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フェンスの中

   1

 

 砂地に埋まっている枯草の株を踏みしめて、低い堤の斜面を駆け下りると、舗装した道路が松林の間を縫って長く前方に続いていた。砂の上にのばした帯のようなその細い道を辿って行くと、松の枝に遮られて見えなかったフェンスの囲いが、いきなり目の前に現われた。堤から海ぎわまで続いている高いフェンスの向こう側には、青い芝生の上に白い瀟洒な家が点々と建っている、夢かと思う世界が広がっていた。

 沈んだ色調の、緑褐色のペンキを塗ったゲートの小屋から男が出てきた。濃紺色の制服を着ているので守衛だと察した。二ヶ月前まで由起が勤めていた、米軍の検閲局の守衛と同じ服装をしている。

「誰かに面会ですか?」

「いいえ、ここで働くことに決まった者ですけど……」

 ホウ、と、守衛はまじまじと由起を見つめてから、手に提げた布袋にチラッと目を走らせた。防空壕の中で焼け残った更紗の布に木口をつけて縫った袋は、肌着などの衣料で膨らんでいた。

 由起はコートのポケットから、斡旋所でもらったカードを取り出した。

「スティーブ・アレン。サージャントか」

 守衛は不審な面持ちで、ふたたび由起の顔と、着ている大柄なグレーの地の市松模様のコートを、無遠慮に眺め廻した。

 大丸百貨店で、高い所に一着だけ派手に吊るしてあったのを気に入って買ったものだが、八千円のコートは、たしかに女中が着るにしては上等過ぎた。アシスタントだった由起のサラリーは六千円あまりで、世間一般の女の賃金よりは高額だった。三十五、六歳に見える守衛は、おとなしそうで、どこといって特徴のない整った顔をしている。米軍関係の職場に勤めている、日本の男によく見かけるタイプだった。

 守衛の後ろについてゲートの前を通り抜け、曲がりくねった白いカーブを、芝生の上に描いている舗道の上を歩き始めた。道は途中で枝分かれして、家々の二段の階段がついた戸口に届いている。絵本の中でしか見たことがない豪華な住宅地の風景だった。一軒の敷地はおよそ三百坪ぐらいだろうが、塀などの境界物がないので広々としている。白いペンキ塗りの二階の出窓の形や、装飾的な桟のデザインがモダンだった。どの家の横壁の上部にも、小さめの黒い数字の番号が形よく並んでいた。

「入口に近いところが将校の家ですわ。外出するのに便利やからです。奥へ行くほど階級が下がって、サージャントは一番奥の端ですよ。家もこれらよりちょっと小型ですわ。ここに住めるのはサージャントからです。」

 由起は守衛が言わんとしていることに、およそ察しがついていた。同じメイドとして働くのなら、将校の家に雇われた方が得なのに、と。

 守衛は寒そうに背中を丸めてとぼとぼと歩いていた。一軒の家を通り過ぎるのに時間がかかるのは、道がほうぼうで迂回して曲がっているためだった。伐採された松の低い小卓のような切り口に、薄い冬の午後の陽射しが白く溜まっていた。進むにつれてその数はおびただしく増えていった。道はそれらの松の切り株を避けて不自然に曲がっているのだった。

「惜しいですね。立派な松林だったのに……」

 かすかによぎる後悔を払うために、由起は活発な声で男の背中に話しかけた。

「ああ、アメ公は無茶しよるからね。ぼくら子供の時分から浜寺に泳ぎにきとったから、この辺はよう知っとりますわ。これくらいの松やと大きうなるのに五十年はかかるやろね」言い慣れているのか、気のない口ぶりだった。口先では非難しながらも、生計を米軍に頼らねばならない男の負け惜しみが、肩を落とした後姿に淡く滲み出ていた。彼は多分、軍隊にいた経験があるのだろう。

 守衛は、舗道の上を這っている太い繊維状の枯芝を、片足で芝生の方へすり寄せながら、

「手入れが悪いナ」と呟いていた。遠目には整然と刈り込まれて見える芝生は、随所に細い蔓が、もつれた毛髪のように固まって絡み合っている。舗道の表面もセメントの量が足らないために、砂利が洗い出されたように露出していて、ところどころ小さな穴があいていた。

 この浜寺の、米軍宿舎が出来てから四年近くの年月が経っていた。

 

「……ミセス・アレンは日本に来られてから、まだ半年にしかなっていませんが、日本人を理解しているし、大変よい人ですので心配は要りません」

 本町の綿業会館ビルが接収されて、進駐軍関係の仕事を斡旋する課が出来、面接した係官は由起の出身校の英文科の卒業生だった。由起の学年と、すぐ上の学年には英文科はなく、二年上の上級生だった。校内で見かけたこともあり、向こうも由起に見覚えがある様子が、固い表情の奥に窺えた。

「どうして、メイドなんかに志願されたのですか?」

 裁判官が坐る席に似た、一段高い所の光沢のある大きな机越しに、履歴書から目を離すと、同窓生は苛立たしそうに眉を寄せて訊いた。不愉快そうでもある。大方、学校の名誉にかかわるとでも考えているのだろう。

 英会話を習おうと思って、という由起の返事を、そう、と軽く嗤って受けてから、あなたは軍曹の家庭に行くことになりました。受付けの順番ですから仕方ありません。軍曹が悪くて将校が良いということは決してありませんから。ミセス・アレンは日本に来られてからまだ……と、元の冷静な事務官の顔つきに戻って切り口上で言った。こんな馬鹿が時々おるから困る、と、秀才らしい知的な眼鏡の奥の目が、冷たく由起を突き放していた。

 彼女もあの学校にうんざりするほどいる権威主義者の一人だ、と、由起は反発と気落ちを覚えながら、席に帰ってミセス・アレンを待った。

 由起は順番を待っている間中、メイド志願者に親身な態度で接しながらも、てきぱきと要領よく捌いていく彼女を眺めて、新しい職業婦人のモデルだと感心し好意を抱いていたのだった。

 木製のベンチは固くて坐り心地が悪かった。天井の高い広い室内は暖房がきいていなくて、足元から冷気が這いのぼってきていた。一人、二人とはいってくるアメリカの婦人は、毛皮や厚いコートを着たままだった。中には、まるでペットを選りに来たような、気軽で、隠微な快感を押し殺した表情の女もいて、由起は思いなおして脱いでいたコートを肩に羽織った。

 由起の前後左右には、十人ほどのメイド志願者が坐っていた。由起と同じく初めてやってきた者もいるが、経験者も混じっていた。彼女たちは全員が、将校に雇われることを熱心に望んでいるのが、やがてわかってくる。アメリカ軍人の奥さんは、上の階級ほど人柄がよい。従って人使いが違うし、何よりも貰い物が格段に違うというあけすけな会話が聞こえてきていた。

「ウヮー、よかった。 嬉しい!」

 背後でけたたましく叫ぶ声がした。振り向くと、背の高いアメリカ人の男女の前で、志願者の一人が、胸を抱きしめた芝居じみた身振りでもって、歓びを全身で示しているのだった。

 黒い毛皮のコートに、すらりとした長身を包み、黒髪に白磁の肌のアメリカの女は、由起がかつて見たこともない美しさで、気品もあった。横の男は将校の軍服を着て、女に劣らず美男で颯爽としている。彼は、美しい妻の希望をかなえてやることの満足と誇りを、さり気ない態度の中に隠さなかった。

「サンキュー、ベリーマッチ」

 メイドの抱きしめた腕の先には、雇い主になった女主人からのプレゼントらしい白い小箱がしっかりと握られていた。

 この場の光景は由起にはなまなましい現実として迫ってきた。上級生の事務官が意地悪く軍曹を当てがったとは考えたくなかった。それよりも、将校も軍曹も同じだという観念的な決めつけ、メイドたちの生活感覚との大きな落差が強く由起を捉えていた。

 

「この辺りから曹長の家があってそれから軍曹ですわ。ここのハウスには将校はあまりいてませんわ。たいてい、郊外のでかい家を接収して住んでますからね。ここにいるのは下の方の将校か新任ですわ」守衛は由起を慰める口吻で説明していた。

「アレンさんとこは六一番ですわ。あと十五分ぐらいで行けますやろ。家を確かめたら道の突き当たりの寄宿舎へ行って下さい。まわりに松が二、三本あって、三階建ての古い家ですからすぐわかります。今夜はそこで泊まって、働くのは明日からになりますやろな」

 守衛の親切だが、どこか無責任で投げやりな口調は、由起を気楽で放恣な気分に誘い込んだ。それは検閲局のオフィスで、日本人の間にかもし出されていた空気と同じものだった。

 ゲートに帰っていく守衛に礼を言ってから、由起は家の番号を順に目で追って歩いた。別れた途端、わざわざ遠くまで案内してくれた守衛のやさしさが温かく由起の心に染み渡ってきた。

 陽は早くも微妙なかげりを、芝生や白い家の壁の上に投げかけていた。近くの家の裏庭で、張り渡したロープから、洗濯物をとり入れているメイドの姿を見かけただけで人影はなかった。

 風が初めて頬に冷たかった。潮の匂いを求めて、由起は鼻孔をふくらませて深く息を吸い込んだ。中空に漂う微細な潮の粒子は、匂うよりも乾いた気流となって、由起の鼻先をかすめ過ぎていくだけだった。

 

 扉を開けると玄関がそのまま広い居間になっていた。左方の壁に手摺りをくっきりと縞に立てて、階段がくの字形についている。居間に続いている奥の食堂で、少年が床に這いつくばっているのが、間仕切りの台の隙間から覗いて見えた。

「あのゥ……、アレンさんはいらっしゃいませんか」

 由起は狭い三和土に立って声をかけた。家の中は温室のように温かかった。聞こえないのか少年は顔もあげなかった。由起はしばらくの間、少年が熱心に絨毯を洗っている姿を、遠く眼をこらして眺めていたが、今度は声を張り上げた。

「ごめんください!」

「そんな所で突っ立ってないで上がれよ。靴はそのまま。足元の靴拭きでよく拭いてよ」

 顔をあげた少年は、四つん這いになった犬のような恰好でぞんざいに言った。最初から聞こえていたのである。言われるままに由起は丁寧に靴の裏をこすって居間に上がった。

 少年は絨毯を洗うのに余念がない様子でいる。彼の周囲の床は石鹸液を塗りたくった犬の毛並のように、長い繊維がよじれて白く泡立っていた。彼は泡を大きなブラシで力をこめてすくい取ると、そのあとを雑巾で丁寧に拭う動作を繰り返している。たくしあげた袖から出ている腕が太く逞しくて、子供じみた顔の印象とちぐはぐだった。コックが着ているのと同じ、胸に金釦が二列に並んだ白い制服が、晒したような白い肌によく似合っていた。

「凄いだろ。こんなふかふかした絨毯、君、初めて踏むのと違う?」

 仕事を続けながら自慢たらしく言った。由起は両手に抱えていたコートを、そっと居間の椅子の上に置いた。

「ええ、初めてよ」調子を合わせてから、検閲局のだだっ広い床を埋めていた、足音や話し声すら吸い取ってしまいそうな、深々とした絨毯を思い出していた。

「ほら、このブラシもアメリカ製だよ。洗剤もむこうのだからよく落ちるよ。ちょっと、そこどいて! もう少しで終るから」

 邪険に言われて由起はあわてて飛びのいた。力の要る作業なのだろう。少年の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。

 東面の壁の、細長い嵌め込みの明り取りから射し入る朝の光が、白い服装の少年の全身と、洗ったばかりの白い獣の毛並みのような絨毯を、淡い黄金色に染めていた。

「ぼくはこの家に雇われているボーイだよ。君は新しいメイドだろ。きのう来たんだって? マーサが、――奥さんの名前だけど、そう言っていたよ」

 少年は立ち上がると、素早く掌をタオルで拭いて右手を差し出した。ぎこちなく手を握り返す由起の姿が、食堂と台所の境の壁になっている大きな鏡に写っていた。由起は芝居めいた滑稽な場に踏み込んだ感じがした。

