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天皇の帽子

     一

 

 成田弥門は東北某藩の昔家老だった家から成田家へ養子に行ったので、養父の成田信哉は白髪の老人であるが、流石(さすが)に武士の育ち、腰こそ少し曲ったように思われても胸をぐっと張り、茶の間の欄間に乃木希典(のぎまれすけ)の手紙を表装してかけてあるのを見ても、いかにも乃木大将と親交があったらしい謹厳な風貌の持主だった。

 弥門は幼い時から養子に行き、実家の風習よりも養家の(しつ)けになじんだ。成田信哉氏は五稜郭の戦いに官軍として出征し、後官途につき、同僚で今では朝鮮総督になったり、東京市長、さては内務大臣といったお歴々があるのに、藩公T伯爵の懇望に所謂(いわゆる)世俗の出世を断念し、本所の江戸下屋敷に家扶として奉公する身になった。

 弥門は養父を尊敬し、世に殿様の次ぎに偉いのは父だと生涯思い通した。確かにT伯爵家では成田信哉は最高の地位にあり、弥門と同年の若殿養育に意をそそぎ、殿様も今時の若者を教育するのに信哉のやり方は少し古風にすぎるように思ったが、その端厳な武家風の教育は薬にこそなれ、毒にはなるまいと任せきりにしていた。

 弥門も若殿藤麿と同年のために、何をするのも一緒だった。裏庭で弓術の稽古、邸内に宝生(ほうしょう)の舞台まで設けて、有名な能の名手だった伯爵は殆んど毎日謡曲、笛、奥方は鼓と師匠を呼んでのお稽古には藤麿と共に弥門もその席に侍べった。

 弥門は眼が覚めると直ちに袴をつけ、寝る時までこれを脱ぐものではないと心得ていた。従って膝を崩して胡坐(あぐら)をかくなどは御門外の町人の子の悪癖と教えられ、彼は終生胡坐をかいたことはなかった。

 養父の躾け通り、行儀はよく、能で覚えたお辞儀や物腰の立派さ、はきはきした物言い大殿様の前へ出ても、他の家令を圧して見事だった、若殿藤麿は旧藩士から成る顧問団を説きつけて中学を卒えると独逸(ドイツ)留学ということになった。華族の中でも伯爵は趣味も生活も(およ)そ封建的なことで有名だったのに、独り息子を遥々(はるばる)独逸へ留学させるとは突飛というか兎も角大英断であった。

 しかも伯爵の旧弊に拍車をかけていると噂されていた頑固一徹の成田老人が伯林(ベルリン)までお見送り役を仰せつかったのだから驚くに堪えたるニュースである。これは伯爵が留学を許した交換条件である。

 成田信哉附き添いの藤麿の洋行譚はそれだけで一篇の小説が出来上る珍旅行であったが、筆者は息子の弥門について筆を進めたいのだ。夫の留守を守る信哉の妻綾乃は夫に輪をかけた旧弊な女で、明治も終りに近く、文明開化の世というよりは、日本も世界の仲間入りをし、大いに国威を伸張しているというのに、何と寝室に電気はつけず、昔ながらの「火の用心」と書いた行燈を灯して(やす)む時代放れのした夫人であってみれば、養子の弥門はまるで芝居の世界に住んでいるような躾けしか知らぬのであった。

 甚だ養父母に可愛がられて育ったというが、なるほど弥門は成田家にピッタリはまったよき養子であった。彼は朝から寝るまで袴をつけて育ったことは前にも記したが、養父の詩吟で剣舞を舞い、尚武の精神が衰えた時代に彼は弓術、剣術、仕舞、謡曲で、養家の家風に若年にして染まってしまったのだから養父母にとっては掌中の玉と愛したのは無理はない。

 だが藤麿が伯林へ行き、首都で異国の言語習慣に慣れると、ハイデルべルクという大学町へ住み、学問の修業をするというのに、弥門は日比谷中学(後の府立一中)に入学したまでは若殿様と同学年だったが、何としてもその後の歩みは遅々として進まず、せめて中等学校だけは卒えさせたいと養父母は思っても落第ばかりしていた。遅刻欠席はなく、操行も正しいが、肝腎の頭脳は中に何がつまっているか、受持の教師も判断に迷った。

 養父は剣術は藩士中並ぶものがない剣豪で東北から剣の修業に諸国を歩き遂に鹿児島まで行き、西郷隆盛に会って来たという豪の者、それに漢籍の教養あり、筆をとっては書家としても一流の能筆家だった。弥門も幼い時から習字には身を入れ、本所の小学校では、学校一どころか、先生よりも、字は上手といわれたものだ。だが、今の中学校では、習字の時間は少く、科目の中でも余り重きを置いて居らぬのに、養父は憤慨し、弥門は落胆した。英語や数学に先生も生徒も血道をあげる理由も判らぬほどでは弥門が年中行事のように落第するのも無理はない。

