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廓の子

      一

 

『山まゐり』の大羽子板は新ちやんのお祖母(ばあ)さんがまだ若い時分、坂東彦三の似顔――豊国筆――をそのまゝに、馬道の羽子板屋で拵らへさせたものださうです。

 それは板も押絵も煤けて、花笠が(なかば)取れかゝつたまゝ何年となく縁起棚の傍に飾られ、此家(こゝ)の敷居を跨ぐ人々の誰れもが、珍らしくもまた懐しい心もちで見守る唯一の的となつてゐました。『廓の子』はこの古い押絵の陰から生れ出た一寸新らしい話なんです。しかし、それとても柳散る秋の夜のつれづれに、(ともし)の下で静かに語り会ふ程のepicなものではないのでした。

 

 新ちやんが浅草で活動写真の楽隊師になつたといふことを私が知つたのはつい一月ばかり前のことでした。(まさし)くそれは嘘のやうな事実なんです。

 新ちやんは日清戦争の始まる二三年前、廓の子として江戸町の羽子板の家に生れ、花魁(おいらん)新造衆(しんざうしゆう)の手で玉のやうに育て上げられたのでした。今でもあまり丈夫な方ぢやありませんが、赤ん坊の時分には抱きかゝへするにさへ痛々しい程弱かつたさうです。

『うまく麻疹(はしか)で助かればいゝが。』

『さあ危ないはなしさ。』

『助かつたにしても、この子はお父つあんに似て今に道楽者(だうらくもの)になるだらうね。』

『親に似ない子は鬼つ子だと云ふからね。』

『これで親に似なければ、お姫様みたいな鬼つ子だよ。』

 人々の間にはこんな話しが(かは)されることもありました。もの心がつくに随つて、怖しい伝説や惨い夜話は、廓の子の胸へは殊更ら深くも刻まれてゆくのでした。

『ゆうべは誰さんの部屋の前を白い影が風のやうに通つた。』とか『死んだ誰さんの髪の毛が蛇になつて、私の枕もとへ来た夢を見た。』とか。行燈の灯も衰へた薄暗い廊下で落ち逢ふ花魁衆の、かゝる立ち話も消える頃、(いろ)が仇する廓の夜は明けるのです。

 新ちやんは大引過ぎに自分の家の裏から白い布で包んだ棺が出たことも知つてゐます。二挺剃刀で咽笛をかき切つた、若い男の惨い死様(しにざま)も見ました。また、心中の書置が如何なる場合でも、きつと枕の下にあることなども、小さい新ちやんの身に取つては、不思議なことの一つなのでした。

『どうだいゆうべのは。』

『種は()いんだとよ。』

『本筋だなあ。十五回目だつてな。しかも先は大家の息子さんださうだ。』

『それにしても花魁はまだ若えに。』

『でもいゝやな、惚れた同志で三途の川は渡るんだから。』

『――そのつもりで働くさ。』

 心中のあつた朝などには、若い者のこんな話を聞くともなしに、廊下越しにふと耳にすることもありました。しかし新ちやんが中学校へ入るまでは、別に、取り立てゝいふ程のこともなかつたんです。小学校は市立などへやると家庭がどうの、教育がどうのと面倒臭いといふ処から、寺小屋式の学校へ草紙を下げては通つてゐました。それでも病身の新ちやんは月の半分は大方欠席勝ちで、学校でよりも医者の書生に教はる方が多かつたんです。そんなこんなで、始めて中学校へ入つたのは十六の春でした。四五年の生徒が拵らへる美少年番附では、何時も新ちやんが横綱の位地をしめてゐました。

 私が新ちやんをほんとうに知つたのは丁度この頃からなんです。その頃私の家は待乳山の下に住んでゐて、錦絵の下絵()りをしてゐました。ある時は可也盛んなこともあつたのですが、新らしいものを好む世の人々は『乗合船』の絵を軍艦と変へ、『鞘当』の絵を汚点(しみ)の多い写真と変へずにはゐませんでした。随つて家業の方も追々暇な日が多くなつて来たんです。それでも意地の強い父は『七代も続いた江戸つ子が吝嗇(けち)な真似は出来ねえ』といふやうな(みえ)を張つてゐた為めに私が中学校へ入つた頃は、家の中は随分ひどかつたんです。

