光の中に
一
私の語ろうとする山田春雄は実に不思議な子供であつた。彼は他の子供たちの仲間にはいろうとはしないで、いつもその傍を臆病そうにうろつき廻つていた。始終いじめられているが、自分でも陰では女の子や小さな子供たちを邪魔してみる。又誰かが転んだりすれば待ち構えたようにやんやと騒ぎ立てた。彼は愛しようともしないし又愛されることもなかつた。見るから薄髪の方で耳が大きく、目が心持ち白味がかつて少々気味が悪い。そして彼はこの界隈のどの子供よりも、
「駅の裏に住んでいるの?」
すると慌てて頭をふつた。
「違うやい。僕の家は協会のすぐ傍だよ」
勿論途方もない嘘である。彼は学校からの帰りに、わざわざここへ遠回りして遊びに来ると、夜の部がひけるまでは決して帰ろうとはしなかつた。聞けば婆やの部屋で飯を貰つて食べたことも一度ならずあつたようである。私ははじめそんなに彼に注意を向けてはいなかつた。だが或る晩彼が薄暗い婆やの部屋で飯をかき込んでいる様を見た時は、はつと驚いて立ち止つたのである。「ヘんだな」と私は自分に云つた。だが私はどういう意味でそう云つたのかはつきりはしなかつた。そしてもう一度「ヘんだな」と呟いた。その恰好がどうも私には曰くがありそうでなかなか思い出せなかつた。ちぢかんだ丸背にしろ、顔にしろ、口の恰好にしろ、箸の使いわけまでも。しまいには私が息苦しくなつて黙つたまま彼の傍を離れて行つた。だがその後というもの、私は彼のことをあまり気にしなくなつた。その
その頃、私はこのS大学協会のレジデント(寄宿人)だつた。ただ私の仕事といえば、そこの市民教育部で夜の二時間程英語を教えていればよかつた。それでも場所が江東近くの工場街で、習いに来る人々が勤労者であるだけに、二時間の授業といつても骨が折れた。昼間へとへとに仕事で疲れている彼等であつてみれば、余程こちらが緊張してかからない限り、みなはうつらうつらまどろんでしまうからである。
夜の部で元気なのはやはり子供部である。私たちの教室のすぐ下がその教場になつていて、いつもわあつと彼等の騒ぎ立てる音が聞えてきた。私の生徒たちはその音に驚いて腰を掛け直すといつた工合である。古いピアノがきんきん鳴り始めると、子供達は一斉に「われらはすこやかに、いざ育とう」という歌を屋根でも飛んでしまいそうな元気な勢で張り上げた。
(もう時間だな)と思うが早いか、今度は豆でも
「ほつときなよ。ほつときなよ。あーあーあー」と叫びながら、私の鼻先の前で気味よさそうにひようきんな踊りをしてみせた。とうとうこちらが凱歌を上げてなだれ込んで行くと、室内では先から待ち構えていた六七人の少女がきやあきやあしながら悦び立てた。
「
「あたいも抱つこして」
「あたいも」
「あたいも」
そう云えば私はこの協会の中では、いつの間にか南先生で通つていた。私の苗字は御存じのように
ところが、或る晩のこと子供たちと騒いでいる所へ、私の生徒の一人が真蒼にひきつつたような顔をしてはいつて来た。それは自動車の助手をしながら夜になると英語や数学を習いに来る李という元気な若者であつた。彼は戸を閉めると挑みかかるような調子で私の前に立ちはだかつた。「先生」それは朝鮮語だつた。
私ははつと思つた。子供たちもどういう意味かは知らないが、何か
「さあ、又後で遊ぶんだ。これから先生は用事があるんだから」と私は落着きをつくろいながら口元に微笑みさえ浮べた。
子供たちはすごすごと出て行つた。だが山田春雄のまなざしばかりは異様な光を点して、さぐるようにじつと私を見つめていた。私は今だにその薄光りしていた目を忘れることは出来ない。彼は蟹のように横歩きで方々ヘぶち当りながらぬけ出るのだつた。
「まあお掛けなさい」私は二人きりになつた時静かに朝鮮語で話しかけた。「ついお互い話し合うような機会もありませんでしたね」
「そうです」李は立つたまま叫んだ。「私は実際あなたにどちらの言葉で話しかけていいか分りませんでした」彼の言葉の中には若者らしい憤りがのたうつていた。
「勿論私は朝鮮人です」という自分の答は心なしかいささかふるえを帯びていた。恐らく彼に対しては少くとも苗字のことが気にかかつていたのであろう。或は平気な気持でいられなかつたのも、その点自分の中に卑屈なものをつけていた証拠に違いなかつた。そこで私は
「何かお気にさわるようなことでもあつたでしようか」
「あります」彼は昂然と言つた。「どうして先生のような人でさえ苗字を隠そうとするのです」
私は
「まあ落着いて坐ろうじやありませんか」
「どうしてか、私はそれが訊きたいのです。私は先生の眼や
「全くです」私はかすかに呻くように云つた。「私も君の云うことと同感です。だが私としては子供達と愉快にやつてゆきたかつただけのことです」廊下では相も変らず先の子供たちが騒ぎ合いながら、時々戸を開けては
と云つた時、戸を開けて覗き込んでいた子供の
「そうれ、先生は朝群人だぞう!」
山田春雄だつた。瞬間廊下はしんとなつた。私も一寸ばかり面喰わずにはいられなかつた。そこで努めて気を落着けるようにこう云つた。