「ここの家はサージャント、つまり軍曹ってことは知ってるね。軍曹ぐらいではボーイとメイドは使えないんだ。けど、アレンさんとこは特別なんだ。ポケットマネーだ。金持ちなんだよ。最初はぼく一人だったんだけど、忙しいんでメイドも雇うことにしたんだ。君は二人目だよ。前にいた子は手癖が悪かったんですぐに追っ払われたんだ。君はそんな人ではないと睨んでるけれど……」

 居間に造りつけた階段下の縦長の戸棚の鎧戸を開けて、ブラシや洗剤の缶をしまうと少年は由起の前に立った。男にしては小柄で由起と同じくらいの背丈だが、肩巾の広い、がっしりとした体格をしていた。童顔で滑らかな白い皮膚をしているので清潔な感じを受ける。十五、六歳に見えるがませたもの言いや、抜け目のなさそうな茶色の眼を見ていると、もう少し上なのかもしれないと思った。

「マーサはパーマをかけに出かけているよ。いつもはまだ寝てるんだけどね。今夜もパーティーがあるんだ。ところで、君はこの家ではあまり仕事はないぜ。掃除はたいていぼくがやるし……、ぼくでないとマーサは気に入らないんだ。洗濯は大きいものは外に出してるよ。肌着はぼくが洗ってたけどこれは手伝ってもらう。料理はマーサが指示するから、まあ、後片付けだね。他にアイロンがけってとこか。君、英語出来るの?」

 少年のよく動く小さな赤い唇を見つめながら、由起は黙って首を横に振った。

「そうだろう。英語は難しいと思うけど慣れれば易しいよ。ぼくはこれでも会話は不自由しないんだ。いいよ。ぼくが全部とりついでやるから。君は話さなくてもいいよ」

 それでは困るのだけど、と言おうとしたが言葉にはならなかった。少年の軽薄な印象が由起を唖にしていた。

 二人は居間の椅子に坐っていた。アメリカ人の身長に合わせた肘掛椅子は、膝丈も奥行きも長くて、少年の躰は、揺り籠の中の赤ン坊のように心地よさそうに沈んでいる。

「どう? いい家だろう。こんなのアメリカでは普通なんだって。ぼく、マーサが帰る時一緒に連れて行ってもらうんだ。早く行きたいな。アメリカで勉強するつもりだよ」

 少年はうっとりとして眼を潤ませている。由起は家にいる高校生の弟を思い浮かべた。少年よりも背丈は大きくて髭など生えているが甘ったれの弟にくらべて、彼は健気だった。孤独な感じも強かった。

 居間は正方形に近く、十五畳ぐらいの広さだろうか。肱掛椅子が四脚と、五人は楽に坐れるソファー、テーブル、白い笠のスタンドが、磨きたてた家具の見本のように配置よく、型通りの平凡さと几帳面さで並んでいた。

 食堂との間仕切りの飾り台の上に、観葉植物の白い鉢が四つ、等間隔に並べて置いてあった。その人工葉とまがう、濃色の緑の葉の表面に、水滴が点々と光っているのを見つけて、由起は何故ともなく、ほっと安堵の吐息をついた。

 入口から這入って正面の壁に、大きな飾り棚が据えつけてある。日本の壷、クリスタルガラス製の巧緻なガレー船、首の長いワイングラス、藤娘の人形などが飾ってあった。地味な肌合いの上品な三個の焼きものの壷は、目利きのコレクターを思わせた。ホテルの売店ででも買ったのか、けばけばしい人形だけが、わずかにアメリカ人らしい好みを伝えていた。由起が一週間前に斡旋所で逢ったミセス・アレンの野暮ったい印象とこの飾り棚はうまく重ならなかった。

「あっ! いけねェ。立って! 早く」

 少年は押し殺した声で言い放って、玄関にむかって走って行った。次の瞬間には彼の姿は戸外に消えていた。まるで、ねずみが走り抜けでもしたようなすばしこい身ごなしに、由起は呆気にとられて立っていた。

 一週間前と同じネッカチーフに頭を包んだマーサが、少年に抱きかかえられるようにして這入ってきた。太り肉のうえに毛皮のコートを着ているので、子供にまといつかれている母親という感じだ。二人は互いに早口で喋り合っている。むろん由起には何を言っているのかさっぱりわからなかった。

 マーサの後ろに廻ってかいがいしく毛皮を脱がせ、それを階段下のクロークに掛け、台所に走って行ってコップに水を入れて持ってくる、と、少年の働きはそつなく目まぐるしかった。

 少年から受け取ったコップの水を一口飲んでから、やっとマーサは由起の方に目を向けた。不機嫌な茶色の目が、あらたに値ぶみでもするように、由起の全身をゆっくりと這った。初対面の時、同窓生の事務官の簡単な紹介に、ニコリともしない無愛想な態度が気になったが、ままよと決めてしまった。決められたというべきだった。権高な同窓生への反発もあった。愛想がよくて、やさしげなアメリカの女性が、内実もその通りとはいえない例を知っていた。

「グッド・モーニング」

 由起が自信をもっていえる言葉は最少のものだった。マーサは頷いただけで、指先で汚いものでも払いのけるような仕種をしながら、疲れた様子でぐったりと、椅子に坐り込んだ。

 椅子の背に頭を凭せかけ、顔をのけぞらせたマーサは、少年に鼻にかかる声で、二言、三言、命令した。

「イエス、イエス、エクスキューズミー」わかった、わかったといったそぶりで、少年は椅子の上に置きっ放しにしてあった由起のコートを取りあげると、由起をクロークの前に引っ張って行った。

「今朝はご機嫌ななめだよ。美容院が手違いで駄目だったんだ。君のコートをしまうぐらい俺だって知ってたよ。けど、勝手にやるわけにはいかんのだ。何事もマーサの許可を得てからだよ。これ要領だよ」

 マーサは日本語がわからないらしく、少年は平気な顔をしている。メイド志願者が声高に、将校の家がよいとやっていたのと同じである。

 メイドの分の制服の支給はないのだが、と少年が恩着せがましくいって渡してくれた制服を持って、由起は二階に上がって行った。背中にマーサの監視するような鋭い視線を感じながら……。

 上がると廊下になっていて、とっつきの左側の部屋の扉が少し開いていた。プールの底を思わせる真っ青なタイルの壁が覗いていた。その向かい側の部屋の扉は閉まっていたが、マーサ夫妻の寝室らしく思える。由起は廊下のつき当たりの小部屋に這入った。シングルベッドと簡素な椅子が一脚、サイドテーブルでほぼ部屋は一杯だった。テーブルの上に小型の置時計がある他は、飾りものも、日常品の小物一つも見当たらなかった。かすかに香料の匂いがする。それは少年が、てかてかに塗りかためていたポマードの匂いだと、由起は気がついた。

 脱いだものをまとめるとサイドテーブルの上に置いた。ベッドの下になど置く気持ちはなかった。由起はこの職業を選んだ時に卑屈にはなるまいと考えていた。誇りとまではいかないまでも、自分をありのままに示すことが、アメリカ人と接する一番の方法だと理解している。その点からいえばアメリカ人も日本人も違いはないのである。一年ほど勤めた検閲局での見聞であった。

 由起が、あさぎ色の木綿の、すっきりとした半袖のワンピースに着替えて、階下へ降りていくと、少年とマーサが声を上げて笑い合っていた。少年がマーサを笑わしているのだ。

「ハハハァ、アハハハァー」

 険しかったマーサの顔が一変して、朴訥な農婦のような赤ら顔になっている。ネッカチーフをとった髪の色はきれいな栗色だった。ふと、由起は、便利な文明の発達したアメリカの大都会ではなく、広大な玉蜀黍畑を渡る風の中に立っているマーサを想像した。由起は初めてマーサに親しみを抱いた。

「アンド……ローザ?」

「ノオ、ノオ」マーサがかぶりを振った。

「メアリー? メアリーがよく似合うよ」

 少年がはしゃいで手を叩きながら、由起を振り返った。それで二人は、由起のアメリカ名前をつけるのに興じ合っていたことがわかった。

「ノオ! フランキィ!」

 強い調子でマーサがピシャリと決めつけた。フランキィという名前がぴったりだと言っているらしい。マーサの鳶色の目が意地悪く翳り、不服らしい少年の表情から、フランキィなる名前がどのようなニュアンスを持つものか、ほぼ読み取れた気がした。艶っぽくも愛らしくもないのは確かだろう。好きにしたらよい、と由起はとっさに思った。由起は居直って言った。

「サンキュー」

 フウン、フウン、と外人がよくやる鼻音を連発して、マーサは鷹揚に頷いてみせたが、少しうろたえた様子で目を外らした。由起はふたたびマーサを捉え難く感じた。

「それで、君はフランキィと決まった。まあ、悪くはない名前だな」

 体よく態度を切り変えた少年は、老獪にも由起を丸めこむつもりらしい。

「ぼくはここではジョーだよ。日本名は、そのォ……、玉野義男っていうんだ。どちらもありふれた名前だろ。けど、なるべく君にはジョーと呼んでほしくないなァ……」

 少年は本名を告げる時、目を伏せ、口ごもってはにかんでいた。由起は彼が恥ずかしがる理由がさっぱりわからなかった。マーサと同じ程に、少年のことは五里霧中といわねばならなかった。

 

 ゲートの前から出る十時のバスで、大阪市内にあるPXに買い物に行くマーサを送り出すと、由起と義男はどちらからともなく顔を見合わせて苦笑していた。アメリカ女性の大仰な身振りや、これはマーサだけのことかもしれないけれど、底に警戒心をたたえて、過敏に動く鋭い視線を追っているだけで疲れを覚えた。会話の出来る義男も、その分だけ余計な疲労があるのだろう。

「君、ブレックファースト、朝食のことだけどすんだ?」

「いいえ」由起は正直に答えた。先程から由起は立っているのも苦しい程、お腹が空いていた。空腹がこれ程の苦痛を味わわせるのは戦争中の動員以来のことだった。昨夜は雇い主のマーサが申し込んでいなかったとかで、寄宿舎での由起の夕食はなかった。朝食は原則として雇い主の家で食べることになっているらしい。

「それは大変だ。お腹が空いただろう。ちょっと待って」

 義男はよく気がつく少年だった。彼は先に洗剤をしまった戸棚の上部の鎧戸を、我がもの顔な態度で開いた。中は幾段にも棚が細分してあり、大小のおびただしい数の缶詰めや、菓子類、料理の材料らしい紙箱が、溢れんばかりに押し込まれていた。それらの珍しい貴重な品々は、米軍のPXで売っていて、日本人の間にも高い値段で流されていた。一弗三六○円の日本円に換算すると驚くほどの高値だったが、アメリカ人には小遣い程度で買える食料品だった。もし、この戸棚を母に見せたら、と、由起は、遠い国にいる感じがする母を思った。コンビーフやチーズの缶詰め、ケーキの材料など母には猫に小判だろう。豊かさには感心しても、さして欲しがらないのではなかろうか。

「凄いだろ」義男が言った。口癖になっているらしかった。

「ここを満杯にしておくのがアメリカの主婦の務めなんだって。マーサは自慢してるけど、ちょっと欲も深いんだよなァー」

 彼は狙いをつけた手つきで、紙箱の山の間から器用にビスケットの箱と、チョコレートの板をするりと抜き出した。ビスケットはすでに紙蓋が破られている。

「案外ケチなんだ。こういう具合に盗めば、ほら、わかんないよ」

「盗む?」由起は思わずむっとした。

「まあ、まあ、いいから。黙って取るのは盗むのと同じ意味だからさ。波風を立てんことが第一です。何事も要領。君もそのうち身につくようになるよ」

 義男の瞳は、狡猾で鋭く、純粋でもある猫の目に似ていた。ガラスのように透き通って見えることがあるのは、肌の白さから推して色素が薄いのだろう。この少年を支えているものは、英語でアメリカ人と話し合える満足感だけなのだろうか。

 由起は敗戦で、それまで自分を支えていた道徳や、価値観が黒板に書かれた文字のように、あっけなく消されてしまったのを知った。だからといって、自身の行動や生き方を律している、自己の核のような美意識までも、消し去ったわけではなかった。少年の核は何だろうか。

