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世界の中の日本

  1.日本の歴史と国際政治――日本を知って留学する大切さ、その意義

 

 はじめに、私の個人的な留学体験からお話しいたします。

 1953年の9月、第二次世界大戦後の戦禍の日本から、第一回フルブライト留学生として、アメリカのニューヨーク州にあるコーネル大学院に留学した私は、新学期の留学生歓迎パーティーの席上で、韓国の女子留学生からいきなり“日本人と同じテーブルで食事をしたくない。席を替えて欲しい”と満座の中で叫ばれたショッキングな経験があります。聞けば彼女の両親は、第二次世界大戦中に、日本人の憲兵によって、国家反逆のスパイ容疑で逮捕され、拷問を受け虐殺されたのだと、世界各国から来た留学生たちの前で、涙ながらに鏤々として語るのでした。当時の私は、日本の近現代史の、アジア諸国へ侵略していった歴史認識がなかったために、韓国女性から同席を拒絶された恥ずかしさに呆然として、唇を噛み締めて突っ立っていたのでした。

 

 韓国は第二次世界大戦の日本の敗北によって、日帝時代の植民地統治から解放されたのも束の間、1950年の朝鮮戦争の勃発によって、朝鮮半島の北部にはソ連と中国共産軍。南部にはアメリカのマッカーサーGHQ総司令官の軍隊が上陸して戦場となり、北緯38度線を境に、李承晩大統領の大韓民国と、金日成総書記の朝鮮民主主義人民共和国とに分断されていました。

 現在から当時の歴史を振り返ると、アメリカが日本の広島と長崎に二個の原爆を投下して第二次世界大戦を終結して以来、原爆核兵器競争が米ソ間で熾烈となり、世界の覇権をめぐって、共産主義と資本主義のイデオロギー体制の戦場になった朝鮮半島の人たちの悲劇が見えてまいります。

 

 大韓民国の李承晩大統領は、頑強な反共主義者として有名でしたが、反日主義者としても、日帝時代の朝鮮統治を激しい言葉で糾弾する人でした。李承晩は李王朝につながる血族の一人で、1904~5年の日露戦争後、朝鮮が完全に日本の統治下に入ると、アメリカのハーバード大学やプリンストン大学に留学し、法学博士号(PhD)までとって、朝鮮独立運動のリーダーとなった、愛国の闘士でした。

 1953年に朝鮮戦争の休戦協定が成立すると、李大統領は台湾、南ベトナム、フィリピン、タイなどを糾合して、アジア反共連盟の結成にのりだし、アメリカに全面的に協力していました。だが日本に対しては、李ラインと称する海洋漁業権を設定し、朝鮮半島の二百海里以内の漁業活動を、決して許可しませんでした。

 

 日本は戦後の食糧難で、それまで既得権利として持っていた朝鮮半島周囲の漁業権を失うことは、九州の漁業者にとっては死活問題でした。私は、太平洋戦争の末期に朝鮮名を日本人名に変更させ、朝鮮民族のアイデンティティを抹殺しようとした「創氏改名」の哀話を、当時の京城(現在のSoul)からの引揚者の友人作家・梶山季之の作品「族譜」を読んで知っていましたので、韓国人の屈折した反日感情については同情を持っていました。

 しかし、アメリカの大学側が主催してくれた留学生歓迎パーティーの席上で、日本人であることだけで、両親が憲兵に殺された恨みを、個人的には何の関係もない私に向かって叫ばなくとも良いものをと、韓国からきた女子留学生の激しい反日感情に釈然としない反韓感情が湧いてきました。……その時、私をかばって助け船を出してくれた歴史家のW教授の言葉が、今もなお私の脳裏に鮮やかによみがえってまいります。

 

“私たちは何故に歴史を学ぶのか? 人類の歴史は、弱肉強食の侵略戦争の血で彩られている。こうした国家間の侵略戦争から学ぶ事が出来るのは、過去の民族や国家が侵した憎悪報復の輪禍を、歴史探究者として学んだ知識と判断で反省し、「二度と再び過ちを繰り返さない」為に国際的な解決策をみつけていくことではないでしょうか?”

 

 私はアメリカにアメリカ史と社会を知るためにやって来た留学生でしたが、この事件をきっかけに、日本の近現代史についても、改めて関心を持つようになりました。私は、日本の大学では西洋史を専攻しましたので、ヨーロッパのルネッサンスやフランス革命、ロシア革命について他国の留学生より知識がありましたが、残念ながら隣国の朝鮮や、十五年戦争を闘った中国について日本がどのように関わってきたのか、漠然とした歴史認識しか持っていませんでした。

 それどころか、日本の現代史については、外国人から意見を求められる昭和天皇の戦争責任についても、自分の意見を論理的に表現することができぬ始末でした。東京が焦土と化し、敗戦は必然の状態の中で、日本がポツダム宣言を受諾するに際して、日本政府が最後までこだわった「国体護持」とは、いったい「天皇」を指すのか、「日本国家」を指すのかさえ、よくわかりませんでした。

 

 私は、戦前の大日本帝国憲法では「侵スベカラザル神聖ナ国家元首」であった天皇が、第二次大戦後に「現人神(あらひとがみ)」から「人間天皇」となり、「象徴天皇」となった時代を体験した証言者でもあります。小学校時代に学んだ日本国史は、すべて皇国史観によって書かれた、創られた虚構の歴史であると説明され、歴史教科書の不都合のところには、墨を塗って消さねばならなかった時代の子です。

 

 1989年に昭和天皇が崩御され、戦後から半世紀が経過すると、いままで曖昧にされていた戦争責任問題が、中国政府や韓国側から侵略戦争だと抗議されました。すると、日本政府はただ「不幸な戦争」として、謝罪を表明するほかありませんでした。それに伴う日本の総理大臣による「靖国神社参拝」についても、十五年戦争中、日本国籍を持たされていた「台湾や朝鮮の戦争犠牲者の保障」についても、「慰安婦問題」や「原爆被爆者の医療」についても、論理的に説明できぬ始末です。

 戦争を知らぬ世代が外国に留学した場合、日本人としての見解を求められると、そのときどのように応答するのでしょうか? 日本人として知らなかった歴史として、あいまいにするわけにはまいりません。

 

 残念ながら、戦後生まれの、第二次世界大戦を体験しなかった世代にとっては、日本の近現代史を学校の教育現場においても、教師たちがきちんと教えることもなく、避けて通ってきた現実があります。二十世紀はグローバルにみると、戦争の時代であったといわれております。そのためここでは、世界史的な潮流の中で、日本が近代に入って、朝鮮半島に軍隊を派遣した最初の日清戦争をとらえて、日本人としての私の「歴史認識」を展開してみたいと思います。

 

 明治維新から日清戦争へ

 

 日本が、近代の中央集権国家として憲法と軍隊を持つ政治体制を構築し、教育制度を整え、「富国強兵」によって国力を推進するきっかけとなったのは、1853年、アメリカのペリー提督率いる4隻の黒船の来航でした。江戸湾に浮かぶ黒船をみて「太平の眠りをさます蒸気船(上喜撰)たった四杯で夜も眠れず」という狂歌が、江戸っ子の間で流行したほどです。黒船来航は京都御所も江戸幕府も日本中の武士も農民も町人も職人たちも、みんな危機意識を持った大事件でした。

 

 徳川幕政による260年間の鎖国の夢が破られ、欧米先進国の黒船から、大砲をぶち込まれると、日本人は上下をあげて、江戸幕府も地方各藩も日本国を護ろうとしたのでした。最初は外国人排斥の攘夷運動から始まり、それがとても叶わぬ敵であることを悟ると、積極的に欧米先進国の文化を学ぼうと、文明開化へと時代の波は大きく移動します。

 徳川幕府の討幕運動から、明治維新革命(1868年)の担い手となった薩長土肥の、外様藩連合軍は、公卿と結束して、京都御所にいた13歳の明治天皇を玉座に乗せて担ぎ出し、王制復古を果たします。新政府の体制を構築するために、徳川幕府から派遣されて帰国した欧米留学帰りの幕臣、西周、榎本武揚などの協力も得て、とりあえず、近代的装備を持つ新政府の陸軍と海軍の軍隊を創設しました。

 明治新政府は、岩倉具視を団長とする欧米使節団が帰国すると、欧米列強諸国の産業・工業社会を真似て、軍艦製造や兵士や兵器、食糧、生産物を運搬移動させる鉄道を、日本全国に配設しました。

 

 明治維新革命後の日本の軍隊が、装備を整え隣国に出兵した最初の戦争が、日清戦争でした。朝鮮半島への出兵を最初に計画したのは、新政府の陸軍大将西郷隆盛です。西郷隆盛は、徳川幕府の本拠、江戸城の開城に際して、勝海舟と会談し、無血開城をやりとげた維新三傑とうたわれた、太っ腹な、愛国的ナショナリストでした。西郷が薩摩藩士時代からの盟友・開国派の大久保利通と、意見を異にした「征韓論」は、明治新政府の人材登用に不満を持つ、扶持を離れた武士たちの関心とエネルギーを、朝鮮半島の討伐交流に向けさせる意図を持っていました。武士の失業者救済対策として、関心と働き口を朝鮮の開発へ向けさせたのです。

 

 明治6年頃の朝鮮半島は、儒教を信奉する李王朝の保守派の大院君が政権を握っていて、通商を迫る日本の明治政府に対し、「夷狄の真似ばかりして、禽獣にも等しい国とはつきあわない」と、明治政府の使節を何度も追い返していました。激怒した参議・板垣退助は、かつて日本への開国を強引に迫ったペリー提督のやり方を真似て、日本の軍艦を朝鮮沖に回航させ、大砲を放って威嚇する提案をしました。西郷はそうした強引なやり方は、いたずらに朝鮮国を刺激するだけだと板垣を押し止め、みずから平和使節となって、大院君を説得にいくことを決議し、もしそれが巧くいかない時には、軍艦を出動させる手筈を整えていました。

