最初へ

小泉(八雲)先生

  一 ラフカディオ・ヘルン

 

「贈従四位小泉八雲」

とかう書けば、全く知らない人は日本人かと思ふだらうが、小泉先生の血管には日本人の血は一滴も流れてゐなかつた。美しい神秘と空想との世界に生きるケルト民族の愛蘭(アイアランド)人を父とし、むかし欧洲の花やかな藝術と文明とを生み出した希臘(ギリシャ)の国人を母としたる純粋の西洋人であつた。愛蘭に育ち、仏蘭西(フランス)に学び、米国に人となつて、四海に家なき飄零(へうれい)の孤客であつた先生は、東海のはてにありと伝ふる蓬莱(ほうらい)の国にあこがれて、今から三十年ほど前、はじめて我が日本の国土に来られた。それはハアパアス社の一通信員としてであつた。のち出雲松江中学の教師をして居られた間に、そこの旧藩士の女と結婚し、遂に日本に帰化して小泉姓を名乗られた。八雲の名はこれから出たのだ。近代英文学の史上にスティヴンソンやキプリングと肩を(なら)べる散文の巨擘(きよはく)として、欧米の文壇には先生のラフカディオ・ヘルンといふ本名の方が轟き渡つてゐる。多少読書の趣味を解し、或は(いやしく)も日本の存在を知れる英米人にして、先生の名を知らぬ者は殆ど無からう。知らぬのは日本人ばかりだ。教育ありと称する邦人が英米へ行つて、かの国人からヘルン先生、——即ち「小泉八雲」の事を()かれてまごついた滑稽を、私は幾たびも見もし聞きもした。

 ラフカディオの名は、世界最大の女詩人と呼ばれるサフォオが、望みなき恋に身を投げたと伝へられる希臘のリュウカディアの海に(ちな)める名だと聞く。またジプシイに縁あるヘルンの姓は、英語の(ヘロン)と音相通ずるといふので、先生は羽織や、著書の(タイトル・ペイヂ)に押す紋どころに、二羽の鷺を図案化して用ゐられた。

 日本を今日の如く西洋諸国に名高くしたものは、必ずしも数次の戦勝と国運の隆昌とのみではあるまい。これには先生の光絢婉美の麗筆が(あづか)つて力ある事を思はねばならぬ。見たまへ、ただ観光を目的として来朝する英米人の十中八九までは、先生の著書「こころ」「東方より」「日本、その解釈」「怪談」「日本雑録」「骨董」「日本瞥見録」「佛陀園拾遺」「影」等の諸作の愛読者である、或は少くともその一二を必ず行李の底に収めてゐる人たちではないか。

 朝廷が国家に対する功績を(よみ)し給うて故人に贈位の御沙汰のあつた時、たとひ帰化人でありとはいへ、純然たる白人を之に加へさせられた事は、未だ曾て我が国の史上に類例なき聖代の慶事であつた。先生はたとひ長く東京の大学に英文学を講ぜられたにもせよ、その名声をして真に世界的ならしめたものは、矢張り文筆の人としてである。——かの俗物輩が(やや)もすれば三文文士と(あざけ)り、新聞屋と(さげす)み、遊冶郎(いうやらう)と同一視せんとする操觚(さうこ)の人としてであつた。この純然たる白人の文士に向つてかかる恩典を加へさせられた事は、日本の智的文明の進度に関して西人に非常な好印象を与へた。米国の新聞雑誌は、其頃この贈位の御沙汰(ごさた)を特筆大書して、嘆美の辞を以て之を世に伝へた。但しそれはさきの大隈(おほくま)内閣時代の事である。

 

  二 講義の上梓

 

 今更また何を思ひ出して、また何の酔興で、小泉先生の事を書くのかと怪しむ人もあらう。私が今わざわざ禿筆(とくひつ)を呵して先生の事を書くのは、日本の一般社会が余りに先生を知らなさ過ぎるからのみではない。学士とか博士とかいふ一寸偉さうな人たちが、一かど日本で新しい学問をしたやうな顔をしながら、日本の文豪である先生の名をさへ知らないと云つて、外国人の前で赤恥を掻いてゐる珍談が多いからのみではない。私が十四五年前、先生の講筵(かうえん)に侍した頃の大学の講義が、一昨年あたりから、順次米国で出版せられ、それが彼国で非常な好評を博してゐる近来の好著である事を、ただ一言したいからである。殊に日本で贈位の御沙汰のあつたのと偶然にも殆ど時を同じうして、海のかなたで此講義出版の挙があつた事は、(すくな)からず英語国民の注意を惹いた。

 東京の文科大学に於ける先生の英文学講義は、前後約十年間にわたつた。勤勉なる先生は毎年新しい講義題目を選ばれた。今日まで既に上梓せられたのが四冊。最初のは(一)「文学の解説」二巻と(二)「詩歌の鑑賞」一巻。そして今度また新しく出たのが(三)「人生と文学」の一巻である。当時聴講の学生の筆記を集めて、今コラムビア大学の英文学教授ジョン・アアスキン君が校訂して、紐育(ニューヨーク)書肆(しよし)から出版してゐるのだ。

 アアスキン君は私も滞米中に(しばしば)会つたが、詩才学殖ならび勝れた少壮有為の教授である。批評家としても詩人としても米国の文壇には広く知られた人だけに、かの(いたづ)らに考証訓詁に(ふけ)つて、藝術として文学に何等の理解なき死灰枯木の如き腐儒(ペダント)とは全く選を異にした人だ。私共は小泉先生の講義が世に公にせられるに当つて、先づ最も適当なる校訂者を得た事を、衷心から喜ばねばならぬ。

 先生の講義は毎週九時間であつた。英文学概論が三時間、作品講読が三時間の外に、詩歌小説戯曲などに関する色々の題目に就いて、断片的の講義がまた三時間あつた。先生の豊かな天分と、断じて他の模倣を許さないその独創性(オリヂナリテ)が遺憾なく発揮せられ、またその特有の趣味鑑識に基づける批判が十分に聴講学生の前に披瀝せられたのは、主として此断片的講義の三時間であつた。幸ひなるかな、このたび世に公にせられたものは即ち講義の此部分のみである。

