嵐に抗して<昭和5年(1930)発表>
工場から帰つて見ると置き手紙があつた。筆跡は同居人の吉村である。
「僕の帰る迄待つて居てくれたまえ」と、吉村は私が今夜九時迄に工場分会に集会が在るので、出席しなければならない事は知つて居る筈だつた。それなのに、私が工場から帰るのを待たずに、置手紙をして行つたのには、分会に対する特別の問題があるのか、又は分会の集会よりもつと重大な仕事が出来たのか、
翌日私は六時に目を
吉村も私も、良く武村の所へ遊びに行つた。武村は現在は四・一六の犠牲者として市ガ谷に居る。武村が捕われてからも私達は遊びに行つた。妻君はミシンで自活をして居り、外に多少は意識のある婦人が二人居た。武村はインテリ出ではあるが、しつかりした男だつた。が、妻君はどちらかと言えばのんきな方だつた。だからと云うわけでもあるまいが、武村の家は合法性が充分あつた。スパイは、武村の家を問題にして居なかつた。私達は自分のアドレスを秘密にしておく関係上、
「吉村がやられたのを知つてるか?」と尋ねた。私は、
「今調べに来たのだよ」と云つた。
「まあいいや、上がれ」と元気良く先に階段をあがつて行つた。高田の話によると、一昨日未明に武村の家は総検束された。それもA暑とK署が共同であつた。検束された人達はA署に持つて行かれ、共同で取調べられた。吉村と私を捕まえ様と云うのだ。だけど武村の家で私達のアドレスを知つて居る者はないのだ。尤も外にも知つて居る人はないのだが、それで妻君達はカミの毛を持つて引ずり廻され、皆の居る前で裸にされ水をひつかけられた。だが知つて居つても自白はしないのに、知らなければなおさらだ。スパイ共は、仕方なく私達が武村の家に行つた所を捕まえ様と、妻君だけ帰し
A署は本所だがK署は東京の西の府下にあるのだ。其のK署には四・一六後引続き幹部が捕まり、戦線は四分五裂になつて居る中を、一人活動して居て遂に捕まつた
「森さんからレポが来たよ」と云つた。私は喜んだ。妻君及び婦人達の話に依ると、レポに来た男は、四十歳前後で身体のガッシリした眼光のするどい、一クセのあり相な
「森君からたのまれて来たのだが、吉村と云う人は居りませんか? 木村と云う人でも良いですが」と云うので妻君は、
「居りませんけれど、時々は来ますから用件を書いて行つて貰えば間違いなく渡します」と云うと、
「いや、そんな事は出来ない。秘密な事だから……是非会つて話さなければならない」と云つて居るので妻君は、
「それでもし来たら、そう云つておきます」と云うと、
「では又、九時頃来るから」と云つて帰つて行つた。私はどんなことをしても是非此の男に会わなければならないと思つて、おそくも九時迄には必ず来るから、来たら待たせて置いてくれと、妻君達にたのんで、私は武村の家を出た。出る時には、同志に会う約束の時間が定まつて居るので、いそぎは仕なかつたが、帰りにはガマ口のソコを叩いて青バスに乗つた。私が武村の家に着いた時は九時に二十分もあつたが、其の男は帰つた後だつた。私は妻君達に不平を云つた。
「あれ程たのんで置いたのに、どうして帰して終つたのだ」と……
「そんな事云つたつて、用事があるから待たれ無いと、云うのだから仕様がない。でも明日十時頃来ると云つて行つた」と、私は残念だつたが、又何処となく不思議な点がある様な気がした。
其の夜私は吉村と話し合つた。其の男と逢うか? それとも逢わないか? 逢うとすれば工場を休むか? それとも工場を知らせて、工場で逢うか? 結局は、工場は重要だからスパイでないとしても知らせる事は良く無い。休んで武村の家で逢う事にした。翌日私達はスパイである場合を思い、武装し××迄持つて行つた。十時半頃其の男は来た。成程ブタ箱に居たせいか、ヒゲは長くのびて居り、一クセありそうな奴だつた。私は其の男を二階の一間に入れ、私は階下に降りて武村と話し合つた。スパイとしても彼奴一人ならば平気だが外に来ては居ないかと思つて、外に出て、附近を注意して見たが、それらしい者は居なかつた。