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中村吉右衛門論

   

 

 文壇で会つて見たいと思ふ人は一人も居らぬ。役者の中では会つて見たいと思ふ人がたつた一人ある。会つて見たら色々の事情から多くの場合失望に終はるかも知れぬ。(それ)にも拘らず藝の力を通して人を牽き付けて止まぬ者は此の唯一人である。此唯一人とは云ふ迄もない、中村吉右衛門である。

 文壇で鼓吹(こすい)された自然主義の效果は在来の作者に附纏(つきまと)つた市気匠気の根を絶やして文藝を人生其物と密接に交渉させ様とした処にある。吉右衛門が歌舞伎芝居の為に成遂げた(或は成遂げんとし成遂げつゝある)功績も「型」の芝居を「心」の芝居に変ぜしめた点––換言すれば舞台に上りて役々に扮するとき藝よりは人、人よりは其人の精神に依つて直に我等の生活経験に迫らんとする点にある。文壇の運動は破壊と云ふことには成功しても力ある建設の方面には(いささか)の積極的貢献を敢てし得る個性に乏しかつた。吉右衛門の破壊は力ある建設(それ)自身に依つて行はれた。吉右衛門が演出する役々は「型」が動くのではない、又其役々の「人」が動くのでもない、あらゆる種相差別相を絶して唯一つの溌剌として力ある「心」が動くのである。吉右衛門にあつては「型」と「心」とは二にして一なるものである、「型」のある処に「心」がある、「心」が溢れて「型」となるのである。あらゆる形に唯一つの心を盛ると云ふ意味に於て自分は吉右衛門を象徴主義者と名づけたい。

 元来歌舞伎芝居なるものは「型」の芝居である。立役敵役二枚目三枚目などと云ふ幼稚で且単純な世の中の見方を幼稚で且単純な印象主義の下に描がき出した歌舞伎本来の脚本を演ずる為に、あらゆる「型」は一層の印象主義的技巧に馳せて新しい世界を作り上げた。「型」が現はす世界は現実其儘の世界ではない、深く現実に根差してはゐるものの現実の有する色調を更に廓大し強度化し醇化して創設せられた一種独特な世界である。従つて「型」夫自身に姿勢と運動と音楽との優秀な調和がない限り、理解も同感もない役者が(みだ)りに「型」を演ずると云ふことは其立脚する現実と絶縁させて独特の世界を突梯(とつてい)怪奇に変ぜしむることである。(嘗て明治座に演ぜられた高麗蔵の「高時」の如きは其適例である。}あらゆる藝術は充実した内容を伴ふ誇張であるとは云ひ條、空しき誇張は虚偽である。単に「型」の為に「型」を演ずるのみならば多くは空しき誇張に止まるが故に、観者に怪奇突梯の感を起すも事実止むを得ぬことであらう。「人」として教育せられ又「人」として生活する前に「型」に育てられ「型」に活きた今の多くの役者は「型」を操るには自在の妙を得ても「型」に相応(ふさは)しき「心」を盛ることが出来なかつた。役者とても人である、人と生れた以上或る程度に或る種類の閲歴を積んでゐることに変はりはないが唯其閲歴の種類と程度とが多くの場合限られたる範囲を薄く浅く触れてゐるに過ぎない。従つて是等の役者から成立つ芝居は其佳きものに至つては見て()きないには相違ない、又面白いには相違ない、然かも舞台の人の境遇に又心持に自己の心全体を挙げて打込む程に()げしく肉薄せられる感に乏しい。歌舞伎芝居を見る目には常に「遊び」の心を伴つてゐる。自分は(あながち)に「遊び」の心を(しりぞ)けるものではないが「遊び」の心を伴ふ多くの経験は刹那に結びては刹那に消える泡沫の様に淡く且つ短かきに傾き易すいを物足らず思ふのみである。

