今日われ生きてあり
特攻基地、
四十年まえ、本土最南端、陸軍最後の特攻基地知覧を出撃した特攻機の編隊は、この開聞岳上空を西南にむかって飛び去っていった。本土ともこれでお別れになる。隊員たちは、日本最後の陸地である開聞岳の姿を心の底に灼きつけるように、何度も振り返り振り返り
開聞岳上空から沖縄まで六百五十キロ。海上二時間余の飛行。この山に別れを告げ、
――昭和五十七年の夏、その開聞岳をふたたび
知覧……。薩南の
鹿児島市内で一泊して、翌朝はやくホテルまで迎えにきてくれた建設業の福元勇蔵氏の車で、知覧にむかった。飛行学校で同期だった福元は、薩摩人らしい
鹿児島市内から涙橋……
「……あれァ敗戦のときの九月ンじゃった。これでもう日本軍の飛行は終りという日、
福元の耳の底には、その"最後の飛行"の爆音がいまも
福元はその感動を抑えきれぬように、
「済南の空を見あげながら、飛行場の誰も彼もが"これで日本陸軍の飛行機の見納めか"と、みんなぼろぼろと涙をこぼしておった」
それが福元の青春でもあったのだろう。わたしたちの年代では、戦争をぬきにして青春は語れないのだ。
鹿児島から一時間、
(ああ、知覧だ)
左手に知覧茶発祥の地の碑もみえる。ここから道を南下すると、知覧町役場……麓川、永久橋にかかる。
町の表情は明るくなっていた。往還は舗装され、左右に建ち並ぶ家々も新しく装いを変えていた。橋の
知覧の町で、当時の
とめさんは健在であった。八十一歳。でっぷりと肥って、そのためか足の痛みがひどく歩行も不自由らしかった。 それでもとめさんは、訪ねて行ったわたしたちのために、
「ゆう、おさいじゃしたなぁ」
とめさんは、不作法を
「僕が死んだら、 きっと
そう言って出撃した宮川
「僕の
そう言って、うまそうに
この知覧にわたしがいたのは、きわめて短い日数であった。と号要員でもなかったわたしは、やがて名古屋郊外、小牧第二十三飛行団司令部の通信飛行班に移っていく。わたしの知覧とのかかわりは、ただそれだけであった。が、なぜかわたしの知覧への思いはふかい。それを言うと、とめさんは、
「生き残りの特攻隊員さんがおじゃるようになったのも、戦後十年目ぐらいからのこつでごあんぞ」
元隊員たちが、ながらく知覧に姿を見せなかったのは、いちどそこで死を覚悟したものにとって、多くの先輩や同志を失った痛恨きわまりないこの地には、訪れがたいなにかがあったのであろう。
富屋旅館で昼食をすませて発つとき、杖をついて玄関まで見送ってくれたとめさんは、飛び立っていく特攻機を描いた富屋旅館の日本
散るために咲いてくれたか桜花散るこそものの見事なりけり
知覧の飛行場跡は、
昭和十六年、ここに
戦後、開墾された台地は見渡すかぎりの茶畑、
特攻平和観音は、兵舎跡にちかい知覧運動公園の
特攻観音に
遺品館には、出撃
そのなかでつよく目をひいたのは、出撃前のひととき、
当時の、陸軍の少年飛行兵や海軍の予科練習生の出身者は、愛国の情熱に駆られて、ひたすら体当り攻撃を志し、みずからすすんで血書し特別攻撃隊員になった。
〈……いま
茲においてか簡節にして的確なる神技の訓練を重ね、一発必中を期し
航空機
少年たちにとって、先輩が飛んだ道、同志がっ
酔生百年 夢死千年
修業二十年 散華一瞬(田中伍長遺書)
少飛は飛行弾なり(金沢伍長遣書)
ひたぶるに
(小高伍長遺書)
当時、報道班員として数多くの特攻隊員を見送った作家の戸川幸夫氏は、
〈彼らは
〈この行為(特攻)に散華した若者たちの採った手段は、あまりにも恐ろしいものだった。それにしても、これら日本の英雄たちは、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは一〇〇〇年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れられてしまったこの使命を、とり出してみせてくれたのである〉(内藤一郎訳)
と詠嘆する。
仔犬とたわむれていた第七十二振武隊の高橋伍長らが沖縄西海域に突入散華したのは、昭和二十年五月二十七日のことである。同日(四階級特進)陸軍少尉。いずれも、
この高橋伍長らが出撃したのは、ながいあいだ〈知覧基地〉だと思われていた。防衛庁関係文書でも同期生会資料でも、そう記している。が、じつは高橋伍長らが飛び立ったのは、終戦の数ヵ前にできた"まぼろしの特攻基地"
