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吉岡実の長篇詩

  一 支那から中央アジアへ

 

 こと吉岡実の詩に関するかぎり一五行の詩だからわかりやすくて、百数十行の詩だから難解だということは、まったくない。ただ、読めば理解できる長い詩が一篇ある。それは〈波よ永遠に止れ〉(《ユリイカ》一九六〇年六月号)という吉岡最長の二五七行の作品で、私の〈吉岡実年譜〉の一九六〇年には「NHKラジオの放送詩集〈波よ永遠に止れ〉(雑誌掲載稿から八○行を削徐して〔五月〕一一日に放送)の本番録音に立ちあう」(平出隆監修《現代詩読本——特装版 吉岡実》、思潮社、1991、二九四ページ)とある。この詩は吉岡にとって特別の意味を持つ詩で、ひとつはもちろんその長さである。そしてこちらの方が重要なのだが、吉岡がここで軍隊の体験を書くことを試みたのではないかと見られる点である(吉岡は随筆の類を除いて、それと明瞭にわかる形で軍隊体験を書いたことはない)。

 吉岡実の初期の詩篇には人名・地名などの固有名詞はほとんど登場しないから、それらには注意する必要がある。地名では〈首長族の病気〉(《鰐》四号、一九五九年一一月)の「いまでもビルマのカレンニ地方に二千人も住んでいるとのこと」あたりが最も早い登場だろう。吉岡家蔵の切りぬきファイルには〈ビルマの「クビナガ族」〉を紹介したコラムがあるが、どの新聞にいつ掲載されたものかまだ判明していない。〈波よ永遠に止れ〉よりも半年前のこの作品に、「典拠と引用」の作詩法の先蹤を見ることができる。さて、吉岡が従軍して渡ったのは中国大陸、「支那」である。

 

・いちじくは皿の中心でとがる といったずっと自然な内腔への愛 それはいつでもわたしの考えている 支那の幼児の食べる物を想像させる(《紡錘形》所収〈修正と省略〉)

・アメリカの高層気流から/シナのさかれたフカの水墨の海へ/逃げるチャリーが見えるか?(《静かな家》所収〈やさしい放火魔〉)

・ぼくが殺した運転手/きみらが殺した服飾デザイナー/かれらが殺したミス・シナ(同〈内的な恋唄〉)

・ぼくがクワイがすきだといったら/ひとりの少女が笑った/それはぼくが二十才のとき/死なせたシナの少女に似ている(同〈恋する絵〉)

・コルクの木のながい林の道を/雨傘さしたシナの母娘/美しい脚を四つたらして行く/下からまる見え(同前)

 

 「支那」が「シナ」へ変わったのは詩集《静かな家》(思潮社、1968)からで、これは《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)が漢語を、《サフラン摘み》(青土社、1976)がカタカナを詩句の重要な要素としているのと符節を合わせたかのようである。手許の辞典の【支那】には「外国人による中国の呼称。〔……〕わが国では江戸中期から第二次世界大戦まで、中国の一般的呼称として用いられた」とある。江戸中期、享保以来の吉岡の家系でおそらく初めて中国大陸に渡り、輜重兵ゆえに戦闘はせず、再び故郷へ戻った吉岡が軍隊体験を書いた数少ない文章のひとつに〈済州島〉(《わたしたちのしんぶん》、一九五五年八月)がある。重要なので全文を引く。

 

 朝鮮の一孤島済州島で終戦をむかえた。いつわりのないところ、私はほっとした気持だった。多くの兵隊もそれにちかい心情であったろう。ねじあやめ咲く春の満洲を出てから四ヶ月目であった。済州島は日本帝国の最後の橋頭堡であったらしい。恐らくあと一ヶ月戦いがつづいたら、済州島の山の中が、私の立っていた最後の地上になったであろう。それが反対に、死から私を庇護し、なつかしい再生の土地となった。済州島へ上陸以来、毎日輓馬で弾薬や食料を山の奥へ奥へと搬んでいた。そして野営をした処が新星岳だった。そのうち馬は倒れた。食料のとぼしい時なので、倒れた馬は殺して喰べた。ろくな飼料を与えられていない馬たちの肉は、脂がなく味気なかった。暇ができると、野苺をつみながら山の中腹で憩うのだ。われわれの島をかこむ夕映の海が見え、その輝く波の中に青々とした飛揚島が泛んでいた。ふりむけば、峯々が重なり、その奥深くに、名峯漢拏山がそびえていた。あっちこっちに石をつんだ垣がつらなっていた。そのかげのところどころに、馬の墓が簡単な石で象どられて、野草が供えられていた。われわれ人間のあいだには、異郷でさびしく死んだ人……などという哀悼の言葉がある。しかし異郷で死んだ馬にはそれがない。石の下で、今では完全な白骨となっていることだろう。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、四四~四五ページ)

