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時間

     

 

 ――火をとめておいた方がよくはないか。

 ビールのコップを持った中腰の浅井が彼の横にいた。昔のままの、浅黒い、頬骨(ほおぼね)の張った小柄な顔だった。卒業してから分厚い肉を身体につけていない数少ない顔の一つだ。このまま背広を学生服かスエターに替え、靴下をとった指の長い足にゴム草履(ぞうり)をはかせたならば、浅井の姿は今学生自治会の部屋から出て来ても少しもおかしくはない。彼は、浅井の中に流れた時間を思った。長く自治委員や執行委員を歴任した割には、浅井はいつも目立たない存在だった。その頃のまま、浅井は今、ひっそりと彼の横に在った。

 ――何している。

 彼は、自分の声も低く柔らかくなっていることに気づく。

 ――前と同じ経理だが、今度コンピューターをいれることになってな、そちらの方をやらされておる。

 ――君と電子計算機とは、およそイメイジがあわないな。

 ――いや、システム作りいうんかねえ、関連部署との業務内容の変更にともなう折衝で、もう苦労しとるよ。誰もいうことをききはせん。

 その関西(なま)りの柔らかな声をきいていると、彼には浅井の「システム作り」の活動が眼にみえるように思い浮かべられた。暗い地下食堂やサッカーグラウンドの見降ろせる芝生の上で彼の方に流れるように寄って来る浅井の言葉には、強い理論構成力とか、粘っこい説得力とかとは別の不思議な温かみがいつでもあった。その声と、その呼びかけをもって、浅井は今、コンピューター導入のためのシステム作りを行っている。それは変質なのか、一つの成長なのか。彼は鍋の中から形のなくなりかけた(ねぎ)をつまみあげている浅井の横顔にちらと眼を走らせたが、それを口に出して確かめてみようとはしなかった。(おれ)たちはいつの間にか身体をぶつけあうことのない奇妙な思いやりの衣服を身につけてしまったものだ。浅井から離れた彼の目は、その時座の中央付近で立ちあがらんばかりにして昂揚(こうよう)した声を発している立花の赤らんだ顔に吸い寄せられた。食品メーカーの宣伝課に在籍し、最近課長になったばかりの立花は、学生運動を経て入社して来た彼の部下の考えを嘲笑していた。大学を出たばかりの彼の部下は、現在の宣伝活動を、大衆に、より良質な富を供給するために必要な情報を与える手段として考え、この企業活動を結局は大衆への奉仕として正当化しようとしているというのだ。

 ――ぼくたちのやっていることを、正当化なんか出来やしない。ぼくはその若い奴に言ってやったんです。お前は甘チョロだって。ぼくたちは毎日毎日大衆を(だま)しているんだ。より大きな利潤を手にいれるために、大衆を騙し、あおり続けているんだ。

 立花は、もともと鼻にかかった声を、酔いのために一段と強く鼻にこもらせながら語っていた。もし現在の仕事が我々にとって意義があるとすれば、それは資本がその利潤追求のためにどれ程真剣になっているか、その中でとぎすまされた技術がどのような発達をとげているかを、身をもって学びとることだけだ。

 ――学びとった技術を、将来、我々自身のために駆使することが出来るように。

 立花は言葉を切って手にしたビールをぐいと飲んだ。

 ――本気か。

 彼は思わず立花にむけて叫んでいた。

 ――本気ですよ。

 ――君はまだそんなことをやる気があるのか。

 別の声があがった。立花は挑むようにその声の方に顔をねじむけた。

 ――あんたみたいなのを雇っている会社は大変だね。

 ――大変じゃない。会社は彼を最大限に活用して利潤をあげているのだから。

 ――将来我々自身のためにその技術を駆使出来なかったとしたら、会社は丸もうけだぞ。

 ――本当に、正気で言っているのか。

 彼は斜め横からもう一度立花に声を投げずには居られなかった。

 ――正気だよ。俺は、学生の頃と考えは少しも変っていないつもりだよ。

 ――本気なら、少なくとも課長である君にとってはアナクロの感じだし、本気でないとしたら、学びとった技術で俺たちを騙したな。

 ――こんなところでみんなを騙したりするものか。

 立花の顔に真剣な表情が浮かんでいるのを彼は見た。それは、怒っているようにさえ見えた。では、君自身について、君はどのような将来の具体的なコースを思い描いているのだ、とたずねようとして、彼はふと立花の表情の中に淋しげなものが漂っているのに気づいた。その時、彼は感じとったのだ。立花が騙しているのは、何よりも自分自身なのだ。立花は、日々流れ続ける自分に対して、お前は流れてはいない、流れるようにみえてもお前は流れてはいないぞ、と懸命に声を掛け続けているのだ。おそらくは、自分のどこかでは、自分を騙していることに気づきながら。彼には、もはやそれ以上立花への質問を続けることは出来なかった。その問いが、くるりと自分にむかってはねかえって来ることを彼は恐れた。

 それは、彼が何年ぶりかで出席した寺島ゼミナールのコンパだった。コンパと言っても、常に同窓会的性格を帯びており、十数年前に卒業した彼等の期を筆頭に、若い方は在学中の現役メンバーまでを縦に集めるいわばゼミナールの年代記録的会合だった。その集まりは、寺島教授の持つ一貫した鋭い姿勢のためか、彼等の期の多くのものが持つ共通のある体験のためか、あるいは在学生から照射される若々しいがややまぶしすぎる強い発言のせいか、彼にその度に強烈な印象を残さずにはおかぬものだった。というより、その会合が彼に強い印象を与えるのは、そこに常に二種類の時間が存在するせいかもしれなかった。コンパに出席することによって、彼は、彼の過去を、当時と変らぬ寺島教授(変ったのは、助教授が教授になったことだけのようにしか思われなかった)と現在の学生たちという形でそこに現在形で見てとることが出来た。逆に言えば、彼は、彼の現在を、彼の過去の眼でまざまざと見てとることが出来た。だから、その場所に出かけていくことは、年とともに、多少のためらいと、同時にどこか自虐的な期待とを彼の中に抱かせるようになっていたのだ。

 ためらう自分から自らをひきはがすようにして、彼は何年振りかで会合に出席したのであった。同期の多くのものの懐かしい顔がそこにあった。しかし、それらの男たちの顔は、何年か前の彼の記憶の中の顔よりほとんどが豊かな肉でふくれあがっていた。生きて動いている時間が、ぬめぬめと男たちの顔の上を()いまわっているのを彼は感じた。

 誰かが静粛を求めて一同に声をかけていた。立ち上った寺島教授の度の強い眼鏡が、子供のように赤らんだ顔の上で光っている。

 ——ぼくに与えられた時間は十分間。ぼくは歌を歌います。最近、ぼくは一人でこればかり歌っている。

 部屋の中は静まりかえった。どこかで、焦げつきそうな鍋をかきまわす音が〈ジュウ〉とした。寺島教授は眼を閉じ、短い顎を自分の咽喉(のど)にすりつけるようにして歌い出していた。

 ――ぼくが学校終るまで

   何故(なぜ)に宮さん待たなんだ……。

 ほうという溜息にも似た声と、明るい笑いと、幾つかのささやきが座のあちこちに生じた。終節の部分を低く繰り返してから、教授の歌は、突然に何節かとんだ。

 ――ダイヤモンドに目がくれて

   乗ってはならぬ玉の輿(こし)

   人は身持ちが第一よ

   お金はこの世のまわり物

 ここですよ。五番か六番かしらないが、ここを歌ってほしいんだ。これは男が女に歌っている歌だけれど、今はそうではなく、男にむかって女に歌いかえしてもらいたい。ダイヤモンドに目がくれて……。

 教授は高くなる声を低くおさえようと努めながらその歌詞を繰り返していた。

 ――良くも、悪くも、寺島さんは昔と少しも変らんな。

 彼の耳元で浅井の声がした。

 ――良くも悪くもではない。あの年になってもあれだけ変らないのは、寺島さんの一番良い所だろう。

 ――ま、環境も我々とは違うけれど。

 ――それはある。しかし……。

 ――しかし最近はな、ゼミの学生も我々の頃とは違ってずい分減っとるらしい。

 ――近代経済学か。

 ――多いらしいな、そちらの方が。まあ、寺島さんの経済原論は就職してからは使えんものな。

 浅井は彼の眼をのぞきこんで笑った。恋に破れし貫一は、と寺島教授の歌は進んでいた。すがるお宮をつきはなし、無念の涙はらはらと……そして教授の歌は、またダイヤモンドに目がくれてにもどっていった。

 ――それもあって、少し淋しいのと違うか。

 浅井の言葉に彼は寺島教授の顔を見上げた。眼鏡の下から、驚く程大きな涙が一粒、教授の頬を伝わっている。

 ――必要以上に酔っているというわけか。

 寺島教授の身体を流れていく時間を彼は思った。それは、彼等の多くが持つ時間とは異質のもののように思われた。すでに地方の税務署長を経た国税庁の課長補佐がおり、大鉄鋼メーカーの係長がおり、食品会社の宣伝課長がおり、銀行の調査役がいる彼等の間に流れた流動的な時間とは異質の固定した時間。教授は、物理的な外圧によって変れないのではない。おそらく、自己の学と結びついた、いわば内圧によって変れないのであろう。それならば、我々は何の原理によって変るのか。物理的な外圧によって変るのだ。しかし、真に外圧のみによってか。自己の内部に、滑らかに流れていく時間の方向に沿って飛び込もうとする衝動はないか。いつの間にか出来あがった生活の外皮を傷つけまいとする本能的な配慮がうごめいてはいないか。

 教授の歌が終った時、室内にはすでにすき焼の匂いと煙草の煙とが重苦しく充満していた。その底から、突然誰かが歌い出していた。その歌は、当然のことのように驚く程の速さで室内にひろがっていった。立とうや、やっぱり。少し狭いね。思ったより出席よかったからね。畳の上に立つと、十何年か前と全く同じように、両側から腕が伸びて自分の腕にからみつくのを彼は感じた。歌声は整然とととのっていた。それは(はる)か昔からの約束事ででもあったかのように、何の不思議もなく男たちの身体から流れ出していた。……寒い自治会室で急造の、字だけの下手糞(へたくそ)なプラカードが進み出す。スクラムの間で揺れていた重い鞄。風になびく旗と、リーダーの甲高い指示。身体の中を駆けぬける微かな緊張感。乾いた咽喉をひりつかせて歌い続けた歌。あるいは、揺れないインターナショナル。下町の公会堂で開かれた政治集会に彼を導いたのは、浅井であったろう。合法集会だったには違いないが、参会者は入り口で厳密に審査されていた。浅井が受付で小さな紙片を提示し、やせた数人の男たちがそれを詳細に点検し、彼等は入場を許可される。集会が開始される時、演壇からの指示によってインターナショナルが歌われる。常と同じように、彼は何の気なしに両側の男の腕に腕をとおそうとする。いずれの腕も反応を示そうとはしない。歌は、身動きもせずに林立する男女の間から、垂直に高い天井にむけてのぼっていくのだ。

 ――こういう集会では、インターはスクラムなしで歌うのだ。

 浅井の低い声。スクラムを組もうとし、肩と肩をぶつけあおうとした自分が、ひどく滑稽で幼なく感じられてしまう。学生としてしかそれを歌うことを知らなかった彼に、その歌の別の歌い方を知っている浅井が、急に重々しく見えて来る。雨が降り続いている。人口十万足らずの地方都市の街路はまだ十分に舗装されておらず、少し横にそれると深い穴にたっぷりと泥水をたたえている。隊列は、組立工場の戸口を出る時から、すでに傘をさすことに気をとられて横のものをふりむこうともしない。片手には、出発前に渡された第何回メーデー万歳と書かれた赤いゴム風船。メーデーヘの狩出しをかけた労働組合執行部への不平、適当な口実をもうけてうまくずらかった同僚への羨望(せんぼう)、支給された手拭(てぬぐい)の材質への文句、職場代議員会で否決してしまった日当についての恨みがましい未練……。隊列は、何の緊張もなく、道の水溜りをよけながらのろのろと進んでいくだけだ。先頭の青年部のブラスバンドと合唱班からおこる歌声は、隊列にひきつがれ、ひろがることなく、すぐさま道に落ち、泥靴に踏まれ、消えていく。労働者かい、これが。失うものは鉄鎖以外の何ものもない戦闘的階級の隊列かい。彼は苛立って来る。学生服の肩がぐっしょりと濡れた雨のデモ。青い鉄兜(てつかぶと)の警官隊と何メートルか距てて対峙したまま、冷たいアスファルトの道に()の再発を恐れながら尻をつけ続けた坐りこみ。旗竿を横にした電車通りでの声も枯れはてた激しい蛇行(だこう)デモ――。靴音一つ揃おうともしない水ぶくれした雨の風船デモ。こんなものではなかったぞ、俺たちは……。