 私と新ちやんとが親しくなつたといふのは、一つには同じ本所の学校へ通つてゐたこともあるんですがまた一つには、私の姉と新ちやんの妹とがお針友達であつた処からよく新ちやんが迎ひに来たり何かしたからなんです。姉は新ちやんの妹より三つ歳上でした。私はよく新ちやんと竹屋を渡つて、葉桜の影から学校へ通ひました。

『これが昔なら宗ちやんが八丁堀の若旦那として、私が(ちやう)の伜。そこで二人が堀の船宿へでも行つて好きな芸者をよぶんだがね。』

『さうしたら新ちやんを丹次郎といふ名にして——でも新ちやんはいつも廓の芸者を見てるから好いね。』

『だつて自分で上げて見なけりやあ――』

 と淋しきうな顔をするんです。学校の往き来にはいつもかうした話が混るのでした。

 新ちやんは彫刻などにも随分趣味を持つてゐたもんです。家へ来た時などにもランプの下で職人が刻む下絵板(したゑばん)を、夜の更けるのも知らずに見てゐたこともありました。その度毎に『上手(うまい)もんだねえ』と小首を傾けます。そして職人が『そりやあ商売ですもの』と云ふと『でもねえ――』と恍惚(うつとり)した瞳で刻まれてゆく小刀の先をぢつと見入るのが常でした。それに新ちやんは生れつき器用な性質(たち)でよく姉の(いと)で聞き覚えの『上り下り』だの『ぬれぬ先』だのを唄ふこともありました。『馬子衆のくせか高声で、鈴をたよりの小室節』こゝの節廻しが新ちやんの最も得手な所なんです。

『どうも実に凄いもんだ』などゝ父が賞める、黙つて俯いたまゝにこにこ笑つてゐました。

『男は好し、器用だし、新ちやんは今に身がもてまいよ。』

 母はよくこんなことを姉と話してゐたことがありました。

 新ちゃんが学校で『蝙蝠(かうもり)』といふ仇名をつけられたのは、夏休みになる少し前のことでした。それは灯が見えない中はめつたに外へ出ないといふ処から誰れがつけるともなく蝙蝠々々と呼ぶやうになつたんです。私も何んとはなしに面白い名だと思つてゐました。今でもあの頃の友達は新ちやんといふより蝙蝠と言つた方が通りがいゝんです。

 

     二

 

 夏体みに入つてから、最う半月の余も立つてしまひました。しかし八月の(なかば)とは云へ、川添ひの町はさまで凌ぎ憎くはなく、殊に夕立後の川風は、ぞつとする程襟元から染み入る夜もありました。

 その夜は丁度宵闇で、月のない大空を天の川は南から北へ墨絵のやうに流れてゐました。私の家では下絵を刻む小刀の音も絶えて、人々は涼みがてらに縁台を店先へ据ゑて、思ひ思ひの世間話しに耽けつてゐました。姉は座敷の柱にもたれて『ひと声』を弾いてゐます。時折り迷つて来る蛍の光りも衰へた川の面からは、どの船で吹くともなく横笛の音さへも、まつはつて聞えるんです。——私は縁側へ寝ころんだまゝ、虫食ひだらけの草双紙などをひろげてゐましたが、何時とは知らずつひうとうとと眠つてしまつたんです。——まあざつと半時も眠つたと思ふ頃、突然『宗ちやん宗ちゃん』と私を起す声がしました。ふと眼をあけると新ちやんが立つてゐるんです。見れば右手には大きな荷物を一抱へ持てゐます。私の起きたのを見ると『あゝ重かつた。』と一息ついて『宗ちやん、危ないところさ。』といふんです。私はまるで狐にでもつまゝれたやうで、何がなんだか少しも解らず『一たいどうしたのさ、新ちやん』と聞いても、新ちやんは唯淋しさうに笑つてゐます。『もしや新ちやんは自分勝手に(うち)を飛び出したのぢやないかしら』ふとこんな考へが私の胸へ浮びました。で、たゝみかけるやうに『何うしたの』と聞いても新ちゃんはやはり寂しさうに笑つてゐます。座敷から来る淡いランプの光りで、白い新ちやんの顔はすつきりと闇の庭に浮いて見えました。庭の隅で紫陽花の散る音も、たよりなげに聞えます。

