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地平に現れるもの

 時計は掌の中に白く光つてゐた。十一時五十八分。作業は終りに近づいてゐた。小牧はいまでもその時の感情を忘れることが出來ない。

 突然、獄舎が、獄舎の裏手の仕事場が、建物全体が、うおつ、うおーう、といふ物凄い叫声をあげた。茶畑にゐた囚徒達が一斉に仕事を(はふ)り投げて、彼の方を向いて立つてゐる。小牧はその囚徒達の、無数の、そして無限に拡がつた眼孔の前に、測り知られない深淵の前に、直面して立つた。極く短い、ほんの一瞬の間であつた。が、小牧の心臓は、その威嚇の深淵に対する限りない恐怖にも拘らず、否恐怖が一層深いだけ、堅く硬直した敵愾心(てきがいしん)を、どく、どくと惑乱する四肢へ、全存在へ送り出した。──これが小牧をして、そしてまたひとしく看守達をして、囚徒達に対する不合理な行為を敢てせしめるに到つた獣的な、全く非理性的な、最初の誤つた衝動であつた。

 ……………が、このやうな衝動は(かつ)て経験しないものではなかつた。却つてそれは屡々感じたことであつた。唯それがこの様に激しく、この様な恐ろしい結果に導かなかつただけ、それだけまた明瞭(はつき)りした自覚の意識に於て感じなかつたに過ぎない。真実を言へば、このことは看守になつた最初の日から突当つた感情であつた。

 彼が看守になつたのは一月程前である。尤も、彼はその前に二月程監獄付の役人になつてゐた。といつて別に深い仔細があつた訳でなく、唯当時失業してゐて外に仕事が見付からなかつたからに過ぎない。彼はこの仕事を二月ばかり勤めた。そして、それから看守になつた。これにも大した理由があつた訳ではない。唯、看守になると、直接囚徒を取扱はなければならないので、それだけ危険も多いわけであるから、從つて俸給もいくらか増しであつた。無論、前の俸給で彼の生活が支へられなかつたといふ訳ではない。一人身であつたし、それに衣服は官服が支給されたし、日常の種々な生活資料は監獄から安く買へたので、(むし)ろ幾らか余裕があつた位である。彼はそれを毎月貯金した。が、さうして見ると看守になつた方が得策であつた。といふのは、看守になれば、二十圓上る訳だから、今迄十圓(ずつ)貯金してゐたものが、三十圓宛貯金が出来ることになるからである。つまり、今迄の割では三ケ月かゝるものが、一月で得られることになる。一月に三十圓とすれば、一年には三百六十余圓になる。三年経てば千圓余りになる。一寸(ちょっと)した家が買へる。結婚することが出来る。………と考へてくると、何も苦しんで監獄付の役人なんかになつてゐる必要がないやうに思へてくる。

 が、実をいふと小牧の気持を障害してゐるものが唯一つあつた。それは、よく世間でいふ「看守なんて、人間ぢやない」といふ言葉である。実際これは看守達自身さへ公然と自認してゐることで、彼等のいふ「そんなことで看守が勤まるか!」といふ言葉の裏には、「鬼にならなくては、看守の仕事は勤まらない」といふ自嘲とも自己肯定ともつかない意味が含まれてゐた。そして、これが小牧の心の奥底に(わだか)まつてゐて彼の看守にならうといふ考を妨げてゐた唯一つの、そして注意すべき原因であつた。

 が、習慣は人の感情を遅鈍にするものである。実際、彼が監獄付の役人になつて看守や看守達の生活に接するやうになつてから、彼にはそれが――人間なんかのやる仕事ぢやないといはれてゐる看守達の仕事が――別段それ程厭な職業であるとも思はれなくなつて来た。彼は看守達――どれ程非人間的な感情をもつてゐるかと想像してゐた看守達――と話すやうになつてから、彼等も亦普通の人間であること、別段特別な感情をもつた悪人ばかりでないといふことを見た。そして彼等の職業そのものも、それほど異常な、厭はしいものであるとは感じないやうになつた。

 一体何故看守になつてはならないか。少しも理由のないことではないか。こゝに善良な意志をもつた一人の人間がゐる。彼は生活のために監獄の役人になつた………そして、………それから看守になる。何を苦しんでわざわざ少い俸給を貰ふ必要があるか、一月で出来る貯蓄を三月もかゝつてやる必要があるか。「彼」は結婚してはならない、といふ理由はない。「彼」は惨めな下宿生活を続けてゆかねばならぬ、といふ法はない。「彼」は家庭をもつてはならない、といふ理由はない。さうだ。その為には看守にならなければならない!

 然り、凡そ人類が集団的生活を営む以上、そこに何等かの社会的制約があるといふことは(むし)ろ当然のことであつて、かゝる集団生活を擾乱(ぜうらん)する反社会的傾向は、寧ろ抑止されなければならない。従つて………そこに制度がある。組織がある。それが………監獄の………なければならぬ理由だ!

 そこで、俺は看守になる。つまり、一方に於て社会生活を遂行せしめ、他方に於てさういふ非社会的な性情をもつた罪人を矯正補導する技師——光栄ある技師になるのだ。それは人類にとつて価値あることではないか。俺は彼等の内にある「人間」を発見し、それを開発して、その芽を育てゝゆくだらう。俺は、不具な歪んだ畸形児をとゝのへる調節官になる。俺は悪人を善人にとりかへる奇術師になる。人生の………教師になる!

 彼は看守になった。八号監房の担当看守であつた。彼が看守になつた最初の夜のことである。彼はその晩、夜間勤務をしなければならなかつた。小牧は新しい自分の仕事と自分の地位に対する、期待の緊張感と、誇らかな矜持(きようぢ)の感情をもつて自分の順番を待つた。不寝番は二時間交代である。小牧の勤務時間が来た。彼は七号監房と八号監房の二棟の犯舎を巡視しなければならなかつた。

 彼は細長い廊下を歩いていつた。彼は、いまは――先刻の誇らしい感情は何処かへいつて――たゞ漠然とした一種の不安な気持に襲はれるだけであつた。無数の囚徒が、不意に暗い檻の中からとび出して来て、前後左右から彼を襲つてくるやうな気がする。両側の壁が、彼の肩の上に歪んでくるやうな気がする。さう思ふと彼の長靴の音は、囚徒達に彼の所在を告げ知らせるしるしのやうなものであつた。彼は不安を押しのけるために、時々監房の四角な穴から中の様子を(うかゞ)つて見る。

 夜業の時間であつた。囚徒達は暗い電燈の下で、麻縄をなふために両手を動かしてゐた。彼等は、その仕事を極く僅かな報酬でやらなければならない。(その報酬は出獄の時貰へることになつてゐるが)その麻縄は彼等自身を捕縛するために、頑丈に作られて、看守達の衣嚢へ納められるのである。が、彼等の中には、仕事を極く少しゝかやらないものがあつた。無論、さういふものゝ中には、仕事に馴れないため、それ以上作れぬものもあつたが、然し、中には仕事が厭で、出来ない風を装つて少しゝかやらないものもあつた。が、兎に角、彼等は蚕が糸を紡ぐやうに、休まず、物を言はず、暗い燈火の下で彼等の仕事をやり続ける。

 小牧は――七号監房と八号監房の間を――三度往復した。彼が恰度(ちやうど)三度目に八号監房へさしかゝらうとした時である。彼は不意に彼の予期したものがやつて来たやうな気がした。彼の足は廊下に釘づけになつた。が、次の瞬間、彼は決心して一〇二と書いた監房の扉の前に歩いていつた。切り抜かれた四角な穴がちらつと暗くなつた。と、そこから囁くやうな声で、

 ――担当さん。担当さん。

 と言つてゐるのが聞える。小牧の心臓は喞筒(ポンプ)のやうに早く、とつとつと高い音を立てゝ伸縮した。

 ――担当さん。担当さん。

 ――何だ。

 パッと扉が外へ跳ね返るやうな気がする。彼は要心して待つた。

 ――夜業を休ませてくんなせえ。

 ――何だつて? 何うしたんだ。

 ――頭痛がして、仕事が出来ねえでがすよ。

 ――頭痛がする?