 校訂者はその緒言の中に、此講義集を嘆賞して随分思ひ切つた事を言つた。曰く、「英文の文藝批評としては、コオルリッヂ以後の第一人。()(むし)ろコオルリッヂと(いへど)も或点に於て及び易からざるものあり」と。アアスキン君のこの語は彼国の文壇でもだいぶ問題になつた。しかし此言葉に多少の溢美誇張の嫌ひありとはいへ、私は先生の文藝評論が、確かに詩人コオルリッヂの「沙翁(さおう)(=シェイクスピア)講演」と同一系統に属するものである事だけは、断言して()いと思ふ。

 北欧伝説を説き、英国の古謡を論じ、沙翁以後キプリング、メレディスに至る諸星を品隲(ひんしつ)し、さらにまた先生平素の愛読書であつた仏蘭西(フランス)の作物からは、近代のモオパッサン、ボオドレエル、ロティ等の諸作を紹介し、これらの書が未だ今日の如く日本や英米の読書界に行はれなかつた頃に早くも之を絶東の青年学生に伝へ、西欧新思潮の帰向する所を示されたのであつた。凡てを容れんとし、凡てを迎へんとするに急なる若き人々の心に、豊麗なる英仏文学の深き興味をそそられたものは、極めて広汎なる範囲にわたつて題目を(えら)ばれた先生の此講義であつた。

 これらと同じ題目を取扱つた英米の評論は(もと)より汗牛充棟であるが、此書は思想家として、また批評家としての先生独特の鑑賞眼に映じた純然たる主観的批評であるだけに、英米諸国に於て他に全く類例なき唯一(ユニイク)の評論である。しかし先生はこれを文藝評論として自ら筆を下されたのでもなく、(いはん)やまた之を世に公にする意志は少しも持たれなかつたのである。或人が生前この講義出版の事を慫慂(しようよう)した時、先生は言下に之を(しりぞ)けて、「あれはまだ十回十五回の改竄(かいざん)を要する。よし改竄を加へても、それだけの労に(あたひ)するものでは無い」と答へられたさうだ。文章に非常な苦心をして推敲改竄に細心の用意を怠らないのは、東西古今すべて皆藝術的良心ある名匠の常である。かの紅葉山人の如きは書いては直し、直しては書き、余白が無くなつて遂には紙を貼り付けてまたその上を直すといふ有様。其原稿紙は遂に糊のため板の如くなり、書き入れと線と、墨で消した跡とが交錯複雑して、真に活版屋泣かせに成つてゐるのを見て、私はつくづく感心した事があるが、小泉先生は自著を世に公にせられる時、いつもその苦心は非常なものであつたと聞いてゐる。一度書き上げた原稿は数日間故意(わざ)とこれを筐底(きやうてい)にをさめ、よほど時経てのち、更にそれを取出していくたびか添刪(てんさん)補訂し、十分意に満つるまでは決して之を公にせられなかつたと聞く。世界を驚かしたその一代の名文はかくの如くにして成つたのである。従つて教室で為た講義をその儘、稿本や筆記によつて上梓(じやうし)する事は如何なる事情のもとに於ても先生としては真に堪へ難き事であつたらう。だから私は今此書を一個の文藝評論集として見るよりも、単に講義として評する事の正当なるを思ふのである。今もし先生を地下に呼び起して此書を示すならば、文藝批評としては先生自らと雖も意に満たぬ節々が(すこぶ)る多からうと思ふからだ。

 

  三 その特色

 

 批評論としてでなくただ講義として、私は今その内容に就いて思附いた二三の特徴を挙げよう。多くの点に於て先生の講義は天下一品であつたからだ。

 先生はその稀世の名文を以て、我が日本の美を西人に紹介せられた第一人であつたと共に、またその趣味(ゆた)かなる講義を以て、日本の学生に正しく西欧の思想と文学とを伝ふるに最も成功した外国教師であつた。東西両洋の間に立つ紹介者として、先生をしてその天職を全うせしめたものは、独りその流麗明快なる筆舌と該博なる学殖とのみではなかつた。徹頭徹尾真の世界人たる先生の特異なる人格が然らしめたのである。小泉先生は英国人でもなくまた米国人でもなく、さればとて純粋の日本人では無論なかつた。国土や国民に執着せんとする何等の偏見なくして、足跡は世界にあまねく、到る所に美を見出して之に同情し同感し、十分に之を享楽し得る人であつた。西洋人以上に西洋を理解すると共に、日本人以上に日本を理解した人であつた。かくの如き浪漫的な人格を()つた人は、世界に於て先生ただ一人あるのみと言つても過言ではあるまい。この点に於て先生の如きは空前にしてまた恐らく絶後の人であつたらうと思ふ。

 日本人が日本で西洋文学を講ずる事が至難の業であると同じく、西洋人が日本に来て西洋文学を講ずる事はなほ更に困難な仕事である。外国の大学に於ける研究法——しかも旧式な研究法を其儘に応用するなぞは(もと)より言語道断であるが、西洋の文学評論の受売をして能事(をは)れりと為す如きに至つては、学生こそ真によい迷惑である。日本を愛し日本を研究し、日本婦人と結婚せられた先生は、松江中学や熊本五高に教鞭を執られた長い間の経験に徴して、日本人の物の考へかた、物の観かたが西人と全く異なれる点を十分に理解せられた。此経験と此理解とを以て、先生は東京大学の英文学講座を担任せられた。そして日本人の詩観、日本人の思考法に適するやうに英文学を説かれたのであつた。試に此講義集中の如何なる一章をでも通読せられよ。これは日本人の為に、日本人の美感に訴へようとして説かれた西欧文学の講説だといふ事が、特に際立つて読者の注意を惹くのである。

 たとへば耶蘇教を信じなければ英文学は解らないやうに言ふ人がある。殊にこれは西洋人の口癖の言ひ草だが、先生は決してそんな野暮な事は言はれなかつた。先生は聖書(バイブル)が偉大なる宗教文学であること、殊にジェイムズ王欽定訳の英文聖書(イングリシュバイブル)沙翁劇(さおうげき)(=シェイクスピア劇)に次ぐ文学上の大作である事を、諄々として私どもに説かれた。しかし宗教的に之を見る事は必要でないと断言せられたのみか、そんな考へ方をする事は、文藝作品の優秀を理解するには邪魔になるだらうとまで極言されたのは面白い(講義集「文学の解説」第二巻第三章「英文学に於ける聖書」参照。先生は学校へ通勤するとき、わざわざ迂回してまでも耶蘇教会のそばを通る事を避けられた程に、耶蘇教嫌ひであつた。