 やがて少しづゝ間を置いて、新ちやんの話したのは斯うなんです。

 なんでも新ちやんのお父つあんが、よんどころない頼まれで大金の証人になつてやつた処、その人が金を借りると間もなく、ある刑事上の罪で、世の中を遠ざかるやうなことになつたのださうです。そこで何んだかんだのいさくさがあつた揚句、とうとう新ちやんの家は財産差し押へといふやうな話になつて来たんです。勿論、それは凡ての金貸しが執る形式の掛け合に過ぎないんですが。——それゆゑ新ちやんは(うち)で借りた本やなにかを、出来るだけ沢山抱ヘて来たのださうです。

『でも大概後で話はつくだらうと思ふがね』新ちやんは話の終ひにかう附け加へて、

『あゝいふ時になると人間は随分周章(あわて)るもんだねえ。こゝへ来てから思ひ出したら、可笑しいやうな淋しい心持になつちやつた。』

『誰れでもさうだよ、――だけどあんまり後のことを心配しない方がいゝよ。』

『ありがたう、どうせその中話しがつくことだもの。』

 と暫し黙つて何ごとか考へてゐたが、急に調子を変へて、

『もう月が出る時分だらうね。』

 と空を眺めてゐます。姉は何時の間にか弾く音をやめて、火鉢の前で茶を入れてゐました。

 その夜はもう大分更けてもゐるし、さういふ具合ではお家もごたごたしておいでゞせうからと、母の勧めるがまゝに、新ちやんは私の家へ泊ることになりました。新ちやんは寝る時に一つの癖があるんださうです。――それは、小さいお盆の上に立てた百目蝋燭を、水を満した硝子の鉢へ浮かせて枕もとへ置き、水に落した燭の光が、次第々々に細つてゆくと共に、いつしか眠りに入ると云ふんです。――これは新ちやんがまだ十ばかりの頃、雛鶴といふ花魁が、お客のない夜などのつれづれに、かうして草双紙のひろひ読みなどし乍ら眠るのを見て、何日の頃からともなく真似るやうになつたのださうです。――

 その晩も新ちやんはかうして寝て見ないかと云ふんんです。

『でもさういふことは、雪のふる晩などの方が好いんだらう。』

『そりやあさうだけど、二人で一緒に寝るなんてことは、修学旅行か何かでなければ、めつたにないんだから、――ね、やつて見ないか。』

『ぢやあ、やつて見よう。だけど家には硝子の鉢がないから、大きな丼でもいゝだらう。』

『なんだつて好いんだよ。』

 そこで私は丼や百目蝋燭を持て来たんです。二人はランプを消して蝋燭を(とも)しました。水に反射する光りは青い蚊帳にほんのりと薄い色を投げてゐます。私は姉の文箱(ぶんこ)から『燈篭流し』といふ本を出して来て、二人は小声に読みました。――享保三年文月の——といふ書き出しから、――その夜神刀正宗の因縁より、血潮は池から廊下襖まで、所嫌はず明けやすき夏の夜の廓を染めぬ。――といふ下りまで読んだのです。

 上野で九つの鳴るのを聞きました。かうしていづれが先へ眠るともなく、疲れた二人は思ひ思ひに浮草の夢をたどつたのでした。

 その夜から十日ばかりの後、新ちやんの家はなんとか話しがついたんです。併しその時の損失は、新ちやんの家に取つては思ひがけない大穴なのでした。

 その後新ちやんが三年になるまでは、真く廓の子としては珍らしい程真面目でした。

 

     三

 

 新ちやんと小菊との噂がぱつと高くなつたのは、丁度新ちやんが十八の歳で秋も早十一月の末のことでした。

『近頃ぢや新ちやんも、あとへは引かねえ(ちやう)での利者(きけもの)でさあね。』

 顔なじみの若衆(わかいし)などに、よくこんなことを云はれて、ひやかされることもありました。その頃から新ちやんは学枚も休み膀ちになつて、一週間に三日はきつと休むのでした。

『蝙蝠は近頃お安くないんだつてな。』

『夏痩せが通りこして秋やせかい。』

『新ちやん、可愛がられすぎ。――』

『カツパがはやるぜ。』

 同級の者はてんでにこんなことを云つて、新ちやんを調弄(からか)ふんです。『カツパ』と言ふのはその頃私達の連中で流行(はや)つた言葉で、学枝をescapeすると言ふのと同じ意昧なんです。初めは一週間に三度であった『カツパ』も四度になり五度になり、果てはまるで一週間が一週間学校へ出ないこともあました。

