最初へ

痩せた花嫁

 調子外れのラッパが鳴つた。

 タンタカタ

 タンタカタ

 トテ、チテ、タ。

 そのコルネットの爆発性を帯びた笑ひ声は、まるで千八百七十年代の小さな、いたつて下らない出来事を嘲るやうに鳴り響いた。

 ――幕が開いた。

「あれは何ていふの」

「モンタルトの村です」

伊太利(イタリー)?」

「さう」

「伊太利モンタルトの村の場景つていふの」

「さう」

「面白いの? 面白くないの?」

「今におもしろくなりますよ」

「さう」

 陽気な太陽が照り輝いてゐる。ナポリの人は、さういふ太陽を見ると死にたくなるのださうだ。嘘か本当か誰も知らない。けれども日向(ひなた)ぼつこをするには好い日光である。時は午後の三時頃。ホテルの白猫が夢を見てゐるやうな時分――

 春だ。

 村の男や女が祭日らしく美装して、しかしそれもたかだかカラアが目立つほど白ッぽい位ゐだ。ぞろ、ぞろと出て来た。眠つてゐた猫が目を覚ますと、鶏を追ひかける。羽根がパラ、パラと舞ひあがる。その猫を追ひかけて貴婦人のつれて来たテリア種の犬が駈け廻る。暫らくするとその犬がダラリと赤い舌を出して戻つて来た。

 太鼓の音と、ラッパの音とが馬鹿らしく長く聞えると、犬が吃驚(びつくり)して逃げて行き、反対に女は逢引の時間を忘れ、男は腕環(うでわ)を買つてやることを忘れて、耳をきゆッと立てながら、立ちどまる。

 旅役者の一行が村の入口で馬車を止め、ラッパを吹いてから、村に這入(はい)つて来た。

「これからどうなるの」

「その続きを見ようといふのですよ」

 座長のカニオさんは肥つてゐる。あんよが苦しさうだ。よつちら、よつちらと車から降りると

 ド、ドン、ガ、ドン、ドン

 ド、ドン、ガ、ドン、ドン

 と人寄せ太鼓を鳴らして、もう充分に村人が集つたと見てとると

「今晩、七時から素晴らしく面白い狂言を御覧に(きよう)します。たつた一刻(いつとき)の間です。皆さん。一寸(ちよつと)、女の唇を()める時間を()いて下さい」

「そんな事が出来るの」

「さあ、僕ならば我慢が出来ませんね」

「いけない(かた)ネ」

 座長のカニオさんはさんざ饒舌(しやべ)つてから、じろりと横を見た。座長さんのガラスの眼玉に、今、自分の女房の別品なネッダを、トニオの野郎が、車から抱き(おろ)さうとしてゐるところが映つた。

「この野郎ッ。人の女房にまで親切を忘れやがらねえ。その親切は、手前だけで沢山だ」

 コツンと一つ拳骨をくらはした。

「もう喜劇?」

「少し早過ぎますヨ」

「さうネ。あんまり喜劇ぢやないわネ」

「カニオさん。要心なさい」

「有難う」

「七人の子は成すとも……ネ。あれですよ。お上さんの手帳にや、ちやんと土曜日の晩にやトニオと恋をすることを忘れないことと書いてあるかもしれねえ」

「いや。有難う。そんな手帳なら焼いて仕舞ひまさあ」

「それが好い」

「これ、ネッダ。覚えて置け。今いつたことは科白(せりふ)にねえことだ。芝居なら兎も角、あんまり嬉しくねえことだからな」

「それも喜劇かネ」

「どう致しまして。歌の文句ぢやないけれど

  私は妻を愛してゐます

 おわかりでせう。皆さん」

「好い言葉ネ」

「何にも言はずにいらッしやい」

 鐘が鳴つた。

「今迄は、まるで手風琴の嘆きですよ」

「さうでせうか」

「私は妻を愛してゐます。チェッ。陳腐(ちんぷ)ですね」

(わたし)は、さうは思はないわ」

「何故――」

「私は妻を愛してゐます」

「さう」

「しかし……」

「?」

「妻は夫を愛してゐないかもわからないことヨ」

「さう」

「だと悲惨ね」

 紅い燈火が()いた。刺繍をした着物をきて、白粉をつけ、()しかすると気紛れらしい格好をしたネッダが、肥料で化粧をし、熟した小麦のやうな顔色をした、雄牛のやうな農夫シルヴィオを待つてゐる。

「シルヴィオ」

「ネッダ」

(わたし)は今日、午後から何だかさびしいの」

 男は黙つて彼女の手を握つた。彼女は青い目玉で何かを探してゐる。ひよつとすると幸福かもしれないのだ。

(わたし)は、もう夫に見破られたと思つてゐるわ」

「そんなことが――」

「いゝえ。妾の言ふことに間違ひがありませんわ」

「ぢや。どんな証拠をカニオが見つけたんだらう」

「妾の青い目を見過ぎましたわ」

 しかし彼女は機会さへあれば、この恐ろしい冒険に身を任すことが嫌ひではなかつた。一つには彼女の肉体的勇気がさうさせるかもしれない。ところで彼女は「バラテラ」と言はれて、あまねく人に知られてゐる唄を歌ふ。

