幕廷にては軍国の仕来りにて殊の外に目付の役を重んじたり、抑も此官は禄甚だ多からず、位甚だ高からずと雖も、諸司諸職に関係せざる無きを以て、極めて威権あり、老中始め三奉行の重職と雖も、鑑察の同意を得るに非ざれば事を決行する能はず、或は其見を殊にする有るを顧みず断行するあれば、鑑察は直に将軍或は老中に面して啓陳するを中阻する能はず、去れば人の以て仕途の栄とする者鑑察に過る無し、但其漢土古代の諌官に異ならず、梗直敢言を以て職としたれば、其罷黜転遷も亦極めて亟かなりき、鑑察の権此の如く朝に行はれしかば、政事の改更ごとには必ず先づ此局を一変し、然る後諸司に及ぶが故は、諸司風を聞て廷旨の有る所を知り、迎へて自ら釐革するを得策と為すに至れり、其の人を得ると得ざると、一世の盛衰に関するの職たる知る可し、
嘉永年間、米舶渡来する日の如き、外国関渉一大変事に当り、満廷震動し、始めて非常の撰を行ひ、人材登庸せざる可からざるを以て、父子共に職に在れば其子たる者賢と雖も父に超ゆる能はざるの旧規を改めて、堀織部永井玄蕃岩瀬肥後の三人を擢んで鑑察とせり、皆曽て予と同年に学試を経て科に登りし者なり、此時に至り廷上二三の人、始めて九州の外猶ほ九州ありとの説、全く妄ならざるを悟りし程なりき、
堀氏の事は世に謬説を伝へ信ずる者あれば後に弁駁す可く、永井氏は今猶ほ現在し、直に就て聞くを得可ければ語らず、今特に岩瀬氏の事を挙げて述ぶ可し、
岩瀬君、初の名は愿、後改めて震、字は百里、其築地に居るを以て蟾洲と号し、官を褫はれ、墨水に蟄するに及びて鴎所と号せり、人と為り明断果決にして、胸次晶潔更に崖岸を見ず、其朝に立つや知て言はざる無く、言て尽さゞる無く、能く人才を鑑別して各々其技倆を展るを得しめしかば、人の之に帰嚮する者も多く、随て亦派を殊にする輩の之を疾悪する者も極めて多かりしが、其幕末萎靡不振の日に方り、士気を鼓舞し俊才を撰抜して、一時天下をして踊躍憤起せしめたるを、其功推して第一等に置かざる能はず、今其一二を語れば、荷蘭の観光船を贈りしや、矢田堀景蔵、勝麟太郎(後ち天朝に事<つか>へて参議となる)を不動の小普請より|抜擢し、其人に従て其技を学習せしめ、其他平山謙二郎、河津三郎太郎を収めて、配下に置き、下曽根金三郎、江川太郎左衛門に洋砲訓練を任じ、箕作玄甫、杉田玄端を挙て蕃書調所後ち開成所と改むの教官とし、儒官古賀謹一郎(筑後守沙翁)が漢儒にして、傍ら横文に渉るを以て其督と為すの類、殆んど枚挙に暇まあらずして、松平河内、川路左衛門、大久保右近(今天朝に事へて議官となる)水野筑後、竹内下野の類、宿耆長者比肩儕輩と雖も、苟も志経国に存する者は誠を推して親交せざる無く、傍ら各藩有為の人物を延き、城府を撤して協心戮力し、以て国威を拡張せんことを一身に担負したり、
当時英仏魯米を概して一に之を毛唐人と称する蒙昧の政廷に立て、弥縫周旋し、衆を開明に導き国を無欠の金甌に全くせんと企図する、其摧心労力幾何なりしや、今日之を想ふも決して千百の十一に至る能はず、此時全国の横文学者僅に荷蘭一国の書を読み得て、訳司も亦其国語に通ずる者のみなりしかば、多方開説して世間の学者に、英書を読み英語に通ずるを創めしめたり、
