ネネネが来る
観覧車はゆっくりと地面を離れた。それはまだ昇っているというより、地表を平行に移動し続けるように感じられる。木の座席に浅く腰かけたまま、彼はむかいあった二人の子供の上に上体を傾けている。やがて、白く塗られた斜めのアングル材が視野を切り、彼と二人の子供達をのせたゴンドラは急に上昇し始めた。強い夏の日射しに照らされた遊園地の森が、むせかえる暗緑色の焔の海のように目の下に拡がり始める。急激に拡大した視野のためか、焔の海とむきあったことによる光の激しさのためか、彼は一瞬軽い
――暑いね。
目眩を自分からそらすようにして彼は二人の子供のどちらへともなく声をかける。しかし子供達は目の下に突然拡がった世界に身体ごと吸いこまれてしまったように声もたてない。彼は、純一が無意識に掴んでいるゴンドラのドアの上端からその手をずらさせながら、目眩がゆっくりと自分を離れていくのを感じる。
――ママ!
純一が高く叫んでゴンドラの斜め下を指さした。兄の声を繰り返して優子が小さな指をのばす。大きな円盤の上をチューリップ型のカップが二重の速度で回転しているすぐそばのベンチに、英子の姿が認められた。純一の声に顔をあげた英子は、かすかに頬笑んで手をあげたが、真盛りの太陽がまぶしいのか、その手をすぐに額にあてたまま、またうつむきこんだ。朱色の袖なしのワンピースを着た英子の姿は、その角度からみると、服の色が派手であるだけ余計に、疲労そのものが朱色の衣裳をつけて立っているようにみえた。英子は明らかに疲れていた。それは、どこか英子の身体の芯から出ているもののように思われた。それを感じたからこそ、俺は突然思いたってこの遊園地に出かけて来たのではなかったか。
――なんだか、つまらなくなっちゃった。
日曜の朝の食卓でなにげなく呟いた英子の言葉が、彼の内側の深いところを、冷たい影で撫でるようにして通りすぎたのだ。〈なんだか〉というそれ自身は意味もない一語の響きが、彼には胸の底をおびやかす巨大なひろがりを持つ影のように思われた。具体的に何一つ指示をすることのないその言葉は、それだけに、どこか全否定の響きをもっていた。原因不明の病、どこにも敵のいない闘い。そんな苛立たしさが彼を捉えた。いや、そうではない。おそらく、彼はその病因を、見えない敵をおぼろげに感じとっていたのだ。感じとっていたからこそ、月曜から土曜までの勤務先の業務で疲れ、全く出不精になってしまっていた彼が、その効果も十分に計算した上で叫んだのだ。
――象を見に行こうか。
その叫びは、たちまち二人の子供の小さな身体の中に黄金色に跳ね返り、英子の顔をも一瞬同じ色に照らし出さずにはいなかった。
――このままにして行こうか。
英子にしては珍しく、食べ散らした食器には手を触れず、そのまま狭い玄関に走り出るようにして出かけて来たのだ。先刻感じた目眩は、あるいは英子のあの言葉を耳にした時に、彼の内側に既に準備されていたのではなかったろうか。
ゴンドラは、ゆっくりと上死点に近づいていた。いま、いまが一番高い時だぞ、と純一の耳に口をつけるようにして彼は言った。純一は身じろぎもせずに下を見やっている。白く塗られたアングル材が垂直に眼の前を過ぎていく。彼はもう一度眼下の英子を目でさがした。同じ姿勢のまま、英子は両手を額にあてて辛うじて顔にあたる陽をさえぎっている。ゴンドラは、今度は英子からは少しずつ少しずつ離れながら、彼女の表情を覗きこむようにして降下し始めている。このゴンドラが地表を
ゴンドラは急激に降下して、彼の視野はみるみる扁平にせばめられていく。樹木が正常な樹木の高さに近づき、人々の頭が人々の頭をさえぎる位置に接近し始める。座席に立上ろうとする子供達の手をおさえたまま、彼は英子の表情を見守り続けた。その顔は、彼等のゴンドラを見失いでもしたかのように、どこか遠くをぼんやりとみつめている。ほとんど降下し終ったゴンドラが、低いコンクリイトのプラットフォームに近づく時間が、彼には激しく長く感じられた。地面に降り立った二人の子供達が叫びをあげて駆けよるまで、英子の顔はどこかの高みに吸いつけられたままのようにまだ仰向き続けていた。
*
――コンチワー いない。
――コンチワー いない。
――コンチワー いない。
純一と優子の足が、テーブルの下でぶらぶらと揺れながら入れちがっているらしい。
――なんだい、それは。
食事を続けながら、彼は英子にきく。
――きいててごらんなさい。
英子は彼に汗を浮かべた顔をよせるようにして小さく言う。その顔には、一日の小さな行楽の照り返しがまだ灯っているような、明るい表情が浮んでいる。混んだ電車と暑いバスと、それから少しばかりの芝生と子供の乗物とが、いつの間にか英子の朝の〈つまらなさ〉を溶かしたとでも言うのだろうか。観覧車から降り立った時に、まだ空の高みに奪われていた英子のどこか虚ろな顔は、この一家四人の和やかな夕食をむかえるための準備にすぎなかったのだろうか。
その時、子供達の足はビニイルのテーブルクロスの下でお互いに触れあったらしい。
――アーラ、おくさま、どこいってらしたの?
