痩せた花嫁
調子外れのラッパが鳴つた。
タンタカタ
タンタカタ
トテ、チテ、タ。
そのコルネットの爆発性を帯びた笑ひ声は、まるで千八百七十年代の小さな、いたつて下らない出来事を嘲るやうに鳴り響いた。
――幕が開いた。
「あれは何ていふの」
「モンタルトの村です」
「
「さう」
「伊太利モンタルトの村の場景つていふの」
「さう」
「面白いの? 面白くないの?」
「今におもしろくなりますよ」
「さう」
陽気な太陽が照り輝いてゐる。ナポリの人は、さういふ太陽を見ると死にたくなるのださうだ。嘘か本当か誰も知らない。けれども
春だ。
村の男や女が祭日らしく美装して、しかしそれもたかだかカラアが目立つほど白ッぽい位ゐだ。ぞろ、ぞろと出て来た。眠つてゐた猫が目を覚ますと、鶏を追ひかける。羽根がパラ、パラと舞ひあがる。その猫を追ひかけて貴婦人のつれて来たテリア種の犬が駈け廻る。暫らくするとその犬がダラリと赤い舌を出して戻つて来た。
太鼓の音と、ラッパの音とが馬鹿らしく長く聞えると、犬が
旅役者の一行が村の入口で馬車を止め、ラッパを吹いてから、村に
「これからどうなるの」
「その続きを見ようといふのですよ」
座長のカニオさんは肥つてゐる。あんよが苦しさうだ。よつちら、よつちらと車から降りると
ド、ドン、ガ、ドン、ドン
ド、ドン、ガ、ドン、ドン
と人寄せ太鼓を鳴らして、もう充分に村人が集つたと見てとると
「今晩、七時から素晴らしく面白い狂言を御覧に
「そんな事が出来るの」
「さあ、僕ならば我慢が出来ませんね」
「いけない
座長のカニオさんはさんざ
「この野郎ッ。人の女房にまで親切を忘れやがらねえ。その親切は、手前だけで沢山だ」
コツンと一つ拳骨をくらはした。
「もう喜劇?」
「少し早過ぎますヨ」
「さうネ。あんまり喜劇ぢやないわネ」
「カニオさん。要心なさい」
「有難う」
「七人の子は成すとも……ネ。あれですよ。お上さんの手帳にや、ちやんと土曜日の晩にやトニオと恋をすることを忘れないことと書いてあるかもしれねえ」
「いや。有難う。そんな手帳なら焼いて仕舞ひまさあ」
「それが好い」
「これ、ネッダ。覚えて置け。今いつたことは
「それも喜劇かネ」
「どう致しまして。歌の文句ぢやないけれど
私は妻を愛してゐます
おわかりでせう。皆さん」
「好い言葉ネ」
「何にも言はずにいらッしやい」
鐘が鳴つた。
「今迄は、まるで手風琴の嘆きですよ」
「さうでせうか」
「私は妻を愛してゐます。チェッ。
「
「何故――」
「私は妻を愛してゐます」
「さう」
「しかし……」
「?」
「妻は夫を愛してゐないかもわからないことヨ」
「さう」
「だと悲惨ね」
紅い燈火が
「シルヴィオ」
「ネッダ」
「
男は黙つて彼女の手を握つた。彼女は青い目玉で何かを探してゐる。ひよつとすると幸福かもしれないのだ。
「
「そんなことが――」
「いゝえ。妾の言ふことに間違ひがありませんわ」
「ぢや。どんな証拠をカニオが見つけたんだらう」
「妾の青い目を見過ぎましたわ」
しかし彼女は機会さへあれば、この恐ろしい冒険に身を任すことが嫌ひではなかつた。一つには彼女の肉体的勇気がさうさせるかもしれない。ところで彼女は「バラテラ」と言はれて、あまねく人に知られてゐる唄を歌ふ。
すべての鳥は
或る不思議な力に追はれて
思ひもかけないところに
てんでに行く
「女つて空気のやうなものに思はれない?」
「少しは気紛れらしいけれど」
「けれども、女心となると、もうちつと違ふところがあると思ふわ」
「成程、羞恥心が残るからでせうね」
ネッダは、自分の凡庸な智能で判断してみて、自分が余り鳥と相違がないと思ひ出した。