 しかし、今、この部屋の中で太った男たちは整然と一つの美しい歌を歌い続けていた。声は迷うこともなく、一度目のリフレインの最後の<いざ>を間違えて二度目の高さにつきぬけるものもなく、敷かれたレールの上を走る遊園地の軌道車のように走り続けた。歌いながら、彼は自分の声が重く湿ってくるのを感じた。彼は自らを励まして声を張りあげようとした。努力すればする程、彼の中で声は空転し、歌は激しい違和感を彼の中にひきおこさずにいなかった。歌うすべての男たちによって、今、歌は欺かれていた。その歌によって、男たちが欺かれていた。自分の腕と脇腹の間に、別の腕があった。それは明らかに他人の腕であった。ワイシャツの袖をとおして、右側の男の肉の生温かさが伝わって来た。激しい嫌悪(けんお)羞恥(しゅうち)の感情が彼を襲った。腕を離したい、と彼は思った。脇腹から自分の腕をひき()がすことによって、他人の腕を落そうとした。腕は離れなかった。隣の男の腕が彼の腕を抱いていた。腕はそのまま男から男へとつながって、部屋の男たちを一巡していた。突然、強烈な吐き気がこみあげて来た。それは胃袋からではなく、どこか更に深部から発する全身的な吐き気だった。救いを求めるように、彼は眼の前の男たちから視線を浅井に移した。固い小さな顔を天井にむけたまま、声を出しているのかいないのか、浅井は何かに耐えるようにただ唇だけを微かに動かし続けている。

 その時、一人の男が、ふっと部屋を出ていくのを彼は見た。古びた浅黄色のレインコートをつけた痩せた後姿が廊下の明りの中に鋭く浮かび、すぐ(ふすま)の陰に見えなくなった。髪から足の先まで、全体に脂気(あぶらけ)の切れたその男の後姿は、なぜか、一瞬、赤く焼けた鉄を肌に押しつける激しさで彼の中に跡を残していた。彼は浅井をふりむいた。浅井は出ていった男には気づかぬらしく、(うつ)ろな眼を天井にむけてただ身体をゆすり続けている。

 

     

 

 その時、彼は入社年次からいえば一年先輩の下木内と、昼休みのコーヒーを飲んで会社へもどるところだった。喫茶店で、下木内は彼にしつこくゴルフを始めることをさそっていた。営業マンとしてはまさに遅まきながら、どうしても不得手なスポーツにまで手をのばさざるを得ない、という下木内の決意に、半ば滑稽さを感じつつも彼は同情したが、しかし自分がそのまきぞえを食うことは認めがたかった。

 ――あと三日か。

 下木内は、自分たちが今はいっていくビルの高みを見上げながら、最初のコンペまでの日数をかぞえて呟いた。

 ――勝つ心配はないだろうが、あまり下手で相手の心証を害してもまずいしな。

 ――腰をいためないようにな。

 下木内をからかいながらビルの入口への低い階段に足をかけようとした彼の脇を、昔風の長いレインコートの襟をたてた一人の男が追い抜いていった。

 ――おや。

 彼はその男の身振りにどこか見覚えがあるのに気づいた。見覚えがある、というより、むしろ積極的に自分の中にその後姿に反応するものがある。忘れていた不安を呼びさますようなものが。

 ――知った人か。

 階段の上から下木内が声をかけた。その時、男はすでにビルの角を曲って消えていた。吸い寄せられるように、彼はかすかにレインコートの匂いのただよう男の跡を追い始めていた。ビルの入口を過ぎて曲ったところ、外装改修工事専用の腰板をはられたむかいのビルの前にも、日陰になったこちらのビルの暗い壁にも、すでに長いレインコートを着た男の後姿はなかった。彼の中にぽっかりあいた一種の空虚感の中に、突然、先日の寺島ゼミの会合から立ち去った男の記憶が音たててなだれこんで来た。

 いわば、あの会合以来潜在していた男の後姿のイメイジが、昼休みの出会いによって一挙に意識の中に噴出して来たようだった。といっても、彼が実際には見ることの出来なかったその男の顔だちや、後姿の細部などが眼にみえる形をとり始めたということではない。むしろそれは、時間がたつに従って、ますます茫漠(ぼうばく)としたものになって来ている。しかしそれとは逆に、遠ざかっていった男の後姿の形が、影絵のように彼の内部にくっきりと切り抜かれて見えるのだ。不思議な空間がその男の後姿の形で静まりかえり、その静けさが彼を呼び始めるのだ。耳からきこえてくるのではないその呼びかけは、彼の中の暗く柔らかな部分にむけて静かに迫って来る。呼んでいない、俺は呼んではいないよ、と答えて身をかわそうとする彼にむけて、その男の後姿からの呼びかけは正確に執拗(しつよう)に迫り続けた。

 子供が早く寝てしまった夜、彼は狭い居間のソファーにもたれて石油ストーブの方に足を投げ出している。網をかけたストーブに尻を押しつけるようにして美枝が毛のぬけた絨緞(じゅうたん)に夕刊をひろげてうずくまっている。

 ――お茶飲む?

 新聞から顔をあげずに美枝がたずねる。いらない、とか、ほしいとかいう短い答え。電車の走る遠い音、犬の鳴く声。前のうちで牛乳瓶を外の箱にいれる音……。一つ一つの音はもっこりとふくらみかえり、危険な泡のように彼を埋めこもうとする。

 ――寝ようか。

 近づいて来る形のない不安のようなもの。それから逃れようとするかのように、美枝に声をかける。曖昧な声で妻が答える。

 ――寝ようよ。

 寝れば、確実に朝が来る。又否応(いやおう)なしの時間のリズムの中に捲きこまれていくことが出来る。

 けれど、身体を動かして寝に行くのが億劫(おっくう)だ。ソファーの背から身体を離すのが面倒だ。足の先から落ちかかっているスリッパを爪先(つまさき)をあげて足にはきなおすことさえしたくない——。そんな時、ふと誰かがすれ違っていくのだ。静まりかえっただるい空気を彼に押しつけるようにして。テレビの画面いっぱいの黒い背中が急激に一つの後姿へと収斂(しゅうれん)していく時のように、彼の内部にあの男の後姿がくっきりと浮かびあがる。お前は一体、誰なのだ。駆け寄って、そいつの顔をぐいとこちらにねじむけたい衝動が彼を襲う。

 ――一緒に英語の本を読んだことがあったわね。

 新聞の書評にでも触発されたのか、美枝が柔らかな声をたてる。結婚してすぐの頃、一間きりのアパートで、二人で読書計画をたてたことがあった。英語を忘れてしまわないように――彼はエッセイ風なものをと思って探したが、適当なテキストがみつからず、結局美枝の主張に従ってぺーパーバックスのアメリカの小説を選んだ。テキストは遅々として進まなかった。俗語が多すぎて読みにくいのよ。本をかえてみようか。二人は笑いながらまた新しいペーパーバックスを二冊買った。活字が小さくて読みにくいわ。本が安っぽすぎると真剣に読まないな。本綴(ほんと)じのずっしり重い本を、本屋から大事に抱えて帰ったのを彼はおぼえている。いつの間にか、美枝の身体に小さな異変がおこっていた。根をつめるのはよくないのではないか。今度医者にきいて来いよ。平気よ。子供が出来ても、全然おかみさんみたいになったら困るもの。階段の上での早過ぎる出血。つき添っていった病院の長いベンチ。医者の着ていた青い縦縞(たてじま)のワイシャツ。二度目の出血。入院。流産は喰い止められたけれど、テキストはもう開かれなくなった。婦人雑誌を綺麗に並べた美枝の本箱の中に、今でも二冊ずつ揃って並べられている幾組かのテキスト……。

 ――寝るよ、もう。

 彼は立ちあがる。あの学習は、結局何を彼等にもたらしたのか。ボーナスの度に購入する小ぢんまりした家具の一つと、ほとんど変らないのではなかったか。懐かしい思い出の素材を作るための小さな先行投資。今、美枝は、その資金を着実に回収しているのだ。あの本は、おそらく美枝の本棚から消えることはないだろう。俺もそれに反対なのではない。あの本を、いま再び開けというのではない。しかし、あの時あの本を開いたようにして、今ここで新しい何かを始めることは不可能なのだろうか——。

 彼は充の寝ている部屋の戸をあけた。そこから流れこんだ冷たい空気が彼の身体に当った。居間から射し込む光の中で、充のふとんが小さく動くのが見えた。

 

     

 

 机の上に、ずっしりと重い報告書の草稿があった。いつでも課長に提出することが出来る状態に、それはあった。大きな書類ばさみではさんだ右上の隅をもちあげれば、その指先に感じられるのは、何週間かにわたる彼の作業そのものの重さである筈だ。与えられたテーマについて、資料を集め、加工を加え、一つの構造物としてのレポートを作りあげることは、それ自身、時間さえあればそう困難な仕事ではない。事実、現在の職務についてから、彼は数多くそのようなレポートを作成しては提出してきた。それなりの役割をそれらのレポートは果して来ているように思われる。

 しかし、今回のレポートは、今までとどこかが少し違っていた。何故違ったのかは、自分でもはっきりわからない。最初の作業計画をたてる時期に、特に発奮したというわけでもないし、テーマが特別気にいっていたというわけでもない。作業を進めているうちに、偶然、そうなってしまったのだ。ふと思いついた一つの仮説が、彼の興味を捕えた。すると、それから離れられなくなってしまったのだ。仮説は仮説を生んで発展した。その度に、それを裏づけるための新しい資料や、新しい加工作業が加わった。幾度か、彼は途中で立ち止っては不安を感じた。通常ならば、作業の進め方についてその段階で課長に相談するのが順当な手順だ。しかし、彼はそれをしたくなかった。はねかえってくる指示の方向をおそれて、というより、彼は、彼の思いついた仮説を、いわば一切のノイズを排して純粋培養してみたい、という思いにとりつかれたのだ。そこから出て来るものがどのようなものであるにせよ、一度はそれをやってみたい。その結果、彼の作業は、与えられたテーマの範囲をはみ出していた。それが、レポートとして出来の良いものであるのか、悪いものであるのか、彼自身にも明確ではなかった。しかし、良かれ悪しかれ、そのレポートには、彼の匂いがついてしまっていた。少なくとも、今までの自分のレポートとは違っている。彼の課から部長に提出される同僚たちの多くのレポートとも違っている。そうではない何かが、その中にあった。それが、長いレポートを書き終えた今、彼の気分を昂揚させ、彼を満足させていた。

 煙草の先端を灰皿に押しつける。ぼきりと折れるように火の部分が灰皿の底にころがる。その煙草の固さが快かった。行くぞ。彼は重いレポートをさげて課長の机に近づいた。

 ――出来ましたか。

 彼の気配を察して横地課長は机から顔をあげた。

 ――やっと。

 彼は短く答えた。

 ――見るのも相当骨が折れそうだね。

 横地課長は目次の部分をざっと眺めてからぱらぱらとレポートのページをめくった。いつになく、彼はその場にいたたまれぬ気がした。課員のレポートを読みなれた課長の眼で、今、そのレポートを読まれたくなかった。出来ることならば、うちに持ち帰って、自分の机の、自分のスタンドの灯で読んでほしかった。

 ――これはなんですか。

 課長が赤鉛筆の尖端(せんたん)で、あるグラフの上の一つの線を叩いていた。あ、と彼は思わず声をあげかけた。数多いグラフの中のあまり目立たないその一枚が、その一枚の中の何げなく引かれたかにみえるその一本の鎖線が、彼の仮説の出発点となっているのだ。いかにレポートを読みつけているとはいえ、その課長の眼の素早さに彼は驚いた。その一本の線は、しかし簡単に説明出来る性質の線ではなかった。何故、そんなところに、そんな一本の線が引かれねばならなかったか。その線を引くために、彼がどれだけの時間をかけねばならなかったか。そのすべてを説明しなければ、青いセクションペーパーの上に鋭く光っているその一本の線を説明しつくしたことにはならない。少なくとも、そのレポートの全貌(ぜんぼう)を大まかにでも掴んだ上ででなければ、その線を説明しても無駄なのだ。彼は黙っていた。横地課長の右手が、いきなり消しゴムにのびた。

 ――いらないね、これは。

 消しゴムの角をたてるようにして課長はそれを持ちなおした。

 ――待って下さい。

 彼はやっと声をたてた。

 ――無駄なものは、なるべく省いた方がまとまりが良くなる。

 ――無駄かどうかは、考えてみないことにはわからないのです。

 ――少なくとも、このグラフの中では無駄ですよ。

 ――それが、わからんのです。一度、全部を読んでからにして下さい。

 横地課長は机の上に消しゴムを投げた。

 ――そうしましょう。しかし、別の言い方をすれば、この線は、まずいね。

 ――まずい?