 

 散文で「支那」を追ってゆくと該当するものはちょっと見あたらず、そのかわりに「満洲」を〈わたしの作詩法?〉(《詩の本》第二巻、筑摩書房、1967)に見いだすことになる。自作〈苦力〉(《現代詩》一九五八年六月号)全篇を引いてから(ここでは「支那の男」が実に七つの詩句に登場する)、吉岡は詩論をこう締めくくる。

 

 楊柳の下に、豪華な色彩の柩が放置されているのも、異様な光景だ。ふたをとって覗いて見たらと思ったが、遂に見たことはない。びらんした屍体か、白骨が収まっているのだろう。みどりに芽吹く外景と係りなく。やがて黄塵が吹きすさぶ時がくるのだ。

 〔……〕

 わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(同前、九四ページ)

 

 ここを引いたのは、ほかでもない。吉岡が井上靖の中篇小説〈楼蘭〉に触れれば(おそらく触れただろう。吉岡は生前ついに井上に関する文章を遺さなかったが、林浩平氏に依れば、氏の詩を評するのに井上靖の文学に及んだことがあるという)、必ずや次の箇所に感応したに違いないからだ。「楼蘭だけで見られる濃い朱と紫と青と、色とりどりに輝く美しい日没が彼女〔尉屠耆の兄王の若い后〕の新しい墓地を飾つた。/彼女を葬つた墓土の上には、ロブ湖畔から伐り取られて来た一本の太い檉柳(タマリスク)が墓標として立てられた。そしてその前には、花を飾るための大きい石の花いけが据えられた。」(《楼蘭》、講談社、1959、四四ページ)

 〈楼蘭〉は一九五八年の《文藝春秋》七月号に発表され、翌年五月、歴史小説集として刊行された。一方、吉岡が〈苦力〉を谷川温泉の宿で一夜にして書きあげたのが、一九五八年の早春である。井上が末尾で「(作中に引用したヘディンの記述は岩村忍氏訳の“彷徨へる湖”から借用したことを附記しておきます)」(同前、九二ページ)と註したように、この作品の結末には七七行にのぼるヘディン文が象嵌されている。

 井上が拠ったのは、岩村忍が矢崎秀雄と共訳して一九四三年に筑摩書房から刊行した版だろう。同書第七章の〈世に知られぬ王女の墓場へ〉の冒頭は「五月五日! 紀念の日(*)。三十九年前、私はきはどいところでホータン(ダリヤ)の河床に水を見つけ、奇蹟的に救はれたのだ」(《彷徨へる湖》、筑摩書房、1943、九一ページ)であり、章末(井上が〈楼蘭〉で借りた文のすぐ後)に次のような註記を従えている。「* 一八九四年二月十七日、スウェン・ヘディンの一行はカシュガールからマラル・バシイに向つて出発し、四月十日、メケット・バザールの緑地を経て、ヤルカンド(ダリヤ)からホータン(ダリヤ)に向つてタクラ・マカン沙漠を横断せんとし、二十六日間言語に絶する悪戦苦闘の末、五月五日漸くホータン(ダリヤ)に達し、辛くも一命を救はれた。この間の事情はヘディン著、岩村忍訳「中央亜細亜探険記」に詳し。(訳者註)」(同前、一○四ページ)。

 

 二 岩村訳が典拠

 

 整理しよう。早ければ一九五八年の初夏、《僧侶》の後半の詩を書きついでいた吉岡実は、井上靖の〈楼蘭〉から岩村・矢崎訳のヘディン《彷徨へる湖》(戦前の刊行だが吉岡にとって自社出版物である)に至り、さらにそこから《中央アジア探検記》を(改めて)発見し、それを手にする——という連鎖反応が起きなかったか。

 では前掲註記の「ヘディン著、岩村忍訳「中央亜細亜探険記」」とはどんな本だろうか。これは《中央亜細亜探検記》が最初の標題で、初版は一九三八年に冨山房から冨山房百科文庫として刊行された。訳とは言うものの、岩村自身述べているように「ヘディンの初期の中央アジア探検記を縮小し、再編集し」(《さまよえる湖》、角川書店・角川文庫、1968、二三五ページ)た措置も手伝って好評の裡に迎えられ、戦後には文庫本化された。すなわち、一九五三年九月に角川書店から《中央亜細亜探検記》が、同月、創元社から《中央アジヤ探検記》が相ついで出版されたのである。