「いずれ又会つてゆつくり話しましよう」
李はわなわな手をふるわせながら出て行つた。山田をはじめ二三の子供たちが逃げ出すようだつた。私は呆然と立ち尽していた。一瞬間電光のように俺こそ偽善者ではないかという考えが
「やい朝鮮人!」と云つて舌をぺろりと出して見せると、追われるように再び逃げて行つた。
これ以来、益々山田春雄は意地悪くなつて私につきまとつて来た。私が彼に一層の注意をむけるようになつたのはそれ以後のことである。
成程そう考えてみれば、ずつと以前から彼は私を疑りの目で監視しながらつきまとつていたようであつた。時々私が言葉尻などにひつかかつて舌が廻らないような場合にもよくそれを真似て殊更にわらい立てたりするのは彼だつた。彼は最初から私を朝鮮出身だとにらんでいたのに違いない。でありながらも彼はいつも私につきまとい、私の部屋に来てはよくいたずらをした。それというのも彼は一種の愛情に似たものを私に対して感じていたためであろうか。ところがそのこと以来は、私を極度に敬遠しているとみえ、なかなか近寄つては来ないで、私のぐるりを一層うろうろとつきまとうだけだつた。今に私がへまでもしたら一隅で意地悪く悦び立てようと身構えでもしているように。だが私は恐らく誰よりも愛情深い態度でいつも彼に臨んだ。私はむしろ彼を
「朝鮮人ザバレ、ザバレ――」と喚き立てた。
ザバレと云うのは捕えろという意味の朝鮮語で、朝鮮移住の日本人がよく使う言葉だつた。勿論娘の子は朝鮮人ではない。私に対して見よがしに言つてみるのであろう。私は飛んで行つて山田の襟首をつかまえると、前後見さかいなしに頬打ちを喰わした。
「何ということをする奴だ!」
山田は声をひそめて何も云わなかつた。ただそれは
「朝鮮人の
二
元来S協会は帝大学生が中心となつている一つの隣保事業の団体でそこには託児部や子供部をはじめとして市民教育部、購買組合、無料医療部等もあつて、この貧民地帯では親しみ深い存在となつていた。赤ちやんや、子供のためには勿論、日常の細々した生活にまで、それはもう切りはなされないような緊密な連りをもつていた。そしてここへ通う子供達の母の間には「母の会」もあつて、お互いに精神的な交渉や親睦を計るために、彼女たちは月二三度ずつ集まるのだつた。だが今までついぞ一度も山田春雄の母は顔を出したことがなかつた。自分の子供が夜遅くまでここへ来て遊んでいることを知つていようものなら、たとい他の母親たちのように関係大学生への温い感謝の念からではないにしろ、時には親として自分の子供に対する心配からでもやつて来ようというものではないか。——私はこの異常な子供に関心を持つとともに、こういう彼の家庭からして知らねばならないと考えたのである。
間もなく週末の三日続きの休みを利用して、子供達がどこかの高原ヘキャンプ生活に出掛けるようになつた時、私は山田を自分の部屋に呼んで来た。山田は今までこんな機会にはいつも参加出来なかつたことを私は知つている。
「どうだね、君も行くかい」
少年は頑なに黙つていた。彼はこういう場合はこちらがどんなにやさしく持ちかけてもいつも疑り深くなるのだつた。
「今度は君も行こうね」
「……」
「どうしたんだね、君もお母さんを連れて来たらいいよ、父ちやんでも構わない、どなたか父兄の方が来て承諾すればいいことになつているからね」
「……」
「連れて来る気かい」
山田は首を振つた。
「じや行かないの?」
「……」
「費用は先生が出してやる」
彼は空々しい目で私を見上げた。
「そうしようね」
「……」
「そんなら君のうちに先生が一緒に行つて話してやろうか」
彼は慌てたように又首を振つた。
「でも三日もとまつて来るんだから、父ちやんや母ちやんの許しを受けないわけにはゆかないだろう?」
「先生も山に行くの?」その時になつてやつと少年はずるそうに訊ねた。「行かない?」
「うん、先生は駄目だ、今度は留守番をすることになつたんだ」
「じや僕も行かないや」
彼はひそやかな微笑を
「どうしてだね?」
すると彼はいーと歯をむいて白痴のように顎を突き出してみせた。
こういう風にして私はかねがね彼の家を一度訪問してみようと思いながら、とうとう果すことが出来なかつた。彼はどうしたのかその隙を与えてくれないのである。
いよいよ土曜日が来てS協会子供部の百余名は悦びざわめきながら上野駅へ列をなして出掛けたが、やはりその時間になるまで山田は見えなかつた。だが後から屋上に用を思い出して上つて行つた私は驚いてしまつた。物干台の柱にもたれて山田春雄が遠く並んで行く子供たちの行列をじつと眺めている。私は何とはなしに目頭が熱くなるのを感じた。物音に気附いて振り向いた彼はひどくまごついたようである。私は強いて笑いを作りながら彼の肩を後からそつと抱いてやつた。
「そうら、あすこにアドバルンが上つているだろう」
「うん」彼は消え入りそうな声で云つた。
「なあ春雄、これから先生は暇だから一緒に上野へでも行こうかい」
少年は見上げながらにつと笑つた。
「じや行こう。先生は学校にも用事があるから丁度いい」