 彼の不安と恐怖はふたゝび前の誇らかな感情に位置を譲つた。

 ――午過ぎつから頭痛がしやして、へえ。仕事をするのが辛くて仕様がねえでがすよ。なあ、担当さん。助けたと思つて休ませてくんなせえ。わつしのやうなものでも、人の情つてものは知つてゐますだよ。なあ、担当さん…………

 ――よし、待つてゐろ。今部長に聞いて来てやるから。

 彼は四角な穴を離れた。

 彼は今は落ちついて八号監房の突当りの扉の方へ歩いていつた。が、彼がまだ十歩と歩いて行かない内、右手の小窓からまた何か囚徒が言つてゐるのを耳にした。

 ——何をしてゐるんだ。仕事をやれ、仕事を。夜業の時間ぢやないか。

 彼は監督者としての威厳と権威を感じさせる調子をもつて言つた。

 ――担当さん………が、囚徒は続けた。

 ――夜業を休ませて呉んねえな。俺あ晩飯食つたら、腹工合が悪くなったゞ。仕事が出来ねえだあよ。なあ、一つ御情だと思つて休ませて呉んなせえ。御恩は、へえ、忘れはしねえだ。

 ――よし、待つてゐろ。

 彼は八号監房の巡廻を終へて七号監房へ踵を廻らした。と、こゝでも病人が一人ゐることを発見した。彼は夕食に何か当るやうなものがあつたのではないかと思つた。――まつたく、囚徒達は余りに(ひど)い粗食をしてゐる。しかも彼等は、一日一杯激しい労働をしてゐるのだ。だから彼等の顔はみんな蒼白くて生気がない。それに監房の中の暗さはどうだらう。それは、年中風も空気も這入らないやうに陰気だ。こんなところにゐて身体を(そこ)ねないものは、余程頑丈なものか、でなけやまるで神経のないものに違ひない。誰だつて病気になるに(きま)つてゐる………では、何故、この様な不自然な、非衛生的な生活を強ひなければならないか。懲罰………? ………然し囚徒達の人間を無視して、そこに如何なる懲罰があるか。目的………常に目的を忘れてはならない。懲罰の方法は他にいくらでもある。現在のやうな制度は、悪人を懲らして善人を作るといふよりも、善人を作るといふことを口実として、囚徒達が病気になつたり、衰弱して死んでいつたりするのを放棄(うつちやつ)てゐるのと同じことではないか。一体、何故、誰もが、それを不思議に思はないのだらう。こんな解り切つたことに気がつかない筈はない。では何の為に、誰の為にこの様な制度が考へ出され、誰がこんな制度を必要であるとしたのであらう。………

 彼は部長の部屋を開けた。最初の勤務ではあるし――それに部長の「何か変つたことがあつたら俺のところに報らせに来い」といふ言葉もあつたので――とにかく部長に報告してその指示を受けるのが穏当だと思つたからである。彼は云つた。

 ――部長殿、病人が三人ありますが、どうしたらいゝでせうか。

 ――病人だ?

 部長は大きな肩を彼の方へ廻した。

 ――左様でございます。一人は頭痛で、他の二人は、腹痛で仕事が出来ないさうであります。

 ――よし、よし。

 部長はもう解つたといふ風に彼の方へ大きな掌を押しだして言つた。

 ――では夜業を休ませてもいゝでせうか?

 突然、部長の大きな、牛のやうな顎骨が二つに割れた、かと思ふと、そこから弾き出されたやうな哄笑が降つて来た。のけぞり返つた大きな腹が椅子の上に踊つてゐる。小牧は侮辱を感じて目を落した。

 ――休ませてはいけないのですか。

 ――休む? 一体何のために休むんだ。

 ――囚徒達は病気なのです。一人は頭が痛い………

 ――誰の頭が痛いんだつて、え?

 ――八号監房の囚徒です。それから七号監房と八号監房に腹痛が二人………

 ――七号監房なんて囚徒はゐないぞ。番号を言ふんだ、番号を。

 ――…………

 ――何号と何号なんだ、え?

 ――解りません。

 ――解らない? ぢやもう一度行つて調べて見ろ。

 小牧は骨折つて三人の囚徒の番号を記憶(おぼ)えて帰つた。

 ――よし、そいつらを此処へ連れて来い。

 部長は小牧の報告を聞き流し乍ら言つた。

 ――出來るだらう? ………よし。ぢや直ぐ引張つて来い。あばれたらこいつでどやしつけるんだ。

 毛の生えた、小児の頭程ある拳が電燈の光の中で()を画いた。小牧は三人を引率して来た。

 囚徒達は扉を傍にして、並んでゐる。部長は小牧の言ふことをそつちのけにして、ぐるりと三人の囚徒達の方へ体をねぢ廻した。

 ――貴様達は、どうして仕事が出来ないつて言ふんだ。うむ?

 ――はい、晩方から少し頭痛がしやして。

 頭の尖つた猥褻な顔をした一〇二号――それは胸の上に記されてある――が鼻のあたまに皺を寄せながら言つた。

 ――頭痛がする? 貴様の頭なんか、頭痛がする程上等に出来てゐるかい。おい貴様達はどうした。

 ――はい、少々腹が痛みやして………

 と、もぎたての馬鈴薯のやうな赤い鼻をした百姓面の一〇八号が云ふ。

 ――腹が痛い?

 ――へえ、どうも朝つからよくごぜえませんで………

 とその隣りの(いたち)のやうな一一五号が続けた。

 ――朝つから痛いなら、どうして医者に診て貰はなかつたんだ。よし。貴様達はずるけようとかゝつてゐるんだな。馬鹿野郎共! 二十年も監獄の飯を食つた俺が、貴様達なんかになめられてゐると思つてゐるか! 人を甘く見やがると承知しねえぞ!

 部長は立上つた。

 ――何故黙つてゐるんだ! 貴様達は、ずるける心算(つもり)でやつたんだらう。おい。白状しないか! 言はなけや言はせて見せるぞ!

 部長の右脚が心持後へ下つた。腕が半円を描いて空間を截つた。と思ふと、右端にゐた一一五号の頭が、一〇八号の肩へ突当つて、またもとへ跳ね返つた。真中の一〇八号は次の打撃を待ちかまへるやうに、頑丈相な一分刈の頭を左へ転廻した。そしてその頭が激しく左へ移動したかと思ふと、その次の一〇二号が少し躯を(わき)へ避けたゝめ、続いて体まで一緒にそつちの方へ持つて行かれた。そしてその体が帆柱のやうにもとへ帰つた時、部長の拳は尖つた一〇二号の頭に向つて振りあげられてゐた。が、その拳は予期した次の運動を開始しないで、ぴつたり途中で止つた。

 ――よし、白状するといふんだな。

 部長が唸つた。

 ――へえ。

 ――ぢやあ、どうしてずるける気になつた?

 ――へえ。

 ――へえぢやねえ。ずるけたんだらう。

 ――へえ。

 囚徒はニヤリと笑つた。がその笑は一寸顔に現れかけたばかりで、次の瞬間にはどこかへとんでいつてゐた。といふのは部長の拳が、彼の尖つた、頭痛してゐるといふ頭の上にとんでいつたからである。

 ――どうしてずるける気になった?

 ――……………

 ――言はないか! 言はなけや、また擲りつけるぞ! 貴様は頭が痛くないんだらう?

 ――へえ。

 ――ぢや何故嘘を云つた? それを言へ!

 ――実は………

 ――実は何だ。さつさと終ひまで云つて終はんか!

 と部長はまたニヤニヤするやうな笑が囚徒の顔に表れかけたのを見て、焦々しながら怒鳴りつけた。

 ――へつへつ。新米の担当さんだつたので………へつへ。

 部長の顔が一瞬間間抜けた無表情を示した。が次の瞬間例の弾き出されるやうな笑が彼の上体をゆす振つてゐた。

 ――新米の担当さんだつたので?

 ――舐めてもいゝだらうと思ひやして。

 ……………………

 小牧はその後のことをよく覚えてゐない。彼はたゞその時囚徒のいやしい狡猾相な笑ひと、部長の揶揄(からか)ふやうな視線をちらつと自分の両頬に感じたやうに覚えてゐる。が後から考へて見ると、その時部長が「おい、小牧、舐められて黙つてゐるか!」と云つたやうにも覚えてゐる。けれどもそれらの印象は、ほんの一瞬間ちらつと彼の意識の上をかすめただけであつた。なぜかと言ふに、小牧は、囚徒の言葉が終るか終らない内に、自分の全存在が全く異つた激情に支配されてゐることを感じたからである。潜伏してゐた本能が、俄かに他の(あら)ゆるものを圧倒して終つた。激しい痙攣が彼の四肢――それはもはや彼の制御することの出来ないもの、彼以外の何物かに属してゐるものゝやうであつた――を走つた。囚徒の顔が傾き、躯が壁に突当つて蹌踉とした。震動してゐる扉の把手、壁、床板……………、それ以外の何ごとをも彼は記憶してゐない。彼は後になつて自分の手が血で染つてゐることに気がついた。恐らくそれは彼が憤怒に燃えてとびかゝつていつた時、囚徒が思はず受け止めた腕の手錠の傷であつたらう。

 これらの出来事は小牧にとつてはすべて不慮(おもひがけな)いものであつた。彼にはそれが突如として発現し、やがてまた忽ち消えていつた怪奇な幻想のやうに思はれたのである。彼にはどうしてそのやうな出来ごとが起つたのか、またどうしてあのやうな狂暴な発作が自分を捉へたのか、その事件や動作の理由となってゐるものを明瞭(はつき)り想ひ返すことが出来なかつた。彼はたゞそれらの経験の全体を通じて、何かしら自分の経験を超えたものが、自分の経験的知識の予期に反した理解し難いものがあつて、それが彼に不安を感じさせ、また彼の心に一種の漠然とした不快の感情を残していつたことを感ずるのみであった。

 彼はながい間その囚徒達――ことに自分の擲つた囚徒――の顔をまともに見ることを避けるやうな感情が自分の心の中に働いてゐるのを感じた。何か不快なものを見るやうな感じを抱かせたからである。三日目に囚徒達を工場へ連れて行く時、彼はその囚徒――一〇二号――に訊いた。

 ――痛くないか。

 ――へゝゝ。

 囚徒は唯笑つたゞけである。別に怒つてゐる様子もなかつた。所々顔が青く腫れてゐるだけである。

 ――あの時、お前は(小牧はその囚徒の尖つた頭に目を注ぎながら言つた)監房の中にゐたのに、どうして新任の看守だといふことが解つた?