純一が箸を横握りにしたまま、笑いをこらえた顔で優子に言う。
――チェイユーデパート、いってまちたの。
優子は大きな眼をむいて兄をみつめる。
――西友で、何お買いになりましたの?
純一の顔は、言いながら今にも笑いに崩れようとするのをじっとこらえている。
――あなたのパンツ。
そこで子供達はきめられたコースにとびこむようにして笑い始める。純一はむせながらまだ笑いをとどめることが出来ず、優子は一しきり笑うと、急に真顔にかえって冷えたそうめんの器に顔をつっこんでいく。
――横地さんとわたしの電話でもきいてたらしいのよ。
そういわれれば、子供達の話しぶりはどこか英子の電話の話し方に似ている。
――パンツというのは何だい。
――それは優子の発明よ。
子供達の不思議な遊びが、又一つふえたことになる。それは純一が幼稚園から覚えて来る遊びのバリェーションであったり、テレビの子供番組を真似した挨拶の仕方であったり、何かの偶然で遊びながら口にした言葉がそのままパターン化したものであったりするのだが、しばらくの間は二人の子供達を楽しませるものなのだ。
子供達は食事を続けながら、又無意識のうちにテーブルの下で足をぶらぶらさせはじめたらしい。それを見ると、英子はもう一度汗を浮べた顔で首をすくめてみせた。——これがおそらく、守るべき家庭というものなのであろう。彼は月曜から土曜に至る、単調でそれでいてどこか重くだるい日々のことを思いうかべた。あれ等の六日間と、この一日とは、全く等しく均衡を保っているものなのであろうか。
――ネネネ?
純一が突然甲高い声で優子をのぞきこんでいた。
――うん。ネネネ。
――ネネネがどうしたの?
――ネネネがくるんだよう。
――ああ、ネネネが来るのか。
子供達の短い会話は終っていた。
――なんだい、それは。
彼は先刻と全く同じ声で英子にきく。
――知らない。また新兵器ね。
英子は椅子から立つと麦茶の冷えた瓶を冷蔵庫からとり出して彼のコップについだ。
*
八時過ぎに電話が鳴った。ふとんを敷きかけていた英子が、作りつけの本棚の上に置かれている受話器に手をのばした。
――もしもし、はいそうです。はい……。
しばらく、英子は〈もしもし〉だけをくりかえした。それから、突然受話器が別のものに変ったかのようにそれを電話機の上に投げ出した。
――どうしたんだ。
――変な電話……。
――間違いか。
――うちの番号を確かめて、そのまま黙っているの。
――切れたのか。
――切らないで、そのままじっときいているみたいなの。
――むこうでうちの名前を言ったのか。
――全然……。
英子は、優子が時々するように大きな目で彼をみつめたまま、首だけを激しく左右に振った。
――間違いだよ。
――そうかしら……。
英子は、急に体重がなくなったような歩き方で居間から隣りの八畳にもどっていった。
九時半きっかりに、彼は居間の電気を消した。それは子供達が寝るにしては遅すぎる時刻だったし、大人にとっては早すぎる時刻だ。
――ちょっと待って下さい。
寝室にしている八畳から、英子の声がきこえた。彼はあわてて今切ったばかりのスイッチをいれなおした。天井の螢光燈のかわりに、壁にとりつけられたオレンジ色の飾りランプがついた。間違いに気づいてすぐにスイッチをいれなおそうとして、彼の手は止った。斜め上から放たれる暗褐色の光のために、部屋の様相は一変していた。スプリングのゆるくなったソファーが平たく部屋の隅にひろがり、その上に優子が置いていった白いぬいぐるみの犬がぽつんと坐っている。犬は急に大きくなって、右眼のない表情でじっと彼をみつめているように見えた。ダイニングルームの奥の闇の中から、食事用のテーブルが一枚の板になって浮き出していた。先刻まで光っていたテレビが覆いをかけられ、ソファーと向きあった壁際にひどく重量感のある一つの箱のように置かれている。その部屋の中に、いつ降り出したのか、雨の音が滲み込むようにきこえて来る。
――消すぞ。
半分あけられた板戸の奥の洞穴のように暗い寝室にむけて、彼は苛立った声をかけた。そこから、子供達に何かを言いきかせながらふとんの間を動いているらしい英子のこもった声がきこえて来る。
――消すぞ。
