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洋画家の漫談雑談

  裸婦漫談

 

 日本の女はとても形が悪い、何んといつても裸体は西洋人でないと駄目だとは一般の人のよく言ふ事だ、そして日本の油絵に現れた女の形を見て不体裁だといつて笑ひたがるのだ。それでは、笑ふ本人は西洋人の女に恋をしたのかといふとさうでもない、やはり顔の大きな日本婦人と共に散歩してゐるのである。

 理想的といふ言葉がある、(むか)しは女の顔でも形でもを如何(いか)にも理想的に描きたがつたものだ、西洋ではモナリザの顔が理想的美人だとかいふ話しだが、なるほど美しく気高いには違ひないが、世界の女が皆あの顔になつてくれては(おほい)に失望する男も多いだらうと思ふ、例へば私の愛人であるカフェー何々のお花の顔が、一夜にしてモナリザと化けてしまつたとしたら、私は困つてしまふ。

 どんなに世の中が、あるひは政府が、これが一番だと推奨してくれても、私が好まないものであれば、恋愛は()らに起らないのだ。

 私は人種同志が持つ特別な(したし)みといふものが、非常に人間には存在するものだと思つてゐる、よほどの特別仕立ての人間でない限りは、人は同じ人種と結婚したがるものだ。

 私は外国にゐた時に、特にそれを感じた、如何にそれが正しい人間の形であるかは知らないがあのフランスの多少口髭(くちひげ)()えた美人が、一尺の間近(まぢか)に現れたとしたら、私はその美しさに打たれるより先きに、その不思議に大袈裟(おほげさ)なその鼻と深く鋭い目玉と、その荒目な皮膚の一つ一つの毛穴に圧倒されて、泣き出すかも知れない。

 足の短いのを或る理想主義から軽蔑(けいべつ)する人もあるが、私は電車の中などにおいて日本的によく肥えた娘が腰かけてゐて、その太い足が床に届きかねてゐるのをしばしば見る事があるがあれもなかなか可愛いものだと思つて(なが)める事がある。しかし近代の日本の女もその生活の様式が変つたためか、だんだん足が長くなつて来たのは驚くべき(くら)ゐである、足の短かい顔の大きな女はやがて日本から消滅するかもしれない、すると間もなく、日本の女も西洋の女とあまり形の上においては違ひがなくなる事だらうと思ふ、ただ皮膚とか色の違ひが残る位ゐである。

 形は権衡(けんかう)の問題であるからこれは少しつり合ひが変だと()素人(しろうと)にも目につく、日本人の顔の大きさは彼女の洋装において一等皆さんの笑ひの(まと)となるのである、しかしながら色は必ずしも白色でなければならぬとは限らない、印度(インド)の女の皮膚の色には別な(やはら)かみと(なめ)らかな光沢があつて美しい、また日本人の黄色に淡い紅色や淡い緑が交つてゐるのも私は白色人のもつ単調な蝋のやうな不気味さよりも、もつと異常のあたたか味と肉臭をさへ、私は感じる事が出来ると思ふ。

 日本人の裸を最もうまく描いたものは、何といつても浮世絵だと思ふ、浮世絵に現れた裸体の美しさは、如何に西洋人が描いた理想的といふ素敵(すてき)な裸体画よりも、如何に人を感動せしめるかは私がいはなくとも知れてゐる事実である、それは決して若い男女が、見てはならないものであるとさへされてゐる位ゐ、それは感動的である。法律はこれらの絵の売買をさへ禁じてゐるではないか、一目見ると心臓が(たか)ぶるといふまでにその裸体は人を動かせるのだから(たま)らない。

 私はかなり多くの西洋の裸体の絵を見たが、如何にそれが理想的美人であつても、権衡が立派であつても、絵の技が(すぐ)れてゐても、写実であつても、心臓が昂進(かうしん)するといふ事は更らになかつたやうである。

 全く浮世絵師の作は、それがどんな無名の作家であつてさへも、その手足や姿態のうまさにおいて、私は感心するのである。

 ところで、西洋人が裸体を描くのは、もつと理論的で科学的である、如何に権衡があつて、如何に色彩があつて、如何にデッサンがあつて、如何に光があつて、如何に立派に構成されているか、といふ風に描かれてある。

 この人間の体躯(たいく)の美しさをば、苦労のありたけを、つくして、説明してゐるその科学的にめんじて、法律は浮世絵の如く裸婦像をば禁じないのだらう、でも年に何回かは撤廃を見る事があるのは(はなは)だ遺憾ではあるが、これは今の半ぱな世では致し方のない事かも知れない。

 大体、私自身は西洋人よりも日本の女の方が好きなのだ、それで裸体をかく時にでも、私は決して理想的なものを求めたくない、(おのおの)のモデルに各様の味があるのだから面白いのである、人の顔が各違つてゐる如くに。

 ところで日本では裸婦を描くのに大変不思議な障害が伴つて来るのだ、それは画室の習作とすれば何んでもない事であるが製作となつてはやはり何とか、裸婦としての自然な生活状態が必要となつてくるのだ。

 例えば西洋であつて見れば水浴の図とかあるひは椅子による女とか、化粧図とか色々裸の女とその自然な生活との関係が描かれてある。

 ところが日本ではその女の裸としての自然な生活からモティフを求めようとしても、ちよつと困難なのだ、あるにはあつても、実にこれはまた、見ても紹介してもならないといふ場所における事柄ばかりであるのだから。

 例へばベッドの側に立てる女の図を、日本的に翻訳して描いて見るとかなり困つた図が出来上るのだ、即ち煙草盆、枕屏風、船底枕、夜着(よぎ)赤い友染(いうぜん)、などといつたものが現はれて来るのだ、そして裸の女が立つてゐれば如何にも多少気がとがめる事になる、即ち上演を差止められても文句がいへない気がするのだ。

 洋室といふものは大体において、ベッドなどはさつぱりしてゐて、むさくるしいといふ感じが出ないのが万事に好都合なのだ、ベッドはむしろ部屋の飾りの一つとなつてゐる場合が西洋では多い、日本では昼の日中(ひなか)に寝床を見ては如何にも(いや)らしい、そこで西洋室に住む画家はいいとして、日本の長屋の二階、六畳において裸婦像を描かねばならぬといふ事は何んと難儀な事件である事だらう。

 そこでわれわれは活動写真のセットの如く安い更紗(サラサ)を壁へかけて見たり、似合はぬテーブルを一つ置いて見たりなどするのだ、すると裸婦が婦人解放の演説でもしてゐる形ともなるので、思はず阿呆(あほ)らしさが込み上げてくる事がある、ではこの長屋の二階と裸婦の生活的調和を試みようとするならば、即ち許されさうにもない場面を、持ち出さねばならない事になるのである。

 私はしばしば展覧会において日本の女がどこの国の何んといふものかわからない、エプロンのやうなものを身につけたり、白い布を腰に巻いて水辺(みづべ)でゴロゴロと寝たり、ダンスしたりしてゐる図を、見かけるのであるが、今の日本の何処(どこ)へ行けばこんな変な浄土があるのかと思つてをかしくなる事がある。

 私は裸婦を思ふと同時にいつもこの変な矛盾を考へて多少の恐れをなすのである。

 

  胃腑漫談

 

 最近、私は持病の胃病に悩まされてゐたのでつひ考へが胃に向うのである。

 総じて病人といふものは病気を死なぬ程度において十分重く見てほしがるものらしい。「なんだそれ位の事でへこたれるな、しつかりし給へ」などいはれると病人の機嫌(きげん)はよろしくない。

「何んでも君の病気は重大な病気だよ、なかなか得がたく珍らしい種類のもので、先づ病中の王様だね」位に賞讃すると随分喜ぶものだ。しかし決して死ぬといつてはいけない、(すこぶ)る気まゝなものである。

 病気でさへも自分のものとなると上等に見てもらひたいといふのは情ないものだ、私なども、自分の胃病を軽蔑されたりすると、多少(しやく)に障ることがある。おれのはそんなくだらないケチな胃病とはちがふんだと威張つて見たくなることがある、くだらないことだ。

 

 私なども子供の時分は胃の事など考へなかつた、自分の身体をば水枕か何かのやうに考へてゐたものだ。私の両親は食事しながら笑つたりお(しや)べりなどすると、これ、あばらへ御飯が引掛(ひつかゝ)りますといつて叱つた事を私は今に覚えてゐる。

 何んでもその水枕の周囲に提燈(ちやうちん)あるひは鳥籠のやうな竹か何かの骨がめぐらされてゐるものと考へてゐた、そこへ飯粒が引掛ると(せき)が出たり、くしやみが出たりするのかと思つてゐた。

 兵隊さんなどで、胃病に悩むなどいふ人はあまりないと思ふが、従つて兵隊さんは腹の中を随分簡単に考へてゐるらしい、即ち兵隊さんの仲間では第一ボタンまで食つたといふ言葉があるさうだ、咽喉(のど)から下全部を、一つの袋か(びん)の類と見なした言葉だと思ふ、そしてボタンはその度(ども)りである。