 ――へえ………その、靴の音が違つてゐやしたので――囚徒は答へた。

 小牧はかうした事実に触れるにつれて、囚徒達の生活が、外的にばかりでなく内的にも普通人のそれと非常に違つたものであるといふことに気がついて来た。そして、それと同時にこの様な囚徒達の生活そのものに対して、興味を感じて来た。彼等を導く為にはまづ彼等の生活を、彼等の生活に於て感得し、理解しなければならない。……………で彼は(つと)めて囚徒達の内面生活に触れようと自ら骨折つたのである。

 囚徒達の生活は外から見れば決して複雑な理解し難いやうなものではない。否、むしろそれは極めて単純な法則からなり立つてゐる。――囚徒達は毎日仕事場へ出掛ける。そして各々の仕事に従事する。彼等は社会の総ゆる種類の階級から来てゐるから、たとへば、自転車を拵らへるものもあれば、机や椅子を拵らへるものもある、炭団(たどん)を作るものもあれば、時計を拵らへるものもある、といつた風である。そして五年間懲役に服する義務のあるものは五年間その同じ仕事を続ける。洗濯をやるものは毎日洗濯をやり、下水をとるものは年百年中そればかりをするのである。だから彼等はその仕事には非常に熟達する。たとへば下水とりの担ぐ槽は随分大きくて一寸(ちよつと)普通の人には担げない位のものだが、彼等はそれを肩に掛けて片方の手を腰へあて、もう一つの手を振りながら、とつとと訳もなく駈けるのである。また家具類なども材料や手間ををしまないで拵らへるので随分立派なものが出来た。しかもそれらは大抵市価の半格位で買へたのである。小牧は机と書棚を拵らへて貰つた。時計などは五円位出すと、黒檀の縁をとつた立派なものが買へる。が、こんなことの為に看守が誤つて自分の手を切ることも随分多い。つまり囚徒に安い、良いものを拵らへて貰はうと思つて賄賂をやる、そしてそれが発覚して禍を招くといつた風なことが屡々あつた。囚徒に依つては、向うの方から此方の弱味に附け込んで煙草を要求したり、菓子を要求したりする。それがために免職になる看守も随分あつた。出入の商人などもこれをやつて差止めになつたものが随分ある。小牧が這入つてからも一度さういふことがあつた。

 ――どうも囚徒達は何処かへ煙草をかくしてゐるやうだ。

 と第三工場の部長の言ひ出したのがことの初まりである。なるほどさう言はれて見ると自分も二三日前からそんな気がしてゐたといふものが三人ばかり出て来た。

 ――よし、ぢや明日悉皆(すつかり)工場中を捜して見よう。

 といふ部長の発案で、さうすることに決つた。次の日になつた。囚徒達は茶畑の方へ廻された。看守と部長と総掛りで捜索に取掛つた。凡ゆる処は捜索された。天井と言はず、机の下と云はず、壁、柱、窓、囚徒達の道具箱に到るまで総ゆるものが仔細に点検された。然し、それらしいものは何処にも見当らない。部長は部屋の真中に立つてゐた。看守達は失望して部長の顔を凝視めた。

 ――よし。鍬をもつて来い。

 部長は叫んだ。看守は鍬を持つて来た。

 ――床下を掘るんだ。

 部長は地面を指して言つた。看守は掘初めた。一時間ばかりかゝつた。長さ十米程ある大きな溝が出来た。もうないのは解つてゐる、と小牧は思った。然し部長は凝つと皆の掘るのを監視してゐた。一時間半も掘り続けた。深さが一米位になつた。と長く続いた看守達の列の(はづ)れの方で誰か叫ぶものがあつた。皆がそつちの方へ駈けていつた。一人の看守が土に(まみ)れた敷島の箱を持って立ってゐる。穴の中にはその破れた紙片があつた。

 ――続けろ!

 部長は叫んだ。とその看守はまた穴へ降りていつた。そしてそこから更に二十個ばかりの敷島を掘り出した。部長は取調べにかゝつた。そしてそれが工場で拵らへる製作品を買ひとりにくる商人がそつと囚徒達に持つて来て呉れたものだといふことが解つた。無論その商人は出入を差止められた。(たばこ)を吸ふことは随分(やかま)しい。がそれにも拘らず囚徒達は何処からともなくそれを持つてくる。二分か三分位に残つた吸殻でも見つけると、彼等はそれを虎の子のやうに大事にしてかくまつて置く。それは実に不思議な位だ。そしてそれを隠匿する方法も実に巧妙を極めてゐる。柱をくり抜いてその中へ隠したり、床下の煉瓦の下へ隠したりすることは彼等の朝食前にする仕事であつた。

 煙草ばかりではない。色々な禁制品を隠匿することは囚徒達の始終やることで、いくら嚴重に取締られても、かういふ種類の犯罪は絶えなかつた。何によらず、一寸面白いものがあると、直ぐそれを隠匿して置く。しかも、それが実につまらないものでもさうであつた。或日――それは小牧が囚徒達を監房へ引率して帰つた時のことである。囚徒達は食事の時間なので欣々として大手を振つて帰つて来た。こんな時の囚徒は実に無邪気なものである。が小牧はさうやつて一人々々囚徒達を監房へ入れてやつてゐる時、一人の囚徒が何か胸にぶら下げてゐるのをちらつと見た。その囚徒はそんなことには一向気がつかないらしく、小牧の顔を見ながら人の好さ相な笑を泛べてとつとと歩いて来たのである。

 ――おい、一寸待て! それは何だ。

 小牧は囚徒の胸を指して言つた。囚徒は周章(あわ)てゝ胸にぶら下つてゐるものを掌で押へた。

 ――へえ………何、何でもありません。

 ――嘘を云ふと承知しないぞ! 手を取つて見ろ。とらんか!

 囚徒は掌をとつた。一枚の写真が下つてゐる。小牧はそれを外した、裏には囚徒の番号が附いてゐる。囚徒は胸の番号札を丹念に切り抜いて、そこへ写真を()めてゐたものである。それは絵葉書を細く切つたもので、しかもその写真は四十七士の墓を写したものであつた。小牧は当惑した。彼は囚徒がよく何処からともなく女の写真を見附けて来て隠して置いたり、猥褻な繪を持つてゐたりすることを聞いてはゐた。然し、四十七士の墓がどうしてこの囚徒の欲求の対象になつたのか――しかもそれには凡ゆる困難と危険が伴つてゐる――解らなかつた。彼は聞いた。

 ――一体何の為にこんなものをもつてゐるんだ。

 囚徒は目を円くした。丁度小牧の質問が非常に突飛なもので、どうしてそんなことを聞くのか判断が出来ないといふ風に。

 ――お前は四十七士の墓が好きか。

 ――へえ。

 ――誰からその話を聞いた?

