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手紙

  手紙の名称

 

唐書(とうじょ)』という本に見える話である。ある日、穆宗(ぼくそう)皇帝が柳公権(りゅうこうけん)(七七八~八六五)を呼んで、書法についてたずねた。かれは、静かに答えた。「心正則筆正」。心の正しいものは、筆法もおのずから正しいもの、と。なにしろ、柳公権といえば、唐代屈指の能書家である。以来、この言葉は、書についていう場合には、しばしば引かれるのが、慣いとなった。つまり、書はその人の人となりを語る、という意味であろう。

 しかし、手紙は、こうした筆跡の面白さの上に、それを書いた人の生活そのものが、じかにのぞいているところに、一段と興趣をそそるのである。天皇の手紙、公卿の手紙は、それぞれの地位にふさわしい風趣を漂わせている。また、高僧の書いた手紙には、書法などにこだわらず、修道者として鍛えられた、深い魂の声を聞くような、響きをもつものがある。武将は豪毅果敢な心意気を、茶人は平静洒脱な心境を、また、女性はそれらしい細やかな情味を、それぞれ吐露してあますところがない。だから、昔の手紙は、一巻の史書をひもとくよりも、もっと端的に、歴史を語っている、といっても過言ではあるまい。昔の手紙の面白さの謎が、ここらあたりに潜んでいるのではなかろうか。

 ところで、手紙の様式は、奈良時代に唐朝の儀礼にならい、平安・鎌倉へと時代が下るにつれて、次第に類型化をたどった。つまり、書札礼(しょさつれい)(手紙の形式・書体などに関する規定)に束縛をうけるという、まことに煩わしいものとなってきた。これは、一つには、王朝以来の貴族文化たる、有職故実(ゆうそくこじつ)学の飛躍的な発展と、さらには右筆(ゆうひつ)と呼ぶ、職能の誕生とに、大いにかかわりがある。が、要は、手紙を取り交わす双方の、身分の相違による儀礼を重んじたことから来ている。

 平安後期においては、手紙の模範文例集が、貴族子弟の初等用教科書として、出現した。この風潮は、さらに鎌倉・室町時代にかけても尾を引き、さまざまな手紙文例集が編まれるに至った。ついで、江戸時代に入ると、それらは、寺小屋における児童用のテキストとして、もっぱら手紙の文例が、読み・書きの対象となった。手紙文の習得が、いかに人々の大きな関心の的であったかが、察せられるであろう。

 今日、われわれが日常書簡文を書くに当たって、過去の習慣や約束、あるいは、歴史的事実の残されたものが、少なくない。すべての古いものが忘れ去られ、過去の形骸と化しつつあるのが、現代社会の実情である。が、美しい文字で綴られた、心のこもった手紙は、やはり読む者の心を豊かにしてくれる。大切なことの一つである。まだ会わない人には、その手紙で、その人を想像するよりほかにない。手紙一本も、ゆめおろそかにできないのではあるまいか。

 ところが、電話の飛躍的に発達した今日、われわれの実生活は、手紙を書く機会を、極度に少なくした。たいていの場合、電話で用件が済ませる。自然、手紙を書かない。書かないから、手紙文も上達しないし、手も上がらない。さらに、下手であるから、ますます書かなくなる。という因果が、おのずから生じてくる。これが、われわれの周辺の、いつわらざる実態であろう。

 

 さて、手紙という言葉は、江戸初期のころに、はじめて使われるようになる。伊勢貞丈(いせさだたけ)(一七一五~一七八四)の『四季草(しきくさ)』(七巻・故実書)の「秋ノ下」に、

 

手紙といふ名目、古はなし。手簡といふは、手づから書きたる状なり。手簡はシュカンなるを、テカンとよみ、テカン転じて手紙といひ誤るか。古は紙を横に二つに折りて書くをば、小文といひしなり。其の小文略して半切紙に書きて手紙と名付けたる也。

 

と述べ、「手簡」の誤読、(テカン)の転訛であろう、という。また『毛吹颫(けふきふ)』(巻下)の著者は、貞丈の説を引いた後に、「又若シクハ、書スルコトヲ手トモ云ヘバ、唯何トナク、()ヲカキタル紙ト云フ意デモアラウカ」と自説を立てている。これは、谷川士清(たにがわことすが)(一七〇九~一七七六)の『倭訓栞(わくんのしおり)』(九十三巻・八十二冊)に、「てがみ 手簡を云、()紙の義也」と述べるのと、ほぼ同じ主張である。私も、これらに左袒する。つまり、“手(筆跡)を書く紙”というくらいの、意味にとってもよさそうである。

 手紙には、古くから、いろいろな名称がある。それも、人に対していう場合と、自分の手紙とでは、おのずから名称に区別があった。寛文九年(一六六九)十一月、京都の下御霊前・谷岡七左衛門板行の『書翰初学抄』(三巻・著者蔵)によれば、

 称人書簡

朶雲 郇雲 藻翰 芳書 教字 翰墨 承諭 愛諭 示誨 示諭 華札 翰牘 雲箋 郇翰 奇翰 五雲 朶翰 手誨 台翰 尊翰 華翰 雲輸 牋翰 琅玕 珍翰 台誨 書誨 貽誨 寵誨 翰誨 真翰 枉教 来教 恵教 賜教 台箚 教箚 誨箚 尺箚 恵箚 尺牘 剡牘 教牘 簡牘 誨牘 牋牘 損牘 損翰 貶翰 宝墨 謙翰 教墨 誨墨 芳墨 芳札 誨字 手字 恵字 墜翰 来翰 示字 箚字 恵緘 誨緘 貶誨 雲緘 飛緘 墜教 誨帖 誨音 誨章 誨箚 誨剡 汗簡 誨示 教督 誨翰 教帖 教章 教條 教削 烏封 教翰 羲墨 鯉素

 自称書箚

濡削 柔訥 柔削 柔尺 柔翰 納翰 尺素 尺書 書札 尺楮 尺一 尺紙 尺牋 尺牘 蕪牘 手牘 手誨 手啓 手記 手札 手槧 柔槧 奏記 短記 具記 寸毫 緘縢 嗣布 嗣問 片札 愚翰 短札 手納 柔素 斐函 嗣音

など、じつにさまざまな名称のあることを知る。が、これらは、すべて中国の用語である。いまでも、われわれの日常に使われるのは、書状・書翰・書簡・尺牘(せきとく)・書札・消息・玉梓(たまずさ)玉章(たまずさ)などである。ほかに、尺素(せきそ)鯉素(りそ)魚素(ぎょそ)なども、まま使うことがある。室町時代の一条兼良(かねら)(一四〇二~一四八一)によって編まれた、『尺素往来』は、この尺素をとって、書名としたものである。尺素というのは、明の陳全之(ちんぜんし)の『蓬窓日録』(巻八・詩談)に収める古楽府詩に由来する。「尺素残雪の如し、結びて双鯉魚と成る。心裏の事を知るを要す。腹中の書を看取す。」また、同じ楽府の詩に、「飲馬長城窟行」と題する一首があるが、それには、「児を呼びて鯉魚を烹る。中に尺素の書有り。」とも見えている。尺は尺牘の尺であり、素は(きれ)の意味である。『史記』に「文帝遺単于尺一寸牘、単于以尺二寸牘答」とあるのによる。つまり、一尺一寸の紙幅の手紙に対し、一尺二寸の紙に返事を書いた、という故事に基づく。また、手紙のことを鯉素というのは、さきの古楽府の詩によるほかに、手紙を巻いて鯉魚の口の形にして封じ目をすることに由来する、ともいう。(かん)という字は、〈とず・ふうをする〉という意味のほかに、〈つむぐ・口を閉じていわず〉の意味もある。だから、これも一説である。