 私が子供の時に考へてゐた腹の構造とあまり大差はなささうだ、さやうに腹の中を簡単に考へてゐるからといつて決して軽蔑するわけではない、自分の胃の()を知らないといふ事は全く大変な幸福な事である。勿論(もちろん)腹を腹とも思はず塵芥溜(ごみため)だと思つて食物と名のつくものは手当り次第に口中へ()ぢ込むといふのは、あまりに上品とはいへないが私のやうな胃病患者から見るとなんとそれは()ち多過ぎる人であるかと思つて(うら)やましき次第とも見えるのだ、全く何も食へずにゐる時、沢庵(たくあん)と茶漬けの音を聞く事は、実に腹の立つ事である。

 

 常によく病気するものは、自分の身体の構造について随分、日夜神経を(とが)らして研究してゐるものだ、それが胃病患者ならば自分の胃袋はこんな形でこんな色をしてゐて、こんな有様でとあたかも毎日胃袋や腸を、眺めて暮してゐる如く説明するものがある、しかし可笑(をか)しな話しで、自分の臓腑を生きながら見た人は先づ昔からなからうと思ふ。全く自分の持ち物でありながら一生涯お目にかゝることの出来ないものは、自分の腹の中の光景であらうと思ふ。

 私は蛙のやうに自由に臓腑を取り出す事が出来たら如何に便利な事かと思ふ、そして水道の水で洗濯してちよつとした破れは妻君(さいくん)に縫はせて、もとへ収め込むといふ風にしたいものだ。

 

 私の胃病は医者の説によると、胃のアトニーといふもので、胃の筋肉が無力となつて、いつも居眠りをしてゐるのださうだ。一種のサボタージュだと見ていい、胃がサボタージュを起してゐるのだから、第一に、食慾が起つて来ないのだ、私が学校時代はこの胃が最も猛烈にサボつてゐたものだ、下宿で食べた朝食は、昼になつても晩になつても、停滞してゐるのだから(たま)らない、しかし考へ方によると(すこぶ)る経済でいいともいへるかも知れないが腹はすかなくとも衰弱はどしどしとするから全くやり切れた話しではないのである。

 学校の門を出た処に一銭で動く自動計量器があつた、私はある日衰弱した体躯(たいく)をばこの機械の上へ運んだ、そして一銭を投げ込んで驚いた、私は帽子を冠つて冬服を着て靴を()いて、手に風呂敷包を持つて、肩には絵具箱をかついで、しかして何んとその針は十貫目を指してピタリと止つたのだ、私はこれはあまりだと思つて、二、三度強く足踏みをして見たが、何の反応もなかつた、たうとう、十貫目と相場が(きま)つてフラフラと下宿へ帰つた事があつた、それ以来なるべく計量器には乗らぬやうに心がけてゐる。

 

 胃のサボタージュのひどい時にはしばしば脳貧血を起すものだ、脳貧血はところ嫌はず起るものだから厄介(やくかい)だ、私はこの脳貧血のために今までに二度行路病者(かうろびやうしや)となつて行き倒れたことがある。一度は東京の目白のある田舎道で夜の八時過ぎだつた、急にフラフラとやつて来て暗い草叢(くさむら)の中へ倒れた、その時は或る気前のいい車屋さんに助けられたものだつた、その時の話は以前広津(和郎)氏が何かへ書いたことがあるからそれは省略するとして、今一つは奈良公園での出来事だつた。

 私は朝から胃の重たさを感じながら荒池の近くで写生してゐた、例によつて昼めしなど思ひ出しもしなかつたのだ、その日は私の一番いやなうす曇りのジメジメとした寒い日だつた、午後三時ごろであつたか、七ツ道具を片づけて或る坂をば登りつめたと思ふころ急に天地が大地震の如くグラグラと廻転し始め心臓は昂進(かうしん)を始めた。これはいけないと思ふ間もなく私は七ツ道具を投げすてゝ草原の上へ倒れてしまつたのだ。ところで私はちよつと空を眺めて見た、この世の空かあるひは最早(もはや)冥土(めいど)の空かを確めるために。すると、頭の上には大きな馴染(なじみ)の杉の木が見えたからまだ死んではゐない事だけはわかつた。

 誰かゐないかと思つて周囲を眺めると半丁(はんちやう)ばかりの先きに道路を修繕してゐる人夫(にんぷ)がゐたのでともかく「私は今死にかかつてゐます、早く来て下さい」と二度叫んで見た、するとその男たちはちよつとこちらを眺めたがまた道路を掘出すのであつた、私は随分他人といふものは水臭いものだ、死ぬといへば何はさて置き飛んで来てもいいはずのものだと思つてイライラした、私はもう一度「早く来てくれ、私は死ぬ」と叫んだ、勿論さやうな大声が出るからには、すぐ死にさうには見えなかつたことだらうと思ふ。

 人夫の監督が何か指図(さしづ)するとすぐ二人の男が駆けてくれた、そして私は助けられて、宿である処の江戸三の座敷へ運ばれた、同宿の日本画家M君は私の冷え切つた手足を夜通し自分の手で温めてくれた、私はその親切を一生忘れ得ない。

 以来私は絵の道具を(かつ)いで坂路を登ることを大変(いや)がるやうになつた、坂路を見ると目がくらむ心地が今もなほするのである。

 私は一人で風景写生に出ることを好まなくなつたのはどうもその時以来らしい、画家の健康と、モティフとの関係は随分密接であると思ふ。大きなトワルを持つて幾里の道を往復するといふ仕事は私にとつては先づ絶望の事に属するのである、従つて私は静物と人物を主として描きたがる、これはモティフが向うから私の画室へ毎朝訪れてくれるから都合がいい、多少腹が痛くても仕事は出来るが風景は向うから電車に乗つては来てくれない、風景画家には健康と、マメマメしい事が随分必要である事と思ふ。

 

 それから間もなく、やはり胃のふくれてゐる或日の事、私は活動写真を見に入つた、すると蛙の心臓ヘアルコールを(そゝ)ぐ実写が写し出されたのであつた、蛙の心臓が大写しになるのだ、ピクリピクリと動いてゐる、あゝ動いてゐるなと思ふ瞬間、アルコールの一滴がその心臓へ灌がれたのだ、すると、そのピクリピクリの活動が、とても猛烈を(きは)めて来たのだ、おやおやと思ふと同時に私の心臓は蛙と同じ昂進を始めて来た、私の眼はグラグラと廻り出した、驚いて私は館から飛び出した事があつた。

 ともかくも私は私の厄介の胃の腑のために随分人に知れない、余分の苦労をつゞけてゐる次第であると思ふ。

 

   大阪弁雑談

 

 京阪(けいはん)地方位い特殊な言葉を使つてゐる部分も珍らしいと思ふ。それも文明の中心地帯でありながら、日本の国語とは全く違つた話を日常続けてゐるのである。私はいつか、西洋人に対してさへ恥かしい(おもひ)をした事があつた。その西洋人は日本の国語と、そのアクセントを丁寧に習得した人であつたから、美しい東京弁なのである。そして私の言葉は少し困つた大阪弁なのであつた。

 大阪地方は言葉そのものも随分違つてはゐるが、一番違つてゐるのは言葉の抑揚である。それは東京弁の全く正反対のアクセントを持つ事が多い。(あが)るべき処が(さが)り、(さが)るべき処が(あが)つてゐる。

 たとへば「何が」といふ「な」は東京では(あが)るが大阪は(あが)らない。「くも」のくの音を上げると東京では蜘蛛となり、大阪では「雲」となる。

 大阪の蜘蛛は「く」の字が低く「も」が高く発音されるのである。これは一例に過ぎないがその他無数に反対である。

 それで大阪で発祥した処の浄るりを東京人が語ると、本当の浄るりとは聞えない。さはりの部分はまだいいとして言葉に至つては全く変なものに化けてゐる事が多い。浄るりの標準語は何といつても大阪弁である。

 従つて、大阪人は浄るりさへ語らしておけば一番立派な人に見える。

 よほど以前、私は道頓堀(だうとんぼり)で大阪の若い役者によつて演じられた三人吉三(さんにんきちざ)を見た事があつた。その藝は熱心だつたが、せりふの(いや)らしさが今に忘れ得ない。大阪ぼんちが泥棒ごつこをして遊んでゐるようだつた。見てゐる間は寒気(さむけ)を感じつづけた。

 東京で私は忠臣蔵の茶屋場を見た。役者は全部東京弁で演じてゐた。従つてその一力楼(いちりきろう)は、京都でなく両国の川べりであるらしい気がした。しかしそんな事が芝居としては問題にもならず、何かさらさらとして意気な忠臣蔵だと思へただけであつた。一力楼は本籍を東京へ移してしまつた訳である。