  すべての鳥は

  或る不思議な力に追はれて

  思ひもかけないところに

  てんでに行く

「女つて空気のやうなものに思はれない?」

「少しは気紛れらしいけれど」

「けれども、女心となると、もうちつと違ふところがあると思ふわ」

「成程、羞恥心が残るからでせうね」

 ネッダは、自分の凡庸な智能で判断してみて、自分が余り鳥と相違がないと思ひ出した。雌鳥(めんどり)だ。おしやれで、快活で、肉感的で、たえず空腹な、さうして何時も睡眠不足で、可愛がられてゐたくつて、どんな場合でも好意をもたれたい、たまには浮気らしい気持ちになり、恥しいけれども巫山戯(ふざけ)てみたい女だつた。

 ネッダはまた一人きりになつた。彼女は怠け者らしい格好をして、肉感的な表情で待つてゐる……それは或る不思議な力を待望してゐるのだ。

 トニオ野郎が忍び足でネッダの腰を抱いた。

「何をするのッ」

「怒らないで下さい。ネッダの奥さん」

「触らないで下さい。妾は今晩少し不機嫌なんですからネ」

「しかし私には何時も不愛想ですね」

「それぢやなほのことかまはずにおいて頂戴」

「それでも私が、()し力づくでも……」

「かうしてやるばッかり」

 ペッペの鞭がくるくると宙に舞ふと、トニオの顔をぴしやりと(なぐ)つた。火花が散る。トニオは関節が折れたやうに、ぺこりと坐つてから、這つて逃げ出した。トニオもある力だつた。しかし稲妻のやうに消えて仕舞つた。そこへシルヴィオが降つてきた。

「ネ。シルヴィオに扮してゐる役者は美男子ネ」

「少し色男すぎますよ」

「だけど眼が素晴らしく奇麗だわ」

「しかし毒々しい点が多過ぎますね」

「え。でも歯が大変に見事だわ」

海豹(あざらし)の歯のやうだ。もしかすると女を食ふ奴の歯だ」

 シルヴィオは毛氈(もうせん)のやうな着物をきてゐる。ネッダはまるで痩せた雌犬だ。指環がきらりと光つてゐる。男の杖は余り丈夫さうなものではない。

「ネッダ。私はお前をどんなに愛してゐるかわかるか。私の心はお前の方を見つめてゐる。まるで向日葵(ひまはり)のやうな心臓だ。お前の動く方向に私の魂が吸ひ寄せられる。まるで磁石のやうな魂だ。これがわかるか」

「わかつてヨ」

「ネッダ。私は厚かましい男だらうか。私は泥棒のやうにカニオの懐中からお前を盗みたいのだ」

「そんな無鉄砲を考へちやいけないわ」

「私は何でも手つ取り早くやりたい。お前は私と直ぐに逃げてくれないだらうか」

「さうすると、どうなるの」

「二人で旅をするのだ」

「それから」

「夢のやうな世界へ行くのだ」

「それから」

「それから? ……それで()いぢやないか」

「いゝえ。屹度(きつと)その夢が醒めるわヨ」

「すると――」

「二人が身を滅すばかりだわ」

「そんなそんな……」

「いゝえ。止して頂戴。妾はそんな話だけで沢山だわ。それにシルヴィオ、妾は貴方を失ひたくないの」

「私もさうだ。ネッダ」

「さうでせう。だから、そんな危い綱渡りは堪忍して頂戴ネ。妾は軽業使(かるわざつかひ)ぢやないんですもの」

「それぢや、どうすれば好いんだ」

「このまゝが好いの。ネ。そうッとして置いて頂戴」

 実際、その時のネッダの痩せた身体は、ゴム風船のやうに膨れたかと思はれた。香油で磨き立てた彼女の肩の肉にシルヴィオは接吻してゐる。その蠱惑(こわく)が彼女の恐ろしい空想を捨てさせるほど悦ばしいものだつたらしい。薔薇香水をふりまいた頭を、幅の広いシルヴィオの胸に(もた)せて彼女は眼を(つむ)つた。さうした二人は美しい、輝やかしい恋慕調を聯唱した。

 それを立木の小暗い影でトニオが眺めてゐた。さうして不純な痛快味を味ひたいために座長のカニオさんを呼んできた。シルヴィオは傍の石垣を乗り越しながら、力強い魔法の手をさしのべ、

此所(こゝ)で真夜中に、もう一度逢つて下きい。ネッダ。その約束が出来るでせう」

 と言つた。彼女は石垣の上に跨つてゐるシルヴィオの方に顔をさし伸べ、脂つこい咽喉の美しい曲線を見せながら答へた。

「今夜まで。……また、これからも一生(わたし)は貴方のものヨ」

「あッ」

 とカニオ座長さんは声をあげた。瞬間カニオさんの肉づきの好い耳朶(みゝたぶ)に「これからも一生、妾は貴方のものヨ」といふ言葉が生々しく残つた。ネッダは夫を見つけると、