 

 そこへ2年近くも日本を留守にして、欧米先進国を視察してきた岩倉具視一行が帰国してきました。西郷の征韓論の提案を聞いた大久保利通は、「今はなによりも国内の近代化を整える時」と、西郷を押し止めます。欧米列強の近代国家体制を、つぶさに調査してきた「国際派」大久保利通の考えと、国内にとどまり留守居役に徹して、不満武士たちを統率してきた「国内派」西郷隆盛との見解の相違が、二人の長年の友情を引き裂きました。

「征韓論」をひっこめた西郷隆盛は、官職を辞し野に下り、明治7年の佐賀の乱、9年の熊本神風連の乱—萩の乱—秋月の乱と、新政府に反旗を翻した武士たちと行動をともにします。西郷隆盛の最後は、官軍に反抗する薩摩隼人たちに囲まれて、「西南の役」を起こし、熊本城から繰り出した谷干城指揮する官軍の、激しい攻勢の前で自刃して果てます。しかしその翌年、国際派の大久保利通も、宮中に参内する途中の紀尾井坂で、攘夷派六人組の浪士に襲われ惨殺されます。

 

 明治新政府きっての歴史の担い手、薩摩藩出身の西郷隆盛と大久保利通が非業の最期を遂げると、新政府の指導役は、長州藩の下級武士出身、伊藤博文と山県有朋の二人の双肩にかかってきます。彼らはそのあと交替で、明治天皇を輔弼(ほひつ)する、内閣政府を組織するのです。

 語学の才に恵まれ、岩倉具視欧米視察団の通辞の役目を立派に果たした伊藤博文と、幕府時代にオランダに留学した西周を新政府に起用して、日本陸軍を創設した山県有朋。山県は最後の将軍・徳川慶喜が採用したフランス・ナポレオン式の陸軍組織から、普仏戦争に勝利したプロシア・ドイツ軍のやり方に切り替え、朝鮮との通商交渉を平和外交でやろうと主張する明治天皇や伊藤博文を説得して、「富国強兵」をモットーに自ら日本陸軍の総司令官となって朝鮮半島に出動します。朝鮮国は支那の清王朝の属国として、むかしから朝貢の儀礼をとっていたので、そこへ日本軍が進軍してくると、朝鮮の宗主国である清国も軍隊を繰り出してきて、戦争になります。

 

 清国は十九世紀後半、アジアに植民地を求めて上海にやってきたイギリスとの阿片戦争に敗退し、南京で不平等条約を結んでいました。イギリスの要請に応じて、上海、香港、アモイなどを開港して、欧米人の居住と通商を許し、首都北京にも欧米人の治外法権を認める居住区をもうけました。そこは「犬と支那人は入るべからず」の看板が掲げられ、欧米人にとっての特権的植民地域でした。欧米人の居留地区には、清国政府の法的権限は一切認められず、我が物顔に欧米人が跋扈(ばっこ)していました。

 

 若き日の伊藤博文は、イギリスに留学する途中、上海で欧米諸国の植民地化されている阿片戦争の結果に驚き、日本に引き返して攘夷運動に奔走したほどでした。清国内でも、欧米人排斥の洋務運動(攘夷運動)が起こりました。しかし、日本の明治維新革命のように、上下をあげて国民が危機意識をもって結集し、旧体制から近代的中央集権の国家体制へ変革することもできず、欧米諸国の植民地化戦争に抵抗することができなかったのです。旧体制の清王朝が、女帝西太后と官僚の腐敗によって、弱体化していたのも大きな原因でした。これは朝鮮の李王朝にも指摘できることで、通商と植民地化の野望を持つ、ロシアの外国勢力を防衛することができなかったのです。

 なぜ日本だけが、アジア地域で、欧米列強諸国の植民地化に対抗して、国家独立を果たし得たかの成功の鍵は、徳川幕府の鎖国の旧体制から、開国の明治維新革命へと、世界史の時代潮流の中で、天皇を中心に上下をあげて団結し、外国勢力に対抗するために、近代化の国家体制を整えて驀進した大和魂(日本精神)にあります。

 

 日本軍隊の朝鮮半島への出兵の動機は、ロシアの東アジアへ不凍港を求める、南下政策の野望を砕かねばならぬ危機感でありました。ロシアが朝鮮を植民地化すると、その触手は必ず日本までやってくると見ていたからです。だがそれは日本国の立場で、清国側から見れば、極東の新興国日本が、小癪にも清国の中華圏内を侵略して、国益と国権を妨害する小鬼子に見えたでしょう。朝鮮半島をめぐっての、清国とロシアと日本の統治覇権の争奪戦が、日清戦争の真因です。日本は朝鮮へ出兵する前にすでに、琉球王朝を沖縄県として日本領に取り入れ、次に台湾へ出兵して討伐し、植民地統治を始めていました。

 

 日本は、「欧米諸国に追いつき追い越せ」と「脱亜入欧」のモットーを掲げて、農耕依存の封建社会から、「富国強兵」の近代化体制を作り上げる為に驀進しました。工業・産業社会への脱皮が、資本主義経済の時代の要請でした。日本国内に産出しない、鉄鋼、石炭、石油など 重工業産業に必要なエネルギー源を獲得する必要に迫られ、それを朝鮮半島に求めたのです。帝国主義で欧米列強が植民地の領土を拡大したように、日本も台湾や朝鮮半島など、近隣諸島に軍隊を出動させ、領土を獲得する事によって、近代的工業・産業社会を創りあげていきました。

 

 1884年、清国は清仏戦争でフランスに破れ、清国の朝貢国であったベトナムを、フランスに奪われます。1894年、朝鮮半島に起こった甲午農民戦争をきっかけに、清国と日本の軍隊が鎮圧に出動して、日清戦争の口火が切られました。この農民戦争は「東学の乱」とも呼ばれ、西学(西洋のキリスト教)に対抗する東学(儒教など朝鮮宗教)の信者による、宗教戦争の側面をもっていました。日本軍はドイツ仕込みの兵器と戦法で勇敢に戦い、破竹の勢いで清国軍を破り、南満州まで進軍していったのです。中国本土への行軍に反対していた明治天皇は、満州(中国東北部)まで勢いに任せて進軍する山県有朋にストップをかけ、帰国命令を出したほどでした。

 

 日本軍は日清戦争で勝利したことによって、下関条約を結び、清国から遼東半島、台湾、膨湖列島を獲得しました。日本の勝利は、かねてより不凍港を求めて東アジアへの南下政策を実行していたロシアにとっては、面白くないことでした。日本の勝利に異議を唱え、ドイツ・フランス・ロシアが三国同盟を結んで、下関条約に干渉してきました。その結果、日本がせっかく獲得した遼東半島の権利を放棄せざるをえなくなりました。

 ロシアによる強引なこの干渉は、あらためて日本政府と国民に、日本本土にまで領土獲得の野望を持っているに違いない、ロシアの東アジアへの南下政策の脅威を認識させます。日本のロシアに対する危機意識が、日清露戦争からさらに日露戦争へと、国家の興亡をかけての大戦争に、日本国民を駆り立ててゆく動機となります。日本は日清戦争の勝利により、徳川幕府が幕末期に欧米諸国と結んだ不平等通商条約を、ようやく破棄することができました。

 

 日清戦争の外交交渉をしたのが、伊藤博文内閣の外務大臣・陸奥宗光でした。彼は西南の役の時、政府転覆のクーデターを企てたとして投獄されますが、解放されると欧米に留学しました。世界の動向を観察して帰国後、伊藤博文の要請で、第二次伊藤内閣に外務大臣として入閣します。陸奥宗光は日清戦争を始めた時、朝鮮半島の統治に付いて、4か条の選択メモを書き、閣議にかけます。

 

(1) 戦勝後も朝鮮に一切干渉せず、朝鮮の問題は朝鮮にゆだねること。

(2) 日本の保護国とすること。

(3) 日清両国が共同で朝鮮の独立を保障すること。

(4) 朝鮮をスイスやベルギーのように、列強が保障する中立国とすること。

 

 この陸奥宗光の提案は、李王朝の勢力が攘夷派と保守派とにわかれて争い、国家としての自治能力に欠けていたので、(1)案は実行不可能でした。(3)案は戦争をした相手国との共同管理では、相互の国益が異なり、早晩再び覇権争いの原因になる事は、明らかです(4)案は、陸奥宗光の世界の動向を読みとる、優れた外交官としての先見をもってしても、欧米列強が朝鮮の中立を保障することなど、単なる理想案にすぎません。結局、日清戦争に勝利した日本は(2)案の、朝鮮を保護国にして、日本の統治下に引き入れました。

 しかし明治天皇も、伊藤博文も、大韓帝国(日清戦争後、朝鮮国は大韓帝国となる)統治を欧米諸国のアジア政策のように、自国の利益のみを追求した不平等の、特権的植民地政策を実行しようとしたのではありません。李王朝の皇太子李垠殿下の処遇についても、伊藤博文は明治天皇を直接の親権者として、親族の息子として日本に留学させ、成人なさると、梨本宮の王女で、昭和天皇のお妃候補としても有力視されていた正子妃と結婚させました。

 

