躯は、微妙な反応を見せはしたが、それを燃焼のきっかけにして誘ってやる気持がなかった。かれはおわったとき空白の時は虚しいままに埋められている。明日からの生活を示唆するように。

 その翌朝、邦稙はふたたび与助に逢っている。

 

 場所もあのときと同じ白滝権現の鳥居前である。三隈山を飛ばすうちに夜のいろがうすれて朝日が木ノ間越しにななめの縞模様でさしかけたなかに、与助は平伏していた。

 あの朝は初冬の凛洌(りんれつ)の気が(みなぎ)り、霜柱が膝の下でくだけていたが、いまは爽かな夜明けのなかに気の早い彼岸花が鮮かな色をひろげている。与助は凱旋の祝いを述べ、あらためて藍玉の一件の礼を繰りかえした。帷子(かたびら)の上に黒絽を羽織った与助は、五つも六つも老けて見えた。商人(あきゅうど)として年期も入り油がのってきたところというべきだろうか。

「──きち歿(みまか)りよりまして、そのことをお耳に入れよ思うてお待ち申しておりました」

「死んだ?」

 奇妙にそのとき、昨日の法要の際の義母の顔が浮び、きちの顔がそれに重なった。複雑な思いが錯綜して、邦稙は絶句した。

「胆石ということで、仕様おまへん。寿命と思うて諦めますねやけど、死ぬ少し前から淡路のお殿様に一目あいたい言うて……」

「…………」

「遺言もそれどした。一目おうてお詫びせなあかん、お詫びせな死ぬにも死ねへん言うて」

 何を詫びるつもりだったのか。屋敷から無断で逃げだしたことか。そのほかに思いあたるふしはない。

「墓所は札ノ辻の大念寺どす。蔵屋敷へお越しのついでどもおましたら……こないなお願いたら筋違いやしれしまへん。御身分の差しつかえもおますやろけど、御乳人の回向ならよろしおますやろ、お線香の一本もあげてもろたらどない喜ぶかしれまへん」

 乳母への回向。

 その言葉が耳に残った。あのときと同じように、約束するわけでもなく、その場を去ったが、馬上にあって何度も、反芻された。言われてみれば、たしかにきちの存在は、乳母の役目でしかなかったようである。哀れな思いが胸をしめつけた。

 月を越して八月、九郎兵衛邦稙は大坂へ行った。版籍奉還にともない阿波藩主茂韶(もちあき)は自動的に知藩事となったため、家禄の制度改正や藩収入、実高調査と上申、新政府との折衝役として東京に公儀人や公用人を置かねばならないし、屋敷の一部を上地するなど仕事は山積していたが、蔵屋敷に行ったついでに寸暇をさいた。

 札ノ辻の大念寺は寺町の角にある。融通宗で木造十一面観音像が寺宝として知られている。微行だから、と断ったが、住職は寺宝を開陳したがった。

 大坂の地ノ理には通じている。近習や草履とりも馬の口取りも残してきた。ひとり馬を飛ばして来たのである。

 全くの微行のつもりだったが、服装や洋鞍などから身分は隠せなかった。

 戒名は聞いてこなかったのだが、角惣から出た新仏と聞くとすぐにわかった。墓地に案内されて、思ったより代々の墓が大きなものだったことでもしれた。風が吹いていた。(しきみ)が光った。線香のけむりもはげしく揺れ、重なった卒塔婆が音を立てた。合掌していると幼少の記憶にあるきちの笑顔が泛んだ。一昨年須本屋敷に迎えたときのおどおどした表情はどういうものか淡くしか残っていない。

 話好きの住職は庫裡で茶をふるまって、角屋の過去帳なぞいろいろ出してきた。先代がよほど信仰が厚かったとみえ融通大念仏縁起絵巻なども寄進していたせいもあろう。

 過去帳をめくってゆくうちに、ふと手がとまった。きちの戒名の前に、童子のそれがあった。祥月命日は弘化甲辰年三月十日、俗名惣吉、当歳。同年二月七日生。

 邦稙の気を引いたのは、かれの生年と同じだったからだ。稙誠が三月二十七日、かれは二日遅れて生れている。

「おお、その子も、これで、ようやっと母御の胸に抱かれたわけだんな、ホッとしたこってすやろ」

「母御? ……」

「へえ、おきちどのが生んだ子や、もう二十何年前やが、はっきりおぼえてま、おきちどのもえろう悲しまはったでなあ。何せ、せっかく産みおとして、ひと月たたんまに仏になった子や、泣いても泣ききれるもんやおへんわな……おや、どないしゃはりました?」

 邦稙のおもては蒼ざめ、唇に色がなかった。

{──きちは母ではなかった!}

 

 瞞されていた。

 風の強い暮れなずんだ道に馬を走らせる邦稙を衝撃がゆすぶりつづけた。何度か道を間違えた。この数年の間に屋並みもかなり変っていたがそのせいばかりでもない。江戸と違って大坂の街は整然としている。碁盤の目なりだし掘割に特徴がある。

 そのわかりやすい道を間違えるほど混乱していた。

{おれの母は誰だ。どこにいる?}

 不思議なのはきちが生みの母ではないと聞いたとき、驚きが烈しかったにも関らず、まさか、と疑いが出なかったことだ。瞞されていた──という怒りと、生母への追慕が、胸を占めていた。住職の話は嘘だと否定するには、きちのあのときの態度が、あまりにも事実を裏書きしていたのである。むしろ、住職の言葉によって、これまで胸の一隅に澱{お}りのように残っていた不可解な行動がはっきりした。邦稙はいったん蔵屋敷の近くまでもどってから、また馬首をむけなおした。与助が何か知っているかもしれぬ──

 

      六

 

 翌日、邦稙は須本へ帰った。

 蔵屋敷には十日ほど滞留の予定だった。その予定のなかには京の二条城に置かれた太政官支庁へ行ったり、大坂府知事三岡(みつおか)公正と会ったり八方折衝の要務があったのに、一切を省みなかった。後事は用人の七条弥三右衛門に托した。

 要務を捨てるにあたって邦稙は頭痛を訴えた。戦傷の銃創が原因であろう。家士たちは沈鬱な眼を見合わせた。大坂にも仮病院ができているが、国もとのほうが安心して治療できる。これは人情だ。従者たちの眼にも邦稙の頭痛はかなり強度のものだと思われた。日ごろから寡黙であったが、藩船の中でもむっつりしてほとんど口を利かなかった。血色のよい顔が蒼く、暗い眼だった。病人には悪い日だった。風が出て波が高く、船はかなり揺れた。丸に(まんじ)の船印が船尾ではためき、真昼なのに黄昏(たそがれ)のような重い空に雲が飛ぶように走っている。

 須本へ着くと雨が叩きつけてきた。嵐がくるらしい。その吹き降りのなかを久庵が駈けつけると、邦稙は奥の離れの間で脇息に身を(もた)せていた。

「また傷がぶりかえしましたそうで」

「痛い、診てくれい」

 邦稙は顔をしかめた。ごめん下さりませ、と膝行する久庵を凝っと見つめた。あの茫洋としてとらえどころのない眼が、光っていた。

「お手もとが(くろ)うございます、(とも)しを……」

 近習が言った。

「要らぬ」と、はねつけ、その強い語気を打ち消すように笑って、「久庵は名医じゃ、燈しはなくとも心眼で見よう。呼ぶまでそちは退っておれ。誰も近づけるな」

 その言葉も気分の悪いせいだと、単純に解釈して家来は恐懼(きょうく)して退った。

 久庵も老齢だ。燈しはほしい。昼すぎたばかりだが、はげしい雨と風が、戸外で唸り声をあげ、灰色の雲が低くおりて(ひさし)の深い家の内は暗かった。

 しかたがない、久庵は老いの眼をこじあけ邦稙の傷をしらべた。すっかりふさがっているし、注意ぶかく指で周辺をさわってみても膿汁の溜っている様子もない。四五ヵ所を強く圧して、ここはお痛みではありませぬか、一々、聞いた。痛まぬ、なんともない、部分的な痛みはない、と邦稙は言った。

