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名誉夫人 ヒンデルマン原作

男女のいひなづけして、未だ婚礼せざるものさしむかひにてあるとき、これに立会ふを名誉夫人とはいふなり。又この篇に絵画の事をいへるうちに、古流新派とあるは、世に所謂印象派の方面より、今までありし流派をすべて古流といひ、おのれが一種の自然を観る法をそなへ、一種の色彩を施す式をおこなふを、新派といへるなり。我国にては、今黒田久米のぬし達、ここに云ふ新派に属し玉へり。これ等の事あらかじめことわりおかでは、この「スケツチ」の味解しがたかるべし。(明治二十八年しも月の末つかた)

君たち二人こゝにあそび給はんほど、しばしかの岡にのぼりて、今の景色をうつさばや、光線の工合あまりによければ。こはいひなづけしたる、若き男女にさき立てあゆみゆく少女の言葉なり。黄金色したる髪の少女と、褐色の目なる男とは喜ばしさをおほひもあへで、今いひし少女のかたを眺めたり。此折のいとうつくしき雲のたゝずまひなど、画心ある人の、あだに見過さぬことは、よく知られたれば、たとひしひて止むとも、こゝに留まりて二人が物語の(さまたげ)することはあるまじと思へるなるべし。三人は森の木の間より出たるに、広き野のやうやう高まりて、岡となれる処にいでぬ。ここらは皆「ハイデクラウト」とて、丈ひくきゆかり色の花さける、うるはしき草生茂りたり。男のいふやう。やよ、ベルテ。我等は共に此木のもとにて、いこはんと思ひしに、君のみ一人分るゝは、あまりにつれなし。この岡に上りて日に照されなば、そのうつくしき面色づきやせん。かくいひかけられて、髪黒き少女はふりかへり。我面はいかなる日にさらすとも、此上に色づかんこと思ひもかけずと打ゑむに、黄金色の髪したる少女は、男にむかひ。ハンスよ。とゞめむもかひなし。姉君はこの岡に近づきては、いかなるつよき力にても、とどめむこと思ひもかけず。おのれ等如きみやび心なき者には、さまでよき景色なりとも思はれねど。ベルテ。もとより引とどめられんこと、思ひもかけず。此青き空のもと、緑の木かげにて手をとりあひて、詩をよみあそぶ二人などは得とゞめぬなるべし。思ふに君が兜児(かくし)の中には、情多き歌多くあつめたる一巻あるなるべし。かくいひつつ、若き男のかくしのほとりを見たりしが、たちまち得意の面もちして、もてる蝙蝠(かうもり)傘のさきもて、かくしの上より四かくなる堅き物をさし、こゝにこゝにといふに、ハンスの面は赤くなりたり。さてつぎほなきをかくさむとて、松葉ちりつもれる地の上に横はり、帽子を顔の上にかざしつゝ。ベルテよ。そは君の解し得ざる所なり。といふに、ベルテは赤きけしの花もてかざりたる、大なる藁帽子(わらぼうし)をば、真黒き髪におしつけて、笑を帯びてうなづきつゝ。げに君の言葉の如く、君達の恋はあまりに古流なれば、我等如き新派のものには心を解し得ず。ハンス。我は君が一度古流の恋をなすをまつべし。ベルテは傍の石にこし打かけて。そは面白かるべし。されど今迄の経験によれば、おのれは真の恋とならぬ中に、あきはつるが常なり。摘み取りし大なる花たばのめぐりに、緑なる葉をつみそへ居たる妹のヘルタは打ゑみて。そも理なり。姿かたちのめでたくだにあらば、横顔の線美くしく、髪のはえ際ほどよく、面の色浅黒くだにあらむには、若き舟人も、老いたる佐官も、背丈の延びたる中学生徒も、君が目にてはひとしかるべし。ハンスは少し起上りて。さて終の恋人はいかなる人なりしか聞まほし。ヘルタ。そはむつかしき問なり。姉君は一時に七人ほどの恋人をもち給へり。ハンス。さてもさても、人は見かけにはよらぬものかな。といひて、今迄弄せられし位置より、人を弄する位置にかへりたるを喜びたり。されど此ベルテといふ少女は、生れながらつゝしみ深く、いかなる事をいひかけられても、腹立つといふことなく、いつもほゝゑむのみなりき。妹のヘルタは打ゑみて。七人ありといへど、その中にいみじう意に入りしは一人なりき。こを聞しベルテは、思はず一声ヘルタと叫びて、そが言葉をとゞめむとしぬ。されど心なくとも、かくいひかけてはやむべきにあらず。また一度は此事いひ出て、二人の面を見くらべばやとも思ひし故、言葉をつぎて。さなり、いひてもよかるべし。七人の中にても、ある時は法学士ハンスヱツテルといふ人を思ひし事もありき。ベルテよ。さのみ面の色かふることかは。はや過さりたることならずや。しばしは三人ともに言葉なかりき。ベルテはもてる手帖と鉛筆とをとり落したり。さて身をかゞめて、草の中に落ちりたる鉛筆をもとめ出しが、その面はいとまばゆげなりき。ヘルタは此時いかなる故にか、いにしへの羅馬(ローマ)セデグスが事思ひ出ぬ。この人は落たる筆を拾ひ上る時、大なる作戦計略を成就したりといひ伝ふ。をかしき聯想ならずや。