初め米国ハルリス航来して、和約貿易の条例を議定せんとするに方り、満廷逃避を以て高趣と為し、振て一人の能く負担する者無く、皆手を拱して尽く君を推す、君於此断然一身を抛て犠牲と為し、自ら任じ辞せず、往復論弁燭以て晷に継ぐもの数閲月、始めて稍や貼定する所のもの、乃ち安政年の条約なり、今日より之を見れば其加刪を要する者数十にして止まざれども、顧みて往時に溯れば一身の利益得喪を忘れて、国家に点汚せざらんと謀る、苦心の一端を見るに足る可し、」
条款草成るの日、大に諸侯伯を大城に召し、大老井伊掃部頭直弼代りて旨を演べて云く、今日各方を徴すは他の故に非ず、和親貿易は当今世界公同の事避る能はざる而已ならず、其法を得れば富国強兵の基と為すに足り、之に反すれば禍乱立処に至る、其間髪を容れず、委細は鑑察岩瀬肥後に演述せしむれば、得と聴かれて後各伏蔵無く其意を述べられよと演べ、於此大老退き岩瀬君代り進て、其顛末条理を細説するに、言辞明朗、少渋晦無ければ、聴衆悦服し唯々諾々敢て一辞を措く者無く、皆其説の時世に適して宜く然らざる可らざるを讃し、其旨を謹領して退かれたりしか、何ぞ料らん既退の後数日各自意見書を出すに及んで、尽く前日の言に反し、粗暴軽忽前後を顧慮せず、殆んど乃公の事を破らんとする者多かりしかば、君大に驚き、始めて其書の悉く臣下の手に成り、君侯と雖も之を制圧するの権無きを悟り、衆侯伯中に就て、其聡明にして威権あり、能く臣下を服従して共に当世の大事を談ずるに足る者を得て、其力を仮るに非ざれば済す能はずとし、水戸老侯、松平春嶽、鍋島閑叟、薩摩世子、土州容堂諸公に説きしに、五公能く其説を容れ、其人を敬信せしかば、君の声望於是漸く世間に高し、
然るに一大珍事の出来して君が禍を得しは、全く深く国家を憂慮するの誠心より出て、尤も憫むに余り有る事にして、之を言ふも猶ほ余潜に勝へざるは、十三世将軍家定公(温廟)性多病にして言語了々たらず、此多事の日に中り、内は列藩の人心を鎮めて、外は各国に応ずる能はず、宗室中を歴観するに能く時望に叶ひて、以て今日の任に勝ゆべき者、唯一個の一橋君あるのみ、特に天下願望する所の水戸老君現に其親父たれば、意を決し諸官一同上請して以て、温廟老を告げ一橋入て嗣君となり玉へば、政令途を殊にせず、賞罰多門に出でず、以て始て此屯蹇を経て康衢に達するを得可しと、親を立るの衆議を排して賢且長を立るを今日の急とするを発言し、閣老参政も大半嘉納し、天下有志の士も亦粗ぼ泄聞して、大に喜び、国威一たび屈するに似たれども又伸び、日月晦からんと欲して又再び明なるに至らんと、瞻望冀仰して其時の至るを待ちしに、何ぞ料らん其言未だ上つるに及ばざるに、温廟脚気病に嬰り玉ひ俄に大漸に及ばれしは実に千歳の遺恨なりし、此に於て前に君に排せられし説再び勢を得て、遺旨を奉じ賢且長を置て親を立るに決したるなり、」