 (けだ)し「遊び」の心を伴はせて心肝に徹する心持を味はせ得ないのは役者があらゆる役々を十分解釈するに足る閲歴を欠くが為である。肉薄するに足る程の力強き閲歴を生む個性を欠くが為である。如何に諸役を解釈するかが新らしき役者が当面の問題である、解釈に従ふ表出の適不適とが役者の藝術的価値を定める標準である。然かも解釈は個性によつて、其個性に積まれた閲歴に依つて、多趣多様なる色彩を帯び来る筈である。誰の「型」彼の「型」と古人の「型」と他人の「型」とを何等の批評なくして踏襲するといふことは自己の個性を没して他人のものとすることである。我が我でなくなることである。此屈辱を忍んで猶踏襲を余儀なくせられたのは、今の役者が自ら自己の個性を見出し得なかつたからである。蕩児と云へば類型の蕩児、忠臣と云へば類型の忠臣を極めて大づかみに掴んで演出し、単に蕩児となり忠臣となり得たことによつて凡てを発揮し得たるものと思惟する。すべてが淡き感激のみに止まつて又其以上に出で得ないのは無理もないことである。

 自己の扮すべき役々を自己の閲歴を(ひつさ)げて独自の解釈を試みようとした最初の役者は恐らく九代目團十郎であらう。腹藝なるものを主張して或時は成功し或時は失敗したと伝へられるのも這般(しやはん)の消息を洩らすものと見るべきである。但し直接舞台から得来つた印象のない自分は團十郎に対して何等立言の権利を有せぬものである、口を(かん)して臆測を試みるより仕方がない。吉右衛門に至つて今の他の役者が企てて及び得ざる「型」を活かして裏付けるに力強い精神を以てした。多くの場合空なる誇張と目せられた或種の「型」は吉右衛門に依つて吉右衛門特有の命を盛られた。自己天賦の個性と閲歴とを残りなく傾け()くして古き「型」に新らしき生命を盛つた吉右衛門の努力は旧型に(なづ)むを棄てて我から古をなさんとする意気を示すものである。同時に人生を()なれて技藝の天地に遊弋(いうよく)せる歌舞伎劇を人間所有の精神生活と直接に交渉せしめたものである。我等に直接なる生活経験と全然遠ざかり行かんとする歌舞伎劇に最も近代的の価値を与へる為めには、あらゆる歌舞伎役者は吉右衛門の踏み行く(又團十郎の踏んだと推せらるゝ}道を踏まねばならぬ。吉右衛門の踏む道が大なる意味に於て完成する時は歌舞伎劇が真義に於ける藝術として完成する時である。此途を外にして歌舞伎劇の進み様はない。又かくの如くにしてのみ歌舞伎劇は形は古くとも何日(いつ)迄も味新しき内容を人に与へ得るものである。

 

   

 

 あらゆる藝術が優秀なるが為めには(わた)らぬ(くま)なく精神が充実するといふことを根本の條件としなければならぬ。殊に印象主義的の描写を外郭的に表現する歌舞伎にあつては精神が充実してゐると云ふことは最初の、最後の、()かして最高の條件でなければならぬ。精神なくして(いたづ)らに外郭的にのみ動く時は歌六雁次郎などの芝居に見る厭味と打毀(ぶちこは)しとなり、精神を汲まずして印象主義の描写に写実派の描写を加へんとする時は菊五郎仁左衛門などの舞台に往々にして見る滑稽となる。形を先にして精神を後にするからのことである。吉右衛門の藝風を最も秀抜にして(みだ)りに他の追従を許さぬものは此亙らぬ隈もなきスピリットの充実といふことである。此意味に於て吉右衛門の藝は余裕のない藝である、切羽詰つた藝である。第一義の藝と云ふ言葉が許されるならば吉右衛門の藝は正しく第一義の藝である。遊戯ではない。