 由起の舌は、甘味の少ないチョコレートをゆっくりと味わう余裕もなかった。前夜の残りものの魚の塩焼きや、野菜の煮付け、鉢に盛った漬物の並ぶ我が家の卓袱台(ちゃぶだい)が匂いまでも伴なってありありと目の前に浮かんでくる。戦争中から戦後にかけて幾度となく飢えを経験してきたけれど、このような飢えは初めてだった。今までの飢えはまだしも充たされる希望があった。親や工場に任せきって口を開けて待っていさえすればよかった。今はみじめな飢えだった。少年の手でなぶられたみじめさがあった。

「ミルク飲む?」保護者の顔をして義男が覗き込んだ。結構よ、と由起は断り、彼と同じ手段で英会話をマスターすることの意味を、晴れない心で考えていた。

 

 正午少し前にマーサは、茶色のハトロン紙の袋を抱えて帰ってきた。義男がコートを脱がせ、クロークにしまう手順は朝と変わらない。二人が交わしている作り物めいたゼスチュアーも、会話の様子も変わらなかった。

 居間のストーブに掌をかざして温まっていたマーサは、せかせかとした足取りで食堂のテーブルに近づいて行った。テーブルの上には、由起が磨いたナイフやフォーク、ガラスのコップ、皿などが揃えて置いてある。今夜のパーティーに使う食器だった。マーサはコップの端をつまんで目の高さにかざし、注意深く曇りの有無を調べていたが、ジョー、と厳しい表情で呼んだ。

「イエス、イエス」下部の空気抜きが鎧戸になった白い扉の陰から、義男がばねじかけの人形みたいに飛び出してきた。手早く彼は台所に紙袋を運んでいたのだった。

 マーサと義男の慣れ合った遣り取りの片言も、由起には聞き取れなかった。自分の鼻先を見ているような横柄な態度で、マーサは義男に言いたいだけを喋り、義男はイエス、イエスと低頭しながら、マーサを巧みに懐柔している感じだった。

 事態は最悪といわないまでも、由起に微笑んでいないことは確かだった。簡単に出来ると思った英会話の習得がここでは予想外の困難であることを悟らねばならなかった。

 マーサは由起への注意なり指図は、義男を通してやるつもりらしかった。フランキィというふざけた(と由起は思っている)名前をつけておきながら、彼女は由起の顔すらまともに見ようとはしなかった。

 由起はオフィスで直接の上司ではないけれど、メリーというアメリカ女性と毎日顔を合わせていた。ミス・メリーは洗面所で髪に櫛を入れるために、奥まった部屋から日に何回も由記たち机の横を通るのである。一メートル八十はある長身で、顔の小さい金髪の美人だった。美人だから髪の形が気になるのか、それくらい頻繁に鏡を覗くので美人になるのだろうかと、由起は本気で考え込んだことがある。毎日、必ず華やかな服を取り替えてくる日系二世の、お洒落な女たちを見慣れていた由起でも、彼女の過激な自得には呆れる他はなかった。

 英国のエリート大学を出たというミス・メリーは、例えばグリーンの柔らかな地のドレスに、金のベルトといった極めつけの服装をして、頬に微笑を絶やさない優雅なもの腰の女性だった。教育があり愛想もよいが、強い人種偏見の持ち主だと由起は直覚していた。日本人の間をねり歩きながら、決して話しかけようとはしない、その取り澄ました態度から感じ取ることが出来た。

 マーサは、ミス・メリーほどの教養もなく、一見してどこにでもいそうなアメリカの主婦だけれど、人種偏見は、ミス・メリーと同じ程度に持っているのだろうか。もっと頑迷で根強いのだろうか。由起は知りたいと思った。

「今日のランチは、オートミールだってョ。マーサはお腹が空いてないんだって」

 義男は肩をすくめて、仕方がないというゼスチュアーをしてみせた。朝食はビスケットに薄い一枚のチョコレート、昼食はオートミールとはまるで山で遭難したみたいだ。一瞬、由起は自分が何をしているのか、どこにいるのか、と、自問した。

 白いスープ皿に漂白したポテトチップスを盛り、コンデンスミルクをたっぷりとかけた食べ物は案外に美味しかった。量感も味覚ももの足りないけれど、すっきりとしたエッセンスだけの後味は捨て難いものだった。

 由起は義男と台所で、マーサは食堂で食べていた。一脚だけの丸椅子に由起が坐り、義男は立ったまま器用にスプーンを扱いながら、不味そうに唇をへし曲げている。

「ほんもののオートミールは、日本人には食べられん代物だよ。けど、ひでえや。こんな犬にやるみたいな食事で働かそうなんて。ちくしょう! アメ公の奴!」

 口汚なくののしると、お茶漬けをかきこむようにして一気にのどに流し込んでしまった。由起はマーサへの裏切りともとれる罵倒に驚かなくなっていた。あのゲートにいた守衛と同様に、義男も米軍関係の機関で働く日本の男に変わりはなかったのである。

 由起は犬並みなといって怒っている義男が、朝、這いつくばって犬のように見えたことを思い出して笑いをかみしめた。

 台所は三坪ほどの長方形で、裏口には網戸とガラス戸が二重についていた。プラチナのような光を放つステンレスの流し台が由起の目を奪っていた。大小二つある水槽がこのうえなく贅沢に見えながら、たちまちにその必要性を使う者に納得させるのだ。流し台に向かい合ってガス台が、ゆったりとしたスペースで四個のバーナーを並べていた。その下は大きなオーブンレンジだった。

 米軍関係のオフィスにいた由起は、真冬でも半袖のブラウスでいられる暖房設備には慣れている。しかしこの二槽の流し台と、四つもの火口を持つガス台には衝撃を受けた。由起は家の黒ずんだコンクリートの流し台と、二つの赤レンガのかまどを目に浮かべた。焼け跡に建てたバラックに近い家にはまだ市ガスは通っていなかった。三度の食事をつくるために、女たちはかまどの前にしゃがんで薪を燃やさなければならない。不便だったが、薪を入手することが大層な闇のルートを経なければならないので、目先の燃やす材料があることに喜んでいる始末だった。

 チョコレートや、派手な服にはさして羨望を抱かなかった由起は、この新しい設備の台所には、到底かなわぬものを読み取っていた。戦勝国のアメリカにというより、戦争が終わった直後に、このように便利で豊かな台所を持った家を建てさせる、アメリカ人への畏敬だった。アレン家が軍曹という進駐軍家族の中では、下位の階級なのが畏敬を深めていた。

 由起は義男に、この流し台やガスレンジはアメリカから送ってきたものだろうか、と尋ねた。ぼくはそんなことは知らんよ、と興味もなさそうだったが、マーサに訊いてあげるよ、と身軽に白い扉を押して出て行った。すぐに義男は戻ってきたが、後からマーサが何事かといいたげな表情でついてきた。

 今しがたマーサをののしっていた義男は、白い頬にえくぼまで刻んで、愛嬌たっぷりに彼女に話しかけていた。義男を好いているらしいマーサは、子供にねだられる母親の緩んだ顔つきになって、フン、フンと頷いている。会話を聞き取ろうとする努力よりも、二人の挙動に由起の注意は向けられがちになっていた。

 ガス台や流し台は日本の業者に注文して造らせたものである。残念なのは冷蔵庫で、アメリカ本国ではとっくに便利な電気冷蔵庫が開発されているが、日本はまだそこまで技術が進んでいない。やむをえず氷で冷やす冷蔵庫を使っているが、非衛生的で不便だ……どこか得意そうなマーサよりも、得々とした義男が通訳するのを、由起は神妙に聞いていた。

 

   2

 

 暗闇の中で宙に浮きあがって、ふわりと落ちて行く。由起は、またか、と思いながら、着地した時の床の固い感触に驚いて目を覚ました。

 ペンキを塗った腰壁に突き出ている小さな常夜灯が、四台並んだベッドの無数に見える細い鉄の脚を照らし出している。まるで、牢獄の格子がだぶって映っているかと思う、陰気な棒の影の集団がねぼけた視界に(もや)っていた。

 由起はこれで三日続けてベッドから落ちたのだけれど、コンクリートの床は、何度落ちてもなじめない固さと冷たさだった。当てがわれたベッドの巾は狭かった。由起は盲腸の手術をした折のベッドを思い出した。事実、どこかの病院からでも接収してきたものではないだろうか。

 隣りの三台は空だった。この宿舎は、形や大きさから推して個人病院だったかもしれないと思い当たった。すると、この手術台を想ったベッドは、本物の手術台だったのでは……。由起は自分の迂闊さが可笑しかった。裸電球が二個ぶら下がった、この殺風景な部屋は手術室だったともいえよう。

 他にもメイド用の部屋があるかどうかはわからなかった。時々廊下を歩く足音や、上の三階で扉を開け閉めする音が響くが誰にも逢わなかった。昨夜はマーサの所を出たのは八時だった。一昨夜は九時近かった。温かい屋内から十分ほど夜道を歩いて、ここに辿りつくと躰はすっかり冷えきっていた。

 病院の受付けだったと思い直せばぴったりな玄関の窓辺に、中年過ぎの守衛が坐っていたが、いつ見ても居眠りをしていた。一階のがらんとした寒い食堂のテーブルの上に、丼に盛ったご飯と、刻んだキャベツに乗せた目玉焼きの夕食が二人分並べてあった。何度も蒸し直したらしいねばねばしたご飯と、冷めて固くなった目玉焼に、やかんのお茶を注いで温め直して食べた。

 暗くて煤けた食堂を出る時振向くと、ぽつんと残った同僚の食事が、このうえなく侘しく迫ってきた。そのまま黒光りのしている木製の、やけに立派な階段を上がって部屋に這入ったが、後は眠るだけだった。栄養の加減か、朝が早いせいか眠くてたまらなかった。眠る所さえあれば結構という心境になっていた。

 

 勤め出して一年にもならないのに検閲局が閉鎖になった後、由起は父親のつてを求めて商事会社に就職することになった。明日から出勤という日に、サンダルをはいた足を組んで、煙草ばかりふかしていた部長が、由起が坐る予定の机の前に案内してくれた。周囲には、数人の女性が、戦時中の学校の制服を思い出させる、殺風景なねずみ色の上っ張りを着て仕事をしていた。書類立てには伝票のファイルばかりが目についた。どの机の上も同じだった。近づいても顔も上げずに、伝票の束をめくっている女性たちの右手は、せわしなくそろばんの上を上下しているばかりだった。

 由起は帰宅するなりその会社を断った。一日中机にへばりついて伝票の整理をする気にはなれなかった。そろばんも出来なかった。就職難だったけれども仕方なかった。それは検閲局を受ける前の状態に似ていた。

 卒業してすぐに由起は友人と一緒に、発足したばかりのK・D・Dに勤めることになった。研修の初日に国内線の電話交換台を見学した。ずらりと並んだ交換台の前に、白い制服の女性たちが背中を見せて、機械に向けて目まぐるしく手を動かしていた。その後ろに二十人に一人ぐらいの割合で、年配の女性が同じ服装をして立っていた。監督官だった。上下ともの白い制服は、由起が戦時中、火薬工場で着ていたモンペ型の白い服装とそっくりだった。

 髪をひっつめて、化粧けのない硬張った顔つきの監督官が持っている棒は、女性たちを威嚇する鞭に見えた。飛行機の部品を造る工場にいた時、丸坊主の入道のような体格と、凄みのある怖い目付きをした男に、鞭で追っ立てられて重い木箱を運んだことを思い出したのだ。K・D・Dと、国内線の仕事は違うといわれても、嫌悪や忌避の気持ちは理屈では説明できなかった。由起は午前の見学がすむと家に帰ってしまった。学校からは、半日で辞めて学校の名誉を汚し、後輩の就職口を閉ざす者というレッテルを貼られてしまった。

 検閲局には友人の一人が先に勤めていてふらりと立ち寄ったのがきっかけだった。アメリカに憧れていたわけではなかった。友人が引き合わせてくれた、後で由起の直接の上司になる日本の男が誘った。英語が苦手だから、としりごむ由起の試験を全部代筆してしまい、あっさりと決まった。

