地平に現れるもの
時計は掌の中に白く光つてゐた。十一時五十八分。作業は終りに近づいてゐた。小牧はいまでもその時の感情を忘れることが出來ない。
突然、獄舎が、獄舎の裏手の仕事場が、建物全体が、うおつ、うおーう、といふ物凄い叫声をあげた。茶畑にゐた囚徒達が一斉に仕事を
……………が、このやうな衝動は
彼が看守になつたのは一月程前である。尤も、彼はその前に二月程監獄付の役人になつてゐた。といつて別に深い仔細があつた訳でなく、唯当時失業してゐて外に仕事が見付からなかつたからに過ぎない。彼はこの仕事を二月ばかり勤めた。そして、それから看守になつた。これにも大した理由があつた訳ではない。唯、看守になると、直接囚徒を取扱はなければならないので、それだけ危険も多いわけであるから、從つて俸給もいくらか増しであつた。無論、前の俸給で彼の生活が支へられなかつたといふ訳ではない。一人身であつたし、それに衣服は官服が支給されたし、日常の種々な生活資料は監獄から安く買へたので、
が、実をいふと小牧の気持を障害してゐるものが唯一つあつた。それは、よく世間でいふ「看守なんて、人間ぢやない」といふ言葉である。実際これは看守達自身さへ公然と自認してゐることで、彼等のいふ「そんなことで看守が勤まるか!」といふ言葉の裏には、「鬼にならなくては、看守の仕事は勤まらない」といふ自嘲とも自己肯定ともつかない意味が含まれてゐた。そして、これが小牧の心の奥底に
が、習慣は人の感情を遅鈍にするものである。実際、彼が監獄付の役人になつて看守や看守達の生活に接するやうになつてから、彼にはそれが――人間なんかのやる仕事ぢやないといはれてゐる看守達の仕事が――別段それ程厭な職業であるとも思はれなくなつて来た。彼は看守達――どれ程非人間的な感情をもつてゐるかと想像してゐた看守達――と話すやうになつてから、彼等も亦普通の人間であること、別段特別な感情をもつた悪人ばかりでないといふことを見た。そして彼等の職業そのものも、それほど異常な、厭はしいものであるとは感じないやうになつた。
一体何故看守になつてはならないか。少しも理由のないことではないか。こゝに善良な意志をもつた一人の人間がゐる。彼は生活のために監獄の役人になつた………そして、………それから看守になる。何を苦しんでわざわざ少い俸給を貰ふ必要があるか、一月で出来る貯蓄を三月もかゝつてやる必要があるか。「彼」は結婚してはならない、といふ理由はない。「彼」は惨めな下宿生活を続けてゆかねばならぬ、といふ法はない。「彼」は家庭をもつてはならない、といふ理由はない。さうだ。その為には看守にならなければならない!
然り、凡そ人類が集団的生活を営む以上、そこに何等かの社会的制約があるといふことは
そこで、俺は看守になる。つまり、一方に於て社会生活を遂行せしめ、他方に於てさういふ非社会的な性情をもつた罪人を矯正補導する技師——光栄ある技師になるのだ。それは人類にとつて価値あることではないか。俺は彼等の内にある「人間」を発見し、それを開発して、その芽を育てゝゆくだらう。俺は、不具な歪んだ畸形児をとゝのへる調節官になる。俺は悪人を善人にとりかへる奇術師になる。人生の………教師になる!
彼は看守になった。八号監房の担当看守であつた。彼が看守になつた最初の夜のことである。彼はその晩、夜間勤務をしなければならなかつた。小牧は新しい自分の仕事と自分の地位に対する、期待の緊張感と、誇らかな
彼は細長い廊下を歩いていつた。彼は、いまは――先刻の誇らしい感情は何処かへいつて――たゞ漠然とした一種の不安な気持に襲はれるだけであつた。無数の囚徒が、不意に暗い檻の中からとび出して来て、前後左右から彼を襲つてくるやうな気がする。両側の壁が、彼の肩の上に歪んでくるやうな気がする。さう思ふと彼の長靴の音は、囚徒達に彼の所在を告げ知らせるしるしのやうなものであつた。彼は不安を押しのけるために、時々監房の四角な穴から中の様子を
夜業の時間であつた。囚徒達は暗い電燈の下で、麻縄をなふために両手を動かしてゐた。彼等は、その仕事を極く僅かな報酬でやらなければならない。(その報酬は出獄の時貰へることになつてゐるが)その麻縄は彼等自身を捕縛するために、頑丈に作られて、看守達の衣嚢へ納められるのである。が、彼等の中には、仕事を極く少しゝかやらないものがあつた。無論、さういふものゝ中には、仕事に馴れないため、それ以上作れぬものもあつたが、然し、中には仕事が厭で、出来ない風を装つて少しゝかやらないものもあつた。が、兎に角、彼等は蚕が糸を紡ぐやうに、休まず、物を言はず、暗い燈火の下で彼等の仕事をやり続ける。
小牧は――七号監房と八号監房の間を――三度往復した。彼が
――担当さん。担当さん。
と言つてゐるのが聞える。小牧の心臓は
――担当さん。担当さん。
――何だ。
パッと扉が外へ跳ね返るやうな気がする。彼は要心して待つた。
――夜業を休ませてくんなせえ。
――何だつて? 何うしたんだ。
――頭痛がして、仕事が出来ねえでがすよ。
――頭痛がする?