 正子妃は結婚2年目に、王妃として儀式に出席のため、李垠殿下と朝鮮に帰国されるのですが、その際生後八箇月の長男・晋殿下が宮廷で急逝します。朝鮮人ナショナリストによって、毒殺されたとの説もあります。こうした悲劇に見舞われながらも 李正子妃は第二次大戦後、大韓民国が念願の独立を果たすと、朴大統領の要請によって、李垠王とともに韓国に帰国され、李垠王亡き後もソウルに戦災孤児と精薄児のための福祉学校を開き、日韓の架け橋となって、波瀾万丈の生涯を誠実に貫かれたのです。

 

 1906年、伊藤博文は日露戦争で朝鮮半島からロシア勢力を追い出し、みずから初代韓国統監(韓国統監府は日韓併合後、朝鮮総督府と改組)となり朝鮮統治にあたったのは、東アジアにおける日朝関係の政情の安定を、最重要視していたからです。伊藤博文は韓国統監退官後も、ロシアと朝鮮統治を含むアジア全域の通商条約の協議のために、ロシアに行く途中、朝鮮独立の愛国の志士、安重根によって、1909年10月ハルビン駅頭で、ピストルで射殺されました。

 歴史に、「もし」という仮定は許されませんが、伊藤博文が安重根のテロで死亡しなければ、日朝関係はもっと相互に友好的な、通商文化の交流関係が築かれていたに違いありません。伊藤公亡き後、翌年には日韓併合をし、朝鮮統治は、陸軍総帥の山県有朋の管轄下に置かれ、軍国主義が進み、憲兵統治が強化されていきます。韓国にとって安重根は、救国のナショナリストと英雄視されていますが、彼の愛国的ナショナリストとしての独断的テロ行動は、結果において、その後の朝鮮半島の運命を、左右したのではないでしょうか?

 

 20世紀末の米ソの冷戦終了後も、韓国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が未だに分割状態で、21世紀になっても合流できない状態は、東アジアの平和と安全を脅かしております。韓国は民主主義国家としてめざましい経済発展を成し遂げ、日韓関係も相互理解が進んで近年とみに好転してきましたが、北朝鮮はいまだに金正日の「主体思想」のもとに軍国化され、核開発が続行され、国際的にも経済的にも孤立化を深めています。日本は中国やロシアの国際協力を得て、北朝鮮による日本人拉致と核開発問題を解決し、現在のバルカン半島やアフガニスタンやイラクで続発しているテロを鎮め、地球の安全と秩序を回復する方向に、日本の外交政策を進めるべきだと思います。

 

 日露戦争 -「皇国の興廃この一戦にあり」-

 

 日本帝国が農業国から、近代資本主義の産業国家へと脱皮する活路を、周辺隣国への領土獲得に求めたと同様に、欧米諸国より近代化が遅れていたロシア帝国のロマノフ王朝も、国民の関心をアジアへの南下政策にひきつけて、国内産業の改革を進めていました。

 当時のロシア帝国は、極東の島国の日本の国力と比べると、国土は50倍、人口は3倍、陸軍兵士は5倍、海軍は世界で2位を占める軍艦を保有していました。アジアへの南下政策を推進するロシアと、朝鮮半島や満州(中国東北部)への領土拡大を求めた日本が、国家の興亡をかけて、遅かれ早かれロシアとは対決しなければならない、歴史的必然性がありました。

 

 日清戦争の時は、清国の軍隊が未だ近代化されておらず、指揮官にも統率力がなかったためか、兵士たちが日本軍には敵わぬとみると、さっさと退却してしまうのです。それを追いかけて、中国大陸東北部(満州)にまでドンドン進軍して行く日本軍の、陸軍総司令官山県有朋を、明治天皇は戦域の拡大を恐れ、統帥権を発動して、勅令を発して全軍の帰国を命令したほどでした。(大陸内部に引き込むことが、あるいは清国の戦略であったのかもしれません)。

 しかし、大国ロシアとの戦争は、日清戦争のような敵ではないことを、明治天皇も政府も国民も、十分に認識していました。戦略を一歩でも誤れば、小国日本はたちまちにして、大国ロシアに征服されてしまう危機感を、十二分に認識していました。ロシアは幕末期にアメリカのペリー提督よりも早く、日本海域を周航して北方四島ばかりか、北海道にまで侵略の野望を抱いている事を、幕末の松前藩からの報告書でわかっていたのです。

 

 1904年2月4日。ロシア艦隊が旅順港を出発したという特電がもたらされると、伊藤博文と山県有朋は、ただちに井上馨、松方正義、大山巌などの明治政府の元勲たちを、明治天皇の御前会議に招集しました。テーブルをはさんで対峙しているのは、内閣総理大臣・桂太郎、外務卿・小村寿太郎、大蔵卿・曽彌荒助、陸軍卿・寺内正毅、海軍卿・山本権兵衛たち閣僚。

 彼らは、圧倒的な国力を誇るロシアとの戦争で勝機をつかむためには、敵が戦端を開く前に、我が方から先制攻撃をするほか戦略がないことを、明治天皇に進言しました。明治天皇はしばしの沈黙の後に、「ロシアへの宣戦布告は、国際法の範囲を厳守せよ」との勅令を発して、奇襲攻撃を裁可されました。日露戦争でのロシアへの正式な宣戦布告は、2月10日です。戦端を開いてから、6日後でした。

 

 第二次大戦の太平洋戦争の「真珠湾の奇襲攻撃」では、正式の宣戦布告をワシントンで野村大使がハル長官に手交したのは、1時間半~2時間後です。日本は日露戦争も日米戦争も、圧倒的な国力を持つ先進国家と戦争する際に、最初から国内の源平合戦で源義経がとったように、あるいは織田信長が桶狭間の戦いでとった戦法のように、敵の不意をつく奇襲戦法で襲撃しました。その戦略でなければ、勝利をうることができぬからです。しかし、20世紀の国際戦争においては、宣戦を布告して後に、堂々と勝負する騎士道に則っとった国際法を遵守しなければならぬことを、明治天皇は、伊藤博文からの進言で承知していました。そのため「無警告の奇襲戦法は国際法の許容内にせよ」と、注意を促したほどです。

 

 日露戦争での旅順奇襲攻撃と、太平洋戦争での「真珠湾の奇襲攻撃」とを比べると、日露戦争の宣戦布告は6日間遅れ、日米戦争では1時間半~2時間遅れです。これをルーズベルト大統領は、「日本の攻撃は国際法を無視した卑怯卑劣なやり方だ」と、「Remember Peal Harbor」を掲げて、第一次世界大戦に懲りて、ヨーロッパ戦争には加担しないと、孤立主義に立てこもっていた、合衆国アメリカ国民の正義感と愛国精神を刺激して、第二次世界大戦へと駆り立てました。

 しかし、1990年以降にアメリカで公開された第二次大戦の極秘資料によれば、大統領ルーズベルトのもとには、真珠湾攻撃に出発した日本海軍の動向はすべて情報が報告されていました。それをハワイの太平洋艦隊の司令長官に知らせず、日本海軍航空隊の奇襲攻撃をいざなったとは! 食うか食われるか、国際戦争の戦略のすさまじさ。航空母艦から飛行機を飛ばし、奇襲攻撃を見事成功させ大勝利をあげた山本五十六司令長官は、ルーズベルトのアメリカ国民の戦意を奮い立たせる戦略は見抜けなかったのでしょうか? 

 山本五十六は日米戦争には、勝ち目はないと最初から反対でした。しかし、ひとたび天皇からの宣下を受けると、「1年や半年は暴れてみせる」と言ったそうですが、その間に戦争を終結してくれることを祈っていたのでしょう。ミッドウェー海戦に敗退してより、戦局は急速に傾き、山本長官は南方視察の途中、敵機に撃ち落されて死亡しました。日本軍は長期戦に耐えうる豊富なエネルギーと生産力を持つアメリカの近代科学力で、巻き返しを見事に成功させたヤンキー・スピリットに、日本本土もB29航空機連隊の空襲爆撃で焦土と化し、多くの都市と市民たちは爆死して完敗したのです。

 

 しかし、日露戦争での宣戦布告の6日間の遅延が、国際法違反として問題にもされず、「真珠湾の奇襲攻撃」の1時間30分の遅れが、第二次大戦後の「極東国際軍事裁判(東京裁判)」で、国際法違反として激しく糾弾されたことを考えると、所詮、戦争の正義は勝利国の上に翻るということなのでしょう。

 明治天皇を輔弼した伊藤博文は、日露戦争の戦端を開く前に、いかにして日露戦争を早期に、有利に終結させることができるかと、大国ロシアとの自衛戦争を始める前から、知力を絞っていました。日本はロシア帝国のアジアへの膨脹を危険視しているイギリスと日英同盟を結び、日銀総裁・高橋是清をロンドンの金融界に派遣して、戦費の調達をさせました。当時、ロンドンのシティーの金融界では、極東の小国日本が大国ロシアに勝てるはずがないと判断し、だれも日本の国債購入に応ずる銀行はありませんでした。

 高橋是清を応援して日本の国債を買い、日露戦争の必要戦費の肩代わりをしてくれたのは、アメリカのユダヤ系ジェイコブ・シフと、イギリスのユダヤ系銀行家ロスチャイルドでした。彼らはユダヤ人がロシアで、異人種として排撃され、ポグロム(虐殺)されていることを知っていたので、ロシアとの戦争を決心した日本を応援しようと決心したのです。日本は日露戦争の3分の2の戦費を、ユダヤ系銀行からの借款で調達しました。明治天皇は日露戦争の勝利後にシフを宮中に招待し、日露戦争への戦費調達の協力を心から感謝しています。

 