是より前、米国「ペルリ」の始めて浦賀へ渡来する日に先だち、慎廟は強く暑に中り玉ひ衆医手を尽したりと雖も、追日疲労し自ら起つ能はざるを知り玉ひたれども、押て老中に接し此回の大事は開闢以来の珍事にて実に深く憂悶せるが、不幸にして大病に侵され如何ともする能はず、付ては水戸隠居は年来海外の事に苦慮煉熟する所なれば、定めて能き了簡も有る可ければ、予死後外国所置の件は、隠居に量りて所置あらば大過無かるべきなりと言置かれしか、其夜来米舶内海へ乗入りたるに付深更に及び宿直側役より、唯今伊勢登城(老中阿部)引続き、唯今備後登城(老中牧野)と上申するを聞玉ひ、直に此へ呼べと言ひながら肩衣々々と呼求め玉ひたり、此時慎廟体既に疲れ神既に困じて漸く恍惚たられしかども、猶ほ扶けられ玉ひ、強て端坐し肩衣を着て直に老中を召し、其言ふ所を聞んと為し玉ひしか、米舶又乍ち外海に出るの再報を得て、両老謁を請ふに及ばずして退き、慎廟翌日休息の室に薨じ玉ひたり、(休息所は所謂路寝便殿の類にて、老中と雖も入るを得可らず、又肩衣を着ざれは病中と雖も、老中に接する能はざるを見るに足る)夫より遣命を以て、水戸老公を召し、老体大義ながら隔日登城し、新将軍外事の顧問に備はる可き旨下り、老公委々命を奉じて城に登られたりしが、如何にせん公は年来士を練り卒を訓へて外国を獣畜視し、唯志を膺懲の一辺にのみ向けありしより、円孔方枘
にして其説また当世に適せざれば幾くも無くして止め、軍艦旭丸(俄に厄介丸)を製造するを督せられしか、岩瀬君屡々見へ、漸を以て開説するに、今日の外国は古戎狄に非ざるを以てせしかば、老公固より英明の質大に感悟せらるゝあり、始めて己を知らず彼を知らざる無謀の戦を為して、徒らに国家を牋害するの甚だ畏る可きを回顧せられ、和親交易の断乎として易ゆ可からざるを允し、君に語られしに譬へば良家に美女子あり、人の強て婚を求むる者あるも、我之を拒み辞する再三に至り、彼の求むるの情願益懇に益迫るに至り、漸く始めて之を許せば、其伉儷却て厚く、多情の人の速に応ずる者に優るが如し、我国外交を拒む二百年の今日に至り始て之を許さば、彼此の交誼必ず濃厚に至るの益ある可しと申されたり、」
老公既に自ら外交の止む可からざるを許す、此に於て宗藩外藩に説くに、尾州越前を始め皆大に其説に信従するに至る、乃ち前に挙る所の数侯の如し、然るに老公の股肱にして、大義を知り一藩の信服を得て能く之を率導するの士に、藤田虎之助(東湖)戸田銀次郎(蓬軒)なる者あり、共に是迄老公を左右し、鎖攘の説を唱へしが、老公説を改められしより、二人も其高見に服し、己が説も亦改め、力めて衆士に説諭するに、時勢然らざる能はざるを以てし、漸く嚮者の轍を換へしめんとするの日に方り、非常の大震あり、藩邸家屋を傾覆し、両人一時に圧死せられ、老公の意終に遍く一藩に敷くに及ぶを得ざりしより、其一朝にして俄に両翼を失ひたるを此上も無く歎息せられたりし、
其後温廟の世々未だ幾ならずして昭廟儲副と定められしより、水戸老公を始めとし、尾州越前土州の諸侯、凡そ平生君が説を是とせし者、皆大城に会し大老と議論ありしを、大老一切聴かざるのみならず、退城後直に老公、一橋公及び他の数侯、凡そ君が儲副論に意を同ぜし朝紳、高下大小一網打尽し、褫位奪職終身を禁錮し、乃ち野に在る志士も連累せられて、或は刑せられ、或は逃亡する者数を知らず、君は固より首唱の罪を以て厳譴を蒙り、屏け且つ坐せられて人と歯するを得せしめられざりしより、墨水の別墅逵雲園に蟄し、日々唯毫を揮ひ書画を認めて、幽娯とせしか、後少く弛まり、一二の親友時として訪ひ来る有るのみ、其余は一切拒て逢はず、一年余積鬱疾を為し、多く血を喀て死せり、今在たらんには六十一歳前後なるべければ、其時は四十歳頃なる可し、」