彼の不安と恐怖はふたゝび前の誇らかな感情に位置を譲つた。
――午過ぎつから頭痛がしやして、へえ。仕事をするのが辛くて仕様がねえでがすよ。なあ、担当さん。助けたと思つて休ませてくんなせえ。わつしのやうなものでも、人の情つてものは知つてゐますだよ。なあ、担当さん…………
――よし、待つてゐろ。今部長に聞いて来てやるから。
彼は四角な穴を離れた。
彼は今は落ちついて八号監房の突当りの扉の方へ歩いていつた。が、彼がまだ十歩と歩いて行かない内、右手の小窓からまた何か囚徒が言つてゐるのを耳にした。
——何をしてゐるんだ。仕事をやれ、仕事を。夜業の時間ぢやないか。
彼は監督者としての威厳と権威を感じさせる調子をもつて言つた。
――担当さん………が、囚徒は続けた。
――夜業を休ませて呉んねえな。俺あ晩飯食つたら、腹工合が悪くなったゞ。仕事が出来ねえだあよ。なあ、一つ御情だと思つて休ませて呉んなせえ。御恩は、へえ、忘れはしねえだ。
――よし、待つてゐろ。
彼は八号監房の巡廻を終へて七号監房へ踵を廻らした。と、こゝでも病人が一人ゐることを発見した。彼は夕食に何か当るやうなものがあつたのではないかと思つた。――まつたく、囚徒達は余りに
彼は部長の部屋を開けた。最初の勤務ではあるし――それに部長の「何か変つたことがあつたら俺のところに報らせに来い」といふ言葉もあつたので――とにかく部長に報告してその指示を受けるのが穏当だと思つたからである。彼は云つた。
――部長殿、病人が三人ありますが、どうしたらいゝでせうか。
――病人だ?
部長は大きな肩を彼の方へ廻した。
――左様でございます。一人は頭痛で、他の二人は、腹痛で仕事が出来ないさうであります。
――よし、よし。
部長はもう解つたといふ風に彼の方へ大きな掌を押しだして言つた。
――では夜業を休ませてもいゝでせうか?
突然、部長の大きな、牛のやうな顎骨が二つに割れた、かと思ふと、そこから弾き出されたやうな哄笑が降つて来た。のけぞり返つた大きな腹が椅子の上に踊つてゐる。小牧は侮辱を感じて目を落した。
――休ませてはいけないのですか。
――休む? 一体何のために休むんだ。
――囚徒達は病気なのです。一人は頭が痛い………
――誰の頭が痛いんだつて、え?
――八号監房の囚徒です。それから七号監房と八号監房に腹痛が二人………
――七号監房なんて囚徒はゐないぞ。番号を言ふんだ、番号を。
――…………
――何号と何号なんだ、え?
――解りません。
――解らない? ぢやもう一度行つて調べて見ろ。
小牧は骨折つて三人の囚徒の番号を
――よし、そいつらを此処へ連れて来い。
部長は小牧の報告を聞き流し乍ら言つた。
――出來るだらう? ………よし。ぢや直ぐ引張つて来い。あばれたらこいつでどやしつけるんだ。
毛の生えた、小児の頭程ある拳が電燈の光の中で
囚徒達は扉を傍にして、並んでゐる。部長は小牧の言ふことをそつちのけにして、ぐるりと三人の囚徒達の方へ体をねぢ廻した。
――貴様達は、どうして仕事が出来ないつて言ふんだ。うむ?
――はい、晩方から少し頭痛がしやして。
頭の尖つた猥褻な顔をした一〇二号――それは胸の上に記されてある――が鼻のあたまに皺を寄せながら言つた。
――頭痛がする? 貴様の頭なんか、頭痛がする程上等に出来てゐるかい。おい貴様達はどうした。
――はい、少々腹が痛みやして………
と、もぎたての馬鈴薯のやうな赤い鼻をした百姓面の一〇八号が云ふ。
――腹が痛い?
――へえ、どうも朝つからよくごぜえませんで………
とその隣りの
――朝つから痛いなら、どうして医者に診て貰はなかつたんだ。よし。貴様達はずるけようとかゝつてゐるんだな。馬鹿野郎共! 二十年も監獄の飯を食つた俺が、貴様達なんかになめられてゐると思つてゐるか! 人を甘く見やがると承知しねえぞ!
部長は立上つた。
――何故黙つてゐるんだ! 貴様達は、ずるける
部長の右脚が心持後へ下つた。腕が半円を描いて空間を截つた。と思ふと、右端にゐた一一五号の頭が、一〇八号の肩へ突当つて、またもとへ跳ね返つた。真中の一〇八号は次の打撃を待ちかまへるやうに、頑丈相な一分刈の頭を左へ転廻した。そしてその頭が激しく左へ移動したかと思ふと、その次の一〇二号が少し躯を
――よし、白状するといふんだな。
部長が唸つた。
――へえ。
――ぢやあ、どうしてずるける気になつた?
――へえ。
――へえぢやねえ。ずるけたんだらう。
――へえ。
囚徒はニヤリと笑つた。がその笑は一寸顔に現れかけたばかりで、次の瞬間にはどこかへとんでいつてゐた。といふのは部長の拳が、彼の尖つた、頭痛してゐるといふ頭の上にとんでいつたからである。
――どうしてずるける気になった?
――……………
――言はないか! 言はなけや、また擲りつけるぞ! 貴様は頭が痛くないんだらう?
