一九二八年三月十五日
一
お恵には、それはそう仲々慣れきることの出来ない事だった。何度も——何度やってきても、お恵は初めてのように驚かされたし、ビクビクしたし、
――組合の人達が集って、議題を論議し合っているとき、お恵がお茶を持って階段を上って行くと、夫の声で、
「
「革命は台所から――これは動かせない公式だからなあ。小川さん、甘い、甘い。」
「実際、俺の嬶シャッポだ。」
「ワイフとの理論闘争になると、負けるんだなあ。」と、そして、皆にひやかされた。
夫は声を出して、自分で自分の身体を抱えこむように、恐縮した。
朝、竜吉が歯を磨いていた。側で、お恵が台所の流しに置いてある洗面器にお湯を入れてやっていた。
「ローザって知ってるか。」夫が
「ローザア?」
「ローザさ。」
「レーニンなら知ってるけど……。」
竜吉はひくく「お前は馬鹿だ。」と云った。
お恵はそういうことをちっとも知ろうと思い、又はそうするために努めた事さえ無かった。それ等は覚えられもしないし、覚えたって、どうにもならない気がしていた。「レーニン」とか「マルクス」とか、それは子供の
然しお恵は、夫や組合の人達や、又その人達のする事に悪意は持っていなかった。初め、然し、お恵は薄汚い、それに何処かに凄味をもった組合の人達を見ると、おじけついた。その印象がそうすぐ近付けないものを、しばらくお恵の気持の中に残した。けれども変にニヤニヤしたり、馬鹿丁寧であったりする学校の先生{夫の同僚}などよりは、一緒に話し合っていて気持よかった。物事にそう
港一帯にゼネラル・ストライキがあった時、お恵は外で色々「恐ろしい噂」を聞いた。あの工藤さんや、鈴本さんなどの指導しているストライキが、その「恐ろしい」ストライキである事が、どうしても初め分らない、と思った。
「誰にとって、一体あのストライキが恐ろしいッて云うんだ。金持にかい、貧乏人にかい。」
夫にそう云われた。が、腹からその理窟が分りかねた。
「理窟でないよ。」
新聞には、毎日のように大きな活字で、ストライキの事が出た。
「途中スパイに
そして、すぐ
お恵はその枕もとに、しばらく坐っていた。お恵はこんな場合、何時でも夫のしていることを言葉に出してまで云った事がなかった。然し、やっぱり、そんなに苦しんで、何もかも犠牲にしてやって、それが一体どの位の役に立つんだろう。皆が
然しお恵は組合の人達の色々な話や労働者の悲惨な生活を知り、労働者達は苦しい、苦しくてたまらないんだ、だから彼等は理窟なしに自分達の生活を搾りあげている金持に「こん畜生!」という気になるのだ。組合の人達はそれを指導し、その闘争を拡大してゆく、お恵にはそういう事も分ってきた。夫達のしている事が、それがお恵には何時見込のつくことか分らない事だとしても、非常に「大きな」「偉い」事をしているのだ、という一種の「誇り」に似た気持さえ覚えてきた。
竜吉は三度目の検束で、学校が首になり、小間物屋でどうにか暮して行かなければならなくなった。その時——何時か来る、その漠然とした気持は持っていたとしても、お恵は何かで不意になぐられたようなめまいを感じた。然しそのことにこだわって、クドクド云わない程になっていた。
竜吉は勤めという引っかかわりが無くなると、運動の方へもっと積極的に入り込んで行った。それからスパイがよく家へやって来るようになった。お恵は店先をウロウロしている見なれない男を見ると、寒気を感じた。それだけなら、だが、まだよかった。そういう男が標札を見ながら家へ入ってくると、「一寸警察まで来てくれ。」そう云って、竜吉を引張ってゆくことがあつた。夫が二人位の私服に守られて家を出てゆく、それは見て居れない情景だった。行ってしまってからは、変に物淋しいガランドウ
な気持が何時迄も残った。お恵は人より心臓が弱いのか、そういうことのあった時は、何時迄もドキついた鼓動がとまらなかった。お恵は胸を押えたまま、紙のように白くなった顔をして、家の中をウロウロした。
――それは全くお恵には、そう仲々慣れきれる事の出来ないことだった。何度も――何度やってきても、お恵は初めてのように驚かされたし、ビクビクしたし、
三月十五日の未明に、寝ている処を起され、家の中をすっかり捜索されて、お互にものも云わせないで、夫が五六人の裁判所と警察の人に連れて行かれたとき、お恵はかえってぼんやりしてしまって、何時迄も寝床の上に坐ったままでいた。思わず、ワッと泣きだしたのは、それから余ッ程経ってからだった。
その朝、幸子はオヤッと思って、何かの物音で眼をさました。幸子はパッチリ開いた眼で、無意識に家のなかを見廻してみた。何時だろう、朝だろうかと思った。何故って、次の
「次の室も調べる。」
「寝る処ですから、何んにもありません。」お母さんが殊更に低くしている声だった。