ネッダはまた一人きりになつた。彼女は怠け者らしい格好をして、肉感的な表情で待つてゐる……それは或る不思議な力を待望してゐるのだ。
トニオ野郎が忍び足でネッダの腰を抱いた。
「何をするのッ」
「怒らないで下さい。ネッダの奥さん」
「触らないで下さい。妾は今晩少し不機嫌なんですからネ」
「しかし私には何時も不愛想ですね」
「それぢやなほのことかまはずにおいて頂戴」
「それでも私が、
「かうしてやるばッかり」
ペッペの鞭がくるくると宙に舞ふと、トニオの顔をぴしやりと
「ネ。シルヴィオに扮してゐる役者は美男子ネ」
「少し色男すぎますよ」
「だけど眼が素晴らしく奇麗だわ」
「しかし毒々しい点が多過ぎますね」
「え。でも歯が大変に見事だわ」
「
シルヴィオは
「ネッダ。私はお前をどんなに愛してゐるかわかるか。私の心はお前の方を見つめてゐる。まるで
「わかつてヨ」
「ネッダ。私は厚かましい男だらうか。私は泥棒のやうにカニオの懐中からお前を盗みたいのだ」
「そんな無鉄砲を考へちやいけないわ」
「私は何でも手つ取り早くやりたい。お前は私と直ぐに逃げてくれないだらうか」
「さうすると、どうなるの」
「二人で旅をするのだ」
「それから」
「夢のやうな世界へ行くのだ」
「それから」
「それから? ……それで
「いゝえ。
「すると――」
「二人が身を滅すばかりだわ」
「そんなそんな……」
「いゝえ。止して頂戴。妾はそんな話だけで沢山だわ。それにシルヴィオ、妾は貴方を失ひたくないの」
「私もさうだ。ネッダ」
「さうでせう。だから、そんな危い綱渡りは堪忍して頂戴ネ。妾は
「それぢや、どうすれば好いんだ」
「このまゝが好いの。ネ。そうッとして置いて頂戴」
実際、その時のネッダの痩せた身体は、ゴム風船のやうに膨れたかと思はれた。香油で磨き立てた彼女の肩の肉にシルヴィオは接吻してゐる。その
それを立木の小暗い影でトニオが眺めてゐた。さうして不純な痛快味を味ひたいために座長のカニオさんを呼んできた。シルヴィオは傍の石垣を乗り越しながら、力強い魔法の手をさしのべ、
「
と言つた。彼女は石垣の上に跨つてゐるシルヴィオの方に顔をさし伸べ、脂つこい咽喉の美しい曲線を見せながら答へた。
「今夜まで。……また、これからも一生
「あッ」
とカニオ座長さんは声をあげた。瞬間カニオさんの肉づきの好い
「早く逃げて――」
と鳥の啼くやうに叫んだ。あんよのお
「そんな筈ぢやない」
カニオさんは必死になつて、ネッダを突き飛ばして、男の後姿を追ひかけた。暫らくするとカニオさんは、のつしのつしと指の爪を噛みながら戻つてきた。
「ネッダ。あの男は誰だ」
「知りませんヨ」
「何んと云ふ名前の男だ」
「知らないッたら」
「それなら泥棒だらうな。だが、言つて置くが、お前は安女郎のやうな真似をしないでくれ」
「ふむ」
ネッダは口笛を吹いて、腰に手をあてて
「おのれッ」
カニオさんは
「座長さん。心を鎮めて芝居をしなくちやいけませんぜ」
「わかつたわかつた……」
「ようがすか。心を鎮めて、心をネ」
「よろしい。わかつたといふのに」
カニオはぼろぼろと涙を流した。白粉をつけ、滑稽な衣装を着て、これから茶番を
笑へ、
破れた愛を
胸を
と啜り泣きながら朗らかに歌ひ出した。その歌声が女にしみ透るやうに思はれた。
「もう沢山だわ」
と彼女は呟いた。
「どうしたの」
「妾帰りたいの」
江美子は沢山の房々した髪の毛を、ぐるぐるとねぢつて無造作に頭の上に巻いてゐた。若い後姿である。
……笑へ
小助はふと口に出して歌声を真似てみた。ひよつとすると江美子が振り向くかと思つた。彼女は黙つて足を小刻みにつゝと運ばせてゐた。