 イプセンの劇は普通の劇の第五幕から始まると云はれてゐる。普通の劇に見る生温(なまぬ)るき発展を切截棄(きりす)てて人生の高潮から始めるとの(いひ)であらう。吉右衛門の藝が他の役者の高調に達した処を発足点とすると甚だ()よつた処があると思ふ。然かもイプセンは人生の高調に出発して更らに最高調の経験を人に与へた。吉右衛門の藝が同じく隈なきスピリットの充実を其儘に更に抑揚を(ほしいまゝ)にして最高調の経験を巧みに人に与へる能力あるも彼此根柢に於て通ずるものと思ふ。吉右衛門はイプセンに見る如き批評的思索的の分子には欠けてゐる。然かも其情意の天地に於いて、生活を支配する根本的の原動力に於て、吉右衛門は優人のイプセンと名付けらるべきものである。此最高調に達する時既に(すで)に芝居は琴棋書画の類ではない。又世に所謂(いはゆる)藝術でもない、痛烈に又剴切(がいせつ)に緊縮して現はされた人生其物の精髄である。

 抑揚を最も的確に施こし得る者は天才である。日本の芝居は形の上に最も()げしい抑揚を行つたものである。吉右衛門は心の抑揚を的確にして形の抑揚に及んだものである。内から溢れ出づる力が自然の発揚を遂ぐるものとして形の抑揚が生命を帯び来るのは当然のことである。或る程度に緊張して第三者に或程度の緊張感を与へ得る者はあるかも知れぬ、とは云へ人は元来其精神生活が常に緊張した生活でない限り第三者に一時的にある程度の緊張感は与へ得ても其緊張を継続せしめ、其継続の中に抑揚を置くことを知らぬものである。知らないのではない為し得ないのである。(いは)んや其抑揚を()ぶるに更らに大いなる抑揚を以てすることは思ひもよらぬことであらう。菊五郎の藝には抑揚はあつても()まり処は的確に極まつても緊張感にムラがあつて高調を経験することは出来ない。八百蔵は藝に緊張はあつても其緊張を操縦して自由に抑揚を施こす(すべ)を知らぬ役者である。吉右衛門に至つては徹頭徹尾に緊張してゐる。然かも其緊張を(ひつさ)げて大自在の境に抑揚を行ふ処は天下無敵である。振動することの劇げしき(いと)が切れる程に張り詰められながら叩いても叩いても猶音を立てる様な気がする。如何なる種類の人も猶吉右衛門を名手として(たた)へるのは一は附和雷同の所為ではあると云ふものの又一は極めて顕著に又的確に抑揚の施こされたるを見るが為めであらう。抑揚の上に猶抑揚を置いて最も簡単なる形に人間所有の精神生活の奥底を示し得る者は、あらゆる人類を通じて深く感銘を与へなければ止まぬものである。

 役者は或意味に於て彫刻家である。殊に舞台上の人物の運動を彫像の連続と見んとする歌舞伎芝居にあつて役者は声と顔とに表情の自由を保留してはゐるものの作家と作品とを同時に一身に兼ねたる、彫刻家とも見得ると思ふ。役者が運動及精神の発露を現はす刹那の姿勢に意を注がなければならぬことは実際の彫刻家と(いへども)同様である、精神を外郭に刻み込むことを本義とすると云ふことも両者軌を一つにする処である。吉右衛門が舞台に上ぼる時其一挙手一投足にも精神の充実したるを思ふ時自分は世界の巨匠彫刻家ロダンの「祈祷」の像を想出さずにゐられない。首を()ち手を斬り足を去つた肉塊にも猶「祈祷」の精神が溢れる(ばか)りに現はれたるは渡辺橋をヨロヨロと上り行く吉右衛門の「盛遠」の後姿にも狂する(ばか)りの執着を見得ると一般である。深刻にして且豊富なる主観の所有者ロダンに比するに吉右衛門を以てするは(むし)ろ不倫の極であるかも知れぬ。とは云へ最も緊張したる生活の刹那にも猶抑揚を置くことを忘れぬ吉右衛門が自ら自らを彫刻する折の用意と、ロダンが(のみ)をとつて石に対する折の用意とに必ずや黙契する重要なる一点があるに相違ないと思ふ。

 

   

 

