父のこと友のこと
芥川賞作家の父のこと
父(後藤紀一)の芥川賞受賞は三十六年も前のことになる。そのころ私は秋田にある劇団わらび座にいた。山形を離れて三年ほど経っていた。父から、
「今度、僕は小説を書いた。でもやっぱり栖子には見せられない」
そんな便りが来てまもなくのころだった。
山形を離れて三年、父とは没交渉のままだったが、当時の劇団の主宰者のH氏に説かれて父との便りの行き来が、始まったばかりだった。ところが受賞作を読んで私は、今でいうプッツンしてしまったのである。冷笑とさえ言える父の視線が許せなかった。繋がりそうになっていた糸があえなく切れてしまった。
それから七年、父に会うことも手紙を書くこともなかった。
芸術家や文筆家の親と子の確執などはよく世にあること。胸にわだかまりのあるまま生きるのはやめよ。人の世は、人の心はなかなか手に負いにくいものだよ。大人になれよ。H氏はそう言いたかったのかもしれない。
月日は流れた。出張仕事から帰ったある日のこと。劇団の友人が、
「栖子は会ってくれるだろうか」
と父から電話があったという。
エッ? 私は耳を疑った。
「それで、あなたなんて言ってくれたの」
「大丈夫です。栖子さんもう大人になってますから」
と心得た対応。隣町に宿をとっていた父に電話をして来てもらうことにした。十年ぶりの父の禿げてしまった頭に馴染めなくて困った。老いていた。
「ね、おとっつあん。あの貧乏…二日も三日もごはん食べられない時があって並みの貧乏じゃなかったでしょう。それに絵描きの女房になど向かない女性を選んで結婚して、芸術家の胸の奥の苦悩など、その切れる弁で母さんにぶっつけたってなにになるっていうの。家庭が壊れるのはあたりまえでしょうよ」
私の気持ちは妙に落ち着いていた。その家庭崩壊の修羅場を自分のことだけはカッコよく書いてなによ! そう言いたい気持ちをぐっと押さえた。フィクションとして受けとめるしかない、そう考えるようになっていた。父は飲んでいた盃を置くと、畳に手をついて頭を下げて言った。
「栖子、悪かった、かんべんしてくれ」
そして、
「今日はいい話したな」
と嬉しそうに酒を飲みなおした。
それから八年後、私は山形に帰ることになる。
人生とは大きく狂うものである。
父のそばに暮らすようになって、父に盾突くと、決まって私が母の立場に立っていると勝手に思いこんで荒れた。
「離婚の責任なんて五分五分だよ、おとっつあんだけ悪いなんて、思ってないのよ」
それ以来父は静かになった。でも、自分の考えや気持ちに反することに対しては、狂おしいまでに身構える姿勢に変わりはなかった。その尋常でない強烈さが物を書くパワーなのかもしれないと思うようになった。諦めのよい淡白な性分からは、何も生まれないかもしれないから。
でも、私は父の辛口の文学精神は好きにはなれない。薄笑いを浮かべてじーと見ているような視線の中には入りたくない。
柳美里氏の小説「石に泳ぐ魚」に出版差し止めの判決が下りた。モデルにした女性に対して損害賠償と謝罪をせよ、というものだ。
私小説家の周囲に生きる苦しさを訴える人の気持ちは十分に理解できる。だがまてよ、フィクションとしてしか真実が語れないことだってある。それに私は柳美里氏の作品は好きだ。モデルとして登場する己を決して粉飾はしない。自分をカッコよくは書かない。今回の判決が表現の自由の幅を狭めることにならなければいいがと思っている。
このような判決が出た今、天国にいる父に会いたい。
「おとっつあん、私にも賠償金ちょうだいよ」
そう言ってみたい。
そして『少年の橋』を書き終えた時、何故に私に見せられない、と思ったのか、とくと訊き正してみたい。ひさびさに父と愉快な口相撲がとりたくなった。
「おなごは、へらへら、へらへらてなあ」
おやじのオトボケの声が聞こえる。
(初出:山形新聞1999年7月30日付)