「調べてもらったっていいよ。」父だった。
「幸ちゃんが眼でも覚すと……。」
幸子には所々しかはっきり聞こえなかった。彼女は人が入って来たら、眠っている振りをしていなければならないのだ、と思った。
棚からものを下したり、新聞紙がガサガサいったり、畳を起すような音がしたり、タンスの引出しを一つ一つ——七つ迄開けている。それで全部だった、幸子はそれを心で数えていた。すると、台所の方では戸棚を開けている。幸子は身体のずゥと底の方からザワザワと寒気がしてきた。そうなると、身体をどう曲げても、どう向きを変えても、その寒気がとまらず、身体が
自分の家には、何時でも沢山の人達がくる。然し今来ている人達はそういう人達とは、まるッきり異った恐ろしい人達である直感を感じた。
襖が開いた。急にまばゆい光が
知らない人は五人いた。一人はひげを生やした一番そのうちで上の人らしく、大きな黒い折かばんを持って、探している人達に何か云った。云われた人達は、するとその通りにした。巡査が二人いた。あとの二人は普通の服を着ていた。——お父さんは何をしたんだろう。この人達はそして何をしようとしているんだろう。よその人は幸子の学校道具に手をかけたり、本を一冊一冊倒さに振ったりした。色々な遊び道具を畳の上へ無遠慮に開けた。幸子は妙に感情がたかぶってきた。そして、それが眼の底へヂクリ、ヂクリと涙をにじませてきた。
「それは子供のばかりです……。」
母が立ったまま、低い声で云った。よその人達は生返事を口の中で分らなくして、然しやめなかった。
一通りの取調べが終ると、皆は一度室の中をグルグル見廻して、出て行った。襖が閉った。――室が暗くなった。幸子は危くワッと泣きだす処だった。
父と折かばんが始め低く何か云っていた。だんだん声が高くなってきて、何を話しているか幸子にも聞えてきた。
「とにかく来て下さい。」折かばんが云っている。
「とにかくじゃ分らないよ。」
「ここで云う必要がないんだ。来て貰えばいいんだ。」だんだん言葉がぞんざいになって行った。
「理由は?」
「分らん。」
「じゃ、行く必要は認めない。」
「認めようが、認めまいが、こっちは……。」
「そんな不法な、無茶な話があるか。」
「何が無茶だ。来れば分るッて云ってるじやないか。」
「何時もの手だ。」
「手でも何んでもいい。――とにかく来て貰うんだ。」
父が急に口をつむんでしまった。と、力一杯に襖が開いて、父が入って来た。後から母がついてきた。五人は次の間に立って、こっちを向いている。
「ズボン。」
父は怒った声で母に云った。母は黙ってズボンを出してやった。父はズボンに片足を入れた。然し、もう片足を入れるのに、何度も中心を失ってよろけ、しくじった。父の頬が興奮からピクピク動いていた。父はシャツを着たり、ネックタイを結んだりするのにつッかかったり、まごついたりして――殊に、ネックタイが仲々結べなかった。それを見て、母が側から手を出した。
「いいいい!」父は邪険にそれを払った。父は妙に周章てていた。
母はオロオロした様子で父に何か話しかけた。
「お互に話してもらっては困る。」次の間から、折かばんがピタリ釘を打った。
又幸子の寝ている室が暗くなった。ドヤドヤと沢山の足音が乱れて、土間に降りたっている。――表の戸が開いた。一寸そこで足音が
父が立ち上った。幸子は火事の夜のように、歯をカタカタいわせていた。皆外へ出た。母の青い顔がその時動いた。唇も何か云うように動いたようだった。が、言葉が出なかった。出たかも知れないが、幸子には聞えなかった。母の、身体を支えている柱の手先に、力が入っているのが分った。――父は一寸帽子をかぶり直し、母の顔を見た。それから、チョッキのボタンの一つかかっていたのを外し、それを又かけ直した。落付きなく又母の顔を見た。――父の身体が半分戸の外へ出た。
「
かすれた乾いた声で云うと、父は無理に出したような咳をした。
母は後から続いて外へ出た。
幸子は寝床に走り入ると、うつ伏せになって、そのまま枕に顔をあてて泣きだした。幸子は泣きながら、急に父を連れて行ったよその人が憎くなった。「憎いのはあいつ等だ、あいつ等だ。」と思った。そう思うと、なお泣かさった。幸子は恐ろしさに
二
空気が空間を充しているそのままの形で、青白く凍えてしまっているようだった。何んの音もしないし、人影もなかった。――夜が更けていた。ジリジリと寒気が骨まで
カリカリに雪が凍っている道に、五、六人の足音が急にした。それは薄暗い小路からだった。静まりかえっている街に、その足音が案外高く響きかえった。電柱に裸の電灯がともっている少し広い道に、足音が出てきた。
――
ドカドカッと、靴のまま(!)警官が合同労働組合の二階に、一斉にかけ上った!