 また、手紙は雁書・雁札・雁の使い、などともいった。中国の前漢時代、蘇武という者が、匈奴(胡国)に使して捕えられ、帰ることを許されなかった。かれは、雁の足に手紙を結んで放った。その文は、間もなく天子の許に届いたので、その生存が知られた、という故事による。

『万葉集』にも、この雁書を詠んだものが見える。

 

九月(ながつき)の其の始雁(はつかり)の使にも思ふ心は聞こえ()ぬかも        (巻八 一六一四)

春草を馬咋(うまくひ)山ゆ越え()なる雁の使は宿り過ぐなり        (巻九 一七〇一)

天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都に言告げやらむ      (巻十五 三六七六)

 

という歌が見える。わが国においても、すでに奈良朝において、この蘇武の故事にヒントを得て、「雁の使い」を音信の意味に使っていたことを知る。これは、平安朝に入っても、同様であった。

 

 『後拾遺和歌葉』(巻四)

寛和元年八月十日内裏の歌合によめる

我妹子がかけて待つらむ玉づさをかき連ねたる初雁の声  (藤原長能)

 

 『金葉和歌集』(巻三)

雁をよめる

玉章はかけてきつれど雁がねのうはの空にも聞ゆなる哉  (読人しらず)

 

 『新後拾遺和歌集』(巻四)

霧はれぬ空にはそこと知らねども来るをたのむの雁の玉づさ  (権少僧都覚家)

 

などが、それである。

 雁の使いにちなんで、伝書鳩について、触れておきたい。記録の上で、もっとも古いものは中国・五代の王仁裕(おうじんゆう)(?~九六四)の『開元天宝遺事』(一巻)に見えるもの。張九齢が少年のころ、その家に、たくさんの鴿(いえばと)を飼っていた。そして、親しい友だち同士で、書信を往復し合っていた。その方法として、鴿の足に手紙を結びつけては、飛ばしていた。九齢は、これを飛奴(ひぬ)と呼んで、愛翫していた。当時、一般にこの飼育が盛んであったという。もともと、鳩には、家鴿と野鴿があり(『至正志』)、『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』(巻十八)では、「鴿」(以倍八止(いへはと)・「鳩」(夜万八止(やまはと)と区別しているが、「鳩其総名也」ともいう。つまり、鳩の字で代表するのである。

 ところで、唐代に、中国南方の広州の港には、師子国(ししこく)の貿易船が来航した。師子国というのはインド半島の南東方にあるセイロン、現在のスリランカの漢名である。そのセイロンの貿易商たちは、船中でたれもが、白鴿を飼っていた。そして、数千里の遠方からでも、それを飛ばせると、かならず留守宅に音信を伝えた、という(『唐国史補』下巻)。また、ペルシャの貿易船も、船上に多くの鴿を飼っていた。鴿は数千里も飛ぶことができた、という。たとえば、一羽を放っても、家に飛んでかえり、家族のものに航海の安全を知らせることができた、と伝えている(『西陽雑爼(せいようざっそ)』巻十六)。また、『皇朝類苑』(巻六十一)にも、

 

今の人、家鴿に馴れて通信す。皆、虚言に非ざるなり。携えて外数千里に至りて、これを(はなつ)に、(たちま)ちにして能く還る。蜀人事をもって京師に至らば、鴿をもって書を寄するに、旬日ならずして皆達するを得たり。及び、賈人の舶船海に浮び、亦鴿をもって信を通ず。(原文は漢文)

 

と述べられている。この伝書鳩は、航海に欠くことのできないものであった。もともと、セイロンやペルシャ商人によって広められたものであったが、中国に移入され、やがては、わが国にももたらされるようになる。内大臣藤原頼長(二十四歳)が、崇徳上皇(三十歳)に、「鴨*(魚ヘンに奥の字 読み不明)」を献じた。鴨は分るとしても、次の文字は辞書に見えない。鳥と魚の二種をいうのであろうか。ところが、上皇の方は、お返しとして、家鳩を頼長に贈った。頼長は、日記にその鳩の説明を加えている。「長頭、白色、頭に冠有り。足に毛有り。性能人に馴れる」(『台記』康治二年〈一一四三〉三月九日条・原文は漢文)という記述から、白の鴿で、伝書鳩であったことが分る。そして、これに手紙を結びつけるには、防水用として、油紙で包んだことが知られる(『琅邪代酔編』巻三十八)。鎌倉時代に入ると、宮廷で、この鳩の飼育熱が急激にたかまった。『吾妻鏡』(承元二年〈一二〇八〉十月二十一日条)に、

 

去月廿七日の夜半、朱雀門焼亡せり。常陸介朝俊(朝隆卿の末孫なり。弓馬、相撲の達者なり)、松明を取り門に昇る。鳩の子を取りて帰り去るの間、件の火、この(わざわい)を成す。凡そ近年、天子・上皇、悉く鳩を好ませ給う。長房・保教等、本より鳩を養い、時号を得たり。殊に奔走せりと、しかじか。

(原文は漢文)
 

というような有様で、公卿たちの中には、伝書鳩の飼育で天下に名をとどろかせるほどの者があらわれた、ともいう。となると、平安末期以後において、わが国の手紙界は、伝書鳩による速達便が、一新紀元を画したのではなかったろうか。と、想像したくもなるではないか。

 また、手紙のことを玉梓(たまずさ)ともいう。もともと、玉梓というのは、手紙を運ぶ使者のもつ(あずさ)の杖。転じて、その杖を持つ人。つまり、使者のこと。『万葉集』に、

 

もみぢ葉の散りゆくなべに玉梓の使を見ればあひし日思ほゆ  (巻二 二〇九)

 

……青丹よし奈良路来通ふ玉梓の使絶えめや籠り恋ひ息づき渡り下思(したもひ)に……(巻十七 三九七三)

 

というのが見える。この「玉梓の」というのは、「使」にかかる枕詞。古代、使者がそのしるしとして、梓の木をたずさえる風習があった。手紙を結びつけて運ぶのにも用いたが呪力(じゅりょく)をもつものとしても、考えられていたといわれる。というのは、梓は百木長であり、木王と呼んだ。屋根にこの木を使えば、落雷を避けることができる、とも伝えられているからである(『本草綱目』)。「春日権現験記」(御物)に、長い杖に手紙を結びつけて、若い男が手にする図が見える。また、「融通念仏縁起」や「伴大納言絵詞」にも、同様な図が見られる。使節(公の使い)という言葉がある。これは、その名残りを示しているように思われる。というのは、「節」の字は、〈ふし・竹のふし・広く草木のふし・こぶ〉をいうが、別に、〈しるし・使者の執りて信を示すところのもの〉という意味がある。玉梓の梓の杖が、すなわち、それに当たるもの。これが、さらに転じて、玉梓を手紙の意味に使うことになる。玉章は当て字である。

 

  失われた手紙

 