還暦の春
父には辞世句らしきものはない。父が死ぬ三年程前訊いたことがある。
「おとっつあんよ、七十歳過ぎた気分はどんなもの?」
「いい気分だな、煩悩もなくなったしな」
そして、
「いつ死んでもいい」
とおどけた。無頼に虚無にとぼけ顔して生きてきた父らしい返事だと思った。
その父ががんになった。抗ガン剤の投与、次から次と打たれる注射、放射線と治療の日が続いた。
「栖子、医療産業が俺を襲って来る!」
父は苛立ちを満身あらわにしてベッドで叫んだ。苛立ちの果てだったのだろう、
「春寒し女が針を捧げ持つ」
と書いて看護婦さんに渡していたことを後で知った。いつ死んでもいいはずだった父の死にぎわは、予想に反して大荒れに荒れた。
父が死んで一年後、私が二度目の乳がんに倒れた。そして、術後一年四か月ノルバデイックスという薬の副作用に苦しんだ。乳がんの再発を防ぐために女性ホルモンをおさえる薬。一年四か月不眠、苛立ち、寂寥感にのたうち回ることになった。五十一歳、更年期の症状が一層激しくあらわれたといえる。何事もなく服用する人も多い。個人差がある。
最近、ある放送局が「よい医者はこうしてさがせ−賢い患者になるために」という番組を放映した。
「眠れない」と訴えると「俺も眠れない」、「肩が凝る」と言えば「俺も凝る」というのが私の主治医の弁。私も賢い患者ではなかった。結局は自分が服用している薬に疑問を抱くまで、一年四か月もかかってしまった。以来薬を止め、生きるならよい命で生きたいと思い、がん検診を止めた。そして七年、手術してから十年無事に生きてきた。今年還暦、そして春を迎えた。
「二度もがんになって還暦まで生きてきたことを語ってほしい」
といわれて、秋田県医師会主催「乳がん公開講座」に招かれた。実は三十四年前右胸の最初の手術は秋田市のN病院のS医師に執刀していただいた。公開講座は医師と患者の意見交換の集い。
「医者に対する文句も言ってほしい、私への文句も言ってほしい」
S執刀医のいざないに私は両胸を失って生きねばならなかった積年の思いを語った。治療にあたっている医師たちが患者の声に真剣に耳をかたむけてくれている。このような集いが開かれる時代になっている。私は胸が熱くなった。
おやじよ、父よ、私の父なのだから、私と同じできっと薬が辛かったんだよね。いつものわがままの延長じゃなかったんだよね。マイクに向かいながら、苦痛にゆがんだ父の顔を思い出していた。もう逝く道が決まっていたのだから辛い治療をしなければ、父はいまわの時もとぼけて面白い口を叩いていたかもしれない。辞世句も遺したかもしれない。そんな気持ちにもなっていた。
(初出:河北新報2001年4月29日付)
類稀なるユーモアの持ち主
米原万里著『ガセネッタ&シモネッタ』を読んで―
本書を手にした時、あっ、トイレのことを書かれてしまった! と思った。
一九八九年早春のことである。
プラハからブダペストに発つ夕刻のことだった。
「はい、君たち先にトイレに行きなさい」
先をよまれてしまった。
「ホテルで用を足さないで、外に出ると用を足したがるのは日本人だけよ。どうして?」
この旅の案内人、万里さんは問う。
「だって日常生活とちがう状況になって心身のリズムが狂うのよ」
眠れなくもなるし下痢もする。彼女はベッドに入るとたちまちスヤスヤだし、飛行機の座席でも熟睡する。
食べて一時間も経っていない時でも、食べ物屋の前に立つと、
「あっ、これおいしそう」
と歓声をあげる。そして決断が下る。
「ね、ここで昼食にしよう」
「だって、この荷物どうするの」
「あら、そんなの下に置けばいいじゃない」
従うしかない。こちとらは重い買物袋を下げてふうふうしているというのに。一刻も早くホテルに帰って荷物を放り出したいのに。
なにせタフである。かかと九センチもある靴をはいてカツカツと音をたてて歩き廻る。いいかげん足が疲れて、