 ところで〈波よ永遠に止れ〉の副題は刊本では「ヘディン〈中央アジア探検記より〉」(《吉岡実詩集》、思潮社、1967、三一四ページ)だが、初出の「ヘディン〈中央アジア探検記〉より」(《ユリイカ》一九六〇年六月号、四八ページ)を変更する理由に想到しないので、私は後者を採りたいと思う。吉岡の読んだのはどれだろうか。戦前に《中央亜細亜探検記》を読んでいたことも考えられるが、ヘディンとの真の出あいは「満洲以後」と考えてしかるべきだろう。——岩村の《中央アジア探検記》はその後、訳文に修正を加え〈現代ノンフィクション全集第一巻〉(筑摩書房、1966)として吉岡在社中の筑摩書房から刊行された。私が最初に読み、まさに長篇詩が「ヘディン〈中央アジア探検記〉より」だと感じいったこの版は、前編の〈タクラ・マカンの横断〉(第一~一五章)のみで、後編〈ロプ・ノールへ〉(第一六~二五章)は収められていない。――

 吉岡が典拠とした版を調べた結果、〈波よ永遠に止れ〉の底本は創元文庫版だと推定される。角川文庫版は書名表示が元版と同じであるばかりでなく、本文内容が旧字旧仮名と元版のままなのに対して、創元文庫版は角川文庫版にはない元版の訳者による附録〈中央アジヤ探検とスウェン・ヘディン〉を活かし、さらにあとがきとして〈創元文庫版への言葉〉――そこには「旧版の漢訳地名をカナ書きにそしてカナ使いを修正する」(《中央アジヤ探検記》、創元社・創元文庫、1953、二七二ページ)とある——が添えられた。吉岡が長篇詩の最終節で引用した部分(ヘディン=岩村本における最終第二五章〈移動するロプ・ノール〉)を比較すれば、両者の関連は明らかだ。創元文庫版の本文最終段落と〈附記〉を引く。

 

 クム・チャパガンの漁村はいわばタリム河の墓の入口を示している。そこでは、人間の意志も水流の巨大な力も、同様にその狂暴さを征服し得ない。恐るべきタクラ・マカン沙漠が地上の森羅万象を支配する神の名において「この地まで来れ、されど此地より進む勿れ、此地において汝等誇らしげなる波よ、永遠に止れ」と宣言しているのである。

 

附記/ヘディンはロプ・ノールよりチェルチェン河に沿い、一旦コータンに帰り、更に北部チベット、及びツァイダム盆地を経てクチヤ・ノール畔を過ぎ、内蒙古を横切って包頭から北京に入った。それは一八九七年三月二日であった。そして外蒙古シベリヤを経て故郷ストックホルムには同年の五月十日に帰着した。(同前、二五○ページ)

 

 題名がここから採られていることは言うまでもない。吉岡が初出本文で「亜細亜」や「アジア」ではなく「アジヤ」と書いているのも傍証になるだろう(刊本では「アジア」と訂正)。あとがきの一節で岩村忍は次のように書いている。「科学者としてのヘディンの業績については、他日、語ることもあろうかと思う。探検家としての彼については、本書自身が最もよく語っている。蛇足を加える必要はあるまい。」(同前、二七一~二七二ページ)

 吉岡実は「探検家としての」ヘディンを語りなおしたくなったのだ。むろん、朗読のための長い詩を書かねばならないという理由はあるのだが、なぜ《中央アジア探検記》を再話することで放送詩集の依頼に応えようとしたのか。

 

 三 長篇詩の構造

 

 二五七行の長篇詩の最初の節(実際には「1」と数字が振られているだけ)を読もう。

 

わたしは 二人の従者と一人の宣教師とともに

四頭馬車で砂漠の入口に着いた

ここからわたしの夢がはじまる

わたしにだけ見えて

ほかの三人の男には見ることのできない夢

幾世紀もの間 砂にうずもれた

伝説の王 眠りの女王の生活の歴史

もしかしたらわたしだけの幻覚だろうか

死んだ都のステンドグラスの寺院の窓から

ながれ出る河のながれ ともにながれる時のながれ

朝は凍りつき 夜あらゆるいきものの

骨を沈めているヤルカンド河のつめたいながれ

 