 記録や文学作品に残る手紙文。あるいは、原本が遠い昔に散佚してしまって、いまは失われた手紙。そうしたものの中に、興味を呼ぶ手紙が少なくない。

 たとえば、『竹取物語』では、翁に泣いて別れを告げるかぐや姫が、「文を書をきてまからん」といって、「此国にむまれぬるとならば……」と書き出される手紙を残す。文学作品ではあるが、これが記録に残る最古のかな消息といえるであろうか。また、『宇治拾遺物語』(「清見原天皇と大友皇子と合戦の事」)には、父(のちの天武天皇)の身の上を心配する大友皇子の妃十市皇女が、鮒の包やきの中に「小さく文を書きて押し入れ」て父に送った事が記されている。時代は下って、本多作佐衛門が留守居の妻にやった手紙についても、ここで、ちょっとふれておこう。例の、「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」で知られる有名な手紙である。じつは、この手紙の出所は、神沢貞幹の『翁草』で、それによれば、「一筆申す、火の用心、おせん病すな、馬肥やせ」と多少の字句の相違がある。

 とまれ枚挙にいとまがないが、以下七項にわたって、そのうちのいくつかを、やや詳しく紹介してみよう。

 

 1 日出処天子より日没処天子に送った手紙

 

 いま、推古朝における小野妹子の名を知らぬものはあるまい。『隋書』には、妹子の中国名を、蘇因高(そいんこう)と呼んでいる。推古天皇十五年(六〇七・煬帝(ようだい)三年)七月三日、聖徳太子は隋と国交を結び、妹子が最初の遣隋使に任命された。聖徳太子の厚い信任をうけた妹子は、使臣の選考にあたり、太子みずからの手で群臣百官の中からえらばれたのだという(『聖徳太子伝暦』巻上)。その時、鞍作福利(くらつくりのふくり)が、通事(通訳)として随行した。その時、太子は妹子に国書を携行させた。いま、それが、中国側の文献たる『隋書』(巻八十一・倭国)に収められている。「日出る処の天子、(ふみ)を日()る処の天子に致す、恙が無きや、」と。隋の煬帝は、これを見て不機嫌になった。側近の鴻臚卿(こうろけい)(外国公使接待の長。日本では玄蕃頭[従五位上]に当たる)に向って「蛮夷(野蛮人)の書、無礼なるものあらば、復た以って聞くこと勿れ」、と言い放ったという。翌十六年四月、使命を果たしたかれは、隋使文林郎斐世清(はいせいせい)、副使遍光高(へんこうこう)ら十三人を伴って、筑紫に帰着した。が、帰途、百済を通過するに際して、隋帝の返書を奪われた、という。この事件は、『日本書紀』(巻二十二)に詳しく綴られている。

 ついで、同年九月十一日、隋使の一行が、難波を出航して帰国するに際し、朝廷は、ふたたび妹子を大使に任じ、副使吉士雄成(きしのおなり)、通事福利らとともに、再度の渡航を下命した。この時、高向玄理(たかむくのげんり)南淵請安(みなみぶちのしょうあん)留学生(るがくしょう)・学問僧十八人が、これに従った。その時も、妹子は煬帝に国書を捧げた。『日本書紀』(巻二十二)が、その全文を掲げている。

 

(やまと)天皇(すめらみこと)、敬みて西(もろこしの)皇帝(きみ)(まう)す。使人(つかひ)鴻臚寺の掌客斐世清等(まういた)りて、久しき(おもひ)(みざかり)に解けぬ。季秋(このごろ)(やうや)く冷し。(かしこどころ)、如何に。想ふに清悆(おだやか)にか。此は即ち常の如し。今大礼蘇因高(小野妹子)・大礼乎那利(をなり)(吉士雄成)等を(まだ)して(まう)でしむ。謹みて白す。(つぶさ)ならず。  (原文は漢文)

 

 東の国なる天皇から、西の皇帝陛下につつしんで、一筆申し上げます。貴国の使者で、鴻臚館(迎賓館)の招客たる斐世清ご一行がおいでになり、いろいろと申し承りましたので、長い間御無沙汰の様子が、よくわかりました。こちらは、昨今、秋となりまして、だんだん冷え込むようになりました。皇帝陛下におかされても、御安泰のことと拝察いたします。当方は、むろん、変りなく過しております。いま、ここに大礼小野妹子と同じく大礼吉士雄成らを、参上いたさせました。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。つつしんで申し上げます。詳しく書くことができません、と。

 最初の書出しに、「敬白」、最後の書止めに、「謹白不具」と書いて、相手方に深い敬意をあらわす。今日なお、われわれは、手紙の書出しを、「拝啓」・「謹啓」ではじめて、終りは「不具」・「敬白」・「草々」などの言葉で結んでいる。こうした無意識の習慣も、小野妹子から、じつに一三〇〇年、隋王朝の書札礼が、二十世紀の今日まで、うけつがれているわけである。これは、一般に手紙といわれるような私文書ではないが、ともかくも、記録初見のわが国最初の書状として、すこぶる価値が高い。

 

 2 万葉びとの手紙

 

『万葉集』の中に、いくつかの手紙文が収められている。まず、巻五に、

 

伏辱来書、具承芳旨。忽成隔漢之恋、復傷抱梁之意。唯羨去留無恙、遂待披雲耳。

伏して来書を辱くし、(つぶさ)に芳旨を承る。忽ち(かわ)を隔つる恋を成し、(また)梁を抱く(こころ)を傷ましむ。唯、(ねが)はくは去留(つつが)無く、遂に披雲を待たむのみ。

 

と見えるものは、太宰府に在勤していた大伴旅人が、都の女性からの手紙に答えた返信。文面の様子から、それは恋文であった。日付も署名もあて名も残さない。恋の便りとして、当然の心配りではないか。平安時代の恋文に、それらの一切がなかったことは、すでに述べたとおり(注 原本「手紙の様式とそのうつりかわり」の項)。となると、いま、この手紙の存在によって、むしろ、その形式の芽ばえは、奈良時代にまで遡ることを知る。ところで、この手紙には、むずかしい漢籍の言葉が、いくつも使われている。

「隔漢之恋」は、天漢(あまのがわ)を隔てる恋で、天の川をへだてて恋うる牽牛・織女の思いをなす。ということから、恋い慕うこと。ついで、「抱梁之意」は、『文選』(巻十八)の嵆叔夜(けいしゅくや)の琴賦に、「尾生以之信」という字句が見える。その李善(りぜん)注に、「荘子盗妬曰、尾生与女子期下。女子不来、水至不去、柱而死」とある。尾生という男が、橋(梁)の下で逢おうと約束して待ったが、女は来ない。とこうするうちに、急激に水かさが増した川の中で、逃げることもせずに待ちつづけ、ついに橋の柱につかまったまま死んでしまった。この故事によって、相待つ思いの切なるさまをいう。また「披雲」は、晋の伯玉が楽広を見て、「此人、人之水鏡也。見之。若披雲霧而覩青天」(『世説新語』賞誉篇)といった故事から、人に逢うことを敬っていう。

 つつしんでお手紙をいただき、仰せの旨、委細拝承いたしました。たちまち、天の川を距てる恋心を抱き、また、堅い約束をした貴女とお逢いするのが待ちどおしく、胸が傷みます。ただただ、ご起居お障りもなく、元気でお逢いする日の一日も早からんことを願っています、とでもいうのであろうか。かように、はげしい思慕の情を寄せる相手の女性は、いったい、たれであったのだろうか。太宰府における旅人が相聞の歌を贈った相手に、丹生女王(にぶのおおきみ)がいるので、あるいは、かの女ではあるまいか。

 同じく、巻五の中。都にいた藤原房前(ふささき)と、太宰府の大伴旅人との往復の手紙二通である。

 

琴娘子答曰、

敬奉徳音。幸甚々々。

片時覚。即感於夢言、慨然不得

黙止。故附公使、聊以進御耳。謹状不具。

天平元年十月七日 附使進上

謹通 中衛高明閤下 謹空

 