 十五六年前、大学の講堂で先生の口から聞いて、それ以来不思議に私の頭にこびり附いてゐる批評は、十七世紀の詩人口バアト・ヘリックが花鳥風月を詠じ、物のあはれを歌つた詩篇を説いて、これは漢詩や和歌俳句に最も近いものだと言つて比較された事だ(同上、第七章参照)。私は今でも先生の此説には十分の賛意を表するものであるが、日本で英文学を説く外国教師でこんな講義振をする人は先づ滅多に無からうと思はれる。

 作品や詩人の批判に関する微細なる点にわたつて、一々かういふ例を挙げれば際限は無いが、この東洋趣味の鑑賞眼あるがために、古い作品に新しい味はひを求め、西欧の研究者が未だ曾て言ひ得なかつた所を道破し得た点は甚だ多い。此講義集が出版以来英米の読書界に好評を博してゐるのは、全くこの新しい東洋風の見かたがあつたからだ。

 人に物を教へるといふのは、要するに理知の作用に訴へる事だ。理知にのみ訴ふるが故に殺風景になる、話が理に落ちて了ふ。どんな面白い文学作品でも教場といふ所へ持出せば、大抵は乾燥無味蝋を噛むが如きものとなつて愛想が尽きる。(いはん)やそれを読んで点数の種にし、やがてはまた飯のたねにもしようといふ了簡を抱くに至つては、試験前に読みなほすのさへ真に苦痛の極である。詩や小説は矢張り書斎に独坐して明窓浄几のもとに(ひもと)くべきもので、黒板(ボオルド)の前に持出すべき性質のものではないかも知れぬ。下手な教師になると、西洋の批評家の口真似なんかで、ここが巧いの、あの句が有名だのと独り感服顔をして、その安売の感服を生徒にまで強ひるが、聴く者の方では何が有名なんだか巧いんだか薩張り合点が行かぬ。小泉先生は自身ゆたかな、そして偉大な天分を()たれた人だけに、此点では他の学究輩の断じて企及すべからざる特色ある講義をせられた。

 さらばその特色とは何ぞや。情緒本位の文学教授法であつた。先生の尺牘(せきとく)集中の一篇に下の語がある。

 

「情緒の表現として、人生の描写として私は文学を教へた。ある詩人を説くに当つて彼が与へる情緒の力と性質とを説明しようと試みた。換言せば学生の想像力と情緒とに訴へる事を私の教授法の土台とした」。

 

 一通りパラフレイズで本文の説明を終り、難解の詞句を釈して後(出版せられた講義集には説明解釈の部分は大抵省略されてゐる)、先生は自分の美しい言葉で美しい詩の句を批評し、その藝術的意義を説かれた。ごてごてと理窟や事実を列べ立てるのではなく、端的に聴者胸奥の琴線に響くやうな解釈を下された。理知を以て解すべからざる詩を情緒に訴へて解せしめんと心掛けられた所に、先生の講義の大なる特色があつた。かの(いたづ)らに西人の筆に成れる註疏の書を辿つて、一語源の説明に二時間三時間を棒に振り、遂には藝術の真意にだも触れ得ざる学究先生の為すところとは真に霄壌(せうじやう)の差であつた。講じ終つて後、先生がいつも独り言のやうによく言はれた Wonderfully beautiful! といふ言葉も、其時は()う能く私どもの鈍感な胸にさへ響いて、成程と思はせられた。

 既に理知本位の講義でないだけに瑣事(デテイルズ)にわたつては往々にして誤謬もあつた。年代などの思ひ違ひもあつたらしい。またその講義が組織的系統的でないといふ難も無いではなかつた。しかしそれは私ども学生が自分で調べれば出来る事であつた。自分で出来ない事を先生は為て下すつた。それが嬉しいのである。私は外遊中(しばしば)西洋人から小泉先生のことを訊かれた。その時私がいつも答へた What he gave us was not so much knowledge as inspiration の言葉のかげには、先生に対する心からなる感謝の外に、外国大学にうぢやうぢやしてゐる腐儒(ペダント)へのあてつけがあつたのだ。講壇に立つて理を説き事実を伝ふるに巧みなる人は多からうが、詩文を説いて貴き霊感を与へ、之によつて青年学徒を指導し得る教授は、天下果して幾人あるだらう。

 図書館に籠城する者の事を悪く言つて「カン詰め」といふが、罐詰でも罎詰でも好いから私は、図書館で一寸調べれば直ぐ解るやうな事を教室でわざわざ筆記させて貰ひたくはないと思ふ。飽くまで自己を発揮して、先人の道を踏まないだけの独創性(オリヂナリテイ)を有して居られた小泉先生は、先生の口からでなければ聞かれない多くの事を語られた。重箱の隅を楊子でほじくるアルバイト先生や、屋上屋を架して喜んでゐる独逸(ドイツ)の学者は何と言はうとも、先生の講義には先生の人格の(きらめ)きがあつた。その個性が名匠の手に成る浮彫(うきぼり)を見るやうに鮮やかに現はれてゐた。西欧文学の大作が先生の極めて清新強烈なる主観を透過して説かれた所に、庸劣の迂儒をして愧死(きし)せしむるに足るものがあつた。

 すぐれた独創性に富んだ人だけに先生の趣味には偏したところがあつた。江戸趣味の通人が頻りにおつな食べ物を漁るやうに、先生も亦おつな作物に舌鼓を打たれることが多かつた。それがどうも私たち義仲、信長そち退()けの野武士の味覚に合はない事も往々にしてあつた。面白いから是非通読せよと先生が薦められた本を読んで見ても、一向野武士どもには面白くなかつた事も随分あつた。さういふところが今度出版された講義集にもよく見えてゐる。たとへば、先生は多くの怪談の類や、或は少年文学として英国に名高い「アリスの冒険」(リュヰス・キャロル作)などを非常に面白いと言はれたが、私どもには余り有難くない物であつた。殊にリットンの怪談に至つては、先生が最も嗜読せられた物らしいが、これも今以て左程に思はぬ。先生がまた妖異険奇なる頽廃(たいはい)の趣味に深き同情を持たれたことも、矢張りこの一例だ。ポオを愛しボオドレエルを好まれたのがその何よりの証拠である。

