手紙
手紙の名称
『
しかし、手紙は、こうした筆跡の面白さの上に、それを書いた人の生活そのものが、じかにのぞいているところに、一段と興趣をそそるのである。天皇の手紙、公卿の手紙は、それぞれの地位にふさわしい風趣を漂わせている。また、高僧の書いた手紙には、書法などにこだわらず、修道者として鍛えられた、深い魂の声を聞くような、響きをもつものがある。武将は豪毅果敢な心意気を、茶人は平静洒脱な心境を、また、女性はそれらしい細やかな情味を、それぞれ吐露してあますところがない。だから、昔の手紙は、一巻の史書をひもとくよりも、もっと端的に、歴史を語っている、といっても過言ではあるまい。昔の手紙の面白さの謎が、ここらあたりに潜んでいるのではなかろうか。
ところで、手紙の様式は、奈良時代に唐朝の儀礼にならい、平安・鎌倉へと時代が下るにつれて、次第に類型化をたどった。つまり、
平安後期においては、手紙の模範文例集が、貴族子弟の初等用教科書として、出現した。この風潮は、さらに鎌倉・室町時代にかけても尾を引き、さまざまな手紙文例集が編まれるに至った。ついで、江戸時代に入ると、それらは、寺小屋における児童用のテキストとして、もっぱら手紙の文例が、読み・書きの対象となった。手紙文の習得が、いかに人々の大きな関心の的であったかが、察せられるであろう。
今日、われわれが日常書簡文を書くに当たって、過去の習慣や約束、あるいは、歴史的事実の残されたものが、少なくない。すべての古いものが忘れ去られ、過去の形骸と化しつつあるのが、現代社会の実情である。が、美しい文字で綴られた、心のこもった手紙は、やはり読む者の心を豊かにしてくれる。大切なことの一つである。まだ会わない人には、その手紙で、その人を想像するよりほかにない。手紙一本も、ゆめおろそかにできないのではあるまいか。
ところが、電話の飛躍的に発達した今日、われわれの実生活は、手紙を書く機会を、極度に少なくした。たいていの場合、電話で用件が済ませる。自然、手紙を書かない。書かないから、手紙文も上達しないし、手も上がらない。さらに、下手であるから、ますます書かなくなる。という因果が、おのずから生じてくる。これが、われわれの周辺の、いつわらざる実態であろう。
さて、手紙という言葉は、江戸初期のころに、はじめて使われるようになる。
手紙といふ名目、古はなし。手簡といふは、手づから書きたる状なり。手簡はシュカンなるを、テカンとよみ、テカン転じて手紙といひ誤るか。古は紙を横に二つに折りて書くをば、小文といひしなり。其の小文略して半切紙に書きて手紙と名付けたる也。
と述べ、「手簡」の誤読、(テカン)の転訛であろう、という。また『
手紙には、古くから、いろいろな名称がある。それも、人に対していう場合と、自分の手紙とでは、おのずから名称に区別があった。寛文九年(一六六九)十一月、京都の下御霊前・谷岡七左衛門板行の『書翰初学抄』(三巻・著者蔵)によれば、
称人書簡
朶雲 郇雲 藻翰 芳書 教字 翰墨 承諭 愛諭 示誨 示諭 華札 翰牘 雲箋 郇翰 奇翰 五雲 朶翰 手誨 台翰 尊翰 華翰 雲輸 牋翰 琅玕 珍翰 台誨 書誨 貽誨 寵誨 翰誨 真翰 枉教 来教 恵教 賜教 台箚 教箚 誨箚 尺箚 恵箚 尺牘 剡牘 教牘 簡牘 誨牘 牋牘 損牘 損翰 貶翰 宝墨 謙翰 教墨 誨墨 芳墨 芳札 誨字 手字 恵字 墜翰 来翰 示字 箚字 恵緘 誨緘 貶誨 雲緘 飛緘 墜教 誨帖 誨音 誨章 誨箚 誨剡 汗簡 誨示 教督 誨翰 教帖 教章 教條 教削 烏封 教翰 羲墨 鯉素
自称書箚
濡削 柔訥 柔削 柔尺 柔翰 納翰 尺素 尺書 書札 尺楮 尺一 尺紙 尺牋 尺牘 蕪牘 手牘 手誨 手啓 手記 手札 手槧 柔槧 奏記 短記 具記 寸毫 緘縢 嗣布 嗣問 片札 愚翰 短札 手納 柔素 斐函 嗣音
など、じつにさまざまな名称のあることを知る。が、これらは、すべて中国の用語である。いまでも、われわれの日常に使われるのは、書状・書翰・書簡・