 ――もしこのままレポートが部外に出された時、営業部がどういう反応を示すと思います。

 横地課長のいう通りだった。彼の仮説であり、いわば独断であるその一本の線は、日夜、激しい販売競争の中で闘っている営業部門にとっては、あまりに客観的であり、批判的であり、悲観的であり、腹に据えかねるものであるに違いない。

 ――それはわかります。しかし、それが無駄かどうかは別問題でしょう。

 ――無駄でないとしたら、危険です。

 ――危険でないレポートなど、本当は、あまり意味がないのではないですか。

 課長は初めてレポートから顔をあげた。

 ――良いことを言うね。

 それから、眼鏡の奥の眼を、一層奥にひっこませた。

 ――あんた、この前、営業部長がうちの部長の所へ怒鳴りこんで来た時のことを知っているだろう。

 彼はその時のことをはっきり覚えていた。それは彼が直接まとめた資料ではなかったが、販売実績について小さな数字のミスが一つあったのだ。営業部門に必ずしも有利ではない情報を提出したその資料の販売実績上の数字ミスは、営業部長を激怒させた。

 ――あれとこれとは、明らかに性格が違います。

 ――性格は違うが刺戟(しげき)は同じですよ。

 彼は眼をつぶり、大きく息を吐いた。

 ――一度、とおして読んで下さい。

 つとめて低い声で、彼は言った。

 ――そうしましょう。

 課長は赤鉛筆の尖端で、トレース用のセクションペーパーの右肩に強いチェックの印をつけた。

 ――赤で書かれると、資料を青焼きする時に、そのまま出てしまうのです。

 彼は抗議の声をあげた。課長がそれを知らぬ筈はない。レポートの中に、このグラフを使う気のないことは明らかだった。

 ――失敬。

 課長は、初めて気がついたように言った。

 ――とにかく、部長までは是非そのままお見せ願えませんか。

 彼はわざと部長席を見やりながら、課長の身体の上にのしかかって言った。

 ――そうしよう。

 課長はレポートをとじると、それを未決書類の箱にほうりこんだ。

 一つのレポートを仕上げた後の快さに包まれたまま、彼はたまっていた小さな雑務を片づけることで日を過した。その間、時々ふと気づいては横地課長の書類箱をのぞいてみるのだが、その後まわってくる数多くの書類の中に埋没してしまったのか、彼のレポートの姿は見えないようであった。未決にも、既決にもはいっていなければ、彼の希望通りに課長はレポートを自宅へ持ち帰って読んでいるのかもしれなかった。あるいは、すでに部長のところへまわったかもしれない。しかし、そのいずれでもなく、レポートは手もつけられぬまま未決書類の堆積の中に眠っているということも十分にあり得る。一度、課長が席をはずしている際に、あの未決箱の中を洗ってみる必要がありそうだ。そう思ってみていると、課長はなかなか席をたたなかった。来客をつげる電話に呼び出されてやっと課長が席を離れた時、まるでそれを待っていたかのように部長から彼は呼ばれた。全役員の中で最も年若い取締役である原島部長の手の中に、彼のレポートは持たれていた。彼は身構えた。

 ――横地君と大分やったようだね。

 原島部長の言葉の中に、肯定の響きがあることを彼はすばやく嗅ぎつけた。

 ――いや、レポート成立の背景をもっと説明しなければいけなかったのですが……。

 課長をはずして部長と仕事の話をする時の快さが彼の内部にひろがり始める。

 いきなりレポートを開いた部長からやつぎばやに質問がとんで来た。一つの問いは他の問いによって補強され、補足的な問いは本質的な問いへとすぐはねかえった。すると、作業過程で自分でも微かに感じていた疑問が、鋭い光に照し出されて彼の前に浮彫りにされ、それに対する一つの答えが、又他の危険な疑問へとつながっていく。ここで敗れてはならない。冷静に、客観的に、と努力しつつも、彼は自己の仮説に基づいて垣間(かいま)見た一商品の需要構造の未来像にしがみつき、資料から帰納的にではなく、仮説から演繹(えんえき)的に答えようとする自分をおさえることがほとんど出来なかった。部長の質問は終っていた。気がつくと、彼の未来像は、彼自身にとってレポート完成時に彼の頭にあったものよりも、その弱点も含めてはるかに輪郭の明確なものとなっていた。自らの作業についての補強すべき点について自分から発言しようとした時、それをさえぎるかのように部長はレポートから顔をあげた。

 ――大分この線に御執心のようだね。

 ――それが崩れれば、このレポートは一気に崩壊します。

 ――その言い方自身がそうですよ。

 ――科学的でないですか。

 彼は破れかぶれで部長の顔に自分の顔を押しつけていった。部長の浅黒い顔に開かれた口が大きく横にひろがった。

 ――面白かった。

 部長の顔はまだなかば冷やかすような笑いを浮かべながらも、その声は笑ってはいなかった。

 ――今までの貴方のレポートと少し違っている。自分の頭の中をさらけ出すこういう仕事を、ぼくは貴方にはしてもらいたいのです。資料の扱い方や、結論の導き方以前の問題ですよ。若い人たちのレポートは、単に技術的に、科学的すぎます。

 部長の言葉に、今、彼は反対ではなかった。しかし、その言葉は、彼のこれまでの全レポートについてあてはまった。彼は部長の言葉が、今回の彼のレポートを評価すればする程、今までのレポートに対して鋭く批判的になっていくことから逃れたかった。

 ――課長は、しかし、これの営業部の反応を心配して……。

 ――外部に出る時は、部のレポートとして出るのです。その心配は、ぼく一人がすれば良い。

 部長は横地課長の机の方をちらりと見た。つられて彼もふりむいた。課長はまだ席にもどっていない。

 ――課長のいる時に渡そうと思っていたがついでだから――。

 部長は机のひき出しからハトロン紙の封筒を出し、黙ってそれを彼に渡した。商品企画部長(あて)に人事部長から発せられた封筒だった。彼は部長の顔を見た。部長は口を開かずに顎をしゃくって開封を求めた。封筒の中からは、今回の資格試験に、彼を課長資格候補者として受験せしめる旨が記入された書類があらわれた。タイプ印刷された文面の中に、そこだけボールペンで書かれた自分の名前がまばゆかった。

 ——順からいえば、貴方は早いですよ。チャンスですからね、こういうものは。今度のようなレポートを書いてもらった時期で良かった。

 彼は黙って部長に頭をさげ、自分の席にもどった。彼には、部屋の天井がいつもより少し高く、壁が白く光を放っているように思われた。いつかはそうなるかもしれぬと思っていたものが、ようやくやって来ようとしている。まだ、合格率三分の一といわれる課長資格を獲得したわけではない。しかし部単位で来る割当人数の厳しさもあって、その受験資格を獲得すること自身が大変な競争なのだ。少なくとも、資格を獲得しただけでも一定の能力が認められたことを意味する。彼は同期に入社したメンバーの顔を思い浮かべた。一年、二年先輩の顔が身体の脇を通っていった。負けられるものではない。誇らしさとか、晴れがましさとかいうよりも、どこかスポーティな(さわ)やかさが彼を充たした。快い緊張感と闘志が、彼から日常的な落着きを奪った。ひき出しの中や机の上をひたすらに彼は整理していた。まだ早い午後だというのに、彼はすっかり帰り仕度を終っていた。

 ――お出かけですか。

 机から顔をあげた柳瀬がきいてきた。そうではないよ、とあわてて答えながら、彼は机の前に立ちあがってしまっていた。もう一度坐りなおしても、身体がふくれあがってしまったようですぐに仕事が手につきそうにはない。彼はあてもなく部屋を出た。

 午後の廊下はひっそりとしていた。時々ドアが開いて書類ファイルや帳簿を持った人間があらわれたが、すぐこそこそと別のドアにはいって消えた。顔見知りの女事務員が軽く頭をさげて彼の横を通りぬけた。いつもより少し重々しく、彼はそれに答えていた。一つの角を曲った。見通しのきく長い廊下を、三人の人影が歩いていた。喫茶店のブルーのユニフォームを着た女の子。黒い背広に黒い鞄をさげた太った男。もう一人、一番遠くに、コートらしいものを着た長身の男が遠ざかっていくように見えた。それを見た時、彼の中で何かが厭な音をたてて弾けたようだった。彼の足は無意識のうちに滑るように速度を加えていた。しかし次の角を曲った時、エレベーターホールに人影はなかった。一台のエレベーターのランプが、次々と光を手渡すようにして一階にむけて降りて行くのが見てとられた。彼は階段口に進んで耳をすませた。消火栓の赤いランプがひっそりと光っているだけだ。気のせいだったのかも知れぬ。気のせいであったとしたら、そうだったということを彼は確かめたかった。階段を一段おきに跳び降りかけて、しかし彼の足は止っていた。それが、確かめることの可能性への疑問のためか、彼の中に突然に開けたある空虚感によるものか、彼自身にもはっきりわからなかった。彼は重い足で階段をもどり始めていた。身体から力がぬけていた。部屋を出た時彼を支配していたあの緊張と昂揚は、今、彼の中から失われてしまったようだった。ほんの二、三分前の出来事が、彼には遙かなる以前の出来事のようにしか思われなかった。この廊下で何がおこったというのか、彼は先刻まで身体の中にあった熱い塊をよびさまそうとあせった。

 

     

 

 日曜日の澄んだ青空がガラス戸の外にひろがっていた。子供たちの声の中でも一際(ひときわ)甲高い充の声が、裏の空地の方からきこえて来る。ソファーに背をもたせかけて遅い朝食の後の休息をとりながら、彼は課長資格試験の候補にあげられたことを美枝に話すべきか否か、迷っていた。当然、彼は誰よりも先にそれを美枝に語るべきであったろう。しかし昂揚に包まれてあの部屋をとび出した直後の廊下での記憶が(正確にいえば、幻覚であったかもしれぬあの男の後姿が彼にもたらした一種の空虚感についての記憶が}、彼にそうすることをためらわせていた。一度美枝に語ってしまったならば、そして美枝の喜ぶ顔を見たならば、それですべてが決ってしまうのではないかという恐れが彼をためらわせていた。美枝は、いそいで彼がつけ加えるであろう彼の疑問と躊躇(ちゅうちょ)を、理解はするであろう。そして彼の重い気分の中に、自らの身を浸してくるであろう。しかし、この場合、彼が求めるのは、所詮、彼が抱く悩みについての一応の理解と、そのようなことを悩まねばならぬ彼への同情とにすぎぬのではないか。あの男の後姿を見る時の、内部の重い沈澱物(ちんでんぶつ)を底の方からかきひろげられていく不安までを、美枝に理解させることは不可能だった。

 彼はまだ、迷う自由を失いたくなかった。美枝に語る、ということは、おそらく迷いに決着をつけることになるだろう。

 ――あつくないですか。

 ダイニングキッチンから洗濯物を洗面器に山盛りにして出て来た美枝が、彼の前を通りすぎながら声をかけた。身体を動かし続けているせいか、化粧もしていないのにその顔はいきいきと赤くみえた。知りあった学生の頃、一緒に英語のテキストを読もうとした結婚直後の頃にくらべて、美枝の身体は明らかにいま肉がついていた。突然に理由もなく憂欝(ゆううつ)になってみたり、バーゲンセールで買って来たハンドバッグを有頂天になってふりまわして見せたり、値段が安いからと遠くのスーパーマーケットから重い大根をぶらさげて来たりしながら、美枝はいつかどっしりと生活の中に根をはっていた。それは、いわば彼の迷いなどとは別ものの、物質的な存在だった。しかし美枝がそうなったのは、彼と結婚し、彼と生活をともにして来た過程をとおしてであった筈だ。彼等の生活が、物質的には彼の給料で支えられてきているのだとしたら、当然それだけの重さをもって彼自身も物質的な存在でなければならぬ筈だ。俺の物質的な側面とは何か。それは、一つの企業の従業員である俺の生活であり、俺のビジネスであるに違いない。そのビジネスの真只中から生れてきたものが、今回の課長資格試験に他ならなかった。言ってみれば、この問題を美枝に告げたとしても、それは物質と物質による、一つの観念のキャッチボールに過ぎないのではなかろうか。俺も、(しずく)のたれる洗濯物を持って、ガラス戸をしめきった部屋を大股に通りすぎる美枝のようにして試験を受けにいけばいいのではないか。晴れた空にひるがえる純白な下着のような爽やかさで、その試験を闘えばいいのではないか。