「ぜんたいが痛いのだ、久庵」

「はあ、痛みはどのような。たとえば、刺すような痛みと、鈍く、こう重げな痛み、がんがんして眼をあけておられぬほどの……」

「頭ぜんたいがな、このあたりからだ」

 邦稙の手が頸すじに触れた、いや、指がさしたところ──あのうす赤い紐痣が、老いの眼にもくっきりと浮び上って見えた。

 あっと身をひこうとした手頸を、強い力で掴まれていた。

「どうした、御匙(おさじ)どの。どうした? 顫えておるではないか、(おこ)りか、いつ()んだ」

 久庵は声がなかった。唇がふるえ、何か言おうとしながら、声にならなかった。驚愕と恐怖は、その紐痣の異形(いぎょう)のせいではない。はじめて見たわけでもない。

「久庵、懐しいか」うす暗がりの中で、邦稙の眼が、蛇のように光った、「懐しいと申せ、きさまがつくった傷あとだ」

 枯木のような手頸は冷たくなっていた。邦稙自身でも思いがけないほど強い力をこめていたのに気づいて、放してやった。逃げるだけの体力も、その気もすでに老医者にはない。わなわなとふるえる肩の骨がとがって、頸すじの肉が赤黒くたるみ鶏を思わせた。

 声を荒らげたことのない邦稙の一喝は、思ったより効果的であった。老医者は打ちのめされ、平伏していた。

「いつかは、この日がくると覚悟しておりました」

 ひくひくと咽喉を上下させながら久庵は饒舌りだした。

「いまさら、お許しを乞おうとは思いませぬ。お手打ちにあおうとも露お怨みには存じませぬ、やつがれが気弱なばかりに大それたことを仕ってしまいましたのじゃ。大殿様の仰せゆえ、拒めば命はないものと、いいえ詭弁ではござりませぬ、御匙師なれば仰せに従わねば……それに双子は、双子の因果の性ゆえ、いいえ、昔からの言い伝えでございます。双子は鬼の子育たぬ子とも下世話でも申しまする。大殿様はいたくお気落し遊しまして、本藩はもとより大公儀への聞えも憚りある、一人間引け、と……」

 二十数年の間、胸のそこにしこりとなって凝固していた(つか)えを一気にさげるように、縷々として告白した。

 邦稙は黙って、饒舌るにまかせていた。怒りはなかった。事実を知りたかっただけである。

 角屋の与助からきちの遺言を聞いたときから怒りは消えていた。嬰児がヒキツケをおこして死んだあとの涙がかわかないうちに稲田家からひそかな頼みで、辰次郎の乳人となった、という。亭主の与助は、惣七に言い含められて「離乳れするまで」別居を余儀なくされたのである。

 秘密は保たれた。与助もきちの臨終まで、この事実を知らなかったのだ。弥三右衛門が迎えに来たときも、九郎兵衛がお乳人に逢いたがっているから、という口実を信じた。大名と御用達との間の不文律は烏牛王(からすごおう)の誓文以上だった。惣七ときちは、大坂商人の律儀さで秘密を守った。与助も、邦稙と同じ二十数年間ツンボ桟敷に置かれていたのだ。

 弥三右衛門の名が出た以上、筑後のすじと見て間違いない。邦稙がかれを大坂にとどめてきたのは、このためだったのだ。きちはしかし単純なお末の奉公人にすぎなかった。町人の娘が箔をつけることといえば、屋敷上りの肩書きだけである。御殿奉公は一生無期限のつとめだが、お末ならば、いわゆる行儀見習いで一期半期の奉公ができる。きびしい躾けを受けた上に、大坂者の律儀さが、主家の汚辱を洩らさせなかった。多くを知ろうとしない。したがって、双子のことも知らなかったのである。

 ただ、気がついたのは、赤い紐痣。天神の森が大坂城の天守を遮ったあたりの隠宅に連れてゆかれて、はじめて辰次郎を抱いたとき、その赤いみみず腫れは強烈すぎた。

 広沢久庵がその場にいた。何やら膏薬を塗る手つきに医者のそれではない、心のこもりかたが異様なほどだった。膏薬は毎日とり代えた。ほとんど、付きっきりといってよかった。まるで父親のように{きちの表現をかりれば母猫が子猫の傷を舐めてやるような}久庵の手厚い看病が、嬰児の傷も治した。(ひる)のような傷痕をとどめて。

 きちの印象に鮮明だった久庵の態度は、遺言として与助の口から聞いたにすぎなかったが、邦稙にひとつの想定を与えた。

 とにかく、かれが今日生きていることは事実なのだ。久庵への怨みは感じなかった。幼時の暗いねじけた日々をいとおしくふりかえる余裕はある。あの冷たい孤独の原因が、この赤痣に所以(ゆえん)することは疑いない。

 風の音ははげしかったが、吹きつける雨は少くなったようだ。いくらか空は明るくなっている。その中で平伏している老医者の姿はみじめな罪囚だった。

 

「──父上が仰せられたのか、間引け、と」

 邦稙は疑問の一つを口にした。

「兄上ではなく、わしを?」

「は、はい……双子は、その、先に生れたほうが弟御ということゆえ、その、つまり、お胤のあとさきでございます。されば、兄君を生かして、弟君を」

 なるほど、と邦稙は頷いた。他人事のような顔になっていた。

「そちは御匙だ、なぜ一服盛らなかった?」

「できませぬ。できませなんだ。医は仁術でござります。薬の調合はしても、毒などは」

 ふいに絶句した。こめかみに青い筋が、みみずののたくるようにうねり、あらい喘ぎで肩が波打った。

「和子のおいのちをちぢめ奉りし後は、この身もお後を追うて詫びつかまつる心算でございました。恐れ多くも、紐を、お頸に……」

 邦稙は頸をなでた。息苦しく感じた。まるで、いま、締められているような。気のせいだ。しめきった室内の空気は重く、ムシムシしてきていた。

 いのちには、その生れた星の強さ弱さが作用するのか。忌まれた双生児の首にかけた紐を引きしぼる手が、罪悪感で顫えたせいもあろう、泣き喚く声が耳を刺したためもあろう、目をつむって引きしぼった手がすべった。二度目にはきつくしめたとたんに、泣き声がやんだ。死んだ――と思わず紐を離すとぶつぶつと口から泡を吹き、それから、また思いだしたように泣きたてた。その紐のあとが、やわらかい嬰児の頸を擦り、血を吹いたのも久庵の良心を責めた。地獄の(むち)であった。

「もはや、お手打ち仰せ出されようと、久庵にはできませぬ」

 久庵は覚悟の(ほぞ)をかためたという。

 わが子の強靱な生命力には稙乗も呆れた。

 間引きを中止したのである。公けにはできない。その処置を筑後と弥三右衛門が引き受けた。乳のあまった女──御用達で口の固い女。稙乗のお手つきという辻褄のあう条件で白羽の矢が、きちに立ったのだ。

 兄甲太郎よりも二日おくれて生れたことにしたのは世嗣の問題を紛糾させたくないからである。男児をもうけたお腹様が、必ずお部屋様としての優遇を受けるとはかぎらない。稲田家のような立場では、大名並みの高禄でも本藩に対しては家臣だ。継嗣問題でもお伺いを立てねばならぬ、稙乗が隠宅に囲うといえばそれまでである。

 こうして乳離れしたとき、きちの役目は終った。きちは与助のもとへ帰り、辰次郎は蔵屋敷に移された。双生児を忌むがゆえの喜劇は終ったかに見えた。

 だが、久庵に関するかぎり終ってはいなかった。邦稙の成人の速度とともに、久庵の殺人未遂の罪は重みを加えていった。筑後がそれを思いださせたのである。

 慶応元年初夏。久庵はまたしても、その言葉の重みに苦しまねばならなかった。

「お家のためだ」

 こんどは稲田家だけではない。「阿波二十五万七千石に及ぶ藩士の運命がかかっているのだ」未遂に終っているが負い目がある。邦稙には知られたくない。稙誠を抹殺することがしかし、その手にかけた邦稙への贖罪にもなる。冷飯の境遇から一躍大名格。