「早く逃げて――」

 と鳥の啼くやうに叫んだ。あんよのお下手(へた)なカニオさんは、まるで猪のやうに飛びあがつた。目玉がぐりぐりと廻つて、線香花火のやうな息を吐き、ぶらりと石垣に飛びつくと、その足をネッダが持つて引きずり下ろした。

「そんな筈ぢやない」

 カニオさんは必死になつて、ネッダを突き飛ばして、男の後姿を追ひかけた。暫らくするとカニオさんは、のつしのつしと指の爪を噛みながら戻つてきた。

「ネッダ。あの男は誰だ」

「知りませんヨ」

「何んと云ふ名前の男だ」

「知らないッたら」

「それなら泥棒だらうな。だが、言つて置くが、お前は安女郎のやうな真似をしないでくれ」

「ふむ」

 ネッダは口笛を吹いて、腰に手をあてて(うそぶ)いてゐた。

「おのれッ」

 カニオさんは洋刀(ナイフ)をきらりと抜いて、ネッダの柔い、草のやうな香のしさうな胸を突くところだつた。それをペッペが()つと押へてゐると、教会から村の人々が戻つてきた。

「座長さん。心を鎮めて芝居をしなくちやいけませんぜ」

「わかつたわかつた……」

「ようがすか。心を鎮めて、心をネ」

「よろしい。わかつたといふのに」

 カニオはぼろぼろと涙を流した。白粉をつけ、滑稽な衣装を着て、これから茶番を()らなければならないのだ。いや、もう一番、仁和加(にわか)が終つたんぢやないかな。熱い血が腸の中でこねかへしてゐる。不愉快な想像に脅えたカニオさんの、下膨れのした顔は涙で湿つて脚光の閃めきに、何だか大きく見えるやうな気がした。それからカニオさんは次中音(バリトン)

  笑へ、道化師(バリアッチ)

  破れた愛を

  胸を(むしば)む苦しみを

 と啜り泣きながら朗らかに歌ひ出した。その歌声が女にしみ透るやうに思はれた。

「もう沢山だわ」

 と彼女は呟いた。

「どうしたの」

「妾帰りたいの」

 小助(こすけ)はそッと立ち上ると青褪めた廊下に出た。窓の外は暗く病んでゐる。劇場の外に出ると、ひんやりと冷たい夜霧が睫毛(まつげ)をぬらした。

 江美子は沢山の房々した髪の毛を、ぐるぐるとねぢつて無造作に頭の上に巻いてゐた。若い後姿である。天鵞絨(びろうど)のコートをきて、黒いヴェルヴェットの襟巻で深々と顔の下半面を隠して、草履(ざうり)で歩いた。数寄屋橋を渡る時に、あのにごり江のやうな河面(かはも)に五彩の華やかな電気が影を落してゐた。

 ……笑へ道化師(バリアッチ)よ……

 小助はふと口に出して歌声を真似てみた。ひよつとすると江美子が振り向くかと思つた。彼女は黙つて足を小刻みにつゝと運ばせてゐた。

「ネ、小助さん」と暫らくしてから彼女は言つた。電車の騒音のために途切れ途切れにしか女の言葉がわからなかつた。「妾には、第二幕はもう、ちやんとわかつてゐたのヨ。屹度カニオが、シルヴィオとネッダを殺すんでせう。それで喜劇がお仕舞ひなんぢやなくつて」

「本当にさうですよ」

「だけどネ、小助さん。貴方はちやんとした方だから、よく覚えて頂戴。(わたし)には子供があるんですわ」

「さう。二人――だけど直き忘れて仕舞ひさうだけれども」

「え、上は女の子で、下は男の子なの」と彼女は小助に(かま)はずに言葉を続けた。

「さうさう。しかし貴女はちつともお母さんらしく見えない」

「アラ。妾の言ふのは、さういふ意味ぢやないわ」

「まあ、どつちだつて好いぢやありませんか」

「いゝえ。よかないわ。だつて、それが肝心なことぢやないの」

「ところで僕も、貴女に答へたいのは、私には妻もあれば、子もあると言へると大変好い都合なんですがね」

「まぜつ返しちや不可(いけな)いわ」

「まぜつ返しやしません」と小助は瞬間、真面目な表情をした。

「ただ、僕が幸福でないやうに、貴女もあんまり仕合せさうぢやないから」

「だから妾が幸福にしてあげるまで、気長にお待ちなさいと言ふのぢやないの」

「だつて――」

「さうだわ。貴方はあんまり子供らしい顔をしてるんですもの」

 小助は苦笑した。するとキッドの手袋を穿()めた、うねうねとした長い腕が彼の口の端を軽く突いた。ジャスミンの匂ひがする。彼女はさうしてアハヽヽヽヽと高く声を出して笑つた。

 実際、彼女は自分だつて鳥のやうな気紛れな動物で、どつちの方角に飛んでゆくものかわかりやしないのだ、といふことを余程小助に話さうかと思つたのだ。江美子は自分の短い過去を振り返ると、処女はまるで淋しい毛物(けもの)のやうであり、人妻はまるで気紛れな鳥のやうなものだと思つたりした。