 ヘディン=岩村は「一八九五年二月十七日午前十一時私はイスラム・ベイ、宣教師ヨハネス、ハシム・アクヌの三人と共にマラル・バシイに向け東行の途に就いた。/一行は各々四頭の馬が牽引(けんいん)する大きい鉄縁の車輪を有するアルバ若しくはアラバと称されるバネなしの車二台に分乗した」(同前、八ページ)ときわめて具体的に筆を起こし、「その時期にはキジル・スウ河には殆ど流れの無いのが普通で、いくらか残っている水は氷結していた」(同前、一○ページ)や、「一台のアルバにつけてある四頭の馬の中三頭は先頭に並べ、残りの一頭の(ながえ)の中間に結わえて車の中心を保つようにして進んだ」(同前、一一ページ)と書いているが、吉岡の三〜五、八行めのような記述はどこにも見あたらない。七行めには〈僧侶〉(《ユリイカ》一九五七年四月号)のレミニサンスさえ窺える(「一人は世界の花の女王達の生活を書く」)。ここで注目しなければならないのは「わたし」を含む四人の人物と「四頭馬車」である。それは〈崑崙〉の冒頭が〈色彩の内部〉初出からの転生であるという事実(*1)を凌駕する。こうして〈波よ永遠に止れ〉は、ヘディン=岩村と〈僧侶〉あるいはこの長篇詩と執筆の時期を同じくする《紡錘形》(草蝉舎、1962)の諸篇と重なりつつ始まる。以下、10節までの吉岡は、細かな挿話までほとんど忠実にヘディン=岩村の記述を拉しきたっているので、この詩よりも後に書かれたものだが、吉岡の長篇詩を相対化する意味でも、《中央アジア探検記》の全訳に当たる《アジアの砂漠を越えて》に付けられた深田久弥の〈解説〉を藉りよう。

 

 ヘディンの一行が砂漠の奥深く進むにつれ次第に困難に落ち入り、遂に全滅の一歩手前まで行ったことについては、私は余計なことは言わないで置こう。ヘディンの紀行を読み進む方が迫真的であるからである。ヘディンの従者は、イスラム・バイ、カシム、モハメッド・シャー、ヨルチであったが、それぞれの人物の性格が鮮やかに描かれていて、ヘディンの筆致に優れた小説家的才能をさえ感じる。

 一滴の水も得られぬ砂の海を一行は進んで行く。従者とラクダは次ぎ次ぎと落伍し、或いは倒れて行く。五月一日のキャンプをヘディンは「死のキャンプ」と呼んでいる。彼のアジア旅行の全部を通じてこのキャンプほど惨憺たるものはなかった。ヨルチとモハメッド・シャーの二人はこの「死のキャンプ」かその付近で死んだ。イスラム・バイはよろめいて砂の上に倒れ、もう歩けないと洩らした。残るヘディンとカシムの二人はそれから絶望的な砂漠の彷徨を続けた。

 五月五日、カシムも動く力がなくなった。そこでヘディン一人で水を求めて進んだ。しばしば崩れてうずくまった。睡魔が押し寄せてきて自然に眼が閉じようとするのを、全力を振りしぼって防いだ。疲れた体が一度眠ったなら永久に醒める時はないからである。彼の生命は危機一発の域まで来ていた。

 突然、水鳥の飛び立つ音に驚かされて立止った。そして次の瞬間、枯れた河床の中に水溜りを見つけたのであった。彼は飲みに飲んだ。無茶苦茶に飲んだ。渇き切った体は海綿のように水分を吸収した。羊皮紙のように硬かった皮膚も軟かくなり、額も潤ってきた。

 ヘディンは長靴の中に水を汲んで、倒れたカシムのところへ持って行く。私が感嘆するのは水を飲んだ時のヘディンの態度である。死に瀕した彼が飲む前に自分の脈搏を数える。非常に弱く、四十九あった。飲んで数分後に数えると五十六になっていた。数字を細かく書くのはヘディンの科学者らしい習癖であるが、この危急の時に自分の脈搏を正確に数えてその数を記憶するとは! そんな余裕があり得たのであろうか。呆れた男である。

 ヘディンが助かったのはコータン河の河床であった。増水期には水が流れるが、彼の時には枯渇して水溜りが残っているだけであった。コータン河はコンロン山脈から流れ出て、タクラマカン砂漠の中に注ぎ入る河で、辛うじて断続しながらその末はタリム河に合流する。(《アジアの砂漠を越えて(上)》、白水社・ヘディン中央アジア探検紀行全集1、1964、三一四~三一五ページ)

 

 吉岡は〈波よ永遠に止れ〉の10節を「聖なる靴 一人の生命を救った この創造主 靴屋に幸いあれ」と結んだあと、最終の11節をこう締めくくって筆を擱く。

 