 邦稙をして九郎兵衛を継がせることはむろん陰謀のうちである。久庵は筑後の脅迫を拒みきれなかったという。久庵の調合した毒物で、稙誠は悶死した。

「──そちが、盛ったのか!」

「いいえ、やつがれは薬包をお渡ししただけでございます。どなたがお奨めしたか存じませぬ。いやいや、かように申したとて、罪を逃れようとはさらさら思いませぬ。この手が調剤いたしましたる以上、やつがれが殺し奉ったも同じこと」

 何がこの告白をさせたのだろう。邦稙の寛大な態度か。風雨に閉じこめられた真昼の闇か。二十数年、担ぎ疲れた罪の重さか。

 間引きの失敗から語り継いで、まるで何かに憑かれたように、久庵は稙誠一件までずるずると告白してしまったのである。

 

 話し終ってから、久庵はその罪の重さに打ちのめされたように、身をふるわした。

「お手討ち……願わしゅう存じまする。父も祖父も、御当家に医を以って仕えましたる者三代目のこの身が、この手が、毒物を弄びて……御主を害し奉るなど、わが身が、この手が信じられませぬ。魔がさしたとしか、いや、それも一度ならず、二度も、やつがれはよくよく、鬼……」

 突然、その繰り言をはじき飛ばすような高笑いが、澱んだ空気をゆすった。

「よせ久庵。もうよいわ、はははは」

「な、なにをお笑い遊ばします」

「世間では淡路の者を何というか存じておるか」

「は?」

「淡路の(ねじ)り嘘、というぞ。まことに久庵そちは捩り嘘だの、この二十五年間、よく嘘をつき通したな」

「恐れ入り……」

「まあ、よいわ。せっかくつき通した嘘だ。この上ともつづけることだ。わしに打ち明けたことは誰にも洩らすまい。筑後はあのような男だ、そちが秘密を洩らしたと知ったら何をするかしれぬ。そちいちにんにとどまらぬ、奥の身に及ぶことも考えられよう」

「お手討ちを」

「忘れろ、と申しておる。わしの頸のことも兄上の毒殺のことも、すべては上意を否めなかったためじゃ。そちの忠義、咎めもなるまい」

 思いがけない寛大な言葉に久庵は感泣した。

 老いの眼を泣き腫らしながら退出したあとも、邦稙はひとり暗いなかに坐っていた。サーッと吹きつける雨の音がしだいに強くなり風の唸り声も無気味に頭上を奔った。どこかで柴折戸があおられているらしい音がしている。咽喉が渇いていたが、邦稙は鈴を鳴らそうともしなかった。

 久庵の告白を聞いているうちに胸に浮んだ想念がある。ふつふつと泡立ち、胸を浸してひろがったその想いは、漠然としたままで音を立てながら、かれの裡で渦を巻き、たけり狂っていた。渇きはあるいはその黒い渦巻のせいかもしれない。座敷をとりこめた暗さが、風雨のせいばかりではなく、夜のいろを濃くしてきたころ、邦稙は漸く膝を起した。

 嵐はますます激しくなっていた。この激しさでは城下にかなりの被害がでるだろう。そのときになって兄稙誠が悶死した日も、嵐の夜だったと思いだした。偶然の符合をふしぎなものに感じていた。

 

      七

 

 政治はまだ混乱の渦中にあった。

 三百年にわたる制度が覆えされたとき、ただちにそれに代るだけの政治力を、新政府が持ち合わさなかったのは、異とするにたらない。がっしりと根を張った天下を覆えすのに精一杯でその後の青写真を作って置くだけの余裕はなかったのだ。あふれるほどの抱負と自信だけが、革命の英雄たちを動かしていただけである。この英雄たちの若さは、屡々、大いなる矛盾を平然と行い、それは朝令暮改の典型となって、混乱をよりふかめた。

 徳川幕府の強固な組繊が藩屏(はんぺい)によって支えられていたのはいうまでもない。新しい政治形態のためには、まずその旧体制を打破することが必要だった。幕府の大政奉還から列藩の版籍奉還までは一年半以上かかっている。廃藩置県が完遂されるまでに、さらにまる二年の歳月が必要になるのである。

 もっとも旧幕領、賊軍の旧領に県制を敷き知県事を置いたのにならい、新政府に媚びて早くから廃藩置県を請願したところも幾つかある。だが多くは藩主は知藩事となって指示通りの職制の改革をしかたなしにやっていただけだ。藩治職制では従来の仕置年寄を廃し執政、参政、公儀人及び家知事を置くこととなっている。おおざっぱに言って家老、中老{または年寄}、御留守居の名称が変っただけだったが、追打ちかけるようにして、本城は公庁として総政、民政、会計、軍政の四局を設置すべしという。

 従来、各藩を支えてきた伝統を叩き崩し近代的な統一をはかったのである。ついで禄制について内示があった。これは先に発表された官位職制の改正によるもので、大蔵省の出した官禄定則に準じたものだった。

 すなわち家老以下の秩禄(ちつろく)を定め、藩士の家禄を一歳購入十分の一に削減。

 いうまでもなく藩士の収入も十分の一にしたのは残余は新政府財政に吸いあげるためだ。地方に跋扈(ばっこ)した権力を制限することによって中央集権の実をあげる手段であった。

 家老一等で千二百石を上限とし、中老級が二等で二百石、物頭格が三等で百石、平士は四等で五十石。すべて現米支給となっている。

 この内示は、藩士の秩禄改正の細目が発表されるまで部外秘として置くべきものだった。が、なぜか九郎兵衛邦稙は弥三右衛門や筑後らに見せ、困ったこ

とになった、と洩らしている。須本城下の動揺は尠くなかった。

 激流をようやくくぐりぬけて、危ういところで勤皇へ鞍替えして、ほっとしたのもつかの間、十分の一に切り下げとは。

 薩長土肥四藩のいわゆる純粋勤皇藩の功臣たちは多く官についた。栄達は腕しだいとなった以上、地方の士族の権勢は政治の隘路となるだけだ。地方権力はもはや必要ではない。新政府のこうした態度は淡路の武士を反発させずにはいなかった。

「──十分の一の収入でどうやって生きろというのだ」

 不満は百八十人ほどの士族の間から起った。その忿懣はたちまち二百三十余の卒族にゆきわたり、その他の奉公人、家族たちに波及した。

 およそ二千の老若男女が、稲田九郎兵衛の知行一万四千五百石のうちで生きてきたのだ。それがたったの千二百石に減知。

 岩屋や由良の砲台の建造や警備の費用も大変だった上に、保守佐幕の印象を払底させるためには、勤皇の実をあげねばならなかった。銃士隊の装備も稲田兵がもっとも整っていたが、その銃器、軍装、旅費これら戦費で財政は底をついている。本藩内部では二十五万七千石の表高に実収が四十万石からあったのだから、余裕はあるし融通のつけようもある。藩士も郷士原士は別にして士分二千卒三千にすぎない。この人数から見ても淡路の士卒は多すぎるのだ。特殊な島の事情もある。代々の九郎兵衛が、家臣を(いつく)しみ、自然増加の分家に恩情をかけすぎたのであろう。

「──騒いでおるようだな」

 ある日九郎兵衛邦稙は言った。あの嵐の日から二月あまりのちである。

「ますますひろがるばかりです」七条弥三右衛門はあらわに眉根を寄せて、「われわれの手ではもはや圧えかねまする。きついお叱りがありませぬと、何をしでかすやら、計り知れませぬ」

「騒ぐのも無理はない。新政府の方針が無理すぎるのだ」

「さ、そこが……お言葉をかえすようですが朝旨とあれば逆らえませぬ」

「無理が通るか」

「いまさら賊軍になるよりは。もはや博奕を打つ(とき)は過ぎましたれば。いまここで騒ぎたてては不利でございましょう」

「どうしろと申すのだ。騒ぐ者を、片っ端から斬るか」

「いや、それは」賀集百助があわてて口をはさんだ、「ちっとばい増長(つばえ)とるだけで。そんでもかれらの言い分一理がございますでの」凝っと上眼づかいに見る。下三白眼である。