 

 とろけるやうな愛撫を想念することはあつたが、さて素晴らしい男性の夢も見なかつた。彼女の腰が蜜蜂のやうにふくらみ出した頃、沢山の青年が彼女をめぐつてゐたが、どれも気に入らなかつた。あんまり髪毛に香油を塗りすぎたり、女のやうな着物をきすぎたり、色の変つた手巾(ハンカチ)を持つてゐたり、絶えず指を動かしてピアノに堪能であることを示す男だつたり、頬骨が出すぎてゐたり、鼻加答児(びカタル)であつたり、いろいろな欠点が目についてならなかつた。彼女の母親は

「娘といふものは空気のやうなものだ」

 と言つてゐた。しかし自分では何だか、艶やかな光沢を持つた毛皮につゝまれてゐる豹のさびしい姿が聯想された。

 しかしそんな事はどうでもよかつたのだ。美しい、強さうな豹である彼女の求婚者若しくは求愛者は余りに小市民的で、弱々しい魂を不安に(をのゝ)かせながら、隙間さへあれば舌を出して嘗めようとしてゐたのだ。

 彼女は或る時、左の小指に傷をした時に紅絹(もみ)の切れで指を(ゆは)へてゐた。すると色の白い青年が同じところに、矢張り赤い切れを結んでゐたので、その青年を好きになることが出来なかつた。さういふ小さな偽善にあきあきして仕舞つた。さうしてストリンドベリイの「伯爵令嬢」を読んで、彼女は自分の古い上着を脱いで仕舞つた。

 

 江美子はそれから結婚した。夫は金満家の長男で、無能が彼を沈鬱にし、富といふ借金のために卑屈な性質を植ゑつけられてゐた。彼女は言つた。

「妾の平凡な身の上話だつてロマネスクに聞えるでせう。日本の家庭の女性はすべてがロマネスクです。誰だつてノラのやうにして家を捨てる婦人はありやしませんわ。恐らくその代りユリエのやうにして、どつちかの道を取らなくちやなりません。自殺か、良心の苛責か、叱責か、恥をかくか、駆落か、それから……」

 と訴へるやうな調子で言つた。そのうちに彼女は二人の子供を生んだ。けれども彼女の羸弱(るいじやく)な身体は二人の生長しなければならない者を育てることが出来なかつた。彼女は家鴨(あひる)のやうに子供を実家の古巣に置いて、漸く生きてゐた。

 彼女は尊敬することの出来ない夫のために、どうかして彼を愛さうと努力した。彼は一日何にもしなかつた。何かしてゐるとコンダクターの真似をして火箸を打ち振りながら首を動かしたり、ピアノラの音楽でベヱトオフェンの第五シンフォニイに聞き惚れたり、アルバムに絵葉書をはさんだり、本の装幀のことを考へたり、さうでないと大概ぐうぐうと眠つてゐた。

 青い血筋のすいて見える彼の額を見てゐると、江美子はその中に海綿か、腸詰めが三つばかりしか這入つてゐないやうに思はれた。

(わたし)は彼を憎いと思つたことはたゞの一度もないわ」

 と彼女は心の中で言つた。その代り彼女は夢のうちに

「その代り、妾は新婚の旅の朝、浜松で夜が明けて、車窓のどちらを見た時もたゞ、ほろほろと涙が出ただけだつた。さうして涙に烟つた目で見る風景は、(ふた)つとも空と水であつたッけ」

 それゆゑに彼を尚更憎む理由がない。(かへつ)て新婚の夜、箱根で見た冷たい月が、いぢらしい彼女自身を照らしてゐただけなのを不憫に思つた。彼女が結婚したのは、ほんたうに小さい時だつた。掌の上に載せても好い位の小娘の時だつたから、たゞ穏和な鹿の子のやうに彼に追従したのに過ぎなかつた。

 額の狭い、鼻のこんもりと高い、眼のきつと吊しあがつた、唇の薄い、一握の痩せた花嫁。

 そのうちに彼女の夫は横浜のS銀行につとめるやうになつた。優柔不断な、頼りない、心細い、卑屈な、幾分か懶怠(らんたい)で、自尊心の強い、けれども鷹揚な、薄ぼんやりで(けち)な夫が、朝寝坊をやめて洋服をしやんと着こみ、てくてくと東京の郊外から横浜の銀行に通ふのを見ると、彼女は心を引き立てて、やさしく愛撫しながら送り出してやつた。毎朝きちんと八時に家を出ると、夕方六時にはちやんと帰つて来た。

頭取(とうどり)といふ人は頭の禿げた、しかし立派な紳士だ。それから僕の下で働いてゐるタイピストは可成り英語が出来るよ。銀行のバルコニィからは港がまる見えで、素晴らしい汽船や軍艦が見えるのサ。お午は地下室の食堂で定食を食べるんだよ。働くから好く食べられるよ」