 

 その年十二月に入ると共に目切(めつき)り寒さが増して、早なかばともなれば、冬の眠りに大空は日毎に雪を催ほしてゐました。

 ある薄雪の降る晩のこと、私は行く度に溢れる新ちやんの家を、今宵も訪れる気になつたんです。流石は雪の夜だけに、ひやかし彼方(かなた)の格子、此方(こなた)の格子と、まばらに影を見せるだけのこと、新内の糸が枯柳と縺れ合つて、悲しい花魁衆が胸の底ですゝり泣きするやうな夜です。

 私は新ちやんがいつも、『かまはないから店からお入りよ』といふのをその夜も刎橋を渡つて裏から入りました。新ちやんが婆や婆やと呼ぶお信が、角火鉢に坐つて足袋を継いでゐました。

『今晩は。婆やさん新ちやんは。』

『おや、宗さん。よくこのお寒いのに。』

『寒いからつて惚れ合つた仲だもの。』

 お信は、はゝゝゝと大きく笑つて、

『真く今夜こそはおいでゞすよ。――まあ濡れますから早くお入んなさい。』

『ありがたう。それてば、新ちやんも近頃浮気だつてね。』

『えゝもうもう』と薄笑ひをしてゐるんです。お信は誰にでもお世辞のいゝ婆やでした。

 私は傘をお信にあづけて、馴れてゐる家ですから別に案内もなく、長い廊下を新ちやんの部屋へゆきました。幽かに重ね草履の音が聞えます。――よく廊下で廻しの花魁に出逢ふこともありました。――新ちやんは机の前で何か(しき)りに書いてゐましたが、ふと障子をあける音に驚いたやうな面持をしてふり向きました。

『よく今夜は家に落ちついてゐたね。』

『はゝ憎いよ。』と新ちやんは私の(てのひら)を一寸抓つて『雪がふるぢやあないか。』と笑つてゐます。見れば指先には爪紅さへも差されてあるんです。新ちやんがかゝる場合、かゝる言葉を使ふのは、近々半年ばかりの間に驚く程上手になりました。

『近頃学校に何か変つたことがあるかい。』

『うゝん、相変らずさ。――それに私も少し頭が悪いんで半月ばかり休んでゐるから。』

『さうかい。俺も試験前だけれど、天長節からこつち、まだ二三度しか出ないんだよ。もう来年はどうせ落ちる覚悟なんだから、(ちつ)と遊ぶんだ。』

 私は一寸返す言葉がないので、見馴れた部屋の装飾など今更らしく見廻してゐました。

『此頃は昼間つから小菊の二階でぶらぶらしてゐるんだから、宗ちやんも休んでゐるんなら退屈しのぎにやつて来ないか。』

 新ちやんはこんなことも平気で口にするんです。

『私は寒がりだからとてもゆかれないよ。大きに出かけて行つて、思ひ切り二人の寒い処を見せられちやあ、凍え死でもするかも知れない。』

『なあに平気さ。たまには一合位は附けらあね。』

 と涼しい顔をしてゐます。話の絶え間には新造や若衆が廊下を急ぐ足音や、乱れ調子の三下りなどにまつはつて、雪の音さえ聞えるんです。

 新ちやんは(てふ)で生れた若い女が、近頃奥山へ玉乗りの女を買ひに行く事などを話してくれました。――例へばそれは遊び疲れた江戸の民衆が、永い眠りの夢の中から媚薬を求めたやうに、男心に厭き果てた廓の女は、誘はれるともない同性の愛を、玉乗りの子に求める者もゐるのでした。――

『随分変つた話しだけれど、真く(こゝ)で生れた女には変つたのがゐるんだよ。』

『だが何んとなく身に沁みるね。』

『さうか、おい。』

 と新ちやんは笑つてゐる。義太夫の流しが思ひ出したやうに聞えだす。

『少し歩いてみようか。かういふ晩の廓もまた別だよ。』

 と茶を飲みながら新ちやんが云ふんです。私も(さつき)から少し手持不沙汰のやうな気がしてゐたので、『いゝね』といふやうなことにしました。どうせ大門は帰り道なんです。