――へえ。
――ぢや何故嘘を云つた? それを言へ!
――実は………
――実は何だ。さつさと終ひまで云つて終はんか!
と部長はまたニヤニヤするやうな笑が囚徒の顔に表れかけたのを見て、焦々しながら怒鳴りつけた。
――へつへつ。新米の担当さんだつたので………へつへ。
部長の顔が一瞬間間抜けた無表情を示した。が次の瞬間例の弾き出されるやうな笑が彼の上体をゆす振つてゐた。
――新米の担当さんだつたので?
――舐めてもいゝだらうと思ひやして。
……………………
小牧はその後のことをよく覚えてゐない。彼はたゞその時囚徒のいやしい狡猾相な笑ひと、部長の
これらの出来事は小牧にとつてはすべて
彼はながい間その囚徒達――ことに自分の擲つた囚徒――の顔をまともに見ることを避けるやうな感情が自分の心の中に働いてゐるのを感じた。何か不快なものを見るやうな感じを抱かせたからである。三日目に囚徒達を工場へ連れて行く時、彼はその囚徒――一〇二号――に訊いた。
――痛くないか。
――へゝゝ。
囚徒は唯笑つたゞけである。別に怒つてゐる様子もなかつた。所々顔が青く腫れてゐるだけである。
――あの時、お前は(小牧はその囚徒の尖つた頭に目を注ぎながら言つた)監房の中にゐたのに、どうして新任の看守だといふことが解つた?
――へえ………その、靴の音が違つてゐやしたので――囚徒は答へた。
小牧はかうした事実に触れるにつれて、囚徒達の生活が、外的にばかりでなく内的にも普通人のそれと非常に違つたものであるといふことに気がついて来た。そして、それと同時にこの様な囚徒達の生活そのものに対して、興味を感じて来た。彼等を導く為にはまづ彼等の生活を、彼等の生活に於て感得し、理解しなければならない。……………で彼は
囚徒達の生活は外から見れば決して複雑な理解し難いやうなものではない。否、むしろそれは極めて単純な法則からなり立つてゐる。――囚徒達は毎日仕事場へ出掛ける。そして各々の仕事に従事する。彼等は社会の総ゆる種類の階級から来てゐるから、たとへば、自転車を拵らへるものもあれば、机や椅子を拵らへるものもある、
――どうも囚徒達は何処かへ煙草をかくしてゐるやうだ。
と第三工場の部長の言ひ出したのがことの初まりである。なるほどさう言はれて見ると自分も二三日前からそんな気がしてゐたといふものが三人ばかり出て来た。
――よし、ぢや明日
といふ部長の発案で、さうすることに決つた。次の日になつた。囚徒達は茶畑の方へ廻された。看守と部長と総掛りで捜索に取掛つた。凡ゆる処は捜索された。天井と言はず、机の下と云はず、壁、柱、窓、囚徒達の道具箱に到るまで総ゆるものが仔細に点検された。然し、それらしいものは何処にも見当らない。部長は部屋の真中に立つてゐた。看守達は失望して部長の顔を凝視めた。
――よし。鍬をもつて来い。
部長は叫んだ。看守は鍬を持つて来た。
――床下を掘るんだ。
部長は地面を指して言つた。看守は掘初めた。一時間ばかりかゝつた。長さ十米程ある大きな溝が出来た。もうないのは解つてゐる、と小牧は思った。然し部長は凝つと皆の掘るのを監視してゐた。一時間半も掘り続けた。深さが一米位になつた。と長く続いた看守達の列の
――続けろ!
部長は叫んだ。とその看守はまた穴へ降りていつた。そしてそこから更に二十個ばかりの敷島を掘り出した。部長は取調べにかゝつた。そしてそれが工場で拵らへる製作品を買ひとりにくる商人がそつと囚徒達に持つて来て呉れたものだといふことが解つた。無論その商人は出入を差止められた。
煙草ばかりではない。色々な禁制品を隠匿することは囚徒達の始終やることで、いくら嚴重に取締られても、かういふ種類の犯罪は絶えなかつた。何によらず、一寸面白いものがあると、直ぐそれを隠匿して置く。しかも、それが実につまらないものでもさうであつた。或日――それは小牧が囚徒達を監房へ引率して帰つた時のことである。囚徒達は食事の時間なので欣々として大手を振つて帰つて来た。こんな時の囚徒は実に無邪気なものである。が小牧はさうやつて一人々々囚徒達を監房へ入れてやつてゐる時、一人の囚徒が何か胸にぶら下げてゐるのをちらつと見た。その囚徒はそんなことには一向気がつかないらしく、小牧の顔を見ながら人の好さ相な笑を泛べてとつとと歩いて来たのである。
――おい、一寸待て! それは何だ。
小牧は囚徒の胸を指して言つた。囚徒は
――へえ………何、何でもありません。
――嘘を云ふと承知しないぞ! 手を取つて見ろ。とらんか!
囚徒は掌をとつた。一枚の写真が下つてゐる。小牧はそれを外した、裏には囚徒の番号が附いてゐる。囚徒は胸の番号札を丹念に切り抜いて、そこへ写真を
――一体何の為にこんなものをもつてゐるんだ。
囚徒は目を円くした。丁度小牧の質問が非常に突飛なもので、どうしてそんなことを聞くのか判断が出来ないといふ風に。
――お前は四十七士の墓が好きか。
――へえ。
――誰からその話を聞いた?