 声の有する表情は其声の所有者の性格を現はすものだと云つた人がある。凡てに適用し得る言葉であるかも知れぬ、又凡てには適用し得る言葉でないかも知れぬ。(いづ)れにしても今の歌舞伎役者の台詞と台詞廻しとは其藝風––従つて其性格を覆うて遺憾なきものの様に思ふ。八百藏の調子は緊張した調子である、百錬の鉄の様に触るものを刎ね飛ばし相な力ではある。然かも其表情に細緻な色調を欠いて台詞廻しに変化のない処は剛直ではありながら融通の利き()くき其藝風に()よふ処がある。羽左衛門は台詞廻しに巧なりと云はるる一人である。とは云へ其台詞廻しは痛烈に又徹底的に調子を張つて押し詰める処にのみ濃き生命の流動があつて調子本来の性質は(やゝ)もすれば気の乗らぬ(がち)な生温きものたるに過ぎない。吉右衛門に至つては流石に一代の名調子と世に唱はれる(だけ)あつて台詞其物が纏つた音楽を形造つてゐる。眼を()むつて其台詞を聴くのみにても其声の有する驚くべき魔力に依つて直下に現実以上の現実に参するの感がある。細く力あつて縷々(るゝ)として消えるが如くに猶続く線に似たる其台詞廻しは、一字一句に人の腸を(ゑぐ)りながら抑揚緩急を自在に操つて何処までもと押し進んで行く。人の心に深く鋭く喰ひ入る点に於ては剃刀(かみそり)の様な台詞である。今にも鋭き薄き刃の(こぼ)れはせぬかと思ふ、毀れはせぬかと思ふ処に人の注意を唯一点に集める不安と緊張がある。さりながら事実剃刀にはあらぬ吉右衛門の台詞は此不安と此緊張とを伴はせて断ゆることもなく()ぼれることもなくて深みへ深みへと押して行く。スピリットに充ちた(ふん)役に於て其緊張した儘の心持を操縦して劇しき抑揚を与へ得る吉右衛門の藝風は、其台詞廻しの有する表情によつて遺憾なく象徴化されてゐると思ふ。

 團藏の藝については世に定評がある。然かも團藏の台詞廻しの巧みなるに就いて何人(なんぴと)も称揚する者なきは不思議である。調子は立たぬかも知れない、湿ほひも粘り気もないかも知れぬ、呼吸(いき)も続かぬであらう。然しながら此等の欠所を総括するとも猶團藏の台詞廻しに一代の名人たるに煩を及ぼすものではない。嗄枯(しはが)れて低き音調ながら藝其物に気が這入つてゐる様に、気が這入つて然かも抑揚の自在なるに人を牽付ける点に於ては吉右衛門と同一である。線が細いのも其一々に力あるのも声其物に触れたら斬られ相な皮肉な処があるのも悉く同一である。唯吉右衛門にはより多くの湿ほひと粘り気と最後に劇げしき執着がある。張切る程の力ある台詞は真似て出来るかも知れぬ、又其儘に緩急抑揚を施すことも学んで達し得られぬとは限らない。最後に其粘り気の強い劇しき執着に至つては(つひ)天稟(てんぴん)であつて何人の模倣をも許さぬものである。此領域は既に技ではない、才でもない、生れ得た人格其物の自然なる発現である。抑揚緩急に宜ろしきを得た羽左衛門の台詞廻はしでも其特徴とする処は未練気もなく人に台詞を投付ける様な勇み肌らしい処にある。思ひ切りのいゝ江戸つ子なるものの「人」としての長所と短所とを具へてゐる。執着の長所は見られない。

 吉右衛門の持てるものの中にて表情に富みたるは単に声と形丈ではない。其顔––殊に其眼があらはす感情は多趣多様を極めて、心に影を落とし来る細緻なる情意の顫動をも残る処なく写つし出す。「文覚」に於て盛遠が小母に迫つて刀を抜く時一間より馳け出で来る袈裟を見る眼の輝きの変化には(あら)ぶる感情と人懐しむ感情との矛盾を現はして(おもむ)ろに遣瀬(やるせ)なき眼付と変はり行く自然の推移が遺憾なく其一瞥にあらはされた。最後に(ぢつ)と袈裟を見詰めて微笑む辺は肉感を絶して|肉感的(ダス・ユーバージンリツヒ・ジンリツヘ)なものである。更に又那智の瀧荒行の場にあつて文覚が瀧壺より這ひ上がりて天の一方を望んで不動尊の出現に随喜の涙を()ぼす眼も気衰へ肉疲れながらも超自然の力を渇仰する心と共に神秘に充ちたる気が人に迫り来る程に現はされたと思ふ。