手帖の面には、草のくき松の葉などつきたるを、ベルテは片手にもちたるデネマルク皮の手袋にてはらひ落としつゝ。あな口惜しや。我心の秘事もかく(あばか)れたる上は、もはや隠すもかひなかるべし。かくいふ声は作り声なるが、いと苦しげに聞えたり。ハンスは交際になれたる男なるに、面を赤めてはらからの面を見くらべ居たりしが、傍にありしヘルタの蝙蝠傘をとりて開き。ここによき物あり。我はこのもとにかくれて、我心の驚をしづむべし。我此あやしき姿の、ベルテが好むめでたきかたちの中にまじりたりとは、あまりに思ひかけず。ヘルタは何心なくいひし一言の、かく爆裂弾にもひとしき働をなしたるを、おもしろき事に思ひぬ。ベルテは今は少しも常にかはらぬけしきにて、もてる「スケツチ」の手帖を開きしが、その中に紙二枚を「ゴム」にて一つにつけたる所あり。こをおしはなつに、そこには鉛筆もて画きし男の姿あり。少し横に向きたるかほの、(こめかみ)より頬にかけたるあたりの線は、たぐひなく美しかりき。八字髭のかたちよき、白き高き立えり、仕立よき「ヂヤツケツト」など、まがふかたなきハンスが姿なれど、今より少し()せるたる様なり。ベルテ。これこそ過去りし時の名残なれ。とかさの中にさし入るゝに、ハンスも手にとりて見れば、ヘルタもいと見まほしくなりて、草の上をいざりより、そが房やかなる黄金色したる髪を手帖の上にかたむけたり。ヘルタ。姉君よ。こはまだおのれだに見しことあらぬ画なり。いとうるはしくかゝれたり。こは我にゆづり給へ。など今日までは秘め置給ひし。思ふにヘルタは、我いひなづけしたる権利もて、わが夫たるべき人の肖像をば、我ものと思へるなるべし。ベルテは答なく石にこし打かけて、ひざの上に指くみあはせ、二人のかの肖像を見終るをまち居たり。ハンス。こは真に我姿なるか。といひつゝ、みじかくかりし頭を蝙蝠傘のはしよりあらはしぬ。ベルテはわざとらしげにあざ笑ひて。心にかけ給ふな。そは一年のむかしの事なり。チヲリの園の中にて音楽会ありし時、君はその如く坐し居たり。我はいとつれづれなりけるほどに、群居たる貴婦人の白き帽子、又焼鏝(やきごて)あてたるかみなどは、はや見るにものうくなり、何にもせよ自然のまゝにて、人間の私もて巧を加へざるみものやあると見廻しゝに、ふと君をみとめたり。かくいふを聞て、君が面を赤め玉ふは心のまゝなれど、まづそのあとを聞給へ。ハンスよ。おん身がつよき肩は、かばかりの美しさの重荷をになひ得ぬには非るべし。おん身が顔のとある線を、たとひ自然が殊の外に美く削り成したりとて、そは君がしる事かは。君の如きみやび心のなき人には何の意味もなき事なり。其時、半時ばかりの中に画き果ぬ。ヘルタよ。何とか思ふ。その時ハンスは静に坐り居たりと思ふか。いないな、絶間なく動き居たり。されば画工はいたく困じぬ。なほ此後をも聞きたきか。へルタ。いふまでもなし。ベルテ。さてその間ハンスは大なる盃にて麦酒四盃、その外「コニヤツク」を二杯のみたり。ハンス。やめよやめよ、はや聞たくもあらず。と立上り、手をかくしに入れ、大またにあゆみつつ。さてもおん身等画工の前にては、心ゆるされぬものかな。その時の我位置は、今思ひ出ても身ふるふ様なり。リベルタキヨオニヒの君の、するどく情なき目にて見られ、評せられ、そが上飲みし盃のかずさへ数へられたりとは。ベルテよ。君が半時のまにうつし終りしは幸なり。その後には酒はのまざりしやもはかられねど。とまじめげにいへど、その目なざしに弄するけしきしるかりき。なほいふべきことあらば聞まほし。君は我為にいと気味あしき人となりたり。といひつゝ立上りて、ベルテをかしらより黄皮の(くつ)のさきまで見下したり。ベルテ。されどおん身は我が爲に少しも気味あしからず。そはとまれかくまれ、はや岡に上らん。おのれは君たちの面白き物語を聞き得ぬことを思ひあきらめたれば、君たち二人は我に謝し給へ。といひつつ、いそぎハンスと手を握り、その嬉しげなる目は、美くかゞやげる日に照らされたる野辺のけしきを見やりたり。思ふにベルテははやくもこゝの事をば打わすれ、かの岡に上りて、そのけしきをうつさむと思ふならん。