わたしは故国への帰路につく

ゆれる船 かたむく帆柱 さらば陸地よ さらば砂漠よ

  「そこでは 人間の意志も水流の巨大な力も 同様にそ

  の狂暴さを征服し得ない 恐るべきタクラ・マカン砂漠

  が地上の森羅万象を支配する神の名において宣言する 

  《この地まで来れ されどこの地より進むなかれ この

  地において汝らほこらしげなる波よ 永遠に止れ》」

 

 ここに至るまで吉岡はヘディン=岩村をそのままなぞるのではなく、重要なトピックを選ぶ一方で、前後を小刻みに入れかえたり、深田解説にはある従者の名前を剥奪して「毛皮の男」や「女中」と呼ぶなどして、いくつかの創意を見せている。だがなんと言ってもこの11節が注目されるのは、鍵括弧で括られた部分こそ、後年の吉岡詩において頻出することになる引用の濫觴だからである。これこそ井上靖の〈楼蘭〉におけるヘディン=岩村の《彷徨へる湖》の象嵌部分を踏襲した構造だと言える。吉岡は放送詩集の依頼に、主題的にも方法的にも、それまでにないものをもって応えようとしたのである。すなわち「私の戦中」を「典拠と引用」の方法で語ること。

 

 四 簡略版の存在

 

 〈波よ永遠に止れ〉初出には本文後に註記として「(本稿より八十行を削除して〔一〕九六○年五月一一日NHKより放送)」(《ユリイカ》一九六〇年六月号、五三ページ)とあったが、刊本では省かれている。二五七行から八○行を減じると一七七行となる。

 三つ以上の節での合計が八○行の組みあわせも考えられなくはないが、私にはどうも全体に影響が出ないように、各所で抓んだように思われる。逆に言えば、これは要約可能な作品だったのである。いったい〈波よ永遠に止れ〉を除いて、吉岡実詩に簡略版(作者自身の手によるものであっても)の存在を許す詩がありえるだろうか。この長篇詩の最後の、そして最大の特徴は、全長版と削除版の二種の本文が存在した(はずだ)という点にある。——と、私が書いてから四年後の一九九六年、入沢康夫が〈「波よ永遠に止れ」の思い出〉を発表した。その〈付記〉全文を引く。

 

 放送の録音と「ユリイカ」誌のテクストとを比べてみると、厳密には1~11の章番号と詩句六十一行が削られ、また四カ所に小さな語句の改変がある。吉岡氏は、この本番録音に立ち会って居られるのだから、これらの削除や改変は、作者の承認の上でなされたと判断してよいだろう。ただし、思潮社版『吉岡実詩集』での形では、右の削除や改変は採られていなくて、それとは別に五カ所の異文がある。(《吉岡実全詩集 付録》、筑摩書房、1996、六ページ)

 

 「詩句六十一行」とあり、これに「章番号」の一一行分を足しても、七二行にしかならない。七二行は八〇行ではない。さあ、ますますもってわからなくなった。これは音源を文字化して検証する以外にないと、《吉岡実全詩集》の編者でもある入沢さんにご無理を言って、放送の録音をカセットテープにダビングしていただいた。校合の結果、ようやく「八〇行」の謎がとけたのである。ここで〈波よ永遠に止れ〉各稿を略記しておこう。

 

 ア=放送詩集用の原稿〔吉岡の日記(*2)によれば、一九六〇年四月一五日に脱稿〕

 イ=放送詩集収録時の改訂原稿〔遅くとも五月一〇日の本番録音(*3)までに完成〕

 ウ=《ユリイカ》掲載稿〔一九六〇年六月号〕

 エ=思潮社版《吉岡実詩集》所収稿〔一九六七年一〇月一日刊〕

 オ=筑摩書房版《吉岡実全詩集》所収稿〔一九九六年三月二五日刊〕

 

 私はアを見ていないが、アはウの入稿用原稿でもあろうから、以下の論旨に影響はない。吉岡か編集者の伊達得夫が註記として「(本稿より八十行を削除して一九六〇年五月一一日NHKより放送)」と原稿アに書いたとき、まだ《ユリイカ》には〈波よ永遠に止れ〉が掲載されていないから、「本稿より八十行を削除して」は、ウの誌面ではなく入稿用原稿用紙上の状態を指すだろう(ちなみに《ユリイカ》では一行三〇字詰めで組まれており、折りかえしで二行に亘る詩句三箇所を含んで、総二六〇行、詩句の数二五七)。行数を確認するためには、アが一行何字詰めで書かれていたかが知りたい。またイは、吉岡陽子夫人がアをもとに新たに書きおこしたものかもしれない。これらの原稿を見ることはかなわないから、吉岡の原稿の書き方を検証することから迫ってみよう。なお、エはオの底本である。