組合員は一時間程前に寝たばかりだった。十五日は反動的なサアベル内閣の打閣演説会を開くことに決めていた。その晩は、全員を動員して宣伝ビラを市内中に
七、八人の組合員は、いきなり
鈴本は、しまった! と思った。彼は実は、或はと思っていた。言論の自由は完全に奪われている、そこへもってきて、無理にねじ込んで、御本尊——田中内閣の打閣運動をやろうとする、警察がその当日になって、中止中止で弁士を将棋倒しにするのは分り切っているし、覚悟はしていたが、その前に或は{野郎達のことだ!}総検束でもしないか、よくやりたがる手だ、そう思っていた、それが来たんだ、そう瞬間、鈴本は思った。
「組合のドンキ」で通っている阪西が、猿又一つで、
「何んかあるのか。」と、顔なじみのスパイに
「分らんよ。」
「分らん? 馬鹿にするなよ。――睡いんだぜ。」
続いて上ってきた私服が片ッ端から、書類を調べ始めた。
「貴様等、こんな処にゴロゴロしてるから
巡査が、横着な恰好に構えている「
「働いてみろ、つまらん考えなんか無くなるから。」
――独りでしゃべろ、誰が相手になっていられる!
「一つ世話して貰いたいもんです。」
阪西は何時もの人の好い笑い声をして、茶を入れた。――組合の連中は阪西を足りない事にしていた。何処へもって行っても、つぶしがきかないし、仕事がルーズだった。然しその人のよさが憎めない魅力をもっていた。
その時、渡が
「何処へ行くんだ。」
鈴本はその渡の態度を見て、おや、と思った。渡はその態度ばかりでなしに、顔の色がちっとも無かった。普段若手として、実際には何時でも一番先頭に立って働いている、がっしりした、「鉄板」みたいな渡が、――渡らしくない!鈴本は変な予感を渡に対して感じた。
皆は前と後と両側を巡査に守られながら、階段をゾロゾロ降りた。然し渡を除くと皆元気だった。こういう事には慣れていた。一つ、二つ平手が飛んだ。
普段何かすると、すぐ「我々は戦闘的でなければならない。」と、誰れ彼れの差別なく振りまわして歩く斎藤は、然し矢張り一番元気だった。彼が鈴本のところへ寄ってくると、
「明日の
「うん、やる必要がある。」
斎藤が、そして何か云おうとした。
「オイオイッ!」いきなり斎藤の後首に警官が手をかけると、こづき廻すようにして、鈴本から離して別な方へ引張って行った。
民衆の旗、赤旗は……
前の方で、誰か突然歌い出した。――ピシリ、という平手の音がした。
「何んだ、この野郎!」身体でもって、つッかかって行く声だった。サアベルでなぐりつける音が、平手打ちの音に交って聞えた。
皆は前と後と、すっかり腕をつなぎ合わせていた。ワザと強く足ぶみをして歩いた。
「うるせえッよ!」斎藤が、小さい身体一杯に叫んで、立ち止ってしまった。「おい、皆、わけも分らないで引ッ張られてゆくのは反対だ。なアッ! 一つ訊くんだ。」
「んだ、んだ!」皆それに賛成した。
鈴本は渡だけに眼をつけていた。何時でもこういう時には、弾んだバネのように一緒にはじけ上る渡が、棒杭の様につッ立っている。――警官は小さい斎藤のまわりをぐるりと
「馬鹿野郎、理由を
「行けば分る。」――ここでも、これだ。
「行けば分るで、一々
「人権
警官の一人が斎藤をなぐりつけたらしかった。人の輪が急に大きく揺れた。握りこぶしを固めた組合員が輪の外から、それを乗り越そうと、あせった。それで急に騒ぎが大きくなった。
「貴様等は!……貴様等はな!」口を何かで抑えられて無理に出している斎藤の声が、切れ、切れに聞えた。――「貴様等が、いくらこったら事したって、この運動が……な、無くなるとでも……畜生、無くなるとでも思ってるのか!糞ッ!」
皆は興奮して、ワッと声をあげた。
何かに気をとられた形でいた渡が、この時肩幅の広い、がっしりした身体で、その渦の中に割り込んで行った。それを見ると、鈴本は、何んでもなかったのか、そう思ってホッとした。
「正当な理由が
渦巻から離れて立っていた石田は、
渡が出て、皆の結束ががっしりした。―と、その時、入口からもう七、八人の巡査がどやどやッと突入してきた。それで、結束はその力で一もみにもみ
戸の外からは、
夜はまだ薄明りもしていなかった。雪を含んだ暗い空の下で、街は地の底からジーンと静まりかえっていた。歩くと、雪道は何かものでも