「琴娘子答曰」というのは、この前に、旅人愛用の琴が、夢に娘子(むすめ)になる、という語がある。これは、それを受けたもので、「片時覚。……」以下が、房前にあてる手紙の本文である。つつしんで、結構なお言葉を承りました。有難いことでございます。やがて、眼が覚めました。そこで、夢の中の娘子の言葉に感動して、そのまま、じっとしていることができません。それで、公の使に託して、(この琴を)お届けいたしお目にかけます。つつしんで申し上げます。「中衛高明閤下(ちゅうえこうめいこうか)」は、藤原房前のこと。中衛府は近衛府と並んで、宮廷の警衛に当たった。この時、房前は正三位、中衛大将であった。高明というのは、〈高く明らかなり〉の意で、その人の徳を称する尊称。あて名の下の「謹空」は、空海の「風信帖」などにも見える用例で、脇付の言葉。うやまって、この先は白紙で残しておきます、という意味。後世、左白などと書くのと同じ例で、今日、われわれが目上の人に出す手紙に、白紙の便箋を一枚つけ足して出すものなどは、その名残りではなかろうか。

 続いて、この手紙に対する房前からの返信が、掲げられている。

 

跪承芳音。嘉懽交深。乃知、竜門之恩。復厚蓬身之上。恋望殊念、常心百倍。謹和白雲之什、以奏野鄙之歌。房前謹状。

十一月八日 附還使大監

謹通 尊門記室

 

 見られるように、ここにも、いくつか漢籍の知識がちりばめられている。まず、「竜門之恩」というのは、『文選』(巻十八)の琴賦の李善注に、「史記曰、竜門有桐樹、高百尺、無技堪為琴」とあるのによったもの。さきに、旅人は房前に桐の琴を贈っている。これは、その謝恩を示した文句であろう。「蓬身」は、「蓬体」・「蓬容」などと同様、みずからをいやしい身という、謙遜の言葉。転じて、「蓬門」・「蓬屋」は、自分の家の卑称である。「白雲之什」の「白雲」は、白雲を距てた遠い所から来た、という意味。「什」は詩篇のこと。つまり、はるばる白雲を距てた、遠方より贈られた和歌をいう。うやうやしく、お手紙をいただき、まことにうれしく存じます。ことに、桐の琴をお送り下さり、ご厚志のほど感謝にたえません。あなたをお慕い申す気持ちは、常の心に百倍もまさる思いです。ここに、謹んで、あなたのお歌に和して、拙い歌をご披露申し上げる次第です。房前、謹んで申し上げます。十一月八日、都から太宰府にかえる還使大監(かんしだいげん)大伴百代(おおとものももよ)に託して送る。謹んで尊家(そんか)の書記室からお取り次ぎを願う次第です。尊門は、尊家と同じで相手に対する尊称。脇付に小さく書く「記室(きしつ)」は、『後漢書』(百官志)に、「記室ノ令史ハ上章表報書記ヲ主ル」と見えるように、書記役の事務所。つまり、高貴な人に出す手紙は、直接当人の手許にさし出さないで、側近の者にあてる。いま、われわれが日用文の封筒の表書きや便箋のあて名の脇に、「侍史」(おそばの書き役の意)とか「侍曹(じそう)」(おそばの人の詰所の意)と書くのは、その名残りである。

 また、巻十八には、大伴家持が大伴池主(いけぬし)に、針袋を贈ったのに対する、池主の戯れの返書に、家持から返歌を送った。さらに、その返歌に対して、池主が家持に手紙を書き送った。かなりの長文であるが、最後の一通分を、つぎに掲げてみょう。

 

依下迎駅使事、今月十五日、到来部下加賀郡境。面蔭見射水之郷。恋緒結深海之村。身異胡馬。心悲北風。乗月徘徊、曾无所為。稍開来封、其辞云々者。先所奉書、返畏。度疑歟。僕作嘱羅、且悩使君。夫乞水得酒、従来能口。論時合理、何題強吏乎。尋誦針袋詠、詞泉酌不竭。抱膝独咲、能*(=益と蜀 除くの意)旅愁。陶然遣日、何慮何思。短筆不宣。

勝宝元年十二月十五日

            徴物下司

謹上 不伏使君 記室

 

 手紙とはいえ、いかにも文学的である。都からの駅馬を迎えるために、今月十五日、管下の加賀郡に来たが、かつて住んでいた射水郷が、眼前にちらつき、恋の思いの糸を、深海村で結びました。自分は、胡馬(中国の北方、胡国に産した馬)ではないが、心は北風に向かい、もと住んでいた越中の国を悲しく思い出します。折からの月光の下を、さまようばかりで、まったくなすすべもありませんでした。ちょうどそこへ、あなたからのお手紙。開いて見れば、しかじかと書いてありました。私が先にさし上げた手紙が、かえって、あなたの誤解を招いたのではないか、と恐れます。私がおねだりしたばっかりに、かえって上等の(うすもの)の着物をいただき、あなたにご迷惑をかけました。いったい、水を乞うて酒を得るということは、もとより、わが口の望むところであります。適当な時機を論じて、理に合っているのであれば、どうして乱棒な役人などと呼びましょうか。続いて、あなたの針袋の歌を口ずさんでみますと、泉の水があふれるように、詞藻が豊かで、尽きません。おかげで、私は膝を抱えて坐り、ひとりでほくそえみ、旅愁を散ずることができました。いまは、陶然として愉快な日を送り、なんの心配ごともなくなりました。簡単ながら一筆、と結んでいる文中に、「開来封」とあるのは、すでに、当時の手紙が封〆(ふうじめ)して送達されていたことを知る。また、書止めに、「短筆不宣」(筆が足りなく十分に言えません)と書き、また、あて名の上所に「謹上」(つつしんでたてまつる)と書いている。いずれも、平安時代の公卿の、書札故実の先駆をなすものである。

 

 3 虫めづる姫君に届いた蛇の文

 

 蝶や花やと、やさしい美しいものを愛好するのが、女の特性でもあった。が、按察使(あぜち)大納言の姫君ともあろうお方が、奇妙きてれつにも、虫が大好きであった。虫でさえあれば、なんの虫でもよい。大切に飼っておくが、とりわけ毛虫が大好きなのであった。

 そればかりではない。姫君は、女性の身嗜みには、いっこうに無頓着。鏡に向かってお化粧をするどころか、眉も抜かず、お鉄漿(はぐろ)もつけない。その上、年ごろなのに、着物についても、まったくの無関心。とにもかくにも、毛虫が大好物で、明けても暮れても、毛虫に取り囲まれて生活をしている。というような、たいそうに変わった姫君で、人々は虫めづる姫君と呼んでいた。

 これは、『堤中納言物語』にある「虫めづる姫君」が描くところだが、続く一節。

 

かゝる事、世に聞えて、いと、うたてあることをいふ中に、ある上達部(かんだちめ)の御子、うちはやりて物怖ぢせず、愛敬(あいぎやう)づきたるあり。この姫君の事を聞きて、

「さりとも、これには怖ぢなむ。」

とて、帯の端の、いとをかしげなるに、(くちなは)の形をいみじく似せて、動くべきさまなどしつけて、いろこ(鱗)だちたる懸袋(かけぶくろ)に入れて、結び附けたる文を見れば、