 残念ながら私は、吉岡実自筆の入稿用原稿をほとんど見たことがない。そこで写真版の草稿(《現代詩読本——特装版 吉岡実》口絵など)を調べてみると、三二字×二〇行という「草蝉舎」の名入りの特注原稿用紙に、上下にアキを取って書いていることが多いと判る。しかし〈波よ永遠に止れ〉はこの特注用紙にではなく、市販の一行二〇字詰めの原稿用紙に書かれたのではないか。放送詩集は一五分間という時間の制約上、「四〇〇字詰め原稿用紙で何枚」という執筆依頼だったと想像されるからである。

 〈波よ永遠に止れ〉が一行二〇字詰めの原稿用紙に書きおろされたと仮定してみる(吉岡は随筆をコクヨ製のペラ〔二〇字×一〇行〕に書いたりしている)。節を三行ドリにすると、四〇〇字詰めで二〇枚になる。ア(の替わりのウ)とイ(の替わりのラジオ放送用音源の文字化)を付きあわせるとどうだろう、みごとに「八〇行」ちょうど削除されているではないか(ただし、詩句の始まりは一字下げで、厳密には一九字詰め。二行に亘った場合、その行は天ツキか)。以下に、アからイを作るに際して削除された行だけを、番号を付けて掲げる。

 

 五 削除された詩句

 

1 ロバの背にのせられたまま

2 女のような泣き声をあげたのを救けた

3 女中はサルト人にさそわれると

4 白楊の木の茂みへ

5 ときには聖なる墓地をよごしに行く

6 祈祷師の太鼓のなりやむ暁まで

7 悪霊のおどりをおどるのだ

8 わたしも宣教師も

9 女中もひとりねの眠りにおちるだろう

10 毛皮の男はいつ戻るか

11 舟の竜骨のようなたくましいその男を

12 わたしは信頼して待つ

13 明日という朝 あさってという朝

14 わたしはここ数日

15 輻射熱と大気のなかにある塵の量と

16 温度の密接な関係を調査して暮す

17 宣教師は

18 すさまじい砂嵐の吹かぬかぎり

19 印度の金融商人の夜のみだらな酒宴によば

20 れる

21 踊る女のへそにはめた虎眼石が輝く

22 深くて戻るすべのない闇

23 わたしはいまだかつて宣教師が祈りをあげ

24 ているのも

25 土民の病人の看護する姿もみとめない

26 彼も一度は心をこめて祈る時がくる

27 みずからが突然の死にくびられる時

28 滴れない桃のしずく

29 滴れない梨のしずく

30 土民のかきならすジイザーという楽器を

31 女中が天幕の入口で奏でている

32 刑罰をうけた人間の魂がもつメランコリイ

33 水槽のなかの水が少しずつ泡だつような夜

34 だ

35 毛皮の男が戻ってきた 八頭のらくだをつ

36 れて

37 それぞれのらくだの背につまれた乾草の匂

38 いは甘く

39 わたしは緑地地帯の涼しい水が快く回想さ

40 れる

41 パンを焼くマラル・バシイの村の景物とと

42 もに

43 毛皮の男は白楊樹の太い幹へ

44 斧を一撃うちこむとその下へ寝る 生きづ

45 いている毛皮

46 大小さまざまならくだを円形につなぐ

47 蘆を気ままに食べるのをみながら

48 わたしは一箇の絵を鑑賞しているやすらぎ

49 をおぼえる

50 女中は恋人にふたたび会えたようなはしゃ

51 ぎ

52 毛皮の男のために食事の準備をする

53 卵を割り マカロニを炒め

54 一羽の鶏の首を斧で断つ

55 わたしにはこれらのこともまた牧歌的な絵

56 だ

57 天幕の入口からただちに砂漠へつづいてい

58 る行程

59 これから幾日かわが愛すべき砂

60 わが憎むべき砂

61 未知の森 未知の空

62 未知の河 未知の水平線

63 未知の世界を進むためには

64 たがいに頼らなければならないわたしたち

65 いきものたち

66 門出を祝福する数十枚の支那の青銅銭が空

67 へまかれた

68 毛皮の男も女中も知らない まぼろしの湖

69 よ

70 翌日の真昼 天幕を取り外したら 敷物の

71 下から

72 一吋半のさそりがとびでたのに驚く

73 この人間の棲まぬ果で一人の男に出会う

74 塩を求め山中へ入って行く孤独な 塩採取

75 人が地上での最後の人間

76 新鮮な水を得ることのできる最後の土地

77 千度も千歩を行く

78 わたしは故国への帰路につく

79 ゆれる船 かたむく帆柱 さらば陸地よ

80 さらば砂漠よ

 