 1905年3月10日(明治38年)、陸軍大将大山巌が指揮する奉天会戦で大勝利をおさめると、伊藤博文はただちにアメリカのルーズベルト大統領を介して、ロシアとの講和を打診しました。伊藤博文は戦争を始める前に、金子堅太郎をアメリカに派遣して、セオドア・ルーズベルト大統領に、なぜ日本がロシアと戦争を始めねばならぬか、日本の立場を説明し、好機を捕らえて早期に講和条約を結びたいとの意向を伝えていました。金子堅太郎は岩倉具視欧米視察団の一行とともに渡米し、ハーバート大学に留学して、T・ルーズベルトとは、ハーバート大学での同窓生でした。しかし奉天会戦の勝利では、敵将クロパトキンがロシアの敗北を認めず、停戦条約には応じてきませんでした。

 

 ロシアが日露戦争の完敗を認めたのは、日本海軍がヨーロッパから回遊してきたロシア・バルチック艦隊を、日本海海戦で壊滅させた時でした。5月27日と28日の2日間、日本海軍がバルチック艦隊を待ち受けた日本海の対馬海峡では、「天気晴朗なれども、波高し」。「敵艦隊発見せり」のZ旗があがると、海軍司令長官東郷平八郎は望遠鏡を手に艦橋にすっくと立って「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」の有名な手旗信号を旗艦三笠から送って、海兵隊員一人一人の大和魂を奮起させました。東郷指令長官は敵の砲弾の飛び交う中、最初から戦闘が終わる最後まで、艦橋から刻々変わる戦況に応じて、指令を発しながら、一歩も動かなかったと報告されております。

 日本海海戦での大勝利が、大国ロシアが戦争の敗北を認め、講和条約に応じさせる要因となりました。伊藤博文は外務卿・小村寿太郎を派遣して、アメリカのポーツマス市で、ロシア公使ウイッテとの講和交渉を展開させました。その結果、日本はロシアと争っていた朝鮮半島の統治権を完全に手に入れ、遼東半島の祖借地と南満州鉄道の所有権利、日本海、オホーツク海、ベーリング海のロシア領沿岸における漁業権と南樺太を獲得したのでした。

 日露戦争の開戦にあたって、「日本が敗北したら滅亡」と、一番憂慮されていたのは、明治天皇でした。開戦を裁可決断された御前会議でも、「四海(よも)の海、みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と、痛切な心情を和歌に託して吐露されました。日本海海戦の大勝利の知らせが大本営に(もたら)された時、明治天皇は勅語を発令して、「朕ハ汝等ノ忠烈ニヨリ祖宗ノ神霊ニ対スル得ルヲ釋ブ」と、喜びの涙を流されたそうです。明治天皇は日露戦争中は、戦地の兵士と同様に、つねに軍服をお召になって昼夜を問わず、戦地からの報告に一喜一憂されていました。大勝利を齎してくれた、陸軍大将大山巌と海軍大将東郷平八郎に対する信頼と感謝は、絶大なものとなりました。第二次世界大戦の敗戦まで、奉天の勝利を記念する3月10日は、陸軍記念日。日本海海戦の大勝利、5月28日は海軍記念日となって、皇国の興廃を見事に支えた、大日本帝国の陸軍と海軍の護国の神となった将兵への感謝を称えました。

 

 明治近代国家の憲法・議会・軍隊・教育制度

 

 明治時代とは1868年から1912年までの45年間で、その発展の近代化の過程を三期にわけますと、第一期は260年間鎖国によって国家の安泰を保っていた徳川幕府の封建武家社会が、開国する事によって、欧米諸国からの植民地化の危機に直面したので、京都の天皇を中心に薩長土肥の外様大名藩が結束して公武合体をやり遂げ、元気な若い下級武士たちによる下克上の維新革命をやり遂げてから1877年の「西南の役」までです。

 

 第二期は、1878年から1881年までです。1874年板垣退助による、民選議員設立の建白書に端を発した自由民権運動は、不平武士たちによる反政府運動の性格が強いものでした。しかし欧米の社会思想を学び帰朝した福沢諭吉などの知識人たちから、民主思想や議会政治を知った人たちが、新政府の官僚となる門戸を薩長閥にとらわれず、旧幕臣や農民や商人にまで開放する事を要求したので、1881年には自由党、改進党などの立憲政治による政党を誕生させました。

 第三期は、1882年から1912年まで、日清・日露の両戦争をはさんだ時期といえるでしょう。

 維新三傑といわれた長州出身の木戸孝允が明治10年(1877年)に病死し、西南の役(1877年)で西郷隆盛が自刃して果て、大久保利道が新政府に反抗した浪人達に暗殺されると、明治近代国家の担い手は、維新後に欧米諸国を視察した岩倉具視、伊藤博文、山県有朋の時代となります。

 

 近代国家の基盤は憲法によって、法治制度を整備しなければならぬ事を痛感した伊藤博文は、明治15年(1882)に欧米諸国の憲法研究の為に渡欧しました。ベルリンではドイツの憲法学者ルドルフ・フォン・グナイスト博士の講義を聴き、ウイーンではローレンツォオ・フォン・シュタイン博士に師事し、1年半もかけて各国の憲法研究の研鑚を積んだのです。

 イギリスの自然法による立憲君主制、フランス革命以後のナポレオン帝政憲法、アメリカの大統領制による共和憲法など、先進欧米諸国の憲法を比較検討したあげく、王政復古の大義を掲げて、天皇を中心に明治近代国家を創設した日本にとっては、封建諸王が割拠していたプロイセンが、宰相ビスマルクの政策下、ウイルヘルム一世を中心に近代国家の体制を整えたプロイセン憲法が一番手本となると、判断したのです。

 ようやく日本憲法作製の腹案を持って伊藤博文が帰朝した時には、彼の帰国を待ちわびていた岩倉具視は、一カ月前に逝去したばかりでした。岩倉の臨終に間に合わなかった事を悔やみながら、伊藤博文が大磯の滄浪閣にこもって明治憲法の作製にとりかかりました。伊藤によって完成された大日本帝国憲法は、日本国家のアイデンティティとして、万世一系の天皇は神聖な存在であることを、第三条に銘記してあります。

 

第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス

第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ 天皇男子孫コレヲ継承ス

第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ

 

 1889年(明治22年)2月11日の紀元節、伊藤博文は帝国議会を発足させ、初代内閣の総理大臣となって「大日本帝国憲法」を明治天皇の議会臨席のもとに、勅令を発して公布しました。憲法が発布され帝国議会が発足すると、国会議員は投票資格のある有権者によって選挙されました。投票権のある有権者は、25歳以上の成人男子に限られ、それも15円の高額納税者のみに資格が与えられたのです。選挙権を持つ有権者は、資産を持つ特権階級に限られており、国民全体の6%に過ぎなかったのです。

 この比率は徳川封建制武家社会における武士階級の比率と同じでした。明治時代には戸籍にも、士族と平民が区別されて記載されており、士族の身分的階級意識は維新後も、武士に変わって今度は、資産を持つものが社会の指導者となり、選挙権をもつという形で残りました。明治時代の特権階級は、明治維新の推進を果たした薩摩・長州出身の天皇をささえる政府与党の高級官僚と、高額納税者の大地主、近代産業の担い手である新興ブルジョアたちでした。

 

 帝国議会はイギリス制度を参考に、貴族院と衆議院の二院制が採用され、貴族院には新華族制度による貴族の資格を持つものによって構成されました。新華族は岩倉、近衛、鷹司など京都御所にいた旧堂上貴族と、徳川幕政下の旧大名家と、維新の功労者である元勲たちでした。華族階級は公侯伯子男の五段階があり、その中の伯爵、子爵、男爵の身分を持つものが 貴族議員を互選し、公爵と侯爵は世襲制の貴族議員です。その他に、天皇が直接任命できる勅撰議員があり、高名な学者と地方の多額納税者が各県から一名選出されて、衆議院のチェック機関となりました。

 

 教育勅語と軍人勅諭と日の丸の旗

 

 帝国議会が発足した翌年には、伊藤博文に代わって、内閣総理大臣になった山県有朋によって、教育勅語と軍人勅諭が発布されました。

 日本の学校制度による教育は、武士も農民も町人も、身分や貧富に関わりなく、平等に義務教育を受けられる事を前提として、明治5年(1872年)に発足しました。教育勅語の発布は明治23年(1890年)で、時の総理大臣山県有朋が自由民権運動や、朝鮮半島の政情不安に危機意識を持ち、天皇の侍講の儒学者、元田永孚(もとだながざね)に起草させ、仁義忠孝、君臣父子の大義を、西洋のキリスト教に匹敵する大和魂の徳育として、提示したのです。

「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」ことを教えました。

 だが、この学校教育の修身の時間に教えられた教育勅語は、日本人の天皇「現人神」を中心に大和魂を育てた軍国主義の元凶として、第二次世界大戦後のアメリカの占領政策による教育改革によって、完全に廃棄されました。

 

 日中戦争と太平洋戦争-アジアにおける第二次世界大戦

 

 私が日本人として産まれた時に、満州事変(1931年)が突発し、小学校に入った時に日中戦争が開始されました。尋常小学校の授業を始める前の校庭の朝礼では、日の丸の国旗掲揚と、校長による教育勅語の朗読と、天皇皇后の御真影を祭った奉安殿に向かっての遥拝は、欠かすことのできぬ厳粛な行事でした。

 国史の教科書には、日本国家の起源として、イザナギ・イザナミの男女の二神が天の沼矛(ぬぼこ)を持って泥海をかき回し、日本列島を創り給うた神話が記されていました。天照大神は天孫ニニギノミコトを降臨させ、日本の国造りを始めさせたのです。日本の天皇は皇孫の直系で、天から統治の使命を与えられた天子であり、万世一系の皇統は世界歴史にも比類無く、人間の姿をした現人神であると教えられたのです。