 ――へえ………その忘れやした。

 ――ぢやあ、この墓は誰の墓だか知つてるか。

 ――わしは餓鬼の時から勉強が(きれ)えでして………

 ――この墓は誰の墓だが知つてゐるかつて言ふんだ。

 ――へえ………その、知らねえでがす。

 小牧は一切を了解した。

 彼等は表現を求めてゐるのである。実際、獄舎の生活には、表現といふものが全然ない。彼等は規定の時刻に起る。食事をする。仕事をする。寝る。(これは寝る時には寝なければ………ならないといふことを意味する)図式だ。彼等の生活は一定の図式通りに進行する。彼等が生活するのではない。その図式が――軌道が――彼等を導くのである。機械――意志活動の絶無な――機械。彼等は軌道の上をカラカラと滑つてゆく機械だ。彼等には、彼等の生産するものについて選択する自由があるか。彼等には、彼等の消費するものについて選択する自由があるか。否! 彼等は話すことさへ禁ぜられてゐるのである。

 彼等の一日の生活は、定り切つてゐて、少しの変化もない。彼等は、同じ時刻に食事をする。同じ時刻に仕事をする。寝る。……………彼等は、今日の生活と同様な精確さで、十日後の生活を明瞭(はつき)りと想像することが出来る。そこには発展がない。生長がない。歴史がない。つまり、生活といふものがないのだ。

 そこで、彼等が生きる為には、生活する為には、それを破らなければならなくなる。あの、なければならぬを、軌道を、規則を、破らなければならなくなる。……………彼等にとつては、それが女の絵であらうと、四十七士の絵であらうと、問題ではないのである。彼等はたゞ規則違反の行為をさへすればいゝのだ。何故なら、彼等にとつて、生きるとは、とりも直さず、規則違反の行為をすることに外ならないから。………さうだ。では何故それがあるか。………懲罰………然し、この様な懲罰は、果して人間に課することが赦される様な種類のものであらうか。それは、彼等から生活を掠奪するといふこと、人間を機械として取扱ふといふことを意味するものではないか。……懲罰………否! ………現在多数の犯罪者が社会から出るといふことが既にそれの原因として、(すくな)くともその最も深い原因として、現在の社会の大多数者にとつては、生活が、表現が、与へられてゐないといふこと、尠くとも充分に与へられてゐないといふことを語るものではないか。………

 彼は二日前署長の命令で本芝署へいつたことを思ひ出した。用件といふのはかうである。その日小牧の担当してゐた監房から一囚徒が出獄になつたが、その囚徒がなにかの罪を犯したと見えて、夕方にはまた本芝署の手を煩はすことになつてゐた。本芝署ではそのことをすぐ電話で問ひ合せて来たが、それが確かに今朝この監獄から出た囚徒であるといふことが解ると、折返して、それでは直ぐ一人立会に来てくれといふことを依頼して来たのである。で、署長はその囚徒の担当看守であつた小牧に行くことを命じた。小牧は眼の前が暗くなるのを感じた。聞いて見るとその囚徒はその朝出獄すると直ぐ市へ出て、そこで有金を残らず飲んで終つた。そして午後三時頃その飲屋をぶらりと出ると暑いので着物が欲しくなつた。囚徒は寒い折に入獄したと見えて、まだ(あはせ)の着物に厚い莫大小(メリヤス)襯衣(シャツ)を着てゐたのである。彼は或古着屋の店先に立つて、そこに吊るしてあつた白地の単衣物(ひとへもの)に手を掛けて、それを引張つた。そしてその引張りかけたところを捕へられた、といふのである。事実は立派な窃盗未遂罪である。が、その囚徒は五年の刑期を今日やつと済ませて帰つたばかりなのだ。それが朝出獄してもう夕方には捕まつてゐる! 小牧は怒る気にもなれなかつた。といふのは、さうした囚徒の行為がどんな気持から出てくるのか、それが少しも理解出来なかつたからである。が——兎に角、その囚徒は自分の監房から出た囚徒ではあり、その上自分がこの問題の解決の為に派遣されたのであるといふことを考へて見れば、一通りはこの事件を円満に解決するやうに骨折つて見るのが自分の義務である、と小牧は思つた。で彼は、本芝署長と二人でその古着屋へ出掛けて「この囚徒は五年の刑期をやつと今日終へたばかりなのであるが、それがまた直ぐ捕るといふことは如何にも可愛相であるといふこと、勿論貴方の方でそれを望むなら告発しても此方の方では少しも文句などは言ふことは出来ないのであるが、一つにはさういふ事情もあるし、また本人もこれから心を入れ替へて決してこんなことをしないと自分の行為を後悔してゐるし、自分達も猶将来のことをいましめて、二度とこんな間違ひを起させないやうに説諭してやる心算(つもり)であるから、なるべくなら穏便な処置を採つて、赦してやつて戴き度いといふこと」を話して古着屋の承諾を得、兎に角その話はまるく治めることが出来たのである。

 然し、小牧はその囚徒が、それから心を入れ替へて、決してそのやうな行為をしないといふことを保證することは出来なかつた。また自分が、さういふ行為をとらないやうにその囚徒を説諭してやることが出来ると確信することが出来なかつた。否単にそれが出来ないばかりでなく、自分の教戒などは恐らく何の役にもたたないだらう、といふ恐ろしい知覚を明瞭(はつき)りと自分の心底に感ぜずにはゐられなかつた。………がこの知覚の根底となつたものは何であるか、その知覚の根拠となった事実は何であるか、その時は深くそれを穿鑿(せんさく)して見ようとはしなかつた。從つてその知覚の根底となった事実そのものが抑々(そもそも)如何なる理由から起つたものであるかなどゝ云ふ疑問などは猶さら起る筈はなかつた。──それが今、彼にまで明かになつて来たのである。

 彼はその朝その囚徒が出獄になつて監獄を出ると、真直ぐに飲屋へ出掛けて、そこで一文無しに財布の底を(はた)いて終つたといふことも理解が出来て来た。監獄には空気がない。生活がない。そこで彼は真空になつた心臓へ穴を開けて空気を入れるために飲屋へ出掛ける。そして沈没する………が(やが)て彼は帰つて行かなければならない。彼を待ちかまへ、そしてふたゝび彼を弾き返さうとしてゐる社会に帰つてゆかなければならない。彼は行く。そしてその中に割込まうとする。が社会は彼の前に尻込みする。彼は仕事をもつことが出来ない。さうかうしてゐる内に腹が減つてくる………必要に迫られて窃盗を働く………監獄に帰つてくる。万一あはよく職にあり付いた者があつても、社会では彼が囚徒であつたことを知ると、また穴の中へ陥入れようとするのである。彼はこゝでも自分に生活が拒絶されてゐることを見る。結局同じことである。そして………彼は再び監獄へ帰つてくる。仮りに、これらのことが総て(うま)くいつたとしても——即ち社会を欺瞞し、職業にありついて一定の収入を得るやうになつたとしても——さういふ場合にも矢張結果は同じだ。彼には矢張仕事——彼の意志を働かせ、彼の自己を充分に表現するやうな仕事がない。で彼は粗暴な快楽や、不自然な歓楽に身をひたして、鬱積した生活の苦悩のはけ口を見出さうとする………そして………結局は監獄へくるのだ。

 闇が彼の行手を塞いだ。錯乱し、道を失つた電光がその中をよろめきながら走る。疑惑と恐怖が交錯して、彼の目の前に暗い迷路を押しひろげてゆくやうであつた。彼は外套の襟を立て(なが)ら、蹌踉として泥濘(ぬかるみ)の中を歩く。雨が激しく横擲りに吹きつけて、彼の服を濡らした。

 ——だが、これらのことは何を物語るのであるか。秩序は何故必要なのであるか。一切の原因は現代の、自己発現の阻止された生活そのものにあるのではないか。……………広大な、地球を蔽ふ牢獄制度! ………監獄は単なる象徴に過ぎない。然し秩序は? 秩序のためには――秩序のためには? 必要ではないか。それは社会の城塞である。疫病を隔離する避病院である。我々はそれを守る歩哨だ。我々は社会の自由のために、秩序のために、それを監視してゐる……………これが権力だ。然し、目的は? 目的は何か。

 権力は社会の錠前である。それは多かれ少なかれ社会の結紐(けつちゆう)を維持するために、それに反するものを抑制する。從つて——囚徒達は我々の命令に從はなくてはならない。彼等は機械のやうに動き廻らなくてはならん。生活を………もつてはならん。然し、一個の人間を………ひとしく意志し、生活することを欲する一個の人間を………全く屏息せしめることの権利――神聖なる権利――これが看守の、職業上の権利なのであるか!? この権利は何処から来たものなのか? 誰から与へられたものなのか?

 我々は安全地帯――さゝやかなる――を作る。それはさうかも知れない。然し社会は本質的に人間の結合である。人間が目的でなければならない。………けれども、我々はその社会のために(あるひは社会のためといふ理由で)囚徒の人間を封鎖しつゝある。秩序――然し秩序! 秩序は何のためにあるか?

 囚徒とても生活をもたねばならない。彼等はそれを欲する。彼等は獄則を――破らねばならない! 彼等は生活の外から真暗な壁をさぐつて、錠前をこぢ開けようとする。壊さうとする。………かくて、敵対は避け難いものとなるのだ。秩序――然し人間――それは………はたして囚徒のためにあるのであらうか? 囚徒の人間のためにあるのであらうか?