 行頭番号の詩句がどの「節」に属するかを記す。1~7番=「2」、8~13番=「2」。14~34番=「4」〔すなわち「4」全体を削除〕。35~56番=「5」、57~65番=「5」。66~67番=「6」。68~69番=「8」、70~72番=「8」。73~76番=「9」、77番=「9」。78~80番=「11」。アからイへの手入れで目立つのは、入沢康夫も指摘している、節の数字の削除だ(放送では、砂嵐や水音、風音の効果音などで区切れを表わしていた)。二箇所の「われわれ→わたしたち」は全体の統一のためと思われる。入沢の「また四カ所に小さな語句の改変がある」というのは、次の点か。

 

・あとかたもなくなってしま〔う→った〕(「3」)

・水槽を積んだ〔背高→トル〕らくだがころんだ(「7」)

・再び砂丘が十呎の高さで〔疲れた→トル〕キャラバンをとりかこむ(「7」)

・そのまわりを犬と鶏が〔深い→トル〕関心をよせて見守る(「7」)

 

 入沢の「詩句六十一行が削られ」は、先の1~80番をウの《ユリイカ》掲載稿で数えなおすと、二〇字詰めの原稿が三〇字詰めの誌面になることによって六二の詩句となるので、同じ状態を別様に言っていると思われる。最初に私が想像した「一七七行」の〈波よ永遠に止れ〉は存在しなかったのだ。

 

 六 長篇詩の限界

 

 吉岡が本作を単行詩集に入れなかったのは、決してヘディン=岩村に依拠したからではなく、作品の構造が他の吉岡詩全作と対立する「削除のきく本文」で成立していたからではあるまいか。主題・方法ともに新生面を打ちだした——という私の前の言い方は正確ではなかった。この主題からそれにふさわしい題材が選びとられ、それがこの詩の書法を決定した、と段階的に考えるべきだった。〈「死児」という絵〉(《ユリイカ》一九七一年一二月号)で吉岡はこう述懐している。

 

 あるとき、ラドリオで伊達得夫とお茶をのんでいたら、突然、〈ユリイカ〉の十頁をお前にやるから、一つ長篇詩を書けと厳粛な面持できりだした。〔……〕

 私には成算がなかったわけではない。「私の戦中戦後」を主題に選んだ。それなら、長く書けようと楽観した。テーマをあらかじめ決めることは、私にとって詩を書くたのしさの桎梏になる。だから私は出来るだけ避けてきたが、今度ばかりは主題を絞り、展開を考えなければならない。私が詩のことで四六時中、頭を悩ましたのはこの時だけだった。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、七〇ページ)

 

 一九六〇年にもこの一九五八年と同じことが繰りかえされなかっただろうか。しかし今度は〈死児〉とは異なり、「典拠と引用」を採用したために、結果的には「削除のきく本文」が生まれ、ために作者本来の詩作と対立することになった。それは、吉岡が〈死児〉の手法を棄てて、より「体験」へ接近しようと試みたためである。しかし、自己の体験をそのまま書きさえすれば詩になると考える吉岡実ではない。海軍に入って海と出あうのではなく、陸軍で馬と出あった吉岡の極限的テーマは、「岸べなき砂の大洋」の長篇詩で展開された。自身の満洲体験を容れる器として、一種の、しかも他者の冒険譚の形が採られた。黄金探究(高邁ではなくとも、この壮大な夢!)ともとられかねない試みは、最後は渇を癒すべき水を長靴に充たすことで落着する(日本軍への詩人の批評か)。死が偶然であるように、生もまた偶然であり、僥倖である。

 ここで言いそえておけば、伊達得夫のようには吉岡が「残虐きわまる戦場の最前線に立たされ」(長谷川郁夫《われ発見せり——書肆ユリイカ・伊達得夫》、書肆山田、1992、九五ページ)たことはなかっただろう。長谷川郁夫はこうも書いている。「異常な体験も、それが思い出に変質するとき、甘酸っぱいものが漂いだすだろう。たとえば、のちに伊達得夫と出会うことになる詩人の吉岡実氏が、満洲での軍隊生活を回想して「あの残酷で滑稽な」と呼ぶのを知るとき(「軍隊のアルバム」)、そこには、暗い、といった形容だけでは語れないものが潜んでいるのを感得する。」(同前、九○ページ)

