座り直す
目次
座り直す
柔らかな光が私を包み
少し若く見せる鏡に向かい
目を伏せ上下する椅子に深く掛ける
美容師さん二人
ほどよく私の髪を手入れし頭上に
天使の輪に似た加温器を設える
あたりの空気が温まると
私の背中に翼が生え
身震いすると宙に浮く
待合室の額から抜け出た天使が
私の首を指さす
昨日 細胞診断用長針を刺された部位だ
どんな色 どんな形
人には見えないものが視えるらしい
影の天使が「切りなさい」と呟く
光の天使は「切らなくてもいい」と
聴き取れない言葉が
耳鳴りとなって追いかけてくる
束の間 居場所を変え
目の前の鏡の中で
こちらを指差す天使
上下する椅子に どっかり座り直し
翼をもぎ取ろうと振り返る
闇のむこう
目の前の山々が瑠璃色から藍へ
雪の宿は蒼く暮れていく
マリーンブルーの浴槽にゆったり浸かる
私の身体は白くふやけ
青に包まれた薄暮の浅海から
暗黒の深海へと沈んでいく
冷たく見通しの利かない霞んだ世界
原始の地球で最初の命が誕生した場所だ
見えない生物が棲む青い闇は
私の飢えた魂が彷徨うのにふさわしい
海底に向かってひらひら舞い落ちる
マリンスノーとなって私が行き着くところ
たまにマリンスノーが発光するのは
発光バクテリアを纏っているから
さまよう私に光を投げかけてくる小さな生物
泥にまみれて食ったりくわされたり
競ったり助けあったりして命をつなぐ
コオモリダコに抱かれ
浮上していく私
気がつけば温泉のなか
めぐる
偏頭痛の原因はなにか
脳の写真を撮ることになり造影剤が注射され
体内のあらゆる粘膜が燃えそうに熱く
鎮まるまで不思議な気配に包まれる
薄目を開けると遠くメラピ山やスムピ山
眼下は見渡すかぎりの樹海
私は丘の古い仏教遺跡の仏舎利塔のなか
なだらかなピラミッド状に重なる石造建造物
入り口では魔よけのカーラが目をむいている
正方形の五層の基壇、その上に三層の円壇があり
最上部は釣鐘状の仏塔だ
ボロブドールの彫刻師たちが各層の回廊に
千面を超える浮き彫りの物語を嵌め込んだ
彫像は穏やかに見学者を見つめている
丹念に彫られた釈迦の生涯、出家の場面
瞑想の場面、前世の物語など
人々は頷きながら爽やかに巡り歩く
私の前世は如何であったか
身体の奥深く脈絡のない声がする
モデルとなった当時の人の優しい眼差し
目の前のパネルに千二百年まえの私がいる
日の匂いを含む渦巻く風が
燃え盛る私を鎮める
見えない力で私を引き上げてくれる腕に
生きる意味を見出せないでいると
伝えよう
息を詰める
あたりが徐々に暗くなり
聴いたことのない騒音に被われる
目を閉じ息を詰める
煤の臭いが鼻をくすぐり
闇の底であかりが揺れる
狭い入り口をくぐり細長い通路を進む
松明をかざすと奥まった洞窟の空間で
鷹の眼で父が天井を睨んでいる
ゆらめく炎が照らす隆起した岩盤に潜むもの
あちらこちらに蹲る塊が動き出しそうだ
父は湾曲した岩に野牛の背中をみる
刀を持つ構えで筆を振る
黒く力強い線が一瞬
頭部から背中、胴体へと移動する
身震いしながら岩陰に佇むわたし
輪郭を描き終え父は赤褐色の絵の具を
酸化鉄と動物の脂でねり
濃淡とぼかしで陰影をつけ仕上げる
野牛は呼吸し今にも走り出しそう
生きるために、何をすべきか問いつつ
全身全霊を注いで描く野牛の群れ
槍や矢を放ち巨大動物に立ち向かう恐怖
家族に食べさせる獲物が獲られるか
呪文を唱え祈りながら
湿った空気が動き
暗闇から雄ビゾンが突進
一突きで私は宙に浮く
人間ばかりになった街で
弓矢を持ち鷹の眼で紙の的を射る
耳鳴り
骨がうずく午後は
階段の踊り場でじっとしている
カーテンごしに淡く移ろう光が
静かに語りかけてくる
高くなった空で鳶がゆるやかに舞う
ジンジン耳鳴りが頂点に達している
突然 私は竜巻に吹き上げられ
砂や石ころと一緒に
高く遠く昇天していく
風に乗ってどこまでも
果てしなく荒涼とした大地に
等間隔に点々と続く地下水路の竪穴
岩肌がむき出しの山岳地帯にも
棘とげの黄土色の草が地面を這っている
野生のラクダが一頭、草を食むのを止めこちらを見る
オアシス都市ヤズドへ向かう
紀元前から今日まで王から民まで多くの人々が崇拝し
火が絶えることがない拝火壇
寺院の中央に設えた炉で
赤々と燃える聖なる炎
骨の髄が疼く癒えることのない足で跪く
支えでもあり重荷でもある金属の関節
炎がうずきを和らげる
私の中で燻ぶるものを炉に投げ入れる
薔薇が咲き匂う隊商宿の庭でチャイをすすり
バザールで買った瑠璃色の宝石を首に息をする