 従つてまた尋常一様の英国批評家の言説以上に秀でたる卓見は甚だ多かつた。十八世紀のブレイクがまだ今日のやうに持囃(もてはや)されなかった当時に於て、先生は此詩人を激賞して、「その頃の藝苑の荒れたるなかに、色も見知らず、匂は尚も()しき不思議のあだ花よ」と言はれたのは、実に快心の事であつた。ワアズワスを喜ばずして、シェリイを褒められたのは殊に痛快を叫ばしめた。此講義集の中に先生がディッケンズを褒められなかつたと言つて、「ヘルンにはユウモアが解らないんだ」と不平さうに言つてゐた英吉利(イギリス)の或老人に出くはして、私は苦笑した事がある。

 さて以上の如く述べると、先生の学風を、かの天才肌の創作家に有り勝ちな、浅薄な読書趣味のやうに思ひ誤る人もあらうが、事実は決して左様ではなかつた。否な左様はならないやうにと、先生は特に学生を戒めて居られた。現に此講義集のなかにも、正確細心の学風あつて始めて詩文の鑑賞を為し得べき事を、切言せられた一節があるのだ。

 先生は所謂学究の徒ではなかつた。従つてさまで藝術的価値なきベイオウルフやキャドモンの古詩の研究に没頭して、(やや)もすれば文藝の真諦を逸し去らんとする英米大学の英文学教授とは、全く趣を異にした人であつた事は言ふまでもない。その代り十六世紀頃以後の所謂近世英文学の全般にわたつて先生のやうに博洽の識と鋭敏なる理解とを()つてゐる人は、英米第一流の大学に於てすら余り多くは無いと思ふ。これは既刊四冊の講義集の目次を見ただけで(うなづ)かれる事で、年々歳々題目を新にして、沙翁以後幾百幾十の作家と作品に就いて、毫も受売でない自己鑑賞(アプリイシエイシヨン)を語り得る者が、多士済々たる英米の学界に於てすら果して何十人あるだらうか。先生の講義の中には純文学のみでなく、バアクレイやスペンサアの哲学(先生のやうな頭の人が何故あんなにスペンサアの綜合哲学を尊崇せられたのか、今でも私は何だか矛盾のやうに思はれてならない)の講義もあつた。また英文学以外に於ては、さすがに仏蘭西(フランス)で教育を受けた人だけに、近世仏蘭西文学にも十分に精通して居られた。かのゴオティエエの短篇集や、アナトオル・フランスの「シルエ゛ストル・ボナアルの罪」の英訳本は、先生の筆に成れる巧妙なる翻訳が今日既に標準訳となつてゐるのを見ても、仏文に於けるその素養の程を窺ふに足るではないか。殊に先生の創作の方面では、先づその繊麗なる筆致からして、既に仏蘭西文学の感化に負ふ所大なるは私どもの毫も疑はない点である。

 言ふまでもなく英米大学では、英文学は即ち国文学の事であるから之にはうんと力を入れてゐる。多い所では此一講座に十二三人の教師が掛つて仕事をしてゐる。従つて銘々が分担する時代とか題目とかは極めて狭小な範囲であるから、勢ひその学者たちは自分の狭苦しい領分内に籠城して固くなつて了ふ。沙翁時代専門の人にアングロ・サクソンの古文学の話をすると、物理の先生が法律の事でも訊かれた時のやうな間抜面をしてゐるから可笑しい。日本では外国文学に対してこんな設備をする必要もなく、また周囲の事情も無論許さない。勢ひ或程度までは八百屋店を張つて貰ふ必要があるが、八百屋式文学講座の担任者としては、恐らく小泉先生ほどの適任者はまたとあるまいと思ふ。

 何等学府(アカデミック)閲歴(キャリア)を有しない新聞記者であつた先生の著述を読んだばかりで、その学殖と天分の凡ならざるを観破し、直ちに之を東京の大学に招聘(せうへい)したる人は、時の大学総長外山正一氏であつた。今から十二年前、即ち小泉先生の没後間もなく出版されたイリザベス・ビズランド編纂「ヘルン傳及び尺牘(せきとく)集」のなかには、先生が友人に寄せられた手紙の二つ三つに、当時の東京文科大学の事を書かれたのがある。なかには読んでゐて随分破顔微笑を禁じ得ない節々も多いが、その一節に自分の同僚の外国人には独逸文学で莱府(ライプチヒ)大学のドクトル何とか、哲学では独逸何とか大学の誰々、そして何処の者とも素性の知れない者は吾輩一人である、といふ文句があつたのを私は今でもよく記憶してゐる。如何にもそれには相違なかつた。学歴だの称号だのといふ看板をブラ下げてゐないのは先生一人だけであつた。それは兎に角、この四冊の講義集を今評壇の驚異として歓迎してゐる英米の読書界は、かかる天才を草廬に見出して此講義を為すに至らしめたる故外山正一氏に対して、先づ大に感謝しなければならぬ。

 この講義集に用ゐられたる英語は、中学卒業程度の語学力を以て何等の苦痛なしに理解し得る極めて平易明快なるものである。単に詩文のみならず、晦渋(くわいじふ)なる哲学思想の解説に於てすらも、先生は殆ど難解の語を用ゐずに説かれてゐた。評隲(ひやうしつ)論議の書にしてかくも平明なる文辞を用ゐたるものは他に多く類例は無いが、これは学殖文才共にすぐれた小泉先生の如き人にして始めて出来る藝当だと思ふ。横文字の物を縦文字に直した奴を、我が物顔に喋舌(しやべ)つてゐるやうな事では(とて)もかうは行かない。教師自身にも解つてゐないやうな外国語の術語なぞを矢鱈に振り廻はして、言ふ方にも聴く方にも珍紛漢な講義を、決して先生は()られなかつた。私は平易なる英文を読み得る凡ての日本の読者に向つて、この珍らしい講義の書を最良の文学入門書として、或は手引草として推薦するに躊躇しない。

