タマルの死
人物
美はしき髪を持てるダビデの子アブサロム
智者アヒトベル
兄アムノンに辱められたるアブサロムの全き妹タマル
第一の僕
第二の僕
第三の僕
第四の僕
第五の僕
第六の僕
時代
旧約ダビデ王イヱルサレム統治時代
場所
ヱフライムの辺なるバアルハゾル
第一段
アブサロムの邸なる屋上の露台、何等の器具をも備へずして
第一の僕
見ろ。あのヱフライムの
第二の僕
うむ見えるわ。一人、二人、三人……七人の
第六の僕
ダビデ王の
第四の僕
アーメン。
第一の僕
気を付けて見ろ。あの緑色の
第五の僕
何、一番先にのつてくるのがアムノンだといふのかい。あの旗の様にひらひらした
第六の僕
かりにも王様の
第五の僕
アムノンが
第二の僕
ほんとに今でも忘られぬわ。タマル様があの
第六の僕
自分の妹に思ひをかけたのが、それほど恐ろしいことだつたら、お前達はもつと近いところを見るために、池へ行つて眼でも洗つてくるがいゝ。
第四の僕
気をつけてものをいはぬかよ。
アブサロム、アヒトベル段階より登り来る。
アブサロム
(甚だ美しく長き黒髪を具へ、凡て風采の典雅なる貴公子。)もう
第一の僕
あの羊の
アブサロム
(アヒトベルと共に手欄の方に進みよりつゝ。)うむ。一番先の白い馬にのつて緑色の
第二の僕
其のお心づかひは古びた落穂ほどお役に立たないもので御座います、もう私共の
第四の僕
ダビデ王の
第二段
アブサロム
段々近くやつてくるわ。アヒトベル今日こそお前のちゑをきいたことが、後悔の種になるやうなことはあるまいな。
アヒトベル
(醜き禿頭白髭の矮人。挙措凡て卑し。)まだそんなことを仰せになつて、あなたのお舌では
アブサロム
さういふ訳ではないのだが、今日は朝起きてから
アヒトベル
そんな物騒ぎをなさるといふ弱いお心が第一不祥で御座います。ヱホバの
アブサロム
では今夜こそ己の
アヒトベル
実證サタンの名をかけてお誓ひ申します。もう御兄弟達の見えるのも程ないことで御座いませう。今の内にお二人きりでようお心を引いて御覧なさいませ。ともかく私がおよびして参りませう。
と段階を下らんとする時、あわたゞしげにタマルの登り
アヒトベル
丁度よい所で御座いました。では私は仕度を助けて参りますから。 (とアブサロムと目にて語りつゝ下る。)
第三段
タマル
お兄様、もうあの人達が近づいてくるといふのは
アブサロム
いまにぢき蹄の音も聞えやう。タマル、今日こそお前のよろこびの日が来たのだ。二年といふ永い日の間なきはらした眼を奇麗に洗つて、もうはぢを
タマル
(絶えず野の方を凝覗しつゝ。)お兄様何だか息が大変苦しくなつて参りましたわ。いろいろなものが奇妙な青い色に見えて、それに耳の中でなり出した不思議なもの音が、あの泣き蛇の声よりもつと気味が悪う御座いますの、中から
アブサロム
さういふものだ。怨みをよせた者の血を流すに迫つた時は、男でも不思議な胸騒ぎがするものだ。私の胸でさへ今とかげののどの様に激しい波が打つて来たわ。
タマル
あの恐ろしい日からもう二年もたつて居るのだとは、どうしたつて思ふことが出来ませんわ。だけど今といふ今、
アブサロム
お前の
タマル
ええ此の願さへ叶へて下さるならどんなことでも致しませう。裏の葡萄畑へおりて行つて、蛇のまきついた枝でもかまわずに、黒い真珠の様に甘く熟れた房々を、肩にになふまでちぎつて来て、イヱルサレムに行つても買へない様な、濃いお酒でも造つて上げませう。此頃の様に夜毎夜毎眠りにくいと仰せる時には、幾晩でも幾晩でも、あのいつもの竪琴の絃をとりかへて、お父様のお造りになつた讃へ歌を、朝の星が日の光りに吸ひ込まれて、草に降つた露が輝いて見える時分まで、唱ひ明して上げませう。もつともつと、どんなにむづかしいおいひつけでも、アムノンの兄様さへ殺して見せて下さるなら、きつと私の手で仕遂げてさし上げませう。
アブサロム
お前の可愛いゝ唇が、不思議な柔い貝殻の様にあいたりとぢたりする間から、其のつやゝかな声がひゞくのをきくだけで、私の心持は濃い酒を呑んだ様になつて行くのだ。どんないひつけにでも従ふといふことを、お前はまちがひなく誓つてくれるのだな。
タマル
一番畏ろしいヱホバの御名を指して誓ひますわ。まだ熱い血の噴き出てくるアムノンのからだを私に下すつたら狂ひ猫の様に爪でかきむしつて、足の先まで髪の毛を一つ一つに引き抜いて、それからまたあの禿鷲のする様に、からだ中の
アブサロム