 大阪役者が三人吉三をやる時にも、一層の事、本籍を大阪へ移してからやればいいと思ふ。

 もしも、大阪弁を使ふ弁天小僧や直侍(なほざむらひ)が現れたら、随分面白い事だらうと思ふ。その極めて歯切れの悪い、深刻でネチネチとした、粘着力のある気前(きま)へのよくない、慾張りで、しみたれた泥棒が三人生れたりするかも知れない。それならまたそれで一つの存在として見てゐられたかと思ふ。

 先づ芝居や歌とかいふものは、言葉の違ひからかへつて地方色が出て、甚だ面白いといふものであるが、日本の現代に生れたわれわれが、日常に使ふ言葉はあまり地方色の濃厚な事は昔と違つて不便であり、あまり喜ばれないのである。

 標準語が定められ、読本(とくほん)があり、作文がある今日、相当教養あるものが、何かのあいさつや講演をするのに持つて生れた大阪弁をそのまゝ出しては、立派な説も笑ひの種となる事が多い。品格も何もかもを台なしにする事がある。

 そこで、今の新らしい大阪人は、全くうつかりとものがいへない時代となつてゐる。だからなるべく若い大阪人は大阪弁を隠さうと努めてゐるやうである。ある者は読本の如く、女学生は小説の如くしやべらうとしてゐる傾向もあるやうだ。

 ところで標準語も、読本の如く文章で書く事は、先づ記憶さへあれば誰れにも一通りは書けるし、(しやべ)る事も出来るが、一番むづかしいのはその発音、抑揚、(ふし)といつたものである。

 君が代が安来節(やすぎぶし)に聞えても困るし、歯切れの悪い弁天小僧も嫌である。

 

 大阪人は大阪弁を、東京人は東京弁を持つて生れる。持つて生れた言葉が偶然にもその国の標準語であつたといふ事は、何んといつても仕合せな事である。

 私の如く大阪弁を発するものが、何かの場合に正しくものをいはうとすると、それは芝居を演じてゐる心持ちが離れない。それもすこぶる(まづ)せりふである。

 自分でせりふの拙さを意識するものだから、つひいふべき事が気遅れして、充分に心が尽せないので腹が立つ。地震で逃げる時、ワルツを考へ出してゐる位の、ちぐはぐな心である。

 自分の心と、言葉と、その表情である処の抑揚とがお互に無関係である事を感じた時の嫌さといふものは、全く苦々(にがにが)しい気のするものである。

 時にはそんな事から、西を東だといつてしまふ位の間違ひさへ感じる事がある。全く声色(こわいろ)の生活はやり切れない。

 大阪の紳士が電車の中などで、時に喧嘩をしてゐるのを見る事があるが、それは(まこ)とに悲劇である。大勢の見物人の前だから、初めは標準語でやつてゐるが、(たちま)ち心乱れてくると「何んやもう一ぺんいふて見い、あほめ、(くそ)たれめ、何吐(ぬか)してけつかる」といつた調子に落ちて行く。喧嘩は(こと)に他人の声色ではやれるものではない。

 私は時々、ラジオの趣味講座を聴く事がある、その講演者が純粋の東京人である時は、その話の内容は別として、ともかく、その音律だけは心地よく聴く事が出来るが大阪人の演ずるお話は、大概の場合、その言葉に相当した美しい抑揚が欠乏してゐるので、話が無表情であり、従つて退屈を感じる。少し我慢して聴いてゐると不愉快を覚える。

 だから私は大阪人の講演では、大阪落語だけ聞く事が出来る。それは本当の大阪弁を遠慮なく使用するがために、話が殺されてゐないから心もちがよいのである。

 

 ある、いろいろの苦しまぎれからでもあるか、近頃は大阪弁に国語のころもを着せた半端(はんぱ)な言葉が随分現れ出したやうである。

 例へば「それを取つてくれ」といふ意味の事を、ある奥様たちは頂戴(ちやうだい)という字にいんかを結びつけて、ちよつとそれ取って頂戴いんかといつたりする。

 勿論こんな言葉は主として若い細君や、職業婦人、学校の先生、女学生、モダンガアル等が使ふやうである。

 それから「あのな」「そやな」の「な」を「ね」と改めた人も随分多い。「あのね」「そやね」「いふてるのんやけどね」等がある。

 少し長い言葉では「これぼんぼん、そんな事したらいけませんやありませんか、あほですね」などがある。

 これらの言葉の抑揚は、全くの大阪風であるからほとんど棒読みの響きを発する。従つてこれといふまとまつた表情を示さないものだから、何か交通巡査が怒つてゐるやうな、役人が命令してゐるやうな調子がある。多少神経がまがつてゐる時などこの言葉を聞くと、理由なしに腹が立つてくるのである。もし細君がこの言葉を発したら、到底あゝさうかと亭主は承知する訳には行くまいと思はれる位だ。「あなた、いけませんやないか」などいはれたら、何糞(なにくそ)、もつとしてやれといふ気になるかも知れないと思ふ。妙に反抗心をそゝる響をもつた言葉である。

 こんな不愉快な言葉も使つてゐる本人の心もちでは決して亭主や男たちを怒らせるつもりでは更にないので、あるひは嘆願してゐる場合もある位である。嘆願が命令となつて伝はるのだから(たま)らない。

 笑つてゐるのに顔の表情が泣いてゐてはなほさら困る。

 葬式の日に顔だけがたうとう笑ひつづけてゐたとしたら、全く失礼の極みである。何んと弁解しても役に立たない。

 もしこの言葉と同じ意味の事柄を流暢な東京弁か、本当の大阪や京都弁で、ある表情を含めて申上げたら、男は直ちに柔順に承諾するであらうと考へる。

 全く、気の毒にも、今の若い大阪人は、心と言葉と発音の不調和から、日々不知不識(しらずしらず)の間に、どれだけ多くの、いらない気兼ねをして見たり、かんしやくを起したり、喧嘩をしたり、笑はれたり、不愉快になつたり、してゐるか知れないと思ふ。

 

 ところで私自身が、私の貧しい品格を相当に保ちつゝ、何かしやべらねばならない場合において、私が嫌がつてゐる処の大阪的な国語が、私の口から出てゐるのを感じて、私は全く情けなくなるのだ。自分のしやべつてゐる言葉を厭だと考へては次の文句はのどへつかへてしまふはずである。それでは純粋の東京流の言葉と抑揚を用ひようとすると、変に芝居じみるやうで私の心の底で心が笑ふ。全くやり切れない事である。つまらない事で私はどれ位不幸を背負つてゐるか知れないと思ふ。

 それで私は、私の無礼が許される程度の仲間においては、なるべく私の感情を充分気取らずに述べ得る処の、本当の大阪弁を使はしてもらふのである。すると、あらゆる私の心の親密さが全部ぞろぞろと()き出してしまふのを感じる。

 私は、新らしい大阪人がいつまでもかゝる特殊にして半端な言葉を使つて、情けない気兼ねをしたり、ちぐはぐな感情を吐き出して困つてゐるのが気の毒で堪らないのである。あるひはそれほど困つてゐないのかも知れないが、私にはさやうに思へて仕方がないのである。

 

   春眠雑談

 

 関東の空には、四季を通じて、殊に暑い真夏でさへも、何か一脈の冷気のやうなものが、何処(どこ)とも知れず流れてゐるやうに私には思へてならない。ところが一晩汽車にゆられて大阪駅へ降りて見ると、あるひはすでに名古屋あたりで夜が明けて見ると、窓外の風景が何かしら妙に明るく(しら)ばくれ、その上に妙な温気(うんき)さへも天上地下にたちこめてゐるらしいのを私は感じる、風景に限らず、乗客全体の話声からしてが、妙に白ばくれてくるのを感じるのである。

 近年、私は阪神沿線へ居を移してからといふものは、殊の(ほか)、地面の色の真白さと、常に降りそゝぐ陽光の明るさに驚かされてゐる。それらのことが如何(いか)に健康のためによろしいかといふことは問題にならないが、その地面の真白さと松の葉の堅き黒さの調子といふものは、ちやうど、何か、度外(どはづ)れに大きな電燈を室内へ点じた如き調子である。物体はあらゆる調子の階段を失つて兵隊のラッパ位ゐの音階にまで縮められてしまつて見えるのである。

 従つてこれら度外(どは)づれの調子と真白の地面と明るい陽光とに最もよく釣合ふところの風景の点景は如何なるものかといへば多少飛上つたものゝすべてでなくてはならない。例へば素晴らしく平坦な阪神国道、その上を走るオートバイの爆音、高級車のドライヴ、スポーツマンの白シャツ、海水着のダンダラ染め、シネコダックの撮影、大きな耳掃除の道具を(かゝ)へたゴルフの紳士、登山、競馬、テニス、野球、少女歌劇、家族温泉等であるかも知れない。

 大体において、阪神地方のみに限らず、全関西を通じて気候は関東よりも熱帯的である。従つて、あらゆる風景には常にわけのわからない温気(うんき)が漂うてゐることを私は感じる。