 ――浅井さんからよ。

 ガラス戸をあけて、美枝が一通の手紙を彼の膝に投げた。中からやや女性的ともみえる字で書かれた浅井の手紙と、一枚のガリ版ずりのチラシとがあらわれた。浅井の手紙は、彼等の同級生の一人であった三浦の最終陳述がおこなわれる裁判が来週開かれること、出来ることならば、一人の友人として裁判の傍聴に来てほしい旨が、やや遠慮がちな文章でしたためられていた。ゼミナールの中では、彼は三浦とは浅井程のつきあいはなかったが、大学のはじめの二年間の教養課程では彼と三浦とは同じクラスだった。始めにクラスの自治委員になった三浦と、彼はいつとはなしに親しくなっていた。二年目に三浦は執行委員に出て、かわりに彼が自治委員をひきついだ。自治会の前後、彼はもうほとんどクラスには顔をみせなくなっていた三浦を、寮の部屋に訪れた。ひんやりとした薄暗い寮のベッドにひっくりかえり、三浦はよく赤いジャムをはさんだコッペパンを(かじ)っていた。パンを掴んだ細い指の爪にはいつも黒い(あか)がたまり、妙に長くみえるどこか弱々しい首筋にも、べたつきそうな汚れがこびりついていた。並んでベッドに仰向きながら、三浦と彼はよく語りあった。三浦の語り方は、子供の話し方のようにたどたどしいところがあった。痩せた身体は、すぐ折れそうにひ弱なところがあった。高い笑い声は、しゃくりあげるようにぎごちなかった。高校時代から大学まで一緒に進んだ友人たちのようにはうちとけることは出来なかったが、そして心の底では、どこか完全には信頼しきれぬものを感じながらも、しかし彼は三浦から離れることが出来なかった。経済学部に進み、寺島ゼミで一緒になってからは、ほとんど集会やデモの時以外に三浦に会うことはなくなっていた。浅井を通じて三浦の消息をきくことはあったが、彼の接触は、直接三浦には及ばなかった。しかし、あのメーデーの前日、彼は自治会室前の暗い廊下でばったり三浦に会った。

 ――行くかい、明日。

 昨日まで会っていたかのような口調で三浦は彼に声をかけた。その時、彼はまだ翌日のことについて決しかねていた。

 ――行くだろうね。

 答えてから、彼は、やはり俺は行くのだな、と思った。宮城前広場の実力奪回が予想されていた。そして翌日の白い午後の強烈な印象。三浦は捕えられ、率先助勢と公務執行妨害で起訴された。保釈後の三浦に、彼は一、二回偶然に街で会った。どこかの団体で働いている三浦は、同じように痩せ、首筋に垢をため、同じようにどこか弱々しかった。身につかぬ感じのネクタイがよじれ、くたびれたサラリーマンの印象が彼に残った。寺島ゼミのコンパにも、三浦は(ほと)んど出席したことがなかった。時々誰かから三浦の消息に関する質問が出たが、答えはいつも同じだった。

 ――元気なようですよ。ええ、裁判はまだです。

 そのまま、彼の記憶の中にも、三浦は埋没してしまっていた。

 チラシには、裁判所の地図と、公判の日どり、場所が記載されていた。被告人の名前の中には、彼に大学の掲示板で見覚えのあるものが幾つか見られた。三浦の名前の横に、おそらく浅井がひいたのであろうインクの線が青くのびている。彼はタイプ印刷のそのチラシをみつめた。十何年の過去が、小さな名前となってその紙面をうごめいている。彼は浅井の手紙に眼をうつした。――平日の午後だから時間の都合がつきにくいかもしれないが、もし君が行かれるのなら、むこうで会って、また話をしよう。

 ガラス戸が外側から荒々しく開かれた。

 ――しっかりしなさい。泣く馬鹿がいるか。やられたら、負けたっていいからぶったたいてきなさい。

 美枝に腕を掴まれた充が泣きじゃくりながら助けを求めるように彼を見上げていた。

 ――ママなんて、女だけれど喧嘩の時にはもう死んだっていいと思ってかぶりついていったわよ。

 充よりも美枝の方が(たかぶ)っていた。充の背を風呂場の方につきとばしてから、美枝はソファーの彼をふりかえった。

 ――弱くてだめね。貴方に似たのよ。

 ――馬鹿言うな。

 彼は手紙を掴んだままソファーの前に立ちあがった。俺は、闘う時はいつだって闘ってきたぞ。浅井の手紙によって開かれた過去の中から、彼は声を高めて叫ぼうとした。今はどうだ——妙に重味のある問いかけの声が彼を包んだ。その包囲を突き破り誇らかに答える充実した声が、今身体の中にないことに彼は気づいた。激しい水音のはじけている風呂場の方を見やったまま、彼は再びソファーに身を沈めていた。自分の身体が、スプリングのへたりかけたソファーのくぼみに次第に深くはまりこんでいくのを彼は感じた。このまま坐っていてはもはや立ちあがることが出来なくなるかもしれぬ――その時、ふっと一塊の風を押しつけるようにして何かが身体の横を通りすぎていくのを彼は感じとった。三浦の裁判の開かれる法廷であの男に会えるかもしれぬ、という思いが、彼の中をかすめた。俺はあの男に会わねばならぬ。そう考えた時、何をするという目的もなしに、彼の身体はソファーの中から起きあがっていた。

 

     

 

 東京地方裁判所七○一号法廷前の廊下で、彼は浅井に会った。

 ――よう来られたな、抜け出せたのか。

 浅井は色の黒い顔から白い歯をむき出すようにして笑いながら彼の方に近づいて来た。

 ――急用で、半日休暇だ。

 ――俺と一緒や。

 浅井は人の良さそうな顔を仰向けたまま固定させ、それから愉快そうな表情をゆっくりと顔いっぱいにひろげて見せた。

 ――誰か来てるか。

 彼は法廷の入口のベンチに集まっている人々の方をうかがった。

 ――寺島さんは、講義と重なってどうしても行かれんいう電話があった。後は、と、まだ俺たちだけやね。みんな忙しいから。

 浅井は答えながら彼を一群の人々の方に導いた。浅井の声に、ひょいと三浦が気軽に振返った。

 ――やあ、よく来てくれたな。

 三浦は、何年か前に冬の街で会った時と少しも変っていなかった。珍しく散髪をした直後らしかったが、その長い首筋は、やはり垢をためているように思われた。眼尻の下った人なつこい表情で笑うと、昔と全く同じどこか不器用な人形といった感じで片手をあげ、一人の女性を呼びよせた。

 ――これ、女房です。

 眼の細い一人の女性が、彼にむかって静かに頭をさげていた。初めまして、と応じながら、彼は挨拶の言葉に窮していた。それは、結婚式のように華やかな場ではないし、葬式のように悲しみの場でもない。強いていえば、あのチラシにあったような「被告と弁護人が最後の怒りと抗議をたたきつける」闘いの場であるに違いなかったが、軽い緊張に包まれながらも、そこにあるのは、はるかに落着いた雰囲気だった。

 ――いつ結婚した。

 三浦の妻が頭をさげて、少し離れた時、彼は小声で三浦にきいた。

 ――四年くらい前になるかね。

 三浦は眼尻の下った眼をまぶしそうにしばたたいた。

 ――寺島教授が仲人をやって、俺が司会。君がまだ地方の工場におった時だな。

 浅井が横から言葉をはさんだ。結婚式の時も、きっと三浦は不器用な人形のようにぎごちなくふるまったに違いない。それは、拘置所の中でも、もし行ったとすれば新婚旅行の旅館でも、全くいつもと同じようであったのに違いない。

 しかし、開廷が告げられ、被告席から離れた彼が細い両手の指でまだ新しい証人台の両端を掴んで立った時、何かが変化するのを彼は感じた。

 ――事件の容疑で逮捕された時、私は十九歳でした。それから十五年間、私は被告です――。

 彼の坐っている場所からは、三浦の細い首筋と、乾いた頭髪と、狭くて薄い肩幅といったものしか見えない。しかし裁判長の方にむけられたその表情が、おそらくいつもとそう変ってはいないに違いないことを三浦の声から彼は感じることが出来た。違ってはいない表情のまま、しかし、三浦は、今身体ごと、いつも彼の印象の中にあるどこか弱々しいところのある親しみやすい三浦とは全く異っていた。三浦が異ったのではなかったのかもしれぬ。日常的な鈍い光の中でだけしか見ることをしていなかった彼の中の三浦像の方が、トータルな三浦像から遠く離れてしまっていたのだ。

 ――十五年の間、検察一体の名のもとに、私を調べた検察官は次々と転任して変っていった。裁判官は、この裁判を通して、何ほどかの真理を見出す喜びを感じることが出来るのかもしれぬ。しかし、被告、私には、何が残るか。たとえ裁判を通じて真理が現れ、私の無罪が明らかになったとしても、私から奪われてしまった時間はもはやもどらぬではないか。

 ――十五年の間、私は変らなかった。被告には、変ることは許されなかったのです。

 検察官席にむかって、特に声をはりあげたわけではなく、やや首を傾けるようにして三浦がそう述べた時、彼はそこに凝結している三浦の時間をまざまざと見た。十五年間、変らぬ男がそこに立っている。破滅することなしには変わることを許されなかった男、そして破滅することを拒否した男の正当な時間が、細い首筋で、しかし硬くそこに立っている。寺島教授の存在は、一つの変らぬものとしての基準であったが、いわばそれは近づく者に対してのみ、問いかけるものに対してのみ答える静かな基準であった。三浦のもつ凝結した時間は、そのように静的なものではない。彼等と同じ量、同じ速さを持つべき時間が、過去の一点から射す光の道だけにそって流れているために、見方によっては全く静止しているようにみえるという種類の時間なのだ。そして、彼等の大部分が過去において三浦と同じその光源に身体を浸していただけに、三浦の時間は、それ自体が彼等に対して攻撃的であった。三浦の時間は、常に、彼等にむかって、お前はお前の過去をどう処理するのか、お前はお前の現在をどう過去につなげ、どう未来にむけて伸ばしていくのか、と問いかけ続けるのだ。彼は眼をつぶって今の時間を思った。彼の過去の仲間の大半は、今丸の内のビジネス街の巨大なビルの中で、霞ヶ関の官庁街のオフィスの中で働き続けているに違いない。それは、浅井からの呼びかけでたまたま傍聴席に坐っている彼の日常の姿でもあるのだ。十五年の時間を、彼を含めて、彼等は有益に過した。機構の中で、数々の経験と技術を身につけた。たとえば、このまだ新しい裁判所の建造物、建築中の高層ビル群、街路を走り続ける自動車、豊かな消費物質、景気調整、国際収支の改善、低開発国への数々の援助――それらの中のいずれかに、彼等の営みはささやかながら参画しているに違いない。そして、今ここに、それらのいずれにも断固として参画しなかった一人の痩せた男が、十五年間の一貫した過去を彼の前につきつけている。三浦よ、お前の持つ時間は、あまりに倫理的に過ぎるのではないか。彼は自分の中で呟いてみる。閉じた視界の中では、彼はいくらでも問い返すことが出来た。お前は、服を着ているではないか。お前は、街に出れば車に乗るではないか。お前は、ビルの喫茶店に坐ってコーヒーを飲むではないか。それらの富は、俺たちの営みなしに、どうして生み出されたのだ。倫理に物を生み出すことが出来るのか。お前のその鋭くはあっても細い時間は、あまりに倫理的に過ぎるのではないか――。

 しかし、眼を開けば、そこは東京地裁七〇一号法廷であった。そして、三浦は、まぎれもなく、今、被告席に立ちメーデー事件被告の最終陳述として、三浦の十五年について語っているのであった。その時間は、今、ビジネス街、官庁街で仕事を続ける彼の友人たちの十五年の時間が物質的であるのと全く同じ重さで、否、むしろ選択の自由を許されなかっただけ、それだけより確実に、物質的な時間であった。三浦自身が、被告という形の時間そのものであった。

 三浦の陳述は、彼の起訴事実がどれ程証拠能力の乏しいものであるかを次々と述べたてて進んでいたが、彼はもはやそれを十分には聞いていなかった。出来ることならば、秘かに席をはずして法廷から出たかった。では何をしに、俺はここに出かけて来たのか。おそらく自分自身のために。自分自身の何かを確かめるためにこそ、彼は半日の休暇をとってここに出かけて来たのではなかったか。そうだとするならば、彼の目的はすでに達せられていた。傍聴人に背を向けて被告席に立った三浦の後姿を見た時、そして「十五年間私は変らなかった」という最初の言葉をきいた時、彼の目的は十分に達せられていたのだ。それは、変らないものがある、という確認ではなく、それを原点とした、変ったものの変り方についての確認だった。より変ろうとしているものの、変り方の客観化を手に入れたい、という願望であった。願いは達せられた。変貌(へんぼう)は、醜さとして彼の中にうつし出されていた。次にあるのは、その醜さに俺は耐え得るか、という自らに対する問いであった。傍聴席に身を置いたまま、彼はその問いの重さに耐え続けねばならなかった。