ベルテ。さらばゆるやかにかたらひ玉へ。ハンス。唯一人にて遠き所に行玉ふな。ベルテ。恋しと思ひ玉はん時は、口笛をふき給へ。されど一時の後には、強ひても我を恋しと思ひいで給へよ。と打ゑみつゝふりかへり、しばし立止りて。面白き画なり。此くらき森を後にして坐りたる、君等二人の姿はいと美し。されど面白きは彩色の上にあれば、鉛筆画にてはかひなし。といひつゝ、よく見むとて片つ方の目を閉ぢて、しばし眺め居りしが、肩を(そびやか)して。青き「バチスト」の衣、白き帽子、黄金色したる髪、皆古流なり。せんかたなし。さらば。とて真直に岡のかたにむかひて、その姿は見るみる小くなり行ぬ。最早岡を上れり。もはやよくは見えず。たゞ赤き「クレツプ」のきぬの、緑なる野の上に花さきいでし如く見ゆるのみ。ヘルタはほゝゑみつゝ見送りて。姉君は今はさこそ面白からめ。景色よき処にては、いかなる事をも忘るゝ人なり。おのれらはかの人の為には空気にひとしかるべきを、君はさとり給はずや。ハンスは何にかあらん考ふるさまなりしが。ベルテはあまり深く物を考へざる人にはあらずや。我にはしか思はるゝことあり。ヘルタは頭をふりて。いないな、君はなどしか思ひ給ふか。ハンス。君たち二人のはらからの、いとむつまじきはよく知れり。かくしたしければ、真の判断は出来難きも宜なり。ベルテはさかしく、あいらしく、尊むべき人と思へど、其心にやさしく、女子らしき処少くて、冷やかなる性と思ふはいかに。ヘルタ。そは誤なり。姉君の如き性の人をば、一言にて評せんこと難かるべし。冷なりなどとは思ひもかけず。我等二人はその恵うけたることいと多く、又二人を逢せんとて、心をつくし玉ひしこといくばくぞ。その為叔母を欺き玉ひしことさへあるにあらずや。といふ姿はいとあいらしかりき。ハンスは嬉しげに眺めやりて、我釦(ボタン)の孔にさしたりし「コルンブルウメ」(穀物にまじりて生ひ、青き色の花さく草)をぬきいでて、ヘルタがこめかみのほとりにあてゝ、その目と見くらべ。ほとほと同じ色なり。されど花のかた恥かしかるべし。君が姿には恥ぬものなかるべし。君はしらずや、今はそらの光君がかみの上に青き反射をなせり。ヘルタ。我さきに、いひし事の答をし玉へ。ハンスは額をおさへて。さきにいひきとは何事ぞ。ベルテの事なるか。もとより我は君の思ふ如く思はん。もはや互に争ふことは止むべし。たゞ我は君がベルテと異なる所あるを喜ぶのみ。ヘルタは何事をいはんとてか、くれなゐの唇を開かんとせしに、ハンスは此時その唇を物いふことに用ゐしむるを、いとあたらしと思ひぬ。梢をもり来る日の光は、はげたる老松の幹の上にふるひ、その木の頂は静に打傾きぬ。