 

     二

 

 ここで話は逆になったが、弥門の風貌体格を述べなければならぬ。彼は中学三年にして既に五尺五寸を越えた大男であり、最も目立つのは頭の大きいことである。中学の制帽で一番大きいのを探すのは成田家を辟易させた。どこの帽子店へ行っても滅多に弥門の頭に合うのは見出せない。そこでやむなく、帽子のうしろを切って、ちょこんと開いた鉢の上にのせるだけで満足しなければ到底見つかるものではない。無論これとても学校指定の帽子店にあるものでは間に合わず、鉄道院か瓦斯(ガス)会社の庇附きの大人用制帽を漸く見つけ、それから帽子のうしろを切らねばならぬのだから、その大きさは推して知るべきであろう。

 彼の不幸はこのとてつもない大頭の持主であることよりも、その中に肝腎の脳味噌がまことに粗雑に入れてあるということだ。脳味噌の(ひだ)の細かいものが優秀な頭脳の持主だそうだが、弥門の脳味噌は襞などはなく、風船玉かフットボールのような、ペラリと丸いのが入っているのではあるまいか。これは余程後のこと、父伯爵が逝去されて藤麿君が已むなく独逸から帰国した時、幼な友達の弥門にあだ名をつけ「水頭(ワッセル・コップ)」と呼んだ。大頭という意味ではなく、水が頭の中につまっているのだという(いい)らしい。

 頭の悪いことは弥門の罪ではない。実父伊藤弥五郎は廃藩置県の後、小原庄助の如く家財道具はなくなるに任せたが、酒樽だけは常に欠かしたことがなく、水の如く、茶の如く日常坐臥酒を欽み続け、いわばアルコール中毒で(しま)いに死んでしまった。その余殃(よおう)というか、遺伝というか、弥門の頭に水のつまったいわれである。

 さて、彼が中学校を九年の歳月を費して、漸く卒業(校長、担任の教師達も、真面目に努力し、模範的な青年をここで追放するに忍びず、終に卒業させたのだが)の運びに漕ぎつけた。もうこれ以上学問を詰めこむ余地は更になく、適齢期を過ぎ猶予の願いを出して置いた徴兵検査を改めて受けると首尾よく合格し、その体格と姿勢のよさを認められ禁闕(きんけつ)を守る近衛兵に選抜された。

 これは養父母の最大の喜びだったが、間もなく弥門は痔を悪くして入院したり、その予後をしくじって除隊の憂き目を見た。

 本所は大名屋敷が多く、閑静な住宅地であったが、水運の便がよいので次第に工場地帯に変化しようとしていた。そこでT伯爵家では山手に地所を見つけ、某化粧品製造工場に旧宅を売り払った。

 藤麿が帰って来たら、流石(さすが)に江戸時代からの邸にも住めまいと思い切って和洋折衷の邸宅を麻布三河台に新築した。能舞台や大広間等はそのまま移し、若君が妻を迎えて住むであろう新館は悉く洋風にしつらえた。そしてこの際英断ついでに職員を減らすことに決定した。とはいえ成田信哉は一生を犠牲にして藩公に仕えた功労者であり、旧藩士顧問陣の一名なので、御家扶として残ったものの、独逸へ若君を見送り、一人シベリア鉄道で帰ってからは急に疲労が出て、老齢ではお(かみ)の勤めも相成り難いと、三河台の新邸移転後お役御免を申しでた。そして息子弥門を家扶の一人に推薦した。

 父信哉はお長屋を頂戴して、終生邸内に住みT家の後々までみとりせよと有難い言葉を頂いて隠居した。そこで息子の弥門は()くして他の家扶達と交替で表の夜詰めや、客の応接、殿様外出のお伴等々と相当に忙しく、且つ彼には最適の職業が出来たわけである。

 煙草は吸うではなく、火気のない部屋に端坐するつらい勤めも、彼には幼年時代からの習慣で何の痛痒(つうよう)も感じるどころか、むしろ自宅で養父の年とって気が短かくなり細々しい口叱言(くちこごと)をいうのを聞いているより気楽な位に思って勤めを励んだ。

 ところで、所謂大殿様が老衰で逝去されて間もなく、葬式に老躯をさげて立働き、かてて加えて一生を捧げた殿様に死なれて心の張りを失ったせいか、成田信哉も火の消えるように死んでしまった。全く殉死だとその頃旧藩士達の間に噂され、弥門は支柱を失って途方に暮れながらも、殿様の死に殉じた偉い父を持った喜びと誇りを内心に(みなぎ)らしたものである。