 

  四 おもひで

 

 また新しい年を一つ迎へた。()うかれこれ十五六年の昔にもならうか、教室で師なる此天才の唇を洩れる美しい発音の英語に耳を澄ましながら、ノオトの上にペンを走らして、その片言隻句(へんげんせつく)をも逃さじと書き留めたのは。

 私にとつてはさういふ懐かしい思出の附纏ふ講義が、今海のかなたで上梓せられ新しく舶載せられた。ペイパア・ナイフで書物の(エッヂ)を切る手さへもどかしう、先づ扉から序文目次へと目を通すうち、いつも新着の書を(ひもと)く折には嬉しいものの一つである紙の匂が私の胸には何時(いつ)に無い不思議の心持をそそつた。久しう別れてゐた友と昔を語る時のやうな、また故郷で聞き慣れた古い歌の節面白きに心を奪はれるやうな、我ながら怪しと思ふさまざまの興味に促されて、ただ一息に全巻を通読する。通読し終つて瞑目一番すれば、先師のおもかげは今髣髴(はうふつ)として眼底(まなそこ)に在る。

 先生は如何にも風采の揚らない人であつた。痩身倭躯、実に白人には珍らしいほど小柄な人であつた。いつも前屈みに背を円うして、ひよこひよこと歩いて居られた。私たちがその講筵に侍してゐた時代には、既に鬢髪霜をおいた半白の老人(?)で、かの洋袴(ズボン)の折目にさへ気を配る英米人と(ちが)つて、衣帽の末にはまた極端に無頓着な人であつた。殊に(スタアチ)しやつちこばつた

シャツだの、燕尾服だの高帽だのといふ類の物をひどく毛嫌ひされたらしい。先生の美しい花やかな文章を読んで、一たびはその謦咳にも接したいと騒ぎ廻はり、はては講演のための渡米を求めて止まなかつた金髪碧眼の美人たちにして、若し先生のあの風采を見たならば果して何と言つたらうか、と思へば可笑しくもある。いつか「朝日」の文展漫画に例の一平さんが、鏑木清方画伯のむくつけき顔かたちと、その優艶なる作画との対照(コントラスト)を描いて居られた時、私はこの小泉先生の文章と風采との更になほ著しき対照に想ひ及ばざるを得なかつた。

 先生の鼻は希臘風の立派な恰好であつたが、南欧の血統の外にまた西印度(エストインデイズ)地方に長く居られたためか、顔の色は何だか赭顔(あからがほ)とでも言ひたいやうな色であつた。両眼殆ど視力なく、左は盲目、右は眼球が大きく飛び出して、それがまた強度の近視であつた。時々極めて稀に衣嚢から片眼鏡(モノクル)を出して、一寸右の目に当てられる。その稀世の名文に写された日本の文物人情社会等の精透なる観察は、すべてこの弱い覗力に片眼鏡を当てられる其僅か十秒二十秒間の凝視の結果であつたのだ。大きな眼玉をぎよろつかせながら、心眼(めし)ひたる凡物には見えない或ものを、先生はかうして常に鋭くもまた敏く観破せられたのであつた。

 西洋婦人と先生の此眼鏡(モノクル)のこととを思ふ時、私の脳裏に深くも印象せられた一つの事件がある。

 狷介(けんかい)なる先生は客に会ふ事を非常にいやがられたが、わけて西洋人が嫌ひであつた。先生歿後の文稿管理者(リテラリ・エグゼキュタア)のやうになつてゐる米国海軍の主計官マクドナルド氏の斡旋によつて、今度この講義集も世に出たのであるが、先生は平素この無二の親友の外、滅多に他の西洋人とは交際せられなかつた。何しろ先生は西洋の物質文明を厭はれて、早くからこの東方の楽土に来られたのだから、かなたの文壇には殆どその実在をさへ疑はれる神秘的人物のやうに見做(みな)され、それがまた甚だしく西人の好奇心をそそつて居た。先生の崇拝者、その著書の多くの愛読者は、はるばる此国に来朝して先生の大久保の邸を訪ねるが、みな素気なく門前払を喰はされたものだ。殊に西洋の女と云へばそれこそ毛蟲よりも嫌ひであつたらしい。ところが或日午後の講義の時間に、英国の女子教育家として可なり有名なH(エッチ)——と云ふ女が二人の同行婦人と共に私共の背後に在る(たつ)を排して教室に這入つて来た。そしてその儘空いてゐる机のところに坐つた。忘れもしない、それは先生が私どもに小説家シャロット・ブロンティの事を説いて居られた時間であつた。その英国婦人の一人はまた御苦労にも手帳を引張り出して、私たちと一緒に筆記を始めた。先生が講義のうちに、ブロンティは愛蘭(アイアランド)血統の人だと述べられた時、此一行の英国婦人がにいツと顔見合はせて笑つてゐた其顔附を、私は今でも明らかに記憶してゐる。

 殆ど視力の利かなかつた小泉先生でも、この思ひ掛けない闖入者(イントルウダア)のあるのには氣附かれたものか、滅多に用ゐられない例のあの片眼鏡(モノクル)を出された。それを右の目に当てがつて女どもの方を凝視すること三四秒。また直ちにそれを衣嚢に収めて講義を続けられた。

 其瞬間、思ひなしか、先生の面には不快の色が現はれた。

 のち先生が東京の文科大学を去られるやうになつたのは、此H――といふ女の参観が、鋭敏なる感性を()たれる先生に色々の疑心暗鬼を起させたのが源だとも伝へられてゐる。私も学校を卒業してから長い間教師をして飯を喰つてゐるから、屡次(しばしば)此種の経験はあるが、一体あの参観人だの視学員だのといふ者が、教室の一隅に(あたか)も蝋燭の如くに突立つて、碌に解りもしない授業を見てゐるのは、教師にとつて頗る快からぬものである。殊に其男が鼻眼鏡越しか何かで()生意気な面でもして居ると、何か御用ですか位は是非とも言つて遣りたくなる。(いやしく)もおのれの学殖と経験とに自信ある教師ならば、それを快しとする者は断じて無いのである。或地方の高等学校の外国教師が、日本の学校は何故かう参観者が多いのかと私に訊いた事もあつた。満天下の教師諸君、私の此言には恐らく同感の士も多からうではないか。