――へえ………その忘れやした。
――ぢやあ、この墓は誰の墓だか知つてるか。
――わしは餓鬼の時から勉強が
――この墓は誰の墓だが知つてゐるかつて言ふんだ。
――へえ………その、知らねえでがす。
小牧は一切を了解した。
彼等は表現を求めてゐるのである。実際、獄舎の生活には、表現といふものが全然ない。彼等は規定の時刻に起る。食事をする。仕事をする。寝る。(これは寝る時には寝なければ………ならないといふことを意味する)図式だ。彼等の生活は一定の図式通りに進行する。彼等が生活するのではない。その図式が――軌道が――彼等を導くのである。機械――意志活動の絶無な――機械。彼等は軌道の上をカラカラと滑つてゆく機械だ。彼等には、彼等の生産するものについて選択する自由があるか。彼等には、彼等の消費するものについて選択する自由があるか。否! 彼等は話すことさへ禁ぜられてゐるのである。
彼等の一日の生活は、定り切つてゐて、少しの変化もない。彼等は、同じ時刻に食事をする。同じ時刻に仕事をする。寝る。……………彼等は、今日の生活と同様な精確さで、十日後の生活を
そこで、彼等が生きる為には、生活する為には、それを破らなければならなくなる。あの、なければならぬを、軌道を、規則を、破らなければならなくなる。……………彼等にとつては、それが女の絵であらうと、四十七士の絵であらうと、問題ではないのである。彼等はたゞ規則違反の行為をさへすればいゝのだ。何故なら、彼等にとつて、生きるとは、とりも直さず、規則違反の行為をすることに外ならないから。………さうだ。では何故それがあるか。………懲罰………然し、この様な懲罰は、果して人間に課することが赦される様な種類のものであらうか。それは、彼等から生活を掠奪するといふこと、人間を機械として取扱ふといふことを意味するものではないか。……懲罰………否! ………現在多数の犯罪者が社会から出るといふことが既にそれの原因として、
彼は二日前署長の命令で本芝署へいつたことを思ひ出した。用件といふのはかうである。その日小牧の担当してゐた監房から一囚徒が出獄になつたが、その囚徒がなにかの罪を犯したと見えて、夕方にはまた本芝署の手を煩はすことになつてゐた。本芝署ではそのことをすぐ電話で問ひ合せて来たが、それが確かに今朝この監獄から出た囚徒であるといふことが解ると、折返して、それでは直ぐ一人立会に来てくれといふことを依頼して来たのである。で、署長はその囚徒の担当看守であつた小牧に行くことを命じた。小牧は眼の前が暗くなるのを感じた。聞いて見るとその囚徒はその朝出獄すると直ぐ市へ出て、そこで有金を残らず飲んで終つた。そして午後三時頃その飲屋をぶらりと出ると暑いので着物が欲しくなつた。囚徒は寒い折に入獄したと見えて、まだ
然し、小牧はその囚徒が、それから心を入れ替へて、決してそのやうな行為をしないといふことを保證することは出来なかつた。また自分が、さういふ行為をとらないやうにその囚徒を説諭してやることが出来ると確信することが出来なかつた。否単にそれが出来ないばかりでなく、自分の教戒などは恐らく何の役にもたたないだらう、といふ恐ろしい知覚を
彼はその朝その囚徒が出獄になつて監獄を出ると、真直ぐに飲屋へ出掛けて、そこで一文無しに財布の底を
闇が彼の行手を塞いだ。錯乱し、道を失つた電光がその中をよろめきながら走る。疑惑と恐怖が交錯して、彼の目の前に暗い迷路を押しひろげてゆくやうであつた。彼は外套の襟を立て
——だが、これらのことは何を物語るのであるか。秩序は何故必要なのであるか。一切の原因は現代の、自己発現の阻止された生活そのものにあるのではないか。……………広大な、地球を蔽ふ牢獄制度! ………監獄は単なる象徴に過ぎない。然し秩序は? 秩序のためには――秩序のためには? 必要ではないか。それは社会の城塞である。疫病を隔離する避病院である。我々はそれを守る歩哨だ。我々は社会の自由のために、秩序のために、それを監視してゐる……………これが権力だ。然し、目的は? 目的は何か。
権力は社会の錠前である。それは多かれ少なかれ社会の
我々は安全地帯――さゝやかなる――を作る。それはさうかも知れない。然し社会は本質的に人間の結合である。人間が目的でなければならない。………けれども、我々はその社会のために(あるひは社会のためといふ理由で)囚徒の人間を封鎖しつゝある。秩序――然し秩序! 秩序は何のためにあるか?
囚徒とても生活をもたねばならない。彼等はそれを欲する。彼等は獄則を――破らねばならない! 彼等は生活の外から真暗な壁をさぐつて、錠前をこぢ開けようとする。壊さうとする。………かくて、敵対は避け難いものとなるのだ。秩序――然し人間――それは………はたして囚徒のためにあるのであらうか? 囚徒の人間のためにあるのであらうか?