学校に用事があると云つたのは勿論嘘だつた。そんなにも心にもないことを云う程、私は内心山田をはばかつて遠慮しているのだろうか。
「ヘえ」彼は目をみはつた。「先生も帝大なの?」彼はほんとに驚いたのに違いなかつた。
「朝鮮人も入れてくれるかい?」
「そりや誰だつて入れてくれるさ、試験さえうかれば……」
「嘘云つてらい。僕の学校の先生はちやんと云つたんだぞ、この朝鮮人しようがねえ、小学校へ入れてくれたのも有難いと思えつて」
「ほう、そんなことを云う先生もいるのかい、それで生徒は泣いたのかい」
「うん泣くもんか、泣きやしねえよ」
「そうか、何という子供だい。一度先生の所へ連れて来てごらん」
「いやだい」彼はせき込んだ。「いないんだよ、いないんだよ」
「おかしなことを云うね」
「誰にも云わないんだよ、云わないんだよ」
彼はむきになつて取り消した。全くへんな子供だなあと思つた。丁度それと殆んど同じ瞬間だつた。もしや彼がその朝鮮の子供ではないかという考えが不意に浮んで来たのは。私は驚いたように彼の顔をじつと見つめた。彼は顔をこわばらせ警戒するように後ずさりした。そして急に一目散に階段をかけ下りながら叫ぶのだつた。
「うん、僕、帽子をかぶつて来るよ」
私は静かに首をふりながら階段を下りて行つた。
だが私は玄関口から近い階段まで下りかけた時に、下の方で並々ならぬことがもち上つているのを知つた。息をひそめてもみ合いながら、医療部の医師や看護婦や購買組合の男たちが、玄関口に横着けにされた自動車から一人のみすぼらしい恰好をした
「亭主に刃物で頭をやられたんです」医療部の戸口でがやがやしていた人々は皆驚いて彼の方へ振り向いた。
「あの
「丁度こいつだ。こいつのおやじなんだ」彼は山田の手首をねじまげながら
山田はひどく苦しそうに悲鳴を上げながら、
「違うんだよ、違うよ」と
男達が中にはいつてようやく二人をひき放した。私は殆んど茫然としていたのである。李君はいきり立つて再び襲いかかり山田の背中を勢にまかせて蹴りつけたので、春雄はよろめきながら私の方へ抱きついて来た。そしてわーつと泣き出した。
「僕は朝鮮人でないよ、僕は、朝鮮人でないんだようー、なあ先生」
私は彼の体をしつかりと抱いてやつた。私の目頭には熱いものがじんとこみ上げて来るのを感じた。あの李のやけのような取り乱し方にしろ、又この少年のいたましい叫び声にしろ、私はどちらも責められないような気持だつた。その場へぐつたりとして倒れそうであつた。婆やが
「あいつのおやじは博徒の人でなしなんだ。つい先日監獄から帰つて来たんだ。その間あの気の毒な
彼はひーんと
「君は山田春雄の家を知つているんですね」
「知つているもいないもないです」彼は忌々しそうに云つた。「奴も駅裏の沼地に住んでいるんです」
「そうですか、随分ひどいもんだね。どうして君の家へゆききしたというのでいじめたのでしよう?」
彼は歯を食いしばつた。
「そ、それは僕のお袋が朝鮮服を着ているからなんです。それで朝鮮人のところへ行くなつてんです。ヘん、ふざけてらあ、莫迦野郎
「野郎、覚えておくがええぞ、一度でも
「え、半兵衞?」私は驚いて問い返した。
「そうです」彼は息を切らしながら云つた。「ひどい悪党です、残忍な奴なんです、ヘん、だがな、今度こそ僕が承知しねえからな、野郎!
「半兵衞」私は再び呟いてみた。どう考えてもそれは確かに私には耳なれの名前である。
「半兵衞、半兵衞」私は何度も口ずさんでみたが記憶の中を空廻りするだけでどうしても思い起せなかつた。
その時に医師の矢部君が出て来たので、私たちは彼の方へ駆け寄つて経過をきいた。彼の話では生命には別条もないだろうが、何しろひどい
「先生、お願いです、僕の方でお
だが実際のところここは医療部といつても、有志医学士が二、三人昼間やつて来て簡易治療にたずさわるという程度で、重傷患者を入院させるという程の所ではなかつた。それで矢部君も暗然として首をひねりながら、私にどうしたものだろうと訊ねるのだつた。私はすぐ近所の相生病院の
外はだんだん険しい空模様になつていた。風が出て来た。藤棚の葉つぱが激しく揺れていた。
病院には半兵衞も春雄も現れなかつた。
三
日の暮れる頃はもうどしや降りになつていた。ますます風もひどくなり、雨は桶を流したような勢で降り出した。窓ががたがたふるえ電灯が明滅していた。子供は一人も来ていなかつた。ただ二階で数学の授業がひつそりと行われているだけだつた。
私は食堂の方で二、三の同僚たちや婆やと山へ行つた子供部のことを心配し合つていた。だが私の脳裡には先程起つた事件のショックがやきついてどうしても離れなかつた。と云つても私はその事をどうしたのかまともに考えてみようとはしないのだつた。私自身その怖ろしさにけおされていたのかも知れない。私はただ目を蔽いたかつた。
その時に凄じい風が吹き附けて唸りを上げ、どーんと勝手口の扉が吹き飛ぶような音が無気味に響いた。一同はびくつとして息を殺した。近寄つて行つた婆やはあつと悲鳴を上げてたじろいだ。駆けて行つて見れば、扉は倒れ雨と風の中に山田春雄が竦然として立つていた。折も折、稲光りがぴかぴか光つてそれは幽霊のようにおののいて見えた。