 この温気といふものは、何も暑くて堪らないといふ暑気のことをいふのではない、その温気のため寒暖計が何度上るといふわけのものでもないところの、たゞ人間の心を妙にだるくさせるところの、多少とも阿呆(あほ)にするかも知れないところの温気なのである。

 私は、大阪市の真中に生れたがために、この温気を十分に吸ひつくし、この温気なしでは生活が淋しくてやり切れないまでに中毒してしまつてゐる。しかし、かなり鼻について困つてもゐる。そしてよほど阿呆にされてゐる。時に何かの用件によつて上京する時、汽車が箱根のトンネルを東へ抜けてしまふと、それが春であらうと夏であらうにかゝはらず、初秋の冷気を心の底に感じて心が引締るのを覚える。勿論その辺から温気そのものゝ如き大阪弁が姿を消して行くだけでも、大層、心すがすがしい気がするのである。私はこの温気のない世界をいかに(うらや)むことか知れない。

 或年の夏の末、私の友人が私を吉祥寺方面へ誘つた、そして私の仕事の便宜上、その辺で住めばいゝだらうといつて地所や家を共に見てあるいたことがあつた。

 その時、初秋に近い武蔵野は、すゝきが白く空が北国までも見通せるくらゐに澄み切つてゐて、妙にしんかんとして、その有様が来るべき冬のやり切れない物悲しさを想像させたのである。私は私の鼻についた温気(うんき)の世界に後髪(うしろがみ)を引かれ、たうとうそのまゝ家探しをあきらめて帰つてしまつたことさへあつた。

 春眠暁を覚えずとか何んとかいふ言葉があるが、全く春の朝寝のぬくぬくとした寝床の温気は、実はかうしてゐられないのだと思ひながらも這ひ出すことが容易でないのと同じやうに、大阪地方の温気に馴れた純粋の大阪人にとつては、何かの必要上、この土地を抜け出すことには随分未練が伴ふやうである。

 

 大体温気(うんき)は、悪くいへばものを腐らせ、退屈させ、あくびさせ、間のびさせ、物事をはつきりと考へることを邪魔(くさ)がらせる傾きがあるものである。

 大阪では、まあその辺のところで何分よろしく頼んますという風の言葉によつて、かなり重大な事件が進められて行く様子がある。従つて(すこぶ)るあてにならない人物をついでながらに養成してしまふことが多い。よたな人物

などいふものは関西の特産であるかも知れない。

 しかしながら、このぬるま湯の温気が常に悪くばかり役立つてゐるとは思へない。温気なればこそ育つべきものがあるだらうと思ふ。例へば関東の音曲や芝居と、関西の音曲、芝居とにおいてその温気の非常な有無を感じてゐる。

 即ち私は、浄るりと、大阪落語と鴈治郎の芝居と雨の如くボツンボツンと鳴る地歌(ぢうた)の三味線等において、まずよくもあれだけ温気が役に立つたものだと思つて感心してゐる。

 しかしそれは万事が過去である。現代の温気の世界は何を創造しつゝあるか、まだよく判然しないけれども、先づ河合ダンスと少女歌劇と、あしべ踊りと家族温泉と赤玉女給等は、かなり確かな存在であらうと考へる。

 北極がペンギン鳥を産み、印度が象を産み出す如く、地球の表面の様々の温度がいろいろの人種や樹木、鳥獣、文化、藝術、人の根性を産むやうであるが、この関西殊に大阪の温気によつて成人した大阪人は、まだわれわれの窺ひ知ることのできない次の藝術と特殊な面白い文化を産み出しつゝあるに違ひないことだらうと思つてゐる。

 

   観劇漫談

 

 どんなくだらない展覧会でも、決して見落したことがないといふ絵画愛好家がある如く、本当の芝居好きといふ人物になると、如何なる芝居でも、芝居と名のつくものは何から何まで見て置かぬと承知がならないといふ。そして舞台では誰が何を、どんなに演じてゐたつて構はない。たゞ要するに芝居の中で空気を吸うて毎日坐つてゐたいといふものさへある。

 さやうな人物になると座席など決して贅沢はいはない。いつも鯛でいへばお(かしら)の尖端か、尻尾の後端へ噛じりついて眺めてゐる。

 即ち近くで泣く子供を叱り付けながら、足の(しび)れを()まんしながら、遠いせりふを傾聴しながらあるひは弁当とみかんの皮に(うま)りながら、後ろの戸の隙間(すきま)から吹き込む冷たい風を受けながら、お茶子(ちやこ)の足で膝を踏まれながら、前へ坐つた丸髷(まるまげ)禿頭(はげあたま)空隙(くうげき)をねらひつつ鴈治郎の動きと福助のおかるを眺めることが、最も芝居を見て来たといふ感じを深くし、味を永く脳裡に保たしめるのであるらしい。そしてまた次の興行には必ず行つてまたあのうれしい苦労がして見たくなるのである。

 それらの苦労をなめ、火鉢の温気(うんき)と人いきれを十分に吸ひつくして、頭のしんが多少痛み出すころから、漸く芝居の陶酔は始まるのだと芝居通の一人はいふ。だがそれらの苦労を全部省略してしまつた処の近代風の劇場では、見物人が煙草をのまぬが(ゆゑ)に、ものを食べないが故に、火鉢を持ち込まない故に、芝居が終るころになつても空気はからりと冴えてゐるので、どうもも一つ、張合(はりあひ)がなくて、陶酔すべき原料がないといふ。

 しかし大阪では、新らしい近頃の文楽座以外では先づ、どの劇場もまだまだ、充分の原料を設備して愛好家を待つてゐる。

 さて、私の如く常に芝居の空気とその雰囲気による訓練を欠いでゐる無風流な者どもが、そして毎日無風流な文化住宅とビルディングとアトリエの中をズボンと靴で立ちつくしてゐるものたちが、時たま観劇に誘はれて見ると、東京の劇場は靴のまゝの出入りだから幸福だが、大阪では通人のする苦労を共に楽しまねばならない。この()まんこそが芝居をよりよきものにするのだとは知りながらも、つひ腹の方が先きへ立つてくるのでいけない。時代のテンポは画家といふ風流人を、かくも無風流にしてしまつたかと、われながら、あきれるばかりである。

 昨夜も久しぶりで、窮屈な(ます)の中へ四人の者が並んで見たが、四人の洋服は八本の足を持つてゐるものだからその片づけ場所がないのだ。くの字に折つて畳んで見たり、尻の下へ敷いて見たりまた取り出して伸ばして見たり、あるひはさすつて見たり、全く持てあました。

 愛人と共に過ごす幸福の一夜は、片腕の存在を悲しむという意味の(うた)がどこかにあつたが、全く芝居では両足の存在が悲しい。帽子と共に前茶屋へ預けて来ればよかつた。その窮屈の中へなほ、火鉢と、みかんと、菓子と食卓と、弁当と、寿司と、酒とを押し込まうといふのだ。

 

 それから芝居の雰囲気を増す原料の一つである光景は、幕が開いてしまつてゐるのに、小用や何かで立つた男女老若が、ぞろぞろばたばたと花道を走る事だ。

 昨夜も判官は切腹に及んで由良之助(ゆらのすけ)はまだかといつてゐる時、背広服の男が花道を悠々と歩いて、忠臣蔵四段目をプロレタリア劇の一幕と変化させた事だつた。

 全く幕が開いた暫らくなどは舞台では何が始まつてゐるのか見えない位のこんとんさである。()えやん、()つちやん、お(かあ)ん、はよおいでんか、あほめ、見えへんがな、すわらんか、などわいわいわめいてゐる。

 その喧噪の花道を走る藝妓(げいぎ)の裾に禿頭は()でられつつ、その足と足との間隙から見たる茶屋場などは、また格別の味あるものとなつて、深き感銘とよき陶酔を老人に与へたであらうかも知れない。

 とにかくも、先づ芝居はどうであらうとも、芝居の中の浮世の雑景は、近代の様式による劇場のとりすましたるものとは違つて、雑然として見るべきものが甚だ多い処に、私も芝居以上の陶酔を持つ事が出来る気がする。

 なるほど、徳川時代か何かに生れて、のらりくらりと芝居の桝の浮世の中へ毎日入りびたつてゐたりする事は、悪くはない事だつたであらう。ところでわれわれ現代人はこの八本の足の始末に困つてゐるのだ。

 さて、かかる光景を喋つてゐるうちに予定の紙数は尽きてしまつた。芝居の本文は他の連中へ譲つて私はこれで擱筆(かくひつ)する。

 挿入の絵は公設市場に蟹が並べてあるのではない。忠臣蔵四段目、福助の判官が切腹を終つたすぐあとの、静寂なる場面の印象を描いたものである。

 

   もつさりする漫談

 