 三浦の陳述が終り、法廷が休憩にはいって外に出た時、彼は激しい疲労を覚えた。すぐ後からついて来た浅井が、せかせかと煙草に火をつけてから彼に身体を近づけて来た。

 ――しんどいなあ。

 浅井の言葉の響きは、そのまままっすぐに彼の身体にはいって来た。しかし、その受けとめ方で良いのか、と彼は浅井の顔を見た。

 ――もし、三浦でなく俺があの時パクられていたら、俺は今の三浦まで来れたろうか。

 彼には<しんどさ>をのりこえる何かに、今具体的な形を与えることが必要だった。

 ――君なら、警察の方でパクりはせんだったろう。

 浅井の静かな声が、彼の顔の中心にむけて打ちこまれていた。そうだったろう。俺はあの時はいち早く逃げたのだったから。白い砂挨(すなぼこり)と催涙ガスの中に、<さがるな。さがるな>と絶叫する三浦の姿が、ポスターの絵柄のように今も彼の中にあった。そして彼自身の姿は、野牛の群れのように潰走(かいそう)する群衆の中にあったのだ。あの時からつながっているのだ。つながっているからこそ、今、俺は自分の姿を目の前に据えなおす必要があるのだ。

 ――君ならどうだ。

 彼は挑むように浅井をふりむいた。浅井は眼をつぶって首を横に振った。浅井の煙草を持つ二本の指が、電子計算機のフローチャートを引く指に変り、眼を細めた顔が、会議の席上でデータのコード化を説得する表情に変ってみえた。それはしかし、本当に間違っているのだろうか。彼の中を、先日完成したレポートのずっしりとした記憶が、重い光のように駆けぬけた。光の後を、彼は追おうとした。

 ――しんどいよ。

 浅井はしかし、同じ調子でもう一度呟くだけだった。

 まだ法廷から出て来ない三浦の代りに、先ほど紹介された女性に挨拶して彼と浅井はエレベーターの方へ歩き出した。病院のそれに似たあまり明るくはない廊下の果てに、向うをむいて遠ざかっていく幾つかの人影が認められたが、彼は今、それらに対して注意をむけようとはしなかった。

 

     

 

 課長資格試験の大部分の過程を、彼は夢中で過してしまった、といってよい。その朝、出がけに彼ははじめて美枝に試験のことを告げた。試験があるの、と美枝は初め驚きの声をあげ、ついで受験資格を獲得するまでが大変な競争であるという説明をきくと、あなた課長さんとあまりうまくいかないのでしょうと表情を曇らせた。資格を獲得してしまった以上は人事部の試験であり、もはや所属課長は関係ないのだ、という点を細かく説明する時間はまだあったが、彼にはそれが面倒だった。

 その試験が、自ら求めたものではなかっただけに、むこうから来たもの

としてそれを受けとめることが彼には可能なようにも思われていた。むこうから訪れるものは、重い足音を持っていた。それは、日常業務のもつ騒々しくはあっても軽やかな足音ではなく、いわば企業体が前進する時にたてる足音の内部への反響のように重々しく幅広かった。法廷における三浦の最終陳述の姿が、何かをおびやかすように彼の中で鈍く揺れた。しかし、彼が生活し続ける場は、法廷ではなく、産業の場であった。被告席の三浦を見た時に受けた彼の衝撃が、傍聴人の衝撃であるとすれば、試験をむかえうつ彼は、いわば産業の場における原告であるに他ならなかった。被告三浦の持つ鋭い時間の矢は、原告である彼にむけて放たれていた。彼には、身をよけることは出来なかった。しかし、同時に、この原告と被告との間には、交差する対応関係があるのであろうかという強い疑問も彼の中にあった。その矢に当って血を流すことは、ある意味では、彼にとって容易であった。しかし、その血そのものが、またあまりに倫理的な血なのではないかという疑問が彼の中にはあった。結論は出なかった。というより、自分でも気づかぬうちに、彼は時間切れになることを待ち続けたのかも知れなかった。

 事実、それらの逡巡(しゅんじゅん)は、全く試験が始まるまでの暇つぶしのようなものに過ぎなかった。実際に答案用紙が配られ試験問題が提示された時、彼はそれらのためらいの一切を忘れ去っていた。管理者として要求される会社就業規則についての百を数える質問、一般的、社会的常識問題、会社製品についての商品知識、部下の管理についてのケーススタディ、それらの課題を、彼はほとんど流れるように(さば)き続けた。ペンを握る手が湿っては次第に汗を分泌したが、それを拭うのも忘れ去っていた。現在の職務上の問題点とそれの発展的解決に関する論文試験を、与えられた時間の限度ぎりぎりまで使って彼は一気に書きあげた。それをまとめていく過程で、彼の内部に幾度も幾度も彼が先日完成したレポートのイメイジが現れては消えていった。あれは俺の仕事だ――そのイメイジを追い続けつつ、彼は熱した頭で論文を書いた。

 時間切れを告げる人事課長の声が、試験場にあてられた会議室に響いた。火照(ほて)った顔をあげて彼は室内を見回した。そこには、彼と同期にはいったものの顔はまだ一つも見られなかった。営業の下木内を含む一年先輩組が、彼を除けば最も若年層だった。年功によって辛うじて受験資格を獲得したと思われる四十を過ぎた顔も幾つか認められた。なげやりな顔、昂った顔、自嘲を浮かべた顔、力を失った顔たちが、一斉に長い緊張から解き放たれて声をあげ、煙草に火をつけた。

 ――お疲れ様でした。あと重役面接は、三組にわかれて第一、第二、第三の役員応接室で行います。

<面接>という言葉の持つ重い響きが、陽気に飛び交い始めた受験者たちの声の上に鎖で編まれた網のように拡がって落ちた。

 落着きの悪い時間が過ぎた。自分の名が呼ばれた時、彼はゆっくりと椅子から身体を離した。顔見知りの人事課の若い係員が、会議室を出る彼にむかって、しっかりやって下さいよ、と半ば冷やかすように声をかけた。笑って何か答えようとしたが、顔がこわばって気のきいた言葉がうまく口から出なかった。階段をのぼり、役員室があるためにいつでも人気の少ないホールを抜け、彼は役員応接室への廊下を曲った。そこで彼の足は動かなくなった。

 突き当りのガラス窓の方をむいて、逆光にくっきりとー人の男が立っていた。空気調整された新しいビルの廊下にはいかにもそぐわぬ古びたレインコートの背を見せ、脂気のきれた髪が、窓からの光に透かされてほとんど灰色に光っている。その後姿を、彼は知っていた。しかし、その後姿は、今までのものとどこか違った姿勢を持っていた。ゼミナールのコンパの夜、下木内と一緒だった昼休みの帰途、そして幻覚であったのかもしれないある午後の長い廊下——そのいずれの時にも、その男の後姿は彼を苛立たしく誘い込むものを持っていた。いわば、それは空間に穿(うが)たれた人影の穴であり、穴の奥からの呼びかけであった。穴の彼方(かなた)の不気味に黒々とした空間にひかれて彼は常に男を追った。今は違っていた。男は穴ではなく、男は突起だった。追えば逃げる穴ではなく、寄れば迫って来る突起であった。彼は動けなかった。レインコートに包まれた男の背が、脊椎(せきつい)を峰とする硬い物質であることを彼は感じた。その背から(にじ)み出して来る見えない光のようなものが、廊下に立ちつくす自分の身体を包み、次第に自己の深部へと達していくのを彼は感じた。息を詰め、全筋肉に力をこめて彼は男の後姿を凝視した。男はかすかに身じろぎした。レインコートの肩が落ち、襟のむこうで首筋が軽く曲げられ、その背が突然柔らかな表情を浮かべていた。ひどく懐かしい何ものかが、いきなり音をたてて彼の身体の中に流れこんできた。それが何であるか、彼にはわからなかった。わからぬままに、熱い太い流れが身体を貫いていくことだけを彼は感じた。彼の身体は、熱い流れにのって動いていた。

 ――おい。

 自分の掌が、しつとり優しいレインコートの肩にむけてのびていくのを彼は見た。肩はびくりとふるえた。全く見知らぬ、まぶたのふくれた男の顔がふりむいていた。

 ――高田常務を、ここで待たせて頂いてはいけませんでしょうか。

 初老の男はおどおどと彼の顔を見上げた。

 ――人違いです。失礼しました。

 彼はあたふたと男から離れていた。

 四面をローズウッドの木目張りの壁で囲まれた役員応接室の椅子に坐っても、彼の動揺はまだおさまらなかった。眼の前の低いソファーに、専務と人事担当常務が少し疲れた表情で仰向くように腰をおろしていた。左側の端に一人離れて、労務の担当課長が身体を固くして坐っていた。質問は、人事担当常務による業務内容の質問から、きわめて柔らかな調子で始められていた。彼はつとめて大きく息を吸って、ゆっくり答えようとした。走って来たわけでもないのに、彼の息はあえぐように荒くなっていた。あの「後姿」の出現によって突如として断ち切られた筆記試験場における彼の熱中と、あの「後姿」によって彼の中に一瞬よみがえったひどく懐かしい熱い太い流れとが、ぶつかりあい、まざりあい、反撥しあい、渦の方向さえ定かではない混乱が彼の内部に(あふ)れたようであった。日常業務についての、いわば事務的な応答の間に、彼はどうしてもその混乱を収拾してしまわねばならなかった。ほとんど彼がそれに成功しかけた時、何げない口調で人事担当常務が彼の勤続年限を質問していた。十数年になる年限を、月数までいれて彼はすぐに答えた。

 ――その間に、君は変ったかね。

 奇妙な質問だった。何のことをたずねているのかを、彼はまず確かめねばならなかったのであろう。この問いは、他の誰に対しても同じようになされた問いであったのか、彼だけにむけて(ねら)い打ちに放たれたものであるのか、または、<年をとりました>というような回答で笑って逃げられる種類のものであるのか。しかし、彼はそれをしなかった。そうしようとする前に、その問いは、突然、彼自らの自らに対する問いかけとして、ようやくおさまりかけた彼の混乱の中心点で爆発したかのようだった。人事担当常務の背後の黒ずんだ木目張りの壁の中に、彼は逆光の窓辺に立ったあの「後姿」をはっきりと見た。

 ――変っていないと、まずいでしょうか。

 半ば自分にむけて彼は反問していた。人事担当常務の顔色がかすかに動いた。

 ――どういう意味ですか。

 ソファーの奥から常務は身体を起して来た。その動きにひきずられるようにして、あの「後姿」が彼の内部で熱く動き始めるのを感じた。

 ――変わらないですむものなら、変わらずにすませたいと思います。

 ぎりぎりの境界線上を爪先立って歩き続ける自分を彼は感じた。

 ――変らずにすまないとすれば。

 執拗に常務は彼を迫ってきた。

 ――おそらく、変らずには、すまないでしょう。

 ――で、君は変るわけだね。

 常務の質問は、いつか過去形から現在形に変り、今や、事実をではなく、彼の意志を確かめていた。彼は眼をつぶってうつむいた。ゆっくり細く息を吐いていくと、彼の中に、突然その場の緊張感とはおよそかけ離れた、のどかな空虚感が(うそ)のようにぽかりと口を開いた。その穴の中から、充の少し鼻にかかった高い声がきこえてくる。声は歌っていた。

  あーずき あずき

  にえたかどうだか

  たべてみろ

 声はふくらんで何人かの子供たちの歌にひろがっている。歌声はぐるぐるまわっている。

  ムシャ ムシャ ムシャ

  もうにえた

  とだなにしまっておきましょう

 歌いながら、輪になった子供たちは、真ん中にしゃがみこんでいる鬼を架空の戸棚の方に運んでいく。俺は今、何を考えているのだろう。この細い息を吐き終るまでに、俺は答えなければならないのに。しかし、声は休むことをせずにきこえ続けるのだ。

  ごはんをたべて

  ムシャ ムシャ ムシャ

 他の子供たちにあわせて、充は小さな左の掌を上に向け、右手の揃えた指先でその上のものをいそいで口にかきこむ真似をする。ドッコイショ、もう寝ましょ。煮られたあずきは戸棚の中にひっそり身をひそめている。俺にはまだ吐く息がある。夜の時間がたっていく。ジュージ、ジューイチジ、ジューニジ、トントン、なんのおと、かぜのおと、なーんだ、トントン、なんのおと、子供たちは鬼のまわりを手をつないでまわりながら、少しずつ緊張しはじめる。もう少しだ。もう少しで俺の吐く息は終りをつげる。イチージ、ニージ、サンジ。

  トントン

  なんのおと

  ねずみのおと

  なーんだ

  トントン

  なんのおと

  オバケェー!

 突然変質して立ちあがった鬼は、悲鳴と喚声をあげて逃げ散らばっていく子供たちを一目散に追いかける——。あずきだ。俺は戸棚の中に息をひそめている夜のあずきだ。息がなくなっている。胸が裏がえしになり、鼻の奥の肉が盛りあがってくる。

 ――オバケェー!