彼はもう一度声をかけてから飾りランプのスイッチを切った。外と同じ闇になった居間の中を、彼は手探りで寝室の板戸にむけて歩いていった。
雨が降り始めたのだから少し気温は下っているのだろうと思われるのに、雨戸をしめきった暗い部屋の中は暑かった。
――子供達、どうしたんでしょう。お昼寝もしないのに。
闇の中の意外に近くから、英子の低い声がきこえた。
――こどもたち、どうしたんでしょう。
英子の身体のむこうから、純一の口真似がきこえた。
――こどもたち、どうちたんでちょう。
優子がすぐにそれを又真似て、足をばたんとふとんに打ちつけ、笑い声をたてた。
――寝ないと、おこられますよ。
英子が彼の横から少しとがった声をたてたが、それは一家四人が共に寝る部屋の中での母親の声にふさわしい、落着きと力とを持っているように彼には思われた。一瞬、彼の中に、観覧車の上から見た朱色の服をまとった英子の小さな姿が浮び上った。その身体は、今ネグリジェに包まれて、ゆったりと彼の脇に横たわっている。触れないでも感じられるそのゆとりのある重さが、彼の中に静かな安堵の感情をひろげていく。小さな日曜日の小さな行楽。もしそれが、朱色の服をきた妻の中から、あの無意識とも思える全否定をぬぐい去るものだとしたら、俺は疲れた身体に疲れを積重ねることになっても、そのような休日を持つ努力をしなければならないだろう。何とは明確に指示することは出来ないとしても、英子に日曜の朝の食卓であの全否定の響きのある言葉を呟かせるような何ものかが、すぐそこにあるのだから。
――ねないと、おこられますよ。
純一が英子の言葉をくりかえし、咽喉の奥でわざとらしい笑い声をたてた。優子がまだ完全にはまわらぬ舌で兄の言うとおりを言って笑った。
――何時だと思っているの。いいかげんにしなさい。
英子の声は更に調子の強いものになった。純一は枕にでも顔を押しつけているのか、曖昧な声をたてた。
――寝ろよ、もう。
彼は窓際のふとんから、低い声で言った。部屋の中はしずまりかえった。
――ネネネがくるよ。
優子が、ひどくはっきりした声で突然叫ぶように言った。英子が身体を動かす気配がした。
――ねんねしなさい。
――ネネネだよ。
優子の天井を向いているらしい声が、もう一度はっきりきこえた。
――いいから、ねんねしなさい。
――ネネネがくるよ。
――ネネネって、なんなの。
――ネネネがくるんだよォ。
優子は起きあがって、ふとんの上に坐ったらしかった。
――早く寝ないと、あしたまた朝から遊べないでしょう。
――ウン。
優子はばたんとふとんにうつぶせたようだった。母親の柔らかな子守歌の声がおこった。指をしゃぶる音がチュウとした。
雨の音だけの時間が過ぎた。優子とは反対に、彼の意識は次第にさめはじめる。雨戸の上の明りとり窓は、今はっきりと白く部屋の上の闇を区切っている。そこからの光で、部屋の中の物の形がぼんやりと柔らかな輪郭で見える。窓際のふとんの足の方に置かれた整理だんす。その上にのせられたガラスの人形箱の上部が、高さの加減からより多い光を受けて、中の人形の形まで見えそうだ。押入れの脇につけられた三面鏡は、明りとり窓から遠いために闇ににじみ、実際よりもはるかに細長いぼやけた影になっている。
眠るぞ、と自分に口の中で言って寝返りを打ち、彼は三人に背を向けた。雨の音が、また急に大きくなる。あんなに強い日が射していたのに、夜の夕立なのだろうか。背後に純一の小さな呟きがおこり、声にはならない舌のたてる音だけが透明にいつまでも続いている。続いていると思ううちに、いつかその音も雨の音にまぎれて消えている……。
――どうして、こんなに早く寝たんだろう。
ふと自分の声が窓にはねかえって部屋の方にもどっていくのを彼はきいた。答えるもののないその声は、闇の中に宙吊りになっているようだ。
――どうして、こんなに早く寝たんだろう。
声に出した言葉にはっきり形をつけるように、今度は彼は意識的に呼びかけていた。
――早いもんですか。
時間がたったのにしては、まだひどく輪郭のはっきりした声が英子の身体から帰って来る。
――俺達のことだよ。
――出たから、疲れたんでしょう。
――出るのは、毎日出ている。