皆は一人一人警官に腕を組まれて外へ出た。
一週間程前に組合に入ったばかりの、まだ二十にならない柴田は始めっから一言も、ものを云えず、変にひきつッた顔をしていた。彼は皆がどなる時、それでも、それについて自分でもそうしようと努めた。が、半分乾きかけた粘土のようになっている頬は、ピクピクと動いたきり、いうことをきかなかった。彼は、何時でもこういう事には、これから
皆は灰色の一かたまりにかたまって、街の通りを、通りから通りへ歩いて行った。寒さを防ぐために、お互に身体をすり合わせ、もみ合わせ、足にワザと力を入れて踏んだ。ひっそりしている通りに、二十人の歩く靴音がザック、ザック……と、響いて行った。
組合の者達は妙にグッと押し黙っていた。そうしているうちに、皆には然し、不思議に一つの同じ気持が動いて行った。インクに浸された紙のように、みるみるそれが皆の気持の隅から隅まで浸してゆくように思われた。一つの集団が、同じ方向へ、同じように動いて行くとき、そのあらゆる差別を押しつぶし、押しのけて必ず出てくる、たった一つの気持だった。「関羽」の鈴本も、渡も、「ドンキ」の阪西も、斎藤も、石田も、又新米の柴田も、その他のそれぞれの差別を持ち、それ故に又その各自の存在をもっている四、五人の組合員も、たった一つの集団の意識の中に——同じ方向を持った、同じ色彩の、調子の、強度の意識の中に、グッ、グッと入り込んでしまっていた。「それ」は何時でも、こういう時に起る不思議な――だが、然しそれこそ無くてはかなわない、「それ」があればこそ、プロレタリアの「鉄」の団結が可能である――気持だった。が、この気持はただ単純に、それぞれの差別を否定するというものではなしに、その差別自身が一定の高度にまで強調された時、必然にアウフヘーべンされる(だから、それに依ってかえって強固になる)――従って、没個人的な、大きな掌でグッと
今、この九人の組合員は、九人という一つ、一つの数ではなしに、それ自身何かたった一つのタンクに変っていた。彼等は互に腕と腕をガッシリ組合わせ、肩と肩をくっつけ、暗い然し鋭い眼で前方を見据え、――それは
三
お恵は夫があんな風にして連れて行かれてから、何処かガランとした家の中にいる事が、たまらなかった。
――工藤の家へ、警官が踏みこんだ時は、家の中は真暗だった。警官は、「オイ、起きろッ!」と云いながら、電灯のつる下っているあたりを、手さぐりした。三人いる子供が眼をさまして、大きな声で一度に泣き出した。電灯の位置をさがしている警官は「
「電灯はつかんよ。」
それまで何も云わないでいた工藤は、警官の
工藤の家は電灯料が滞って、二カ月も前から電灯のスウイッチが切られてしまっていた。然し、と云って、ローソクを買う金も、ランプにする金もなかった。夜になると、子供を隣の家に遊ばせにやったり、妻のお由は組合に出掛けたりして、六十日も暗闇の中で過していた。「明るい電灯、明るい家庭。」暗い電灯さえ無い彼等には、そんなものは
「逃げないから大丈夫。」そう云って、工藤が笑った。
お由は泣いている子供に、「誰でもないよ。何時も来る人さ。何んでもない、さ、泣くんでない。」と云っていた。子供は一人ずつ泣きやんで行った。工藤の子供達は巡査などに馴れてさえいた。組合の人達は、冗談半分だけれども、お由が自分の子供等に正しい「階級教育」をほどこしているというので、評判をたてていた。が、お由は勿論自分では何か理窟があって、そうしているのではなかった。――お由は秋田のドン百姓の末娘に生れた。彼女は小学校を二年でやめると、十四の春迄地主の家へ子守にやられた。そこでお由は意地の悪い、気むずかしい背中の子供と、所嫌わずなぐりつける男の主人と、その主人よりもっと残忍な女主人にいじめられ、こづき廻された。五年の間、一日の休みもなくコキ使われた。そして、ようやく其処から自家へ帰ってくると、畑へ出された。一日中
子供が生れてから、生活は尻上りに、やけに苦しくなってきた。そんな時になって、どうすればいいか分らくなった工藤は、自分とお由とで
お由はその長い間の自分の生涯で、身をもって「憎くて、憎くてたまらない人間」を、ハッキリと知っていた。殊に夫が組合に入り、運動をするようになってから、それ等のことが、もっとはっきりした形でお由の頭に入ってきた。