「航空隊の特色として、どこからか飛来してきては敵地に突入するということの繰り返しであったから、数日間も会った人もいれば、ただすれ違っただけという人も多く、また、特に特攻隊はいろいろの小さなグループに分れていて、母隊(原隊)がないため、突入のあとは確認の方法もない……出撃名簿に記載されていても、機関故障で不時着、生還したり、それが訂正されずにそのまま残っていたり……」
であったと、大戦
館内に展示された隊員たちの遺品や、出撃直前の別れの
福元をうながして館を出たわたしは、特攻観音境内に建っている特攻英霊芳名碑のほうに歩いていった。碑は、台石の上に大きな
「ここに、お
(なぜ、おれの名がここに……)
夕がた、鹿児島のホテルに帰ったわたしは、持ってきていた特攻資料を繰って、あの特攻英霊芳名碑のなかの"わたし"の名をさがした。そして、ようやく『特攻作戦の
午後七時、福元がまた迎えにきてくれた。鹿児島少飛会の事務局になっている先輩の料亭で、同期生たちが集って歓迎の席を設けてくれたのである。次つぎに運ばれてくる
その、歓談のなかでわたしは、あの碑のなかの"わたし"に心当りがないか
「
同期の誰彼は、そう言いながらかわるがわるわたしの
宴がおわったあと、福元をさそって天文館通りにでた。このまま宿に帰って寝るには惜しい夜であった。酒亭の
からす
ホッソイホーッソイ
どこじゃだがよか かがよかばってん
瀬世じゃ
ホッソイホーッソイ
低い、心に
第二話
取違由来記(碑文) ――
神代の昔、
大正六年四月建之 知覧村
知覧基地の特攻隊員たちの宿舎は、飛行場周辺の松林のなかに散在していた。それは半地下式、木造バラック建ての風通しのわるい粗末なつくりで、三角形に組んだ板屋根を、じかに地べたに置いたようにみえるところから三角兵舎とよばれていた。
兵舎の内部は、中央に通路の土間があり、両側は一段高い畳敷きの床で、
戦況が悪化し特攻出撃が激しくなると、出撃してがらんとした兵舎は、すぐにあたらしい隊員でうずめられた。
川野
そんな三角兵舎のなかで、雨の音を聴きながら最後の
集会所は、滑走路から二、三百メートルほど離れた、竹やぶを背にして建てられた木造十坪ほどの、普段は小、中学生が夜の自習に集まってくる場であり、先輩たちから勉強を学ぶ場所であった。そしていま、やがて死地へ
隊員たちは飛行訓練のない雨の日などは、午後からこの集会所にあつまってくる。ここには土地の人びとや婦人会や女子青年団がきていて、隊員たちのために湯茶を接待したり、時には歌や踊りをみせてねぎらっていた。しかし、その歓待をうける隊員たちの顔ぶれは、めまぐるしく移り変っていった。村の人たちは、あと数日この世に生きていることをゆるされた若い隊員たちのために、胸元にこみあげてくる悲痛な思いを抑えて、つとめて明るい表情で振舞い、隊員たちのもてなしに心をくだいていた。隊員たちにも、その好意は痛いくらいにわかった。村びとたちに感謝をしめすには、その慰めを
「よしきた、こんどはオイラの番だ!」
と、
昔々その昔
ヨイヤサ キタサ
爺さんは山へ
ヨイヤサ キタサ
ドンブリゴッコ ドンブリゴッコ流れくる 婆さんはそれを拾いあげ
ヨイヤサ キタサ……
などと
川野軍曹が秋本カヨを知ったのも、そのころのことであった。
川野がみたカヨは、列をつくって歩いてくる女子青年団の最後尾で、いつも一人だけ自転車にのっていた。カヨは、さびしい顔だちの娘であったという。集会所に奉仕にきても、他の娘たちのように、隊員たちと親しげに
川野はそんなカヨが、集会所のざわめきのなかで自分にそそいでいる、目にみえぬ視線を、どこかに感じていた。そんなことが、何度かあった。
その日も雨であった。
他の隊員より一足先に帰ろうとした川野は、土間におりて
川野は外にでた。雨が
「川野軍曹どの・・・・・・あの子、秋本カヨさんのこと気をわるくしやらんでください。カヨさんは内気なのです。だから、川野さんと話したいと思っていても、自分から話しかけられんとです・・・・・・でも、川野さんに
そういうと岩間チエ子は、怒ったように手荒く川野の手に小さなマスコット人形をおしつけ、駈けもどっていった。
人形は、特攻人形とよばれる裁ち残りの美しい
川野が出撃したのは、その翌日の午後三時であった。
知覧基地は、民間人が飛行場に近づくのを厳しく禁じていた。が、特攻機の出撃はいつのまにか、誰からともなく