それでも時間を見計つて来るやらわからないと云うので、妻君や婦人達にピケをたのみ、初めは私一人逢つた。其の男は注意深く立聞きされ無い様に、戸を皆開き、階段で一寸音がしても話を止めてのぞいて見た。私は此家は親しい内だから立聞き等する者は居ないからと云つたが、其の男はやはり注意深かつた。其の男の話に依ると森君は間借りをして居たのだが、其の家の者に密告されたに違いない。朝三時頃、ようやく眠りに就いて間もなく、ワッとすごい音がしたので、飛び起き様とした時すでにスパイ四人に押え付けられ、一人はまくらの下に手を入れてピストルをうばつて終つたので、ムザムザと捕まつたそうだ。私は何日に捕られたのかと聞くと、
「君達が浅草の電気舘の前で逢つただろう、其の次に新宿の駅で逢つただろう、其の翌日である」と、云つた。私は逢つただろうと云う時には、後でそれを否定するのに都合良い様に、あいまいな返事をしておいた。然し新宿では私達は逢つて居なかつた。正直な話をすれば新宿で逢う約束した日は第三日曜である。森君の都合で朝早くと約束したが、当時訓練の足らない私達は、前日からの疲れで朝ネボをして
私と吉村は自分の家に帰り、色々と話し合つた。最後は其のゴロツキを充分信じる事は出来ない、もしゴロツキがスパイでないなら、あれ程一心に云うのだから、僕達が居なくとも留置場破りは実行すると、云う事に話が落ち付いた。私達がゴロツキの家に行かなければ、又武村の所へ来るかも知れぬと云うので、武村の妻君の所へは、僕達は検束された、と云う様にたのんでおいた。其の翌々日ゴロツキは予想通り武村の所へ来て、どうして来ると云つて来ないのかと、呶鳴るので妻君は僕達の云つた通り、二人は検束された、と云うと、其んな筈は無い、意気地無しめ、義理知らずと、ののしつて行つたのである。其の後何事もなかつたが、予想通りスパイであると云う事は、武村の家の総検束及び吉村の捕縛となつて現われて来た。スパイ政策で失敗した彼奴等は
私は吉村がK署へ検束れたのだから早く書類を片付け自分も直ぐ逃げ様と思つて家に帰つた。二階の自分の部屋に這入つて見ると、フトンや着物や書類が室一杯に散つて居た。捜索されたなあ、と思つたか何人で来たかを知る為めに、階下の親父に対つて見た。親父達は家中の者が集まつて、捜索された事に付いて相談して居る所だつた。
私は「僕の部屋に誰か這入らなかつたですか?」と、云うとしばらく思案して居たが「本庁の者だと云つて、九人も来て畳をはぐやら天井板迄はがして調べて行つた」と云つた。私は泥棒と間違えられては、有難くないと思つて、
「私達は運動して居るので、度々こんな事をされるのですが何でもありませんよ」と気軽に云つた。
「運動つてあの共産主義と云うのですか?」
「ええそうです」と言つて私は笑つた。
「又スパイ共が来るかも知れませんから、僕は二三日帰りませんから、たのみます」と云つて二階に行き私は手早く工場へ通うに必要な、通勤簿やナッパ服弁当箱等をまとめて外に出た。然し吉村は何と意気地無しなのだろう。私は吉村と検束された場合は、少くとも三日位は自分のアドレスを自白してはいけないし、又三日位は平気で、何とでも云つて居られる筈だ。どうせ自白はさせられるのだが、三日位がんばらなければ、後に残つた者が、書類さえ片付ける間が無い。だから是非がんばる様に話し合つて居たのだ。それを満一日過ぎない内に自白して居るのだ。私はこんな様子ではもう何を自白して居るかわかつたものでは無い。又ナッパ服の内ぽけつとに入れておいた通勤簿はそのままであるが、天井裏迄調べて行つたのに此れを知らずに行く筈は無い。工場で私を捕まえ様と思つて、見て見ぬふりして行つたに違い無いと思つた。後で知つたのであるが、アドレスは間代の受取を持つて居たので早く知れたのだ。