 などと夕食の時など際限なく夫は物語つた。

「今度、買物に行きたいから横浜へ一所に行つて下さいネ」

「あ。電話をかけると停車場まで迎へに出てやるヨ。横浜の高島屋は一ぺん行くと好いね」

「さう?」

「すてきなシャルムーズがあるよ」

「まあ。あれは猫のやうな手触りネ」

「さうだ。あれを西洋人は寝着(ねまき)にするんだとサ」

 江美子は然し、夫の帰る時間が、そのうちにだんだん早くなるのに気がついた。

「少し頭痛がしたから」だとか「頭取の用事で東京の本店に来たから、それで早く引きあげた」とか、何だとか(かん)だとか言つて出渋りだした。それで彼女は夫が出かけると間もなくこつそりと夫の跡をつけて行くと、彼は銀座のカフェーで茶を飲んで、ゆつくりと新聞を読み終へてから、横浜に行つた。彼女は違ふ車室で彼を眺めてゐると、いぎたなく居睡りをしながら十一時頃に桜木町に着いた。さうして停車場の二階で食事をとると、海岸通へ抜け、グランドホテルの前で碇泊してゐる船を眺めてゐるのだ。浮浪人や、西洋人の子供を連れたアマさんや、港見物の田舎者や、油をうつてゐる小僧や、飴湯売りの老人や、供待ちの車夫や、異人相手の淫売婦などが、腰かけてつれづれな港の真昼時を、彼も亦、ベンチの一端に腰を下ろして煙草を喫つたり、雑誌をひろげてみたり、口笛でオペラの一節を歌つたり、活動写真の広告屋と無駄話をしたりしてゐるのだつた。それを松並木の下の鉄柵のところで、ショォールで顔をかくしてはゐたが、彼女は判然(はつきり)と夫の姿を見出すと、訳もなく泣かされて仕舞つた。

 その癖、彼女を

「僕は限りなくお前を愛してゐるのだ」

 と邪気なく(いつ)も言つて退()ける彼だつた。彼女は黙つて引き返して、二度とそれを夫に言はなかつた。江美子は彼を鞭打つやうにして、人と同様に励ますことを恐れた。さうすると彼は火箸を振りながら機嫌の好い時はコンダクターの真似をした。

 

「江美子。僕が()し、僕の存在のために貴女が必要だと言つたら貴女はどうする?」

「だつて小助さん。妾が貴方を好きになれなかつたらどうするの?」

 小助は黙つて頭を振りながら、両眼を閉ぢた。瞬間、彼女は

「妾は貴方を小助さん、好きになりたいのヨ」

 と言ひたかつたのだ。

「夫がこれを聞いたら何と言ふだらう。妾はイケない淫奔な鳥だわ」

 彼女は唇を噛みしめた。小助が眼を開いた時に、紅い彼女の唇が()ぢれてゐた。江美子は、夫の小助に対する不愉快な嫉妬を口惜しく思つた。

 

 然し彼女は何時も

「小助さん、そんなに責めないで頂戴ネ。妾はめつきり痩せてきたのヨ」

 と返事をしてゐた。彼女は、彼が自分の生んだ子供を、生みの子のやうに可愛がる本当らしい嘘をどうすることも出来ないで眺めてゐた。

「この子はいやネ。お母ちやんそッくりで(ひど)い焼きもち屋だわ」

 彼女がさういふのを聞くと忽ち嫉妬心が小助を苦るしめた。実際、小さい彼女の長女は小助にさへ嫉妬を持つてゐた。同様に小助にも彼女の子供は可成りな不消化物だつた。また嫉妬深く、さうして多分に色気のある。無能で、腑甲斐ない夫とした不幸な結婚を、いくらかでも彼女自身「母型の完成」のためにいよゝロマネスクに、いよゝ道徳的進化の跡を示しつゝあるのを見ると、小助は自身もそれに参与したい気持が湧然と起ることもあつた。

 

 ベランジュにとつて女は光輝(グロアル)であつた。それは本当ぢやないか。よしんば恋人でなくても。

 ナポレオンにとつては、女は単に子供を生みさへすれば好い。それだつて江美子にしては本当に履行し得た美徳の一つには相違ない。何故なら子供があつたつて恋愛が出来ない訳はないからである。

 江美子はより多く機微を掴んでゐる。だから彼女は縞馬のやうな小助には、ヂエルメエヌの言葉のやうに

「たとひ妾がどうあらうと、また貴方がどうあらうと、妾は貴方の生活の中に、夫の家の中に、さうして子供の側に居残りますわ」

 と言つてゐた。小助は跳ね上りながら、この苦行に堪へなければならなかつた。

 

 小助の下宿してゐる家へ彼女が訪ねて来た。彼が菊坂の古道具店で買つてきた渋色の籐椅子に、彼女はジョーゼットの贅沢な単衣(ひとへ)に、博多の帯をしめて、汗ばみながら腰をかけた。帯止めの青緑色をした翡翠(ひすい)が、けざやかな夏を想はせた。陽の(かげ)る窓に椅子をよせても、ナポリ人のやうに死にたくなるやうな暑い日だつた。