また、手紙は雁書・雁札・雁の使い、などともいった。中国の前漢時代、蘇武という者が、匈奴(胡国)に使して捕えられ、帰ることを許されなかった。かれは、雁の足に手紙を結んで放った。その文は、間もなく天子の許に届いたので、その生存が知られた、という故事による。
『万葉集』にも、この雁書を詠んだものが見える。
春草を
天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都に言告げやらむ (巻十五 三六七六)
という歌が見える。わが国においても、すでに奈良朝において、この蘇武の故事にヒントを得て、「雁の使い」を音信の意味に使っていたことを知る。これは、平安朝に入っても、同様であった。
『後拾遺和歌葉』(巻四)
寛和元年八月十日内裏の歌合によめる
我妹子がかけて待つらむ玉づさをかき連ねたる初雁の声 (藤原長能)
『金葉和歌集』(巻三)
雁をよめる
玉章はかけてきつれど雁がねのうはの空にも聞ゆなる哉 (読人しらず)
『新後拾遺和歌集』(巻四)
霧はれぬ空にはそこと知らねども来るをたのむの雁の玉づさ (権少僧都覚家)
などが、それである。
雁の使いにちなんで、伝書鳩について、触れておきたい。記録の上で、もっとも古いものは中国・五代の
ところで、唐代に、中国南方の広州の港には、
今の人、家鴿に馴れて通信す。皆、虚言に非ざるなり。携えて外数千里に至りて、これを
と述べられている。この伝書鳩は、航海に欠くことのできないものであった。もともと、セイロンやペルシャ商人によって広められたものであったが、中国に移入され、やがては、わが国にももたらされるようになる。内大臣藤原頼長(二十四歳)が、崇徳上皇(三十歳)に、「鴨*(魚ヘンに奥の字 読み不明)」を献じた。鴨は分るとしても、次の文字は辞書に見えない。鳥と魚の二種をいうのであろうか。ところが、上皇の方は、お返しとして、家鳩を頼長に贈った。頼長は、日記にその鳩の説明を加えている。「長頭、白色、頭に冠有り。足に毛有り。性能人に馴れる」(『台記』康治二年〈一一四三〉三月九日条・原文は漢文)という記述から、白の鴿で、伝書鳩であったことが分る。そして、これに手紙を結びつけるには、防水用として、油紙で包んだことが知られる(『琅邪代酔編』巻三十八)。鎌倉時代に入ると、宮廷で、この鳩の飼育熱が急激にたかまった。『吾妻鏡』(承元二年〈一二〇八〉十月二十一日条)に、
去月廿七日の夜半、朱雀門焼亡せり。常陸介朝俊(朝隆卿の末孫なり。弓馬、相撲の達者なり)、松明を取り門に昇る。鳩の子を取りて帰り去るの間、件の火、この
というような有様で、公卿たちの中には、伝書鳩の飼育で天下に名をとどろかせるほどの者があらわれた、ともいう。となると、平安末期以後において、わが国の手紙界は、伝書鳩による速達便が、一新紀元を画したのではなかったろうか。と、想像したくもなるではないか。
また、手紙のことを
もみぢ葉の散りゆくなべに玉梓の使を見ればあひし日思ほゆ (巻二 二〇九)
……青丹よし奈良路来通ふ玉梓の使絶えめや籠り恋ひ息づき渡り
というのが見える。この「玉梓の」というのは、「使」にかかる枕詞。古代、使者がそのしるしとして、梓の木をたずさえる風習があった。手紙を結びつけて運ぶのにも用いたが
失われた手紙
記録や文学作品に残る手紙文。あるいは、原本が遠い昔に散佚してしまって、いまは失われた手紙。そうしたものの中に、興味を呼ぶ手紙が少なくない。