『一廻りして帰つて来よう。俺が羽左の暁雨でゆくから、宗ちやん高麗屋の釣庄で来ないか。』

『なんだい声色をやらうていふのかい。』

『まあそんなもんだね。』

『なんだか馬鹿な寒さだぜ。また狂気が通ると思はれるんだよ。』

『大丈夫。顔は蛇目(じやのめ)で隠してしまふから』

『なにしろ出よう。』

 一寸新ちやんの仕度が十五分。廊下で『おたのしみ。』と云ふ女の声を聞き捨てゝ、

『もうお帰りですか。お危なうございますよ。』こんなお信のお世辞を後に二人は外へ出ました。角海老の前まで来た時、大時計は十一時を指してゐたんです。雪は小やみなしに降つてゐたものと見えて、屋根は大方白くなつてゐました。

『これぢや明日は大分積りさうだね。』

『積つた方が気が落ちついていゝよ。——時に宗ちやん、俺は暁雨をやるよ。』

『暁雨々々つて、暁雨が化けて出さうだね。だがほんとうにやるのかい。』

『ほんとうとも、俺は真剣だよ。』

『ぢやあ、一寸待つておくれよ。今手拭を被つちやうから。——通りがゝりの人に覗かれでもしてごらんな。——』

『よくある奴さ。』

 と新ちやんは澄してゐます。

『ぢやあ、やるから好かつたら、なんとか頼むよ。』

『いよいよやるのかい。それにしても連れの者が賞めちや、をかしいよ。』

『賞めまいと思つても、好くやられるとつい口に出るもんだ。』

 そこで新ちやんは橘やの声色で、大口屋暁雨をやつたんです。

『花の廓の仲之町、滅多やたらに犬猫の、生皮を剃ぎ大仰に、歩かせるとはよくねえことだ。』

 声は雪の夜の廓を、隅から隅まで響けとばかり高いのでした。

『どうだい、名調子だらう。』

『張店の花魁が目を廻すよ。』

『はゝゝ』と大きく笑つて、鼻唄で『かねてより』をやりながら歩きました。すると突然、ある茶屋の前まで来ると、新ちやんの傘へ上からなにか投げたものがあるんです。見れば女持の煙草入なんです。新ちやんはそれを手早く拾つて、ふと上を見ると、手摺にもたれて小菊が笑つてゐるのでした。新ちやんの方でも軽く笑つてそのまゝ行き過ぎる。――煙草入の中には五円札が一枚と鼈甲の櫛とが入れてありました。

『はて憎からずとな』と莞爾(につこり)して、『これだから学校へも出られない訳さ。』と云ふんです。

 事実かうしたことから廓の子の多くは、己が身などを省るいとまが、なくなつてしまふのでした。

 その夜新ちやんがもう一度家へ寄らないかといふのを(ことわ)つて、大門口で別れて一人夜道を帰りました。雪の夜更は剃刀の刃よりも冷たい川風に、何処からともなく、こほろぎの鳴く音さへ身に沁みました。

 木枯の年もおしつまつて、廓では門松や縁起棚の飾りつけに忙しいある日、小菊が仲之町から新橋へ住み換へて、自前になつたといふことを、ふと私は耳にしました。

 

     四

 

 あの大火事で新ちやんの家が焼けたと聞いた時には、私の家はもう山の手へ越してゐたんです。それまでに新ちやんの家は、お父つあんが捨鉢の道楽から、大方の物は人手に渡つてゐたのでした。火事には左巻きにした十六枚の証文も、人目を引いた羽子板も、綺麗さつぱり焼けました。

 その後満一年といふものは、新ちやんが何処に居るか家が何処に在るか、それさへ私は知らなかつたんです。――しかし私は或る時かういふ噂を聞いたことがありました。——火事があつて間もなく、新ちやんの妹のお房さんが嫁に行つた先を離縁になつたんです。その時新ちやんは先方へ出掛けて行つて、

『気に入らねえ位なら、なぜ初めつからことわらねえんだ。(うち)だつて(せん)のやうにしてゐりやあ、お(めえ)のやうなはした野郎になんで可愛い妹をやるものか。三日にあげずの役者買ひに、世間の奴等に泡の一つも吹かせてやるんだ。お気の毒だが、おはぐろ(どぶ)孑孑(ぼうふら)でも煎じて些と持薬にお飲みなせえ。』

 と大きなたんかを切つたんださうです。私はこのことを聞いた時、新ちやんの変つてゆくさまが眼に見えるやうな気がしました。

 