 小学生にとって、124代にさかのぼる歴代の天皇名は、暗記して諳んじることができなければならぬ、中学受験勉強のための必須の歴史科目でした。皇祖皇宗名と皇統を証明する三種の神器(草薙の剣、神鏡、勾玉)にまつわる神話は、日中戦争が泥沼化して、国家総動員令が発令されると、一層国家の守り神としての様相を帯びて、国難来る時には、必ず神風が吹くと教えられたものです。

 

 小学校は国民学校と改名され、中学生には、工場への勤労動員令が発令されました。「紀元は二千六百年」の歌声とともに、近衛首相の提唱した大政翼賛会が発足し、戦争に向かっての国民精神を高揚させる為に、伊勢神宮、橿原神宮、明治神宮など、2月11日の紀元節を祝う国家的祝賀行事が相次いで催されました。その年、1940年2月11日の朝鮮総督府では、すべての朝鮮人に6ヶ月以内に、朝鮮名を日本名に変えるよう強制しています。それは朝鮮人も台湾人も内地の日本人と同様に、日本国民の義務として、成年男子には徴兵令を、女性や少年少女たちには 勤労工場に動員させるためにとった、創氏改名の採用でした。

 神武天皇の建国遺蹟については、東京帝国大学の教授平泉澄を理事長とする文部省の専門委員会が、日本全国における7県19個所における皇室ゆかりの遺蹟を認定しています。大日本国防婦人会では、明治神宮をはじめ橿原神宮や歴代天皇ゆかりの御陵の参道の清掃や拡充のために、率先して勤労奉仕に会員たちを動員しています。

 紀元二千六百年の初詣を祝うために、橿原神宮を訪れた人は例年の20倍を上回る125万人でした。参拝記念に押された郵便スタンプには、神武天皇の東征を導いたといわれる黄金の光を放つ八咫烏(やたがらす)が押されていて、それはまた金鵄勲章と同じデザインでした。

 

 1939年9月1日、ヒトラー総統が率いるナチス・ドイツ軍は、ソ連と不可侵条約を結んだ後、無警告で隣国のポーランドに侵入して、欧州大陸での第二次世界大戦の火蓋がきられました。第一次世界大戦の時、ドイツ人はユダヤ人から受けた屈辱を果たすために、第二次世界大戦の火蓋を切ったのです。ナチス軍は最新鋭の装備を誇るロケット、タンク、高性能機銃掃射の兵器を駆使して、たちまち、オランダ・ベルギー・フランスを制圧、パリにも無血入城して、第一次大戦の勇者ペタン元帥を降参させ、ビッシー政権をドイツの占領管轄下に置きました。

 おりしも近衛内閣の外相松岡洋右は ヒトラーの破竹の勢いに魅惑され、第二次世界大戦の未来を、ドイツの勝利と判断。日独伊三国同盟を結び、満州からの日本軍の撤退を求める国連のリットン調査団勧告に抗議し、国際連合を靴音も荒く脱退して、孤立化の道を歩み始めました。

 

 1941年12月8日正午、ラジオから勇ましくも鳴り響く軍艦マーチと共に、アナウンサーの上ずった声が、「本朝未明、我が国は英米と交戦状態に入れり」と、昭和天皇の詔勅を読み上げた時には、子供心にも私は、英米仏蘭中の5カ国を相手に戦うとは、世界を相手にたたかうことだと、大変なことが起こってしまったのだと、緊張で身震いしたものです。

 さらにそこへ真珠湾へ集合していたアメリカの太平洋艦隊を、奇襲攻撃でほとんどを沈没させたという、ニュースも飛び込んできました。大日本帝国海軍の山本五十六司令長官によるハワイ真珠湾奇襲攻撃の赫々たる戦果は、何度も繰り返して、ラジオから放送されました。「戦艦二隻轟沈。戦艦四隻大破。大型巡洋艦四隻大破。他に敵飛行機多数を撃墜破せり。我が方の損害は軽微なり」。

 我が皇軍の連戦連勝のニュースは、山下奉文大将が、シンガポールのイギリス軍を降参させ、フィリピンから敵の司令長官マッカーサーをオーストラリアへと退却させるまで続いていました。「出てこい。ミニッツ。マッカーサー」とアメリカ海軍提督やマッカーサー将軍を揶揄して、子供たちまで歌ったものでした。それがミッドウェー海戦の頃から、どうも戦況は逆転していったようです。新聞のニュースでは、相変わらず日本軍の大勝利を伝えて、「我が方の損害は軽微なり」と国民には真実の報道はされませんでした。

 1942年8月7日、米軍がガダルカナル島に上陸。日本軍は半年間の激戦に良く耐え、ガダルカナルから撤退すると、1943年5月29日、アッツ島の守備軍全員も玉砕に追い込まれました。その年の12月には氷雨が降るなかを、明治神宮において、第一回学徒動員による壮行会が敢行されました。

 1944年に入ると、日本軍の敗色は一段と濃くなり、東京では歌舞伎座や帝劇が閉鎖され、都市に住む児童たちは、親元を離れ教師に伴われて、田舎への学童疎開が開始されたのです。7月7日サイパン島の日本守備軍が玉砕全滅したニュースが流れると、太平洋の制空権の砦を失った日本本土には、B29が頻繁に現れ、日本のめぼしい都市に焼夷弾を雨のように降らせて、焼き尽くしました。3月10日の最初の東京大空襲については、作家の芹沢光治良は「人間の運命」の中に、以下に記すように書き遺しております。

 

「その夜B29は、東京下町の東京密集地区を2時間半むちゃくちゃに爆撃した。次郎たちの地区は運良く爆撃を免れたが、9軒36人の隣組は東京が戦場だという恐怖を、身に沁みて体験した。夜が明けても、下町の焼けた煙で、空はどんよりした息の詰まる空気が漂っていた。まもなく侵入した敵機はB29、130機、焼失戸数20万、避難民100万、死者10万、浅草、深川、本所が全滅ということが発表になった。次郎は関東大震災の直後、東京の築地で見た光景を思い出して、一夜で爆弾によって焦土と化した下町の悲惨な様相が目に見えたが、それだけに、小磯首相がラジオ放送で、宮城内の主席寮が焼けた事ばかり恐縮して、不幸な罹災者を慰問も激励もしないことに、反戦と憤りがむらむら湧いた。軍がどんな発表をしようとも、戦局は最悪の段階に来ていて、負け戦であり、敵が本土に上陸する第一歩として、東京や大阪や名古屋に猛爆をはじめて大都会を戦場にした後、日本のどこかの海岸に、敵の大部隊が上陸するに決まっている。その時のために竹槍の用意までして訓練までしたが 愚かなことだったのだ。非戦闘員は危険のないところに逃れるに限ると、浮き足立った」。(「人間の運命」7巻 夜明け P105 新潮文庫)

 

 1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸。5月19日未明の東京大空襲では、明治神宮も大宮御所も青山御殿もみな焼け落ちて 東京は見渡す限りの焦土と化しました。8月6日午前8時15分、ただ一つ無傷のまま空襲もされないで残っていた軍都広島に、世界ではじめて核兵器の原子爆弾が投下されたのです。その時、学校や職場に急いでいた無辜の20万の市民たちは、瞬時に眩しい光線と轟音のるつぼの中に放り出され 目が飛び出し、殺人光線で肉体から皮膚がずるりとむけて、悶え苦しみました。生き地獄とはまさにこの状態を言うのでしょう。

 8月8日には、日ソ不可侵条約を結んでいたソ連から、参戦の知らせが届きました。満蒙の国境線を越えて怒涛のように押し寄せてきたソ連軍戦車部隊の前に、満州の留守家族の日本人村は、年寄りも女性も子供も掠奪され、凌辱されました。8月9日には、日本で唯一のカトリックの街として名高い長崎の教会の尖塔に、広島とは異種類の、ウラニュウム原子爆弾が落とされたのです。日本人は戦争の末期に、新型原子爆弾の実験用の生け贄となったのです。その阿鼻叫喚の世界には、西の神も東の仏もいませんでした。

 

 1954年、ニューヨーク、コロンビア大学院のT.S.コマジャー教授のセミナーでの出来事です。ある日教授は気軽く、君達はアメリカ史を振り返ってみて、<どの大統領が一番優れていると思うか>と、お尋ねになりました。

 院生たちはそれぞれにジェファーソンであるとか、リンカーンであるとか答えていましたが、ユダヤ系の院生が大きな声で<ハリー・トルーマンである>と答えました。<なぜ? その理由は?><ハリー・トルーマンは、第二次大戦中民族虐殺に追い込まれ600万人の犠牲者を出したユダヤ民族のために、国連で、イスラエルの建国を承認しました。トルーマン大統領こそ、ヒューマニズムに溢れた、優れた歴史認識を持つ大統領です>と答えたのです。すると、間髪を入れずコマジャー教授は、私を指名してお尋ねになりました。

<ミス・コタニ。君は、アメリカ史上誰が一番汚点を残した大統領と思うかね>。私はひるむことなく答えました。<ハリー・トルーマン大統領である>と。すると、ユダヤ系の院生が激しく理由を言えと詰め寄ってきました。

 

<日本が国際法を無視して、パール・ハーバーを奇襲攻撃し、日米戦争の火蓋を先に切った事は否定いたしません。しかし四年間も太平洋で死闘を繰り広げ、日本本土はB29の総攻撃を受け、沖縄も陥落し、日本の敗戦は時間の問題といわれていた戦争末期に、トルーマンは原爆を広島と長崎に違った種類の原爆を落としました。