 三日間、小牧は激しい精神上の動揺を経験した。暗澹とした不安な感情の錯綜が、全く彼の生活の扉を遮断して終つた。模索が続いた………が、この不安な動揺と錯綜は、三日後の出来ごとによつて、さらに明瞭(はつき)りした形をとつて現れることになつた。

 彼はその日、第三工場と、第四工場の巡察勤務に当つてゐたので、その服務区域を巡廻してゐると、第三工場の看守がやつて来て、一寸話したいことがあるから來て呉れといつて小牧を工場の裏手へ引張つていつた。行つて見ると同じ看守仲間が、第三工場と第四工場から三人ばかり来てゐる。話といふのはかうであつた。今第三工場に、一人政治犯がゐる。六号監房の囚徒で、――十三号といふのがその囚徒の番号であつた――三ケ月ばかり前にこゝの監獄へやつて来たのであるが、一体に反抗的で、看守や部長の言ふことをちつとも聞かない。何か此方の方で一寸した間違ひでもあると、直ぐ突込んでくる。「それで、丁度いま署長もゐないやうであるし、皆で一つうんと非道い目に合はせてやり度いと思ふのだが、手伝つて呉れないか」といふのである。前にも言つたやうに小牧はその日丁度(ちやうど)第三工場と第四工場の巡察勤務に当つてゐたから、その担当区域で起つたことは、すべて小牧が責任を負はなければならないことになる。從つてその囚徒を第三工場と第四工場の間の裏庭でやつゝけるためには、たとへそれが黙認の形に於てゞあるにしろ、小牧の援助を得なければならなかつたのである。小牧は仕方なしに――何故かといふに彼は新参で、監獄の習慣をよく知らなかつたし、それに同じ看守仲間といつても、古参の彼等には服従しなければならない関係にあつた(実際彼等が、彼にそのことを交渉したのも、ほんの形式にすぎなかつた)から――そのことを承知した。一人の看守が囚徒を呼びにいつた。

 ――おい小牧君、君はそこにゐて見張りをして呉れ。

 若い髭を生やした藤沢が――彼は六号監房の担当看守であつた――妥協的な笑を送りながら五六歩離れた地点を指して云つた。

 小牧は衣嚢へ手を突込んだ儘、そこらを早足に歩き廻つてゐた。彼は工場から一人の囚徒が先刻の看守に引率されてくるのを視野の遠くに感じた。が、それを感じながら、彼は強ひてそつちの方を向かうとしなかつた。自分自身に対する羞恥がそれを妨げたのである。

 けれども、もう見ない訳にゆかなかつた。囚徒は四人の看守に取巻かれて立つてゐる。小牧はその囚徒の顔をまともに視た。そしてそれと同時にその囚徒が、先週六号監房の看守である藤沢と言ひ争つて刑罰に附せられた囚徒であることを思ひ出した。……それが何の理由からであつたか、小牧は深く知らない。が兎に角藤沢が何か言つたのに対して口答へをしたのがもとであるらしかつた。小牧はその時たゞ藤沢が「貴様、抵抗する気か!」と怒鳴つてゐたのを、そして藤沢がさう言つた時その囚徒が鉄の棒をもつて身がまへしてゐたのを覚えてゐるだけである。が、それは藤沢が擲らうとして振りあげた拳に対して身がまへたものであるらしかつた。藤沢は工場にある電話で直ぐそのことを部長に通告した。監獄中で一番腕力の強いと言はれる第一監房の部長が来た。そして囚徒十三号に(しつか)り手錠を嵌めて、先づ抵抗の出来ないやうにして終つた。擲つた。そしてそれからあの不思議な刑罰が初まつたのである。…………………………………………………………………………………………小牧はその時のことを思ひ出すと、今でも熱病にでもとりつかれたやうな悪寒と、重苦しい内心の狂騒を感じる。……………一番年上の看守が口を切つた。

 ――十三号。貴様炊事場へいつて、直ぐ飯をもつて来い。

 ――貴様は、昨日仕事をするのが厭だつて言ひやがつたらう! だが、今日から、好きになるやうにしてやる。

 藤沢がすぐその後を続けた。

 ――御馳走してやるんだ! ぐづぐづしてやがらねえで、すぐもつて来う。

 ――飯櫃二つもつてくるんだぞ!

 外の二人が言つた。で囚徒は真直ぐ炊事場の方へ引返していつた。

 ――飯櫃二つは傑作だつた!

 四人の看守達は、――彼等の顔には一様に愚かしい狡猾な笑があつた――何かひそひそ話し合つた。

 ――おい、来やがつたぜ。

 見ると二つの大きな飯櫃を肩に乗せて、首を激しく一方に傾けながら、囚徒十三号が炊事場の裏から歩いてくる。肩の重荷を支へるために懸命な努力を払つてゐることが、その歩き(ぶり)で知られた。皆はくすくす笑つた。然し囚徒は到頭それを看守達のゐる所までもつて来た。そしてやつとのことでそれを肩から降ろした。が、看守達は黙つてぢろぢろ囚徒を見てゐるばかりで一語も口をきかない。

 ――もつて来ました。囚徒は到頭業を煮やして言つた。

 ――誰がそんなものを持つて来い。と云つたんだ。

 年上の看守が先づ計画の緒を切つた。

 ――莫迦野郎。そんなものをこゝへもつて来てどうするんだ。

 藤沢が続けた。囚徒は看守達の意図を了解したらしかつた。決然とした、硬直した表情が彼の顔を真直に持ちあげ、看守達の顔に釘づけにしたからである。

 ――君が、君達がいま、自分の口から、それを言つたんだ。

 ――生意気云ふな!

 ――卑怯な、勇気のない奴等が、君達のやうなことをやるんだ!

 ――なに!

 ――いゝから擲つちまへ!

 ――擲つちまへ!

 囚徒は一二歩体を後へ引いた。そして(しつか)りと身がまへした。然し、それは一瞬の間であつた。次の瞬間、乱打が、無数の乱打が、彼の肉体を(つゝ)み、彼の肉体に向つて撃ち降ろされてゐた。飯櫃の蓋が激しい音を立てゝ飛んだ。土埃が(あが)つた。そして小牧はその土埃の中に、一団の人間の手と足が、囚徒の肉体――一塊の肉体――を中心にして、離合し、乱動し、移動してゆくのを見た。キラ、キラ光る短剣と、入乱れる靴の音を、打撲の鈍い響と、獣的な人間の咆吼を聞いた。………小牧はこれらのことを明瞭(はつき)り覚えてゐる。

 囚徒は斃れて、意識を失つてゐた。長い袋のやうであつた。が、看守達は猶、乱暴な横打を続けることを止めなかつた。

 が軈て恐怖――抵抗することの出来ない恐怖が、事実を認識する力を与へ、彼等の心に間隙を拵らへ、彼等の憎悪を鎮めていつた。

 ――おい、やり過ぎやしねえか。

 一人が云つた。そこで彼等は各々の位置に、現実生活の職業的な心理に立帰つた。一人の看守が水を汲みにいつた。そして他の一人は医者を呼びにいつた。(監獄附の医者はこのやうなことがらの為にも必要なものであつたからである)軍医あがりの医者はすぐやつて来た。そして仔細に囚徒の体を点検した後で、囚徒は少くとも全治までに一週間を要する重傷を負つてゐることを看守達に告げた。で看守達は、衣服を脱がされて裸になつた囚徒の体――無数の靴痕と打撲傷のため、ほとんど皮膚の色が残つてゐない囚徒の体(それは実に凄惨な感じのするものであつた)――を病監へ運んでいつた。

 囚徒は半日昏睡状態に陥つてゐた。が、彼は目が醒めると看護人や見張の看守の止めるのも聞かずに、寝台から起き上ると、蹌踉として、然し決然とした容色(いろ)を泛べながら、扉の方へ歩いていつた。それは一目見ても、囚徒が如何に必死な努力を払ひつゝあつたかといふことを、人に知らしめるやうなものであつたといふことである。――小牧は後になつて、そのことを、その場にゐ合せた看護人に聞いた――勿論看護人も、無理にそれを止めようとしたが、あまりに凄壮なその場の光景に撃たれて、――実際それは寒気を催すやうなものであつたと彼は語つた――唯囚徒のなすがまゝにまかせて置くより外なかつた。看守も囚徒が指した通り扉を開けてやつた。十三号はそこから真直に署長の部屋へ歩いていつたのであつた。

 ……………が事件がどうなつていつたかはすべて後になつてから解つたことである。兎に角、翌日小牧を初め、他の四人の看守達は署長室へ呼ばれた。署長の話によれば、「五人の者は傷害罪と職権乱用の起訴を受けてゐる――無論それを告訴して出たのは十三号である――が、署長は囚徒から告訴の申請を受けると、それを受附けない訳にゆかない。で、君達は多分明日か明後日告発されることになるだらう。」といふことであった。看守達は署長の(もと)を辞して帰つた。そして帰るとすぐ、この思ひがけない告訴に対する善後策を講じた。そして彼等は、結局、自分達が横打し、蹂躙した囚徒十三号に対して、そして丁度いま自分達を起訴してゐるその当の囚徒に対して、反対に公務執行妨害と、逃亡未遂の名義で起訴することに決めたのである。それは主として、最年長者である三号監房の担当看守の提案にかゝるものであつたが、彼の言ふところによると、被告、すなはち囚徒は反抗の意志を示し、戒護者、すなはち自分達の命令に服しなかつたから、先づ公務執行妨害の罪に該当する。そして次に我々、すなはち戒護者達が彼を刑罰に附するために捕へようとした時、五六歩後へ逃れたから――事実は最初の打撃を避けて身がまへするために、二三歩本能的に体を後へ引いただけであつたが――これも立派に逃亡未遂罪を構成する、といふのである。その三日後にその裁判が開かれることになつた。人員は都合八人。看守五人に部長と弁護士一人。それから十三号と、裁判所でつけて呉れた囚徒の弁護士一人。その外は裁判官と検事判事等であつた。