――早く寝れば、なおるわよ。
――なんとなく、起きていたくなかったんだ。
――だから、寝ればいいじゃない。
――違うよ、起きているのが、なんだか厭だったんだな。
――寝ているから、いいんでしょう。
――そうじゃない。起きているのが、なんだか……。
そこまで言いかけて、彼は、それを言わずに起きているのと、寝ながらそれを言うのと、果たしてどれだけ違うのか、という疑問にふと気づく。
――ねむたいよ、もう。
英子の声は、しかし少しも眠そうな響きを持ってはいない。その時、闇の中に鳴りかけた電話が、ちりんと中途はんぱな音をたてて切れた。英子の身体が固く動いた。
――また……。
――間違いだよ。
――さっきもよ。
――ネネネが、行ってもいいですか、ってきいているんじゃないか。
――やめてよ、気味が悪い。
英子の不安をそらすために、冗談のように口から出た言葉に、しかし彼は捉われていた。
――ネネネって、なんだ。
もう何度目かになる質問を、彼は天井をむいたまま口にした。英子は、息でも殺しているかのように答えない。
――ネネネは、どうやって来るんだ?
――ネネネは、どこから来るんだ?
闇の中に、答えはない。
――ネネネは、いつ、くるんだ?
――ネネネ は ほんとに くるのか?
彼には、答えるもののないその質問が、ただの言葉の遊びなのか、それとも深刻な問いかけなのか、自分にもわからない。
雨の音が急激に変化し始めた。一粒一粒の水滴がたてる音が急に大きくなり、それが寄り集まって音の塊となり、塊はぐんぐんひろがって成長し始める。英子はふとんの上に突然上体をおこしたらしい。
――雨だわね。
確かめるように言う声は、おびえている。
――ひどく降って来たよ。
彼の声は、独り言のような質問から続いたままのこもった響きをもっている。
――こわいみたい……。
英子はふとんの上に上体をもどすらしい。その呟きは、音を雨として客観的にとらえ、それ以上のものに音が身体の中でふくらもうとするのを必死でおさえてでもいるようにきこえる。彼は、何かを言わなければならない自分を感じた。
――小さい時、どんどん雨がひどくなったら、空気の居場所がなくなって、最後に爆発してしまうのではないかと思ったことがある。
――その前に、うちが流されてしまうわよ。
英子の声は、彼の言葉の流れの方に少しずつ近よって来る。
――子供たち、起きないかしら。
――子供は寝てしまえば、全然別の世界へ行ってしまうよ。
――優子、変なことを言ってたけど……。
――ネネネか。
――厭な夢でも見ないといいけど……。
――ネネネって、厭なものなのか。
――知らないけど、なんとなく……。
――怖がっているみたいな言い方ではなかったけど、妙に確信のある言い方だったな。
――パパ。ちょっと。
英子の手が、不自然な固さで彼の腕にかかった。
――なんだ。
彼の声もひきこまれるように低くなっている。
――歩いていない? 誰か。
雨の音は、いつかきめの細かい拡がりのある音にもどっている。その音の間から、水をはねかすような小さな音が不規則にきこえている。
――道だよ。
――いやだわ。
――道を人が歩くのは仕方がない。
――変な歩き方よ。
――気のせいだ。
――去年の夏も、あなたはそう言ったわ。
――そう思ったんだもの。
――そうではなかったじゃない。
――あの時はな――。
あの時は、と彼は思う。バサリと妙な音がして、不意に起き上った英子にうながされ、彼は雨戸を押しあけた。白いシャツの男が、狭い庭から鉄条網をとびこえて逃げるところだった。大声に何かを叫び、男がとびこえたところまで彼ははだしで走った。英子が一一〇番に電話をし、男が逃げさって五分もしてから、ライトを消したパトカーが三台も来た。その時の出来事は、ひどく論理的だったように思われる。なぜか自分でもわからないが、何かが今とは本質的に違っていた。第一、優子はまだろくに口もきけぬほど幼なかった。
――変だわ。
――びっこの犬だよ、きっと。
――去年は、鳥だろって言ったわ。
雨の音は遠のいていった。そのむこうから、しっかりした規則正しい足音と、それに正確に遠近感が一致した男の歌声とが近づいて来る。それ等の音は、接近して、部屋の西端をかすめるようにして又次第に遠ざかって行き始める。