 吉岡はこのアンビヴァランスを「スフィンクスの創出」(*4)という詩学に高めた、と言えよう。吉岡は〈波よ永遠に止れ〉を《吉岡実詩集》(思潮社、1967)に収めただけで、その後は、おそらく主題と方法の乖離ゆえに、こうした構えの大きな一篇を追求することはなかった。自ら選んだ探検行と避けがたい進軍を同一視すべきでないのはもちろんだが、済州島をタクラ・マカン沙漠に置き換えた死と再生の物語は、人間(軍隊/ヘディンら一行)と動物(馬/らくだ)の関係を描くことに成功したものの、圧倒的な外部(戦争/自然)との距離を計りかねている気味がある。

 満洲に出征した吉岡にとって、中央アジアの巨大な沙漠は想像の世界だろう。この作品を脱稿したとき、吉岡はシナのなんたるかを改めて問わずにはいられなかったはずだ。輜重兵として馬上から眺めた広大な大地。一九六八年、高橋睦郎からベトナム戦争について問われて「ベトナムはベトナム人に委せろ」(《吉岡実詩集》、思潮社・現代詩文庫14、1968、一四一ページ)と発言をしているように、各地の戦争紛争が軍隊を、軍隊がかつての日本軍を、中国大陸を想いださせた。それは吉岡の詩に大きな影を落としている。そのことはあまりにはっきりと見えたために、かえってこれまで指摘されなかったように思う。

 先走って言えば、「その時と今」を往き来する試みは〈コレラ〉(《都市》一号、一九六九年一二月)で打ちきられるまで継続し、詩集《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974)に伏流することになった。〈波よ永遠に止れ〉が「いま、ここ」の死と再生の長篇詩にならなかったのは、この主題が吉岡にとっていかに扱いにくいものだったかを証明していよう。ついには詩で書くことを諦めたかのごとき、次の発言に至るのである(インタビュアーは高橋睦郎)。

「問=小説を書きたいとおっしゃっていましたが。/答=小説と言ってしまっていいかどうか。ただ、評論の根本には比較があるが、小説は具体的に書いていけば何かできるのではないか、そんな考えが自分の中にあるのです。/問=どんなテーマを?/答=別にありませんが、自分の中で大きな比重を占めているある恋愛事件、それに軍隊体験はぜひ書きたいです。/問=表現は?/答=ふつうの文体で坦々と書くか、再構成するか、まだわかりません。/問=詩で書けないところを?/答=詩には個人的な事情は持ちこみたくないのです。」(同前、一四五ページ)

 吉岡は長篇詩〈波よ永遠に止れ〉で軍隊体験に限りなく接近しつつ、自己の詩への戒律に従ったために「岸べなき砂の大洋」に足どめされているように見える。これが一九六〇年代の吉岡実が立っていた地点である。

 

  

*1〈崑崙〉の初出(《南北》一九六八年一〇月号)の冒頭は「では未経験的なピンクの空間へ/ダイビングする/四頭馬車の喪服ずくめ」で、定稿も同じ。一方〈色彩の内部〉の初出(《the high school life》一五号、一九六八年八月)の冒頭は「ピンクの空間へ/ダイビングする四頭馬車」だが、定稿では「涼しい鈴懸の下の/橋をわたる/わたしは包装荷札をもつ人」と改められた。

*2「〔昭和三十五年〕四月十五日 四十一歳の誕生日。〈波よ永遠に止れ〉夜十二時に完成。陽子に浄書してもらう。」(《吉岡実詩集》、思潮社・現代詩文庫14、1968、一二三ページ)

*3「〔昭和三十五年〕五月十日 夜八時、雨の中をNHKまで歩く。放送詩集〈波よ永遠に止れ〉の本番録音。演出遠藤利男、声優若山弦蔵。」(同前、一二四ページ)

*4吉岡実の詩法を端的に言うなら、「人間への愛と不信」を打って一丸として、容易には噛みくだくことのできない生の謎、すなわち「スフィンクス(頭が女性で翼あるライオンの胴体をもつ怪物)」を創出することにあった。

──了──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/05/23

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小林 一郎

コバヤシ イチロウ
こばやし いちろう 評論家 1955年 新潟県佐渡郡に生まれる。

掲載作は、1992(平成4)年8月「文藝空間会報」第21号初出「『「矢印を走らせて』――吉岡実詩集『神秘的な時代の詩』評釈(7)詩篇『崑崙』」の一節を、2003(平成15)年5月、日本ペンクラブ電子文藝館掲載のため改稿。

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