君罪せられて後、幕朝の事語るに足らざるのみか、衆怒り人叛き、継て桜田(門)の事(変)ありて、親藩の臣を以て天下の執政を暗殺戕害せし端を開き、裴度武元衡の蒙りし惨禍を演ぜしより、鎖港攘夷の目は変じて尊王攘夷(老公撰弘道館の碑中の語なりとか)と成り、鑑察の数は増加して終に二十八人迄に至りしか、威権見識共に痛く落て、幕廷を終る迄復た記するに足る者無きに至れり、
大老既に水戸老公始め総て己の見に異なる者を排斥■撃し為めに大獄を起し、遺類を芟除し、諸司百官尽く更新して、門客に斉しき者のみを任じたれば、爾時赫々の威は殆んど飜山倒海の勢を為し、挙朝屏息足を累ねて立つの思を為す程にして、随分恣意跋扈とも名付く可き人なりしか、唯余人の成し能はざる一の賞す可きは、外国交際の事に渉りては、尤も意を鋭くし、敢て天威に懾服せず、各藩の意見の為めに動かず、断然として和親通商を許し、然る後に上奏するに在り、此一事たるや当時に在りては天地も容れざる大罪を犯したる如く評せし者多しと雖も、若し此時に当り一歩を謬り此断決微りせば、日本国の形勢は今日抑も如何なる有様に至りしならん、軽く積りても北海道は固より無論対州まれ壱岐まれ魯亜英仏の為め勝手に断割され、内陸も諸所の埠頭は随意に占断され、其上に全国が背負ふて立たれぬ重き償金を債られ、支那道光の末の如き姿に至り、調摂二十余年を経るも、創痍或は本復に至らざる可く、独立の体面は迚も保たれまじく思へば危き至極にて有りしか、所謂神国の難有さは、祖宗在天の霊其衷に誘きしと見へ、人心危疑恟々の日に当り、大老断然独任し胆力を以て至険至難を凌ぎたるは、我国にありて無上の大功と云ふ可し、
大老曽て云ふ、岩瀬輩軽賎の身を以て柱石たる我々を閣き、恣に将軍儲副の議を図る、其罪の悪む可き大逆無道を以て論ずるに足れり、然るを身首所を殊にするに至らざるを得るは、彼其「日本国」の平安を謀る、籌画図に中り鞠躬尽瘁の労没す可らざる有るを以て、非常の寛典を与へられたるなりと、大老の他の政績に就て見れば、此一言は真に別人別腸より出たるが如し、
大老既に僨れ、次て柄を執る老中安藤対馬も能く前事に懲りて恐怖せざるのみならず、最も能く心を外国事務に尽し、力めて国家の大体を維持し、米のハルリス、英のアールコック等に接して、談鋒毫も沮滞せず、又屈撓せず、彼の肆横を折き、彼の侮慢を挫き、詞気凛然として能く彼を懾服せしは、当時其下に立ち事に任じたる者の存して、今に在る者の皆能く識る所にして、決して予が一人の私断にあらず、謂つ可し徳川の世に立ち、能く外使に専対するに堪へて耻る無き者、唯対州一人有りしのみと、後に至り朝旨を以て彦根岩城二藩の封を削られたれども、幕廷其保国の大功を没するに忍びず、陽に其旨を奉じ陰に庇護して、故の如く之を給し、唯其名を改めて委託地と為すのみなりし、(後に阿部豊後の白川、松前伊豆の梁川亦此例に因る)