三日間、小牧は激しい精神上の動揺を経験した。暗澹とした不安な感情の錯綜が、全く彼の生活の扉を遮断して終つた。模索が続いた………が、この不安な動揺と錯綜は、三日後の出来ごとによつて、さらに
彼はその日、第三工場と、第四工場の巡察勤務に当つてゐたので、その服務区域を巡廻してゐると、第三工場の看守がやつて来て、一寸話したいことがあるから來て呉れといつて小牧を工場の裏手へ引張つていつた。行つて見ると同じ看守仲間が、第三工場と第四工場から三人ばかり来てゐる。話といふのはかうであつた。今第三工場に、一人政治犯がゐる。六号監房の囚徒で、――十三号といふのがその囚徒の番号であつた――三ケ月ばかり前にこゝの監獄へやつて来たのであるが、一体に反抗的で、看守や部長の言ふことをちつとも聞かない。何か此方の方で一寸した間違ひでもあると、直ぐ突込んでくる。「それで、丁度いま署長もゐないやうであるし、皆で一つうんと非道い目に合はせてやり度いと思ふのだが、手伝つて呉れないか」といふのである。前にも言つたやうに小牧はその日
――おい小牧君、君はそこにゐて見張りをして呉れ。
若い髭を生やした藤沢が――彼は六号監房の担当看守であつた――妥協的な笑を送りながら五六歩離れた地点を指して云つた。
小牧は衣嚢へ手を突込んだ儘、そこらを早足に歩き廻つてゐた。彼は工場から一人の囚徒が先刻の看守に引率されてくるのを視野の遠くに感じた。が、それを感じながら、彼は強ひてそつちの方を向かうとしなかつた。自分自身に対する羞恥がそれを妨げたのである。
けれども、もう見ない訳にゆかなかつた。囚徒は四人の看守に取巻かれて立つてゐる。小牧はその囚徒の顔をまともに視た。そしてそれと同時にその囚徒が、先週六号監房の看守である藤沢と言ひ争つて刑罰に附せられた囚徒であることを思ひ出した。……それが何の理由からであつたか、小牧は深く知らない。が兎に角藤沢が何か言つたのに対して口答へをしたのがもとであるらしかつた。小牧はその時たゞ藤沢が「貴様、抵抗する気か!」と怒鳴つてゐたのを、そして藤沢がさう言つた時その囚徒が鉄の棒をもつて身がまへしてゐたのを覚えてゐるだけである。が、それは藤沢が擲らうとして振りあげた拳に対して身がまへたものであるらしかつた。藤沢は工場にある電話で直ぐそのことを部長に通告した。監獄中で一番腕力の強いと言はれる第一監房の部長が来た。そして囚徒十三号に
――十三号。貴様炊事場へいつて、直ぐ飯をもつて来い。
――貴様は、昨日仕事をするのが厭だつて言ひやがつたらう! だが、今日から、好きになるやうにしてやる。
藤沢がすぐその後を続けた。
――御馳走してやるんだ! ぐづぐづしてやがらねえで、すぐもつて来う。
――飯櫃二つもつてくるんだぞ!
外の二人が言つた。で囚徒は真直ぐ炊事場の方へ引返していつた。
――飯櫃二つは傑作だつた!
四人の看守達は、――彼等の顔には一様に愚かしい狡猾な笑があつた――何かひそひそ話し合つた。
――おい、来やがつたぜ。
見ると二つの大きな飯櫃を肩に乗せて、首を激しく一方に傾けながら、囚徒十三号が炊事場の裏から歩いてくる。肩の重荷を支へるために懸命な努力を払つてゐることが、その歩き
――もつて来ました。囚徒は到頭業を煮やして言つた。
――誰がそんなものを持つて来い。と云つたんだ。
年上の看守が先づ計画の緒を切つた。
――莫迦野郎。そんなものをこゝへもつて来てどうするんだ。
藤沢が続けた。囚徒は看守達の意図を了解したらしかつた。決然とした、硬直した表情が彼の顔を真直に持ちあげ、看守達の顔に釘づけにしたからである。
――君が、君達がいま、自分の口から、それを言つたんだ。
――生意気云ふな!
――卑怯な、勇気のない奴等が、君達のやうなことをやるんだ!
――なに!
――いゝから擲つちまへ!
――擲つちまへ!