 これこそはアジア人蔑視の典型です。もともと原爆はドイツを牽制するために創りはじめたものです。瞬時に女子供、老人を含む非戦闘員の20万の一般市民を、核兵器爆弾で焼き殺したのです。それはラジュウムで人体を焼く、もっとも残虐な新兵器です。

 トルーマンは世界史上原爆を最初に使用した大統領であるばかりでなく、ソ連との核兵器競争時代を招きいれた大統領でもあります。この核兵器の今後の取り扱いによっては、地球は崩壊するかもしれません。するとトルーマン大統領は地球を滅亡させた大統領として、地球に拭い去ることのできぬ汚点を刻むことになります>。

 

 それを聞いた院生たちは、それはもう喧喧諤諤、さまざまの意見が飛び交いました。それをじっと聞いていらしたコマジャー教授は最後におっしゃいました。

<トルーマンがルーズベルトの急逝によって、大統領職を引き継いだ時、初めて人類史上きわめつけの、強力な破壊力を持つ新型爆弾が完成に近いことを知った。これを使用しさえすれば、いつまでたっても降参しない日本に、引導を渡すことができると思ったであろう。さらに新たな敵として現れたソ連をも、牽制することができると確信したに違いない。

 しかしトルーマンは投下後の被爆の惨状を知ると、さすがに神に対しての良心の呵責に責められたのではないか? その証拠に原爆に関しては、世界中にプレスコードをひき、機会ある毎に、なぜ原爆を使用したかの釈明をしているし、自己弁護している。

 日本に対して使用したのは、国連の査察をも無視して、中国侵略から手を引かなかったことと、パール・ハーバーの奇襲攻撃に対する報復である。日本本土に上陸すれば、沖縄戦で見られるように、日本は必死の抵抗をするであろう。原爆使用によって、日米双方の百万人の生命を救ったのだ。1948年5月14日、渋るイギリスに圧力をかけてまで、イスラエルの建国を国連で承認したのは、日本への原爆投下と引き換えに、東西のバランスをとったのだ。イスラエルの建国と日本への原爆投下は、第二次世界大戦の人種戦争として、底辺で繋がっているアメリカの世界戦略である>と、明言されたのです。

 

 さらに付け加えて、<アメリカが20世紀の世界平和を導くには、イスラエルと日本がどのように動くかに鍵がある。国際連合の結成、トルーマン・ドクトリン、マーシャル・プラン、ベルリン空輸、北大西洋条約機構(NATO)の結成、朝鮮防衛、原子力の平和利用開発、ポイント・4のアメリカがとっている低開発地域援助計画などは、きわめて見識の高いものであり、アメリカの世界政策の方向を指し示すものである>と、コマジャー教授からのトルーマン大統領への提言を披露してくださったものです。

 私はあらためて、歴史家とは過去の資料を探究するばかりでなく、現代の難題を未来へと指し示すことのできる、慧眼を持たねばならぬと思ったものでした。

 さて地球の歴史は、古来から三つのJで回転してきたように思えます。すなわち、Jewと、Jesus Christと、Japaneseと。

 

 【参考文献】

 丸山真男「日本政治思想史研究」 東京大学出版会(1953)

 丸山真男「開国」(講座現代論理・転換期の倫理思想・日本)筑摩書房(1959)

 明治史料研究会編「近代思想の形成」 お茶の水書房(1959)

 橋川文三「ナショナリズム その神話と論理」 紀ノ国屋書店(1968)

 吉岡義武「近代日本の政治家」 文芸春秋新社(1969)

 細川嘉六「日本植民史」細川嘉六著作全集第二巻 理論社(1972)

 J.F.Stone:-Korean War-「秘史 朝鮮戦争」内山敏訳 青木書店(1996)

 渡辺学編「朝鮮近代史」 勁草書房(1967)

 藤岡信勝 自由主義史観研究会「教科書が教えない歴史」1〜4 サンケイ新聞ニュース

 サービス社 (1996〜97)

  小谷瑞穂子「十字架のユダヤ人」サイマル出版会(1987)

 小谷瑞穂子「ヒロシマ巡礼」 筑摩書房 (1997)

  John Dower: Embracing Defeat 「敗北を抱きしめて」三浦陽一・高杉忠明訳 岩波書店(2001)

  W.W.Noton: Japan in the wake of the world war 2 New Press(1999)

 Hebert Bix: The Showa Emperors Monologue and the problem war responsibility David A. Titus: The Making of the symbol Emperors system in Post war in Japan

  Kennes J Rouff:The Peoples Emperor「戦後日本の民主主義と天皇制」 高橋紘監修

 木村剛久・福島睦男訳 共同通信社(2003)

 

 

  2.日本近代化に影響を与えたユダヤ系の人々

 

 世界史における三つのJ

 

 なぜ、イエス・キリストは英語でJesus、ユダヤ人はJew、日本人はJapaneseと言語表記されるのでしょう? みな、Jの記号から始まります。不思議とは思いませんか。Jesusは、ギリシャ語の救世主という語源までさかのぼれば、その言語が成立する歴史的背景を探究することはできます。現在世界中で使用している西暦起源は、Jesusの出現を紀元1年としてBC紀元前とAD紀元後に分けております。

 しかし、ユダヤ人にとっては、旧約聖書に記されている4000年もさかのぼるユダヤ暦があります。日本人にとっても、日本国家の起源は天孫降臨による神話時代にまでさかのぼれば、神武天皇を初代天皇とする 皇統による元号があり、西暦2005年の現在は 平成17年という元号が、国内では西暦より国民の生活の中に重用されております。三つのJはJesus の出現によって、ユダヤ人はBC時代から、日本人は鉄砲伝来による織田信長の戦国時代から、キリスト教に多大な影響を受けながら、現代にいたるまで、キリスト教国家にはならずに来た文化をもつ民族です。

 人類の歴史は、三つのJをめぐって、地球を回転してきたといえるでしょう。

 

 世界史のなかのユダヤ人

 

 AD132年から135年にかけて、ローマ占領軍への最後の抵抗に立ち上がったユダヤ王国は、神殿と最後の要塞マサダ要塞の全滅とともに滅亡します。ユダヤ王国の戦争指導者たちは、「十字架」刑によって処刑され、多数の捕虜たちはローマ人の奴隷となります。女子供たちは奴隷商人によって、ローマ帝国の植民地に送られます。

 AD313年、キリスト教がローマ帝国の国教となると、ユダヤ人はJesusを救世主としてみとめないという理由で、迫害を受け、改宗を迫られたり、殺害されたり、ゲットーに押し込められたりします。ユダヤ人が信ずる神Godとは、宇宙を動かしている大いなる力、ヤハウエ(在りて在るもの)生命の起原、近代ではベルグソンが主張したエレンビタールと呼ばれるものです。

 ユダヤ人の歴史は、旧約聖書に書いてあるように、アブラハムがヤハウエからの啓示を受け、モーゼもまた人間として守るべき戒律を「モーゼの十戒」として、神からの啓示を受け、ヤハウエに対する信仰を誓った時から始まります。ユダヤ人の男子は神への信仰を誓う証として、誕生すると割礼を施し、13歳になると成人の誓いの儀式、バールミツバをあげます。この砂漠の民族は食生活にも、厳しい戒律があり、カシュルトという血抜きの牛肉と鳥肉、ブタ、いか、えびなどは禁餌、安息日は金曜日の夜から、土曜日の夜まで、煮炊きから車の運転、電話などの使用など一切の近代化の機具を使った労動を禁じています。

 キリスト教徒とは違った、――神に対する信仰の戒律と生活習慣が、キリスト教国のなかで、――異端視されます。施政者は戦争や疫病が起こると、民衆の不満をユダヤ人に向けさせ、虐殺、追放をします。世界中の各地に離散したユダヤ人で、有色人種の中近東イスラム、スペイン、アフリカ圏に移民したユダヤ人を「セファルディ」、ヨーロッパ白色人種圏に移住したユダヤ人を「アシュケナージ」と呼びます。ユダヤ人は異民族ですから、土地所有を認められず、キリスト教国では蔑視されていた商人や金貸し、銀行業に付きます。近代では農業経済から、貨幣経済へと発展すると、ユダヤ人の特異な分野の重要性が増します。

 

 第二次世界大戦のナチスドイツのヒトラーによる「ホロコースト」は第一次世界大戦後のドイツの経済パニックの原因をユダヤ人のせいにした所から発生します。ヒトラーはドイツ経済をユダヤ人から取り戻す為に、4分の1、ユダヤの血が混血しているものは、貧富、学歴、才能を問わず、男女・年齢に関係なく強制収容所に送り込み、チクロンBで民族抹殺を計ります。ユダヤ人は1200万、そのうち600万を殺したのです。この行為はドイツの歴史家エバハルト・ヤッケルが主張しているように、「ある特定の人間の集団を、ある国家が完全な抹殺を図ったことは、歴史上も初めてでした」。

 1948年5月18日、イスラエル国家の独立宣言が国連によって承認され、ユダヤ民主国家は王国の滅亡以来、父祖の地に回帰したのですが、今度はキリスト教国ではない、イスラム教の民族国家群に囲まれ、いまだに解決の兆しの見えてこない、中東紛争の、真只中にあります。

 

 日本近代化に影響を与えたユダヤ人の系譜

 

 1555年 大航海時代の到来とともに、日本に最初に到来したユダヤ人は、キリスト教の宣教師バルタザル・ガゴと来たユダヤ商人ルイス・デ・アルメイダ(Luise de Almeida 1525-83)です。彼はポルトガル・リスボン生まれのマラノス(カソリックに改宗したユダヤ人)で、1545年に来日していたフランシスコ・ザビエルと出会い、語学力と医学の知識を見込まれ、通訳兼医師として雇われます。