「戊辰の戦さにおいても勲功あった御当家を、他藩と同列に扱っての知行制限は片手落ち。新政府でお見落しであろうから、陳情書を奉るべし、とかような意見も耳にしましたが」

「考えておこう」

 それきり邦稙は背をむけた。

 腰で手を組み、悠然と菊の間を歩いている。その背はひろく、頸のふとさもどっしりした自信に満ちて、とても二十六歳の執政には見えない。若い体力ヘの自信と、政治家の信念の強さが、渾然としてその肩幅を巌のように見せている。とても歯が立たぬ、と百助は思った。かれらの言葉では動かせない。押しても引いても泰然として動かない。

{いつの間にあんなになられたのか}

 弥三右衛門は呆れるような心持で引き下るよりなかった。

「いったい何を考えとりなはるのか、一向に解せんて」百助は庭木戸を出ながら言った、「おぬしは傳役で幼少よりお育てして、御気性も呑みこんでいるはずやないか」

「そのつもりだったがな、わからぬ」

 弥三右衛門にもつかみようがない。ただのねじくれではなくなっている。複雑な性格を一口では説明できなかった。少年から青年へ成長してからも変ったし、家督してからの四年と数ヵ月。かれの理解とは遠いところで成長し、老成した感じだった。霧の中から、雲の中へ。腹立たしいが、まるっきり邦稙の心の中はのぞけない。

「かいだるいことや。何を考えているかわからへん。怪体(けたい)の悪い」

 百助は辻で足をとめ、ふりかえった。

「行こ、行って相談ぶと、筑後どのに」

 下三白眼が隠微に光っていた。弥三右衛門はその眼の光を、いつか見たような気がした。

 五年前──本藩では殿{稙誠}の勤皇走りを阿波を亡ぼす、としつも

ない{大変な}滅相者というてござる、と言いだしたのはこの男だった。そのときも暗い情熱をたぎらせた眼をしていた。煽動者の眼だった。筑後も弥三右衛門もその眼に魅入られたことを否定できない。

 

      八

 

 淡路須本の騒ぎが徳島城下へ波及したのは師走に入ってすぐのことである。

 そのきっかけは太政官布告による、士族禄制綱目にあった。

 ──知藩事ニ被任、随而家禄之制被為定、藩々ニ於而モ維新之御政体ニ基キ、追々改正可致、就而中下大夫以下之称被廃、都テ士族及卒ト称、禄制被相定候。

 禄制二十一等に分ち士族は十八等に止められた。──旧来同心之輩ハ卒ト可称事、とあり、卒ノ元高八石ニ満ザル者ハ是迄通之事。

 これが最低給付だ。この禄制は万石以下の細分で、万石未満九千石迄は現米二百五十石、から四十石未満三十石迄が八石。

 当然、藩士たちは動揺した。新政府に対する怨嗟の声が湧きおこった。それに拍車をかけたのは稲田の家来たちである。

 徳島藩士から見れば稲田の家来は陪臣だ。同列には見られたくない。という距離を置いている。稲田のほうではそれが面白くない。その鬱憤は代々のものだ。

「いまこそ、阿淡一体となって新政府に翻心を迫ろうではないか」

 普通なら、何を陪臣風情が、と一蹴されるところだ。が、前にも述べたように稲田の兵の功績は阿波銃士隊とは別な評価を受けている。扱いとしては支藩にひとしい。すでに新政府に登庸されている者もある。主客顛倒のかたちだった。主導権を握っていた。それが本藩の因循な連中には面白くない。もともと保守的な空気は強いのだ。本藩の禄制改革に対する態度がひたすら柔順派が大勢を占めたのは陪臣に引きずられてたまるか、の意地も作用している。

 上田甚五左が目通りを願って居ります、と取次の者が怯えた顔で訴えるように言ってきたとき、邦稙は井戸端でからだを拭いていた。{来たな}と、思った。

 れいの日課の朝駈けをしてきたばかりである。湯殿には入らぬ。この車井戸は庭樹のためのものだが、水は冷たく、爽かなのでいつも肌を拭く。

「庭へ通せ、それでよければ、だ」

 盛りをすぎた菊が撩乱と咲いていた。厚物、一文字、太管と目も綾な菊の鉢は五十数鉢。家扶の佐平という老人が丹精したものだ。稙乗の代から四十年近くも、作りつづけている。馥郁(ふくいく)とした香りに惹かれるわけではない。邦稙はこの菊花の持つ妖しいばかりの花弁の妙にいのちの逞しさを感じるのだ。厚物のぼてりとしたあつみのなかの柔軟さ、いまにも折れ千切れそうなくせに、ぴいんとそりかえって細管の繊細さのなかのふてぶてしい自信。それらが奇妙な調和を示して、咲きほこっているさまには、人間をたじろがせるものがあった。邦稙の心にある修羅はむらがる菊の中でむしろ荒々しさを加えていくのだ。菊は表面何も語りかけようとはしない。芳香を(おし)みなくふり撒き、美しい姿態をあらわに見せていながら。それはそのまま登世に共通していた。

「執政! 上田友泰でござる」

 気負った声がした。中門の網代戸をおして壮年のがっしりした体格の男が入ってきた。

 背は低いが肩幅がひろい。角ばった顎骨ががくがく音をたてているのは、この男の激昂をあらわしている。

「おお、早いの」

「執政、さきほどはお道すじにて声をおかけしたのに、そしらぬ顔をなされるとは、ひどいお方だ」

「ほう、そうか気づかなんだ。霧が濃かったせいかな」

 馬上に声をかけるのは非礼になる。それを咎めたら、逆に噛みつこうと勢いこんできただけに、軽くいなされて上田友泰は焦立つばかりだった。

 上田甚五左衛門友泰は稲田の家来ではない。知行五百石、銃士隊の総長だ。八丈実記によれば、軍学ハ勿論、和漢ノ学ニ通ジ、西洋書ニ熟練シ、剣道ヲ得、柔術ノ奥儀ヲ極メ、和歌ヲヨクス云々といささか並べすぎた感があるが、因循姑息な阿波藩にあって稀に見る人傑、無欲恬淡と薩摩の海江田信義もみとめている。戊辰には気鋭の銃士隊を率いて大原参議重朝に従い横浜鎮撫の実をあげ、さらに会津征討にも加わった。東北平定の後、江戸城八門警備を全うし、朝廷から労をねぎらわれ、阿波守は加増を受けて慰労金を下賜されている。執政と雖も、こうしたあしらいにはできないはずであった。

「このたびの禄制について異な話を耳にしたゆえ、お伺いにまいったわけでござる」

 気をとりなおして友泰は突っかかるように言った。

「藩士の一部には不穏の気配がある。この連中をそそのかしたのは執政だという噂があるのです」

「わしがか?」菊から目をあげてじろりと邦稙はふりかえった、「知らぬ、な」

「御存知ない? されば御家来衆の騒ぎも御存知ないと仰せられる」

「当家のことは知っておる。四百人を千石で賄うことはできぬ。無理が生じたひずみであろう。五合桝に一升の米は入らぬ」

「その是非は、それがしの言及する限りではありませぬ。問題は、稲田家の騒動、反抗が本藩へ及ぼす影響でござる。三田、七条などは本藩の有志を募り、銃士隊一大隊を中核にして、陳情に上京すれば事態は好転するなどと檄を飛ばしていることも御存知のはず。執政より、きつい御叱責なければ狂うた放れ駒だ。どこまで大事を惹起するやもはかり知れませぬぞ」

 邦稙は厚物の上を這う小さな虫をつまんでいる。

「さしたることはあるまい」こともなげに言い放った、「騒ぐだけ騒げばおさまる。騒ぎ疲れてな、小児と同じだ」

「そんな! 執政のお言葉とも思えませぬ。新政府では何か事があれば、とり潰そうという肚裡なのだ。執政がそれに気づかぬはずがない。二十五万石の危機が……」

 激昂した友泰の袖が花弁に触れた。ほろりと一片がもげた。ゆらりと宙でひるがえって黒土におちた。

 さすがに友泰は口をつぐんだ。かりにも歌道を学んだ男である。花弁を蔑むまでには心の屈折が要った。その隙を衝いたように、

「言いたいことはそれだけであろう、帰れ。そちは二十五万石の心配をいたせ、わしは一万四千五百石の心配で頭が痛い、鉄砲傷が痛む」

 その言葉は、そのまま怒りにふるえる友泰の口からひろめられた。

 