 

     三

 

 老伯爵の死にも、信哉の死にも間に合わず新当主の藤麿が帰国してからは、邸の様子が一変した。袴をはいて茶坊主か白鼠か、そんな旧時代の遺物は必要ないというお達示で、家扶家令の類いはお払い箱になってしまった。親爺の造らせた洋館などに住めたものではないと建築家に設計のし直しやら、三越家具部に室内装飾のやり直しを命じるやら、幼い無邪気な若殿様はまるで人格一変したような暴君に見えた。けれども弥門は特別の思召で居残ることを許され、お長屋ももとのままに住んで宜しいといわれた時は、彼の達磨のような眼から涙がこぼれ、君恩の有難さに感泣した。家中で藤麿伯爵の蔭口悪口が飛ぶのに、弥門だけは英邁(えいまい)な方であり、欧羅巴(ヨーロッパ)で磨きをかけて来ただけあって、果断に陋習を粉砕されると、むしろ驚嘆して、仰いだのである。

 唯腑に落ちぬことといっては伯爵が毎夜お出かけになり、お帰りの時は自動車に美妓をのせ、したたか酔っぱらって、

「おーい成田、ここへ来い」

 とウイスキーのお相伴を仰せつけることである。弥門は酒は嫌いであり、実父はこんな不味(まず)い液体を終生飲み続け、その揚句言語もはっきり発音出来ず、歩くことも叶わぬ身となった苦々しい思い出を持っている。気狂い水のたたりは若殿に「水頭」の異名を頂いたほどでこればかりはいかに君命とはいえ勤めのつらさを沁々(しみじみ)覚えたのである。

 だが、それよりもつらく苦しいことは藤麿と膝を交えて気狂い水を欽むのではなく、傍らにあでやかさに眼もあけていられぬ美人が脂粉の香にむせるような雰囲気を撒き散らしてお酌をしましょうの、こちらは真面目ね、いいじゃないの殿様の命令よ、なんて細い手で肩を叩かれなどしては、その個所が疼くだけでなく、全身が(しび)れる思いがするのである。

「おい、女達、成田は木石どころか、恐ろしく助平な奴だから、口説いてみろ、悪くないぞ」

「あら、いやーだ。なアさん、それ本当?」

「御冗談でござりましょう」

「いいわね、御冗談でございましょうなんてお芝居みたいじゃないの」

「お上のおたわむれでござります」

「益々気に入っちゃったわ」

 或る年増の女は成田の首に酔ったまぎれに(かじ)りついた。全く弥門にとっては気絶する思いである。これがまるまる厭なものなら世話はないが、女が傍に摺り寄ったり、柔かい腕で抱かれたりすると、流石に胸がどきどきし、その柔かさに溶け入る思いがし、全身がわなわなと震え出すのである。

「お上、お罪でござります」

「何を言ってるんだ。成田どれでもいい、気に入った()と寝てみろ、俺も寝るから……今夜は雑婚クラブだ」

「御前、何ですの、雑婚クラブって?」

「大広間で、雑魚寝して結婚ごっこをするんだ。西洋ではそんな女郎屋があるんだよ」

「まアいやだ。御前はあちら仕込みの悪さをなさるんだから、大和撫子(やまとなでしこ)はかないませんよ。それより正々堂々お部屋入りにしましょうよ」

「ほオ、貴様成田の大頭に惚れたか。よし、成田、今夜はこの妓と寝るんだぞ」

 弥門はどうなることかと全身を硬直させ、もう耳もよく聞きわけず、ぼーッとなるに任せていた。

 ああ、殿様の酔ったまぎれの気紛れは、全く責め苦に等しかった。

「いいじゃないの、殿様公認の浮気じゃないの、あたしも女を知らない殿方と寝てみたいわ」

 女も冗談には慣れているが、それが弥門をどんなに苦しめているかに気がつかなかった。

「さア、なアさんお床入りをしましょうよ?」

 彼は女に手を引かれて立上り、隣室へ行くと、ソーファに倒れてしまった。先程の強烈な洋酒がほんの一口だったが、体内を経めぐり、心臓を攻めつけ、揚句の果に異性の手で肩を首を()められ、これから奈落の底に落ちるかと思うと、緊張と痛苦と恐怖で彼の精根はつき果てたのである。

 また夏の頃、西瓜を真二ツに割り、氷とブランデーをかけて匙ですくって食った後の皮を、側に侍る弥門の頭にのせ「これからこの帽子にしろ」と言われたことがある。西瓜の種子や汁が(くび)や胸を伝って肌に流れる。払っても、取除いても、お上の興を覚ますだろうと思うと、我慢していた。