 丁度花時のことでした。私は民さんと云ふ友達と百花園へ行つた帰りに、数馬屋の光ちやんを訪ねようと思つて、今戸まで来ると、角の呉服屋から今、広告の楽隊が出るところなのでした。ゆつたりとした春の光の中に、金モールをつけた楽隊師を取り巻いて、子守や子供が多勢たかつてゐます。するとその楽隊師の中に、片隅の縁台に腰を掛けて新聞を読んでゐる男があるんです。色眼鏡こそかけてはゐるが、その男が新ちやんにそつくりなので、私と民ちやんとは申し合せたやうに『新ちやん』と早口に呼んでみました。その男はふと顔をあげたが、日向で新聞を読んでゐたせゐか、一寸見当がつかないらしいんです。それでも此方では先が顔を上げると同時に、それが新ちやんであるといふことがすぐ解りました。此方から呼んだやうなものゝ、私も民ちやんも全く意外だつたのです。

『どうしたい。』

 と先づ民さんが新ちやんの肩を叩くと新ちやんは『はゝゝ』と声高に笑つて、

『いやもう久し振り——二人共相変らずをかしな顔をしてゐるな。』

 と驚いたやうな顔もしないんです。

『でもまあ、どうしてこんなものになつたのさ。』

『みんなカツパの(ばち)なのさ。』

 他の仲間は変な目付で私達を、きよろきよろ見てゐます。新ちやんは呑気さうに煙草の煙を輪に吹きながらかう云ふんです。

『知つての通り俺も去年の火事から此方(こつち)、すつかり下落しちやつてね。(なか)(うち)は駄目になつちやつたし、それに親父の行衛が知れないんで、初め二月ばかりは例の小菊の家に厄介になつてゐたのさ。だけど先も抱(かゝへ)の三人もある身だし、それに男が入り浸りになつてゐては何かに付けて家業の方にも障るんだらう。で俺も仕方がないからごろごろしてゐる中に覚えた、こんな笛を種に楽隊師の仲間へ入つたのさ、さうして去年の六月からこの二月まで、新潟や青森を廻つて安芝居だの手品だの、活動だのゝ楽隊師をやつてゐたんだもの。――まづ安泰さ。』

 と心配らしい気色もありません。

『でも随分苦労しただらうね。』

『なんの平気なものさ。却てどんなに気楽だか知れやしない。何しろ取つた金はそのまゝ、女と酒につぎ込んでしまへばいゝんだもの。』

 一寸考へるやうな眼付をして、

『それにまだこんなことがあるんだよ。この間やつぱりかうして人形町通りを歩いてゐると、お座敷だかなんだか、小菊がメリケン輪で向うから飛ばして来るんぢやないか。そりや俺の方はこんな色眼鏡をかけてゐるから、先では解るまいと思つたが、もし目付かりでもしたら、といふやうな気がしたので、いきなり共同便所へ逃げ込んぢやつたのさ。今考へると、俺はその時が生れてから一番の寒さだつた。』

 辺りにゐる者までが訳も知らずに笑ひました。町は何時しか風が出たやうでした。広告の旗持ちの中には小声で浪花節を唸つてゐる者もあります。軍用パンを噛つてゐる男もありました。

『それにしてもこれから先どうするつもりなのさ。』

『そりやあその中どうにかするがね。今の処これで結構なんだよ。』

 新ちやんは自分からもうあきらめてゐるらしいんです。暫し話しは途切れました。その中旗持が先へ立つて、楽隊は出る仕度を始めました。新ちやんは落ちついて、

『また何処かで逢へるから、(みんな)に会つたらよろしく頼むよ。』

 と云つて楽隊の仲間へ列んで入りました。広告隊は『扶桑の空に聳えたつ』といふ唱歌を奏しながら、千住の方へ行つてしまひます。私と民ちやんとは、いとゞ寂しいやうな気がして、旗の影が見えなくなるまで、ポストの傍に立つて見送つてゐました。

 花見帰りの、稚児輪が毀れた牛若九や、七つ道具を曳き擦つた弁慶が、埃の中を入り乱れて通りました。

 

 それから二月ばかり立つた或日のこと、近頃新ちやんはお神さんをもらつて、浅草の活動へ出てゐるといふことをふと聞きました。で、雨のふるのもかまはずに、其の夜すぐ公園へ行つて見ましたが、どの楽隊師の中にもそれらしい人はゐないんです。一々木戸で聞くのもいやですから、その晩は二三の写真を見て帰つて来てしまひました。するとその後二三日立つてこんなはがきが来たんです。