はふはふも君があたりにしたがはむ長き心のかぎりなき身は

とあるを、何心もなぐ御前に持て参りて、

「袋など。あくるだに怪しく。おもたきかな。」

とて、ひきあけたれば、蛇、首をもたげたり。人々、心を惑はして(のゝし)るに、君はいとのどかにて、

「なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。」とて、

生前(さうぜん)(しん)ならむ、な騒ぎそ。」

とうちわなゝかし、顔、ほか(ざま)に、

「なまめかしきうちしも、けちえんに思はむぞ。怪しき心なるや。」

とうち呟きて、近く引き寄せ給ふも、さすがに恐しくおぼえ給ひければ、立処(たちどころ)、居処蝶の如く、せみ声にの給ふ声の、いみじうをかしければ、人々逃げさわぎて、笑ひ入れば、しかじかと聞ゆ。

「いとあさましくむくつけき事をも聞くわざかな。さるものゝあるを見る見る、皆立ちぬらむ事ぞ怪しきや。」

とて、大殿(おとゞ)、太刀を(ひきさ)げておはしたり。能く見給へば、いみじう能く似せて作り給へりければ、手に取り持ちて、

「いみじう、物よくしけるかな。」とて、

「かしこがり、ほめ給ふ。と聞きてしたるなめり。返り事をして、早く遣り給ひてよ。」

とて語り給ひぬ。

 

 いつしか、姫君の異常ぶりが、世間に知れ渡った。噂は、たちまちのうちに広がった。ある高官の息子で、なにかというと、すぐお調子に乗り、それでいて、少々の事にはびくともしない、可愛い顔をした少年がいた。姫の一件を聞いた少年が、ある日、いたずらを思いついた。いくらなんでも、これには、きっとびっくりするぞ。といって、一本の帯を見つけて来た。苦心の結果、少年は、この帯で蛇の形をつくった。しかも、にょきにょき動くような、仕掛けをも考案したのだ。そして、それを蛇の鱗に似た模様の懸袋に入れて、その袋に手紙を結びつけておいた。使いの者から受けとった女房が、なに気なく手紙を開いて見た。すると、一首の歌が書きつけてあった。〈這いながらも、執念ぶかくあなたの傍に付いていようと思います。かぎりなく悠長な、あせらない気持でいる、この私の長い体は。〉とある。何のことやら、さっぱり意味がわからない女房は、手紙と袋を姫君のところに持っていった。〈それでは、ともかくもあけてごらん。〉と、姫君は女房に命じた。〈いったい、何の袋でしょうね。口をあけるのも気味がわるいわ。まあ、それにしても、なんとこの袋の重いことよ。〉と、つぶやきながらも、口の紐を解いた。とたんに、一匹の蛇が、にゅうと鎌首をもたげているではないか。悲鳴をあげて腰を抜かした女房たちが、大声で騒いでいるのに、姫君の方は平気の平左。落ち着き払ったものである。〈南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。この蛇は、私の存命中の親戚であろう。お前たち、騒がないように〉と、口ばかりのわなわな声を出している。とかくのうちに、姫君は蛇を手許に引き寄せる。が、内心は怖がって、居ても立ってもいられない。まるで、蝶が花に止まったように、あちらこちら、そわそわと動き廻って、落ち着かない。そのうち、たれかが奥に駈け込んで、父君に通報する。おっとり刀で出て来た父君が、一目見るなり、なんだ、作り物ではないか。それにしても、たいそううまくこしらえたものだ。ともあれ、相手の方に手紙の返事を書いて、返しておしまいなさい、と。

 

 4 御堂関白道長の外国郵便

 

『集古墨帖』(五冊)という書物がある。平安時代の名筆を模刻した墨刷り本(黒地に文字を白く抜く)で、これに所収する作品で、現存するものは少なくない。奥州南部藩の儒者北条世行(字は鉉)の審定によって成った。寛政五年~六年(一七九三~一七九四)にかけて板行の業が進められた。版下の彫りは、当時、江戸において名工として喧伝された井上慶寿が担当した。この本は、世間の評判をとったらしく、ついで、翌寛政七年には、『集古続帖』(三冊)が上梓されている。ところで、この続帖の巻二に、「藤原道長書」が掲げられている。しかも、その典拠として、「右関白藤公書牘、係浪華木世粛所送模本」と記している。つまり、大坂の人(注 木村蒹葭堂)が、その模本を所持していた、というのである。ともかくも、まず、その本文を示してみよう。

 

念救来授 手札。筆語如面。喜与」感生。珍重々々。夏晩惟也。法体」康和上人、一去西望幾廻。雖有帰」朝之約、如忘顧土之懐。父母之」郷、早願来化。念救着岸之後、」毎見潜然。依重大師之信也。□」朝□仮余、絶思僧宝。馳恋」之至、意馬難繋。縦雖楽漢家」之風、猶恨周旋不返。今勒廻使。」不具謹状。」

長和四年六月 日  日本国左大臣藤原道長

円通大師 法前 謹空

 

 念救来たりて手札を授く。筆語面するが如し。感生を与うるを喜ぶ。珍重々々。夏晩(これ)なり。法体(ほったい)康和上人、一たび西に去り幾廻か望む。帰朝の約有りと雖も、顧土の懐を忘るが如し。父母の郷、(すみ)やかに来化(らいげ)を願う。念救着岸の後、見る毎に潜然たり。大師の信を重んずるに依ってなり。(帰)朝□仮の余り、思いは僧宝を絶つ。馳恋(ちれん)の至り、意馬繋ぎ難し。縦え、漢家の風を楽しむと雖も、猶、恨むらくは周旋返らざらんことを。今、廻使に勒す。

 

 念救から、あなたのお手紙を受けとりました。文面を読んでいるうちに、なつかしさがこみあげ、まるでお目にかかっているようです。まことにありがとうございました。いま日本は、夏の終りです。あなたが渡航されてから、もう何年も経ってしまいました。すぐにも日本に帰って来るという、当初の約言ではありましたが。一向に音沙汰もなく、まるで、日本を忘れてしまわれたようだ。ご両親の故国へ、どうか一日も早く帰って来て下さい。念救の帰朝以来、かれの顔を見るにつけ、一人しょんぼりしていますよ。しかし、心中深くあなたに対しての信義を守っているようです。ともあれ、いまは、慕情がつのるばかりです。例の、中国の書物『安楽集』にいう、意馬心猿のたとえのように、心を押えることができません。そちら(宋国)の住心地に馴れて、日々の生活を楽しんでおいでの様子ですが、なんとか一日も早く、帰って来ていただきたいものです。幸便がありましたので、それに託します。一筆申し上げます。というような意味であろうか。書止めに、「不具謹状」と書き、さらに、あて名の円通(えんつう)大師の下に「法前」とあるのは、相手が僧侶の場合の敬語で、今日の書簡文などの、「御許に」・「御前に」と同様な用例。また、脇付の「謹空」とともに、例の空海の「風信帖」に、まったく同じ用例が見られる。

 さて、この手紙は、摸本によって版木に彫ったものであるが、多少の写し崩れがあるものの、書体や書風は、道長時代のものにまぎれもない。円通大師は、渡宋中の日本僧寂照(当時の記録によれば、「照」を「昭」と書いたものもある)のこと。つまり、この手紙は、道長から、宋国なる寂照に申し送った、いわば、今日でいう外国郵便なのである。海を渡って、はるばる宋国に届けた手紙が、たとえ摸本とはいえ、日本に残ること自体、不思議といえば不思議。だが、いまは、その詮索に時を移すのも無益なこと。あるいは、道長の手控えの方の一枚が、道長の子孫の貴族の家に、秘襲されていたのかも知れない。いまは、この程度の想像にとどめておく。