——あの人、毎晩今頃、同じ歌を歌いながら通るのね。
英子の声は、その男の出現によって落着きをとりもどしたようだ。
――いい声じゃないか。なんの歌だ。
――ロシヤ民謡みたいね。
男の声を追うようにして、一台の自動車が通過していく。曲り角からの急激なエンジンのふかし方と乱暴なギヤチェンジの音から、おそらくタクシーに違いない。
――寝ようか、
彼は呟いてみる。
――眠れないわ。
予想どおりの答えが英子から帰って来る。
――眠くなって来た。
本当に少し眠くなり始めているような気がする。
――ネネネが来るわよ。
英子の声に、ゆとりが生れている。
――ネネネを呼んだのか。
――誰が。
――あの子が。
――知らないわ。
――呼ばないでも来るのかね。
――呼ばないのに来るものの方が厭だわね。
――寝て待て、って言うのもあるぞ。
――呼ぶものは、みんなすぐ来はしないわ。
――そうかな。
――お風呂の修理屋だって、おそば屋さんだって、この前のおまわりさんだって。
――俺は、どこかで呼ばれているのかな。
――だから、毎朝出かけて行くじゃない。
そうだろうか。俺が呼ばれているのは、本当はこの閉めきった暑い部屋なのであり、それだからこそ、俺は毎朝だるい身体をひきずって勤務先に出て行くのではなかろうか。その疑問を、しかし彼は英子に対して口に出して言うことは出来ない。
小さな娘の方で、どこかが襖にぶつかる音がした。
――よち よち よち よち。
母親が身体をのりだして、ふとんからはみ出した娘の位置をなおしているらしい。雨の音はすっかり消えて、時々思い出したように庇に当る水滴の音がひどく大きい。
彼はまだ寝ていない。もう寝るのに早過ぎる時刻ではない。枕に後頭部をつけたまま、じっと天井をみつめている。何かが、眠りにつこうと柔らかくふくらみかけた彼の意識をひきとめてしまっていた。暗い部屋の中はむし暑い。雨の音の消えた室内に、いつか静かな三つの寝息がからまりあって、満ちたり、ひいたりしている。英子も、子供二人をつれて外に出た疲れからか、ようやく不定形の怯えに別れをつげて眠りの中にはいっていったらしい。これが、俺の家庭だ、と彼は思う。この三つの寝息を朝まで守り、明るくなった空気の中に、より早くより強い呼吸をのばしていくのが、俺のこの部屋で求められていることなのだろう、と彼は思う。しかし部屋は暗く、少しむし暑すぎる。そして三つの眠りは、あまりに低くあまりに確実に部屋の底にはりついている。彼は、何かを持ち上げようとするかのように眼の前にいっぱいに指をひろげた手をかざした。ほの暗い天井をバックにした手は、しかし薄闇に溶けこんでしまったかのようにぼやけて見えない。その手を、少しずつ横に移動させていく。手が細長い明りとり窓の方向にむいた時、窓に切り取られた部分の指だけが、巨大にふくらんだ影のようになって彼の眼にとびこんでくる。四本の指は、部屋全体を掴み取りそうな形でゆっくりと窓の上を足の方に移動していく。その窓が急に激しい光を吸いとり、ガラスの切込みのある表面がキラキラと輝いた。光は、オレンジ色からみるみる光度をまして白色に変り、まだ丈の低い庭先のプラタナスの葉の影をガラスの端から端へすばやくふりまわした。彼の指は急速に縮まって手の形にもどり、その背後の天井を木目もみえる程鮮やかに照らし出した光は、その光度の頂点で消えると、彼の枕に振動を残して車は走り去っていた。
もどって来た闇は、その前の闇よりも深かった。彼は眼をつぶる。走り去った車の音が、まだかすかにきこえている。その音におおいかぶさるようにして、又雨の音が近づいて来る。おそらく、音もたてていなかった小雨の間に大粒の雨がまざり始め、それがどんどん多くなり、やがてべったりとした一面の重い雨の音が部屋を丸く押し包む感じでひろがっている。
部屋の空気が、小さく、しかし鋭く動いた。白い犬のような影が起きあがり、それが声もたてずに居間にトントンと駆け込むのを彼は見た。
――パパ、ネネネがきたよ。
彼の耳のすぐそばで、いつ来たのか純一の押し殺してはいるがはっきりした声が呼びかけていた。
――おい、起きろ!
