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「日本」創刊

   「日本」創刊の趣旨

 

 新聞紙たるものは政権を争ふの機関にあらざれば則ち私利を射るの商品たり。機関を以て自ら任ずるものは党義に偏するの(そしり)を免れ難く商品を以て(みづか)()るものは或は流俗を()ふの(あざけり)を招く今の世に当り新聞紙たるものゝ位置()た困難ならずや。(しか)りと(いへど)も自党の利益を謀るに偏して(みだり)に異論を唱へ曲事(ひがごと)(おほ)ひ以て自ら政党の機関なりと称するものは新聞紙たるの職分に欠く所なき()。時の流行を()ひ俗の好嗜に投じ昨是今非(さくぜこんぴ)(がう)も定見あるなく(ほしいまま)に文筆を弄して只管(ひたすら)読客の意を迎へ以て自ら政党外に中立すと称するもの亦た新聞紙たるの職分に欠く所なき歟。

 (わが)「日本」は(もと)より現今の政党に関係あるにあらず然れども亦た商品を以て自ら(あまん)ずるものにもあらず吾輩の採る所既に一定の義あり「日本」の趣旨を特に掲出して初刊の緒言(しよげん)に代ふ

 

 徳操勇気の以て(その)本領を保つなく唯だ勢に(はし)り俗に媚るは自立の道にあらざるなり一個人と一国民とに論なく(いやしく)も自立の資を備ふる者は必ず毅然侵す(べか)らざるの本領を保つを要す近世の日本は其本領を失ひ自ら固有の事物を(すつ)るの極殆(ほとん)と全国民を挙げて泰西(たいせい)に帰化せんとし日本と名づくる此島地は漸く(まさ)に輿地図の上にただ空名を懸くるのみならんとす二三有識の士あり能く時弊を痛言して大勢の狂奔を(ふさ)ぎたれども是唯壅ぎたるに(とどまり)(いまだ)之を正路に()へすの功を(まつた)ふせず日本国民は(まさ)に渦水の上に漂ひて其根拠を失ふものゝ如し「日本」は(みづから)(はか)らず此漂揺せる日本を救ひて安固なる日本と為さんことを期し先づ日本の一旦亡失せる「国民精神」を回復し且つ之を発揚せんことを以て自ら任ず「日本」は国民精神の回復発揚を自任すと雖も泰西文明の善美は之を知らざるにあらず其権利自由及平等の説は之を重んじ其哲学道義の理は之を敬し其風俗慣習も或る点は之れを愛し特に理学経済実業の事は最も之を欣慕す然れども之れを日本に採用するには其泰西事物の名あるを以てせずして只日本の利益及幸福に資するの実あるを以てす故に「日本」は狭隘(けふあい)なる攘夷論の再挙にあらず博愛の(かん)に国民精神を回復発揚するものなり

「日本」は外部に向て国民精神を発揚すると同時に内部に向ては「国民団結」の鞏固を勉むべし故に「日本」は国家善美の淵源たる皇室と社会利益の基礎たる平民との間を近密ならしめ貴賎貧冨及都鄙の間に甚しき隔絶なからしめ国民の内に権利及幸福の偏傾なからしめんことを望む「日本」は国民の富力を増さんが為め実業の進歩を期し国民の智力を増さんが為め教育の改良を期す

「日本」は批評諷刺の方法に依り常に善悪邪正の分を明かにせんことを勉むべし蓋し今日百般改良の実を挙げんには政治法律の力よりも(むし)ろ社会の公徳を啓発するに()くものなしと信ずればなり要するに「日本」は内外に向て共に信義を旨とし我が「君子国」の称を回復発揚するに外ならず是の故に「日本」は必しも二十三年(の憲法発布=文藝館注)を(まつ)て多数を国会に占めんと欲する一政党派の欲望を充たすの目的あるにあらず又(いたづ)らに文舞はし筆をも(もてあそ)びて無責任の言論を恣にするのみにあらず「日本」は日本の前途に(よこた)はる内外の妨障を排し「日本国民」をして其天賦(てんぷ)の任務を(つく)さしめんことを謀るに在り

 ()し夫れ新聞紙たるの価値(かちよく)如何(いかん)は読者の慧眼の在るあり「日本」()に自ら(あらかじ)め之を誇称せんや

 

(明治二十二年二月「日本」)
 

   「日本」と云ふ表題

 

 本紙を発行するに当り読者の誤解なきを保し難ければ(あらかじ)め一言し置くべき事あり本紙の表題を目して或は傲慢に過ぐると為す者あらん()、此の表題を(かか)ぐるに当り吾輩(わがはい)にして之を一の特有名称となし専用()しくは誇示するの意ありとせば傲放の(そしり)(もと)より免れ難しと(いへど)も吾輩は何ぞ(かく)の痴愚虚飾を事とせんや日本は往時西洋諸国を蔑視して毫も其の事情を(わきま)へざりしが一たび国を開きて此等諸外国と交を結びてより有形無形数多(あまた)の点に於て彼の我に優ること遠きを知り(とみ)に洋風模倣の意を生じ百事(のり)を彼に取るに至れり是に於て西洋事物の我国に伝来すること決水も(ただ)ならざるは(すう)の免れざる所にして怪むに足らざることなれども其結果に至りては(おほい)に吾輩の望を失へる所なり有益純良なる結果と共に悲むべき痛むべき事実も亦出現し来れり、