出発線で待機している川野の目のなかに、岩間チエ子と自転車に乗ったカヨの姿がみえた。そのカヨの自転車が途中で横転し、コンクリートの上に投げだされるのが見えた。チエ子はカヨを抱き起して、カヨに肩をかして走りつづけた。が、その走りかたは、ひどく不均衡であった。
「カヨさんは足が不自由なんです……だから、川野さんにも自分の気持ちを……
チエ子は
(そうだったのか)
川野はカヨをみた。カヨは小さな肩をふるわせ、懸命に川野を見あげて涙をこぼしつづけていた。
そんなカヨに川野は、みどり色の縛帯に結びつけたカヨの特攻人形を軽く
「知覧に来て、よかった。この人形と二人で突っ込めるからな」
そう言いながら川野は、首に巻いた純白のマフラーをとり、カヨの手に握らせてやった。そして川野は急にきびしい顔つきになり、
(ありがとう……ありがとう)
そうでもしないと、いまにも涙があふれてきそうであった。川野は、その思いを断ち切るように背を返して、
川野らの六機の九七戦は、やがて黒く光る二百五十キロ爆弾を抱いてよろめきながら飛びたち、飛行場の上空を旋回しながら隊別に三機編隊を組み、組みおえると機首を戦闘指揮所に向けて急降下し、そして全機、三度、翼を左右にふりながら最期の別れを告げ、
――が川野は死ねなかった。油圧調整弁の故障で、黒煙をあげて絶海の孤島、小宝島に不時着している。
豊増幸子(特攻機整備班、女子
「私たちの整備した特攻機は旧式のおんぼろの九七戦で、それはひどいものでした。機体の
川野は、ひと月あまりこの島ですごした。民家が一、二軒しかないこの小島に、救援のくる見込みはなかった。そんな川野の頭上を、毎日のようにアメリカ空軍の戦闘機やB29の編隊が
孤島での川野は、そのころの、B29爆撃機三十機による知覧大空襲の惨害を知る
すさまじい爆撃であった。三角兵舎のあった取違地区は
第三話 海の
小松原洋子おねえ様
お元気ですか。はじめてお手がみを書きます。私は×××町の国民学校三年(鹿児島県川辺<かわなべ>郡加世田<かせだ>町、加世田国民学校初等科、九歳)の地頭所洋子です。私はあなたのなつかしいお兄様、小松原ぐんさう(軍曹)としりあひです。
先月の二十二日の夕方、私の家の前の大きなりよかん(旅館)ひりゆうさう(飛龍荘)に××(特攻)隊の兵隊さんが来ました。××隊といつたら、はつと思ひあたることでせう。
さうです。小松原ぐんさうも居ました。あくる日に出げき(撃)といふことでしたが、それからは雨、雨、雨と雨ばかり降りましたので、出げきは一しうかんのび、十日のびました。
私は友だちの川畑ノブちやんと益山君子ちやんと陣上さとちやんとで兵隊さんのゐもん(慰問)に行きました。そして「きさまとおれとは同期のさくら」や「空からがうちん(轟沈)」を大きなこゑで歌つてあげました。××(特攻)人ぎやうをつくつてあげました。二かいのへやでチクオンキをかけたり、トランプあそびをしました。雨がやむと、みんなで外に出て「かりオニごつこ」をしてあそびました。私のあひては、いつも小松原ぐんさうでした。
なぜつて言ふと、私の名前が洋子おねえ様とおなじだつたからです。私はぐんさうに背おはれて大坊が丘の下をどんどんかけまはりました。
××隊は、勇かんで、やさしい兵隊さんばかりでした。
若いのに口ヒゲをはやした毛利隊長さん。手品のすきな古山ぐんさう。いうれい(幽霊)のまねばかりしていた有馬五ちやう(伍長)。いつも大きなこゑで「洋子ちやん」とよぶので、耳がいたくなつた吉本五ちやう。おしやれでクリームのにほひをぷんぷんさせてゐた東野五ちやう。みんなたのしい飛行兵でした。いつも私たちきんじよ(近所)の子どもをあつめて歌をおしへてくれたり、かんパンをわけてくれたりしました。
小松原ぐんさうはハモニカで、みんながちゆうもん(注文)する歌をじやうずに吹いてやりました。聞いてゐて私はうれしくなりました。
ぐんさうは、ばん(晩)おふろから上ると、私の家によくあそびに来ました。ぐんさうが来ると、お母さんは大いそぎでからいもの油あげ(唐芋、さつま芋のてんぷら)をつくります。ぐんさうは、からいもの油あげが大すきです。お皿にもりあげたからいもを、水をのみながらうまいうまいと食べてゐました。私は、ぐんさうが大すきです。
ぐんさうからハモニカをおしへてもらひました。私は唱歌がすきです。ぐんさうみたいに早く、なんでも吹けるやうになりたいのですが、へたくそで、いつまでたつても「白地に赤く日の丸そめて あゝうつくしや日本のはたは」だけで、がつかりします。
