ひとつの道(抄)
目次
岡の上で
悪魔悪魔とののしる声が表にする
レオナルド ダ ヴィンチは薄暗い奥の仕事場で
ぢつとこの声をきいてゐた
そしてさつきノートに書きつけたばかりの文字を
ただぼんやり見下してゐた
限本動力よ
恐るべき汝の公平さよ――待つて下さい
そこで読むのを待つて下さい
日は沈み
岡の上はうすら寒くなつてくる
私は静かに顔を上げ
西の空の夕映が薄れてゆくのを
悲しく眺めた
レオナルドの最後の晩餐
何処か知らない遠いところを思ひ
ただそつと坐つてゐるキリスト
来るものは来る
形のあるものは無くなる
善も悪もない
何処か知らない遠いところを思ひ
ただそつと坐つてゐるキリスト
秋
さうか
これが秋なのか
だれもゐない寺の庭に
銀杏の葉は散つてゐる
妻の柩
白紗のたびに脚絆をつけて
それに
本当によく似合ふ
葬儀屋さんのいふ通り
十万億土の旅へ出るやうだ
音もしない
遙かな遙かなきれいな途
枯れた萱のやうな杖をついて
ほそぼそと一と足一と足のぼつてゆく
著物や持物は汚なくて重たいから
この侭そつとしてやりませう
妻の死
糸巻の糸は切るところで切り
光つた針が
並んで針刺に刺してある
そばに
小さなにつぽんの鋏が
そつとねせてあつた
妻の針箱をあけて見たとき
涙がながれた
三番叟の舞
右に左に
右に左に
腕を動かすから鈴がなる
草木が風にゆれてゐるやうに
人間らしい
やがて穏かに風はやみ
体はとまる
腕もとまる
鈴もとまる
それで終る
父母の前へ
そこらで倒れて死ぬことも出来ず
かうして帰つて来ました
日本に残つたたつた一人の男の子供
世話もしない
行くところへ行く
それでも手に汗を握つて言つたのでしたが
帰つて来ました
親であつて親でなく
子供であつて子供でない
或ひは親子と言ふものはさうかも知れない
其処へさう思ひつつも帰つて来ました
親だから子だからといふ一番らくな道を通つて
卑怯にも帰つて来ました
私はここへ坐り白髪を見
手をついて立つその腰も見てゐます
しかし暫くたてば
世の親にするやうに挨拶をして
再び何処かへ行くでせう
灰をならす手をとめて
顔を見て下さい
私は帰つて来ました
梅 雨
蔵の瓦から雫がおちて
蜘蛛の巣はゆれて
ものさびしい
苗代からは
苗をたばねる人たちの
話もきこえる
戦争に際して思ふ
一 最勝
世界万人に真に勝つ武器は
神のやうに無手でありませう
前を正しく見て
物を持たないことでありませう
また持たうともしないことでありませう
わたくし共は父母の子でありますけれども
創りは独り
茫々とした天と地の子
我が物と思はないことであります
手は垂れて何も
慈悲と無慈悲の中ほどに立つて
身体のいづれにも力を籠めぬ
あの平かな姿であり
言葉であり行ひでありませう
春の海の雨
柔かな雨はふつて
砂をしめらしてゆく
向ふの松はしだいに薄らいで
なくなつた
今はなにの音もなく
すくない波は
渚までくるが
そのまま帰らない
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/03/04