 奥の女中達も成田弥門がおもちゃになるどころか、淫虐(いんぎゃく)的な殿様の責め苦に遭っていることを知っていた。この時は西瓜の皮を頭にかぶって端坐しているのに、殿様はすっかり座興がさめ、

「おい、芳子、こいつを向うへ連れて行け」

 と女中に突樫貪(つっけんどん)に命令した。

 西瓜の汁が頬を伝っていたが、それに混って涙も流れているのに、芳子は深く胸を打たれ、浴場へ連れて行き、手拭で拭いながら、弥門の手を強く握ってしまった。弥門は芸妓には度々手を強く握られ、その都度奇妙な昂奮と感覚の混乱を感じたが、激しくそれに抵抗し、そのためにぐったりあとで疲れを覚えたが、芳子にふと手を握られた時は意外でもあり、驚きもした。然し何故かその手を放さずにいて貰いたい欲求に責められ、

「芳子さん、有難う」

 と自然な泣き声が、一層芳子を感動させた。

 一生一遍の濡れ場となったが、弥門はそこで感動に打震える芳子をかき抱き、情熱的な接吻に身を任せるべきであった。芳子はそれを無意識に期待していたのに、いつまで経っても男性の腕は彼女を抱かず、ぶらりと垂れたままだった。女はふらふらとなって、毛深い彼の胸に頭をもたせ、眩暈(めまい)を覚えた。日本髪の強い油の匂いが弥門の鼻を衝いた。

 感働の最高潮に達した弥門は手のくだしようがなく、また声を忍ばせる術もなく、手放なしで泣いてしまった。

 仁王立ちになって大頭の大男がわーッと泣いた図は確かに美的な構図ではない。大抵今どきの女ならロマンチックな夢を破られて逃げてしまうのに、時代はのんびりしていたのか、幼稚に出来ていたのだろうか、芳子はこの人こそ一生の伴侶とその時直感した。

 

     四

 

 鈍感な弥門としても伯爵の皮肉とも冗談とも判らぬ一種(いや)らしい調子で、

「不義はお家の法度(はっと)だぞ」

 と言われた時は、本当に切腹しようかと思ったほど後々までも回想して不愉快だった。決して不義密通などといった浮いた話ではなく、伯爵家顧問陣の一人、某中学校の名誉校長の笹川氏を仲人に立てて、神官の娘芳子を貰い受けようとしているのに、何という言葉を聞くものだろう。

「信哉爺の功労もあるので、薄野呂(うすのろ)のお前を置いてやったのに、一人前の色恋をして、我が家の空気を掻き乱すなら、よくよく覚悟の上だろうな」

 意地悪くなれば、昔の暴君さながらになる藤麿は、ねちねち弥門いじめに取りかかった。弥門は恐縮したり、緊張すれば、これ亦古風な三太夫になって益々硬直し、巧みに阿諛(あゆ)や追従ではぐらかす術などは心得ていなかった。只管(ひたすら)恐れ入り、首さし伸べてお手討を待つ忠臣のように端然と坐ってうな垂れている。若くて短気な藤麿はそれが神妙なだけに逆に刺戟を受けて、小面憎(こづらに)くなるのだった。

「あの長屋を引払って出て行くがいい、愛の巣を営むにはむさ苦しかろうからな。それに日がな一日恐れ入り、額を擦りつけて平伏している商売じゃ、女房に嫌われるぞ。もっと空を仰いで歩け。広い世界じゃないか。お前みたいに畳の目ばかり数えるような生活じゃ芳子に振られるか間男でもされるぞ。尤も成田、安心するがいい、芳子の袖だけは俺は引かなかったからな。どうだ生娘だったろう……」

 弥門は額に油汗をかいた。こんな拷問がまたとあろうか、漸く御前を引退って来た時は顔面蒼白、立っているのもむずかしい位だった。養母の綾乃にも申しわけがなく、綾乃の前に両手をついてあやまった。成田の家を継いで、今日に到って遂に泥を塗ってしまった結果になった。伯爵家に父子二代仕えて、最後にこの先祖代々の領主に勘気を蒙り、閉門を通り越して追放の厄に遭うとは考えてもみなかった失態である。

「仕方のないことだよ。お前さえ(わたし)と嫁をかかえて働いて食べて行けるなら、それでいいよ」

 綾乃も悲しかったに違いない。然し夫婦で膝に抱いて育てた藤麿は独逸から帰ると人間は打って変って、紅毛異人の血を受けたか、血も涙もない暴君になってしまった。遅かれ早かれこんな運命を予想していたと養母は諦らめてくれた。