五月二日のばん、十時ごろ、ぐんさうは家に来ました。そして、私にやつてほしいと言つて航空りやうしよく(糧食)のドロップやチョコレートなどマクラもとにたくさんおいてゆきました。そのとき私はもうねむつてゐたのです。私が
私たち、ノブちやん、さとちやん、君子ちやん、みんな校てい(庭)のすみでわんわんなきました。「勝利の日まで」を歌つて、また、なきました。
その日のゆふがた、とつぜん、ぐんさうがやつて来たので、私はびつくりしました。お父さんもお母さんもおどろきました。お父さんは、
「小松原さん小松原さん」
と言つて、手をにぎつたり、かた(肩)をたゝいたりしてゐました。お母さんはぼろぼろなみだをこぼしてゐました。
とちゆうで飛行機がこしやうして引き返して来たのです。こしやうは吉本五ちやう(伍長)と二機で、隊長さんたちとわかれて××き地(
いつしよにばんごはんを食べることになりました。お父さんはせうちう(焼酎)の用い(意)、お母さんはからいもの油あげをつくることになりましたが、どうしたことでせう、みんなあわてゝ、お父さんは足もとにあるせうちうのつぼが見えずうろうろして、お母さんはおなべに油を入れるのをまちがへてすを入れたり、みんなしつぱいをして大わらひしました。
「夕ごはんまでのあひだ、ちよつと洋子ちやんをかります」
ぐんさうは、さう言ふと自転車のうしろに私をつんで、加世田の駅前の坂下写真くわん(館)に行きました。
二人ならんで写真をとることになりました。飛行ふくを着てイスにすわつて軍刀をもつてゐるぐんさうのそばに立つてゐると、うれしくてかなしくて、へんな顔になつてしまひました。写真をとる人が、
「おぢやうちやん、につこりしやンせ、はい」
と言ひました。けれど、さう言はれるとよけいにな(泣)きさうな顔になつてきます。見てゐて、ぐんさうは笑ひながら、
「さあ、ハモニカをあげるから、につこり笑つて」
と飛行ふく(服)の
かへり道、私は家につくのがまちきれないで、自転車のうしろでハモニカを吹きました。ハモニカは、ぐんさうのにほひがしました。たばこのにほひでした。私は、むちゆうで「白地に赤く」を吹きました。それが終ると、こんどはぐんさうが、片手で自転車をうんてんしながら「野ばら」を吹きました。そして、雨にびしよびしよぬれた道を走りました。
そのばん食事のあと、私はまたハモニカをおしへてもらひました。
八時ごろ、ぐんさうはむかへに来た自動車で飛行場へ行きました。あした朝はやく出げきするから、ひりゆうさう(飛龍荘)にはとまれないのです。お父さん、お母さんと私、それに、ひりゆうさうの山下のをぢさん、をばさん、おねえさんたちもみんな出て見おくりました。にだい(荷台)の上からぐんさうは男らしく、りつぱなけいれい(敬礼)をしました。
そして私をみて、飛行ふくの物入れをおさへてわら(微笑)ひました。これは、ひみつですが、物入れの中にはオルゴールが入つてゐるのです。ハモニカのお礼に私があげたのです。それは、私が国民学校(小学校)に入つた入学きねんに、しやんはい(上海)にゐるお父さんのお兄さんからいたゞいた
出げきは午前六時でした。
私はお母さんにおこされ、眼をこすりながら、ひりゆうさうのうしろの大坊が丘にのぼりました。
まつてゐると、やがて、空いつぱいのばく(爆)音がひびいてきます。××(特攻)隊の出げきです。一機、二機、三機、黒いばくだん(爆弾)をかゝへた××機が上空で大きくせん(旋)
お父さんは、日の丸のはたをぐるぐるふりまはしました。すると、大きくつばさをふつた三番機から、すうつと白いものが落ちてきました。
ぐんさうと約束してゐた通信とう(筒)がマフラーをくゝりつけて落ちて来たのです。そしてそのまゝ××機はがうがうと飛んで行きました。
ぐんさうからの通信とうは、
〈地頭所のお父さん、お母さん、洋子ちやん、色々と有難う御座いました。
洋子ちやんのオルゴール愛機に乗せて我は体当り 〉
と書かれてゐました。
昭和二十年五月四日、ぐんさうどのはみごと敵空母に体あたりしました。
この日こそ、私が一生忘れないかんげき(感激)の日です。小松原ぐんさうは、勇かんな飛行兵でした。日本人の中の日本人でした。
出げきの前のばん、うち(家)のおふろに入つて、そのあと、ゐま(居間)のたゝみの上でかみ(紙)のはしにえんぴつで住所を書いて「洋子ちやんとおなじ名前の国民学校五年生のいもうとがここにゐる。洋子ちやんからお手がみを出して、友だちになつておくれ」と言はれました。