 判決は、裁判長の言ふところに依れば、公平な、寛大な精神によつてなされたものであつた。といふのは、囚徒十三号に対する看守達の告訴が不起訴に終つたばかりでなく――これは不起訴になるのが当然だ――看守達に対する囚徒の告訴も結局不起訴に終つて、看守達全体も無罪の判決を与へられたからである。

 この事実は、小牧に、囚徒と看守の関係は決して並行的なものでなく、(むし)ろ対立的なものであるといふことを教へた。然し秩序――それは秩序のためには必要なのではないか? もしそれに依つて秩序が維持されるならば――

 然し、人間はもし秩序が人間を侵害するならば――その時は秩序は否定されなければならない。然し、この事実は、看守達が相手の囚徒の生活のために尽すといふ考へをもつてゐないばかりでなく、反対に彼等の生活を拒否し、蹂躙することを何とも思つてゐないといふことを語るものではないか。從つて………もし、看守達が、常にこのやうな行動に出なければならないものとすれば、それは自分の最初の抱負や目的に反するものでなければならない。………が、それは――不可能なことであらうか。たとへ、看守達全体がどのやうな行動を採らうと、自分だけは自分の考に從つて自分の抱負や目的とした所のものを貫いてゆくことは出来ないものだらうか? 囚徒たちのために………囚徒たちの人間のために! そして遺伝的な素質や——仮にそのやうなものがあつたにせよ――周囲の事情や、境遇や、社会生活の苦悩から、或ひは制度の不完全や不平等から罪を犯すに到つた不幸な人達――彼等も亦ひとしく十字架を担ふものである! ――の悩みを分ち、彼等の為に自分の生活を捧げることは出来ないものだらうか。たとへ、それが、極めてさゝやかなものであつても、彼等の獄舎を訪れる光となり、慰めとなることは出来ないものであらうか。もし………それが………できないとすれば………一切は無意義でなければならない! 然し、それは果して………不可能であらうか。この疑問が彼の生活を支へてゐる一本の緒であつた。それは………いつか――すべてが明らかにされるやうな――事実に依つて答へられるだらう。

 で、彼はその「すべてが明らかにされるやうな」「最後の決定を促すやうな」何等かの事実にぶつかるのを待つた。たとへ、それが、どのやうな解決に導くものであつても。といふのは、このやうな良心の重荷を負つて、何時までも長く自分の生活を続けてゆくことは不可能であつたから。

 けれどもそれには長い期間を要しなかつた。むしろそれは予期したよりも早く、予期したよりも一層決定的な、形をとつて現れることになつた。二日後――

 

 小牧はその時茶畑に囚徒達を監視してゐたのである。十一時五十八分であつた。もう昼食の時間なので、小牧は作業を止めようと思つてゐたのである。突然あの恐ろしい叫声が起つた。

 小牧は何か恐ろしい事件、非常事が突発したことを直覚した。そしてそれと殆んど同時に、向ふに突立つてゐる第一工場の側壁が凄じい音を立てゝ崩れてゆくのを見た。

 ――地震だ!

 茶畑に茶を摘んでゐた囚徒達も一斉に立上つて彼の方を向いて立つてゐる。小牧は突然測り知られない恐怖を感じた。何故ならいまや彼等――囚徒達も亦一個の人間、何事をも意欲し、何事をも実行し得る一個の自由な人間であつたからである。

 空気が収縮し、鼻を(ふく)らまし、震動した。何処かで爆薬が破裂したのである。茶畑にゐた囚徒の一人が手を高く挙げた。とそれに続いて小牧の担当してゐた囚徒達が一斉に――それは工場や監房から押し出してくる囚徒達の叫声と殆んど同時だつた――乱舞の叫声を挙げた。恐怖が海嘯(つなみ)のやうに小牧の胸を満し、小牧の心臓に押し寄せて来た。彼は囚徒達の眼の中に、その叫声の中に、雀躍する乱舞の中に、無限の威嚇的なあるものを感じたのである。けれども小牧はそれに対して恐怖を感ずれば感ずる程、反対に囚徒達に対する反感と敵愾心が彼の心を満し、彼の心を占領してゆくのを感じた。本能的な自衛の感情が、囚徒達の行動に反撥し、その行動に対する敵対的な衝動を起させたのであつた。そしてこれは彼ばかりではなく、外の看守達もひとしく感じたところである。

 小牧は叫んだ。(つぶて)のやうに囚徒達の方へ進んでいつた。狂喜し乱舞する囚徒達を抑制するためである。けれども彼は、不意に自分の躯が全く自分の自由にならないことを感じた。彼は進んだ。然し、足は同一地点を踏んでゐるだけであつた。脚と上躯が離れ離れになつて、全く異つた活動をしてゐるやうである。

 向ふにある工場の建物が肩をあげた。連つた監房の建物はより集つて互に押し合つてゐる。それは活物のやうに――梯形を描き、平行四辺形を作つて――迅速に屈伸し、微動した。そして微動し――口を歪める毎に、そこから夥しい赤褐色の人間の群を吐き出してゐた。倒壊した工場の側壁からは砂煙があがつてゐる。

 大地は何かすばらしく大きな獣が動いてゐるやうであつた。尖つた円筒形の警戒塔が空間に楕円形を描いてゐる。太陽が振子のやうに震動した。

 ………小牧はもはや囚徒達を支配してゐたものが全く力を失つたことを感じた。そしてそれを感じながら、それを感ずれば感ずる程さうしなければならないものゝやうに叫び続けた。――静かにしろ! 静かにしろ!

 然し囚徒達は群集の方へ、陸続と雪崩(なだれ)をうつて工場や監房から押し出されてくる群集の方へ進んでいつた。群集は所々に渦を巻いて密集したかと思ふと、忽ち崩れて、すぐまた(ほか)の場所へ同じやうな渦紋を作る。そして開かれた扇子のやうに段々拡がつてゆく。小牧はその渦の中に、或は拡がつてゆく群集の先端に、看守が白い手を挙げて制止し、押戻さうとしてゐるのを見た。彼等は、その危険な場所へ、いまにも倒壊しさうに震動してゐる監房や工場の中へ、本能的に、何の考もなく、兎にかくさうしなければならないと思つてゐるやうに、囚徒達を押戻さうと焦つてゐるのであつた。けれども、それにも拘らず彼等は結局は潮のやうに押し寄せてくる群集の波にもまれながら、後へ、後へと押し返されていつた。

 ――抜刀しろ! 抜刀しろ!

 何処からともなく叫ぶのが聞えた。と、もうすぐ向ふの押し返し、渦巻き、揉み合つてゐる群集の頭の上で、短剣が触角のやうに圏を画きながら、キラ、キラ光つてゐるのを小牧は見た。

 何処かで銃声がした。

 ――小牧! 小牧! と後方で叫んでゐるのが聞える。小牧は丁度群集の中へ、囚徒達と看守達の葛藤の渦巻の中へ突進する為に片足を踏み出したところであつた。彼は止つた。哨舎に立つてゐた看守――それは藤沢であった――が銃をあげながら叫んでゐるのである。

 ――署長が、おい! 止めろ! 集まるんだ!

 ――何? 何処へ集る?

 ――署長の処へゆくんだ。命令だ! 残つてゐるものは………

 ――よし………

 小牧は五六名の看守と一所に渦巻く群集の中を横切つていつた。

 署長室には抜刀した看守や、ものものしく顎緒をかけた看守達が十五名ばかり押し寄せて来てゐる。彼等の顔は殺気立ち、鼻翼は激しく(ふく)らんだり、収縮したりした。彼等は一様に()()れな言葉で叫び合つた。

 ――俺は工場の扉を開けようとしてゐた!

 ――俺の(かかあ)は八月目なんだ!

 ――糞! この時だと思つて、騒ぎやがる!

 ――手当り次第やつちまふさ。

 ――やつちまへ!

 ――やつちまへ!!

 ――銃が來た!

 ――弾薬だ! 弾薬だ!

 ――これさへありやあ………何百人でも殺せるぞ!

 ――殺せ!

 ――殺せ!!