 関西には形容すべき言葉にして、特に訳のわからない複雑な感情と意味を含む処のものがかなりあるやうだ。例へばややこしいとか、ぞけてゐるうつたうしいしんどいもつさりしてゐるはでな事とかいふ風な言葉である。勿論(もちろん)日本の標準語の中へは這入(はひ)りさうにもない地方的なものではあるが、慣れてゐるわれわれの中ではそれらの一語で何もかもがいひつくせるので、大変便利だから変だとは思ひながらもつひ使つてしまふのである。

 ややこしいといふ事を東京流に翻訳して見ると、この語の中に含む真のややこしさを表すだけの適当な言葉が見出せないのである。その意味は複雑といふだけでもなく、ごたごたしてゐるといふだけのものでもない。西だか東だかあれかこれか、ほしいのか(いや)なのか、甚だもつれている処の、こんがらがつた意味があるのである。まだその他あの男女の間が(すこぶ)ややこしいとかこの品物が本ものか偽物か甚だややこしいとかいふ事もいへるのである。怪しげな男の事をややこしい男ともいふ。あるひは六つかしき事にも用ひ、恋愛が破れかゝる時にもややこしいと称し、成立しかゝる時にもややこしいといふ。あるひはいゝのか(まず)いのかわからぬが多少下手に近い絵の前へ立つた時、ややこしい絵だとも評するし、髭面(ひげづら)の気ぶしやうな男の顔を見てややこしい顔してますといつたりする。

 ぞける、といふのは、もう月経も閉止する時分であるにかゝはらず、急に何を感じてか、赤い(えり)をかけ出したり、急に素晴らしいネクタイをつけたり、禿頭(はげあたま)へ香水をふりかけて見たりし出した時に用ふべき言葉である。近頃彼は急にぞけ出したとかいふ。

 しんどいとは、全くくたびれたといふ上にもつとなまぬるい複雑性が入り込んでゐる処の、もつと軽い意味の、そしてどこかに深刻味のある、微妙なくたびれの心もちであり、一種のびやかな漫然としたつかれ心地を表すためにああしんどとかしんどうてたまらぬとかいふ、これも東京ではどんな言葉でいひ表していゝか私には見当がつき兼ねる。

 もつさりするといふ言葉は、何んでも本筋のものでなく田舎風で野暮(やぼ)でそのくせ気取つてゐる処の、しかもしやれてはゐない処の、上等でもなく、美しくもない、多少きざに見える処の、何かゴタゴタして垢抜(あかぬ)けのしないものを()してもつさりしているといふ。

 もつさりしたマチスといへば素描の力と認識不足のものであり、省略すべき処を略せず、拾ふべき処を取落してしまつた処の、垢じみてすつきりしない処のマチスかぶれの絵といふ事である。丹波篠山(たんばさゝやま)生れの鴈治郎と熊本県人の羽左衛門(うざゑもん)もまた、もつさりした種類と見ていい。

 もつさりしたヴラマンクといへば、大体右と同じ傾向のもので即ちヴラマンクに似てはゐるが本当のヴラマンクがその絵を見たら恐縮して風邪(かぜ)を引くであらう処のどす黒赤き拙劣な絵といふ事になる。その他もつさりしたシャガール、ボンナアル、ブラック等この言葉を上へ(いただ)くいろいろのものは現代日本には殊の(ほか)多いやうだから特に重宝(ちようほう)な言葉であるといつていゝ。

 しかしながら、本当の田舎の、さも田舎らしくある処のものに対しては、このもつさりといふ言葉はあて(はま)らない、田舎で本当にさも田舎らしい女や男や料理に出会つた時、それをもつさりとはいひ得ない。それは、田舎の本筋のものだからかへつてすつきりとしてゐるのである。要するに田舎ものが、第一流のしやれものを真似(まね)て手のとゞかぬ時にもつさりが起つてくるやうだ。

 うつたうしいと言ふ言葉は、用ひ処はほゞもつさりと似てゐるが、も少し陰鬱(いんうつ)であり深刻な味を()ち多少のうるささを持つ。うつたうしいお天気といふのは普通だが、うつたうしい顔するな、うつたうしい奴が来まつせ、そんなうつたうしい事は嫌だ、うつたうしいマチス、うつたうしいヴラマンク、等に使つて差支(さしつか)へない。もつさりした何々よりも今少し下卑(げび)悪性(あくしやう)のものにして下手(へた)さも深刻である場合にこの言葉が適用される。

 藝術家の髪、長く垢じみて、親の金で遊んでゐるくせにわれわれプロはといふ時、甚だうつたうしくなりがちであり、あるひは男のくせに妙に色気を肢体(したい)に表してへなへなする時、うつたうしい男となるものである。その他うつたうしいズボンといへばモダンボーイの事であり、うつたうしい頭といへば下手(げて)で大げさな耳隠しともなる。

 その他、絵かきさんと心安くなるのも結構ですが、いらぬ絵を持ち込まれるのがうつたうしうてといふ言葉もしばしば聞かされる事である。

 うつとうしいに対してはでなといふ言葉もある。水死美人が浮上つた時、はでなもんが浮いてまつせといふ。八百屋の女房が自転車に乗つて走つたらはでな仕事となるし、百号を手古摺(てこず)つてナイフで破つたといへばはでな事をしたと感心してもいゝのである。とにかく関西にはかなり便利で意味深きなほかつ深刻にしてユーモアの味を含めるいろいろの言葉のある事を私は面白く思ひ、ちよつと紹介したまでゞある。

 

   下手(げて)もの漫談

 

 藝術家が最上の藝術を作らうとして出来上つた手数のかゝつた、高尚、高貴、高価な品物ではなく、たゞ食事のために作つた茶碗や食卓、酒の壷、絵草紙(ゑざうし)や版画の類あるひは手織木綿(もめん)のきれ類といつた如き日常の卑近なるものでありながら、その職人の熟練やその時代の美しい心がけなどがよく現れた結果、藝術家の苦心の作品よりももつと平易で親しみやすい、気取らぬ美しさが偶然にも現れてゐるといつた品物に対して、骨董屋は下手(げて)ものと呼んでゐるやうに思ふ。

 万事上等、高貴、高価なるもの以外は一切手に触れたくないといふ上品で持ち切る事の出来る人も結構だが、どんな下品、下等なものでも決して構はず眺め、食べ、観賞し、楽しむ事が出来るものもまた、世の中が手広くてかつ、安価で幸福である。そして偶々(たまたま)、上等のものにありついた時は、また、素晴らしく(よろこ)ぶ事も出来ようといふ訳だ。

 私などは上等のものも勿論好きだが、あらゆる下等なものに対してより多くの親しみを感じる事が出来る。それは一つには、私が純粋の大阪の町人に生れ、道頓堀(だうとんぼり)に近く、何んとなく卑近なものにのみ包まれて育つたがために、高貴上等の何物も知らなかつたといふ点もあると思はれる。私の心に当時沁み込んだいろいろの教育資料は、悉くこの下手(げて)ものばかりだつたといつて差支へない。

 学校で一体私は何事を教はつたかを忘却したが、この下手(げて)なる教材の多くを私は忘れ得ないのだ。それが一生涯、私の血の中を走つてゐるやうな気がする。

 

 例へば父は、浄るりを語つてゐる、母は三味線を()く、夜は夜店を見てあるく。そして、太鼓まんぢゆうと、狐まんぢゆうと、どら焼きを買つて帰る、丁稚(でつち)小僧と花合せをして遊ぶ、時々父は私を彼が妾宅へ連れて行く。その家の戸口には、角行燈(かくあんどん)がかゝつてあり御貸座敷と記してあつた。

 そこでは「ぼんぼん、えゝもの買うてあげまよ」といつて藝妓(げいぎ)仲居(なかゐ)が私を暫くの間、芝居裏の細道をうろうろと何かなしにつれて歩くのだ。そして何か一つ玩具を買つてもらふ訳だつた。やがて父は、さあ帰らうといつて私の手を引くのだ。私はそれが何をしに来たものか、この酒と酒を温める湯と、妙な臭気の立つ処の、しかも何か華かな心を起さしめるこの家が何屋で何をするうちか知らなかつたが、それを会得するのには中学程度の知識が必要だつたと見え、十五、六歳に及んでうすぼんやりとなる程度、ははんと気がついた。

 しかし、そこで私のたべさゝれた桃などは、とても家庭でたべるものとは比較にならない上等の品だつた。今考えると、水蜜桃らしかつた。何しろ口中で甘い汁がどつさりと出て直ちに溶解してしまふのだから素敵だ。綺麗な鉢に盛られてさアぼんぼんお上りといつて出されるのが何よりの楽しみなんだ。それに皆が大変よくしてくれるので、私は幸福な家だと思つた。ところがまた妙に大切にしてくれる処が気に食はぬ処もあつた。