 江美子が訪ねてくれない方が小助には愉快な時もあつた。けれども概して不安だつた。アイスクリ−ムは乳酪(バター)のやうに融けて、銀の匙が温まつてゐた。彼女は謎めいた話の好きな時は、大抵、他人よりも行儀正しかつた。意味ない会話を交へてゐる時には、彼等も神秘的な話題を捕へることが出来た。

「小助さん。貴方はネッダのやうな女が好きでない?」

 彼女は突然言つたもんだ。

「さあ」

「男の方つて、みんな()んな気がするの。ネッダといふ女は、情婦よ。下品ネ」

「なるほど……」

「嘘()きで、だらしがなくて、残酷なところがあつて」

「お洒落で」

「さう。あの続きを聞かしてくれない?」

「つまらないぢやありませんか。聞きたい位なら、一層あの時見ると好かつたのに」

「妾わかつた気がしたの」

「どう?」

「ネッダがどうしてもカニオを愛することが出来ない理由がわからないでせう。それだつて、どんなに厭なカニオだつて、カニオの側近くに生きて、遠くから人を忍ぶやうに完全に(完全にヨ)愛してやることが出来ない筈がないと思ふわ」

「フン。有りふれた貞婦ですネ」

「もう少しお聞きなさい。ネッダは今少しでカニオの幸福な妻であることが出来たのヨ」

「だからシルヴィオが言つてるでせう。もう少しで、僕の妻になるところなんだつて」

 彼女は椅子の背に凭れて、いやいやをしてゐた。小助は息苦るしくなつた。

 彼女の髪の毛から発散する匂ひが、小助を横柄に彼女の心の外見を装つてはゐられなくした。麻痺が来た。小助は彼女の狭い額を見つめてゐた。江美子は一寸ほどに前髪を切りさげて、いとゞ狭い額を蔽つてゐる。

「小助さん。ネッダの髪は赤い毛だつたかしら」

「赤かつたネ」

「赤毛の女は嫉妬心が強いんですッて」

「ほう」

「それにネッダに扮してゐた女優は、なんて痩せてゐたんでせう」

「鶴のやうだつた」

「さうヨ。妾も小さい時分は、あんなに痩せてゐたわ」

「どうしてだらう。今だつて痩せてゐる。肥れないんだネ貴女は」

「え。多分、余剰感覚のせゐネ」

 小助は、はッと思つた。何だか痩せた女の一つの資格のやうに考へられた。彼女は又

「妾、夜は寝られないのヨ。それに見たくない夢を切れ切れに見るの。妾は針の落ちる音も聞きわけるわ。そしてどんな暗闇の中ででも、ちやんと蚤を捕まへちやふのヨ。そりや不思議だわ。髪の毛がよく洗へて油の落ちる日は機嫌が好いの。さういふ日はだけど滅多にないわ。爪の色が好い日は妾には、屹度(きつと)好いことがあるの。さうして目の(くま)が黒ずんで見える時は、まるで凡庸だわ……」

 小助は熱つぽい舌の上でとろけてゆく冷菓子を味ひながら、この怪奇な感情を多分に持ち、稲妻のやうな感覚を備へてゐる彼女を、またしても深く愛してゐることに驚いた。

 

 或は、透明なボイルの単衣(ひとへ)に包まれてゐる餅肌と、乾枯(ひから)びた心と、玻璃(はり)のやうな魂と、仏像のやうに長い指と、マニキュアをほどこした桃色の形の好い爪と、三つ顔にある黒子(ほくろ)と、吊り上つた切れの長い眼と、麒麟のやうに長い足と、それらのものが奏するところのシンフォニイが彼女の魅力であつたかもしれない。

 

 星月夜だつた。街を行き交ふ人々は白い浴衣(ゆかた)地に、藍色で草花を描いたり、薄紫で藤の花を置いたり、桃色で格子をつくつたりした着物をきてふらふらと歩いてゐた。黒い街路樹のある風景をアーク燈が煌々と照らしてゐた。

 彼女は派手な単衣をきてゐた。それは裾の方に玉虫色の(すゝき)をあしらつて、袂に月が懸つてゐる図柄だつた。この絹物の透明な美しさが、彼女の脂つこい白い肌まで映して、夕月のほのかな匂ひが立ち()めてゐるやうなものだつた。

 あかあかと灯を点けた電車は、あやめ白粉の香と絵団扇(ゑうちは)とを満載して走つて通つた。打ち水が涼風を起し、軽い裾を吹きまくつて、みづみづしい(すね)を紅いものの間から見せた。

 水菓子屋の店頭には大人の頭ほど大きい水瓜(すいくわ)がころがつて、それらは一々に深い、こまやかな陰影を造つてゐた。その隣りの小間物屋には、銀の平打(ひらうち)だの、香油だの、牡丹刷毛だの、水クリームだの、赤い手絡(てがら)だのが雑然と飾窓にならべてあつた。それらの一つ一つは悉く一種の不可思議な夢を吐いてゐる。またその隣りは葬儀屋で、棺桶だの、寝棺だの、造り蓮花(れんげ)だのが店頭に飾つてある。精霊(すだま)をむかへる樺の火を一番たんと燃やした家で、今でも軒先に牡丹燈籠をつるし、白張提灯に蝋燭をともして、陰気な空気をかもし出してゐる。その向ひの貴金属商の店は、白金や金や銀やニッケルの時計が、各々めざましく自分自身の時を報じながら燦然と輝いてゐる。ある時計は午前二時を示し、ある時計は午後八時を示し、ある時計は眠り、ある時計は十三時を鳴らした。