 戦国時代の九州の大名大友宗麟は、1551年にザビエルを招き、キリスト教の信者となり、アルメイダも九州にはじめて病院や育児院を建設、西洋医学を伝授します。当時、キリスト教は仏教に代わる近代的な信仰として、織田信長の庇護を受け、ザビエルのイエズス会だけではなく、スペイン国王の派遣したフランシスコ会の宣教師をあわせると、宣教師は150名、信者数は30万人に達しました。当時の日本の人口が3000万であったことを考えると、驚異的な数です。キリスト教信者に対する弾圧は、豊臣秀吉による突然のキリシタン禁止令となり、1614年(慶長18年)の鎖国政策で禁制されます。このキリスト教弾圧のきっかけは アルメイダによる進言によるといわれています。

 アメリカ大陸の発見者コロンブスも、マラノスで、当時のオランダ、ポルトガル、スペイン、ギリシャから、大航海時代の船に乗り込んでアジアにやってきたユダヤ人はインド、中国、フィリピンに上陸しました。

 

 1853年 アメリカ大統領の国書を持って来日した、東インド艦隊司令長官、マシュウー・ペリーによる黒船四隻の来航によって、徳川幕府260年の鎖国が破られ、明治維新革命の近代化が始まります。英字新聞を横浜で初めて発行したのは、ユダヤ系アメリカ人ラファエル・ショイヤーでした。彼はカメラや写真技術、映画なども 日本に導入しました。勝海舟や坂本竜馬など、日本海軍の指導教官として来日したのは、リチャード・サリアノというユダヤ系フランス人でした。

 横浜に日本で初めて創立した工科大学で、ヨーロッパの大学水準の物理と科学を教えたのは、アルフレッド・ローゼンブルグというユダヤ系ドイツ人でした。明治維新革命をやり遂げ、日本の近代国家としての基盤を作るために、欧米諸国の憲法の研究視察に渡欧した伊藤博文を指導したのは、オーストリーの法律学者で、ユダヤ系のドイツ人グナイストやスタイン・モッセでした。明治政府が「御雇い外人教師」としてやとったのは、優秀なユダヤ系の学者や技術者たちでした。

 

 ことに「皇国の興廃この一戦に在り」と大国ロシア帝国を相手にした日露戦争では、日銀副総裁高橋是清が欧米諸国で募った日本の外債を購入して、戦費の半分を支えてくれたのは、ユダヤ系のアメリカ人銀行家ジェイコブ・シフでした。シフはドイツのフランクフルト生まれのアシュケナージ系のユダヤ人で、新大陸アメリカへ移民して、欧米にネットワークをもつ銀行家として成功した人です。

 シフは帝政ロシアのロマノフ王朝のユダヤ人へのポグロム(弾圧)を憎み、そのために、大国ロシアのアジアへの進出を阻もうとする小国日本を救援したのです。日露戦争後、明治天皇はシフを宮中に国賓として招待し、感謝の気持ちをお伝えになりました。高橋是清は、大正末期から昭和時代にかけて、山本、原、高橋、田中、犬養、斎藤、岡田の各内閣の大蔵大臣を努め、昭和金融恐慌からの脱出を図っていたが、昭和11年、2・26事件の軍部の反乱テロで暗殺されるまで、シフと堅い信頼と友情関係で結ばれ、日本財政の的確なアドバィスを得ていました。高橋是清亡くなった後の日本財政は、坂道を転げ落ちるように軍部の暴走にゆだねられ、日本は世界経済から孤立していきます。

 

 ヨーロッパの近世にゲットーから解放されて、スペイン・ドイツ・フランス・イギリス・アメリカで活躍したユダヤ系思想家たちは、スピノザ・マルクス・フロイド・ベルグソン・アインシュタインなど、常にユダヤ思想とキリスト教思想の狭間で苦しみ、その信仰を乗り越えようとして、近代思想を生み出した、指導的な思想家たちで、日本の大正デモクラシー時代は、哲学、文学、科学、医学など さまざまな分野で ユダヤ系思想家たちから深い影響を受けております。

 

 太平洋戦争とユダヤ人

 

 1923年9月1日、関東一円を襲ったマグニチュード7.9の関東大震災は、被災者190万人以上。死者と行方不明者は10万人以上。全焼家屋44万7000戸、東京は壊滅に近い打撃を受け、さらに1931年ニューヨーク・ウォール街から発した世界的な経済恐慌は、農村の極度の疲弊のために、軍国主義による「満蒙楽土の建設」に向かわせました。

 日本軍が侵略していった中国東北部地域(満州・北支那)には、ロシア革命や第一次世界大戦から逃れてきた白系ロシア人(アシュケナージ・ユダヤ人)3万6000人がハルビン、天津、大連、上海などの国際都市に定着していました。このなかには、シベリヤ鉄道による請負業や東西貿易によって富みを築いた富裕なユダヤ人も多く、ユダヤ教会堂のラビを中心に、自助社会を築き、避難民などの救助にあたっていました。 日本陸軍きってのユダヤ人問題専門の特務機関長は樋口李一郎中将で、モスクワ留学体験を持つ陸士の21期生でした。樋口中将はユダヤ人に対する歴史的認識を持ち、「ユダヤ人の悲劇は自国をもたぬ亡国の民であるため」との判断から、満州の一部にユダヤ人のための入植地まで建設することを、参謀本部に建言していました。

 ハルビン大連の特務機関長は 安江仙弘(のりひろ)大佐で、彼も日露戦争当時の白系ロシア人との交友から 酒井将軍とともに、パレスチナの入植地やキブツなどを視察したユダヤ問題研究家でした。樋口中将も安江大佐も、戦後ソ連の強制収容所に連行されてそこで死亡しましたが、シベリヤ鉄道を通じて、ナチスドイツから逃れてくるユダヤ難民救助のために、あえて特別列車を回すなど積極的でした。そのために救済されたユダヤ人たちは、その恩を忘れずイスラエル建国後、ゴールデン・ブックに、樋口中将と安江大佐の名を記載しました。

 

 国際都市上海には、サッスーン商会を始め、ハードリー、レーモンドなどユダヤ財閥の重要な拠点でした。特にアジアのロスチャイルド家といわれた、サッスーン・イブン・サラは40年間バクダットに君臨した実力者で、一族にはロンドンで、詩人作家として名声を得た、ジクフリード・サッスーン、ヘブライ語学者のフローラ・サッスーン、サンデータイムズの社主であり、編集長であったレイチェル・サッスーン、など英国や米国の新聞界、政界、社交界に影響力を持ったユダヤ系のリーダーたちがいました。

 上海のユダヤ関係機関長犬塚惟重(これしげ)大佐は、ユダヤ財閥のもつ国際資本とネットワークに注目し、1932年の上海事変の後、日本軍が上海の統治権を獲得すると、ユダヤ資本家たちから600万ドルを拠出させ、日本とユダヤの合弁会社を設立し、石油、タングステンなど必要な軍需物資の調達を図りました。戦局が傾くと、アメリカのユダヤ協会長ワイズマン博士を通じて、ルーズベルト大統領への和議停戦を申し込んだりもしました。

 しかし、日本情報機関のユダヤ研究家たちは、戦局に応じて、親ユダヤと反ユダヤの二面性を使い分けたために、根本的な信頼関係を築くことはできなかったようです。このことは東京の元ユダヤセンターのラビ、マーヴィン・トケイヤーの書いた「河豚計画」の中に詳しく書かれています。

 

 リトアニア日本領事代理杉原千畝は、1940年日本領事館に押し寄せてきたユダヤ難民のために、日本外務省の指令に逆らって、日本通過のクラカオ・ビザを発行し6000人のユダヤ避難民を救いました。そのなかには、戦後イスラエルの宗教大臣になったゾラフ・バラハフティがいて、「日本にきたユダヤ難民-ヒトラーの魔手を逃れて、約束の地への長い旅」を公刊しました。

 杉原千畝はこのために外務省をクビにされたのですが、ビザによっていのちを救われたユダヤ人たちにより、名誉を回復し、イスラエルには彼の名前を記した地名まであります。現在の日本の外務省には杉原のヒューマニズムをたたえる、顕彰板が掲げられております。

 

 日本占領政策と平和憲法の誕生

 

 1945年8月15日、日本の敗戦後、GHQ最高司令官として赴任してきた、ダグラス・マッカーサー元帥は、占領政策を成功させるために、昭和天皇の権威を「国民の象徴」として、新憲法で保障しました。一方で、民主国家日本の誕生のために、軍国主義の国家神道を養成した戦前の大日本帝国憲法を放棄させ、キリスト教国家としての再建をもくろみましたが、成功しませんでした。

 日本におけるキリスト教徒は1億2千万人のうち、10パーセントにとどまっています。原爆を一般市民の上に落とし、20万人を炎熱地獄の中で焼き殺したキリスト教国の、イエス・キリストの愛のヒューマニズムの虚構を 多くの日本人が受け入れることができなかったのでしょう。

 戦後ユダヤ系作家たちのカフカやツワイクなどの近代文学は、数多く翻訳され、「アンネの日記」や「屋根の上のバイオリン弾き」などは、映画や舞台にも多くの観客を動員しました。「ホロコースト」生き残りの証言「ショアー」もテレビで報道されると、ナチスドイツの完璧な民族抹殺に衝撃を覚えるとともに、地の果てまでも犯人を追いかけて行く「ホロコースト」生き残りのユダヤ人たちの執念にも驚かされました。

 