「どうしたんだ、春雄」私は彼を抱え込んではいつて来た。そしてそのまま二階の自分の部屋へ上つて行つた。何とも云えない気持だつた。ずぶ濡れになつた着物を脱がし、タオルで体をふいて寝床へ横にさせた。彼の体はわなわなふるえていた。熱いお茶をやると何杯もがぶがぶ飲んだ。そこで漸く元気を取り戻して、悲しそうに私を見上げるのだつた。私は何となく胸の中も打ち解けるような、ほかほか温いしんみりとしたものを感じた。この少年は又どんなことがあつて、こういう嵐の夜中をやつて来たのであろう。
「病院へ行つて来たのかい?」
彼は口をひくひくさせたかと思うと急にいーと引張るように泣き出した。
「莫迦だな、泣いたりして」
「違うんだよ。病院へ行きやしないよ。行きやしないよう」
「まあ、いいよ」私の声はかすれていた。「まあいいんだよ」
「うん」
彼はすぐに安心したように肯いた。そこでぽかぽか暖かそうに蒲団の中に足をのばして首をすぼめて見せた。私にはそれがこよなくいじらしいものに見えた。彼の目はきらめき、口元はにつこりと微笑を浮べたのである。すつかり私に心を許したというのであろう。私は彼の心の世界にもこういう美しいものがひそんでいるに違いないと考えた。本能的な母親に対する愛情にしろ、どうしてこの少年にだけ缺けていると考えていいのだろうか。それはただ歪められたのに過ぎないのだ。私は近所の人々からいためつけられ
「母ちやんの病院へ行こうかい?」と質ねてみた。
彼は悲しそうに首を振つた。
「どうして?」
彼は答えなかつた。
だんだん嵐もしずまりかけたのであろう。小雨が時々思い出したように軒をふりたたいている。私は窓を開けてそろそろ晴れ渡りそうな空を眺めた。遠い北の方の空にはちぎれ雲の合間から、二つ三つ星さえ光り出していた。
「もう晴れそうだよ、ねえ、君、これから一緒に見舞に行つてみる?」
答えがない。見れば彼は蒲団をすつぽりと
「父ちやんは行つたのかい」
「行くもんか」彼は蒲団の中でやや反抗的に云つた。
「おかしな父ちやんだね。母ちやんが気の毒じやないか」
「……」
「それなら父ちやんの所へは帰るつもりだね。父ちやんだつてきつとうちで心配しているよ」
「……」彼は顔を出してすねたような目附をした。「僕はここでいいよ」
「うん、そりや……」私はしどろもどろ仕方なさそうに云つた。「ここでもいいけれど……」
丁度数学の授業がひけたとみえて、廊下がどやどやざわめき出した。暫くするとドアにノックがして李が悄然と現われたが、山田の寝ているのを見るとはつと顔をこわばらせた。私はいささかあわて気味に、外へ出て話しましようと彼を廊下へ連れ出した。
「先生は朝鮮人呼ばわりされるのに困つて」と彼は
「失礼なことを云うな」私はどうしたことか、かつとなつて呶鳴つた。確かに私は彼の出現に戸惑いしたのであろう。
「山田はこのひどい雨の中にやつて来たんです。そして帰るに帰る所がないんだ」
「誰が帰る所もないと云うのです? あの気の毒な婦人こそそうです。今の餓鬼は自分のおやじの所へ行けばいいんだ。ああ呪われろ、悪党奴!」それから急に彼はへなへなになつて哀願するように啜り泣いた。「どうして先生は、あの気の毒な婦に対して同情しないんです。あの可哀そうな婦のことを考えないのです……」
「どうか止めてくれ」私は頼むように云つた。私の言葉はふるえていた。どうしていいのか頭がくらくらして分らなかつた。
「先生……」
「止めてくれんのか!」私は突然断末魔のような叫び声を上げた。気まで狂いそうだつた。
彼はよろよろと立ち去つた。私は激しい格闘でもした人のようにぐつたりとなつて壁によりかかつた。
勿論私は純情な李を理解することが出来るのだと自分に云つた。過去において私自身もそういう時期をとおつて来たからである。だが私はその次の瞬間、自分が現在は
「偽善者
私はびつくりしてそれからさげすむように云い返した。
「卑屈になるまいなるまいとどうして僕はいつもいきまいていなければならないんだ。それが却つて卑屈の泥沼に足をつつ込み始めた証拠ではないか……」
だが私はしまいまでを云い切る勇気がなかつた。今まで私は自分がすつかり大人になつていると思い込んでいた。子供のようにひがんでもいなければ、若者のように狂的に○○してもいないのだと。だがやはり私はお安く卑劣を背負い込んだまま寝そべつていたのだろうか。それで今度は自分に詰め寄つた。お前はあの無垢な子供たちと少しも距たりをもちたくないためだと云つた。だが結局、自分をしきりに隠そうとするおでん屋に来た朝鮮人とお前は何が違うと云うのだ! そこで私は抗弁のためとでもいうように李のことをやりこめようとした。それなら一時の感傷にせよ「俺は朝鮮人だ、朝鮮人だ」と喚いているおでん屋の男と、貴様は一体何が違うと云うのだ。それは又自分は朝鮮人でないと喚き立てる山田春雄の場合と本質的な所何の相違もないではないか。私は毛色の違うトルコ人の子供でさえこちらの子供と