彼は横の英子に叫んだ。何か声をあげて英子はふとんの上に立っていた。彼は手さぐりで居間のスイッチをさがした。台所のすりガラスからの光で、居間に並んで立っている二人の子供の白いパジャマの影が見えた。さぐりあてたスイッチを彼はあわてていれた。飾りランプの黒ずんだ光が、赤い筈のじゅうたんを黒々と照らし、そこに並んだ二人の子供の姿をオレンジ色の鈍い輪郭で浮びあがらせる。
――何している?
彼は激しい声で子供達に叫んだ。
――どうしたんです。
半分あけられた寝室への板戸に張りついて立った英子が怯えた声をあげた。黒い水のようにひろがったじゅうたんの上に、二人の子供と二人の大人はむかいあって立っていた。その時、高い壁にとりつけられたチャイムが雨の音をはじきとばすように家の中に響いた。
――ネネネ が きた。
優子が両足を開いたまま跳び上った。
――パパ、ネネネだよ。
純一がひどく大人びた声で叫ぶと玄関を指さした。英子が板戸から離れ子供達の名を呼ぶのと、子供達が狭い玄関に走りこむのとはほとんど同時だった。気がつくと、彼は子供達をおしのけて玄関の狭い板の間に立っていた。ほとんど無意識に、彼はパジャマの裾をズボンの中に押しこんだ。
――電気をつけて。
彼は子供を英子の方に押しもどしながら強い声で言った。狭い玄関に白い光が溢れ、ドアに埋められた細長いカットガラスが外燈の光に浮き上る。
――どなたですか。
閉じられたドアの外にむけて彼は叫んだ。一瞬、彼は自分の背後に三人の家族が息を殺しているのを意識した。
――ネネネ だよう。
外からではなく、返事は彼の背後の純一の小さな身体から帰って来た。その声は、同時に外の夜の中からはねかえって来ているようにもきこえた。ネネネが何であるかは、彼にはわからなかった。しかし、今、ネネネと向いあう必要があることだけは、彼にははっきりしていた。
――さがっていろ。
彼はふりむいて低い声で言った。出来ることならば、パジャマのままではなく、ズボンをはき、シャツを着ていたい、と彼は思った。その時間はなかった。自分のこわばった手がドアのノブにのび、それをまわすのを彼は見た。低い軒につけられた光の中に、雨が白く光って降っていた。門の脇の丈低い桃の葉が光り、庭に出来た小さな水溜りが光っていた。ひらかれた闇の中に、雨だけが動いている。さそい出されるように、彼は素足に靴をはいて雨の中に踏み出していた。強い雨がたちまち身体を打つのを彼は感じた。しかし、彼は止れなかった。自分の背後に、小さな優子が続き、はだしの純一が続き、最後にはだしのまま英子がコンクリイトの土間に降り立つのを彼はぼんやり感じていた。それは、彼にとってもはや守るべき家庭ではなく、外にむかって行進を始めた何ものかの隊列だった。激しい雨に打たれながら、夜空にむけてゆっくりと上昇していく巨大な観覧車のゴンドラを彼は見た。燃えあがる朱色の服を着た英子が、隊列の先頭に立ってそこに乗りこんでいく姿を彼は見た。次々と降りて来る鋼鉄製のゴンドラに、一人ずつ乗りこんでいく子供達の目をいっぱいに見開いた強い表情を彼は見た。
いつか、門を出て、暗い夜道に彼は一人で立っていた。どこにも、ネネネの姿は見えなかった。しかし夜の雨のどこかに、ネネネが間違いなくじっと立っていることを彼は感じ続けていた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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