 マッカーサーは日本の新憲法を作成するにあたって、副官のコートニー・ホイットニーを通じて民政部次長ケーディス大佐に、箇条書きにしたメモを手渡して、新憲法の作製を命じました。

(1)天皇は国家元首とす。皇位は世襲。天皇の義務と権限は憲法の定める所に従い憲法が規定する国民の基本的な意思に責任を持つこと。

(2)国権の発動たる戦争は否定する。国際的紛糾解決の手段としての 武力の行使は自衛の為のものを含め放棄する。国家の防衛と保護は今世界に産まれつつある高い理想にゆだねる。陸海空軍は保持しない。武力行使の権限はこれを放棄する。

(3)封建制度を破棄する。皇族を除く華族も一代限りとする。華族の身分はこれ自体では一切の社会的、政治的特権を持たない。

 

 このマッカーサー・メモを基本にケーディス大佐が 民政部の19人のスタッフとともに、日本の「平和憲法」の草案を作製しました。マッカーサー元帥もケーディス大佐もホイットニー副官もユダヤ系ではありません。WASP(アングロサクソン系で新教徒の白人)出身。チャールス・ルイス・ケーディスは、コーネル大学を卒業してから、ハーバート大学院のロースクールで弁護士資格を取り、ワシントンに行き、F・ルーズベルトのニューディール政策に参画したリベラル左派の思想の持ち主です。

 

 戦後の日本を支えたユダヤ女性たちとクエーカー教徒たち

 

 ユダヤ系担当官としては、財政部門を担当したフランク・リゾウ少佐と、人権担当部の若い22歳の女性、ベアテ・シロタでした。ベアテの両親は、ユダヤ系ロシア人で、父親のレオ・シロタは来日する前から、ヨーロッパで国際的に活躍していた著名なピアニストでした。1928年に演奏旅行で立ち寄ったハルビンで、山田耕筰に出会い、意気投合し、山田耕筰の要請で上野音楽学校のクラシック・ピアノ教授として、妻と娘とともに赴任してきました。シロタ教授の門下生には、日本の戦後の国際的ピアニストとして名を馳せた、永井進、園田高広など多くの優れたピアニストがおります。

 ベアテがアメリカのミルズ・カレッジに入学するために、日本を離れたのは17歳の時でした。大学2年の12月7日、突然ラジオから流れてきた緊急ニュースによって、日本空軍が宣戦布告なしの、真珠湾攻撃に突入したことを知ったのです。翌年の夏、連邦通信委員会が東京の短波放送をモニターする人を探していることを知り、そのアルバイトに応募します。

 ベアテは日本にいる両親の消息を知りたくて応募したのですが、聞きなれない軍部用語に悩みながら、大本営発表を聞いていると、国民には真実のニュースを知らせていないことを知り、憤慨します。そのため大学卒業後、サンフランシスコの戦争情報局に勤務し、対日宣伝工作の下書き文の仕事に従事します。また、ラジオ放送を通じて、戦場の日本兵たちに真実の戦局ニュースを知らせ、戦争が負け戦であることを語り、アメリカからの声を、ソフトな語りかけで電波にのせました。

 戦争が終わるとすぐに、ベアテは父母を探すためにアメリカ占領軍の調査官に応募し、採用されて、東京のGHQマッカーサー司令部のケーディス大佐の元に配属され、日本憲法の作製に携わります。

 

 ベアテはミルズカレッジで、女性も社会に奉仕する仕事を持つべきであるとの、学長の思想に共鳴していました。そのために 日本国憲法の草案では、特に女性の人権問題を担当し、民主主義の基本条件である、「男女教育の機会均等」、「妻の財産相続権」、「妊娠出産に伴なう国家保護法」、「非嫡出子の権利」、「父母の同意による養子制度」などを法律化することに成功しました。

 ベアテの主張した男女平等の基本的人権は、日本の保守的な憲法学者たちからの、激しい抵抗がありましたが、ケーディス大佐の支持を得て、23条に盛り込んでいます。この男女平等の人権は 大正デモクラシー時代、青踏派の平塚雷鳥など先覚的な女性たちが何とか法的に獲得したいと努力したものでしたが、実現させることのできなかった女性のための権利でした。ベアテは男尊女卑の封建制度のもとで、軍人たちや、家長の男性が威張っていて、日本の女性たちが蔭で泣く姿を見て、義憤をもっていたので、日本の明るい未来は、女性の手で築かねばならぬと、ひたすらに頑張ったと、後に私に語ってくれました。

 ベアテはGHQで2年間働き、パージによる公職追放の調査も手がけ、1948年にアメリカに帰国。GHQで同僚であったジョセフ・ゴードン少佐と結婚。ベアテ・シロタ・ゴードン夫人として、現在もなお健在で、日本文化の翻訳、紹介、通訳など文化交流の仕事に精力的に携わっています。父のシロタ教授もベアテとともに、アメリカに行き、音楽家として日本人ピアニストたちの留学を助け、日米文化交流の架け橋となって、生涯を終えました。

 

 平和憲法の戦争放棄の条項をニューヨーク・タイムズで読み、日本の皇太子の教育に携わろうと決心して来日したのは、キリスト教の中でも、絶対平和主義のクエーカー教徒、エリザベス・ヴァイニング夫人でした。彼女のクエーカーの親友エスター・ローズも、戦前の東京フレンズ学園の女子教育に携わっていて、戦時中はアメリカに帰国していたのですが、戦後日本にララ物資を届ける委員となって、東京にやってきました。

 ヴァイニング夫人やエスター・ローズに積極的に協力したのは、吉田茂首相の娘麻生和子や、文部大臣前田多門の娘神谷美恵子など、戦前外交官の子女として、イギリスやアメリカ留学をしたカトリックの信仰をもった女性たちでした。彼女たちは、幼い時から学んだ英語を駆使して、日本政府とGHQの交渉役を立派に果たし、日本の皇室の存続に力を尽くしました。神谷美恵子は津田女子大学でも教鞭を執り、傷ついたものの力になりたいと、若い時抱いた初心を貫いて、精神医師としての救癩活動に身を投じております。晩年は、ことに戦後の皇室に嫁いで健康を害された美智子皇太子妃の心の支えとなったことは、多くの日本女性が知っていることです。

 日本の皇室はキリスト教、ことにカトリックからの愛と信仰の影響は、その平和思想とともに深いものがあります。聖心女子学院出身の美智子皇后をはじめとして、国連高等難民弁務官となって、難民救済に活躍した緒方貞子女史、犬養道子女史など、国際的にも政治的にも第一線で活躍する日本女性の出現をみることができます。ベアテが新憲法に盛り込んだ男女平等の基本的人権の保障、教育の機会均等の結果が、見事に現在の日本社会に息づいている結果であるといえましよう。

 

 歴史家シュペングラーは、20世紀の初頭「西洋の没落」を書いて、「民族国家はやがてユダヤ人のように、生まれた国と、活躍する国を異にする二重国籍を持つ地球人」となるであろうと、予言しました。世界最初の原爆を投下された被爆国の日本は、21世紀に突入した現在、20世紀の戦争時代から、身に沁みて学び取った勝者なき戦争の凄惨さを、核時代下における地球崩壊の危機を人々に認識させ、核兵器の廃絶を実現することこそ、日本人に課せられた「歴史的認識」ではないでしょうか。

 地球の崩壊をくい止め、20世紀の戦争の原因となった、人種偏見、異文化への無知を克服して、今も尚貧富の差の激しく、生きることの難しい後進国の近代化に貢献し、地球人として、共存共栄の道を切り開いて行くことが、日本人として課せられたアイデンティテイではないでしょうか。

 

 【参考文献】

 R.ベネデイクト「菊と刀」長谷川松治訳 社会思想研究会出版部(1953)

 An Official Theory of the Japanese by the Committee coping with US -Japanese Trade War Strategies「公式日本人論『菊と刀』貿易戦争編」 テレコムパワー研究所訳 弘文堂(1987)

 黒羽滋「世界史上よりみたる日露戦争」 至文堂 (1960)

 高木八尺「日米関係の研究」上・下巻 東京大学出版会 (1968-70)

 神谷不二編「日本とアメリカ—強調と対立の構造」 日本経済新聞社(1973)

 小林直樹「憲法を読む」 岩波新書 岩波書店(1983)

 宮沢俊義編「世界憲法集」 岩波文庫 岩波書店(1960)

 A・トフラー「未来の衝撃」 徳山二郎訳 実業之日本社(1975)

 A・トインビー「歴史の研究」(世界の名著61) 長谷川松治訳 中央公論社(1967)

 松本重治「上海時代」上・中・下 中公新書 中央公論社(1974)

 小谷瑞穂子「十字架のユダヤ人」 サイマル出版会(1985)

 小谷瑞穂子 The Jewish Artist「ユダヤ系 芸術家たち」 サイマル出版会(1987)

 William J.Schull:Song Among The Ruins Harvard University Press(1990)

 今堀誠二「中国史の位相」 勁草書房 (1995)

 Jawaharlal Nehr: The GLIMPSES OF WORLD HISTORY London 1934

 Being Farther Letters to His Daughter Written in Prison & Containing

 Rambling Account of History for Young People

 ジャワハルラール・ネルー「父が子に語る世界歴史」1~6 大山聰訳 みすず書房(2002)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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小谷 瑞穂子

コタニ ミズホコ
こたに みずほこ 評論家 1930年 東京生まれ。「Far East 同時代セミナー」を主宰し、敗戦の教訓を戦争を知らない世代に伝承する活動を行う。

掲載作は、「NPO法人留学協会」海外留学アドバイザー資格認定試験テキストより抄出。

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