囚徒は一二歩体を後へ引いた。そして
囚徒は斃れて、意識を失つてゐた。長い袋のやうであつた。が、看守達は猶、乱暴な横打を続けることを止めなかつた。
が軈て恐怖――抵抗することの出来ない恐怖が、事実を認識する力を与へ、彼等の心に間隙を拵らへ、彼等の憎悪を鎮めていつた。
――おい、やり過ぎやしねえか。
一人が云つた。そこで彼等は各々の位置に、現実生活の職業的な心理に立帰つた。一人の看守が水を汲みにいつた。そして他の一人は医者を呼びにいつた。(監獄附の医者はこのやうなことがらの為にも必要なものであつたからである)軍医あがりの医者はすぐやつて来た。そして仔細に囚徒の体を点検した後で、囚徒は少くとも全治までに一週間を要する重傷を負つてゐることを看守達に告げた。で看守達は、衣服を脱がされて裸になつた囚徒の体――無数の靴痕と打撲傷のため、ほとんど皮膚の色が残つてゐない囚徒の体(それは実に凄惨な感じのするものであつた)――を病監へ運んでいつた。
囚徒は半日昏睡状態に陥つてゐた。が、彼は目が醒めると看護人や見張の看守の止めるのも聞かずに、寝台から起き上ると、蹌踉として、然し決然とした
……………が事件がどうなつていつたかはすべて後になつてから解つたことである。兎に角、翌日小牧を初め、他の四人の看守達は署長室へ呼ばれた。署長の話によれば、「五人の者は傷害罪と職権乱用の起訴を受けてゐる――無論それを告訴して出たのは十三号である――が、署長は囚徒から告訴の申請を受けると、それを受附けない訳にゆかない。で、君達は多分明日か明後日告発されることになるだらう。」といふことであった。看守達は署長の
判決は、裁判長の言ふところに依れば、公平な、寛大な精神によつてなされたものであつた。といふのは、囚徒十三号に対する看守達の告訴が不起訴に終つたばかりでなく――これは不起訴になるのが当然だ――看守達に対する囚徒の告訴も結局不起訴に終つて、看守達全体も無罪の判決を与へられたからである。
この事実は、小牧に、囚徒と看守の関係は決して並行的なものでなく、
然し、人間はもし秩序が人間を侵害するならば――その時は秩序は否定されなければならない。然し、この事実は、看守達が相手の囚徒の生活のために尽すといふ考へをもつてゐないばかりでなく、反対に彼等の生活を拒否し、蹂躙することを何とも思つてゐないといふことを語るものではないか。從つて………もし、看守達が、常にこのやうな行動に出なければならないものとすれば、それは自分の最初の抱負や目的に反するものでなければならない。………が、それは――不可能なことであらうか。たとへ、看守達全体がどのやうな行動を採らうと、自分だけは自分の考に從つて自分の抱負や目的とした所のものを貫いてゆくことは出来ないものだらうか? 囚徒たちのために………囚徒たちの人間のために! そして遺伝的な素質や——仮にそのやうなものがあつたにせよ――周囲の事情や、境遇や、社会生活の苦悩から、或ひは制度の不完全や不平等から罪を犯すに到つた不幸な人達――彼等も亦ひとしく十字架を担ふものである! ――の悩みを分ち、彼等の為に自分の生活を捧げることは出来ないものだらうか。たとへ、それが、極めてさゝやかなものであつても、彼等の獄舎を訪れる光となり、慰めとなることは出来ないものであらうか。もし………それが………できないとすれば………一切は無意義でなければならない! 然し、それは果して………不可能であらうか。この疑問が彼の生活を支へてゐる一本の緒であつた。それは………いつか――すべてが明らかにされるやうな――事実に依つて答へられるだらう。
で、彼はその「すべてが明らかにされるやうな」「最後の決定を促すやうな」何等かの事実にぶつかるのを待つた。たとへ、それが、どのやうな解決に導くものであつても。といふのは、このやうな良心の重荷を負つて、何時までも長く自分の生活を続けてゆくことは不可能であつたから。
けれどもそれには長い期間を要しなかつた。むしろそれは予期したよりも早く、予期したよりも一層決定的な、形をとつて現れることになつた。二日後――
小牧はその時茶畑に囚徒達を監視してゐたのである。十一時五十八分であつた。もう昼食の時間なので、小牧は作業を止めようと思つてゐたのである。突然あの恐ろしい叫声が起つた。
小牧は何か恐ろしい事件、非常事が突発したことを直覚した。そしてそれと殆んど同時に、向ふに突立つてゐる第一工場の側壁が凄じい音を立てゝ崩れてゆくのを見た。
――地震だ!
茶畑に茶を摘んでゐた囚徒達も一斉に立上つて彼の方を向いて立つてゐる。小牧は突然測り知られない恐怖を感じた。何故ならいまや彼等――囚徒達も亦一個の人間、何事をも意欲し、何事をも実行し得る一個の自由な人間であつたからである。
空気が収縮し、鼻を
小牧は叫んだ。
向ふにある工場の建物が肩をあげた。連つた監房の建物はより集つて互に押し合つてゐる。それは活物のやうに――梯形を描き、平行四辺形を作つて――迅速に屈伸し、微動した。そして微動し――口を歪める毎に、そこから夥しい赤褐色の人間の群を吐き出してゐた。倒壊した工場の側壁からは砂煙があがつてゐる。
大地は何かすばらしく大きな獣が動いてゐるやうであつた。尖つた円筒形の警戒塔が空間に楕円形を描いてゐる。太陽が振子のやうに震動した。
………小牧はもはや囚徒達を支配してゐたものが全く力を失つたことを感じた。そしてそれを感じながら、それを感ずれば感ずる程さうしなければならないものゝやうに叫び続けた。――静かにしろ! 静かにしろ!
然し囚徒達は群集の方へ、陸続と
――抜刀しろ! 抜刀しろ!
何処からともなく叫ぶのが聞えた。と、もうすぐ向ふの押し返し、渦巻き、揉み合つてゐる群集の頭の上で、短剣が触角のやうに圏を画きながら、キラ、キラ光つてゐるのを小牧は見た。
何処かで銃声がした。
――小牧! 小牧! と後方で叫んでゐるのが聞える。小牧は丁度群集の中へ、囚徒達と看守達の葛藤の渦巻の中へ突進する為に片足を踏み出したところであつた。彼は止つた。哨舎に立つてゐた看守――それは藤沢であった――が銃をあげながら叫んでゐるのである。
――署長が、おい! 止めろ! 集まるんだ!
――何? 何処へ集る?
――署長の処へゆくんだ。命令だ! 残つてゐるものは………
――よし………
小牧は五六名の看守と一所に渦巻く群集の中を横切つていつた。
署長室には抜刀した看守や、ものものしく顎緒をかけた看守達が十五名ばかり押し寄せて来てゐる。彼等の顔は殺気立ち、鼻翼は激しく
――俺は工場の扉を開けようとしてゐた!