(次第に我を忘れ行くが如く。)タマル。パテラビムの池の水より輝いたお前の眼を、私のこの胸の中に投げ込むでおくれ。赤く熟した
今や全く其の心を失へるものゝ如く、進みよりてタマルの手を取らんとする時、第一の僕あわたゞしく登り来れるに、忽ち静なる我に返る。タマルまた兄が怪しき煩悩の焔を解せざるが如く、たゞ近く迫れる
第一の僕
(未だ全く露台に登らず、肩のあたりをもて見物を背<そびら>にし、やゝ口ごもりつゝ)かう皆様がお出でゝ御座います。あの表の小門から
此の時よりタマルは絶えず
アブサロム
(かへりみて野を見下しつゝ。)もうそんなとこまでやつて来たのだな。仕度はすつかりとゝのえてあるのか。
第一の僕
凡て仰せの通りに致して御座います。
アブサロム
第一の僕退場。
アブサロム
己の心もせき立つて来た。まだ盃が一とまわりもせぬ内に合図の手をおろして、みんなの刀をぬかせねばならない。もう
第四段
タマル
(暫らく手欄にすがりてのぞき下し、やゝありてはじめて見物の方に向き直り、しかれども、己が心を自ら保ち得ざるうつけたる魂の如く。)神様、ほんとのことを仰つて下さいまし。あのレバノンの
で鮮かだつた処女の血を吸ひ取られてしまつた時には、たゞ夢中に眼が
アブサロム段階を走りて上り来る。
アブサロム
(息を切らしつゝ。)タマル、早くおりて来い。盃が一とまわりみんなの席をまわる内と思つたのだが、もう
タマル
私はもう下へは参りません、おりて行くのはいやで御座います。
アブサロム
いまあのアムノンのからだを、一とすぢ一とすぢに切りこまざく時が来たのぢやないか。お前の舌は何を言つて居るのだ。
タマル
もうどうしてもおりて行くのはいやで御座います。私には其のはしごをおりて行く力がなくなりました。兄様、しばらく私を一人でおいて下さいまし。
アブサロム
お前の舌は今までもえる火の言葉を吐いてゐたのに、もう臆病な小蛇の様にへらへらとよわいこゝろを吐くばかりになつたのかい。ともかく私のあとからついてくるがいゝ。
タマル
どんなに仰つても、この足がもうからだを下まで運んではくれないのですから、私はおりては参りません。それよりも兄様どうぞ私の前から
アブサロム
タマル、可愛相にお前は気が狂つたのだな、あんまり眼の前に輝いた光りが迫つて来たので、心の瞳がうろたへたのだな。気をしづかにしてそこにゐるがいゝ。イヱルサレムの精金よりも重い血の滴つた首を、あの一番大きな皿にのせて、お前の可愛いゝ足の下まで運んで来てやらうわ。其の時にはもう乱れた心を
第五段
タマル
(段階の方に走りよつて。)お兄様。下へ行つてはいけません。下へ行つてアムノンの兄様の血を流してはいけません。小指の先を針でついて、絹絲の様な血を流してもいけません。どうしてもアムノン様の血が
然れどもこの時凄ましき騒擾の声、物の撥くるが如く一時に起り、罵り怒る声々にまじりて、断末魔の悲鳴の如きものきこえ来る。タマルは愕然として躍り立ち、いふべからざる悲愁は、熱き泉の噴き出づるが如くに。
タマル
(この独白の間絶えず喧擾の声きこゆ。)あ、あの声はとうとう兄様が……アムノン様、誰かゞ刀でさしに来ますの。神様、お助けなすつて下さいまし。あゝそのくるしさうな声は、いくつもの刀が突き通し刺し通しするので御座いませうね。兄様。なぜ私を突き刺して下さいませんでしたの。そんなに血といふものが欲しいのなら、この胸をたちわつて血ぶくろでも何でもゑぐり取つて行けばいゝのに。
第六段
アブサロムは新しき流血に半ば狂へるが如く、段階を
アブサロム
タマル、見ろ。血に濡れて重くなつたアムノンの首だ。お前もこの刀で突き刺して見るがいゝ。くされた犬の屍骸のやうにもう眼をあくことも出来ずに居るわ。
タマル
(絶叫して。)呪はれていらつしやい、悪魔のアブサロム。贖罪の羊の血より
アブサロム
タマル!
タマル
いゝえ私は心などちつとも乱れては居ませんの、アムノン様、焔の舌をひらめかしてもつともつと燃える
アブサロム
タマル アムノン様!………
怪しき最後の叫びと共に辛うじて言ひ得たる時、再び劔は其の胸を刺して全く其の命殺す。アブサロムは無言にして台に昇り、手にひつさげたる血滴れるアムノンの首を未だ熱き屍骸の上に投げ出す。この時口々に罵りわめきつゝ、手といはず顔といはず血にまみれたる
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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