私は歩きながら、何処の家に行つて寝ようかと思つた。私の知つて居る家は皆署に知られて居た。署に知れて居ない家を借りて居る同志は同じ同志である私達にも知らせては置かなかつた。私は止むを得ない、一時的に何処でも良いと思い、小山君の所へ行つた。小山君は親切に色々と注意し、スパイが来ても直ぐには家に入れないから、スパイと争つて居る内に窓から逃げ出す様に、窓を逃げ出すと、屋根を伝つて向う側の小路に出る事、小路は屋根がひくいから平気で飛び降りられる事等を細かく云つてくれた。其の夜、私は今度の方針等を考えて、トロトロと眠つたのは三時頃だつた。翌日は工場を休む事にした。十日間の欠勤とどけも手紙を出しておいた。日中は家に居た方が良いと云われたので、永い間のつかれで昼寝をした。私は夜になるのを待つて小山の家を出た。私は吉村の受持つて居た工場も一時的に引受けねばならなかつたので、仕事は多忙になつた。其の夜私は第一に、吉村の捕まつた事、捜索された事、吉村の引次等々に付いて打合せる為めに、上との連絡である大田に逢つた。大田と今後の方針に付いて充分打合せた後雑談に入り、大田は、まだまだ検挙の手はどんどんのびて居る事、工場地帯と云わず、山の手と云わず、全市に渡つてシラミつぶしに調べて居る事を話し君も小山の家等に居ては危険だから、早く安全なアドレスを見付けねばいけないと云われた。
小出の家に来てから三日目だつた。私は○○工場の永井と白木屋の前で逢う約束があつたので電車に乗つた。電車は空席が多かつたけれど、腰掛けるとスパイの乗込んだ時知らずにいる事があるので、腰掛けずに中央にがんばつて外を見ていた。三ッ目の停留場へ来た時、本庁の中島の奴が安全地帯に立つているのを私は早くも見付けた、此奴はあぶない! 私はもう逃げる用意をした。中島は私がいるとは知らず、前から乗込み入口に立つて中を見まわした。私は中島が前から乗込むと知ると同時に、後の出入口に来て、電車の動き出すのを待つて、飛び降りを準備をしていた。中島は私のいるのを感付き、電車を降りて捕まえ様か、電車の中を追かけ様かとまごまごしている内に電車は走り出した。私は走り出すと同時に飛び降りて逃げ出した。振り返つて見ると中島は電車を止めて降りる所だつた。私は
「馬鹿野郎、手前達に捕まつてばかりいられるか!」と思つた。其の翌日だつた。小山は
「君、僕の内等にいて、大丈夫なのか?」と云つた。明らかに何処かへ行けと云う言葉だ。私は何と返事をして良いかわからないので、ただ笑つていた、後で知つた事だが、中島の奴私を電車の中で見付けて追かけた後、嗅ぎ付けたと云う程でも無いが、小山の所にいるのでは無いか? 位に思い、小山の所へ来て、
「木村がいるだろう、いる筈だ。調べて来たのだから、かくしても駄目だ。普通の人なら同志である以上かくまうも良いが奴は党員だから君も引掛るぞ」と、おどかして行つたので、おそれて私を追出そうとしたのだ。
小山は今から十年も前鉄道に出て居り其の当時から運動をして居たと云うのだから、ずい分古い方だ。かかあも其の当時貰つたのだろうが、初めて逢つた人は必ず、
「小山の妻君は別嬪だなあ」と云う。別嬪かどうか、それは兎に角、私は小山の妻君の地顔を見た事が無い。何時でも厚化粧をして居た。小山は当時、今でもそうだが、自分の家でヒキ物をして居た。ヒキ物とは普通の鉄の棒を何の金棒でも同じだが、ニジリッ釘の様な物に簡單な機械でキザムのだ。小山は時計の何処かへ使うニジリッ釘を専門にやつて居て、工場の生活等は少しも知らなかつた。此の小山は子供は無かつたので、かかあの弟を貰つて、自分のあとつぎにしておいた。此の後ツギの頭が非常に良いのと、子供である為めに、小山の所へゆく多くの同志に可愛がられて、てつてい的にプロレタリア意識を叩き込まれてゆき、未来の戦闘的な闘士になるだろうと思われた。名は二郎と云つた。二郎は昨年小学校を終えたので、小山は中学校へ出すと云つた。私達は反対だつた。中学へ出すも悪くは無いが、第一に大工場へ入れ、プロレタリア的に叩き上げるべきだと云つたが遂に中学校へ入学させて終つた。これでもわかるように小山はプロレタリアを信じなかつた。そしてプロレタリアの味方ヅラをして運動して居た民主主義者である。民主主義者はプロレタリアの味方ヅラをして居ても最後のドタン場で裏切る。小山は其の後大山の合法党へ喜んで走つた奴だ。