――俺の
――糞! この時だと思つて、騒ぎやがる!
――手当り次第やつちまふさ。
――やつちまへ!
――やつちまへ!!
――銃が來た!
――弾薬だ! 弾薬だ!
――これさへありやあ………何百人でも殺せるぞ!
――殺せ!
――殺せ!!
銃と弾丸五十発宛配給された。抵抗するものや、逃亡しようとするものは片つぱしから撃つて終へといふ命令であつた。小牧は第二監舎の裏を突抜けて――彼はそこを通る時少年囚や女囚が群がりわめき乍ら出てくるのを見た――茶畑の方へ帰つた。哨舎の看守達と一所に外墻を守ることを命ぜられたからである。
囚徒と看守の争闘は一層露骨になつて来てゐた。押し合ひ、押し返されてゐた小ぜり合から、決定的な、明ら様な格闘に変つて来た。囚徒達は
小牧は銃を堅く握つた儘、藤沢と身を寄せ合つて身構へしてゐた。心臓はそれを抑へつけようと努力してゐる胸廓を衝いて、高く、
「……! ……! ……!」藤沢が何か云つたやうであつた。然し藤沢の唇はなにものか彼以外のものに支配されてゐるものゝやうに、早く、そして全くその意味を判断することができない弁のやうに顫へてゐるだけであつた。
突然、群集の
群集──鬨の声をあげながら潮のやうに押寄せて来た群集はこの急激な発射に威嚇され、打砕かれて見る見るうちに壊乱していつた。勢よく一方に流れ込んで来た運動が停止し、
穴の中へ、甲冑の中へ隠れ込んでいつた囚徒達の群がふたゝび叫声を挙げながら、狭い監房の口から逆に押し戻さうとする。盲目的にその入口の方へ押してゆく群集と、中から押し返して出ようとするものゝ間に衝突が起つた。
然しこの時小牧は、それらの混乱してゐる囚徒の群の中から、突然湧き返るやうな歓声が起るのを聞いた。そしてそれと殆んど同時に、後方から物凄い地響が起つたのを聞いた。外壁――監獄の周囲を取巻いてゐる――が二十米程に
(外壁の側に立つてゐた哨舎の看守が真青になつて倒壊した墻壁を凝視めてゐる。)
銃声が起つた。それは
けれども、間もなく小牧はその群集の中から上半身を現して――それは
彼はそれを繃帯に裏まれた顔の半面から、その囚徒の身振から、全体の調子から明瞭り見てとることが出来た。囚徒は病監から脱け出て来たものに違ひない。然しあの重患がどうして脱け出て来られたらう! 囚徒は腕も、胸も手も足も、全身
「! ……! ……! ……! ……!」
遠方からは唯その抑揚しか見えない。腕を挙げ、打ち降ろす力の抑揚しか見えない。と又一斉に群集の叫声が起る。それは渦強き、沸騰して、やがて全体を強い一つの力、一つの意志に結合する。
看守達の必死な、死にものぐるひな抗争が初つた。それは丁度さうすることが全然無益であると知り乍ら、しかも
けれどもそれにも拘らず、その群衆の動揺する波涛を縫つて、見えがくれに進んでくる波頭のやうに、段々前の方へ、先頭の方へ進んでくる肉塊がある。十三号であつた。冷たい戦慄が小牧の背すぢを走つた………十三号は先頭に立つた。
今迄、不安な、無決定な躊躇の中に置かれてあつた群集が、ふたゝび鬨の声を挙げてその後に続いた。もう数十歩である。もう数十歩躍進すれば彼等は看守達の防禦線を突破して、倒壊した墻壁から、曠野へ、自由の原野へ逃れることが出来るのである。が、左右からそこを防禦するために密集して来た看守達の銃弾が十三号の直ぐ後に続いた三四名のものを
然し、十三号は、熱病にかゝつたやうに、蹌踉とする足を
一瞬間、空気が凝結した。息をひそめた。そして、群衆の間には潰乱が起らうとしてゐた。
が、その時、彼等は、かれらの五六歩前に斃れてゐた十三号の肩が、急にむつくり動くのを見た。なにか、不思議なものゝ力がそれを動かしたやうであつた。斃れた十三号の体と地面との間に僅かな間隙が開いた。……………閉ぢる……………………………開く…………………徐々にもちあげ初める…………………囚徒は、全身の重みを両足に支へあげると、静かに、緊張にわなゝく上体を伸して、すつくり立上つた。喊声が墻壁を衝いた。
十三号は、絶えず移動する重心をさゝへながら——縦に横に、斜に――前方へ動き出した。再び群集が鬨の声をあげた。五六名のものがそのあとに続いた。………………不意に、十三号の体が激しく傾く。と思ふと今度は左にねぢれて、
囚徒達は潰乱に陥つてゐた。勢を得た看守達は、後を向いて押し合つて行く囚徒達の背後から、猛烈な銃声をもつて威嚇し、
夕暮であった。
小牧は倒壊した墻壁の近くに倒れたまゝ横になつてゐる。囚徒達の二度目の襲撃の時、飛んで来た鉄材――それは工場からもつて来たものらしかつた――が彼の胸を撃ち、瓦礫が
それは、奇怪な、パノラマのやうな夕暮であつた。太陽は赤く、地平に落ちかゝつて、雲の峰を照らしてゐる。とその燃えあがつた雲の反射が、強く獄舎を照らし、獄舎の庭を照らし、茶畑を照らして、すべてのものが遠近を失つたやうに、しかも、積木細工でも見てゐるやうな、強烈な色彩に燃えながら、明々と照し出されてゐる。