「ネ、小助さん」と暫らくしてから彼女は言つた。電車の騒音のために途切れ途切れにしか女の言葉がわからなかつた。「妾には、第二幕はもう、ちやんとわかつてゐたのヨ。屹度カニオが、シルヴィオとネッダを殺すんでせう。それで喜劇がお仕舞ひなんぢやなくつて」
「本当にさうですよ」
「だけどネ、小助さん。貴方はちやんとした方だから、よく覚えて頂戴。
「さう。二人――だけど直き忘れて仕舞ひさうだけれども」
「え、上は女の子で、下は男の子なの」と彼女は小助に
「さうさう。しかし貴女はちつともお母さんらしく見えない」
「アラ。妾の言ふのは、さういふ意味ぢやないわ」
「まあ、どつちだつて好いぢやありませんか」
「いゝえ。よかないわ。だつて、それが肝心なことぢやないの」
「ところで僕も、貴女に答へたいのは、私には妻もあれば、子もあると言へると大変好い都合なんですがね」
「まぜつ返しちや
「まぜつ返しやしません」と小助は瞬間、真面目な表情をした。
「ただ、僕が幸福でないやうに、貴女もあんまり仕合せさうぢやないから」
「だから妾が幸福にしてあげるまで、気長にお待ちなさいと言ふのぢやないの」
「だつて――」
「さうだわ。貴方はあんまり子供らしい顔をしてるんですもの」
小助は苦笑した。するとキッドの手袋を
実際、彼女は自分だつて鳥のやうな気紛れな動物で、どつちの方角に飛んでゆくものかわかりやしないのだ、といふことを余程小助に話さうかと思つたのだ。江美子は自分の短い過去を振り返ると、処女はまるで淋しい
とろけるやうな愛撫を想念することはあつたが、さて素晴らしい男性の夢も見なかつた。彼女の腰が蜜蜂のやうにふくらみ出した頃、沢山の青年が彼女をめぐつてゐたが、どれも気に入らなかつた。あんまり髪毛に香油を塗りすぎたり、女のやうな着物をきすぎたり、色の変つた
「娘といふものは空気のやうなものだ」
と言つてゐた。しかし自分では何だか、艶やかな光沢を持つた毛皮につゝまれてゐる豹のさびしい姿が聯想された。
しかしそんな事はどうでもよかつたのだ。美しい、強さうな豹である彼女の求婚者若しくは求愛者は余りに小市民的で、弱々しい魂を不安に
彼女は或る時、左の小指に傷をした時に
江美子はそれから結婚した。夫は金満家の長男で、無能が彼を沈鬱にし、富といふ借金のために卑屈な性質を植ゑつけられてゐた。彼女は言つた。
「妾の平凡な身の上話だつてロマネスクに聞えるでせう。日本の家庭の女性はすべてがロマネスクです。誰だつてノラのやうにして家を捨てる婦人はありやしませんわ。恐らくその代りユリエのやうにして、どつちかの道を取らなくちやなりません。自殺か、良心の苛責か、叱責か、恥をかくか、駆落か、それから……」
と訴へるやうな調子で言つた。そのうちに彼女は二人の子供を生んだ。けれども彼女の
彼女は尊敬することの出来ない夫のために、どうかして彼を愛さうと努力した。彼は一日何にもしなかつた。何かしてゐるとコンダクターの真似をして火箸を打ち振りながら首を動かしたり、ピアノラの音楽でベヱトオフェンの第五シンフォニイに聞き惚れたり、アルバムに絵葉書をはさんだり、本の装幀のことを考へたり、さうでないと大概ぐうぐうと眠つてゐた。
青い血筋のすいて見える彼の額を見てゐると、江美子はその中に海綿か、腸詰めが三つばかりしか這入つてゐないやうに思はれた。
「
と彼女は心の中で言つた。その代り彼女は夢のうちに
「その代り、妾は新婚の旅の朝、浜松で夜が明けて、車窓のどちらを見た時もたゞ、ほろほろと涙が出ただけだつた。さうして涙に烟つた目で見る風景は、
それゆゑに彼を尚更憎む理由がない。
額の狭い、鼻のこんもりと高い、眼のきつと吊しあがつた、唇の薄い、一握の痩せた花嫁。