私は暫くの間そのまま茫然としていた。もう李はそこにはいなかつた。私はよろめくようにして自分の部屋へ帰つて来た。
部屋は薄暗かつた。私は春雄の寝床の傍へ近寄つて行つた。その時私ははつと驚いて目を
「あつ、半兵衞の子だ!」とうとう私は思い出したのだつた。今まで目の前にちらつきながらどうしても思い起せなかつた、半兵衞。
「半兵衞の子だ!」
私は顛倒せんばかりに驚いた。あ――これは又何ということであろう。私はこういう恰好して寝ている半兵衞をどれ程長い間見て来たのか知れない。だらしなげにぽかんとしている口や、大きな目に老人のような
思えば先年の十一月のことである、私がM署の留置場で半兵衞に会つたのは。その時彼はにやにやしながら私の方へ寄りかかつて来た。皺びた
「おう! お前のシャツ貸せ」私の洋服のボタンをはずしかけた。私は幾らか興奮していたので、無造作に振りきつて隅の方へ腰を下ろした。他の連中は皆何かを気味悪く期待するような目附で私たちをかわるがわる見守つた。
「野郎やりやがつたな」彼は如何にも切り口上で出た。「この朝鮮人野郎、おれを見損いやがつたな」
彼は腕をまくし上げた。その時廊下を歩いていた看守が格子窓から覗き込んで、
「山田、坐つておれ!」と呶鳴つたので、それを聞いて私は彼が日本人であることをはじめて知つた。
彼はにたつと歯をむき出して笑うと、大人しく自分の席へもどつた。そこで用もなしに
彼は一人の卑怯な暴君だつた。みなに恐れられながらも陰では非常に憎まれていた。彼は必要以上に看守の目を恐れているが、そのかわり新入者や弱い者に対してはひどい乱暴をしていた。中でも物凄い権幕で
留置場の様子から見れば、彼の他に相棒と思われるのも都合六、七人はいた。彼の啖呵に従うとすれば、彼等は浅草を縄張りとしている高田組で、有名な俳優連を恐喝して大金をせしめたのだつた。その中で自分はいかにも
「君は朝鮮のどこだい?」
「北朝鮮だ」
「おらあ南朝鮮で生れたぜ」彼はずるそうに私の
「そうか」
すると彼は歯をむき出した。
「ほんとうだよ」
勿論こういう話は二人でこそこそと云いかわすのだ。
「おらあの女房も朝鮮の女だぜ」
「ほう……」私は思わず目を丸くした。
彼はいかにも小気味よさそうににやにやした。私は彼に何か訳合いがあるに違いないと考えた。
「朝鮮に行つて貰つたのかい」
「おかしくつて、面倒臭せえや。じかに
彼はじろりと横目で私を見た。折しもさし込んで来た夜明けの月の光にその目は一層凄惨な影を宿していた。
だが翌朝はけろりとして、いつ自分がそんなことを云つたんだろうという調子である。やはりいつものように弱い者をいじめ、新入者の弁当は取り上げた。だが私はその晩以来ますます彼のことを不審におもうようになつた。それでも彼が警察の中で山田と呼ばれているからには、日本人であるに違いなかつた。それでは彼の母が朝鮮人であるかも知れないと考えたが、ついぞ確めることが出来ずに私は起訴猶予となつて出て来たのである。——
そして私は今ようやく彼のことを思い出したのだつた。私は何という
「半兵衞」私はもう一度静かに呟いた。
だが春雄はすやすやと心よい眠りにおちている。私の網膜には、「おらあの女房も朝鮮の女だぜ」と云つていた半兵衞の卑屈な笑い顔が幾重にも浮び上つて来た。するとそれがいつの間にか今度は春雄の寝姿の上にのりうつつてしまつた。その時かすかに春雄は呻き声を出したようである。彼は顔をひくひく痙攣させたと思うと、うーうーうなされながら寝返りをうつて驚いたように目を
「どうしたんだ、夢でもみたのかい」
私は汗だくになつている彼の首筋をふきながら訊いた。
彼は再び目をとじると
「父ちやんが今度は僕を片附けるんだつて」
四
私も一晩中うつらうつらとしてとりとめもない夢ばかりみていた。朝、目をさましてみたらもはやそこには春雄はいなかつた。私は驚いたように相生病院へ行つてみればいいのだと自分に云つた。その日は日曜日で春雄にも学校がない筈である。いつの間にか私はそこの玄関に立つて呼鈴をならしていた。丁度よく
「何でも山田貞順という名前になつているよ。朝鮮の人じやないんだね。言葉の調子や貞順という字づらがおかしいと思つて、負傷した瞬間の模様を朝鮮語で訊いてみたが口を
「ううんそうか」私はしどろもどろで云つた。「傷は大丈夫かい」
「まあ、大丈夫だよ。だがどうしても顔面に刀傷の傷はつくんだろうね。全く気の毒な程ひどい傷がこめかみの所に出来るんだよ。そうれ、あそこなんだ、……山田さん、お子さんの協会の先生がいらつしやいましたよ」
春雄はいなかつた。十二畳位の部屋に寝台が五つ程交互に並んでいて、いずれにも病者が沈み込んでいた。その隅の方に彼女が横わつていた。白い繃帯でぐるぐる巻かれた顔の中に口と鼻の所だけが少しばかり明いてみえる。彼女はじつとしたまま何も答えない。尹医師は回診のために席をはずしてくれた。私は彼女にどういうふうに話しかけたものだろうかと一寸ばかり当惑した。