 

 この悲しむべき愁歎場(しゅうたんば)が過ぎると、弥門に今まで想像もしてみなかった幸福な運命が展開した。

 小石川原町に二畳四畳半六畳の古ぼけた家ではあるが新居が見つかり、移転と同時に結婚が待ち構えていた。仲人の笹川は挙式の前に就職の世話まで奔走してくれ、帝室博物館の雇員という弥門には願ってもない仕事が授かった。俸給は恐ろしく安いが、辛抱すれば三人の生活はどうやら支えることが出来る。それに成田の家には郷里に不動産、公債その他の遺産があった。家財も殿様の拝領品が多く蔵され、伯爵家を出たからといって直ちに世の荒波に揉み砕かれる恐れは今のところなかった。

 思い切って踏み出せば、また(おのずか)ら新天地も開けるというものだ。弥門は博物館で毎日忙しかった。明治が大正になり、あらゆる印刷された書類用箋紙に明治を大正と書きかえる仕事に忙殺された。また一般の観覧に供する品物に標題や説明を書くのは彼の能筆が起用された。「水頭」の彼も使いどころによっては甚だ調法がられ、何々博士や宮内省の高官が出入する博物館に碌々(ろくろく)学歴もなく、雇員の地位にありながら、筆をとっては並ぶものがないのも彼の誇りだった。

 用箋紙の明治を大正に書きかえる世にもつまらぬ仕事でも精を出して働き、肩を凝らして帰れば妻が揉んでくれるし、母がお茶を()れ、さぞ疲れたろうと慰めてくれる。弥門は過去を顧るではなく、未来に不安を覚えるではなかった。そして毎日が満足で幸福だった。或は自分位幸福な男はあるまいと、上野の森を歩きながら自ずと北叟笑(ほくそえ)むこともあった。

 

     五

 

 成田弥門は一度も頭髪を伸ばしたことがなかった。それは若禿げの傾向が軍隊生活の頃から見え出し、額は次第に上へ拡がり始めたからである。無論大頭に長い頭髪を頂いては化け物に見えはしないかという懸念はあったろうが、それほど気になるなら頭だけでなく身装(みなり)にも留意すべきだと同僚達は思った。他のハイカラと競う社会のことではない。博物館という古美術を保存して置く極く地味な社会で、弥門は群を抜いて古風な様子をしていた。それもその筈で先代伯爵が養父信哉に贈った記念の洋服である。しかも先代は徳川慶喜から貰ったという(いわ)く附きの古代物だけに、品質は上等だが、色は褪め、糸は疲れ果てて擦り切れようとしている、ズボンは盲縞とでも云おうか、縞ズボンは縞目が既に明白でなく、仔細に見れば嘗ては縞があったという痕跡は認められるが、普通には黒に青味を帯びた代物にすぎぬ、青味とはいうまでもなく、()めた色が光線の工合で青味を帯びでいるのである。

 嘗て日比谷中学の教師が頭をひねったように、役所の上役も時として首をひねらざるを得なかった。「間違いのない男だ」といっても計算をさせたり、調べものをさせようものなら、何時間経っても出来上ることではない。博物館の不要品を動物園倉庫へ運び込む荷積、荷車の監督となると、博物館と動物園の間は近いといっても往復二十回もすれば草臥(くたび)れもしようし、退庁時刻はすぎてしまうだろう。彼の腰の骨が軋み出しても、疲れたとは上司の前では言うことではない。鹵簿(ろぼ)儀仗兵(ぎじょうへい)のように胸をそらし、威儀を正して荷車の数歩先を一歩一歩踏みしめて歩く。脚のとれた机、がたがたになった椅子の類いが山と積まれて、彼の背後に揺れている。どんなに破損し、使用に堪えぬものであっても、それは宮内省の官物である以上、無事に動物園の倉庫に納めなければならぬ。斯くして彼は二十回往復したのである。

 成田弥門は忠実に働いた。骨惜みなどは考えてもみぬことだった。それでも妻の芳子は夫の月給では暮しかねると時々愚痴をこぼしたが、弥門は何とも返事に窮して、結局は聞き流してしまった。

「家には随分売るものがあるのよ、いつか本郷の叔父さんと叔母さんがいらした時、刀剣だけでも一財産だと云っていらしたわ」

「芳子、仮にもそんなことを言わないでくれ。御先祖とお父さまの遺された大切な品物だ。藩公のお邸をしくじっただけでも、俺は御先祖に申し訳ないと思っている。せめて成田家に伝わる品々だけは身をもって守り通したい」