たとえば、『竹取物語』では、翁に泣いて別れを告げるかぐや姫が、「文を書をきてまからん」といって、「此国にむまれぬるとならば……」と書き出される手紙を残す。文学作品ではあるが、これが記録に残る最古のかな消息といえるであろうか。また、『宇治拾遺物語』(「清見原天皇と大友皇子と合戦の事」)には、父(のちの天武天皇)の身の上を心配する大友皇子の妃十市皇女が、鮒の包やきの中に「小さく文を書きて押し入れ」て父に送った事が記されている。時代は下って、本多作佐衛門が留守居の妻にやった手紙についても、ここで、ちょっとふれておこう。例の、「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」で知られる有名な手紙である。じつは、この手紙の出所は、神沢貞幹の『翁草』で、それによれば、「一筆申す、火の用心、おせん病すな、馬肥やせ」と多少の字句の相違がある。
とまれ枚挙にいとまがないが、以下七項にわたって、そのうちのいくつかを、やや詳しく紹介してみよう。
1 日出処天子より日没処天子に送った手紙
いま、推古朝における小野妹子の名を知らぬものはあるまい。『隋書』には、妹子の中国名を、
ついで、同年九月十一日、隋使の一行が、難波を出航して帰国するに際し、朝廷は、ふたたび妹子を大使に任じ、副使
東の国なる天皇から、西の皇帝陛下につつしんで、一筆申し上げます。貴国の使者で、鴻臚館(迎賓館)の招客たる斐世清ご一行がおいでになり、いろいろと申し承りましたので、長い間御無沙汰の様子が、よくわかりました。こちらは、昨今、秋となりまして、だんだん冷え込むようになりました。皇帝陛下におかされても、御安泰のことと拝察いたします。当方は、むろん、変りなく過しております。いま、ここに大礼小野妹子と同じく大礼吉士雄成らを、参上いたさせました。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。つつしんで申し上げます。詳しく書くことができません、と。
最初の書出しに、「敬白」、最後の書止めに、「謹白不具」と書いて、相手方に深い敬意をあらわす。今日なお、われわれは、手紙の書出しを、「拝啓」・「謹啓」ではじめて、終りは「不具」・「敬白」・「草々」などの言葉で結んでいる。こうした無意識の習慣も、小野妹子から、じつに一三〇〇年、隋王朝の書札礼が、二十世紀の今日まで、うけつがれているわけである。これは、一般に手紙といわれるような私文書ではないが、ともかくも、記録初見のわが国最初の書状として、すこぶる価値が高い。
2 万葉びとの手紙
『万葉集』の中に、いくつかの手紙文が収められている。まず、巻五に、
伏辱来書、具承芳旨。忽成隔漢之恋、復傷抱梁之意。唯羨去留無恙、遂待披雲耳。
伏して来書を辱くし、
と見えるものは、太宰府に在勤していた大伴旅人が、都の女性からの手紙に答えた返信。文面の様子から、それは恋文であった。日付も署名もあて名も残さない。恋の便りとして、当然の心配りではないか。平安時代の恋文に、それらの一切がなかったことは、すでに述べたとおり(注 原本「手紙の様式とそのうつりかわり」の項)。となると、いま、この手紙の存在によって、むしろ、その形式の芽ばえは、奈良時代にまで遡ることを知る。ところで、この手紙には、むずかしい漢籍の言葉が、いくつも使われている。
「隔漢之恋」は、
つつしんでお手紙をいただき、仰せの旨、委細拝承いたしました。たちまち、天の川を距てる恋心を抱き、また、堅い約束をした貴女とお逢いするのが待ちどおしく、胸が傷みます。ただただ、ご起居お障りもなく、元気でお逢いする日の一日も早からんことを願っています、とでもいうのであろうか。かように、はげしい思慕の情を寄せる相手の女性は、いったい、たれであったのだろうか。太宰府における旅人が相聞の歌を贈った相手に、
同じく、巻五の中。都にいた藤原
琴娘子答曰、
敬奉徳音。幸甚々々。
片時覚。即感於夢言、慨然不得
黙止。故附公使、聊以進御耳。謹状不具。
天平元年十月七日 附使進上
謹通 中衛高明閤下 謹空
「琴娘子答曰」というのは、この前に、旅人愛用の琴が、夢に
続いて、この手紙に対する房前からの返信が、掲げられている。
跪承芳音。嘉懽交深。乃知、竜門之恩。復厚蓬身之上。恋望殊念、常心百倍。謹和白雲之什、以奏野鄙之歌。房前謹状。