「タクシーにしよう」
と言っても、
「あら地下鉄の駅がすぐそこよ。その方が面白いでしょう。券をまとめて十枚買っておきなさい」
と言われてしまう。
言葉につよい人だから、案内標示を読みながらどこにでもつれて行ってくれる。プラハ市内のフーチク公園を散歩している時トイレに行きたくなった。万里さんはあちこち聞き廻って私とワカちゃんをトイレに案内してくれた。けれど自分は入らない。外でトイレに行くことはめったにないという。
彼女のその頃の職業はロシア語の同時通訳。三人が知り合ったのは三年前、一九八六年の東欧の旅。万里さんはそのツアーの添乗員だった。
彼女のタフさは仕事柄か、旅慣れしているからか、どうもそんなことではないらしい。つよい自立心をもって生まれてきたように見える。そんな彼女に守られて旅をしているのだから、こんな幸せなことはない。けれど感謝もし脱帽もしながら私はつぶやく。
頼りない己の存在を見つめ、己の壊れそうな神経を抱きながら生きていく生き方もあると。眠り下手の上にスケッチのしっぱなしで、私の疲れは極度に達しボロボロになりそう……。でも、そんな疲労にも懲りずにまた旅に出たくなるから不思議だ。
日常などというのは決して良き事ばかりではない。日本を離陸した瞬間に一気に非日常になれる。そして必ず良き人たちとの出会いがある。
プラハのホテルで用を足し、夜八時発のソフィア行の車中の人となる。翌朝五時、ドナウの流れる街ブダペストに着いた。
ハンガリーの婦人は、というよりロシアやヨーロッパの中高年の婦人に共通しているが、お腹の贅肉は私なんてものの比ではない。丸太棒のようなご婦人が目につく。だからウエストの太いもの、しかも伸縮自在のゴム入りで形の良い服が店に並んでいる。万里さんとワカちゃんのショッピング熱に煽られて私も買物に行くことにした。二〇〇ドルを現地通貨のフォリントに替えた。
「女を自分から捨てた格好をしてはいけません。今日は私が見立ててあげますからね」
ジーンズのスポーティな上着があったので買おうと思ったけれど、万里さんの許しが出ない。今日は観念して彼女の見立てに服することにした。何度も試着を繰り返して、オーバーと二着のスーツを買った。〆て二万六千円位。
「ね、良かったでしょう。これからは年をとって汚くなるばかりなんだから、きれいにしてなければなりません。わかった?」
私の顔をのぞきこんで念を押す。
「だって、らくーな格好をしているといちばん落ち着くんだもん」
「そういうのはなまけていることになるのです。人間は仕事だけでなく、いろいろな神経を使うと脳の血のめぐりも良くなるのです」
論理派の人間が論をはき出すと太刀打ちできない。
「ね、あなたは顔の表情が強いので赤や黒は似合いません。うすらぼんやりした色が似合うのです」
物には言いようがあるだろうに、うすらぼんやりとは何ごとか。
ホテルの彼女の部屋のクローゼットには日本から持って来た物も含めて二十着ほどの洋服が下がっている。長身の彼女にとってもハンガリーの洋服は都合よくできている。
日本を発つ日、徹夜仕事を終えた彼女は二時間余頭をひねって十五着の洋服と五足のヒールをトランクに詰めた。色の合わないスタイルをしていると落ち着かないという。
それに万里さんは薄着だ。冬だというのにシャツも着ない。薄地のスーツにレニングラード製というキルティングのコートをはおっているだけ。少しも寒くないという。
「なによ、贅肉の上に腹巻きまでして」
と言われてしまっては返す言葉もない。私など旅の時はお腹を冷やすとすぐ下痢になってしまう。
朝になるたびに万里さんは私たちに日替わりファッションを見せてくれた。
「万里さんだって年をとってしわの寄る時がくるんだから。その時を見届けてやるから」
「あら、その時はもうあなたたちはこの世にいないでしょう」
「あら、十歳しかちがわないのよ」