耳をくすぐるペルシャ語の響きに耳鳴りも遠のく
紅色に染まった雲から
鳶がふんわり私めがけて降りてくる
来世など信じない
ミンミンミン午前二時 都会の蝉は眠らない
きのう私の体内へ叩き込まれた人工関節が
裂かれた筋肉の内部で軋んでいる
腰に局部麻酔用チューブが刺さり
足先でフットポンプが力強く動く
窓のない部屋で上を向いたまま医療機器に囲まれ
音のない時計を見つめる
天井の染みが水色に膨らみはじめ海の匂いがし
私は風をはらむ筏に転がっている
漂いながら時を溯り古代地中海へ
イタリア半島中部の町 エトルリア人のネクロポリス
白いカモミールが咲く畑に地下へ通じる階段が
岩を穿ち来世の幸せな暮らしを願い造られた地下の楽園
四方の壁は楽しい生活の場面が描かれ
カスタネットを手に踊る乙女、リラをつまびく楽師
軽やかにダブルフルートを吹く青年
最上ワインが用意され特選料理が並ぶテーブル
小鳥が囀りミモザやケシが花開く居心地の良いサロン
そろそろかえりなさい
見とれる私の背を押す給仕人
彩色壁画の中でしなやかに生きる人々に送られ
耳に残る竪琴の響きが潮風の匂いが
心電図の音、酸素吸入のにおいに
薄明かりの向こうで時計が白い指揮棒を振る
花びら
あちらの墓地も
こちらの寺も
急に明るく華やかになり
ふくらんで見える景色
思いきり伸ばした枝に
これ以上は付けられないほど
びっしりと
ほころびかけた蕾をまとい
人をまっている
むこうの山に
こちらの丘に
少しだけ大きさや色を変え
やわらかな光を放ち
あたりの空気をふるわせ
人を誘う
夕明かりに手を伸ばし
散りいそぐ花びらを受け止める
花のトンネルを進む黒い列
さくらどき
旅立つ知人を送る
古い新聞
うす暗い部屋を仕切る
破れた襖紙をめくると
下張りの古新聞が顔を出す
参戦主義者の
ベニート・ムッソリーニだ
「ファシズムは日本の武士的精神と通ずるものあり」と
日本の若者へのメッセージ
職業軍人の祖父は
これを読んだにちがいない
セピア色の紙面は
米海軍七割増強
佛海、空軍兵一部脱走
日本無産党結社禁止の断下る
戦争の報道写真や
世の中の関心ごとがびっしり
読んでいると
私もその時代に引き込まれ
そこに生きていて
祖父の背中をつつき
「この人は誰、なんて書いてあるの」
壁が落ちかけた土蔵造りの生家で
八十年前の空間にいる
魂よび
神社の境内に設えた
篝籠の薪に松明の火が移され
夕暮れに佇む
ひとかたまりの踊り手たちが
静かに二基のかがり火を取り囲む
代々女性が収集した絹の布端を組み合わせ
一枚の着物に縫い上げた衣装の
みずみずしい頂だけを見せて
編み笠ですっぽり顔を隠すひとたち
一人おきに藍染の浴衣に
黒い頭巾で顔を覆った踊り手は
穴から両の目を覗かせ輪をつくる
踊りの輪を見下ろす石畳で女性二人
にわかに横笛を吹く
太鼓のリズム三味の音が加わり
盆踊りの輪が動き出す
しなやかな指先が右へ左へ
長い黒帯と赤の三尺がひらり揺れる
ゆるやかな流れが天へ地へ
端縫い着物に込める豊年の祈りと
黒覆面の亡者の舞が一つになって
うねりながら精霊と踊り交わす
おぼんこいしや かがりびこいし
ましてあのひとなおこいし
蒼い夜は見物人の魂も引き入れ
五十人の輪が百人 二百人とふくらむ
聴きおぼえのある低く澄んだ声
はっとする白い襟足
頭巾のさけた眼が冷たい息を吹き
紅い鼻緒のぞうりが地面を擦り削る
帰り道
見え隠れしながら
闇に浮かぶ薄明かりが
山道をジグザグに登っていく
星あかりを頼りに
母は私の手を引き農作業のお礼の
米や野菜を背に足早に駅へ向かう
芒の原に架かる橋で
キーン キーン 遠吠えが聴こえ
しっかり握っていた蝗の袋が
私の手からすっぽり落ちる
まってー まってよー
振り向いた母の顔は青白く口を尖らせている
駅前で買った油揚げで
夕食は新米に刻んだ椎茸、人参、隠元と
彩りよく味付けされた稲荷寿司
できたてをいくつも頬張る
台所に立つ母の手は紅く日焼けている
願い事があるとき
母は赤い鳥居をくぐり
神社へ足を運んだ
わがままな私を叱るとき
あの晩の顔でこちらを見た母
八十二歳で母が他界した夜
桐箪笥を開けると
手入れの行き届いた赤ギツネのコートがあった
そっと引き出し吊るすと
ジグザグについた前ボタンが
淡くかがやきはじめた
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/01/25
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