 それにも一つ、ここへ来ると、あまりに女の人たちが美し過ぎるのと、大礼服を着用してゐるのと、それらが強い香気を放つて、妙に私の心を騒がせるのがきまり悪くて堪らなかつた。それに彼女らは、よつてたかつて学校でもどこでも、聞かされた事のない会話を喋るのだ。そして、さアぼんぼん、もう水あげすんだといつて勝手に喜んでゐたりするのが、私に諒解出来ないのだが、何かその臭気や大ぜいの女の色彩や電燈の光が交つて私の心をときめかすだけの役には立つたと思ふ。

 

 なほ、私の家は、先祖代々一子(いつし)相伝である花柳病専門薬を製造してゐた。天水香といふのは自家製の膏薬の名であり、同時に家の屋号の代用として通用した。よその人は父を天水香はんと呼んだ。

 その頃は薬屋が医者の如く、診察しても構はない時世だつた。私の家の店頭は朝から、弁当持参のいろいろの男女の客で(うま)つてゐた。彼らは何をしに来てゐるのか、これも私にはわからなかつたが、たゞ人間といふものは、私の店へ(きた)つて順番に父から妙な場所へ膏薬を貼つてもらふものだと信じてゐた。

 私はこの膏薬の効能書を丁稚(でつち)と共に大声で鉄道唱歌の如く合唱したものだつた。即ち、かんそ、よこね、いんきん、たむし、ようばいそう、きりきず、腫物一切(はれものいつさい)女○○のきずといつた具合に。

 その頃、私の通つた小学校が島之内の真中にあつた。集る処のものは多く、宗右衛門町(そゑもんちやう)あたりの藝妓の子、役者の子、仲居の子、商人の子らだつた。決して、華族様や政治家や学者の子はゐなかつた。

 ある役者の子供は、まだ昨夜の白粉を耳のうしろに残したまゝまやつて来て、時々胸を()けて見せたりした。覗いて見ると白粉と交つて、紅色の泌みが一面に残つてゐた。何んでも、殺される役なんだ。

 私は、何か、気味の悪い奴だと思ふと同時に、私よりも大分えらい子供かとも思つて見た。

 宗右衛門町(そゑもんちやう)から通つて来る娘で、紺地に白ぬきの(あが)(ふぢ)(さが)リ藤の大がらの浴衣(ゆかた)を着たのが私を恍惚とさせたものだ。それが悩ましいためか何かよくわからないながらも、何しろ大変気にかゝつてしやうがなかつた。今にこの浴衣の模様を忘れない処を見ると、随分心に銘じたものと見える。

 記憶といへば妙なもので、小学校、中学校で何か一生懸命に試験勉強したけれども、その辛かつた事だけは覚えてゐるが、さて何を記憶してゐるかと思ふと、(ことごと)く忘却してしまつてゐる。しかも忘却してどれだけの不便があるかといへば何事もない。何かの必要上、あれは何世紀の出来事だつたかを調べるには、簡単に書物は備つてゐる。訳はない。

 さて私たちの心にこげついて根を一生にのこす処のものは、日常のくだらぬ事ばかりであるといつていゝ。そのくだらぬ事ばかりがなかなか生きてゐる。

 

 蜻蛉(とんぼ)の羽根と胴体を形づくる処のセルロイド風の物質は、セルロイドよりも味がデリケートに色彩と光沢は七宝(しつぽう)細工の如く美しい。あの紅色の羽根が青空に透ける時、子供の私の心はうれしさに飛び上つた。そしてあの胴体の草色と青色のエナメル風の色沢は、油絵の色沢であり、ガラス絵であり、ミニアチュールの価値でもあつた。

 私の夏は蜻蛉(とんぼ)釣り以外の何物でもなかつた。夕方に捕へた奴をば大切に水を与へ、翌朝は別れををしんで学校へ行くのだ。学校では、蜻蛉の幻影に襲はれて先生の話などは心に止まらない。

 ある時、算術の時間中、私は退屈して、蜻蛉が、とりもち竿でたゝかれる時の痛さといふものについて考へつゞけた。竿があの草色のキラキラした頭へ()きあたつた時は、どれ位ゐの痛さだろと思つてちよつと(ほつ)ぺたを平手で()めして見た。も少し痛いかと思つて少し強く叩いて見たがどうもまだなまぬるかつた。たうとう私は夢中になつて私の頬をぴしやりと強く打つたものだ。(たちま)ち静かな教室の皆の者が私の顔を見た。私は蜻蛉に同情したゝめに放課時間中、教室に一人立たされてゐた。

 でも、早くあの蜻蛉に会ひたくて走つて帰ると、蜻蛉は猫に食べられて二、三枚の羽根となつて散了してゐた。私は地団太(ぢだんだ)踏んで泣いた。たうとう、丁稚(でつち)と番頭につれられて、八丁寺町(はつちやうてらまち)へ大蜻蛉狩りを行つた事である。

 

 最もエロチックにして毒々しき教育のモチーフは、千日前(せんにちまえ)を散歩するとざらに(ころ)がつてゐた。私の家が千日前に近い関係上、ひまさへあると誰れかに連れられて私はこの修羅場(しゆらば)を歩きまはつた。

 活動写真はまだ発明されてゐなかつたために、そこは、地獄極楽の血なまぐさい(いき)人形と江州音頭(がうしうおんど)の女手踊りと海女(あま)の飛び込み、曲馬団、頭が人間で胴体が牛だといふ怪物、猿芝居二輪加(にわか)、女浄るり、女相撲(ずまふ)、手品師、ろくろ首の種あかし、等々が並んでゐる。中でも私の好きなのは、あくまで白く塗つた妖味(えうみ)豊かなろくろ首の女であつた。(おそ)ろしいのだが、見たいのだ。何かキラキラと光る花かんざしや、金モールの房のある幕の端がだらだらとぶら下つて、安い更紗(サラサ)模様のバックが引廻はされてゐる。

 私がもう写生帖を懐中するだけの大人となつてからの事だ。私の弟が薬剤師の試験を受けるためにとつておいた受験証をば私は預かつてゐた。それをその写生帖の一頁へはさんでおいた事をうつかりと忘れて私は、人ごみの中へ立つて、ろくろ首を写生した。

 その翌日弟の試験日だ、私はそれを落した事を初めて知つたが、もう千日前の泥道にさやうな小さいものが存在すべきはずもなかつた。弟はたうとう一年間遊んでしまつたといふ、私の大失態がろくろ首から、(かも)し出された。

 曲馬団の娘や、女奇術師の顔や、女相撲取りの顔にもろくろ首と共通せる妖気は漂うてゐた。白粉(おしろい)が強いので二つの眼が真黒の穴とも見えた。殊に曲馬団では、(ほと)んど肉シャツ一枚で、乳がその形において現れ、彼女らは皆黒か赤のビロウドの猿股(さるまた)穿()いてゐた。それが、固く引締つた下から太い(もゝ)が出てゐる処に胸のどきつく美しさがあつた。それが針金の上で、あるひは空中の高い処であらゆるポーズをして見せるのだから、今でも私はあの藝当を好む。

 それと、私は、曲馬団が吹き鳴らす金色のラッパの音がとても好きなのだ。私はあらゆる音楽の中で、極端にいへばあのラツパの響きを好むといつていゝと思ふ。あの調子の破れたやうな金属性のかすれ声はエキゾチックな泣き声である。

 私が巴里(パリ)の客舎にゐる頃、いつも町外(はづ)れの森の中から、この曲馬団のラッパが毎日響いて、私の帰郷病を昂進させた。私はもし何か、長唄(ながうた)とか清元(きよもと)歌沢(うたざは)のお稽古でも出来るやうなのんきな時間があつたとしたら、私はこのラッパの稽古がして見たい。

 

 自分の親の醜態はあまり見たくないものだが、私の父は素人浄るりの世界では相当の位置にあつたものと見えた。会がある()びに母と共に、私は出かけねばならなかつた。

 人目につく高い処へ父が現れるだけでもきまりが悪いのに、その父が女の泣く真似をして何んともいへない渋面を作つて悩むのだから、子として全く私はやり切れなかつた。で、浄るりの会と聞くと憂鬱になつた。しかしながら、燭台の(ほのほ)がほろほろと輝き大勢の人が集り、藝妓(げいぎ)らしい人たちが大勢集り、ぼんぼんといつてくれるのがうれしいのと、会のあとでは「のせ」といつて何か御馳走にありつけるのが先づ私の目的だつた。

 私の父は胃に癌が出来てからもなほ、素人浄るり大会で、忠臣蔵の茶屋場の実演に平右衛門(へいゑもん)となつて登場した。その時の憐れな姿は、むしろ亡霊に近いものだつた。私の父は死ぬまで、消極的ではあるが、陽気に遊んでゐたかつたらしい。

 大体、浄るりといふものが、何を喋つてゐるのか、少しも諒解出来なかつたけれども、たゞその音律の物悲しいものである事だけが私の心へ流れ込んで来た。

 それで今でも、あの太い三味線がでんとなつて、太夫(たいふ)がうーと一言うなると直ぐに浄るりを聞くだけの心がまへが忽ちにして私の心に備はるのである。

 