  たいへん御不沙汰をした。こんだ女房をもらつて、浅草のF館へ出たから、赤い服の着振りの好いところを見に来ておくれよ、裏の窓の処で呼んでくれゝば直ぐ出てゆくから。……河童の新 敬白。

 私は本所の民ちやんを誘つてその晩すぐ見に行きました。唯裏窓の処といふんですから、初めてなので勝手が解らないで困りました。

 中では泥棒が逃げる処をやつてゐると見えて、切りに進行曲を奏してゐます。時々窓の硝子越しに赤い服が見えますが、どれが新ちやんなのか、少しも解りません。私達は暫く奏楽の止むまで、窓下にしやがんで煙草をふかして待つてゐました。

『本当にこゝにゐるのかしら。』

『そりや大丈夫だらう。なにしろ端書まで寄越したんだから。』

『――まだやつてんのか、随分永い写真だな。』

 民ちやんは下駄の歯を敷石でぎいぎいやりながら、(もどか)しがつてゐるんです。忘れられたやうに電気は、窓から淡い光を二人の足元に落してゐます。やがて微かな(ベル)の音がすると共に奏楽は、はたと止んだんです。私は起つて窓近く寄りました。そして硝子戸を軽く叩きながら、『新ちやん、新ちやん』と呼んで見ました。三四度目に『おゝ』と言つて顔を出したのは、赤い服の新ちやんだつたのです。いやに一寸首を曲げて、活動写真式の挨拶をするんです。

『あゝもうかぶれたな。』と私は思ひました。

『いますぐ出て行くから一寸待つて呉れないか。』

 と新ちやんは言ふんです。

『好いのかい無暗に出歩いて。』

『ネバマイン。』とぽんと額を一つ叩いて、

『越後から買はれて来た花魁ぢやあるまいし。――』

 新ちやは結城紬に、渋い博多帯をしめて出て来ました。

『大分待たせたね。今の写真は泥棒の所なんだね。』

『泥棒は泥棒だが、毛唐の芝居だから俺は(みんな)と一緒に吹いてゝも、とんと合点(がてん)がいかねえのさ。』

『野暮な楽隊だなあ。』

 と民ちやんは笑つてゐます。

『でもよくそんなんで勤まるんだね。』

『そりやあ男がよくつて、スタイルが好いからさ。こゝへ来る女は写真を見るのぢやなくつて、俺を見に来るんだよ。』

 私と民ちやんは黙つて新ちやんの顔を見てゐました。

『ところで今夜は二人で何か奢つてくれるんだらうね——どうもご馳走さま。』

『とんでもない話しだ。無論お神さんをもちたての者が奢るのさ。』

 と民ちやんがひやかすやうに云ふと、

『冗談言つちやいやだよ。おいご両人。手前は芸人で。――』

『お。楽隊でも芸人の中かね』

『云はずもがなさ。西はワグネルから東は水村の新ちやんまでゞげす。』

『新ちやん、お前も随分達者になつたね。』

『これも浮世のうつり変り。』

 と新ちやんは澄してゐるんです。

 

 その晩三人は仲見世で一杯飲んで、思ひ思ひに別れました。もう二月にもなりませうか。

 廓の子は今も尚、赤い服の楽師をしてゐることでせう。雨の夜などのつれづれには、淋しくもつひあの頃のことが思はれます。

(明治四十五年七月)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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邦枝 完二

クニエダ カンジ
くにえだ かんじ 小説家 1892・12・28~1956・8・2 東京生まれ。母方の叔父が浮世絵収集や江戸戯作者を好む通人であったところから、少年時代からその影響を受ける。中学卒業後、慶応予科、東京外国語学校に席を置いたことになっているが、学生とは名ばかりで、創作に熱心であった。永井荷風に師事し、一時「三田文学」の編集たずさわる。「時事新報」記者、帝国劇場文芸部をへて文筆に専念。代表作に「東洲斎写楽」、「お伝地獄」がある。

掲載作は友人であった吉原の引き手茶屋の息子をモデルにした処女作で、永井荷風に認められ、「三田文学」1912(大正元)年9月号に掲載された作品である。

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