 勤め出すと自由でのびのびとしている雰囲気がよかった。何よりも威張る男がいなかった。単調で表面的な人間関係だったけれど、異国の人々を見ているだけで飽きなかった。代筆してくれた男は独身で、多分にアメリカかぶれの、人目も恥じない短絡的で強引な求愛をかわすのがうっとうしかったけれど、あっという間に過ぎた月日だった。進んで英会話を学ぼうと想ったのはそこを辞めて、商事会社の就職を断った時からだった。重苦しく閉鎖的な日本の会社がいやなのなら、英会話を身につけるのが突破口だと悟ったのである。

 

 きっかり八時に、由起はマーサの家に着くように、時計を見ながら歩いていた。昇りかけた薄い澄明な陽の光の中で、団地の家々は怠惰な眠りをむさぼって静まり返っていた。曲がりくねっている舗道を無視して芝生の上を直線に歩いた。不自然なものへのささやかな反抗だった。美しいけれど規格化されたこの風景に、由起ははや無感動になっていた。

「グッ・モーニング」

 食堂のテーブルでノートに書きものをしていた義男は顔もあげないで挨拶を返した。義男の声はまだ声変わりのしていない少年のきれいなアルトだった。由起が近づくと、彼は幼児がするように、両の掌を広げてノートを隠した。白い耳朶が朝霧に凍てたように、ピンク色に膨らんでいる。

「見ないでよ。恥ずかしいから……」

 見上げる表情があどけなく可愛かった。

「そういわれると見たくなる……」

 軽口を叩きながら、何事にも先輩面をしていた義男の態度が、微妙に変わってきているのに気がついていた。

「じゃ、見てもいいよ」

 あっさりと義男が手を引くと、ノートの紙面に大きな文字が踊り出るように現れた。a・b・c・d……稚拙だけれど、鉛筆をなめなめ、力を込めて書いたらしい丹念な文字だった。

「ぼく、話せるんだけど全然読めないし書けないんだよ。練習しかかっているんだけど、なかなか進まないんだ。馬鹿にした?」

 由起は強く首を振った。すぐさま義男が受けた教育の内容を理解したのである。

「わたしはちょっぴり読み書きが出来るけど、話す方はかいもくやわ。そっちの方がまだましでしょう」

「いいなァー、書けるなんて。話すったってぼくのはブロークンイングリッシュだよ。自己流に喋ってるだけだもんね」

「それで通じてるんだから、立派なものやわ」

「お姉さん、きっと学校出のインテリだろ。ぼくは小学校もまるっきり出てないんだよ。本当だ」

 いつの間にか義男は由起をお姉さんと呼んでいた。君、もフランキィも遂に免除だと思うと可笑しくなった。インテリといわれて、何一つ効果的な勉強をしなかったことを改めて思い返し、少々がっかりとした。

「うそじゃないよ。六年生の時に学童疎開で遠い所に連れて行かれてサ、戦争が終わって帰ってきたら両親も妹も皆死んでたんだよ。ぼく、これでも上野の浮浪児だったんだぜ」

 由起がヘラヘラと笑っていると、義男はふいに冷水を浴びせかけた。胸を衝かれてじっと見つめる由起の目を、皮肉にも見える大人びた目が見返していた。しめっぽさもめめしさもない、したたかな生活者の落ち着きはらった眼差しだった。ふと、彼が本名を名乗ったときに見せた、ためらいやはにかみの理由がのみこめた気がした。あれは孤独な彼の、亡くなった家族への強い愛慕の証しではなかっただろうか。また独り残された自分というものの不確かさへのためらいではなかろうか。由起の瞼に、今も残る鮮やかな場景が浮かんでくる。

 戦争が終わった年の夏から翌年にかけて、由起は登校の途中の天王寺駅の汚れた構内で、十人は下らない浮浪児を見ていた。そこで寝起きしているらしい、痩せこけて垢にまみれた子供たちは、もの乞いのために一様に空き缶を胸にぶら下げていた。中には病気らしく、老人のように曲がった膝を、汚水の溜まったコンクリートの床に引きずって、力なく頭を垂れている子供もいる。

 由起はある時期から、無関心に通り過ぎる通勤者の波が途絶えるのを待って、自分の貧しい弁当の中身を子供たちの空き缶に移した。その頃、馬の飼料にするふすまとメリケン粉を混ぜて蒸した団子を、母と姉が朝早く起きてつくってくれていた。由起の弁当はしばらくの間この団子だった。

 行李型の弁当箱に三つごろりと並んだのを、一つ残して子供たちの空き缶に、なるだけ毎日違った顔を選んで入れた。もし、戦災にも遭わない豊かな友人の誰彼が持ってきている、白米の弁当だったら、由起は簡単には動けなかっただろう。人目を避けて素早く入れられないし、後ろめたさもあるはずだった。見ぬ振りをして通り過ぎる通勤者の中には、そうした思いの人もいることだろうと推測していた。

 あの哀れで傷ましい浮浪児の姿と、目の前の義男とはどこにも接点がなかった。由起はこみあげてくる感動を義男に気付かれたくなかった。うまく義男に説明出来るとは思われなかったのである。

 マーサは? 我に返って由起は訊いた。静まって清潔な家の中に、自分のやる仕事はあまりないのではなかろうか。

 これだよ。義男は頭の上で両手の人指し指をクロスして見せた。肉付きのよい白い指先に耳朶と同じ紅色の血が透けていた。二十一歳の由起は、十七歳だという義男の若さを眩しく感じた。

「今大変なんだよこの家。旦那とマーサがもめてるんだ。旦那に日本人の恋人がいるのがばれたんだ。まだマーサは半信半疑ってとこだし、旦那も打ち消すのに必死だけどね。ゆうべ、俺どうしたらいいか困ったよ」

 ミスター・アレンに由起はまだ逢ってはいなかった。朝早く勤務に出て、夜遅く帰宅するこの家の主と顔を合わせる機会はなかった。義男から聞かされるまで、主の存在を忘れていたのだった。

「もめてるって、掴み合いとか派手にやるの?」大人ぶって由起は訊いたが、派手な夫婦の立ち廻りは見たことがなかった。ただ、権利意識の強いアメリカの女性が、日本の女性のように泣き寝入りはしないということは知っていた。

「とんでもない。ここの旦那はおとなしい人でサー、日本人よりおとなしいかもしれんよ。だから離婚もしないで続いてるんだ。マーサってわがままなとこあるだろ。あれ旦那が何もいわんからだと思うよ」

 椅子の上で膝頭を抱いて、貧乏揺すりをしながら義男は分別臭く言った。妙な子だ、と由起はしもぶくれの子供っぽい顔を横目で見ながら、落着かない気分になっていた。

 階段を軋ませてマーサが下りてきた。ローズ色のタオル地の部屋着を、躰に巻きつけてぴっちりと着ていたが、振り乱した髪の下の顔色は悪くむくんでいる。グッ・モーニング、由起は義男について小さな声で言った。

「オケー」マーサは二人を置物でも見ているように眺めやり、だるそうに髪の毛をかきあげながら台所に行った。義男がその後を追った。

「お姉さん、あんま出来る? 躰を揉んで欲しいんだって。いやならぼくがうまく断ってやるよ」

 戻ってきた義男は気遣わしそうだった。

「あんまなら得意」

 由起は即座に答えたが、はったりをきかしたのだった。子供の頃から母や、可愛がってくれた近所の老婆の肩を叩いたり揉んだりしたことがあったけれど、得意というほどのことでもなかった。相手が大層に喜んでくれるので、調子に乗って励んだに過ぎない。しかし、アメリカ人が相手なら得意といっても通用するだろうと踏んだのだ。由起は何でもいいから役に立ちたかったのである。

 マーサはソファーの上に無造作に躰を横たえた。

 由起は部屋着にくるまれたマーサの、長々と延びた躰のそばに膝を折ってにじり寄った。けれども、勇ましかった口とは反対に、腕はたやすく相手の躰にのびることは出来なかった。つい先程まで、敵意に近い態度でしか由起に接しようとはしなかったマーサとの間に、目に見えない壁が立ち塞がっていた。由起は軽はずみだったと悔やんだが後の祭りだった。

 (ひる)んでいる由起を尻目に、うつ伏せになったマーサは、右手をひらひらさせて早くやってと合図をした。その警戒心など少しもない気楽な仕種(しぐさ)に、思いきって彼女の両肩を掴んだ。どこにも骨を感じさせない柔らかく豊かな肉だった。

 由起は母たちにしたようにマーサの両肩を揉み始めた。指が疲れると軽く握りしめた拳で左右交替にトントンと叩いた。肩から背骨に沿って下へ叩いていくと、マーサの口から低いうめき声が洩れた。母もこの腰部の個所で、同じように声を洩らしたのをふしぎな気持ちで思い出した。

「グット、ベリーグット」

 マーサはいきなりソファーの上に起き直ると、もどかしそうに部屋着の紐を解き出した。

 肩をむき出した下着のようなしなやかなネグリジェからあらわに見える、彼女の胴は完全な円筒形だった。二つの乳房が深くくった襟元から溢れ出そうである。背中を押すと、ぶよぶよとした頼りない肉の反応が伝わってきて思わず指を離した。温かい躰だった。しかし、この人は頑丈そうな見かけよりも躰の弱い人かもしれない……、由起はふと微かな憐憫を覚えた。

 筋肉が少しも感じられない。マーサの、脂肪の塊のような躰をさわるのはあまり気持のよいものではなかった。バターが腐ったような腋臭(わきが)の臭いもする。けれども、すっかり躰を任せきった相手の様子に、由起はそれまでの強い緊張や、違和の感情が次第に薄れていくのを覚えていた。

 ベッドメークが次に由起がやらねばならぬ仕事だった。マーサが部屋着を脱ぎにかかった時、すっ飛ぶようにして二階に駆けあがった義男は、あんまが終わるといつの間にかそばにいて、用のありげな顔で佇んでいた。階段の手摺の間からでも、覗き見していたのかもしれなかった。

 ベッドは男の義男に触れさせないで、マーサが自分で掃除をしていたらしかった。大人が二人寝ても楽々と手足が伸ばせそうなダブルベッドは、周囲を一巡しなければ容易に皺も埃も取れなかった。糊のきいた白いシーツの上を刷毛のような小型箒で掃き、皺をのばす要領をマーサは手真似でもって由起に教えた。見本を見せている内に、マーサはベッドメーキングに熱中し出した。薄い羽根布団とその下に掛ける毛布、白いカバーの布をまとめてベッドの下にたくし入れるのだが、気に入らないかして何度もやり直している。部屋着の前をはだけ、パーマをかけた髪を逆立てて必死な形相である。由起は手をつかねて見守るばかりだった。

 ようやく仕上げたらしく満足した顔でベッドを見廻して、マーサは由起にニッと笑いかけた。目が血走っていて少し気違いじみた面相をしていた。由起は彼女の微笑の意味は了解したけれど、癇症なベッドメイクは理解し難かった。もしかすると、夫が恋人をつくっていることと、関係があるのかもしれないと思った。

 寝室は階下の居間と同じくらいの広さだった。東南に窓がついていて明るく温かい部屋だった。二方ともに窓の下に箪笥がつくりつけてあった。それぞれ三段の引き出しがあって、ここだけで殆どの下着やブラウス類は整理出来そうなスペースである。戦災に遭った由起の家では、知り合いの指物大工に箪笥や水屋をつくってもらった。昔からある型を一層無骨に大型にしただけで丈も巾も嵩があり、それだけ部屋を狭くしていた。後に埃もたまる。それにくらべると、飾り棚の役目も兼ねているこの箪笥は、合理的でモダンだった。

 由起が感心して眺めていると、気を良くしたらしくマーサは、西側の引き戸を引いて見せた。洋服箪笥で日本の押入れぐらいの巾がある。毛皮のコート、金ラメの光るイブニングドレス、短いワンピースがぶら下がっていたが、マーサの洋服は思ったより数が少なかった。ミスター・アレンの軍服が一着まじっていた。床の上に数足の靴が置いてあるのが珍しかった。

 広々とした清潔なホールのような寝室に香料の匂いが澱んでいた。その重く、甘ったるい蜜のような香りは、マーサの躰から臭う乳脂の匂いとまざって、ねばっこく由起の鼻孔を蔽った。