 噂というものはひろがっただけ(しんにゅう)がかかり、尾鰭がつくものだ。異常な関心事の場合はさらにはげしい。はげしい響きを邦稙の言葉は確かに持っていた。

「稲田九郎兵衛は阿波藩のことなどどうでもよいと申したそうな」

「執政の重責を捨てる心算だ。淡路さえあればよいと言ったそうだ」

「淡路一国をおのれのものにするつもりだ。七万石を横領する気だぞ」

 日ならずして藩庁に提出された歎願書がある。稲田九郎兵衛の署名のものでこのたびの禄制が陪臣の扶養かなわざるを述べ、稲田家は特別の家柄であり、東征にも功績あれば知行に考慮ありたく、尚、従来通りの家臣を抱置くについては扶持米として一括下賜ありたい──という内容だった。

 これはさきの禄制布告のうちに、──其家来共三代以上相恩之者ハ、相応之御扶助可被下候間、姓名並ニ従前之禄、扶持米等取調、早々可申出事、但旧主ニ於テ扶持致シ候儀ハ可為勝手事。とあるのに拠ったのである。

「身勝手ばかり(ほざ)きよる。増長(つばえ)るのもたいがいにせい」

 囂々(ごうごう)の非難が徳島城下にあがった。この声は木霊(こだま)のようにはねかえると、むしろ待っていたように、稲田の家来たちは気勢をあげた。

「陳情が聞き入れられねば、分藩独立も辞さぬ」

 分藩独立!

 燎原の火のように、この魅力的な言葉はひろがった。陪臣と蔑みの眼で見られていた連中にとって、この言葉ほど救世主の御手を感じさせるものはない。版籍奉還の次には廃藩置県がくることを当時の渦中にある人々が知らなかったとしても不思議はない。九郎兵衛邦稙もそうであろうか?

 分藩独立の声が須本の城下に浸潤したあと、邦稙はこれに肯定の命令を伝えている。

「一万四千五百石か、七万石の分藩かだ。どうがこうでも勝ちとろうぞ」

 どうがこうでも。この言葉が合言葉のように人々の口の端にのぼって団結心を固めていった。

 主君九郎兵衛がその気ならと日和見していた連中も分藩論に傾いた。

 筑後はしかし、(ほた)えすぎる、と眉根に深い一本皺をきざんだ。

「ひとつ間違うと大変なことになる」

 本藩と戦さになるか、謀叛、騒擾ということで新政府の兵隊が乗りこんでくる。戦えば賊軍になるだけだ。どっちにしても、いい方向とは思えない。だが、もはや点火された野火は筑後の手では消しようもなくなっていた。

 筑後は有栖川宮家に宛てて苦衷を訴えた。

 陪臣でこんな大所帯は珍しいケースだ。一律な法文にはあてはめられない淡路の特殊性を強調して何分の御仁恵を仰ぎ奉る、とした。これ以上、騒擾が大きくなっても、この苦衷は同情の眼を惹く。筑後も百助も、えたいの知れない若執政がそら恐ろしくなってきていた。

 

 そんなある日だった。登世が、はじめて倒れたのは。

 騒擾が大きくなってからの邦稙は、筑後たちが眉をひそめたように、たしかに変った。

 本藩からの抗議や過激派の連中が稲田藩の旗印を染めて持ってきたり、徳島では銃士隊が集って武器蔵から弾薬を奪取しようとして咎められたとかそんな話が伝ってくると、覿面(てきめん)に邦稙は昂揚した。戦さ好きというのではないらしい。騒擾のてごたえが確かなほど、かれの感情を刺激するようであった。

 それは登世との交接で、もっとも明白にあらわれた。

 大藩の執政という(かみしも)をかなぐり捨てて、まるでけものに還ったような荒々しさでふるまい、それまで見せなかった愉悦に浸るごとに彼女もまたからだの芯から熱湯が吹きあがるような快感をおぼえた。まるでそれは、初夜から夜ごとに漸増していた喜びを、継いだもののように、この歳月の空白が埋められていった。

 きちの出現によって中断され、ずっとその空白はつづいていたのである。空白とは感じなかった。夫婦の仲というものが、それだけのものとしか思えず、不平も不満もなかったのだ。その喜びを知ったとき、陶酔の中で登世は空白の歳月の損失を、腹立たしいよう思いで振りかえっているのだった。

 しかし、登世の知った情欲の酔いは、あくまでも女体の芯から温かくうねりがはじまり、燃え、終る。合歓という文字の意味も表面のそれでしかなかった。眠っていた官能が眼ざめたというか、それだけのことだ。

 こういうふうになってから、邦稙は暁闇の早駆けをやめた。夜半を情念のままに惑溺する。まるで登世のからだが生れ変りでもしたように、飽きなかった。

 そうしながら、ふたりは甘い囁きや、喜びの声を合わせることがなかった。めいめいが勝手に、燃えて、愉しんでいるにすぎないのであった。邦稙の誘い導きが巧緻に女体を燃えたたせても、そして、じぶんのものではないように、密着した部分が生き生きと男に応えると、一層、登世はそのめくるめく五彩の雲の中に没入するだけだった。

 白々あけの爽やかな涼気がどこやらから忍び入って、眼がさめたとき、登世は夫の胸に抱かれて熟睡していたのを知る。あわてて、身を離すのだ。男の強い体臭がけがらわしいものでもあるように、不快な表情になった。

 白昼の登世の態度は、以前の彼女と違いはなかった。夫にむける感情のない眼も、突き放すような言葉遣いも、変わったところはない。

 だが、知り初めた肉慾の執着は否定しようもなく、真昼でも登世のからだの奥でどうかすると発酵することがあった。すると動悸がはげしくなり、その生臭い()えたような匂いは口の中いっぱいにあふれてくる。手足の痺れさえおぼえて、恍惚に浸っているじぶんにはっとするのだった。

 その日のことも、あとから考えてみれば、官能と無関係ではなかったようである。

 寒い日で登世は行火(あんか)に入り、かたえに手焙(てあぶ)りを置いて鼓を聞いていた。部屋の中には温気(うんき)がこもり、頭の芯がズキズキしてときどき眼がかすんだ。こう寒いと猫も外へ出るのが嫌なのか、行火の裾でじゃれている。シャム猫のつがいである。原因はこの猫だった。腰元のお作がマタタビを運んできた。

 黒塗り蒔絵の蓋物で湿気を呼ばないように二重筒で精巧に出来ている。そこらに置いておくと飾り棚でもひっかいたり、食い破ったりするので瓶に入れておき、一々運んでくる。このときも小皿にわけようとして蓋をあけた。すると待ちかねた牡猫がふいに腕へ飛びついてきた。凄い勢いだったので、お作はあっと蓋物をとりおとしてしまった。

 マタタビの粉末がぱっとぶちまけられたのだ。一部が手焙りの金網から炭火におちた。もやもやと紫煙が立った。焦臭い、だが奇妙にくすぐったい臭いである。

 シャム猫たちは、るるッと咽喉を鳴らせてその粉の山にとびおりた。とめるひまはない。からだをこすりつけ、べろべろ舐めまわり、四肢でかきみだし、ごろごろ転って抱きあげようとすると爪でひっかく。おとなしく可愛い日ごろのシャム猫がどろんとした眼になって喜悦に悶えているさまは、異様な眺めだった。鼓を打っていた女も、手をやすめ、みんなが唖然としておろおろするばかりだった。

 登世は衝撃をうけていた。ぎょっとしたように瞠目し、息をつめた。

 からだじゅうマタタビにまぶされ、毛をふるわしてのたうつシャム猫の、のけぞるのどのあたりから腹へかけてのうねりが、妙に官能的だった。猫のからだの温かさと、毛並みの感触が、ふいに胸をしめつけた。