 人力車はバナナの皮にすべり、子供は父母の真似をして遊んでゐる。犬は真夏の夜の夢に遺精し、漆喰(しつくひ)のこはれた溝から蚯蚓(みみず)が啜り泣いてゐた。

 鳥打帽子を目深(まぶか)にかぶつた不良少年はハーモニカで「カルメン」のハバネラを快よく奏した。まだ月経の初潮をも見ない小娘は、赤い人造絹の手巾を手にまさぐりながら牛肉屋の肉切りと巫山戯(ふざけ)てゐる。明るく、晴れ晴れとした、暑い、汗のにじみ出る、すべてが()んじた夏の夜更けだつた。

 彼女と小助とはぶらぶらと散歩をしてゐた。江美子は夏痩せでいとゞ身体が細つて見えた。小助はいつぞや自分の下宿で過ごした数時間を楽しく回想した。彼女と別れた後、彼は苦い憂愁を感じた。しかしまた逢へば、心臓を痙攣させられた。

 小助は無帽に浴衣の着流しで伏目に水溜りを拾つて歩いた。彼女の着物の裾から白く小さい、よく爪の生え揃つた足がのぞいてゐた。

(わたし)、こなひだは半分は貴方のためにお訪ねしたのヨ。それなのにお留守だつた――」

「そりやア……」

「半分は無論、妾のため。それも買物の(ついで)に一寸寄りたかつたのよ。でも半分はわざわざよつてあげたのに」

「僕のための半分といふのは何ですか」

「恩にきるほどのものかどうかわからないわ。でも貴方はなかなか古めかしいものがお好きだから、あげたいと思つたものがあつたの」

「へえ」

軸物(じくもの)ヨ。随分、古いらしいの。何でも長い間、手入れもしないで、うつちやらかしてあつたの。康煕(かうき)年間の支那人の書ヨ」

「ほう」

「好いものか、どうかわからなくつてヨ。でもお約束するわ。何だか今夜はうかないのネ。どうかしてるわ。屹度妾の病気が伝染したのネ」

「どうも然うらしい」

 彼女はあきれたやうな目つきをして小助を眺めた。

「それぢや一体、この病名は何ていふのでせう。西洋流にいふと、害虫はもう成熟した果物の中にはいりきつて仕舞つてゐるのネ。そして妾なんか、得体の知れないことで可笑(をか)しがつてゐるのは、まあ、コンヴァレッサンスだわ」

「なるほどネ。江美子。モオランに言はせると、それは明らかに犠牲にされた一ジェネレーションださうです。だから悉くの男は神経病を患ひ、あらゆる女は感覚鈍痺のために齷齪(あくせく)と刺激を(もと)める。痛ましいぢやありませんか」

 痛ましいと言ひながら小助は、自分の恋愛を情事の一方法としては取り扱ふことが出来なかつた。結局、彼女が小助を愛してゐないやうにしか見えなかつたので。

「妾は相かはらず、よく夢を見るの。こなひだは夫の死んだ夢を見ました。また、その前の晩は子供の死んだ夢を見たのヨ。妾は夢を見たいと願つた晩は、たゞの一晩だつてありませんわ。さうして夢を記憶してゐたいとは尚更ら思はないの。野菜の夢を見た時は、妾は胃が整つてゐる時です。右を下にして寝るときまつて貴方を夢に見るの。またその反対に左を下にして寝ると、歯の欠ける夢になるわ」

 彼等はだんだんと淋しい町筋を歩いた。小助は放心したやうになつて、彼女の物語を聞き惚れた。時として小助は眠つてゐる意識がゆるやかに活動することもあつた。それは彼女の内懐(うちぶところ)に咲き乱れたジャスミンの花の匂ひを嗅ぐからだつた。すると見たこともない伊太利のモンタルトの小邑(せういふ)を、かうして遠く離れて夜さまようてゐるやうな気がするのだつた。

「妾は、よく夫の死ぬ夢を見ると先刻(さつき)も言つたわネ…‥」

 と江美子が言ふのだ。何の話の続きで、その話がどう展開して行くのか彼には、てんで想像することは出来なかつたが、しかし小助は返事をする代りに、

  笑へ道化師(バリアッチ)

 江美子の甲斐ない夫がこれを聞いたら、何と思ふだらうと考へてゐた。とにかく彼女が心の中ではどれほど遠くにあらうとも、さうして現在ではどれほど二人が独自の生活を営んでゐようとも、社会的には、ひいては法律的には、愚鈍な彼女の伴侶は「夫」といふ栄冠を戴いてゐるのだ。すると彼女は