 お邸の家令職の時と変らぬ端然たる姿勢で切口上に云われては芳子は黙るより道がなかった。養母の綾乃はもう衰えて寝床にいる方が多かったが、息子のけなげな心中を聞いて、仏壇の方を向いたまま潸々(さめざめ)と泣き入った。

 役所の辞令を書いたり、館長がどこかの葬儀に列する時の弔詞は悉く成田弥門の筆になった。何か筆で書く内職でもあれば、家へ帰ってから夜なべ仕事に出来るものを……彼は幾度かそれを考えたが、金銭のことを武士の子は口にすべきでないと幼少から教わっていたので、何とも頼みには歩けなかった。

 然し彼の胸に畳んだ悩みは天に通じたか、降って湧いたように臨時の仕事が授かった。大正天皇の御即位式が迫り、新聞でも必ず御即位に関する記事が載るころ、逓信省で御即位記念切手を売り出す計画が出来、その意匠がほぼ出来た。即位の大礼を行う紫宸殿(ししんでん)を正面に描き、右方に随身をあしらう意匠だが、絵よりも写真が宜しいということになった。逓信省から宮内省へ照会し古式に(のっと)る随身の服装をした写真をとりたいから世話を頼むといわれたものの、宮内省といえば融通の()かぬことでは、これほどの役所は二ツとないところである。昔の随身服を取出し、さて装束をつけようにも、身体に合うものがない。冠が合わぬ。束帯の肩が合わぬ。余程恰幅の立派な随身が昔はいたものらしく、宮内省では省員を呼び出して、身長は五尺八寸、体重は十七貫から八貫の者はないかと調べたが、遂に指定のものはなく、もしやと博物館に照会があった。

 字の上手な福助がいるじゃないかと忽ち成田弥門は選ばれて、随身服を宮内省の有職故実(ゆうそくこじつ)にたけた役人に指図されながら身につけてみると、これは大正の御代に置くには勿体ない、紫宸殿の奥深くからつれて来たかと思われるほどぴったり合い、慶喜公拝領の服よりは余程衣冠束帯の方が身について立派に見えた。

 日頃口をきいたことのない帝室博物館長や諸々の上役が揃って見物し、

「ほオ、これは立派じゃ、宮内省広しといえどもこれだけのものは博物館でなければ居らんのオ」

 と館長は至極満悦だった。すると口さがない下役が、

「一層このまま硝子のケースの中に入れて、展示会をしたらどうだい」

 と小声で野次ると、下座の方でどっと笑い声が起った。

「あれア人間の出来が正真正銘博物館物だよ」と前の野次に応える声もした。無論この蔭口は石階の上にいる館長部長の耳には入らず、ましてや成田弥門には聞えなかった。弓を持ち胡*(ころく)を負うて、すっくと立った姿は、流石にひやかしていた連中をも威圧したか、黙らせてしまった。写真は幾枚も幾枚もとられ、弥門は先代様の能舞台に上ったように緊張に打震え、始めて成田家の面目を取戻した得意さに面はゆく顔を赤らめたが、人々は唯恥ずかしいのだろうと推測していた。

 

     六

 

 これだけでは弥門の長い間抱き続けた自責の念に清水を注いで、活々(いきいき)とさせたにすぎない。この引伸ばされた随身姿の写真を額におさめ、煤けた鴨居にかけたことは論をまたぬが、このようなことから宮内省との関係が出来、能筆までが本省に伝わり、時々呼び出されて、辞令やら弔詞の類いを書く用を仰せつかった。ほんの少し増俸にもなり、時に華族の宮内官の私事、例えば息子の結婚とか、母堂の死去の通知状に上書を書いてくれといった内職が、面白いほど次から次に湧いて出た。

 養父遺愛の端渓の硯を持参して、どこの邸宅へも行った。にわか造りの三太夫とは異り、父子二代の邸勤め、その上武家の奉公精神がこもっているのだから坐ってみれば立派なものである。火鉢も要らぬ、煙草盆も不要、端然と威儀を正して筆をとる。書体は支那の誰それの流れを汲んだり、天平時代の写経の文字とも違う。唯一点一劃を(ゆるか)せにせぬ無味無臭の楷書である。役所では個性が出たり、味が滲んだりする字では困る。成田弥門の字に限る所以である。

 内職の謝礼は坊主のお布施の如きもので、はっきり定った額がない。五円の時もあれば十円の時もある。十円でなにかその他に頂戴物がつくこともある。折詰などは養母も芳子も有頂天である。その余ったのを翌日の弁当のお菜にする。