 温気が夜具のなかを思わせた。ぎゅっとからだを堅くした登世は、邦稙に抱かれているような錯覚に陥った。その猫の毛のこまかなふるえが、ちぢれた胸毛や腹からふとももにかけての剛い毛に撫でられたような妖しい感触で眼の中に虹が走った。そしてちかごろとっぷりと手重に感じだした乳房の下にも、汗が吹いていた。

 脳裡を矢が走った。目をあけていられないような痛みだった。思わず目を閉じると二匹の猫の狂態が瞼に残り、それは黒い影となって脳の中でからみあい、はねまわった。

 脳髄をかき乱されるような痛みに思わず呻いて、

「息苦しい……」

 行火から出る。とたんに目まいがした。足がもつれ、褥につまずいた。支える手をはらいのけたのは、若さの自信だったが、そのまま崩れるように倒れた。

 稲田屋敷は大騒ぎになった。

 女たちは狼狽し、床をのべ、久庵へ急を知らせる。邦稙に知らせる。邦稙のもとには筑後や百助らが集って岩倉具視へ歎願書を作製しているところだった。

 久庵は孫娘のからだについては、誰よりもよく知っている。既往症を思いだしながら、人を遠ざけ熱心に診察した。

「どんなぐあいだ。よほどに悪いのか」

「はあ、どうもよくわかりかねますので。炭火にアタったのかと思いますが、納得のいかない点もございます。暫く安静にして様子を見ませねば」

「名医でもわが子の病気には診立(みた)て損ねると申す。誰ぞに診せるがよかろう、徳島の伊吹良甫、向坂了伯など……」

「さあ、かれらでも」

 深刻な顔で久庵は沈思した。同業のいたずらな毛嫌いではない。愁わしげな老医者に、

「それではこういたせ。二三日うちにわしは大坂へ上る。太政官の支庁へゆくが医学所で診察して貰う。そちも聞いていよう、長崎のボードインという名医な、こんど大坂へ来た。わしのついでに登世も診させよう」

「ボードインならば如何なる難病も」

「わしのも難病と申したな。医者と味噌は古いほどよいというが頼りにならぬの」

「恐れ入りまする。老骨の不甲斐なさに、わが身が厭わしゅうてなりませぬわい」

 

      九

 

 稲田九郎兵衛邦稙が登世と旅をしたのは、この大坂行があとにも先にも一度きりだった。二人きりではない。医師広沢久庵が付き添った。他に従者は七条弥三右衛門、お作ら男女が五人、同行八人である。

 太政官支庁で分藩独立の趣意書と、歎願書を提出した足で大坂医学所にまわった。

 大坂はここ一年ばかりの間に目ざましく発展していた。神戸につづいての開港で、あらたに安治川の川すじを変えて波止場をつくり外人居留地を作り、異人館が続々と建っていた。

 大坂医学所の主任は大医ボードインである。長崎時代から、神様扱いされている名医で診察も近代的に進歩したものだった。

 邦稙の古傷をしらべてから、登世を診た。診察にはかなり時間がかかった。そのあと、登世は手術を受けている。古臭い漢方医でも久庵が付添っていることで、ボードインは執刀も気楽だったのだろう。頭皮の一部を切りひらく思いきった手術は、久庵には願ってもない腑分けの勉強であり、それは孫娘の完全治癒の近道にちがいなかった。

 四日後、登世は蔵屋敷へ戻ってきた。

 須本へ帰ったのは半月の静養の後である。

 その間、ずっと久庵が付ききりだった。傲慢尊大なボードインだが二度も往診しているのは治療費に糸目をつけなかったからだ。

 その効果はあったらしい。須本へ戻ってきたとき、登世は人が変ったように、はれやかな表情になっていた。後頭部を切開したので傷痕は残ったが、髷で隠れる。

「お変りなされた」

 誰もが、そう言った。

 好意的な噂だった。あの冷たく硬い表情がよく笑うようになったことである。美しくはあったが、険のあった切長の眼が温みをもって、腰元たちにもいたわりの言葉をかけるようになった。

 居間の明り障子に影をおとす位置にみごとな紅白の老梅が枝をのばしていたが、別書院に活けるため腰元が一枝折りとった。

 何気なく見ていた登世が、

「おお、痛い!」と、口走ったという、「可哀そうに……」

 柳眉をひそめて、いたましげな表情だった。

 そんな哀憐(あいれん)の情も、嘗ての御方様には見ることのたかったことである。

「よかったな、大坂へ行ってほんによかった。これで分藩お聞きとどけになると、稲田藩万々歳じゃ」

 屋敷の者たちは、一陽来復の春を期待して喜びあっている。

 まるで、ボードインの解剖刀(メス)が登世の頭に巣喰っていた悪性の癌を摘出してくれたようであった。久庵にむかって、そんな意味のことを言う者さえあった。

「さすが天下の名医だわの。おぬしも執刀に立ち合ったとあれば、脳病の腑分けは出来るようにならしゃったろ」

「いやいや、とてもに及ばぬところでござる」

 医をもって数十年を経ながら、その足もとにも及ばぬ貧困な知識と技術が自信を喪失させてしまったのか。登世の明るさに反比例して、久庵が暗くふさぎこむことが多くなった。

 憔悴が老いをふかめ、老人特有の黒いしみが急にいくつも目立ってきた。いつも考えごとをしていて、道ですれちがっても、知人が声をかけるまで気づかぬことが多い。

「お殿様の鉄砲傷はどうなのじゃ、心配なことよの。毛唐の手術は御方様だけじゃったというが、お殿様は妙薬で治りなされたのか」

 否とも、応とも、久庵の返事はなかった。

 ただ暗い眼になり、唇をふるわせて、

「わしがもちッと若けりゃのう、みっちり勉強して、万病を治せるような医者になって……口惜しいわい」

 その言葉は質問者には要領を得なかったが、もしも、登世の耳に入ったら、理解できたにちがいない。

{せめて、あたくしが……}

 登世は夜ごと、そう胸で呟く。

 彼女の変りかたを、もっとも強く、嬉しく感じたのは邦稙のはずであった。

 あの驕慢さ、冷やかさ、石のような固さがとれ、登世はやわらかく、なよたけの愛らしい女に生れ変っていた。

 情欲に酔い、淫楽に溺れても、夫の心のなかに溶けこみ、ひとつになる喜びを知らなかったのが、帰国して以来、甘えることの楽しさを知った。しかし、それも、始めのうちは演技だったのである。

 帰国の船の中で、久庵が真剣な眼ざしで囁いたのが、原因だった。

「秘密じゃ、絶対に、いかなることがあっても他言してはならぬことでござる。よろしいか、お殿様は……死病なのじゃ」

 

 名医ボードインが言明したという。

「おそろしい不治の病いでの、脳の中に腫物が出来ておる。えぐり出さねば治らぬ。場所が悪くて刀を入れることができないのじゃ、自然の治癒を待つほかはないが、まず十中八九、望みはないと言われる。手遅れなのじゃ、せめて一年早ければ、とな」

「どんなお薬でも……」

「利かぬ。診立てでは、早くて三月(みつき)、遅くとも半年で」

 胸がつまって、あとは言葉にならなかった。近づいてくる島かげに眼をなげている久庵のげっそりと削げた頬が、ひくひく痙攣(けいれん)しているのを見ると、登世も胸がいっぱいになってきた。

{九郎兵衛どのが死ぬ、夫が死ぬ……あと半年のいのち}

 はっきりと死ぬ時期がきまっているなんてこんな恐ろしいことがあるだろうか。

 登世の眼にある九郎兵衛邦稙は、常に健康な姿だった。何を考えているかわからぬ暗い翳った表情ではあっても、病人のそれとは違う。強いて言えば心の病気にすぎない。あの若く、皮膚の張りきった肉体が、すでに死病にむしばまれているなんて。