 吉右衛門にとつては声も眼も形も凡て外郭的なるものは内に動く心の一部である。形式と内容とがピタリと合つて離れぬと云ふ点に於て霊肉一致の名が成功したる吉右衛門の役々を形容するに最も適当なる言葉であらう。外郭的なる凡ての物を論ずると云ふことは吉右衛門其人を論ずるといふことである、一々に就いて同一事を論ずるは(いたづ)らに冗語を重ねるに過ぎない。自分は章を改めて人格化して見たる吉右衛門の藝術に説き及びたいと思ふ。

 

   

 

 吉右衛門の藝の範囲を狭いと云ふ者がある、或は狭いと云ひ得るかも知れぬ。吉右衛門程の明瞭な個性を持つたものが如何なる役に扮しても必ず成功するものだとは思はれない。自己の個性と相容れぬ性格を単に稽古の為めに演ずるとしても策の得たるものではない、(いは)んや範囲の徒らに広からんことを欲して何物をも試みんとするは著るしき個性を与へて呉れた天に対して不敬である。自ら知り自らの個性を重んずる吉右衛門は狭しと云ふに対して深きを以つて誇るがよからうと思ふ。事実其所謂狭き範囲内に於ては其鋭さと深さと強さと態度の飽迄も徹底的なる解釈との上に今ある他の役者が更に優秀なる解釈を施し得ようとは思はれない。然かも其所謂狭き範囲と云ふのも決して狭きものではない。

 吉右衛門の藝術を貫ぬく二大特徴は真摯と熱情とである。換言すれば熱あり力ありて唯一筋に深く突き進まんとする徹底したる態度の発現と云ふことである。台詞廻しに見る劇しい執着と云ふのも此徹底したる態度の変形に外ならない。既に真面目である、駄洒落の分子と遊戯の分子とを欠くのは当然である。既に熱烈である、生温(なまぬ)るき好悪と生温るき愛憎は其堪へ得る処ではない。同時に淡き未練と浅き執着とは吉右衛門が執着を形容するものではない。吉右衛門が執着の核心をなすものは箇々の人よりも(むし)ろ「生」其物である、「宇宙」其物である。ブランドは「(すべ)てか(しか)らざれば皆無」と云つた、吉右衛門が「生」其物に対する執着も亦「凡てか否らざれば皆無」の執着である。「是に非ざれば彼」と選択を容るゝ不徹底の執着ではない。

 此大未練大執着を背景として真摯と熱情との心が流るゝ役々に扮することは吉右衛門の独占の壇場であつて此心の流れを正しく解釈し得るものは吉右衛門唯一人を措いて外に求めることは出来ぬ。又かゝる役を措いて吉右衛門に恰好に又適切なる役々はない。狭しと云はば狭しとも云ひ得るであらう、広しと云はば又かくの如く広きものはないと思ふ。去年の暮吉右衛門の「勘平」を見たとき、是程迄に力強く深く又執着劇げしく勘平が演ぜられるものかと感心したことがあつた。由良之助でも平右衛門でも判官でも乃至(ないし)熊谷、光秀、景清に至る迄(いや)しくも其役々が真摯に振舞ひ熱情によつて動く役ならば(かつ)てありしものよりも、又今ある他のものより更に更に一倍の強度と一倍の光輝とを加へて表現し得る者は吉右衛門である。嘗て吉右衛門が「梅忠」を演ずると伝へられた時為し能はざるものを強ふるとして吉右衛門の為に泣いた者がある。忠兵衛が梅川に会ふ封印切りの前の場は淡き未練と浅き執着との遊戯なるの意味に於て軟かく甘からんことを欲することに硬くなつた(かたむき)はあつたが、辱づかしめられ罵られて封印に手を掛けてからの忠兵衛は見違へる程に立派であつた。茶屋場の「由良之助」もお軽を相手に「遊ぶ」処はギコチない心地がする、然かもお軽の為に一(きく)の涙を落とす所より九太夫を罵るに及んでは吉右衛門本来の面目を発揮し来つて(はらわた)を掴んで引き千切られる程の感じであつた。吉右衛門は「遊ぶ」には余りに真面目である、余りに徹底的である、又余りに強き執着がある。