十一月八日 附還使大監
謹通 尊門記室
見られるように、ここにも、いくつか漢籍の知識がちりばめられている。まず、「竜門之恩」というのは、『文選』(巻十八)の琴賦の李善注に、「史記曰、竜門有桐樹、高百尺、無技堪為琴」とあるのによったもの。さきに、旅人は房前に桐の琴を贈っている。これは、その謝恩を示した文句であろう。「蓬身」は、「蓬体」・「蓬容」などと同様、みずからをいやしい身という、謙遜の言葉。転じて、「蓬門」・「蓬屋」は、自分の家の卑称である。「白雲之什」の「白雲」は、白雲を距てた遠い所から来た、という意味。「什」は詩篇のこと。つまり、はるばる白雲を距てた、遠方より贈られた和歌をいう。うやうやしく、お手紙をいただき、まことにうれしく存じます。ことに、桐の琴をお送り下さり、ご厚志のほど感謝にたえません。あなたをお慕い申す気持ちは、常の心に百倍もまさる思いです。ここに、謹んで、あなたのお歌に和して、拙い歌をご披露申し上げる次第です。房前、謹んで申し上げます。十一月八日、都から太宰府にかえる
また、巻十八には、大伴家持が大伴
依下迎駅使事、今月十五日、到来部下加賀郡境。面蔭見射水之郷。恋緒結深海之村。身異胡馬。心悲北風。乗月徘徊、曾无所為。稍開来封、其辞云々者。先所奉書、返畏。度疑歟。僕作嘱羅、且悩使君。夫乞水得酒、従来能口。論時合理、何題強吏乎。尋誦針袋詠、詞泉酌不竭。抱膝独咲、能*(=益と蜀 除くの意)旅愁。陶然遣日、何慮何思。短筆不宣。
勝宝元年十二月十五日
徴物下司
謹上 不伏使君 記室
手紙とはいえ、いかにも文学的である。都からの駅馬を迎えるために、今月十五日、管下の加賀郡に来たが、かつて住んでいた射水郷が、眼前にちらつき、恋の思いの糸を、深海村で結びました。自分は、胡馬(中国の北方、胡国に産した馬)ではないが、心は北風に向かい、もと住んでいた越中の国を悲しく思い出します。折からの月光の下を、さまようばかりで、まったくなすすべもありませんでした。ちょうどそこへ、あなたからのお手紙。開いて見れば、しかじかと書いてありました。私が先にさし上げた手紙が、かえって、あなたの誤解を招いたのではないか、と恐れます。私がおねだりしたばっかりに、かえって上等の
3 虫めづる姫君に届いた蛇の文
蝶や花やと、やさしい美しいものを愛好するのが、女の特性でもあった。が、
そればかりではない。姫君は、女性の身嗜みには、いっこうに無頓着。鏡に向かってお化粧をするどころか、眉も抜かず、お
これは、『堤中納言物語』にある「虫めづる姫君」が描くところだが、続く一節。
かゝる事、世に聞えて、いと、うたてあることをいふ中に、ある
「さりとも、これには怖ぢなむ。」
とて、帯の端の、いとをかしげなるに、
はふはふも君があたりにしたがはむ長き心のかぎりなき身は
とあるを、何心もなぐ御前に持て参りて、
「袋など。あくるだに怪しく。おもたきかな。」
とて、ひきあけたれば、蛇、首をもたげたり。人々、心を惑はして
「なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。」とて、
「
とうちわなゝかし、顔、ほか
「なまめかしきうちしも、けちえんに思はむぞ。怪しき心なるや。」
とうち呟きて、近く引き寄せ給ふも、さすがに恐しくおぼえ給ひければ、
「いとあさましくむくつけき事をも聞くわざかな。さるものゝあるを見る見る、皆立ちぬらむ事ぞ怪しきや。」
とて、
「いみじう、物よくしけるかな。」とて、
「かしこがり、ほめ給ふ。と聞きてしたるなめり。返り事をして、早く遣り給ひてよ。」
とて語り給ひぬ。