私は小山にそんな事も云われたが、まだ新たに間借の目鼻も付いて居なかつた。新たに間借するには少くとも十圓は必要だつたが、私は交通費を少しばかり持つて居たばかりだし、又金の都合の出来そうな同志は私の周囲にはいなかつた。私はなお三日小山の家に居り、其の間顔の知つている友人を片ぱしからたのんで見た末、当時町工場に勤めて居り、意識はハッキリしていないが、スパイには顔の知られて無い同情者の西沢が心持良く引受けてくれた。夜になつてから私は西沢と二人で西沢の友人を尋ね歩き、友人の洋服や着物を質に入れさせてやつと八圓都合が出来た。私は一人で間借をしていては、とても経済的にやつてゆかれる見込が無いので、西沢も同居する事を勧めた。西沢は意識ははつきりしていないが、大工場の経験もあるし、人間的にはしつかりしているし、又運動もしたがつているので、私は運動に引入れて見ようと思つたので。西沢も喜んで私に賛成した。私達は直ぐ帰り道をハリ紙を見当に貸間を尋ねた。貸間は沢山あつたが、私は署に顔を知られていないので、T署の管内である事と、おそわれた時逃げるに都合の良い所である事とが条件だつたので簡単には見付からなかつた。二日目に私はもう厭になる程尋ねた末ブラブラと帰ろうとする時はからずも良い貸間を見付けた。二階のマドから見渡すと、其のへん一帯は住宅ばかりで平家だつた。マドから逃げ出すと屋根伝いに何処迄もゆかれた。間代も四畳半で七圓と云うので安かつた。私は此奴が気に入つたと思つて、直ぐ約束した所が敷金を二カ月分あずかると云うのだ。此れには私も困つた。然し此のへんは皆敷金をあずかつていると云うので仕方が無かつた。私はどうせもう外に金の都合出来る見当は無いし、此のへんは皆敷金をとるのなら約束の時内金だけ入れたままで、ズウズウしく借りて終うより外に道はなかつた。まして小山の家は多少感付かれているのであるから、少しも早く安全な家が必要だつた。翌日西沢の荷物を運搬し、私の荷物はまだ前の家が整理してないので、其のままにしておき西沢のふとんで一緒に寝た。私は久しぶりで気をゆるめて眠つた。めし代も月末になれば私の前の工場から金が手に入るので、それ迄西沢に前借させ立替えて貰つた。私は再び大工場に這入りたいのは勿論だが、一時的に生活を立て直す為めに町工場でも良いからと思つて毎日就職を尋ねて歩いた。一週間目に西沢の得意先で一人入用だと云うので西沢に紹介して貰つた。自転車のべル製作所である。私は此れで生活も確立し運動に専心出来るので嬉しかつた。月末もせまつて来たので私は前の工場の会計を取つて貰う為めに色々考えた末、署には合法的の人で通つている立松をたのみにやつた。立松はそれでは俺と君とは逢つていない様に、又今後も逢う必要が無いと云う様に、何とかうまくやろうではないかと、云つた。色々話合つた末、私が立松から借金をしているとして其の金を工場から受取つてくれ、私は病気で当分田舎へ帰つていると云う手紙を、私から立松に出す事にした。工場の方へも代理がゆくから渡してくれと出した。会計日には七時と九時に、立松と逢う約束をしておいた。私は七時に指定の場へ行つたが立松は来ていなかつた。九時に再び行つたが又来てはいなかつた。私は不安になり出したので、危険だと思つたが立松の家へ行つて見た。立松は帰つてはいなかつた。私はガマ口のソコを叩いても一錢もなかつた。西沢も、前借があるので、月末でも交通費位しか手に入らない筈だつた。私は今度の工場は第三土曜日が会計日だつたので、もう二人分のめし代がなく、心はあせつた。更に私は十時半頃行つたが帰つてはいなかつた。立松は少しのんきな方なのであるから、私は不安等考えずに何処かへまわつたのでは無いかと、気休めに思つたが不安でならないので、翌朝夜の明けるを待つて又行つて見たが無駄だつた。工場で検束されたに違いない。私は其日又、西沢にめし代を借りて工場へ行つた。工場から帰ると、それでも帰つては居ないかと思つて行つて見たが同じだつた。 立松の検束された事は確実である以上、金の手に入らないのも確実となつたので、私は西沢とめし代の事に付いて話し合つた。西沢は現在手に在る金は、二圓と十錢である。前借するには十日以上働ねばならないと云つた。然し二圓と十銭では二人の十日分のめし代にはどう考えてもチト無理である。二圓と十錢では一日一回も満足には喰え無い。友人達はまだ勘定を貰つたばかりだから、少し位は何とか成るだろうと、又西沢の友人の所へ行つた、然し友人は、めし屋や間代を払つて