工藤はそれから仕事には無論つけなくなった。組合の仕事で一週間も家へ帰れない事が何度もある。お由は自分で――自分一人で働いて、子供のことまでしてゆかなければならなかった。が、今迄とは異った気持で、お由は仕事が出来た。お由は浜へ出て石炭担ぎや、倉庫で
家の障子は骨ばかりになった。寒い風が吹き込むようになっても、然し障子紙など買う金がなかったので、組合から「無産者新聞」や「労働農民新聞」の古いのを貰ってきて、それを貼った。煽動的なストライキの記事とか、大きな「火」のような見出しが斜めになったり、
…………工藤は起き上ると、身仕度をした。身仕度をしながら、工藤は今度は長くなると思った。そうなれば、一銭も残っていない一家がその間、どうして暮して行くか、それが重く、じめじめと心にのしかかってきた。これは、こんな場合、何時でも同じように感ずる心持だった。然し何度感じようが、鬼のようなプロレタリア解放運動の闘士だとしても、この事だけは何処迄行こうが慣れッこになれるものでは断じてない、
お由は手伝って、用意をしてやると、
「じや、行っといで」と云った。
「ウム。」
「今度は何んだの。当てがある?」
彼は黙っていた。が、
「どうだ、やって行けるか。長くなるかも知れないど。」
「後?――大丈夫」
お由は何時もの明るい、元気のいい調子で云った。
漠然ではあるが、何んのことか分っている一番上の子供が、
「お
「こんな家へ来ると、とてもたまったもんでない。」警官が驚いた。「まるで当りまえのことみたいに、一家そろって行ってお出で、だと!」
「こんな事で一々泣いたりほえたりしていた日にゃ、俺達の運動なんか出来るもんでないよ。」
工藤は暗い、ジメジメさを取り除くために、毒ッぽく云い返した。
「この野郎、要らねえ事をしゃべると、たたきのめすぞ。」
警官が変に息をはずませて、どなった。
「気をつけて。」
「ウム。」
彼は妻に何か云い残して行きたいと思った。然し口の重い彼は、どう云っていいか一寸分らなかった。妻が又苦労するのか、と思うと、(勿論それは自分の妻だけではないが)、膝のあたりから、妙に力の抜ける感じがした。
「本当、どうにかやって行けるから。」
お由は夫の顔を見て、もう一度そう云った。夫はだまって、うなずいた。
戸がしまった。お由は皆の外を歩く足音を、しばらく立って聞いていた。
自分達の社会が来る迄、こんな事が何百遍あったとしても、足りない事をお由は知っていた。そういう社会を来させるために、自分達は次に来る者達の「踏台」になって、さらし首にならなければならないかも知れない。蟻の大軍が移住をする時、前方に渡らなければならない河があると、先頭の方の蟻がドシドシ川に入って、重なり合って
「まだ、まだねえ!」
そうお由はお恵に云った。
お恵は半ば暗い顔をしながら、然し興奮してお由にうなずいてみせた。
四
今度の検挙が案外広い範囲に渡っていることをお恵はお由から知らされた。××鉄工場の職工が仕事場から、ナッパ服のまま連れて行かれたり、浜の自由労働者や倉庫の労働者が毎日五人、十人と取調べに引かれたり、学生も確か二、三人入っていた。
竜吉の家で毎火曜の晩開かれる研究会に来ていた会社員の佐多も、それから二日遅れて警察へ引張られて行った。
佐多は竜吉達に時々自分の家のことをこぼしていた。――家には、佐多だけを頼りにしている母親が一人しかいなかった。その母は自分の息子が運動の方へ入ってゆくのを「身震い」して悲しんでいた。母親は彼を高商まであげるのに八年間も、身体を使って、使って、使い切らしてしまった。彼はまるで母親の身体を少しずつ食って生きてきたのだった。然し母親は、佐多が学校を出て、銀行員か会社員になったら、自分は息子の月給を自慢をしたり、長い一日をのん気にお茶を飲みながら、近所の人と話し込んだり、一年に一回位は内地の郷里に遊びに行ったり、ボーナスが入ったら、温泉にもたまに行けるようになるだろう、……今迄のように、毎月の払いにオドオドしたり、言訳をしたり、質屋へ通ったり、差押えをされたりしなくてもすむ。それはまるで、お湯から上ってきて、
毎日会社に通う。――月末にちゃんちゃんと月給が入ってくる。――何んとそれは美しい、静かな生活ではないか! 佐多が学校を出て、就職がきまり、最初の月給を「袋のまま」受取ったとき、母親はそれを膝の上にのせたまま、じいッとしていた。が、しばらくすると母親の身体が、見えない程小刻みに、