 信じ難い。嘘だ、と叫びたい。その衝動を感じたとき、登世ははじめてのように、人のいのちの尊さを識ったといってよかった。

 もしも、あの夜毎の愉悦を、いのちの陶酔を知らなかったら、登世の受けとめかたは、もっと淡いものだったにちがいない。生きていることの喜びが凝縮されたような、夜の一刻が、哀切に甦った。それは、寡婦を恐れる利己的なものではない。あの喜びこそ、ふたつの肉体の真の結合によるものだということを、悔恨を伴って思いだされたのである。胸をいっぱいにして哀しみは、熱い涙となってはふりおちた。

 登世の歔欷(きょき)にさそわれたように、老人もそっと袖で目を拭いた。

「泣かれるな、こなたが泣くと、やつがれまで悲しくなるわな、これも運命なら、しかたがござらん。これからの三月半年、楽しく生きることでござる。人の妻となっての女の楽しさは、和合しかない。一日一日を楽しく睦み合うてこそ、まことの生き方じゃ、何とぞして、この半年を六十年にも百年にも、生きて下され」

 そうしますとも。夫を愛して、愛することの喜びが、愛されることの喜びになって還ることを、はじめての夜に登世は識った。

 いのちのぎりぎりまで燃やして、白いけものとなって、官能の淵に溺れた。邦稙のもとめるままに、なめらかな背中を見せたのは、この夜がはじめてである。

 

 一日一日を、貴重と思えば、草木にも、空ゆく雲にも生命力の尊さを感じるのだった。

 世間の因習や視線に反抗的に白い目をむけて、無意味な闘争心で生きてきた半生の愚しさを、充実した時間のなかで、登世はふりかえる。夫のいのちが一日経てば一日だけ、二日立てば、二夜の愉悦が惜しみないものだったかと考えて、夫をふり仰ぐ妻になっていた。

 邦稙には死の影こそなかったが、凡人には見えないのだろう。本人も自覚はないようであった。ときどき、頭痛には眉をしかめる。トントンと頭を叩いているときがある。

 そんなところを見ると、思いだしたように登世も頭の芯に、何かが走りまわるような疼きをおぼえた。

{これが夫婦というものかしら}

 一心同体になったからこそ、頭痛まで同じだと、ひとりで笑った。

 邦稙は死期が迫ったなどと知らない。ボードインは、かれの頭痛は鉄砲傷と無関係なのではないか、と言ったのである。神経的なものだと思うから、気持をおおらかに持つのが何よりの治療と言う。ウイリスの意見も同じようなことだった。

 気持をおおらかに持つ。その必要を感じない。邦稙は、分藩独立の争いに、大いなる興味をおぼえている。分藩し得たあとの喜びではない。この騒動が巻きおこす効果こそ、かれの目的だったのである。

 だから、分藩歎願書を受けた新政府では鳩首談合したあげく、妥協案を示してきたがぽんと一蹴してしまった。

 それは稲田九郎兵衛以下家士を北海道静内郡と色丹(シコタン)島の開拓兵として移住させる。開拓が成功するまで従来の禄高とほぼひとしい一万三千五百石を徳島藩から拠出させるというのである。

 その使者に来たのは、れいの小室と立木だ。小室は信夫と改名して岩鼻県知事となっており、立木も兼善と勿体らしい改名で福島県権知事だ。九郎兵衛はかれらの肩書には驚かぬ。

「稲田家は、元和元年将軍秀忠公の命によって須本城代となっておる。この墳墓の地を捨てエゾなどにまいる気はせぬ。淡路にあっての稲田でござる。一万三千五百石、徳島より給付賜るならば、このまま頂きたい。それが出来ぬなら、そっくり淡路はわれらが治めましょうぞ」

 小室と立木は絶望して大坂へ帰った。蔵屋敷からこの報告が徳島へとどくと、藩士らは激昂した。殊に、上田に率いられる銃士隊がいきり立った。勤皇の実をあげたのは豈稲田一門のみならんや、奸物斬れ! 血の気の多い若者たちからこの声が巻きおこり、囂々(ごうごう)たる渦となって、徳島城下をゆすぶった。

 それらの情況も、九郎兵衛邦稙の耳に入ってくる。その勢いが盛んになるほど、かれの目的は近づくのだった。

 

 年が明けて明治三年を(けみ)し、その十日、冒頭にあげたように、登世が又、倒れたのである。

 

      十

 

 稲田筑後を主軸として、七条弥三右衛門、賀集百助、三田昂馬、内藤弥兵衛ら重役たちが奇怪な連体のもとに、邦稙に抵抗してきたが、分藩論では完全な思考の一致を見た。外敵生じて同胞の不和が治るというが、全くあさましいまでに、合致したのだ。その思惑が奈辺にあるかは、慾望に盲いた者にはわからない。

「そうか、わしを斬ると騒いでおるのか」邦稙は愉快そうに笑って、「こちらでも手をうってはどうだ。銃士隊の重だった連中を集めて人質にする」

「名案でございます。小隊長をぜんぶ押えてしまえば、烏合の勢です、ちょっと動けないでしょう、指揮者がいなくなる」

「身共が恐れているのは」あわよくば七万石をそっくり頂きと腹づもりしているだけに筑後は慎重だった、「こう騒ぎが大きくなっては、弾正台が黙ってはいまいということじゃ。騒擾鎮撫などと乗りこんでこられては、本藩ともども、お取潰しということになって、元も子もなくなるおそれが……」

(それが目的なのだ、本藩も稲田も、一緒くたに叩き潰されるがよい。双子でも人間の子だ、それを虫ケラのようにくびり殺させ、勤皇に走りすぎた兄を毒殺し……そうまでして守ろうとする大名の家名とは、何なのだ。他に儀牲を強いて守る幸福とは!)

 外道には外道の手段しかない。阿淡二十五万七千石を叩き潰し、外道の執念を味わせるにはこの方法しかなかった。

「──案じることはない」

 軽く、邦稙は言ってのけた。

「新政府の中には、阿波は佐幕と見ている向きが多い。これではっきりするわけだ。淡路のみが勤皇だったと。兄上の死の意味が、判然とするだろう」

 四人が思わず顔を見合わせたのである。

 本藩の老人たちは慎重派が多い。この騒擾が下手をするとすべてを失う結果になると判断して、淡路分藩をみとめようとする気配が濃厚になってきた。

 中納言茂韶はじめ執政参政連署して、稲田の勤皇忠誠をしたため、特別の御賞典にあずからせて頂きたい、ついには淡路を一藩として稲田知藩事のもとに独立するも苦しからず、とまで政府に歎願する挙に出た。

 重役たちはそうでも、若手がおさまらない。もともと佐幕派だった老人である。官軍の一隊で転戦した銃士隊の若者たちに主導権は移行しつつある。

「重役らが姑息なことをしている間に、九郎兵衛はじめ三田、内藤らを斬ってしまえ、五人の首を鮎喰河原に並べてしまえばケリがつく」

 銃士隊操練所では兵隊たちの脱走さわぎが起った。重役も捨ててはおけない。急拠銃士隊与頭と相談すると、稲田討伐はもはや圧えようがない。されば新政府に許可を貰ってやらせるが上策。という結論が出た。

 そこで代表十二名が選ばれた。銃士隊から四人、物頭格大村純安など三人、総政局検事角村十右衛門のほか碩学(せきがく)新居与一郎(水竹)などが討奸の趣意書を持って出発したのは四月の上旬であった。

 だが新政府では稲田に同情する空気が強い。やはり勤皇の実績が差をつけていた。小室立木の両使の不首尾が、上京組の活動を阻んだのである。岩倉大納言の御返事あるまで、謹慎しているがよい、という公用人の忠告で、じりじりしながら、一ツ橋の屋敷で待機するしかなかった。

 そうして五月に入って間もなく、稲田屋敷に、あの"死"が訪れたのであった。

 三日ほど雨が降りつづいた。まだ入梅には数日間があるほどだった。その証しのように、雨がやむと急に初夏の強烈な陽がさしてきて、陽炎(かげろう)がもえたった。このところ毎日のように機嫌伺いにくる久庵が、まずそれを見つけた。