其の頃町村会議員の選挙があつた。私は○○方面の工場の責任者だつたので選挙の時も常任に選ばれた。然し私は外に重要な任務があるし、特に吉村が捕まつた後、多忙なのでコトワッた。だが○○方面には適任者が無かつたので、是非是非と云われた。私は幾つもの責任を引受けてもとうてい全部は出来ない事も良く知つて居るし、又選挙の時には工場へ働き掛けるに、最も良い時期であり重要な時である事も知つて居つたが、その為めに自分の行動に少しでもぬけ目があつて、捕まる様な事があれば、それこそやつと付き初めたレンラクはたち切られ、戦線はますますみだれるので、どうしても引受けなかつた。だが○○方面には、
西沢はどんどん訓練されて行つた。云われた事は守り実行した。私は見込のある奴だと思つて期待していた。選挙も一段落付いたので、身体も少しは楽になつたが、大きな工場と違い町工場は、十一時間も十二時間も休み無しにコキ使われるし、めしは多い時で二回しか喰わないので、身体はだんだん衰弱して行つた。私は何とかしてめしだけ満足に喰わなければいけ無いと思つて、前借は一切駄目だと云う話は職工から聞いていたが、工場の親父に交渉してやつと、一圓だけ借りた。後は会計日でなければ払わないと云つた。私はシャクにさわつたが、現在の所非合法になつて居るので、強い交渉は出来なかつた。西沢に又前借をさせて、前と同じ様な一回食を続けるより外無かつた。
其の月も半ば過ぎた十七日だつた。私はいつものめしやへめしを喰いに行つた。顔なじみの女中は、写真を持つて貴君を尋ねて来た人がありますよ、と云つた。どんな人かと聞くと、色は真黒でブルドツクに似た顔の人だ、と云つた。私はテッキリ本庁の中島だと思つた。それでどんな事を尋ねて行つたかと云うと、私の服装や、手のよごれ迄細かく聞いて行つたと云うた。私はぼやぼやして居ると危険だと思い、めしもそこそこに喰つて飛び出した。町の四ッ辻迄来た時、成る程中島の奴ノコノコ歩いて行く。私は奴何処へ行くかと思つて電信柱の陰にかくれて見て居た。奴は秋田と云う鉄工場へ這入つて行つた。私は此れは手が油によごれて居たので、鉄工場と目星を付けられたと思つた。べル製作所も鉄工場と同様に手足は油によごれた。中島の奴片つぱしから鉄工場を探し歩いているに違いない。私の工場も同じ町内だから、わけ無く来ると思つた。私は工場の親父に又前借を交渉したが、金は無いと云つた。金の無い事は私も良く知つて居た。此の親父も前は二百人ばかりの職工を使い、相当金廻りも良かつたらしいが、今は私を入れて五人の職工が居るばかりだ。産業資本の没落と云うのだろう? 現在では大工場に圧迫され、それに対抗してゆく事は出来なかつた。そこで考え出したのが古金を使う事だ。此の工場で仕上げるベルには一ツとして新しい鉄の使つてあるところは無い。それで居て営業困難なので、材料屋は勿論、米屋や味噌屋迄今では現金でなければ鼻もひつ掛けなかつた。親父は朝から夜迄古金屋を走り歩いて、直ぐ入用な古金を見付けると、金を入れ約束だけして、夕方仕上つたベルを問屋へ納め、金を受取つて帰りに古金屋へ廻つてやつと材料を持つて来るのだつた。会計日でも満足に支払つた事は少いらしかつた。私はそれを承知していながらも、目の前にスパイの攻撃があるのでどうしても、金が必要だつた。私は金を出さねば動かない、と云つてガンバッた。親父の嬶の財布から娘のガマ口のソコ迄叩いてやつと三圓しか無かつた。三圓ばかりでは仕様がないが、と云つて無い金は取れなかつた。まごまごしていて、中島に捕まる様な事があつては取返しが付かないと、べル工場を飛出した。