晩飯まで本を読んで、下りてくると、食卓には何時もより御馳走があった。仏壇にはローソクが明るくついて、袋がのっている。「お父さんに上げておいたよ。」と母が云った。
それまではよかった。
母親は、今までなかった色々の写真が、佐多の二階の
「これは何んという人?」
母親は佐多の机のすぐ前の壁にかかっているアイヌのような、ひげにうずまった――ひげの中から顔が出ている、のを指差した。佐多は
「お前、別に何んでもないかい。」
佐多は、母親がだんだん浮かないような顔をする日が多くなり、夜など朝まで寝がえりをうって、眠れずにいるのを知った。会社から帰ってくると、仏壇の前に坐って、泣いているのも、何度も見た。それが皆自分のことからである、とハッキリ思った。特別な事情で育てられてきた佐多には、そういう母親を見ることは心臓に
佐多が二階にいると、時々母が上ってきた。その回数がだんだん多くなってきた。母親はその度に同じことをボソボソ云った。――お前一人がどうしようが、どうにもなるものじやない、
「お母さんには分らないんだ。」と、半分泣かさっている声で、どなった。
「それより、お母さんにはお前の心が分らないよ。」母は肩をすぼめて、弱々しく云った。
佐多は面倒になると、母を残して二階をドンドン降りてしまった。降りても然し、佐多の気持はなごまなかった。俺をこんなに意気地なくするのは母だ、「母親なんて案外大きな俺たちの敵なのだ。」彼は興奮した心で考えた。
その後で、もう一度そういう事があった。佐多はムッとして立ち上ると、
「分った、分った、分ったよ! もういい、沢山だ!」いきなり叫んだ。「もうやめたよ。お母さんのいうように、やめるよ。いいんだろう。やめたらいいんだろう。やめるよ、やめるよ! うるさい!」
彼は母をつッ飛ばすようにして表へ出てしまった。外へ出てしまうと、然し逆な気持が帰ってきた。
「お母さんには分らないんだ。」
佐多は十六日に、仲間から竜吉の方や組合に大検挙のあった事をきいた。然しその仲間も、それが何んのことでやられたのか見当がついていなかった。佐多は家へ帰ると、色々な書類を
然し検束のために、警官がやって来たのは、十七日の夜、佐多が夕刊を読んでいた処だった。佐多はイザとなったとき、自分でも案外な覚悟と落着きが出来ていた。
彼は活動写真や古い芝居で、よく「腰をぬかす」
佐多は三人の警官に守られながら外へ出た。彼は道々母のことを考え、警官に見られないように、独りで長い間泣いていた。
お恵は工藤の家からの帰り、市の一番
夫達は誰のためにやっているのだ。お恵は変に淋しい物足りなさを感じた。夫達がだまされている! 馬鹿な、何を云う! 然し、暗い気持は
五
十五日の夜明、警察署から帽子の
留置場は一杯になっていた。
先きに入れられた者等は、扉の錠がガチャガチャし出すと、今迄勝手にしゃべり散らしていたのを、ぴたりやめて、其処だけに目を注いで――待った。入ってきたのが、渡、鈴本、斎藤、阪西達だと分ると、思わず一緒に歓声をあげた。警備に当っている巡査が
斎藤は、いきなり身体をマリのように縮めると、ものも云わずに、板壁に身体全部で
「チェッ!」
駄目だと分ると、今度は馬のように後足で蹴り出した。皆も真似をして、てんでに、板壁をたたいたり、蹴ったりした。石田は(彼だけ)腕ぐみをして、時々独り言をしながら、室の中央を歩いていた。
又扉が開いた。然し今度は鈴本と渡が呼び出されて行った。「どうしたんだ。」――皆は頭株の二人がいなくなると、変に気抜けしてきた。そして、壁をたたくものが、一人やめ、二人やめ、だんだんやめてしまった。
石田は、壁の隅ッこに両足を投げ出したまま眼をつぶっている竜吉に、気付いた。彼は、小川さんも! と思うと、今度の事はとてつもなく大変な事である気がした。と、同時に、その親しさから、何処か頼りある気持にされた。
「小川さん。」石田は寄って行った。
竜吉は顔をあげた。
「今度のは何んです。」
「ウン、俺にも分らないんだよ。今、渡君にでも聞こうと思ってたんだ。」
「今日やる倒閣――。」
「そうかとも思ってるんだ――が。そうなら今日一日でいいわけだ――が……。」