 成田弥門もどうやら母の綾乃より安心立命が出来たようだ。子供がないのが、時として寂しいこともあるが、郷里との縁故も薄れ、養子にこの貧しい家へ来てくれとも言いかねて、小石川の陋宅(ろうたく)に引籠ったまま、彼なりに自足し、忙しい生活に追われていた。

 或る時、宮内省で某侯爵の邸に呼ばれた。鴨猟と乗馬がお得意で主馬頭(しゅめのかみ)をしていた道楽者といえば、世間ではあの人かというほど有名な殿様、二月はお庭の観梅、五月は牡丹、代々木の庭内の池に鴨が降りる。射ってはならず、これは唯見るものと、夫々(それぞれ)にお客をする。外国の使臣も招かれて、侯爵の催しはは華冑界(かちゅうかい)のみならず上流の社交界一般に有名だった。ここの案内状を頼まれてからは、弥門も定職のように始終お邸に参上した。

「成田、俺の頭も人伍に落ちんが、遂にお前の頭にはかなわんな。さぞ帽子には不自由するだろう」

「とても市中にあるものでは間に合いませんでこざります」

「そうだろうな。――一体どの位ある?」

(しか)と測ったことはござりません。稀に横浜の商館などから払いさげの出物にぶつかることがござります」

「ほオ異人のおさがりだな」

「そのように存ぜられます」

「それを被っているか。だが物は上等だろう」

「今までかぶって別条ないところをみますると上等かと思われますが、何としても私が使いまして二十年に近うこざりますから……」

「それはひどい、一つ俺のところにいいものがあるから進上しようか」

「そんな上等なものを頂きましては……」

「いや、俺が持っていても宝の持ち腐りだからな……」

「宝物で……」

「ああ、畏れ多くも大正天皇様のお帽子だ」

 弥門は何ということはなく、その場に平伏した。身分高いT伯爵の邸内に育ってからまたも華族の邸内に出入して公侯伯子男といった上つ方と親しく口をきくだに養父のお蔭と思っていたのに、天皇陛下のお帽子を侯爵から拝領するとは畏れ入ったことである。

「陛下は有名な大頭であらせられるので、御下賜のお帽子だけは頂き手がないのだ。俺の大頭は同族では先ず一二というところだが、それでも頂くだけで、かぶったことがない。お前なら合うかも知れんよ」

 侯爵は倉から拝領の山高帽子を持って来させた。

「成田、遠慮せずかぶってみい」

 弥門は恐縮の上に恐縮して被ってみると、何んと注文して作らせたように開いた鉢の上にのるではないか、侯爵は唸って感心した。

「偶然の符合というものだなア……」

 

     七

 

 成田弥門はどういう動機からか鬚をはやし始めた。彼が上野の森を突き切って、博物館へ入って行くと、守衛達は館長に対するように生真面目(きまじめ)な敬礼をした。ふと人けない上野公園で擦れ違う人は振り返った。

 容貌や風采に敏感な美術学校の画学生達は、

「あれア何んだい、馬鹿に天皇陛下に似ているじゃないか」

「まさか陛下が一人で上野を散歩されるかってんだ。――然しタダ者じゃないね」

 こんな囁きが時々聞かれた。全く画学生のいうように一生涯胡坐もかかず、冗談口もきかず、悠揚と天皇の帽子をかぶり十五代将軍の服を着て歩けば、タダ者でなく見えるのは当然である。

 彼は天皇の帽子をかぶって以来全く無意識の裡に心境に変化を来した。彼のように平凡な生活を送っているものは、普段からどんな心境を持っていよう筈がない。だが彼は変った。芳子が寒いといおうが、暑いといおうが、貧しいと訴えようが、もう少し人並に遊びたいとほざこうが、馬耳東風になった。もう夫婦揃って白山上の植木市をひやかすではなく、家庭でも滅多に喜怒哀楽を面に表わすことはなくなった。何事があっても、「おおそうか」と頷くだけで、驚くことはなかった。養母が眠るが如き大往生を遂げた時、弥門は久し振りに泣いた。芳子は坊主の読経を聞きながら、時々夫の顔を見守った。さも(人間並に涙が出る間は未だ)大丈夫とでも思っているように。

 駆け出すことも、急ぎ足に歩くこともなく、いつも平均に、悠然と歩き、決してわき見はしなかった。表情は穏やかになったが、同僚が気易く「成田君」と声をかけるのを躊躇する何かがあった。彼の顔から寂しさや悲しさを探し出すことは難かしい。言葉をかえていえば表情がなくなったとでも言うべきだろうか。