出るは出たが、私は此の工場へ西沢の紹介で来たのだから、中島の奴ベル工場を尋ね出せば無論西沢の所へゆく事は決つている。私は西沢の所へかけ付けた。話は後でするから前借出来るだけ多くして三四日休む様に云つて直ぐ帰つている様に、と云つて私は直ぐ家に帰つた。西沢も三十分して息を切らせて帰つて来た。私は話を一通りしてから、自分のアドレスは大丈夫かどうかを知る為めに、西沢にどんな親しい友人にでもアドレスは知らせてはいけないと、云つておいたが改めて尋ねて見た。西沢は誰にも知らせては無いが、湯にゆく時工場の小僧に逢つた事があると云つた。其奴は安全で無い、町名がわかればシラミつぶしに調べて来るし、又間代の敷金も入れるのを入れて無いから、スパイに何を云うかわからない、と思つた。所で西沢の前借は五圓出来た。合せれば八圓になる。めし代は駄目だが、間借は又直ぐ出来る。私達は書類をやき払い久しぶりで金が手に這入つたので、少し早いが夕めしを喰う事にした。食後直ぐ越される様に荷物を整理した。荷物は二人で一回背負つてゆけば良い程少なかつた。夕方湯から帰つてまごまごしていると、階下で、「二階の人」と云う話声がした。私は階段のそばへ行つて耳をすました。どうやら巡査らしい。戸別調査だ。此の戸別調査が油断のならない事は度々の経験で知つていた。其の巡査はずい分細かく調べて行つた。私は今夜あたり来るかも知れぬと思つた。兎に角今夜は此処にいる事は危険だからと西沢に注意した。十一時頃私は奴等が来たかどうか様子を見に行つた。予想通り来ていた。二階の窓を一杯に開けて、畳を引はいでいる最中だつた。外から窓を通して良く見えた。馬鹿野郎、手前達に捕まる迄、ぼやぼやしているものかと、思つて引返した。帰りに今夜は誰の家で寝ようかと思い乍ら西沢が今夜泊ると云つた家に行つた。此の家は私達の運動している事を少しも知らせて無いので、西沢を呼出して、スパイの手が這入つた事、今夜ハッている事を話して充分注意した。其の夜は私も其の家に泊つた。其の後は同志の家でも安全な所は無いので、別に定めずに泊り巡つた。新たに間借するとしてフトンも何も無いので駄目だつた。三圓の金は交通費以外には使わず、めしは泊つた同志の所で喰う事にした。西沢はわずかの間にめきめきと訓練されて行つた。私は西沢はまだスパイにも顔を知られていないし又充分見込があると思つたので、合法的な所へは出さず、少しずつ非合法的な事をさせて行つた。
小雨のシトシトと降つているうすら寒い夜だつた。吉村が連絡だけ付けておいた○○工場を私は引受け、やつと分会が出来る様に成り、初めての集会の帰りだつた。私は吉村の連絡を付けた佐藤よりは、清水の方が年は若いが見込があるらしい、今後はあれを、みつちり訓練してやろう等と考え乍ら、ブラブラと柳島の電車通りを歩いていた。
「中島の為に、多くの犠牲者を出している、少し位の犠牲を払つても、あの男をやつつけねばならない」と、実際、中島の奴は自分から生き字引だと云つているだけあつて、スパイとして、現在活動している我々の知らない、古い多くの同志を知つていた。三・一五及び四・一六でも中島の為めに多くの犠牲者を出し、又外のスパイ共は写真以外に知らない。三・一五事件以後ロシヤから帰つて来た同志等は、この中島の為めに捕まつている者が多かつた。中島は案外頭の中は空つぽな男だが、元本所の○○署のスパイで、其の管内に在つた○○○○労働組合の係をして居り、ヒマさえあれば全市の此の組合の支部を廻り歩いているので此の組合の闘士の顔は皆知つていた。此の組合は我々の指導者○○○○○が居つただけあつて多くの党員を出して居り、其の捕われた同志は、大がい中島の為だつた。私も此の組合員だつたので中島には良く顔を知られていた。然し、私はまだ運動が浅かつたので、街で逢つても署のスパイ共には気付かれずに通り過ぎる自信は充分あつた。だが中島の奴にはそうはゆかなかつた。そして又スパイとして此んな熱心な奴はない。ヒマさえあれば運動している人の家を巡り歩き工場の終業頃になると、門のあたりをぶら付いている、私は何とかして此奴をやつつけてやらねばならないと思つた。こんな事を考えている内に、又頭が痛み出した。私は自分の身体が強く無いのが残念だつた。此んな事でカゼを引く様では何んにも出来はしない、もつとプロ的にきたえねばならないと思つた。