 H——と云ふ女の来観は、先生の崇拝者としてであつたか何であつたか、そんな事はここに記すべき限りではない。ただそれが先生には毛蟲よりも嫌ひな外国婦人であつた事を思ひたまへ。私は心から先生に同情する。鈍感な、利害打算一天張りの俗輩には、到底この心持は解りもしまいが。

 

  五 教室にて

 

 教師は蒲鉾(かまぼこ)であると或人が言つた。黒板(ボオルド)と云ふ板にしがみ附く肉の意だらうが、それならば当り前である。下手(へた)なのになると、黒板も生徒もそちのけにして、自分が一夜漬に拵へて来たノオトに(あたか)も岩に於ける牡蠣(かき)の如くにかじり附く。そしてもう断末魔の迫つたやうな声を出して絶叫してゐる。憐れむべきかな、私なぞもこの仲間であらう。

 そこへ行くと、さすが天才の小泉先生は偉かつた。引用すべき詩文の書のほか、紙ぎれ一枚と(いへど)も教室には持つて来ず、そらで話された。それも十年一日の如く、坊主がお経を読むやうに同じ事を繰返すならば、私等にでも真似は出来ようが、前にも述べた如く先生は年々歳々新しい題目で新しい講義をせられた。(もと)より準備にも相当に骨を折られたことであらうが、いま次々に上梓せられてゐる此講義集の美しい、そしてよく整つた明快な文章は、あれが皆即座に即興的に先生の口から出たものである。学生に書取らせるやうに考へながらゆつくりと、しかし少しの淀みもなく語られた。時々は即興の散文詩ともいひたい美しい文句や、奇抜な警句が口を突いて出るのであつた。咳唾(がいだ)珠を成すといへば古からう。錦心繍腸、これを織り成せる五彩絢爛の絲をほごして、繰れども繰れども縷々(るる)として尽きざる趣は鮮やかであつた。銀鈴を振る如きその声は、またその文の美しきが如くに美しく、抑揚高低にさへ何の不自然も無かつた。断続しつつ一言また一句、みな能く聴者の胸底に詩の霊興を伝ふるに足るものがあつた。ふと目を挙げて先生を見ると、窓外を眺めながら講壇のあたりを、あちこちと静かに歩いて居られた。

 英文学史の講義の時だけは極めて稀に、名刺などの小さい紙ぎれに年代か何かの覚書をして持つて居られた。しかしこれは(むし)ろ例外であつた。

 天才と云へば不規則な怠け者のやうに心得てゐる人もあらうが、勤勉努力の人であつた先生は非常に几帳面で、欠勤なぞは滅多にせられなかつた。講義の時間なぞもきつしりと守つて、鐘が鳴ると間もなく、重さうな風呂敷包に美しい装釘の詩集や文集を幾冊も入れたのを提げて、あたふたと教室に遣つて来られる。講壇に上つて先づ一揖(いちいふ)し、ごく低い澄みわたつた声でGood morning, gentlemenと言ひながら、風呂敷包を解かれるのが常であつた。書物のうち本文(テクスト)として引用すべき箇所には、各しるしの紙が挿んであつた。時間の終に近くなつて其日講義すべき部分が終りかける事はあつても、先生は必ず(ベル)の鳴るまで何か知ら話された。時間ふさぎには随分詰らない解り切つた事を、お祖父さんが孫にでも言つて聞かすやうに語られたが、それが皆の筆記帳(ノオトブック)に残つてゐたものと見えて、此講義集の中にもその儘に出てゐる箇処がある。これなぞも先生が今若し見られたならば不快な思を()られるだらうが、その講義の模様をありの儘に世に伝へると云ふ上から見て、私は校訂者アアスキン君が之を削除しなかつた事を如何ばかりか嬉しく思ふのである。

 先生はいつも俥から下りると直ぐその儘教室に来られた。偉い学者たちの同僚に顔を合はせるのが厭であつたのだらう、滅多に教官室といふ所には這入られなかつた。講義の間の休憩時間には独りで校庭をぶらぶらと逍遙して居られた。東京の大学には、あの地所がもと前田侯の旧邸であつた時代からの古い古い大きな池がある。この池の歴史には、先生が如何にも好まれさうな旧幕時代の妖艶な物語があつたか無いかは別問題として、とにかく何か由来の有つて欲しいやうな池である。幾百年の齢を重ねた鬱蒼たる喬木に取巻かれて、よどめる水は溷濁(こんだく)の色をなして、何時も黒かつた。池のかなたの小山の上には、俗に「御殿」と称する集会所の古風な建物がある。先生が最も好まれたのは即ち此池畔の逍遙で、例の前(かが)みにそのあたりを歩みながら、なた豆の日本煙管(きせる)や葉巻を(くゆ)らして居られるのが常であつた。近づいて教を乞ひたい事はあつても、私たちは先生の静思を妨げることを恐れて、滅多に側へは行かなかつた。落ち葉を踏みながら低徊して居られるその姿を遠くから望んで、先生の脳裏を往来してゐる美しい幻想の何ものであるかを、想像して見ることもあつた。

 雨の降る日でも、休憩時間に教官室へは決して行かれなかつた。その儘教室に残つて好きな煙草も喫まず、ただ黙々として窓外の景色を眺めて居られた。さういふ時はお気の毒だと私は思つた。これを見て天才は孤独を喜ぶなぞと言つて澄ましてゐるのは、先生の胸底を察し得ざる迂儒の妄語だらう。

 景色を見られても、先生には殆ど視力がなかつたから常に煙靄糢糊(えんあいもこ)たる、さながら淡彩一抹の風景画に対するやうに見えたのであらう。目には見ずして心に見られたその印象は、遂に全き藝術的表現を得て、色彩ゆたかなる文字に写されたのだ。鋭敏なるその感性は却つてこの極めて烈しき近視眼のために幸ひせられ、部分的なる細微(ミニユシイ)の点を払拭(ふつしよく)し去つて、一幅の全景を心裡に活躍するの效果を収め得た。先生自らもその新聞記者時代には米国で書かれた論文のうちに、ハマトンの「風景論」に関連して此事を述べて居られる(グウルド著「ヘルン傳」一〇九頁参照)。先生の文名を嫉み、或は日本の美を理解し得ざる西人は、ヘルンの描いたやうな美しい日本は何処にも無いと言ふ。いささか癪に障る批評ではあるが、一面から言へば如何にもそれには相違なかつた。