いつしか、姫君の異常ぶりが、世間に知れ渡った。噂は、たちまちのうちに広がった。ある高官の息子で、なにかというと、すぐお調子に乗り、それでいて、少々の事にはびくともしない、可愛い顔をした少年がいた。姫の一件を聞いた少年が、ある日、いたずらを思いついた。いくらなんでも、これには、きっとびっくりするぞ。といって、一本の帯を見つけて来た。苦心の結果、少年は、この帯で蛇の形をつくった。しかも、にょきにょき動くような、仕掛けをも考案したのだ。そして、それを蛇の鱗に似た模様の懸袋に入れて、その袋に手紙を結びつけておいた。使いの者から受けとった女房が、なに気なく手紙を開いて見た。すると、一首の歌が書きつけてあった。〈這いながらも、執念ぶかくあなたの傍に付いていようと思います。かぎりなく悠長な、あせらない気持でいる、この私の長い体は。〉とある。何のことやら、さっぱり意味がわからない女房は、手紙と袋を姫君のところに持っていった。〈それでは、ともかくもあけてごらん。〉と、姫君は女房に命じた。〈いったい、何の袋でしょうね。口をあけるのも気味がわるいわ。まあ、それにしても、なんとこの袋の重いことよ。〉と、つぶやきながらも、口の紐を解いた。とたんに、一匹の蛇が、にゅうと鎌首をもたげているではないか。悲鳴をあげて腰を抜かした女房たちが、大声で騒いでいるのに、姫君の方は平気の平左。落ち着き払ったものである。〈南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。この蛇は、私の存命中の親戚であろう。お前たち、騒がないように〉と、口ばかりのわなわな声を出している。とかくのうちに、姫君は蛇を手許に引き寄せる。が、内心は怖がって、居ても立ってもいられない。まるで、蝶が花に止まったように、あちらこちら、そわそわと動き廻って、落ち着かない。そのうち、たれかが奥に駈け込んで、父君に通報する。おっとり刀で出て来た父君が、一目見るなり、なんだ、作り物ではないか。それにしても、たいそううまくこしらえたものだ。ともあれ、相手の方に手紙の返事を書いて、返しておしまいなさい、と。
4 御堂関白道長の外国郵便
『集古墨帖』(五冊)という書物がある。平安時代の名筆を模刻した墨刷り本(黒地に文字を白く抜く)で、これに所収する作品で、現存するものは少なくない。奥州南部藩の儒者北条世行(字は鉉)の審定によって成った。寛政五年~六年(一七九三~一七九四)にかけて板行の業が進められた。版下の彫りは、当時、江戸において名工として喧伝された井上慶寿が担当した。この本は、世間の評判をとったらしく、ついで、翌寛政七年には、『集古続帖』(三冊)が上梓されている。ところで、この続帖の巻二に、「藤原道長書」が掲げられている。しかも、その典拠として、「右関白藤公書牘、係浪華木世粛所送模本」と記している。つまり、大坂の人(注 木村蒹葭堂)が、その模本を所持していた、というのである。ともかくも、まず、その本文を示してみよう。
念救来授 手札。筆語如面。喜与」感生。珍重々々。夏晩惟也。法体」康和上人、一去西望幾廻。雖有帰」朝之約、如忘顧土之懐。父母之」郷、早願来化。念救着岸之後、」毎見潜然。依重大師之信也。□」朝□仮余、絶思僧宝。馳恋」之至、意馬難繋。縦雖楽漢家」之風、猶恨周旋不返。今勒廻使。」不具謹状。」
長和四年六月 日 日本国左大臣藤原道長
円通大師 法前 謹空
念救来たりて手札を授く。筆語面するが如し。感生を与うるを喜ぶ。珍重々々。夏晩
念救から、あなたのお手紙を受けとりました。文面を読んでいるうちに、なつかしさがこみあげ、まるでお目にかかっているようです。まことにありがとうございました。いま日本は、夏の終りです。あなたが渡航されてから、もう何年も経ってしまいました。すぐにも日本に帰って来るという、当初の約言ではありましたが。一向に音沙汰もなく、まるで、日本を忘れてしまわれたようだ。ご両親の故国へ、どうか一日も早く帰って来て下さい。念救の帰朝以来、かれの顔を見るにつけ、一人しょんぼりしていますよ。しかし、心中深くあなたに対しての信義を守っているようです。ともあれ、いまは、慕情がつのるばかりです。例の、中国の書物『安楽集』にいう、意馬心猿のたとえのように、心を押えることができません。そちら(宋国)の住心地に馴れて、日々の生活を楽しんでおいでの様子ですが、なんとか一日も早く、帰って来ていただきたいものです。幸便がありましたので、それに託します。一筆申し上げます。というような意味であろうか。書止めに、「不具謹状」と書き、さらに、あて名の