幕末の政、乍ち鎖港攘夷、乍ち開国と屡々替り、其度毎に有司の黜陟変遷はありしが、其実鎖攘は脅迫せられ止むを得ざるに出でゝ真情に非ず、政家の精神は常に存して開国の一遍に向て在りしかば、岩瀬君が時の老中阿部と共に、最初に決したる和親交易は、大老も改る能はず、其後を受たる老中も皆奉じて徳川の世を畢りたれば、宜べなり常に之を仮りて上み天朝と、下も人民とに責られて逭るゝ能はざりしを、
安藤対州が坂下の災は、不思議に其傷重からず、日を経て全癒せしかば再び出らる可かりしが、時益々蹇厄に趣き、剰さへ蜚語の天聡を誤るありて、幕廷憲宗の断無きにあらざりしも、裴度復た相たるを得ざりし、」
此時に当り、一賊の和学者塙次郎を暗殺する者あり、詞を藉くに隠に対州の命を奉じて、北条氏廃帝の旧例を点検するを以てし、又外国奉行堀織部が屠腹自尽の事を牽強して、対州専ら外人に密比親眤し、愛妾を以て英使アールコックに与ふるを許すと苦諌し用ひられざるに因て、刃に伏し以て意を致すと為し、偽作の諌書一篇の漢文世に行はれ、衆人其の死を憫み、墓に賽する者陸続として香花常に堆きに至れり、今日の情を以て見るも、外人に贈るに我が妾を以てするの理あらんや、仮令我之を贈るも彼豈に之を快受せんや、況や織部は予が同学の人、其技倆に於るも能く知悉する所なるが、決して今伝ふる諌書の如き漢文を作る能はざりき、別に伝ふる所に拠れば此時偶々夜に乗じて魯国士官を市中に暗殺する者あり、織部が臣窃かに其党に与したるを以て後に偵知し、織部大に驚き自ら其罪の免かる可からざるを懼れて以て此に及ぶなりと、此説或は是ならん、(織部曽て箱舘奉行たり、任所に在るの日、偶々仏船の港に入るありしが、久航中病者の多きを以て時刻を限り上陸して情を慰するを請ふ切なりしかば、是時猶ほ之を許さゞるの規なりと雖も、特に其情を憐み之を聴せしに、何ぞ料らん水夫火卒等縦まゝに瓶酒を携へて、樹陰石角に倚り沈酔僚倒、或は高歌漫歩せしより、織部其初請に殊なるを見て、一は怒り一は憂ひたり、蓋し其怒る者は外人の我が約束に従はざるを怒り、憂ふる者は幕廷の聞て譴あらんを憂ひてなり、此夜室を闔ぢ自刃せんと為せしが、僚属早く其色常ならざるを察し、解謝勧諭百方力を尽して漸く止るを得たりし事あり、平常広量の様なれども、事に臨み意外に小心けい(難漢字は、軽ノ扁ガ、石)果の人なりしを知る可し)、」
此より後に進む所の幕臣は、皆庸碌の人にして更に称す可きを見ず、一の小栗上野ありて、大に理財の一分丈けは得たりと雖も、積贏の余復た如何ともする能はず、唯百方日に増すの費用を窮乏中に斡旋し、智力を竭尽して幕世を終る際迄を供給せし事に止れり、去れども其施為の巧妙は他人必らず及ぶ能はざりし、
慎廟の世、老中水野越前守が造る所の金銀の大分銅は、予其量数を詳にせざれども、多分五七百万円余に抵る可かりし、彫する所の文は軍国需用の四字なり、(時の勘定奉行岡本近江が定め且つ書する所なり、初め大学頭林皝に命ありしが其撰字の雅にして俗に遠きを以て改めて近江に命ありしなり)後ち本城再災後の建築に方り、井伊大老彼の分銅を以て其費に充んとし、其然否を時の勘定奉行竹内下野に謀りしに、下野拒む能はず、其旨に応じて之を許し出せしかば、於此国帑全く底を払へり、