墻壁の内部には囚徒の死骸が、折重つて斃れてゐた。見あげると崩壊した墻壁の側近くにある樫の木には、囚徒十三号の死屍が高く吊しあげられてゐる。黒鳥の群がその周囲を飛び、そしてその背後は地獄の空のやうな大都市の炎上で彩られてゐた。十三号の死屍は、看守達が、襲つて来ようとする囚徒を威嚇するために吊したものであつた。……………小牧はそれを
が、夥しい出血と、時間の経過とが、次第に彼の心を冷静な状態に引戻していつた。彼は横臥した儘――傷が思つたより深かつたので立上ることが出来なかつたから――今日の出来事を想ひ返してゐた。総ての出来事――渦巻く群集や、争闘の生々しい事実――は、いまは唯、一種の嫌悪の感情を起させるに過ぎなかつた。否そればかりでなく、それらの出来ごとに処した自分の態度そのものすら、今の彼には、何かしら嫌悪すべきものゝやうに思はれてくるのであつた。が、この様な感情は一体何処から来たものであらう……………
一体何ごとが起つたのであるか? 何故それが起つたのであるか。地震――然しそれは自然界の一事象に過ぎない。それは我々の意志以外のものだ。從つて、それが起つたといふことは我々の責任でない。……………然しその後の一切の事実は? ——否! それは単にその——地震といふ——偶然的な出来ごとを機会とし、機縁として起つたまでに過ぎない。それは、いまゝで隠れてゐた事物——潜んでゐた事物の関係の必然的な表現だ。——曝露だ。………これが我々がこの事件に対して、不快な嫌悪の感情を抱くに到つた理由でなければならない。
恐怖が我々を掴んだのだ。我々は威嚇を感じた。恐怖――然しその恐怖が、反対に我々を囚徒達に対する敵意――殆んど憎悪に近い敵意に凝結させて終つたのだ。我々は出発を誤りはしなかつたか? 威嚇………………驚愕が——最初の………そして原始的な、自然の破壊力に対する懼れが――
………すべての誤りは、我々が習慣的な職業心理から、それを抑制しなければならぬと感じたことである。恰度彼等は、欲望したり意志したり感じたりすべきものではないと確信していたかの様に。
………我々はそれを確信した。この意志は何処から来たか。この要求は自分自己のそれであるか。否! それは職業の――権力のそれに外ならない。我々は彼等が何等かの意志表示を、何等かの感情の表現を行ふことが、直ちに我々の生活を脅かすものとして感じたのである。権力者はかゝる場合、常にそれを感ぜねばならない!
それは我々の生活の槓杆である。それがたとへ看守達各個人が意識し、自覚してゐると否とに拘らず、我々は生活の城塞となり、帯となる。そして………彼等を、生活そのものから閉め出して終ふのだ。囚徒達は閉め出された扉の外から錠を破らなければならない……………從つて、我々を当面の敵としなければならなくなるのだ。そこで衝突は避け難いものとなる。我々は………本能的に銃を執つて終つた…………
このことは、看守になつた最初の日からぶつかつたことがらである。最初の宿直の時、俺は三名の囚徒が、病気になつてゐるのを見た。俺は彼等に休息を与へなければならぬと感じた。俺は出来るだけ彼等に善意を尽し、彼等の生活をもつといゝものにしようと思つたのである。………然し、それにも拘らず、俺は彼等を横打して終つたではないか。恰度、自分が看守になつたといふ理由のために、十三号を横打したあの不合理な企てに参加しなければならなかつたやうに。また、十三号が、職権乱用と傷害罪で訴へた時に、自分達の生活を脅やかすものであるといふ様な職業的な感情上の固執から、反対に看守達も公務執行妨害罪と逃亡未遂罪といふ事実ありもしない罪名を押付けて、自分達の罪を帳消しにしようとしたと同じやうに。
階級は一個の意志だ。——行為だ。それに参加することは、その行為に参加することを意味する。………必要なのは秩序ではない。人間である。人間と人間の間にある不自然な関係を撤廃せよ! ………。生活を封鎖する扉を………破壊せよ! ………。かくして——人間が、人間と人間との真の関係が、回復されるのだ。………広大な牢獄制度——人間を物として取扱ふ荒蓼たる混和土の牢獄制度——その心霊の牢獄制度が撤廃された時——人間が機械となるのを止め、そして彼自身の生活を回復したとき——地球が一帯の緑爽やかなる野となる時——そのときこそ人間が、人類が、全く自己となるであらう、最初の日だ。最後の——そして最初の日だ。我々は、それを………人類を………創造しなければならない! ………明日!! …………………………
一羽の鷲が小牧の胸にとまり、過ぎ去つた一箇月の看守生活の回想に伴ふ苦痛と悔恨の嵐を截って、その渦巻く嵐の中から、小牧をその両足に掴んで高く飛翔するやうであつた。小牧はその鳥の羽搏きを彼の胸に、両頬に感じた。………新しい地平が開け、そこに
地平の空は薔薇色に変つた。仄白い光の束が、幾ふりかの剣のやうに雲の間にかゝつた。十三号は、縛られた左手を高く、右手を
太陽はもう没して終つた。が、大都市の炎上だけは、赤く、ますます
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/01/17