そのうちに彼女の夫は横浜のS銀行につとめるやうになつた。優柔不断な、頼りない、心細い、卑屈な、幾分か
「
などと夕食の時など際限なく夫は物語つた。
「今度、買物に行きたいから横浜へ一所に行つて下さいネ」
「あ。電話をかけると停車場まで迎へに出てやるヨ。横浜の高島屋は一ぺん行くと好いね」
「さう?」
「すてきなシャルムーズがあるよ」
「まあ。あれは猫のやうな手触りネ」
「さうだ。あれを西洋人は
江美子は然し、夫の帰る時間が、そのうちにだんだん早くなるのに気がついた。
「少し頭痛がしたから」だとか「頭取の用事で東京の本店に来たから、それで早く引きあげた」とか、何だとか
その癖、彼女を
「僕は限りなくお前を愛してゐるのだ」
と邪気なく
「江美子。僕が
「だつて小助さん。妾が貴方を好きになれなかつたらどうするの?」
小助は黙つて頭を振りながら、両眼を閉ぢた。瞬間、彼女は
「妾は貴方を小助さん、好きになりたいのヨ」
と言ひたかつたのだ。
「夫がこれを聞いたら何と言ふだらう。妾はイケない淫奔な鳥だわ」
彼女は唇を噛みしめた。小助が眼を開いた時に、紅い彼女の唇が
然し彼女は何時も
「小助さん、そんなに責めないで頂戴ネ。妾はめつきり痩せてきたのヨ」
と返事をしてゐた。彼女は、彼が自分の生んだ子供を、生みの子のやうに可愛がる本当らしい嘘をどうすることも出来ないで眺めてゐた。
「この子はいやネ。お母ちやんそッくりで
彼女がさういふのを聞くと忽ち嫉妬心が小助を苦るしめた。実際、小さい彼女の長女は小助にさへ嫉妬を持つてゐた。同様に小助にも彼女の子供は可成りな不消化物だつた。また嫉妬深く、さうして多分に色気のある。無能で、腑甲斐ない夫とした不幸な結婚を、いくらかでも彼女自身「母型の完成」のためにいよゝロマネスクに、いよゝ道徳的進化の跡を示しつゝあるのを見ると、小助は自身もそれに参与したい気持が湧然と起ることもあつた。
ベランジュにとつて女は
ナポレオンにとつては、女は単に子供を生みさへすれば好い。それだつて江美子にしては本当に履行し得た美徳の一つには相違ない。何故なら子供があつたつて恋愛が出来ない訳はないからである。
江美子はより多く機微を掴んでゐる。だから彼女は縞馬のやうな小助には、ヂエルメエヌの言葉のやうに
「たとひ妾がどうあらうと、また貴方がどうあらうと、妾は貴方の生活の中に、夫の家の中に、さうして子供の側に居残りますわ」
と言つてゐた。小助は跳ね上りながら、この苦行に堪へなければならなかつた。
小助の下宿してゐる家へ彼女が訪ねて来た。彼が菊坂の古道具店で買つてきた渋色の籐椅子に、彼女はジョーゼットの贅沢な
江美子が訪ねてくれない方が小助には愉快な時もあつた。けれども概して不安だつた。アイスクリ−ムは
「小助さん。貴方はネッダのやうな女が好きでない?」
彼女は突然言つたもんだ。
「さあ」
「男の方つて、みんな
「なるほど……」
「嘘
「お洒落で」
「さう。あの続きを聞かしてくれない?」
「つまらないぢやありませんか。聞きたい位なら、一層あの時見ると好かつたのに」
「妾わかつた気がしたの」
「どう?」
「ネッダがどうしてもカニオを愛することが出来ない理由がわからないでせう。それだつて、どんなに厭なカニオだつて、カニオの側近くに生きて、遠くから人を忍ぶやうに完全に(完全にヨ)愛してやることが出来ない筈がないと思ふわ」
「フン。有りふれた貞婦ですネ」
「もう少しお聞きなさい。ネッダは今少しでカニオの幸福な妻であることが出来たのヨ」
「だからシルヴィオが言つてるでせう。もう少しで、僕の妻になるところなんだつて」
彼女は椅子の背に凭れて、いやいやをしてゐた。小助は息苦るしくなつた。