「どんなにかお痛みのことでしよう。春雄君も随分心配していたようです」とつい言葉のはずみで山田のことをひつぱり出した。「実は私、春雄君の通つている協会の先生だもんだから……私、
彼女は心なしか少しばかり体を動かしたように思われた。きつと彼女は私が朝鮮の苗字をしているので驚いたのに違いないと考えた。
「あ、あ」彼女は指先を小刻みにふるわせながら呻いた。
「春雄……春雄がほんとうに
「……」私は答えるに言葉がなかつた。
「あは」彼女は感動の余り
私はほろ苦い気持になつた。だがいきおい春雄のことで彼女を慰めねばならなくなつた。
「私は毎日春雄君と遊んでいるのです。時にはいろいろ気を落しなさるようなこともあるでしよう。だがまだほんの子供だし、その
だが彼女は答えなかつた。息を殺して私の云うことに注意を向けているばかり。私は続けた。
「始めはやはりあなたが春雄を連れて朝鮮へ帰るよりほかはないと考えました」
彼女はびくつとした。
「あなたのためにも又春雄の将来のためにもそれが一番いいと思つたのです。だが、あなたにはやはり今も半兵衞さんを大事にするような気があるのでしようね」
「アイゴ……何も訊かないで下さい」彼女は小さく哀れ深く云つた。「私の
「何も隠しへだてなさることはないと思います。私はかねがね半兵衞のこともよく知つているのです」
「あ」と彼女はさすがに驚いて声を呑んだ。彼女は全く沈没したように呻いた。「……でもあの人、妾を自由な身にしてくれました。……そして妾、朝鮮の女です……」しまいはもう
彼女は今もやはりこういう奴隷のような感謝の念をたよりにして生きているのだろうか、私は無道な半兵衞のことを思い出してたとえようもない愁然とした気持になつた。いつか洲崎の朝鮮料理屋をおどかして連れて帰つたというのは丁度この女である筈だつた。卑怯で残忍な半兵衞にしてみれば、この寄るべない朝鮮の女にいかにも目を附けて貰い受けそうな話ではないか。彼女は始めから彼のいけにえとして
「先生」
「え」
「妾、お
「お話して下さい」
「お願い……します。どうか妾の春雄の……相手をしないで……下さいませ」
「……」私は黙つたままじつと彼女を見守つた。彼女は今にも泣き出さんばかりの声であつた。
「……春雄は……一人でもよく遊びます……」だが傷がひどくうずいて痛み出したのであろう、彼女は再び死者のようになつた。だが又かすかに呻き声を出しながら「一人で……幾人の子供の……声も……真似て……にぎやかに……遊ぶのです……踊りがうまいのです。妾悲しゆうございました。どこかで見て来ては……一人で一生懸命踊ります……そして自分でも泣いています」
「やはり朝鮮人だと云つて外でいじめられるからでしようか?」
「だが今は泣きません」彼女は力をこめて強く打消した。
「春雄は日本人テす……春雄はそう思つています……あの子は妾の子ではありません……それを……先生が邪魔するのは……妾悪いと思います……」
「私は半兵衞さんも南朝鮮で生れたというふうに聞いているのですが……」
「え……そうです……母が私のように朝鮮人でした。……だが今は……朝鮮といえば言葉だけでも……あの人はオコリマス……」
「だけど春雄君は朝鮮人の私に非常になついて来ました。実は昨日あの子は私の部屋で泊つて行つたのです」
「……」
「その
「そうでしようか」彼女は寧ろ絶望的に深く溜息をついた。
「……あの子が……」
その時に戸口から一人の朝鮮服を着た老婆が転ぶようにはいつて来た。私はそれとなしに、彼女が李の母であることが一目見て分つた。それで私は少しばかりベッドの傍を離れて立つた。老婆は貞順の
「何ちゆうむごい事だよ。きつとあの悪党に天罰が落ちるだよ。なあ春雄の母ちやん。わしを分るのけえ、李チャンの母だよ。李チャンの。しつかり気をもつて早く治すのでつせ、分つたけえ」
貞順は指先をふるわせて辺りをまさぐつた。老婆はその手をとつた。
「傷でも治つたら今度こそ見附からねえように郷里へ逃げて帰るのでつせ、いつかみてえに又戻つて来るでねえだよ。何もええこたああるもんでねえだろ」
貞順は呻いた。老婆は急に何か思い出したとみえ急いで風呂敷包をほどくと、夏蜜柑を二つばかり取り出した。
「夏蜜柑だよ。食べると喉の乾きが少しはなおるかも知れねえよ」そこで彼女は一生懸命になつて皮をむきはじめた。
「李チャンがおばさんにやつてくれと買つて来たんだよ。あれも今日から免許状が下りて一人前になつたちゆうて喜んでな」
「どうぞお大事にして下さい」やはり私はその場を外した方がいいと考えたので、そう云うと戸口の方へ進んで行つた。その時何か春雄の母の息苦しそうな、ぼそぼそした朝鮮語が聞えたので私ははつと立ち止つた。彼女は老婆に向つて朝鮮語で哀願するように云うのだつた。
「おばさん。……妾、やはり帰りませんわ……それに妾の顔にひどい傷が出来るそうですの……そうなれば……あの人……妾を売り飛ばそうとも云えませんし、誰もこんな妾なんか買いはしませんもの……」それから痙攣でも起したように急に起き上ろうとした。
「あ!」