 彼は突然立ちあがって叫んでいた。眼をまんまるく見開き、口を三角形にあけ、両手を指いっぱいにひろげて顔の両側にあげ。——彼はそうはしなかった。椅子の上に坐り続けたまま、子供たちの声は消えていた。しかし、身体中の息を一度すべて吐くことによって、彼の中には予期せぬ静けさが生れていた。

 ――変りたくはないようです。

 彼は自分の声が低く静かに流れていくのをきいた。

 ――なぜ。

 ――そういう奴が多すぎます。

 ――多数は正義ではない、というわけだ。

 常務は彼の方に顎をしゃくり、初めて重々しい笑いをみせた。

 ――君は、今の仕事は、面白いのかね。

 常務とのやりとりをソファーに身を沈めてきいていた専務が、手にした書類から眼だけをあげてたずねた。

 ――仕事は、面白いと思います。

 彼は少し考えてから答えた。先日完成したレポートの重みが、彼の中にはずっしりとあった。部屋の中に沈黙が生まれた。誰もたずねず、誰も答えなかった。

 人事担当常務は、まだかすかに笑いの残っている顔に眼鏡をかけ、脇の専務をうかがってから、労務担当課長に、いいよ、と告げた。

 帰りの廊下で、彼は緊張しきった次の面接者とすれちがった。廊下の角を曲る時、彼は先刻の窓辺をふりかえらずにはいられなかった。そこには、しかし、厚いガラスをはめこまれた夕暮の窓があるだけだった。彼は、何かをなし終えた後の静かな身体でゆっくりとその窓まで歩いていった。窓の外には、光を放ち始めた重々しいビル群が夕暮の中にひろがっていた。

 

     

 

 ドアが開いて、一つの新しい机が運びこまれて来た。その机は肱付(ひじつき)のゆったりした椅子を持っていた。横地課長の指示のもとに、机の配置は一つのパズルのように移動され、新しい机は課長机の脇にぴたりと並べて据えられた。

 数日前、課長立会いで原島部長から一通の辞令を手渡された時、彼は激しい衝撃を受け、ついで身体の機能が外部の要因によって突然中断された時に似た、生理的な不快と嫌悪感に満ちた困惑におちた。それが(ようや)くしずまった時、彼の内部には<やられた>という実感のみが苦く残った。

 辞令は彼に、彼が課長資格試験に合格したこと、彼を課長心得待遇とすること、したがって、六か月後に彼をいずれかのセクションの課長に任ずることを告げていた。彼の予測の限りでは起り得ぬことがそこに起っていた。おそらく人事部は、あの重役面接にも関わらず、彼が<変る>に違いないことを確信したのだ。あるいは、確信ではなく、それは一つの賭けであるのかもしれない。しかし、少なくとも分の悪い賭けではない、という判断を下したのだ。この魚は、遠からず餌につくに違いない、と。俺は捕われてしまったのだろうか。彼は身体のどこかを駆け抜けていく不安を感じた。<甘くみるな>という苛立たしい怒りがその不安の影を迫っていった。しかし、そのような彼の内部の動揺には関係なく、彼の外側には既成事実の石が刻々と積みあげられていた。

 ――お別れだわね。

 机を並べていた彼のアシスタントであった千野が、彼の机のあった場所に筋をなして残っている埃を手早く掃き集めながら彼に言った。その声には、千野がいつも叩く軽口とはやや異った硬い響きがあるのを彼は感じた。

 ――仕方がないだろう。

 彼はとがった声で答えていた。腰をかがめてほうきを使う千野の後ろに立って、彼は課長机の脇に置かれた同じ大きさの新しい机をみつめた。

 ――おめでとうございます。

 おきなおった千野が、塵取(ちりと)りを持ったまましなを作って頭をさげてみせた。俺のせいではない。そいつはむこうから来たのだ。まるで交通事故のように——。その苛立たしく赤黒い自己弁明を思わず口から出そうとした時、十年近くも前の一つの言葉が突然おどり出して彼を打った。――(なれ)もか、ブルータス! それは流行歌のうまい現場出身の労組執行委員の言葉だった。本社への彼の転勤を送る送別会の席上、いつも頭をポマードで光らせているその執行委員は、両手を拡げ、酒に酔った顔をそば屋の二階の低い天井にむけて、そう叫んだのだ。その頃、彼は労働組合で組織した賃金学習会のチューターとして、大学時代のノートをひき出してはテキストを作り、なぜ生産設備は価値を生まないのかと質問する若いプレス工と論戦し、生理休暇を労働価値説からどう説明するかに頭をひねっていた。本社への転勤は、彼が激しく求めたものではなかったが、しかしそれは彼にとって甘美な人事異動であった。その異動には、これ以上彼を工場に置かぬように、との会社側の配慮があったのかもしれないが、それを問うことなく、彼は本社勤務という快い呼び声に無条件に応じていた。

 ――汝もか、ブルータス!

 酒に酔っているとはいえ、その若い執行委員の大げさな叫びを、著しくきざなものとして彼は感じとらずには居られなかった。それは、言いようもなく不快な印象を彼に与えた。しかしその不快さの中には、きざであったとはいえ、正確に彼のその時の姿勢を言い当てられたことへの反撥(はんぱつ)が多く含まれていたことも、彼は認めねばならなかった。その夜のそば屋のすすけた天井と、あまり明るくはない赤茶けた電球の光とが、今彼の中に重く揺れていた。

 机の移動は終って、部屋の中はどこか落着かない部分を残しながらも日常の空気にもどり始めていた。

 新しい机は、横地課長の机の横に静まりかえっている。それは、机というより、ひどく無機質の、一つの位置そのもののように彼にはみえた。新しい机から逃れるように彼は部屋を出た。どこにも彼の行き先はなかった。長い廊下を、しかし彼は歩き続けた。幻覚でもよかった。人違いでもよかった。彼は今、あの男の後姿を求めていた。それに呼びかけ、それに問いかけることによって、彼は現在の自分を確かめたかった。花を()けられた受付の机があった。その前にきっちりと姿勢を正している女の子の姿があった。光る窓があり、開くドアがあり、出入りする人影があったが、そのどこにもあの男の後姿は見えなかった。一巡してしまえば、もはや彼の帰るところは自分の部屋しかなかった。重い足で、彼は自分の部屋への角をまがった。

 ――よかったな。お互いに。

 そこに待ち構えていたかのように下木内の顔があった。その顔は、内側から何かがほころびて来るような光を持っている。

 ――まあ、な。

 彼は曖昧な声を立てた。下木内は彼を強引に地下の喫茶店に誘った。下木内は饒舌(じょうぜつ)だった。課長心得になることによって給料が幾ら上るか、ボーナスの配分がどうなるか、課長に正式に任命される場合の配属の先例がどうか、などについての情報をたて続けにしゃべった。下木内の身体の中を今吹きぬけている風の単純な爽やかさが、彼にはうらやましかった。その風が、彼の中に全く吹いていないとはいい難かった。たとえば、下木内が告げた給料の上げ幅等は、彼にとってもやはり甘美な匂いを放つ風であることに違いなかった。しかし、その風が甘美であればあるだけ、彼の中には躊躇があった。

 ――ゴルフはどうした。

 自分の中の、どこか曖昧な躊躇から逃れ出るために彼は話題をかえようとした。

 ――あんた、大変なものを書いたな。

 下木内は、突然何かを思い出したように彼の質問を無視して高い声をあげた。

 ――レポートだよ。今度の。

 下木内の声は、今までの話題が持っていた一種の陽気さをまだそのままひきずっている。

 ――レポートがどうした。

 彼は自分の声が思わず強くなるのを感じた。

 ――営業では大分問題になっている。

 下木内は、彼のレポートの考え方を全面的に認めると結局現在の営業方針は間違っているという結論に到達せざるを得ないこと、営業としては、それを認めることは到底出来ないと考えていることを彼に告げた。

 彼は自分のうちこんだ弾がずしんと響く手応えで標的にぶつかるのを感じた。

 ――営業にとっては、明日から早速ひびく問題だからな。

 下木内の声にはかすかなかげりが現れていた。

 ――風当りが強くなりそうだぞ。あのレポートには個人名がはいっているし‥…。

 下木内の言葉をききながら、彼はレポートが完成した時の横地課長の警告を思い浮かべていた。原島部長の評価も思い出された。彼は、自分のレポートが、今、ようやく一つの生命を得てうごめき始めるのを感じた。下木内の心配そうな視線を黙殺して彼はクッションの良い椅子から立ちあがっていた。

 階段を一段おきに跳び上って部屋にもどった彼を、新しい机が置かれたために壁際に少しずれた課長席から横地課長が呼んでいた。

 ――ま、坐って、どうぞ。

 机の脇に立つ彼に、課長は自分で椅子をひき出してすすめた。

 ――来週の三日間、新任課長資格者の泊り込み講習会ですよ。管理者の心構えと労務管理教育みたいなもので、きつい奴だがね。

 課長は新しい机の上に講習日程の書類をひろげてみせた。

 ――それから、部長とも相談して、近く貴方の昇格祝いの会をこの部の課長たちでやるからね、いつ頃がいいですか。

 課長は手帳を出してそれをめくり始めた。千野が受話器をふりあげて、もとの机の位置から彼の名を呼んでいた。彼は逃げ出すように課長を離れて受話器を掴んだ。電話の中からは、思いがけずに柔らかくこもった感じの浅井の声がのぼって来た。

 ――どうしとる。

 ――どうもこうもないよ。

 彼は湿った声をたてながら、ほっとして思わず苦笑した。浅井は、寺島教授が来月から交換教授の形で二年程イギリスに行くこと、そのため、今年のゼミナールのコンパは急に繰りあげて今月の末に送別会の形でやることになったのだが、日の都合がつくだろうか、とたずねていた。

 ――都合もくそもない。必ず出席する。

 彼は思わず意気込んだ強い声で答えていた。

 ――えらい、はっとるなあ。

 浅井の声が電話の中で柔らかく笑った。そこにいけば、俺はあの男に会うことが出来るだろう。人違いでも、幻覚でもない、俺と生身でぶつかりあうことの出来るあの男とむかいあうことが出来るに違いない。そこで、俺は、この混乱してしまった俺をかきわけて、本当の俺にめぐりあうことになるだろう。この押しつけられた事実と、それに対する防衛的姿勢である現在の中途はんぱな「猶予」の状態から俺はぬけ出ることになるだろう。彼は両手でゆっくりと受話器をかけると、新しい自分の机にむかってもどっていった。

 

     

 

 課長机の上で電話が鳴っていた。彼は不在の横地課長のかわりに手をのばしてその電話をとった。受話器の中で響いているのは、甲高い営業部長の声だった。

 ――原島部長は出張のようだが、横地君いるかね。

 その声は明らかに苛立っていた。課長が席をはずしている旨を答える彼に、営業部長は、横地課長をすぐにさがして次のものと一緒にただちに営業部長のもとに来るように、と彼の名をあげて電話をきった。要件はわかっていた。課長をさがしに行かせてから、彼は今回のレポートの説明のために必要な書類のファイルを一かかえ机の上に積みあげた。

 ――何の件だろう。

 あわてて帰って来た横地課長は、彼がかかえあげた書類の束をみてたずねた。

 ――多分、今度のレポートの件と思います。

 課長はにわかに表情をくもらせた。

 ――こういう時に部長が出張というのは……。

 横地課長は自分の机の前でぐずぐずとひき出しをあけたりしめたりした。

 ――行きますよ。

 彼は横地課長にかまわず何冊かのファイルを脇にかかえて大股に歩き出した。

 営業部長室には、地区担当別の何人かの営業課長が集められ、会議の最中らしかった。

 ――うるさい人だから、言葉づかいに注意しろよ。

 部屋にはいる時、横地課長が小声で彼に注意した。黒板には、彼がレポートの中で作成したグラフが、乱暴な白墨の字で写されていた。しかし、その写し方が、数値の上で微妙に変動していることに、彼はすぐ気づいた。

 ――このレポートは、君が書いたものですね。

 営業部長は、自分の前に広げられている報告書をいらだたしげにはずした眼鏡で叩きながら彼の顔を見た。

 ――はい、私どもの……。

 横地課長が何か言いかけようとした時、再び営業部長の甲高い声が響いた。

 ――これはどういうつもりで書いたものなの。

 彼は営業部長の質問の意味がわからなかった。ためらう彼に、たてつづけに質問がとんできた。そのすべてがピントはずれであるということは決してなかったが、しかしレポートの受けとめ方が著しく営業部的な視野に限られていることも間違いないことだった。彼は冷静になろうとつとめながら、かなり感情的になっている営業部長の甲高い声に次第にまきこまれ始めていた。

 ――部長、当社の営業部があって、それから市場があるのではなく、マーケットがあるから我々の営業も成立しているのだと思いますが。

 何度目かの全く同じ説明をくりかえさせられた時、彼は声をたかめて言っていた。

 ――需要は我々がつくり出すものだということを、君は知らんか。

 ――需要はつくり出すものではあるでしょうが、それはトータルマーケッティングにもとづく商品計画から出発しなければならぬ筋合いのものでしょう。私には、うちの営業部門が需要をつくり出すことが出来るとは、とても考えられません。