彼女の髪の毛から発散する匂ひが、小助を横柄に彼女の心の外見を装つてはゐられなくした。麻痺が来た。小助は彼女の狭い額を見つめてゐた。江美子は一寸ほどに前髪を切りさげて、いとゞ狭い額を蔽つてゐる。
「小助さん。ネッダの髪は赤い毛だつたかしら」
「赤かつたネ」
「赤毛の女は嫉妬心が強いんですッて」
「ほう」
「それにネッダに扮してゐた女優は、なんて痩せてゐたんでせう」
「鶴のやうだつた」
「さうヨ。妾も小さい時分は、あんなに痩せてゐたわ」
「どうしてだらう。今だつて痩せてゐる。肥れないんだネ貴女は」
「え。多分、余剰感覚のせゐネ」
小助は、はッと思つた。何だか痩せた女の一つの資格のやうに考へられた。彼女は又
「妾、夜は寝られないのヨ。それに見たくない夢を切れ切れに見るの。妾は針の落ちる音も聞きわけるわ。そしてどんな暗闇の中ででも、ちやんと蚤を捕まへちやふのヨ。そりや不思議だわ。髪の毛がよく洗へて油の落ちる日は機嫌が好いの。さういふ日はだけど滅多にないわ。爪の色が好い日は妾には、
小助は熱つぽい舌の上でとろけてゆく冷菓子を味ひながら、この怪奇な感情を多分に持ち、稲妻のやうな感覚を備へてゐる彼女を、またしても深く愛してゐることに驚いた。
或は、透明なボイルの
星月夜だつた。街を行き交ふ人々は白い
彼女は派手な単衣をきてゐた。それは裾の方に玉虫色の
あかあかと灯を点けた電車は、あやめ白粉の香と
水菓子屋の店頭には大人の頭ほど大きい
人力車はバナナの皮にすべり、子供は父母の真似をして遊んでゐる。犬は真夏の夜の夢に遺精し、
鳥打帽子を
彼女と小助とはぶらぶらと散歩をしてゐた。江美子は夏痩せでいとゞ身体が細つて見えた。小助はいつぞや自分の下宿で過ごした数時間を楽しく回想した。彼女と別れた後、彼は苦い憂愁を感じた。しかしまた逢へば、心臓を痙攣させられた。
小助は無帽に浴衣の着流しで伏目に水溜りを拾つて歩いた。彼女の着物の裾から白く小さい、よく爪の生え揃つた足がのぞいてゐた。
「
「そりやア……」
「半分は無論、妾のため。それも買物の
「僕のための半分といふのは何ですか」
「恩にきるほどのものかどうかわからないわ。でも貴方はなかなか古めかしいものがお好きだから、あげたいと思つたものがあつたの」
「へえ」
「
「ほう」
「好いものか、どうかわからなくつてヨ。でもお約束するわ。何だか今夜はうかないのネ。どうかしてるわ。屹度妾の病気が伝染したのネ」
「どうも然うらしい」
彼女はあきれたやうな目つきをして小助を眺めた。
「それぢや一体、この病名は何ていふのでせう。西洋流にいふと、害虫はもう成熟した果物の中にはいりきつて仕舞つてゐるのネ。そして妾なんか、得体の知れないことで
「なるほどネ。江美子。モオランに言はせると、それは明らかに犠牲にされた一ジェネレーションださうです。だから悉くの男は神経病を患ひ、あらゆる女は感覚鈍痺のために
痛ましいと言ひながら小助は、自分の恋愛を情事の一方法としては取り扱ふことが出来なかつた。結局、彼女が小助を愛してゐないやうにしか見えなかつたので。
「妾は相かはらず、よく夢を見るの。こなひだは夫の死んだ夢を見ました。また、その前の晩は子供の死んだ夢を見たのヨ。妾は夢を見たいと願つた晩は、たゞの一晩だつてありませんわ。さうして夢を記憶してゐたいとは尚更ら思はないの。野菜の夢を見た時は、妾は胃が整つてゐる時です。右を下にして寝るときまつて貴方を夢に見るの。またその反対に左を下にして寝ると、歯の欠ける夢になるわ」
彼等はだんだんと淋しい町筋を歩いた。小助は放心したやうになつて、彼女の物語を聞き惚れた。時として小助は眠つてゐる意識がゆるやかに活動することもあつた。それは彼女の