やさしい私の大すきなぐんさうは、もうゐません。けれど、私も小さくても日本女子です。どんなかなしいことや、くるしい時があつても、ぐんさうどのや××隊の英れい(霊)のことを思ひ、しんばうしようと思ひます。その決心で、私も洋子おねえ様といつしよに、日本の小国民としてはぢない女の子になり、じゆうご(銃後)を守りたいと思つてゐます。ともに、勝利の日までやりませう。
きのふ(昨日)学校から金子先生(補助訓導)のいんそつで吹上浜へ行きました。海さう(藻)とりです。それをほして代用食にまぜるのです。
吹上浜の海の向ふは
顔を洗つたとき、私はふつと、遠い遠い向ふの青い海の底にしづんでゐる小松原ぐんさうの、飛行ふくの中で鳴つてゐるオルゴールの音を聞いたやうな気がしました。けど、それはノブ゛ちやんにも言ひませんでした。
吹上浜からかへつてくると、写真くわん(館)でうつした写真が出来てきてゐました。一枚おくります。
洋子おねえ様もますます一生けんめい勉強して、お兄様にまけぬやうがんばつて下さい。私も勉強してゐます。勉強のあとハモニカで「野ばら」のれんしふしてゐます。
ではお体を大切に さやうなら かしこ
地頭所洋子より
第八話
ジョン・F・リットマンの手紙 (神坂訳)――
〈一九七七年二月十一日
日本国和歌山市
江波たつゑ様
親愛なる江波夫人へ
わたしは私のためではなく、わたしの善良なる友人たち、すなわちジョイス・クーパー夫人、レオナルド・レインチェス氏ならびにアメリカ合衆国海外戦役退役軍人会(VFW “VETERANS OF FOREIGN WARS OF THE UNITED STATES”)の全会員にかわって筆をとっております。
わたしは、レインチェス
レインチェス氏は沖縄戦で
わたしどもは、この手帖をお返しすることによって、これにまつわる悲しみがよみがえるかも知れませんが、しかし、この手帖をあなたがお持ちになることによって、わずかながらもあなたと御家族の方が幸せを感じることができることを皆よろこんでおります。
先日、日本への旅から帰ったクーパー夫人が、あなたが手帖のお礼と感謝の心を
レインチェス氏は、この手帖は当然持つべきひと、すなわちあなた自身とあなたの御家族に、
わたし自身は今までにアメリカ海軍の兵役にある間、たびたびあなたの美しいお国を訪問する光栄に浴しました。もう一度訪問できるかどうかはわかりませんが、すくなくとももう一度日本を訪ねてみたいと切望しております。
レインチェス氏からもよろしくお伝え下さいとの事です。そして御親切な贈り物に厚く感謝を申しのべております。私ならびにレインチェス氏、クーパー夫人にかわりまして厚く御礼申し述べます。
あなたと御家族御一同様の末永い幸福をお祈り申しあげます。 敬具〉
「――あなた。
いま、あなたの手帳を届けてくださったクーパー夫人を和歌山駅までお送りしてきたところです。
外から帰ったまま居間に
おぼえていますか、あなた。この手帳を買った雨あがりのあの朝のこと。昭和二十年五月二十四日。日記など見なくても、ちゃんと覚えています。
知覧に向う途中のあなたと、指宿で落ち合って一泊。翌朝はやく起きて、散歩に出かけました。あの散歩が、あなたとのお別れでした。
町角の古ぼけた雑貨屋さんの、
歩きながらあなたは、突然、わたしの手をぎゅっとつかみました。いいえ、あれは握るというより、思わず顔をしかめたほど強い、あなたらしい不器用な
わたしの手をつかんだままあなたは、怒ったような顔つきで、
飛行服の腕に、特攻隊のしるしの日の丸をつけ軍刀を
歩いて行く街道の、雨に濡れた道端の木の緑があざやかで、目にしみるような真っ赤な花が咲き乱れていました。
昼食のおにぎりは、浜の小高い松林のなかで食べました。
食事のあと、ふたりだけでしみじみ語りたいと思っていたわたしの気もしらずに、あなたは松の木に背を
手もちぶさたなわたしは、あなたの寝顔を見ながら、さっき買った手帳をひろげてシャープペンシルで名前を書きました。
<陸軍航空兵曹長 江波正人 二十六歳>
妻たつゑ 二十三歳
住所 和歌山県和歌山市……
書きおわるとわたしは、手帳に口づけをしました。そしてそれをあなたの
十五分ほどしてあなたは目をさましました。爆音を耳にしたのです。見ると、弓なりに湾曲している指宿の浜の北、
それから、あなたとふたり松林のなかの
江波正人の手帖より――
何も書くことはないのだが、生きてゐるといふ思ひを