さて、この手紙は、摸本によって版木に彫ったものであるが、多少の写し崩れがあるものの、書体や書風は、道長時代のものにまぎれもない。円通大師は、渡宋中の日本僧寂照(当時の記録によれば、「照」を「昭」と書いたものもある)のこと。つまり、この手紙は、道長から、宋国なる寂照に申し送った、いわば、今日でいう外国郵便なのである。海を渡って、はるばる宋国に届けた手紙が、たとえ摸本とはいえ、日本に残ること自体、不思議といえば不思議。だが、いまは、その詮索に時を移すのも無益なこと。あるいは、道長の手控えの方の一枚が、道長の子孫の貴族の家に、秘襲されていたのかも知れない。いまは、この程度の想像にとどめておく。
さきの文面をたどりながら、この手紙の中に秘める歴史を、播いてみよう。あて名の円通大師は、もと大江定基。学者として鳴った
手紙の冒頭に見える僧念救は、寂照の弟子で、師に従って入宋した。が、この手紙を懐中して、一人で帰国したさまが明らかである。いったい、念救は、いつ帰国したのであろうか。道長の日記『御堂関白記』(長和二年〈一〇一三〉九月十四日条)によれば、
十四日、癸卯、入唐僧寂昭(照)が弟子の念救、入京の後、初めて来る。摺本の文集(白氏)并びに天台山の図等を志す。前に召し、案内を問ふに、申す所の事有り。又、天台(国清寺)従り延暦寺に送るの物、天台大師の形
と見えるので、長和二年の九月であったことが知られる。ついで念救は、十月十六目、土佐国の老父母の許に下向した。道長は、土佐守藤原
ところで、さきの手紙の日付からひと月前のことである。『日本紀略』(長和四年〈一〇一五〉五月七日条)に、
七日丙戌。入唐僧寂昭。元澄。念救。覚因。明蓮等五人度縁請印。撰能書。以白色紙書之。以朱砂捺印。可渡大宋之故也。
という記事が見える。文中の
5 手紙によって改名した厳島の黒内侍
明治二十四年の三月十三日の朝まだき、厳島神社の裏手にある、
その中に、いまとり上げるこの手紙も交っていた。しかしながら、偶然にも、この手紙は
通(何れも原文は漢文)で一本の手紙となっている。うち最初の二通を紹介しよう。
(A) 安芦備後両国の堺(粟原泊・尾道市)従り、申さしめ候所なり。社頭の儀は、厳重と云い、比興(画白く興味あること)と云い、
四月十五日 法印静賢
権大僧都澄憲
左兵衛督成範
(B) 追って申す。
黒、名を改む釈全。由緒に依り候。猶、改名せしめ候なり。世親と付けらるべく候なり。竜樹・世親は一双の大士なり。彼の両人も同じく一双の美人なり。其の上、故入道(信西)、此の今様を作りて候なり。舟中、この事を思い出し候。尤も哀れに侯。この歌、内侍等に教えしめ給いて、宝前(神社の)に於いて、歌わしむべく候なり。定めて、彼の(信西入道)滅罪の計たらんか。又、此の宿に於いて、志有りて、
久安二年(一一四六)、平清盛が安芸守となり、安芸国の一ノ宮である厳島神社を崇敬するようになって、平家一門の栄華がはじまった。妻時子の妹滋子を、後白河上皇の
この、(A)・(B)の手紙も、そうした風潮の波に乗った、京都の公卿の厳島詣でを物語る、貴重な資料でもある。さて、(A)の差出人は、