ベルテはやうやう岡の頂に来ぬ。其色青ざめていたくつかれし様なり。常は山にのぼることになれ、口を開かず、いこふことなく、よぢのぼりても、顔の色つゆ変ることなく、「ブロンド」なる娘どもの、うらやみねたむほどなりしに、今日は此岡に上りて、ほとほと全く力をうしなへるものゝごとく、上りはてし時といきつき、()ぐるが如く身を横へて、目をとぢたり。

「ハイデクラウト」は遠かたより見れば、天鵝絨(ビロード)のごとくなれど、いと堅き草にて、肌をさし又髪をみだせり。ベルテはこれをも心とせず倒れたりしが、その身の筋肉は残りなく弛めりとおぼし。あな嬉し、今こそは一人なれ。此一瞬間を幾週の前よりか望みたりし。あな長きことなるかな。一週には七日あり、一日には二十四時あり、一時には分あり秒ありていづれも六十あり。そを過さではかなはず。今こそ何事をも思はじ。唯いこはん。かゝる時は又いつかふたゝび来べき。こゝは何の声も聞えず。ただ「ハイデクラウト」生ひて、地勢は軽く波うてるのみ。

頃は八月にて、野辺には、「エリカ」の花、又茎やさしき「グロツケンブルウメ」といふ花などひらき、又「チミヤン」の花の甘き香は空気にみちたり。南のかたには、大なる森ありて、その頃の色は緑なるが、漸く遠く地平線にちかづくに従ひて青くなれり。いづこを見ても人の姿はなく、家もなく畑もなし。又あそびあるく人のむれなどは思ひもかけず。

「ハイデクラウト」生る岡は、もとより世の人のうつくしといふ処にあらず。世の人の肩かけをもち、「バタ」つけたる麺包(パン)をもち、額よりいゝづる汗をぬぐひつゝ、声をはなちて木だまにひゞかせ、食ひ終りて這ひ下るゝ如き山にはあらず。さればさる処に残るならひなる、油じみたる紙くづ、柑子の皮の曲れるなどの、うるさき画様も見えず。

いな、此岡はヱストハイムの民の為には、うつくしといはるゝ処ならず。よの常の人は、かゝる処をしらずもあれ。ベルテは常にそゞろあるきすることを好めば、心にかなへる此岡を、ある日ふと見出していたく喜び、こを我領分の様に思へり。

日はやうやく傾きぬ。森の蔭は長くなりぬ。この何事なき気色には、めづらしき「プラスチツク」備れり。誠に夢の如きしづけさにて、ただ聞ゆるものは、群をはなれし蜂の、羽振ふひゞきのみ。ベルテはつゆ身を動さゞりき。あな嬉しや。ここにあるひまは、人目といふもの絶てなし。といひつつ静かに起上りしが、其指には「ハイデクラウト」を握りたり。そを引ちぎりて擲ちぬ。是にて心のくるしさをはらすにやあらん。やがてしづかにあたりを見廻はしぬ。身はこの小き領地の小き王なり。なに事も心のまゝなり。笑はんも、泣むも、物いはんも、物いはざらむも、皆心のまにまになり。さて何人もそを見聞かず、又ベルテよ何事ぞと問人はなし。さても心のまゝなるかな。叫ぶともよし。意味なき言葉いふともよし。ベルテよ心や狂へると、こと問ふ人もあらず。