 たつた一つ、清潔な教育は施された。それは、心学道話だ。これは、堺筋に道場があり、燭台と、燈心の光以外の燈火はなかつた。床の間に忠孝の軸が(かゝ)つてゐた。近所の医者とか知識あるものたちが、義勇的にこゝへ現れて、ためになる話をしてくれるのだ。忠臣義士の話を連続的にうまく演じる人もあつたと記憶する。何しろ燈心の暗さが心を静めるのと、近所の人がぞろぞろと集るのが訳もなくうれしく、その上帰る時、岩おこしを一つづつ頂戴する事が最後の希望でもあつた。

 この心学道話は今なほ、スピードの堺筋に存在し、心学道話の看板も懸つてゐると思ふ。

 

 いも助、くり丸、といつて二つの有力な宣伝業である東西屋(とうざいや)があつた。今高座(かうざ)に出てゐる九里丸はその子孫かどうかは知らないが。

 この二つの東西屋は各々特色があつた。いも助は鳥の尻尾(しつぽ)を立てたる籠の如き形の笠を(かぶ)り、大きな拍子木(ひやうしぎ)を携帯していた。(しやべ)る時、目を細くして頭を左右に打ち振るのが彼の特長であつた。九里丸はきらびやかな殿様風で万事が華やかだつた。時には一本歯の塗りの高い下駄を履いて、素晴らしい衣裳で大ぜいが三味線や(かね)で流して行くのが、私にとつては心の躍る行列だつた、私はいつまでも後から従つた。ある時、一本歯の九里丸は(つまづ)いて彼は倒れた。金らんの帽子はそのはづみで飛んでしまひ、つるつるの禿頭が私の前へ転がつたものだ。私は、それ以来九里丸の頭が少し怖ろしくなつて、つひ、いも助の方へ、なるべく賛助して歩くやうになつてしまつた。そして同じ口上(こうじやう)を幾度でも暗記するまで、ついてあるいた。そして彼の柔かに動く頚と、細い目を観賞しながら。

 

 とかう書いてゐると、いくらでも記憶は蘇生(そせい)する。ともかくも、かゝるすべてのものは(ことごと)下手(げて)の味あるものばかりである。一つとして、高尚、高貴、上品なものはない。夜店のたべもの、夜店の発明品だ。香具師(やし)がいふ如く、あつちにもこつちにもあるといふありふれた品物ではない。買つて帰るとすぐつぶれるといふ品でもないといつてゐるが、即ちその品こそ持つて帰るとすぐつぶれてしまふ処のものであるのだ。

 しかしその、変色し、つぶれる、安い処に、愛嬌と物悲しさを含んでゐる。そして下手(げて)ものは安く仕上げる必要から勢ひ手数を極度に省く、その事が偶然にもまた、藝術の方則に合致する事があり、適当な省略法が加へられるのでその結果、高貴なるものの複雑にして鈍きものよりも、単純にして人の心を強く動かすだけの力を偶然にも備へるものである。

 現代では人絹(じんけん)といふものがある。人絹製の帯や襟巻(えりまき)などに、上等のものよりも数等感心すべきさつぱりとした美しい柄を発見する。そして、幾百円の丸帯など見ると、全く何か、うるさい、不愉快な手数ばかりを感じてしまふ事さへある。

 狩野(かのう)派末期の高貴なる細工ものよりも、師宣(もろのぶ)の版画に驚嘆すべき強さと美しさが隠されてゐた如き事も、世の中には常にある事だ。

 大体、日本人は、何から何まで本物でなければ承知しないくせがある。本物もいいが極端になるとその結果、何から何まで本金(ほんきん)づくめの本物づくめとなり、指に純金の指環、歯に本金の入れ歯を光らせ、正二十円の金貨を帯止めに光らせ、しかも、工藝的価値や模様の美しさなどは顕微鏡で覗いても出て来ない。

 西洋の下級な女たちの手にはめられてゐる大げさな指環は、悉くこれ、ガラス玉であり、牛骨と合金で出来上つてゐるのを見た。そしてそれが愛すべく美しい模様唐草(からくさ)によつて包まれてゐる。私は、そのガラスの青さと、合金の金具と、その唐草の美しい連続がどれだけ女を安価で可愛く仕上げてゐるか知れないと思ふ。そして、私の如き画家が絵に描く肖像も、それらあるがためにどれだけ描くべきモチーフの楽しさが増す事か知れない。

 私は世界を美しくするものは何も本金であり本ものの真珠でも、ダイヤモンドでもないと思つてゐる。それは、土であり石ころであり、粘土であり、ガラスであり、一枚の紙であり画布である。ただそれへ人間の心が可愛らしく素直に熱心に働いた処に、あらゆる美しきものが現れるものだと考へてゐる。

 何しろ、私は下手(げて)なるものゝ味をより多く味はひ()れてゐるためか高尚な音楽会も結構だが、夜店の艶歌師(えんかし)(やみ)に消え行く奇怪な声とヴァイオリンに足が止まり、安い散髪屋のがらす絵が欲しくなり、高級にして近づきがたい名妓(めいぎ)よりも、銘酒屋のガラス越しに坐せる美人や女給、バスガアル、人絹、親子丼、一銭のカツレツにさへも心安き親愛を感じる事が出来る。

 

   陽気過ぎる大阪

 

 私がもしも現在なほ大阪の財産家のぼんちであり、その遺産と先祖代々の商売を継承してゐたとしたら、そしてその余りの時間を南地北陽に費し、その余りの時間をダンスホールとホテルに、その余りの時間をゴルフと自動車に、その余りの時間で市会議員ともなり、その余りの時間で愛妾を撫育(ぶいく)し、最後の甚だ(しみ)つたれた時間を夫婦喧嘩に費すといふ身分ででもあれば、私は、大阪の土地くらい煙たい階級のゐない、のんきな、明るい、気候温和にして風光明媚なよいとこはないなアと満足するにちがひない。

 ところが学術、文藝、藝術とかいふ(たぐひ)の多少憂鬱な仕事をやらうとするものにとつては、大阪はあまりに周囲がのんきすぎ、明る過ぎ、簡単であり、陽気過ぎるやうでもある。簡単にいへば、気が散つて勉強が出来ないのだ。画家だつてよくこんなお世辞を戴く。「あんたらえゝ商売や、ちよつと筆先きでガシャガシャ塗りさへすれば百円とか五百円とかになるねがな、気楽な身の上や。」

 貧乏して何にもならぬ事に苦労してゐる時、かういはれては全く阿呆(あほ)らしくて、藝術心も(しな)びてしまふ。そこで、気の利いた藝術志望者は、多少大阪よりは憂鬱である東京へ逃げて行く。それで、大阪は常に文藝家、藝術家は不在である。水のないところでは魚も呼吸が困難なのであらう。私なども、関西に暮していると、ロータリークラブへ画家として出席してゐるやうな、変な(さび)しさを常に感じてゐる。

 居住性からいへば、大阪の郊外、殊に阪神間くらゐいゝところはないと思ふ。だが、この温和な土地で、大きな別荘に立て(こも)つて、利息の勘定をしながら、家内安全、子孫長久、よそのことはどうでもよい。文化とは何んや、焼芋の事か。「近頃文化焼芋の看板をしばしば見かける」といふやうな人情を私は感じる。こんな人情は大阪に深く根を下ろしてゐるらしい。そして文化を焼芋と化し、赤玉(あかだま)を生み、エロ女給となつて遠く銀座にまで進出する。またおそろしくも強い人情ではある。

 

   大切な雰囲気

 

 巴里(パリ)の街頭で焼いも屋をしてゐたといふボアイエーの絵を、近頃ある私の知人の(もと)に十幾枚秘蔵されてゐるのを見る事が出来た。それは童心的で、そして技巧がないやうではあるがそれが完全な絵にまで、そして充分の藝術にまで到着して、今ではルオーとかユトリロとかいふ格にまで並んでゐる。

 大体素人(しろうと)玄人(くろうと)とは、どれだけの差があるのかといふと、これはなかなかやゝこしいもので、小さい時から絵が好きで絵を描いてゐるうちに勝手に上達して本職となつてしまつた人もあれば、本格と正道の絵画教育を順序を立てゝ習得して素描もうまく形も正確であるにかかはらず一向に絵としては面白くも何んともないものしか描く事の出来ない人もある。あるひは驚くべき画才を充分持ちながら別段自分が絵が好きでもないためにつひ実業家や医者となつて一生を暮してしまふ人もある。

 才能を持ちながらも絵をかく事を好まない人があり、才能がないくせに絵がめしより好きな人があり、技術を誰からも習得せずに才能が絵画を輝かしめるものもある。

 全く絵の仕事位割切れない、理窟(りくつ)通りに行かぬものはあるまい。正道もあてにならず邪道もまた必ずしも軽蔑に(あたひ)しない。

 しかし正道が人を殺す事はないので、殺された人間が正道よりも弱かつたために過ぎない。

 大体において日本の現在の如き、洋画が発達の過程にある国ではまだ歴史が浅く古き伝統が日本の空気に溶解してゐないがために、全くの無技巧者が非常な藝術を生む事にまでは到達してゐないやうである。