 日常生活に於ける吉右衛門は極めて口数少き人ださうである、更に又自己に就いて語らぬ人だ相である。劇に関する月刊雑誌或は新聞記事に見ても多くの役者は愚にも附かぬ苦心を喋々広告してゐるに反し、吉右衛門は未だ嘗つて自己の苦心を語つて居らぬ。(みだ)りに自己を吹聴して反応を他に求むるものは自ら信ずる事の薄き証拠である、自信を他より得来らんとする幼稚にして且浅猿(あさま)しき心を現はすものである。口を(つぐ)んで頑く黙する者は自ら信ずること(あつ)きものにあらざれば語る処なき愚人である。自分は吉右衛門の藝術的生活が何等語る処ない愚人の生活に等しいものだとは何うしても考へられない。騒々しき饒舌に浅き反応を求めて喜ぶ他の人に比べて深く又慎重に自己を見る人と云ふ意味に於て自分は吉右衛門を(ゆか)しいと思ふ。何処迄も真面目である、通常生活にあつても舞台の上の様に才を振廻はして小手先を利かせる器用人ではない。

 精神生活を形容するに当つて都会人と云ふことが尊称でなく田舎者なる語が善き意味に使用せられ得るならば吉右衛門は其執着の強い点に於て、其情熱の(さかん)なる点に於て、其真面目なる点に於て、其小才の利かざる点に於て、江戸つ子であるよりも大なる田舎者である。一方に細緻なる官能と五分も隙かさぬ技藝を以つて都会人たる資格を具へると共に一方に田舎者たり得るものは吉右衛門である。意気で器用で諦めの()き江戸つ子は羽左衛門によつて代表せられてはゐるが、大執着に乏しく大情火に乏しく浅く且徹底せざる江戸つ子の弱点も亦羽左衛門に依つて代表せられてゐる。元より吉右衛門は精神的に江戸つ子たる分子のみを誇とするものではあるまい。自分は江戸の水に育つても吉右衛門に何日迄も精神的に純江戸つ子たるの誇を持たせたくない、(いは)んや小手先の働らきを劇の生命と心得るが如き上方贅六の風には馴染みさせたくない。江戸つ子にして田舎者の精神を兼ね得たる吉右衛門が将来に亙つても猶其特色を更に深く更に大きく磨き上げんことを望む者である。

 嘗て市村座に所謂喜劇なるものを見た。初から多くを期待しなかつた自分は吉右衛門の技量の秀抜なるを見て今更らの如く驚ろかされた。吉右衛門は滑稽に於ても驚嘆に値する技量をもつてゐる。唯其滑稽は詼謔百出して人の(おとがひ)を解かしめる圓遊の滑稽ではない、機智縦横に動いて万物を茶化し去る通人なるものの滑稽でもない、気の利かぬもの頑固なるものが自己を真面目に動かすことに依つて生ずる滑稽である。無智の滑稽である、迂愚の滑稽である。第三者は迫られぬ滑稽に自然の可笑味を感ずると共に可笑味の裏に憫憐(びんれん)の情の淡く起るを(とゞ)め得ない。真に田舎者の精神を有せざる限りは、江戸つ子らしき江戸つ子に此解釈の出来よう筈がない。真面目なるものに非らざる限り又此可笑味を伝へ得よう筈がない。吉右衛門が有情滑稽(フモール)に成功したと云ふことは吉右衛門の真面目と一克(いつこく)とを裏書するものである。