「妾は、よく夫の死ぬ夢を見ると
と江美子が言ふのだ。何の話の続きで、その話がどう展開して行くのか彼には、てんで想像することは出来なかつたが、しかし小助は返事をする代りに、
笑へ
江美子の甲斐ない夫がこれを聞いたら、何と思ふだらうと考へてゐた。とにかく彼女が心の中ではどれほど遠くにあらうとも、さうして現在ではどれほど二人が独自の生活を営んでゐようとも、社会的には、ひいては法律的には、愚鈍な彼女の伴侶は「夫」といふ栄冠を戴いてゐるのだ。すると彼女は
「それ
「さう」
「けれども妾は、本当に花嫁でせうか?」
と江美子はあきらめたやうな身振をした。小助はまた返事を逃がした。
「妾には子供があります。妾は健康ぢやありません。恋をするには妾は自分では老い込んで来たと思つてるの。それにもう妾には華やかな色がありません。自由な考へ方も出来なくなつてゐますわ。だと妾は憐れむべき動物ぢやなくつて」
小助は嘆息した。
「でもネ小助さん。よく見る夢では、妾は可愛らしい花嫁ですわ。さあ、何と言つたら好いでせう」
彼女は心から悲しんで、これを表現したく思つた。小助は言つた。
「その花嫁なら、僕にも美しさがよくわかる。何故なら、一度も所有したことのない婦人を、男は異常に愛するからです。初恋といふものはみんな斯うしたものだ。貴女が、夢で見る花嫁は――」
「さうなのさうなの。妾が知りたいといふことは、さういふことだわ。妾は自ら進んで花嫁になつたのぢやありませんもの」
江美子は殆んど眼に涙を溜めてゐた。
「妾は、妾が花嫁であるといふことさへ忘れてゐました。妾は妾の指に、あの人の指環を嵌められることは、一生、鉄の鎖で縛られるやうに思ひました」
「江美子。さういふお伽話がありますネ。魔法使に指環をはめた為めに、その魔法使は通力を失ひました。これは何を意味してゐるかわかる? 貴女があの人の指環を指にはめたことは、貴女の運命を約束したのですヨ」
「さうなんです。でも、妾の生涯をまで約束したとは思ひません」
「それは少くとも新らしい考へ方だ」
「さうオ?」
「さうですとも。それは少くとも新らしい、許婚の約束に対する一つの定義ですね。さうでないならば貴女は単なる詭弁家に過ぎませんネ」
彼等は何時の間にか、彼等の面前に大きな蓮池が展開してゐるのを見た。イルミネーションの素晴らしい光彩が火の粉を水面に落してゐた。夜風が軽く吹いて、その上に
活動写真小屋から急速な、さうして力強いトロンボーンの声が流れてきた。彼等は池に沿うた欄干に凭れ合つた。
「江美子。貴女は何故、花嫁の夢を、そんなに頻りに見るかわかりますか。それは不思議な力ぢやありませんか」
「何故でせう」
「貴方は巣立ちしようとする鳥にならうとしてゐるのぢやありませんか」
「妾の羽根は未だ重いわ」
「では僕は、それまで待つのですか」
「?」
「僕の子供らしい表情も、此頃では泥棒のやうに悪化して来てゐるのを感じます」
小助の声は顫へてゐた。江美子はまた唇を
「アラ。小助さん。どうしたの。そんなに黙つちやつて、何を考へてるの」
「江美子。貴女のことを……」
「妾。帰つてヨ」
「もう少し……」
「だつて遅いんですもの」
「もう少し……もう少し……」
「たつた一言」
「いゝえ」
彼女の声も顫へを帯びてきた。
「江美子……」
小助は両手で顔を蔽うた。彼女は
彼女は、危く泣き出したいのを堪へて呟いた。
「妾は貴方を恋してゐると、今、気がついたわ……」
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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