「それ(ばか)りぢやないわ。妾は自分の花嫁姿をまた新たに、鮮やかに見るの。これはどうしたといふんでせう。ありふれた生理的作用でせうか。あたりまへの心理的現象なんでせうか。しかしそれはどつちだつて好いわネ」

「さう」

「けれども妾は、本当に花嫁でせうか?」

 と江美子はあきらめたやうな身振をした。小助はまた返事を逃がした。

「妾には子供があります。妾は健康ぢやありません。恋をするには妾は自分では老い込んで来たと思つてるの。それにもう妾には華やかな色がありません。自由な考へ方も出来なくなつてゐますわ。だと妾は憐れむべき動物ぢやなくつて」

 小助は嘆息した。

「でもネ小助さん。よく見る夢では、妾は可愛らしい花嫁ですわ。さあ、何と言つたら好いでせう」

 彼女は心から悲しんで、これを表現したく思つた。小助は言つた。

「その花嫁なら、僕にも美しさがよくわかる。何故なら、一度も所有したことのない婦人を、男は異常に愛するからです。初恋といふものはみんな斯うしたものだ。貴女が、夢で見る花嫁は――」

「さうなのさうなの。妾が知りたいといふことは、さういふことだわ。妾は自ら進んで花嫁になつたのぢやありませんもの」

 江美子は殆んど眼に涙を溜めてゐた。

「妾は、妾が花嫁であるといふことさへ忘れてゐました。妾は妾の指に、あの人の指環を嵌められることは、一生、鉄の鎖で縛られるやうに思ひました」

「江美子。さういふお伽話がありますネ。魔法使に指環をはめた為めに、その魔法使は通力を失ひました。これは何を意味してゐるかわかる? 貴女があの人の指環を指にはめたことは、貴女の運命を約束したのですヨ」

「さうなんです。でも、妾の生涯をまで約束したとは思ひません」

「それは少くとも新らしい考へ方だ」

「さうオ?」

「さうですとも。それは少くとも新らしい、許婚の約束に対する一つの定義ですね。さうでないならば貴女は単なる詭弁家に過ぎませんネ」

 彼等は何時の間にか、彼等の面前に大きな蓮池が展開してゐるのを見た。イルミネーションの素晴らしい光彩が火の粉を水面に落してゐた。夜風が軽く吹いて、その上に縮緬(ちりめん)の皺をこしらへてゐた。水の色は青黒く濁つて腐敗した匂ひを放散してゐた。

 活動写真小屋から急速な、さうして力強いトロンボーンの声が流れてきた。彼等は池に沿うた欄干に凭れ合つた。

「江美子。貴女は何故、花嫁の夢を、そんなに頻りに見るかわかりますか。それは不思議な力ぢやありませんか」

「何故でせう」

「貴方は巣立ちしようとする鳥にならうとしてゐるのぢやありませんか」

「妾の羽根は未だ重いわ」

「では僕は、それまで待つのですか」

「?」

「僕の子供らしい表情も、此頃では泥棒のやうに悪化して来てゐるのを感じます」

 小助の声は顫へてゐた。江美子はまた唇を(よぢ)つた。しかし笑ひながら言つた。

「アラ。小助さん。どうしたの。そんなに黙つちやつて、何を考へてるの」

「江美子。貴女のことを……」

「妾。帰つてヨ」

「もう少し……」

「だつて遅いんですもの」

「もう少し……もう少し……」

「たつた一言」

「いゝえ」

 彼女の声も顫へを帯びてきた。

「江美子……」

 小助は両手で顔を蔽うた。彼女は青褪(あをざ)めて倒れるやうに、逃げるやうな足取りですたすたと歩きはじめた。小助は黙然と彼女の痩せた背姿(うしろすがた)を見つめてゐた。さうすると涙がぽろりと落ちてきた。

 彼女は、危く泣き出したいのを堪へて呟いた。

「妾は貴方を恋してゐると、今、気がついたわ……」

(大正十四年一月「婦人公論」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/07/04

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

今 東光

コン トウコウ
こん とうこう 小説家 1898・3・26~1977・9・19 神奈川県横浜市に生まれる。小説「お吟さま」により直木賞。 鏡花・荷風・潤一郎を愛読し、不羈奔放の青年時に川端康成の推薦で第六次「新思潮」同人となり、菊池寛や芥川龍之介にも識られたが、終生いわば谷崎愛の作者で、数少ないほぼ唯一の弟子であった。一時期文壇を遠のいていたが戦後に直木賞で復帰し、以降の猛文士ぶりは天台宗大僧正の地位や参議院議員全国区高位当選などとともに広く知られた。

リリシズムの甘い憂鬱を秘めた掲載作は、「婦人公論」1925(大正14)年1月号に初出の初期代表作。夫人フミ子との出逢いを書いた愛妻モノという作者自認のかげに、作の年代から推して今少し角度を異にしたべつの体験、たとえば谷崎・佐藤春夫らのヒロインたちが絡んだ哀歓であるのやも知れぬ。不思議にハイカラで穏和な、しかも荒削りの生地の匂う抒情作である。

著者のその他の作品