 日本にはまだ、全般に行きわたり人間に()み込んでしまふだけの洋画藝術に、歴史と伝統と雰囲気(ふんゐき)が形成されてゐないが、西洋では、代々の遺伝と雰囲気が人種の中に(ひた)り切り行き渡つてゐる。そこで正道の技術を習得しない素人でも絵をかくと、ともかくもそれらしいものが現れてくるのが不思議である。

 それは徳川時代の普通人があるひは明治時代の奥様が、ちよつと何かの必要から半紙へ絵を描いた時、その人は絵はかけませんといひながらも描いて見ると、その線は直ちに徳川期の線を現し明治の(にほ)ひを表現する。

 私の母がよくらくがきをした。その絵を私は今も二、三枚所持してゐるが、娘の図にしてもが全くの浮世絵の風格を備へている。

 現代の子供の自由画は現代絵画の縮図であり、現代学生美術展なぞ見ると現代諸展覧会に並ぶ日本の画壇の潮流をそのまゝに反映してゐるのがよく感得出来る。

 巴里の焼いも屋から現れたボアイエーの作品もそれも正道ではないが、私の考へではフランスの藝術の雰囲気があり、()つてボアイエーの画才を発揮せしめたものだと思ふ。

 要するに、伝統ある国では正道の技術が空気の中に溶け込んでゐるがために、従つてその空気を吸うてゐる国民は皆知らぬ間にある程度の技術を知つてゐるともいへる。

 巴里は奈良漬の(たる)のやうなもので、あの中へ日本人をしばらく漬けておくとどんな下手でも相当の匂ひにまで到達する。日本の現代にはまだ酒の(かす)が充分国民全般にまで浸み込み行き渡つてゐない。従つてよほど本格的の勉強をやらないと相当の匂ひをすら発散する事は容易ではない。 

 

   挿絵の雑談

 

 よほど以前の事だが、宇野浩二氏が鍋井君を通じて自分の小説の挿絵を描いて見てくれないかといふ話があつた。自分は挿絵を全く試みた事がなかつたが挿絵といふものには相当の興味を持つてゐたし、小説家と自分とが知り合つて共同出来る場合には殊に仕事もしやすいので、いつか描いて見てもいゝといつて置いた事があつた。ところで最も困る問題は、私が常に東京にゐない事だつた。大概の小説が東京を中心として描かれてゐるのだから、私が関西にゐては、その日その日の原稿の往復に、どれだけ手数を要するか知れない上に絵を作る上からでも、例へば、誰れでもが知つてゐる銀座のタイガアを道頓堀の美人座でごまかして置く訳には行かない。

 新聞小説なら、原稿が三、四十回分でもすでに出来上つてさへゐてくれたら、私がしばらくの間を東京で暮して仕上げてしまへば出来る訳であるが大概の場合、長編の原稿は、その日その日、一回分づつ画家の方へ廻されてくるのであるから、到底地方に居据つてゐては出来る仕事ではないのであつた。

 そんな事や何かで、つひそのまゝになつてゐた処が、突然私は大阪朝日から邦枝完二氏の「雨中双景」の挿絵を頼まれたので、時代ものは背景の関係も(すくな)いし、居据つてゐながら描けるので、つひ引受けて見たのが挿絵を試みた最初だつた。次に最近再び邦枝氏の「東洲斎写楽」を描く事になつた。

 それから現在の谷崎潤一郎氏の「蓼喰(たでく)ふ蟲」だが、これは谷崎氏が私の家から近いのと、背景が主として阪神地方に限られてゐる点から私は引受けても大丈夫だと考へた。

 挿絵を試みようかといふ心になつた因縁が宇野氏にありながら、そして最近再び話が宇野氏との間に持ち上つたのだが、それだのに氏のものをまだ描く機会がないのも妙な因縁である。

 私自身が小説を読む場合、勿論私は絵かきの事だから私の心に絵かきとしての想像が浮び過ぎるためかも知れないが、どうも挿絵があまり詳細に事件や主人公や風景を説明し過ぎて実感が現れ過ぎてゐると、私はかへつて私の心に現れて来るものを大変邪魔される事が多いので、かへつてむしろ挿絵がなければいゝと思ふ事さへある。小説は三面記事ではないのだから、事件や人物をさやうに(つまびら)かに説明する事はいらない事だと思ふ。それで私は小説によつて私自身の心に起つた想像の中から絵になる要素をなるべく引出して正直に絵の形に直して皆さんへ伝へる事に努力したいと思ふ。そして挿絵は挿絵として(あぢは)ひ、小説は小説として味ひ得るやうにしたいと考へてゐる。要するに挿絵は小説の美しき伴奏であればいゝと思ふ。なほ新聞の紙面が、それあるがためにより美しく見え、小説が賑かに見え、小説のある事件が画家の説明によつて読者の心を縛らないやうにしたいと思つてゐる。

 私の貧しい経験では、時代ものは相当の参考資料さへ整頓すれば絵を作る事は比較的容易であると思ふが、現代ものになるとモチーフの万事が実在の誰れでもが知つてゐる処のものであるから相当の写生が必要であり、同時に写生そのものは挿絵ではないので、それを絵に直す処に画家の興味があり、実在が挿絵と変じて現れるまでの段階と手数に、かなりの興味が持てるのである。

 そしてその画稿が紙面に現はれた時の感じといふものは、また別の趣きを現すものである。下絵の時に気附かなかつた欠点が紙面に現れてから目立つ時もある。ちよつとした不満な点を見出(みいだ)すときその日一日私は不愉快である。

 しかしながら挿絵は普通の油絵の如く、一人一枚の所有でなく、一枚が何万枚となり各人が悉く所有し得る事なども、挿絵の明るき近代的な面白さである。

 挿絵は、新聞の紙質や製版の種類についても考へる必要があると思ふ。目下の、日本の新聞紙の紙質では、どうも網目版がうまく鮮明に現れにくい。絵を線描のみでなく淡墨(うすゞみ)を以て調子づけたりする事も結構だが、どうも鮮明を欠く嫌ひがある。最も朝刊の小説の方では挿絵の画面が三段位ゐを占領してゐるから相当がまん出来るが、夕刊の二段ではどうも網目版は見劣りがするし、上方の写真ニュースや広告と混同してしまつて引立たない。

 それで、私は主として線のみを用ひて凸版を利用し黒と白と線の効果を考へてゐる。

 挿絵としては、詳細な写実を私はあまり好まないが、それは写実がいけないのでなく、下手な写実から起る処の不愉快な実感の現れを私は嫌がるのである。本当の意味の写実は最も必要で、その写実が含まれてゐない限り、人の想像を(ゆたか)にする事は出来ない。大体、従来の日本画風の挿絵家等の作品は共通して実感はあつても写実が足りないので何か(すこぶ)る薄弱な存在となつてしまつてゐるのを見る。その時に際し石井鶴三(つるざう)氏のものが大変よく見えたのは、彫刻家であるだけ、デッサンの正確さによつて立体感までが現れてよき意味の写実によつて絵が生きた事などが原因してゐるといつていゝと私は思ふ。

 しかしながらまた、よほど以前の浮世絵師の手になる挿絵に私は全く感心する。人物の姿態のうまさ、実感でない処の形の正確さ、そして殊に感服するのは手や足のうまさである。昔の浮世絵師の随分つまらない画家の描いた絵草紙類においても、その画家の充分の努力を私は味ひ得るのである。そしてかなりの修業を積んでゐると見えて、その形に無理がなく、そして最もむつかしい処の手足が最もうまく描きこなされてゐる事である。

 手足のうまさの現れを私は昔の春画において最も味ひ得るものと思ふ。あれだけの構図と姿態と手足を描くにはちよつとした器用や間に合せの才能位ゐでは出来ないと思ふ。かなりの修業が積まれてゐる。

 挿絵のみならず、油絵や日本画の大作を拝見する時、その手足を見ると、その画家の技量と修業の深浅を知る事が出来るとさへ私は思つてゐる。かく雑然と書いてゐると長くなるので擱筆(かくひつ)する。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/10/18

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小出 楢重

コイデ ナラシゲ
こいで ならしげ 洋画家 1887・10・13~1931・2・13 大阪市道修町(どしょうまち)に育つ。近代が生んだ代表的な洋画家の一人で、谷崎潤一郎作「蓼喰ふ蟲」などの挿絵にもみごとな足跡をのこしたことで知られる。

掲載作は、谷崎ら多く文人もその軽妙と典雅を愛した生涯の随筆集『楢重随筆』(昭和二年中央公論社)『めでたき風景』(昭和5年創元社)『油絵新技法』(同アトリエ社)および没後刊(1936〈昭和11〉年昭森社)『大切な雰囲気』から適宜選抄した。

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