皆が二人を取巻いてきた。何等理由もきかせず、犬の子か猫の子を処置するように、引張ってきて、ブチ込んだことに対して憤慨した。竜吉もそれはそうだった。
「ねえ、法律にはこう決めてあるんだよ。日出前、日没後に於ては、生命とか身体とか財産に対して、危害切迫せりと認むる時だ、又はさ、
労働者達は一心に聞いていた。そして、畜生、野郎、と叫んで、足ぶみをした。
竜吉は興奮していた。「所が、どうだ、憲法にはこうあるんだ、憲法にだぜ。――日本臣民は、だ、法律によるに非ずして逮捕、監禁、審問、処罰を受くることなし。俺達は、ところがどうだ、ちァあんと正式の法律の手続をふんで、一度だって、その逮捕、監禁、審問を受けたことがあったとでも云うのか。――このゴマカシと嘘八百!」
こう云われて、皆は今の場合——現実に、その不当な仕打のワナにかかって、身もだえをしている場合、それらの事がムシ歯の神経に
「おい、そこの扉を皆でブチ割って、理由を聞きに行こうじやないか。」
「やろう!」他の者も興奮して、それに同意した。「ひでえ騒ぎ、たたき起してやるべえ!」
「駄目、駄目。」竜吉が頭を振った。
「どうしてだい!?」
斎藤は組合などでもよくする癖で、肩でつッかかるように竜吉に向って行った。
「こう入ってしまえば、何をしたって無駄さ。逆に、かえってひでえ目に会うが落ちさ。――万事、俺達の運動は、外で、大衆の支持で! 五人、十人の偉そうな乱暴と狂噪は何んにもならないんだ。俺達が夢にでも忘れてはならない原則にもどるよ。」
「そ、そんなことで、じっとしてられるか! それこそ偉そうな理窟だ、理窟だ!」
石田は側で、相変らずだなア、と思った。巡査が四人入って来た。
皆はギョッとして、そのままの
「貴様等、ここは警察だ位のことは分ってるんだろうな。何んだこのやかましさは!」
一人一人の肩をグイグイと押しのめした。斎藤の処へ来たとき、彼はひょいと肩を引いた。はずみを食らって、巡査の手と身体が調子よく前にヨロヨロと泳いだ。と、巡査は「この野郎!」と不気味な声で云うと、いきなり、斎藤の身体に自分の身体をすり寄せた。斎藤の身体は空に半円を描いて、竜吉の横の羽目板に「ズスン」と鈍い音をたてて、投げつけられていた。
巡査はせわしく肩で息をして、少しかすれた声で「皆、覚えておけ、少しでも騒いだりすると覚悟が要るんだぞ!」と云った。
後から入って来た巡査は、紙を見て、一人一人名前を呼んで、その者だけを廊下に出るように云った。ブツブツ云いながら、呼ばれた者は小さい潜り戸を、
倒れた斎藤が横になったまま、身体を尺取虫のようにして起き上ろうとしていた処を、先の巡査は靴のまま、続けて二度蹴った。
しばらくして、又別な巡査が入ってきて、中にいる六人に一人ずつ附添って、話も出来ないようにしてしまった。
竜吉は高く取り付けてある小さい窓の下に坐った。汚く濁った電灯の光が、皆の
構内は静かになった。凍え切った静かさだった。時々廊下を靴をはいて、小走りにゆくコツコツという音がした。足音が止んで扉を開ける、それが氷でも砕ける響のように聞えた。ドタドタと足音が乱れて、誰か腕をとられながら、何か云い争うようにして前を通ってゆくのもあった。それが終わると、然し、もとの夜明けらしい何処か変態的な静けさにかえった。誰か、やっぱり短い生あくびをして、表を通り過ぎて行った。
「睡むてえ。寝せてけないのか。」
ボソボソした調子で、片隅からそう云うのが聞えた。
「もう夜明けだ。夜が明けるよ。」
巡査も、寝不足の、はれぼったい、ぼんやりした顔をしていた。
竜吉は板壁に身体を寄りかからせて、眼をつぶっていた。身体も神経も妙に疲れきっていた。じっと、そうしていると、船にでも乗っているように、自分の身体が静かに
竜吉は、この前の研究会の時、マルクスの価値説とオーストリア学派の限界効用説に就いて起った議論を、自分が考え、又読んだことのある本の中から材料を探してきて、もう一度考え直そう、そう思っていた……。
彼はすっかりアワを食っていた。ズボンをはきながら、のめったり、よろめいたり、自分ながらそういう自分に不快になるのを感じさえした。然し、彼は
「お父さんはねえ、学校の人と一緒に旅行へ行くんだよ。」
幸子が黒い大きな眼をパッチリ、つぶらに開いて、彼を見上げる。
「おみやに何もってきて?」
彼はグッとこたえた。が「うんうん、いいもの、どっさり。」