 銃と弾丸五十発宛配給された。抵抗するものや、逃亡しようとするものは片つぱしから撃つて終へといふ命令であつた。小牧は第二監舎の裏を突抜けて――彼はそこを通る時少年囚や女囚が群がりわめき乍ら出てくるのを見た――茶畑の方へ帰つた。哨舎の看守達と一所に外墻を守ることを命ぜられたからである。

 囚徒と看守の争闘は一層露骨になつて来てゐた。押し合ひ、押し返されてゐた小ぜり合から、決定的な、明ら様な格闘に変つて来た。囚徒達は(とき)の声を挙げて、看守達の防禦線を突破した。囚徒を取巻いた看守達の数はごく僅かである。彼等は無数の囚徒の勝誇つた暴風に追ひまくられる木の葉のやうに後へ後へとさがつていつた。そこにはもう囚徒達を妨げる何ものも無いかのやうであつた。拳が高く挙つた。棍棒が頭の上で踊つた。そして礫が風を切つて音を立てながら、彼等の上を飛んだ。

 小牧は銃を堅く握つた儘、藤沢と身を寄せ合つて身構へしてゐた。心臓はそれを抑へつけようと努力してゐる胸廓を衝いて、高く、明瞭(はつき)りと聞きとれる太鼓のやうに鳴つた。全身の筋肉は恐怖と、争闘意志の緊張のために、石のやうに硬直し、腕は抑へつけようと骨折つても、ひとりでに、わく、わく、と(おのゝ)き震へた。

「……! ……! ……!」藤沢が何か云つたやうであつた。然し藤沢の唇はなにものか彼以外のものに支配されてゐるものゝやうに、早く、そして全くその意味を判断することができない弁のやうに顫へてゐるだけであつた。

 突然、群集の入雑(いりまじ)つた叫声の中から――それらの叫喊を超えて、強く鳴り響く震動が、空間を二つに截つた。──銃声であつた。と、その銃声が終るか終らない内に第二、第三の銃声が、続いて無数の銃声が一斉に四方から起つて空間に縦横の井戸を鑿掘した。小牧は銃床を肩に附けた。銃が活物のやうに躍り上り、轟然たる爆音が彼の耳朶を衝いた。

 群集──鬨の声をあげながら潮のやうに押寄せて来た群集はこの急激な発射に威嚇され、打砕かれて見る見るうちに壊乱していつた。勢よく一方に流れ込んで来た運動が停止し、(やが)て入り乱れながら反対の方向に潰走していつたのである。彼等は百五十米ばかり離れた監房の方へ退いていつた。そして或者は堅い甲冑の中へ、煉瓦造りの監房の中へ這入つていつた。第三の震動が来た。

 穴の中へ、甲冑の中へ隠れ込んでいつた囚徒達の群がふたゝび叫声を挙げながら、狭い監房の口から逆に押し戻さうとする。盲目的にその入口の方へ押してゆく群集と、中から押し返して出ようとするものゝ間に衝突が起つた。乳飲児(ちのみご)を抱いた女囚徒や少年囚徒達は、泣き叫び乍ら戸惑ひして、押し返したり、押し返されたりしてゐる。丁度二つの危険――監房が倒壊するかも知れない内からの危険と、銃弾による外からの危険の――いづれを撰んだらいゝか解らないで迷つてゐるやうに。

 然しこの時小牧は、それらの混乱してゐる囚徒の群の中から、突然湧き返るやうな歓声が起るのを聞いた。そしてそれと殆んど同時に、後方から物凄い地響が起つたのを聞いた。外壁――監獄の周囲を取巻いてゐる――が二十米程に(わた)つて倒壊したのである。とそこに曠野が、広々とした曠野が展開された。

(外壁の側に立つてゐた哨舎の看守が真青になつて倒壊した墻壁を凝視めてゐる。)

 銃声が起つた。それは殷々(いんいん)と鳴響き、渦巻き沸騰する囚徒達の頭上に注がれ、そして無遠慮に、執拗に撃ち続けられた。再び絶望的な叫声と、喧騒の声が群集の間に起つた。そして少年囚達はその愚かな騒擾(さうぜう)をもつて満された群集の中に割入らうとして駈廻り、女囚徒達は泣叫びながら、鋭い鳥のやうな叫声を挙げた。彼等は――少年囚も女囚も男囚も――もう全く何の意力も願望もなく、たゞいたづらに罵り合つてゐる混乱した愚かな群集に過ぎないものゝやうであつた。

 けれども、間もなく小牧はその群集の中から上半身を現して――それは悉皆(すつかり)繃帯で(つゝ)まれてゐた――右手を高く挙げながら、何か叫んでゐる男があるのを見た。群集はまた動揺し初めた。彼等は何か口々に叫び合つた。そしてざわめき押合ひながらその男の方に密集していつた。男は手をあげたり降ろしたりしながら何か一杯の力を入れて叫んでゐる。小牧はその男が此方を向いた時、その顔――それは繃帯に裏まれて半分しか見えなかつたが――を明瞭り見ることが出来た。それは囚徒十三号であつた。

 彼はそれを繃帯に裏まれた顔の半面から、その囚徒の身振から、全体の調子から明瞭り見てとることが出来た。囚徒は病監から脱け出て来たものに違ひない。然しあの重患がどうして脱け出て来られたらう! 囚徒は腕も、胸も手も足も、全身悉皆(すつかり)繃帯で縛られ、動くことが出来ない位なのだ。それが今彼の目の前に、群集の沸騰する波の真中に立つてゐる。

 喧囂(けんがう)の声と動揺が囚徒の群を蔽つた。無数の手が空中で振られた。「叫ぶ者」の声が群集のざわめく波の中に没する。が群集の喧囂が鎮まりかけると彼――十三号——はまた続けるのである。

「! ……! ……! ……! ……!」

 遠方からは唯その抑揚しか見えない。腕を挙げ、打ち降ろす力の抑揚しか見えない。と又一斉に群集の叫声が起る。それは渦強き、沸騰して、やがて全体を強い一つの力、一つの意志に結合する。

 (さかん)な喊声と乱舞が起つた。と思ふと今度はその囚徒の大群が徐々に一方に傾斜し、やがて急速に雪崩をうつて小牧のゐる方に進行し初めた。それは円い頭部と、赤い毛皮をもつた無数の野獣が一時に堤を切つて押し寄せてくるかのやうであつた。瓦礫が、キラ、キラ、輝くものが、彼等の頭の上を飛んだ。

 看守達の必死な、死にものぐるひな抗争が初つた。それは丁度さうすることが全然無益であると知り乍ら、しかも(なほ)不可抗な勢で倒壊してくる墻壁を支へ止めようとするやうな、人間の最後の意志の必死な努力であつた。看守と囚徒達の間はもう二十米位しかなかつた。……がこの時群衆の一角が急に崩れ初めた。先頭に立つて進んで来た二三名の囚徒が斃れたからである。ふたゝび潰乱が群衆の間に起つた。密集して来た集団が離れ離れになり、鬨の声が重苦しい、断々(きれぎれ)な叫び声に変つて来た。「攻勢に出たらいゝか、退いたらいゝか」迷つてゐるやうな一種の不安な空気が全体を支配し初めた。

 けれどもそれにも拘らず、その群衆の動揺する波涛を縫つて、見えがくれに進んでくる波頭のやうに、段々前の方へ、先頭の方へ進んでくる肉塊がある。十三号であつた。冷たい戦慄が小牧の背すぢを走つた………十三号は先頭に立つた。

 今迄、不安な、無決定な躊躇の中に置かれてあつた群集が、ふたゝび鬨の声を挙げてその後に続いた。もう数十歩である。もう数十歩躍進すれば彼等は看守達の防禦線を突破して、倒壊した墻壁から、曠野へ、自由の原野へ逃れることが出来るのである。が、左右からそこを防禦するために密集して来た看守達の銃弾が十三号の直ぐ後に続いた三四名のものを(たふ)し、その後に続いてくる全体の群集を圧迫して終つた。……………

 然し、十三号は、熱病にかゝつたやうに、蹌踉とする足を(ふま)へながら、真直ぐに看守達の方に向つて進んでくる。それは、唯一つの燃えあがる意志に依つて支へられてゐる一本の樹木、暴風に揉まれながら、しかも、確りと地面から自己を主張してゐる樹木の不屈な生命のやうであつた。それが、突然斧で()りつけられたやうに激しく震動し、――一瞬間危く全身の平衡をとりながら——がつくり膝を突き、続いて頭を突刺すやうに地面へ突いた。痙攣が囚徒の(からだ)を走つた。再び前進しようとして動き出した群集の運動がぴつたり止つた。彼等の目は一様に不安な恐怖のいろを泛べ、彼等の足は無益に同一地点に動いてゐるだけであつた。恰度(ちやうど)、彼等の足が、その前に触れてはならないとでも感じたかのやうに。

 一瞬間、空気が凝結した。息をひそめた。そして、群衆の間には潰乱が起らうとしてゐた。

 が、その時、彼等は、かれらの五六歩前に斃れてゐた十三号の肩が、急にむつくり動くのを見た。なにか、不思議なものゝ力がそれを動かしたやうであつた。斃れた十三号の体と地面との間に僅かな間隙が開いた。……………閉ぢる……………………………開く…………………徐々にもちあげ初める…………………囚徒は、全身の重みを両足に支へあげると、静かに、緊張にわなゝく上体を伸して、すつくり立上つた。喊声が墻壁を衝いた。