 部長の顔色が変っていた。横地課長が机の下で激しく彼をついた。

 ――原島さんが甘やかすから、君たちのセクションはみなそういう口のきき方をするようになる。課長にもならんうちに、大そうな口を叩くな。

 ――課長になればいいのですか。

 買い言葉のようにして彼はききかえしていた。

 ――課長程度の苦労もしらんで、という意味だ。君はうちの営業課長の諸君が、毎日どれ程苦労して営業活動を展開しているか、考えてみたことがあるか。

 取締役営業部長は、音たてて彼の報告書プリントを閉じていた。

 ――原島さんにはぼくから話しておくが、こういうレポートを営業部門への何の相談もなしに出されることは大変迷惑だ。原島さんの意見をきいてからにするが、レポートの回収か、一部修正をしてもらうことになるかもしれんからね。

 ――それは必要ないと思います。私たちのセクションが、いちいち関連部署の顔色をうかがってレポートを出していたのでは仕事になりません。手続きを経てオーソライズされて出されたレポートは、それが検討材料とされることに意味があるのではないですか。原島部長の御意見も同じだと思います。

 ――それを原島君にきく、とぼくは言っているのだ。一担当の君の意見をきいているのではない。

 横地課長の身体が、彼をおしのけるようにしてのり出して来た。

 ――部長が出張中で、申し訳ありません。どうも、担当が御迷惑おかけして、本当に失礼いたしました。原島部長がもどりましたら、早速……。

 横地課長はひたすらに頭をさげ、彼をうながして部屋を出ようとした。立ちあがった彼の眼に、黒板のグラフがうつった。営業部長とのやりとりを経た後の眼でそのグラフを見ると、先刻は気づかなかった彼の作ったグラフとの数値上の微妙な変動の狙いが彼には明瞭に読みとることが出来た。それは営業部門用のソフト化がなされたグラフだった。しかし、その加工を加えられることによって、彼のレポートの狙いの大半が殺されてしまうことも明らかだった。

 ――最後につけ加えさせて下さい。黒板のグラフは間違っています。その程度の数値の変化で、場合によっては逆の結論が出てくることもあり得ます、私があのグラフの中で……。

 ――レポートの議論はもうすんだ。

 営業部長は黒板をふりむきもせずに答えた。彼の身体は、横地課長に押し出されるようにして営業部長室から外に出ていた。出がけに、彼は営業課長が並んでいる会議机の一番隅に、身体を小さくして下木内が列席していることに初めて気づいた。

 廊下を部屋にむけてもどりながら、横地課長はうつむいたまま何も言わなかった。

 ――原島部長は、対外的には俺が貴任を持つと言われたのですから。

 彼は横地課長を慰めるように声をかけた。

 ――あの時、私が思ったとおりだよ。

 たしかにその通りだった。だからその時に原島部長が、と言いかけた彼に、横地課長は急に強く低い声で言った。

 ――うちの部長と、営業部長と、どちらが順位が上かは、君も知ってるだろう。

 その関係は、言われてみれば彼にも理解出来ないわけではなかった。しかし、そのような配慮とは無関係に、彼は、自分の作あげたレポートが、今もなお営業部長の机の上にのせられていることを思った。その数十ぺージのガリ版刷りのレポートが、あの一枚のグラフを中心にして内側から次第に熱く光り始めるのを彼は感じた。あれは俺のレポートだ。あの光を弱めることも、消すことも俺には出来ない。彼は横地課長の先に立って自分の部屋に荒々しくはいっていった。

 

     

 

 コンパの前日になると、やはり彼は落着かなかった。あの後姿の男と会えるだろうという予想が、彼の中にかすかな不安と緊張感とをもたらしていた。しかし、あの男を求め、あの男と会いに行くという彼の姿勢の中に、微かな変化が生れていることにも彼は気づいていた。その姿勢は、いわば、悲鳴をあげながらも自虐的に自らをその男の前に突き出していくというものから、次第に対決といえるものへ変りつつあるようであった。

 彼がそれに気づいたのは、甲高い声をもつ営業部長とぶつかりあったその後からであった。

 ――あんた、むちゃだな。驚いたよ。

 それ以来初めて会った時、下木内は彼を非難するようにそう言った。

 ――あんなやり方は、うまくないぜ。

 言われてみれば、そうかもしれなかった。自分でも、営業部長に呼びつけられた席上で、なぜ自分があのような口のきき方をしてしまったのかについては、彼自身もよくわからなかった。しかし、やりとりの内容についていえば、これは明確なことだった。本社組織内部の、営業というラインの機能と、彼の属するスタッフの機能とが別のものである以上、そこに意見の対立があるのは当然のことだった。そして、自らの立場から自説を主張するのは、相手が誰であれ、また当然のことであった。それ以外に、彼の仕事はない、ともいえた。そして何よりも、彼の作りあげたあのレポートが、その彼の考え方を彼の背後から強く支え、彼が後退することを許さなかったのだ。

 ――理屈はそうなる。しかし、今は大事な時だよ。

 ――なにが。

 彼は下木内の言葉の意味がわからなかった。声をおとして、下木内は、課長心得というのはまだ課長ではないこと、それはいわば身分不定の試傭員のようなものであり、原則として六か月以内に課長に任命されることになっているが、その間にどこかから強硬な反対意見が出されれば、いつまでも課長心得のままの宙ぶらりんな状態が続くこともありうること、事実、二年程前にそういうケースが発生し、その男は遂に万年課長心得に耐え切れずに会社をやめてしまったことを彼に告げた。

 ――おとなしくして、まず課長になるのが先だと思うね。

 そういう下木内の顔を見ていると、彼の中に先日の会議の末席に身体を小さくして連っていた下木内の姿が浮かんで来た。

 ――その理屈はわかる。しかし、そうすることによって、自分の為した仕事が(ゆが)められたり、否定されたりする場合はどうなるんだ。

 彼は下木内の顔を力をこめて見返した。

 ――そういうことも、たまにはあるかもしれん。耐えるのさ。目的と手段はわけて考えるべきだろう。

 ――待ってくれ。目的というのは、課長になることか。

 ――当面はな。そうしなければ、より良い仕事も出来ないだろうが。

 ――逆ではないかね。良い仕事の結果が課長という形で帰って来る。

 ――そういえば循環していることになる。

 ――ごまかしてはいかん。目的というのは、常に仕事の中味、仕事そのものだろう。

 彼は、あのレポートを完成した時の重い充実感が、今も身体の中に熱く動いているのを感じとることが出来た。

 ――そんなに俺たちは勤勉かね。

 下木内は営業マンらしく大げさな身振りで答えた。彼は下木内に身をかわされたのを感じたが、それ以上彼を追いつめようとはしなかった。

 しかし、下木内の現実論が、実際には企業の中で通用する言語なのかもしれなかった。彼がひそかに頼りにしていた原島部長は、出張から帰って横地課長の報告をきいたが、そのまま彼の方には何の連絡もしなかった。しびれをきらして彼は原島部長の答えを直接確かめにいった。予想されたことだ、私にまかしておいて下さい、という強い部長の言葉を彼は期待していた。原島部長は、営業部長との折衝のことについては全くふれず、ただ、会社も今、ちょっとむずかしい所にさしかかってきたからね、と短く答えただけだった。だから本質的なことを今こそ徹底して……と言いかけた彼に、かぶせるようにして、そのうち貴方に連絡しますよ、と言ったまま席をたった。少なくとも、それは最初に彼のレポートをとりあげた時の部長の態度とは異っていた。横地課長は、この件に関しては明らかに逃げていた。彼は孤立無援だった。そうなればなる程、彼は自力であのレポートを守りとおさねばならぬ、と強く思った。

 その企業の中での姿勢が、寺島ゼミのコンパを明日に控えた彼の中に、微妙に反映していた。それは、あの男の後姿を考える彼の姿勢にも、かすかな変化をもたらし、それが彼の緊張感を一層強めていた。こわばった身体で、彼は自分の家へむかう最後の路地を折れた。大きく深呼吸してから、彼はチャイムの白いボタンを押した。椅子のずれる音と、板の間をかけて来る充のトントン弾む足音とがきこえた。鍵がまわされ、彼がドアを開けた時、はだしのまま土間から上にとび上る充の丸い背中が見えた。意外に早く帰って来た父親を見て、充ははしゃぎまわりながら台所の方に走っていった。

 ――早かったわね。

 まだエプロンをつけたままの美枝が火照った顔をのぞかせた。疲れたよ、と言って彼は上衣だけとるとバネのゆるくなったソファーにぐったりと腰をおろした。家の中にはいると、疲れが急にしみ出してくるようであった。

 ――ちょうど始まるとこだから、早く着換えて、一緒にお食事しましょうよ。

 美枝の声にひきずられて、彼はやっと立ち上った。ビニール製の白い刀をやたらに振りまわす充を押しのけながら、彼は小さな洋服箪笥(たんす)のある次の部屋に踏みこんだ。洋服箪笥の前に、ちょうど両開きの戸をおさえるような形で一つの茶箱が置かれていた。茶箱の上に、浅黄色の衣類が崩れた形でのせられていた。彼の手は、無意識にそれを掴んで目の高さにぶらさげていた。古びたレインコートだった。

 ――これはなんだい。

 彼の声は思わず高くなっていた。

 ――ごめんなさい。服の入れ替えが終らなかったものだから。

 部屋にはいって来た美枝が、気軽に彼の手からレインコートを受け取ろうとした。

 ――いや、これはなんだ、ときいているのだ。

 彼はすばやく手をひいて、変色しかかっている一着の古いレインコートをもう一度自分の脇に吊りさげてみせた。

 ――むかし、貴方がずうっと着ていたレインコートよ。

 ――学生の頃からだな。

 ――たしかそうよ。

 彼はそのレインコートを両手で握りしめてみた。長い間しっとり濡れて眠りこんでいたかのようにコートはひんやり冷たい。襟の折り目には黒ずんだ脂がにじみ、裏地の格子縞(こうしじま)(がら)さえぼけている。何度もクリーニングに出し、防水しなおし、それでも布地が弱ってしまったためか雨に当ると半透明のしみを浮かべてすぐ水分を吸収してしまうあのコートだ。植込みにつつじが咲き誇っていた四月の雨の日、銀杏(いちょう)の重い緑に降った雨の大学祭、傘で顔をかくすようにしてひそかな会合に出かけていった雨の夜、そして、たしか地方工場の雨にたたられたメーデーにも着ていったあのコートだ。彼はそのコートに袖をとおした。重いコートだった。ゆっくり、大きなボタンをかけていく。襟をたて、両手をポケットにさしこむ。

 ――むかしのコートは長かったわね。

 美枝が眼を細めるようにして呟いた。そういえば、このコートの襟をたて、何度も美枝に会ったことがある筈だ。会う度に、美枝はその前別れてから後でおこったことを、一気にしゃべらずには気がすまなかった。その細い少女が、今エプロンをつけた妻としてそこに立っている。下から充が何かをうるさく問いかけてくる。ガス台の方で鍋がふきこぼれる激しい音がした。あわてて台所に走っていく美枝の柔らかな背を見ながら、彼はレインコートのボタンをはずした。

 ――記念にとっておく?

 ガス台の前から、美枝のやや華やいだ声が響いて来た。

 ――何の記念だ。

 彼は身体からひきはがすようにコートをぬいだ。

 ――いらない。充の遊び着にでも作りなおしてくれ。

 美枝の声が帰って来る前に、彼は美枝にむけて叫んでいた。

 ――そんなに弱っていては、遊び着にもならないわ。

 ――では捨てるんだな。

 美枝のいない部屋で、彼はもう一度レインコートを自分の脇につりあげてみた。

 ――明日はゼミのコンパだから、晩飯はいらないよ。

 レインコートをもとあった茶箱の上にそっともどすと、彼は服をぬぎ始めた。

 

     10

 

 課長の代理で出席した会議が長びいたために、雨の中を彼が大学の近くにきめられたコンパの会場についた時は、すでに一時間近く遅れていた。

 部屋の入口に立った彼は、まずその人数の(おびただ)しさに驚かされた。それは、今までのコンパにないことだった。部屋が華やかなのは、その中に若い女性の姿が何人か見られるためだった。ゼミナールの名簿の上で後輩の期に女性の名前を見ることはあったが、彼には顔をみるのは初めてのことだった。寺島教授に挨拶に近づくこと自体が大変な作業だった。部屋の隅で手をあげて呼んでいる浅井のところまで行くのにも、何人もの足を踏みそうになったり、広い背中に手をついたりしなければならなかった。