 マーサが階下に行った後、由起が床の細かい綿埃を掃き取っていると、足音も立てないで義男が近寄ってきた。彼はすばしこくて可愛らしく、少し気味が悪かった。

「どう? お姉さん、ここいい部屋でしョ。ベッドはいいなァ。ぼく一度だけでもいいから、お姉さんとこんなダブルベッドで寝てみたい」

 つくり声のような義男の声は、子供の時分に公園で聞いた香具師(やし)の口上を思い出させ、由起は思わず身震いをしていた。

「冗談だと思ってるんでしョ。ぼく本気だよ。今までにこんな気持ちになった人なんていないよ。お姉さんが初めてだ」

 由起は取り合わないでさっさと掃除をすませた。アメリカ軍人の家のメイドになって、そこのボーイと寝るとは出来あがった話だった。由起にはおぞましい現実となる。義男の現実につき合う義理も気持ちもないのだった。

 

「フランキィ!」台所からマーサが呼んだ。白い開き戸が左右交互に軽く揺れていた。親しさが加わってややぞんざいになった口調に向かって、イエス、と小さな声で答えた。フランキィなどと呼んでほしくなかった。むろん、メアリーでもいやだった。

 ステンレスの調理台の上で、マーサがケーキをつくるのを由起は見学する羽目になった。材料の粉がはいった紙箱の側面に、分量やつくり方が載っていた。由起の読解力では凡そのことしかわからなかった。由起とは会話は出来ないと投げているらしいマーサは、時々エッグとか、ボールとか呟くだけで、黙々と手を動かし続けている。由起は小学生の時に、最初の理科の実験に立ち合った緊張を思い出すこともなく思い出していた。

 ケーキのつくり方にさして興味はなかった。由起は他人の家で、その家の気心の通じない主と一つ作業をやることが、これほどの緊張を強いるとは考えてもみなかったのである。メイド志願は自分にとって最もふさわしくない選択であったのかもしれない。しかし、自分にふさわしい職業というものがあるとでもいうのだろうか。由起は出口のない迷いに踏み込むのを嫌った。やるだけやってみることだ。仮にふさわしくないとしても、最もふさわしくない仕事をやることほど、甲斐のある生き方はないのかもしれない、と考えた。

 ボールや泡立て器を洗っている由起の足元に、マーサは二階の物入れから選んできた洗濯袋を乱暴に投げ出した。米袋の三倍もありそうなその白い袋の口に手を入れて、パンティばかりをつまみ出すと、小さい方の水槽にポイと投げ入れ出した。どのパンティにも生理の血痕が、赤黒く乾いてこびりついている。ケーキが焼きあがる間にこれを洗えという命令は、信号のように素早く振られる指の動きだけでもわかった。由起の顔を見ないで言うのは羞恥のためなのか、無理を承知の(やま)しさなのか、どちらとも判じられなかった。

 水槽に栓をして水を注ぎ入れ、パンティを浸しながら由起は意表を衝かれた思いでいた。不潔なと感じるよりも野放図で自由なやり方だと感心していた。女の生理を不浄だと決めてかかり、専用のバケツを押しつける母が見たら、卒倒するだろうと考えると愉快でもあった。

 すぐに水は赤く染まった。あくが白い泡となって水槽のへりにそって浮きあがってくる。栓を抜き、水を替えて落ちない個所は石鹸をこすりつけて洗った。指先がしびれるように冷たかった。由起は初潮のあった日のことを思い出した。

 女学校の分校がある農場で田植えをしていた時、由起は友だちに注意されるまで生理が始まったことを自覚しなかった。モンペの臀部に掌大の染みが広がっていた。担任の女教師はやさしかった。農場の小屋で横になっている由起の所へ何度も顔を覗かせては声をかけてくれた。苦手だった裁縫の教師までが、おめでとう、と女の生理の正当性を暗に教えてくれていた。帰宅すると由起は母に報告した。殊更に誇らしいとは思わなかったけれど、母が喜んでくれると信じて疑わなかった。母はつかの間不快そうに唇を引き締めた。

「姉ちゃんより二年も早いー」母の第一声が由起の心を冷たく刺した。それがどうした。悪いこととでもいうのだろうか。やり場のない憤りがこみあげてきた。由起は母の無知を今更のように情けなく悲しく、憎くさえ思った……。

 マーサの生理の後始末は、あの時母から受けた傷にくらべると、なにほどの苦痛もなかった。むしろ、度し難い母たちの因習に対して、ささやかな復讐をしている気さえしていた。

 由起が洗いあげて固く絞った八枚のパンティを、マーサは大切そうに両手で持って、妙にいそいそとした様子で裏庭に干しに行った。家事の大半をボーイやメイドにやらせている生活を半年も続けていると、自分の生理の後始末も面倒になるものらしかった。ともあれ、干すぐらいは自分の手で干すというのがマーサの女のけじめであり、主婦としての示威でもあるのだろう、と由起は見ていた。

 由起は家事の些少な区分けや、価値づけを嫌っていたし認めてもいない。自分の家で避け通してきたのに、わざわざアメリカ人の家庭にはいって、その渦中に身を置くことの滑稽さを考えない訳にはいかなかった。無益な時間が、音もなく流れ去っていくようだった。

 昼食はケーキと牛乳だった。こんがりと焼きあがってバナナを飾りにあしらったケーキは、いつものこの家の食事と同じで美味しかった。食事としては物足らないのも、いつもの通りだった。

 この家に来て三日経っていた。来た日を入れると四日だった。三日の間の時間は随分と長く感じたが、高い山にいて、希薄な空気に喘いでいたようにも感じられた。

 由起は食堂の大鏡に写った自分の上半身を眺めていた。肉づきのよかった躰が見違えるほど細くなっていた。皮膚の色が白く乾いて目ばかり大きく見える。ほっそりとした、憂鬱そうな顔をしたこの女は誰だろう。私は誰? 由起の右手は、鏡の前の重い燭台を握っていた。我知らず、ということではなかった。芝居がかった動作だナ、とは思っていたが止まらなかった。持ちあげると鏡の中の女がふしぎそうに由起を見ていた。鏡を割る気などなかった。けれどもただ一つの衝動、きっかけがあれば、右手は燭台を投げつけるであろう、という気はしていた。

 

 玄関のマットを掃除している義男のそばで、由起はマーサの靴を磨いていた。三足とも茶色の中ヒールで、(くるぶし)にベルトを廻した履き心地のよさそうな靴だった。由起もこれらと同じ型の靴を持っているが、皮も細工もくらべものにならなかった。

「ここを辞めるのは自由でしょ。好きな時に辞められるんでしょ」

 当然過ぎることだろうけれども訊いた。

「さあーどうかな。契約の仕方によるけど……、首になったのならともかく、勝手に辞めることは出来んのと違うかな」

 義男は少し意地悪く言った。彼はどんなことがあっても辞めないだろう。アメリカに行く夢を果すため、寄生虫のようにこの家にへばりついているだろう。由起はふと義男を羨ましいと思った。

「お姉さん辞めるつもり? いやだよ。いてよ。もう少しすれば慣れるよ。ね、お願いだから……」

「辞めるつもりはないわ」

 義男の寂しさはわかるのだけれど、由起は慕われて気が重くなるばかりだった。

 

 マーサの一日の過ごし方は、義男からの情報も加えてほぼ見当がついた。九時過ぎに起床。午前中は大阪市内のPXや美容院に行って過ごす。午後はパーティーの準備、もしくはパーティーに出掛けるための準備に大方の時間をつぶす。夜はパーティー。それだけだった。義男の説明によると、現在アレン家がつき合っているのはマトスン家とフーバー家で、この三組の夫婦がそれぞれ招いたり、招かれたりする内に一週間は過ぎてしまう。三家とも軍曹で、他の階級の家族との交際はないらしかった。

 近頃、アレン家では主人が定刻に帰らないのでパーティーに支障をきたしていた。夫婦一対が原則なので、行けなかったり、とり止めたりすることが続いている。由起が来た日に磨いた食器は結局使われなかった。マーサの日毎の口惜しがりようには、単なる嫉妬ばかりではなく、パーティーが出来ないという無念さや引け目が含まれている、と義男は言う。

「ぼくはアメリカの女はどうもしっくりしない。結婚するなら日本の女がいいよ。おとなしくて控え目な日本の女なら、パーティーに憂き身をやつすことはないだろうからね」

 義男は思案深く言った。

「まるで高い塀に、梯子をかけるみたい」

 由起は皮肉った。まだ十七歳なのにと馬鹿らしかった。

「そう、梯子でも何でもかけてよじ登ってみせるよ。塀は高いほどいいよ。勇気が湧くんだ」

 からかわれて義男はむきになっていた。

「ああ、疲れた!」面倒になって由起はそばの椅子に倒れ込んだ。

「応接セットにはね、メイドは坐ってはいけないんだよ。早く立てよ。マーサに見つかるとことだよ」

 膨れっ面をした義男は冷たく言った。そう、と由起は素直に立ちあがった。腹も立たなかった。最初に逢った時、マーサが外出から帰ったのを見て、義男が椅子に坐っていた由起を慌てて立たせた理由がわかった。メイドは客用の椅子に休む権利はないというのは、一理あることかもしれない、と由起は醒めた頭で考えた。

 マーサは由起にあんまをしてもらってから、それまでの警戒心や猜疑心を解いた様子でいる。汚れたパンティの洗濯は親しさからばかりとも思えないけど、険しかった目付きに穏やかさが加わった。直接話しかけてこないのは不満だったが、由起はマーサと苦労して話し合いたい望みを削がれていた。英会話というが機械が喋るのではないのである。いわば近所の最も苦手なおばさんよりも、気心のわからない人と無理に話すことはないという気持ちになっていた。

 午後、由起はアイロン部屋で洗濯物にアイロンをかけていた。夫婦の寝室の左隣りにあって、廊下の空間を利用したコーナーである。壁面は二面とも棚になっていて、アイロンで仕上げたカラフルなタオルや、シーツが新品のようになって整理されて積みあげてある。

 一度着ただけで洗ってしまうマーサのブラウスが数枚、毎日着替えるネグリジェや、ミスター・アレンの肌着、タオルとかなりな量である。アメリカの家庭ではアイロンがけが主要な仕事になっているのは知っていたけれど、寝巻きやタオルにまでかけるのは、きれい好きが高じて病的だとはいえまいか。合理的なアメリカ人の、不合理な部分の露呈だろう。もし、メイドがいなければマーサははたしてやるだろうか、などと由起が考えながら手を動かしていると、気配もなくマーサが後ろに立っていた。ちょうどマーサのブラウスに取りかかっていて、袖山のところで難渋している最中だった。ギャザーが多くアイロンの先が深く届かなかったけれど、どうにか仕上てほっと息をついた。マーサがうしろから覗き込んでいるので懸命になってしまって、終えると汗が吹き出した。出来あがるのを待ちかねたようにマーサは、ブラウスを持って寝室に行ってしまった。

 由起が額の汗を拭いていると、マーサの悲鳴が聞こえた。強盗にでもはいられたような、悲痛な、助けを求める声である。

「ジョー!」階段を駆けのぼってきた義男は、寝室に飛び込んだ。

 吼えるようなマーサのヒステリー声と、低い義男のなだめる声がこもごもに聞こえてきていたが、やがて静かになったと思うと義男が出てきた。先程のブラウスを両手に捧げ持って弱りきった表情をしている。クリーニング屋のご用聞きが、客に難癖をつけられて弱っているといった恰好だった。

「不合格だよ。こんなのみっともなくてパーティーに着て行けんとよ。お気に入りの服だし、おまけに初めて洗ったばかりの新品でよう。同じ服は続けて着られんので大むくれだ」

 由起は洒落た金飾りの釦をあしらった白いブラウスを眺めやった。どこが悪いのかわかっている。袖口と袖山のギャザーだろう。しかし、これ以上はどうしようもないし、ギャザの皺など気にとめなければよいのである。他は立派に仕上たつもりでいる。

「別のを着て行くそうだ。一度アイロンを当てたら元に戻りにくいって」

 大層なことだと思った。マーサの仲間はそれほどまでにお互いの服装のあらさがしをするのだろうか。下らない集まりではないか。

 由起は急にマーサが気の毒に思えてくる。義務のようになっているパーティーも、あまり楽しい寄り合いではなさそうだった。いつも不興げなマーサの、空虚な生活への不満がわかるような気がした。