 

   

 

 詩的(リリカル)と云ふ形容に淡いと云ふ意味が籠り普通所謂甘き味があつて遊び心を背景とするものならば吉右衛門は正に詩的(リリカル)な藝風––従つては個性ではない。遊びの心に乏しく切羽(せつぱ)詰つて然かも濃く劇げしき味ある点は劇的と云ひ得るであらう、凡てを徹底的に深刻に()た第一義的に解釈せんとする「態度の人」と云ふ意味に於ては哲学的(フイロソフイカル)と云つても差支ないかも知れぬ。吉右衛門に依つて新しき解釈を下された性格の力は単なる詩的劇的の境域を超えて哲学の領に入り古往今来あらゆる意味に於ける思索家の取扱つた問題に迫つてゐる。最近の「文覚」に照らしても(「文覚」の脚本は武士道の悪感化を受けて人間自然性の流露を防遏(ばうあつ)したる悪作である。吉右衛門が其悪作たるにも係はらず断片なるが儘に粛殺の意義を我等に与へ得たのは感謝の念を禁ずる能はざる所である。かゝる悪作を纏りたるものとして吉右衛門に演ぜしめると云ふことは吉右衛門の天稟に対する許すべからざる冒涜である。)執着強き人間の力と人間の限りある力に如何ともすべからざる超自然の力とが相剋するに依つて生ずる悲劇の断片が我等の脳裏を徂徠(そらい)するを見出すであらう。吉右衛門に依つて将来最も完全に表現せらるべき間題は希臘(ギリシヤ)古劇の昔から今に至つて偉大なる作家の筆に上ぼせられた運命悲劇である。不可抗の運命に飽く迄も抗し行く意気と未知の世界に飽迄も突き入らんとする「諦らめられぬ心」との悲劇は将来に於て大成せらるべき吉右衛門の藝術が得意とする処の題目でなければならぬ。

 真摯の気と熱烈の情と執着の力とが最後に到着する点は超自然の世界である、又神秘の世界である、最後に象徴の世界である。然かも此真摯と此熱烈と此執着とは夫自身に於て最も宗教的気分に充ちたるものである。「高時」を演じて神秘の力を感ぜしめ得たと伝へらるるのも「文覚」を演じて宗教的気分を観者に与へ得たのも、今吉右衛門が所有する(もろも)ろの特徴の(まさ)(しか)あるべき帰結であるを断言するを憚らない。浪漫的象徴的の世界は未来の吉右衛門に依つて開拓せらるべき広大なる世界である。吉右衛門が今後の努力は哲学と藝術と宗教とを合はして太初以来又永久に亙りて消滅せざる人類の最初にして最後の問題に触れて行く点にある。自分は切に吉右衛門の自重を望んで将来の大成を祈りたいと思ふ。

 劇壇に人なしとの言葉は(しき)りに耳にする処である、(つひ)には脚本本位の声さへも挙げられた。劇壇は多士済々である。自分は(むし)ろ此済々たる多士の為めに、其多士を本位として作り上げたる名脚本の出で来らん事を望む。文壇は進歩したと云はれても脚本を多く作る人が輩出しても吉右衛門の特徴を活溌溌地に発揮せしめ得る作者は唯一人だつて居ないと思ふ。問題は技巧の問題ではない、個性の問題である。吉右衛門の真摯と熱烈と執着とは文壇遂に其匹(そのひつ)を見出し得ないものである。

 

  (明治四十四年八月「新小説」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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小宮 豊隆

コミヤ トヨタカ
こみや とよたか 評論家 1884・3・7~1966・5・3 福岡県京都郡犀川村に生まれる。夏目漱石の愛弟子として知られ『漱石全集』最初の全解説や重厚な漱石伝記等により漱石研究に不滅の基礎を置いた。

初世中村吉右衛門を論じた掲載作は、1911(明治44)年「新小説」8月号の初出、以降美学を基盤の演劇評論も多く書き、芭蕉研究にも深く立ち入り、東北大、東京音楽学校(校長)、学習院等では講壇に立った。

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