 十三号は、絶えず移動する重心をさゝへながら——縦に横に、斜に――前方へ動き出した。再び群集が鬨の声をあげた。五六名のものがそのあとに続いた。………………不意に、十三号の体が激しく傾く。と思ふと今度は左にねぢれて、(はす)かひに二三歩歩き出した。が、急に根こそぎになつたやうに前方へ倒れて終ふ…………………………群集はざわめき出し、何か口々に罵り合つた。そして前方に動きかけた運動をいつの間にか止めて終ふ。彼等は一様に何かしら叫びあひながら、ひとゝころに立ち止つて囚徒の体に目を注いでゐた。丁度、何等かの奇蹟がその死屍を再び動き出させはしないかと期待してゐるかのやうに。然し斃れた十三号の体は、最初地面から少しもちあがつたかと思はれたゞけで、あとは全く動かなくなつて終つた。

 囚徒達は潰乱に陥つてゐた。勢を得た看守達は、後を向いて押し合つて行く囚徒達の背後から、猛烈な銃声をもつて威嚇し、追躡(つひじよう)した。囚徒達は混乱しながら先を争つて監房の中へ吸ひ込まれていつた。……………………執拗な対戦が初つた。

 

 夕暮であった。

 小牧は倒壊した墻壁の近くに倒れたまゝ横になつてゐる。囚徒達の二度目の襲撃の時、飛んで来た鉄材――それは工場からもつて来たものらしかつた――が彼の胸を撃ち、瓦礫が蟀谷(こめかみ)へ当つたからであつた。彼は、さうして昏倒したまゝ、数時間を過したのである。

 それは、奇怪な、パノラマのやうな夕暮であつた。太陽は赤く、地平に落ちかゝつて、雲の峰を照らしてゐる。とその燃えあがつた雲の反射が、強く獄舎を照らし、獄舎の庭を照らし、茶畑を照らして、すべてのものが遠近を失つたやうに、しかも、積木細工でも見てゐるやうな、強烈な色彩に燃えながら、明々と照し出されてゐる。

 墻壁の内部には囚徒の死骸が、折重つて斃れてゐた。見あげると崩壊した墻壁の側近くにある樫の木には、囚徒十三号の死屍が高く吊しあげられてゐる。黒鳥の群がその周囲を飛び、そしてその背後は地獄の空のやうな大都市の炎上で彩られてゐた。十三号の死屍は、看守達が、襲つて来ようとする囚徒を威嚇するために吊したものであつた。……………小牧はそれを茫然(ぼんやり)覚えてゐる。彼はいつまでも看守達が、殆んど自己を失ふ程狂的な情熱に支配されながら、囚徒の死屍を吊すために木の下に集つて騒いでゐるあの不思議な光景を見るやうな気がするのであつた。……………断々(きれぎれ)な昼の出来事が彼の目の前にちらつき、はては混乱した渦巻のやうに走つて行く。囚徒達の喧騒と、銃声が折々遠くの方で起つた。

 が、夥しい出血と、時間の経過とが、次第に彼の心を冷静な状態に引戻していつた。彼は横臥した儘――傷が思つたより深かつたので立上ることが出来なかつたから――今日の出来事を想ひ返してゐた。総ての出来事――渦巻く群集や、争闘の生々しい事実――は、いまは唯、一種の嫌悪の感情を起させるに過ぎなかつた。否そればかりでなく、それらの出来ごとに処した自分の態度そのものすら、今の彼には、何かしら嫌悪すべきものゝやうに思はれてくるのであつた。が、この様な感情は一体何処から来たものであらう……………

 一体何ごとが起つたのであるか? 何故それが起つたのであるか。地震――然しそれは自然界の一事象に過ぎない。それは我々の意志以外のものだ。從つて、それが起つたといふことは我々の責任でない。……………然しその後の一切の事実は? ——否! それは単にその——地震といふ——偶然的な出来ごとを機会とし、機縁として起つたまでに過ぎない。それは、いまゝで隠れてゐた事物——潜んでゐた事物の関係の必然的な表現だ。——曝露だ。………これが我々がこの事件に対して、不快な嫌悪の感情を抱くに到つた理由でなければならない。

 恐怖が我々を掴んだのだ。我々は威嚇を感じた。恐怖――然しその恐怖が、反対に我々を囚徒達に対する敵意――殆んど憎悪に近い敵意に凝結させて終つたのだ。我々は出発を誤りはしなかつたか? 威嚇………………驚愕が——最初の………そして原始的な、自然の破壊力に対する懼れが――(やが)て、一切の束縛や鎖が破棄され脱落したといふ意識に伴ふ――叫声が! (くつわ)をとられた瞬間が――縄の截られた刹那が――生への………進水式が——威嚇! ………威嚇………然し華やかな歓声。それは生の静かな深みから起る嵐だ。

 ………すべての誤りは、我々が習慣的な職業心理から、それを抑制しなければならぬと感じたことである。恰度彼等は、欲望したり意志したり感じたりすべきものではないと確信していたかの様に。

 ………我々はそれを確信した。この意志は何処から来たか。この要求は自分自己のそれであるか。否! それは職業の――権力のそれに外ならない。我々は彼等が何等かの意志表示を、何等かの感情の表現を行ふことが、直ちに我々の生活を脅かすものとして感じたのである。権力者はかゝる場合、常にそれを感ぜねばならない!

 それは我々の生活の槓杆である。それがたとへ看守達各個人が意識し、自覚してゐると否とに拘らず、我々は生活の城塞となり、帯となる。そして………彼等を、生活そのものから閉め出して終ふのだ。囚徒達は閉め出された扉の外から錠を破らなければならない……………從つて、我々を当面の敵としなければならなくなるのだ。そこで衝突は避け難いものとなる。我々は………本能的に銃を執つて終つた…………

 このことは、看守になつた最初の日からぶつかつたことがらである。最初の宿直の時、俺は三名の囚徒が、病気になつてゐるのを見た。俺は彼等に休息を与へなければならぬと感じた。俺は出来るだけ彼等に善意を尽し、彼等の生活をもつといゝものにしようと思つたのである。………然し、それにも拘らず、俺は彼等を横打して終つたではないか。恰度、自分が看守になつたといふ理由のために、十三号を横打したあの不合理な企てに参加しなければならなかつたやうに。また、十三号が、職権乱用と傷害罪で訴へた時に、自分達の生活を脅やかすものであるといふ様な職業的な感情上の固執から、反対に看守達も公務執行妨害罪と逃亡未遂罪といふ事実ありもしない罪名を押付けて、自分達の罪を帳消しにしようとしたと同じやうに。

 階級は一個の意志だ。——行為だ。それに参加することは、その行為に参加することを意味する。………必要なのは秩序ではない。人間である。人間と人間の間にある不自然な関係を撤廃せよ! ………。生活を封鎖する扉を………破壊せよ! ………。かくして——人間が、人間と人間との真の関係が、回復されるのだ。………広大な牢獄制度——人間を物として取扱ふ荒蓼たる混和土の牢獄制度——その心霊の牢獄制度が撤廃された時——人間が機械となるのを止め、そして彼自身の生活を回復したとき——地球が一帯の緑爽やかなる野となる時——そのときこそ人間が、人類が、全く自己となるであらう、最初の日だ。最後の——そして最初の日だ。我々は、それを………人類を………創造しなければならない! ………明日!! …………………………

 一羽の鷲が小牧の胸にとまり、過ぎ去つた一箇月の看守生活の回想に伴ふ苦痛と悔恨の嵐を截って、その渦巻く嵐の中から、小牧をその両足に掴んで高く飛翔するやうであつた。小牧はその鳥の羽搏きを彼の胸に、両頬に感じた。………新しい地平が開け、そこに(かつ)て見ない美しい光景が現れ初める……………

 地平の空は薔薇色に変つた。仄白い光の束が、幾ふりかの剣のやうに雲の間にかゝつた。十三号は、縛られた左手を高く、右手を(はす)にして樹上にかゝつてゐる。繃帯に(つゝ)まれた胸は、銃弾に貫かれて、萎れたダリアの花を一杯抱いてゐるやうであつた。斜にした手は遠く地中を指して、かう言つてゐるやうである「………その時、汝悪しき死を死せざるべし。」

 太陽はもう没して終つた。が、大都市の炎上だけは、赤く、ますます(さかん)に燃えあがつてゆく……………

 

(大正十四年九月「早稻田文學」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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小島 勗

コジマ ツトム
こじま つとむ 小説家 1900・6・1~1933・1・6 長野県松本市に生まれる。

掲載作は、大正14年「早稻田文學」9月号初出の処女作で、関東大震災時の刑務所内に発生した白色テロル事件の制圧に関わった一看守の目で書いている。初期プロレタリア文学を藝術的に代表する優れた作と見られたが、官憲は忌避し発禁に処した。日本の監獄制度に批判の意識をもちながら自己防衛と恐怖の衝動から囚徒に過酷に攻勢を加えてゆく悩ましい齟齬を、とにもかくにもねばり強く書いて考えている。横光利一の義兄にあたる。

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