「ジョー!」またもや強い呼び声がする。

「イエス!」怒鳴り返した義男は、由起に肩をすくめて見せた。

 やれやれという風に肩を落として寝室に這入った義男は、すぐに押し出されるようにして出てきた。メッセンジャーボーイみたいだった。

「どうなってるんだろうな、ほんとに……。今度は頭をセットしてほしいだって。日本の女の人なら器用だろうからって。お姉さんやれる?」

「したことはないけど……、まあ、やってみるわ」アイロンがけで懲りているはずなのに、と由起はマーサの心底を測りかねた。あれはただのヒステリーで、何も知らない日本のメイドに、八つ当たりしただけだとでもいうのだろうか。

 ルームチーフだったミスター・ロバートの奥さんのヒステリーも凄いものだった。

 元舞台女優の彼女は多い日には三度、少なくても二度ほぼ決まった時間帯に、その都度服を着替えて、夫の勤めている部屋に這入ってくる。肌が透けて見え、襞のたっぷりとある服の裾を靡かせて、背筋を伸ばして足早やに這入ってくる姿は、舞台女優だけあって真に迫っていて思わず見惚れた。それからの数分、時によっては何十分もの間にかけて、彼女は夫の机の横に坐って、何事かめんめんと訴えているのだった。時に激しく、時には耐え切れない風情で涙を拭いていたりもする。

 由起が机から目をあげると、ミスター・ロバートが、愛おし気に、奥さんの腕を撫でさすっている場面に出くわす時があった。やがて興奮が醒めた彼女の腰に手を廻して、ミスター・ロバートはエレベーターの所まで見送りに行く、というパターンが毎日飽くことなく繰り返されていた。そのように外では優雅な演技がかったヒステリーだったが、家では食器を投げ割ったり、羽根枕やクッションをナイフで切り裂いて、部屋中にぶちまけたりして、日本人のメイドは三日も続かないという。

 彼女だけが特殊だというのではなく、日本に駐在しているアメリカ人の妻は、程度の差はあれ、驕奢な生活からくる無為と孤独に苛まれているのではないだろうか、と由起はマーサを重ねて考えていた。

 楕円形の鏡の中からマーサは髪にブラシをかけながら、近寄ってくる由起を見つめていた。今しがた騒がしく喚き立てていた人とも思えない平静な顔だった。少しばかり期待して由起を待っている顔でもある。アメリカの婦人はそれほど感情のチャンネルの切り替えが早いのか、それともそれがヒステリーの特色なのだろうか、興味さえわいてくる急変ぶりである。

 少しずつ毛髪を分け取って、カーラーに巻きつける作業は意外に難しかった。パーマもかけていない由起はセットの経験がなかった。由起はぎこちない手付きで、カーラーに髪を巻きつけていった。どのように分け取り、どの方向に巻けばいい髪型が出来るのか見当もつかなかった。鏡の中のマーサの真剣な表情にますますあせってしまった。どうにかカーラーでマーサの頭を覆いつくしたけれど、出来あがりを思うと肝が冷えた。ドライヤーで髪を乾かしてカーラーを外すと、乱雑に逆巻き立った毛髪が現れた。まるで強風に舞う草木といった恰好だ。

「オー、ノー!」マーサは躍起になってブラシを動かした。梳かしていくうちにばらばらに盛りあがっていた毛髪は、どうにか頭になじんで落着いた。

「オーライ、サンキュー」深刻な顔でためつすがめつ見入っていたマーサは、鏡の中からニッコリと由起に笑いかけた。新しい髪の形が気に入ったらしかった。指を入れて軽く掻き廻しただけに見える自然な髪型は、彼女を十歳も若く見せていた。怪我の功名とはこのことだった。

[これでパーティーに行けるわ]

[良かったですね、奥様]

 由起は鏡の中の別人のようにきれいな、天真爛漫に思えるマーサに微笑みを返した。

 

   3

 

 土曜と日曜は休暇で家に帰ってもよろしい。門限は日曜の夜の九時。それより遅れるとゲートが締まるので注意すること。義男はマーサの伝言を、さも重要そうに四角張って言った。

「お姉さん、このまま帰ってしまうんじゃないかナ。どうも危ないな。ね、戻ってきてよ。ぼく、待ってるからね」

 次にはがらりと調子を変えて、猫がすり寄ってくるみたいに甘えた様子を見せる。そのどちらも本当の義男ではないだろうと、由起は鼻白んだ。

「戻るわよ。勝手に辞めること出来ないんでしょ」

「あ、そうか。でも休みが多いのも喜んでばかりいられんよ。日給月給だからね。そこんとこ狡いんだよナ」

「日給月給って?」

「知らないの。お嬢さんだなー。つまり日給だよ。働いた日数しかもらえないんだ」

 なるほど、と由起は義男に教えられて感じ入った。給料のことは念頭になかった自分が幼稚に思えた。マーサになつきながら、ちゃっかりと懐勘定を読むのを忘れない義男のしたたかな素顔である。

 軍曹の身分でボーイとメイドを雇うのは、もともと贅沢なのであるから、どこかでケチらねば家計が持たないのであろう、と現実主義者の義男と、世間知らずな由起は意見が合って、少し威張った気分になって笑い合った。

 

 来た時の道順を逆に辿ってゲートに着くと、中年の太った守衛がよく確かめもしないで、

「お疲れさま」とだけ言った。欠伸(あくび)まじりの声で、当人の方が疲れているみたいだった。入る時よりも出る時の方が容易だった。フェンスの外に一歩出ると、まるで鎖の切れた犬のように、どこへでもやみくもに走り出したくなった。そのくせ、目に見えない鎖で、がっちりとつながれている感じがする。

 

 南海電車の中は通勤客で混んでいた。着ぶくれて立っている誰もが、きまじめな固い表情をしている。数日前に乗り合せたばかりなのに、由起には何ヶ月も逢っていない懐かしい人々に思えた。

 窓から斜めに射し入る朝日の帯の中で、粉雪のような白い埃が舞っていた。車内にはすえた臭いや、日向(ひなた)臭い塵埃の臭いがこもっている。由起は敏感になった鼻を詰まらせながら、義男たち浮浪児のたむろしていた駅の構内の臭いを、それとなく嗅ぐ思いでいた。

 

 ミセス・アレンへの手土産はお寿司がよいのではなかろうか。アメリカ人でも日本食を好む人が増えてきているそうだから、きっと喜んでくれるだろう。お菓子などはあちら様の方が美味しいものがあるだろうから、と母が言い出した時由起はすぐさま警戒した。日頃、放任されている都合のよさは認めてはいたけれど、自分への愛情を疑っていた母親の、いつにない心配りが嬉しかったのである。

 朝、家に帰りついた由起を、なんの変哲も無いという顔で迎えた母親は、

「あんた、姉ちゃんが面会に行ったん知ってる?」

 と、いつもと変わらない、屈託した面持ちで訊いた。

「知らん。姉ちゃん来てくれたの」

「そうや。あんたがまたどんな所で働いているのか心配になって、わたしが頼んだんやけど、夜になってしもうて会えなかったいうて、がっかりして帰ってきたわ」

「いつ頃?」

「あんたが行った日のつぎのつぎの日。

 そばから姉が引き取って言った。それは水曜日でまだ三日しか経っていなかった。

「えらい厳重なとこやね。守衛の人がえらそうにしててね。ちょっとでも会わせて欲しいいうて頼んだんやけどあかんかった。腹立ったから、あんたに持っていったおはぎ、帰り道で乞食にやってしまったよ。そういえば、あんた、だいぶ痩せたね」

 姉は呆れたという顔をして、由起を眺めていた。何故そんな所で働かなければならないのか? と家族の中でただ一人反対したのが姉だった。由起は気の良い姉が、自分のためにおはぎをつくって、寒い中を面会にやって来た揚句に、会えずにゲートに佇んでいる姿を想像すると、哀れさに胸が締めつけられた。それから愛されているという歓びが徐々に湧き起こってきた。由起は元気を取り戻してふたたび浜寺に向かって出発した。

 

 義男がかなり勿体をつけて渡したらしい土産の寿司は、結局マーサには余計な心遣いだったのである。由起は呼ばれて寝室に行った。

 高い羽根枕に頭を沈めて横になった姿のままで、マーサは折り詰めの蓋を持ちあげて中を覗いて見せた。生ものは食べないから、という意味が握り鮨を指でさす所作でわかった。贈り物が気に入らないので返す、といった事務的な態度だった。

 由起は黙って受け取って部屋を出た。マーサが指さした鮨は生ものだったけれど、まぐろのトロを例外として入れたのだった。他はすべて火の通ったものばかりで、母親が気を使って特に注文した折り詰めだった。マーサは日本人が生ものを食べる野蛮な人種だという観念に乗じて、火の通った寿司でも拒んだのである。マーサにとっては、日本人のメイドが、不潔な家から運んで来た得体のしれない食物なのだ。

「おかげでご馳走にありついたよ。こんな旨いもの、今まで食べたことがなかった気がするよ。俺、日本人だなァ、やっぱし……」

 風邪を引いて朝から食欲がないと言っていた義男は、由起がすすめるままに、折り詰めの寿司を勢いよく口に放り入れていた。由起にすっかり心を許した様子で、美味しい、美味しい、と舌つづみを打っている義男を眺めている内に、マーサなどどうでもいいと思えてきた。

 義男は二本の棒を握りしめるような、奇妙な箸の使い方をしていた。それに目をとめながら、由起は家庭とか(しつけ)とかいったものに無縁な義男の自由というものを考え、あの上司だった男を思い出していた。彼も両親が戦災で死に、殆ど独学で英語をマスターしていた。クリスチャンでもある彼は、アメリカ人とは流暢な会話が出来、由起たち日本人と雑談しているときにも、“それは英語では×××と言います”と、必ず注釈しなければ気がすまなかった。親切で、やさしく、忍耐強い男だった。また、堅苦しく、質実に過ぎ、しつこくて、機微のわからない男でもあった。“あなたは私のワイフになる気はありませんか”と、由起に向かって、オフィスの人々がいる中で、真面目な顔をして、本気で言ってのける男の無恥というものを考えていた。

 

 八度近くも熱のある義男に代わって、由起がこの家に泊まることになった。今夜は寄宿舎でゆっくり休むという義男は、寿司を食べている時の元気さはなかった。マーサも一日中ベッドで寝ていたらしかった。

「なァに、すねてんのサ。日曜だというのに朝から旦那が出掛けたからね。帰って来たら病気だといって脅すためだョ。旦那は善い人だからきっと驚くよ。僕、旦那も気の毒だし、どっちに味方したらよいか困ってるんだョ」

 くだをまいているような義男をせき立てて行かせた後、由起は義男に頼まれていたバスルームの掃除に取りかかった。

 壁面と床がブルーのタイル張り、浴槽と便器はピンクの陶器と、毒々しい配色だが、強い電気の光にまぶされて、妖しげな雰囲気がかもし出されている。由起はここでも造りつけの戸棚が気に入っていた。鏡になっている開き戸を開けると、オーデコロンやヘアートニック、髭剃りの刷毛(はけ)、よく切れそうな剃刀(かみそり)が並んでいて、ミスター・アレンの化粧戸棚らしかった。

 由起が戸棚から離れて何気なく戸口を振り向くと、壁に寄りかかって寛いだ様子のミスター・アレンがニコニコと笑いかけてきた。

「コンバンワ。アナタワ、コンドキタニホンノオジョーサンデスネ。ドウゾヨロシク」

 日本人の恋人からでも習ったのだろうか、彼はアメリカ人が日本語を使い始めた程度のたどたどしさで言った。

「よろしく」由起はためらわずに日本語で返した。さばさばとした思いだった。マーサが寿司を突き返してから英会話に励む気は全く失せてしまっていた。

 ミスター・アレンは細面の思慮深そうな目をした美男子だった。髭の剃り跡が白い肌に青く冴えている。中背の痩せ型で、軍曹というより大学の助教授といった方が似つかわしい。農婦にも見えるマーサとは夫婦に見えなかった。年齢も彼の方が少し若そうだった。二人はともに三十歳前後ではないだろうか。