〈家へは何も書かない。不必要な心配をさせるだけだ。心配しても、どうなるものでもない〉
〈このごろ、時間の歩みの速くなつたことを感じる。無常迅速。人生
〈町に出て写真を撮る。追ひすがってくる"死"の時間を、ここで一時
父母に一枚、たつゑに一枚送る。
左様奈良〉
<昭和二十年六月三日 薄曇
第十次航空総攻撃。第四十八振武隊(九七戦)第百十二振武隊(九七戦)第二百十四振武隊(九七戦)第四十四振武隊(一式戦)第四百三十一振武隊(二式高練)知覧出撃〉
〈昭和二十年六月五日 曇
朝、空母を含む機動部隊現はるの報。時期
〈昭和二十年六月六日 曇時々雨 沖縄晴
第百十三振武隊(九七戦)第百五十九振武隊(三式戦)第百六十振武隊(三式戦)第百六十五振武隊(三式戦)第五十四振武隊(三式戦)第百四振武隊(九九爆撃機)知覧出撃。
本日 われ まだ生きてあるなり〉
〈昭和二十年六月七日 終日小雨
静かな一日 雨の中町へ出る。小ぬか雨に
〈たつゑ たつゑ たつゑ たつゑ〉
〈昭和二十年六月八日 曇のち晴 沖縄薄曇のち晴
第四十八振武隊(一式戦)第五十三振武隊(一式戦)知覧出撃>
〈昭和二十年六月十日午前六時
搭乗員戦闘指揮所前に整列。
出発まで半時間あり。翼の下に寝転つて書く。草のにほひ、土のにほひ。
出撃前の気持、静かにして鏡の
一つの人生の結論 必死の
江波正人 二十六歳 本日すこぶる健康 〉
「……あなたの戦死の公報が届けられたのは、敗戦の年の十二月でした。
『陸軍少尉江波正人殿は昭和二十年六月十日、沖縄海域に
白いお骨箱と、白木に俗名を書いた
『遺骨箱は開けないで下さい。なかは空です』
と係の人から告げられて、
お骨箱は実家に持って帰りました。市内のあなたのお家は二十年夏の大空襲で焼かれ、お父様お母様はわたしの実家に身を寄せておられたのです。
仏間にお父様お母様そして実家の父母もみんな集って、開けないでと云われたお骨箱をあけました。白木の箱の中に"霊"とゴム印を
そのお父様も、翌二十一年の三月に生まれてきたわたしたちの子、孫の顔をみて安心なさったのでしょうか、四月に亡くなられました。
生まれてきた子の名を、わたしはあなたと同じ名の"正人"とつけました。どう考えてもわたしには、その名のほかは思い
半紙に"正人"と書いてお父様にお見せすると、お父様は目をかがやかせて『おう……おう』と大きくなずいていられました。でも、そっくりそのままではと
——戦争がおわって三十二年。おさない子を抱えての苦しい日々のことはお話しません。誰もが精一杯に生き、必死に生きてきた戦後でした。あり余るお乳がありながら、いつもお腹を
正人は、あなたより六つ年上の三十二です。昨年、課長さんになりました。
わたしもすっかりお
あなたの手帳をひろげて、また、先刻からおなじところを
断
一頁に一字だけ大きく
断とは、敵を撃滅するということですか。それとも、自分の
切なかったでしょうね、あなた。わたしはいま、
第十九話
「吹流しがあって、戦闘指揮所がありましてね、ほんとに戦場だなという、胸がどきどきするほどの怖さで……子供でしたから、ほんとに怖くて……
その三角兵舎に向う途中、空襲があって
が、その日から笙子たちは、隊員の
「三角兵舎の内部は、
基地から基地へと、あわただしく転々してきた隊員たちの着衣は、汚れはてていた。洗濯の時間もなかったのであろう。なかにはシラミをわかせている隊もあった。
「せめて出撃には、きれいな肌着で……」
笙子たちは、立ちのぼる煙りを気にしながら、空襲の
特攻の隊長は、毎朝、三角兵舎から十五分の道を歩いて戦闘指揮所に出頭する。出撃の命令受領のためである。
隊長が帰ってきたとき、笙子たちはその顔いろで出撃の有無を察することができた。
「明朝、出撃……」
そんなとき笙子たちは、言うべき言葉を知らなかった。むりもなかった。わずか十四、五歳の女生徒である。ただ黙って、頭を下げるしかなかった。
夕食まえの一とき、隊員たちは薄暗い兵舎の
当時、特攻兵の書簡は軍のきびしい検閲のもとにあった。だから笙子たちは、その私信や小包みを、ひそかに持ち帰って発送してやるため、夕ぐれの兵舎の
「ながくて、つらい時問でした」
笙子たちが帰っていったあと、三角兵舎で出撃の壮行会がひらかれる。隊長を囲んで隊員たちは、当番兵が運んできた酒を
あの花この花 咲いては散りゆく
泣いても止めても 悲しく散りゆく
散らずにおくれよ
翌、早朝。笙子たちは出撃する特攻機に二個のおにぎりを積みこむ。これが隊員たちに与えられたこの世での、