 さきの文面をたどりながら、この手紙の中に秘める歴史を、播いてみよう。あて名の円通大師は、もと大江定基。学者として鳴った斉光(なりみつ)の子として、若くして文筆の道を歩んだ。蔵人を経て、三河守に任ぜられた。三河国赤坂の遊女力寿(りきじゅ)を寵愛して、妻とした。が、かの女はほどなく病没した。これをきっかけとして、人生の無常を感じた定基は、永延二年(九八八)薙髪して仏門に入った。のち、寂心(大内記慶滋保胤(よししげのやすたね))の弟子となり、寂照と名乗った。また、源信僧都に師事したが、さらに決意を新たにして、渡宋を企てた。長保四年(一〇〇二)三月十五日のことであった(『日本紀略』・『百練抄』)。かれは、すでに宋国の人であった。それから、十三年の歳月が流れた。この手紙の長和四年(一〇一五)と見える年紀が、その星霜を物語るではないか。

 手紙の冒頭に見える僧念救は、寂照の弟子で、師に従って入宋した。が、この手紙を懐中して、一人で帰国したさまが明らかである。いったい、念救は、いつ帰国したのであろうか。道長の日記『御堂関白記』(長和二年〈一〇一三〉九月十四日条)によれば、

 

十四日、癸卯、入唐僧寂昭(照)が弟子の念救、入京の後、初めて来る。摺本の文集(白氏)并びに天台山の図等を志す。前に召し、案内を問ふに、申す所の事有り。又、天台(国清寺)従り延暦寺に送るの物、天台大師の形智顗(ちぎ)の肖像画)、存生の時の袈裟・如意・舎利壷等の牒(文書)等を覧せしむ。又、寂昭・元澄らの書(手紙)、又、天台僧二人、太宰(府)に在るの唐人等の書を献ぐ。  (原文は漢文)

 

と見えるので、長和二年の九月であったことが知られる。ついで念救は、十月十六目、土佐国の老父母の許に下向した。道長は、土佐守藤原季随(すえゆき)に添書をつけてやっている(同上・同筆十月十六日条)。

 ところで、さきの手紙の日付からひと月前のことである。『日本紀略』(長和四年〈一〇一五〉五月七日条)に、

 

七日丙戌。入唐僧寂昭。元澄。念救。覚因。明蓮等五人度縁請印。撰能書。以白色紙書之。以朱砂捺印。可渡大宋之故也。

 

という記事が見える。文中の度縁(どえん)というのは、僧が受戒した時に、官から交付する許可の証書。請印(せいいん)というのは、その証書に、太政官の官印を捺すこと。これと、道長の手紙とは、一本の糸でつながるようだ。というのは、『御堂関白記』に、「広業(藤原)朝臣唐書の返牒を持ち来る。所々、改む可きの由を仰せ、返し給ふ」(長和四年六月二日条。原文は漢文)と見える。これは、道長が文章博士藤原広業(ひろなり)をして、この手紙(牒状)の文案作成を下命したもの。当時、このような外国に出す手紙は、文章に堪能な学者が起草するのが常であった。その清書は、これまた、当代第一流の能書が筆を染める。当時の能書活動は、もっぱら藤原行成が独占していたことから考えると、当然、行成の執筆であったろう。この年、道長は正二位・左大臣で五十歳。行成は権中納言、四十四歳であった。そして、この手紙が宋国に向けて発信されたのは、六月二十三日であった。『日本紀略』(同年同月二十三日条)の編者が、「今日。左大臣送書状於大宋国円通大師」と記し留めているが、まさにそれを物語るではないか。

 

 5 手紙によって改名した厳島の黒内侍

 

 明治二十四年の三月十三日の朝まだき、厳島神社の裏手にある、校倉(あぜくら)造りの宝庫に火の手が上った。幸い早い発見で、延焼も軽度に消火することができた。この宝庫には、かの有名な平家納経をはじめ、今日、国宝や重要文化財に指定されている、秘宝の数々が、収納されていたのだ。奇跡的にも、これらは災火をまぬがれたが、なお、多くの刀剣類や古文書の山を、一瞬にして烏有に帰してしまったのは残り惜しい。

 その中に、いまとり上げるこの手紙も交っていた。しかしながら、偶然にも、この手紙は影写(すきうつし)による写しがとられていたのだ。神社では、これら一群の古文書を「厳島文書」と名づけ、雑翰部(ざっかんのぶ)に分類する。この写しはその中の一巻で、巻物に仕立てられている。まず、その全文を掲げる。ふつう、手紙といえば一通にかぎるが、これは珍しく、相関連する大小四

通(何れも原文は漢文)で一本の手紙となっている。うち最初の二通を紹介しよう。

 

(A) 安芦備後両国の堺(粟原泊・尾道市)従り、申さしめ候所なり。社頭の儀は、厳重と云い、比興(画白く興味あること)と云い、片時(へんじ)も忘れ難く候ものなり。得道の人に非ずんば、忽ち竜宮に入るが如し。就中、(ほの)かに御託宣の趣を承り、已に是れ機感の時、至るなり。感涙(おさ)え難し。又、内侍等、祗候(しこう)の事、日来(ひごろ)、承り及ぶと雖も、いまだ子細を知らず候の処、容貌と云い、才芸と云い、已に辺土の儀に非ず。尤も神力と謂う可し。其の中、舞妓の事、先人(少納言入道信西)殊に以って賞翫す。而して、平治の乱以後、永く視聴を隔て、今、数年に及ぶ。忽ち往事を見て、懐旧の涙、覚えずしておのずから落つ。かくの如き等の間、重ねて参詣の思い、尤も切に候ものなり。兼ねて又、上下向ならびに祗候等の間、雑事殊に以って丁寧の沙汰に候の条、恐悦極まり無く候ものなり。抑も、内侍等海上に浮き送るの間、帰参の時に及びて、已に別緒の魂を()つ。件の子細は紙上に尽し難く候のものなり。有安(前飛騨守中原)申し上ぐべく候の処、已に上洛せりと、しかじか。今日以後、已に浦嶋子(浦島太郎)の往情を知る。此の旨をもって、申し上げしめ給うべく候なり。恐々謹言。

四月十五日   法印静賢

        権大僧都澄憲

        左兵衛督成範

(B) 追って申す。

黒、名を改む釈全。由緒に依り候。猶、改名せしめ候なり。世親と付けらるべく候なり。竜樹・世親は一双の大士なり。彼の両人も同じく一双の美人なり。其の上、故入道(信西)、此の今様を作りて候なり。舟中、この事を思い出し候。尤も哀れに侯。この歌、内侍等に教えしめ給いて、宝前(神社の)に於いて、歌わしむべく候なり。定めて、彼の(信西入道)滅罪の計たらんか。又、此の宿に於いて、志有りて、檀越(だんおつ)(布施)のものを給う。仍って、重ねて内侍等に給わるべぐ候なり。其の中、硯一竜樹、裏物(つつみもの)金子(きんす))一世親、各給うべく候なり。彼の申状(A)をもって、必ず必ず、給わるべく候。三人同心に申さしめ候なり。謹言。

 