 ――すごく集ったな。

 騒音の下をかいくぐるようにして声をかけ、彼はやっと浅井の横に腰をおろした。

 ――今日のは、義理人情いう奴だ。

 こういう会合の中ではいつも周囲に埋没してしまう浅井が彼に静かにビールをついだ。

 ――自分に対して、出て来る口実があるわけか。

 浅井に答えながら、彼はもう一度室内を見まわした。彼の全く見知らぬ顔が少なくなかった。女性のまわりには、おそらく同期と思われる若い男たちが集って特別にぎやかな一群を作っている。彼は戸惑いながら浅井にビールをつぎかえした。それは、今までの寺島ゼミナールのコンパのイメイジとはかけ離れすぎていた。しかし、考えてみれば、卒業後のゼミナールのコンパというのは、トータル像としてはこういう形であるのがむしろ当り前であるのかも知れない。今までが、むしろ苦行僧的にすぎ、奇形であったのだろう。まだ馘首(かくしゅ)やレッドパージが珍しくなく、不況の中で新規卒業生を採用しない企業が多く、自分が就職試験に合格するために共に受験した学友の学生運動の経歴を会社に内報して問題になったりした彼等の暗い卒業年次と、青田刈りが常識となり、ひやかし半分に受験要領を受け取りにいった会社に懇請されて断わり切れずに入社してしまったという卒業年次との間には、明らかに十年を越す月日が流れているのだ。ここにあるのは、寺島ゼミナールにおける日本経済の高度成長の投影図なのだ。事実、彼等の期の最も秀れた学生であった何人かを中心として出来た一群は、最近の国際収支の問題について、酒席には似つかぬ静かな口調で論じあっていた。

 ――あれは現役かい。

 彼は部屋の反対側の隅に固まっている一群の若者たちをみつめながら浅井にたずねた。浅井は小さく(うなず)いた。ジャンパーを着て眼鏡をかけた学生は、明らかに興奮した顔付きで、どこか羨望の表情を浮かべながら周囲の話にききいっている。その横の学生服の男は、不快げに首をそびやかしてひたすらにビールのコップを傾けている。学生たちの頬に揺れる不定形の緑葉のような影をとらえたいと彼は眼をこらしたが、彼の位置のせいか、それは困難なようだった。

 ――年とったな、俺達も。

 浅井が現役の学生の方を見やりながら、ぼそりと呟いた。

 ――俺達のことを「老いやすい世代」と言った奴がいたが……。

 浅井に答えながら、その先の言葉を彼は呑んだ。どちらが本当に老いやすいのか、おそらく寺島教授なら言い当てることが出来るに違いない。しかし、いずれにしても、彼は浅井のあまりに抒情的な言葉に素直についていくことは出来なかった。

 ――失礼ですが、何年の御卒業ですか。

 一人の男が、浅井と彼の間に突然割り込んで来た。髪を短く刈りこんだまるまるとしたその顔に、彼は見覚えがなかった。男は自分の卒業年次を告げ、手に分厚く持った名刺を、カードを配るように上から一枚とると彼に差し出していた。大手繊維メーカーの名が刷りこまれたその名刺から見ると、彼より七、八年は若いその男は、彼と同種の職種についていることが察せられた。

 ――お名刺、頂けませんか。

 男は強引な口調で言った。彼はその男の顔を見直さずには居られなかった。黒縁の角ばった眼鏡をかけた球体のようなその顔は、名刺の記載事項からはみ出すものは何も持ちあわせていないようにみえた。単純な<現在>のみがのっぺりとそこにひろがっている。これが寺島ゼミのメンバーの顔か。内ポケットの名刺入れをさぐりながら、彼は、いや、これも寺島ゼミの一つの顔なのだ、と思いかえそうとした。名刺入れから重い指で抜き取った自分の名刺が、横地課長に命ぜられて作った<課長心得>という肩書入りであることにその時彼は気づいた。彼は戸惑った。その名刺を、彼はこの場では使いたくなかった。

 ――頂いていいですか。

 男は彼の手の中をのぞきこんだ。ひるむ彼の手からもぎとるようにして名刺を受け取ると男は大げさに喜びの表情を浮かべた。自分の仕事では、先輩後輩のコネクションを通じて各種の情報や知識を入手することが是非必要であること、特に同種の企画部門の人間との接触が大変に有益であること、これを機会に会社の方に寄せて頂き、色々お話をうかがいたい、と一方的にまくしたてた。男は彼の名刺を大事そうに胸のポケットにしまいこんだと思うと、もう次の浅井に自分の名刺を差し出していた。浅井は億劫そうに名刺を出した。男はそれを受け取って頭を下げると、中腰になって肩と肩の間を次の席へと移って行った。

 ――なんだ、あれは。

 男が立ち去った後の隙間(すきま)を埋めもどすように浅井が彼に身体を寄せた。彼は、その男のこんもりふくらんだ背中をみつめていた。君のやっていることは、俺にはわからなくはない、と彼は思った。新しい商品企画を一つの企画レポートにまとめていく段階で、どれ程私的なルートや個人的な情報網が有効であるかということは、俺もよく知っている。しかし、ここは、ビジネスの為の網を打つ場所ではないだろう。そうではなく、ここは<過去>が批判の花束を持って訪れる<現在>の墓場ではないのか。そこから次の新しい生をさぐり出すための、厳粛な<現在>の葬儀の場ではないのか。君の<過去>はいったいどうなっているのだ。その時、この男の中にはもともと<過去>などというものは存在しないのではないかという疑問が彼を捕えた。もしそうならば、しかし、男は数あるゼミナールの中から何故この寺島ゼミを選んだのか。寺島ゼミそのものが、現在ではすでに彼等のもったあの質量感溢れる<過去>を持ち得なくなっているのか。それがわが高度経済成長の実態なのか。<現在>の亡霊となることによってしか、俺たちの労働は充たされることが不可能なのか。

 ――ゲゼルシャフトやな。

 浅井が昔から色の良くない唇をひきつらせるようにして呟いた。

 ――もともとここを、ゲマインシャフトと思っていたわけではないが……。

 彼は石を跳ぶように男たちの間を遠ざかっていく球体の頭を持つ男を見送りながら、次第に苛立ち始める自分をおさえようと焦った。しかし、彼の耳には、大学院のドクターコースに在学中らしい女子学生が先輩の国立大学助教授に自分が何年に卒業するかということを繰り返し繰り返し告げる高い声がきこえてくる。反対側の隅からは、自社の製品が同業他社の製品よりも物としていかに優れているかを主張し続ける鼻にかかった声がきこえる。それはお前の愛社精神のあらわれ以外の何ものでもない、と揶揄(やゆ)する声がそれに応ずる。ぼくは没価値的に事実をのべているのだ、お前にはすでに事実は述べられないのだ、科学的知識の問題だ、それなら証拠をみせろ、言い争う声の中心に、肉の厚い顔を酔いに光らせている立花の顔があった。

 ――俺たちは、時代遅れのようやな。

 浅井が低い声で呟くのがきこえた。

 ――過去の尻尾(しっぽ)が重すぎるという意味か。

 問い返しながら、彼は浅井の声の中に、自嘲と、どこか歪んだ一種の優越感の匂いを嗅いだ。それは、俺の匂いでもあるのではないか、という鋭い疑いが彼を貫いた。

 ――未来がよう見えん。

 ――見ようとしているのか。

 彼の強い声に、浅井は驚いたように顔をあげた。

 ――見たいと思っとる。

 浅井の声は、酔いのために声量のあがっている他の声にかき消されそうだった。それは、彼自身の声かもしれなかった。しかし、その声のもつ一種の切実な願望の響きは、願望の中に自らを浸して自足してしまう怠惰な響きをもうちに含んでいるのではないか。浅井が迷い、おそらく誠実に悩んでいることは間違いなかった。しかし、その悩み方の中から、果して何かが生み出されるのだろうか。名刺を求めた男が<現在>の亡霊だとするならば、浅井はあるいは、<過去>の亡霊なのではなかろうか、俺もまた。

 ――思っても見えはしない。

 突き放すように彼は言った。

 ――見えはせん。

 浅井は湿った声を落した。

 ――手さぐりしかない。しかし手さぐりでもしなければ俺たちは——。

 彼は浅井の顔を正面から見据えようとした。

 ――せんよりは、ましか……。

 顔をあげずに、浅井はひとりごとのように呟いただけだった。

 彼は救いを求めるようにあたりを見まわした。騒音と煙草の煙にあふれた部屋の中心部に、紅潮した寺島教授の顔が揺れていた。

 ――頼みますよ。頼みますよ。

 寺島教授の声は、かすれながらもますますたかまってくる。

 ――日本列島を、諸君に頼みますよ。

 彼も何かを叫びたかった。彼に必要なのはただ一言、<俺は帰るぞ>という叫びだけだったろう。そこがすでに居るべき場所ではなくなっていることを彼は激しく感じとっていた。多くの頭ごしに、彼は先刻名刺を求めた男が立ち上り、部屋中に大声で呼びかけているのをきいた。賛同の拍手がおこり、両手をひろげた男たちがそのまわりに三人、四人と立ち上るのが見えた時、彼は浅井にも声をかけずに部屋を出た。後手に閉めた戸のむこうで、獣のように不気味な歌声が動き始めるのを彼はきいた。

 朝から降り続いている雨が、膨大な水の層となって彼の上にあった。鎧戸(よろいど)をしめられた商店の前で、街灯の遠い明りに舗道が重く光っている。路上の厚い水膜を踏みしだくタイヤの音が近づいてくる。ライトが遠くの雨の中からとび出し、近くの雨滴を激しく照しあげ、一瞬、赤いテールランプの光を残しては消えていく。どこへという方角も意識せぬまま、彼は重い傘を身体の前に支えて歩いた。

 足早に近づいて来た傘もささぬ男が、彼の顔をのぞきこむようにして声をかけていた。

 ――やはりそうだった。もう終ったのか。

 雨の中に、レインコートの襟をたてた三浦が立っていた。 それを認めた時、彼は思わず声をあげていた。

 ――遅くなってしまってなあ。寺島さん、まだいるか。

 たてた襟の中で、三浦の首筋はやはり細かった。

 ――日本列島を頼まれてきたよ。

 彼は三浦の全身を包みこむようにみつめて言った。

 ――そいつは重いな。

 三浦はしゃくりあげるような声で雨の中に高く笑った。もどらないか、もう一度、という三浦の誘いを、彼は首を振って断った。三浦は先日の公判傍聴の礼をのべたあと残念そうに、ではまた会おうとぎごちない仕種(しぐさ)で手をあげた。彼のさしかける傘の下から離れると、三浦は雨の中を歩き出していた。三浦がやや遠ざかるのを待って、彼はふりむいた。古びた長めのレインコートの襟をたて、脂気のきれた髪を街灯に白く光らせながら三浦は歩いていく。あの後姿だ、と彼は思った。今まで彼がめぐりあった後姿が、現実にすべて三浦のものであったかどうかは、もはや今の彼にとってはどうでも良いことであった。彼が持ち続けたあの後姿が、今雨の中を遠ざかっていく三浦によって静かに熱く充たされていくことだけを彼は感じた。一瞬、その後を迫って走り出そうとする自分の身体を、かろうじて彼はとどめた。後ろから追うのではない。前からめぐり会うのだ。いつか――。過去と現在とのつながりに悩むこと自体によって重い問いかけからの免罪符を得ようとするのではなく、現在そのものを充たす自らの労働の中を突き抜けて、俺が何かを確かめることの出来たその日に。俺は、俺のレポートを守り抜くだろう。俺のレポートを守り抜く俺自身を、俺は守りとおすだろう。そのために、俺は課長にもなるだろう。あの後姿に照していえば、その変化は、卑しく、醜いものであるのかも知れぬ。無駄な、愚かな、さらには誤った努力であるのかも知れぬ。しかし、その危険な道を歩むことの他に、俺にとってどのような道があるというのか。思い出に充たされた<過去>の葬儀は終った。空疎な<現在>の祝宴を俺は辞してきた。曲りくねったこの俺の道を、俺の歩み方で俺が歩き抜いた時、思いもよらぬどこかの角で、俺はひょっこり三浦と出会うことが出来るのではないか。その時、腕を触れあって、寺島教授に託された日本列島を三浦とともに担うことが出来るのではないか。いや、今背を向けて歩み出してしまえば、俺はもう三浦に会うことは出来ないのかも知れぬ――。

 遠ざかる後姿にもう一度眼をとどめてから、彼はしかし歩き始めていた。歩き始めた身体の底で、あの後姿が、光を縮める点のように遠のいていくことだけを彼は感じ続けた。

 車もほとんど通らぬ暗い道に折れてからどれ程歩いただろう。雨の中から、黒々とした二本の門柱がゆっくり彼の方に近づいて来る。大学病院にはいる車のために終夜開かれている唯一つのその門を、彼は静かに歩み抜けた。ゆるやかな傾斜をもつ広い道の片側に、丈高い水銀灯が雨の中に浮かぶように立ち、その下の樹木だけが闇から切り取られて人工的な緑に光っている。夜の大学構内はただ広く、人影がなかった。前方の闇に眼を据えたまま、彼は雨の構内の奥へ奥へと進んでいった。

(昭和四十四年二月)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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黒井 千次

クロイ センジ
くろい せんじ 小説家 1932年 東京・中野に生まれる。昭和44年度藝術選奨新人賞受賞。

1969(昭和44)年2月「文芸」に発表の掲載作により、その年度藝術選奨新人賞を受賞。

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