「スミマセン。ソコ、ドイテクダサイ」

 ミスター・アレンの目が悪戯っぽく笑っていた。由起がいるので彼は便器を使えないのだった。あわててスリッパを脱いで彼の横をすり抜けた時、煙草と薄荷(はっか)の涼やかな匂いが由起の鼻をくすぐった。

「フランキイ!」由起は廊下に出てきたマーサとぶつかりそうになった。頭痛でもするのか頭に白い鉢巻をしている。

「フランキイ!」マーサは猜疑(さいぎ)に充ちた目を由起に当てながら、何事か早口にまくし立てだした。そのヒステリックな調子の言葉の断片の中から、マイ・ハズバンドという発音を聞き取ることが出来た。彼と仲良くしないでほしいという意味だろう。マーサは確かに狂っていた。

<おかど違いですよ>由起は啖呵を切りたかった。

<わたしがいたオフィスでも、豊かなアメリカ人と恋愛して結婚した日本の女性はいたけれど、羨ましいとは思わなかった。言葉が充分通じないのに、細やかな感情の交歓ができるでしょうか。わたしとあなたがよい例でしょう>英語を話すことが出来たら、マーサの面上に叩きつけてやりたかった。しかし英語が出来たらこの誤解もないのだと気づくと、急に力が抜けて馬鹿らしくなってきた。

 由起が狭い廊下でマーサに言いがかりをつけられているのを、用を足しながら聞いていたらしいミスター・アレンが顔を曇らせて出てきた。彼は低い声で、二言、三言マーサに囁くと、逃げるようにして寝室に這入ってしまった。

 ふところ手をして立ちはだかっていたマーサは、ふと醒めた表情に戻った。胸元にも肩にも波のようなフリルを飾った、小花模様のピンクのネグリジェを着た彼女は、その可憐な姿とはうらはらに、眉間(みけん)に深い溝を刻み、口許を絞って、夫が出てきたバスルームの扉を睨んでいたが、つと動いて由起にもついてくるようにと手の先で合図をした。

 マーサは浴槽や便器の上に深く躰をかがめて、掃除の出来ばえを仔細に点検して廻った後で、先程由起が覗いていた戸棚の鏡を開くと、ひい、ふう、みい、という風に数え始め出した。オーデコロンや、ヘアートニックの瓶の数を数えているのだった。クリームや替え刃のケースまで念入りに確かめると、「オケー」と由起の方を見ないで不愛想に言った。

 由起にはマーサのやっていることがすぐには呑み込めなかった。やがてその意味を悟ると愕然とした。頭を強く打たれたような衝撃だった。マーサは由起が戸棚の小物を盗まなかったかと疑ったのである。当の本人を前において平然と調べる、人もなげな神経の持ち主のこの相手は、特殊なアメリカ人なのだろうか。それともこれは、一般的なアメリカ人の裏の顔なのだろうか。由起はわからないままに、前にいたメイドが手癖が悪かったという義男の言葉を思い出していた。由起は、メイドに盗まれはしないかと疑い深くなっているアメリカ人と、盗みもやりかねない日本人のメイドという図式に、がっちりと嵌め込まれている自身の立場を悟らねばならなかった。

 由起は自分が冷静でいるのを自覚したけれど、これは冷たい怒りとでもいうのがふさわしいと思った。

 

 翌朝、由起は足音を忍ばせて階下へ降りていった。六時半にセットした目覚ましに起されたが、まだ覚めきらないで夢の中を歩いている心地がしていた。子供の時分から朝寝坊なのでつらかった。家の中の凍てついた空気も眠気を払ってはくれなかった。居間の電灯をつけ、ガスストーブに点火した。寝惚け眼で周囲を見廻すと、玄関の扉の上の嵌め込みガラスや、壁面の明かり取りに、黒紙の戸外の闇が脅すように貼りついていた。

 部屋の中が温まってくると、ふたたび眠気が揺り戻してきた。七時に夫妻の寝室のドアをノックするまで、まだ時間はたっぷりとある。由起は居間の椅子に腰を落として、うとうととまどろみ始めた。

「フランキイ!」またフランキイだった。それは誰のこと? ぼんやりと霞んだ由起の目が、獣じみたエネルギーを放つマーサの尖った目と合った。一瞬に眠気はふっ飛んだ。反射的に食堂の大きな飾り時計を見ると七時少し前だった。間に合ったのだった。義男が言い残していった指示では、ミスター・アレンを起こして簡単な朝食を彼のためにつくるということである。由起が椅子から離れるのを待ちかねたように、マーサは神経質な手つきで椅子のクッションを、パンパンと塵叩きのように強く叩いた。由起はまたしてもしくじったことを知った。

 軍服をきちんと着て階下に降りてきたミスター・アレンは、よく眠らなかったのか瞼を腫らして憂鬱そうだった。

「グッド・モーニング」彼は英語で由起に挨拶を返すと、申しわけ程度に微笑んだが、それからは由起の方を見むきもしないで、暗い顔で目を伏せたままテーブルの前に坐っていた。

 手持ちぶさたな由起を無視して、マーサはフライパンをガスにかけて、二切れのベーコンを焼き、油が滲み出すと卵を二個落とし入れて半熟に仕上げ、いそいそと食堂に運んで行った。他にトースト二枚と牛乳が彼の朝食だった。マーサは夫が食べている間中、その前に陣取って、頬杖をつきながら熱心に見守っていた。この男は自分の夫だ。誰にも触らせない––マーサのボリュームのある部屋着の背中が威嚇するように告げていた。

 

   4

 

 夕方早くにミスター・アレンが帰宅した。昼過ぎから義男も顔を出していた。今夜この家でひさびさにやるパーティーの準備に狩り出されたのである。まだ風邪がはっきりせず、もう二、三日寄宿舎で泊まるつもりだと言う。

「どう? うまくやれた?」

「まあね」由起は笑ってごまかした。昨夜のごたごたや、今朝の失敗を義男に言って一緒に笑い合いたかったけれど止した。説教じみたことを言い出しかねない義男を警戒したのである。

 マーサは居間の窓や、応接セットを指さして夫としきりに話し込んでいた。時々、頭を夫の肩に預けたり、不必要なまでに躰を密着させて甘えている。その合間にチラチラと由起の方へ視線を走らせるのが疎ましくなって、由起はなるべく二人と離れた場所で鏡を磨いたり、家具の乾拭(からぶ)きに精出していた。

 義男の説明によると、居間の模様替えをやるということだった。日本政府は米軍宿舎の調度品を、希望があれば二年毎に取り替えることを義務づけられている。まだ新しいカーテンや椅子を、すっかり取り替えるのはもったいないことだ。日本人は安物の背広を一着つくるのにも、一ヶ月のサラリーでは足りないというのに。戦勝国なんだナ、アメリカは……、と義男は無念そうな口振りだったが、結構楽しそうに、こまめに動き廻っている。

 トラックが表の道路に駐車して、二人の日本人の作業員が下り立った。彼らが椅子類を運び出す手で、新しい応接セットが運び込まれてくる。象牙色に銀線を織り込んだ豪奢な布が張ってあり、茶色のウール地の前のものより上等な品である。サージャントではあるけれどもミスター・アレンは実力者であって、これは将校クラスの家のセットだと誇らしそうに義男は言う。由起がこの家に来た日に、洗剤やブラシまで自慢したように、義男はアレン家と一体だという感じである。

 暗くなってからマトスン家とフーバー家の二組の夫婦がやって来た。二組の四人はおとなしそうなアメリカ人だった。由起はどちらがマトスン氏かフーバー氏かは知らないし、知ろうとも思わないが、細心で律儀そうな角ばった顔と躰の夫に、全体が丸っこくて鳩ような印象の妻と、よく喋って陽気にはしているが羽目を外すことのなさそうな赤ら顔の太った夫に、痩せて小柄な妻という取り合わせが妙で、ひそかに観察していた。

 新しい応接セットに、三組の夫婦は行儀よく腰をかけて、遠慮がちに静かな声で話し合っている。どうやら部屋の模様替えが話題になっているらしかった。

 由起は台所から料理をテーブルに運んだ。鶏のから揚げ、小鱒のオイル漬け、大豆とグリンピース、胡瓜のピクルス。他にコーンスープが今夜のメニューである。大豆とグリンピースは、アメリカの国防色というのか、ゲートの小屋と同じ色の、大型の缶詰からそのまま大皿に移したものだった。茹でただけの塩味さえない不味い食物だが、アメリカ人は手を加えずに野菜代わりに食べる。それも大量に食べるのが由起にはひどく風変わりに見えた。

 食事が始まりかけると由起は誰にともなく会釈をしてその場を離れた。給仕はパーティーに慣れた義男一人の方がよい、と気を利かせたつもりだった。丸い顔の夫人が、好意的な笑顔でもって、由起に頷き返すのを目の端にして、そこより行く所がない二階へ上がって行った。

 三組のアメリカ人は由起にはあまりにも型にはまって退屈だった。同じ階級であるというだけで、毎晩のように顔を合わせてパーティーを開いている心理が不可解でもある。もしかしたら彼らも退屈し倦んでいるのかもしれない。男の方は昼間は軍務もあって疲れている日もあるだろうに、女は一日のエネルギーをパーティーのために費やしているというアンバランスが、弾まない会話や、体裁を気にする服装や態度になって表われているのかもしれなかった。話すこともなく、会いたくもないのに会っているのは不幸というものではなかろうか。

 由起は義男のベッドに頭を凭せて目を閉じている内に眠くなってきた。由起は思い切って靴を脱いでベッドに倒れ込んだ。しばらくして由起は人の気配で目が覚めた。

「お姉さん」義男だった。お姉さん、と上ずった声をかすれさせて、彼は由起の上に被さってきた。起きあがる隙もなかった。義男の熱でほてって、かたいゴムのような舌が、強引に唇にさし込まれてくる。意外に重量のある躰を跳ね返そうともがくのだけれど、ますます抑え込まれて、びくとも動かなかった。舌で口を塞がれ、弟の体臭と同じ埃っぽいすえた臭いと、ポマードの甘ったるい臭いで胸がむかついた。パンティにかかった義男の手を夢中で掴んでいた。爪を立てて、義男の肉を切り裂く思いだった。

 その時、義男の体から力が萎えて、抜けていくのが布を通して直截(ちょくせつ)に伝わってきた。生臭い匂いが立ちのぼってくる。由起には初めての体験だったけれども、義男が果てたのが本能的にわかった。彼は後ろめたさそのものから飛びすさるように、あわてて離れていった。

「悪かったョ、ごめんね」物入れから下着を取り出して、バスルームで着替えてきた義男は、元気なく謝った。目を伏せてしょげている様子だがふてくされているようにも見えた。

「何もなかったじゃないの」由起は思いやり深くいった。こんな場合でも憤ることを忘れた自分に腹を立てながら。やがて、義男を許すことは、自分への思いやりに他ならない、と気を取り直していた。

 

 パーティーの残りものが夕食となった。鶏のから揚げを手掴みで頬張っている義男の左手の甲に、由起が彫った三つの爪の跡が、赤黒い血を固まらせてくっきりと残っていた。少し可哀そうになって由起は義男の顔色を窺ったが、そ知らぬ風でパクついている彼の表情からは、何も読みとれなかった。義男の好物らしいから揚げには手を出さずに、由起は鱒を口に頬ばった。油で揚げたうえに、油に漬け込んだこの魚の料理は、しつこくて幾らも食べられなかった。由起は、あの馬の(まぐさ)の団子のような、索漠とした味の大豆を呑み込んで胃を慰めた。

 夜半に胸苦しさを覚えて、起き出した由起は、便器の中にその夜食べたものを吐いてしまった。寝室のマーサたちに気付かれぬように、声を殺して嘔吐した。腐った鱒と油と胃液の臭いにまみれて由起は涙を流した。青臭い義男の精液の臭いもまじっているように感じた。

 

 マーサは上機嫌だった。軽くハミングをしながらうろうろと家の中を歩き廻っていた。鼻を刺すきつい香水の匂いが、マーサの動いた後に、スプレーで撒き散らしたように漂っていた。

「フランキイ!」由起が寝室に行くと、ベッドの上に広げて見ていたらしい夏服のワンピースを着てみろと、手振りで言った。

 白地にえんじ色の小型模様をプリントした普段着だが、綾織の化繊の生地も、袖のないシンプルなカッティングも斬新だった。由起が学校にいた頃、ララ物資が生徒に配給された。その時抽選で当ったワンピースは、オフィスでも洒落た服だと誉められたものだった。