 竜舌蘭である。花が咲いていた。長い茎の先端に枝を分けて淡黄色の花があざやかに目を射た。

 この竜舌蘭は、登世が徳島から運ばせたものだった。仙人掌(サボテン)や芭蕉と一緒に持ってきた。椰子だけはさすがに枯れたが、ほかのものはみんな根を張った。それでも竜舌蘭はめったに花をつけない。久庵にして声をあげたのだから、屋敷の中はちょっとした騒ぎになった。

 その日、登世は少し気分が悪く、入浴をやめようかと案じていたところだった。

「竜舌蘭が花をつけました」

 けたたましく、お作が知らせにきた。

「黄色い花でございます。あたくし竜舌蘭の花なんてはじめてでございます。御方様も御覧(ごろう)じられませ」

「ほんとうかえ、それは珍しい。わたしは前に一度……」

 お作に促されるようにして、庭へおりてきた。まだ庭土はぬかるんでいた。飛石伝いに四阿(あずまや)のわきへくると、久庵が女たちに何か言って笑わせていた。

 珍しくも誇らしげで黄色い花はさんさんたる太陽の下で、まぶしいほどだった。登世は眼をほそめ、「殿にもお知らせして……」

 言いさして、あ、と顔を蔽った。腰元の(かんざし)でも反射したのか。片手で眼を蔽ったまま、前へのめった。

 それが最期だった。久庵が抱きおこしたとき、登世の心臓は動きをやめていた。

 急を聞いて駈けつけた邦稙は呆然としていた。あまりにあっけない死。きらめく太陽の下で、白昼夢を見ているような登世の死であった。

 誰もが意外に思ったのは、久庵である。その場に居合わしたのが偶然でなかったかのように、平静な態度であった。

「久庵。どうしたことだ、薬も間に合わなかったのか」

「薬はございませぬ。半年前から、この日がくることを、覚悟しておりました」

「半年前? そのころから悪かったとは……信じられぬ。半年前と申すと大坂医学所で」

「ボードイン先生の刀でも、腫物はえぐりとれぬ、場所が悪かったのでございます。無理にえぐれば命とりになる。どうせ駄目なものなら、三月でも半年でも、(なが)らえさせようとそう申されたのでございます」

「すると、そちは旧臘から知っていたのだな、登世も……、いや、そんなはずはない」

 邦稙は首を振った。あれ以来の日々、あんなに楽しく、はじめて夫婦の愛をたしかめることができたのではないか。

「登世は、こう思うておりました、殿のおいのちが半年限りだと」

「なに!」

「この久庵、また嘘をつきましたのじゃ。この、悪い星の下に生れてきた姫が、孫娘が、不愍でなりませなんだ。我の強いねじくれ者に育った姫に、一度でもよい、まことの人の世の愛のすがたを、生きる喜びを、味わせて死なせたかったのでございます。そのために殿のおいのちこそ半年限りと、嘘をつきましたのじゃ」

「…………」

「お許し下さりませい、いんや、二度三度と重なる久庵の嘘、もはや御寛容ならぬでございましょう。お許し賜わろうとは願いませぬ。久庵は、お手討ちになろうとももはや悔いはござりませぬ。姫は、登世は、登世は法悦に浸って旅立ったのでございます。あの短い生涯でも、殿のお情けを喜んで、人間らしゅう生きたのでございます。あの奇ッ怪な黄花も、十万億土の旅立ちには道しるべとなってくれるにちがいありませぬ」

 邦稙は唇を噛んでいた。

 真の愛に目ざめたと思っていたのは、憐れみからの演技だったのか。

 そうとは思えない。

 うぬぼれではなく、夫婦のからだは一つに溶け、愛のたしかさを深いところで感じたのだ。官能の喜びは、ふたつの魂をゆすぶり、あふれた。兄の仇を、間引きの怨みを、老獪狡猾な手段で()らそうとした邦稙が、その愛のうねりのなかでは、無になっていた。これをしも、女の演技だったというのか。

 そうではない。たとえ、憐れみからはじまったとしても、それを超えて、ふたりは結びついたのだ。

「久庵、やはりそちは淡路の狸じゃ」

 こう言ったとき、邦稙の顔からあの曇りが拭われて、明るい眼になっていた。

「淡路の(ねじ)り嘘はこれくらいにしておけい。わしも……」

 邦稙の翻心はそのとき決ったようであった。登世の葬儀を済ませると、かれは淡路を発った。筑後らに分藩独立の意志を捨てたことを告げ、新政府に提出した歎願書の撤回を申し入れるため上京したのである。

 

 だが、すでに遅かった。

 邦稙が蒔いた"分藩独立"の種子は肥沃な土壌に芽を吹き、新生の希望が淡路全島を蔽い、その昂奮はそのまま、本藩に反映して銃士隊を暴発させてしまった。邦稙と蜂須賀知事が上京中のことである。

 五月十四日。銃士隊総勢八百余りは上田友泰の指揮のもとに大砲と小銃でもって稲田屋敷をはじめ、三田、七条、筑後ら重臣の屋敷を砲撃し火を放ち、喚声をあげて乱入して殺戮を(ほしいまま)にした。阿波銃士隊は嘗ての東征の光栄と誇りを自らの手で汚してしまった。

 八月。新政府から薩摩出身の黒田清綱が弾正少(ひつ)として乗りこんでくるや即決断罪の(なた)をふるった。首謀者新居水竹ら八人を斬、上田友泰ら終身流罪二十六人。流罪、禁錮、謹慎など九十人に及ぶ峻厳苛酷なものだった。

 稲田家には処罰はなかったが、九郎兵衛邦稙はふかく騒擾の責を感じ、先に呈示された新政府の分離策に唯々として従っている。

 越えて九月末、兵庫県の貫属として、士七百余卒二千余を率い淡路を出立した。北海道開拓の任を帯び日高国静内に向ったのである。

 その途次、邦稙は江州水口に立ち寄った。母に逢うためであった。劫火の須本を逃れて処々流寓の憂目を見た彼女には他に寄辺(よるべ)がない。実弟である水口藩知事加藤明美は拒みはしなかったが、迷惑顔だった。公用人戸塚某の名で弁官御伝達所に宛てて右の次第を届出ているのを見ても難しい立場がわかる。

 しかし、手をとりあった母子には長い歳月の苦汁も悪夢のようにしか感じられなかった。

「──開拓の目鼻がつきしだい、お迎えします。それまで辛棒して下さいますか」

「待ちましょうとも。二十五年も待ったのですもの、一年や二年、すぐですよ。今度こそほんとうに水入らずで暮せるのだもの」

 短い逢瀬のうちに、こんな話もした。邦稙の星では今年は(うしとら)が吉方に当るという。北海道は歳徳ノ方、その方角に進めば万事吉になる、恵方(えほう)に旅するのは開運の証しでめでたい、などといった。肉親の情愛さえも許さない大名の非情の暮しが、俗信にもろい女にしていたようである。誰がそれを責められるだろうか。いまの邦稙には、迷信を(ひろ)い心で受けとめてやるしかない。「悪い夢はみんな忘れておしまい、そのためにも名前を変えては如何かしら。ずつと考えていたのです。(ちょく)の字は(しょく)に改めたら……」

 改名は稲田の家名に固執する父祖や兄との訣別をも意味していた。大名の血がもとめた残忍な相剋と、死に損なった者の妄執との訣別であった。鍬ひとつ握ったことのない士卒三千を率いて、極北の開拓へ向う稲田九郎兵衛にとって邦殖(くにたね)の名は、せめてもの餞けといえないこともない。

「そうします、母上」

 ふかい感動をこめて彼はいった。

 その時廊下に足音がした。出立の時刻が迫ったのである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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早乙女 貢

サオトメ ミツグ
さおとめ みつぐ 作家 1926・1・1~2008・12・23 中国東北部ハルビン市に生れる。1968年、「僑人の檻」で直木賞受賞。1989年、「会津士魂」で吉川英治文学賞受賞。

掲載作は「小説会議」1967(昭和42)年10月、第28号初出、光文社文庫版より採録した。

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