 第一に政治論に就きて之を言へば権利及び自由の説は一方には共和的無政府に近き粗暴劇烈なる主義を生じたると同時に他の一方には極端なる独逸主義の論者はビスマルクの専制主義を羨慕するあり学説に就きて之れを言へば一方には鄙猥なる疑世論及び虚無論ありて之を奉信する人々は空寂無為の内に人世の活動を忘れ冷淡嘲笑の間に社会の事物を議し又は只だ肉体五官の楽を是れ事として一世を徒費せんとす他の一方にはダルウヰン及スペンセルを妄信する軽卒なる学者あり至適生存の理を諸般の事に適用して百事泰西の開化に()かずとなし甚しきに至りては我日本人民をも悉皆カウカシヤン人種に化せんことを望む者あり。此他或はベンタムに沈溺し或はミルを過信し真正の最多幸福主義を誤りて最も淺劣なる貧楽主義(エピキュリズム)に陥る者あり彼の経済と実業とは吾輩も亦之を我国に適用して最も便益あるべしと信ずる所なり然れども是亦西洋主義の極端論に苦められて弊を受くること甚し、此等の徒は(やや)もすれば時代と場所とを顧みずして僅々の年月にバルミンガム(もし)くはシカゴの盛観を我国に致さんと期し二三の牛蜞(ぎうき)のために貧困なる幾百万人の利を(なげう)つも恬然(てんぜん)意に介する所なし此の徒は只だ富人政治のみを以て極楽界と看做すものなり、

 我工藝は欧洲著名の批評家も其の特立固有の美あることを許せり然れども是も亦西洋の機械製品に()かずとなして放擲(はうてき)する者あり所謂演劇院本等の改良論も亦同一の心酔に出でたるものなり、法律は人民に必要緊急なるよりして起るべきものなるに是も亦西洋の甲国又は乙国の法律を翻訳模擬するに外ならず、人民の風俗も亦容易に変更すべしとの妄想を抱くものあり其理由は人民の習慣伝制嗜好経済等に適すると否とにあらず只彼は欧洲にして此は日本なれば宜しく欧洲風に化せしむべしと云ふにあり、斯くて男女日用衣食住の具、遊戯歌舞の法に至るまで挙げて西洋に(なら)ひ資本もなく技巧もなくして開明国の奢侈(しやし)を我が首府に移さんことを望み()(みづか)ら世界の首府とも謂ふべき巴里(パリ)の豪華を夢みつゝあるが如きは(いたづら)に西洋に心酔する者の通観なり、

 以上に述ぶる所は是れ実に近来に起りたる事実の(おも)なるものなり其他は枚挙に(いとま)あらず、

 今吾輩が非として論ずる所は此の極端なる西洋主義にあり其理由は他なし只此の西洋心酔を以て我国の利に非ずと信ずればなり、抑々(そもそも)今日に於て西洋諸国の我に優れる開化を占むることは何人(なんぴと)たりとも之を知らざる者なかるべし吾輩も亦権利自由の説を(おもん)じ此等諸国の法律を貴ぶ者なり吾輩は哲学道義の理を敬し西洋諸国の工技文藝を愛するものなり其経済的実業的の事に感服するものなり風俗習慣の或るものに就きても吾輩も亦西洋を欣慕することなきに非ず、然れども此等重愛する事を我国に伝へて採用するに至りては大に其適否を考へざるべからず採用は実に主要の問題なり吾人は西洋事物を只其西洋事物たるを以て採用せず日本の利益幸福なるが故に之を採用する者なり西洋に於て善良なる事物も我国に移して適当ならざるものは棄てゝ之れを顧みざるなり、吾輩が本紙を発刊するの意も亦実に此にあり日本のため日本存在のためにありて毫も他に非ず読者幸に此意を諒せば吾輩の此の表題を掲ぐるも亦失当ならざることを知るべし。

 

(明治二十二年二月「日本」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/11/18

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陸 羯南

クガ カツナン
くが かつなん 思想家・出版編集者 1857・10・14 現在の青森県弘前市に生まれる。原敬らと法学校に学び、「青森新聞」編集長等を経て憲法制定の「取調べ」の任にも当たり、さらに新聞「東京電報」社長に転じ論陣を張ったが、1889(明治22)年2月11日新聞「日本」を創刊、社長主筆として優れた論説・評論により世論を刺激し鼓吹した。1892(明治25)年12月、大学を中退した正岡子規を入社させ、以降10年子規の文学文動を終始庇護したことも忘れがたい。漢詩人でもあった。

掲載作は、「日本」創刊に当たり唱える日本主義のいかなるものかを簡明に語って、同時代を批評している。出版・編集の英邁な先駆の一人。

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