「あら、十歳は大きいわよ」
とニヤリと笑う。
長生きして万里さんの老い姿を見届けてから、この世を去りたいと思いつつ愉快な旅の日々を送った。
そして十余年が過ぎた。万里さんの老い姿を見届けると豪語した私は早や還暦になり、完治せぬ病の身になってしまった。
山形まで見舞いに来てくれた万里さんは作家になっていた。ウエスト六〇センチだった身を大幅に増やし、ゴム入りのスラックスにスニーカー姿で現れたのである。贅肉の上に腹巻きをしていた私は病気のため一割減の体重になっていた。そういえば二年程前、山形で行われた米原万里講演会の時、彼女がどんなおしゃれをして現れるのかと待っていたら、十年前と同じコートを着ていた。
「もう洋服を買う気がなくなったの。洋服は若い通訳仲間にあげちゃったわ」
と言っていた。万里さんにとって通訳は天職だと思っていたけど、彼女はもう一つの天職を手にしたのだ。クローゼットにびっしり並んでいた洋服を整理し、いまはワープロのキーに託して、国際化時代に日本人として実に国際的に生きた体験をもとに異文化論を展開している。その論のなんと愉快なことか。世界のあちこちで美味しい物は沢山食したはずなのに、目刺しと漬物と味噌汁の日本食が大好きだという。その好みは万里さんの目線に重なる。彼女のどんな剛速球の毒舌も痛快な心地で受け止められるのは、その目線の庶民性とあたたかさにある。
万里さんは山形のホテルの豪華な部屋に私を招いてくれた。でも、夏のホテルの冷房が病の身にこたえる。スイッチを切ると、万里さんは暑くて暑くてホテルの浴衣の襟がすれすれまで開いてしまう。ヤカンのような豊かなものが見え隠れしている。私は癌の虫に噛られて右も左も乳房がない。
「そんなに暑いなら、脱いだら」
「いいえ、ただでは見せられません」
必ずユーモアで返してくる。本書で筆者は書いている。名通訳者には、駄洒落の達人が多い、と。ということはユーモアの達人ということであり、万里さんも類稀なるユーモアの持主である。
人間に対する大いなる興味と関心とやさしさがなければ駄洒落もユーモアも魅力ある毒舌も生まれまい。
「ね、仕事するのよ。私だって父を亡くした時、仕事していたから立ち直れたの。マイナスをプラスに変えるのよ」
癌が肺に転移してしまった私を叱咤して、ワープロと猫と犬の待つ鎌倉の家に帰って行った。
十歳の年齢の差は思いの外早くやって釆た。万里さんは書いても書いても尽きぬものを抱いて、ピッカピッカに輝いて五十代に入った。しわの寄る気配など微塵もない。
万里さんと初めて出会った旅の時だった。ワルシャワ郊外のショパンの記念館が定刻になってもなかなか開かない。時間つぶしに万里さんはツアーの人たちの手相を見はじめた。さて、私の番が来た。
「う−ん、あなたは芸術家としても論理家としても中途半端ね」
あら、印象で言っているのかしら、それにしても図星だ。なんとか絵描きで食ってはいるけれど、野次馬的に物言いたくなるところも確かにある。絵も描きたいが、東欧の事情が知りたくて来た旅でもあった。初対面なのに臆せず言い放つ内容は実に痛快だった。
身の丈の生き方でいいという、私なりの開き直りもあったから、"米原万里の毒舌速球"を受けるグローブは持ち合わせていた。速球を受けながらそのボールの温もりも感じていた。人間として最高に愉しい言葉のキャッチボールをさせてもらったと思っている。
そして、本書には国と国との言葉のキャッチボールを成立させる面白さ、難しさ、愉しさが満載されている。
(初出:文春文庫2003年6月10日刊 米原万里著『ガセネッタ&シモネッタ』解説)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/12/01
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