「最後の食事だったのです」
その時がいちばん切なかった、と四十年後のいまも笙子は
「ありがとう、ありがとう」
特攻の若者や少年たちは、花につつまれて機上から
特攻出撃が激化するにつれて、三角兵舎の隊員たちも次々にかわっていく。出撃のあとがらんとした兵舎も、二、三日後にはまた新しい隊員でいっぱいになった。笙子がハセベリ
「その日も敵の艦載機やB29が飛来し、朝から連日のように空襲警報が発令されていました。奉仕隊として基地にいた私たちは、兵舎に備えつけられた手動式のサイレンを力いっぱいまわし『退避、退避』と叫ぶ当番兵の横をかけぬけて、近くの
爆音が頭上にせまった
やがて敵機の爆音も去り、静けさがもどると彼は急いで飛びだしていきました。しかし間もなく、二度目の爆音が近づき『退避』の声に、口をもぐもぐさせながら再びとびこんできました。
『坊や、またきたのかい。ご飯だけはゆっくり食べろよ』
渡井
翌日、その隊員は松林の中の切株に一人腰をおろし、なにか夢中に作業をしていました。それは、金や銀、色糸などで
物資不足で色彩にも飢えていて、また女らしいしぐさからも遠ざかりつつあった私どもに、{それは}一瞬、何かをよみがえらせてくれました。学校での楽しい手芸の時間だったのかもしれません。いろいろな色どりのなかに、白い糸で刺された文字は、
ブヨウタイ ハセベリ
と読めました」
切り株に腰をおろして、ハンカチぐらいの大きさの絽刺しをしている伍長のまわりを笙子たちが囲むと、顔を赤くした伍長は、目を伏せてしまった。誰かが、
「ハセベリ伍長さんは何隊ですか」
「ブヨータイ」
「ええっ、舞いのあの舞踊ですか」
みんな目を丸くすると、伍長は怒ったような声で、
「ちがう、武を
そう言ってまた、
ハセベリ伍長は、三角兵舎のなかでも孤独であった。誠第三十一飛行隊として台湾に配属されるが、隊長以下他の隊員はハセベリ伍長を残して特攻出撃。のちにハセベリ伍長は、第六航空軍に転属し第三十一振武隊(武揚隊)になる。ただ一人の隊である。同室の第六十九振武隊の渡井少尉、渡辺少尉らはそんなハセベリを「坊や」とよんで弟のように愛していた。が、それも
笙子たちがハセベリ伍長を見たのも、この四月十八日が最後であった。がらんとした三角兵舎にハセベリ伍長ひとりを残したまま、笙子たち知覧高女の特攻兵舎奉仕隊は解散する。解散の理由は、特攻隊員が居なくなったことと、飛行場への空襲が激しくてこれ以上危険な場所に女学生を置くことはできない、ということであった。
三角兵舎の前に立っているハセベリ伍長を振り返り振り返り、笙子たちは松林の丘をおりていった。
「ハセベリさん寂しそう」
ハセベリ伍長の死は、この日から四日後の四月二十二日である。第三十一振武隊、一機、一四四〇知覧出撃。ハセベリ伍長が
〈特攻機種、機数の低下はおおうべからざるものがあったが、攻撃隊員は練達者が多く、戦場付近には煙霧があり、わが攻撃を利した。特攻隊はいずれも低空から接敵し、敵有力艦船の急襲攻撃に成功したものと判明(誘導機の報告および知覧における無線傍受)
一七三〇 アランガー(空母の算大)日本軍の突入を報じたのち発信なし
一七四〇 スパルタン(艦種不詳)発信消滅
一八三〇 ディジスペル(艦種不詳)航行不能を報ず
一八五七 ウブリッツ(空母の算大)日本軍機一機命中を報ず
一九二八 グイシベル(艦種不詳)日本軍機一機体当りを報ず
一九三八 タンタルス(B又はCの算大)日本軍機の体当り攻撃を受くを報ず〉
(『陸軍 航空作戦』防衛庁防衛研修所戦史室)
八月になると、戦況の悪化は笙子たちにもわかった。知覧の上空を連日のようにアメリカ軍のグラマンF6FやノースアメリカンP51が乱舞し、逃げまどう人びとに機関砲弾を
笙子が日本の降伏を知ったのは、そんな激しい空襲を避けるため、祖父の勇四郎が持ち山に掘らせた
「
「いまにアメリカがきて
八月十七日、笙子や友人の森要子、寺師さと、松田フヂヱ、楢原ツヤ、塗木チノ、枦川ムツ子、塗木トシ子、清藤良子たちは町の人たちに混って
その混乱のなかで、特攻隊員たちは真っ先に解散を命じられている。福岡の第六航空軍司令部に、天皇陛下の
「特攻隊を解散せよ」
と、伝えたからである。
無条件降伏を宣言したいま、特攻隊は大日本帝国にとって
特攻の隊員たちが去った後、滑走路の西端の、かつて特攻機が次々に離陸していったあたりに四十機あまりの飛行機が並べられ、飛行場のあちこちから軍用書類や飛行服、