と、幸子が襖の方へ、くるりと頭を向けた。彼はいきなり両手で自分の頭を押えた。ピーン、陶器の割れるその音を、彼はたしかにきいた。彼は、アッと、内にこもった叫声をあげて、かけ寄ると、急いで幸子の懐を開けてみた。
あっ、あっ、あっ、あっ……竜吉は続け様にむせたような叫び声をあげた……。
眼を開けると、室の中はけぶったような青白い夜明けの光が、はっきり入ってきていた。皆は疲労しているような恰好で、大きな頭を胸にうずめたり、身体を半分横にしたり、ぼんやり
然し、竜吉は今では自分でもそうと分る程、こういう処にたたき込まれた時のおきまりの感傷的な絶望感から逃れ得ていた。それは誰でもが
竜吉は、インテリゲンチャはその階級的中間性の故に、結局中ぶらりんで、農村と工場からの健康な足音に対しては没落することしか出来ないものであり、或はその運動に合流して行ったところで、やっぱり其処には、どこか
頭の中でばかり考え込んでいれば、それは室の中に迷いこんだ小鳥のように、その四つの壁に頭がつッかえるのは分り切ったことではないか。考えるのはもう沢山だ。お前達は「理窟」が小うるさく多すぎる。理窟で家の出来たためしが無いんだ!
竜吉は今では警察に留置されることには、無意識に近くなれた。東京からの同志たちは監獄{今では、ただ言葉だけ上品に! 云いかえられて刑務所}に行ったり、検束されることを、ブルジョワの口吻を借りて「別荘行き」と云っていた。いくら無産階級
――竜吉は妙に、然し心にしみこんで来る幸子のことを頭から払い落そうとするように、大きくあくびをした。片隅で斎藤が余程長く伸びている髪を、やけに両手の指を熊手のようにして逆にかき上げた。
交代の時間が来て、一人に一人ずつ付いていた巡査が出て行った。時々竜吉の家にくるので知っている須田巡査が、出て行きしなに彼へ、
「ねえ、小川君、実際こんなことがあるとたまらないよ。――非番も何もあったもんでない。身体が参るよ。」――そう言ったのに、変な実感があった。
彼は、人をふんだり、蹴ったりする巡査らしくない親しみを感じ、ひょっとすると、それが彼の素地であるかも知れないものを其処に見た気がして、意外に思った。
「実際、ご苦労さんだ。」
皮肉でなく、そう云わさった。
斎藤は「ご苦労――お。」と、ブッ切ら棒に
外の巡査が皆出てしまうと、須田巡査が、「何か
竜吉は一寸何も云えずに、思わず須田の顔を見た。
「いいや、別に――有難う……。」
須田は頭でうなずいて出て行った。少し前こごみな官服の円い肩が、妙に貧相に見えた。
「あ――あ、煙草飲みたいなア。」誰かが独言のように云った。
「もう、夜が明けるぞ……。」
六
竜吉と一緒の
「おい。」――その留置場の中にいる誰かに呼ばれた、と思った。
斎藤は足をとどめた。
「おい。」――声が
「渡か、俺だ。――何んだ、独りか?」
「独りだ。皆元気か。」何時もの、高くない底のある声だった。
「元気だ。――うむ、独りか。」独り、というのが斎藤の胸に来た。
少し遅れて附いてきた巡査が寄ってきたので、
「元気でいれ。」と云って、歩き出した。
歩きながら、何故か、これは危いぞ、と思った。室に帰ってから、斎藤はその事を竜吉に云った。竜吉はだまったまま、それが何時もの癖である下唇をかんだ。
石田は、渡とは便所で会った。言葉を交すことは出来なかったが、がっしり落付いた、何時もの
「おい、バンクロフトって知ってるか。」ご石田が斎藤にきいた。
「バンクロフト? 知らない。コンムュニストか?」
「活動役者だよ。」
「そんな、ぜいたくもの覚えてるかい。」
石田は渡に会ったとき、ひょいと「暗黒街」という活動写真で見た、巨賊に
渡は、自分が独房に入れられたとき、(最初組合に踏込まれたときと同じように、)自分等が主になってやっている非合法的な運動が発覚した、と思った。瞬間、やっぱり顔から血がスウと引けてゆくのが自分でも分った。彼にとっては、然し、それはそれっきりの事だった。すぐ何時もの彼に帰っていた。そして殊に独房にどっかり坐ったとき、遠い旅行から久し振りで
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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