「お前さん、どうしたんだよ」老婆は慌てて彼女を抱えて寝台の中へ落着かせた。
「……何か……音がしたの」彼女は気でもふれたように息を切らした。「おばさん……春雄が来るのです。そうれ妾を訪ねて来るのです……」それから急に金切り声で叫び出した。
「おばさん出て行つて下さい。……隠れて下さい!」
「誰も来やしねえだよ、誰も見えやしねえじやねえか」老婆は悲しそうに泣き声をしぼつた。
私は忍び足で戸口を出て来たがどうしたのか汗がびつしよりだつた。その時私は誰かの小さな影が廊下のかどを慌てて横ぎつたように思つた。誰かははつきり見分けがつかなかつたが、おや、ほんとうに春雄ではなかつたのかという考えがさつとひらめいた。私は急いでその曲り角まで行くと不審そうに辺りをながめた。果して私の推測は間違いではなかつた。二階へ上る階段の裏側の薄暗い隅の方に山田春雄が射すくめられたように身を隠したまま目を光らしていたのである。
「どうしたんだね」私は近寄つて行つた。
慌てて彼は首を振つた。そしておびえたようにますます隅の方へ尻ごみした。何か隠し物でもあるのか右の手を後の方へぎゆつと廻して放さなかつた。今に悲鳴でも出しそうだつた。
「母ちやんの見舞に来たんだね」私は喉元が熱くなるのを感じながら云つた。非常に感動したのだつた。「母ちやんは今も君が見たいと云つていたよ」
彼は一層強く首を振つた。私は不満な気持になつて彼の体を引き寄せた。彼は後手を放さなかつた。それは何か白い小さな紙包を握りつぶして一生懸命に隠そうとしている。瞬間春雄は母のために何か持つて来たのだなと私は思つた。自分の母を見舞いに来ていながら人の前を憚つたり知られまいとしたりせねばならないのは、何と悲しいことであろう。私は
「きつと母ちやんが喜ぶよ」
その時突然彼は私の体に頭を埋めながら啜り泣きをはじめた。
「莫迦だな」
彼はますます激しく泣いた。その時どうしたはずみか白いもみくしやになつた小さな紙包がずり落ちた。私はそれを見て少からず異様な気持になつた。きざみ煙草の包紙である。それは私が今朝起きた時に机の上や抽斗の中を随分さがしたがとうとう見附からなかつた「はぎ」の古い包である。
「なあんだ、それで先生をこわがつているのか。ただ先生にそうことわつて持つて来ればよかつたんだよ。さあ、これからそんなことは気を附ければいいんだ。それ、それ、母ちやんが待つているよ、持つて行つておやり、左側の三番目の部屋だよ」それから彼を元気附けるように肩をたたいてやつた。「何だ、山田らしくもない。これからな先生は協会へ帰つて待つているよ。君が来たら昨日約束したように二人で上野へ遊びに行こうね」
彼はわーと泣き出した。私の心もゆらいでいた。だが病院の中にいるのは彼をますます窮屈にさせるだろうと思つたので、彼に病室を教えてから私は急いでそこから出て来た。そして何故彼が私の所から煙草を持つて来たのだろうかといろいろと考えをめぐらしてみた。彼の母が吸うのだろうとしか想像がつかなかつた。何という思わぬだしぬけたことをする少年であろう。私にはその時にも半兵衞が監房の中で
五
一時間ばかりして山田春雄は再び私の前に姿を現わした。だが彼は指を口に
前夜の嵐の後をうけてうすら寒い位の午後だつた。広小路で市電を下りた時は丁度日曜で押し合いへし合いの
「うまいかい」
「うん」彼は皿の上に顔をつけたまま私を上目で見た。「デパートのカレライスはうまいんだなあ」
そこからエレベーターで下りて来ると、一階の特売場で彼のアンダーシャツを一圓で買つた。彼はにこにこしながら包の紐を長くぶら下げて出て来た。
公園も珍らしい人出であつた。私達は石段を上つて大通りに出た。こんもりとした木立は午後の淡い光をうけてものうさそうに静かにゆらいでいた。空はどんよりと濁り風は折々高い木の梢に雨のような響きをたてている。だだつ広い大通にはお上りさん風情の
「先生云うのかい」
「何をだい」
見ると彼の目はいつものように
「云うもんか、誰にも云いやしないよ、可哀そうな母ちやんのために持つて行つたんだもの、今日は実に君が善い行いをしたと先生は思つている位だ。母ちやんは煙草が好きなんだろう?」
「好いていやしないよ」と彼は妙にしよげて渋々呟いた。「母ちやんは血が出たら……いつもきざみ煙草を傷にはつていたんだもの、僕ちやんと知つていたんだもの」
成程と私は思わず息をのんだが、どうしたことか驚きの色さえ顔にあらわすことは出来なかつた。私の目先が急にぼうと霞んで来たような気持だつた。{九字欠}血を流しては、彼女はいたましくもきざみ煙草をつばで練つては幾つも幾つも傷口にはりつけていたのに違いなかつた。丁度彼女の郷里の百姓達がそんな風にして傷を治そうとするように。
「そうか」
私たちはいつの間にか交番に近い所まで来ていた。その傍に頑丈そうな体重計がおいてあつた。私はそれを見るととりつくろうように振り向いて淋しく笑いかけながら計つてみないかと質ねた。すると彼は悦んで飛びのつた。余りに激しい力を一時に受けたので針がてんてこ舞いをし始めた。案外重いようだつた。その時春雄は何かに驚いたとみえ、私の方へ飛びかかりながら小さく指で大通りをさしてみせた。何だろうと思つて彼のさしている方を振り向いてみると、丁度一台の自動車が私たちの傍へすうつと横着けになるのだつた。