通信兵の霜出茂は、その音を、特攻の若者や少年たちが"誰かに""何かを"訴えている叫びごえのようだと思った。
(おンなじ
そうすれば誰も死なずにすんだのだ。そう思うと茂は、
「機首、右に振りすぎております」
などと指示を与えてきた。知覧出撃の最初の特攻機以来、茂はおびただしい数の隊員たちの"死"の誘導を勤めてきた。
(おンなじ敗くるのなら……)
風に乗つて、銃声がまた聞えてくる。茂は、ふかい息をすると
「さよなら」
そして足ばやに飛行場を離れ、復員兵の一人になった。
飛行場を接収するためにやってきたアメリカ海兵隊の、ブランテークス少尉の率いる二十人の兵士たちは、基地の施設を破壊し、残存していた四十二機の特攻機を爆破すると、風のように引きあげていった。
こうして敗戦の年がすぎた。
そしてやがて、丘の上の知覧高女の校庭にふたたび桜が咲き、女学校に帰った笙子たちは四年生になった。
放課後、笙子は校庭の
(東京まで一五三一、横浜一五O二、名古屋一一六五、京都一〇一七、大阪九七四、神戸九四一キロメートル……)
あのころ、外出して町にでた特攻の若者たちは、この校庭から故郷の方をよく
(
そのとき笙子は、ふいに、あの日に逢いたいと思った。三角兵舎に行こう。笙子はそれを鳥浜礼子に、森要子に話した。
「行きましょう、みんな」
安楽栞も寺師さとも、馬場文子、平田祥子もうなずいた。丘を降りた笙子たちは、あの日と同じように永久橋のたもとで花を咲かせている桜の老樹の枝を折りとり、橋を渡って飛行場への街道を歩いていった。歩きながら笙子は、永久橋とは、隊員たちがこの世と永久に別 離するための橋であったのかと思った。
汗ばむような春の
だが、松林の中にはもう三角兵舎はなかった。解体され撤去された兵舎の跡に、半地下壕状に掘られていた三段の土の段だけが残っていた。
「その三角兵舎の形のままに、どこから種子が飛んできたのでしょう、小さな白や紫の花がびっしりと咲いていたのです」
その花は、知覧の方言でいうペンペン草、
「一日しか咲かない花なんです」
ひっそりと静まった松林のなかを、生子たちは、ここが、
「ハセベリさんも、そこに……」
森要子は、松林の中の切り株に腰をおろして無心に絽刺しをしていたハセベリ伍長を思って、声をつまらせた。機関の故障で、ひとり残った岩井伍長が、毛布をかぶって泣いていたのは、このあたりだった。二十振武の穴沢少尉が靴下のつくろいを頼んだのは、その土の段の右手のあたり……。
みんな、隊員たちへのそれぞれの思いがあった。が、かれらが
(ああ)
右手の、その菜の花畑の辺りは、出撃まえ、隊員のひとりが花のなかに坐りこんで指を切り、その血で遣書をしたためていた場所であった。歩きながら、鳥浜礼子が唄いだした。
一ノ谷のいくさ敗れ 討たれし平家の
みんな、唄いだした。が、それは唄ではなく、う、う、と
「わたしが町の図書館に勤めたころ、あれは昭和二十六年ごろでしたか…… そのころ町で"夜になると飛行場跡で、
それは、理不尽な死をとげた特攻隊員の魂が、夜ごと迷いあるいているのだ、と町の人びとはささやきあった。笙子は、その噂がほんとうなら、隊員たちのその
「逢いたい」
と思った。逢って一緒に語り、泣きたいと思った。夜になるのを待って笙子は、自転車を引きだし、飛行場跡へ行った。火玉のうわさにおびえて、誰も通る人のない暗い、草ふかい軍用道路に自転車を走らせた。
飛行場跡の雑草のなかで、笙子は一時間ほどうずくまっていた。が、いちめんの
(よかった)
これでよかった。祖国に裏切られ、見捨てられた特攻隊員の霊魂が火玉の群れになって、闇のなかをさまよっているとすれば、あまりにも
(おやすみなさい……池田さん……穴沢さん……本島さん……岡安さん……ハセベリさん……)
笙子は
永崎(前田)笙子の手記――
〈……それから四年ほど後、私の所へTさんという方から電話がかかってきました。それであの時の少年飛行兵のことがわかりました。ハヘセベリさんは長谷部良平伍長であって、知覧基地より出撃戦死されたということでした。
十年前のあの童顔が私の
(新潮文庫 新潮社 1993年)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2001/11/26
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