 

  六 教師と文筆

 

 教師と文筆とは仲の悪いものである。少くとも日本の学校に於ては確かに左様(さう)だ。これは我が国の教育界が噂に聞く頑冥固陋(ぐわんめいころう)の徒の巣窟であるためか、或は西洋のよりも遥かに進んでゐるためか、その辺は知らない。誰か閑人が考へて見たら()からう。

 夏目さんが第一高等学校の教師であつた時、その処女作「吾輩は猫である」を公にされた。文名一時に天下に高きを見て或男が、あんな文は教育家の書くべきものでないと陰口を叩いたさうだ。或人は、飲まず書かず吹かざるを約して遠く都を落ちのび、田舎の学校に教師たるを得たといふ奇談もある。こんな珍らしくもない例を、今更挙げるだけが野暮な位のものだらう。教師をして居ながら詰らん事を書き立てるなよ、ともう誰か言つて来さうな時分と十年このかた心待ちにしてゐると、笑つてゐた私の或友人もあつた。

 小泉先生が異常の天才であり、また世界の文豪であつたといふ事は、教師としての先生に何等の光彩を添へなかつたのみか、色々の意味に於て日本の学校では都合が悪かつたらしい。

 文章は人格である、筆の尖の藝当ではない。(いやしく)も一枝の筆を以て天下人心を動かす程の人には、その人格に何処か必ず強烈なる特異の色彩があつて、凡俗とは到底妥協調和の道なきものである事は言ふまでもない。

 これを呼んで偏人となし、嘲つて偏屈者と言ひ、半狂人を以て遇し、一本調子として之を蔑視するのほか、真に天才を尊重して縦横にその驥足(きそく)をのばさしむるの道を解せざるものは、即ち窮屈な今の日本の社会である。東西古今、単に文筆を以て衣食する事が至難の業でありとすれば、小泉先生ほどの人でさへも矢張り教師の職を忠実にやつて居られた。しかしまた先生程に思ひ切つて潔癖な非妥協的態度を以てしては、窮極に於て遂に何等かの迫害は免れなかつたらう。

 実用的人物と老人との外は一切何者をも容るるの余地なき日本の国は、先生がながく足を留めて墳墓の地とせらるべき所では無かつたのである。さりとて米国も駄目だ、三十年前のビクトオリア朝ならば、英国も矢張り駄目であつた。ここに至つて私は先生が米国から再び仏蘭西に戻られなかつた事を深く惜しむものである。少くとも数年日本を観察してのち、(かつ)て教育を受けられた巴里の地に帰られ、()しそこで生涯を送られたならば、先生の生活と作品とは更に偉大に、更に光輝あるものであつたらうと思ふ。先生は東京の文科大学を去られ、また米国コオネル大学応聘の事も果されず、早稲田大学に僅かに数時間の講義を担任せられたのみで、その浪漫的にして数奇なる生涯の最後の二年を送られた。この二箇年の先生の生活は決して快きものでは無かつたらうと思ふとき、私は先生のために暗然として涙を呑まざるを得ない。

 政客、俗吏、成金、坊主の輩は文士といふ言葉に非常な軽蔑の意味を寓してゐるが、教育界となれば更に烈しい。文学を以て琴書に等しき遊戯なりと罵つた者もあれば、不健全不道徳の本家本元だと心得てゐる者も甚だ多い。生徒に向つて雑誌や小説類の閲読を禁止し、殊に演劇に対しては殆ど之を蛇蝎視(だかつし)せるが如き学校は、かの開化したる野蛮国たる独逸の事情はいざ知らず、日本を措いて他の文明国では絶対に見られないことである。また私は外遊中、(しばしば)日本に於ける英語教育の盛んなる事を彼国人に話して聞かせたが、断然口を(かん)して言ふを恥ぢたる一事がある。それは日本の中学に於ける英語教科書から、ゴオルドスミスの「ヴィカァ・オヴ・ヱイクフィイルド」の全部や、アアヴィングの「スケッチ・ブック」中の数章が、二十年来全く教室に於ける使用を禁止せられてゐる事である。かくの如き事例を耳にせば、わが国情に通ぜざる外人が直ちに日本の精神文明の進度に疑を挿むを恐れたからだ。

 文学書を読むさへ悪いとすれば、自ら筆を執つて之を書くに至つては罪まさに百倍するわけである。(こころみ)に思へ、今或中学の教師が自己の周囲を描いて漱石先生の「坊つちやん」ほどの作品を書き、之を発表したりと仮定せよ。翌日早速校長室に呼び付けられるは愚か、その首は忽ち飛んで教育行政官の案頭に転がるを免れまい。作者の運命は即ち主人公坊つちやんの運命である事は、火を()るよりも明らかだ。

 小泉先生にして()し私どもに生きた文学のなにものなりやを教へて下さらず、イディオムか文法語源の講釈ばかりするか、当局者の鼻息を窺ふ片手間に外国文でつぎはぎの日本文学史編纂をでもして居られたならば、天下は頗る太平であつたらう。そしてあの世界的名声を博した十数巻の著述を為し給はずに。

 日本を愛し日本を信じ、その美を世界に紹介せられた先生も、晩年には此国を余り快くは思はれなかつたとか聞く。若し果して然りとせば、ここに至らしめたるもの嗚呼(ああ)これ果して誰の罪ぞや。

 

  七 専門家

 

 日本人はヴィクトオリア朝の英人の口真似をして、頻りに「コンモン・センス」とかを貴ぶやうだが、また同時に驚くべきほど「専門センス」を有難がる。専門とは外の事は何一つ知らず、出来もしないといふ意味であらう。必ずしも一事一藝に秀でたといふ意味にはならぬらしい。その証拠には時々法律を知らない法律家があつたり、土木の事を知らない土木技師さへあるさうだ。外の事は何もせず出来もしなければ、それで立派に専門家として天下を横行闊歩し得るとは芽出度い。