 久安二年(一一四六)、平清盛が安芸守となり、安芸国の一ノ宮である厳島神社を崇敬するようになって、平家一門の栄華がはじまった。妻時子の妹滋子を、後白河上皇の女御(にょうご)として入内(じゅだい)させ、高倉天皇を出産。その高倉天皇には、娘の徳子を中宮として送り込む。そして、安徳天皇が誕生する。清盛は、徳子の妊娠がはじまると、男子の出産を祈念して、厳鳥神社に月詣で(毎月、日をきめて参拝する)の船旅を繰り返した。後白河法皇・建春門院(滋子)、高倉上皇などを浪の上に誘い、厳島詣でを敢行した。これに釣られて、京の公卿たちも、われもわれもと、厳島の社参に出かけた。昇進が遅れ、悲嘆にかきくれる藤原実定が、はるばる厳島明神に祈誓して、厳島内侍(巫子)の口利きで、左大将の金的を射止めた話は、『平家物語』や『源平盛衰記』にも収められている。二十度参詣の悲願を立てた、清盛の異母弟頼盛が、朝廷公用の儀式をさぼって、厳島に抜け参りして、譴責をうけた話。というように、平家一門の人々と厳島を結ぶ逸話は、いくつもある。

 この、(A)・(B)の手紙も、そうした風潮の波に乗った、京都の公卿の厳島詣でを物語る、貴重な資料でもある。さて、(A)の差出人は、法印静賢(ほういんじょうけん)権大僧都澄憲(ごんだいそうずちょうけん)左兵衛督成範(さひょうえのかみなりのり)の三人。かれらは兄弟であった。ことに、成範は桜町中納言の異名をとった、美貌の貴公子であった。この手紙には、「四月十五日」の日付けだけあるが、種々の考証から、治承二年(一一七八)のものと推定する。

 まず、(A)の手紙。何日かの厳島滞在の後、帰京の途に立った静賢ら三人の一行は、最初の寄港地である栗原泊(いまの尾道市)に投錨した。船中、三人は異口同音に、厳島話に花を咲かせた。男三人が寄ると、最後はどうしても女の話になる。それにしても、あの厳島内侍たち、都を発つ時から聞いてはいたが、見ると聞くとは雲と泥。いやはや、あの艶やかな色気には、すっかり参ってしまった。いまはただ、浦島太郎のような気持だ。それぞれが、枕をともにした内侍たちの品定めで、時を移す中にも、船は静かに夕闇に包まれながら港の中に入っていった。その船中浪の上でしたためられたのが、この手紙であったのだ。そうだ、いっそのこと三人連名でいこう。まあ、兄さん、あなたが書いて下さいよ。というので、一座の中で、年長ではあったが、身分のいちばん低い静賢が筆を執ることになった。連名の手紙の差出人は、末尾にいくほど、高位となる。ところが、あて名の方は、最初に最高位の者、つぎつぎに身分が下る。というのが原則であった。この手紙は、どうしたことか、あて名を書かない。が、文面の丁寧をきわめることから、おそらく厳島神主佐伯景弘にあてたものであろう。(A)は、まず厳島滞在中の礼状である。(B)は黒内侍改名の依頼状である。文意は、さきの読み下し文によって、およそをつかめるであろう。当時、厳島神社には、大勢の内侍がいた。神役を奉仕するかたわら、夜に入ると、参詣の貴族の宿所に出向いて、娼(遊女)を兼ねる。中には、清盛の寵を受け、その間に一子をもうけたのもいる。やがて、かの女は越中前司平盛俊に再婚する。盛俊戦死の後は、鎌倉方の武将土肥実平の妻となった。ところで、かの女の生んだ女子は、母親ゆずりの美貌で、安芸御子姫君と呼ばれ、後には、とうとう後白河法皇の後宮に入内する。というような、ハピーエンドの生涯を歩んだ女もいる。

 治承元年(一一七七)の十月、清盛が息子の右大将宗盛以下、平家錚々のメンバーを率いて、厳島神社に千人の僧を集めて、大法会を行った。これは、「伊都岐嶋千僧供養日記」(一巻・鎌倉時代書写・原本は昭和二十年八月六日広島の原爆で焼失)という古記録によって、詳細を知ることができるのだが、その中に、当時の厳島内侍たちの名が連ねてある。

(1)黒内侍、(2)竜樹内侍、(3)普賢内侍、(4)文殊内侍、(5)弥陀内侍、(6)万寿内侍、(7)多聞内侍、(8)釈迦内侍、(9)千歳内侍、(10)乙内侍、(11)地蔵内侍、(12)薬王内侍

以上、十二名。(B)の手紙に見える黒内侍や竜樹内侍は、その筆頭に見えるではないか。とすると、(B)に「彼の両人も同じく一双の美人なり」というのは、まさしく、二人が厳島内侍群の女王の座を占めていたものと知る。これら十二名の呼称が、一様に仏教臭をもっているのは、面白い。それにしても、美人中の美人に黒内侍とは、ずい分、皮肉な名をつけたものではないか。ともあれ、この(A)・(B)を含む四通の手紙は、すべて、この黒内侍に改名をすすめるもの。厳島随一の美形。あるいは、清盛御手付の女であったかも知れない、かの女に寄せる三人の切々の慕情をかいま見る思いではないか。

 

 6 高師直のラブレターを兼好法師が代筆

 

 高師直(こうのもろなお)(?~一三五一)は、南北朝時代の武将。足利尊氏に仕え、右衛門尉(えもんのじょう)・武蔵守・三河守などを歴任した。元弘の乱に尊氏に従って京都・六波羅(北条政権)を滅ぼした功で、武蔵守に任じられた。建武新政府の政務機関たる窪所(くぼどころ)の一員に加えられた。が、翌年には雑訴決断所衆(ざっそけつだんどころしゅう)に列せられた。この時期に、師直は公卿や寺社の荘園復活運動には、猛烈に抵抗して、武士の所領確立のために活躍した。師直は、尊氏の側近で執事をつとめること、十八年。軍略家としては、南北朝時代最高の権威であったが、政治家としては、妥協を知らなかった。尊氏に近侍して、歌をよくし、字もまた練達していた。いま、自筆書状の二、三を残しているが、闊達豊麗な筆致は、その面目を十分に発揮している。また、延元四年(一三三九・暦応二年)には、『首楞厳義疏注経(しゅりょうごんぎそちゅうきょう)(二十一巻・天竜寺刊)を開板し、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)(一三一一~一三八八)をとりたてて真如寺に置き、醍醐・三宝院の賢俊とも交わりがあるほど、仏教にも深い帰依を示した。また、政権にあって、多くの将兵たちに恩をほどこしたので、烏帽子・衣紋(服装)までを、かれに真似るものが出た、という。また、多情であったかれは、諸王公卿の子女たちを、数個所に囲って、夜ごとに通ったという。京師の人々は、「執事巡宮、無神不享」(執事の宮めぐりは、手向けをうけぬ神もなし)と噂した、ともいわれる(『大日本史』)。

 そうしたエピソードの一つが、『太平記』(巻二十一)に描かれている。師直が、塩冶判官高貞(えんやはんがんたかさだ)の妻に横恋慕した話である。これは、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』(大序・鶴岡八幡宮兜改めの場)にも取材されているので、世間周知のもの。だが、その出典が『太平記』であることは、意外にも知られていない。