やがて手帖をひらき、いそがはしく紙くりかへして、かの肖像の処に到りぬ。その目は久しく肖像の上に止まりしが、鉛筆とりて、そのもとに大なる文字にて、我愛するハンスヱツテルとしるし、よしこれにてこの紙をば何人にも得さすまじという声を、かみ合せたる歯のひまよりほのかにもらしたり。母はミラノの生れなりしかば、その身の中なる伊太利の血しほわきかへりぬ。はげしき気色にて、かの肖像かきたる紙をつかみて裂きては裂き、終にまき散らすに時ならぬ雪は紫にほへる花の上にちりかゝりぬ。されどそを裂きしは、いかに惜しかりけん。かくなし終りしとき、あな悲し、はやあらずなりぬといひぬ、この声は、いと静かなりしかども、日の光うちふるへる空気の中に、泣声の様にひゞきたり。面に諸手をあてたるが、その胸はいたく波だちぬ。今の声を聞く人はあらずやと心にはかゝれども、頭を回して、あたりを見ることだにもかなはざりき。幸よくも声の聞ゆる処には人あらざりき。されどかくいひし時より、深くひそめる苦は、いよいよ外にうかびいでぬ。こは誠に堪へしのびしくるしみの為、胸のはりさくる時なりき。

今こそ泣べき時なれ、心ゆくばかり泣くべき時なれ。されどベルテ歯をくひしばりぬ。その性、なくこと少き人なれども、一度泣出せば、にはかに止め得ぬくせあり。いないな。かく声高く叫びしが、その声は救を求むる声の様なりき。

一時もはやほどなくたつべし。妹に涙の面見られじと心をしづめ、神よ我をすくひ玉へといひつゝ立上りしが、まぶたの奥にあつき流のせまるを覚えぬ。

息忙しく此方かなたを歩み、両の手をこめかみにあて、あつけれども乾ける目にて、あたりを見たり。此一瞬間、何物をか見て心をまぎらはさん、暫く過なば、常の如くなるべしと思ひぬ。自ら意志の力を知り居れば。

夕日の光は、ほとほと地平になりたり。見るみる黄金色したる毬は、地平線にしづみぬ。今は全く見えずなりぬ。ひろやかなる夕の空は、彩色の変化をつくして、野の上にひろごりたり。野辺はいま藍を帯びたるにごり色となりぬ。こは死にひとしき失意の色なり。

ベルテは漸く我にかへり、くろき目もて、黄金色の空を見やり、指を軽くゝみ合はせたるが、その唇よりかすかにもるゝ言葉を聞ば。神よ、かくうつくしき大なるものを作り玉ふその力にて、わが身をもすくひ玉へ。この折口笛のひゞき聞ゆ。こはシユウベルトが詩の初めの五声にて、ハンスが常にふく口笛なり。ハンスはさきに約したることを違へざりき。ベルテ紛帨(ハンカチイフ)をふりて、おのが聞き得たるをしめしぬ。

ベルテは今このうつくしき景色をはなるゝこといと惜しかりき。あまり目をつからせしゆゑにや、立去らんとする時は、目の前の緑なるもの、赤きものなど舞ふやうに覚えき。

やがて静かに山を下りし折は、その面は常の如くなりき。

  いかばかりくるしかるらんいは清水いはで心のわきかへる身は

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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小金井 喜美子

コガネイ キミコ
こがねい きみこ 翻訳家・小説家 1870・11・29~1956・1・26 石見国(現在の島根県)に生まれる。当時女子の最高学府であった東京女子師範学校付属女学校に学び、文学に親しむ。実兄森鴎外が主宰する『しがらみ草紙』を中心にアンデルセン、ハイゼ、レールモントフ などの翻訳を発表し、「若松賤子と並ぶ閨秀の二妙」(石橋忍月)と絶賛された。鴎外が『スバル』を創刊すると「子の病」「春の日」などの小説を発表し、晩年には佐佐木信綱や与謝野晶子らに短歌の指導を受けて歌文集『泡沫千首』を自家出版した。他に『森鴎外の系族』『森鴎外の思い出』などがある。

掲載作は、1895(明治28)年12月発行の『文藝倶楽部第12編臨時増刊閨秀小説』(博文館)初出。

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