 由起はマーサその人への気後れと、ある名状し難い恥かしさを振り払った。由起は、胸元から裾へ一列についている、艶消しの、単純だが洋服の強いアクセントになっている、白いボタンをはめていった。M寸で普通の寸法なのだが、由起には誂えたようにぴったりだった。

「オ! ワンダフル」マーサは両手を打ち鳴らして感嘆し、それから、見かけよりはフランキイは体格がよい、という意味らしい言葉を嬉しそうに言った。彼女は調子づいたように、洋服箪笥から靴を選んできた。由起が磨いたマーサの靴の中では一番履き古したものだったが、まだ充分に履けそうである。靴も由起に合った。太る以前のマーサと由起は、ほぼ同じ体型ということになる。

「サンキュー」こそばゆくはあるけれど、マーサの厚意が嬉しくて、由起は頭を下げて礼をいった。マーサは寛いだ態度で、ニコニコと笑っていた。

 マーサの化粧鏡に、明るい色調の洋服からすらりとした脚を出した、モダンな女の姿が写っていた。由起はその姿に見惚れ、充ち足りた気分になった。そこには、将校の家に雇われて喜んでいるメイドの姿があった。

 

 カーテンを縫うことが出来るか? と、マーサはベッドの覆いを引き寄せて、布の端を三つ折りにして()ける手付きをして訊いた。イエス、その程度のことなら由起にも出来る。日本の女なら誰でもやることが出来るだろう。昨日、マーサはちぎれた釦をブラウスに縫い付けていた。太くて長い針を握りしめて、まるで畳職人が畳に針を突き刺しているような、力づくの不器用な手付きでやっていた。揚句に、糸がもつれて投げ出してしまい、由起が代って取り付けた。横を向いて坐っているマーサの憮然とした表情が可笑しかった。

 由起は裁縫が苦手で、始終器用な母や姉に笑われた。提出日に間に合わなくて、片袖だけ縫い付けた浴衣や、衿のついていない(あわせ)を堂々と出して、女学校の教師の不興をかった記憶がなまなましい。マーサのようなアメリカ人を裁縫の教師や母たちに逢わせてやりたいと思った。悪戦苦闘して、やっと仕上て見せに行った着物の、難しいおくみのけん先を、無言の威圧でもって、あっさりとほどいてしまう教師。重箱の隅を楊枝(ようじ)でほじくる式の指導をする彼らは、呆れて笑うだけだろうか。それとも優越感に浸るだろうか。裁縫の点数が低くて、その分だけ席次を大きく引き下げられていた由起にすれば、アメリカは理想の国だと言ってやりたかった。

「フランキイ、カム・ダウン」階下からマーサが呼んだ。由起はフランキイというアメリカ名前を、厄介な荷物を背負っているように感じ、重い足取りで降りて行った。

 階段が折れ曲がって三角形になった踏み段の所に、布団包みぐらいの嵩はある布地が積み上げてある。カーテンだった。その量の多さに由起は立ちすくんだ。手に取ってみて布の厚さにもまたたじろいだ。これを縫いあげよというマーサの常識を疑った。裁縫というものをしたことがないので却って難しさがわからないのではあるまいか。日本人を軽蔑しながら、技術や努力は認めるということなら、マーサは偽善者だ、と心の中で毒づいた。

 二階で縫う場所はないので階段に坐って縫え、とマーサは言う。大半はゼスチュアーで命令する彼女は元の仏頂面に戻っていた。長時間、二階に籠られるのを用心しているのは見えすいている。

 カーテンは赤味が勝った葡萄色をしていた。大量に流れた血が凝固したような、濃厚な暗い赤だった。由起はやろうと決心した。マーサに立ち向かう気だった。

 由起は下から四段目の場所に坐り込んで、縦の裁ち目を絎けていった。やがて、一枚の布の片端が仕上がりかけると、階段に坐って縫うことの便利さが納得出来てきた。布地自身の重さで自然に下にたぐり寄せられて、手許の始末がよいのである。誰の目障りにも邪魔にもならない。由起はマーサの頭の良さに舌を巻いたけれど、一方で人を食ったやり方だと思う憤慨はくすぶって消えなかった。

 由起は針を運ぶ作業に熱中し出した。右の股の下に布を挟み込んで絎台(くけだい)の代わりにし、左手でその布の適当な所を引っ張って丹念に絎けていった。布の厚さが速度を阻むけれども、その分だけ()かれている気持ちになった。その内に由起は最も苦手でやりたくないことに、のめり込んでいる自分を発見していた。意味のあること、生き甲斐を求めてきた結果のこれが答かもしれなかった。

 その日の午後いっぱいと、翌日の夕方近くまでかかって由起はカーテンを縫いあげた。二枚一組で天井から床までの長さのが六組ある。出来あがった尻からマーサが脚立(きゃたつ)にのぼって取り付けていった。吊したカーテンを引くと、陽の光にかざした掌に血の色が透けて見えるように、燃えあがる紅の色が部屋の調度を染めあげていった。マーサは間断なく吐息や嘆声を洩らして興奮していた。

 ミセス・マトスンと、ミセス・フーバーが来ていた。マーサが居間の模様替えを見てもらうために呼んだのであろう。新しいカーテンと、先に入れた応接セットとの調和や、その効果を誉めてもらいたいらしい。

 二人の夫人は由起が絎けた布の端や裾を、主婦らしい手慣れた様子で仔細に触って点検していた。「ワンダフル」二人はそれ以外の誉め言葉がないのか、何度も繰り返して言っていた。痩せて潔癖そうな夫人の方が由起を見て微笑んだ。

 マーサは心持ち胸を反らせて得意そうだった。良いメイドを持って幸せだ、という意味の言葉が聞き取れた時に、潮時だと思って由起は二階へ上がった。たかがカーテンの布を絎けるだけのことに、彼女たちの賞賛はおおげさ過ぎた。習練すれば出来るものをしないでいて、他人がそれをやったからといって誉めそやすのは胡散(うさん)臭かった。アメリカ人は率直に他人を誉めるが、つまりは人使いが荒いのだ、と由起は楽しまぬ心で考えた。

 昨日から(こん)をつめて縫い続けてきた疲れが一時に噴き出た感じだった。連日の寝不足もあって頭が朦朧となっている。由起は義男のベッドに倒れ込むなり、深い眠りに落ち込んでしまった。

 目が覚めると夜になっていた。時計は七時を過ぎている。二時間以上も眠ってしまったらしかった。急いで階段を降りかけた由起の脚がとまった。マーサのヒステリックな叫び声と、しきりに宥めているらしい義男の声が昇ってきたのだった。マーサの声は、それまで聞いたこともない怒気を含んだ激しい調子を帯びている。「フランキイ!」マーサは怒鳴っていた。居間に降りた由起に、義男が素早く目くばせを送るのと、マーサが振り向くのとが同時だった。

「困ったナ。俺、どうしよう……、お姉さんしくじったね。なんで眠ってしまったの」

 マーサに促されて、義男はつらそうに口ごもって言った。

「奥さん、カンカンに怒ってるんだ。お姉さんらしくないよ。何か理由あるんだろ」

 眠るのに理由は要るの、と言いたかったが由起は黙っていた。威丈高に腕を組んで、立ちはだかっているマーサの全身が、由起を強く拒絶していた。

「お客さんがいただろう。まずいんだョ。仕事の途中で寝てしまうなんて、職務放棄だと彼女たちが腹を立てたんだ。奥さんはお客さんの手前、恰好がつかないんだ」

「それで?」

 義男の淡々とした態度が由起を醒ませていた。

「……首だって言ってるョ」

 由起はマーサを見た。マーサはぷいと横を向いてさも不快そうに顔を顰めていた。

 ふいに、由起は覚悟した。わからないということを理解したのである。自分にわかるのはマーサが不快であるということだけだ。メイドが疲れてほんの二時間ばかり眠ってしまったことが、どうして解雇につながるのか。骨身を惜しまずにカーテンを縫いあげた末の疲労だと思いやれないものなのか。由起にはわからないマーサの心底だった。マーサの喜怒哀楽のすべてが何の意味もなかったと思うと虚しかった。

 由起は荷物を取りに二階へ上がって行った。ここを出るのが意外に早かった、と淡々と思った。

 制服は脱いで物入れの中にある洗濯袋に押し込んだ。家から着てきたセーターとスカートを着ていると、マーサが這入ってきた。彼女は義男のベッドの下を覗いて、由起にあげるといっていた靴を指さした。

「ノー、ノー」それだけ言うと、すたすたと階下に降りて行った。

 由起はマーサの寝室に這入って洋服箪笥を開けて古靴を戻した。ついでに貰ったワンピースも、マーサのベッドの上に置いた。

「気が早いね。本気で辞めるつもり? 謝ればいい。ね、謝ってよゥ」

 コートを羽織った由起に、とりすがるようにして義男は悲痛な声を出した。まだ熱があるらしく薄く頬が赤らんでいる。

「さようなら。あんたがいたから助かったわ。ありがとう」

 もし、義男がいなければ、由起は二日とこの家に辛抱していられなかっただろう。自分とマーサの間には、太平洋よりも広い海が横たわっていると思った。

 由起がマーサに挨拶しようかどうか迷っていると、マーサの肉付きのよい太い腕が、すっとのびて由起の抱えているセカンドバッグをひったくった。茶色のろうけつ染めの固い布に、ファスナーがついた質素なバッグだった。

 マーサは真剣な表情でファスナーを引いて中を点検し出した。口紅が一本と、ハンカチ、ちり紙、財布が由起のハンドバッグの中身だった。中身の貧弱さにしらけた顔になったマーサは、冷ややかな態度でバッグを由起に返した。由起が靴を返すために寝室に行った気配を階下で聞いていて、化粧品でも盗んだのかと疑ったのである。

 マーサは愚かで下劣な人間だ。貧しい自分のバッグの中身より貧しい、と由起は決めつけて侮辱に耐えた。

 挨拶などする気は失せて、由起は扉を押して外に出た。義男に言い残したことがあるような気がしたが、すぐにその思いは消えてしまった。

 歩き出すと、急に怒りがこみあげてきた。抗弁も出来ないで去ってきた口惜しさに躰が震えた。ついで、その反動のようにして削がれたような寂しさが襲ってきた。由起は涙を滲ませながら、女々しさを振り払うように頭を上げ胸を反らせた。

 風があったが寒さは感じなかった。湿った夜気を縫って、松脂(まつやに)の重たい香りが、鼻孔をなぶるように流れていった。

 夜の中に仄かに白い家々が浮かんでいた。どの家からもオレンジ色の窓の灯が、暗い沼地のような芝生に、型にはまったスポットを落としていた。それらの芝居の書き割りのような灯の中で、将校に当たった日本の女たちが、喜々として働いている姿を想像することは難しかった。

 ゲートの小屋には、最初の日に逢った守衛がつくねんと坐っていた。彼は由起を覚えていた。

「そんな。無茶なことおまっかいな」

 事情を聞いて気色ばんだ守衛のあけすけな大阪弁が、そそけ立った由起の心を急速に和ませていった。

「で、給料くれよりましたか?」

 由起は首を振った。

「あんた、給料も貰わんと、それでよう……。日数が少なうても払うもんやのに。狡い女やなあー。紹介してくれたとこへ請求しなはれ。そんな無茶なことおまっかいな……」

 由起は思わず笑っていた。給料を貰わないことがマーサへの仕返しだ、とは守衛には言わなかった。人の好さそうなこの日本人にもわかってもらえるとは思えなかった。

 

 由起は手を振って守衛に別れを告げた。

 ゲートの灯は、闇の中で燃えさかる氷の炎だった。守衛の振る白い手袋が、危険を知らせる蒼白いシグナルのように、由起の暗い瞼に舞い残っていた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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久保田 匡子

クボタ キョウコ
くぼた きょうこ 作家 1928年 大阪市に生まれる。大阪女性文芸賞受賞。

掲載作は1984(昭和59)年、同人誌「雪渓文学」に初出。1987(昭和62)年、『黒い瞳の』に収録。

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