「おや」と思つてみると運転手台で李が新しい帽子の
「お目出度う、先程病院で君のお母さんが云つてましたよ。うまくいつたそうですね」
春雄は別に悪びれずに私の傍へよりそうて来た。それを見て李は工合悪そうに目を反らした。
「え、今先私も病院へ行つて来たんですよ」それなら彼はそこで春雄にも会うた筈だつた。黒い美しい目をしばたたきながらさすがに彼は悦びをつつみ隠せずに珍らしくはしやいだ。
「僕もやつと一人前ですよ、随分これはいい車でしよう。三七年型だけどわりに新しいし、エンジンもしつかりしていますよ」
そこで鷹揚にセルモーターを踏んだ。私の目にはありきたりのフォード型でそれ程いいようにも思われなかつたが、「成程いい車ですね」と答えた。「今日はこの春雄君と一緒に遊びに来たんですよ」そして少年を引き立てるように続けた。「今、僕は気が附かなかつたが春雄君が教えてくれたんでね」
「どうです、ひとつ乗つてみませんか。動物園にでも行くんでしよう」彼は戸を開けてしきりにすすめ出した。
二人は仕方なしに手をとつて乗り込んだ。動物園の入口まではいくらもなかつた。
「どうですか乗り心地がいいでしよう」彼は私たちを下ろしながら云つた。この純真な若者には今日という日がたのしくてならないのであろう。「ほかのお客さんもみんなそう云つてくれましたよ」
「そう、新しくて気持がいいですね」私は正直に云つた。
そこで彼は満足して見事にハンドルを操り、切り返しをやると、先刻のように指を一寸立てて別れを告げ、ぶーぶー警笛を鳴らして人を散らしながら
「李君は立派な運転手になつたね。君は大きくなつたら何になる積りだい」私は春雄を顧みながら楽しそうに質ねた。
「僕、舞踊家になるんだよ」彼はいきなり明るい声で叫んだ。
「ほう」私は驚いて彼を見つめた。一時に彼の体が光彩を放ち出した様に思われた。「舞踊家になるのか」ふとこれは実に素晴らしい舞踊家になれるかも知れないぞと考えた。
「そうか」
「うん、僕、踊るのが好きだよ。だけど明るいところでは駄目だよ。舞踊は電気を消して暗い所でやるもんさ。先生は嫌いかい?」
「ううん、それはきつと素晴らしいことだろうな。そう見れば君は体も実にいいぜ」私は夢想するように云つた。
「先生も踊りがとても好きなんだ……」
私の目の前には、この異常な生れをもつ、傷めつけられ歪められて来た一人の少年が、舞台の上で脚を張り腕をのばして渡り合う赤や青の様々な光を追いながら光の中に踊りまくる像がちらついて見えた。私の全身は
「先生だつて踊りを作つたことがある位だよ。先生も暗い所で踊るのが好きなんだ。そうだ。これからは先生と一緒に踊りを稽古しよう。うまくなつたらもつと偉い先生の所へ連れて行こうかな」私は何も作りごとを並べているのではなかつた。私は一時は舞踊家になろうと思つて創作舞踊を試みた覚えさえあつた。
「うん」彼の目は青い星のように輝いていた。
{そうだ近い中に協会の傍のアパートにでも移つて行こう。そこでどうしたものかその時二人は浮かれ浮かれて老木の間をぬけて弁天様の傍を通つていた。そこにもここにも昨夜の嵐の跡が残つて、折れた枝が落ちかかつたり雨に洗われたり地面に所々わくら葉が落ちたりしていた。鳩の群が弁天様の屋根や五重の塔のまわりをにぎやかに飛び交つていた。灯籠の傍に出ると下の方に茂みの合間を通して不忍池が見渡される。それは鏡をのべたように夕陽に照り返り時々ぎらぎらと金色に光つてみえた。五つ六つボートが浮んでいた。池に渡した石橋のてすりには多勢の人々がもたれて水面をながめている。何んだか軽い霧が立ちこめはじめているように思われた。もうだんだんと夕暮になつて来るのであろう。ゆるやかにそれが池をつたわつてこちらの方へ次第にひろがつて来るように感ぜられる。それにつれて二人の心はますます清澄なものにしずまつて行くのであつた。
「動物園というのがここまで来てしまつたね」
「だけど僕、ボートに乗りたいな」彼ははにかみながら云つた。
「そうか、じや下りて行こう」
そこからは長い段々が続いていた。私と春雄はそれを一つ一つ下りて行つた。彼は一段下の方を歩いて、恰かも老人でも連れているように用心深そうに私の手を引きずつて行くのだつた。だが彼は中段まで下りて来ると急に立ち止つて、私の体にぴつたりよりついて私を見上げながら甘えるようにこう云つた。
「先生、僕は先生の名前を知つているよう」
「そうか」私はてれかくしに笑つて見せた。「云つてごらん」
「
私もほつと救われたような軽い足取りで倒れそうになりながら、たたたつと彼の後を追うて下りて行つた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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