 或る時、絶えて音沙汰のなかったT伯爵家から使いが来た。藤麿が会いたいというのである。弥門はいつになく感動したが、さて、おいそれと迎えの自動車へ乗って行ってよいかどうか判断に迷った。昔から判断は両親がするものと定っていたのに、いまその人を失っては芳子に相談するより致し方がなかった。

「どういう御用なの」

「唯会いたいから来てくれというだけさ」

「それだけなら直ぐ行って直ぐお帰りになれば」

「では鳥渡(ちょっと)行って来るか……」

 彼は悠然と自動車に乗って三河台町へ向った。昔は弥門も若かった。芳子も若かった。その思い出の伯爵邸の門を潜ったが、弥門は何の感情も湧いて来なかった。

 玄関に降り立った時だけ、はっとした。彼は表玄関から出入などしたことは金輪際(こんりんざい)なかったからだ。今は無縁の人のようにこの家を追放されて長い年月を(けみ)したとはいえ、玄関に立ってみれば、この邸の使用人であった頃の習牲が眼覚めるのも無理はない。運転手から女中、家令のような男は玄関に集ってお辞儀をしているが、顔見知りの者は一人もない。悉く他人であり、無縁の者である。

「お待ちかねでございます」

 斯ういわれて、弥門は我に返った。我に返ったということは無表情な木偶人形(でくにんぎょう)に返ったということである。

 見慣れた廊下を通り二階の洋間寝室に案内された。小さな書斎から白い医者か按摩の着るブルーズを着た男が顔を出して目礼した。

 広い彫刻を施した王朝風のベッドに藤麿は寝ていた。三越の家具部で請負って、横浜の洋家具職人が藤麿の外国から持って来た写真を模して作ったものである。其よりも此ベッドから顔を出している痩せ衰え、弥門より十も十五も上の老人に見える(やつ)れ果てた男が藤麿であろうか。室隅の看護婦が立って挨拶した。

「御前、成田さまがおいでになりました」

「おお、成田か、俺を覚えているか」

「はい。御病気とは少しも存じませず、お見舞いにも伺いませず失礼しました。それで御病気の方は?」

 看護婦はふと目を外らした。

「成田、俺は気狂いになったよ」

「はア?」

「放蕩の(たた)りだよ、俺は近頃どういうものかお前の夢を見ていかん。お前が懐しいのだな。子供の時から一緒に育った奴はどんなに唐変木でも懐しい。お前とローザ……これアとんでもない取合わせだ。然し本当だ。お前もそう思わんか。伯林のローザだよ。こいつも夢に見て困るんだ。俺が決闘した時泣きアがった奴だよ。()めてくれというのかと思ったら勝ってくれって泣くんだな。可愛い奴だった。ところがお前には可愛いなんてところは微塵もない。忠実に()()を振って来る犬さ。なアに犬の方が可愛いよ。お前は一体何に似て来たんだろう。何かに似て来た。――判らん。動物じゃない……判った、お前が懐しいのはね、同病相憐れむという気持だ。おい看護婦、こいつの水頭の中にはな、スピロヘータがうようよいるぞ、こいつも気狂いだ。気狂いだ」

 弥門の表情は先程から少しも変らなかった。痛ましい昔の幼馴染、昔の主人の姿や、言うことにさえ注意していなかった。

「御前、呉々もお大事に遊ばして……」

「なに、貴様逃げようというのか卑怯者、貴様は俺の病状を探りに来アがったんだな。畜生、尋常に勝負しろ、おい誰か、宮田は居らぬか、小杉はいないか、剣を二本持って来い。久し振りに斬ってやるぞ。咽喉笛(のどぶえ)を突いてくれるか……」弥門は怒号する藤麿に目礼して部屋を出た。その扉に懐中時計が発矢(はっし)とあたり、無惨に粉砕した。その途端、藤麿は発作を起したらしく、看護婦の叫び声や、隣室の男が駆け寄って行ったらしい唯ならぬ音がした。

 弥門は顧みもしなかった。そして今度は正面玄関に出ても臆する色もなく、家令や書生の敬礼に答えもせず、

「運転手は居らぬか」

 と言っただけで、(から)の自動車に納まった、おもむろに天皇の帽子を大頭にいただいて……

(昭和二十五年四月)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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今 日出海

コン ヒデミ
こん ひでみ 小説家・評論家 1903・11・6~1984・7・30 北海道函館市生まれ。文化功労者で初代の文化庁長官である。フランス文学専攻で、翻訳も多数あり、また戦時報道のためフィリピンに渡り、敗走する日本軍に従い、その間に必死に書いた日記帳を下に戦後書いた「山中放浪」は戦争文学の傑作と評価を得ている。

掲載作は昭和25五年「オール読物」初出、直木賞受賞作である。

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