まず、(A)の手紙。何日かの厳島滞在の後、帰京の途に立った静賢ら三人の一行は、最初の寄港地である栗原泊(いまの尾道市)に投錨した。船中、三人は異口同音に、厳島話に花を咲かせた。男三人が寄ると、最後はどうしても女の話になる。それにしても、あの厳島内侍たち、都を発つ時から聞いてはいたが、見ると聞くとは雲と泥。いやはや、あの艶やかな色気には、すっかり参ってしまった。いまはただ、浦島太郎のような気持だ。それぞれが、枕をともにした内侍たちの品定めで、時を移す中にも、船は静かに夕闇に包まれながら港の中に入っていった。その船中浪の上でしたためられたのが、この手紙であったのだ。そうだ、いっそのこと三人連名でいこう。まあ、兄さん、あなたが書いて下さいよ。というので、一座の中で、年長ではあったが、身分のいちばん低い静賢が筆を執ることになった。連名の手紙の差出人は、末尾にいくほど、高位となる。ところが、あて名の方は、最初に最高位の者、つぎつぎに身分が下る。というのが原則であった。この手紙は、どうしたことか、あて名を書かない。が、文面の丁寧をきわめることから、おそらく厳島神主佐伯景弘にあてたものであろう。(A)は、まず厳島滞在中の礼状である。(B)は黒内侍改名の依頼状である。文意は、さきの読み下し文によって、およそをつかめるであろう。当時、厳島神社には、大勢の内侍がいた。神役を奉仕するかたわら、夜に入ると、参詣の貴族の宿所に出向いて、娼(遊女)を兼ねる。中には、清盛の寵を受け、その間に一子をもうけたのもいる。やがて、かの女は越中前司平盛俊に再婚する。盛俊戦死の後は、鎌倉方の武将土肥実平の妻となった。ところで、かの女の生んだ女子は、母親ゆずりの美貌で、安芸御子姫君と呼ばれ、後には、とうとう後白河法皇の後宮に入内する。というような、ハピーエンドの生涯を歩んだ女もいる。
治承元年(一一七七)の十月、清盛が息子の右大将宗盛以下、平家錚々のメンバーを率いて、厳島神社に千人の僧を集めて、大法会を行った。これは、「伊都岐嶋千僧供養日記」(一巻・鎌倉時代書写・原本は昭和二十年八月六日広島の原爆で焼失)という古記録によって、詳細を知ることができるのだが、その中に、当時の厳島内侍たちの名が連ねてある。
(1)黒内侍、(2)竜樹内侍、(3)普賢内侍、(4)文殊内侍、(5)弥陀内侍、(6)万寿内侍、(7)多聞内侍、(8)釈迦内侍、(9)千歳内侍、(10)乙内侍、(11)地蔵内侍、(12)薬王内侍
以上、十二名。(B)の手紙に見える黒内侍や竜樹内侍は、その筆頭に見えるではないか。とすると、(B)に「彼の両人も同じく一双の美人なり」というのは、まさしく、二人が厳島内侍群の女王の座を占めていたものと知る。これら十二名の呼称が、一様に仏教臭をもっているのは、面白い。それにしても、美人中の美人に黒内侍とは、ずい分、皮肉な名をつけたものではないか。ともあれ、この(A)・(B)を含む四通の手紙は、すべて、この黒内侍に改名をすすめるもの。厳島随一の美形。あるいは、清盛御手付の女であったかも知れない、かの女に寄せる三人の切々の慕情をかいま見る思いではないか。
6 高師直のラブレターを兼好法師が代筆
そうしたエピソードの一つが、『太平記』(巻二十一)に描かれている。師直が、
いまは、すっかり老いさらぼう女だが、若いころは才色を誇って、
ところで、
7 密 書
戦乱の、世の中では、いかにして敵方にさとられずに、手紙を味方に送達するか。最大関心事であった。『太平記』(巻十八)の「瓜生挙旗事」の冒頭。
去ル程ニ、先帝(後醍醐)ハ吉野ニ御座有テ、近国ノ兵馳参ル由聞ヘケレバ、京都ノ周章ハ申スニ不及、諸国ノ武士モ又天下不穏ト、安キ心モ無リケリ。此事已ニ一両月ニ及ケレ共、金崎ノ城ニハ出入絶タルニ依テ、知人モ無リケル処ニ、十一月二日ノ
一読して分るように、後醍醐天皇から発せられた綸旨(蔵人が勅旨をうけて出す文書)を、敵陣をくぐり抜けて届けるための、苦肉の一策。亘理新左衛門が命をうけて、この綸旨伝達の使者となった。かれは、綸旨を、
これに類した話が、
また、『安西軍策』(巻五)に収める話も、密書携行の苦心を語っている。織田信長が毛利輝元を攻めた。が、和議が成らず、依然いざこざが続いた。備前国の常山に
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/06/06
背景色の色
フォントの変更
- 目に優しいモード
- 標準モード