 いまは、すっかり老いさらぼう女だが、若いころは才色を誇って、上達部(かんだちめ)に仕えた、侍従という女房がいた。ある日、桓根越しに、師直に向かって、塩冶高貞の妻の美しさを語った。例によって婬欲を起したかれは、根掘り葉掘り、その一都始終を聞き出した。すぐにも、なんとかして貰いたいものだ。師直は、大奮発して、小袖十重(とかさね)に沈(香木)の枕を添え、これをそなたに進上するから、なんとか色よい返事を貰って来い、と急き立てる。侍従は、たち返った。が、一日待っても、二日待っても、返事がない。三日目に、とうとうしびれを切らせた師直が、酒肴を送って、矢の催促をする。が、どうにも埒があかない。侍従も、しおしおたち戻って、師直に事のあらましを話した。業を煮やした師直が、そんなら艶書を送ろう、と決意した。兼好法師は、当時、並びない能書であった。かくかく、しかじかのゆえに、一筆書いてくれ。といわれて、兼好は早速ながら筆を執った。香が焚きしめられていて、ぷんぷん芳香を放つ、紅葉重ね(表が黄、裏が蘇芳色)の薄様に書いた。このあたりの用意は、すでに記述したように、艶書の書札礼にかなうものである。ところが、不思議なことに、使いの者がせっかく持参したはずの手紙を、持ち帰ったではないか。むろん、お手渡しをいたしましたよ。だが、中を見もしないで、庭にぽいっと捨てておしまいになったのですよ。驚きましたね。だから、人に拾われても困りますから、私が持ち帰った次第です、と。これを聞いたとたんに、師直の顔が曇った。いやはや、手書き(書家)という奴は、とんと役にも立たないことだわい。あの兼好()、以後、一切この邸に呼び入れてはならぬぞ、と大変な見幕であった。一方、薬師寺次郎左衛門公義の取りなしで、再度の艶書が送られた。が、これまた、古今集の古歌を引いて、肘鉄砲。ところが、公義はさるもの、その逆手をとって歌意をこじつけ、その場を取りつくろい、師直の機嫌をとった。『太平記』の著者は、最後の筆を、「兼好が不祥、公義が高運、栄枯一時ニ地ヲ易タリ。」と結んで、人生の明暗を語っている。

 ところで、野之口隆正(ののくちたかまさ)の『兼好法師伝記考証』(五冊・天保八年〈一八三七〉刊)によれば、巻四に「師直艶書考」なる一節を設けて、兼好を弁護している。かれは、『園太暦(えんたいりゃく)』(洞院公賢(とういんのきんかた)〈一二一九~一三六〇〉の日記・三四冊)の年立(としだて)によれば、当時、兼好は都にはいない。だから、艶書を書くはずがない、と主張する。それはともかくとして、この『太平記』の所説は、なにによるのであろうか。もし、たとえ、それが『太平記』作者の仮託であるにしても、手紙の歴史の上には、興味ある話ではないか。

 

 7 密 書

 

 戦乱の、世の中では、いかにして敵方にさとられずに、手紙を味方に送達するか。最大関心事であった。『太平記』(巻十八)の「瓜生挙旗事」の冒頭。

 

去ル程ニ、先帝(後醍醐)ハ吉野ニ御座有テ、近国ノ兵馳参ル由聞ヘケレバ、京都ノ周章ハ申スニ不及、諸国ノ武士モ又天下不穏ト、安キ心モ無リケリ。此事已ニ一両月ニ及ケレ共、金崎ノ城ニハ出入絶タルニ依テ、知人モ無リケル処ニ、十一月二日ノ朝暖(アサナギ)ニ、櫛川ノ嶋崎ヨリ金崎ヲ差テ(オヨグ)者アリ。海松(ミル)和布(ワカメ)(カズ)海士(アマヒト)カ、浪ニ漂フ水鳥カト、目ヲ付テ是ヲミレバ、其ニハ非ズシテ、亘理(ワタリ)新左衛門ト云ケル者、吉野ノ帝(後醍醐)ヨリ被成タル綸旨(リンシ)ヲ、(モトドリ)ニハ結付テ游グニテゾ有ケル。城ノ中ノ人々驚テ、急ギ開テ見ルニ、先帝(ヒソカ)ニ吉野へ臨幸成テ、近国ノ士卒悉馳参ル間、不日ニ京都ヲ可被責由、被載タリ。……

 

 一読して分るように、後醍醐天皇から発せられた綸旨(蔵人が勅旨をうけて出す文書)を、敵陣をくぐり抜けて届けるための、苦肉の一策。亘理新左衛門が命をうけて、この綸旨伝達の使者となった。かれは、綸旨を、紙撚(こより)のように巻いて、頭の(もとどり)の中に隠して運んだというのである。元弘三年(一三三三)、足利尊氏が丹波の篠村に兵を挙げるに際して、布截って、伯耆国船上山なる後醍醐天皇の勅旨を伝え、諸国の兵を募った。いま、その綸旨が、九州の阿蘇・島津・立花の諸家に蔵されている。ことに、阿蘇家においては、これを“髻の綸旨”と呼んで秘蔵している。紙ではなく布に書いたのは、髻の中に隠匿するの便を考えてのことであったろう。また、『史徴墨宝(しちょうぼくほう)』(第二編・帝国大学編年史編纂所編・明治二十二年十二月刊)の中に、延元四年(一三三九)の後醍醐天皇遺勅なる文書を掲げる。これは、薄様で、しかもすこぶる強靭な紙に書かれている。となると、前者が髻の中に隠して運んだのに対して、これは、小さく畳んで、衣服や帯の中に封じ込めたのではなかったろうか。

 これに類した話が、湯浅元禎(ゆあさげんてい)(常山)の『常山紀談』(二十五巻・元文四年(一七三九)序)に載っている。池田信輝の家臣渡辺総左衛門が、大坂にいる奥方の許へ、密書を持参する主命をうけた。わざと伊勢路へかかり、密書は番号をつけて、細かく割き、笠の紐の中に撚り込んだ。伊勢神宮に参拝を終えると、なにくわぬ顔で、関所にかかる。と、警固の武士が、怪しんで検問をする。荷物・御祓箱・脇指(わきざし)の鞘までも打砕き、髪を解かせ、帯、袷、草鞋までも改めてみた。が、なにも出ない。まさか、笠の紐の中とは、役人も気づかなかったのである。総左衛門は、難なく関所を通ると、一路大坂をさして、急いだ。

 また、『安西軍策』(巻五)に収める話も、密書携行の苦心を語っている。織田信長が毛利輝元を攻めた。が、和議が成らず、依然いざこざが続いた。備前国の常山に浦兵部丞(うらひょうぶのじょう)宗勝の嫡男少輔(しょうゆう)四郎が在城していた。そこへ、小寺官兵衛尉蜂須賀彦右衛門から、たびたび味方に加勢の誘いがかかった。父の兵部丞は応諾しなかったが、子の少輔四郎はあっさりと、この誘いに乗ってしまった。そのころ、備前の児島湾口の守備のため、神田右馬助を差し置かれていた。ある日、そこへ怪しげな僧が通りかかった。じつは、この僧にわか作りの変装武土であったのだが。どうも、言葉の端はしに、武家訛りがある。はげしく追求して、荷物を調べ、ついでのことに竹杖を割ってみた。ところが、その中から小寺蜂須賀から少輔四郎にあてた、密書が出た。むろん、僧はその場で捕縛されたことはいうまでもない。かように、当時、密書の送達には、人々が異常な艱難を重ねていたことを知るのである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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小松 茂美

コマツ シゲミ
こまつ しげみ 古筆学 美術史家 1925 山口県岩国市生まれ。古筆学研究体系化の業績で朝日賞受賞。主著は『平家納経の研究』。

掲載作は『手紙の歴史』(岩波新書1976年)より「序章――手紙の名称」、「失われた手紙」を抜粋、出稿にあたり一部訂正を加え、『手紙』とタイトルを付した。

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