 それのみではない、外の事が出来るといふ事その事が、真の専門家としての素養力量の程を疑はれる基にもなるのだ。往年高山樗牛氏が此事を憤慨して、森鴎外氏が小説家であるために軍医としての手腕を疑はれ、外山正一氏が教育家として政界に出入したため、社会学に於ける造詣を軽んずる者ありといふ例を挙げたやうに記憶するが、教師学者の社会にも無論この類の事がある。暇つぶしの娯楽を部下に奨励する校長はあつても、新刊書を読めと勧める校長は滅多に無からう。基礎医学の学者に脈が取れるのは、余り手柄にもならぬらしい。学者にとつて口と筆とは大切なものだと聞き及んでゐるが、余りに演説をしたり文章を書いたりすると、日本では学者としての信用が墜ちる場合があるさうだ。

 専門学科と云ふものは、大きい基礎の上に建てて欲しい。普通人に普通教育が必要ならば、学者にも専門学者としての普通教育があらう。兎の睾丸の研究に五年十年の歳月を費しながら、学会に出て演説一つ出来ない人も貴いものには相違なからうが、演説が上手だからとて学者の値打を疑ふ理由にはなるまい。文章が巧いからと云つて、浅薄な知識を筆の尖で胡魔化してゐると(そし)るのは馬鹿げてゐる。話しは違ふが、或所に撃剣と俳句と眼科医術とで有名な人があつた。世間では其人を目して、あの男は三つのうち一番下手な医者をして飯を喰つてゐると言つた。これは如何にも日本人が最も喜んで傾聴し信用しさうな評語である。

 此点に於て英仏米の学者には趣味能力の甚だ多方面な人の多いのは、学風の然らしむるところとして毫も怪しむに足らないが、我が国で崇拝せられる独逸の学徒でも、必ずしも所謂専門式の人ばかりでは無いらしい。特に著しい一例を言へば、ヘルムホルツの如きケエニヒスベルヒ、ボン、ハイデルベルヒの諸大学に歴任した生理学の泰斗として世界に誰知らぬ者もなかつたが、伯林(ベルリン)大学に就任しては物理学の教授としてその方の無数の論文を公にした。それのみか一方政治界に現はれては、(さすが)の鉄血宰相を手古摺らした程の豪の者であつた。「専門センス」のみの貴ばれる日本の学界からは、こんな物騒な人物は当分先づ出さうも無いから安心して好い。但し日本にも、徳川時代には新井白石のやうに文章も達者で、史論にも考証にもすぐれ、また政治上には経世家として立派な論策を立てた人も(すくな)くなかつたのである。

 談は岐路に入つたが、文学の方面に於てすら、文筆に秀づれば学者としての造詣を疑はれるのだから面白い。漱石先生は小説家として余りに偉かつたために、英文学に於ける素養に就いて兎角の評をする者があることを私は聞いた。そしてまたかと思つた。さういふ人は、試に遺著のうち「十八世紀文学評論」の第五編ポオプを論じた一章を通読せられよ。外国文学に対してあれだけ手際好く独創的の論断を下し得た人を、寡聞なる私は日本に於て未だ一人だも見たことは無いのである。

 同じく文豪小泉八雲氏が、学者としてまた教師として如何にすぐれた素養と技倆とを持たれたかは、この数巻の講義集を読む者の(あまね)首肯(しゆかう)するところであらう。教室の人としての先生の努力と、文藝批評家としてのその鑑識の凡ならざるとを語るに、無言の雄弁を以てせる此講義集の出版を、私はまたかかる意味に於ても賀すべしと為す者である。

 聴講学生の筆記を借り集めて、校訂し上梓(じやうし)した此数巻の書を得て、いま太平洋彼岸の読書界は頻りに之を嘆賞し讃美してゐる。優婉の筆を(ふる)うて異邦の風物説話を叙するに秀でた散文家の半面に、今はじめて思ひ掛けなくも、文藝批評家としての勝れた先生の力量を認めたからである。先生が半生の心血を注がれた労作のかげに、かくも貴き遺業の今まで世に知られずして潜めるを発見したる西人の喜びは、思ふに古器の愛玩者が珍らしい掘出し物をしたよりも以上に、遥かに深く大なる意義あるものでは無からうか。

 憶ふ、明治三十六年某月某日、先生は遂に東京の文科大学を去られた。これほど立派な講義を()られた先生、教師としても精励恪勤の人であつた先生、学生の尊崇敬慕を一身に集めて居られた先生、此人あるがために常時私たちの母校が世界に知られてゐた程の此の先生をして、遂に去らざるを得ざるに至らしめた者は、……(ああ)、私は之を言ふに忍びない。

 文豪としての先生は世界が之を知つてゐる。先生の文を論じその人を伝したものは、英米はもとより独露仏伊の諸邦に甚だ多い。英文の評価としてはジョオヂ・グウルド、イリザベス・ビズランド、エドワアド・トマス等の数種の書がある。ただ英文学教授としての先生の一面が未だ多く世に知られざる事を(うらみ)とし、講義集の上梓を機として敢へて此拙劣なる一文を草した。歳末歳始の忙中に閑を(ぬす)み筆を走らして成れる、かかる粗奔蕪雑の文字は、いま東京雑司ヶ谷の天台宗寺院自證院の墓所に、安らかに眠らせ給ふ先師に対しても(まこと)に申訳なき事だと思ふ。

 

(大正七年一月)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/04/05

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

ePubダウンロード

厨川 白村

クリヤガワ ハクソン
くりやがわ はくそん 評論家 1880・11・19~1923・9・2 京都市柳馬場に生まれる。1901(明治34)年9月京都三高を卒え東京帝国大学英文科に入学、小泉八雲、夏目漱石、上田柳村に学んだ。恩賜の銀時計を得て優等生として卒業、熊本五高から京都三高教授に転じ、『近代文学十講』は古典としての盛名を得た。隻脚となる不幸を超えて活躍したが、関東大震災の津浪により惜しくも没した。

掲載作は、1919(大正8)年刊『小泉先生そのほか』に、「近刊の講義集を読む」と副題所収の一編である。

著者のその他の作品