幕廷既に憚る可きの人と、憚る可きの実無ければ、四方の侮り競ひ起り、鎖港攘夷の説益盛にして、倍撃するに朝旨に忤り膺懲の典を正す能はざるを以てし、儒者は経典に拠り異端の害を説き医者は素霊に泥んで施治の乖謬を論じ、其他神道者、和学者、僧仏者、武夫剣客、皆各国の為めにするを知らず、只己の為にする而已の一偏の見を執り、咻して止まざれば、是非渾乱殆んど天下を挙て弁別する能はざらしめたり、此に於て幕臣中往々其説に傾き、隠に草莽に結て紳士を脅制し、以て己の説を売て進陞を希図する者あり、或は其職に居り其禄を食みながら鉗黙容を取り、物外に超へて烈子の風に御するが如く、冷然として善き者も亦多かりし、
幕廷の知力両ながら此に至て極まり、遂に駙馬将軍をして楚の懐王秦に入りて還らず、客土に憂死するの想を為さしむるに至りしは、其臣子たる者天に叫び地に哭するも及ぶ無し、豈に悲からずや、
叡聖文武なる我が天皇陛下は時世を洞観せられ、明治元年一月十八日を以て明詔を下し、外国交際の今日に已む可からざるを以て、断然決行和親通商するを天下に告げ玉へり、是に於て曩者攘鎖の局面全く一変し、天下智愚賢不肖と無く、雲霧を一洗しぎよう然(再現不能)として始て聖旨の有る所を知り、旧幕府の因循姑息を以て罪斥せられし者渙然氷釈し復た痕を留めず、然して岩瀬君の志始めて墓木既に拱するの今日に至りて伸ぶ、蓋し君之を嘉永の昔に首唱し、幕府終始之を遵守し、駙馬将軍坂城に在り、曽て辞職を乞ふの日之を疏奏すと雖も、皆時未だ至らず、人天共に和せざるを以て行はれず、前後幾多の志士を屈抑冤枉以て死せしむるを致せしが、遂に数年を経て其志を達せしは、真に全国の洪福なりし、予時に仏都巴里に在り、此信を得て大に喜び、為めに薁酒数硝を倒す、然る所以は其十数年来幕府因襲の大功なるを、海の内外に誇揚明言するを得たるを以て、復た一身一家の存亡を問ふに暇あらざりし、
夫れ鎖攘の断々乎行はる可からざるは智者を俟たず当時皆之を知る、況や時を濟ふに足る堂々たる英雄、中興王佐の才にして豈に之を悉さゞらん、然るに猶ほ忍んで之を為し、必らず明治元年一月十八日を待つ者他無し、要するに姑らく藉りて以て幕府を倒すの具と為せし
に過ざるのみ、」
予曽て天下の人に反するの論を為して云く、幕府の失政中其尤も大なる者は晩く鎖攘せざるに在らずして、早く鎖攘するの甚しきに在り、夫れ唯鎖攘する早く且つ甚し、故に其書を禁じて読ましめず、其人を遠ざけて近けず、独り此法を以て是とするのみならず、併せて国内の人材を鎖攘し、前に高橋作左衛門、土生玄碩を鎖攘し、後に渡邊崋山、高野長英を鎖攘し、以て計を得たりとし、特に従政者のみならず、全国を導て固陋蒙昧に陥れ苟も生を人間に得る者、海外各国の事を云ふを恥ぢ且つ恐るに至らしむ、況や不幸にして二百余年間事無かりしかば
、人々之に安んじ恬として恠まざりしが、一旦事不意に出るに及び、復た掩覆収拾す可らざれは、予め之が地を為すに及ばず、俄に已むを得ざるの三字を以て、無量の前過を包蔵して、更新の後図を粉飾せんと欲する、宜なる哉神人共に怒り、其誣罔を容れざりしを、是れ幕府自作のせつ(薛ノシタニ子)にして、君が才識君が雅量ありしと雖も、一趺起きず憂愁抑鬱を以て其身を終る所以なり、然れども是君の罪に非ず、特に不幸にして其際会然るなり、