「何時迄寝ているのだ、もう十二時だぞ」とどなりながら階段を昇つて来る奴がある。×××事件で検束された塚本の声だと思つている内にもう部屋の中へ這入つて来た。私は半身起き上り笑顔をした。
「あれ、此の野郎良い着物を着ていやがるなあ、何処から集めて来た?」塚本は相変らずのんきだ。
「馬鹿云え、手前ではあるまいし、人の古物ばかり貰うか」
「だけど見た事のある着物だなあ」こんな馬鹿を云つてる内に、私の勘定を取りに行つて検束された同志の事を思出した。
「君の相棒出て来たか?」と尋ねて見た。私達の中では立松と塚本は仲が良いし、又のんきなので両方に良い相棒だつたのだ。
「ウンおごらせると云つて居つたぞ」と、私は二十圓足らずの金が手に這入るので、間借も出来ると喜んだ。昼めしは塚本も一緒に武村の所で笑談を云い乍ら喰つた。塚本は、私の顔を見て、
「何を苦労したか? ヤセたな」と云つた。
「俺はまだ若いのだからな」と云つて笑わせた。
武村の妻君は「又吉村さんから、レポをたのまれて来たと、朝鮮の人が来ましたよ」と云つた。
「今度は刑務所破りか?」と又大笑をした。私は吉村からのレポと聞けばまだわからない所もあつたので、逢わないわけには行かない。姓名と人相を聞き、朝鮮の同志に調査をたのんだ。三日後大丈夫と云われたので逢つた。吉村は「自分は○○工場の伝単をはつた時に、指紋が残つて居つたので強制処分でやられた。其の点君のは大丈夫と思うが、服装其の他可成知れて居るので、検束されたら駄目と思う」と
「××問も嵐も強い、死を決して戦つてくれ」と何回も繰返して云われたと。それから、此の時計は三・一五の犠牲者から贈られたのだが、俺も必要無くなつた。君におくる、又此の前に逢つた時君のくつは、大ぶボロになつて居つた。くつのボロは目に付き易い、此れもおくる、と二品渡された。其の夜は私は、仕事を皆済ませた後だつたので、色々の事を語り合つた。支配階級は無産階級を××欺瞞する為めには、味方同志をも殺し合う。と云う話から、吉村の捕われた×××事件に進んだ。其のゴロツキは、森君と二言三言話した事があるだけなのに、特高係に五十圓貰つて挑発者に成り、又ブタ箱で留置場破の相談等は仕無いのに、奴等が勝手に作り上げておき乍ら、こんな相談をして居つたのに知らずに居たと、看守達は、ゲン棒を喰せられたと話した。
森君からのレポに依つて連絡はすつかり付いた。然しレポの来る前に、まるつきり知らない、唯細胞が在る事だけしか知れて居ない工場と連絡を付けるにはずい分苦労した。又其の為めに多くの犠牲者を出した。止むを得なかつた。其後地方委員会も確立し再び活発な闘争を開始した。合法党の問題は其の直後だつた。合法屋共は労働農民新聞で共産党は全滅した、とほざいた。
私は其の後、立松から金を受取り又ベル工場からも勘定を受取り、西沢と又間借りをした。戦線も確立したので、私は何とかして中島を××××事を、どうしても必要だと思い西沢に奴の家を調べさせた。奴の家は○○署の看守に町名を聞いておいたので、直ぐ見付けた。私はテロに馴れた者ばかり五人集めて、奴の家に行つたが、奴は居なかつた。仕方無く引返そうと表通り迄来た時、街の角で逢つた。真先に居た須田は手早く眉間に一××せた。中島は突然だつたので、後に倒れた。私達も突然だつたので、思切り××××××××しただけで目的は果さなかつた。其後中島は一カ月休んで居たらしい。だが然し中島の奴は、其の後、カカアや子供を田舎に帰し、ますます意識的にスパイになつて来た。其の後何回ともなく他の同志に依つて、×××は見舞つたが、まだ生きて居やがる。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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